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追記しました
文
字制限でどうしても縮められず2部構成になってしまいました
豊国神
社(とよくにじんじゃ) 2 (
強者の夢の跡を消し去った家康)
秀吉の出世
大坂の陣後の家康
家康の復讐?
妙法院門跡
秀吉の出世
1582年(天正10年6月27日)(清洲会議)
本能寺の変後、織田家から完全に権力をはぎ取ると権威として冠位を受ける為に朝廷に取り入った秀吉。その出世は早かった。
1584年(天正12年11月)従三位、権大納言
1585年(天正13年3月)正二位、内大臣宣下
1585年(天正13年7月)
従一位・関白宣下、内大臣如元( 正親町天皇のより関白に任じられる
。)
1586年(天正14年9月)豊臣姓を下賜される。
11月後陽成天皇の即位に併せて太政大臣に昇進
、
豊臣政権誕生である。
※ 後陽成天皇の在位期間は秀吉の時代から徳川家康の時代にまたがっている。
秀吉は関白職を公家から武家に移して世襲とし、諸大名や武家に官位を配りまくったそうだ。
しかし、1598年(慶長3年8月18日)に伏見城で薨去し、翌年後陽成天皇より「豊国乃大明神」の神号をもらい豊国社で祀られるも、 1615年(慶長20年)の 大坂の陣で豊臣家が滅亡すると家康により秀吉の残したものはことごとく消されて行った。
大坂の陣後の家康
徳川家康は大坂の陣後から朝廷の人事にも介入。秀吉の重用していた後陽成天皇は退位させられ上皇にされ一線から外される。
それも後任人事は望の皇子でなく、家康の希望する不仲の第3皇子の政仁親王への譲位である。
それが後水尾天皇(ごみずのおてんのう)であり、これにより「禁中並公家諸法度」の公布など家康の思うままの朝廷が誕生したのである。
家康の復讐?
秀吉により官位を受けていたとは言え、秀吉の行為には苦渋の思いをさせられていた家康が秀吉の栄華の後を消し去るのは想像に難くない
ことだ。
1584年(天正12年)織田信雄(次男)、徳川家康vs秀吉の戦いの因縁もある
し・・。
また、神格化されて、次の政権の足をひっぱられては困るので、 政敵に利用されない為にも完全に秀吉生前の偉功を消し去る必要があったのでは? と、想像できる
。
かくして 1615年(元和元年)豊国社は破却され、社殿は壊され本当に何も存在しなかったように草の原にされ、秀吉の遺品や豊国の神仏お宝類はすく裏にある妙法院の物となった。
大仏がすでに壊れていた事は幸いしていたかもしれない。
もし大仏が残っていたら破壊されていたかもしれない。
その当の大仏は高さこそ6丈3尺(約19m)と東大寺を越えていたものの、材質は銅像でなく木彫の漆喰造り、事もあろうに開眼1595年(文禄4年)のその翌年1596年9月5日(文禄5年)に起きた慶長伏見地震で大仏殿は残ったものの大仏自体が倒壊していたのである。
まさに幻の大仏殿跡地に豊国神社は再建されている。
方広寺(ほうこうじ)梵鐘だけは今日に残っている。
現在の方広寺(ほうこうじ)は豊国神社隣。
上の写真の梵鐘裏手の方向に豊国神社社殿がある。
梵鐘には「国家安泰」とあり、「家康」の名が分断されている・・と呪詛の解釈をしたとも言われている。
妙法院門跡
は
最初、
秀吉が両親の供養の為に行っていた僧千僧供養に出仕する千人もの僧の食事を準備した台所(妙法院庫裏)として歴史に出てきた寺院
である。
大坂の陣で豊臣家が滅亡すると同時に方広寺はほぼ解体状態。すると当時の 妙法院
住職は徳川にうまく乗ったようだ。
夏の陣後、同年1615年(元和元年)に縮小された 方広寺住職をなぜか妙法院門跡が兼務
している。
豊国社のお宝も妙法院門主の管轄下に入
り、同時に
新日吉社や秀吉が後白河院や清盛の栄華にあやかろうと肝いりで堂の修復や塀や門を直した蓮華王院(三十三間堂)もまた妙法院門主の管轄下に入っている
のである。
※ その時組み込まれた新日吉社と豊国社は現在独立しているが観光客収入の多い蓮華王院(三十三間堂)はまだ管轄下にあるようだ。

僧千僧供養の僧の食事を準備した庫裏(くり)・・キッチンである。土間に大きな釜土があった。
門跡と言うのは皇族や貴族の子弟が歴代住持となる別格の寺院を指すらしい。
が、確かに妙法院は皇族と深い関わりのある寺なのである。
下は明治天皇が来訪された時の碑と建物。部屋も公開されていたが、よく来ていたらしい。
要するにお坊さん個人の邸宅のようなもの。御所を追われた公家が逃れて来た事や、文化人も多く集まったと言う。公家のサロン的な役割もあったのだろう。円山応挙や伊藤若冲らが出入りしていたと言う。
とにかく襖絵(ふすまえ)が素晴らしかったです。![]()
本尊は普賢菩薩。写真は普賢堂。

偶然立ち寄ったら一年に1度のご開帳「五月会(5月14日)」 で中を観覧し、僧千僧供養の食を出した庫裏や書院やお庭が見学できました。無料でしたが中は撮影禁止。(残念)
普賢堂では花びらに願いを書き込み、法要奉修していただきました
なんてラッキーな日。
何にしても豊臣家が滅して大もうけしたのが妙法院なのである。
豊国神社奉納絵馬
秀吉に因んで瓢箪(ひょうたん)と草履の2種あるようだ。
瓢箪(ひょうたん)には開運絵馬
草履には出世絵馬と仕事絵馬があったがどちらも仕事が順調に行く事を願う内容が多かったです ![]()
日本人は働き者ですね。
豊国神社宝物館内部
豊国神社が再興 されても妙法院門跡はお宝は戻
してくれないようである。
たいしたものはほとんど無い。逆にかわいそうである。![]()
秀吉の歯・・とか珍品はあったが・・。
それにしても一つだけ家康を褒めるとすれば、秀吉の墓は破壊しても柩には手を出さなかった事だ。
秀吉の功績は明治に入り評価され冠位が上げられた? (格上げ人事?)
1915年(大正14年)贈正一位。
豊国神社おわり
Back number
リンク 豊国神社(とよくにじんじゃ) 1
他、秀吉関連
リンク 秀吉の墓所(豊国廟)
リンク 秀吉の御土居(おどい)と本能寺の移転
リンク 大徳寺と茶人千利休と戦国大名
リンク 秀吉と金の話 (竹流金と法馬金から)
リンク 2016年京都 7 (高台寺 2 秀吉と寧々の霊屋)
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