February 20, 2009
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毎日子供達三人で掃除係、除雪係、道具用意係と係を決めて練習に励んでいた事が嘘のような静けさです。

一番の厳冬期にはストーブを満開にしても暖まらないので、ポータブルストーブを2台追加して練習していました。それでも室内温度は6度から8度程度でしたから、冷蔵庫の中で練習していると同じような状況と言ってよいと思います。
練習場でわたくしにもしもの事があり亡骸になっても、親戚が集まるまでそのまま放って置いても腐ってしまう心配は無用でした。…まぁ…チルドやパーシャルよりは少しはましといった感じですね。

さて昨日のわたくしですが、仕事が終わる直前に携帯が鳴りました。
“今は”利尻島で港湾用のコンクリート製品を作っている1歳違いの従兄弟からで、友人の焼鳥屋で待ち合わせてしばらくぶりに呑むことにしました。
今日はその従兄弟の“激動の半生”をレポート2ページ程度で語り尽くしたいと思います。

この従兄弟の父とはわたくしの父は、わたくし達が幼少の頃一緒に商売をしていて、食事も一緒に取りそのまま泊まる事も多くまるで兄弟のように育ちました。おまけに顔までよく似ていて“双子”?と聞かれることも多々ありました。

この従兄弟の兄が実は “例”の埼玉二流大学生で、小学から中学に掛けてわたくし達2人の人間形成に大きな影響を与えた田舎では有名な怪人物でした。

怪人物は夏休みには毎年帰省すると、肩まで長髪、髭も伸ばし放題、うす汚いボロボロのGパンに泥水に1ヶ月漬け込んだようなスニーカーの踵を踏んで田舎町をふらふらと歩き回ります。
小さな街での“注目度”としては、イタリヤくんだりまで6000千万円も掛けて行き、世界に醜態をさらす何処かの国のお偉方よりも高く、叔父と叔母は泣きながら田舎に帰って来ている時だけは、普通にしてと哀願したそうですが、流石は怪人物でして次の夏休みに帰省した時には肩まであった長髪が見事に“腰”まで伸び、まるでインドで悟りを開いたヒンズー教の伝道師のようになっていました。

その怪人物の影響をまともに受けた弟と、その弟と兄弟のように育ったわたくしですから、当然子供らしくない怪しげな小学、中学時代を過ごすことになります。

北海道では野球のTV中継はほとんど巨人戦しかございませんでしたので、ファンの9割は巨人ファンでしたが、怪人物2・3のわたくし達は「南海ホークス」ファンでした。
もちろんパリーグの試合を見る見機会なんてまったくありませんので、週間ベースボールで見つけた南海ファンを明言し、“動いているのを見た事のない野村選手”のファンだと言い切り、王、長島、金田と騒ぐ友人達を「お前達は子供だなぁ~」と小生意気な言葉を浴びせては自己満足していたのでした。

親や親戚からも諦められていたらしく、そのまま諫められることもなく大人になってしまった2人ですから、現在2人ともありきたりとは言えない生活をしていても親戚達はまったく不思議だとは思っていないようです。

特に兄のような従兄弟は地元の高校卒牛後東京に進学しましたが、数回学校へ通っただけで自主卒業して、春から秋までは長野県でレタスを作り、秋から春までは沖縄でサトウキビ苅りをして暮らしておりました。(目指していたのは放送芸術だったはずですけれど)
数年経つとその容姿は周囲の予想通り“怪人物”越える“怪人物2”になっており、数年後に帰省した姿を見たときには両親も私の父もその仙人の様な容貌に震撼しておりました。

その後、田舎の居酒屋でバイトをしてお金を貯めて自転車日本一周を目指しましたが、札幌まで来てわたくし達と呑み翌朝起きると盗難に遭ってしまいあえなく挫折。
しばらくわたくしの住んでいた六畳一間風呂無し・トイレ共同の「えぞ松荘」に住み2人で週払いのバイトをしながら呑んだくれて暮らしていました。

怠惰な生活が半年くらい経過しそろそろ寒くなって来た頃に、突然「知り合いの世話でロンドンに行くことにした。」と言い残し、当時世界一の事故率を誇っていた「パキスタン航空・中東回り」で自国名にグレートを付けるようなプライドの高い国に成田から飛んで行ったのでした。
千歳まで送りにいった私は「あいつやる時にはやるなぁ~帰ってきたら英語ぺらぺらだろうなぁ~」と感心したものでした。

しかし、二年後帰って来た従兄弟の第一声は「日本料理のレストランで働いていたけど、ほとんど毎日日本人や中国人と麻雀生活するだけで退屈だったよ、中国人も皆日本語しゃべれるから言葉の心配はいらなかったけどね」と恥ずかしげもなく言い放ったのでした。

でももっと情けなかったのはロンドンまで行ったのに「日本を離れるとやっぱり寂しくて、楽しみと言えば泣きながら見るレンタルビデオの“おしん”だったよ、やっぱり橋田さんの脚本は日本人の心を打つなぁ~日本人には泣きだよ泣き」と上京時の目標だった“放送芸術”についての評論を日本の“わびさび”たっぷりに聞かされた事でした。

まったく…イギリスBBCのモンティパイソンは素晴らしい、日本のTV局も見習うべきと言って颯爽と上京した事なんて、すっかり忘れているような情けない英国帰国談話でした。

密かに初志貫徹の意志で英国行きを決断したのだと勝手に思いこんだわたくしが、アホである事を再確認させてくれた流石の”怪人2”なのでした。

三人が下の画像のようにならなくて親戚達も喜んでいると思います。









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Last updated  February 20, 2009 05:02:07 PM


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