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(10月20日のブログに反貧困大集会のリポートを書きました)(31日のブログにズームインで辛坊さんがBIに近い発想を述べられた記述しました)<ベーシック・インカム実現を一日も早く願います。>3年7ヶ月の間、この楽天ブログをメインに書いてきましたが、こちらのブログをストック型にして、ベーシック・インカム実現と農的生活に移動するためにのほうを、フロー型にしてみようと思います。また不確定な気持ちもあるので、こちらがフローに戻るかも知れないし、「ベーシック・インカム実現と農的生活に移動するために」ではないブログにまた移るかどうか、まだはっきりしてないところもありますが、(例えばこちらを箇条書きのポイントを書いたブログにするとか、どちらもフローというのも考えましたが)閉鎖するわけではないので、読んでくださっている皆様、楽天様、今後もよろしくお願いします。
2008.12.27
(10月20日のブログに反貧困大集会のリポートを書きました)(31日のブログにズームインで辛坊さんがBIに近い発想を述べられた記述しました)<ベーシック・インカム実現を一日も早く願います。>グーグルアドセンスは、本当かどうかわからないものも含め?広告的な内容が多くリンクされてくるのだが、雇用のミスマッチというものがあり、人には得手不得手があるということがあり、求めている人と求められる人とのミスマッチとなっている。結婚でもコンピュータマッチングなどという、性格の合う人を会わせようという試みがあるが、グーグルアドセンスのような、比較的少額で考えというかなにかに合っている情報をもっている人を、情報発信するほうと、照らし合わせてくるサービスというのは、もし、例えば私が特徴的な内容のブログを書いた場合、グーグルアドセンスのような方法で、私が興味ある企業や個人などがアドセンスとして出てくれば、細かい、職業の募集をそこでやってみるなら、かなり細かくマッチングできそうな情報としてその特殊情報を書いたブログに就職情報として、かなり興味が合う同士のマッチング情報としてやってくるのではないだろうか。だから、グーグルアドセンスは、中小企業や零細企業や、太田選手のように一人が強くなって知名度をあげる方法もあるが、そうではない方法として個人のサークル募集や、そういう、今多そうな商品情報ではなく、出会いのマッチングとして使われると、企業のミスマッチへの新しい対処になるのではと思った。こういうのがビジネスモデルと言うのかわからないが、もしかしたらすでにずっと前からされている方法なのかも知れないが、そういう情報もやってきてくれると助かるのだが。グーグルさんでも楽天さんでも考慮してくれないだろうか。市場で誰もやらないかも知れないから、内閣府にもメールしてみようかとも思う。(追加:メールした)偶然このブログを見た人も、似たような感じで、他にも方法があるかも知れないが、違うより良い社会にもっとなるためのアイデアがあれば、やってくれるならば、ブログを書いた甲斐がもっと出てくると思う。
2008.12.26
(10月20日のブログに反貧困大集会のリポートを書きました)(31日のブログにズームインで辛坊さんがBIに近い発想を述べられた記述しました)<ベーシック・インカム実現を一日も早く願います。>石破大臣のサイトにメール送信した。石破さんなら、それに応えてくれる人のような気がするのだが。このブログを偶然見た方も、良い提案だと思えれば、政治家の方々など、期待したい人にメールをして提案してみませんか。原文をコピーすれば良いだけだったのだが、今朝は頭がいつも以上にぼけていて、操作ミスばかりしていて、別のコピーをしてしまい、内容を消してしまった。内容は、今こそ40年にわたり、1000万人も減り続けている農業に雇用転換の目を向けるべきだというもので、バラエティー番組でもどこでもアピールして欲しいというものである。しかし、大企業が農業に参入するのは私は基本的に反対の立場をとる。農業という最後の砦まで、リストラされるような業種にされてしまったら大変である。しかし、日本という国は市場レベルで、全体で農業を衰退し続けてリストラし続けてきたようなものであった。多くの家族や共同体の伝統性を崩壊させてきた。飯島愛さんのブログでの追悼コメントが23000も超えていて、その人気の高さに驚いたが、そして追悼している人のコメントは日本人の心の優しさがまだたくさんあることを知らされる。おそらく、飯島さんへの批判を個人や何人もの人がつなげてうわさしている場所も至るところあるかも知れないのは予想する。他人はどんなことでも、良く言う人半分、悪口言う人半分だといわれたことを思い出すが、アメブロのスタッフが、コメント選択しているのは正解だと思う。表現の自由というより、表現の選択、編集が大切な行いである。種苗業の社長もいっていたが、人は一人では生きられない。だから人と人とのあたたかいコミュニケーションは重要である。誹謗中傷をする人のマイナスの行為は思った以上に重いものである。誹謗中傷ではなく、潜在しているもっと良い社会へという願いのほうをストレートに語ったほうが、他人はわかろうとしてくれるはずだと思う。表現の仕方の微妙な違いに過ぎないとも思える。言い方を変えるだけで、他人からの見方が変わり、その人も変わる。「巧言令色少なし仁」というが、逆に、巧みな言葉で騙す人や嘘や嘘をつきとおそうとする人の心理は、もっと心理学者などが実用的に人の心がなおるように、経済社会構造との関連も含めてもっと考察されなければ、あまりに研究されていないと思う。偽悪より偽善より、それより善を目指したほうが良いのだと心身にこびりついているという人のほうが多いのに、なぜそうでない少数者を出してしまうのか。善と矛盾している構造のほうが人の思考技術を難しくしているということもあるのか。動物の本能と社会を構築した人間の違い。どうしていけばいいのか。そこにヒントがあると思うのだが。彼女の人生は、もし家族農業がこんなに衰退していなかったら、違う人生になっていたかも知れない。そういう視点から見るマスコミや作家がどこにもいないなら、どうしてこんなに彼女の孤独死が話題になっているのか、社会と時代を写しているが語られないまま過ぎてしまうことになるだろう。私自身は愛さんの、ビデオ女優だった過去を偏見の目で見てしまうところが片隅にどうしても取れないままであるのだが、愛さんの職業遍歴も時代が生んだもので、時代が承認してきているもので、政治や、国民が私もその一人だが、そういうところまで深く考えていないところから生じてきた遍歴であった。しかしながら繰り返すが、追悼のあたたかい言葉がこんなに出ている場所を最後に表現したところは、すごい人だったのだと思わされた。農業や故郷や食や心やお金や愛や性や死や人と人とのつながり。科学技術のリテラシーや拝金主義なかり生んでしまい、強者がその方向でリードしている世界に日本はなってしまった。おバカタレントが人気があるというのは、そういう世界への対照である。そういうところから社会を世界を良くしたいという表れなのだから、テレビや新聞でコメンテーターは、よりよい社会への分析をしてコメントしてほしい。正月前に派遣社員が住む家も無くなるという警告をテレビや新聞がずっと言い続けてくれていることは、テレビや新聞はがんばってくれていると思う。正月は、家族や親族や親しい仲間と、いたわりや、楽しみを共有できるために、多くの通常機関は休みとなってもそれは特別な日々だと思うが、インターネットは、メールは正月明けまで貯めておいてくれるものだから、政治家や著名人、知識人の人たちでメールをあけてくれているところがあれば、日ごろ、仕事にいっぱいいっぱいになってしまい、できない人も、良いと思ったことを提案することができる期間ともなるのかも知れない。湯浅誠さんや周囲の人は、正月も、住まいの見つからない人などのサポートをしているだろう。そういうすごい人たちもいる。私はそれをできないので、知っているのに書くだけで申し訳ないが。でも、そういう人のあたたかさの交流もそこにあるのだろう。現在、あまり言われなくなっているが、ひきこもりの人もあたたかさを求める途上にいる。その人たちも親の保護などがあるが、不安を抱えたままである。湯浅誠さんの言う「貯め」があるのだから、それは良いことである。アルビン・トフラーさんの考えてきたことに近いのか、生産消費という、日常、生産管理のイメージにとらわれることなく、生活して消費していることが生産につながっているという思考方法が多くの人が理解するようになれば、ウェラブルコンピューティングなども関わって、新しい、誰もが生き続けられる社会の基本的なところが提案されていきやすくなるようにも思うのだが。そして農業という食べ物と関わることと環境維持のできる社会構造に続けば。ベーシック・インカムが実現すればどちらも解決できる割合が進むとどうしても思うのだが。そして楽しい心でいられる、アタラクシアな時代を演出できると願いたい。
2008.12.26
(10月20日のブログに反貧困大集会のリポートを書きました)(31日のブログにズームインで辛坊さんがBIに近い発想を述べられた記述しました)<ベーシック・インカム実現を一日も早く願います。>流される情報に遭遇することはタイミングによる偶然であるが、同一内容と思えるような情報ばかり流されているとそれを必然に感じる。出会う確率の少ない状態の情報に出会った場合でそれが人生に影響を与える場合に運命とさえ言われるのだろうし、あとで振り返って気づくこともある。昨日図書館で、日本農業新聞のトップニュースが大不況による雇用悪化を和らげるための、農業への雇用を数千人単位で考慮するというような記事があったと思う。残念ながら、こういうニュースを有名なテレビやネットからも遭遇できていない。石破農水大臣も大臣になる前にテレビのバラエティーにまで出ていたので、今こそ、農業従事者が増えるようなパフォーマンスをしてくれれば良いのに。この大不況でさえ、利益を伸ばしている場所はあるはずだし、慢性的に人数が不足しているのが回転ずし業界で、元気寿司が500人の募集を打ち出すというニュースが毎日新聞に書いてあった。居酒屋経営のモンテローザも5000人だっただろうか、増員という発表をしてくれた。こういうことをしてくれた人をもっと大きく取り上げても良いのではないか。車や電化製品や機械など、これまで日本を豊かに導いてくれている業界であるが、その業界の大規模化が一転して問題を生じさせてしまうのが、業種移動という視点でみると、40年くらいで1000万人くらいも減少してしまい、減り続け、平均年齢65歳にもなっている農業への業種転換というような見方になぜならないのだろうか。他にも人手不足の業界はあると思う。しかし、種苗業の同年代のH社長と話していて教わり、考えたが、なぜ派遣で苦しんでいる人が農業に目を向けなかったり、人のせいにする人がたしかに多くなっているが、違う目を向けようとしないのかなと言われ、そう聞くと、なぜ、米騒動などが起きた時に、農民を手伝おうとしなかったのだろうとも考えてしまった。しかし、人間はやってきた職種にこだわりが生じてしまい、新たな転換をしようとすると恐怖のようなものを感じる。そして年齢を重ねているほど、教えてくれる人は年下でもあることになる。しかし、最初から職種が変化しても工夫して転換できる人もいる。この大不況は犠牲者を多く出していて、その保護に力が注がれているが、農業従事者が1000万人も減り続けてきたことと関連づけられる論調が大きなマスコミに取り上げられることを願いたい。ベーシック・インカム+農的な生き方ということが今は行われていない欠如しているところなのだと思う。そして人が転換するためには、あたたかい先輩たちの誘導と、出会う確率を高めるための情報量の増大が必要となるのだろう。そのためには、種苗業の社長が言われていたが、ある農家は時給換算すると200円台なのだという。それではとても、新しい人を迎えられるような気持ちが出ない。実際、農家の親は、子供を都会に出して農家を離れさせたがっているのである。これは農林水産省が改革的な推進を行って欲しい。石破大臣は、失策で引きずりおろされてしまうようなことになっていない。石破大臣にがんばって欲しい。なぜバラエティーに出なくなってしまったのか。農業を復興しようとテレビに出て、キャラクターのある石破大臣が言ってくれるだけで雰囲気は違うだろう。ムーブメントを起こすかも知れないのに。だれかこのブログを見て石破さんに近い人がいれば、教えて欲しいくらいだが、メールしてみようか。または誰かしてくれても良いと思う。ひきこもっている人だとしても、メールしても良いと思う。正論だと思うことを発言することに立場は関係ない。(パンツだけの姿で、「そんなの関係ねえ」とテレビに出る勇気のある人もいるわけである。大桃さんと、そのおっぱっピーな芸人さんが新潟の農業と食べ物の紹介をした番組はほのぼのとしたものだった。そういう人から思えば、メールするくらい簡単だと思う。)それが、インターネットという道具を手に入れた後の時代の人の強みだと思う。利用しない手はないと思う。
2008.12.26
(10月20日のブログに反貧困大集会のリポートを書きました)(31日のブログにズームインで辛坊さんがBIに近い発想を述べられた記述しました)<ベーシック・インカム実現を一日も早く願います。>ホリエモンこと、堀江貴文さんのブログで、ベーシック・インカムの話の追加があり、なにかと思ったら、経済評論家の山崎元さんが、堀江さんがベーシック・インカムの紹介をブログでした時に山崎さんのブログを紹介したことから、山崎さんのブログのベーシック・インカムのコメントが増加してなにかと思って、それが堀江さんのブログからの影響だとわかったという話であった。それが12月20日のブログからであった。このように、社会で経済や経営をリードしてきた経験を持つ人たちにも、それも全国区で知名度のある人たちもベーシック・インカムを支持している人がいることは、可能性を高めるし、有名な人がブログで紹介すると、ベーシック・インカムを知る人が増える。もっと探せば有名人の支持者や知っている人を発見できるかも知れないのだが、探すのもタイミングや、運みたいなものもあるのかも知れない。偶然、堀江さんのブログを日時のタイミングで見ていたので、気づいたわけである。グーグルやヤフーみたいに検索でわかることが大いにそれはあるが。検索エンジンが無いと、ほとんど探すのは難しいものだと思うが、検索エンジンより先にそれが間接的に影響はあるにせよ、直接でなく見つける場所とタイミングもある。私は手元にインターネット環境があるにも関わらず、それなら、こちらから有名な人たちに知らせてみようかという気力が、前に政治家の方々にやった時期より大きく低下してしまい、ストップしてしまっているのだが、気力のある読者が現れたら、ぜひそういうことをして欲しいと思う。そんなこと言わないでやれよといわれそうなことを書いてしまい、やらないことが、私の悪いところなのだろうか。でも、けっこう、このブログからもはじめてベーシック・インカムを知った人はいるかも知れない。反対してしまう人も、初めて知ったという点では同じである。とにかく、ベーシック・インカムを賛否が出ようと、日々知る人が出れば良いと思う。
2008.12.24
(10月20日のブログに反貧困大集会のリポートを書きました)(31日のブログにズームインで辛坊さんがBIに近い発想を述べられた記述しました)<ベーシック・インカム実現を一日も早く願います。>「とてつもない日本」麻生太郎(新潮新書)の98ページから。これまでの制度が、近代化、工業化にとって必要な、「できるだけ同じ質の能力を持つ多勢の労働者が与えられた仕事を忠実に行うことが必要不可欠」で、「そのためには画一的な教育によって、個性をできるだけ否定した雰囲気に耐える訓練を施すのがもっとも効果的であった」この教育が、戦後の成功を培ったということだったが、「すでに豊かになって、衣食足りる状態を通り越し、飽食の時代となった現在でもそのままでいいのか。地方の個性が試され、価値の多様化が叫ばれる時代でもある」ということが書かれている。「ほとんどの人は、衣食足りていて、車も建物も家電製品も国内では足りてきてしまい、(サブプライムローンだって、ローンを受けた人以外は、住まいがある人が多くなってしまっていて、問題を生じさせてしまったのだろう)1年間で、日本で食べ残される食品の量は500万トン以上ではないかといわれている。どのくらいの量だろうか。検討のつかないほど、大きいのではないか。しかし、一方で、貧窮に困る人を生み出してしまうということになってしまっている。麻生総理が書かれていることは、工場という、これまで豊かに日本をしてきた元となっていたところの変化というところに視点があったということである。サブプライムローン問題からの波及で、もっと大変なことになってしまったが、それまでも、日本の会社の工場が海外に移転したり、産業の空洞化が言われていた。一方で、農業人口は衰退の一途をたどり、昔の農業の生活は、今ほどお金が無くても、困っていない、お金とは別の、家族や共同体と、自然利用のセーフティーネットがあった。大企業が小さくなり、人が移動しなければならなくなった時に、受け皿があれば、移動するというところだったのだが、移動先が無いために、苦しいことになっている。池田勇人の高度経済成長を試みた時代には、都会のほうに受け皿がどんどん出来ていった。しかし、今は、反対に都会に受け皿が無くなり、田舎にも新たな受け皿が用意されていないようなところにきている。というか、減少し続けているのだ。独立法人産業経済研究所の山下一仁氏によると、「戦後の食糧難の時代人口7000万人に対し農地は600万ha存在した。現在人口1億3000万人に対し農地は500万haを切っている。今では国民がイモだけ食べてかろうじて生き長らえる程度の農地しか残っていない。明治から1960年まで不変の3大基本数字といわれた農地600万ha、農家戸数600万戸、農業就業者人口1400万人は40年間でいずれも大きく減少した。農業就業者人口は280万人へ激減した。フランスでも農家は減少したが農地は減少しなかったため、平均的な農家規模はフランスでは2.5倍に拡大したのに日本では36%(北海道を除くと17%)しか拡大しなかった。」これだけ衝撃的なことが書かれていながら、社会が戻せていなくなったことは、お金という強迫観念を生むものに、人々の関心が移ってしまい、農業よりもお金の儲かる確実な産業に多くの人が移動し、競争して、お金を求め合い、農業以外の産業を拡大して多様化、差異化させていったからだったろうか。餓死の危機というのは、今は、お金と農業以外の産業労働の関係が密着し、お金と交換するための食料が手に入らなくなるところから生じているが、その延長には食料危機がある。外国との貿易がそれに関係していて余計難しいところとなっている。明治時代から1960年まで、農業就業者が1400万人を維持していながら、それから40年の間に、1120万人も農業から離れてしまったわけである。こういうことは、他の人たちが20年も前から言っていたはずなのだが、その叫びがかき消されていったまま、今も為す術がない。山下氏のように、客観的な事実を伝えてくれる人がいるのに、その解決策を実現してくれる人が現れない。もちろん、私も文章をただ書くところまでで限界である。何も変えられない。言葉に力が全くないわけではない。愛しているという表現で人は結ばれるし、酷い言葉で自殺にまで人を追い込んでしまう言葉さえある。自殺が実は間接的な他殺であることが気づかれていないというところもあるだろう。しかし、せっかくの文章化された憲法25条でさえ、絵に描いた餅になってしまっていて、守られていない部分となっている。「1、すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。 2、国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」言葉の乱れは精神の乱れを伴う。それは長い間に、先祖として生きていった日本人の先輩たちが言葉に言霊を感じながら、創り続けてきてくれたからであったからかも知れない。駄洒落はおやじギャグなどとも言われて、笑われるものだが、言霊を感じながら創作していった言葉たちには、精神性や美を含んでいたシニフィアン同士の関係性を潜在させているのだったかも知れない。しかし、言葉の乱れに、身近な先輩たちは気づかなくなり、新語の感性のなんらかの危機を予想させる表現を見逃し放置させてしまうようになった。(私もこういう言い方でしか言えない。後からの人になにも出来ないと思う・・・だが、私一人だから出来ないけど、多くの同年代や先輩方の気づきや行為が変わってくると自分も協力していくことがあるかも知れない。1対1でうまく行かない相性があっても、2対1や2対2という、第三者が加わることで、うまく行かなかった相性が変化することもありえると思う。しかし、それは空間時間性は一緒になっていないと、ネットなど、部分的なコミュニケーションでは特に、時間性のずれから、その間に、難しさが生じるだろう。ところが、いくら多くの人が集合するところでも、画一化の方向に行こうとしてしまう動きになっていったりする。現代思想の歴史の中に登場する人の誰かに、そういう課題をなんとかしようと考えた人がいるように思うのだが、私の能力不足で、勘で見ようとしているところだけである。また、その思いだけで通り過ぎてしまうかもしれない。かなりあてずっぽうで書いているブログだが、あてずっぽうそのもののままでは書くことができない)クリスマスイブにこんな気分が沈むようなことを嫌がらせで書いているわけではなく、問題を見て、改善をどうするかと考え、進もうとするところに、幸福があるはずならば、楽しいことと同時に、少し言葉をずらせば無力や悲しみを感じることも無ければ、人の暖かみも感じられないという順序が生じる。バブルからバブル崩壊に至るまでの人が得る感性の順序と、人と人の間の少しの切なさ、(変換される中に刹那さともあったが、漢字の場合はどういう漢字が当てられるか、パソコン時代の場合は変換される漢字がどれだけ入っているかも大事だなと感じた)松岡正剛さんが書かれた『フラジャイル』のような、弱さを無力さを感じるところから感じられる雰囲気があった経過とは、空間を漂うものが、喪失的な無力感へと至る順序と生命をいとおしむ空気感を保つようなこととの違いを生じさせるような気配を感じる。感受性の多様性が、今のお金の問題や、食料や環境の問題を解決して行く。そのためには、そういう願いを持った上での多様性の価値観を持つ人同士の交流が可能になることの必要性がある。だから、そこはまだ発展途上である。こんなに長く書かなくても、今夜、いろいろな人がメリークリスマスと言い合えれば、その可能性はあるから大丈夫なのだと思う。あとは解決できるためのスピードだけとなる。
2008.12.24
(10月20日のブログに反貧困大集会のリポートを書きました)(31日のブログにズームインで辛坊さんがBIに近い発想を述べられた記述しました)<ベーシック・インカム実現を一日も早く願います。>今朝の毎日新聞に、北岡伸一・東大教授に聞く(古賀攻編集委員)のタイトルから、「自民 不振の原因は」ということで、「微調整政治」に限界 だという内容だった。またテレビ朝日の「スーパーモーニング」で、赤江珠緒アナウンサーが、100年に1度の危機なら、100年に1年レベルの政策をして欲しいといわれていて、鳥越俊太郎さんも同様のことを言っていたと思うが、同じ構造の場所にいくらお金を「量」として注ぎ込んでも、変化しないところがあり、もっと、構造上変化するような、「質」の大転換、明治維新のような変化を期待している反動が多くの批判論調として出てしまっている状況なのかなと思う。前回のブログで書いたような、「とてつもない日本」の頃の思いを自由に麻生総理が発揮できるようなら良いのだがと思った。末次省三記者が毎日新聞「つむじ風」で、国民の転換意識が、「民主党はいつ自民党になるのでしょうか」という質問をある学生から受けたように感じたという文章を書かれているが、大勢が、ある範疇の中での転換までを予想してしまい、上から下まである範疇の内でアイデアが振幅しているまでの思考状況になってしまっているのかもしれない。なにも、経済の右肩上がりだけが、人類社会の進歩ではないかも知れないのだ。マスコミも連日報道してくれているのは、最低ラインの生活危機、生命不安、危機にまでリアルタイムに陥っている人を、今日明日せっぱつまった人を最優先で救出する視点が、今重要視されてきたのであるとも言える。1つ「量」では無く、「質」の転換を選べといわれれば、ベーシック・インカムを願う。麻生総理が、定額給付金を景気対策とするなら、上地雄輔さんが、日本テレビで言った、「期限付きお金」というエンデがゲゼルの思想から言われたという、腐る貨幣のアイデアの追加や、3年後に消費税増税をするなら、思い切った、ベーシック・インカムをやってみるからという熱のこもった演説が追加されるなら、これは100年に1度か何百年に1度からの「質」の転換だと思う。なにしろ、まだやったことが無いのだから。初めてのことは数字感覚で比較できないことである。なにをしても予想外の現象が入るのは現世の常である。やる前から批判する人と、やってみると面白いかもと分割されるアイデアというのは可能性を秘めていると思う。公表されていないシナリオが水面下で進んでいて、ある日突然ベーシック・インカムを採用しますという発表がなされたら、これは驚くと思う。定額給付金もそうだったが、他人が知ることは、突然知るというケースもあるわけである。今年ブレイクした芸能人だって、多くは昨年まで知らなかったわけである。人が何かを知る前と知った後では大きく変化する。養老孟司さんがそういうことを述べられていたような記憶があるが、養老さんは、「バカの壁」の中からであったろうか、戦争を子供のころか、体験している世代だからだろうか、ホームレスをそんなに緊急視していなかったような記述があったように思って、それが残念な気がしていたが、それは私の読み込み不足だったかも知れないので、深入りすると間違うことだが、とにかく、製品を生産するという意味意外での、構造から受ける感受性が変化するようなイノベーションが求められているということだろう。それならば、漫画好きのセンスのある麻生総理のアイデアの噴出に期待したい。
2008.12.24
(10月20日のブログに反貧困大集会のリポートを書きました)(31日のブログにズームインで辛坊さんがBIに近い発想を述べられた記述しました)<ベーシック・インカム実現を一日も早く願います。>麻生太郎総理の「とてつもない日本」(新潮選書)は、2007年の6月に出版されているが、それから1年半が経過し、それから著者は総理大臣になり3ヶ月が経過した。人間は当事者になると、余裕のあった頃や理想を忘れてしまったりするものである。むしろ、過去に書かれたテキストの中に、本人の基本となる思想が表されていることがあるのではないだろうか。私としては、出版すぐに読まなかっただけのことではあるが、言い繕っているだけだとしても、今、この本を読んでみると、麻生総理の潜在能力や資質が、今、総理大臣になったばかりで隠れてしまったというところもあるかも知れないし、麻生総理の資質を浮かび上がらせるヒントがこの本には入っているのではないかと思うのだが。64ページに、今働く人の7割がサラリーマン、2割が自営業者であるが、昭和34年(1959年)には、サラリーマンが4割、自営業者が5割だったと書かれている。この推移と比較は大事な点だと思う。農業、商店街、町工場などのお父さんたちが大勢いた昭和30年代半ばの構造と、今の構造の違い。サラリーマンにも様々な職種があり、悪いと言っているわけではないという前置きがあり、「サラリーマン意外の選択肢があまりないように見える社会には、魅力を感じることができないのではなか。いい会社に入るためには、どうしてもある程度の学歴が必要になる。ニートが増加する原因には、この辺りのことがあると思うのだが、どうだろうか。これからは、基礎をしっかり教えた後は、より多様化された選択肢があることが望ましいと思う。(略)数学はできるが英語は駄目、音楽はいいがスポーツは駄目など。それを無理に義務として一緒に高等教育する必要は全くない。」現代思想の言葉で言えば、麻生総理は、多くの日本人の従来の考え方をしている人よりも「同一性の思考」から抜け出す感覚を持っていた人なのではないかとも思える。マスコミでは、テキスト解釈が横並びのようになってしまっていて、産業主義、市場主義の枠内での解釈から捉えられるので、批判が多くなる資質の麻生総理だと思うが、だから、小泉路線がニートに対して、教育して社会参加を熱心にしたのに比べて、語弊に感じられてしまうかも知れないが、麻生総理はスローライフくらいに考えて、あまり強制しすぎなくても良いのではないかというセンスだと思う。麻生総理が、漫画的にもう少し余裕のあるずらしたアイデアで行けば、多様化された社会という発想が生じてこないだろうか。「そもそも一緒に働きたいのは、高学歴者ではなくて、『気持ちのいい人』『波長の合う人』である。だからこそ、人間として最低限必要なことは身につけさせなければいけない。そうしないと『専門バカ』のような人間ばかりになってしまいかねない。だから一方で躾などの基本を叩き込むべきだと考えるのだ。それに加えて、家庭での躾教育、社会教育で習う公共心、道徳心、倫理観は現行の学校教育以上に重大だと声を大にして言われたらいかがだろうか」人によっては、勉強第一で、躾は次という考え方の人もいるだろうし、そういう人ならそういうように書くようになるだろうから、麻生総理の基本は、学問的な勉強よりも、躾というほうを重視したいタイプの人だと、このテキストからは言葉通りならば読める。レストランで、お子様ランチはあるのに、お年寄りの「シルバーランチ」は無いのでというような発想を語られている。こういう発想をどんどん今も言えればいいのにと思う。「子供に『いろんな生き方がある』と教えているのならば、大人も老人も、多様な生き方を示せばいいのである。」と書かれている。トヨタの営業利益の激減の報道はあったが、トヨタのストックは一体どれくらい残っているのだろう。織り機から車に変わったイノベーションは再び思考されるのだろうかなどの考え方は無いのだろうか。派遣切りをマスコミが報道しなかったら、大企業トップ層は、そんなに精神的負担なく、リストラしていたのかも知れない。麻生総理が1年半前に書いていたような、企業だけでは無い多様性のある生き方のできる社会という感覚を思い出して欲しいものである。93ページのあたりには、自民党のイメージのある種の厳しさが感じられるが、(私の偏見だが、このブログは元々偏見だらけだけど)それに、前向き、楽観的というのは、良いことだと思うが、状況が悪くなっていても、楽観的な人は、逆に打つ手が遅くなるという面があるのかなと思えるような考え方の運び方のようにも思えた。これは私自身が後ろ向きに考えるタイプだからかも知れないし、テキスト、著者、読者の偏見と偏見の交錯ではあるが、読者である私が良いなら良い、悪いなら悪いと書きつなげればそのほうがはっきりした文章になるのだろうが、感覚としては、自分は麻生総理のような考え方の運びと違うところが感じられるなというところだった。しかし、どんどん中流と位置づけられた人が給与が上がり、しかし価格も上がっていった時代に、少しずつ落とされていった人たちの悲哀があったのではないかということや、いや、多くの人が数字としては上がっていったのだから、それこそ高度経済成長でいけいけどんどんの時代だったのかなと、これは60代の人たちによく話しを聞くべきだと思う。しかし、今はもっと本が書かれた時より、異常事態になってしまって、格差より貧困という、今日明日が、生命の危機まで感じられてしまう人が増えてしまっているらしいという、(らしいと書くと、ふざけるな、そうなってると思われるだろうし、報道されていることだが、自分の周囲と報道されている大きな視点とは、違っていて、例えば、多くのテレビに出る人は実際に会ったことが無いが、会ったことがあるように錯覚してしまう。だから、自分の目でなかなか東京へ行けなかったり、路宿している人を見ることが出来ない。だからテレビなどの共通意識を与えたり、知れないことを広く通知してくれる機関と接触しない人にとっては、そんなに危機感がよくわからない人もいるかも知れない。でも、それでも、そういう感じを受けたり、近くでリストラの話が出ると、その通りなんだなと思うということである。)今は、格差以上のせっぱつまった状況を生じてしまっているが、2007年6月までの麻生総理は、「最低の生活水準保障や社会保障制度の整備、教育を含め幼児期における格差を小さくして、運・不運の影響を小さくするといったところが、」という格差対策の基本意見を述べられている。四章の途中までだが、五章には地方について書かれていて、大事だと思うが、6章からは外交の話みたいなので、私にとっては、なんだか遠いような話になっていくのではないかと思う。元々語られていた、「同一性の思考」をずらすことのできる感覚で、企業のピンチの時代も、多様化して生活できる方法を打ち立てて、この大ピンチを乗り切って欲しい。一方、民主の小沢代表は今、著書は出ていなかっただろうか。出ていれば比べて見たい気もした。おちまさとさんが、対談した本が出ているというのはわかっているが、検索したら他の本もわかるかも知れない。しかし、ちょっと私のほうの余裕が無いかも知れない。時間とかいう意味ではなくて、配慮という意味でである。もっと私の全ては偏見だとしても、偏見の中の守備範囲が広かったら良かったのだが。私は特定政党や特定政治家では無く、ベーシック・インカム公約のところを応援して行く。私の偏見が入ってしまっているが、このブログを偶然見て、なにか解釈が出たり、また実際に本を読んで何か発想が出る人がいたら、ブログを書いて良かったと思う。私としては、麻生総理はもっと奇策をどんどん出してくる人なのかなと思っていたが、私が最初に感じていたイメージよりは、通常の路線のような感じが今日時点ではしている。しかし、当事者はほんとにつらい状況だが、以前にも、10年も20年もホームレスになってしまった人はいたのに、今は、マスコミもそういうピンチの人をとても紹介してくれている。10年、30年という長いスパンで見ても、この機会は、ホームレスになってしまいそうな人を助ける構造を生み出せるチャンスになっている。麻生総理からのベーシック・インカム宣言が出たら、このブログも嬉しくて嬉しくてどういう内容になるかというところだが、漫画が好きでそういうストーリーに対するセンスを持っているはずの麻生総理に、奇策を期待したいのだが。今日の毎日新聞の「記者の目」は、政治部の高塚保記者が、定額給付金の撤回を今からでも総理はせよという内容だが、そうではなく、上地雄輔さんが言ったように、「期限付きお金」にするとか、それこそベーシック・インカムにするとか、定額給付金の範疇で、追加されるアイデアを出して欲しいという内容で書かれていたら良かったのに残念なところだった。もちろん、私は格段に高塚記者より、実態が見えていないわけだが、2兆円はあくまで定額給付金の範疇でも、奇跡を起こしてくれるという発想を持っても良いのではないかと思うのだが。「景気・雇用対策」としては、また別のお金が使われているのではないか。ここが独断になってしまって独り言ブログの悪いところではあるが。でも、たしかに1度限りの1人あたり12000円では、生活危機は脱せず、景気対策としての方法になる。だから「期限付きお金」といったり、エンデがゲゼルの考え方を紹介したところに行くのは道順が通っていると思うのだが、前にテレビで、景気対策なのか、保護対策なのかはっきりしていない。と言っていた人がいたが、高塚記者は、異常事態になってしまったのでもっとはっきり保護政策として2兆円を使って欲しいという提言なのだと思う。
2008.12.23
(10月20日のブログに反貧困大集会のリポートを書きました)(31日のブログにズームインで辛坊さんがBIに近い発想を述べられた記述しました)<ベーシック・インカム実現を一日も早く願います。>反貧困大集会参加から2ヶ月が経過してしまった。正月休みというのは、懐かしいような、周囲との楽しいイメージのある時期であるのに、派遣切りなどをこの時期に行われるということは、転職活動も休みとなるところが多いと思うので、逆のつらい時期になってしまうというのに、関口宏さんが言われていたようにこの時期にというのが余計、ひどい決定なのだなと思う。その割に、政治家よりも、そういう企業の決定のほうが非難がなされていない感じがテレビや新聞でもするのはなぜだろうか。やはり、新産業イノベーションによる、産業移動とか、ベーシック・インカムとか、大きな変革を出さないと政治は評価されないくらいの変動期なのかも知れない。それだけ政治は期待されているからなのだとも思えるが、なかなか大変革の政策というのは、出にくいものなのだな。明治維新とか、所得倍増計画とか、これは以前と違うなというような断層を感じさせるようなアイデアが求められているところが、なかなか従来の仕組みの上で政策がなされているからだろうか。今朝のズームインだったと思うが、上地雄輔さんが「期限付きお金」というアイデアならその期間内にお金を使おうと思い、消費するだろうと言われた場面を再放送していたが、それだけそれを期待したい編集だったかも知れず、大変革とはまた違うところかも知れないとしても、今からでも定額給付金を期限付きにしてみるなど、起きないのだろうか。テレビでも定額給付金は、景気対策なのか、保護対策なのかはっきりしていないと言っていたコメンテーターがいたし、景気対策なら、「期限付き」のお金のほうが確実性が出るような気がする。それを実際にやるとなると事務的にどこに難しさが加わるのだろうか。テレビは随分と、毎日のように、生活困窮に陥ってしまっている人の状況を伝えてくれている。やはり、麻生総理のもう一歩踏み込んだ、国民に大丈夫だからという演説がここらで必要なのかと思う。定額給付金を最初に発言した演説の時は力を感じたのだが。年内には間に合わなかったことだし、発言が嘘のようになってしまったところは残念なところである。少しだけ、古館さん司会のニュース番組を見た。河野さんを久しぶりに見た。やはり、不景気と、生活困窮のリポートがされていた。生活は大丈夫ですかと国や自治体の人が全世帯を調査してまわって直接話しを聞くことでアイデアを得るということは無いのだろうか。画期的なアイデアも出てこないが、冒頭のフレーズを記憶力に自信が無いので、習慣化できないかも知れないが、毎回つけるというのも、なにかの拍子ではじめてこのブログを見た人にわかりやすいだろうか。一代で創業して大チェーンを出現させてしまう人なども実際いるのに、そういう能力の秘密がわからないので、私には不可能が多いように思ってしまうのだが、出来ることで少しずつでもということしか思い浮かべられないな。ブログはこうやって出来ることだから。気持ちだけでも。とにかく、冒頭の2組のカップル、おめでとうございます。しかし、ニュースゼロを見てみたら、33歳の人がホームレス10日めというインタビューを受けていて、その人は気丈夫に対応していたが、ダンボールを囲いにして寝るところの映像だった。長年、ホームレス状態の人たちがそのままにされてきたことが異常なことだったのではないだろうか。これも労働とお金が必要以上にリンクされた考えに陥ってしまったことで生じてしまったのではないだろうか。労働と切り離された状態になってしまった人を最低限度保護する住宅と最低限度のお金の支給が確実にある仕組みはどうして作れないまま今があるのだろう。住まいと生活費に困り、収入がストップした人のセーフティーネットを第一に考える仕組みになっていればもっと対応ははやいような気がするが、ホームレスの人たちは、何十年も前からいて、その問題をクリアできていないのではないのだろうか。なにがその問題解決への壁になっているのだ。もう一度憲法25条を再確認してみよう。「1、すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。 2、国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」素直に2組のカップルおめでとうで済ませられれば良いのだが、また別の話なのかも知れないが、ホームレスの人のニュースを見てしまうと、井端選手は2億円も稼いでいたり、井端選手だけではなく、スタープレーヤーは石川遼選手も祝福されたが1億円プレーヤーなのだし、それは今にはじまったことでなく、様々な業界で億万長者の人がいるのだが、実力とそういう世界へ選ばれる才能と努力があったわけだが、資本主義の仕組みというのはなぜこんなにも大きな差を生じさせてしまうものなのだろう。ちょっと嫌らしい対比をしてしまったのだろうか。しかし、資本主義の仕組みがこんなに急激な差の無いものならば、こういう発想自体が無かったかも知れないのだが。難しい。ニュースゼロでは、トヨタが2兆4千億円のダウンで59年ぶりの1500億円の営業赤字になる見通しだというニュースがなされた。トヨタの社長が100年に1度の異常事態で、急激に不況が広がっていると述べていた。そんなに急激に短期間で違ってしまうものなのか?苦難には、分かち合い、シェアリングを行える企業だとしたら、たしか織り機から車に転じた頃のスピリットが思い出せる企業だとしたら。なにも出来ない立場のほうからこういうわけのわからないことを言ってもどうしようもないかも知れないが、なにか資本主義という不可解な良し悪しの大きすぎる事態に新しいほっとするようなパラダイムシフトをなにか発揮してくれないだろうか。それは思いがけないこと。私には思いつかないこと。私に解決できるわけがなく、資本主義とはなんなのだという恐ろしさを感じてしまい、素直どころか、嫌らしいようなブログに今回もなってしまった。3歳くらいの子供だろうか、外で遊んでいるのを昼に見たが、生きていることそのものが楽しそうというような感じであった。あの子には、1億円とか見てもわからないけれど、それでも生きていることだけで楽しく感じられているのかもしれない。たくさんお金を稼ぐ能力のある人はその過程までですごく努力をされたのだと思うし、多くの税金を支払って元々されてきたのだろうが、緊急事態の時は、お金のことは、お金をたくさんもっている人の協力しかないようにも思えるし、しかし、政治という、市場社会とまた違う面を持つところの新発想の力が試される局面なのか。原始時代には、お金の格差はそんなに無かったんだろうか。製品もそんなになかったのだろうか。それでも生命を繋いでこられるだけの社会の仕組みがあったのだろう。だから、子孫の一人として私もいるのだろう。そういうご先祖様の力が、私のどこに受け継がれているのだろうか。反対に、生命維持のための基本的インフラに、お金がそんなに必要とされないような社会構造があれば、お金は幻想だったということになる。それがお金のためだったのかなんのためだったのか、第二次世界大戦のようなことになったり、暴動が起こるなどということは、間違いだと言い切れる社会であり続けて欲しい。どれだけの多くの人がこれまで反戦の願いを続けてきたことだろうか。お金に惑わされない知恵を人類全部で見せて欲しい。先進国と言われてきた社会が混乱しては、未開社会と言われてきた人たちがとても悲しむだろう。
2008.12.22
(10月20日のブログに反貧困大集会のリポートを書きました)(31日のブログにズームインで辛坊さんがBIに近い発想を述べられた記述しました)<ベーシック・インカム実現を一日も早く願います。>天気が荒れた日になった。今も荒れている。沢尻エリカが高城剛氏というクリエーターと結婚のニュースが出たが、22歳と44歳という22歳差の結婚は、ある意味、高城氏は特殊な立場の人ではあるが、私もそうなってしまっているのだが、40歳、50歳になっても結婚していない人も多いらしく、勇気づけられる話ではないかと思う。高城氏はたいしたものだ。このところ見なくなっていたが、テレビ朝日の河野明子アナウンサーが中日ドラゴンズの井端選手と結婚というニュースが出て、来年3月でテレビから姿を消すらしくとても残念である。あの凛とした姿勢が良かったのだが。このところ10年以上だと思うが、プロ野球をしっかり見ていないので、井端選手のことはまったく知らなかった。すごい選手だったのだな。これではかなり他の人とプロ野球などでは話題が合わなくなってしまっていると思う。プロ野球の話は周囲の人とあまりしたことが無かった。これも20年以上ぶりかも知れないが、ふと『水戸黄門』にチャンネルを合わせて、見てみようと思ったら、何度も泣ける話で、このごろテレビなどで泣いたことは無かったのだが、両目から涙が流れ落ちるほど泣ける話だった。隠密は知られたら一緒にいられないのです。という女性を引き止める、意地悪に思えた姑の優しいところや、夫の真っ直ぐさと、上様に私から大丈夫にしてあげるよと言った黄門様の言葉にもぐっときた。強い人が、困った人を助けてあげられる物語。終えてから、教育テレビに少ししたら、派遣切りで1日置きにご飯を食べているような人の話があって、その人が、それでもずっと食べられない人よりは良いと思うと言われていて、人間らしい生活に戻したいとも言っている人がいて、憲法25条は、完全に守られていない部分だなと再認識してしまう。「1、すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。 2、国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」水戸黄門様みたいに、上の人が、スーパンマンのように助けてくれる人たちだったなら。そういう立場になるまで努力されたところはすごくて、私などはなれなかったわけだから、こう言うのもなんだけれど、やはり憲法25条はまったく守られていない部分だ。『図解雑学 現代思想』小阪修平(ナツメ社)を読み進めて、小阪さんはとてもわかりやすく書かれていて整理されているのだが、それでも私の能力不足でわからないところが多いが、アドルノの、同一性の思考への批判や、ドウルーズ-ガタリのスキゾフレニー、ボードリヤールの消費社会分析などは、私がもっと理解したい何かにヒントを含んでいるような感じがする。フーコーにページを多くとられているが、今そこら辺を読んでいるところ。フーコーもヒントがあると思う。別の似たような本でエッセンスを自分なりに身につけたいと思うのだが。どこかの本で、実際に訳書だとしても原本を読むことだと言われていた人がいたかも知れないが、コンパクトにエッセンスを紹介している本を読むことも、なにかを感じられたほうが良いのだと思う。デリダのところは良くわからなかったが、テキストが読まれるうちに差異を生じていくところが大切というようなことが書かれていたと思うので、自分が何を感じられるかだと思うし、よけいわからない原本ではまったく感じないかも知れないし、どこか部分的に感じることができるかも知れないし、わかったと確信したものだけ書いていてはそれも何か足りないのだと思う。フーコーのところに書かれていたのだったか、あまりの正義や正確さの追求は、排除されてしまうものを生じさせてしまうということがあった。しかし、不正義というのか、それも嫌な気分を与えるものだし、どっちがどっちになってしまうことも嫌なことである。難しいものである。サルトルやフーコーは考えるだけでなく、行動も伴っていなければいけないと思っていたように捉えてしまったが、ベーシック・インカムにしてもなんにしても、ブログで言わないよりは良いのだろうが、インパクトはなかなか無いのだろうなあと無力を思う。このブログでベーシック・インカムを知った人がいるとしたら、家族や友人に口コミしてくれるといいなあと思う。
2008.12.22
(10月20日のブログに反貧困大集会のリポートを書きました)(31日のブログにズームインで辛坊さんがBIに近い発想を述べられた記述しました)今朝の毎日新聞では、エコナビという特集で足立旬子記者が書かれている記事であるが、まだ食べられるのに捨てられている「食品ロス」が日本で年間500万~900万トンあるのだと言う。どれくらいの量か予想がつかない。農水省が8月に検討会を設置し対策に乗り出したとある。こういうことも通知してもらえたから分かることだが、今回の場合、新聞を読み過ごしていたらわからなかったことでもある。こういうことが様々な意味を含んでいるのだろう。お金を得る仕組みである仕事についても、ある教えを受け、覚え、使えるようになるわけであり、知らないとわからないということは、教育や出会いや機関内での出来事など様々なことを含んでいる。足立さんはこう結んでいる。「食料を大量に輸入しながら体調に廃棄している現状を変えていかなければなりません」言葉によって伝わるし、大事な事を選択し、また伝えるバトン渡しが大切なのだと思う。商売や流行も口コミということが基本になっている。経済面では、居酒屋「和民」の渡辺美樹社長が、「和民」から出る食品ごみを全部堆肥にしようということなどの食品と堆肥のリサイクルの活動について書かれている。森禎行記者の記事の最後に記者の質問から社長の回答で、こう結ばれている。「社員約4000人と2万人超のアルバイトの意識を変える。アルバイトの一人は、『缶コーヒーの空き缶を捨てられなくなった』と話しています。店での約15種類の分別の成果で、一人ひとりの身近な意識の変化が、環境保全には重要です。」社説にて、三木賢治解説委員が「視点未曾有2008」という特集で、通り魔事件のことから、「苦境に陥り、社会に恨みがましい気持ちを抱いたとしても、心の栄養状態が良好なら、他人を攻撃しようとはしないはず」と書かれている。どんな規範も刑罰も歯止めとはならず、人々の心の栄養を満たすことがなによりの予防であり、それについて、「肝心なのはもちろん家族のきずなだが、離婚が増加し、モンスターペアレントに象徴される非常識な親が目立つ現状では家族の力を過信するのは禁物だ」と述べられているほど、危機的である。反省しなければならないところである。「核家族化や終身雇用制の崩壊などが問題を一段と難しくしている面も見逃せない。」「親類、地域、職域などとのネットワーク作りが喫緊の課題だ」と言われている。こういう視点を基点にして、どうすれば予防できるかを多くで考えていかねばならない。みんなが考える側に回っている状態というのは、事件ゼロという状態であるということなのだ。社説の「自治体財政」では、大分県杵築市が市役所の臨時職員を採用するという例の話があるが、雇用創出は意外なところから出てくるものではないかというヒントだと思う。減らそうと思って壁になっているところに、実は増やすことで解決するヒントもあるのではないか。ワークシェアリングという考えもある。「図解雑学 現代思想」小阪修平編(ナツメ社)を読んでいるが、ソシュールの「人は言語の中で思考しているのではないか」というところでは、私は、そのことを仕事とお金とのリンクについて、関わらせて考えようとする癖があって、日常言語のほかに、外国語も、コンピューターを扱える機械言語も、加工することも言語のようなもので、翻訳家とか、プログラマーとか、エンジニアとか、そういうことと、それらの技能は、簡単に言ってしまうと、勉強しなかったからなれた人となれない人に分かれるのだが、そのことが、格差などの区別を生じさせてしまう面もあるので、そういうところを探って行きたい。ハイデガーは、ナチスとの関係が取りざたされて悪い印象も与えられている哲学者だが、この本にも書かれているように、その哲学はすごいことを言っていると私でも思うところが多い。86ページから91ページのところは何度も読んでみたいところである。自分自身の固有性を忘れている「ダス・マン」と呼ばれた視点とか、物への配慮、人への顧慮という、気遣いするのが人間とか、空海の」生まれ生まれ生まれ生まれて生のはじめに暗く 死に死に死に死んで死の終わりに冥し(くらし)」と言葉に通じるように思われる、生と死の間しか分からない人間のことを「未済」と読んだらしいということなど、90ページのタイトルである、「宿命の自覚と時間性の哲学」というところなど、ヒントが満載に思える。分析哲学のところも特徴があるが、そういう視点の領域が多くなった人が増えているのかも知れないと思うところがある。ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」というのは、その言葉だけ聞くと、言葉や文章だけで事実は動かせないというような悲観的な話かというとそうではないようである。言葉のやりとりそのものの事実の重視という意味あいだろうか。サルトルは契約結婚のことなど、なんだかよくわからないところのある人なのだが、物の物理的宿命性と違い想像することで現実を複数の行為に分けられるというような「対自存在」であるのだというような考え方はヒントがあると思う。ただ、人間の自由は必ずしも幸福ではなく、「人間は自由の刑に処せられている」という考え方などは、今の日本が格差社会を生んでしまったり、完全なセーフティーネットが未だなされていないところへの大きなヒントを含むと思う。状況へ進んで参加しようとする「アンガージュマン」と言われる考えと実践は反省すべきところだと思う。私自身が内向、非行動になりがちな人なので、愛憎あい持つような感覚を味あわせてくれるところである。ただ、長期ひきこもりの人などが、生き易い新しい社会を構築するためには、参加とは何か行為とは何かという考え方の範囲を広めることも必要だと思う。時流や運気の流れ、タイミング、チャンスなどもあると思うが、おとなしくしている時期も実は大切なものを含むというような考え方や、消費が生産に自然に結びついているというような装置、それにベーシック・インカムが基盤にある社会なども、不安を持つ人に対しての処方箋になると思うのだが。今、多くの人が年金問題などの将来不安のために守備的な感じになっているが(守備も悪いことばかりではなく、スポーツでも守備はとても大切だが)、ベーシック・インカムなど、将来への設定された安心感を生む装置が、今も変化させる。ハイデガーの時間性の考え方にもヒントが隠れていると思う。私が何かを知るということは、例えば本というすでにあるもの、誰かが作って置いたものと遭遇、または再遭遇、再再遭遇することで、新たな考えや行為が生じる。良い出会いを重ねて行きましょう。
2008.12.22
(10月20日のブログに反貧困大集会のリポートを書きました)(31日のブログにズームインで辛坊さんがBIに近い発想を述べられた記述しました)関口宏さんが司会の今朝の番組で、昔は、正月前には、日本の企業は餅代としてお年玉みたいに配ってくれるようなところだったのが、この正月前に、大企業というのは、全体が苦しくなってしまったからと言ってすぐに派遣の人を解雇できてしまうものなのかな。こんなことが出来る企業になってしまったのはここ最近のことなんじゃないのというような、急激な日本人が、他人を使い捨ての物のように思ってしまう感覚の変化の異常さについて気づき、コメントされていた。コメンテーターが、人間を固定したものではなく、あたかも変動費のようにして考えてしまったのだろうと、違う言葉で受けていた。言葉遣いは違うが、人間が、他人を使い捨ての物のように思ってしまう感覚という異常さというのは、多くの場所に蔓延してきた急激に短期間で広まってしまう感覚なのかも知れない。毎日新聞解説委員のコメンテーターが、(よく見る人なのだが、名前がわからなくなってしままった残念。次回思い出したい。)ワークシェアリングという方法もあるじゃないかと関口さん司会の番組で言っていたのは大きいと思う。ベーシック・インカム、ワークシェアリング、ワークライフバランス、在宅ワークなどの新しい考え方が必要だ。考え方は伝播する。だから、インターネット関連についての有識者の中にも、ネットは自由な場なのだから、酷い内容の発言もある程度容認されなければというような方向に語る人もいる。私自身、そういう考えの人のことをあまり知らないから、私のかろうじて知る範囲でこの人は、他の本などでインターネット社会のことをいろいろ教えてくれるし、すごい人で、公人なので、単純な非難中傷の意味ではなく、名前を出すが、佐々木俊尚さんみたいな、インターネット周辺を第一線で紹介してくれる人が、私の読んだ範囲内では、あまりネットでの誹謗中傷に対して、嫌悪感をストレートにされないようなイメージのところは非常に残念である。ネットが広まってから13年くらい経過するのだろうか。たしかウィンドウズ95が出るという当日頃に買いにいったと思うのだが、アイコンでインターネットなども操作できるという方法がとても新鮮に感じた。(ウィンドウズ3.1も使っていたので正確には3.1の時にそう感じたのだろう。)1995年頃から急速にインターネットでの発進が一般に普及していったと思うと13年だが、その間の、ネットでの公衆としての感覚というのは、匿名性というのも大きいが、なんなのだろうかと残念に思うようなことも多々生み出してきているのだと思う。ペルソナ。実名公表でなくても、ブログをずっと書いていたり、固定ハンドルネームを使い続けている人は人物特定のようなものだろうし、ペルソナというところから見れば、アバターというのや、セカンドライフのようなところは、第2の人生、第3の人生みたいな、新しい生き方の発想のヒントの場でもあるのだろう。人間が他人を抑えたり、少し衝撃的な発言では、あの時につぶしておけばよかったなどという発言が、冗談交じりに言われることがあるが、そうではなく、人間が他人とともに創造性を高められるような言葉の発信や交換の仕方、コミュニケーションの仕方がどうなされているだろうか。こういう面も、専門的に集中して考えてきた人がいて、その人たちの発言を受ければ、私もまた違う気づきを多く受けられるのかも知れないが、テレビや新聞などで、もっと身近に情報が取得できるような状態がもっと欲しいと思う。絵文字みたいなものも、インターネットが普及したばかりの頃は、もっと字だけだと、同じことを書いても正反対のイメージにとられてしまうことさえあり、工夫としてもっと考えられてきたのであるが、今はあまり聞かれなくなった。当たり前のこととして習慣化されてしまったからだろう。東京の汚れた川も当たり前に風物詩として見られている固定化されてしまった気づかれなくなってしまった習慣化。水がペットボトルで売り出された当時のほうが、衝撃を受けた人が今より多いだろう。それも一例である。もちろん、私もペットボトルの水は相当飲んできたが、家のそばに流れる川の水が直接の飲料として服用できなくなったまさに当時の人の衝撃の感覚というものが、水が汚くて当然としまった後に生まれた人の想像力がはたして生じることが出来るのだろうか。きっと私自身が、昔他の人が出来ていたこと、考えていたことをすっかり思い出せないというか、使うことなく人生を終えるという、方法や感性が概念がとても多いのかも知れない。なにが、誹謗中傷で、単に他人を傷つけてしまうだけのものなのか、なにが、構造が変化してしまったことによる反対意見や訴えなのか。それは微妙に交錯しているものなのかも知れないが、特定の人に、攻撃性をもってしまうのも不完全なことだろうと思う。格好悪いことなのだ。攻撃性をもった人が本当の悪人なのか?それともなんらかの欲求不満をその人にぶつけていじめているだけなのか。その違いを冷静に見られる、他者たちは多くならなければならない。スピリチュアルな本だと、敬遠する人もいる分野かも知れないが、「聖なる予言」ジェームズ・レッドフィールド(角川文庫ソフィア)に書かれた、脅迫者、尋問者、傍観者、被害者という、ペルソナの現実劇は、交流分析という方法などとともに多くのヒントを与えているものなのではないか。また、この今日の、派遣切りに代表される企業の考え方などの問題やその周辺には、池田勇人時代の所得倍増計画発進の頃の社会情勢の、それに対する賛成意見、反対意見のところなどにヒントが多く残されているのではないかと推測している。まだ調べていない。その当時の新聞や雑誌などに、その計画は豊かさを得られると同時に、なにか、失ってしまったり、問題を生じてしまうというような危機意識をもった意見もなされていたのではないだろうか。今生じている社会の構造も、だんだんと付け加えられてきたものだと思う。その付け加えられたものが発信された当初のほうが、構造化、習慣化なされる前なのだから、危機意識をもった反対意見や注意意見を感じることのできた人が多かったに違いない。裁判員制度についても3人の制度に参加するように通知のきた人が、なにかおかしい制度なのではないかと言う意見を掲げて表に立ったと新聞やテレビは伝えている。定額給付金は2月1日みたいだが、そのアイデアは、景気対策とするなら、これが今回は優先だったろうが、前に上地雄輔さんが日テレで言ったように、期限付きお金にすれば、エンデがゲゼルの考え方を紹介したという、腐る貨幣の考え方が付加されていたらということもたたき台をつくったし、保護政策として、持続すればベーシック・インカムにほとんど近い方法だったし、人は批判によってばら撒きと捉えたが、双方があと一歩進めば、どちらかへのモデルケースとして考えられるものでとても惜しい。野党が、今からでも定額給付金を辞めればという論者がいるが、それと反対に、定額給付金を今一歩アイデアを付加するという論者であって欲しかったと思う。ソクラテスは悪法も法なりと言ったらしいが、悪法は従ってはいけないだろう。ソクラテスの場合は、また違う意味あいがあったのかも知れないが、詳しくは私の勉強不足だが、法の方が、おかしなものもいっぱいあるのだと思うし、偉い人や強気に出ている人やお金をたくさんもっている人や、うまく社会に乗っている人たちのほうにも、法さえ守らなかったり、ごまかしている人さえ報道され続ける。ペルソナや固定観念について、もっと多くの気づきを得て、なにか改善できるようななにかが出来ればいいのだが。ブログはそんなに無力なものなのだろうか。でもなにか書かないと白紙で、白紙だと余計わからない。白紙というか、以心伝心というか、なにも書かなくても、幸福に過ごせている人はいる。そういう状態のほうが本当は良いのかも知れない。なにもなにか書くだけが発信ではなく、ブログは書いたりしない人が、家族や出会った人に、笑顔を交わした今朝の出来事のほうに、真実のようなところがあるのかも知れない。あれか、これかと、並列すべきところでもないところであろう。他人も自分も自然も楽しくなる方向に沿うものならば、みんな違ってみんないいという、金子みずずさんの残した詩の様なのだろう。人の個性の得意不得意が交流して、支えあえる中に、持続した安心感の中に浸っていたい。そのための一つとして具体性のある、ベーシック・インカムという概念も伝え続けたい。
2008.12.21
(10月20日のブログに反貧困大集会のリポートを書きました)(31日のブログにズームインで辛坊さんがBIに近い発想を述べられた記述しました)近所のMさんから、人の考え方は、同じこと言っても賛成する人半分と反対する人半分だよと考えたほうがいいよと言うようなことを教えてもらったが、このブログだって、自分という無力な人間であっても、なにか社会のもっとより良くしなければと思うところを書いてみたいと書き続けているが、今はまったくといっていいほど、実際の生活については書かないで、本やテレビからの感想などになったが、それはそれで良かったのかもしれない面もあるかも知れないが、私の場合、変人だなと思われてしまうようなことも書いてしまっていただろうから、でも、気持ちの落ちている人が、こんな変人でも頑張っているんだから、私も頑張ろうと思えるようなこともあったかも知れないし、特に、現在の生き方や状況が加わると、ネットというのは、頑張れといってくれる人がいて勇気づけられると同時に、誹謗中傷をして、人の心を傷つけるということを書いてしまう人もいる。ユング心理学はあまり勉強していないので勘違いしているかも知れないが、ペルソナというのか、人は、どういう状況で生きているかということにも他人に対して、固定観念を持ってしまい、その固定観念の中で相手をイメージしてしまい、そのイメージで対応しようとする。「交流分析」という、分析方法があるらしいが、学校や職場のいじめ、そして匿名性のネットでの誹謗中傷がなぜ起きてしまうのかということなどは、そういうペルソナという考え方などからの思索と、解決策を考えるための道筋ももっと考えられなければならないだろうし、それが日々生活している人たちの間まで改善策が浸透しなければいけないのではないか。自分が今気がつかない分野や状況においても、相手への固定観念、ペルソナをかぶせてしまう、またはそれは気づけなくなってしまっていると思えるほどに自分にかぶせてしまっているのかも知れないが、なかなか固定させてしまった人間関係というのは、同じパターンから抜け出せなくなるものである。一方、そのために、秩序が構成される場合もある。若者の生意気さや暴力性というのも、破壊からの再生というのが本来の願望なのかも知れないのだが、シュンペンターのイノベーションというのは、「創造的破壊」と訳されていると思う。破壊でも、創造がついている破壊という訳である。創造できる破壊でないといけない。他人を傷つけることは創造的ではない。創造とは、他人を幸福にすることから自分も幸福になれることである。だから、創造的破壊という感覚を身につけなければならない。発想の転換というのも、その一つだろう。お笑いというのも、固定観念を崩してみるところからの意外性を言うのだろう。相方をむやみに叩いたり、日常見られないような動きをし続けることは笑いの本質では無いのだろう。本質のお笑いに向かうまでの過渡期に考えられたパフォーマンスは含まれているところがあるので、観客が笑うのかも知れないし、破壊そのものは多少含まれているところから観客が捉えるのだろうか。そういうお笑いも、なんだかんだ言っても見てしまうのだが、相方をむやみに叩くのや、変な動きという笑いにも、なにか疑問を感じるところがあるし、変な動きをしている笑いにもなにか面白い創造性のある動きを感じることもある。賛成反対というはっきりした感覚ではなく、その間にあるところの感じ方を思う。
2008.12.21
(10月20日のブログに反貧困大集会のリポートを書きました)(31日のブログにズームインで辛坊さんがBIに近い発想を述べられた記述しました)言葉へのイメージは、人と人が同じ様に共有されている割合の多い場合もあるし、まったく違うと言ってもいいほど人によって違って捉えている場合もあるのではないかと思うのだが、「快楽」という言葉については、欲望の追求という感覚を多く含んでいるイメージで捉えている人も多いような気がする。それは苦痛よりは良いだろうと思うのは当然なことだろうと思うが、バブル世代と言われる世代に属している私だが、世代によっても、その言葉から多くイメージされるような「快楽的?」な体験をしてきた人ばかりでは無い。それが良い悪いと問うているわけではないが、私自身はどの時期がバブルでどの時期がバブルで無いかということでは、あまり違いの無いような進み方をしてしまった。ジュリアナ東京という踊り場があったそうだが、そういうところに1度でも行ってみるような体験でもあれば、今の自分のような人間では無く、もっと積極性のある人生になっていたのかも知れない。しかし、性格というところからなのか、多分、私が行ってみたとしても早いうちに、興味を失ってしまうか早く帰りたいと思ってしまうような気がする。アタラクシアという、エピクロス派の「快楽」という感覚があるらしい。それを「快楽」という訳語に結び付けられるのか、また「快楽」という2文字の漢字のイメージが繰り返すが、人それぞれの捉え方に違いはあるだろう。私自身が、「快楽」という2文字の意味あいに捉えたいのは、エピクロス派のアタラクシアに相当するのではないかと思われるような状態である。「安心感」と言うのが近いのだろう。ほっとしている状態。ほっとしていられる状況。穏やかな生き方の出来ている状態。それは未来に向かってもそうである。エピクロス派の享楽主義というのか、その「享楽」という漢字にも人それぞれのイメージがあるだろうが、エピクロス派の「快楽」のおそらくの当時の本質から、それが誤解されて、それは、派手な消費を多くすることからの短絡的な商業主義的なものの絡んだようなイメージとしてしまっている人もいるかも知れない。伝言ゲームのように、人によって違う解釈や、間違えた解釈や、正反対の解釈までしてしまう人がいるということである。
2008.12.21
(10月20日のブログに反貧困大集会のリポートを書きました)(31日のブログにズームインで辛坊さんがBIに近い発想を述べられた記述しました)記録しておかないと忘れてしまうことだということと、自分自身にはよくわかってないが、それが意味があるのか無いのかさえわからないが、誰かにとってはヒントになるかも知れないなどと考えて。『経済学をめぐる巨匠』小室直樹(ダイヤモンド社)にて、パースンズという人が、パレート、フロイト、デュルケム、ヴェーバーを四大社会学者としたと書かれているが、ジンメルを無視したとも書かれていて、なぜジンメルを無視したのだろうか。わかる人はわかるだろうし、質問掲示板などで問い合わせれば解答が返ってくるかも知れないなど、調べる方法はあるだろうが、そのままにしておく。このことが、私にとって、何を意味しているか、いないか。テレビで辛坊さんの番組に出ていた、長年村長か町長かを勤めた人が、パースンズの役人さんのなにかの理論について語っていたと思うが、共時性が生じていたのだろうか。しかし、それが共時性としてなんらかの意味を投げかけていたと考えようとしても、それを調べる気持ちや力が私に今沸いてこない。でも記録しておく。小室先生は、たしか、ケインズやマルクスどころではないくらいと、ヴェーバーの思想の段違いのすごさを書かれているが、この時点で私はヴェーバーも直感的に過ぎないがあまり興味が無いような気がする。私のキャパシティーが狭いか無いということだ。私はこれから数学を理解しようという気力が無いし、私にはどうしようも無いだろうが、ワルラスが、「一つの経済現象は、他の総ての経済現象に依存する」という「相互連関」を、数式化したことで、使える経済学になったと書かれているが、全てが関連しているということは、華厳経の事事無礙法界ということも、何を言っているのか私は理解していないのだが、なにか繋がっていることなのだろうか。これも理解していないことなのだが、複雑系といかいう科学も、そういうことを数式化していることなのだろうか。全ての現象は数式化してしまうのか。公表されている文章というのは、まったく理解してないのに、単語だけ知っているから書くということは少ないだろうが、勘違いだとしても、なにか違うことでなにかあるかも知れないし、単なるメモではまったく埋もれてしまうだろうから、理解している人には、勘違いだよとか、笑われるだけの人のいるかも知れないが、小室さんが、最後に選んでいる、川島武宣さんの章での、私的所有権がわかっていることが、資本主義が成り立つ基本だということが、わかっていないための混乱。ということも、わかっているようで、わかっていないというのは、小室さんが例にとられているように、偉い官僚でも、不正行為などで逮捕されてしまうようなところにもあるということかと思った。私的所有権ということもあるが、他人のものか自分のものかはっきりしないという人と人との感覚がずれてしまっていると、こんがらがってしまうようなことが起きてしまう。借りたものなのに、自分のものだと思ってしまうなどということも、今事例を出せないが日々で生じてしまっていることだろうし、私もそういうことに巻き込まれてもきたことがあると思う。小室さんが、森嶋通夫さんの『思想の近代経済学』(岩波新書)が良い本だと書かれていた。理論経済学のような学問を、10代にはマスターしていき、30代までに国の指導をしたり、学校で指導するような人の頭脳を私は持つことが出来なかったので、そういう人のことがどういう思考回路を持つのかわからない。自分のできる範囲のことをしていくしかない。でも昨日書いたように、プリミティブに考えてもいいんだよと発言してくれる学者さんの言葉は気持ちが良くなる。理解の仕方は様々な方法があるとも思えるし、またそうでなくては本当はならないのだと思うからである。専門や技能がある人が鼻高くなって傲慢になってしまうことは、いけないことだと思う。無知による傲慢というのもあるかも知れない。私的所有権がわからないからなのか、わざとなのか、モラルが喪失しているのかもわからない。より良く正しく生きるのはという抽象的な感受性を持ちたいと希望し続けることとしか言えない。その感受性はどう培い、維持できるものなのだろうか。『「気」の本質を読む』」飛岡健(KAWADE夢新書)の中に、「たしかに日本人は悲観論が好きで、他人の成功に嫉妬し、ねたむといった、水田耕作型の農耕民族としての村落共同体での生活から生まれる気分が支配している事実は否めない。週刊誌等も、どちらかといえば悲観的なセンセーショナルリズムの記事の内容のほうが売れ行きは伸びる傾向にあるようだ。しかし、そうした状況からの脱出こそが『新しい日本の運動』には不可欠なのである。」「日本人に自信を回復させるように報道すべきであるし、政府をはじめ日本のリーダーは啓蒙するべきなのである。まさにそうした気運が、国家全体の気運となったとき、日本経済は再び強い活動を回復する」と書かれている。農村にはさっぱりした気性の人も多いし、嫉妬やねたみばかりではないのだが、嫉妬やねたみというものの分析、研究と通知はもっと多くの人が克服できるようにもっていけるまでなされて欲しいと思う。麻生総理は、とてつもない日本。明るく強い日本と言っているし、アラジンががんばれニッポン頭の良い国の日本だと、紅白でも歌うのであろうが、私自信がまず元気な気持ちを持てるかどうかであろうし、正しく考えられて生きられているかということの姿勢も、小室さんが書かれていたように、ヴェーバーの書かれた資本主義者のための精神ということの読み方というところにも関係しているのだろうと思いたい。しかし、気持ちも購買意欲という面からはわかりやすいが、物となるための創造力というものが、気持ちとどこまでリンクしているのか、加工のための勉強意欲が無ければマスターは出来ないだろうことは理解できると思うが、出来る人と出来ない人に分かれるということも、個性ということや運命ということもあるだろうし、なにか自分にとってのほとんど気づきをしていないところだと思う。飛岡さんは、マズローの「価値欲求五段階次」についても続けて書かれている。「衣食足りて礼節を知る」ということにも繋がるだろうし、茂木健一郎さんが、脳科学の面からも、安全が保障されているところに創造性が生じるとも言われていた。危機も創造性を生み出すが、死んでしまってまで創造することは無理なのだから、最低限度の生活保障が存在していたほうが、より良い社会になるのだと信じたい。自然の気もあれば、人間の気もあるという話も面白い。脳の皮質が、動物の脳に、大脳新皮質がかぶさっていたり、気とは、クオークとの関連がなにやらということも書いてあったと思うし、住環境についても書かれて、「通風」「排水」というキーワードがあったが、経済にも、風通しが大事なのだろうし、「気分」「和気」「景気」などという言葉も思い浮かんだ。「気」について、幅広いところから考え出すきっかけとなる本を著者は目指した。
2008.12.20
(10月20日のブログに反貧困大集会のリポートを書きました)(31日のブログにズームインで辛坊さんがBIに近い発想を述べられた記述しました)堀江貴文氏が、12月15日のアメーバブログで、ベーシック・インカムが実現したら面白いだろうというコメントを書かれている。山崎元さんのブログがリンクされてある。堀江氏のブログにコメントする人も賛否両論で、否定する人の中には辛らつな意見もあるが、賛成の意見にもとても冷静な意見が書かれていた。有名な人がベーシック・インカムについて発言すれば、多くの人がその存在を知ることになるだろう。『経済学をめぐる巨匠たち』小室直樹(ダイヤモンド社)をマルクスのところまで読んだが、わかりやすくて良い本だ。古典派の経済学とケインズ派の経済学に大別されていて、それはセイの法則という、ものを造れば全部売れるという基準に沿っていれば古典派で、そうはいかないとするのがケインズ派だという捉え方で、自分のような素人は十分なのではないだろうか。インターネット関連などの、新しいものが出来て、どんどん関連製品が広がる状態だと古典派でいけるのだろうが、現在の不況もそうだが、やはり、需要が無くなる状態はあって、ケインズ派のような、国や自治体からのお金のフォローや雇用創出などが無いと、どうにもならないだろうとしか見えないと思うのだが。経済学者や政治家の中で、最底辺の生活に苦しむ人の救済を最優先とする思想や政策を持っている人は誰なのだろう。一番最底辺の人が助かる状態ならば、それより助かっている人は、助からないはずはないからである。ベーシック・インカムが実現したら、家族や好きな人とで、自給自足的なイメージの暮らし方をする人が増加するのではないかと思うし、そういうイメージにもっていく誘導がなされれば良いのではないかと思う。農的な生活方式とリンクするようになれば、大昔からそういう時間のほうが長かったはずなのだから。
2008.12.18
(10月20日のブログに反貧困大集会のリポートを書きました)(31日のブログにズームインで辛坊さんがBIに近い発想を述べられた記述しました)テレビのニュースから、35歳の人が無職になり、コンビ二強盗をしてしまい、自首して逮捕されたとの事である。事件を起こす2日前から水だけを飲んで暮らすことになっていたと言い、アパート代金が払えず滞納していたことから、追い出されることの恐怖によってしてしまったということであった。近所の人に聞くと、そういう犯罪をするような人では無いと言われ、よほど追い詰められてしまったのだろうという話があった。例えば、1年間で500万円稼げる人と、1年間で100万円の収入の人では、同じ1年間に働く場所があったとしても、貯金できる量が違ってしまうわけである。その視点からも見るべきである。橘木先生の『失業克服の経済学』は大事なことを多く言われている本だが、ワーキング・プア状態の人の視点からの考察がこの本ではなされていないところが残念だった。自発的失業ということも、職場の悪条件ということからも生じることなのである。湯浅誠さんの『反貧困』(岩波新書)にも書かれていたが、ホームレスになってしまうことの恐怖から、食い逃げをして自首して逮捕され、刑務所で過ごすことで助かったと思ってしまう人が出てしまっているのだと言う。これは、元々のセーフティーネットが不完全、もしくは方法が浸透されていないことから生じてしまっている悲劇だと思う。犯罪は他人に迷惑や恐怖心を与えることで、それはやってはいけないことだが、お金が無くて困って食い逃げなどの犯罪をした人を、取り締まることに、勧善懲悪な思考までで止めてしまうと、不完全な構造という元凶を見失ってしまう。文学やドラマでは、やっていけないことに、変な心理ドラマをくっつけて、わけをわからなくしているサスペンスなどもあるところが、問題を複雑にしてしまっているところもあると思うが、この不完全なセーフティーネットから、生じてしまう事件については、構造から生じた罪の面もあることを、社会構造からの罪も考えるべきことは、傍観者、無関心からの、共犯が隠されていることを、一緒に反省しなければならないのかも知れない。そうしないと、改善していかない。60年か70年前の大恐慌では、世界中が戦争にまでなってしまったが、人類が学習し、より良くなるものならば、今回の大不況は、平和のうちに修正されなければならないところだ。ずいぶん、ホームレスやネットカフェ難民にまでなってしまった人が、我慢してくれてきて、酷い事件なども起こさずに、おにぎり一個食べたいと書いて餓死した人までいるのである。そういうところまで追い込まれた人を、見殺しにしてしまってきたのは、こんなことを言いたくはないし、自分もその一人で、何もすることが出来ないし、非難されることになってしまうのだろうが、それは全国民と言っても過言ではないはずなのだ。なにか、正義ということや、モラルという意味あいが、違う捉え方をされてしまっていることからの逆からの閉塞を生じさせているところがあるのではないか。なにか、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』みたいな物語を思い出してしまう。私が総理大臣や大統領などになることは、この一生でもうあり得ないと思う。思うんじゃなくて、あり得ないと断言する。しかし、ベーシック・インカムを宣言、立法できる立場になれなかったということはとても残念に思う。それは、私の根本的な能力不足、人力の不足からである。努力能力の不足からである。だから、誰かが、政治家やテレビなどで発言が多く流れる人が、ベーシック・インカムと宣言してくれることを願っている。それしかないのである。今より多くの人がお金に生命さえ左右されることなく、安心した基盤を持つ上で、創造性を発揮できる社会を夢見たいから何度も同じことを書き続けている。「仲良きことは美しきかな」である。今よりそうなりやすい方法だろうと思うから書き続けている。新しい方法が生じないと社会も歴史も新たに歩み始めないだろう。なんのために、新たな時代に生まれてきたのだろうか。ベーシック・インカムという言葉が、家族や友人の間からも少しずつでも、口コミで認識が広がって行くこともとても大切なことだ。私だけでは、家族や知人にベーシック・インカムを伝えてきても、実現までのスピードはとても足りない。ふがいない。これ以上どうやって認識してもらえるのかわからない。広報告知力の莫大にある人が、ベーシック・インカムを認識し続けてくれることを、そういう人が現れることを、期待して、願うしかないのである。できれば日本人からそういう大スターというか、救世主が出て欲しいが、違う国の人からかも知れない。とにかく期待するしかない。願うしかない。最低限度のセーフティーネットさえあったなら、どれだけの人が助かっていただろうか。なぜ、その仕組みを取り入れることが今まで出来ていないのだろうか。もし、ベーシック・インカムが存在していれば、35歳の人はコンビ二強盗をすることなく、ベーシック・インカムの範囲内でやりくり出来ていた人だろうと推測する。まったく収入が無い状態では、持っているお金は減る一方になってしまう。生活基本給というか、生活維持の最低限度に必要なお金まで、労働とリンクして考えられていることの伝統が、問題解決できない状況を生じさせてしまっているのだと思う。伝統的に考えると、おかしいと非難されてしまう人も多いことだろうが、ベーシック・インカムが設定してあれば、起きなかった犯罪というのもあるはずだと予想されるのである。時代が途上で生まれて生活してきた場合、今無いことを想像して了解することに、なんらかの抵抗感を生じてしまう人が多々いるが、今普通だと考えていることでも、もしそうで無かったら、違う考え方を持ってしまっているということもきっと何かであることだと思う。犯罪を起こすことなく、餓死までしてしまった人さえいるし、社会福祉事務所の前で抗議の自殺をした人までいるのだという。人間の生命のほうが、お金より大事なのは、当然なのではないのか。人間の生命のほうが、お金と労働がリンクしているという考えかたより大事なのではないのか。もっと分かりやすく、簡単にほかの人たちに伝えたいが、そういうことで怠けたいだけなんだろうとか、違うところで話をずらしてしまう批判者が出てしまう。勉強だって、仕事だって、自発的に何かをしたいという心と一致している行為ならば素晴らしいと思う。元々不満であったのに、やっている行為の中に含まれている人は、違うところで他人を攻撃してしまったりしてしまう。そういう精神分析的な面と、お金と労働を切り離して考えることが出来る思考力を得ることが出来た上で、そこから、人間の生き方、行為の仕方、他者への関係などの、スタートが最初から為されていた社会だったならと、不完全なセーフティーネットと、固定観念化された中にいるのだということを感じさせられるニュースである。ひろさちやさんが監修の、仏教コミックスの『宇宙のお経 華厳経』には、財善童子が教えられたことは、まず最初が、「優れた師匠を見つけること」そして教えを受けることだと言うのである。それが幸福の一歩だと思う。しかし、師匠に会えず、間違って他人を傷つけてしまう人が、自学自習して、その間違いに気づき、良い道を歩みだし、他人のために尽くすようになるのはどういう可能性があるのだろうかとも思いたい。どこかに、良い情報があれば、他人のために尽くそうと思えるようになる、改心できるようになる情報が流れていれば。そうでなければ、他からの良い情報が流れていなければ、気づくのは難しいのだと思う。同じく『観音さま』という号も、人は元々観音様だったが、他人を助けるために人間に変化して、そのことを忘れてしまっているが、助け合いによって、観音様だったことが気づくことなく為されているというようなことが書かれていて、科学主義が大きくなってしまっていると、そういう考え方が変ではないかと考えてしまうことがあるのかも知れないが、それはまた別の次元のことで、そう考えて、またはそう思い込んでいるほうが、素晴らしいことなのだと思うし、また何かの隠喩であると捉えられたならばまったく正しいことなのかも知れない。図書館で借りて、読売ウイークリーの最終号とその前の号をざっと見た。茂木健一郎さんの特集が続いていると、ブログで見ていて、読みたかったので、図書館にあって良かった。茂木さんが、脳は楽観的に考えないと機能しないのだと書かれていて、そのため、根拠の無くても自信を持つことが必要だと書かれていた。明るく考え、他人と仲良くしていくということが根底にあることがまず、社会のためになっているということである。希望は持ち続けるべきであり、人間を信頼することから始まるのである。
2008.12.17
(10月20日のブログに反貧困大集会のリポートを書きました)(31日のブログにズームインで辛坊さんがBIに近い発想を述べられた記述しました)今朝の毎日新聞の中畑流万能川柳にて、甲府市の甲斐犬柴子さんの、給付金 毎月ならば大賛成という万能川柳が掲載されていた。これは、ベーシック・インカムのことであるから、もし、どこかの政党が、ベーシック・インカムを公約に掲げれば、国民も理解して賛同すると思いたいのだが。労働は尊いものだが、あまりに労働と生活賃金を重ね合わせて見てしまう習性を、いつの間にか浸透させた考え方になってしまったばかりに、働かざるもの食うべからずというような、働いていない人は死ぬしかないだろうというような、間違えた考え方になっている人もいるはずである。(図書館から借りていたが、ほとんど読解できなかったが、ボードリヤールの「象徴交換と死」という本の中に、働くこととお金を得ることのほうが、他人の気持ちや生命より大切になってしまうという倒錯について書かれた箇所があったような気がする)その証拠が、ホームレスや経済苦による自殺者が相当の数出続けているということである。戦争は反対というのは正しいし、それはストレートに語られるが、生活維持のためのお金が赤字になってしまい、苦しい人を見殺しにしてしまっているというところでは、政治家ばかり非難するのはおかしい。語られないが、他人の無関心という罪がこういう情勢を生んでしまっているのだ。私もその一人である・・・。とにかく、力のある政治家か、官僚か、誰かがベーシック・インカムを強力に押し出してくれないと、なにも動かないと思う。おっぱっぴーとかグーとかいう言葉は、人を喜ばせるが、誰か、テレビに頻繁に出るような人がベーシック・インカムを語ってくれれば、動く可能性が出てくると思うのだが。とにかくこのブログでは微力の中の微力だとしても、ベーシック・インカムという言葉を増やして行く。今回のタイミングでは、私の能力不足でほとんどざっと目を通すだけになってしまった本もあった。「フィロソフィア・ヤポニカ」「仏教の根底にあるもの」「セレンディピティー・マシン」など、ほとんど眺めるだけで過ぎてしまった。創造性とはなぜ人によって出る人と出ない人があったり、違うところで為されたりするのだろう。読めたと思った本が読めてなくて、読めなかったと思う本が読めていたということもあるかも知れないし、全ての読もうとした本に対して理解力が無かったりしているのかも知れない。しかし、「失業克服の経済学」橘木俊詔(岩波書店)は、わかりやすく書いてくれているということもあるのだろうが、不況からの需要の不足についても失業の根本のひとつだとはかかれていると思うが、「雇用のミスマッチ」を重視しているところはとても共感する。誰だって、得手不得手の分野があって、うまの合うような仲間の場所があって、どこでも誰でも合うわけではない。なんらかのすみわけのある習性についてまで考慮に入れることが必要だと思う。必読書と思えるくらい良著だと思うが、ただ、橘木さんが、自発的失業と、非自発的失業では、自発的失業にはモラルハザードが生じることもあるから、非自発的失業の失業給付に重きを置くほうが良いと書かれているところについては、私は良い意見だとは思わない。そもそも、日本の失業手当は、前提からして寒いと橘木さんも書いていたように思うのだが。橘木さんの本では、オーストラリア、ベルギー、ニュージーランドは、就職できるまで、無制限に失業手当が支給されているらしい。このような政策なら、今の日本の派遣問題も違った状況になっていたかも知れない。しかし、このように「失業克服の経済学」というような、失業について考えてくれる学者さんが、本を出してくれていることに感謝する。考えるためのテキストがあると、まったくないのよりもずいぶんと考えやすい。2002年に出た本だが、6年たってしまっているが、こういう本をテキストに考える場が多く出来て欲しい。「象徴交換と死」がもっと理解できれば、ヒントになることが書いてあったのだと思うが、労働という管理されたイメージの中で人生を多く過ごすのでは無く、「なにかやってみたいな。やってみようか。一緒にやろうか」「そうだね」とか、「ちょっと手伝ってよ」「いいよ」みたいな流れの延長が敷衍していって、行為するうちに人生を経過させることができるというようなイメージの社会であるなら、学歴や能力技術、競争の差異によって、他人を上下に見てしまうような不自然さが為されない雰囲気になるのではないのだろうか。また、儒教のような、上を敬うというような感覚は大切なものだと思うが、学歴、能力技術、競争の差異などによることの上下からの影響が年齢差の自然なコミュニケーションを妨げてしまう感覚を持ってしまう人を生んでしまうということの不安定さも多々あるような気がする。派遣社員切りを、派遣社員が大企業の上層部に交渉するという、力ある行動がなされているが、そこの正社員はリストラの対象の派遣社員の人たちをどう思っていることだろう。正社員の人たちが自分たちだけ助かればと考えているようだと、企業という方法は非人間的な気もする。橘木先生は、オランダなどが達成した、ワークシェアリングを改善策のひとつにあげていて詳しく説明されている。自分たちだけ助かろうとする国民性だとしたら、ほかの国の、オランダのワークシェアリング経験者に、この日本の現在の派遣切りやリストラの状況を聞いてみたら、どう答えるだろう。お金に困っていない、日本人の政治家やテレビのコメンテーターよりも、心に伝わるようなことを答えてくれるような気がする。インターネット関係の人たちの中で、なにか、最低限度のセーフティーネットが為されるような発明は出ないだろうか。そういうことの出来る人たちがいるところのような気がして、期待している。創造性とはどうすれば生じるのだろう。ものづくりを超えた創造性もあると思う。ものづくりだと、ものづくりができる能力や努力を持てる人なら良いが、そうでない人が排除されてしまうからだ。ベーシック・インカムがあって、消費というところで創造するところから生産に向かうという行きかたに向かう人もいるほうが良いように思う。例えば、最初は生産をせず、ある飲み屋に何度も通うだけだった人が、何度も通ううちに、店のマスターに言われて、店を手伝うなどして、料理を覚えていき、マスターの代わりに作れるようになっていくというような。昔は、農業などは、祖先から祖父母、父母につられて、田畑に出ているうちに、自然に、行為を受け継いで生きていけたのだろう。昔のほうが、今よりも貨幣量が無かっただろうにも関わらず、生活していけたということが、もっと全国民をあげて考慮されるべきことのひとつであるようにも思う。
2008.12.16
(10月20日のブログに反貧困大集会のリポートを書きました)(31日のブログにズームインで辛坊さんがBIに近い発想を述べられた記述しました)朝から雨である。今朝の毎日新聞を読んで、気になったところを書く。「ニッポン密着」というシリーズで、「生活保護を対象にしたビジネスに関する情報や体験」を募集していて、立上修記者や、山本将克記者が、東京都に住んでいた生活保護者の住むところが東京に無く、茨城の介護業者が仲介してビジネスの形で生活保護者に関わっている話が書かれている。湯浅誠さんの『反貧困』が、大佛次郎論壇賞に決まったという記事もあったが、あれだけ大切なことが書かれている本が評価されたことは重要だと思う。湯浅さんの言われる、「貯め」という、例えば、東京で仕事に失敗しても、帰る故郷があったなどの昔の血縁や地縁などによる保護がだんだん消滅してきて、お金そのものが保護されるものの唯一のものという人が増えてきて、そういう人がお金に失敗すると、保護の受け皿が無く、ホームレスや自殺にまで追い込まれてしまうという時代構造にしてしまった今の日本である。そういう構造の中で、新たな受け皿とは何なのかが、新しく起きた出来事だけに判断に迷うことになる。湯浅さんが、「貧困ビジネス」と言い、生活困窮者から巧妙にお金を搾取する商売があるのだということだが、生活困窮者が安心できるような、保護のできる受け皿がはっきり存在して欲しいものである。ベーシック・インカムが実現していたら、生活保護に関わる諸々の問題点を克服できているというか、元々が問題が生じないという面が多々あると思うのだが、今、生活保護というのは、最後の砦だと形容されるくらい、セーフティーネットとして大事なところである。しかし、社会福祉事務所が、生活保護に壁を作り、以前北九州の人が、生活保護を受給させてもらえず、おにぎりが食べたいと書き残し餓死したというニュースを思い出す。そのことが忘れられず、反貧困ネットワークの支部に携わったという人のスピーチを10月20日の大集会で聞いた。また不完全なセーフティーネットは、詐欺や盗みなどの犯罪も生じさせてしまっている。ベーシック・インカムが実現していれば、多くの人で犯罪をしなくて済んだ人を生むのではなかっただろうか。高齢で居場所が無く、ホームレスになり凍え死ぬ恐怖から、パンをひとつ食い逃げして、捕まって、わざと刑務所に入るという事例さえあり、もっと生活保護をはじめとするセーフティーネットが良い意味で緩いというか、もらいやすい仕組みになっていれば、犯罪で刑務所にいかず、保護されたのではないだろうか。犯罪者となり、刑務所で働くなら、セーフティーネットを支給して、条件として、その人が出来る範囲での労務をしてもらうなら、その人はしたくもない食い逃げをしなくて済んだかも知れない。住宅も車同様、日本の豊かさをひっぱってきたひとつだと思うが、世界不況の発端といわれている、サブプライムローン問題も、住宅という、人が住むところからの問題であり、ホームレスもその問題のひとつであり、住むところの有無の問題が大きい。それは昔の今よりも貧しくても共同体があり、多くが貧しかったための協力と安心感が今よりも存在していたことにも通じて、今は、個人個人、家庭家庭が断絶していて、仲介してくれるもの、保護してくれるものが、人間関係では無く、お金になってしまってきたところにも問題が生じてしまった。貧しくても仲間と助け合える安心感のある人にとっては、生きる自信は強いと思う。しかし、長期ひきこもってしまった人などは、親が健在で保護してくれているうちは良いが、やがて家族中が年老いてしまうと、保護というか、助けてくれる先を見つけなければならなくなる、しかし、その受け入れ先が無いということが大問題となる。お金が先なのでは無く、助け合える仲間がいるかどうかが根本的なところである。人と人に信頼があるかどうかである。だから、派遣社員を軽い気持ちでリストラしてしまうような関係というのは、仲間意識や信頼関係が持てないとも言える。ネット社会や学校や職場でも生じているいじめ問題なども信頼の欠如を生み出す。受け入れ先がどこまでもあるならば、また違う意味で、派遣という状態が、浅田彰さんが1980年代ころに紹介したスキゾフレニーな生き方という時代の雰囲気も編み出せたのかも知れないが、そういう生き方をしてしまった人と、出来ずに悲劇になってしまった人を生み出してしまうような、経営者側の人を人とも思わないような使い捨てに考えるような場所だらけになってしまっている場合も仮定すると、軽やかに逃走することが出来ない現実を生じさせてしまっている。むしろ、雇用された側が、なにか違うと思えたら、軽やかに所属先を移動できるような社会も憧れのある社会構造のような気がずっとして来ているのだが、現実はそういう場所にならずに、お金を介した貧困という状況に追いやられる。大企業に長年勤務して、大量の貯金があり、そういう人がなんらかの技量、技術を持っていた場合、スキゾな生き方を成り立たせることが出来ている人もいるのではないかと思うが、ワーキング・プアから抜け出せなくなってしまっている人を生み出してしまうような方向に、派遣などの新業態が使われてしまった。だから、専門技術を持つ人だけが派遣できるような法律に改正すればという意見も聞いた。しかし、専門技術を持たない労働をしてきた人も、変身をしてみたいという人もいるはずだ。一方、ずっと同じ職場で同じ仕事をして行きたいという人もいるはずだ。その違いも、どちらの希望も考慮できる方法とはいったいなんだろう。昔は、農業共同体があり、家族で生産と消費を一括していた場合が多かったと思う。ゲゼルシャフトに適応することがやりやすいタイプか、そうでないタイプかということもあると思う。学校でも部活とか意気揚々と参加できる人と、学校でいじめにあったりしてしまう人は大きく、学校という場所との関係の得手不得手が違っている。もう一歩多様化していないから生じる問題だともいえる。エジソンは、学校になじめず、家庭教師の教育で、発明王となった伝記も多く読まれたと思う。農業共同体的なイメージの方法と、在宅ワークというもののリンクなど。現在の状態は、ネットで流れてくる情報も、吟味選択しないと、怪しいような在宅ワークの情報が多く流れてしまっているような感じを受ける。ハローワークでも、どんどん安心感のある、在宅ワークの紹介が、ひとつの分野として生じるような社会になれば、企業組織などの団体組織になじめない人にとっても救いのひとつとなるのだろうが。ネット株や、アフィリエイトなど、自分で切り開く在宅ワーカーは起業的で良いが、多くの人はそこまで出来ない人が多く、それで、働きに出て、指示に従い、労働する人も多いだろうが、指示する人に恵まれれば楽しい職場となるだろうが、罵声やパワーハラスメントなどが飛び交うような場所が存在するのもその通りである。私も体験した。家族や気心の知れた間での喧嘩もあるが、ゲゼルシャフトの場合、特に、相手は気心が知れたと思っているのに、相手はそうでない場合のアンバランスが生じていたりする。そういう問題もかなり多いのではないだろうか。28面では、山崎理絵記者が、「生きる光」をというタイトルの連載をしたが、副題が「自殺者3万人の時代に」ということで、自殺に追い込まれてしまうような、社会構造、仕事があっても、職場の人間関係、仕事の緊迫感、仕事がないと、生活苦というような話題が連載された。社会保険労務士や行政書士、弁護士など、企業や個人の間を縫ってくれるようなイメージの職業が実際にあるけれども、ほかに、ネーミングは直接的なので、違う呼び名のほうがいいかも知れないが、企業の人間関係にアドバイスを出来るような、「自殺予防士」みたいなイメージの立場で行動できる人がいたらどうなのかとも思う。経営コンサルタントは、社長への経営アドバイスという感じがするし、カウンセラーや精神科医は、器質的な病理を治療するとイメージがあって、職場の人間関係を綿密に調整したりするような意味あいは無いように思う。効率主義で近頃少なくしてしまったのかも知れないが、庶務という係りのイメージとか、保健室の先生のような、人間の気持ちや、人間と人間との間の仲裁、仲介をしてくれるようなイメージの調整役のような立場がもっとあっても良いように思うのだが。昔は今より、はっきりした立場を打ち出さなくても、そういう感覚を持った人がいたり、交互にそういう立場になったり出来ていたのだろう。家族産業で成り立つ場所が多ければ、引きこもりなどは元々無く、手伝い気分で生きられているうちに、気づけば、経営のようになっていたという自然な流れを持つ生き方もあったのではなかったのだろうか。人そのもののDNA的なイメージの能力不足では無く、職種のほうの多様性の欠如が、停滞を生み出していると考えたほうが改善の実現性が高いのではないかと思う。生産消費者のような、知らず知らずのうちに、生活を続けようとしているうちに、消費の中に生産も含まれていてしまうということも、科学技術の企業も発明してもらえないだろうかという希望もある。フジテレビ「新報道2001」では、ブログでこうしてお世話になっているが、元楽天の重役のエリートが、ドーナツ屋さん経営に転換した紹介をしていて、コメンテーターの茂木健一郎さんが、これからはITから、食のほうに注目が移る時代かな、食べないと生きられないからというような発言をされた。食の加工のほうから、農業のほうに目が向けられると、周囲からの構造が変わっていくのだろうかと期待して行きたい。金融経済に携わってきた人たちが、莫大な給与を得て、農業をしてきた人が、窮乏し、職業転換してきてしあった時代の流れにあるのだが、実質経済とはなにかというと、食べることがまずはじめに行き着く。工業科学技術立国と言ってきて、豊かさを実現してきたが、急に窮地に追い込まれてきてしまうのも、工業分野なのが、今ニュースで報道されている。ものづくりといいながら、深層では、お金を自分のところに、という感覚がなされてきてしまったのかも知れない。アダムスミスも、まず農業基盤があってこその、工業や商業だと述べていたというのである。そして、お金は交換の道具に過ぎなかったのであり、家族や仲間と仲良く喧嘩もたまにはしながら、信頼しあって、農業を中心に生産と消費を行っていた時代のほうが長かったのではないかと思うのだが。
2008.12.14
(10月20日のブログに反貧困大集会のリポートを書きました)(31日のブログにズームインで辛坊さんがBIに近い発想を述べられた記述しました)私自身は、創造力がどうしても生み出せない位に、行き詰ってしまった状態の人でも、その停滞状況を抜け出せる時期がやってくるまで(その時期というのも不思議なことだが)生活危機からはなんとか脱していられる状態、生活維持のための最低限度のセーフティーネットが確立されている社会構造にはじめからなっていることが、現状社会よりもより良い社会構造と言えるのではないかという気持ちははっきり言える。現状は、それは遠い昔から克服されてこないままに、今も過ぎていくばかりのことだが、市場社会の方法が大部分を占めていて、市場社会の方法は、企業などの利益や資本の蓄積を目的とする組織が、内部構成員の能力や技能、技量、内部での教育授与によって、製品やサービスという物事に転化された力を、お金という力のあると共同で了解されたものに、繰り返すが、利益や蓄積という形で、保持していくことで、内部構成員にその部分を配分するところから、内部構成員が生活維持していくという方法がとられている。その方法では、製品やサービスがスムースに供給されている状態や時期や、その内部構成員にとってはとても都合の良い方法であるが、その方法は、内部構成員でない人に、直接配分がなされない仕組みである。税金や株主などの話が入ると違う視点も出てくるのだが、うまく行っている企業などの内部構成員に有利になる仕組みであるのは間違いないと思う。そのため、どこかの内部構成員になっている必要が出来、内部Aと内部B、内部Cなどの間で競争などを通して、製品やサービスの質の向上を図るようなゲームのような仕組みになっている。ところが、そのゲームのような仕組みに敗れてしまうと、どこまでも内部構成員になれなくなってしまう人が生じてしまい、その人の行く手には、ホームレス、逃亡、自殺となってしまうまでの悲劇が放置されてしまうような状態の社会に現状がなっている。その企業などの内部構成員になるまでの、基礎能力を与えられる期間として、学校などの方法が用意されていて、日本の今の時代は、昔や他の一部の国よりも、能力を得れば、さまざまな立場になることが出来、さまざまな可能性を用意されている国にはなっている。しかし、問題は、確立した立場のイメージを持つことが出来、それを持続できるタイプの人にとっては良い方法だが、イメージを持つことが出来なかったり、持続することが出来なかったり、能力を得ることが不得手だったりする人もいることである。その人たちは、ぐれてしまったり、反抗したり、我慢したり、楽しくない状況を強いられてしまう。誰もが、管理的な、そういう方法に適応しているわけではないのだ。だから、なにか代替的な多様化した、別の、なんらかの現状の方法に適応しにくい人に対しても、有効な行きかたを提供できるような方法が必要である。創造力というものが、製品、サービスと、お金との交換というものに、染まりすぎてしまっている世界というものは、何かを忘れてしまっている、失ってしまっている、別の可能性を省みなくなってしまっているのではないか。また別の可能性を夢みていた人でさえ、その夢に挫折し、まだ夢を見ようとしている人にさえ、夢など馬鹿馬鹿しいから見るのは辞めなよと誘ってしまうことさえ見受けられてしまう。それは、お金と生活がリンクしすぎた呪縛からの、腐ったりんごゲームというのがあるが、情報発信の乱れとも言えるかも知れない。しかし、夢を追い続けるのは現実社会のままでは、危険を伴う。その危険回避の通知とも思えてしまうということも、元を見てみると、不完全なセーフティーネットの上に、生きていかねばならない、前提の無さから生じてしまうところなのではないかとも思う。不安を持ったほうのメッセージ力が強くなってしまい、不安を煽ってしまい、そちらの不安感のほうが正しい考え方だったのではないかと多数決の雰囲気が出来てしまう。求めていたのは安心だったのかも知れないのに、創造性を抑えるような、不安を煽るようなメッセージを提供することによって、停滞してしまう。安心を得ている上で、新たな創造性がなされるようなところでの、メッセージが多数飛び交えるような社会になっているためには、セーフティーネットのお膳立てがあったほうが良いのだとしか思えない。競争に負けるという不安感が、脱皮できない構造を固定化してしまっている。誰かが新しい挑戦をしようとすると、なにか抵抗してしまう人の心理というのには、なにかがあると思う。その解明はなんらかの創造性へのヒントを孕んでいるのかも知れない。やらせ事件などで、賛否両論のような話題になったと思うが、『ガチンコ』という、TOKIOが司会の番組があったのが懐かしく思って、ネットで調べて行くうちに、最初は、竹原さんのブログを見ていて、『ガチンコファイトクラブ』を思い出して、ネットで見ているうちに、1期生の網野さんのことを思い出すことになり、彼のブログに行き着き、その中に、水で発電するというような話題が書かれていて、その情報を見ているうちに色々なことを思った。ネットの中にはもう一生かけても見終えることが出来ないような、それも日々大量に増加する情報が流れているわけで、私には、その大量に増え続ける情報がよく管理され続けることが出来ることがまず不思議なのだが、ほんとに、理解している人と、私のように知らない人との差は歴然としているくらい段違いだと思っているが、過去に出会った人に、何人も、そんなに人間の能力は違わないんだよといわれたことがある。それは何を示唆してくれていたのだろう。それで、そういう大量な情報を、さきほどの、どうして、創造性の発揮できる人と、出来ない人が出来てしまうのだろうという不思議にも関わっていると思うが、どうして、ここが私自身のこだわりなのだが、商品やサービスとして、お金と有意に交換できる情報を手に入れられる人と、そうでない人に分かれてしまうのか、今回の、偶然、『ガチンコ』調べから、水から発電するというような話に経過していったことなど、その経過のつながりというのはなんなのだろう。とか、それなら、今日、今のこの時点だって、ネットの中に、自分の人生を彩ってくれることになるような幸福を得られるようなヒントが隠されていて、自分がそれを取り出せないだけなのではないかというような思いなど、仏教やニューサイエンスやスピリチュアルな話の中にも、全てがすでに誰にでも通じていて、それを発掘すればいいのだという話もある。セレンディピティーということとか、運命とか、運の良し悪しとか。世界は、石油燃料の時代が長く続き、原油を保持している人などは、アラブの王様と言われるように、巨額を得る大金持ちを存在させたりしているようだが、話としては、聞くだけで、実感としては、アラブに行って見たわけでもなく、遠いところなのだが、網野さんも感想を述べていたが、日本は石油資源がほとんど無く、輸入してきたが、水から発電できるようなことになると、革命的に違った意味あいを持つではないか。そして、ネットで調べると、けっこうすでに知っている人は知っていて、それがほんとうの発明なのか、なにか間違いが含まれていて、実は本当に発明されているわけではないのではないかなど、専門外だと科学の知識が無いと、真実がなんだかわからないような状態で説明されているような、賛否両論になっているようなところがあるが、そういうことに挑戦しようという人がいないと、永遠にそういうことは生じないだろうし、また、なぜ真偽はおいておいて、なぜ、そういう情報摂取の早い人と、遅い人が出来るのだろうということもある。ベーシック・インカムにしても、私自身が隠されている内部の進行状況を知らないだけで、もしかしたら、どこかの内部では3ヶ月後にベーシック・インカムが採用されることが設計されていて、あとは発表を待つばかりになっていて、それを知らないだけで、そして、それを知らないほかの人は、自殺まで考えようとしていたのが、ベーシック・インカムが急に採用の発表をテレビなどで聞いてしまって、助かったと思う人がいるかも知れないという、このような、俯瞰してみている人や関係者には先にわかっているのに、わからない人は急に魔法のように感じているとか、水面下でわかっている人にはわかっていて、わかっていなかった人には急に助かったように感じるということは一体どういうことなのか。これも不思議なことである。これは喩えである。全体的に見れば、喩えなのだが、具体的なひとつとして、そういう、「ウオーターエネルギーシステム」と名づけられているらしいが、そういう水から発電できるのか出来ないのかという話題などは、テレビ東京の番組で取り上げられたみたいだし、自治体の場所で政治家なども含めて、日経の取材などもあったみたいで、こういう事態が、なぜ知っている人と、知らない人で違ってしまうのかという不思議である。そういう不思議なことがなぜ現象としてあるのかというのをもっと研究してもらいたい。そして知りたい。しかし、ほとんどのことは、他人が研究してくれて、発表してくれて、その恩恵を授かることである。有難いことである。他人が救ってくれる。他力だ。他人の一人であるのが自身でもある。
2008.12.12
(10月20日のブログに反貧困大集会のリポートを書きました)(31日のブログにズームインで辛坊さんがBIに近い発想を述べられた記述しました)今朝のズームインで、辛坊さんの解説のコーナーだったが、途中から見たのと流し見てしまっていたので、もっと最初から注意してみていればよかったのだが、視聴者に、2兆円の使い道のアイデアをFAXやメールや電話かで送ってもらっていたらしい。そこでタレントの上地雄輔さんにアイデアを問い合わせたところ、「期限付きお金」と書いたパネルを出していて、辛坊さんや、解説のエコノミストから褒められていた。「エンデの遺言 根源的にお金を問うこと」というNHK出版からの本だと思うが、そこに書かれているらしい、エンデの考えや、ゲゼルという人の考えた、「腐る貨幣」という概念のことなのだと思った。たしかに、定額給付金も、期限付きだったら、期限内に使おうとするだろう。その一歩の違いが、マスコミや国民に批判されてしまうところなのだろうが、辛坊さんの解説の時には、批判だけではなく、どうすればより良くなるだろうかということを一緒に考えてみようという企画になっていて、とても創造的な方向に行きそうな企画だったと思う。政府も、テレビのこういうスポットを注目しあって欲しいと思った。定額給付金もまだ期限付きになる可能性も、今後もあるかも知れない。辛坊さんは、景気対策としてのお金の使い方なのか、セーフティーネットとしてのお金の使い道なのか、はっきりしているほど良いということを、定額給付金も1度限りだしというような発言をされていて、ベーシック・インカムのような持続的、永続的でさえある、方法についても、辛坊さんの持たれているセンスならば、守備範囲としてくれる人ではないのだろうかと先日の番組内の発言からも思わせてくれている。直接、ベーシック・インカムという発声はまだ私は直接聞いていないけれど。しかし、発想や人生がつまってしまう人と、発想が出てきて、進んでいられる人の、その創造力、実現力の違いはどこにあるのか。そのメカニズムはなんなのか。それが知りたい。しかし、一人ではその突破力を持つことは不可能だろう。スポーツを例にとれば、野球界のイチロー選手や、最近のゴルフの石川遼選手みたいな秀でたスターが出現すると、周囲も明るくなってくる。そういうスターの周辺に流れて行くことができれば、起こってくることが変わってくる。スポーツだと、技能が上だとか、勝負に勝てる人などのはっきりした面を備えた場所であるが、ただ、経済が、人間の生活の仕組みが全部それでは成り立たない。市場競争社会だけでは成り立たない。現状を見れば明らかだろう。では、どういう人が、より全体に対して、明るさを振舞えるのだろうか。科学技術の発信の場と周囲というのは、創造性の一種で、かなり大部分を占めていると思うが、排除されてしまう人を、特定技術に対して無知な人、部外の人を生じさせてしまい、そういう人の人生を危うくしてしまうという限界部分がある。では、どうすれば、生まれてきた人の全てを幸福にできる創造性というものが出来るのか。根源的なものではないが、応急処置の最大限の効果がありそうなものとして、(私自身は狭いことしか見られない人かも知れないが、それでも、その全力で判断すると、)ベーシック・インカムという考え方が、突出しているもののひとつではないかと思っている。自分が発信基地にはなれないが、今日のズームインの辛坊さんのコーナーみたいな発信がなされると、ずいぶん瞬時に雰囲気や流れが変わってくると思う。政府も、まだ国民が感心するような政策の中のイノベーションを発揮できるのではないだろうか。自力だけでなく、他力の風が吹かないとどうしようもないところがある。ということは、他力の風に出会うまでを期待しなければ。そのためには、誰もが理想と創造性とあたたかい心を持ち合わせていることが大切なこととなる。逆に、傷つけあってしまう組織や、反撥ばかりしあう相性は、継続し続けても酷くなるばかりかも知れない。明るく前向きに楽しい創造性を語り合えるような人たちやチームと出会うことが幸福の一歩であり、そのためには、そういう議論のもっていきかたに、自らがしていくことが、そういう人が増えることが大切なことではないかと思う。深層心理的にも研究されて、改善策を発信されるべき大切なところかも知れない。どうすれば、明るく楽しい前向きな創造力のある、人間関係やその集合であるチームが成り立っていくか。また、そういう組織を構成することのできる人間性を個人個人が持てるようになっていくか。どうすれば、気づくことができるか。そして、精神の生命力に対して美しさや凛々しさを維持してくれている人がいるのである。自分が弱い精神性になっている時に、精神性の高貴さを維持してくれている人が、素晴らしい言葉をかけてくれたりすることがある。不思議なことである。人の気持ちが楽しく、ほがらかになるような、言葉の掛け合いが、多くの場所でなされているならば、全体の雰囲気も変わってきて、新たな創造性の流れが、隅々まで行き渡りやすくなるのかも知れない。マスコミも神様ではないので、批判論調の多くを流してしまっているが、今日のズームインのような、なにか改善のための提案という企画が見られる時もある。そして、そういう企画の発信の流れを受け止めた側も、なんとなく希望はまだ残っているのだと思うことが出来る。マスコミだけでなく、身近に、ほうぼうから、明るく楽しいコミュニケーションが出来れば、雰囲気は変わる。お金に左右される前に、根源は、人間と人間の信頼と尊敬から培われるコミュニケーションからの創造性のほうにある。お金の非流通性というか、お金が色即是空の空にならなくなってしまった執着のところに、なんらかの創造性と反するものが生じてしまっているのだろうか。なぜ停滞の期間がやってくるのかわからない。わかれば克服できる。しかし、流れが進んでいるような雰囲気に感ずる人生の時期もあるように思える。これはなんなのか。創造性とはなんなのか。どうすればできるのか。わからなくても、創造性を希求していなければ、それは成り立たないものかも知れないし、他力を持つ他人がメッセージを与えてくれることがあるならば、他者も希望を持っていることが必要である。そして他者の一人でもある自身も希望を持つことが必要である。希望は流れて行くものである。
2008.12.12
(10月20日のブログに反貧困大集会のリポートを書きました)(31日のブログにズームインで辛坊さんがBIに近い発想を述べられた記述しました)雇用情勢に厳しいニュースが続いている。これは、きっかけがサブプライムローン問題だと言っても、結局は、工業技術製品に頼る輸出社会の成熟による、仕事の種類が人員の需要量を下回ってしまってこうなってしまったんだろうか。池田勇人時代の高度経済成長へ向けての、農業社会から工業社会への田舎から都会への移動の影響が、国内を便利にした達成が行き過ぎてしまい、その裏表の影響が出てしまっているような気がしてならない。日本より、お金が必要としないような社会でもずっと生きてきた社会がある。未開社会などと言われる社会では、ずっと同じような生き方をし続けているようである。日本がもう未開社会と言われる状態や、第二次世界大戦直後のような状態にはならないほうが良いとしても、あまりに工業技術化しすぎて飽和してしまったなら、そこら辺の、雇用移動を考える時期にきていて、その発想がうまく行けば、池田勇人時代の裏表としてその業績に匹敵するような業績になるのではないだろうか。農業は何十年も衰退し続けて、従事者の平均年齢は65歳にもなっているらしいのである。資金投入によって、従来の日本をリードしてきてくれた車や建設などの産業の従事者人口を維持することも、派遣社員切りによって、その人たちが路頭に迷ってしまってはいけないので国がフォローしてくれるのは大切なことだが、そこから、どうその人たちをうまく産業移動できるかどうかが、国の大政策の腕の見せ所なのではないのだろうか。麻生総理とか小沢党首とかは、発明型の政治家のイメージは私のイメージとしてはあるのだけれど。100年に1度というくらいの大変動ならば、政策の大発明も思い切って行われるならば・・・という隠れたチャンスがあるようにも思える。マスコミも、麻生総理叩きでは無く、日本の産業構造がより持続的、成熟社会化するような新たな産業創出を、余剰人員となってしまった人が、活用され、新たな産業のパイオニアになるような、派遣切りされた人が、実は、新たなプロジェクトチームになるような、そういう新産業は、農業などの分野にヒントがないのだろうか。ある意味、産業の進歩ばかりの視点だけでなく、昔帰りのような視点も取り入れて、産業創出、産業移動がなされていかないのだろうか。池田勇人時代の雰囲気が私にはわからないが、その逆の表裏のような雰囲気を持つ、より持続的な市場主義だけでは無い、なんらかのイノベーションが出ないだろうか。雇用のミスマッチと職種の多様化という視点から、失業者や、派遣切りされそうな人に、国や自治体が、どんな職業に本当はなりたかったのかとか、趣味なども含めてその人の特技などのアンケート調査をするなどして、マッチングできるような仕組みができないだろうか。ざあっと眺め読みしたくらいだが、『奇跡のお経 観音経』仏教コミックス ひろさちや原作、吉森みき男漫画『脳と禅』玄侑宗久・有田秀穂(大和書房)有田さんはセロトニン神経の作用の重要性を研究されていて、座禅の効果などについて対話されている。寛容性が必要とされる時代に大事なところだと思う。『仏教の根底にあるもの』玉城康四郎(講談社学術文庫)『シンクロニシティサーフィン』藤九郎(たま出版)と、仏教や精神世界の本を眺めたくなっている。悟りと救いは根源を同じとするのではないかというようなことが書かれていたのではないかと思う。経済世界の新たな創造性からの、新社会が、今困っている人たちを救えるというのなら、私はさっぱり悟ることができず、その方法もわからない。こうして、ブログでつぶやいているだけに過ぎない。しかし、自力にしても、他力という力が発揮される土壌によって成り立つものだと思われる。他人との信頼関係があれば、社会は整うはずである。どうすれば、ぐれてしまったり、ひねくれてしまった人の精神性が整うのだろうか。心と物事とは同時に発信されるようなことも書かれていたと思う。どうすれば、心が、精神性が、貨幣に左右されてしまっている社会構造の現状を超えることが出来るのだろうか。残念ながら、私は、大企業のトップの人柄にじかに伺うようなことのできる立場に無く、そういう人たちの本心が、リストラをしてしまうことに対して、どれくらい心を痛めているのだろうかということを、はっきり見ることができない。生活をクリアできている水準から上の人たちについては、マスコミからも天下りへの批判や、無駄遣いなどなされているが、はっきりわかりやすいのは、やはり、最低限度のセーフティーネットである。なぜ、ベーシック・インカムは全体的な話題に今もってならないのであろうか。生産消費者という概念からすれば、消費だけでも、社会参加となるし、友達のような親しい間柄の範囲内で、消費の場がなされるうちに、生産もしてみるかということに自然になるようなイメージもあろうかと思う。親しい間柄からの生活の場、生産と消費のできる場というイメージと、上司にパワーハラスメントをされて、企業内競争の殺伐とした生産の場と、休日のレジャーという方法と、比較してイメージすることも、ヒントになるのではないだろうか。もっと多様化した、違う生き方もあるはずなのかも知れないのだ。私には、口先だけで、ブログを書くところまでしか能力が発揮できず、残念であるが、どう、これ以上進めて、実現化していけば良いのかは、さっぱりわからない。わかっていれば、できるはずなのだが。せめて、理想を文章化して発信するだけでも。マスコミは、総理大臣というトップを批判するだけではなくて、それでは、お互いに創造性は出ないと思うので、お互いに尊敬の念を持ちながら、どうすれば新たな社会が創造できるのかを、理想を提供するほうが、敵対的なイメージの進行とは違うなにかが創造できないのだろうか。民主主義というのは、誰をも罵ることができる社会という程度のものではなかったはずである。戦争中みたいに、自由な発言ができなくなったという時代も異常ではあるが、自由な発言というものが、他人を罵るということが主になってしまうような世界観は悲しいではないか。笑いの質というものも、漫才やコントで、ボケをはたくようなことだけではなかったろうと思うのだが。座禅、腹式呼吸、吐く息が長くなること、セロトニン神経など、内観。借金のイメージ。いろいろな呼び方があるがそれができる人と、できずに、ひどい場合は死にまでおいやられてしまう、お金との関係のイメージ。それが変わること。労働への感覚もリンクして変わること。最低所得層、または、収入の途絶えている人への最優先のセーフティーネット。構造のほうが変われば、人間の考え方のほうも変わると信じたい。(追加:以下のように内閣府にメールを提出しました。私でなくても、夢や希望や願いをネットとメールができる人は、すぐ政府に提案することのできる時代です。夢や希望や願いを持ち続けましょう。そして聞いてくれる人がいるのだと信じましょう)『今の時代現象は、池田勇人内閣時代の所得倍増計画、高度経済成長の発想の裏表になっているのではないでしょうか。一方で、工業技術製品の企業からの大量のリストラが言われ、一方で、減少し続けている農業分野の問題などがアンバランスになっています。ニューディール政策みたいな、大量の新産業創出と、産業移動がこの時代にできないのでしょうか。雇用のミスマッチを防ぐための、田舎も都会も多様化した職種増加や、個別夢アンケートなど。お金があまりにも、基本的なインフラから必要になってしまった構造を、変革できないのでしょうか。マスコミも自由な発言のできる時代は良いことでもありますが、総理大臣というトップの人を、批判ばかりしている報道も子供たちの教育に悪いばかりだと思います。ホームレスや経済苦による自殺者がいることが最初からおかしなことです。ベーシック・インカムなどの議論も数年前の国会ですでになされていたのですから、最底辺層の時間が待てない貧窮状態の人をまず救ってください。完全なるセーフティーネットを望みます。がんばってください。私もがんばります。』
2008.12.10
(10月20日のブログに反貧困大集会のリポートを書きました)(31日のブログにズームインで辛坊さんがBIに近い発想を述べられた記述しました)例えば、ある石があったとして、Aさんは、それを置物として眺め、Bさんは、それを分析して、ある成分を取り出して活用し、Cさんは、見たまま通り過ぎて、Dさんは、建物の一部として使うというような、同じ物が、違う人によって、違う使われ方をしたり、また、それを使うことに気がつく人と、気がつかず、通り過ぎてしまうだけの人がいる。この差はどうして、人によって違いが出るのだろう。石というのは喩えであって、あらゆる物事がそういうことになっているのだと思う。逆にそういうところの仕組みが分かれば、どうして創造して行けばいいのかわからない人に対して、解決のヒントになるのではないだろうか。雇用問題にしても、なぜ経営側にまわる人と、独立できず、雇用されるところを探し続ける人に分かれるのかということにも繋がるかも知れない。または、ヒントを与えてくれる周囲という方からも見ると、違うアイデアが生じてくるだろうか。それは、保育園、幼稚園、小学校から、そういうアイデアや理解が生じるために教育を受けてきて、そのつながりから、道筋を得て、獲得していくという経緯が普通なのだろうが、産業構造が変化してしまい、今までの技術が使えなくなってしまったという出来事もある。また、有効ということが、商品やサービスとお金と生活という縛りから考えられているものであるということが、私の思いの中でも前提のようになってしまっている。むしろ、私のように、創造物や創造した事が、商品とサービスとお金というものと関連しないところからでも考えている、または意識的にそう考えなくても、なにかをしようとする人、またはしてきた人が、経済的にマッチすることになった場合に脚光を浴びる場合もあるし、例えば、クラゲの発光物質によってノーベル賞を受賞した先生のような、最初は何のためになるのかと思われていたものが、他人によって、応用する方法が見つかり、とても有用になった例もある。先生は有用さが見つからなくても、それを研究していたということもある。だから、そういう創造物や創造した事が、経済効果を生むためのことと、繋がっていないと思えるような状態でなされていることも、それを気にかけることなく、されているということと、最初から経済効果と通じていなければならないという企業の方法と2通りあると思う。私自身としても、なにか考えようとすることが、経済効果とリンクしていなければならないのではないかという前提の上で考えようとしてしまっているのだろうと思う。そんなことおかまいなしに好きなイメージを出そうとしていったほうがむしろ、自分のような重大なラインには乗っていないような立場には良いのだろうか。「脳と日本人」松岡正剛・茂木健一郎(文藝春秋)の78ページに、松岡さん「われわれのクオリアやアフォーダンス(行為の可能性)の体験というのは、われわれの知覚に急角度で切り込んでいるわけですね。しかし、それに対応する多くの感覚がわれわれのほうで失われてしまっている」と書かれていて、それは、松岡さんが言っているように、「道具に頼ってしまう」とか、茂木さんが「自治体、学校、企業、そして家庭など、あらゆるところでそうですね。安全を求めることで、生命というものの力を衰えさせてしまっている」とフォローしているように、他者が用意しておいたもので、足りてしまっているように感じている場合、より大きく変化させようという能力はより大きなものを使わねばならないものになるかも知れない。高度に加工されて、誰でも自力では作れないようなものの増加が、そういうことに関係しているのだとも思う。『フォロソフィア・ヤポニカ』中沢新一(集英社)の44ページに、似た問題意識だと思えることが買ってあった。「たとえば、現代においては、文化も商品化されて消費財となっていくが、そのさい文化的消費財にも、大量生産の原則が適用されるようになるために、小説でも芸術でも、また学問的な作品でも、おしなべて『出来栄えの水準は低くなる』19世紀の後半に、ピアノの大量生産を実現するために採用された『12平均律』による調律が、いつしか音楽を聞いたり、創作したりする場合のスタンダードになってしまった結果、音楽を聞き分ける人間の聴力の能力は、著しく平準化され、退化してしまうことになったが、もはやその事実に気づいている人さえごくわずかになってしまった」と書かれている。この文章からも、多くのことが考えられると思う。現在の、当たり前と思っている外側の構成が、違うものになったら、もっと違う世界観が持てるのではないかということや、それぞれの人の思考が、気づかないうちに、自意識というものが、外側に影響されているということがあると思う。また、昔の人が持っていた感性を、今の人が忘れてしまっているというものがあると予想される。喜怒哀楽以外の、なんらかの感覚。他人に対する思いやりというものも、報道される出来事やネットでの一部の書き込みにしても、分からなくなってしまった人が出てしまっているのかも知れない。また、それが相互作用となると、余計複雑になる。河川の汚れなども、汚れはじめてきた頃の人たちのほうが、危機意識が強かったのかも知れない。人間の慣れて行くという習性が、麻痺とも重なって行く。あらゆるものが、消費財として、お金を得ようとするための道具化してしまうことにより、もともともってそれぞれの能力を衰えさせてしまったということも多々あるのかも知れない。タバコは体に悪いと思って、吸っていない人にとっては、歓迎されるような、タバコの増税についての問題も、タバコの生産に関わっている人たちにとっては生活保障問題となってしまう。商品経済が生活に密着しすぎると、難しい問題への解決がより困難になってしまう。食品偽装や耐震偽装なども、利益を得ないと生活が苦しくなるという方向性を持っている仕組みの表出となってしまったのであろう。アメリカの銃や、車社会というものも、生産側の生活と製造との密着が、変化を起こしにくくしてしまう。このような例以外にも、商品経済の生活とのあまりの密着はほとんどのところに固定化を生み出してしまっているのではないのだろうか。逆に、新しい何かができれば、大きく人が携わる周辺も変わるということでもある。インターネットに関する業界に従事する人などは、ここ10年で大変化、急増したものであろう。反面、農業のように、どんどん従事する人が減り続けていて、危機感を提案する人がいるにも関わらず、変化できない状態が続いていることもある。これも茂木健一郎さんがどこかで語っていたことから、思い出したことだと思うが、(アスキーという雑誌のしりあがり寿さんとの対談の中で言われていたかも知れない、図書館で借りていたものなので、手元に今はない。)停滞状態を打破するなんらかの生命感が生じるようなゆらぎが欲しい。だからなんなのだというようなブログになってしまっているが、ほとんどそういうブログである。ぜんぜん私は無欲では無いために、多くの人がそういう観念にはまっているのかはわからないが、何か書いても何も有効性が無いとしたらということに空虚感を覚えてしまうことがある。そういう感覚のないままの思いで生きられている状態のほうが、自然なのかも知れない。こんなことを書くのも無力だからだが、有力な人には、派遣切りといわれてしまうような構造を作らず、誰もが楽しく生きられる方法を創って欲しいと思う。人間のための社会構造になっていないと本末転倒である。
2008.12.07
(10月20日のブログに反貧困大集会のリポートを書きました)(31日のブログにズームインで辛坊さんがBIに近い発想を述べられた記述しました)今はほとんどが、特徴ある製品やそれに付随するサービスから、広告などが介入しながら、その製品やサービスの技術や能力の向上を、お客様となってくれる他者への評価というところから貨幣との交換により、生活維持していくという仕組みと考え方が、突出していると思うが、その創造性への努力と同様に、「どうすれば、他者が生活維持できる方法を創出してあげることができるだろうか」という、目的意識を持って、その付加により、全ての人が創造に励めば、なにか新しい世界が現出してこないのだろうか。また、そのことによって、今までお金が無くてその特徴ある製品やサービスのお客様になることの余裕の無かった人がなれる可能性が出てきて、お客様も増えることになる。特徴ある商品やサービスへのアイデア創出のための頭脳の集積が、「どうすれば生活維持に困っている人が困らないようにできる付加価値をつけられるだろう」ということが加わることで、社会が進展するのではないか。こう考えざるを得ないのは一方に、行為とお金と生活をつなげて考える人が多いという状況にもよる。ロボットが代わりに行為をしてくれると、人間の行為が減ってしまうと考えてしまうのも近いかも知れない。だとすれば、科学技術が、生産消費というような、生活の中で知らずのうちに生産的なことをしていて、生活維持も保障されるという発明をしてくれると。すると、むしろホームレスの人のほうが、時間やルーチンワークの単純さから開放されている分だけ逆転して、イメージが変わり、自由な生き方に近づく。そのためには、企業内などの固定化した労働状態を超える、歩いていても、笑っていても、なんらかの時に、生産というイメージのものが為されていて、貨幣でなくてもいいのだが、生活しているだけで貨幣と交換される仕組みになっていて、というような科学技術の新発明が為されて欲しい。宇宙基地やナノテクノロジーなどの信じられないようなことができる人間は、考え方を生産消費者が生じるような技術構築に向けてくれれば、実現してくれてしまえるように思う。ウェアラブルなコンピューターというようなことを研究してくださっている人たちが、それに加えて、自由に生活しているうちに、生活維持のための交換の道具も得てしまうようなイメージのものもから付加してくれていて、その発明が一般に普及していったら、在宅ワークというような概念や、自由業というような概念をも超えてしまい、ホームレスの人や長期ひきこもりの人や、長期失業者の人も助かるだろう。これもベーシック・インカムと並行して、生じて欲しい、お金に左右されない生き方を実現するための、私の言い分では稚拙に過ぎないが、もっとそういう方向性を目指す人が出てくるのを期待したい。そういうところで、自分の能力の無さにがっかりしているが、今から、そういう発明などできるとは思えず、そういうことができる能力のある人の出現を期待するしかない。この言葉がそういう人の想像のきっかけになってくれれば、自分の能力の範囲での奇跡と思えるくらいうれしいことである。国や自治体ばかりが考えることでもなく。そうすれば、アルビン・トフラーさんが考えてきたような、生産消費というような労働させられている、している、という感覚がなく、知らずのうちにというくらいに、生活維持のための社会参加をまるで空気に触れているように、多くの人ができている社会に進むのではないだろうか。そして人は、自給自足的な食料づくりや、語らいや文化への創造へと進んで行く。当たり前だと思っていることに、何かが付加されることで、より良い社会になっていくための新たな当たり前のことになって行き、誰もがそれが当たり前になっていれば、その集合知から生じた世界変革は莫大なものだろうと思う。
2008.12.06
(10月20日のブログに反貧困大集会のリポートを書きました)(31日のブログにズームインで辛坊さんがBIに近い発想を述べられた記述しました)国や企業側が、どんどん新しいアイデアを雇用創出の多様化につなげられればということに期待したい。それと同時に、なにが人の創造性を発揮させるのだろうかという研究が進み、アントレプレナーが増加するにはどういう方法があるのかということも考えて欲しい。国や自治体は、直接雇用の業種をアイデアとして出してくれるだけではなく、どうすれば、個人が起業できるような雰囲気にもっていったり、実際に新しい事を始められる方法論ができるのはというのをもっと通知されるようにもっていってもらいたい。今も、創業支援という機関があるが、浸透しているとは言い難いのではないだろうか。企業が倒産している時に矛盾したような記述をしているが、倒産する企業と同時に起業する企業が出てこなければならないような直感に過ぎないが、感覚を持つ。こういうことを書くと「自分でやれ」と思うのではなく、どうすればそういう人が増えるかをそう思った人自身も含めて、代わりにしてくれる人も増やすということも含め、そういう方向に一緒に考えてもらいたい。この本も熟読せず、ざっと読んでしまい、私の狭い能力でひっかかったところだけ抜き出しているにとどまるが、この本では、「貨幣愛」に執着してしまう人たちの隠された罪というものを考えていくためのヒントを得られるような気がした。お金への執着のある人の問題があると思っていたが、ケインズは、「貨幣愛」という言葉でその病理を考えようとしていたらしい。151ページから156ページまでの浅野先生の記述は考えなければならない資本主義の構造について、とても注目しやすいように書かれている。「かれによれば、これまで西ヨーロッパの人々は、事業は現世に属する活動、宗教は天国に関する活動と、両者を截然と区別したうえで、経済的進歩こそ来世の天国を招来する最良の手段と考えてきた。そして、個人の貨幣蓄蔵をもってこの経済的進歩に対する建設的成功の尺度とみてきた。この制度は、19世紀にはたしかに大きな成功を収め、未来についての大きな夢を生み出すことができた。しかし、いまや人々は、実業家が現状よりすぐれた目的地にわれわれを導いてくれるかどうかに疑問をもっており」浅野先生が書かれたように、19世紀には成功していた考え方が成功しなくなってしまった原因には、あまりにお金が生活最低基盤となるインフラにもお金がかかる構造にしていってしまったためもあると思う。昔は、水を小川で掬って飲んだりできる場所に住んでいられた人たちがいて、その場合、水の料金はかからなかったに違いない。「本来は手段であった貨幣愛が自己目的化してしまった結果、物質的利益の追求が道徳的利益を犠牲とするまでになった」この貨幣愛というものが、一部の人がお金を大量に動かないものとしてしまったり、労働というものとあまりに癒着させた考え方を労働者側にまで植えつけさせてきた感覚が、例えばベーシック・インカムについても、労働しないでお金が得られるということに大して、反発的な感情を生むような背景をかもし出してしまっているとも言えるのではないか。同様な感覚が、水や空気まで有料化することに逆に懸念しなくなっていく人々を生じさせてしまうのかも知れない。浅野先生が、「非自発的失業という最大の社会的害悪」と書かれているように、社会が生活のためにお金を必要とする構造にしてきたことや、働きたい時に働ける場所がある状態にいつでもなっていることの重要性が考えられると思う。派遣切りと言われる、生活危機を伴う状況は、次の職場が見つからないことから、生活費が無くなり、商品としての水道、電気、食料などが正統的な方法で手に入らなくなるところから生じる。今朝の新聞にも、高齢者が、ホームレスになってしまう恐怖から、刑務所に戻りたいと無銭飲食をして店員に手を差し出して、捕まえてくださいと申請し、逮捕されたというニュースが出ていた。この高齢者も、生活できるだけのお金が保障されている状態であったのなら、無銭飲食という犯罪をしてしまうことは無かったのではないか。だから、ベーシック・インカムは犯罪も減少させると思っている。生産的(と思われている)労働を生活賃金と癒着させて考えていることのほうが犯罪を生んでいる構造なのだと思われてならない。また、労働には、莫大にお金を得られる労働と、ワーキング・プアという状況がクローズアップされたような、働いてもぎりぎりの状態であるという区分が存在してしまう。浅野先生は、154ページに、「ケインズは、個人主義的資本主義の利子生活者的な側面を、それが仕事を果たしてしまうと消滅する過渡的な局面と捉え、利子生活者の極楽往生を提案するのである。そのためにかれは、遺産相続税の強化や、貨幣に毎日郵便局の有料スタンプを貼らせて貨幣蓄蔵を抑えようというシルヴィオ=ゲゼルの提案の発掘など、さまざまな考察をめぐらせている」このゲゼルという人の腐る貨幣の考え方もベーシック・インカムという構想との融合によってなにか新たな考えがもたらされないのだろうか。年金問題にしても、高齢者となり働けなくなることと、お金の有無からの不安が大問題となっているのだから、企業が終身雇用制という方法で、内部者を守ってこられたような感覚が、国や自治体のほうから、ベーシック・インカムのような最低限度の生活保障がなされている上で成り立っているほうが、人々の創造性は上がるのではないのだろうか。しっかりした企業も最初から基本給という最低限度の生活保障をスタートとして、そこから人を育てていた。日本型雇用の良さとして評価されてきたことが、なぜか、その後で、崩されていった。しかし、スキゾフレニーな感じで生きられる世界になっていれば、それも両立させたい。働きたい時に働ける状態を創るためには、ベーシック・インカムという基盤がわかりやすいし、ほかの方法は思いついていない。好きなことを商売にして社長になってうまくいった人の性質というのは、苦難も乗り越えるという視点に立つが、そういう人ばかりでは無い、だから引きこもりになってしまったり、生活不安を感じながら生きていかねばならない人が生じてしまう。ワークシェア・ワークライフバランスといわれる動きも連関している領域の部分であると思う。政府には、反対や批判や中傷するという関わり方では無く、提案をするという方法でどうして無いのかというのも疑問である。政府への提案という視点で行く人にとっては、自民党が政府だろうが、民主党が政府だろうが、よりよい社会を構築していくための自分なりの考え方を提案していくスタンスになるのだと思う。オバマさんもマケインさんも、次期大統領が決まった後は、それぞれのことをたたえあっていて、協力すべきは協力するということを言っていたと思う。能力主義、競争主義などで教育されてきて、感情が先に立ってしまう日本の人たちの中の一部の人は、全体を幸福にしたいわけではなく、「貨幣愛」のように、支持した組織内の部分の優先的利益的幸福みたいな擬似幸福を得たいということから反対した立場で考えてきた人をないがしろにするという感覚を潜在的に双方が持ち合わせてしまうのではないか。その延長が、企業社会にもあらわれて、決して企業の採用する側のほうの人間性が、採用される側のほうの人間性より高いわけでもないのかも知れない。労働している価値と人間性の価値とを一緒にしては間違う面もある。もちろん、一緒にしないわけだから、素晴らしい、救急救命に携わる人の報道や、報道されなくても、毎日部屋を掃除している堅実な人の素晴らしさがある。その一方で、食品偽装が発覚しても、まだうそぶいて、従業員のせいにしたりする経営者も報道された。中高生がホームレスを襲撃したようなニュースもあったが、学校のいじめ問題も企業のパワーハラスメントなどの報道もされるように、人間のそれぞれいかれた立場立場の異質性を、寛容できない人がいることが、相当の問題の原因となっているのだと思う。なぜ、多様性に対して、自分と異質な立場の人に対して攻撃を向けてしまうのか。また、もっと仲良くできる方法でその議論や態度を持って行くことができないのか。そういう歩み寄りの断絶が、多くの停滞を生み出しているのだろう。カーラジオからも、誰かに会いに行かなければ何も進まないんだよというような歌が昨日も流れてきた。ミュージシャンも、なかなか自らの人生を難しく感じていた頃の体験からそういう歌を作詞し歌ったのだろう。工業化、輸出化という工業製品の問題や、食料自給率40%弱といわれ、実質的にはもっと悲惨な国内食料事情ということも言われるような、長年基礎を築いていた、農業基盤の衰弱状態ということや、水や空気などの汚染なども言われ続けてきても、解決できずにいることである。しかし、このことは私の体験不足、勉強不足などの偏見が多いところでもあると思う。どうにかして社会をより良くしようという人たちが、私から見えないところでがんばっているのだ。そういう人の存在がもっと知られても良いと思う。マスコミもそういう人の紹介もずいぶんしているのだと思うが、もっとそういう人が賞賛される状態と、逆に、停滞している人が、アイデアが生じるような土壌を雰囲気を、発信して欲しい。
2008.12.06
昨日の毎日新聞の1面に、堀井恵里子記者の記事で自民、公明両党の今後3年間に実施する追加雇用対策について書かれていて、「非正規雇用者向けのセーフティーネット強化と、新規の雇用創出の2本柱」と書いてあったので、具体的にはどういう追加対策なのだろうと思っていたが、グーグルニュースで紹介されていた、東京新聞のネットサイトに書かれていて、これも2兆円規模のものだという。マスコミや一部国民の間に、定額給付金の2兆円はバラマキで、違うことに使えばという批判があるが、それはそれで、今回の追加雇用対策のように別の2兆円の使用も考えていることが出ているというのは、マスコミや一部国民側の考え方のほうに矛盾があるのではないかと思ったが、そういう人たちの批判によって、自民、公明両党もヒントにして、進んで行っているということだろうか。何も言わないことのほうが批判よりも困ることなのだろうか。しかし、中傷的に批判しなければ、相手は動かないのだろうか。だとしたらお互いに悲しいことである。「自治体が直接雇用創出」と書かれているが、こういうところに、自治体の新しいアイデアを期待したい。特に田舎では、もっと都会にあるような業種に一致する人もあると思う。自治体の新業種創出というアイデアは、市町村の垣根を越えて、就業できるようにしたら、雇用のミスマッチが解消される方向へのヒントにならないのだろうか。昨日のラジオからのニュースでも聞いたが、東京新聞に表にして載せてあるが、就職困難な場合の雇用保険の給付の60日間延長というところにも注目する。派遣という雇用形態ができてから、それが派遣労働者切りといわれたり、問題化してきているが、派遣社員を正社員にした場合に最大100万円の支給をするということも対策にされている。実際の経済活動では、派遣という業態が加わってしまうなど、過去に経済を真剣に考えてきた人の時代に無かったことが加わってしまっているので、それを加えた後での修正案も考えなければならないという難しさが生じてしまうんだなと思った。『ケインズ』(浅野栄一)清水書院の142ページに、「失業は、賃金率が高すぎるから生ずるのはなく、一方の企業家がその利潤を極大化するように労働需要量を決めているのに、他方の労働者がその余剰効用を極大化するように労働供給量を決められないから、生ずるのである。この場合は、失業をなくし雇用をふやすには、企業家が所与の賃金率でたくさん労働を雇用できるように、財に対する貨幣支出を伴った需要=有効需要を拡大する必要がある。問題は、労働市場にではなく、財市場にあるのである」と書かれている。やはり、企業側と労働者側は平等では無く、力が企業側にあるのは、採用から企業のほうが選んでいるということが、特に不況という時期にはっきりと現れていると思う。また、今回の雇用対策の中の、「自治体の直接雇用創出」と書かれてあるような、新規の雇用創出、仕事の多様性が生じていることが大切なのだと思う。
2008.12.06
(10月20日のブログに反貧困大集会のリポートを書きました)(31日のブログにズームインで辛坊さんがBIに近い発想を述べられた記述しました)内田樹先生の11月30日のブログにお金についての記述がある。その部分を抜粋し、自分の感想を記録しておきたい。内田先生『今、ほとんどの若者にとって「生き延びることができない」状況というのは「金がない」状況のことである。金がないから絶望し、金がないから盗み、金がないから人を殺し、金がないから自殺する。そういう考え方が「あり」だと思っている人たちは「骨の髄まで合理主義者」なのである。というのは、貨幣というのは「より合理的に生きる」ために発明された制度だからである。「大量の貨幣」は「より合理的に生きられる」ことを保証しはするが、「何が何でも生きられる」ことは保証しない。それは「タイタニック号沈没のとき」とか「ゴジラ来襲のとき」を想像すれば子供にもわかる。』内田先生は、「生き延びることができない状況」はお金が無い状況のことを指しているのだと語っている。この視点がとても大切だと思う。そういう風に思っている人は、「骨の髄まで合理主義者」なのだと言われている。今の大部分の人というのは、合理主義の土台の上で思考しているということだろうか。そしてとても重大なことを言われているが、「貨幣というのは「より合理的に生きる」ために発明された制度」だというところである。貨幣は、「より度合理的に生きるために発明された」というのである。だとすると、貨幣とは、『生きるために』発明されたものなのだから、お金が無いということで、自殺したり他殺したりするということは、とても不完全な発明になってしまっているということである。人類の最初が意図したことではない方向にお金がなってしまっているということなのだ。内田先生の言われたことは重大である。お金は生きるための、生きるための、生きるためのものなのだ!タイタニックやゴジラの例をされているが、国内の農業衰退による、食料危機への予測などは現実的にありえそうなところを徘徊しているのではないかと思う。私も「骨の髄まで合理主義」という土台の中で考えてしまうタイプになっているのだと思う。そうでないと、こんなに、今のセーフティーネットの不完全性に危機感を持たないと思う。しかし、内田先生のヒント満載のこの文章をさらにもう一歩踏み込むことが私にはできていない気がする。もっとなにかヒントを含んでいる文章かも知れない。ノーベル賞級の頭脳を持つ人も、セーフティーネットが不完全なところを解決できていない。ホームレスや経済苦による自殺者の存在がそれを証明している。なんとかならないのはどうしてなのか。救済者と被救済者の間が断絶されてしまう例が皆無とならない。その断絶は幾つの種類があるのだろう。その原因とは。誰も一人で生きられる人などはいるはずがなく、誰かとの関係のおかげで生きられているのは、どんなお金持ちであってもそうなのだから、お金という視点から考えたら、どうしても、お金を余分に持てる立場となった人が、今以上に、お金を持てない状態になっている人のことをとことん考えて再配分の実行に移さないと、お金を持っているという始まりじたいから矛盾を抱え込んでしまうのではないのだろうか。そのためには、お金に左右されないための、最低限度の生活維持のためのセーフティーネットの基盤があることと、足るを知っていることが必要となるのではないだろうか。ベーシック・インカムのある社会のほうが、今の社会よりもお金という発明を補完するものとして、どうしても進んでいるように思えてならない。相当の多数の人が愛を語り、ビートルズは、愛こそが全てだとさえ語ったが、ホームレスや経済苦の人を全て救うことができずにいる。愛を超えるものは何か。愛という抽象的な事よりも、ベーシック・インカムのほうが人を救えるだろうか。それとも愛が欠けているから残ってしまう苦しみなのか。最低限度のセーフティネットについて、もっと研究や実行の進む状態が現れて欲しい。
2008.12.04
(10月20日のブログに反貧困大集会のリポートを書きました)(31日のブログにズームインで辛坊さんがBIに近い発想を述べられた記述しました)清水書院の『ケインズ』(浅野栄一)を、少し読み進めると、49~51ページに、ケインズが1930年6月に行った講演、「わが孫たちの経済的可能性」の紹介がされている。100年後にどういう状況になっているかという趣旨だというので、2030年には世界経済はこういう状態になっているであろうという予測をされていたということである。そこには、人間の経済的欲求には2種類あり、「人間が人間として生活していくための絶対的欲求」と、「仲間に対する優越感を味わおうとするための相対的欲求」であるという。2030年にあと10年というところにいるが、現在は、相対的欲求を持つ人が、収賄罪や詐欺などで逮捕される報道があったり、絶対的欲求をかなえられない人を作り出すほど、アンバランスな相対的欲求をかもし出してしまっている状態にも思える。しかしケインズは、楽観的に、絶対的欲求を満たすことのできる人が多くなれば、相対的欲求を人は競うことなく、金銭的に満足して非経済的な欲求に身をささげるようになるだろうと、より良い社会になると予想していたらしい。「このように人類最大の問題であった経済問題が解決されると、われわれは2000年の長きにわたって人々を悩ませてきたエセ道徳律から解放されることになろう」「これまで資本蓄積という下での人生の享受と実現のための不可避的手段である貨幣愛とは区別された、蓄財のための貨幣愛は、いまやその地位から引きずりおろされ、半ば犯罪的で半ば病理的なものとして見られるようになるであろう」ケインズも、資本主義の必要以上の蓄財は神経症的な病的な潜在的感情を伴う行為だと見ていたのだろうか。また、人類は必要以上の強制的な労働から解放されるために、工業技術的なオートメーションなどを発展させてきたのではなかったのだろうか。ところが現状は、効率に進もうとすると非効率になるという、茂木健一郎さんが「脳と日本人」で語っていたことのようになってしまう。なんらかの不安への反復強迫性を持つ人の指示が多くの部下を洗脳してしまうからなのだろうか。「また、この貨幣愛と不可分に結びついたあらゆる種類の社会慣行と経済的慣行も、われわれはついに自由に放棄することがdけいるようになるであろう」「少し経験を積めば、人々は、新たに発見されたこの自然の賜物を、いまの富者とまったく異なる方法で上手に利用することができるようになるであろう」夢のような、気持ちの良くなる考えとはこういう考え方ではないだろうか。その方向に進めば良いのに、それをなぜか抑えてしまう傾向の人たちが経済的にリードしてしまう構造というのは、精神分析的に語ってくれる人が、マスコミなどに出てくれれば、代替的な考え方としてヒントを与えてくれそうに思うのだが。ケインズは、貨幣愛を利用せざるを得ない時代は100年は続くしかないといわれていたというから、あと10年。ケインズの予言は、しかし詰め将棋のように、あと10年で現状から脱皮して逆転正解となる可能性だってあるかもしれない。また、そう思えるようなところが、アメリカンドリームのような映画だって、奇跡を最後まで信じることに興奮できたのではなかっただろうか。浅野栄一さんは、ケインズが、経済問題よりももっと大きなもっと持続的な重要性をもった他の諸問題を犠牲にしてはならぬとその講演で発言した、重要性をもった他の諸問題とは、ムーアから学んだ、人の心の状態、人間交際の楽しみと美の享受と書かれていて、お金という媒介物によって、人類の途中まではその道具で社会を整えていくしかないが、それが満足するような配分になって行き、それがきれいな空気のように、あるけれど意識されないくらいに普通に手に入っているような状態の上で、人々は愛や精神性を高めることになっていくという予想をケインズは語ったのだろうか。ベーシック・インカムが大いに関係してくる話のように思えてくる。お金や強制的労働に煩わされることのない自由な段階の社会になるように、人々は工業技術化を進めていったのではなかったのだろうか。現在はまったくそうではない方向に見えているのだ。ある種の人たちの欲望が基本的商品のバリエーションと過剰を生み出し、寡占、独占して行き、持てる者と持たざる者の格差を生じさせてしまった。選ばれた才能と努力を持つ人たちが、数億円、数十億円とも言うような年棒の話題がずっと出てくるが、それを素直に賞賛する時代から、もう一歩進むと違う反応に多くの人がなっていくのだろうか。こんなことを書くと正月は冥土の旅の一里塚などと言うような、ひねくれたことを書くなよと非難を浴びてしまうかも知れないが、少数の才能ある人が莫大なお金を得る一方で、多くの持たざる人が生活困難になっている対比のほうを感じてしまう人の反応や考え方もあるのではないかと予想してしまう。金子みすずの詩のように、浜辺で大漁を喜んでいる人間と、海の中で仲間の犠牲を悲しんでいる残された魚たちのような対比の感性は、ひねくれているわけだけではなく、違った視点というところでなんらかのヒントを提供できないだろうか。とかく違ったことを言うと批判されたり、ホームレスへの襲撃事件なども少年が起こしてしまうような報道もあった状況がある。そういう世の中の状況を生み出してしまう構造の背後を探り、病理的なイメージすら覚え、治していかなければならないはずが、日々過ぎてしまっている。ケインズが、貨幣愛を過渡期のもので、やがて克服されるものであると考えていたことに希望を持ちたい。53ページから、54ページにかけて、「多くの場合、精神活動としての文明は、ある程度の経済的なゆとりのうえに開花するものでる。貧困は、経済生活のために多大の時間を割くことを必要にし、それ以外の精神活動のための余暇時間を与えてくれないからである。ケインズが経済学者として生涯努力してきたのは、この余暇時間を生み出すべく経済生活の向上を達成することであった」こういうことを考えてくれた先人がいたのだが、なかなかそういう考えを継いで実行できる人がいないまま日々が過ぎて行く。人生において何を目標とし、どういう設計図がかける社会を構築していけるか。ある発信をどう評価し、どう受信し、発信を返すか。その発信を返した方法以外に、違う発信の仕方はなかったのだろうか。
2008.12.04
(10月20日のブログに反貧困大集会のリポートを書きました)(31日のブログにズームインで辛坊さんがBIに近い発想を述べられた記述しました)『脳と日本人』松岡正剛・茂木健一郎(文藝春秋)から、148ページ、松岡「~ぼくは、菩薩に一番ひっかかっているのです。菩薩は悟りをひらかない、如来にならない仏様なんです。自分ではゴールまで行かないで他人のためにウェイティングしているんですね。それと先生というのは関係あるかもしれない」茂木「今は、子どもの教育ばかりでなく、大人であっても、たとえば、サラリーマンにしても、企業の効率をあげるためにどんどん忙しくなっています。一方、森の中にある日だまりだとか、流れの中の淀みだとか、そんな時間はどんどん減っている」学校や企業という組織の中での関わりが、何を目指していたものだったのか。例えば、東の横綱と西の横綱が勝負をして、勝ちと負けが生じるとしても、勝ったほうも負けたほうも横綱という立場である。トッププレイヤーである。しかし、序の口からの階層の積み上げによって横綱や幕内が生じることになるのだが、勝てない序の口は廃業せざるを得なくなってしまうということがある。競争主義、能力主義、どこまでも勝たなければならないという方法論から逸脱してしまう人が生じるということ。そういう世界に、ゴールを切れるのにもかかわらず、ゴールしないで他人を待ってあげられるという状況が生み出せるだろうか。漫画でいうと、サラリーマン金太郎みたいな人が現実に出現するようなことが至るところで勃発するようになったとしたら。166ページ、茂木「原型となるものに出会ったときに、ストーンってくる感じは何ですかね。生れ落ちてから学習を積み上げるという脳のイメージからはずれている。なにしろ、それまでの人生で一回も見ていないものを見て、これこそが自分が求めているものだとわかるわけですから」学習や経験の積み重ね以外に、人生が転換されてしまうようななんらかのきっかけが、向こうからやってくるということがあるのだろうか。または、新たな感性やきっかけを持っている人との出逢いというものからだろうか。『チベットのモーツアルト』中沢新一(講談社学術文庫)の「孤独な鳥の条件」の中に書かれていることに通じているような気がした。ほとんど私の狭い解釈能力ではわかってないのだが、なにか通じているように思った。この本は、難しくてほとんど理解できないので、ざっと飛ばして眺めていたが、ランボーのことを書いた「砂漠の資本主義者」の中の、317ページ、「なぜなら商人になること、しかももうけた金をたちどころに使い果たし、すこしも蓄積しようとしないまるで経済観念のない商人になることは、もともと世界の無ー組織化をめざしている資本主義のユートピア的な理想を生きることにほかならない」と書かれているのになにかヒントを得られないのだろうかと思った。「資本主義の夢とは、蓄積することでもなく、世界を新しい秩序のもとに組織しなおすことでもなく、いわば世界をその解体に向けていざなっていくこと」現実の今の不況の問題のことを思うと、たしかに儲けられて使い果たしても生きていられる人生なら夢のようだろうと思うが、夢を見ることができず、お金を蓄積して独占しようとしてしまう強迫神経症的なところに入り込んでしまう人がリードしてしまう場合も多々あるのだろうかと思う。前の本に戻ると、191ページ、茂木「なぜか、効率を表面的に追求していくと、非効率になりますね。経済システムも含めて」192ページ、茂木「効率だとか、ある種の会計システムがあって、それによって全部を規制しようとすると、多様なツールによって成立している有機的組織体の核のようなものが破壊されてしまう」このうまく行くだろうという追求をしていると、おかしなことになってしまうというパラドックスはどうして生じてしまうのだろう。『シュンペーター』根井雅弘(講談社)、この本は、経済学者の伝記的なところばかり読んでしまい、理論的なところが私の狭い能力では理解できずにざっと読み進んでしまったが、副題が「企業者精神・新結合・創造的破壊とは何か」になっていて、新結合というのがイノベーションということなのだろうが、静態的ではなく、経済は動態的に見なくてはならないというところはなんとなく感じた。経済学を学んだ人などが、このブログを読むと笑ってしまうだけで、お前は小学生なのかといわれてしまうかも知れないが、難しいところはわからないとしても、なにかしらのヒントを得たい。双方向性にしてないところが偏見で成長のない状況を続けてしまうが、誰かが、この間違いや愚かさの中からでも何か感じてくれるのだろうかと想像すると、まったくなにもないわけでもないようにも思えてくる。いや、そう考えたい。『ケインズ』浅野栄一(清水書院)を読み始めたばかりで、これからなにを感じられるかなどわかっていないところだが、21ページ、「当時イギリスが経験しつつあった転換の第一は、経済活動のうえでの自由競争から独占・寡占への市場のしくみの大変化、つまり多数の小規模企業どうしの激しい生産・販売競争から少数の大規模企業による市場の支配へという市場の競争機構の変化である」と書かれているが、たしかに、企業の大企業化や、競争しているうちに独占・寡占するところが出てしまうというところあたりにも、格差社会とか、派遣労働者のリストラとか、長期失業者増加などの問題点を生み出してしまうところと大きく関係があるのだと思う。今日のニュースでは、大企業でも100人以上のリストラが検討されてきてしまったなどという話が出てしまっているが、500万円、800万円などという給与をもらっていた人がそういう状態にさらされた場合のショックは大きいかも知れないのだが、もし、大企業にリストラが生じてしまうなら、職場を離れても自営で新しい企業を立ち上げられるようなタイプの人をリストラして、その人が、新しい企業を立ち上げて雇用を増やしてくれるような、方法をとって欲しいというか、そのために大企業はそのリストラした人の新しい企業をサポートして欲しいというようなイメージを感じた。大企業にいても、独創タイプでない人がリストラしてしまうと、単なる転職になってしまうが、独創タイプの人が新しい企業を創るようなリストラなら、大企業のサポートも含めて、仕事につまってしまった経営者や、仕事が見つからない人と合流して、新たな流れをつくって欲しいような気がする。私の想像なので、わけのわからないことを言っているにすぎないかも知れないが、組織を離れたために、新しい人生と社会の活性化を創りだしてしまう性質の人もきっと潜在しているのかも知れない。しかし、安心が創造性の基盤には必要だという研究もあるようなので、どこかしっかりしたところのバックアップが必要なのだと思う。企業からあぶれた人が、ホームレスになってしまう構造はおかしなことで、小説とかドラマのどこかに、大企業からリストラされた人と、ホームレスやハローワークなどに通っている人が出会い、新しい企業を起こして行くみたいなストーリーが無いものだろうか。双方向性にしてあったら、紹介してくれる人がいたかも知れないが、そういうドラマなどをもしかしたらテレビで見ていて、ああ、あのドラマがそうだったなと言われたら思い出すかも知れない。例えばハローワークも、現存する企業と求職者のマッチングのほかに、企業家精神のある人と、そういう人に忠実な人などをマッチングさせて、新たな企業へのサポートをするというような、紹介を加えてみるとどうなるだろう。転職エージェントがやっているような、大規模な就職説明会みたいな方法を地方の中小企業でも行える方法がなにかしらできないものだろうか。どの総理も良いところ、悪いところがあったのだろうが、小泉元総理の頃の、2200億円の社会保障費削減という政策を検討しなおそうという動きは、反貧困の大集会でも声をあげていたことなので、そういう雰囲気になってきたが、一方、小泉時代には、新しい雇用創出や、1円で株式会社とか、そういう起業へのモチベーションをあげようという気を発揮させていたようで、麻生総理はまだそういう雰囲気づくりをしていないところがマスコミからいらいらしているという発言をされてしまっているのかも知れない。意識が変わると、普通に考えると信じられないような飛ぶような動きができてしまうようなことが、チベット~の本に書かれていたが、起業精神を高めるような雰囲気づくりというものが背景から出てくれば、そう思う人は多くなるだろう。時代精神というのは染まらないようで多くの人が染まってくるのかも知れない。ベーシック・インカムや、農業の復興などのチャンスを潜在させているとするならば、そういう数字ではない方面からなにか新しい政策の報告があれば、またマスコミ報道も印象も違ってくるかも知れないように思うのだが。かといって、自分は独り言をつぶやくようなことしかできないでいるが、誰もが楽しく暮らせている社会になって欲しいとずっと思っている。深く難しいことを正確に吸収できず、頭が良くないのが残念だが、なんとかならないだろうかという気持ちと、笑われるようなことでも書いて発信すれば、反面教師とは違うかもしれないが、なんにも無いよりは違うかなと信じていたい。
2008.12.03
みのもんたさんのTBSテレビの「朝ズバッ」で中小企業や零細企業の不況の現状をドキュメントした。「ほっとけない」というコーナーである。両親が創めた町工場を48歳の息子が30年間一緒にやってきたが、父は病気になり、母も高齢化となり、68歳の従業員2人と自転車操業になっていたが、100年に1度と言われるこの不況で、機械のローンが重くのしかかり、工場維持の売り上げにならない状況となっているという。真面目に長年継続して働いてきた人も、こういうように苦しい状況になっていることをその工場の人たちは実態を見せてくれていた。また息子さんは、仕事を真面目に長年やってきた人だが、独身だというのも、自転車操業で大変だったことを物語っていると思う。この工場の人たちは番組に出てくれて、報告してくれたが、このように苦しい状況になっている人たちが相当いて、代表してくれたわけである。この番組の瞬間を、無駄にしてはいけないと思う。私自身には解決能力が無く、思いつけないのだが、違う業界の国や自治体や大企業のトップ層や余裕と余剰のある業界の人がなにか考えて実行してくれないとどうにもならないように思う。下請けの工場が仕事が無いのは、業界の仕事を発注するラインも仕事が減ってしまったからであるから、違う業界の、余剰と余裕のある業界のある人が考えてくれるしかないのである。41歳の私が、まるで嫉妬のような書き方になって申し訳ないのだが、そういう意味で書くわけではなく、考えがまとまってないために、誤解されるような喩えになってしまうかも知れ無いが、相当の実力と練習の成果とは言え、ゴルフの石川遼選手などは17歳で1億円の賞金ということでにぎわったし、石川選手の周囲の経済効果はすごいものになる。そういう人がほかに大勢いるのだが、そういう人たちも困っている人を助けてくれる力を持っている人だろうと思う。石川選手のような選択こそ、勝たなければ賞金がもらえない、ハイリスクハイリターンのスタイルなのだが、それも今年の後半集中的に賞金を得たという極端な立場ではあるが、それでも、大きな可能性を持ち、うまくいってない人を助ける力のある人たちなのだと思う。また、機械工業の飽和とか、余剰のある時に購買される製品がまず、不況だと買い控えられるということにもヒントがあるのだろうか。長年、製造してきた部品が多くの人の使用する機械や車などに使われて、貢献してきたのに、不況で苦しい状態になってしまう。こういう社会の仕組みをどうすればよいのだろうか?私にとっては、解決の方法がわからないので、こういう番組を見たことの記録をバトン渡しのつもりで、ただ見ただけで通り過ぎてしまうのが後ろめたく、ブログが継続できている状態ならばこの番組について、記録しておきたかった。栄誉あることならテレビでも新聞でも賞賛されてうれしいだろうが、生活が苦しいということでテレビに出たり紹介されるのは、勇気のいることだろうと思う。しかし、そういう現状を告知することで、国や大企業のトップ層などに問いかけたい気持ちもあると思う。マスコミがこういう取材、報道をしてくれることで、問題が提示される。そして、その情報に出会った人は、解決のためにはどうすればいいか、もとの情報をバトン渡ししていくことが必要だと思う。みのさんが、会社更生法が大きな会社に適用されるけれど、小さい企業には適用されないのはなぜなのかというようなことを言っていた。また、天下りについて、これでいいのだろうかという話をしていた。中小企業や零細企業の資金がショートした中での赤字の場合と、大企業の利益や資金蓄積はあるのに、派遣労働者を大量に解雇するということには違いがあるように思う。大企業のトップ層は平均以上のお金を生活費として得ているのではないだろうか。それなのに、平均以下の賃金の派遣労働者を解雇するとは。このブログでは、長期失業者や、長期ひきこもりなど、雇用される側や就職できない側に立った見方をしてきたが、経営していたり、仕事をしている人たちが苦しい状態になっている、なってしまうということもある。また、みのさんの番組では、高齢者でも働かなければならない状況の人についての紹介もしていて、ハローワークでもそういう人たちの就職率が低い状況を説明していた。この、景気、不況、お金に左右されてしまう極端な仕組みをどう考えたらいいのだろう。お金を持っている人は持ち、持てない人は持てないという極端なことが生じてしまう仕組みをどう考えたらいいのだろう。お金と実態経済のアンバランスをどう考えたらいいのだろう。わからないのだが、どん底に陥ってしまった人が生活維持のラインは保障されるためのセーフティーネットの基盤に注視することからだと思っているので、力は無いのだが、こうして2年以上にわたり、ベーシック・インカムをこの場で書いていても、国は動いていないのだから、力の無いことは証明されているが、ベーシック・インカムの早期実現などを、外部に発信できる方法で、伝え続けているしか思いつかない。
2008.12.01
(10月20日のブログに反貧困大集会のリポートを書きました)(31日のブログにズームインで辛坊さんがBIに近い発想を述べられた記述しました)今日はほかの新聞は見ていないので、でもかなり衝撃的な報道だと思うが、どの新聞もトップなのかどうかは今のところわからない。毎日新聞のトップニュースが、「年金改ざん組織的」というタイトルで、厚生年金保険料の算定基礎となる標準報酬月額(年金記録)の改ざん問題で、舛添要一厚生労働相直属の調査委員会(委員長・野村修也中央大学法科大学院教授)が、社会保険庁の職員が組織的に改ざんに関与したと初めて認める報告書を公表した。とある。社説のタイトルを読むと、より衝撃度が増すのだが、国民だました「国家の犯罪」というタイトルであり、国が事実を改ざんしてしまうということは衝撃的である。年金記録手続きの複雑さや、事務処理の怠慢が起こるならば、その代替制度として、そういう不正が行われなくなるような条件のひとつとしても、ベーシック・インカム制度が話題に取り上げられないだろうか。ベーシック・インカム制度なら、同金額を同時に渡していくのだから、不正や間違いが今の年金制度のようには起こらない事務の方法になると思うのだが。食品偽装や耐震偽装など、組織内が不正をしてしまう話題が何度ものぼっている。経営者や上司が不正な命令を部下にしてしまい、部下が応じてしまうというケースが出ている。経営者や上司が良い場所からはもともと生じないことだと思う。悪い情報の連鎖は罪である。インターネットも自由と言いながら、悪い情報発信が問題を生じている。国は、信じられる機関であって欲しい。一番基本的なことをどうして書かなければいけないことになってしまうのか。国に勤務している人も人の弱さを持っているが、選ばれた人というイメージがある。最初からの構造が違っていれば、起こりえなかったはずの現在の構造もあると思う。戦争中は、戦争に反対した人が獄中でひどい目に遭うというような錯綜したことが行われてしまったりしたという。年金問題も、もし最初からベーシック・インカムのような順序の構造になっていれば、事務手続きでの混乱が生じなかったかも知れない。ベーシック・インカムという構想がずっと前から為されていることを、はやく多くの人に伝わるような状況が来ることを望む。
2008.11.30
(10月20日のブログに反貧困大集会のリポートを書きました)(31日のブログにズームインで辛坊さんがBIに近い発想を述べられた記述しました)間違えて、前半の文章を消してしまい、つじつまを合わせるために簡略化して後半につなげる。残念。毎日新聞の5面の発言席で、農林中金総合研究所特別理事の蔦谷栄一氏の寄稿から、農業の情勢変化を3つあげておられて、1つめの部分が消えてしまった。1つめは、「食料余剰から逼迫そして反落という基調の激しい変化」ということで、戦後の食料難の時代から、工業輸出国になって、輸入食糧で贅沢な暮らしを続けてきたが、外国も、日本の大量のまだ食べられるものを廃棄してしまっている状況に怒ったり、外国の異常気象などからの作物不足が生じると、外国は自国のほうの食糧供給を優先するだろうし、島国日本は危機的状況が突然来る場合も予想されてしまう。それから、大部分消してしまって再現できないが、「偶然を生きる思想」野内良三(NHKブックス)を読んで、サルトルとボーボワールの契約結婚のような話題に対しては私としては良い印象を持たないので、その部分が残念な本となってしまったが、偶然論を書かれた九鬼周三も性的に揺らいだ印象のある伝記的な記述が残され、男女の出逢いもそういう揺らぎのある状況のようにも思えたりもした。その本は、経済社会的にもヒントが書かれているように思い、今後その本やそういう縁について書かれている本なども読みたい。南方熊楠の縁の思想について、わかりやすくかかれていて、心と物の結束点が事となる。というのはイメージの喚起されるような話である。なぜか宇宙の中の地球に自然があり、その自然の中の物があり、それを加工して、商品・付随するサービスとして、お金というものを仲介して(この仲介物が問題だ)物が生活維持のための基盤となっていくのだが、心が介在しているから、事が生じる。当たり前のようだが、善良な心が失われたままで物と関わると、ひどい事になるということは基本的に大事で、その乱れが多くの問題を生じさせてしまっている。そういうことを書いていたが、大部分消してしまい残念。以下は、残りの半分である。つじつまのわからないところが出ていたら、前半消してしまった影響があると思う。***新報道2001で、ピーチジョンという会社の野口さんという、女性社長がコメントして、政治家というのは、違うほうの悪口や文句ばかり言える人でないとなれないのだろうかと言っていたが、そういうのも疲労する流れを作るだけのように思える。民主の小沢さんも麻生総理に向かい、皮肉を言っているところが印象に残ってしまう。麻生総理のほうが、小沢さんに文句のようなものを言っていた印象が少なく、これは編集か、私の偏見か。司会の黒岩さんだろうか、野口さんの発言の時に、顔がこわばって見えた気がしたが、マスコミも、そういう文句口調の多い場所であるように思う。(このブログもつられて、そうなってしまうのか・・・。文句というのもつられてしまう。批判した人に対する批判が連鎖してしまうからである・・・)蔦谷さんの2つめの情勢変化として、高齢化した担い手のリタイアが相次ぎ、絶対的な後継者不足と遊休農地等の増加、限界集落化が加速している。とある。この10年前にはすでに危惧されてきたことがいよいよ危機感を帯びてきたといえるだろうか。まだ国民全体は、豊富な輸入食料を大量に廃棄している中でいる。勉強して、良い会社に入り、良い賃金を得て、そういう場所にいる人たちは、逆に、危機感を提供している論文が新聞に出ていても、見ることは見ているが、流してしまっているのだろうか。生産者が暮らすための商品交換としての食品が、消費者が安く、安くと買い叩いた状況の延長上に、食品偽装なども見えてこないだろうか。中曽根内閣の時代には、消費者が大いに農業生産者に対して攻撃性をもったことが、農民作家の記録などに記録されている。3つめが、これが矛盾しているような難しいところだが、WTO(世界貿易機関)交渉が、金融危機による世界不況を回避するため合意を急いで貿易自由化を推進しようとする動きが強まっていると書かれている。本当に国際分業のメリットとはどこまでも持続できるものなのか?3つの情勢変化から蔦谷氏は日本農業の抱えている構造問題をあげる。「40%と先進国の中では最低水準にある食料自給率(カロリーベース)」「すでに限界にある米生産調整」「アメリカで生産されたトウモロコシの上に成立しているわが国畜産の実態」豚肉などの栄養源となる豚の飼育に必要な飼料の90%を輸入に頼る日本。その83%を占めているのがトウモロコシなのだそうだ。そしてその93%がアメリカからで、バイオ燃料の原料としてのトウモロコシの栽培などで、穀物相場が値上がりし、畜産経営を直撃してしまっている。それを蔦谷氏はこういう。蔦谷氏は当事者でありながら、言われているのだから、いよいよ危機感が高まり、言葉が行為、改善へと向かう時期にきたのだと信じたい。「飼料穀物等土地利用型農業の多くを海外に依存して、国際分業によるメリットを最大限に享受してきた一方、米生産調整による転作を食料自給率維持につなげることができず、食料自給率の低下を招いてきた。まさに食料余剰基調を前提に展開されてきた農政のツケが一気に噴出したもので、真の意味での戦後農政の転換、構造改革が急がれる」そして、蔦谷さんは、改善策として、米を畜産飼料として使うことや、米粉による、米麺、米パンなどの用途を増やすことを提案しているようである。「筆者は非主食用米生産を米生産構造再編のテコとして位置づけていくことが必要と考える。食料自給率向上と食料安全保障の確保を課題に、水田の多角的利用と畜産の自給飼料基盤の確立をはかっていく。」さらに具体的に実施するために、「このために相対的に価格の安い非主食用米の再生産を保障する『水田維持直接支払い』の導入をはかり、品目横断的経営安定対策では不十分な農地集積による規模拡大メリットを創出していくことを提言したい」で締めくくられている。蔦谷さんの発言により、農業の大規模化、企業化の問題も生じてくると思うが、私は小さくても家族や仲間で暮らせるような農業イメージにもっていければと思うが、なかなか理想的な発言に出会うためには、もっと調べなければならないし、蔦谷さんの言われるように、国内で飼料生産を増やすというシフトで、解決の道筋があるのかも知れないというような情報はもっと流れて伝達されて欲しいものである。裁判員制度にしても、全員ではないが、通知が来た人にとっては、国主導の義務みたいな意味あいになってしまい、そういうことが出来るのなら、国は、もっと農業衰退を、工業国としての人の飽和と照らし合わせて、産業のシフト化、工業国から、農業国に揺り戻すような設計図を描いて指導してくれないのかどうかと思わせられる。意外に、工場の生活から、田畑の生活に、太陽の下で働きたいと思う都会で生活してきた人もいるかも知れない。「鉄腕DASH」のような、アイドルタレントが農業生活をずっと紹介するような番組もテレビで行われてきている。生まれる前から家でとっていた新聞が毎日新聞というのも縁だと考えると、図書館に行くなどしてほかの新聞も見られるのではあるが、なかなか毎日そういうことをするのは難しく、毎日新聞の感想みたいになってしまうことが多いが、また、ネットニュースでもそういうこともできるかも知れないが、今日の毎日新聞のトップニュースは、社会保険庁が年金改ざんを組織的にやっていたという、国の詐欺というようなニュースになってしまっていて、悲しいことである。国という基盤が信じられなくなると多くの人がぐれてしまうかも知れない。社会保険庁で勤めていれば多くの人より安定した身分なのだろうに。こういうことを考えても創造的になれない。そういうことを調査して明らかにできている修正機能のほうを評価する。「偶然を生きる思想」の中で、「出逢い(偶然)を実りあるもの(目的的必然)とするか不毛なもの(偶然のまま)にとどめるかは、ひとえにそのスタンスにかかっている」と書かれている。先に購入してざっと読んだことのある、『偶然性と運命』木田元(岩波新書)が引かれていて、この本も再読してなにかヒントを得たいのだが、偶然がやってきた時にそれを掴めるための力を持っていることも大切だとある。そして、私がそれを読んで思うのは、それぞれの人の個性を活かせることの出来る、周囲の用意されている場所の多様化ということである。いくらなんらかの力を備えていても、その力を発揮できる場所が用意されないとそれが存在することないまま終えてしまう。だから、それぞれの人は得意なところが多様化しているのだから、多様化した力を発揮できるための、多様化したさまざまな行為が用意できる場所の設定、創出が必要なのだと思う。
2008.11.30
(10月20日のブログに反貧困大集会のリポートを書きました)(31日のブログにズームインで辛坊さんがBIに近い発想を述べられた記述しました)次のように、内閣府にメール提案しました。「製造業中心に数ヶ月の間に数万人単位で派遣労働者が解雇されるということが通知されたのでしたら、その大量の人たちが解雇される前に、東京ドームなどで国が率先して解雇される前の人たちを集中的に意図的に集めて、新しいイノベーションを生み出すための、創造大集会を行ってみるといかがでしょうか。それをインターネットなどでリアルタイムに実況すると、国民も全体で新しいことを考えるのではないでしょうか。数万人の人たちが新しい団結をして、新しい発想と産業組織がいくつか生まれてしまうかも知れません。市場の失敗は国でないと悪化を防げないと思います。ご検討ください。よろしくお願いします。」ブログを書けたり、インターネットでメールできたりすることは、リアルタイムの一瞬が、世界を社会を救うアイデアを提供できる可能性を持っていることになります。国民として、どこの政党が現在政権になっていても、現政権に精一杯自分のできる方法の範囲内で協力し、国や世界を良くしようと考える立場が正しいことだと思います。反対や批判や中傷していても、変化はありません。悪化させるだけです。多くのブログやインターネットでメールできる国民の一人一人が、アイデアを政府に提供できれば、この派遣労働者のこれからも、悪化する前に、救うことが出来るかも知れません。そういうことにインターネットを使うことが、インターネットのイメージも効果のほうが高いということにしていくことで、一人一人の使い方で、良いものにも悪いものにもなるのが、インターネットというツールだと思います。皆さんも、ここ数ヶ月に数万人の人がフリーになるという課題から、どうすれば、そういう人たちが救われ、社会も良くなるという論文を考えて、内閣府にメールして見ませんか。たとえば数万人の人たちが農業に転進すると、食料自給率が39%で、平均従事者の年齢が65歳のところにどういう変化が起こるでしょうか。もちろん、職業選択の自由があるので、個人が最終決定することですが、ヒントを与えることが出来るのは、市場が失敗している最中では、国や自治体の担当分野であり、代表制ということで、政治家の人に代わりに考えてもらってはいますが、民主主義なのだから、国民の一人としての意見は基本だと思います。あなたのアイデアが、ここ数ヶ月でフリーになってしまう数万人の生活悪化を助けることができるかも知れません。匿名でも内閣府にはメールできます。こういうことは、私だけが特別に出来ることなのではなく、インターネットが使えて日本語が出来れば、誰にでも出来ます。あなたのほうが、より社会のことを知っていると思うし、正しい意見が述べられると思います。一人のアイデアは千差万別で、多くの人の数々のアイデアの中から、可能性が増えて行きます。強制など出来ることではもちろんありませんが、文章がただ読まれて流れるだけということでは、無力です。しかし、より良い社会にして行きたいという希望を込めた文章のほうにこそ、力を持ってもらいたいと思います。人間は知恵ある動物です。考えることが出来ます。ただ、失業者が増加して求職競争が増え、より難しくなったと考えるだけでは無く、不安がるだけでは無く、インターネットなどを使って、どうすれば、解決できるのか。一人一人が、アイデアを出して、内閣府などに提出するのです。イノベーションを設計するのです。奇想天外なことを流して笑われると躊躇するよりも、多くの人を助ける可能性のほうを考えて、論文を内閣府にメールしてみませんか。国の人たちも、国民が真剣に問い合わせをしてくれたと喜んでくれるのではないでしょうか。学者じゃないからとか、そういうことは関係ありません。気持ちが大切です。なんとかしなければと思えれば、出来ます。なんとかしてという気持ちを伝えることだけでも大切な事です。あなたのアイデアが多くの人を助ける可能性が瞬間瞬間にあるのです。
2008.11.29
(10月20日のブログに反貧困大集会のリポートを書きました)(31日のブログにズームインで辛坊さんがBIに近い発想を述べられた記述しました)ベーシック・インカムという今はまだ無い構造が現れた場合、相当数の人が盗みなどの犯罪行為などをしないで済む人を生じさせるのではないか。労働とお金の癒着の構造とそれを受諾する人の感覚の固定観念が、解決できない盗みなどの状態を反面、生み出させてしまっているのではないか。天下りとか、独占とか、経済的に逆に、お金を持つ過ぎることも罪になっていたり、批判されたりする。そこらへんのアンバランスがさまざまな立場の不正常を表出させてしまっている。大金持ちが使い切れないほどのお金を持っている間に、多くの人が生活苦で倒れている。お金に左右されてしまっている社会構造は、いまだに問題解決されていない。毎日新聞9面の、「食料小国ニッポン 自給率回復の道」の連載3回目に、食品ロスの話題が書かれている。ふぞろい野菜が売れているという話の中に、数字が書かれている。2005年度の統計で、食品廃棄物が年間約1900万トン出ていたとなっている。食品メーカーや流通、外食などの業界から出たものが約800万トン、家庭の食べ残しなどが約1100万トンなのだそうだ。このうちの500万トンから900万トンがまだ食べられるものだったと農水省が推計している。北九州で、生活保護を断られ、おにぎり一個が食べたいと書き残して餓死した男性の話は、もっと強烈に認識されなければならないのではないか。そこまで、不器用になってしまい、生命を落としてしまうところまで我慢してしまう人もいるのである。少ない労力でお金は莫大に動かしてしまう人もいれば、長時間労働のワーキング・プアもいる。お金と労働の関係などは、こんなに不公平なことはないのである。それを、単純に、働かざるもの食うべからずと言っている人は、そういう考え方が、全体的な不安定を固定観念化していることにまで、考えを進めて欲しい。なにも怠けたいとかそういう意味をここで問題提起したいわけではなく、好きなことが仕事になった人は、遊びか仕事かわからないほど、融通無碍であるというような話もあり、とにかく、まず、労働や仕事という言葉遣いの印象も問題かも知れないが、働いていない人が餓死やホームレスにまで追いやられてしまうということが、構造上のアンバランスから生じているのではないかと捉えて進まないと、自己責任という曖昧な、問題解決できない言葉でストップしてしまう恐れのまま、過ぎてしってしまうのではないかという危惧を持つほうの感覚を用いるべきではないかと思う。作り続けて結局は環境汚染してしまったという行為がお金はもらえたけれども、人間の健康を損ねるほうにもっていってしまったことは果たしてよい労働だったろうかという話にもなり、他人の心を傷つけてまで、売り上げ至上主義で生きたことが良い他人との関係の人生だったかということにもなる。以前だいぶ前だが、ラジオで、ひきこもっている人がダムのような役割で、労働市場のアンバランス、仕事の無さのバランスをとっているとか、温暖化だって、労働することによって加速されるなどの話が流れていたことがある。このように、労働とお金と生活の密着した関係に、新しい概念を吹き込まなければ、誤解と喧嘩になってしまうような矛盾した構造の中にいるということをうまく言えないから、このブログも、コメント閉鎖したり、一方通行になってしまったりするのだが、すべての人が、融通無碍に楽しく生きられる方法は新しい考え方を導入しないとどうにもならないだろうという思いがあるから、ずっと書いている。ただ、言葉がうまく言えず、考え方も足りないことや、やはり従来の考え方の人の考えも強いのだということである。ただ、生物的に考えても、農業のような食べ物や水や空気の安全が生命維持の根本だろうし、心の正しさやあたたかさが共同して生活するための根本であろうが、企業社会、技術社会、市場社会という方法は、大きく便利を供給できたし、このブログだって、市場社会のおかげで、書けているものなのだが、その技術能力格差などが、すべての人が生活しやすいための状態からの逸脱も生んでしまったという、功罪が、注目すべき、多くの人がどう改善していったら良いのか考えるべきポイントかと思う。もちろん、多くの人がそういう改善案を提出し続けている。その改善が実現するためには、一人一人として、一人として、何をどうすればいいのだろうか。ただ「働け」という号令では解決できない時代にいるし、働いていた人を突然リストラしてしまったり、不況ではなかなか仕事を提供できず、長期失業者を生み出してしまう構造を持つものが市場主義の中にいる企業という存在である。もっと多くの人が、市場企業経済だけではなく、安心して生活維持でき、暮らしていける方法を多様化させることに、意識を向け、そういう経済発明の方法を編み出してもらいたい。私としては、ベーシック・インカムが基本的に存在していて、それが空気のようなものになっている時代であるという前提があり、人がそれぞれの個性の上に、自給自足的な、食料を無理の無い量を家族や仲間と楽しみながら育て、文化的な創造のできる、競争主義がエスカレートしないくらいの上乗せの仕事の仕方で暮らせる構造を願う。このブログを書き始めてからも、ずるずるととてもそういうイメージが遠くて実現なんて夢のようだという水準で日々が過ぎるだけだが、こういう考え方を持つことが出来ているということに自分を大事にする意味を込めたいと思う。経営の分野では、WIN-WINというような、双方が納得できる関係が最高だという記述があるらしく、それはその通りだと思う。他人が迷惑な情報を流すことは大きな罪であるはずなのだ。そういう情報を流していた人が、改心してくれることは、とても大きな効果を生み出すはずである。そういう人が、社会をよりよく出来る力があるのだと気づくと、多くの留まっている課題が解決されてくるかも知れない。お金の量に惑わされず、暮らしていられた場所にさえ、日本などは率先して、お金の必要な社会構造を輸出してしまっている。そういう見方をすると、市場主義、能力主義、競争主義、技術社会、お金の量が必要な社会という構造で率先できる人というのは、なんだったのだろうと思わされる、功罪も感じてしまう面もあるのではないだろうか。経済問題、生活のアンバランスが生じたというのは、人と人との愛や心の重要性より、商品やお金を重要に思ってしまった人が増加してしまったという倒錯の問題なのだろう。もっと人間らしく、穏やかな心で周囲の人と通じ合える構造が、市場管理競争能力技術主義以外の居場所を増加させることによって、創造されることを迅速に望みたい。
2008.11.29
(10月20日のブログに反貧困大集会のリポートを書きました)(31日のブログにズームインで辛坊さんがBIに近い発想を述べられた記述しました)ある出来事が良い事なのか悪い事なのか、深く考えられないままずるずると日々が過ぎて行ってしまうという不公正な事が多くあるのかも知れない。それをなぜか気づかないままなのである。しかし、気づいている人がなかなか広く告知されることなく、語っていることがあるのだろう。学生の就職の内定取り消しが87社331人になっていると、厚生労働省の調査で報告されたた。毎日新聞でも、今、ズームインサタデーでもニュースが流れた。企業が業績不安定の場合、内定取り消しというような、信用の破壊が行われてしまう。企業は相当の人たちにセーフティーネットのような立場を与えているが、それが完全でないからこそ、格差社会になってしまったり、生活苦という、このお金のある国に生じている大規模なアンバランスを現実が証明している。市場に任せておけばやがてうまく行くという主義は、これだけ経済苦による自殺者や、農業の衰退などを見ていたら、間違いだということがどうしてわからないのだろうか。市場に任せておけば良いという主義は、上手に市場に乗れる人にとっては大正解なのだろうが、この方法では多くの人を苦しめてしまう、大規模なアンバランスを生じさせている。実際の個人的レベルでは、市場の不完全性の犠牲になってしまい失業しても、家族や仲間や共同体や、場所の構造によって助かる人もいる。失業保険という方法も、完全ではとてもないとしてもある。しかし、ネットカフェ難民やホームレスや夜逃げや自殺や盗みなどに直面してしまう人たちをどんどん出してしまっている。なぜ、こういう状態が、長い歴史の中で克服できず、進んでいるのだろう。人は、居場所がないと、行動できないし、何かを生み出せない。野球の大リーガーで何十億をもらう人も、大リーグがあるからそうなれるものである。企業に限らなくても、なんらかの生きることを継続できる居場所について、どうすれば、そういう状態が万人に隅々まで渡ることができるのか、そういう考え方が設計されて実現しないのはなぜなのか。解雇されても、次の職場が間髪いれずに見つかってスムースに移動できる状態ならば問題化しないというのもある。しかしそうなっていない。高度経済成長の時代と違って、工業製品製造業の飽和が進んでしまい、またグローバリズムの考え方で、外国で安い労働力と組むことによって、国内の空洞化が進んでいった背景もある。雇用のミスマッチも含めるべきだと思うが、居場所に合致できない人が増加してしまう時代の構造を、なにか変化させないといけない状況を、昔の通りの配分のまま、通そうとしているところにも問題が解決できず、悪化してしまう状況があるとも思える。失業率は高まるが、農業などの分野は極端に減少し続けている歴史を作り続けている。耐久製品として、飽和してしまった工業製品、製造業からのアンバランスと、昔からの多くの人が生活してきた農業を中心とした生活とのアンバランスが、お金という媒介物も固定観念を凝固させてしまって、違うステップに行けなくなっているのか。NHKニュースで、舛添厚生労働大臣へのインタビューをしていて、経団連と相談するような話をしていて、そういうところに政治の力が試されるところなのだろうと感じた。私の立場では会って話せるようなことは無いだろうが、経団連などのトップ層の人たちの本心は、派遣労働者の切捨てなどの現状をどう思い行っているのだろう。車や建築などの飽和した分野から、なにか違う受け皿のある分野へのシフトが考えられていれば、スムースな移動にならないのだろうか。その情報提供をするのが政治の分野でないと、市場に任せているばかりでは、解決しないではないかと思う。年間で経済苦以外でも、化学物質の健康被害とか、学校いじめや職場のハラスメントなどや長時間労働などの拘束によって発症する人もいると思うが、年間に自殺者を3万人も超えている状況が続いていることの犠牲によって、市場の不完全性の明らかなところが証明され続けていても、企業や市場中心の社会構造では犠牲者のことを捨ててしまったような無力でそういう状態を続けてしまっている。なにか考え方はないのか。新しい方法はないのか。方法が見つけられない人でも、私も見つけられないのだが、どうすればいいのか、心配して声をあげること、ブログに書くことは大事なのではないか。無理に書くこともないが、まったく危機感の無いような、むしろ、電話での詐欺など、他人に迷惑をかけることで助かろうとしてしまう状況に陥る人も報道されている。これも、核家族化とか、共同体の破壊など、伝統的な長い時間をかけて生きられるようにしてきた、人間の方法を、市場企業工業化社会が急速に変化させてしまったことからの迷走なのか。ものを盗んで捕まってしまう人も、ローン会社などから借入することが恥ずかしさなどから出来ず、そういう方向に走ってしまう場合もあるのではないか。もっとそういう心理も研究され、改善されるようにしなければならないのではないか。市場社会、企業社会の肥大が、どうしていいかわからず、盗みなどをしてしまう人を生み出してしまうのではないか。ローン会社などにしても、そこで借金することに抵抗を感じてしまう人と、そうでない人に分かれ、片方は借りられて危機から逃れる人がいるかも知れないし、そういう構造への対処感覚の違いが、せっぱつまった人を犯罪へと向かわせてしまうこともあるのではないか。(追記:たとえば、大企業が、派遣労働者をここ数ヶ月で万単位で解雇するということが報道されているなら、国が音頭をとって、そういう人と東京ドームなどに集合して、新しい何かを創出する現場に創造できないのだろうか。まったく新しいNPOのようなチームが出来るかも知れない。従来の方法だと、個別に新たな分散をするということだろうが、そこで新たな出会いをする人もいるだろうが。そういうリアルタイムで犠牲になってしまった人を国が集合を呼びかけ、仲間意識の中で、大きな今後の生活に持続できるような集会をしてみるならば。なにか生まれないだろうか。裁判員として急に呼びかけられるよりは、なにかしら生きていて良かったというような呼びかけにならないのだろうか。このアイデアを内閣府にメールしてみようと思う。)市場の失敗は、国が市場を超えるアイデアを出して改善するということなのだと思う。国民は、もし、企業社会に排除されているかのような状態になった人でも国民のはずである。それならば、企業の失敗を超えた立場を考え、国に提案するのが、企業中心社会を超えるための方策だと思う。たとえば、国会議員が国会議員削減などと言ってはおかしいと思う。自分の仕事に責任と夢を持っていれば、国民全員が国会議員になろうと、むしろ議員数を増やす理論になるはずではないかと思う。誇りに思う思想や行為を持っている場合、仲間を増やそうとするのが正しいのではないのか。あと不況といっても、セレブ層や大企業の経営トップ層は、ホームレスやネットカフェ難民にはならないのである。セレブ層や経営トップ層が、ホームレスやネットカフェ難民のことについて、心を痛めているのであろうか。そういうところに注目することが、アンバランス克服への方法ではないのかと思う。
2008.11.29
(10月20日のブログに反貧困大集会のリポートを書きました)(31日のブログにズームインで辛坊さんがBIに近い発想を述べられた記述しました)今朝の毎日新聞からは、16面の「雑誌を読む」で、加藤陽子東大准教授が、「朝夕の東京の通勤にあって、人身事故は毎日の生活の一部となっている。(略)死ぬ以外に何とかならなかったのか。(略)いまだ我々には年間3万人超の自殺者を出す社会に暮らす覚悟と叡智がない。地に足のついた死生学の議論の登場を望みたい」と書かれている。死生学ということだが、人が自殺に追い込まれないための、社会構造の構築がなかなか出てこないということもあるのだと思う。連日、新聞がこういう話題を誰かが書き続けている。そのおかげで、問題意識が持続する。6面の「記者の目」で、野沢和弘氏(夕刊編集部)が、「年金や医療や福祉など社会保障制度は複雑なものが多く、エリート官僚といえども高度な専門性を要求される仕事を短期間に意のままにするのは難しいだろう」と書かれていて、現実に仕事に携わっている場所の状況がこのような状態では、素人には手出しもなにも出来ないと絶望的な気持ちになりそうである。「省内のしがらみ、政治家やOBや業界団体の意向など数々の制約に縛られ、思うような権限を振るえないと実感している官僚も多い。その結果、政策決定システムの中心が空洞と思えることもしばしばある」官僚主導の政策が批判されることがあるのに、以上のような逆のような印象を受けることもあるのかと、よくわからなくなってしまうが、専門家のやっている場所のことは専門化がなされすぎていて、なかなか大変革は起こしにくい場所になってしまっているのだろうか。「歯車の集合ではなく、真に責任の取れる政策決定システムを官庁に再構築することが何をおいても必要だ。報道する側も知を集積し、奥の深い批判眼を養わなければと思う。」新聞やテレビ、ラジオ、雑誌など、マスコミの力は大きく、年金問題にしても、汚染米にしても耐震偽装にしても、マスコミが連日大きく報道することで、私のような末端にも意識づけさせられる。いまだ話題に大きくのぼってこないベーシック・インカムが持続して大きな話題となるためには、どういうところからどういう流れで事が起きるのかは、まだわからない。ベーシック・インカムのほかにも、かなり勉強が進んでいなくて、ほとんど状況がわからないのだが、在宅ワークの人が増えるような新しい技術の発現など、期待したい分野はあるのだが、(この分野はなんだか怪しい騙しみたいな情報も多く含まれてしまっている分野に思えてしまう。もっと確実な新産業の分野として発現しないだろうか)いずれにしても、ほかの人が発表するのを待つしかないという、自分自身の専門や秀でた分野が無いことへの無念はある。実際に該当する分野で中心を担っている人の変革的な思想からの行為が実現への一番の近道なのだろうが、残念ながら、私は、該当していない立場の、無力な現状からブログを書いて、願っているだけである。ただ、毎日とっている、新聞も私が目を通しただけでは、すぐ古新聞になるだけであるから、ブログに書いて、誰かにパスできることを期待しているだけでも、まったく忘れてしまうよりは、だいぶ違うものかも知れないと思いたい。上流から流れてきた情報を下流で受け止め、それをブログで流しておけば、やがて上流に循環していき、社会が変わるなんらかの間接的な行為だったかも知れないと思いたい。
2008.11.28
今朝の毎日新聞では、5面に、26日に開かれた全国町村長大会で、麻生総理のあいさつに、定額給付金などをめぐる不満噴出のやじが飛んだという記事が載っているが、市町村とは、住民が追い詰められた時に救ってくれるところなのだろうかという疑問がついてまわる。もし助けてくれと頼めば助けてくれる機関なのかも知れないが、なにか後ろめたさのような、恥ずかしさのようなものを感じてしまい、気軽なイメージがもてない。ほとんどの人は、勤務先の企業などからの賃金によって助けられているだけなのではないかと思えてしまう。民主の鳩山幹事長が、その場で、給付金に当てる2兆円を全市町村に10億円ずつ支給するように最後に提案したところ、大きな拍手が起こったと書かれているが、その10億円ずつがすべての住民に得をするような流れになるかもはっきりわからない。国からなにか新しい出来事を受けた場合、それをより思いがけないような方法で持ち上げるような流れにもっていけるような人が市町村の代表の中にいたなら、すごいと思うのだが。もし、その場で、誰か市町村長が、ベーシック・インカムという方法があるというようなことを総理に問いかえるような場面があるくらいなら、すごいと思ったのだが。市町村長たちが総理にやじを飛ばしているようでは、なにか欠落を感じる。かといって、こう書いている自分のほうは、段違いにそれよりも欠落している。無力に書き込みしているだけで、市町村長たち以上の愚痴の場に過ぎないことをしている。注意してみなかったので、漠然としているが、昨夜だったと思うが、爆笑問題の学問のすすめという番組で、早稲田大学の先生や学生たちと討論をしていたが、太田さんが、政治家ではなくお笑いで新しい政治を動かすようなことができれば、というようなことを言っていたような気がするが、どうすれば、政治家でもなく、お笑い芸人でもない、私みたいな立場の人でもなにかが動くようにもっていける方法はないのだろうか。などと無力なことと思いながらも考えたりする。その番組のホームページで、格差社会についての研究もされている、橘木先生が39回に出演していて、そのプロデューサーが、経済学を学んできた人で、現代思想に掲載された、「マルクス・貨幣・言語」という、柄谷先生、岩井先生、浅田先生の共同討議のことが書かれていて、浅田先生の「逃走論」の中に収録されていた記憶があり、再び埋めてしまった本を探し出し、はじめだけ読んだら、柄谷さんが「テレンバッハが、うつ病というのは本来なら順序があってやっていけるものが同時に全部やってくるために何もできない状態だと言ってい」ると書かれてあった。同じプロデューサーだと思うが、ニート問題などを研究されている、本田先生もその番組に出ていて、本田先生が、ニートは本人のせいではなく、社会構造が変化しているところからの問題提起の表れとみるべきではと言っているような記述が出ていたと思う。本人だけで解決のつかない問題は、周囲の視点が変化することで、周囲が思いなおしてくれることで、多くの解決につながるように思えるのだが、周囲の保守的な考え方が、固定観念が、壁になり、助からない人を生じさせてしまうというように思うのだが。社説には、「派遣切り」というタイトルで、派遣労働者が突然、明日で終わりだと派遣元から告げられたり、そういうことが書かれている。当事者の「派遣はいつ切っても平気な道具としか思われていない。年末年始をどうしのげればいいのか」と憤りの言葉が書かれている。報道されている大手企業だけで17000人以上の突然の解雇が予定されていると言う。企業もまた、すべての人を守ってくれる居場所では無い場所なのだとしたら、それは国や自治体が作ってくれなければならない場所がなければならないはずなのだが。もし、鳩山幹事長の言うように、10億円が各市町村に配布されたとしても、すべての人を守れるような構造に費やしてくれる市町村はないように思える。過去のことから推測すると。しかし、金額が少ないのが難点のひとつだろうが、個人への直接のお金の配布のほうが少しでも助かる方向に近づくと感じる人もいるのではないだろうか。家族や共同体や企業が、すべての人を守れるという構造だったなら、お金そのものに対する感覚も違うが、どれもが破壊されてきてしまった今日では、応急措置としてお金の分配がセーフティーネットとなり、その先に新たな、家族、共同体、企業との関係が個人と個人の間に生じてこないのだろうか。社説には、「仕事と住居を一遍に失ってしまうケースが多い。インターネットカフェで寝泊りしたり、そのまま路上生活に移行したりする人も出始めている。」「まさしく使い捨てだ。非正規を正社員よりも安い賃金で働かせ、巨額の収益を上げてきた製造大手が先行きに不安を抱くや、千人単位でばっさり切ることが許されるのだろうか。増益を見込んだり、多額の内部留保があったりする企業も少なくないのに、である。」と書かれている。これが現実なのだ・・・。こういうことが解決されないまま、何十年も犠牲者を出しながら過ぎてしまうのは、実は、政治家や自治体以外の他の国民の関係の無さからも生じているのだとしたら。真冬に、芸人が海パンいっちょうで「そんなの関係ねえ」と言っていた不思議な情景以上に、真冬でホームレスが寝ている公園のそばを親子がキャッチボールしていたりすることが現在進行形でなされてしまうのだ。いったい人間ってなんなのだろう?そして、案も書かれている。こういうところが大切だと思う。「企業には再考を求めたい。派遣元も含め、再就職先のあっせんなどにも手を尽くすべきだ。雇用の不安定は消費低迷を招き、景気悪化に拍車をかけ、社会不安も引き起こす。企業には重い社会的責任があることを自覚してほしい。」政府についても、「全国の実態を早急に調べ、問題あるケースがないか監視を強めるべきだ。就職先紹介やあっせん、失業給付金などにも万全を尽くしてもらいたい。」と書かれている。ハローワークなどで、当事者も精一杯サービスをしてくれているが、その尽力以上に、状態が悪化させてしまっているのは、企業の側の構造の問題か。社説には、2004年の、相次ぐ規制緩和での、派遣先の対象が製造業にも広がったことが、雇用の調整弁に使われるとの懸念があったことがまさに現実となり、今日の事態を招いたのではと書かれている。派遣先を専門業務に限るなどの労働者派遣法改正が抜本的に必要で、政府が今国会に提出した改正案ではそこまでなっていないという指摘で結ばれている。こういう重大なことが外でなされているのだが、新聞の読者としては、ただ目を通しただけで、古新聞にしてしまうことが、とてももったいないことである。自分にはせめて、ブログで、誰か読んでくれる人にパスすることしか出来ない。それも新聞そのものより、私の偏見が加わり、弱くなってしまうような内容をである。3面の発信箱には、与良正男さん(論説室)が、元厚生労働次官宅連続襲撃事件の容疑者について以下のように書かれている。「インターネットには今回の犯行を賞賛するかのような意見も見受けられる。書き込むのは少数の人だと思うし、本気で書いているとも信じたくない。」「勝手気ままに話すのが、言論の自由ではないのだ。」「無責任な発言ばかりになれば、かえって時の権力者により、言論は制限されていくだろう。その点も含めて、民主主義が危機にあることを、私たちは今一度、確認しておく必要がある。」与良さんの指摘のように、民主主義というのは、一人一人の国民が作るものだから、その一人一人が良心的であり、正しい社会や生き方を目指そうという前提で成り立つものだ。言論の自由というのも、それが踏まえられていてこそ出来るものである。それを取り違えてはいけないのだ。せっかくの自由を、防いでしまうようなことが、無責任発言であったり、他人を誹謗中傷する発言であったり、悪いことに便乗してしまうような発言であるのだ。そういうことをしてしまう人の心理的動機はいったいなんなのか。それも本当は他の人にも与えられている課題なのかも知れない。ひどい立場であっても、より良い社会にしようと思い、生きてきた人が多く、紹介されているのだから、ひどい立場にいたからひどいことをするのは言い訳にはならない。そういうひどい場所を無くして行くような、言葉の通じ合いが必要である。そういう気づきや方針を与えてくれていると思えた2つの記事だった。ベーシック・インカムもそうだが、昔の高度経済成長した時代と違い成熟したところにいるのならば、企業という物を拡大産出しようとする機関以外の機関ももっと考えられることが、生き方を求める人間として必要な面もあるだろう。あと、トフラーさんが、あらゆる時間にいろいろなことをしている人が増える時代になるだろうと書かれていたと思うが、なぜ工場などが夜までやらばければならないのかという疑問もあるが、逆にたとえば9時5時の時間に縛られていることもないように思えるし、もっとうまく考えられれば、自宅勤務する人を増加させることもできるかも知れないわけである。立場によって人は違うのだから、干渉しては変な状況になる場合もある。しかし、派遣労働者の突然のリストラなどの悲劇については、セレブな層であってもそういう不具合について、どうにか直したいと考えてくれる人が出てくれることが、問題解決につながるのではないかと思う。とにかく、現在進行形で、ホームレスやネットカフェ難民になってしまっている人がいるのであるから、それが十年も二十年も解決できないまま時間が過ぎているのだから、その変な状況にもっと多くの人が気づいて発言するようになれば、なにが社会のより良い状態であるか、違ってくるのだと考えたい。あと、現在、ブログのコマーシャルに、「銀行のカードローンだから安心」と書かれたものが出てきているが、なにをもって『安心』といわれるのか。住信IBSネット銀行からのコマーシャルだが、本当に、安心できるのですか?生活を安全に流通させてくれるのだろうか?そういう一生のめんどうを見られるためには、もっと総合的な貨幣の移動だけの話ではなく、総合的な仕事も含めてのコンサルティングがなければ、完全に近づけないのではないだろうか。銀行が貸し渋ると、企業家がひどい状態になったり、いろいろな現実的な難しさがあると思うが、安心したお金に対する、どこまでも通じるセーフティーネットの考え方と啓蒙と方法があれば、もっと助かる人が増えているはずだと思われる。銀行などももっと、新時代の発明的な構想がなされれば、セーフティーネットが強まる機関なのかも知れない。私のような素人ではわからない。プロの新発明に期待するしかない。銀行が、生活総合コンサルタント業みたいに、人の生活の保障をどこまでもかかわってくれるような、そういうことが出来ないだろうか。占い師とか心理カウンセラーとか、それだけでは、実際の問題解決としては欠けすぎてはいないだろうか。どこかとどこかと融合がなされないと、今の現存する機関では不完全が生じている。
2008.11.27
(10月20日のブログに反貧困大集会のリポートを書きました)(31日のブログにズームインで辛坊さんがBIに近い発想を述べられた記述しました)図書館にて、「餓死迫る日本」(小池松次)という本を発見した。著者は、昭和3年生まれだから80歳くらいの人だが、小学校受験のための幼児教育もしている人で、あすか会教育研究所の所長であるらしい。この本には、日本の食糧自給率は39%となっているとしたら、その数字よりもっと実際は自給率は低く、食糧輸入が外国からストップしてしまうと大変に悲惨なことになってしまうという警告の書であり、間伐材による、バイオマスエネルギーと、サツマイモ、ケール、コメ、ジャガイモの1家庭あたり300坪の自給により助かるのではないかという提案の書であった。大変に重要な考え方なのではないだろうか。あすか会教育研究所のサイトに10月に行われた講演の目次があり、内容の要約としてわかりやく有効に述べられているので、抜粋させていただく。「1、1億2千万の国民全員が自分の体重の十倍の食料・飼料・肥料を毎年輸入2、農機具・漁船の燃料、化学肥料、農薬、飼料の輸入途絶で日本は即刻自滅3、日本の商船隊2009隻のうち日本国籍船は59隻だけ。船も船員も外国任せ4、日本潰すにゃ原爆要らぬ船を半年止めりゃいい 腹が減っては戦はできぬ5、100億本もある間伐材でエタノール燃料を生産すれば6000万人は生存可能6、食料パニックを生き抜く自給自足の家庭菜園の実際(5人家族で300坪)7、著者単独出演TV『東京にんげん探訪・ケールと共に20年』15分間放映」 本には、ケールの栽培の方法などがかなり具体的に掲載されていた。島国で、世界的な食糧難がきたら、外国は自分の国の食糧を優先するだろうから、日本への輸入が減少してしまうと、大変なパニックになってしまうだろう。防衛の専門家だと言われている石破大臣が今の農林水産大臣なので、食糧安全確保というところから、農薬や汚染米などの問題に加えて、世界食糧難のパニックにならないための予防策を大きく打ち出してほしいと思った。もし誰かが何らかの本を読んでいたらという空想をするのだが、小池さんの本を石破さんが読んでいたとしたら何を思うだろう。情報紹介者というのは大きな行為だと思う。本屋では雑誌名を忘れてしまったが、榊原英資さんや西部邁さんらの、食糧危機についての座談会が出ていた。日本の農業をしている人の平均年齢は65歳にもなっているらしい。そして農業人口の推移は、昭和35年に90万人弱だったのが、平成12年には、36万人くらいまで急激に減少し続けている。河川などの汚染や、人間の心の荒廃などとともに、大転換されないと、一人や二人ががんばってもどうにもならないくらい、日本国内は持続できない方向に進み続けている。しかし、表面上、大量の食糧を輸入していて、食糧を作っている外国の人のほうが貧困になり、日本では大量に、食糧が食べられないままに捨てられてしまっている。これも毎日続けられていることである。各家庭の自由にまかせていては、知らない間に乱れて持続できなくなって行く。そういうところに行政の出番がもっとあるならば、耳にそういう話が入ってきたり、なにかの行為が見られるはずだと思うのだが。私が外を知らないだけかも知れないが、それでも農業人口の急激な減少というのは、昭和35年頃は、今より50万人以上も農業で生活できていたというのに、どうしてこうなっていってしまったか。私自身もふがいないため、どうすることもできない。流れを止められない。とめられるのは、政治からのトップダウンか、世論の多数からのボトムアップしかないのではないだろうか。小室哲哉氏が3000万円の保釈金で保釈というニュースも大きく続報されたが、莫大な個人資産を持ちながら、事業失敗や豪華な生活で詐欺事件をしてしまったということも、持続できる生き方と乖離してしまった生活をしてしまった人に起きていることを示唆していて、なんらかの啓示のようなことを他人にも知らせているのかも知れない。小室氏が食糧や環境などのことに目覚めて違う生き方が加わればどうだろうなどと空想した。音楽で再挑戦したいという。音楽は人の心を楽しませるが、音楽を食べて行き続けるわけにはいかない。農業や環境という生物的に生きる基盤が成り立っていないと生命維持の方向でない考え方がなされていってしまう。スポーツも肉体の極限を可能性として魅せてくれるものであるが、農作業などの動きをしている人のほうが実は、人々の根源的な生命を維持させている。ヒーローやヒロインは夢を与えるが、現実の生命を維持させている人たちは地味である。犯罪者も多くなってきたという不安を与えているが、全体から見れば小数で、多くの人は、それぞれの周囲と喜怒哀楽をともにしながら日々を生きている。しかし、食糧危機に陥ると、多くの平凡という幸福を享受できていた人たちを混乱に追い込み、悲惨なことが莫大に続発してしまうだろう。新型インフルエンザ、年金不安などの警戒とともに、日本の食糧自給率の大変な低さに危機感を多くの人が持たないと、そしてトップダウンとボトムアップで認識され変革行為がなされないと、豹変する人だらけになって、恐ろしいことになるのではないかと懸念する。小池さんの書かれている、間伐材によるバイオマスエネルギーと、サツマイモやコメ、ケールなどの自家栽培の増加によって、日本が暴動にさらされることなく維持できるならば、政治家や官僚の方々には、そういう大転換を設定してもらいたい。数年間、パソコンがフリーズせず、当たり前のようになっていたが、一昨日にフリーズしてしまい、購入時の状態まで戻さねばならなくなり、大変な復旧作業になってしまった。中でも、ノートパソコンを家の中で動かしてインターネットをしたいという、余計といえば余計とも言われそうな欲のため、無線の装置を買ってあり、最初の設定の時も、購入したアイコム社の人に電話で設定を相当お世話になったのだが、今回も自力ではどうしても無理で、電話で復旧作業に相当な時間をかけてお世話になり、復旧することができた。パソコンやネットに不具合のたび、IT関係の会社の人に電話などで聞くが、ほとんどの人がとても丁寧に、落ち着いて、優しく指導してくれる。そのたびに、さすが大企業に勤務している人だなと思う。知識を知っていながら授けてくれるのに謙虚で物腰が丁寧なのだ。そういう良心の人たちが、良心のまま人生を終えられることができるためには、農業や環境などの生命維持のための基幹産業が再び活気を取り戻さなくてはならないのだろうと思うことができる。しかし、協力者がいないと、思うだけで実際は手におえなくなる。できる人はできる。しかし、できない人が莫大に多くなってしまうと、できる人まで窮地に追い込まれてしまう。できる人は、黙々と作業に従事するから、その素晴らしさをネット上に展覧しない人もいて、平均年齢65歳の農家の人は、ネットをしない人が多いかも知れない。文章情報だけだとしても、気がつかなくなっている人が認識するということは矛盾した感想のようだが、大きな力の一部を期待させることができる。昨日、爆笑問題の太田総理の番組を見たが、この番組は愛憎を感じてしまう番組だが、公務員や政治家を大幅に減少させろというテーマで話をしていたが、一般の人が職が無くてあぶれているところに、公務員や政治家の人たちまで無職になったら余計パニックになるのではないかという疑問がわいた。よく番組を見てなかった私が悪いが、そういう論点もあっただろうか。むしろ、資本主義、競争状態の仕事に従事する人を減らして、公務的な、NPOのような、競争主義、儲け主義でない立場の人を大幅に増やすような仕組みを、ワークシェアリングなども取り入れながら大変革できないのだろうか。今よりお金や産業が無くても、原始時代から、平安、鎌倉時代などから人々は生命のバトンをつないできたのに。不自然なお金や労働状態などの社会構成に、いらいらしていて他人に感情を転嫁してしまう人が増加してしまうと、ストップできなくなり、なにが人間の崇高さなのかわからない状態になってしまう。社会状況が人の心をコントロールする。安心できる状態に外がなっていなければ、人の心が混乱する。環境学、農学、心理学、経済学、犯罪学などの研究の融合で、社会が持続できるための総合的な視野を述べている人は誰だろう。そういう人の設計図に多く出会うことが出来、その設計が実現することを願う。80歳の大先輩の小松さんが、多くの後輩が困らないようにと書いてくれた本である。言葉でさえ、他人の生命力や行動力を衰えさせてしまうような発信をしてしまう人がいるのはどういう心理からなのだろう。小松さんのような、多くが救われるような構想を発信しようとするほうが、正しいのだと多くの人が判断できるためには。なにが正しいということなのかを。誰もが一度の人生に自ら問えるようになる時や場所に会うことができるなら。
2008.11.22
(10月20日のブログに反貧困大集会のリポートを書きました)(31日のブログにズームインで辛坊さんがBIに近い発想を述べられた記述しました)反貧困大集会から1ヶ月になるのか。なんだかとても昔のような気がしてしまうが、情報社会からの錯覚に自分も取り入れられてしまっているのかもしれない。リアルタイムのことなのである。改善は早急さを要することである。経済不況などで、マスコミや国民の声としても、様々な批判がなされているが、マスコミや国民の情報摂取や情報判断がなされていないため、トップダウンで良い情報があっても、途中で途切れてしまっているということも、末端のほうからも感じ取らなければならないこともあるのではないか。批判だけでは何も生み出すことが出来ない。批判は気づきを与えるかも知れないが、批判したところで終えてしまっては、野蛮なままで、その積み重ねが疲労をその人に与えるだけなのではないだろうか。知らないことと、なかなか実行できないことで、解決に向かえたかも知れないことが向かえなかったということが多々あるのかも知れない。経済行為にしても、ある技術を集団内で共有できていて、集団外では共有できていないものを、共有できている集団が発表し、販売することで、集団内の優位が保たれる仕組みにほとんどが出来ているのではないか。その集団内と集団外で、優位が分かれてしまう構造が、数々の問題を生じさせている部分としてあるのかも知れない。リテラシーという言葉などで言われているものだと思う。毎日新聞の14面のくらしナビに、生活サポート基金というものがあるのが書かれていた。それまで私は知らなかったし、なかなか頭に入りにくいものだが、それを知ったことによって助かっている人がいるという制度らしく、こういう機関の考え方が増加することがより完全なセーフティーネットに近づける策のひとつかもしれないと漠然だが捉えた。亀田早苗記者の記事から、「政府は昨年、多重債務問題改善プログラムを策定、これに沿って自治体などで相談と併せたセーフティーネット貸付制度が作られた。ただ、実地地域は少なく、制度拡充を求める声が強まっている」「1、生活困窮者が多重債務に陥るのを防ぐ生活資金 2、債務整理資金 3、債務整理後に借金できなくなった人の生活再生資金 を低利で貸し付ける仕組み」今日現在、「金融庁によると、都道府県単位の実施は東京と岩手、福岡両県のみ」東京の例では、「今年3月、民間組織生活サポート基金に委託し、都内在住の多重債務者に、生活再生資金貸し付け事業を始めた」「基金で相談を受け、債務整理が必要なら弁護士を紹介し、~返済能力があれば中央労働金庫の融資をあっせんする。年利3.5%で限度額は200万円。返済期間は6年以内」ある、この機関を知ったために救われている男性の話が掲載されている。「一時的に金があれば乗り切れるのに、多重債務者は相手にされない。相談先がなければ自殺していたかもしれない」グリーンコープ生協というところでも、ふくおか、やまぐり、くまもち、おおいたの紹介がある。「厚生労働省が都道府県の社会福祉協議会に委託し、低所得者や高齢者らに、生活資金を低利で貸し付ける生活福祉資金貸付もセーフティーネット貸付制度の一つ。各社協で所得制限など条件が異なるが、緊急に生活が困難になった世帯向けの緊急小口資金(10万円以内、年利3%)や、失業者世帯向けの離職者支援資金(月20万円以内、同)などが設けられている。こういう記事はとても現実性の高い、有効な記事だと思い、賞賛する。しかし、なかなかこういう情報が流されてこない。こういう制度がトップダウンの側からもあったのに、今日新聞をチェックしなければこういう情報を知らなかっただろうし、「格社協で所得制限など条件が異なる」というところにまた問題が発生してしまうのだろうと予想するが、ホームレスやネットカフェ難民になってしまう人は、役所に問い合わせすることへの恥ずかしさや、問い合わせても承認されなかったことなどから、「離職者支援資金」というものと合致していないのだったろうか。だったろうかという表現を使ってしまったが、実はリアルタイムな話である。人と人の間のつながりが根本的なセーフティーネットだと思っているが、緊急的、即効的なセーフティーネットは、残念ではあるが、お金であろう。ベーシック・インカムという制度が生まれてから当たり前にあった場合は、混乱もない時代に生きられたということなのだろうが、その時代に最初から生まれてはいなかった。第二次世界大戦は終えてから生まれることができた。そのタイミングの幸福があるのに、戦争を知らない世代がその悲惨さを予想できなくなり、自由を取り違えてしまってりしている。しかし、ベーシック・インカムはこれから達成させていくべき世代として時代の過渡期に生まれてしまった。残念ながら直接的に、ベーシック・インカムを達成できるような能力を、子どもの頃からのチャンスを与えられながら活かせる立場になってこなかった。例えば東京大学法学部に今から挑戦などというのは、白旗をあげる。無理だと勘弁してもらうしかない。だから、非常に間接的にはなるが、微力にはなるが、なぜかインターネットが現れてきて、ブログが出来ているのならば、ブログに、ベーシック・インカムと書き続ける。出来ることをするしかない。自分がエリート路線で無いからといって、エリートに嫉妬してもどうしようもない。人間社会が安全で安心できる社会であれば、そこで安心して生活できていられるなら、つつましやかでもとても幸福なことである。しかし、セーフティーネットが不完全なのは、ホームレスやネットカフェ難民になってしまっている人の存在から明らかなのだから、ベーシック・インカムや、その周辺の物事に関心を持ち、より完全な最低限度の生活保障を願っていくべきだし、ブログなどの発信の場所があるなら、ほかの人にも気づいて欲しい。楽しくて明るくてその雰囲気がアタラクシアのような、ほっとできるような場所ならばそのほうが良いに決まっているとしか思えない。争いや、悲観は、その人の考え方や心が一人相撲をとってしまうことから、ほかの人を巻き込もうとしてしまうところへ波及してしまう間違いから生じているのではないか。科学技術をこれだけ発達させることの出来た人間であるならば、心の優しさや、精神性を貴く保てるような頭脳の使い方も維持できるはずなのではないか。過去にも、無一物でありながら、精神性を説いて廻った高僧が出現したことのできた、日本という国であるし、世界でもそういう偉人が出現したわけである。ましてや、現在から未来にかけて、そういう精神性の貴い人が現れるであろうし、本来無一物でさえあっても、科学技術の手法を持っていなくても、英語、数学のような勉強が出来なかったとしても、精神性を保った人たち、妙好人と呼ばれた人たちも存在したというならば、現在もこれからの時代も精神性は保っていられるという人たちとしていられる可能性は高いはずである。厳しい時代で、ぐれたり、反抗的になってしまう気持ちもわかるが、それでは救われない。エリート層にも様々な人がいて、人格高潔な素晴らしい人がいるはずだが、なかなかそういう人の存在が知らさしめられない。反対に、多くの報道で残念なエリート層の逮捕などがなされてしまっている。地位やお金や現在の社会で有利な立場にいられるための能力だけでは無い、なんらかの精神性が、トップ層から、すべての層まで必要であると思う。その精神性とはいかにして育まれるのだろうか。多くの家庭や学校や関係する人たちの努力があり、大部分の人は、平和で安心感のある日常を過ごせる感覚でいられているはずである。しかし、そうでない人も生じてしまう。不完全なセーフティーネットが改善されれば、平和で安心感のある状態に人はより多くとどまれるのでは無いかと思い、もっと身近なことで、または、政府が存在させた、今回の記事の内容なども考慮しながら、ベーシック・インカムという構想に期待し、多くの人がそのことを知ってもらえるために、自分なりのブログにこうして書いてみるようなことで、実現を願っていたい。(追記:離職者支援資金貸付制度をわかりやすく紹介してくれているサイトもあった。 このブログへのブックマークした。ベーシック・インカム実現までの道のりの前にも、現在はある。生活保護も含め、離職者支援資金貸付制度も、鍵を握っているのは、社会福祉協議会という機関であると思う。この社会福祉協議会という機関や、消費者金融機関のイメージというものが、より確実なセーフティーネットのための鍵を握っている分野の一つだと思う。庶民の一人として、どうその機関がうまく進むことを感じ、考え、提案できることがあるだろうか。社会福祉協議会という機関や、消費者金融の機関が、もっと安心できる、確実性のあるセーフティーネット機関としての動きができることが解決の一つの方向かも知れない。交番のおまわりさんが地域の人と誰とでも気軽に話せる環境のように、社会福祉協議会の対応が仮のイメージとしてだが、お役所的な機械的な対応ではなく、身近な気軽に話しができて親身になってくれる、そこら辺で雑談できる間柄だったとしたら、セーフティーネットのイメージが変わってくるのかも知れない。制度のイメージを変えてしまうものは、または制度のイメージを膠着させてしまっているものは、人と人との間の自然な親密性、節度ある対応のできる間柄ということに大きなヒントがあるのかも知れない。お役人的という感じ方ではなく、身近なフレンドリーな対応してくれる役割の人という意味合いに、人間関係がなれば、多くの解決がなされるかも知れない。まず救ってくれたり、救えたり、救い合えるのは、身近な関わっている人と人の間柄からである。「ネオリベラリズムの精神分析」の中で、樫村愛子さんが、文化の重要な問題点として「他者忌避」という概念があると書かれていたが、その「他者忌避」がなぜ生じてしまうのか、そのことの解明が社会の問題を解決するための大きなヒントになっていることだと思う。あと、視聴率、売り上げ直結などの、センセーショナルな広告的、注目を引こうとする文章形態なども、人の心をもてあそんでしまったり、人の気持ちを素朴な生命力からずらしてしまう現象と操作だと思い、その改善の研究も急がれると思う。もちろん、人を元気にさせる、生命力の輝きを持たせるキャッチコピー、キャッチフレーズがある。それが実際に、確実に正確に、そうさせる言行一致のものであるならば、それが素晴らしい言葉となる。そういう言葉を誰もが扱えるはずなのである。
2008.11.20
今朝の毎日新聞から、元厚生事務次官殺人事件を受け、余禄と社説に読むべき文章が書かれていて、抜粋する。全文は、毎日新聞のサイトに載るのだろうか。余禄から、「人には心にわだかまる不満や憎悪が、何かの拍子で暴力を正当化する独善に変わる時がある。そんな独りよがりの正義やゆがんだヒロイズムにとらわれた人間が~」この文章の「独善」と、「独りよがりの正義やゆがんだヒロイズム」という内容の意味を感じるべきだと思われる。「どんなに偏狭な憎悪と悪意がばらまかれようと、自由と寛容とを空気のように呼吸する社会は市民が守る」安全、安心は市民が守るべきものなのである。市民の考え方が安全や、安心を求め、実現していくものでなければならない。それが市民である。社説には、「類例を見ぬ卑劣な犯行 暴力容認の風潮一掃しよう」というタイトルで書かれていて、この社説も必見ではないだろうか。「自分の主義主張を暴力で訴えること自体が民主主義に反している」民主主義のおかげで、好きなこともいえるわけだが、その言論の自由を取り違えてしまっている人が国民にいることもネット社会は露呈してしまっていることも社説は語っている。余禄で言われる、「市民とは」ということからしても、取り違えている人間はなんらかの気づきと訂正を感じなければならないはずなのだが。どこがどうすれば人間の尊い精神性を失いそうになっている人の心を元に戻せるのだろうか。「今回もインターネット上で、犯行を支持するかのような無責任な匿名の意見が飛び交っている。東京・秋葉原の無差別殺傷事件の後、犯行に便乗した脅迫事件などが続発したり、根拠のないひぼうや中傷が幅を利かせた経緯もある」市民とは、平和や安全を守るものならば、殺人犯人が支持されるわけがないのだが、国民の中に、言論の自由を取り違えてしまっている人がネット上で現れてしまっていることにも、国民全体で憂慮しないと、経済と愛や精神性もつながっていることなのだから、そういうところでも、生き辛さが増加されてしまうことになってしまう。経済問題にしても、お金のやり取りやイノベーションだけではなく、国民全体の精神性も考慮にいれなければ、解決しない問題である。家庭教育や、共同体、学校教育なども、反省の問われる状況である。テレビでは、防犯アナリストなどという肩書きの人が出演をさせ、防犯というところから恐怖心を付加し、より殺伐とするようなほうへ関心を向けさせるような発言だったように思えて残念に思った。なんらかの本だったか、昔は、防犯という意識が、そんなに必要のないことだった。それは、人間の性質が安心できる人と人の間でなされていたからである。というような話と、防犯商品の増加との悲しい兼ね合いを指摘していたような論文があったと思う。そういうところまで、深めた話にもっていけなかったのだろうか。防犯のために、青いサイレンをまわした車を運転して呼びかけてくれる人もあるが、家庭や共同体や人と人との間に安心感が生じていれば、防犯商品のほうに向かうことにはならない。そちらのほうがもはや非現実的と思われるようでは、日本という国の良さがまた減少してしまい、アメリカの銃社会のような疑問の社会を問えなくなってしまうではないのだろうか。防犯アナリストというような技術的な感じ方を持つ人こそ、人と人の間の信頼感、安心感とはなんだろうかという哲学、心理学的な方向も加味していないと、大きな偏りを生じると思った。ちょっとわかりにくい話だったが、「ネオリベラリズムと精神分析」という本もそういった懸念が書かれていたと思う。ある事件に対し、どういう見方ができるのか、どういう発言ができるのか、その発言が、平和や安全へのもとになれるような発言ができることが、市民であり、もう一度繰り返すが、新聞の余禄にあった言葉の、「自由と寛容とを空気のように呼吸する社会は市民が守る」ということではないのだろうか。社会の安心感と人間の精神性のために、間違った発言をそのままにしてしまうことが、そのままにされてしまう人もかわいそうなことだし、人生のどこかで、間違っていた発言の大きさに愕然として、懺悔するような感性がその人たちに遭遇できればその人たちは助かるのかも知れないが、凶暴性というものに関しては、普通は人は、避けてしまうであろう。だからこそ、家族や親類や共同体にいるような近い人が間違った発言や行為を誰かがしてしまう前に、違うのではないだろうかと示唆してくれる人がいる人は幸福である。そういう感性を与えてくれる人がそばにいた人は幸福である。核家族から、個の時代へとまで言われてしまう、孤独な構造が、気づきを与えられない人を生み出してしまうのかも知れない。しかし、孤独であっても、どこかで、その人は心に悲しみがあっても、優しい気持ちや、間違いに気づく感受性を、得なければならない。生きているということは、今まで誰かからの直接的以外にも間接的な支えあいがあったからこそ、生きられているわけである。そのことは理解しなければならないことである。一人一人の力は小さいかも知れないが、自分だけ間違えた発言をしてもどういうこともないだろうでは無く、誰かが正しい発言にすべきだと気づく、改心することによって、社会は明るくなれる。間違えた方向に集団同調してはいけない。そこにどこでどう気づくことが出来るか。改心することは出来る。気づくことは出来る。
2008.11.20
(10月20日のブログに反貧困大集会のリポートを書きました)(31日のブログにズームインで辛坊さんがBIに近い発想を述べられた記述しました)カーラジオで、大竹まことさんの番組に合わせると、民主党の安住淳議員がゲスト出演している場面に遭遇してしまい、安住議員が、定額給付金に対して、「税金も払わない人に配給するという理由がいけない」などと発言していて、この人は、ネットカフェ難民になってしまった人や、ホームレスになってしまったような人のことまで考えていない人なのだなとがっかりした。自民党とか民主党とかで選んでは間違う。政党の中でも、最底辺に陥ってしまった人のことを考えている人といない人に分かれているはずである。マスコミなどに出て、印象を強くしようとする政治家もいるが、それも良いことかも知れないが、今回の安住議員の発言には、単に自民党案だから反対しているのかというような雰囲気にも感じた。安住議員の全体像がわかっているわけではないのだが、残念な発言を聞いた。即効的に、縁者のいなくなってしまった孤独な人の窮地を助けるためには、お金を直接国などの公的機関が渡してくれる以外にどういう方法があるだろうか。ずっと、貧困に苦しみながらもなんとか生活維持している人は強いと思うのだが、例えばずっと200万円維持をしてきた人たちよりも、年収800万円だった人が年収250万円になってしまうことへのパニックのほうが怖いような気がする。「ネオリベラリズムの精神分析」(樫村愛子)の中で、印象に残った箇所を抜粋する。スティグレールという人の考えを引かれていて、「ひきこもっている子どもたち一人一人の声は、存在としての叫びである。それが、生産至上主義社会の中で怠惰や病気としてしか捉えられないとき、彼らの生を記述したり、彼らが自己承認したりできる象徴的なもの(文化)が枯渇しているとき、彼らの生の尊厳と固有性は奪われる」「加えて、社会を一元化する学校化社会において、学問の価値は、成績だけを目標とする道具的価値になっていて、民主主義的価値や科学的価値を伝達する装置としては以前より弱体化している」学校での成績の数字や量が、社会で、ノルマや売り上げ数字などの量にシフトしていったり、学校でのいじめの継続として、社会の様々な現象が生じているのかも知れない。自虐的・屈折的な人の性質について記述されている。「自分たちのコードを逸脱する者に対しての投影同一視(自分の負の部分を否認するために、他者にそれを投影し切り離そうとすること)があり、それは集団的攻撃性となる」また、問題を解決するための専門分野のすり替えや、勘違いというようなことの文章もあった。「フリーター問題には、若者の雇用不足や労働条件の悪さといった政治的な原因があるのに、若者の無力といった個人化、心理学化がなされ、青少年心理学の専門家がしゃしゃり出てくる」人の気も知れないで、自分の範疇で物事を言ってしまうというのは、実は当たり前といえば当たり前のことなのかも知れないが、それだけ個人個人の生活背景や考え方が解離してしまっていて、誤解が多くなってしまっているのだろうか。「他者忌避」という問題が、文化的にもなにを表しているのかもっと考察されるべき大切なところだと言う。この本の中で、都留民子さんという人が、日本には「排除」という先行観念がなく、大量失業状態にさえ、特殊な縁辺的貧困という捉え方しかないといわれているそうである。日本人の中にネオリベラリズムというような思考癖を持ってしまっている人が多くなってきてしまっているのかも知れない。それは、樫村さんが言われているように、「現在ネオリベラリズムは、人間を拘束する多くの制約から人間を自由にするという旗を掲げながら、人間がもつ暴力や愚かしさから人間を保護してきた社会や文化という知恵や技術を破壊する。そして、むしろ人間の自由を、より暴力的な力によって破壊する危険をはらんでいる」大学で文学部が切り捨てられてしまうようなことさえ生じてしまっているようであるが、樫村さんがわかりやすい言葉で、文化や、文学的感性などの大事さを書かれている。「今、進行している透明性や形式合理性の幻想のもとで破壊されている、個々人の固有性(スティグレールのいう固体化)や複雑性、それに伴う人々の行為の自由や創造性や豊かさ、それを保証する人々の想像性とそのベースとなる人々の信頼を確保していくことが文化の中身である」経済的にもお金持ちだけが幸福になるような社会や、能力主義が賛美されてしまう性質を持ってしまう人が増えてしまうことは単純化である。樫村さんから、スティグレールという人がよく出てきて、良いことを言っている人だなと思うが、(追記:インターネットで追加で調べたら、過去に銀行強盗をして、獄中で哲学者になった人らしい。すごい経歴である。調べていくときりがない。)「他者の多様性を受容することは、人のかけがえのない存在や経験の単独性を受容することと通底している。そのためには科学的認識のみならず、芸術的経験などによって、人間の経験の多様性を認識することが必要である」文化を感得できる感覚やそういう雰囲気が大切である。元厚生事務次官の殺人事件を警察の人は捜査していて大変だと思う。恨みがあっても、暴力に及んではいけない。各新聞で、高齢者犯罪が増えていることが書かれているが、お金が無いために、食い逃げしてしまったりして逮捕を望んでしまうおじいさん、おばあさんなどがいるのだという。そういう人が出ないような、安心したセーフティーネットが構築されて欲しい。振り込め詐欺というのも増えているのだという。お金への安心感、生活の安心感、精神性の保持など。安心感のある、ほがらかな笑みのある社会であって欲しい。
2008.11.19
(10月20日のブログに反貧困大集会のリポートを書きました)(31日のブログにズームインで辛坊さんがBIに近い発想を述べられた記述しました)今朝の毎日新聞に、ホームレスやネットカフェ難民なってなってしまっている人たちにも定額給付金が渡るのかという問題提起があったが、とても大事な点である。麻生総理が定額給付金の政策をしたことは、マスコミや国民から批判を受けているが、将来のベーシック・インカムへの現実的な事務手続きへのヒントや、有識者の誰がベーシック・インカムに応じてくれるような考え方を持っているのかというヒントなど多くのベーシック・インカム実現へのヒントを見せてくれた政策で、おそらくベーシック・インカムの研究者の方々も、多くのヒントを得た政策になっただろうと思う。ほとんどの人は現在、ベーシック・インカムを知らないわけだから、その間に、この麻生総理の政策のヒントがより多くの人がベーシック・インカムを知ったころには、すでにずいぶん研究が具体的になされていたというところでお目見えすることができるようになるだろう。このブログを何度も読んでくれた人は、なんだかベーシック・インカムは誰でも知っているような錯覚を覚える人がいるかも知れないが、国民の95%以上の人はまだ、ベーシック・インカムを知らないくらいなのではないだろうか。なかなかこのブログでベーシック・インカムといい続けても、テレビや新聞みたいな影響は無い。ベーシック・インカムを決定するのは、将来の政権なのだろうが、誰だかわからない。一番近くにいるのが麻生政権である。その政権が、1回限りであったり、金額が12000円というところではあるが、持続的に、8万円とか10万円とか配給していく、ベーシック・インカム構想に近いのではないかと思われる政策を発表したということは、まだ20年はかかるだろうといわれていたベーシック・インカムの実現がとても早まっているのではないかという期待も私にはもたせてしまった。様々な地方自治体の混乱なども言われたが、地方自治体も、定額給付金の件を乗り越えたとしたら、ベーシック・インカムへの事務手続きがやってくる時代がきたとしても、定額給付金の今の経験が加わる分、応用ができるかも知れない。ホームレスやネットカフェ難民になってしまっている人たちに対しても配給ができる方法が今回見つかれば、ベーシック・インカムが実現する時代が来た時に、混乱が少なくなっているはずである。テレビも車もインターネットもなんらかの新たなイノベーションも、知っている人たちにとっては、知る人、使う人などが多くなればなるほどの時代の経過をわくわくしながら送ったことであろう。ベーシック・インカムに関しては、人よりはやく知ることができたわけだから、実現したら、感慨深いかも知れない。テレビや新聞が大々的に報道してくれる日まで、少しずつでも個人ブログの小さな歩みからでも、一人でも多くベーシック・インカムを知って欲しい。そして、もちろん、ベーシック・インカムに賛成で、広めようとしている人は、私だけでは無く、そういう人も増えているのではないかと思う。世界の研究者グループまでずっと前から存在しているものなのだ。日本での研究者の本も何冊も出てきているし、山崎元さんは、よくテレビに出演されているし、ベーシック・インカムへの興味をネットで語ってくれているので、テレビでもいずれ発言されるかも知れないし。賛成でも反対でも、ベーシック・インカムという言葉を知るというところでは同じことである。まず知ってもらうことである。定額給付金という政策をそういう感覚で見ることをしている人もいるのだとインターネットという場で、伝えられる可能性を持てることに、インターネットはすごいものだと、改めて思う。すべての人に渡すことが出来ることが大切で、ホームレスやネットカフェ難民になってしまっている人の手にいきわたるような事務手続きがはやくできてもらいたい。定額給付金という政策は、景気のためとはじめられながら、セーフティーネットを高めるための、セレンディピティーを含んでいる政策なのではないだろうか。
2008.11.18
(10月20日のブログに反貧困大集会のリポートを書きました)(31日のブログにズームインで辛坊さんがBIに近い発想を述べられた記述しました)NHKで2時から放映のバドミントンの全日本の決勝が、小椋、潮田と、末綱、前田の対戦ということで、それが見たくて待っていたのだが、すごい試合になった。互角の接戦だったが、オグシオのほうが5連覇を達成で終了した。オグシオがバドミントン人気をつくり、スエマエが成長して、こんなに面白い放送になったのだが、表彰式で前田が悔しさなのだろう、出るのが遅れたり、震えるくらい泣いていたのが印象に残った。オグシオがコンビ解消ということで、ぜひとも勝ちたかったのだろう。日本リーグがまだ少し残っているとのことだが、団体戦ということで、コンビそのものとしては今日が最後の栄誉のイベントだったのだろうから、前田はコンビ解消するチームには余計に勝ちたかったのだろう。北京オリンピックで4位までいった責任感が生じていたのかも知れない。それにしても、優勝で幕を降ろすとはオグシオのコンビはもったいない。もっと、オグシオとスエマエの名勝負が増えていたかも知れないのにもったいないものである。スエマエが優勝していたほうが、さっぱり解消の意味も見えたかと思っていたのだが、それにオグシオがなんというかエリートのように勝手に思えてしまい、スエマエびいきで見てしまっていたのだが(ほんとに勝手な思い込みで申し訳ないです)、そうもいかないのが、真剣勝負で、優勝インタビューで、小椋選手が、潮田選手と最後のコンビでの試合というのも力になったようなことを言われていたと思うが、そういう思いも強かったのだろうかとも思った。別のコンビになっても、小椋、潮田選手どちらもがんばってほしい。スエマエもこの悔しさをバネにがんばってほしい。しかし、バドミントンの世界もほとんどわからないが、高校生ペアがベスト4に残ったり、時代が少しずつ移り変わっているようで、それに次に紹介した男子シングルの優勝者は19歳の田児選手ということで、バドミントンの世界も、テニスの錦織選手や、ゴルフの石川選手や、格闘技の石井選手みたいに、同じくらいの世代で新しいスターが出てくるものである。それにひきかえ、私はいったいなんなんだろうななどと思いながら見ていたが、私も一生懸命生きて行きたいのは同じことなので、バドミントンはできないが、がんばろうと思った。読書は、「ネオリベラリズムの精神分析 なぜ伝統や文化が求められるのか」樫村愛子(光文社新書)を92ページまで読んだところである。人間の考え方の集合がこうした時代状況を現出させてしまっているのだと思うので、精神分析というような方法で社会を見ることはとても大切だと思う。
2008.11.16
(10月20日のブログに反貧困大集会のリポートを書きました)(31日のブログにズームインで辛坊さんがBIに近い発想を述べられた記述しました)今、NHKの日曜討論の番組で、定額給付金についての議論が与党野党の人たちでなされているが、野党からの要望は、国民新党の下地さんが今言ったが、一時しのぎではなく、未来像を見せてくれということなら、やはり、ベーシック・インカムなのになあと、この番組の議論の中でもベーシック・インカムの議論まではいかないのかなあと、誰かあと一歩発言がないかなあと思う。結局、今回の番組内でもベーシック・インカムについては発言がなかった。自民党の柳澤さんが、減税では、税金をほとんど払えない人にとって、どうにもならないので、定額給付にしたほうが、低所得者にとってもよいということを説明していて、気持ちとしても、お金が配布されたイメージのほうがわかりやすい感じを受けた。それを、頭の良い中流の人たちは、もともと税金だろうと反論してしまうのだが。野党のほうは、民主の藤井さんが言うように、小泉改革でおかしくなってしまったところを変えるという話や、野党の話も、構造を変えてほしいということでは、経済弱者のために言われていると思うが、そのほうを重視してしまっているために、定額給付金をばら撒きと思ってしまい、定額給付することの即効性の良さを重ねて、一緒に進めていくという議論にならないのが残念である。共産党の人も、やり方が悪いんだとは言ったが、もっと公明党の井上さんが言ったように、共産党は定額給付金みたいな方法は賛成してくれると私も思っていたのだが・・・。共産党の人が、消費税は食料品には無税にするとか、ほかに法人税などもあるじゃないかそういう税の話が出なくなっているなどという話もあった。社民党の阿部さんも、構造のほうに意識がいっていて、即効性としての定額給付ということに対して考え方が弱いようで残念であった。自民党の柳澤さんと公明党の井上さんのほうの、定額給付金という、お金を配給するという方法と、野党側の方々がいう、持続性、未来へのビジョンということを合わせると、ベーシック・インカムになっていくのだがと、これからベーシック・インカムの方向に進んでもらえないのだろうかと思う。現在の与野党の議論の中で、ベーシック・インカムになっていないことが、3年後の消費税アップと麻生総理が言われたまでに、ベーシック・インカムの方向になっていくことを祈りたい。民主党の藤井さんが、間違えたのは、小泉元総理が2006年に、削るのは社会保障だと言ったところからにあると言われたのは、印象に残った。この野党からの反論でも、1回かぎりだとか、ビジョンがないだとかいうことが言われるわけだから、1回かぎりどころか、生まれてから死ぬまで永続的なベーシック・インカムの議論が1日でも早く日本で起こることを願いたい。まず、応急処置、まずお金が入れば助かる人だっているかも知れない。野党のように応急処置を飛ばしてしまうと、助からない人も出るだろう。しかし、そういう意味では12000円が12万円だったら議論が違っていただろうというのもあるだろう。批判はその改善のためのヒントを含んでいるのだろう。賛否両論を引き出す新しいことをやってみる人というのがいたから生じてきたことで、否定派の考え方に潜むものは、自力主義みたいなものを垣間見せているのかも知れないが、議論そのものも、元気が出たということの一つでもあると思う。その前の、徳光さんの番組でも定額給付金の話になり、「行列のできる法律相談所」に出演の北山弁護士が、テレビに出ている人やテレビを作っている人たちは、お金持ちだから、わからない面があるでしょうが、弁護士として困った人の話を聞くと、定額配給金の、小額だとしてもありがたさがあると思うし、大事なのは配給できる時期の即効性であるというような内容を聞くと、北山弁護士は良い発言をされたと思った。また、北山弁護士は、麻生総理の漢字の読み間違えがマスコミなどで良く取り上げられていて、多くの人が総理が漢字を読めないのはなあという方向になる中、麻生総理が、以前、機械の調子が悪くなった時に、英語で、それは日本製ではないでしょうね。と英語で突発的なジョークをしたというエピソードを上げ、こういうところに頭のよさを感じますよねという対比的な話をもってきたところも、独特で面白かった。正確な知識でいたほうが良いのはもちろんだが、揚げ足取りをとるような頭の正確さの人たちよりも、大雑把でも革新的なことをする人の頭の良さというのもあるかも知れないとも思った。サンデージャポンでも議論していたが、定額給付金と、その他の方法は別だと思うのだが、金持ちのテリー伊藤さんとか、西川女医さんとか、八代弁護士とかが、批判しているのは聞き苦しかった。この人たちはあまり低所得の人たちやネットカフェ難民などの話は共感していない人たちなのではないか。と思われてしまう。実際はわからない。私の偏見である。多くのことは偏見になってしまっているものである。この西川という人も、あえて反感も買うかも知れないところを気丈夫にマスコミに出ているところはすごいが、日本の女性性や、女性がお金に関してどう生きていこうかとするようなところで、ひとつの、型を体現しているので、誰からも好かれるというわけではないだろう。反面教師的な役割で出てくれているのかも知れない。その前によく出ていた飯島愛という人も特殊な仕事経験者(楽天さんの禁止ワードのため、こういう表現になった。禁止ワードも大切かも知れないが、もっとワードそのものでなくて、禁止すべきことは多いような気がする。発言を止めてしまうようなコメントが禁止されず流れてきたりするのも考慮して欲しい。)で、そのことも通じているものがあると思っていた。性転換した人も番組に出ていたりして、そういう型をもった人たちの存在が、そういう当事者として出ている人の度胸もすごい大変な面もあると思うが、私にはうまく書けないが、特性のある人が発言するという、登場人物設定をするプロデューサーなどの考え方にはなにかあるのかなと思った。(敬称があったりなかったりして申し訳ないです。)吉田たかよしさんは、低年収の人を慮った発言があった。上原美優という、種子島の貧乏アイドルというキャッチフレーズの人のほうが、12000円が大金で欲しいと直感的に言ったほうが聞きやすかった。それを、テリーさんなどの大人が事務所からのギャラなどの話で違うほうにはぐらかしてしまい、そういうのもなんか気分が悪かった。ロードを歌った人も持続性があればと言っていた。テリー伊藤さんが、定額給付金についてにはだが、この人の発言が勝ってしまってはいけないと思った。テリーさんの批判の裏には、またなにかもっと定額給付という方法がベーシック・インカムまで行くための関所になってくれているのかも知れないのだが。でも、吉田たかよしさんが、テリーさんと議論になったところで、アナウンサーが次の話題に移ったのだが、定額給付金については、賛成反対両方とも、マスコミも、なにか感じさせることだから、こう話題が続いているのだろう。裁判員制度とか、私が勉強不足と、マスコミが流してくれないことなどからの、ほかのことで、なんだろうこれはということがほかにもあるんだろうが。テレビでいろいろな番組を見たが、それぞれ、徳光さんの場、日曜討論のメンバーの場、サンデージャポンの場など、いろいろな場があって、その違った雰囲気の場の中で、いろいろな話がなされていくのだということである。もし、上原さんというアイドルが、徳光さんの場や日曜討論の場にいて、その中で考えを深めていった場合、またサンデージャポンの場で深めていくのと違う発想や態度が出ていくのかも知れない。テレビを見ただけの表側の、見識の狭い、偏見の多い私だけの感想ではある。いろんな見方があって、定額給付金が入ってきたラッキーと思うそれだけの人もいるだろうが、そういう人のほうが、もしかしたらスムースに人生を行い、社会を保ってくれている層をアピールすることなく、形成してくれている大きな部分を占めているのかも知れない。一方、定額給付金を多数決の方法だけで見ると、否定的意見のほうが上回ってしまうことをマスコミは故意的にだろうか、発表するけれども、年収200万円以下の層は1000万人ということで、5000万人ではないわけで、それをランダムにアンケートをとっても、中流のほうが多いわけだから、偏見の出てしまうアンケートに、実は逆説的になってしまっているのではないかとも思った。種子島からの上原さんというアイドルの、12000円なんて大金をどうしようともらいたいと発言したところに、安心感を感じるのと同時に、芸能界といういろいろな話やお金も舞い込んだりするところに入って、人間性を崩すことなく、ユニークなかつ、良い見方をされていって欲しいと思った。またそういう人を登場させているのも、プロデューサーなどの選択であり、一方で定額給付金についてのテリーさんみたいな私が違うと思うような極端な発言も、考えさせることのあった発言である。吉田たかよしさんや八代弁護士などが、景気対策にはならないと、どこからのデータだかわからないが、言っていたが、なぜ来てもいない未来のことがわかってしまっているのだろうというのは疑問に感じた。景気対策にするのもしないのも定額配給金が来た後の、国民の行動からの話ではないか。未来がなにかを起こそうとする前から決定してしまっているような見方はとても残念なものであった。天才的な市町村の首長や、商業のグループなどが、今日からでも、新発想をすれば、現在、どこかからのデータで景気対策にならないというのを逆転してしまうほうを期待するのが、未来を変えていこうとする見方なのではなかったのだろうか。こういうことになった元になった、サブプライム問題だって、こんなことにならないと思って生じてしまったことなのだから、逆に良いほうにだって、予想を覆せるということもあるように思えるのだが。
2008.11.16
(10月20日のブログに反貧困大集会のリポートを書きました)(31日のブログにズームインで辛坊さんがBIに近い発想を述べられた記述しました)生まれてから成長して行く過程での出会いの連続があり、そして今日があり、明日へ向かう。今日は、ある出版社の方に、ベーシック・インカムの話を丁寧に聞いてもらえてうれしかった。面白い展開になればいいなと思う。毎日新聞の定額給付金の社説のほかの、他の新聞の論調を知りたくて、図書館にてざっと読んでみたが、どこも批判口調であった。産経新聞がやや批判というより、考慮して政策決定はしてもらいたいという雰囲気だったように思えたが、他は手厳しかった。麻生総理が、もし演説したまま、シンプルに全員に支給していたとしても、別の文句は出ていただろうが、支給の制限について二転三転したことや、最終的には市町村に方法の選択を依頼したことに批判が集中していたように思う。公明新聞だけが、当たり前だが、批判が無く、むしろ、お金持ちは定額支給のありがたみがわかってくれないのだろうかというようなマンガが出ていた。赤旗も定額支給には文句だったが、他の文面では、労働者の生活重視のことが書いてあり、そこは良いと思った。最初の目的に付随して、面白い記事があり、三神万里子さんと言う人が、11月9日の読売に書いていたが、そして今ネットで調べて知識を補足したが、1999年だったと思うが、NHKのドキュメンタリーをもとにNHK出版から、翌年だと思うが、「エンデの遺言 根源からお金を問うこと」という本が出ている話などが書かれていた。(付記:批判の裏にヒントがあるなら、定額配給も冒険ならば、いっそ、腐る貨幣のように、期限付きにしてしまうような冒険までやって欲しかった。読売でもヒントにしているくらいなのだから、誰かそういう提案をして欲しかったと思う)(付記:まてよ、と思ったが、各市町村に最終的な方法をまかせるならば、地域通貨という方法で、腐る貨幣みたいな、期限付きという配布もできるんだろうか。それをする自治体の首長が出たら面白いことになるかも知れない。もしそういう首長が出たなら、定額配給金の政策の意味合いが批判が逆転されてしまうイメージになるかも知れない。)タイトルが、「実用と投機の貨幣を区別せよ」とあって、その通りだと思う。生活苦となり、自殺や夜逃げや犯罪にまで追い込まれてしまう人を生み出してしまうお金がある一方で、巨額のマネーゲームに埋もれている人がいる。まったくおかしなことである。狂気である。しかしそういう世界になっている。そこに1929年のオーストリアのあるところで、価値が時間とともに減る貨幣を緊急に流通させ、2年で失業者をゼロにしたとある。麻生総理の配給金も、期限付きの券ならば、集中してそれまでに使ってしまおうとするだろうと以前書いたが、それに近いことが実際行われた歴史があったのだった。こういう情報に出くわすのも不思議なことだが、どうにかしようと考えていると、情報がやってきているのかも知れない。あとは気づくかどうか、それをパスできるか、スルーしてしまうかなど。なんだろうか。人生の仕組みはなにか知られざる不思議に出会うように出来ているんだろうか。今日の日経には、他の新聞には前日か、その前か出ていたが、高齢者の犯罪数が、48600人、昨年あり、1988年のほぼ5倍になってしまっているのだという。高齢者人口は1988年から2倍だというから、それを加味していてもすごい増加である。不況がらみと、年金の不完全性などからの、窃盗などの犯罪なんだろう。湯浅誠さんの『反貧困』(岩波新書)の中にも、刑務所でないといられる場所がなくホームレスになってしまうので、ケーキ一つ盗んでわざと逮捕された老人だったか、たしかそのような話が載っていたという。もし、ベーシック・インカムの採用が実現されれば、犯罪は減るだろうと思っている。それに、現在の就職難状況にしても、10倍、20倍の競争率はざらだろうから、これでは、長期失業や、ホームレス、夜逃げ、自殺者など、追い込まれてしまう状況になってしまうのではないか。たしかに、定額の配給金は、1回限りのものでは、一人あたり12000円という量もあわせても、なかなか、根本的な解決とは別のものであるが、ベーシック・インカムへのヒントは多分に持ち合わせているものである。根本的にお金とはなんだったのかを考えることが、なかなか固定観念の中に埋没してしまって出来なくなってしまっているのだろうが、エンデのように気にかけていた人がいたということである。ベーシック・インカムのほうが、救済の幅が広いような気がするが、腐る貨幣というのも、貨幣がもともと、借金取りに脅迫されて自殺にまで追い込まれてしまうものであったり、人に貧富の差を生じさせようとするものではなかったはずだ。交換の便利な道具までだったはずなのに。そこから蓄積されてしまうことになる貨幣あたりからどう考えるかもあったのだろう。経済学にもいろいろあって、こういう根本的なところを改善のために考えようとするところとそうでなく、技術的に便利に使おうと考える立場のところのみだったりいろいろあるのだろうたぶん。難しくなってしまっている経済や経営だが、一番困ってしまって生きることさえ容易でないと悲観してしまっている人を全員で助けようとする社会が成り立っていたら、もっとシンプルな構造になっていたのかも知れない。許しとか、寛大とか、そういう人間の精神性が経済の潤滑さにつながっているのかも知れない。助けてくれないのも人間だし、助けてくれるのも人間である。なぜ助けてくれる人と、助けてくれない人の違いが生じてしまうのだろうか。この疑問は、それぞれの胸の内にしかわからないものなのだろうか。(それにしても、グーグルさんにはとてもお世話になっているが、グーグルアドセンスの広告は確かなものなのだろうか。私はブログで一生懸命、自分なりに考えて、社会の良い方法を考えたくて書いているつもりだが、広告のほうがわからないものだったら、私の気持ちが逆のものになってしまう。)
2008.11.14
(10月20日のブログに反貧困大集会のリポートを書きました)(31日のブログにズームインで辛坊さんがBIに近い発想を述べられた記述しました)定額給付金の話題続きのマスコミだが、今めざましテレビの編集では、暴言発言で農水大臣を降りた、太田大臣にインタビューするという選択をしていた。太田大臣は、これだけ評判が悪いと考えなくてはならないと言っていたが、その評判比率の選択や感じ方の操作はマスコミが作り上げているものである。マスコミ人は、年収200万以下の層では無いはずだと思うし、中流の人の感覚と、年収200万円以下の人の感覚は違ってくる。年収が少ない人ほど、12000円の給付であっても、有難く感じているはずなのである。ところが、言論にしても、中流などの強者の発言のほうが強いから、マスコミもその方向になびいてしまう。年収200万円以下の人たちの発言は編集で取り上げられず、観点がマスコミ、中流層の立場、考え方から判断される方向へ持っていかれてしまう。そんなふうに感じるのだが、どうなんだろうか。偶然、50年以上は家でとっている毎日新聞ひとつと、めざましテレビの一場面を見ただけだから、マスコミ全体の論調はわからない。マスコミによっては、定額給付金について、違う論調で提案してくれているかも知れない。私自身も少ない情報で全体を批判してはいけない。偏見からきてしまうものである。今朝も定額給付金について記録したかったのは、逆に考えればマスコミが継続して取り上げてくれるから、私の意識もつられて、より改善するにはというヒントになっているのかも知れないが、今朝のきっかけは、毎日新聞の福本記者が書かれた「発信箱」での定額給付金についての記事からである。毎日新聞の社説の論調をもっとわかりやすい多少くだけた感じで書かれているような内容だが、組織内では同じような考え方に統一しなければならないからか、同じ考えを持つ集まりだかはわからないが、そうでないと方向がばらばらになってしまうだろうから、毎日新聞の考え方だろう。定額給付金についての論調としては、毎日新聞の考え方にはがっかりしている立場なのだが、その批判の裏を返せば、解決策はベーシック・インカムなのだと思った。「たかが1万2000円の給付金で大騒動」とあるが、ベーシック・インカムの試算の例としては、8万円というのが出ていて、それなら「たかが」という表現ともまた違っていたのではないかと思われる。また12000円といえども、大家族などは相当に加算されて、家族によっては10万に近づく家庭も出てくるかも知れない。立場や構造の違いで認識は変わってくるだろう。私自身がいい加減なので、反省しなければならないが、ベーシック・インカムの基本的な考え方は最初から、全ての人への給付なのだから、最初に麻生総理が演説した時の全員給付のほうが、ベーシック・インカムへの試金石としてはスムースだったわけである。マスコミに登場する論者たちや、与謝野大臣などが、そのことに対しても、大金持ちに給付するのはおかしいのではという論が出てしまい、麻生総理が追随して混乱してしまって、それをまたマスコミが批判するという、マスコミが作り、マスコミが誘導し、マスコミがまた批判するという、操作が行われた。中川大臣や鳩山弟の大臣のほうが、これもマスコミが提供してくれた情報からなのだが、全員給付というのが筋となっていた。太田大臣も、マスコミがそういう質問をするから、末端でみている国民の一人として、私の見方は国民としては偏見が強いほうで特殊なのかも知れないし、どうなのかは私自身ではわからないが、イメージがなんだか違ってしまう場面でマスコミに登場させられてしまっていたのかも知れない。地方自治体に、所得制限の線引きのまるなげをしたという批判もあるが、国がはっきり統一したほうがいいというのは、やはりベーシック・インカムの基本的な方法だろうし、バラマキと言われるのも、1回性のことにしたからで、ベーシック・インカムの構想では、生涯ずっと配給が続くわけであるから、ベーシック・インカムだったとしたら、バラマキ批判とは別の反応になっていたはずである。でも福本記者や他の知識のある人が、「国家的な損」とか、事務費用の損失などとマスコミで言うが、お金は誰かにまわるものだから、非効率や失敗のようなものもどこかにお金は流動しているので、誰かは儲かっていて、まったく誰もが損はしていないだろうと思う。良し悪しを言ってるわけではなくて、資本主義構造とはそういう面が強いから成り立ってしまっていることもあると思う。冬に多い道路工事やリニューアル、リフォームなどの収入で生活している人はたくさんいる。そういうことがないと収入を失ってしまう人は多い。非効率や間違いが生活を保たせてくれている場合もあるのが市場主義の方法そのものなのではないか。また、福本記者は「1万2000円で心まですさんでしまうなんてまっぴら」という言葉で結んでいるが、潜在心理として、年収200万円以上であろうと思われる新聞記者の一人が、その中流としてのなんらかの、お金に対する後ろめたさみたいなものを感じていることや、それは社説も含め新聞社全体にそのような、なんらかの後ろめたさが反撥のような、記者が「心がすさむ」という表現に出ているのかも知れない。代々木公園で真冬にホームレスが寝ているそばを、ジョギングしたり、親子でキャッチボールしている人たちが共存している風景がある。私自身がそれを知っているにも関わらず、なんにもしていないわけで、見殺しにし続けているわけで、私が誰を批判できるわけでもない立場ではあるが、良い生活の裏には誰もが犠牲者を忘れているという側面があるのではないだろうか。毎日新聞は、極端に、これだけ混乱するなら白紙に戻せとまで言っている論調だが、せっかく12000円が配給されることで、貧窮している人ほど思いがけずお金がもともと税金が戻るという感じ方があったにせよ、戻るのは確かなのだから、それでこれもこれからの課題になっているが、ホームレス状態の人も、いままで食べられなかったようなものやお酒も少し飲めるかも知れない。「すき屋」のゼンショーの社長のインタビューで、これも毎日新聞内だから、批判しながらも反対の感じ方の人の意見も載せているところが、素晴らしいところだと思うが、その社長は、定額給付金は「すき屋」にとって効果を生むだろうと考えているとインタビューされていた。これだけマスコミが賛否両論をトップクラスのニュースとして流すには、批判だとしても、マスコミが流してくれるおかげで、考えの伝達をさせてもらっているのだが、インパクトのある出来事を麻生総理はしたわけである。期待したいのは、この定額給付金の課題や生じた混乱などから、ベーシック・インカム論者の人たちが、ベーシック・インカムの利点と実現に向けての、アピールをして欲しいところである。それこそ、どこかのテレビや新聞が、この時期に、ベーシック・インカムならば、これらの混乱や批判を超えられるのではないかと、掲載や出演してもらえればいいのだがと思う。はっきり聞いていなかったが、鳩山兄議員が、民主は配給金みたいな政策はしないみたいなことをどこかのマスコミで発言していたかはっきりわからないが、そうだとしたら残念である。もっとベーシック・インカムくらいの構想になると話は別ということなのだろうか。2004年に民主の議員が小泉元総理にベーシック・インカムの国会質疑をしているわけである。民主が一番ベーシック・インカムを考えていた時代があったのだが。現在は、むしろ、混乱を招いたが、麻生総理の定額給付が、ベーシック・インカムへのヒントを提供してくれた政策だと思う。批判しているマスコミや国民の人たちもベーシック・インカムを知らない人が多いのではないかと思う。もし、ベーシック・インカムを知ったら、どう反応する人たちなのだろう。上流から中流の人たちの余剰金が、商品交換経済だけでなく、施しとして、貧窮者に支給されるような感じ方は大事だと思う。なにか自分で勝ち取ったと思っている給与があると、商品交換以外の方法でお金がやってくることに対して、お金に困っていないにも関わらず、または他の人より持っているのにも関わらず、なにか不公平を感じてしまう人がいるのかも知れない。その論理矛盾の後ろめたさがはっきりしない感性にひびき、反感となってしまうのかも知れない。もともとお金というものが介在していたずらしているような、持っているもの持たざるものの1億以上持っている人と、300円がポケットに残ったなどという話まで聞くことになってしまう異常事態になってしまう構造。そちらのほうが不公平なのだが、それなら12000円を全員に配るほうがよほど公平な方法であったかも知れない。目加田さんという大学教授などは、テレビのコメントで大金持ちから貧窮している人まで同金額を配るのは悪平等だといっていたと思うが、与謝野大臣も同様に、そういうところから、混乱が生じてしまった。中流以上の人の心がどう判断してくれるかだろう。そういう人たちのノーブレスオブリージュとしての、高貴な判断力や感じ方、発言、対処の仕方に期待したい。そして、このきっかけは、ベーシック・インカムが多くの人に認知されるためには非常にチャンスの時期だとは思うが、そのチャンスをほとんど活かせない自分自身には、悔しいとも思う。このブログを中心に、ベーシック・インカムという言葉を流すしかどうしていいかわからないところである。
2008.11.14
(10月20日のブログに反貧困大集会のリポートを書きました)(31日のブログにズームインで辛坊さんがBIに近い発想を述べられた記述しました)テレビ朝日などは、1ヶ月1万円生活などの番組で、お金のイメージを変えてみていた。または、景気というのは、お金の量に左右されるものなのかという根本的な視点からも見られないのだろうか。12000円くらいで何ができると発言した国民は、中流の人なのだろうと思う。また、新聞には、ホームレスや、施設に入ってい人などにどうやって支給できるのかなどまだ決定されていないと書かれていたと思うが、そこら辺の課題がより新しい改善へのヒントとして提示されている段階のようである。大体、相当機能していてくれているとしても、各市町村がもっと機能していれば、ホームレスはホームレスになる前に救済されているはずなので、そうなっていないというのは、各市町村も、配給金の最終決定と事務を扱うことから、今まで漏れてしまっていたところに気づく人もいるかも知れないし、ズームインでは、ネットカフェ難民の住民登録とかいう話があり、私の思いもつかない話が取り上げられていて、そういう情報を与えてくれるところがプロフェッショナルな面も見せていただいた。あと、即効性が大切だったのだが、年内では間に合わず、来年3月までにとなったようなので、それは残念なことである。年収200万円以下の人が1000万人を超えているという。そういう人たちからは、12000円の重みが、中流の人たちよりも感じるだろうし、マスコミの編集選抜もそういう人たちを多く取材すれば、違う発言のほうが多くなるだろう。中流の人たちにとっては、ベーシック・インカムについて関心があまり生じないだろうが、年収200万円以下の人たちにとっての、ベーシック・インカムは大きな意味を持つ。ベーシック・インカムの実現を一日でも早めるためには、年収200万円以下の人たちに早く知ってもらう必要もある。中流でありながら、ベーシック・インカムの意味合いの大きさが理解でき、それを紹介してくれている人はすごいセンスだと思う。ライト兄弟の飛行機でさえ、飛ぶわけ無いだろうとか、最初は見物に来る人も少なかったようだし、インターネットでさえ、批判している人もいるわけだし、ベーシック・インカムにしても、共感できるセンスを持てる人にはやくその存在を知らせることの出来る方策が見つかれば、口コミなども相乗効果になり、広まっていくかも知れないのだが。国民は素人なので、理解不足からいろいろ発言してしまうとしても、民主の鳩山さんだっただろうか、新聞からだったか、こういう政策はこちらはやらないよみたいなことを言っていたと思い、それはかなり残念な発言である。では、どうすればいいのか。何をしてくれるのか。ベーシック・インカムのような発想はしてくれないのか?民主党は2004年に小泉元総理に対して、ベーシック・インカムという構想があるという質問をしている政党であるのだから。小泉さんよりは、麻生さんのほうが、ベーシック・インカムへの理解はありそうなのだ。時代が少しずれてしまったのか。ベーシック・インカムを公約としてくれる人や政党を一刻でもはやく探したい私にとっては、それをやらない政党や人には投票しない。しかし、今時点でもどの人も政党もベーシック・インカムを公約に掲げている人を私の不勉強、怠惰からか、探し出していない。メールでベーシック・インカムには、基本的に賛成ですと発言された人には、民主党の議員さんにいた。それから、その議員さんへメールしてないが、配給金とベーシック・インカムについてその人はどう思われるだろうとも思う。大連立や、政党移動もあるし、どこの政党に肩持ちしようというわけではなく、誰か政党や議員さんがベーシック・インカムを公約に掲げてくれれば、どの政党の人でも応援しているわけである。市場経済主義よりは、社会保障と国がフォローしてくれる内容の政策のほうが良いと私は思う立場である。経済的に上手に運営できたり、耐えられる人ばかりいるわけがないと思っている。セーフティーネット、保護が必要である。社会民主という政策はどういう政策なのか興味があるが、日本の社民党の場合は、死刑廃止を言っている党なので、そこがネックに感じている。殺人をした人で、裁判で反省の色も示さない人が報道されたり、はっきり犯人だとわかっていて何人も事件を起こした人に対しての、治安への不安や、遺族のやりきれない心情を考えると、死刑をもって償うという制度は無くなったら大変なことになるのではないかと思えてしまうのである。冤罪などがあると逆に怖いことではあるが、はっきりしている犯人の場合もある。裁判員制度などというものが要請され、その判断を国民もしなければならないようになった。過失と意図という違いがあるから、一概に言えないが、私としては、これも判断が難しいが、過失で無く、1人でも殺人をした人と言うのは、やはり普通の人とは違ってしまった人だと思う。そういう人に対しては厳しい判断をせざるを得ない立場をとると思う。反貧困大集会からまだ1ヶ月も経過していないが、遠い昔のことのようにさえ思えてしまう。それは私自身の怠惰か感じ方の悪さなのかも知れないが、情報は風化させてはならないものでもある。あまり風化させなすぎるのもアンバランスとなり、判断はその都度なされなければならない。本当に考えている人のほうが、じっくりとある出来事を積み重ねて改善していくのかも知れない。また、反貧困大集会のような活動が至るところでなされるのであろう。その集会でも、死刑廃止という分科会があった。人の生命は大事である。殺人犯人の生命も生命である。この難しさをどう考えていくか。そりゃあ、理想は、死刑廃止というのならば。殺人を起こしてしまう前の予防策を重大視するフォローが必要なのではないか。事前に解決してしまっていることも平和ということである。日本の社民党が、犯罪予防を実務的に最大限に構築する努力をしてくれるところならば、他の政策は、社会福祉重視の社会民主という考え方なので、良いイメージもあるのだが。そういう現実的なところが、自民や民主に負けてしまっているところなのだろうか。ただ、わからないことが多く、私が偏見だらけである。他の国民も個々の実際の政治家の心情や、政党の雰囲気よりも、外部からマスコミからなどのフィルターを通して少しだけ垣間見ているイメージで考えているだけなのだろう。そうでない人もいて、国会会館の事務所に陳情に訪れていた人も見ている。国会会館まで行かなくても、人によっては、政治家でなくても、地元でも、役所からだろうか、犯罪予防のパトロールの人が車でテープを流している。犯罪心理学者も、犯罪予防のメカニズムの解明をしたほうが、こちらも、ベーシック・インカム関係の人と同様、そういうことも、ノーベル賞級の研究なのではないだろうか。論語には、己れに如かざる者を友とすること無かれと書かれている。自分より劣ったものを友だちにはするなという岩波文庫からの金谷治さん訳であるが、これは、勉強が出来る出来ないで劣っている劣っていないということでは無く、それだけ、精神性の崇高さを高めあえる関係を保て。という意味合いであろう。それに、犯罪者だって、もし、論語のその言葉を守っていれば、良い友達に感化されて、犯罪を起こさず予防できていたかも知れない。集団で悪さをしてしまった人たちなどは、この論語の言葉の正反対のことをしてしまった人たちなのだろう。学問だって、学問の組織自体の考えが間違えてしまっていたら、それにある意味での優秀さが加わってしまい、悪い構造が緻密化してしまうのだろう。新自由主義や、そういう発想の経済学の工学的な経済を推進する人たちも、その緻密さが、格差社会や、先進国内でさえの貧困までを生じさせてしまっているにも関わらず、難しい数式で仲間内を組織化してしまい突っ走ってしまうのだろう。大昔からは、難しい数式などいらずに、生活を維持してきたわけである。批判されるべき人たちは、言われていない人たちのほうにずいぶんいるはずでもある。そして、なかなかそういう人たちは顔をあわせないようなところにいるわけではある。マスコミがそういう人たちの存在を教えてくれて垣間見るくらいである。品格や精神性を高め合うことのできる人たちと出会うことが出来て、その周囲にいられる人は幸福である。その人も高められていることが特に意識しなくても、普段の生活の感受性に現れていることであろう。昔の「ありがとう」みたいなホームドラマとか、「池中弦太80キロ」みたいな、喧嘩しながらも、あたたかい雰囲気も、品格や精神性でもあったのだと思う。そういう経験をしてきた日本人の後継者なわけだから、ちょっと違う文化を摂取してわからなくなってぐれていても、昔の感覚がよみがえることもあるだろうと思う。(付記:無策と言って拒否する人は、年収が1800万円以下の人であっても受け取らなければいいのではないか。お金に困っている人は1円でもありがたいと思う。かえって、中流の人の線で、所得制限がなされていたら、怒り出す人が多かったかも知れない。中流の品格が左右するのではないかと思う。中流は1万2000円くらい戻ってきたって、という発想になってしまう。量的なお金のありがたみが減っているのが中流という位置づけになっている人にとって、どう判断がなされるかの課題として生じてしまっている。だから、現状の政府に対して批判ばかりになってしまう。しかし戦争中は政府への批判など出来ない時代があったのだから、それから比べれば時代はとてもとても良い時代になっている。しかし、それならば、比較的自由に政府にまで批判ができるならば、それに付け加えて、それなら自分のアイデアも出して協力しましょうというところまで考えるべきではないかと思う。ズームインで子沢山家族を紹介して、その家族の奥さんがとても有難いと言っていた。こういう感想が出ると安心する。中流の考え方が左右する。代々木公園で真冬に、ホームレスが仰向けになっていても、ジョギングして通り過ぎたり、キャッチボールしている中流。その感受性が、12000円くらいという政府批判するところまでの考え方を提出してしまっている場合もあるかも知れないと思ってしまった。子沢山家族が有難いと言うように、家族というものの再確認になるし、友達などとあわせれば、12000円が集められて、グループとして大きなことができる可能性もある。批判にしても、罵詈雑言のような雰囲気の言葉遣いで批判することもないと思う。受け手の側の感受性の崇高さが高まるほど、世界観が良くなる。私も中流層に対して、あまり美しい言葉遣いに無っていないことをお詫びする。そんなに悪気は無くても、方言がきつく感じてしまう場合もあったり、配慮に気づかなくなっていたりすることもある。対人関係から社会関係は、それぞれの思惑が生じて難しい。
2008.11.13
(10月20日のブログに反貧困大集会のリポートを書きました)(31日のブログにズームインで辛坊さんがBIに近い発想を述べられた記述しました)定額給付金の話ばかり書いているが、一人あたり12000円、子供や未成年、お年寄りなどには20000円の給付で、所得制限は各市町村に判断をゆだねるということで、来年3月までの配給になるのではということで決まってきたとマスコミから教えてもらった。しかし、昨日のFMラジオや、今朝の毎日新聞、テレビのキャスターや国民の編集選抜された意見でも批判のほうが多い。批判のいくつかを見ると、所得制限の判断を市町村にゆだねるのは、「丸投げ」ではないかと言っているが、地方自治の時代へとか言われているわけだし、国から地方の連携なわけだから、実務的にはそれはむしろ当たり前なのではないか。なんでも国がやってしまうと市町村のほうのモチベーションが下がるし、今回の決定で市町村のほうに意識が向くとも言えるのではないかと思うのだが。12000円だと、使い道が限られるという話をしている人があったが、たしかにもっと配給があればあるほど効果が出てきそうだし、ベーシック・インカム構想は例えばつき8万円という例が考えられていて、それも毎月、一生続くわけなのだが、批判に隠されている、改善への期待というところでは、支給金額と持続性というところでは、今朝のズームインでは、そういう視点から解釈がなされていたのだと思う。批判ばかりしているのか、マスコミや国民はと思うと同時に、批判に隠された改善へのヒントという意味合いも感じられ、批判そのものも見方によれば批判そのものへの解釈も異なってくる。マスコミやマスコミが編集選抜した国民の意見も、その批判を見る見方によって、批判ばかりしてと嫌な気持ちになるか、改善へのヒントをああいう表現でされているのだろうとも取れるのかも知れない。でも、代替案まで含めて答えられることが、考えているということではもっと深めているのだと思うが、そこはマスコミからの突然のインタビューからは答えるのは至難の技かも知れない。いずれにしても、新聞でもテレビでもトップニュースの位置づけに来るのは、インパクトは与えた出来事だということになっている。国民のほうが、12000円であっても、予想外にやってきたものならば、景気回復のために少しでも協力しようとまで考えればいいのに、高校生くらいの人たちが、全額貯金ですとか、自分としてなんのための意味のお金だかわからないので困るとか、そういう考えすぎてしまった人を編集選抜でマスコミは流しているし、マスコミや国民のほうが、後ろ向きの発想の持ち主というか、マスコミや国民の論調が、ではどうすれば、国から予想外の12000円というお金が、税金としての意味合いから見れば戻ってきたとも捉えられるとしても、実際やってくるわけだから、12000円でどのような、景気回復のための使い道があるだろうと考えて発表しあうのがいいのではなかったか。だからマスコミの質問としては、質問によって、国民が批判を答えてしまう誘導ではなく、国民が12000円をどう有効に使えるかは考えられますかという質問をして、国民に考えてもらい、アイデアを発信してもらうような質問にすれば、聞いているほうも、へえ、そんな使い道のアイデアがあるのか。すごいな12000円。という気持ちになり、前向きさが出てきたかも知れなかったのだ。政府としては、マスコミが批判のほうに質問を向ける傾向に走ってしまう場合は、どう給付金を有効に使うかをアンケートして、有効な使い道と思えたことを発表して、国民へのヒントにしていくなどのフォーローも出来るのかも知れない。ただ配給するまでではなく、面白く12000円という量のお金を予想外に使ってみる方法を提示するフォローをしてみると景気というか、受容する感覚が違ってくるのではないだろうか。
2008.11.13
(10月20日のブログに反貧困大集会のリポートを書きました)(31日のブログにズームインで辛坊さんがBIに近い発想を述べられた記述しました)今朝の毎日新聞の社説と余録には、麻生総理が、給付金を所得制限なしで、高額所得者には自発的に辞退を促す方法で年内支給をスムースにさせる方針になりそうなことと、名称変更を考えていることについての話題だったが、その内容は、白紙にさえすればというほどの辛らつなものだった。ある調査で6割の国民が必要ない政策と答えたともあったが、私としては、4割の国民が欲しいということのほうが、数字を量そのものに見るよりも大事なことだし、(6割のほうが多いからというのは、おかしな見方である。こういうことは多数決で判断できるものではない)また6割の中の人は、中流と言われ、お金に困ってない傾向の人たちも含むのだろうが、そういう人たちの中には、年収200万円以下の人が1000万円を超えているという状況まで想像していないだろう。これは悪いと言っているわけではないが、シロガネーゼの周囲の人たちなどの生活の井戸端会議に、貧困層の話題は出ないだろうと思う。なかなか自分の周囲に上らない話題の中にいる人たちには、意識が他のところにはのぼらないのが、普通ではないだろうか。あと、新自由経済主義みたいな感覚の人は反対するだろうし。いろいろな考え方があるが。私は、市場主義だけでは成り立たないと考えているのと、社会保障重視の立場をとるので、こういう発言になる。なぜお金という物質のために、苦楽の差が生じ、それはある程度まではなんらかのヒントを人間に与えるかも知れないが、どれだけ経済苦で自殺していることだろう。それこそ、変なことではないだろうか。毎日新聞が白紙に戻せくらい言ってしまうと、低所得者の期待をがっかりさせることになると思う。それに、全員支給は支給の方法としては一番公平なことで、その上での高額所得者やその他の人でもそれぞれの判断で辞退ができるということで、わかりやすいのではないのか。では、ほかにどういう方法があったのだろうか。他の新聞の論評も見ることができればいいのだが。新聞すべてが辛らつな意見だとしたらなんだかがっかりだが、別の論評があるかも知れない。もし、この給付が毎月、全国民に生涯にわたって続けられれば、ベーシック・インカムなのではないか?毎日新聞の余録には「前代未聞」と書かれていたように、見方を変えれば、「画期的」なことなのである。だから、賛同も反感も混じり、こんなに大きなニュースになったのだろう。反感の側に立つ人たちや、毎日新聞にしても、では、どういう代替案があるのかまで言って欲しいものである。手持ちが残り300円になってしまい、どうしていいかわからず、自殺まで思いつめてしまった人に、給付金が1万円でも2万円でも入ったら、なにか別のことを思いついて助かるかも知れない。低所得者層が、この給付金についてどう捉えているか、情報をまだ得ていないが、きっと、ありがたいと思っていることだろうと思う。お金に困らない状態なほど、お金のありがたみを忘れてしまうのが普通ではないだろうか。商品交換経済が、贈与経済より大きくなり、アンバランスになってしまったことは、人の心も変えてしまっている。生まれた生命が保たれることが一番大事だろう。
2008.11.12
(10月20日のブログに反貧困大集会のリポートを書きました)(31日のブログにズームインで辛坊さんがBIに近い発想を述べられた記述しました)毎日新聞に書いてあるのを見た時には、通り過ぎてしまっていたが、山内康一衆議院議員のメールマガジンに、そのことが書いてあって、マスメディアの取り上げること、取り上げないこと、特にテレビやラジオの偏りというのが、一体どう考えればいいのだろうと思われたことになった。山内議員の文章から抜粋する。「麻生首相の指示で国の出先機関の地方農政局と地方整備局が、廃止される方向で検討に入りました。報道ではさほど騒がれていませんが、実は大きな改革です。ぜひ前に進めるべきです。農林水産省の地方農政局は、予算1兆円と職員1万5千人を抱え、国土交通省の地方整備局は、予算8兆円と職員2万2千人を抱えています。予算9兆円と職員4万人近くを国から地方へ移管すれば、地方分権はかなりのスピードで進みます。」国から地方への分権を進めさせる意味合いが大きい検討ということみたいである。まだ検討段階だったのか。実務的に、廃止されたら、職務移動する人が大量に出るのだろうから、それもスムースに移動できるように考えるのも大変なのかも知れない。しかし、農業は就業人口が極端に少なく高齢化し続けてきた職種である。なにかヒントがないのだろうか。土や太陽とともにあるのが基本の農業なのだろうが、それが良いことなのか悪いのかわからないが、人工光をあてた地下室での野菜栽培なども行われているようである。地方農政局と地方整備局がどんな仕事をしているのかが私にはわかっていないが、それに、全てのテレビニュースなどを見るわけにはいかないが、こういうところも解説付きでテレビやラジオが大きく取り上げてくれれば、地方の雰囲気やニュースの感じ方も変わるような気がした。インターネット時代なので、もっと真剣に考えたら、政府のサイトなども丹念に読み込んだり、多くの政治家のサイトやブログなどを読み込んで、誰がどういう関心で政治に取り組んでくれているのかを見なければならないかも知れないが、テレビなどで政治家を批判する国民などは、大雑把なイメージで批判している部分が多いと思う。しかし、それも致し方ない面もあるかも知れない。テレビというそれを大きく教えてくれるところも、イメージで大雑把な編集だったりするようにも思えるからである。しかし、基本的なイメージはテレビから受けとる。新聞には、上記の検討課題なども書いてあったのだが。政治家本人のブログなども、まずいことは普通は書かないだろうけれど、なにに対して関心があるかなどは書かれているのを見ることで感じることもあるかも知れない。なんだか最近のニュースなど一部には、報道の裏に、冷めた笑いというか、コバカにしているような雰囲気の、なんていえばいいのだろう、そういう見方を潜ませながら作られているように感じるものがある。手塚治虫の漫画にはフィクションも多いのだろうが、戦争の終わった直後には、人の死体が横たわっているのが、何日もさらされていたような描写のある漫画があるが、混乱の時代を過ぎても、ホームレスが寝たまま動かない横をジョギングランナーが通り過ぎたり、親子がキャッチボールしていることが並存してしまうのが他の国はわからないが、日本の現状である。実際にこの目で見たからそうなのだ。しかし、自分としても、何も出来ないまま、人生が過ぎて行く。どんな綺麗事に包まれているような人でも、全ての人を救うような力は無いから、ホームレスと家族の休日が並存しても、違和感が感じられないような状態が起きてしまっている現世の現象である。このごろのニュースも、罪から逃げたり、嘘を突き通したりする人のニュースも多く流れている。言葉や行為が軽く吹き飛んでいってしまう。しかし、多くの人の良い面もたくさんあり、そのためにずっと世界が続いていることでもあり、もっとそういう良いことの描写をこのブログでも報告できたほうが良いのだが、良いことというか、普通にきちんと過ごしている人は、意外に文章化されなかったりする。変なことや面白さばかりニュースにしようとすると、世の中はおかしなことだらけなのかとなってしまうが、実際は、多くの人たちの日々の日常的な繰り返しが、世界を支えている。地方農政局や地方整備局という、私自身がそういうところが疎いので申し訳ないが、そういうところをどう考えるかという仕事などが、より日常に近いような話題のような気がして、そういうニュースもテレビで大きく取り上げられるような感覚があると今は違う雰囲気の世界になっていたかも知れないなどと思った。私自身に出来ないことなので、無念なことであるが、なにか他にやってないようなことが出来れば、それが多様化のための一つになる。自分自身が何を見聞し、新たに取り入れ、過去の知識を採用し、誰に関わることで道が開けるのか、いまだわからない。自分自身も社会でいろいろな経験をさせてもらったが、それとともに家族のありがたみもある。周囲とはいろいろ楽しいこともあったし、出会う人も楽しみや元気をくれる人であったりする。新しいことを成し遂げた人が実際にいるから、今の時点での多様性があるわけで、それを出来た人と、出来ない人の差は一体どこから生じているのだろうかと思う。そのメカニズムが分かれば、なにか創造しやすくなるかも知れない。(社会的に貨幣を得ることの出来る時流に乗った知識と技能を習得できた人とそうでない人という差異も大きくなってしまうのだろう。しかし、その差異に本当はどれだけの意味合いがあったというのだろうか。)(こういうことを書くことが負け惜しみにしか感じられないと思ってしまった人は、いかに社会が貨幣に取りつかれたものだと密着して考える性質の人なのかも知れないし、自分がそうなのかも知れない。)(貨幣という、生命維持にさえ密着してしまっているとさえ考えられてしまうほどになってしまった生物学的には食べても栄養価値にならないものの存在とそれに左右されてしまうことの不思議。それがなぜそうなってしまっているのか、それを克服できるのかが知りたい。)(自らのお金儲けまで考えた人と、全ての人が平穏に、お金に左右されずにいられる社会構造を考えようとした人では、後者のほうが、人間の知性にとって、深みや広がりを持とうとした人では無かったかと私は判断したい。そういうところまで考えようとした人というのは、たたずまいや書くこと全てがきっと高潔というか、違ったものを感じる人であっただろう。そういう人でさえ、こうして現実を全て解決できなかったが、それを望んだ、望んでいるという人に会えたらそれは貴重な体験だろう。)勉強したとか、鍛錬したとか、勇気を出したとか、資産があったとか、それはそうだろうとしても、もっと根本的なメカニズムで何が人をそういう方向に持っていけたのかということである。ただ、一人だけでは物事は進められないだろう。周囲に関わってくる人が夢と希望を持つ人たちだったら感化されるだろう。岩波文庫の論語から、子の日わく、徳は孤ならず。必ずとなりあり。先生がいわれた、「道徳は孤立しない。きっと親しいなかまができる。」人間は、植物にしても動物にしても、他の生命を食することで生きている、はじめから哀しく罪を背負いながらいる生き物であるが、その中からも、真善美とは何かという希望は捨てずにいるものである。多くの人は素晴らしい仲間と今日も日々を過ごしたことと思う。そういう状態にあこがれるべきである。良い思いが、引き付けあうのだから。
2008.11.07
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