全10件 (10件中 1-10件目)
1

(雑草園の大株のベコニア) 7月27日、4回目のコロナワクチン接種を受けた。3回目までと同じ病院、同じファイザー社製である。接種記録を見ると、一回目:2021年5月28日、二回目:2021年6月18日三回目:2022年2月19日、そして今回である。 一回目から三回目までは、注射跡を何気なく触れたときに、「ああ、注射を射ったのだったなあ」と思うくらいで痛くも痒くもなく、だるさも熱発も何も感じなかった。私の周りの人々は、それなりに「熱発があった」「ちょっとだるかった」など様々な反応をしていたが、私は「もう80歳を超えたから、身体も鈍くなって、もういろいろなものに反応しなくなっているのですよ」と煙に巻いていた。 7月27日(水)グラウンドゴルフの定例日であった。11時30分からの接種に10分前には病院に来てください、との指示だったのでいつもの4ゲームの途中の2ゲーム終わって休憩時間にメンバーに断って帰宅した。そして汗を流し11時のバスで病院に向かう。この日は8人の接種で様子見の時間も入れて11時45分過ぎには病院から退出した。この日はこれまで通り体調不良や熱発もなく眠りについたが、夜中に起きたときに少しきつさを感じ、注射を射った腕が少し熱をもっていた。 そして28日(木)朝、この日はグラウンドゴルフの定例日ではないが、いつものメンバーの一人・NSさんが知り合いの女性3人がグラウンドゴルフをやりたいという希望があって、私達のいつもの公園で私達の用具を使ってやってみたいということで私達も誘われていた。せっかくだからと私も妻と、いつものメンバーのITさんと3人で参加することにしていた。ちょっと身体は重かったが、行ってクラブを振っても特別痛みも他の違和感もない。ただ、いつもよりきつい感じはした。二組の分かれて競技開始。私は2ゲーム目にホールインワンも出て、2ゲーム終わって休憩に入ったときには成績はトップだった。しかし、休憩前も、ちょっと暇があると座り込んで休むような状態になっていた。休憩時間は初めて会った皆さんとも話が弾み、いつもにも増して賑やかに過ごした。しかし私は「昨日4回目を接種したので、今日はちょっときつかった」と白状し、休憩後の2ゲームは見学することにして、木陰で皆さんのゲームを見ていた。終わって、NSさんの仲間の3人も「ここの公園はやりやすかった。楽しかった」と口々に言って感謝の言葉を述べて帰っていかれた。 私自身の4回目のワクチン接種は、寝込むようなことはなかったが、これまでにないきつさであった。これから5回目ということもあるかもしれないが、歳のことも考えて今後は慎重に対処しなくてはいけないという思った。 (ゴーヤに花が咲いてきた)
2022.07.29
コメント(24)

我が家の雑草園に今年は花と野菜を植えてみた。鹿児島市の市民農園を借りて野菜を植えたのは、いつの日だったか。ブログに2010年の記事があるので、その頃から8年間野菜づくりを楽しんだ。その時も大きなトマトに挑戦したが、うまく育てることができず翌年からはミニトマトを育てて大成功した体験がある。と言って育て方がうまかったのではない。ミニトマトは植えてさえおけば、後は自分で実を付けてくれる簡単なそれでいて美味しい作物である。しかもこれまでの経験では秋になっても実を付けてくれる。 そこで、花々と一緒に今年雑草園にミニトマトやゴーヤ(鹿児島では「にがごい」と言う)その他2,3種類の野菜も妻が植えた。そして昨日、妻が雑草園に花の手入れに降りてみるとミニトマトが鈴なりになっていると言い、私は収穫係に任じられてボールを持って収穫した。上の写真の通りの収穫だが100個近くはあった。今日も30個くらいの収穫である。近所に少しおすそ分けをした。 トマト収穫に降りたときに、先日もブログで紹介した「カノコユリ」がこれもミニトマトに負けないくらいの勢いで咲き乱れていた。まだたくさん蕾を持っているのでしばらくは楽しめそうだ。 閑話休題 先日来、古代史に興味を持って井沢元彦の「日本史の反逆者 私説・壬申の乱」のことを当ブログに書いたが、その後、安部龍太郎の「迷宮の月」と、Kくんがその続編みたいだと言っていた「平城京」を読み終わり、現在「姫神」を読んでいる。この「姫神」は同じ安部龍太郎の作品だが、「迷宮の月」が遣唐使の物語だったのに対し遣隋使の物語である。時代から言えば「姫神」を先に読むべきだったかもしれないが、いずれにしても独立した物語なので別に違和感はない。 これらをまとめて一文書けるかもわからないが、気力次第である。
2022.07.26
コメント(16)

昭和44年(1969)11月20日に銀行を退職し翌日の11月21日から転職先のM安全株式に勤め始めたことは前回までに書いたとおりである。 仕事は業務係だったが、営業マンから回ってくる受注カードやお得意さんからの電話での注文を受注カードに書き込み、倉庫にある備蓄品であれば納品書を作成し、営業や配送に配達品として回し、商品がなければそれぞれのルートへ発注をする。仕入れは本社の各部門(当時は安全靴・安全用品・作業服など)への発注、現地仕入れ先への発注など多岐に渡るが、当時はFAXもない時代で発注書を書いて郵便で送るか、急ぐ物は電話注文する状態だった。受注カードを書いてから、その商品が揃って納品書に書き込むまでの仕事が業務係の主な仕事だが、その他にも倉庫の補助業務、荷造りの加勢、一括納品時の補助業務など何でもやった。 特に前回書いた新日鉄への安全靴の仕分けと配達は支店全員でやる大きな仕事であり、かすかな記憶では年に2回位に分けて八幡・戸畑各製鉄所へ配達していたと思う。もう数は忘れてしまったが、一回の配達が数千足に及んだのではなかったかと思う。その時は休日出勤をし、各部門ごとに先方からいただいたサイズ表に従って段ボール箱に詰め込んでいき、翌日から全員で手分けして各部門まで配達に行くのだ。たまたま私達のグループで配達に行った第2ストリップ工場(実際にこういう名前の工場があった)で安全靴の検収作業をやってくれたのは、あのマラソンの君原健二選手だった。32歳でマラソン選手の現役を引退したというからちょうどその前後である。日頃から通退勤をするのに国道3号線沿いの我が社の前を走っているのを見かけるものだったが、工場で会ったときには驚いた。何しろ50年前のことなので私も思い出しながら書いているが、現代のITの時代から考えるとまさに隔世の感がある。通信・運搬・その他諸々も。 一方で家庭生活では銀行の社宅を出た後、隣の戸畑区に近い「中井」の民間アパートを借りて引っ越した。そのとき年子の長女、長男がいたが、しばらくして二男も誕生し、5人家族となる。通勤は小倉北区の「中井口」から西鉄電車に乗り、戸畑区の「幸町」経由で八幡東区「中央町」を通過し「前田」で降りるという毎日だった。 (下の路線図は当時の西鉄電車の北九州路線図、ネットから借用) 中井のアパートに落ち着いた頃、私が学生時代に家庭教師をしていた教え子が同じ銀行に入社し、偶然にも私と同じ小倉支店に赴任してきたことを➆で書いたが、そのKRくんが、今度は中井のアパートを訪ねてきて、「自分も転職したい。M安全に世話してくれないか」とのお願いである。彼が頻繁に訪ねてくるのでアルコールの苦手な私が酒好きのKRくんのために「サントリーレッド」を買い置きし彼はそれを喜んで飲んでいたのを思い出す。私の転職先に彼が転職してくると、うまくいかなかった場合、彼の親御さんたちにも申し訳ないので私も躊躇していたが、遂に彼の熱意に負けて、一緒に鹿児島に帰って親御さんたちに説明を仕様ということになって帰鹿した。何十回となく通った彼の家ではオジサンたちも集まっておられて、衆議一決転職OKとなった。その後、会社にお願いしたが、九州各店では人員は充足しており、関西の尼崎支店なら空きがあるという。KRくんも、それでOKということで尼崎に向かった。その後、彼も順調に歩を進めて尼崎の支店長にまで上り詰めた。転職後数年間の独身時代は夏休みになると、我が家に帰ってきて二人で大分の九重連山のキャンプ登山に行ったものだ。最後は私のいる鹿児島で引取り、会社人生を全うした。 九州支店では私が入社した翌年、高卒の男の子が入社してきた。今度は私が業務の仕事を彼に教えながら彼は自動車学校にも通って免許を取得した。真面目ないい男の子だったが、お父さんの跡を継いで若松区の消防士になるということで3年後くらいには退社してしまった。 2年くらい業務の仕事をして、仕事にも慣れてくると会社の全体を見る余裕もでてきた。私は近い将来経理の中心になるようにと言われていたが、私のそれまでの中で感じたのは「この会社は営業で生きていかないと面白くないな」ということだった。そこで一念発起、支店長に相談すると「そういうことであれば応援します。車の免許も時間中に自動車学校に行って取得しなさい」という有り難い言葉をいただいた。勇躍30の手習いで自動車学校に通うことになった。➈ (下の写真は幸町の電停、ネットから借用)
2022.07.22
コメント(24)

先日の鹿児島の地元新聞・南日本新聞に上の記事「国見金山跡知って」記事が掲載された。これまでに当ブログでも鹿児島の金山については、いくつかの金山・金山跡を取り上げてきたが、「国見金山跡」というのは初めて知る金山である。この国見金山は、現在の鹿児島県湧水町幸田にあり昭和初期までの約300年間、金鉱石の採掘がなされていたという。それを知ったくりの図書館の司書が「立派な史跡をもっと町内外の人に知ってほしい」とパネルを作成し展示したという記事である。(詳細は記事を参照ください) 私は、鹿児島県内の金山については現役時代大きなお得意さんであった住友金属鉱山の「菱刈鉱山」やブログに書いた「山ヶ野金山」「永野金山」、それにこれも取引先だった「串木野鉱山」「春日鉱山」などは現地のも行ってよく知っていた。菱刈鉱山のある大口方面は昔ら近辺に牛尾鉱山などもあり注目の場所であった。そういう中で昭和56年(1981)住友金属鉱山が菱刈に金鉱脈を発見し、昭和60年(1985)出鉱を開始する。このことについては、いずれ「Tくんの物語」で取り上げる予定である。菱刈鉱山は現在日本最大の金山といわれており、江戸時代あの佐渡金山が390年かけて80トンの金が採れたといわれているが、菱刈鉱山は20年間で既に140トンの金を掘り出している。一般の金山ではトンあたりの金産出量は3~5gというが、菱刈では平均でも20gあるという。 新聞記事に戻って、鹿児島には私の知らない金山がどれくらいあったのかと思い、ネットで調べてみた。下の「日本の金銀鉱床分布図」は山口大学工学部学術資料展示館」の資料である。この資料によると67ヶ所あって、うち8ヶ所が鹿児島である。これだけ見ても、日本の鉱床の1割以上が鹿児島にある。 下の地図資料は鹿児島大学の「かだいおうち」からの引用である。「薩摩の金脈」という地図があり、1ヶ所づつの名称は省くが、菱刈鉱山(金山)、串木野金山、山ヶ野金山、永野金山など入れて何と46ヶ所が書かれている。その中には新聞記事にある「国見金山」の名はないが「幸田(大昭)」があるのでこれがそうであろう。地元で「国見金山」という名前で呼ばれているのだろう。
2022.07.18
コメント(14)

井沢元彦著「日本史の反逆者 私説・壬申の乱」は(以下第一章 血風の峰 本文)は、次のような書き出しで始まっている。 真紅に染まった太陽が、山の陰から昇り始めた。山に囲まれた不破の関、後世、関ケ原と呼ばれた一帯を見おろす峰の上で、大海人(おおあま)は夜明けの空気を胸一杯に力強く吸い込んだ。壬申の年(672)7月23日のことである。(ついに、わしは帝に勝った)大海人は満足げにあたりを見回した。 大海人とは、この後に天武天皇になるその人である。壬申の乱に勝利した大海人がそこから20数年前のことを鮮やかに思い出すというこの場面から、一気にその当時に戻り、話は展開していく。物語は飛鳥時代、大化の改新の主役である中大兄皇子(後の天智天皇)が中足鎌子と出会う当たりから乙巳(いっし)の変、大化の改新、白村江(はくすきのえ)の戦い、そして壬申の乱に至るまでのことである。中大兄皇子(後の天智天皇)の異父兄弟として,実際は大海人の方が兄でありながら、中大兄皇子の弟とされ様々な確執や憎しみがあった。その兄・中大兄皇子からいいように使われて遂に20数年後に爆発したというのが壬申の乱であったと物語はいうが、作者も「私説」と書いているように実際はどうだったのかはここでは知ることはできない。しかし、そのフィクションもあるだろうこの小説を面白く読むことができて、古代史初心者として、さらにこの時代や人物に興味が深まった。「県民だより奈良」によると、今年、令和4年は西暦672年に起きた壬申の乱から1350年にあたる。天武天皇・持統天皇が「飛鳥・藤原」で国家の礎を築く出発点となった出来事としている。関ヶ原の戦いは、岐阜県不破郡関ケ原、慶長5年(1600)、徳川家康と石田三成の率いる東西両軍がこの地で戦った。その約1000年前、古代日本の命運を決める合戦が同じこの地で行われていたのだ。天智天皇亡き後の皇位を賭けて、吉野に挙兵した弟の大海人皇子は、尾張・美濃の軍隊数万を率いて、この不破の地に陣したのだ。叔父(大海人皇子)と甥(天智天皇の子・弘文天皇)の間で争われた、古代史上最大の戦闘だった。 「日本史の反逆者」を読み進む中で、当時の結婚の特異さが目についた。それは、一族を血縁で固めて、未来永劫に血族で国を統べていくという狙いがあったからだろうが、それにしても現代の考えからすれば異様と言っていい。もちろんそういうことは、中世の島津家の歴史の中でもその例にもれないことは、これまで何回も当ブログにも書いてきた。 今回「松本清張の日本史探訪」の中の「皇位を賭けた古代の大争乱 壬申の乱」を紐解いてみると、松本清張と梅原 猛(哲学者 「隠された十字架 法隆寺論」など多数の著書あり) 両氏の対談があり、その中でも皇室の女性についても概要次のような対話がある。 松本:当時の宮廷では、一人の女性がいろいろな男性と交渉をもつのは、普通のことでした。宮廷の結婚も、異母兄妹、伯(叔)父・姪が一緒になった。たとえば、天武天皇の妃には、天智天皇の娘さんが四人も嫁入っています。額田王がどれだけの才女かしれないし、また、どれだけの美人かわかりませんが、まさかその一人を争って壬申の乱が起こったとは思えませんね。 梅原:私は、額田王というのは、「万葉集」には三角関係が出てきますけれど、もう少し別の意味があるのではないかと思います。額田王というのは、初め大海人皇子、つまり後の天武天皇に愛されて、その妃となる。 ところで、大友皇子(天智天皇の子で後の弘文天皇)の妃が十市皇女(天武天皇と額田の間の娘)ですね。大友皇子と十市皇女の間には葛野王(かどのおう)が生まれる。そして葛野王が生まれてから、天智天皇はやっと大友皇子を後継者にすることを決意している。 つまり、可愛い孫の顔を見たら、もう天下を異父弟の天武天皇にわたすのが惜しくなって、子の大友皇子を天皇とする。そして、その後継者が、天武天皇の血を引く葛野王であるならば、天武天皇も了承してくれるというような思惑が、天智天皇にあったと思います。 しかし、このように大友皇子と十市皇女を結びつけたのは誰でしょうか。それはやはり額田王ではないかと思います。自分の前の恋人の間の子である十市皇女と、後の恋人の天智天皇の子の大友皇子を結びつける。そうすれば、天武天皇と天智天皇もうまくゆくであろう、そういう計算が彼女の中なあったのだと思います。ところがこの計算は狂ってしまう。彼女は持統天、あの意志の強い、誇りの高い天武の妃の存在を無視したことになります。私は壬申の乱は、その意味で、額田王の計算の狂いから生じたものと言ってよいと思います。 なるほど、自分の中で結論はでないが、梅原理論は納得のいくものだと思った。今回はこのあたりまでとします。 (ネットから借用した。系図参照ください)
2022.07.15
コメント(18)

昭和44年(1969)11月21日、新しい職場・M安全株式九州支店に初出勤した。場所は北九州市八幡西区前田町の3号線沿いにあった。なお、私が長崎に転勤した後、従来の支店から3号線の反対側200mくらい先に自前の土地・建物にして現在地に引っ越した。当時は目の前に八幡製鉄(株)の煙突が見える場所である。引っ越した後は、八幡製鐵所の西門の入り口の右側に位置する絶好の場所になった。それより前、昭和43年に八幡製鐵(株)と富士製鉄(株)の合併が発表されていたが、公取委の独占禁止法云々があり、両製鉄所が合併し新日本製鉄(株)となったのは、私が転職した翌年の昭和45年(1970)3月31日である。その後、2012年10月1日、住友金属を合併し新日鉄住金(株)となり、2019年4月1日、日本製鐵(株)に社名変更し現在に至っているようだ。 八幡製鐵所のことにこだわったのは、M安全(株)にとって大きな取引先であり、当時から八幡製鐵所に安全靴(上の写真にある、爪先に鋼板が入ったもので種類はたくさんある)を独占して納める納入業者だったからだ。八幡製鐵所への納入靴は特注で通常「ゥ0G]と呼んでいたが、革はウグイス色だった。もちろんその他の安全用品も数多く納めていた。 新入社員の私を入れても当時の支店の社員数は15名くらいだった。支店長、次長、営業4人、業務2人、経理2人、倉庫1人、配送2人という布陣だったと思う。私の初めての仕事は「業務係」である。支店長から「将来、支店の経理の仕事をやってもらうが、先ずは商品やお得意さんを覚えるように」ということで仕入れや電話応対、暇なときには倉庫に入って商品の勉強もすることになった。私自身、人間がいい加減なこともあり、銀行から全然雰囲気の違う職種・仕事であったが特別な違和感は無く、うまく溶け込めたように思う。会社は昭和28年創業の若い企業だったが安全靴を日本で一番最初に作ったこともあり、当時から安全靴のシェアは日本一であり、安全靴の生産工場も持っていた。その他に作業服の縫製工場もあった。その他、ヘルメット(後に自前の工場を持ち生産するようになる)、防塵マスク、防毒マスク、防塵メガネ、フェースシールド、耳栓、各種手袋、安全標識なだなどあらゆる安全用品を扱い、それぞれの有名メーカーの代理店として販売していた。それだけに商品知識を得ることや仕入れも多岐に渡るので、仕入先との交渉など大変だったが、仕事を楽しむことができた。 得意先は八幡製鐵所を始め、小倉の住友金属工業、それらの協力企業、戸畑、若松、門司の工場群、筑豊の炭鉱やセメント会社など工場と名のつく工場のほとんどと取引があった。しかし当時のことで重工業が主体であり、またそこが多くの安全衛生保護具を必要としていた時代でもあった。 九州支店には、後に九州支社も併設されるのだが、九州支店が日本を代表する重工業のお得意さんが多かったことや、当時九州にあった福岡出張所、長崎出張所、大牟田出張所、大分出張所のまとめ役の仕事もあって、常務取締役が支店長であった。当時は九州も含めて全国の販売網は50ヶ所くらいだった。現在は180ヶ所になっている。今日は固い話になってしまった。 ➇
2022.07.12
コメント(18)

私は松本清張のファンであり、これまでにたくさんの清張作品を読んできた。これまで松本清張関連のことは、当ブログに2019年7月25日「松本清張を見る」、2020年9月30日松本清張の「傑作短編集」6冊を読む、2020年10月13日松本清張の 或る「小倉日記伝」など書いてきた。 今回「今回地図で読む松本清張」を読むという機会があり、手に取ってみた。ページを繰ると出てきたのが「清張作品の日本地図」。北は北海道の小樽から南は鹿児島の指宿まで、この本の「作品別特集に登場する地名111ヶ所」、「それ以外の作品に登場する地名121ヶ所」が地名と作品で紹介されている。その分布を見ると関西、関東が比較的に多いが、中国地方と九州地方もそうそう負けてはいない。文字は小さいので読めないと思うが、取り上げられた地方は日本全国ほぼまんべんなく行き渡っているようで松本清張の守備範囲の広さを伺わせる。 松本清張は、作家生活40年簡に約980編の作品を発表し、著作は750冊と言われている。そのジャンルは推理、純文学、時代、評論、評伝、ノンフィクション・・・など質と量の充実度、大衆からら大きな支持を集めたという点において、巨匠というにふさわしい作家であった。没後30年、「週刊女性」がアンケートをとった「松本清張作品で好きなドラマ・映画ランキング」があるのをネット上で見つけた。以下そのベストテンである。1,砂の器 2802,点と線 2293,黒革の手帖 2264,ゼロの焦点 625,けものみち 376,わるいやつら 197,鬼畜 178,疑惑 169,天城越え 1110,霧の旗 811,眼の壁 8 以上であるが、私もベストテンは小説かドラマですべて見ている。 話は「地図で読む松本清張」に戻る。この本で取り上げられている「作品別特集」は次のとおりである。「ゼロの焦点」「砂の器」「点と線」「火と汐」「時間の習俗」「或る『小倉日記』伝」「波の塔」「球形の荒野」「Dの複合」「眼の壁」「天城越え」 この中で今回私は「点と線」を取り上げてみた。それは下の「点と線」の写真の説明にあるように香椎海岸(福岡市)で「男女の死体が発見された」という「香椎」部分にこだわったからだ。そのこと事態はとんでもないことだが、私が個人的に香椎に縁があったからという単純な動機からである。この小説は社会派ミステリー第一作として昭和32年(1957)2月号から翌年1月号まで雑誌「旅」に連載されたという。もっともこの小説を私が読んだのは、文庫本として出版された後のことで、何時だったかは記憶にないが、就職して北九州の小倉に行ったあとのことには違いない。興味のある方は「あらすじ」を読んでください。小説が高峰三枝子、山形勲、南広で映画化されたり、ビートたけしでテレビドラマになったりしているが、私はだいぶ後になって二つともテレビで見た。 私が銀行に入社して初任地が小倉支店だったことは、これまで再三書いてきたが、小倉支店に初めて出社する前日の夜、泊まったのが二番目の姉夫婦の住む香椎の公団住宅だった。当時姉たちは新婚で薬品会社に勤務する義兄が福岡支店に勤務していた。 初めて読んだとき、東京駅15番ホームを使った時間差トリックの斬新さにこれまで読んだことのないミステリーだと清張の凄さに驚いたのを覚えている。 当時はホテルに泊まるというようなことにも慣れていなくて、小倉支店にできるだけ朝早く出勤するためには香椎の姉宅に泊まったほうがベストだと思ったからだろう。香椎駅で印象に残っているのは、朝の7時頃だったと思うが、昭和37年の香椎駅の上りのホームはほとんど人はいなくてまるで田舎のホーム思わせるものだった。その後も、休みの日に遊びに行って、香椎花園なども訪れた。しかし、最近になって、たまに北九州にJRで行くときの香椎駅のホームや車中から見える景色も様変わりして昔の様子を偲ぶこともできない。 いずれにしても、読んでよし、見てよしの作品である。
2022.07.09
コメント(22)

(オリエンタル? ) ああ 今日はもう7月7日。あっという間に半年は過ぎ去ってしまった。そして今日はもう7月7日。昔なら七夕である。もっとも鹿児島では昔から新暦の8月7日で子供の頃は夏休みの最中であった。友達と近くの山に竹を切り出しに行き、色紙で作った飾りの長さを競ったものだった。調べてみると、あの有名な「仙台の七夕まつり」も新暦の8月7日を中日にして、6日から8日までの3日間開催されるのだそうだ。 我が雑草園でも枯れていく花もあれば、咲き始めた花もある。(ベコニアの挿し芽からも花が) (優雅なアガパンサス) 横ではミニトマトも実をつけ始めた。 (ノウゼンカズラ) 昨日は市役所に行く用事があって、妻と二人で11時発のバスで出かけた。コロナで運転手さんの人繰りがつかなくなったという理由で我が団地への乗り入れ回数が少なくなり、平日は午前11時のバスに乗らないと次の便は午後12時30分発になる。なんとその間、1時間30分バスがバスが無くなるのだ。60万という県庁所在地の鹿児島市の大きな団地でありながらこの有様だ。朝の通勤・通学の客の多い7時台は6便あるが、8時をすぎると1時間にほぼ3便くらいになる。夕方の街からの便は朝と同様にいくらか本数は多い。そういうことで、例えば午後1時開始の催しに間に合わせようとすると、午前11時のバスで出かけて、街中で1時間位時間を持て余すことになる。そこはランチをしたり、センテラスにできた図書館に行って本を読めばいいのだが、何とも不自由である。昨日は雨模様のこともあり、11時のバスが街に着いたのは11時40分頃。市役所はまだ先のバス停なので、昼休みにかかるかもしれないということで、鹿児島一の繁華街・天文館で先にランチを済ませることにした。ランチの後、まだ時間があったので、本屋に行ってブラブラしたが、二人とも買わずに本屋を出た。そして市役所の用事を10分位ですませてバス停に向かう。ところが妻がデザートに山形屋デパートの食堂に寄って「こぐま」を食べて帰ろうかという。食べることには異論なし。 (鹿児島の夏の名物「しろくま」) 私も10年ぶりくらいに「しろくま」の類を食べた。 (私達が食べたちょっと小ぶりの「こぐま」)写真は2枚ともネットから借用 私達が乗る団地のバス停・武岡ハイランド終点近くに咲いていた「鬼百合」。
2022.07.07
コメント(12)

(写真は平和通り、私がいた当時はなかったモノレールが開通し街の景観も一変している)私が銀行に入社し北九州の小倉支店に配属されて、仕事も出納・会計係、預金係を経験し、未熟ながら銀行業務にもいくらか慣れきたといことを前回書いた。それ以前にも書いたように、小倉支店は当時のF銀行の建屋を居抜きで買ったようで店舗は立派で風格のあるものだった。ただ京町銀天街の賑やかな場所だったので今思うにF銀行も大通りに面した場所に転居したのだろう。しかし、モータリゼーションの大きな波の押し寄せる中で、支店に駐車場も無く、お客さんの要望や先々を見据えて我が銀行も馬借町に土地を買って支店を新築して移転した。(旧店舗は小倉駅の左前方、京町2の左側あたり、新店舗は地図の真ん中、真下市立医療センターの真ん前あたりにある。銀行の前も高いところをモノレールが走る) 新しい支店も2階建てではあったが、以前の建物の比べると小ぢんまりとしていた。しかし、新築だけに快適な職場であった。その頃から私は「貸付係」となり、銀行のお金を貸し付けて金利をいただくという銀行にとって要のポジションの仕事をしていた。それ等を経験した後に渉外係があり、お得意さんをまわり、新規の預金の獲得や優良な貸付先の開拓という仕事が待っているというのがおおまかな順番である。 貸付係は窓口に2人、中に1人、その上に係長という4人編成だった。私達ペイペイは窓口でお客さんの応対をするのだが、私に付くお客さんと、FRくんに付くお客さんがおり例えば私に付くお客さんはFRくんの窓口にお客さんがいなくても、私の窓口が空くまで待っているという現象が起こった。またその逆も、もちろんある。貸付はお金の貸し借りという微妙な問題なのでそういう事があっても不思議ではないと、今になって思う。月末になると返済のお金や貸付の借り換えをするために利息を払いに来るお客さんで、窓口は大忙しだ。頭を上げる暇もないくらいお客さんがズラッと並んでいる。そういう中で計算機もない時代の金利計算はソロバンで金額✕日数✕日歩を位とりしながらやらなければならなかった。慣れるまでは大変だがまあ大過なくできたのだろう。大きな事故もなかったことを考えると。 そういう中で珍しいことが起こった。私が大学4年生のとき、当時中学3年生だった近所の子供を家庭教師として高校受験の加勢をした子供が某大学を卒業して私と同じ銀行に就職が決まったというニュースだった。そして4月になって配属先が決定し、私のいる小倉支店にくるとのこと。なんというめぐり合わせか。しかもこれには近い将来第2幕もあるのでお楽しみに! そういう中で、古い店舗の時からそうだったが、新しい店舗に引っ越してからも若い連中も中堅どころも銀行を辞める者が出始めた。この頃は組合の分裂という不幸な事態を引き起こすような金融再編とかがいわれ始めた時期で、先行きの不安を持つのも仕方のない情勢でもあった。私の目の前でも4,5人の者が辞めていった。他の支店でもそういう動きがあるということが入ってくる。現代は入社数年のうちに辞める人の比率が相当に高いと聞くが、当時は「一回入ったら一生の仕事」と言われる時代で、簡単には辞めるような時代ではなかったが、現実はそういう動きが多くなっていた。 そうする中で、結婚一年後に長女誕生、翌々年3月には長男が誕生し年子の子供を抱えることになる。2年位前から考えてはいたのだが、そういうことをキッカケに私も将来のことを真剣に考えて転職先を探し始めた。そういう意志のある信頼のおける同僚ともいろいろ話をしたりしていた。そのうちの一人がいい会社が見つかりそうだと言う。聞くと私の窓口にみえるお客さんの紹介だと言うではないか。その同僚NKくんは渉外係としてそのお客さんを担当する中で、転職の話をしたらしい。そのお客さんSBさんは、ある安全産業の下請けとして農業の片手間にヘルメットの新品の内装付けとマーク加工・古いヘルメットの塗り替えをする業者だった。私はSBさんがその会社から仕事代金として受け取って持ち込む手形の割引を担当していたのだった。もちろんその手形を割引するためには、それまでに然るべき調査はやった上でのことだったので、大体のことはわかっていた。しかもその会社は伸び盛りで二人でも三人でもいい人がいれば採用するという。しかし肝心なNKくんは別な会社に行くことになってしまった。私は直接SBさんに話をして会社のことを聞くなどし、面接にまでこぎつけた。 そして9月某日、八幡東区にあるその会社の九州支店に赴き常務取締役の支店長の面接。話はトントン拍子に進み、就職決定。その会社が11月20日が半期の締め日ということで11月21日からの出社となる。銀行には11月20日付けの退職届を提出し、受理される。その後バタバタと八幡西区の会社と妻の里に近い小倉の民間アパートを借りて引っ越した。銀行在職は小倉支店にみで7年8ヶ月。ときに昭和44年(1969)29歳の秋だった。➆
2022.07.04
コメント(16)

日本と中国大陸に跨る壮大で大変面白い小説だ。私も最近になく3日で読み終わった。最近私たちの高校の同期会「八期通信」のメール交換では、関東に住むNSくん、関西に住むKBくん、それに鹿児島本部の編集長である3人を中心とするちょっとした「古代史ブーム」が到来している。「薩摩の歴史」一辺倒の私とは異なり、もともとこの3人は古代史にも造詣が深いということは、これまでの交流で私も知っていた。そういうメールのやり取りの中で、先ずNSくんがKくんに「迷宮の月」を送ったのがきっかけで、私の妻も古代史や中国・朝鮮の歴史の本を読んでいると知ったNSくんから我が家にも「奥さんに送るので、その後クマタツさんも読んでみてください」ということで「迷宮の月」が届き、KBくんにも送ってくれたそうだ。我が家でも妻が読んで、その後私も読んだのだった。前記3人の間では、その「迷宮の月」の読後感など行き交う中で次の段階ではどの本を読んだらいいかなど盛んに情報がいき交っている。それによると、時代の順番でいけば、いずれも安部龍太郎の「姫神」「迷宮の月」「平城京」。その他では井上靖の「額田女王」、松本清張の「壬申の乱」「神々の乱心」上下、「琉球王国 高良倉吉」、海音寺潮五郎の「大化の改新」、津本陽の「則天武后」上下などが面白いそうだ。私もやっと「迷宮の月」や井沢元彦の「日本史の叛逆者 私説・壬申の乱」(これもNSくんが送ってれた)を読み終えて俄然面白くなってきたので、次にどれを読もうかと食指が動き始めたところである。 前書きが長くなったが、「迷宮の月」のことである。遣唐使を命じられたのは大宝元年(701)、粟田真人(あわたまひと)は、この物語の主人公であり、第八次遣唐使の最高責任者の執節使(しっせつし)である。普通は遣唐使の長は大使とよばれるのだが、669年以来33年ぶりの今回は日本と唐の国交を回復するするための重要な使節なので、大使、副使の上に執節使をおいて、対外外交の権威である真人が任じられたのである。真人は14歳の時、達観という出家として唐に滞在したことがあるが、帰国後事情があって還俗する。同行者の一人には秘書として後に万葉歌人として名を馳せる山上憶良や真人の娘の婚約者で4号船の船長である阿倍船人もいた。 今回の遣唐使の真人は朝廷一の実力者・藤原不比等から日本と唐との国交回復という密命を受けて、420人という使節を引き連れて4艘の船に分乗し荒波を超えて中国を目指したのだった。その荒波など天候に左右されて出港できたのは702年、その約40年前、日本の天智天皇は唐と新羅に滅ぼされた朝鮮半島の百済を再興させようと4万人の兵を送ったも白村江(はくすきのえ)の戦いで大敗を喫していた。それ以降、日本は唐との外交関係を絶っていたのだ。遣唐使のミッションは二つあり、一つは、唐との国交回復をすること、二つは、唐の優れた制度や仏教などの教理を学ぶため留学生や留学僧を送り届けることであった。 しかも大国・唐から朝貢外交を当然とする姿勢はともかく、外見上は唐と対等な立場としての条約を締結しなければならないという難しい使命を帯びていた。中国の大周の楚州塩城権に到着したが、そこは唐の統治下にはなく、女帝・則天武后を皇帝とする武周朝となっていた。そこから則天武后のいる長安までの道のりも接待役で個性的な宦官などに騙されたりの苦労がある。しかし、悪人もいれば善良な人のいるのもこの世の習いで、真人も命にかかわるような仕打ちを受けながらもミッションを果たすべく一歩づつ進んでいく。そして雲上の麗人・太平公主との艶めいた接点もあり王宮の奥で妖しくも美しい月を見るのだった。まさに「迷宮の月」である。 全体を通じて感じたことは、対外関係なかんずくアジアにおける中国との関係は昔も今も大きくは変わらないということだ。歴史を知ることで現代を知ることができるというのが実感である。 真人は、朝一番の仕事として「遣唐日誌」を書いていた。帰国したとき、朝廷に報告する義務があるので、覚書を残す必要があったのだ。もう一つ真人の文がある。それは一人娘の真奈にあてた文を書き執節使になった自分の胸の内を包み隠さず書き記しておくことにしたからだ。それは万一遭難して命を落とすことになった場合でも、重要書類や日誌、貴重な経典などは防水性の高い櫃に入れて海を漂わせることになっていた。その二つのものが随所にまとまった形で書いてあるので、読者としても頭の整理になって、助けられた。これを機会にもうひと踏ん張りして、日本、中国、朝鮮の古代史にも挑戦しようと思う。
2022.07.01
コメント(22)
全10件 (10件中 1-10件目)
1