PR
Keyword Search
Category
Freepage List
![]()
年賀状も、もういらないかな・・・メールで済む人は・・・と思ってしまう昨今であるが、メールでくれた人は記憶に残らないのだ・・。
なぜなら今年もらったハガキを再び見ながらしみじみする事ができないから記憶が薄いのである。
それに、もしメール挨拶がたくさん来ていたら差出人の名だけ見て中身は見ないだろうし・・・。
そういえば、かつて年賀ハガキでカニセットが当たった事がある。
年賀ハガキの楽しみと言えば、確かにくじがある。「当選付きでない既成の年賀ハガキ」でもらうとがっかりするのも確かであるし・・・。
それでも当選を忘れた頃、突然届いた身に覚えのないカニセットに怖さをいだき、捨ててしまった人もいると聞いた・・。
くじ付きは魅力ではあるが自分がたくさんハガキを買っても関係ないし・・でもその返信がメールだったらやっぱりガッカリだ・・・。
で、 今日は、ローテンブルクに戻ります
が・・・途中でメンテになってしまいました![]()
ローテンブルクは、 中世ドイツが最も詰まった街
として知られています。
古代から近世まで通商路として栄えたロマンティック街道上のこの街は手工業や中継ぎ貿易で大いに栄えましたが・・ 近世、産業の発展に乗り遅れて、街の時間は止まったまま
になってしまったのが、ある意味幸いしたようです。
城壁で囲まれた街の図。
左に飛び出た1.2.3のあたりに最初に城ができた所。現在は城の庭園(ブルクガルテン)。
ドイツ連邦共和国(Federal Republic of Germany)
バイエルン( Bayern)
ローテンブルク・オプ・デア・タウバァー(Rothenburg ob der Tauber)
マイン川の支流、 タウバー川から100m程の丘陵地に街が築かれている事から、
正式名称は「タウバー川の上のローテンブルク」、
ローテンブルク・オプ・デア・タウバァー(Rothenburg ob der Tauber)と呼ばれるように・・・。
ローテンブルクの名と、街の由来
(最初の城主)
街の歴史は970年頃タウバー川谷間の小村デトヴァングに 東フランケン地方の豪族ラインガーにより、
キリスト
教布教の為の教会が建てられた事に端を発する
ようです。
ラインガーは丘の
西端の高台にグラーフェンブルク城を築城。
ローテンブルクの名はその家名から来て
いると言われるのでラインガーは個人名か定かではありませんが、 最初の築城主の名からローテンブルクの名が生まれたのは確かのようです。
ブルクガルテンは道の先の左手の森のあたり。およそ650年前まではグラーフェンブルク城があった所。(街の中心から南西方面を撮影)
(2件目の城主)
しかし、 1108年ローテンブルク家は断絶
。最後の当主ハインリッヒは城と街をコンブルクの先祖が造った僧院に寄進するのですが、当時のドイツ王であり、神聖ローマ皇帝の ハインリッヒ5世は寄進を認めず甥
コンラート
・フォン・ホーエンシュタウフェン にローテンブルクの土地を与えてしまいます。
この頃には城下街は「ローテンブルクの街」に定着していたようです。
ハインリヒ5世は39歳で死去、 コンラートはドイツ王位も継いでコンラート3世となり、このローテンブルクに宮殿を置いて政務を執り
、皇帝の城と呼ばれた時期もあったようです。
この頃には、コンラート3世の息子フリードリッヒ はローテンブルクの公爵として騎士の称号を得ている
ので街の名がすでに広く知れ渡っている事が伺い知れます。
1167年
「ローテンブルク公」フリードリッヒの早すぎる死により、 ホーエンシュタウフェン家も断絶。
ローテンブルクの城は臣下に管理されていましたが、その後の皇帝には重視されず、
1356年に地震で崩壊。
石材は、城壁の建築の為に持ち去られた為に地上には何も残っていません。
今は、「城塞の後の庭園」の意でブルクガルテンと呼ばれています。
ブルクガルテンから城門(ブルク門)を撮影。
街の最初の市壁建設
直接の管理者のいなくなった街には自由が訪れます。
1172年、ローテンブルクの街は、都市権を獲得。最初の防御市壁が建設開始。
1274年、帝国自由都市に昇格。
街を取り囲む市壁が築かれ始めたのはどうやら、ホーエンシュタウフェン家の断絶後が正解のようです。(大きな後ろ盾がいなくなったから・・と思う。)
最初の市壁は地図の点線部分約1.4km。(今は環状道路)。
ブルク門の第1門
ブルク門の第2門にはトラップが仕掛けられている。
昔は堀があり、橋桁で閉ざされていた門です。
中世城の門は外敵の侵略を防ぐ為に日の出と共に開門され、日没と共に閉ざされたのです。
面になっている部分の口からは汚物が落とされ,
左右のみぞからは熱く溶けたタールが流し落とされたようです。
冬の撮影なのでちょっと暗いですが、中世の城壁の雰囲気は出てるかも・・。
左がブルク門
ローテンブルクは城下町として発足しながら城主はいなくなり、やがて城も消えて、街だけが利益を求めて華々しく発展して行ったのです。

つづく
アントニ・ガウディ(Antonio Gaudí) 2 … 2024年03月03日
アントニ・ガウディ(Antoni Gaudí) 1 高… 2024年01月22日
ウィーン国立歌劇場とハプスブルグ家の落日 2023年10月08日