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虚数1~2虚数空間という存在はあるのだろうか?虚数空間がないと、電子の振る舞いは説明がつかないのではないだろうか?ほかにも、磁石は虚数空間から磁場を汲み出しているということはないものだろうか?ほかにもいろいろ考えられるが、などと考えてみて、複素数座標を観察してみた。以前、タンジェントカーブを観察して面白いことをいろいろ考えたことがあって、このブログにも書いている。今回は複素数座標だ。横軸を実数、縦軸を虚数として、ゼロのところで交差しているやつ、を見てみる。うーむ、面白い!ゼロ、というのが曲者か?ゼロでは、あらゆる可能な数が足しあわされて、ゼロに隠れているように見える。それを「空」と名付けよう。まあ、「無」でもいいが。ぼくの好みとしては、「空」だ。実数軸で、プラスの実数を物質に見立てると、マイナスの領域には、マイナス物質があり、虚数のプラス領域には、虚物質、マイナス領域には、マイナス虚物質がある、などとSF的な想像をしてみるのも面白い、可能性がいろいろ考えられそうだ。90度の直交、そこにも秘密があるのだろうか?SF的にはあるという感じがする、ゼロにおける90度の直交は、三次元空間では、3本の数直線で、までしか実現しない。1本めが、実数、2本めが虚数、3本めを「未知虚数」と名付けてみよう。「未知虚数」は、複素平面のゼロ交点において、複素平面に対して90度で伸びている。数式的には、「未知虚数」を2乗したら、ーiになると設定することもできて、それが面白そうだ。そのばあい、手順を決めることになるが。「未知虚数」の4乗=ー1となる、そこから何がでてくるのかは、さらに、高次元を想定すると、n次元では、n本の数直線まで可能になるだろう。用紙にいろいろ書いてみたが、以上、考えてみただけであって、SFの世界です。(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved.
2009.05.31
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虚数虚数空間という存在はあるのだろうか?虚数空間がないと、電子の振る舞いは説明がつかないのではないだろうか?ほかにも、磁石は虚数空間から磁場を汲み出しているということはないものだろうか?ほかにもいろいろ考えられるが、などと考えてみて、複素数座標を観察してみた。以前、タンジェントカーブを観察して面白いことをいろいろ考えたことがあって、このブログにも書いている。今回は複素数座標だ。横軸を実数、縦軸を虚数として、ゼロのところで交差しているやつ、を見てみる。うーむ、面白い!ゼロ、というのが曲者か?ゼロでは、あらゆる可能な数が足しあわされて、ゼロに隠れているように見える。それを「空」と名付けよう。まあ、「無」でもいいが。ぼくの好みとしては、「空」だ。可能性がいろいろ考えられそうだ。用紙にいろいろ書いてみたが、(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved.
2009.05.30
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論理とは何か1~3「論理」とはなんだろう、「論理」に、「目的を達成するための」、という条件・形容をつけると、幅が広くなって、自然言語も論理的だ、となる、人間としての生活、人間関係、をなす・進めるための論理となって、まさに論理的、となる、さらに、たとえば、発明して特許をとるばあいの明細書を書くにあたって、文章だけで済むばあいがあるし、普通でも、図や表と記号や文章で通じさせることができる、そういったケースでの文章というのは、自然言語に多くを負っている、そんなふうに、論理的に用いることもできる、一方、数学的・論理学的「論理」は、そこでの立場では、目的を達成しにくくなるので、論理性に欠けがでる、極端にいうと、論理的でない、ということになる、そもそも論理とは何か?変化する何かの間に存在するところの、法則性、ということか?ひとつの項目と、次・または離れたところにある項目との間の、関係性または規則性・法則性、ということか?時間の経過とともに変化するところにある関係性または規則性・法則性、ということか?ほかに何がある?それ以外に何がある?その「論理」を抽出することが、さまざまな有用性をもつのかもしれない、数学的・論理学的論理というのは、自然・世界に初めから存在しているものにみえる。人間にとっては一応、人間の知性がそれらを発見し扱うが、自然・世界の法則に(を)対応している・記述している・描写している、ケースがみいだされる。人間の知性にいつ・どうやってそんな能力が組み込まれたのか、興味をひかれる(このブログの過去のコラムにそこのところをいくらか書いたことがある)。前述の、「人間としての生活、人間関係、をなす・進めるための論理」も、人間の知性(感情などをも含めた、人間の非物質的活動の性)がもつ能力の中にあるわけであって、それについても、同じく、人間の知性にいつ・どうやってそんな能力が組み込まれたのか、興味をひかれる(このブログの過去のコラムにそこのところをいくらか書いたことがある)。数学(的論理・法則性)、現実の世界に存在するものを対象にせず(参考にすることはある)、人間の知性によって、構築するものであって(そういうものが多い)、そこにおいては、、具体から抽出、という形をとっていない(ことが多い)、(微積分は、天体などの運動を説明しようとする過程で、ニュートンが、ライプニッツはどんな経緯で微積分を発見・発明したのかは知らない、記号、図、図表、ことば、などを用いて、法則性、論理、変化、変換、写し変え、操作、などを扱う・行う、いってみれば、規則性・法則性の施行か、それらの多くは、現実の世界の事象の法則性(誤差はあるが、誤差があることがあるが)に対応している、なぜ、そういうことになるのか? (その対応性のこと)まず、人間の知性に、過去において、そういった能力が組み込まれた、組み込まれてきた、といえるだろう、脳というハードウェアと、知性というソフトウェアのようなもの、その他が、数学的才能のある人々による、それらの行使の結果、数学が構築されてきた、ということは、「そういった能力」の中に「現実の世界の事象の法則性」が、なんらかの形で組み込まれている、その立場で考えると、1、「現実の世界の事象の法則性」が、なんらかのやり方で抽出され、「脳というハードウェアと、知性というソフトウェアのようなもの、その他が、」に、なんらかのやり方で組み込まれた、あるいは、2、そういった抽出と組み込みはなされてはいないが、この世界の法則性によって、それらの間には共通性が現れる、あるいは、3、その間の共通性は、偶然の一致、4、その他、などが考えられるだろう、その「3、」は、まず、ありえない、「1、」の可能性が高い?「2、」だと、人間の知性の中のある種の法則性と、「現実の世界の事象の法則性」が、なんらかに一致していることがある、ということになる、「意識」を厳密に定義して、「意識内容」の変化を追求していくと、そこに、さまざまな論理を見出せるはずだ、そういうふうに考えてみたが、考えてみただけであって、以上を批判したい人は、自分の「論理」についての論を提示すべし、批判だけすることは究めて簡単であり、ここでは、自分の論を考えることのできない者は、批判する資格はないとしたい、みみっちいケチはつけないで、自分の論を考えよ、(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved.
2009.05.30
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論理とは何か1~2「論理」とはなんだろう、「論理」に、「目的を達成するための」、という条件・形容をつけると、幅が広くなって、自然言語も論理的だ、となる、人間としての生活、人間関係、をなす・進めるための論理となって、まさに論理的、となる、一方、数学的・論理学的「論理」は、その立場では、目的を達成しにくくなるので、論理性に欠けがでる、極端にいうと、論理的でない、ということになる、そもそも論理とは何か?変化する何かの間に存在するところの、法則性、ということか?ひとつの項目と、次・または離れたところにある項目との間の、関係性または法則性、ということか?時間の経過とともに変化するところにある関係性または法則性、ということか?ほかに何がある?それ以外に何がある?その「論理」を抽出することが、さまざまな有用性をもつのかもしれない、数学的・論理学的論理というのは、自然・世界に初めから存在しているものにみえる。人間にとっては一応、人間の知性がそれらを発見し扱うが、自然・世界の法則に(を)対応している・記述している・描写している、ケースがみいだされる。人間の知性にいつ・どうやってそんな能力が組み込まれたのか、興味をひかれる(このブログの過去のコラムにそこのところをいくらか書いたことがある)。前述の、「人間としての生活、人間関係、をなす・進めるための論理」も、人間の知性(感情などをも含めた、人間の非物質的活動の性)がもつ能力の中にあるわけであって、それについても、同じく、人間の知性にいつ・どうやってそんな能力が組み込まれたのか、興味をひかれる(このブログの過去のコラムにそこのところをいくらか書いたことがある)。数学(的論理・法則性)、現実の世界に存在するものを対象にせず(参考にすることはある)、人間の知性によって、構築するものであって(そういうものが多い)、そこにおいては、、具体から抽出、という形をとっていない(ことが多い)、(微積分は、天体などの運動を説明しようとする過程で、ニュートンが、ライプニッツはどんな過程で微積分を発見・発明したのかは知らない、記号、図、図表、ことば、などを用いて、法則性、論理、変化、変換、写し変え、操作、などを扱う・行う、いってみれば、法則性の施行か、それらの多くは、現実の世界の事象の法則性(誤差はあるが、誤差があることがあるが)に対応している、なぜ、そういうことになるのか? (その対応性のこと)まず、人間の知性に、過去において、そういった能力が組み込まれた、組み込まれてきた、といえるだろう、脳というハードウェアと、知性というソフトウェアのようなもの、その他が、数学的才能のある人々による、それらの行使の結果、数学が構築されてきた、ということは、「そういった能力」の中に「現実の世界の事象の法則性」が、なんらかの形で組み込まれている、その立場で考えると、1、「現実の世界の事象の法則性」が、なんらかのやり方で抽出され、「脳というハードウェアと、知性というソフトウェアのようなもの、その他が、」に、なんらかのやり方で組み込まれた、あるいは、2、そういった抽出と組み込みはなされてはいないが、この世界の法則性によって、それらの間には共通性が現れる、あるいは、3、その間の共通性は、偶然の一致、4、その他、などが考えられるだろう、その「3、」は、まず、ありえない、「1、」の可能性が高い?「2、」だと、人間の知性の中のある種の法則性と、「現実の世界の事象の法則性」が、なんらかに一致していることがある、ということになる、そういうふうに考えてみたが、考えてみただけであって、以上を批判したい人は、自分の「論理」についての論を提示すべし、批判だけすることは究めて簡単であり、ここでは、自分の論を考えることのできない者は、批判する資格はないとしたい、みみっちいケチはつけないで、自分の論を考えよ、(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved.
2009.05.29
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翻訳による誤解1~6翻訳には弊害がつきまとう。たとえば、仏教における「愛」。その前の形は「渇愛」である。「渇愛」というのは、大昔の今でいうチャイナで、今でいうインドのサンスクリット語の「タンハー」の訳である。(ブッダは、タンハー、を用いる以前は、ラーガ(炎?)を用いていた? うろ覚えです)「タンハー」とは、「(のどが)渇いている」「満たされていない」といった人間の本能的・本質的な欲求をいうそうである。その「タンハー」を「愛」としてしまったら、日本人にとっては、仏教の崩壊、である。「愛」が、すべての混乱・害・不利益・精神的懊悩・心の崩壊などの元であるから、「愛」を捨て去れ、などとなったら、大変なことになるだろう。それはもうメチャクチャでたらめホホイノホイッ! って感じだろう。チャイナでの「愛」と日本語での「愛」にどの程度の違いがあるのか知らないが、「激烈執着欲求」という(タンハーの)訳がいいのではないだろうか。例えば、チャイナ語で、「嘆」は、肯定的に(も?)用いるようである。「感嘆する」といった意味にである。否定的に、日本語の「嘆く」といったふうに使うのかどうかは知らない。ほかにもそういったことは多いだろう。ここで、翻訳の問題からすこし離れて、ブッダの教えの根本を眺めてみよう。以下はかつて私が原始仏典を読んで、抽出したものである。それから時間がかなり経っているので、まちがっているところがあるかもしれないが、記してみよう。タンハーは仏教の根幹をなす内容(概念)のひとつである。人生は苦である。人間にタンハー(激烈執着欲求)があるから、人生は苦となる。タンハーがあるから、転生の原因となる異陰(転生の主体)が生じて人は転生しつづけていく。タンハーをなくせば(それが悟り、解脱、だったと思う)、人間は二度と転生せず、ニルヴァーナ(涅槃、永遠に平安な状態、言葉では解説できないそうだ)にはいる。タンハーをなくすには、タンハーの原因をなくせばよい。なぜならすべては原因があって結果があるのであるから。つまり、タンハーの原因があるので、タンハーが生じるのである。そのタンハーの原因を滅すれば、タンハーも消える。私は、修行と瞑想などによって、そのタンハーの原因を滅した。よって、私のタンハーは消滅した。したがって、私は二度と転生しない。私は、二度と転生しない、ニルヴァーナにはいった。以上が、ブッダの教えの真髄である。(真髄といっても、文章で表現できる範囲内でのものであって、タンハーの原因を滅する実践はまたべつものである)。(まちがっているところがあったらいつでも訂正します)それは、仏教経典のもっとも古いもの=原始仏典から、抽出したエッセンスである。原始仏典が、ブッダの言動をもっとも忠実に記していると考えられているのである。それ以外の仏典は後世の人たちによる創作仏典(仏典と名乗らなければ創作とはいえないが、それらにブッダが登場しているので、そういうことになる)だそうである。ここにも、文献に接するさいに気をつけなければならない教訓があり、それは翻訳の態度の在り方にもつながってくるといえる。少し前に戻って強調しておきたいことは、しかしながら、私の研究によれば、仏教はどれであれ、個人的・社会的有用性においては、優劣はないと判断される、ということである。さらに、この世界の厳密な法則性を記述しているか否か、という観点からも、甲乙はつけられないと考えられる。さて、哲学では、「悟性」という訳がある。ドイツ語や英語では、理解すること「Verstand、Understanding」である。理解すること、よりも、理解する性(さが)、それよりも、理解する力、の方がわかりやすいだろうか。現代人にとって「悟性」というと、「はっきり理解する力」という意味を思い浮かべることはまずないのではないか。「悟」という漢字は、仏教の「悟り」の影響が強すぎて「理解よりも、直観で本質を見抜き体得する」といった意味合いがつよい。古語における「はっきり理解する」という意味から遠ざかっているように感じる。ドイツ語や英語では、そこでは、へんにかっこうをつけずに、すなおな単語が使われている。「易経」も英語訳ではたしか「The Book of Changes、変化の書」であって、非常にわかりやすい。そういったふうに、日本語訳では、かっこうをつけて、わかりにくい訳がなされていることがある。とくに専門用語で漢字をあてたものがそうである。以上のように、翻訳には慎重さが要求される。その線上で、翻訳は素直でわかりやすくしていただきたいものである。(以上、私の記憶に基づいて書いているので、まちがいがあるかもしれません。そういった個所はいつでも訂正します)。(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.05.28
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宗教と科学1~2科学において、宗教的な文献をどう捉え考えるか。あるいは、宗教をどう捉えるか。宗教的な文献や実際の宗教における事象の中には、誇張や創作もあるかもしれないが、その中には事実も多く含まれている、という主張に対して、科学はどう対応するのか。宗教に関してひとついえる確かなことは、多くの人間は宗教なしでは、人生に耐え切れないことがある、ということだろう。つまり、多くの人たちには、宗教は必須であるし、人間の精神は宗教を受け入れるようにつくられている、ということだ。(そういった精神的特性が、いつどうやって人間の知性(感情も含めて、人間の非物質的活動の性)に組み込まれたのか、ということも興味ある課題だ)。ということは、人間のそういった精神的特質に対応して、宗教が発生するのは当然だとも考えられる。そこから、その精神的特質に対応した宗教的事象、も起こるようにこの世界はできているのかどうか、という課題もでてくるだろう。しかも、人間の知性が考え出すことの中には、現実として実現されるものも多い。そのうちに、その捉え方、理解のしかたが打ち出されていくだろう。(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.05.28
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論理とは何か「論理」とはなんだろう、「論理」に、「目的を達成するための」、という条件・形容をつけると、幅が広くなって、自然言語も論理的だ、となる、人間としての生活、人間関係、をなす・進めるための論理となって、まさに論理的、となる、一方、数学的・論理学的「論理」は、その立場では、目的を達成しにくくなるので、論理性に欠けがでる、極端にいうと、論理的でない、ということになる、そもそも論理とは何か?変化する何かの間に存在するところの、法則性、ということか?ひとつの項目と、次・または離れたところにある項目との間の、関係性または法則性、ということか?時間の経過とともに変化するところにある関係性または法則性、ということか?ほかに何がある?それ以外に何がある?その「論理」を抽出することが、さまざまな有用性をもつのかもしれない、数学的・論理学的論理というのは、自然・世界に初めから存在しているものにみえる。人間にとっては一応、人間の知性がそれらを発見し扱うが、自然・世界の法則に(を)対応している・記述している・描写している、ケースがみいだされる。人間の知性にいつ・どうやってそんな能力が組み込まれたのか、興味をひかれる(このブログの過去のコラムにそこのところをいくらか書いたことがある)。前述の、「人間としての生活、人間関係、をなす・進めるための論理」も、人間の知性(感情などをも含めた、人間の非物質的活動の性)がもつ能力の中にあるわけであって、それについても、同じく、人間の知性にいつ・どうやってそんな能力が組み込まれたのか、興味をひかれる(このブログの過去のコラムにそこのところをいくらか書いたことがある)。そういうふうに考えてみたが、以上を批判したい人は、自分の「論理」についての論を提示すべし、批判だけすることは究めて簡単であり、ここでは、自分の論を考えることのできない者は、批判する資格はないとしたい、みみっちいケチはつけないで、自分の論を考えよ、(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved.
2009.05.28
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自発性・自由意志などについて1~5イメージがでてきたままに、ラフスケッチまず、初めに;人たちが人たちの様子などや自分の心などを観察してきて、ある範疇にはいるケースを自発性がある、とか、自由意志によっている、などと表現した、そういうばあいの「自発性」や「自由意志」は否定できないといえる、心脳工学では、人間の心に自由意志があるとして(これは仮定というよりも、あるとする、ということ)その自由意志によって心の中に、ぽっと、ある決断が生まれたとしたら、その機構はどうなっているのか、追求することができる。その検証も実験によってなす、という前提で。たぶん、現実として、ほんとに、そういったものがぽっと現れる、と推測されるが、そのメカニズムは絶対に解明できないだろう。たとえば、電子が電荷をもつメカニズムが解明されたとしても、その解説の基礎となる存在の解明は絶対にできないだろう、などといったふうに、もっとも基本となる存在の解明は絶対にできない、ということが証明される、のではないか、で、絶対に解明できないけれども、自由意志はある、とするのか、ないとするのか、解明できないが、それは決定論的に決定しているのか、(決定している=自由意志はない、なのか)決定していないのか、決定していない=記述できない=自由意志がある、なのか、確率的に記述できるのか、確率的にも記述できないのか、記述できない=自由意志がある、なのか、確率的に記述できるとして、確率的に記述されていて、確率0,01の特定の言動が一回目で起きたら、それをどう解釈するのか、それは記述できない、という立場と違わないと、確率的に記述できるとして、確率的に記述されていて、確率0,5の特定の言動が一回目で起きたら、それをどう解釈するのか、そういったばあい、将来の言動を現実どおりに記述することと、そういったことは記述できないということとの違いとして、(ここは表現できない)すべてを見通せる存在があると仮定して、その存在に、それを見通すことができるのか、見通すことはできないのか、自由について、ブラウン運動は自由な運動ではない、と定義すると、この世界に自由なものはなくなるのではないか、と考えてみる、で、ブラウン運動は自由な運動である、と定義してみる、そのばあいの自由とはランダム、人間も、そういったランダム的な自由をもっている、と考えてみる、たとえば、道を歩くとき、まっすぐに歩くわけではない、その歩きの揺らぎのようなものは、ランダムによっている、と考えてみる、そこにランダム以外の在り方があるかどうか、なにか、バランスをとる、といった論理も参加している可能性も考えられる、 続きを読む(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved.
2009.05.27
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自由や自発性・自由意志などについて1~4イメージがでてきたままに、ラフスケッチまず、初めに;人たちが人たちの様子などや自分の心などを観察してきて、ある範疇にはいるケースを自発性がある、とか、自由意志によっている、などと表現した、そういうばあいの「自発性」や「自由意志」は否定できないといえる、心脳工学では、人間の心に自由意志があるとして(これは仮定というよりも、あるとする、ということ)その自由意志によって心の中に、ぽっと、ある決断が生まれたとしたら、その機構はどうなっているのか、追求することができる。その検証も実験によってなす、という前提で。たぶん、現実として、ほんとに、そういったものがぽっと現れる、と推測されるが、そのメカニズムは絶対に解明できないだろう。たとえば、電子が電荷をもつメカニズムが解明されたとしても、その解説の基礎となる存在の解明は絶対にできないだろう、などといったふうに、もっとも基本となる存在の解明は絶対にできない、ということが証明される、のではないか、で、絶対に解明できないけれども、自由意志はある、とするのか、ないとするのか、解明できないが、それは決定論的に決定しているのか、(決定している=自由意志はない、なのか)決定していないのか、決定していない=記述できない=自由意志がある、なのか、確率的に記述できるのか、確率的にも記述できないのか、記述できない=自由意志がある、なのか、確率的に記述できるとして、確率的に記述されていて、確率0,01の特定の言動が一回目で起きたら、それをどう解釈するのか、それは記述できない、という立場と違わないと、確率的に記述できるとして、確率的に記述されていて、確率0,5の特定の言動が一回目で起きたら、それをどう解釈するのか、そういったばあい、将来の言動を現実どおりに記述することと、そういったことは記述できないということとの違いとして、(ここは表現できない)すべてを見通せる存在があると仮定して、その存在に、それを見通すことができるのか、見通すことはできないのか、自由について、ブラウン運動は自由な運動ではない、と定義すると、この世界に自由なものはなくなるのではないか、と考えてみる、で、ブラウン運動は自由な運動である、と定義してみる、そのばあいの自由とはランダム、人間も、そういったランダム的な自由をもっている、と考えてみる、たとえば、道を歩くとき、まっすぐに歩くわけではない、その歩きの揺らぎのようなものは、ランダムによっている、と考えてみる、そこにランダム以外の在り方があるかどうか、なにか、バランスをとる、といった論理も参加している可能性も考えられる、知性が関わると、そのランダムな自由はどうなるか、ランダムに自由意志で統制を与える、自由意志があるなら、その統制(とくに自分にかかわることの)は自由意志からきたものであって、自由の圏内にあるとできる、その自由意志を心脳工学的に扱うと、既述のように、人間の存在自体、自分の自由意志で生まれてきたものではない、人間の存在・ありようはすべて与えられたものだ、よって、人間に自由意志はない、とするばあい、いや、最初だけはそうだが、自由意志によって努力すれば、大きく変えられるから、そこに、初めから、知性と意識というものが存在していて、その意識の自由意志で、人間は生まれてきた、そういった可能性は、宗教学・神学的には、宇宙・世界を創造した存在が、人間に自由意志を与えた、とすれば、一発で、物理学的には、確率的に定義の問題自由意志自由意志というのは、この世界・宇宙の根本法則のもとに、自分の心を自分で運営していくこと、それしかないだろう、と考えてみる、それが自由意志なのである、と考えてみる、人間は自分でこの世界に自分を産み出したのではないし、自分のすべてはこの世界・宇宙から与えられたものであるし、さらに、この世界・宇宙は、もっとも根本のところで、なんらかの法則に従っている、と考えてみる、誰も・何も・どんな存在も、その法則からは逃れられない、と考えてみる、そのことを捉えて、自由意志はない、とすることは、この世界に「自由意志」という表現・概念はない、ということに等しい、と考えてみる、つまり、「自由意志なんてない」と主張する人は、「自由意志」という表現・「自由意志なんてない」という表現を用いてはならない、ということになる、と考えてみる、(爆笑)、よって、「自由意志はある」という人だけが、「自由意志」について論じることができるのであり、論じた結果の結論も「自由意志はある」になる、と考えてみる、(爆笑)、つまり、自由意志はみごとに存在するのである、という結論になる、と考えてみる、(爆笑)ここで、ここの初めの、「それが自由意志なのである、と考えてみる」がでてきたわけである、(爆笑)(ここの後半は爆笑論理による展開。爆笑と記しているものの、悪くないんじゃないだろうか? こういう哲学も面白い。で、ここを批判したい方は、批判せずに、自分の論を考えてください)別な展開自分の存在は自分が産み出したのではないことをもって、自由意志はないとする人は、自由意志について論じる資格はない、自分の存在は自分のものである(人間は人との間にあって初めて人間になる、とか、人とのかかわりあいを考えるとか、ギブアンドテイクが必要だとか、人のことを考え人のためになることもなせ、とか、そういった次元のことは除く)、ということを否定する人は、自由意志について論じる資格はない、自由意志は、自分の潜在心(潜在意識)が発動させる、自分の肉体・脳・潜在心の器を構成している素材も自分(のもの)なのである(それを否定するする人は自由意志について論じる資格はない)、その潜在心の器はこの世界・宇宙の根本法則に従っているが、その根本法則は自分の潜在心の器内にあるので、その根本法則も自分のものであるので(それを否定するする人は自由意志について論じる資格はない)、自由意志は存在する、人間は自由意志によって、道具を用いずに鳥のように空を飛べないので、自由意志がない、という人は、自由意志について論じる資格はない、前に述べた根本法則の下に、さらに自由意志が従う法則があっても、その法則も自分のものであるから(それを否定するする人は自由意志について論じる資格はない)、自由意志は存在する、という展開も、(批判したい方は、自分の論を考えてください。批判は超簡単)過去に書いたもの 私の論を理解するには、工学的ないくらかの素養、科学的ないくらかの素養、数学のいくらかの素養、文学のいくらかの素養、ある程度の国語力、コンピュータの中心概念の理解、発明をたくさんして明細書を書くこと、思考実験に熟達すること、などが必須であるが、哲学的素養は要らない。 自発性、自由意志、その他、について 自発性、自由意志、といった表現は、人間についてであれば、人間の(複数の)そう感じられる状況を見て、でてきたものである。それを自発性とか自由意志と呼ぶのであって、そんな自発性や自由意志はないと否定することはできない。 否定したい人はもちろん否定していいが、その説明が多くの人を説得するものでなければ、一般性はない、といえる。 で、もっと詳細に考えて、自発性や自由意志があるかないか論じる、という立場に立つのであれば、なにに拠ってそれを考えるのかはっきりさせなくてはならない。 そのためにはまず、定義と用語をはっきりさせることが必要である。 さらになぜ、そういった定義と用語を導き出したのかできるだけ明らかにする。 その上で、その立場で、自発性や自由意志があるかないか論じる、ということになる。 それ以外のやり方での議論では、なんらかの発想訓練と国語力の鍛錬になるだけだろう。 それとは別に、哲学風や科学風を装って、国語力の鍛錬の議論をしても、心脳問題の研究は進まないだろう。 ごく稀にすごいアイディアが生まれることはあるかもしれないが。 と、まあ考えてみましたが、考えただけであって断定するものではありません。もっと詳細に考えて、自発性や自由意志があるかないか論じる、という立場に立つのであれば、なにに拠ってそれを考えるのかはっきりさせなくてはならない。そのためにはまず、定義と用語をはっきりさせることが必要である。さらになぜ、そういった定義と用語を導き出したのかできるだけ明らかにする。その上で、その立場で、自発性や自由意志があるかないか論じる、ということになる。 そこを心脳工学の立場で詳しくいうと;心脳のモデルとそのシステム明細を現実どおりに明らかにし、そこから、自発性や自由意志という内容にあてはまる部分を抽出し、それを、自発性とか自由意志と名づけ、その上でその機構を解明する、または論じる、ということである。 それ以外の立場でもいろいろ可能でしょう。 私は今、心脳工学のモデルとそのシステム詳細にも挑戦しているんですが、その中で、自由意志のあるモデルと、自由意志のないモデル、の両方の設計(もちろん、要検証)(自由意志があるのかないのか、その問題は横においておいて)もやっています。それらの検証のための実験方法も追求しています。 前者は、平たい言葉でいうと、心の中になんの脈絡もなく突然ぽっと、あのDVDを観よう、という考えが現れたとしたら(なぜそう思ったのか皆目検討がつかないとする)、そこのメカニズムはどうなっているのだろう、ということに代表される課題も抱えたもの、ということです。用紙にびっしりと書き込みましたが、時間もないし、投稿するとすれば先のことになります(運命づくりのパラドックス)。前者は、平たい言葉でいうと、心の中になんの脈絡もなく突然ぽっと、あのDVDを観よう、という考えが現れたとしたら(なぜそう思ったのか皆目検討がつかないとする)、そこのメカニズムはどうなっているのだろう、ということに代表される課題も抱えたもの、ということです。ここの表現はまずいですが、そのままにしておきます。あまりにややこしくなりそうなので、再追記しておきます。 自由意志によって決断すべき事項があるとして、その出発点は何によって与えられたか、とか、決断に至るまでのプロセスはどうなっているのか、とか、決断時の状況はどうなっているのか、とか、それを自由意志と定義するのか、とか、ややこしくなるので、一番簡単な工学的モデルとして、次のようなものを考えています。 自由意志をもった潜在心の器(=潜在意識のハードウェア)を仮定し、そこに、それがもつ自由意志によって、ある心的内容(決断させる心的内容)が生じたら、そこのメカニズムはどうなっているのか、ということを追求する、そういったモデル。それらすべて要検証。時間がないしまだまだ未完成なので、その解説は先の先のことでしょう。(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved.
2009.05.26
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初夏の世界*メロメロコーナー*季節は巡り夏の初めやってきた初夏春に芽吹いた豊かなはるかな自然の恵み人間の汗世界の恵み大自然の創造繰り返される営みそこに新しいなにかが加えられていく恵みと創造によってもたらされる豊饒豊饒によってつながりゆく世界のさまざま世界のさまざまが自然に有機的に編みゆかれ世界はひとつのエポックを見ることになるやってきた初夏季節は巡り夏の初め(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.05.25
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自由や自発性・自由意志などについて1~3イメージがでてきたままに、ラフスケッチまず、初めに;人たちが人たちの様子などや自分の心などを観察してきて、ある範疇にはいるケースを自発性がある、とか、自由意志によっている、などと表現した、そういうばあいの「自発性」や「自由意志」は否定できないといえる、心脳工学では、人間の心に自由意志があるとして(これは仮定というよりも、あるとする、ということ)その自由意志によって心の中に、ぽっと、ある決断が生まれたとしたら、その機構はどうなっているのか、追求することができる。その検証も実験によってなす、という前提で。たぶん、現実として、ほんとに、そういったものがぽっと現れる、と推測されるが、そのメカニズムは絶対に解明できないだろう。たとえば、電子が電荷をもつメカニズムが解明されたとしても、その解説の基礎となる存在の解明は絶対にできないだろう、などといったふうに、もっとも基本となる存在の解明は絶対にできない、ということが証明される、のではないか、で、絶対に解明できないけれども、自由意志はある、とするのか、ないとするのか、解明できないが、それは決定論的に決定しているのか、(決定している=自由意志はない、なのか)決定していないのか、決定していない=記述できない=自由意志がある、なのか、確率的に記述できるのか、確率的にも記述できないのか、記述できない=自由意志がある、なのか、確率的に記述できるとして、確率的に記述されていて、確率0,01の特定の言動が一回目で起きたら、それをどう解釈するのか、それは記述できない、という立場と違わないと、確率的に記述できるとして、確率的に記述されていて、確率0,5の特定の言動が一回目で起きたら、それをどう解釈するのか、そういったばあい、将来の言動を現実どおりに記述することと、そういったことは記述できないということとの違いとして、(ここは表現できない)すべてを見通せる存在があると仮定して、その存在に、それを見通すことができるのか、見通すことはできないのか、自由について、ブラウン運動は自由な運動ではない、と定義すると、この世界に自由なものはなくなるのではないか、と考えてみる、で、ブラウン運動は自由な運動である、と定義してみる、そのばあいの自由とはランダム、人間も、そういったランダム的な自由をもっている、と考えてみる、たとえば、道を歩くとき、まっすぐに歩くわけではない、その歩きの揺らぎのようなものは、ランダムによっている、と考えてみる、そこにランダム以外の在り方があるかどうか、なにか、バランスをとる、といった論理も参加している可能性も考えられる、知性が関わると、そのランダムな自由はどうなるか、ランダムに自由意志で統制を与える、自由意志があるなら、その統制(とくに自分にかかわることの)は自由意志からきたものであって、自由の圏内にあるとできる、その自由意志を心脳工学的に扱うと、既述のように、人間の存在自体、自分の自由意志で生まれてきたものではない、人間の存在・ありようはすべて与えられたものだ、よって、人間に自由意志はない、とするばあい、いや、最初だけはそうだが、自由意志によって努力すれば、大きく変えられるから、そこに、初めから、知性と意識というものが存在していて、その意識の自由意志で、人間は生まれてきた、そういった可能性は、宗教学・神学的には、宇宙・世界を創造した存在が、人間に自由意志を与えた、とすれば、一発で、物理学的には、確率的に定義の問題自由意志自由意志というのは、この世界・宇宙の根本法則のもとに、自分の心を自分で運営していくこと、それしかないだろう、と考えてみる、それが自由意志なのである、と考えてみる、人間は自分でこの世界に自分を産み出したのではないし、自分のすべてはこの世界・宇宙から与えられたものであるし、さらに、この世界・宇宙は、もっとも根本のところで、なんらかの法則に従っている、と考えてみる、誰も・何も・どんな存在も、その法則からは逃れられない、と考えてみる、そのことを捉えて、自由意志はない、とすることは、この世界に「自由意志」という表現・概念はない、ということに等しい、と考えてみる、つまり、「自由意志なんてない」と主張する人は、「自由意志」という表現・「自由意志なんてない」という表現を用いてはならない、ということになる、と考えてみる、(爆笑)、よって、「自由意志はある」という人だけが、「自由意志」について論じることができるのであり、論じた結果の結論も「自由意志はある」になる、と考えてみる、(爆笑)、つまり、自由意志はみごとに存在するのである、という結論になる、と考えてみる、(爆笑)ここで、ここの初めの、「それが自由意志なのである、と考えてみる」がでてきたわけである、(爆笑)(ここの後半は爆笑論理による展開。爆笑と記しているものの、悪くないんじゃないだろうか? こういう哲学も面白い。で、ここを批判したい方は、批判せずに、自分の論を考えてください)過去に書いたもの 私の論を理解するには、工学的ないくらかの素養、科学的ないくらかの素養、数学のいくらかの素養、文学のいくらかの素養、ある程度の国語力、コンピュータの中心概念の理解、発明をたくさんして明細書を書くこと、思考実験に熟達すること、などが必須であるが、哲学的素養は要らない。 自発性、自由意志、その他、について 自発性、自由意志、といった表現は、人間についてであれば、人間の(複数の)そう感じられる状況を見て、でてきたものである。それを自発性とか自由意志と呼ぶのであって、そんな自発性や自由意志はないと否定することはできない。 否定したい人はもちろん否定していいが、その説明が多くの人を説得するものでなければ、一般性はない、といえる。 で、もっと詳細に考えて、自発性や自由意志があるかないか論じる、という立場に立つのであれば、なにに拠ってそれを考えるのかはっきりさせなくてはならない。 そのためにはまず、定義と用語をはっきりさせることが必要である。 さらになぜ、そういった定義と用語を導き出したのかできるだけ明らかにする。 その上で、その立場で、自発性や自由意志があるかないか論じる、ということになる。 それ以外のやり方での議論では、なんらかの発想訓練と国語力の鍛錬になるだけだろう。 それとは別に、哲学風や科学風を装って、国語力の鍛錬の議論をしても、心脳問題の研究は進まないだろう。 ごく稀にすごいアイディアが生まれることはあるかもしれないが。 と、まあ考えてみましたが、考えただけであって断定するものではありません。もっと詳細に考えて、自発性や自由意志があるかないか論じる、という立場に立つのであれば、なにに拠ってそれを考えるのかはっきりさせなくてはならない。そのためにはまず、定義と用語をはっきりさせることが必要である。さらになぜ、そういった定義と用語を導き出したのかできるだけ明らかにする。その上で、その立場で、自発性や自由意志があるかないか論じる、ということになる。 そこを心脳工学の立場で詳しくいうと;心脳のモデルとそのシステム明細を現実どおりに明らかにし、そこから、自発性や自由意志という内容にあてはまる部分を抽出し、それを、自発性とか自由意志と名づけ、その上でその機構を解明する、または論じる、ということである。 それ以外の立場でもいろいろ可能でしょう。 私は今、心脳工学のモデルとそのシステム詳細にも挑戦しているんですが、その中で、自由意志のあるモデルと、自由意志のないモデル、の両方の設計(もちろん、要検証)(自由意志があるのかないのか、その問題は横においておいて)もやっています。それらの検証のための実験方法も追求しています。 前者は、平たい言葉でいうと、心の中になんの脈絡もなく突然ぽっと、あのDVDを観よう、という考えが現れたとしたら(なぜそう思ったのか皆目検討がつかないとする)、そこのメカニズムはどうなっているのだろう、ということに代表される課題も抱えたもの、ということです。用紙にびっしりと書き込みましたが、時間もないし、投稿するとすれば先のことになります(運命づくりのパラドックス)。前者は、平たい言葉でいうと、心の中になんの脈絡もなく突然ぽっと、あのDVDを観よう、という考えが現れたとしたら(なぜそう思ったのか皆目検討がつかないとする)、そこのメカニズムはどうなっているのだろう、ということに代表される課題も抱えたもの、ということです。ここの表現はまずいですが、そのままにしておきます。あまりにややこしくなりそうなので、再追記しておきます。 自由意志によって決断すべき事項があるとして、その出発点は何によって与えられたか、とか、決断に至るまでのプロセスはどうなっているのか、とか、決断時の状況はどうなっているのか、とか、それを自由意志と定義するのか、とか、ややこしくなるので、一番簡単な工学的モデルとして、次のようなものを考えています。 自由意志をもった潜在心の器(=潜在意識のハードウェア)を仮定し、そこに、それがもつ自由意志によって、ある心的内容(決断させる心的内容)が生じたら、そこのメカニズムはどうなっているのか、ということを追求する、そういったモデル。それらすべて要検証。時間がないしまだまだ未完成なので、その解説は先の先のことでしょう。(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.05.24
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自由や自発性・自由意志などについて1~2イメージがでてきたままに、ラフスケッチまず、初めに;人たちが人たちの様子などや自分の心などを観察してきて、ある範疇にはいるケースを自発性がある、とか、自由意志によっている、などと表現した、そういうばあいの「自発性」や「自由意志」は否定できないといえる、心脳工学では、人間の心に自由意志があるとして(これは仮定というよりも、あるとする、ということ)その自由意志によって心の中に、ぽっと、ある決断が生まれたとしたら、その機構はどうなっているのか、追求することができる。その検証も実験によってなす、という前提で。たぶん、現実として、ほんとに、そういったものがぽっと現れる、と推測されるが、そのメカニズムは絶対に解明できないだろう。たとえば、電子が電荷をもつメカニズムが解明されたとしても、その解説の基礎となる存在の解明は絶対にできないだろう、などといったふうに、もっとも基本となる存在の解明は絶対にできない、ということが証明される、のではないか、で、絶対に解明できないけれども、自由意志はある、とするのか、ないとするのか、解明できないが、それは決定論的に決定しているのか、(決定している=自由意志はない、なのか)決定していないのか、決定していない=記述できない=自由意志がある、なのか、確率的に記述できるのか、確率的にも記述できないのか、記述できない=自由意志がある、なのか、確率的に記述できるとして、確率的に記述されていて、確率0,01の特定の言動が一回目で起きたら、それをどう解釈するのか、それは記述できない、という立場と違わないと、確率的に記述できるとして、確率的に記述されていて、確率0,5の特定の言動が一回目で起きたら、それをどう解釈するのか、そういったばあい、将来の言動を現実どおりに記述することと、そういったことは記述できないということとの違いとして、(ここは表現できない)すべてを見通せる存在があると仮定して、その存在に、それを見通すことができるのか、見通すことはできないのか、自由について、ブラウン運動は自由な運動ではない、と定義すると、この世界に自由なものはなくなるのではないか、と考えてみる、で、ブラウン運動は自由な運動である、と定義してみる、そのばあいの自由とはランダム、人間も、そういったランダム的な自由をもっている、と考えてみる、たとえば、道を歩くとき、まっすぐに歩くわけではない、その歩きの揺らぎのようなものは、ランダムによっている、と考えてみる、そこにランダム以外の在り方があるかどうか、なにか、バランスをとる、といった論理も参加している可能性も考えられる、知性が関わると、そのランダムな自由はどうなるか、ランダムに自由意志で統制を与える、自由意志があるなら、その統制(とくに自分にかかわることの)は自由意志からきたものであって、自由の圏内にあるとできる、その自由意志を心脳工学的に扱うと、既述のように、人間の存在自体、自分の自由意志で生まれてきたものではない、人間の存在・ありようはすべて与えられたものだ、よって、人間に自由意志はない、とするばあい、いや、最初だけはそうだが、自由意志によって努力すれば、大きく変えられるから、そこに、初めから、知性と意識というものが存在していて、その意識の自由意志で、人間は生まれてきた、そういった可能性は、宗教学・神学的には、宇宙・世界を創造した存在が、人間に自由意志を与えた、とすれば、一発で、物理学的には、確率的に定義の問題自由意志自由意志というのは、この世界・宇宙の根本法則のもとに、自分の心を自分で運営していくこと、それしかないだろう、と考えてみる、それが自由意志なのである、と考えてみる、人間は自分でこの世界に自分を産み出したのではないし、自分のすべてはこの世界・宇宙から与えられたものであるし、さらに、この世界・宇宙は、もっとも根本のところで、なんらかの法則に従っている、と考えてみる、誰も・何も・どんな存在も、その法則からは逃れられない、と考えてみる、そのことを捉えて、自由意志はない、とすることは、この世界に「自由意志」という表現・概念はない、ということに等しい、と考えてみる、つまり、「自由意志なんてない」と主張する人は、「自由意志」という表現・「自由意志なんてない」という表現を用いてはならない、ということになる、と考えてみる、(爆笑)、よって、「自由意志はある」という人だけが、「自由意志」について論じることができるのであり、論じた結果の結論も「自由意志はある」になる、と考えてみる、(爆笑)、つまり、自由意志はみごとに存在するのである、という結論になる、と考えてみる、(爆笑)ここで、ここの初めの、「それが自由意志なのである、と考えてみる」がでてきたわけである、(爆笑)(ここの後半は爆笑論理による展開。爆笑と記しているものの、悪くないんじゃないだろうか? こういう哲学も面白い。で、ここを批判したい方は、批判せずに、自分の論を考えてください)(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.05.23
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宗教と科学科学において、宗教的な文献をどう捉え考えるか。あるいは、宗教をどう捉えるか。宗教的な文献や実際の宗教における事象の中には、誇張や創作もあるかもしれないが、その中には事実も多く含まれている、という主張に対して、科学はどう対応するのか。宗教に関してひとついえる確かなことは、多くの人間は宗教なしでは、人生に耐え切れないことがある、ということだろう。つまり、多くの人たちには、宗教は必須であるし、人間の精神は宗教を受け入れるようにつくられている、ということだ。ということは、人間のそういった精神的特質に対応して、宗教が発生するのは当然だとも考えられる。そこから、その精神的特質に対応した宗教的事象、も起こるようにこの世界はできているのかどうか、という課題もでてくるだろう。そのうちに、その捉え方、理解のしかたが打ち出されていくだろう。(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.05.22
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自由や自発性・自由意志などについてイメージがでてきたままに、ラフスケッチまず、初めに;人たちが人たちの様子などや自分の心などを観察してきて、ある範疇にはいるケースを自発性がある、とか、自由意志によっている、などと表現した、そういうばあいの「自発性」や「自由意志」は否定できないといえる、心脳工学では、人間の心に自由意志があるとして(これは仮定というよりも、あるとする、ということ)その自由意志によって心の中に、ぽっと、ある決断が生まれたとしたら、その機構はどうなっているのか、追求することができる。その検証も実験によってなす、という前提で。たぶん、現実として、ほんとに、そういったものがぽっと現れる、と推測されるが、そのメカニズムは絶対に解明できないだろう。たとえば、電子が電荷をもつメカニズムが解明されたとしても、その解説の基礎となる存在の解明は絶対にできないだろう、などといったふうに、もっとも基本となる存在の解明は絶対にできない、ということが証明される、のではないか、で、絶対に解明できないけれども、自由意志はある、とするのか、ないとするのか、解明できないが、それは決定論的に決定しているのか、(決定している=自由意志はない、なのか)決定していないのか、決定していない=記述できない=自由意志がある、なのか、確率的に記述できるのか、確率的にも記述できないのか、記述できない=自由意志がある、なのか、確率的に記述できるとして、確率的に記述されていて、確率0,01の特定の言動が一回目で起きたら、それをどう解釈するのか、それは記述できない、という立場と違わないと、確率的に記述できるとして、確率的に記述されていて、確率0,5の特定の言動が一回目で起きたら、それをどう解釈するのか、そういったばあい、将来の言動を現実どおりに記述することと、そういったことは記述できないということとの違いとして、(ここは表現できない)すべてを見通せる存在があると仮定して、その存在に、それを見通すことができるのか、見通すことはできないのか、自由について、ブラウン運動は自由な運動ではない、と定義すると、この世界に自由なものはなくなるのではないか、と考えてみる、で、ブラウン運動は自由な運動である、と定義してみる、そのばあいの自由とはランダム、人間も、そういったランダム的な自由をもっている、と考えてみる、たとえば、道を歩くとき、まっすぐに歩くわけではない、その歩きの揺らぎのようなものは、ランダムによっている、と考えてみる、そこにランダム以外の在り方があるかどうか、なにか、バランスをとる、といった論理も参加している可能性も考えられる、知性が関わると、そのランダムな自由はどうなるか、ランダムに自由意志で統制を与える、自由意志があるなら、その統制は自由意志からきたものであって、自由の圏内にあるとできる、その自由意志を心脳工学的に扱うと、記述のように、人間の存在自体、自分の自由意志で生まれてきたものではない、人間の存在・ありようはすべて与えられたものだ、よって、人間に自由意志はない、とするばあい、いや、最初だけはそうだが、自由意志によって努力すれば、大きく変えられるから、そこに、初めから、知性と意識というものが存在していて、その意識の自由意志で、人間は生まれてきた、そういった可能性は、宗教学・神学的には、宇宙・世界を創造した存在が、人間に自由意志を与えた、とすれば、一発で、物理学的には、確率的に定義の問題(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.05.21
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魚のウロコ目からウロコではなく、魚のウロコの話しです。つまり、魚の目からウロコが落ちたら、魚は自由にものを見れるようになるだろうなあ、なーんて話しでもなくて、もっとかたいテーマ。魚の表面やウロコの金属光沢、あれは自由電子があるからそうなるんだと思うけれど(?)、一体どんな組成になってなっているんだろう。こんなマジメな話し。って書いてきて、あれ? ウロコは透明だっけ? 魚の皮の表面だけが金属光沢をもっているんだっけ? と、頭の中をクエスチョンマークが乱舞し始めたけれど、このまま続けます(いつか確認しよう)。有機物だと思われるなにかで、自由電子が存在するもの、そこにはいろんな可能性が広がっているのかもしれない。ついでに、有機物半導体というものもあるし、この世界にはいろんな可能性があるんだなあ。有機物太陽電池とか、つくれたら面白い。サカナ君が提供してくれた話題でした。(色素増感太陽電池では、色素を用いるが、色素には有機物のものがある。その色素に自由電子があるものがあるのかどうか知らないが、これは続けて連想したから書いただけである)。(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.05.20
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気候が変わっていく台風の季節でもないのに、温帯性低気圧が本州の北端あたりで、台風なみに発達し、全国的に大風が吹く、という状況が、起こるようになってしまっている。もう何年も前から、そうだ。世界的に、ずれこんだ世紀末的な状況がいろいろ起こり始めている。(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.05.19
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無意識動作・運動反射や訓練による無意識動作・運動などは、脳のニューラルネットワークだけでシステムとして成り立っているのだろう。ただし、無意識動作・運動の学習においてはそうでない。(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.05.19
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理解と思考の実際さてここで、頭の中でどういうふうに考えているか、理解しているか、その筋力の発現の状況の理解における私の頭の中を再現してみる。対象が異なれば、理解のし方、考え方も違うのは当然であるから、この解説は、一応このケースに限る、としておく。で、私がどうやって理解したかというとこうなる。ブラウン運動をしている粒のようなものを思い浮かべる。それが筋肉の枠組の中にある。その粒が筋肉が収縮する方向に動いたとき、その動く方向にあるその枠組の部位に、その粒が結合する。すると、その枠組(筋肉)は力を得、力を発現させることになる。そういったものが多数になると、より大きな力をだすことになる。で、そういった粒の全部が結合してしまえば、もはや筋肉は力をだせなくなるから、結合したら、すぐに離れる必要がある。まあだいたいそういったふうに理解し考えた。その時の頭の中のようすを頭の中で再現し、それをこうやってことばで再現してみたわけである。そういったことは訓練を続けていけば、誰にでもできるようになる。繰り返すけれども、対象が異なれば、頭の中の、考えるようすや理解する在り方などは違ってくる。(似たような対象は似たようなやり方でやるのはいうまでもないが)。以下、その筋力についての理解と考察など(筋力1~4、再掲)かなり前から、筋力というのは、静電気力に似たもの、マイナスの電荷とプラスの電荷の引合いのようなもの、陰イオンと陽イオンの引き合う力かなにか、であろうと私は考えてきた。そのかなりあとに、それに意識エネルギーというものがあって、それも関与しているのかもしれない、と付け加えて考えてきている。しかし、筋力の実態はなにか説明したものに出会ったことがなかった。で、最近、筋力というのは、筋力の力を担う素子(タンパク質? 二種類のタンパク質?)のブラウン運動の一方向だけを捉えて、それら素子が結合し、そのブラウン運動の運動エネルギーが筋力になる、という論文が発表されたようだ。わー、っとまずは驚いた。なんとユニークな力だろう!それから、え? っと思った。それでは、力が弱すぎないか?その全部が結合してしまったら、力はでなくなる。結合したらすぐ離れれば、一応成り立つが、力が弱すぎるのではないか?さらに、それが事実なら、熱力学の第二法則の間違いを指摘することになるのではないか。第二種永久機関の実現ではないか。マックスウェルの悪魔の登場にも似ているのではないか。そういった感想もわいてくる。ちらっと見て、ちらっと感じた感想なので、まちがっているだろうけれど。しかしとにかく、それでは発生する力が弱すぎるのではないか、という印象は消えない。ただし、その力は計算できそうであるから、そこから検討することもできるだろう。初めの方で述べた、意識エネルギー、そういったものを考えたのには訳がある。ストレスを受けたばあい、筋肉を動かして筋肉のエネルギーとして発散させてしまえば、身体の受けるダメージは少ない、そう感じる。そういうことができないケースだと、身体のどこかが歪むようだ。たとえば、どこかの血管の収縮などになったりする、そう感じる。しかも、自分の意識をおいている個所がそうなる、と感じる。そこから、その両者のエネルギーのあいだに同じ要素がありそうだ、と考えた。で、意識からのエネルギーのようなものが、両者に共通してあるのではないか、と思った。そういう経過で私はそう考えるようになってきているのである。さらにそこから考えると、ストレスを解消するには、しょっちゅうどこかの筋肉を意識しそこを動かしていればよいのではないか、そうすればストレスが解消できるのではないか、とも思えてくる。ただし、その真偽は確認していない。私のこの見解はまちがっている可能性がある。(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.05.19
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考える1~5私は、ずっと前から、なにか考えるときの自分の心の状態というのは、ことばによるのでもなく、論理によるのでもなく、意識できないところで、なにかもやもやしたイメージがさまざまに反応して、その結果、ことばなどでの表現がでてくる、そういう感じを持ちつづけてきている。ことばで考える、論理で考える、といっても、全然、私にはピンとこないのである。それは特に新しいことを考え出すときが、そうである。一方、すでに頭にインプットされた考えなどを言葉で打ち出すときは、ことばや論理で考えている、という感じがするのかもしれない。断定はできないが、そういう印象を私はもっている。人の書いたものや言うことを理解するばあいは、それが論理的なものであれば、論理で吟味しながら、ということを行っているのは、当然である。そういえば、そういった、人からの情報、には、そこにさまざまな種類の情報があるので、それらをよみとるのに、それらに応じたいろんな尺度があることに気づかされる。論理、感じ、感情的尺度、見た目、服装、声、声の調子、その人の態度・動き、本能的尺度、そのほかである。それらにも、そういった反応(正確ではないが、情報処理)には、法則性があるものと思われる。そういった法則性のひとつに、論理、というものがある、と表現したいが、論理には、厳密に定義された、いってみれば数学的で完全に閉じた論理、というものもありうるだろう。自然言語は、論理的でないと主張するばあい、その後者からはずれているという意味だろう。それを除けば、自然言語も目的を達成する、という条件で、論理的に用いることができる。たとえば、特許の申請書は、自然言語に多くを負うところの言葉と、図表や記号と数式などで構成されるが、目的を完全に達成することができる。そういう意味で、自然言語は論理的にも用いることができる。さて、質の科学では、知性的な実体と意識の実体は異なる、という結論がでてきている。考える状態は意識されない、という内容もそこから導き出されてくるのだ。で、心脳にかかわる実験、リベットの実験、脳に関するデータ、などからも、同じ結論がでてくる。つまり、私の実感も、質の科学も正しかった、といえそうなのである。ここで、少し前のところから少し枝分かれして考えてみたい。論理、についてである。目的を達成するための論理、と条件をつけると、自然言語すべてには論理がある、となる(まちがえて使われたものは除く)。数学的な閉じた論理というのも、そういった目的を達成するための論理の一分野、と表現してもいいだろう。ただし、このばあい、そういった論理は世界の本質としてもともと存在する論理であるから、そうはいえない、という主張も可能ではある。そうなると、人間も人間の言葉も、世界の本質から産みだされたものであるから、別にそれを否定することもないだろう、という更なる反論もありうる。さて、論理的、ということは、そこの部分だけをとってみれば、自発性をなくす、ということにつながるのかもしれない。つまり、完全に論理的であれば、だれが考えても結論は同じになる、といった状況を想定した上で、そういう表現がでてきたのである。しかし、そういったケースはごくごくまれであるだろう。(ここでは試験問題における答えについては言及しない)それに、そういったことは、人間においてごくごく一部のことなので、それだけで、人間の自発性に影響があるとはいえない。論理から、人間の自発性へと横滑りしてしまったが、こういう議論も面白いものである。(こういったいわば哲学的議論、というのも面白いものである。そういったものはいわば、表現の世界だと実感する。その中から、目的に有効なものを抽出する、という作業も有意義だろう)(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.05.18
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考える1~4私は、ずっと前から、なにか考えるときの自分の心の状態というのは、ことばによるのでもなく、論理によるのでもなく、意識できないところで、なにかもやもやしたイメージがさまざまに反応して、その結果、ことばなどでの表現がでてくる、そういう感じを持ちつづけてきている。ことばで考える、論理で考える、といっても、全然、私にはピンとこないのである。それは特に新しいことを考え出すときが、そうである。一方、すでに頭にインプットされた考えなどを言葉で打ち出すときは、ことばや論理で考えている、という感じがするのかもしれない。断定はできないが、そういう印象を私はもっている。人の書いたものや言うことを理解するばあいは、それが論理的なものであれば、論理で吟味しながら、ということを行っているのは、当然である。そういえば、そういった、人からの情報、には、そこにさまざまな種類の情報があるので、それらをよみとるのに、それらに応じたいろんな尺度があることに気づかされる。論理、感じ、感情的尺度、見た目、服装、声、声の調子、その人の態度・動き、本能的尺度、そのほかである。それらにも、そういった反応(正確ではないが、情報処理)には、法則性があるものと思われる。そういった法則性のひとつに、論理、というものがある、と表現したいが、論理には、厳密に定義された、いってみれば数学的で完全に閉じた論理、というものもありうるだろう。自然言語は、論理的でないと主張するばあい、その後者からはずれているという意味だろう。それを除けば、自然言語も目的を達成する、という条件で、論理的に用いることができる。たとえば、特許の申請書は、自然言語に多くを負うところの言葉と、図表や記号と数式などで構成されるが、目的を完全に達成することができる。そういう意味で、自然言語は論理的にも用いることができる。さて、質の科学では、知性的な実体と意識の実体は異なる、という結論がでてきている。考える状態は意識されない、という内容もそこから導き出されてくるのだ。で、心脳にかかわる実験、リベットの実験、脳に関するデータ、などからも、同じ結論がでてくる。つまり、私の実感も、質の科学も正しかった、といえそうなのである。ここで、少し前のところから少し枝分かれして考えてみたい。論理、についてである。目的を達成するための論理、と条件をつけると、自然言語すべてには論理がある、となる(まちがえて使われたものは除く)。数学的な閉じた論理というのも、そういった目的を達成するための論理の一分野、と表現してもいいだろう。ただし、このばあい、そういった論理は世界の本質としてもともと存在する論理であるから、そうはいえない、という主張も可能ではある。そうなると、人間も人間の言葉も、世界の本質から産みだされたものであるから、別にそれを否定することもないだろう、という更なる反論もありうる。さて、論理的、ということは、そこの部分だけをとってみれば、自発性をなくす、ということにつながるのかも(こういったいわば哲学的議論、というのも面白いものである)(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.05.18
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考える1~3私は、ずっと前から、なにか考えるときの自分の心の状態というのは、ことばによるのでもなく、論理によるのでもなく、意識できないところで、なにかもやもやしたイメージがさまざまに反応して、その結果、ことばなどでの表現がでてくる、そういう感じを持ちつづけてきている。ことばで考える、論理で考える、といっても、全然、私にはピンとこないのである。それは特に新しいことを考え出すときが、そうである。一方、すでに頭にインプットされた考えなどを言葉で打ち出すときは、ことばや論理で考えている、という感じがするのかもしれない。断定はできないが、そういう印象を私はもっている。人の書いたものや言うことを理解するばあいは、それが論理的なものであれば、論理で吟味しながら、ということを行っているのは、当然である。そういえば、そういった、人からの情報、には、そこにさまざまな種類の情報があるので、それらをよみとるのに、それらに応じたいろんな尺度があることに気づかされる。論理、感じ、感情的尺度、見た目、服装、声、声の調子、その人の態度・動き、本能的尺度、そのほかである。それらにも、そういった反応(正確ではないが、情報処理)には、法則性があるものと思われる。そういった法則性のひとつに、論理、というものがある、と表現したいが、論理には、厳密に定義された、いってみれば数学的で完全に閉じた論理、というものもありうるだろう。自然言語は、論理的でないと主張するばあい、その後者からはずれているという意味だろう。それを除けば、自然言語も目的を達成する、という条件で、論理的に用いることができる。たとえば、特許の申請書は、自然言語に多くを負うところの言葉と、図表や記号と数式などで構成されるが、目的を完全に達成することができる。そういう意味で、自然言語は論理的にも用いることができる。さて、質の科学では、知性的な実体と意識の実体は異なる、という結論がでてきている。考える状態は意識されない、という内容もそこから導き出されてくるのだ。で、心脳にかかわる実験、リベットの実験、脳に関するデータ、などからも、同じ結論がでてくる。つまり、私の実感も、質の科学も正しかった、といえそうなのである。(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.05.18
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意識と心意識の研究から、非物質的なさまざまなものがでてくる。たとえば、論理、意味、言語、意識内容、そのほかである。ただし、ここでいう「意識」というのは、普通に使われる単語の意識ではなくて、厳密に定義したもののことである。そこから、「心」の定義もでてくる。その上で、現実がそのとおりなのかどうか実験によって検証することになる。(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.05.17
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心脳工学の構築心脳工学の構築の過程において、記憶の機構のもっとも基本的なところの素子のようなものの推測が立ってきている。ただし、海馬、その他の部位たち、などの関係を含めて、精密な機構は、まだ推測できていない。そういった精密な機構については、私はまだ解明する必要性を感じず、その「基本的なところの素子のようなもの」が現実としてそうであるかどうか、実験で検証することに非常な興味をもっている。なぜなら、そこから極めて重要なことがわかるからである。とはいえそのうち、その「精密な機構」についてもモデルとシステム明細を構築していこうと考えている。(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.05.17
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筋力1~3かなり前から、筋力というのは、静電気力に似たもの、マイナスの電荷とプラスの電荷の引合いのようなもの、陰イオンと陽イオンの引き合う力かなにか、であろうと私は考えてきた。そのかなりあとに、それに意識エネルギーというものがあって、それも関与しているのかもしれない、と付け加えて考えてきている。しかし、筋力の実態はなにか説明したものに出会ったことがなかった。で、最近、筋力というのは、筋力の力を担う素子(タンパク質? 二種類のタンパク質?)のブラウン運動の一方向だけを捉えて、それら素子が結合し、そのブラウン運動の運動エネルギーが筋力になる、という論文が発表されたようだ。わー、っとまずは驚いた。なんとユニークな力だろう!それから、え? っと思った。それでは、力が弱すぎないか?その全部が結合してしまったら、力はでなくなる。結合したらすぐ離れれば、一応成り立つが、力が弱すぎるのではないか?さらに、それが事実なら、熱力学の第二法則の間違いを指摘することになるのではないか。第二種永久機関の実現ではないか。マックスウェルの悪魔の登場にも似ているのではないか。そういった感想もわいてくる。ちらっと見て、ちらっと感じた感想なので、まちがっているだろうけれど。しかしとにかく、それでは発生する力が弱すぎるのではないか、という印象は消えない。ただし、その力は計算できそうであるから、そこから検討することもできるだろう。初めの方で述べた、意識エネルギー、そういったものを考えたのには訳がある。ストレスを受けたばあい、筋肉を動かして筋肉のエネルギーとして発散させてしまえば、身体の受けるダメージは少ない、そう感じる。そういうことができないケースだと、身体のどこかが歪むようだ。たとえば、どこかの血管の収縮などになったりする、そう感じる。しかも、自分の意識をおいている個所がそうなる、と感じる。そこから、その両者のエネルギーのあいだに同じ要素がありそうだ、と考えた。で、意識からのエネルギーのようなものが、両者に共通してあるのではないか、と思った。そういう経過で私はそう考えるようになってきているのである。さらにそこから考えると、ストレスを解消するには、しょっちゅうどこかの筋肉を意識しそこを動かしていればよいのではないか、そうすればストレスが解消できるのではないか、とも思えてくる。ただし、その真偽は確認していない。私のこの見解はまちがっている可能性がある。(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.05.16
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某サイトの運営某サイトでは、投稿すると、匿名の者たちが、たちまちおかしなコメントをつけ、叩き、非難し、ボロクソ言い、理不尽にフルボッコし始める。それは、投稿者の論を理解せず、ただ単に叩きまくるだけのことが多い、という要素をもっている。(ただし私は、数名の方からは、やる気をださせるようなコメントをもらった。ありがたかった)。そこでは、私は、一度もそういうおかしなコメントをつけたことがない。基本的に私は、相手をやる気にさせるようなコメントしかつけない。私のコメントを皮肉だと感じる投稿者は実力不足である。ただし、私の投稿を論から離れて、叩いたり、貶したりするコメントがあるようになってからは、私はその理不尽さを叩きのめすようになった。すべてそのまま記録に残っているのだから、全部読めばそういったことはわかる。サイトのテーマそっちのけで、ボロクソ言う者たちの気がしれない。質の科学でいえば、そんなことをすれば、マイナスの質時間をたくさん積み上げるのである。そもそも、あのサイトで、コメントがあっても、なんの役にも立たないことがはっきりしてきた。あそこのコメントは、ほとんどが有害であって、投稿者のやる気をなくさせるだけである。(繰り返すが、私は、数名の方からは、やる気をださせるようなコメントをもらった。ありがたかった)。信じられないような愚かさである。もちろん私も徹底的な愚か者であるが。私が、あのサイトの運営をするなら、「コメントは、相手を乗せて、たきつけて、やる気をださせるようなものにしましょう」という基本線を打ち出したい、と考える。現状はその正反対である。(繰り返すが、ただし私は、数名の方からは、やる気をださせるようなコメントをもらった。ありがたかった)。ブレインストーミング、自由連想法の精神で、否定的なコメントをつけず、肯定的に進めていけば、効果があがると思う。とはいえ、そうかんたんにはいかないのが現実というものだろう。(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.05.16
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翻訳による誤解1~5翻訳には弊害がつきまとう。たとえば、仏教における「愛」。その前の形は「渇愛」である。「渇愛」というのは、大昔の今でいうチャイナで、今でいうインドのサンスクリット語の「タンハー」の訳である。「タンハー」とは、「(のどが)渇いている」「満たされていない」といった人間の本能的な欲求をいうそうである。その「タンハー」を「愛」としてしまったら、日本人にとっては、仏教の崩壊、である。チャイナでの「愛」と日本語での「愛」にどの程度の違いがあるのか知らないが、「激烈執着欲求」という訳がいいのではないだろうか。例えば、チャイナ語で、「嘆」は、肯定的に(も?)用いるようである。「感嘆する」といった意味にである。否定的に、日本語の「嘆く」といったふうに使うのかどうかは知らない。ほかにもそういったことは多いだろう。ここで、翻訳の問題からすこし離れて、ブッダの教えの根本を眺めてみよう。以下はかつて私が原始仏典を読んで、抽出したものである。それから時間がかなり経っているので、まちがっているところがあるかもしれないが、記してみよう。タンハーは仏教の根幹をなす内容(概念)のひとつである。人生は苦である。人間にタンハー(激烈執着欲求)があるから、人生は苦となる。タンハーがあるから、転生の原因となる異陰(転生の主体)が生じて人は転生しつづけていく。タンハーをなくせば(それが悟り、解脱、だったと思う)、人間は二度と転生せず、ニルヴァーナ(涅槃、永遠に平安な状態、言葉では解説できないそうだ)にはいる。タンハーをなくすには、タンハーの原因をなくせばよい。なぜならすべては原因があって結果があるのであるから。つまり、タンハーの原因があるので、タンハーが生じるのである。そのタンハーの原因を滅すれば、タンハーも消える。私は、修行と瞑想などによって、そのタンハーの原因を滅した。よって、私のタンハーは消滅した。したがって、私は二度と転生しない。私は、二度と転生しない、ニルヴァーナにはいった。以上が、ブッダの教えの真髄である。(まちがっているところがあったらいつでも訂正します)それは、仏教経典のもっとも古いものー原始仏典から、抽出したエッセンスである。原始仏典が、ブッダの言動をもっとも忠実に記していると考えられている。それ以外の仏典は後世の人たちによる創作仏典(仏典と名乗らなければ創作とはいえないが、それらにブッダが登場しているので、そういうことになる)だそうである。ここにも、文献に接するさいに気をつけなければならない教訓があり、それは翻訳の態度の在り方にもつながってくるといえる。少し前に戻って強調しておきたいことは、しかしながら、私の研究によれば、仏教はどれであれ、個人や社会的有用性においては、優劣はないと判断される、ということである。さらに、この世界の厳密な法則性を記述しているか否か、という観点からも、甲乙はつけられないと考えられる。さて、哲学では、「悟性」という訳がある。ドイツ語や英語では、理解力「Verstand、Understanding」である。現代人にとって「悟性」というと、「はっきり理解する力」という意味を思い浮かべることはまずないのではないか。「悟」という漢字は、仏教の「悟り」の影響が強すぎて「理解よりも、直観で本質を見抜き体得する」といった意味合いがつよい。古語における「はっきり理解する」という意味から遠ざかっているように感じる。ドイツ語や英語では、そこでは、へんにかっこうをつけずに、すなおな単語が使われている。「易経」も英語訳ではたしか「ブック オヴ チェインジ、変化の書」であって、非常にわかりやすい。そういったふうに、日本語訳では、かっこうをつけて、わかりにくい訳がなされていることがある。とくに専門用語で漢字をあてたものがそうである。以上のように、翻訳には慎重さが要求される。その線上で、翻訳は素直でわかりやすくしていただきたいものである。(以上、私の記憶に基づいて書いているので、まちがいがあるかもしれません。そういった個所はいつでも訂正します)。(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.05.16
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翻訳による誤解1~4翻訳には弊害がつきまとう。たとえば、仏教における「愛」。その前の形は「渇愛」である。「渇愛」というのは、大昔の今でいうチャイナで、今でいうインドのサンスクリット語の「タンハー」の訳である。「タンハー」とは、「(のどが)渇いている」「満たされていない」といった人間の本能的な欲求をいうそうである。その「タンハー」を「愛」としてしまったら、日本人にとっては、仏教の崩壊、である。チャイナでの「愛」と日本語での「愛」にどの程度の違いがあるのか知らないが、「激烈執着欲求」という訳がいいのではないだろうか。例えば、チャイナ語で、「嘆」は、肯定的に(も?)用いるようである。「感嘆する」といった意味にである。否定的に、日本語の「嘆く」といったふうに使うのかどうかは知らない。ほかにもそういったことは多いだろう。ここで、翻訳の問題からすこし離れて、ブッダの教えの根本を眺めてみよう。以下はかつて私が原始仏典を読んで、抽出したものである。それから時間がかなり経っているので、まちがっているところがあるかもしれないが、記してみよう。タンハーは仏教の根幹をなす内容(概念)のひとつである。人生は苦である。人間にタンハー(激烈執着欲求)があるから、人生は苦となる。タンハーがあるから、転生の原因となる異陰(転生の主体)が生じて人は転生しつづけていく。タンハーをなくせば(それが悟り、解脱、だったと思う)、人間は二度と転生せず、ニルヴァーナ(涅槃、永遠に平安な状態、言葉では解説できないそうだ)にはいる。タンハーをなくすには、タンハーの原因をなくせばよい。なぜならすべては原因があって結果があるのであるから。つまり、タンハーの原因があるので、タンハーが生じるのである。そのタンハーの原因を滅すれば、タンハーも消える。私は、修行と瞑想などによって、そのタンハーの原因を滅した。よって、私のタンハーは消滅した。したがって、私は二度と転生しない。私は、二度と転生しない、ニルヴァーナにはいった。以上が、ブッダの教えの真髄である。(まちがっているところがあったらいつでも訂正します)それは、仏教経典のもっとも古いものー原始仏典から、抽出したエッセンスである。原始仏典が、ブッダの言動をもっとも忠実に記していると考えられている。それ以外の仏典は後世の人たちによる創作仏典(仏典と名乗らなければ創作とはいえないが、それらにブッダが登場しているので、そういうことになる)だそうである。ここにも、文献に接するさいに気をつけなければならない教訓があり、それは翻訳の態度の在り方にもつながってくるといえる。少し前に戻って、しかしながら、私の研究によれば、仏教はどれであれ、社会的有用性においては、優劣はないと判断される。さらに、この世界の厳密な法則性を記述しているか否か、という観点からも、甲乙はつけられないと考えられる。哲学では、「悟性」という訳がある。ドイツ語や英語では、理解力「Verstand、Understanding」である。現代人にとって「悟性」というと、「はっきり理解する力」という意味を思い浮かべることはまずないのではないか。「悟」という漢字は、仏教の「悟り」の影響が強すぎて、古語における「はっきり理解する」という意味から遠ざかっているように感じる。ドイツ語や英語では、そこでは、へんにかっこうをつけずに、すなおな単語が使われている。「易経」も英語訳ではたしか「ブック オヴ チェインジ、変化の書」であって、非常にわかりやすい。翻訳は素直でわかりやすくしていただきたいものである。以上、私の記憶によるものであって、まちがいがあるかもしれません。(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.05.16
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翻訳による誤解1~3翻訳には弊害がつきまとう。たとえば、仏教における「愛」。その前の形は「渇愛」である。「渇愛」というのは、大昔の今でいうチャイナで、今でいうインドのサンスクリット語の「タンハー」の訳である。「タンハー」とは、「(のどが)渇いている」「満たされていない」といった人間の本能的な欲求をいうそうである。その「タンハー」を「愛」としてしまったら、日本人にとっては、仏教の崩壊、である。チャイナでの「愛」と日本語での「愛」にどの程度の違いがあるのか知らないが、「激烈執着欲求」という訳がいいのではないだろうか。例えば、チャイナ語で、「嘆」は、肯定的に(も?)用いるようである。「感嘆する」といった意味にである。否定的に、日本語の「嘆く」といったふうに使うのかどうかは知らない。ほかにもそういったことは多いだろう。ここで、ブッダの教えの根本を眺めてみよう。以下はかつて私が原始仏典を読んで、抽出したものである。それから時間がかなり経っているので、まちがっているところがあるかもしれないが、記してみよう。タンハーは仏教の根幹をなす内容(概念)のひとつである。人生は苦である。人間にタンハー(激烈執着欲求)があるから、人生は苦となる。タンハーがあるから、転生の原因となる異陰(転生の主体)が生じて人は転生しつづけていく。タンハーをなくせば(それが悟り、解脱、だったと思う)、人間は二度と転生せず、ニルヴァーナ(涅槃、永遠に平安な状態、言葉では解説できないそうだ)にはいる。タンハーをなくすには、タンハーの原因をなくせばよい。なぜならすべては原因があって結果があるのであるから。つまり、タンハーの原因があるので、タンハーが生じるのである。そのタンハーの原因を滅すれば、タンハーも消える。私は、修行と瞑想などによって、そのタンハーの原因を滅した。よって、私のタンハーは消滅した。したがって、私は二度と転生しない。私は、二度と転生しない、ニルヴァーナにはいった。以上が、ブッダの教えの真髄である。(まちがっているところがあったらいつでも訂正します)哲学では、「悟性」という訳がある。ドイツ語や英語では、理解力「Verstand、Understanding」である。現代人にとって「悟性」というと、「はっきり理解する力」という意味を思い浮かべることはまずないのではないか。「悟」という漢字は、仏教の「悟り」の影響が強すぎて、古語における「はっきり理解する」という意味から遠ざかっているように感じる。ドイツ語や英語では、そこでは、へんにかっこうをつけずに、すなおな単語が使われている。「易経」も英語訳ではたしか「ブック オヴ チェインジ、変化の書」であって、非常にわかりやすい。翻訳は素直でわかりやすくしていただきたいものである。以上、私の記憶によるものであって、まちがいがあるかもしれません。(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.05.16
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翻訳による誤解1~2翻訳には弊害がつきまとう。たとえば、仏教における「愛」。その前の形は「渇愛」である。「渇愛」というのは、大昔の今でいうチャイナで、今でいうインドのサンスクリット語の「タンハー」の訳である。「タンハー」とは、「(のどが)渇いている」「満たされていない」といった人間の本能的な欲求をいうそうである。その「タンハー」を「愛」としてしまったら、日本人にとっては、仏教の崩壊、である。チャイナでの「愛」と日本語での「愛」にどの程度の違いがあるのか知らないが、「激烈執着欲求」という訳がいいのではないだろうか。例えば、チャイナ語で、「嘆」は、肯定的に(も?)用いるようである。「感嘆する」といった意味にである。否定的に、日本語の「嘆く」といったふうに使うのかどうかは知らない。ほかにもそういったことは多いだろう。ここで、ブッダの教えの根本を眺めてみよう。以下はかつて私が原始仏典を読んで、抽出したものである。それから時間がかなり経っているので、まちがっているところがあるかもしれないが、記してみよう。哲学では、「悟性」という訳がある。ドイツ語や英語では、理解力「Verstand、Understanding」である。現代人にとって「悟性」というと、「はっきり理解する力」という意味を思い浮かべることはまずないのではないか。「悟」という漢字は、仏教の「悟り」の影響が強すぎて、古語における「はっきり理解する」という意味から遠ざかっているように感じる。ドイツ語や英語では、そこでは、へんにかっこうをつけずに、すなおな単語が使われている。「易経」も英語訳ではたしか「ブック オヴ チェインジ、変化の書」であって、非常にわかりやすい。翻訳は素直でわかりやすくしていただきたいものである。以上、私の記憶によるものであって、まちがいがあるかもしれません。(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.05.16
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翻訳による誤解翻訳には弊害がつきまとう。たとえば、仏教における「愛」。その前の形は「渇愛」である。「渇愛」というのは、大昔の今でいうチャイナで、今でいうインドのサンスクリット語の「タンハー」の訳である。「タンハー」とは、「(のどが)渇いている」「満たされていない」といった人間の本能的な欲求をいうそうである。その「タンハー」を「愛」としてしまったら、日本人にとっては、仏教の崩壊、である。哲学では、「悟性」という訳がある。ドイツ語や英語では、理解力「Verstand、Understanding」である。現代人にとって「悟性」というと、「はっきり理解する力」という意味を思い浮かべることはまずないのではないか。「悟」という漢字は、仏教の「悟り」の影響が強すぎて、古語における「はっきり理解する」という意味から遠ざかっているように感じる。ドイツ語や英語では、そこでは、へんにかっこうをつけずに、すなおな単語が使われている。「易経」も英語訳ではたしか「ブック オヴ チェインジ、変化の書」であって、非常にわかりやすい。翻訳は素直でわかりやすくしていただきたいものである。以上、私の記憶によるものであって、まちがいがあるかもしれません。(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.05.15
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ディズニーこのところ使っているマグカップは、ディズニーのヒロイン五人のキャラクターが描かれているものなんだ。そのカップを店で見たとき、これは小さな女のこ用だな、とまずは思った。でも、絵もカップの形も実にきれいによくできていて、ひかれるものがあったんだ。そのキャラクターは全員おとなであり、きれいなのとかわいいのとが描かれている。原画よりもっと洗練された造形になっている。ミッキーマウスなんかもそうだね。ぼくはキャラクターが好きで、自分でもヘタながらかいたりするくらいだ。で、それを見ているうちに、これはおとなの男用でもあるな、と感じてきた。見ていて、楽しいし、キャラクター全員、おとなでセクシーなんだから。で、その、それを買って、今使ってるわけなんだ。見てていい感じ。ディズニーっていうのは、あのネズミのミッキーから始まって、ここまできたんだね。ウォルト・ディズニーはたしか初め、車庫で、でてきたネズミを描いて、それがミッキーマウスになったんだったと思うけれど、初期のミッキーと今出盛っているミッキーでは全然キャラが違ってきている。さらにミッキーマウスでも、日本人がかいたのは、もうそれはすごく洗練されてきていて、なんというか、なじんだというか、きまったというか、きれいなものになってる。昔、一匹のネズミがディズニーの前にチョロチョロでてきたのが、さまざまな経緯を経て、ここにまで至ってきているわけだね。その時、そのネズミがでてきていなかったら、このコラムもなかったのだろうか。そのネズミの登場は、普通、偶然っていうだろうな。偶然と必然、確率的必然(蓋然、ガイゼン)はいったいどうなっているんだろう、といった話題も提供してくれるね。偉大な一匹のネズミ君に乾杯!ぼくが今、使ってる、このディズニーのマグカップでミッキーマウスの先祖に乾杯!ついでにジョークをひとつ。このPCのマウス、ミッキーと名づけようか。(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.05.14
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哲学は面白い某サイトでのことだが、私は、哲学を否定したことはない。心脳工学を構築するにあたって、哲学は必要ない、といっているだけである。哲学は哲学として非常におもしろい。心脳は、明らかに、自然が構築した工学的要素にみちみちている。よって、工学的手法を用いないと、心脳は解明できないと思う。自分の心を顧みての、ことばによる表現と、少しの図や記号だけでは、心脳の解明はできないだろう。そもそも、哲学だけでは、心脳の何をどう解明するのか、目標すら打ち立てられそうにないと実感する。デカルトは数学的、工学的な手法を用いているので、彼が現在に生きているなら、工学的やりかたで、成果をあげるのではないだろうか。さて、いずれにせよ、哲学は非常に魅力的な世界である。私は、哲学は好きである。(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.05.13
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考える1~2私は、ずっと前から、なにか考えるときの自分の心の状態というのは、ことばによるのでもなく、論理によるのでもなく、意識できないところで、なにかもやもやしたイメージがさまざまに反応して、その結果、ことばなどでの表現がでてくる、そういう感じを持ちつづけてきている。ことばで考える、論理で考える、といっても、全然、私にはピンとこないのである。それは特に新しいことを考え出すときが、そうである。一方、すでに頭にインプットされた考えなどを言葉で打ち出すときは、ことばや論理で考えている、という感じがするのかもしれない。断定はできないが、そういう印象を私はもっている。質の科学では、知性的な実体と意識の実体は異なる、という結論がでてきている。考える状態は意識されない、という内容もそこから導き出されてくるのだ。で、心脳にかかわる実験、リベットの実験、脳に関するデータ、などからも、同じ結論がでてくる。つまり、私の実感も、質の科学も正しかった、といえそうなのである。(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.05.13
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考える私は、ずっと前から、なにか考えるときの自分の心の状態というのは、ことばによるのでもなく、論理によるのでもなく、意識できないところで、なにかもやもやしたイメージがさまざまに反応して、その結果、ことばなどでの表現がでてくる、そういう感じを持ちつづけてきている。ことばで考える、論理で考える、といっても、全然、私にはピンとこないのである。それは特に新しいことを考え出すときが、そうである。一方、すでに頭にインプットされた考えなどを言葉で打ち出すときは、ことばや論理で考えている、という感じがするのかもしれない。断定はできないが、そういう印象を私はもっている。(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.05.13
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筋力1~2かなり前から、筋力というのは、静電気力に似たもの、マイナスの電荷とプラスの電荷の引合いのようなもの、陰イオンと陽イオンの引き合う力かなにか、であろうと私は考えてきた。そのかなりあとに、それに意識エネルギーというものがあって、それも関与しているのかもしれない、と付け加えて考えてきている。しかし、筋力の実態はなにか説明したものに出会ったことがなかった。で、最近、筋力というのは、筋力の力を担う素子(タンパク質? 二種類のタンパク質?)のブラウン運動の一方向だけを捉えて、それら素子が結合し、そのブラウン運動の運動エネルギーが筋力になる、という論文が発表されたようだ。わー、っとまずは驚いた。なんとユニークな力だろう!それから、え? っと思った。それでは、力が弱すぎないか?その全部が結合してしまったら、力はでなくなる。結合したらすぐ離れれば、一応成り立つが、力が弱すぎるのではないか?さらに、それが事実なら、熱力学の第二法則の間違いを指摘することになるのではないか。第二種永久機関の実現ではないか。マックスウェルの悪魔の登場にも似ているのではないか。そういった感想もわいてくる。ちらっと見て、ちらっと感じた感想なので、まちがっているだろうけれど。しかしとにかく、それでは発生する力が弱すぎるのではないか、という印象は消えない。初めの方で述べた、意識エネルギー、そういったものを考えたのには訳がある。ストレスを受けたばあい、筋肉を動かして筋肉のエネルギーとして発散させてしまえば、身体の受けるダメージは少ない、そう感じる。そういうことができないケースだと、身体のどこかが歪むようだ。たとえば、どこかの血管の収縮などになったりする、そう感じる。しかも、自分の意識をおいている個所がそうなる、と感じる。そこから、その両者のエネルギーのあいだに同じ要素がありそうだ、と考えた。で、意識からのエネルギーのようなものが、両者に共通してあるのではないか、と思った。そういう経過で私はそう考えるようになってきているのである。さらにそこから考えると、ストレスを解消するには、しょっちゅうどこかの筋肉を意識しそこを動かしていればよいのではないか、そうすればストレスが解消できるのではないか、とも思えてくる。ただし、その真偽は確認していない。(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.05.13
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筋力かなり前から、筋力というのは、静電気力に似たもの、陰イオンと陽イオンの引き合う力かなにか、であろうと私は考えてきた。そのかなりあとに、それに意識エネルギーというものがあって、それも関与しているのかもしれない、と付け加えて考えてきている。しかし、筋力の実態はなにか説明したものに出会ったことがなかった。で、最近、筋力というのは、筋力の力を担う素子(タンパク質? 二種類のタンパク質?)のブラウン運動の一方向だけを捉えて、それら素子が結合し、そのブラウン運動の運動エネルギーが筋力になる、という論文が発表されたようだ。え? と思った。それでは、力が弱すぎないか?その全部が結合してしまったら、力はでなくなる。結合したらすぐ離れれば、一応成り立つが、力が弱すぎるのではないか?さらに、それが事実なら、熱力学の第二法則の間違いを指摘することになるのではないか。第二種永久機関の実現ではないか。マックスウェルの悪魔の登場にも似ているのではないか。そういった感想もわいてくる。ちらっと見て、ちらっと感じた感想なので、まちがっているだろうけれど。しかしとにかく、それでは発生する力が弱すぎるのではないか、という印象は消えない。(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.05.12
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ある論の構成まず、どこから始めようか。意識の主体からか。知性的な存在の可能性からか。宇宙の存在意義からか。これは哲学だが。宇宙の永続性からか。永続性は証明・検証されていないが。質の対生成からか。質のやりとりからか。質時間回帰からか。心の仕組みからか。意識内容からか。知性的空間のあるなし(存否)からか。対象と心的内容の対応関係からか。対象と意識内容の対応関係からか。転生のあるなし(存否)からか。人間の平等化のあるなし(存否)からか。まだほかにもあるだろう。どこからでも始められそうだ。結局、自分の一生のうちで証明と検証ができないのなら、自分が幸福になる論を信じて幸せになるのが賢いといえる。(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.05.11
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質時間回帰(プラスマイナスゼロ化)すべてものごとには、いい面とよくない面がある。初めは、いい面が目につくし、いい面だけを見ようとする。しかしそのうち反転してくることが多い。そうなって、いい面だけを見ようとしても、必ずしもそうはできなくなっていく。そういった流れを、質時間回帰という。質時間回帰則は、ほかにもいろんな内容をもってる。質時間回帰則は、質の科学の内容の一部である。ただし、その証明のようなものはあるけれど、検証が完全になされているわけではない。(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.05.10
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ネットと匿名1~2ネット上で、匿名で理不尽に人を叩く者たちは、マイナスの質時間をたくさん積み上げることになる。そのマイナスの質時間が、その者に強い質時間回帰を与える。しかも、ネット社会というのは非常に狭い。学校の庭ぐらいの広さしかない(笑い)(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.05.09
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ネットと匿名ネット上で、匿名で理不尽に人を叩く者たちは、マイナスの質時間をたくさん積み上げることになる。そのマイナスの質時間が、その者に強い質時間回帰を与える。(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.05.09
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ぶっ壊れいく世界バブル崩壊以降、日本も大きく変化してきている。昔の日本のよさがどんどんなくなっていっている、と主張している人たちが多い。それは、この世界の法則によるものであって、止めることはできない流れなんだろうか。それとも、それをおしとどめ逆転できるという可能性はあるのだろうか。質の科学でいえば、それは質時間回帰則内での動きであるようにみえるが、そのスピードがあまりにはやすぎる、という可能性はあるのかもしれない。例えば、**資*主義が、それを加速させている可能性は高いと思われる。世界中を駆け巡る**資*(主義)、それが日本だけでなく世界中をぶっ壊していっているようにみえる。さまざまな相場に、**筋がどうのこうのやって、極端な上げと下げをつくりだし、どうのこうのとなっていっている、そういったふうにみえる。質の科学でいうと、そういったことを行っている者たちは、マイナスの質時間を桁外れに積み上げるのである。そして、そのマイナスの質時間がそういった者たちに激烈な質時間回帰をもたらす。とんでもない質時間回帰である。さて、もっと穏やかなやり方で行うという、世界をぶっ壊さない方法はないものだろうか。それにはまず、この世界の法則を現実どおりに掴むことが求められるといえる。その上で、世界をぶっ壊さないやり方をとる、そういう手順が流れのよい行き方だろう。(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.05.08
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日本の伝統音楽・音階日本の伝統音楽の旋律には、不思議な音階のものがあるという印象を受ける。それは、能、狂言、歌舞伎、などの旋律だと思うが、東洋的五音階(かんたんにいえば、ピアノの黒鍵だけを弾けば成り立つ音階。アイルランドにもたしかあるそうだ?)でもなく、ディアトニーク音階(かんたんにいえば、ピアノで白鍵だけを弾けば成立する音階だったと思う?)でもなく、十二音音階(かんたんにいえば、ピアノの白黒全部の鍵盤をつかえば成り立つ音階)でもなく、アラブ音楽の音階に近いような、微分音音階のようだが、それだけではないような、しかも、音程を滑らかにずらすという手法まで用いる、そういった音階のことをここではいっている。それは非常に微妙で魅力的な旋律を生みだす。それがどんなものなのか、いつか確認したい。ちなみに、ドビュッシーの六分音音階? や沖縄の音階も楽しい。さらにちなみに、滝廉太郎の「荒城の月」は、かんたんにいえばたしか、ピアノで「ソ」以外の白鍵をつかった音階によっているようであるけれど?、ドイツ人にも「荒城の月」のよさがわかるそうである。(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.05.07
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初夏に向けて季節は明るさをまし春と夏のとけあ合うせつに至ったいずこも軽やかな気分にみち花も鳥も海も山も草も樹も野も川もすこしずつ忙しさをましていきやがて季節は皆に告げる新しいファンファーレをもって(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.05.06
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エネルギーの変動地球上の生物たち、その生命エネルギーの総和に上限がある、ということはないものだろうか。人間が使えるエネルギーにも上限がある。なんにせよ、すべてのもの・ことに上限がある。とすれば、鳥インフルによって、鳥の数が減ってきているようであることも含めて、新しい伝染病の流行も、その原理にのってのことなのではないか、という設問も成り立つのかもしれない。さらに例えば、チャイナでは、激しい砂漠化によって、風砂が全国を襲うことがあって、大変なことになっているし、異常気象や環境破壊などで、生物にとって住みにくい、完全な存続は危ぶまれる状況になってきている。世界的にみてもそういった面が大きくなってきている。ということは、生命エネルギーは、一時的にある程度大量に使えるが、そのあとかなり減少する、という現象を現すのかもしれない、と考えてみることもできる。太陽活動でもそういう面をもっているので、なおさらそう推測したくなる。そういった問題提起をしてみることもできるだろう。(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.05.05
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某サイトで応援してくれる方々が増えてきました。ありがたいことです。☆☆☆心脳問題を追求するにあたって、まだ使われていないいろんな資料がある。それらもなんらかに活用していこう。(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.05.04
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今までの哲学者たち今までの哲学者たちの意見がさほど一致してこなかったことは、何を物語っているか。それについて普通に考えれば、答えは自然にでてくる。(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.05.03
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心脳工学構築心脳工学においては、物理学、化学、生物学、などを、組織的に適用して、工学的な解明を行う。それは当然仮説であって、モデルとそのシステム明細がでてくるので、実験によってその検証を行う。それらがかなり進展してきている。脳における記憶の機構など、今現在解明されていないものが多数あるが、そのモデルとシステム明細から、それらを推測することもできる。さらにそこから、哲学的な部分もでてくる。現在までの哲学用語は、多すぎるし、人によって定義も違うし、人によって使わない用語も数多くある。心や意識と精神などに関わる、日常使う単語も、数が非常に多い。それらの用語や単語も、数をうんと減らしまとめることができ、すっきりとした用語・単語体系、定義の体系が構築できる。現在までの哲学もそれによって検証できるだろう。ただし、実験によってそれが検証できなかったばあいは、次のモデルとシステム明細を構築することになる。(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.05.02
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通貨放出世界中で、通貨をじゃぶじゃぶ発行して、金融・経済危機に対処している。現在の状況ではそれしか手がない。そういうケースでは、やがて通貨が増えすぎ、激しいインフレが襲ってくる、ということを歴史は教えている。(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)このブログの文章・内容のすべては、春楽天のオリジナルです(慣用的・常識的なものは除く。引用的なものはそうわかるように記しています)(世界情勢や将来の予想においては、さまざまな情報を得ながら行っています)。このブログの著作権はすべて春楽天に帰属します(イラスト・イメージは除いて。トップページの、本やサイトの紹介文言の一部は除いて)。それらの無断利用を禁じます。Copyright (C) 春楽天, All rights reserved. 宇宙人がでました(?)
2009.05.01
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