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2008.07.27
「法」の本質を求めることに有意義な意味はあるのか?
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「連載第二〇回:法システムとは何か?(上)」
しかし以前の僕なら、三浦つとむさんが批判していた「機能主義」という言葉が気になって、機能を基礎的な概念として設定するのは、「機能主義」という間違いに陥っていないだろうかということが気になっていた。機能というものが、その対象の本質を果たして表現しているものになるかということが気になっていた。
それは何か唯物論的な発想というものが、存在という「実体」を基本的なものとして考えていて、機能はあくまでもその「実体」の作用という働きを示すものであるから、本質は「実体」のほうにこそあるという先入観があったからだと思う。それが唯物論的な見方だと思っていたのだ。しかし宮台氏のシステム論の発想を知って、それをよく考えてみると、対象の「本質」を求めるという発想そのものが、実はあまり実りのないものではないかという感じもしてきた。
実体にこそ本質があるとする見方は、実はその本質を固定的に捉える発想になるのではないかと思う。ある対象を把握すれば、その対象の本質だと思えたものは、それを実体的に捉える限りでは、その実体が他のものに変化しない限り本質も変わらないものになる。だが、本質というのは果たしてそのような固定的・不変なものであろうか。むしろ、本質というのは、その対象をどこから見るかという視点によって変わってくるのではないかという気がしてきた。
三浦さんは、言語の本質を「表現」という性質に見ていた。「表現」という性質を失えば、それはもう言語は呼べないものになる。だから、頭の中にだけ存在するような「内言語」なるものは、三浦さんの言語論から言えば、言語の本質を失った言語ではないものとして判断される。これは論理的には極めてクリアーな分かりやすい考え方だ。どこにも間違ったところはない。
そして、言語は表現であるからこそ、その機能の最重要な部分は、他者とのコミュニケーションにあり、コミュニケーションの本質はその過程的構造にあるのだから、三浦さんの言語論が「言語過程説」になるのは、論理的な必然性を持っているとさえ言える。三浦さんが言語の本質を表現に見ることから、その言語論も言語過程説というものになる。これは、逆に考えれば、言語過程説が正しいという受け止め方が、言語の本質を「表現」にあると判断させたとも言える。なぜなら、言語の本質を「表現」に見るのでなければ、必ずしもその過程的構造が重要にならないことが論理の展開として出てくるからだ。
ソシュールの言語論は、言語の本質を、人間が持っている言語の社会性というものに見ている。個々のコミュニケーションが言語の本質ではなく、あくまでも社会的存在というものにその本質を見ている。そうであれば、その本質を持った対象としては、ソシュールがラングと呼び、三浦さんが言語規範と呼んでいる、社会的な存在こそがそれであるということになるだろう。
三浦さんとソシュールでは、言語に対する視点が違うので、その本質の捉え方が違ってきている。これは、どちらが正しくて、どちらが間違っているという種類のものではなく、単に言語を見る視点が違うのであり、したがってそれを論理的に展開するアプローチが違っているだけなのだと今は思える。
言語は複雑で多用な性質を持っている対象なので、その視点の違いによって何が言語の本質であるかという捉え方が違ってくる。宮台氏のこの回の講座でも、ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」という捉え方が紹介されていて、そこでは、人間的なある種のルールが暗黙のうちに共有されていて、コミュニケーションによって互いに学びあって社会性を持続するという性質こそが言語の本質と捉えられていて、そのような現象をすべて「言語ゲーム」と呼んでいるように思う。
三浦さんが批判していた「機能主義」というものは、どのような対象を見ても、「機能こそが本質だ」という発想でその対象を捉えていたものだった。いつでも同じ発想で対象を見るので「主義」と呼ばれていたように思う。この「主義」こそが批判されるべきであって、機能を本質と見る見方は間違ってはいなかったのだ。それは、ある視点からは正しい見方であり、他の視点からは間違った見方になるというだけに過ぎない。どんな見方でも、その対象を深く分析することなく、いつでも同じ見方で機能を本質にするからそれは批判されなければならないのだ。
この「主義(イズム)」がくっつく見方は、マルクシズムにしてもフェミニズムにしても、いつでも同じ視点で対象を見るという点では、批判されるべき「機能主義」と同じものになるだろう。それは、階級という視点で見ることが批判されるのではなく、いつでも階級を引っ張り出して解釈するところが批判されなければならない。対象によっては、階級という視点では分析できないものもあるのだと思う。フェミニズムにしてもそうだろう。常に男の持つ差別性という視点でのみ対象を捉えれば、そうでない捉え方をしなければならない対象に対してはそれは間違えるだろう。常に同じ見方ではなく、対象にふさわしい見方を探さなければならない。これは三浦さんが語る弁証法的な視点になる。
ある対象、たとえば「法」に対して、無前提に「その本質は何か?」という問いを立てれば、それはいつでも同じ見方をしているという「主義」の間違いになるのではないかと思う。無前提に本質を求めるのでなく、「自分が解明したいと思っている視点で、もっとも重要になる対象の性質は何か?」という発想で対象を考えたときに、それにふさわしい本質が見えてくるのではないかと思う。そのような意味で宮台氏の提出する「紛争処理の機能を果たす装置の総体」という「法」の定義は、システム論においては最適なものであり、正しい意味での本質を語ったものになるだろう。
この機能的本質を持った「法」は、その視点で現実のあり方を眺めてみると、次のような点が見えてくる。
「紛争処理とは何か。紛争の抑止ではありません。紛争を公的に承認可能な仕方で収めることです。公的に承認可能な仕方とは、「社会成員一般が受容するだろう」と期待できるような仕方です。
「収める」とは何か。紛争当事者のどちらかが死滅するまで戦うことを以て「収める」こととし、その結果を「公的に承認」することもあり得ます。ただ、今日まで生き延びた社会はどこも、そこまでせずに、「手打ち」することを以て「収める」こととしています。」
「法」の本質(つまり概念)を、実体的なものとしてイメージしていると、それは「紛争の抑止」であったり「正義の実現」であったりするものとして思い浮かべているのではないだろうか。そのようなイメージを持っている人は、上の宮台氏の説明には驚くのではないだろうか。「法」は、何が真理であるかを確定し、その真理を基に正義を実現するのではなく、社会成員の多数が納得する結論を提出することが本質的な機能となる。この微妙なニュアンスを宮台氏は「手打ち」と表現している。「手打ち」というのは、何が正しいかは確定はしていないが、表向きはこのようにしてお互いに納得しようという線で了解するものになる。正義感の強い人には、なかなか納得できないかもしれない。しかし、そのような機能があれば、「紛争当事者のどちらかが死滅するまで戦う」ことが避けられ、社会は一応の安定と秩序を保つことが出来るのではないかと思う。システム理論的には、そのような分析の方向がその視点によくかなうだろう。
ただ、この発想には論理的に困難な展開を予想させる問題もある。宮台氏は次のように書いている。
「ですが、もしそれだけが重要なら「始めから戦わない」選択こそが賢明です。当然「それだと強い者のやりたい放題になるだろう」との反問が予想されます。そう。「やりたい放題は許さない」との意思を社会成員一般が持つことを、我々は常に当てにしています。
「やりたい放題は許さない」という意思を社会成員一般が抱くと期待されている中で、紛争に際して「成員一般が受容するだろう」と期待できるような仕方で「手打ち」をし、それによって、紛争蔓延や復讐連鎖や相互殲滅を回避すること。これぞ、法の機能です。」
「手打ち」というやり方は、強いものに圧倒的に有利なやり方になってしまう。そうすると、秩序を保ちたいと思っている多数の意図に反して、強いものがやりたい放題をするという無秩序が実現してしまうということが論理的に導かれてしまう。それがどうしてそうならないかというメカニズムを、システム論は解明しなければならない。小数の強いもののやりたい放題という意志を押さえて、多数の社会の構成員の意志が貫徹するように、社会の秩序を保つメカニズムは、法システムのどのような構造の中に実現されているのか。
どちらも、現実に当てはまる部分と当てはまらない部分が出てきてしまう。合法的な独裁者が出てきてしまえば、「法実証主義」の立場ではそのやりたい放題を阻止できない。また、人間的な自然性だけでは、法が変わることの理由を自然性の変化に求めなければならないが、それは「自然性」という概念に反するような気もする。
この一長一短の考え方に対して、両者の欠点を埋め合わせる見方として、宮台氏はH・L・A・ハートが『法の概念』(1962年)で提唱した「ヴィトゲンシュタインの言語ゲーム論を下敷きにした理論」を紹介する。これは、「言語ゲーム」という概念そのものがとても難しいので、なかなか分かりにくい。じっくり考えたいものだが、すでにここまででかなりの長文になってしまったので、これは、改めて「言語ゲーム」の概念の考察とともに、宮台氏がここで語っている内容を次のエントリーで考えてみようと思う。
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最終更新日 2008.07.27 23:14:30
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