小沢さんの理念というのは、一言で言えば「真の民主主義社会の確立」というものだ。宮台真司さんなども語っていたが、日本では一度も本当の意味での民主主義が確立したことはないという。だから、この理念がもしもポピュリズムになるとすれば、とっくに民主主義が確立しているはずなのだが、そうなっていないことに小沢さんの不人気というものもあるのだろうと思う。
「真の民主主義社会の確立」のためには国民の自立というものが必要だ。小沢さんが上記の本の中でも語っているように、自分で考えて自分で判断し、その結果に自分で責任を持つという国民がいてこそ民主主義が機能する。だから、この理念の実現のためには、政治家として国民の自立に向けた活動を支援するというのが小沢さんの政治家としての基本姿勢と言うことになるだろう。
小沢さん自身の言葉をまえがきから引用しておこう。真の民主主義社会の確立のために必要なものを次のように挙げている。
「第一に、政治のリーダーシップを確立することである。それにより、政策決定の過程を明確にし、誰が責任を持ち、何を考え、どういう方向を目指しているのかを国内外に示す必要がある。
第二に、地方分権である。国家全体として必要不可欠な権限以外はすべて地方に移し、地方の自主性を尊重する。
第三に、規制の撤廃である。経済活動や社会活動は最低限度のルールを設けるにとどめ、基本的に自由にする。
これら3つの改革の根底にある、究極の目標は、個人の自立である。すなわち真の民主主義の確立である。
個人の自立がなければ、真に自由な民主主義社会は生まれない。国家として自立することも出来ないのである。」
小沢さんは、基本的に自由な社会で、その自由を駆使して正しく判断できる個人が社会を支えるというものを理想としている。だからこそ情報は可能な限り開示しなければならないという考えも出てくる。記者会見を最初にオープン化して情報開示に努めたのもこの理念からのものと言えるだろう。
小沢さんが中心になって作成した政権交代時の民主党マニフェストについて、神保・宮台両氏はマル激の中で「お任せ民主主義から引き受ける民主主義へ」という理解を語っていた。今までの自民党政治における民主主義は、形式的には民主主義であったが、国民が直接参加するのではなく、政治家に任せて、その結果について文句を言うという民主主義だった。ところが、民主党のマニフェストは、理想的なことを掲げてはいるけれど、それは国民の支持と援助がなければ成功しないようなものでもあって、国民の参加がなければ失敗するようなものだった。だから、お任せではなく、引き受ける参加型民主主義でなければならないというのが、神保・宮台両氏の解釈だった。
今振り返ると、我々国民は引き受けることに失敗して、今だにお任せの気持ちが強かったために、政権交代の成果を持続させられなかったと言えるだろう。国民も未熟だったが、民主党の政権担当政治家の未熟さもひどいものだったと言える。政治家自身のマニフェストの理解が浅はかだった。だから見直し論などが出てくるのだ。
小沢さんは著書の中で5つの自由を掲げている。
1 東京からの自由
2 企業からの自由
3 長時間労働からの自由
4 年齢と性別からの自由
5 規制からの自由
この自由の重要性を主張するというのは、逆に言えば現状は、この規制の下に日本社会が動いていると言うことになるだろう。自由を制限された状態は、ある意味では奴隷状態にあるとも言えるのだが、この奴隷状態は、そこが居心地がいいものであれば、奴隷状態の方が安心するという心情を生む。そうなれば真の民主主義は絶対に生まれないだろう。
実際には、小沢さんが挙げるものの他にも自由が必要なところがあると思う。たとえば、マスコミ情報からの自由なども大切なものだ。ただ、小沢さんは政治家なので、政治家として取り組める自由という意味で上の5つを挙げたのだろうと思う。
小沢さんは著書の最後で、この自由を阻止するものとしての日本の教育の弊害を挙げている。この主張にはほぼ全面的に賛成だ。このことによって、どうして日本の学校優等生が、この自由を持てないのかと言うことの理由が納得出来る。引用しておこう。
「あるアメリカの文化人類学者が日本の高校を調査したことがある。彼の目に映った日本の高校生は、受験制度を中心とする、動かしがたい現実によって足かせを嵌められていた。彼らの前にある道はまっすぐで狭く、家庭と学校に縛り付けられていた。そして、懸命に努力しないものは罰せられる。
彼らは、新しいことを試みるよりも現実への順応を重視するよう奨励され、自己の内部よりも外部を志向することを教えられる。そして、自己を否定し、環境に対して表面的にでも順応することが成熟することであると考えるようになる。彼らは自分の考えを表現することを学ばない。話したり書いたりすることは奨励されず、思考や論争についても教育されない。一つの問題にいろいろな解釈が成立することも学ばない。思考より暗記が最優先され、公式のカリキュラムでは人間性や芸術性は無視ないしは軽視されている、という。
私も全く同感である。現在の高校生は、知識を詰め込むことだけを強要される。
このことは、小学校や中学校でも同じだ。アメリカやイギリスの学校では、教師は、まず子供達の発言に対して賛成し、それから、その発言の理由や根拠を尋ねたり、反論したりするという。励ましながら、子供達の思考を促すのである。これに対して日本の授業は、教師が正解を持っていて、子供達にその正解を当てさせている。最初の子が言い当てると、その質問はそれで終わり、言い当てないと即座に他の子が指名される。コンピューター教育システムと全く同じ役割を、生身の人間である教師が行っている。
このようにしてみると、小学校から高校まで、子供達は正解だけをせっせと詰め込み、自分で考える習慣も能力も磨かれないままに大学へ送り込まれていることになる。
これでは、自立した人間が生まれるはずがない。私は、欧米が実践していることが正しく、日本がやっていることはすべて間違っているというわけではない。しかし、日本になぜ民主主義が根付いていないか。その原因を探るとき、教育における日本と欧米の違いを無視することは出来ない。」
格調高い文章で深い見識が語られている。日本の教育は、雑多な知識を即答する能力を高めることに特化しており、深く考えるという訓練はしていない。そこでの優等生がどのような能力を持っているかは自ずと分かるし、ここで劣等生にされた人間は、民主主義を支えていくのだという気概を持たせると言うことなく自分に対する自信を失う。これでは、真の民主主義は実現しない。
小沢さんが語る、これらの理念に対する信頼があるからこそ、単なる権力闘争から推測されるものを、僕は「下種の勘ぐり」ではないかと感じる。しかし、小沢さんが、その「下種の勘ぐり」に見える行動をもしするようなら、小沢さんの理念にも疑問符を付けなければならないだろう。その意味でも、この民主代表選はいろいろなものを考えさせてくれるものになる。期待に違わない判断を、小沢さん自らが語ることを期待している。
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