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事務所の向かいの殺人事件の犯人は、殺された女医の夫のお兄さんでした。この事件の約2ヶ月前に女医の夫が心臓麻痺でなくなりましたが、亡くなった夫のお兄さんは、弟と普段からあまり仲良くなかった弟の妻が心臓外科の知識を使って弟を殺したと信じ込んでしまい弟の敵として妻を殺した訳です。イスラム教では、被害者の家族がその罪を許せば刑が軽減される事があります。この犯人は、弟と一緒にガスレンジなどを作る大きな工場を経営しており、会社、被害者の家族の間でも人望の有る人でした。この事件でも、被害者の家族の殆どは死刑を反対し刑の軽減に同意しましたが、一度に娘と孫を失った女医の母親が最後まで刑の軽減を拒否し予定通りに刑が執行されました。朝の八時半に事務所に出ると事務所の前には双方の家族、近所の住民が集まり、何事かと会社のイラン人に聞いて初めて公開絞首刑が有ることを知りました。集まった家族が騒いでいるので、何かと聞くと、犯人の家族が最後の最後まで一生懸命に女医の母親に刑の軽減をお願いしているとの事でした。2時間くらい経ってから、一台のトラックが到着しました。屈強な男4-5人が下りてきてトラックからサッカーのゴールのような絞首刑台を下ろしました。これを見た犯人の家族が泣き叫んで居ました。さらに1時間経過のあと一台のバスが到着し、中から犯人が連れ出されました。所が犯人は笑顔で家族と会話を交わしています。よく聞くと、絞首刑の場合、2-3日前から食事を取らせず大量の麻薬で不安を取り除くのだそうです。彼は進んで小さな台の上に乗り刑の執行となりましたが、その詳細な様子は一寸生々しいので書きません。日本でもさらし首が有ったように、前時代的とは言え犯罪の軽減の為には見せしめが一番効果があるのでしょうか?イスラム教のこのような公開での刑の執行は、イランだけでなく他のイスラム国でも行われています。最近の日本での残忍な犯罪を見ると、犯人を殺しても、まだ気持ちが収まらないであろう被害者の家族の気持ちは良く理解できます。イスラム教のこのような一面をただ残酷と言い切れない不思議な感情があります。色々な事を考えさせられる経験でした。
2005年01月30日
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一寸物騒な話題ですが、現在でもイランで一般的に行われている死刑の執行方法です。私の駐在時代にサンケイ新聞の記者が当時のイランの実情を暴いた’鞭と鎖の帝国’(副題:ホメイニ師のイラン)と言う本を出しましたが、その中にも公開絞首刑の話が出てきます。(この本はイラン政府の猛烈な抗議で発売当時直ぐに発売停止になりましたが、アマゾンを見たら何故か今も販売されています)この時代に公開絞首刑が有るのかと半信半疑でしたが、私の7年の駐在が終え日本への帰国の一ヶ月前に当時の我が社の事務所の真ん前で、私の目の前でその公開絞首刑が行われました。楽しかったイランでの生活を思い出に帰国出来ると思っていましたが、帰国真近の最後の最後にイスラム教の残酷な、しかし有る意味合理的な(変な表現ですが)一面を見てしまいました。この公開絞首刑は、犯人が殺人を犯したその場所で、双方の家族及び一般の住民の前の公道で見せしめの為に行われます。公開絞首刑の約6ヶ月前に我が社の事務所の向かいに住んでいた心臓外科の女医とその娘さんが殺されました。犯人は、数ヶ月前に心臓発作で亡くなった女医の夫のお兄さんでした。我が社の事務所にも時々お茶を飲みに来ていた我々の顔見知りの人でした。刑の執行までの出来事が印象的でしたが、長くなるので次に書きます。
2005年01月29日
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美濃焼の人間国宝であられた加藤卓男さんが一昨日亡くなりました。この日記のトルコ編でも取り上げましたが、彼は16・17世紀(ササン朝ペルシャ)に消滅したラスター彩陶器を20年の歳月をかけて再現した人でも有名でした。僕がラスター彩陶器に興味を持ったのは、テヘラン駐在時代にテヘランの骨董市で400年前のラスター彩陶器を何点か買った時からです。ラスター(光沢)彩陶器は、もともとメソポタミアで9世紀頃に発達しました。当時バクダットは金属が不足し取引禁止となったため、金属食器の代わりとなる、光沢のある金属の表面を思わせるラスター彩陶器が生まれました。所がその後ペルシャに渡りその技術は17世紀頃に消滅してしまいました。陶器の上薬はとても複雑で陶工の試行錯誤で素晴らしい色合いの陶器が生まれます。長い間このラスター彩は世界中の沢山の有名な陶工が再現を試みましたが、誰も成功しませんでした。加藤さんは40年以上前にこのラスター彩陶器をテヘランで初めて見て魅せられ、その後20年の歳月をかけて世界で始めて再現に成功しました。このラスター彩陶器は日本ではあまり有名では有りませんが、欧米では人気があるので将来欧米の何処かのオークションに持っているラスター彩陶器を出したいと思っています。どんな値段が付くかお楽しみ。欧米にも’何でも鑑定団’みたいな番組が有れば良いんですけどね。
2005年01月13日
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最近の朝日新聞の海外ニュースのページに’我らの聖地’と言う連載記事が載っています。昨日の記事には、この日記のクスリの話でも取り上げた、暗殺者(assasin)の語源であるイランのアサシン教団の話が載っていました。数日前の記事には、やはり日記で紹介したインドのゴアの話が載っていました。さらに新聞ではありませんが、やはりこの日記で紹介したインドの小・中学校の数学教育で日本の9・9に相当する、99x99までの数字を暗記する話しをしましたが、昨年末のNHKでそお様子を紹介していました。我田引水になりますが、こう言う記事を見つけると正直嬉しいですね。そういえば、ゲストさんのアドレスの中に、asashiの付くアドレスが時々あるのでひょっとするとこの日記を見て参考にされているのかも知れませんね、とは考えすぎですかね。
2005年01月08日
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昨年この楽天日記でソンキンさんはじめ沢山のバリュー投資を実践している方達のHPを見させて頂きました。株は長い間保有しており、数年前までは優良株の売買を多少していました。ただし自分の投資基準など全く無い気まぐれな買い方なので、資産は全く増えませんでした。特にここ2-3年は、本業に集中する為にあえて塩付け状態にしていた為、かなりの資産減少となりました。そろそろ株の売買を再会しようと思っていたところでこのバリュー投資を知り、その投資基準に納得しました。今年はこのバリュー投資を実践すべく、推薦されているバリュー投資の必読本をまず読み、さらに財務分析に必要な知識を勉強して行こうと思っています。昨年末に塩漬け株を殆ど売却し、まず資金を確保しました。バリュー投資の勉強と平行して、現在選定している銘柄からまず資金の50%くらいを目処に、5-10銘柄を時機を見て買い始めようと思っています。今年の年末に自分の投資成績をここでお伝えし、この日記をバリュー投資実践の日記に変更出来るようにしたいのが今年の目標です。昨年、海外の経験を書き留める目的でこの日記を書き始めましたが、経験談もそろそろ80%くらい書き尽くしました。今年は頻繁には更新出来ないと思います。その間しっかりとバリュー投資の勉強に励みたいと思っています。
2005年01月04日
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李登輝前総裁へのビザ発給問題が連日新聞を賑わしています。中国政府は、台湾を独立国家と正式に発言した李登輝の動向には敏感で、日本政府への抗議は、中国にとっては当然かもしれません。しかし、この問題は中国と台湾間の問題であり、日本が彼にビザを発給したからといって、日本を非難するのは、お門違いですね。日本のマスコミの取り上げ方は、小泉首相の靖国参拝と同様、何時もの表面的なヒステリックな報道だけでうんざりです。その点小泉首相、町村外務大臣のコメントは当たりまえとは言え、冷静でした。こう言う問題が出るたびに思うことは、外国から非難、批判されることに必要以上に臆病で、言われたことを必要以上に大袈裟に報道するマスコミの姿勢です。日本人は、国民性としてあまり相手の(外国の)批判を面と向かってしませんし、出来ません。批判をする時は、重大な決意の元にするのが一般的です。しかし、外国はそれほど重大な決意の元に日本に物を言うのではなく、自分に不利になることは何でも遠慮なくストレートに言ってきます。この違いを全く理解せずに、それほど大きな問題ではないことを(他の重要問題と比べた時の比較として)、あたかも中国と日本の関係が益々悪化するかのように大袈裟に伝えます。日本のマスコミの国際問題への見識のレベルアップを願います。
2004年12月27日
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中国語でメーリークリスマスを聖誕快楽と言うことを今日知りました。中国では日本のように外来語を直接使わず、全ての外来語を漢字で表現しますが、その的を得た漢字の表現には何時も関心させられます。イスラム教の国でもクリスマスはあります。宗教に関係なくクリスマスは世界中の共通の行事になりましたね。でも今日はクリスマスの話ではありません。中国の歴史には関心があります。また論語のように数千年前の道徳が現代に生き続けているのも中国の偉大さの一つです。 秦の始皇帝で皇帝国家が誕生し、清の最後の皇帝、愛親覚羅溥儀で皇帝国家が滅び、始めも終わりもシンで有ったのは面白いですね。中国のような人口の多い大きな国家は強力な皇帝が居て初めて治められた、と言うことでしょうか。項羽と劉邦のような2千年以上前の戦国時代の中国の歴史も面白いし、清が滅びた後、中華民国誕生までの孫文、蒋介石、毛沢東、周恩来と続く近代の中国の歴史もダイナミックで興味が尽きません。来年はまだ読んでいない中国の歴史小説をじっくりと読みたいと思っています。
2004年12月24日
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昨日の続きです。私がSです、と言われて驚いたのと同時に、S氏の容貌にも多少驚きました。S氏は、色白で優しい感じのする美男子だったので、5年もの長い間独房で過ごした精神力の強い人、と言うイメージからはほど遠い感じを受けました。でも話を聞いて、その精神力の強さに感銘を受けました。スパイ容疑とは、どんな容疑だったのか聞きました。日本に帰国した際に、中国の様子を人に話したことがその容疑だったようです。当時の中国共産党政権では有り得たことかも知れません。いわれのない容疑で逮捕され独房生活が続き、いつ釈放されるか分からない状況が数年続き、かなり精神的にきつかったようです。人間は遠い将来でも、将来の予定、目標があれば、多少の精神的困難にも絶えられるようです。しかし、その将来が何もない状況に置かれると(いつ釈放されるか不明の状態)希望を失い、精神的に支障をきたし、自殺したり、謂れのない罪を認めたりするそうです。毎日、取調べがあり、何時いつに誰にあったとか、まったく事実でない、知らない事を聞かれ認めるように迫られたとのことです。しかし、S氏は最後まで、それら謂れのない罪を認めなかったと言っていました。その強い精神力には感銘を受けました。小さな窓から見える星、月などが大きな慰めになったとの事でした。またS氏は中国生まれで中国語が堪能であったため、毎日読める新聞が唯一の楽しみであったそうです。ある日(逮捕後4年後くらい)新聞で、アメリカのキッシィンジャー国務長官が訪中する記事を読み、ひょっとすると釈放の可能性も有ると、勇気が沸いたそうです。案の定、キッシンジャーの後、数ヶ月で当時首相であった田中角栄が訪中し、日中国交回復となりました。田中角栄と周恩来の間で、この日本人逮捕者の釈放が約束され、最終的に逮捕から5年後の釈放となりました。S氏の上司も逮捕されましたが、同時に釈放されました。お互いに消息不明の状態だったのが、実は隣同士の独房に5年間いたことが、後で分かったそうです。釈放後、何人かの人には中国政府から不当な逮捕への釈明と陳謝がなされたそうですが、S氏には、何の釈明も陳謝もなかったそうです。釈放一年後に中国出張のヴザを申請し、そのビザが下りたことが中国政府へのS氏への陳謝と自分では解釈しているとS氏は言っていました。そして釈放後の初めての出張で偶然事務所で僕と会い、上記のような貴重な話が聞けたわけです。
2004年12月22日
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中国との国交が結ばれる前は商社の事務所を中国に置くことは出来なかったので、中国との仕事が出来、事務所も北京に置くことが出来るライセンスを持った日本の友好商社の名前を借りて商売をしていました。この時期に新聞社の記者を含む5人(と記憶してますが?)の日本人が、スパイ容疑で北京で逮捕されました。その中に当時の我社の社員も二人いました。この逮捕は日本でも大きなニュースとして伝えられました。5年間の刑務所生活から釈放されて、香港経由羽田空港に降り立った姿を、テレビで見ていました。特にS氏は、逮捕前に生まれたお嬢さんが6歳になっており、奥さんと一緒にテレビのインタビューを受けていたのが印象的でした。初めての中国出張の時に、仕事が終わり、当時の我社の事務所が有った民俗飯店に寄り、やはり日本から出張していた出張者とお酒を飲みながら雑談をしていました。S氏の事件があまりにも印象的であったので、僕のほうからこの話題を出して、S氏はその後日本でどんな仕事をしているのか知っていますか?と聞いたところ、私がそのSですと言われビックリ仰天、その後2時間あまりS氏の当時の話を聞かせてもらいました。話の内容は次回書きます。
2004年12月21日
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最初の出張はもう20年以上も前の事です。当時の田中角栄が訪中し中国との国交が回復した数年後でした。日本の技術を紹介する技術交流会への出席でしたが、中国側のお礼として、1.万里の長城見学2.明の十三陵見学3.全中国体育祭(日本の国体)見学4.天安門広場と人民大会堂見学5.北京ダックでの晩餐会と、パック旅行以上の歓待を受けました。万里の長城は、モンゴル軍の騎馬隊を防ぐ為に作られたと言われていますが、馬が上れないような絶壁にも作られており、不思議です。全長6千km、人工衛星から見える唯一の地球の建造物、色々考えさせらるので、インドのタージマハール同様、必見の世界遺産だと思います。北京ダックは、天安門広場に近い、中国で一番美味しいと言うレストランで食べました。今まで食べた物の中で一番美味しい食べ物と言う印象で、その後あちこちで食べた北京ダックとは全く違う味でした。当時は、車が殆ど無く、タクシーでの移動にタクシーがなかなかつかまらず、苦労しました。中国人の移動手段はもっぱり自転車で、朝晩の通勤時は広い道路は自転車の洪水で、さすが人口10億(今は12億)の中国と驚きました。すでに毛沢東は亡くなり、悪名高い文化大革命の首謀者の江青他4人組みが逮捕されていた時でした。トウ小平(トウの漢字が機種依存文字でここでは使えないと拒否されました)の改革開放が始まる前で、まだまだ共産国家の臭いが強く残る、不気味な雰囲気がありました。その後数回北京、天津、上海に行きましたが、当時と比べると、その発展の早さには驚愕です。特に上海の浦東地区の高層ビル街を見ると、ここは中国ではないと思うほどです。何故か中国は一番好きな国の一つで、これからも機会を見つけて行きたいと思っています。いつか読んだ、文化大革命をはさんだ、女性の3代記が書かれた、’ワイルドスワン’を読んでから、好きになったのかも知れません。
2004年12月17日
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クスリの話から、英語の暗殺者の語源を思い出しました。英語で暗殺者の事をアサシン(assassin), 暗殺の事をアサシネーション(assasination)と言います。12-13世紀にイラン北部のエルブルス山脈のガズビンと言う町に、イスラム教シーア派のアサシン教団と言う分派が出来ました。アサシン教団は、狂信的な暗殺者教団で、若者を麻薬で洗脳し、世界中に暗殺者として派遣しました。最後はモンゴル軍に滅ばされましたが、それまでは世界的に有名で、世界の様々な組織から暗殺の依頼が沢山ありました。英語の暗殺者(assassin)は、このアサシンが語源で英語となりました。大麻樹脂の事を、ハッシッシと言いますが、これもアサシンが語源です。クスリの話を終わります。
2004年12月11日
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あまり表には出ませんが、日本の若い旅行者が海外で好奇心から麻薬を吸い、逮捕され刑務所生活を余儀なくされている人が結構居ます。インドのゴアはヨーロッパ人の避暑地として有名ですが、ここでは若いヨーロッパ人が大麻を吸って居ることでも有名です。ここでほんの出来心で大麻に手を出してしまい、3年以上もゴアの刑務所に囚われていた日本の若者が3人居ました。インド人の弁護士を介しての法廷では意思疎通もままならず何時釈放されるか分かりません。ほんの出来心で一生を台無しにしてしまします。日本は麻薬の罪が世界的に軽い国ですが、東南アジアでは日本より数倍重い国が沢山有ります。中国、シンガポールではその内容によっては極刑です。記憶の新しいところでは、シンガポール駐在のオーストラリアの外交官の息子が麻薬所持で捕まり、オ政府の釈放運動も虚しく死刑判決を受けました。日本の若者5人(女性一人)が東南アジア経由オーストラリに入国した時、誰かのスーツケースの中の麻薬が発見され全員懲役10年の判決で、1-2年前に刑期を終え釈放されました。日本では覚せい剤で逮捕される芸能人がニュースになりますが、刑が軽いのか実刑判決で無い場合も有るようです。でも麻薬の罪は海外では日本と全く違います。ほんの出来心で取り返しの付かない事態になる危険がある麻薬には、海外では(特に東南アジア)絶対に手を出さないことです。
2004年12月02日
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先日イランでの仕事の相手先であり、20年来の友人が来日し、10年ぶりに東京で再会しました。彼が13年前に麻薬で逮捕された時の話しです。当時、商談中に何度か机の陰で何か粉末のものを鼻から吸引していたので、始めは普通のクスリを処方しているのかと思っていましたが、実はコカインでした。彼はアメリカに頻繁に行っていましたが、当時アメリカでは企業の経営者、幹部などの三人に一人がコカインを吸っていたという話しがあり、ストレスを取る為の一種の流行だったようです。アメリカで味を覚え、帰国後も続けていました。運悪く、麻薬取締キャンペーンの最中に彼がコカインを購入していた売人が逮捕され、数日後彼も現行犯で逮捕されました。イランでも麻薬の罪は重く、売人は死刑、彼は懲役30年、全財産没収の判決を受けました。その後、運良く恩赦などがあり最終的に3年で釈放され財産も半分以上戻ってきました。現在は仕事にも復帰し先日の訪日となりました。クスリに手を出すと、怖い結果になります。
2004年11月30日
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中近東では昔から麻薬を日常的に吸う習慣が有ります。アラブ諸国(特にイエメン)では、植物の葉っぱをかじると興奮状態になるカートと言う植物麻薬が有ります。子供も昼間からかじっています。お酒は禁止でもカートは合法的です。イランの普通の家には、アヘンを吸う部屋が必ずあり、仲の良い男たちが集まり、食後に皆でアヘンを吸います。勿論違法ですが、日本の賭けマージャンと同じで、殆ど罪の意識が無くアヘンを楽しんでいます。もう時効なのでいいと思いますが、僕も自宅に招待されて、何度かアヘンを一緒に吸いました。アヘン樹脂を燃やし、特殊なパイプでその煙を肺の奥まで吸いますが、血圧が下がる為にお砂糖を沢山取りながら吸います。それを知らずに吸ったことがあり、帰りの車の中で気持ちが悪くなり、相棒に言われて直ぐに飴をなめて元に戻りましたが、危うく気を失う所でした。大麻も経験が有りますが、アヘンも大麻もまた吸いたい思うほど、気持ちが良くならないので、幸い習慣にはなりませんでした。タバコの方が美味しいと言うのが実感でした。お酒と同じで、お酒の許容量が多い人は麻薬もあまり効かないのかも知れませんね。若かれし時の無茶な経験でした。
2004年11月29日
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一週間ぶりのアップになってしまいました。アジアの事を書くことにしてましたが、やはり昔の馴染みの国の事が気になります。連日新聞テレビを賑わしているウクライナの大統領選挙も今日の新聞で再選挙になるであろうとのことでほっとしました。ロシア人が過半数住む東の地域で信任されている親ロシアの与党に対して、ポーランド系住民などが多くEUに早く加盟したい親ヨーロッパの西の地域で信任されている野党との対立ですね。さらに東の工業主体に対し、西は農業主体、全く違う国のような東西がソ連時代には一つの国として旨く行っていましたが、独立後は対立が絶えなかったようです。再選挙で西側の野党が勝利すれば東側がウクライナからの独立を宣言する可能性も有るようです。いずれにしても流血を見ないで民主的に解決して欲しいものです。暫くウクライナ情勢から目が離せません。
2004年11月28日
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韓国での仕事は、韓国の会社に海上コンテナを作らせてアメリカのリース会社に輸出する仕事でした。工場は釜山の北東、車で2-3時間の蔚山市に有りました。工場の生産状況をチェックする為にほぼ毎月出張しましたが、生憎韓国では良い思いでは殆どありませんでした。どちらかと言うと嫌々出張していた感じでしたが、そう言う気持ちに張りの無い時には大体いい事が無く、案の定何回目かの出張の時に、当時流行っていたA型の急性肝炎に感染し、1.5ヶ月の入院生活を余儀なくされました。急性肝炎は生野菜から感染する事が多く、通常は風邪と同じように感染しても、体が元気であれば発病しません。しかし、当時の韓国出張では毎日残業で忙しくその後にお酒を飲んで1週間ほど寝不足が続きました。体力が消耗していたのでしょう、帰国後に電車の中で倒れ翌日から入院しました。韓国で感染したのは明らかで、会社では同じ時期にやはり韓国に出張した10名ほどの血液検査をしたとこと、7名から感染の結果が出ました。この人たちは感染だけで発病はしていないので全く問題有りません。むしろ抗体が出来て将来の感染、発病が無いので安心です。その後数年後にシンガポールで急性肝炎に掛かった他の社員が死亡するという不幸もありました。東南アジアの駐在員、出張者が肝炎に掛かるケースは結構沢山有りました。A型は完全治癒されるので良いのですが、B型、C型は厄介です。最近では東南アジア各国の食べ物も衛生面でかなり改善されているので、あまり心配は要らないと思いますが、それでも注意が必要です、韓国、台湾、シンガポール、ベトナム、などの屋台料理は安くて美味しいので旅行者も良く食べると思います。こう言うところで感染はまず無いと思いますが、念のため、旅行中は良く寝て体力を維持しておく事が重要です。この急性肝炎での入院で、その後体を注意する習慣が出来、結果的に良かったと思っています。一病息災です。
2004年11月21日
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映画、音楽などの日本文化が韓国で解禁され、また日本では、韓国のイケメン俳優が大フィーバーしている最近の韓国での日本ブーム、日本での韓国ブームは、昔の日韓の関係を知っている人には喜ばしい事ではないかと思います。つい最近行われた日韓共催のサーッカーのW杯でも、まだ韓国は、日本からは一番近くて遠い国の感じがしていたと思います。中国と同じく、韓国民には当時の日本の植民地政策に対する恨みが大きく、戦後の学校教育では徹底した反日教育をしていた時期が長かったようです。そんな反日感情が特に強かった20年以上前に初めて仕事で訪韓しました。今でこそ押しも押されもしない経済大国になった韓国ですが、当時は空港を出ると子供の物乞いに囲まれるような貧しい国でした。日本の戦後の驚異的な経済発展と同じように70年代からの韓国の経済発展も驚くべき速さでした。そんな韓国での出来事を思い出しながら次回何か書くことにします。
2004年11月20日
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アフリカ、中近東、インド、ロシア・CISの次はアジアの事を少し振り返ってみようと思います。アジアは意外と広く、西は中近東のイラン、イラクのイスラム諸国まで、東は日本までの地域をさします。何で中近東(Middle East)と言うのかあまり疑問には思いませんが、この言い方は英国から見ての方向で、同じように英国から見て東南アジアの事を極東(Far East)と言います。アジアも広いのでインドを境に、その西の国を西南アジア、東を東南アジアと分けています。インドは西南アジアに入ります。東南アジアでまだ行っていない国は、ブータン、ブルネイ、ラオス、バングラデッシュくらいでしょうか。何カ国か数えたことはありませんが、それ以外の国には一泊だけも含めて殆ど行ったと思います。この日記は、海外での出来事、思い出を忘れないうちに書き留めておく事なので、アジアの事も書いてみます。
2004年11月18日
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中近東のトイレ事情です。公衆トイレ、家庭、一流ホテルを除いたホテル、殆どのトイレにはトイレットペーパーは置いていません。トイレには座った時の目の前の位置に水道の蛇口があり、水道の蛇口からホースが伸びでいるか、ホースでなくプラスチック製の手桶が置いてあるだけです。ホースの場合は問題有りませんが、手桶の場合は厄介です。中々旨く行きません。何とかコツを掴むまで時間が掛かりました。水で始末をすることが習慣になるとその清潔さに慣れてしまい、今度はトイレットペーパーが使えなくなります。イランから帰国後に直ぐにウォッシュレットを購入しました。中東の男性が外で用をたす時は、我々のように立ったままでなく、座ってやります。何故かと聞いたところ、立ったままだと飛び散ったものが体に付き不清潔との事でした。納得です。中東の人は生活の知恵なのか清潔好きです。トイレとは関係有りませんが、清潔好きの面白い話です。イラン時代の会社の部下が、何時も週末になるとズボンのポケットに手を突っ込んで股間の辺りを掻いているので何故かと聞いたところ、中東の人の意外な習慣が分かりました。結婚した男女は、体毛を剃る習慣があるとの事です。中東では金曜日が休みですが、金曜日に剃ると一週間後の丁度生え始めた頃に痒くなるとの事でした。これも体を清潔に保つ為との事でした。そう言えば良く注意して見ると同じようにズボンの手で、と言う人が良く見られました。朝からトイレの話ですみませんでした。読んで頂いた人に取って置きのトイレの消臭方をお教えします。トイレにマッチを常備して下さい。用を足した後にマッチに火をつけ先のリンの部分が燃えたら消してください。これだけです。マッチのリンの燃えた臭いは残りますが、一瞬にして他の臭いは全て綺麗さっぱり消えます。市販のどんな消臭剤よりも数倍の効き目です。騙されたと思って、是非一度試してください。試された方、ご意見下さい。
2004年11月16日
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トイレからもその国の文化、習慣、民度、などが良く分かります。一番ビックリしたのが中国の公衆トイレです。横並びに座って隣にしゃがむ人との間に腰の高さの仕切りが有るだけです。通称’ニーハオトイレ’と言うそうです。初めてで落ち着いて出来ず、そのまま出てきた事が有りました。臭いにも閉口です。でも中国人はおしゃべりをしながら用を足していました、さすが大陸の人と感心しました。観光地には外国人用の西洋式のトイレもありますが、そのトイレを使う中国人は、堂々とドアを開けて用をたしていました。長い間の習慣で個室では出来なのでしょう。オリンピックの為に北京では市を上げて町の美化に取り組んでいますが、トイレも例外ではなく、4星でランクを付けて綺麗なトイレを増やしているそうです。そう言えば東京オリンピックの時に駒沢公園などに綺麗なトイレが沢山出来ました。オリンピックで綺麗なトイレが増えるのは万国共通?
2004年11月15日
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海外で一番心細くなることは、怪我や病気になったときです。二度ほどありました。1.麻酔無しの外科手術リビアに駐在していた時です。腰の上辺りの横腹が化膿し、直径3cm大に腫れ上がりました。抗生物質を飲み続けそのうち治ると思っていたら一向に治りません。そのうちに38度位の熱が出て化膿した部分が咳をしても激痛が走るようになりました。石油大国のリビヤには立派な病院は有りましたが、何故か信用できない感じがしたので、自分で外科手術をすることにしました。当時某自動車会社のエンジニアと一緒に駐在していました。自分ではさすがに自分の体を切ることは出来ないので、彼に執刀して貰いました。ライターの火で消毒した剃刀で切り、膿を出しました。激痛に脂汗でしたが、早めに切ったのが良かったのか、その後抗生物質を飲み続け1週間くらいで傷口は塞がりすっかり治ってしまいました。若い時とはいえ今考えると一寸無茶なことをしたと思います。その時の傷跡は今でもはっきり残っており見るたびに当時の事を思い出します。2.原因不明の頭痛インドに赴任して直ぐの時でした。突然頭が割れそうな頭痛が始まり、それが1週間続きました。医者で貰った頭痛薬は強い薬で一日3錠以上は飲まないように言われました。飲むと痛みは無くなりますが、薬が切れると耐えられない頭痛がまた始まります。4-5時間位で薬が切れるので3錠までの薬を結局一日5-6錠飲みました。1週間、夜は殆ど眠れず食事も取れません。その間地元の医者に通いましたが、どんな検査をしてもその原因がはっきりしません。もう2-3日様子を見てそれでも治らなければ、脊髄の液を注射器で抜いてウイルスの検査をしましょうと言われていました。不思議なことにその検査の予定の日の前に突然頭痛は消えました。インドの検査では不安が有ったので、あと2-3日治らなければシンガポールに検査の為に出る予定にしていましたが、幸い不要となりました。結局原因は分からずじまいです。
2004年11月13日
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ロシア・CISシリーズからイラン・インドに逆戻りしてました。ロシア・CISの話題も大体書き終えた感じがするので、其の他の雑感を書いてひとまず終わりにします。1.ロシアに来る日本女性に聞くと例外無しに、ロシアには何でこんなに美男子が多いのか? また来たいと必ず言います。確かに良い男は沢山居ますが、欠点の無い整い過ぎた感じがしないでもありません。日本の女性はああ言う整った顔の男に弱いんでしょうね。韓国のヨンさまもそう言えば欠点のない美男子。2.ロシアの7不思議の一つに、ホテルのベットのサイズがあります。ロシア人は女性でも180cmある人は珍しくないくらい大きな体をしています。しかし、ホテルのベットは177cmの僕でも窮屈なサイズです。皆などうやって寝るのか不思議です。ホテルと言えば、各階に鍵を預かる叔母ちゃんが怖い顔をして必ず座っていましたが、今はどうなんですかね。3.ロシア料理は油っこい料理が多いのですが、あの冬の寒さに耐える為の生活の知恵でしょうか。特に前菜は、豚肉の脂身のハム、油の乗ったタラの燻製、イクラ、等、油だらけです、この油っこい前菜に、冷凍庫で凍らせたどろどろのウォッカは最高に合います。お酒は気候・料理と一対になっているのか、日本でウォッカを飲んでも全然美味しくありません。日本酒もあの油っこいロシア料理では美味しくないでしょうね。最近はロシアに行く用事は全然有りませんが、今後の経済発展を期待されているBRICS諸国(ブラジル、ロシア、インド、中国)の一つであり、今後はロシアの話題が頻繁に日本の新聞を賑わすと思います。
2004年11月11日
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火を神として数千年も絶やさずに燃やし続けている拝火教と言う宗教があります.死体を鳥に食べさせて荼毘に付す鳥葬の宗教としても有名ですね.イランの東の地域及びインドに拝火教徒は沢山います.イランではゾロアスター教、インドではファーシーと呼んでいます.この拝火教徒はインドでは弁護士、医者、等かなり高い地位の人が多く、インドの最大財閥の一つであるタタ グループのオーナー及び多くの経営幹部は皆拝火教徒です。インドのムンバイに住んでいたときの自宅の近くにこの拝火教の鳥葬をする場所があり観光地の一つにもなっていました.すり鉢状のかなり大きな野外の鳥葬場で、小高い丘の上にあり周りは林に囲まれ中は見えません.自宅近くには沢山のカラスが飛び回っており、このカラスが人肉を食べいるのかと思い、気持ちの悪い思いをしていましたが、今では儀式だけで実際には鳥に食べさすことはなく、火葬で荼毘に付すとの事で、安心しました.世界には理解に苦しむ色んな宗教がありますね.
2004年11月10日
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今日は15年前の1989年にベルリンの壁が崩壊した日です。この日を境にロシア、東欧で民主化の嵐が益々激しくなり数年の内にソ連邦の各共和国が独立し、東欧各国の共産党も消滅しました。この東西の冷戦終結には後にノーベル平和賞を受賞した当時のソ連邦のゴルバチョフ書記長の功績が大で有る事は勿論ですが、一番の功労者は、衛星テレビのパラボナアンテナと言われています。西側の情報を操作する事によって、共産主義の優位性を教えてきたこれらの国は、衛星テレビの出現で西側の情報が全て入るようになり、全ての人が共産主義の宣伝に踊らされていたことを知るようになりました。ルーマニアのチャウセスク大統領は、この年の暮れ経済支援を受けていたイランにいました。1989年12月25日、僕がイランの駐在を終え日本に帰国したその同じ日に、彼もイランからルーマニアに帰国しました。成田に着きテレビを見たところ、ブカレストの大統領府のバルコニーで演説し、それを聞いている聴衆から罵声を浴びせられていたチャウセスクを見ました。チャウセスク夫婦はこの演説の後1週間ほどで処刑されました。共産主義時代の抑圧から解放されるかの様に各国で同じように大統領、首相が失脚しました。早いですね、もうあれから15年も経ったんですね。今、独裁者に抑圧されている国は、世界中で北朝鮮、キューバ、リビアの3カ国位でしょうか。これらの国も数年中に開かれた国になるのではないかと希望的観測を持ってみています。
2004年11月09日
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そう言えば海外出張から日本に戻ったその日に飲み過ぎて、と言う失敗が何度かありました。リビアから半年振りにリビヤのお客を連れて日本に戻って、会社の上司と慰労もかねて銀座で飲みました。リビヤはお酒が無いので、自分で作ったワイン以外は殆ど飲んでいませんでした。半年近くもお酒の量が極端に減ると、アルコールの許容量も落ちることをすっかり忘れ、昔のように杯を進めた結果、お客と一緒に泊まる予定の帝国ホテルのロビーでダウン。意識はあるけど、腰が抜けて立てません。ロビーに倒れながら胃の中の物を戻し、最悪でした。宿泊している外国人が心配そうに上から眺めていましたが、どうすることも出来ず、仲間に抱えられて部屋に運ばれました。1ヶ月ほどヨーロッパに出張し、夜行で帰り、会社に出て仕事をして、その夜睡眠不足のまま飲んだときはさらに最悪でした。美味しい濁り酒を飲ます所が有楽町のガード下にありました。このお酒はアルコール分が強く、飲み過ぎると足腰に来るお酒で、通常2合までしか飲ませてくれません。行きつけだったので良く知ったマスターに無理を言って、4合まで飲ませて貰いました。夜行飛行機で寝ていない上に、1ヶ月の疲れも溜まっていたかもしれません。その店を出た途端に記憶がなくなりました。気が付いたのは翌朝我が家のベットの上で、顔中に鈍痛が走り目を覚ましました。鏡を見ると片方の目は塞がり、紫色に大きく腫れています。持っていたポッシェットも有りません。この中には、パスポート、クレジットカード、千ドルあまりのトレベラーズチェック、現金5万円ほど、など入っていました。どうやって帰ったのか思い出してもかすかな記憶で良く思い出せませんが、何とか記憶をたどると、どうやら電車で帰り、階段の上から転んで落ちた記憶がかすかにありました。全財産を何処かで落として、最寄り駅からはタクシーで帰った来たようですが、お金をどう工面したのか、それとも運転手さんがお金を取らなかったのか分かりません。無くしたポッシェットは結局出てきませんでしたが、カードなど直ぐにストップしたので、被害は現金の5万円だけでした。それよりも駅のホームで線路に落ちなかった事を幸運と思わずにはいられませんでした。この失敗依頼、外で飲み過ぎることは少なくなりました。
2004年11月07日
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昨日、一昨日と二日続けての深酒でこの週末はおとなしくしておきます。お酒の失敗談は、数え切れないくらい有りますが、海外でも何度かありました。東南アジア、ロシアでは、現地のお客からの招待で必ずお酒の席が用意されます。彼らはこちらがつぶれるまで飲むことを期待しており、つぶれるほど飲んで開襟を開くことで、信用し仕事に結びつくケースが結構有りました。今はそう言う飲み方はあまりしませんが、当時はお客との飲み会は大体つぶれるまで飲むのが普通でした。台湾では、レストランで気を失い救急車でホテルに運ばれました。モスクワでは、ウォッカで腰が抜け、ホテルのトイレで動けなくなり、ロシア人に担がれて自分の部屋に運ばれました。お酒で体を壊した仲間は沢山いました。僕は、幸いアルコールの分解酵素が普通の日本人より多いので体を壊すまでは行っていませんが、これからは楽しんでもむように心がけたいものです。と、しらふでは思うのですが、飲みだすとすっかり忘れてしまうのは困ったものですが。
2004年11月06日
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今年も何もしないうちにもう11月です。時間の過ぎる早さにブレーキが掛かりません、逆にアクセルを踏んでいるようです。11月1日:20年ぶりに新紙幣が発行されました。紙幣と言えば、海外出張用の財布に4カ国の紙幣が眠っています。海外で面倒な事の一つに両替があります、またそのうちに再訪すると思い、あまった現地通貨を交換しないで帰ることが多いのですが、その内の台湾の紙幣は2年前から財布の中に眠っています。当分行く予定はありません。11月2日:アメリカの大統領選挙。日本時間の3日08:00から開票が始まり、早ければ今日の夕方には判明する予定です。前回同様僅差で訴訟合戦が繰り広げられる可能性も高いので、前回のように最終決定まで年越しも有るかも知れません。うるう年、夏のオリンピック、アメリカの大統領選挙は全部4年に一度、同じ年に有りますね。親友の一人の誕生日はうるう年の2月29日です。誕生日が4年に一度は羨ましいですね。11月3日:文化の日。昔は毎年、何処かで開催されている菊花展を見に行きました。今年はその予定無しです。
2004年11月03日
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今日の新聞に河南省でイスラム教徒と漢族との間で子供の交通事故を切欠に大きな紛争が起こりかなりの人間が死亡した記事が有りました。先日は、四川省で役人の態度を批判する大掛かりなデモが有ったそうです。どちらも表面的には、違う理由の事件ですが、どちらも最近の中国の沿海部と農村部の貧富の差の大きさに不満のある農民の怒りが、こう言う形で現れてきたのではないかと思われます。広州、上海、大連、天津、などの沿海部の経済発展は目を見張るものがあります。世界中の大手企業が工場を持ち、今や中国は世界の工場になっていますが、その安価な労働力は農村部から出稼ぎに来る農民に支えられています。沿海部と農村部の年収の差は5-10倍になるそうです。しかし、農民は都市には定住出来ないので数年で農村部に帰らなければなりません。中国では、農民の戸籍と都市に住む人の戸籍と二つの戸籍がありますが、自由に選ぶことは出来ません。農民でも都市の大学へ進むと都市の戸籍が持てるので、優秀な子供は大学受験しますが、高い授業料が払えないケースが多いとの事です。年収が数万円の農民には、どんなに優秀な子供でも大学に行けないので、一生貧しい農民として生きるより方法がありません。中国政府は現在内陸部の重点的開発を国策として行っていますが、内陸部が豊かになるには、まだ10年は掛かるでしょう。色々な問題を含んだ中国ですが、21世紀の世界経済の中心になる国であり、ますます目が離せません。
2004年11月02日
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香田さんの家族にはお悔やみ申し上げます。他に言葉が有りません。大変お気の毒でした。この事件では色んな事を考えました。この事件に対する小泉首相の最初のコメント、その後の日本政府の対応への批判が有りますが、頼りにならない日本政府には今まで何度も裏切られている訳で、はなから期待するのが間違いだと思います。独自の情報網を持たない日本政府には、アメリカにその情報を頼る以外に何もする手立てが有りません。情けない限りです。この事件に限らず、どうすれば日本が主体的に世界の国と伍していけるかは、一度民主党に政権を取らせて見るのが一番良いのかも知れません。民主党に変わったからといって、多くは期待できないとは思うけれど、盲目的なアメリカ追従、自民党を壊すと言って壊せない小泉政権はもうそろそろ限界でしょう。色々言われている香田さんに付いては、コメントのしようがありません。中近東との関わりを20年以上しているものにとっては、彼の行動は無謀以外の何者でも無いと言う意外に有りませんが、純粋の若者の気持ちも理解できない訳でも有りません。でも単なる好奇心から命を落とした訳で、本人、家族の皆様には悔やんでも悔やみきれないものが有ると思います。周りの誰かがもっと強く忠告できなかったのか、残念に思います。前にも書きましたが、アラブのイスラム教徒の過激派は、イスラエル、アメリカへの聖戦としてイラクで戦っています。彼らの恨みの深さは我々の想像を超えています。アメリカの同盟者は全て敵です。日本政府が声高に言っている、自衛隊はイラク国民の為にイラクの復興の為に派遣されている、と言うことはいくら繰り返しても彼らは誰も信じていません。12月に期限の来る、イラク派遣法の延期が無いように望んでいます。
2004年11月01日
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一番行きたかった国の一つでした。10年前に偶然仕事の話があり、そのチャンスが巡って来たので、真夏と真冬のモンゴルを二度に渡り見る事が出来ました。夏のモンゴルは緑一色、見渡す限りの草原の国です。雨は殆ど降らず毎日快晴で、その景色は何処までも続く緑の絨毯です。ゲルと言う遊牧民が移動しながら住むテントの家に一泊させてもらいました。馬にも乗りました。モンゴル人は人懐っこい性格で、日本人のルーツと言う気持ちがこちらに有るからか、直ぐに打ち解けて仲良くなれる人たちです。首都のウランバートルには定住用のアパートが出来ていましたが、このゲルに住みたい人が多く街中にテントを建てて住んでいる人が沢山居ます。それほど、ゲルは、夏涼しく、冬暖かい快適な住居です。緑は目に良いと言いますが、モンゴル人の目の良には、驚きです。数キロ離れた場所に居る自分の馬の識別が出来ます。普通の人には豆粒ほどにしか見えない自分の馬が分かります。視力は成人で5.0以上と言っていましたが、納得です。反対に、冬のモンゴルは、寒く厳しい環境です。外はマイナス10度以下ですが、ゲルの中ではストーブを一日中燃やすので、ゲルの中では快適でした。極寒の外で、体毛が凍ったままでも、立ったままで一日を過ごすモンゴルの馬の強さは印象的でした。もう一度夏のモンゴルに今度はプライベートで是非行きたいと思っています。蒙古ハンと言う赤ん坊のお尻の青いハンは、日本人とモンゴル人に有ることは誰でも知っていると思います。世界にはもう一カ国この蒙古ハンが赤ん坊に有る国(人種)があります。何処か知っていますか?驚く無かれ、ヨーロッパのハンガリーがその国です。顔も、目の色も、髪の色も東洋人とは全く違うハンガリー人も日本人と全く同じ蒙古ハンがあります。ハンガリーは、フンガリーから訛ったと言います。モンゴル人の祖先のフン族が西に渡ってハンガリーに定住し、そこの人間と混血した人たちが今のハンガリー人のルーツだそうです。一寸信じがたい事実ですが、ハンガリー人から聞きました。
2004年10月31日
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飛行機事故は確率的には交通事故よりかなり低いと言われています。それでも何回飛行機に乗っても怖いと感じます。何百回となく飛行機乗っているので、普通の人よりは事故に遭う確立はかなり高いでしょう。その事故が一番近くまで来た時の話です。テヘラン空港は、民間機と空軍の戦闘機が両方離着陸する空港です。テヘランから南のアフワズに行く国内便に乗った時です。滑走路に3台の飛行機が離陸待ち状態で、僕の乗った便は二番目にいました。離陸待ちの状態が約1時間続いたため、この3台の後に離陸予定の戦闘機が先に飛び立ちました。その後一番目の飛行機が飛び立ちました。その飛行機は西のタブリッズに行く小型のロシア製のツボルフでした。その後に僕の飛行機が飛び立ち、無事にアフィワズに到着しました。到着後に僕らの前に飛んだツボルフと先に離陸した戦闘機が空中衝突した事故を知りました。勿論乗員乗客約100名は全員死亡でした。もし、戦闘機が僕らの前に飛んだら、----、色々想像しぞっとした記憶が鮮明に残っています。それから暫くの間は、飛行機に乗るたびに何時もの数倍の緊張感を感じました。こんなに近くまで事故が来たので、もう自分の生きている間は二度と事故は近づかないと信じ、今は飛行機の怖さが少しは軽減された気がします。本当は、昼間から飲めるのお酒の影響でしょうが。
2004年10月25日
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娯楽の殆ど無いボンベイ(ムンバイ)駐在時の唯一の楽しみは、休日のゴルフでした。ゴルフ好きの日本人が毎土日の08:30に集合し一緒にプレーしたことからBombay830会と命名されもう20年以上も続いています。1990年後半に駐在していた連中が帰国後に東京を中心にメーリングリストで連絡を取り合い近況報告など始め、Bombay830東京支部が2年前に発足しました。年に数回の飲み会、年末の一泊でのゴルフ旅行と昔話に花が咲き楽しみの一つになっています。今は九州の離れ小島で関係会社の役員をしている某航空会社のI氏も何時も参加してくれます。この中で特に親しく駐在時にゴルフ、マージャンで遊んだM氏とS氏の3人で昨日は個人的に会食しました。特にM氏とは帰国後の5年間で3回も偶然に町で出くわす奇遇が続き、先日もこの広い東京の地下鉄でばったり出会い、昨日の会食になったわけです。話が盛り上がり久しぶりに笑い転げました。
2004年10月22日
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また台風接近のようですね、僅かな快晴の秋晴れの後はまた毎日雨、10日前に掛かった風邪も未だに治らず、今日は気分も今一、********************何百回と飛行機に乗っていると色んな事が有ります、ロシアに頻繁に通っていた頃の話です、当時はモスクワまでヨーロッパ行きのJAL、ANAが有りましたが、サービスの悪いJALには絶対に乗らなかったのでANAを利用していました。モスクワ経由のウイーン行きのジャンボでした。数3便有りましたが、比較的空いており、事前に予約しても何時でも予約可能でした。その日は、待合室の乗客がかなり少ないので、ひょっとすると欠航なのか?と不安に思ったくらいでした。搭乗し席に座って全ての乗客の搭乗を待っていましたが、幾ら待っても殆ど乗客は乗ってきません。周りはがらがらのまま、離陸の準備が整い動き出しました。離陸後にスチワーデス(今はキャビンアテンダントとかフライトアテンダントとか言うそうですね)に聞いたところ、その便の乗客は僅か20名ほどとの事、300人以上乗れるジャンボに僅か20名、乗員が15名ほどなので、ほぼマンツーマンのサービスです。スッチーがひっきりなしに、お酒、おつまみ、等を運んできて、話の相手にもなってくれたので、銀座の飲み屋の乗りで貴重な経験をさせてもらいました、幾ら旅行のオフシーズンとは言えこれほどの小人数の飛行機は、後にも先にもこれが初めてでした。ソ連邦が市場経済に移行し、大勢の日本人のビジネスマンの利用を見込んでスタートしたこの便は、その後週一回に減り、最終的には無くなりました。
2004年10月20日
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昨日は町内会の第30回目の記念のソフトボール大会に何年かぶりかに久しぶりに参加しました。何時もは開会式など出ずに試合の時間に集まって試合を楽しむだけでしたが、昨日は開会式から参加してみました。準備体操で懐かしい音楽が流れ、何十年ぶりでしょうかラジオ体操第一を懐かしくしました。何十年振りでも覚えているもので、最後まで間違えずに出来ました。日本国民ほぼ全員が知っていて、この音楽の伴奏で皆が同じことが出来ると言う、唯一の事ではないかと思いました。これは世界に類を見ない世界に自慢が出来ることではないかとも思います。永遠に続けて欲しいものです。(最近の子供たちが学校でしているのかはよく知りませんが)ソフトボールの方は、年甲斐も無く頑張りすぎで、足腰は筋肉痛です。多分二日後の明日は歩けないかも知れません。
2004年10月18日
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今日は取引先の年に一回のゴルフコンペに参加。スコアーは、46/40の86で今年のベストスコアーでした。ハンディキャップが高いので、参加32人の10番目。飛び賞の商品が7千円の商品券、そのほかニアピン賞、ドラコン賞、バーディー賞が3千円の図書券。仕事は最近下降線が続いていたけど、このゴルフを機に挽回したいところ。***********************インド式呼吸法の話を以前にしました。7月にセミナーに参加して、セミナー終了後に60日間続けると奇跡が起こるかもしれない、と講師に言われ、とにかく続けてみました。体の疾病が見違えるように良くなるという事が有るそうですが、これを奇跡と表現していました。僕の場合は、その頃原因不明の三半規管の疾病にかかっていたので、それが良くなるのかとの期待は有りました。その疾病が理由でインド人の友人からこの呼吸法のセミナーを教えてもらいました。9月30日が丁度60日目で、その間シンガポールでの3日間を除き57日間続けました。見違えるほどの奇跡は起こりませんでしたが、かなり良くなってきた感じはあります。またこの呼吸法は、精神を安定させ、睡眠には大変効果的であることが分かりました。寝入りが悪かったけれど、最近は直ぐに寝れるようになりました。また、熟睡するので、朝早く目が覚めます。そう言えば、心療内科に通っている人が何人か参加していました。3種類の呼吸法を毎日しますが、時間にして20-25分程です。健康法の一つとして続けたいと思っています。興味のある方は、下記URLで内容を見てください。www.artoflivingjapan.org
2004年10月15日
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ウクライナは見本市の参加でキエフに一度、ベラルーシはインドからの仕事の調査でミンスクに一度行きました。インド駐在時代に、ベラルーシのルカシェンコ大統領がムンバイのあるマハラシュトラ州政府の招きでムンバイを訪問しました。この時に州政府主催のパーティーに呼ばれ参加しました。インドは経済開放された1990年以前は、政治的にも経済的にもソ連邦との関係が深く、ベラルーシとの間でも経済的な繋がりが深かったようです。ソ連邦の崩壊、インドの対外経済開放の後、更なる経済的な繋がりを深める為の大統領の訪印でした。この時、ムンバイの我が社の事務所には、ロシア駐在が長くロシア語が堪能な駐在員が居たので、二人で、インド・ベラルーシの商売の市場調査と言う名目でインドからミンスクに出張しました。日本の商社が仲介できるような仕事は難しいと知りながら、一度ベラルーシに行ってみたい気持ちが強く、上記の名目をでっち上げて本社の許可を取り出かけた訳です。当時は両国ともまだまだ貧しい時代であったので、暗い国だなー、と言う印象だけでした。両国とも電力・エネルギーをロシアに依存している為、独立後もロシアとの関係が一番深い国です。繊維製品、医療機器、機械など、色々試しましたが、結局仕事には結びつきませんでした。両国とも日本からは旅行で行く人もあまり居ないので、日本人には殆ど知られていない国だと思います。知られているのは18年前のウクライナのチェルノブイリ原発事故の悲劇くらいでしょうか。このときの風向きがベラルイーシに向かっていた為、ベラルーシでも多くの人が被爆しました。他に有名なのは、画家のシャガールがベラルーシ生まれのロシア人。それとウクライナの英雄、棒高跳びのブブカくらいでしょうか。
2004年10月14日
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ウズベキスタンでは、忘れられない思い出があります。首都タシケントには大理石で出来た立派な国立劇場が有ります。旧ソ連邦の主要都市にはこのような国立劇場が必ずあります。この劇場は、スターリン時代に、シベリアに抑留されていた日本人のうち数千人がタシケントに連れて来られ、この日本人の手で作られたと聞かされました。建設中に寒さと重労働でこの地で200人以上の日本人が亡くなりました。この日本人が葬られたお墓が遺族の手で日本の墓石を日本から運び作られていました。この墓地に行き、お参りをしたときのことです。日本から遥か遠くのこの過酷な土地で重労働を強いられ、最後は力尽きて亡くなったことを思うと、さぞ無念で有ったであろうと思い、涙が出て止まりませんでした。日本では見ず知らずの人のお墓でこのような気持ちになる事はけしてありません。海外では、同じ日本人の辛い歴史が自分の家族の事のように感じられるのは不思議な体験でした。
2004年10月08日
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ロシア・CIS各国で日本の自動車の販促の為に展示会を開催しました。ウズベキスタンの首都であるタシケントで展示会をした所、ウズベキスタン政府(内務省)から白バイの緊急買い付けの話が持ち上がり、最終的に40台の白バイの売り込みに成功しました。この商談でウズベキスタンには2回ほど行きました。中央アジア5ヶ国の真ん中の国で、ユーラシア大陸の丁度真ん中の国でもあります。また、隣接する2カ国を通らないと海に行けないと言う世界で唯一の国でもあります。綿花の生産量が世界第二位、金が第8位、その他は目立った産業はありませが、なんといってもシルクロードの要の都市であった、サマルカンド、ブハラで有名な国です。この地域の国には、タジキスタン、トルクメスタン、などーーースタンと付く名前が多いですが、このスタンは、ペルシャ語でLANDの意味で、全てイスラム教の国です。またロシア語と共にペルシャ語が公用語です。西洋風チャーハンの事を、ピラフと言いますが、このピラフ(ウズベキではプラフと言いますが)はウズベキスタンの一番ポピュラーな郷土料理で、ピラフの語源だそうです。
2004年10月07日
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ロシア語を表現するキリール文字は、ロシア、旧ユーゴスラビアだけで使われている珍しいアルファベットです。英語のアルファベットとはまったく違い全然読めません。ロシアの何処にでもある看板に書いてあるPECTEPAHT(正確かどうかは不安ですが、大体合っていると思います)。これなんて読むか分かりますか?普通の人はペクテパーと読みますよね。これはレストランと読みます。英語と同じ文字は、A、B、E、K、M、O。CはS、IはNの逆さま、NはH、RはP、UはY、其の他訳の分からない文字多数。昔ロシアの小学校の先生が、教材で使う木で出来たロシア語の文字をイギリスに買いに行きました。沢山買って馬車で帰る途中、その馬車が転倒しました。慌てて文字を集めてアルファベット順の所定の場所に入れ直す時に場所を忘れてしまい今のキリール文字となったと言う、笑い話をロシアで聞きました。
2004年09月30日
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これは長いことNHKのモスクワ支局長をされていた小林和男さんが書かれた本の題名です。ソ連時代の著名な人物の裏話を書いた本で、その最後に出てくる話です。帝政ロシアのシンボルで有った双頭の鷲が描かれた緞帳がエルミタージュ美術館の中の地下の劇場に隠されていて、ソ連邦の崩壊後に再展示された、と言う話です。共産時代の70年間を、誰にも見つからずに歴代の館長が隠し通した訳です。エルミタージュ美術館は世界3大美術館に相応しいルーブル美術館にも引けを取らないスケールの大きな美術館です。エカテリーナ女帝の時に建てられ、その後帝政ロシア時代に集められた300万点の美術品で、展示されているのはそのほんの一部で、全部見るには毎日通って6年は掛かると言うスケールです。台湾の故宮博物館も蒋介石が中国から運んだ美術品が数百万点あり、やはり毎日展示品を変えて見ても、5-6年は掛かると言う話を思い出しました。エルミタージュとは、フランス語で’隠れ家’と言うような意味らしいのですが、何でその名が付いたのか不思議です。大きな6つの建物で出来ており、建物自体が美術品であり、隠れ家とは程遠いスケールの大きな美術館です。
2004年09月29日
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極東沿海州からシべりアにかけて広大に続く森林地帯をタイガと言います。沿海州のロシア人のお客への最大の持て成しが、このタイガの中にある別荘でのキャンプへの招待です。一度だけ招待されました。雪の深い冬でしたが、我々5人に対し、接待する方のロシア人は総勢10名以上です。4WDの車2台にトラック1台のキャラバンで料理人、賄い人全て引き連れてのキャンプでした。走ること4時間、森林の奥深くに別荘がありました。近くは鹿、シベリア虎が出る所で、夜に外でバーベキューでしたがスリルのある経験でした。沿海州に限らず普通のロシア人は大体別荘を持っています。広大な土地であり自分で家を建てれば大した費用は掛からないとの事です。夏休み、週末には家族で別荘で過ごす人が沢山居ます。年収は我々の1/5位ですが、日本人より数倍豊かな生活をしている感じです。
2004年09月27日
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ロシアの最後の皇帝ニコライ2世の話です。エカテリンブルグは、ロシアの丁度真ん中のウラル地方にある鉱工業の町ですが、一度だけ仕事で訪れました。この日本人にはあまりなじみの無い都市の名前を最近新聞テレビで2度見ました。日経新聞の最後のページに著名人の半生を紹介した’私の履履歴書’と言う連載記事があります。最近終わった元女優で参議院議員であった山口淑子さんの’私の履歴書’の最終回にエカテリンブルグが出てきました。彼女の子供の頃からの大親友のユダヤ人のエバがロシア人と結婚してエカテリンブルグに住んでおり最近40年ぶりに会ったという話でした。もう一つは、昨日のNHKのニュースでした。新たに国が認定した12人の中国残留孤児の中にエカテリングルグに住んでいるロシア名ニーナさんと言う残留孤児がロシア在住で始めて認定されたと言うニュースです。彼女は中国で生まれ、ソ連軍に壊滅させられた日本軍の子供でただ一人生き残りロシア軍によりロシアに連れて行かれロシアで育ったそうです。前置きが長くなりましたが、エカテリンブルグはロシア革命当時ニコライ2世一家が隠れ住んでいたところで、最後は一家全員が革命軍に銃殺にされた場所です。処刑された場所を訪れましたが、粗末な木で十字架が立てられていただけでした。あまりにも粗末な十字架で、最後の皇帝が共産国では当然の事ながら全否定されている現実を知り、エカテリンブルグは忘れられない都市名になりました。ニコライ2世は日本にもゆかりがあります。皇太子時代に訪日し滋賀の大津で暴漢に襲われた話は、大津事件として歴史の教科書にも出てきました。
2004年09月25日
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ロシアの国内線に乗ったときの話です。1.国内の何処に行ったのか忘れましたが、ロシアの国内線に初めて乗ったときのロシアならではの経験です。目的地に着陸し所定の場所まで移動し飛行機は止まりました。普通なら乗客が立ち上がり棚に載せた手荷物を降ろしますが、誰も立ち上がりません。おとなしく座席に座ったままです。こちらも初めての事なので、皆の動きを見ながら座っていました。10分位経ってから、コックピットが開きパイロットが出口の方に歩いていきます、その後をスチワーデスが続きます。乗客は全員拍手です。やっと事情が分かりました。旧ソ連では、パイロット、スチワーデスが権威者で乗客は彼らより地位が低かったようです。その後も何度か国内線に乗りましたが、徐々に市場経済に移行して行った時期で、、そのような光景はこれが初めで最後でした。貴重な経験でした。2.極東沿海州のハバロフスクまでモスクワから8-9時掛かります。エコノミークラスしか有りませんが、座席が小さく大男と大女のロシア人に挟まれて座ると身動きが取れません。真冬だったの皆分厚いコートを着ています。しかし座席に座っても誰もコートを脱ぎません。座席はさらに窮屈です。暫く飛んで皆がコートを脱がない理由が判りました。エアコンが正常に作動せずに機内はマイナスの温度のままです。ハバロフスクに到着するまで同じでした。ロシア人は自国の飛行機の性能を良く知っている為、初めからエアコンを信用せずにコートを着たままだった訳です。途中に出た食事はこれもまたお粗末で、茹でたハーフカットの鶏肉に塩、水を沢山の飲んで胃袋に納めました。トイレに行きたくても身動き出来ず、8時間我慢しました。昔のロシア人は想像を絶する世界で一番我慢強い民族でした。
2004年09月23日
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ロシアへの最初の出張は1991年の夏でしたが、その後の2ー3年間で12回ほど行きました。初めての出張は、東南アジア数カ国の後、バンコックからアエロフロートで入りました。夜中の12時着の飛行機でモスクワ駐在員の出迎えを断り入りました。東欧には何度も出張していたので共産国の雰囲気はわかっていましたが、モスクワのシェレメティエブ空港の雰囲気は独特の冷たい感じがあり、旅なれた身にも緊張した覚えがあります。荷物が出てくるのに3時間掛かりました。最初のロシアでの洗礼です。どうやらバンコックからの便なので麻薬のチェックをしていたようです。タクシーに乗る為に空港の銀行に行きましたが、夜中なので開いていません(西側の空港では24時間銀行は開いています)早速2回目の洗礼です。インフォメーションに綺麗なロシア美人が居たので事情を話し小額を換金してもらおうと思ったところ、朝の5時に夜勤明けになるので、私がホテルまで送りましょうと親切にも自分の車で送ってくれました。日曜日の早朝であったので、そのロシア美人に午後から市内観光もしてもらいました。ロシアは初日から超ラッキー、きっと仕事も旨くいくと鼻の下を長く伸ばして、確信しました。(笑)当時は冷戦終結直後でまだルーブル/ドルのヤミレートがあり、確か4倍くらいのレートで彼女にルーブルを交換してもらいました。冷戦時代は東欧でもこのヤミレートの倍率が大きく現地での生活費は殆ど掛からないと言う恩恵に大いに浴しました。始めてのロシアで結構沢山の経験が出来ました。
2004年09月22日
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駐在地のリビア、イラン、インドの雑感を駆け足で書きましたが、駐在地以外で一番出張回数が多がった国は、旧ソ連邦、現在のロシア及びCIS諸国(独立国家共同体)でした。訪れた国は、ロシア、ウクライナ、ベラルーシ(白ロシア)と中央アジアのウズベクスタン、カザフタンです。暫くこの4カ国の事を書いてみようと思います。ソ連邦から独立したのは、他にバルト三国、グルジア、トルクメスタン、キルギスタ、タジキスタン、アザルバイジャン、アルメニアですが、将来これらの国には行ってみたいと思っています。ロシアは、とてつもなく大きな国で、西はサンクトペテルブルグ、東はハバロスク・ウラジオストックの極東まで行きましたが、極東はモスクワから飛行機で8時間も掛かります。現在は新潟からは僅か2時間あまりで行けますが、新潟便がまだ開設される前にモスクワから行きました。何から書いていいやら迷います。少し整理してみます。
2004年09月21日
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10年ぶりのシンガポールから昨夕戻りました。予想したとおりユナイテッドの便は疲れが倍増でした。到着は23:30でホテルに付いて寝たのが2時過ぎでした。帰りは4時半起きであまり寝れず飛行機でも何故か寝付かずで、昨夜は9時前から寝てやっと疲れが取れた感じです。次回はSQにしようと思います。相変わらずごみの落ちていない綺麗な国でした。10年以上前から町を汚くするとの理由でチューインガムの輸入が禁止されていましたが、今年から解禁になるそうです。ガムを噛んでも道路に捨てない道徳心が出来たからなのでしょうか?先進国には珍しく道路の渋滞の無いのは10年前と同じでした。殆どの先進国では自国で乗用車を生産していますが、シンガポールは生産していない数少ない国の一つです。保有台数を抑える為に、輸入関税とナバーブレートとの権利が高く、10年前は、輸入価格の3-4倍、カローラで1千万円くらいしていました。現在は若干相場が下がったそうですが、それでも輸入価格の倍はするそうです。過っては在住日本人が3万人以上で世界で一番日本人の多い国でしたが、今は2万人を切るそうです。来年が建国40周年だそうです。建国の父のリー・カンユーが30年で貿易立国として世界の一流先進国に育て上げましたが、最近は近隣アジア諸国の台頭もあり、少しずつ地盤沈下の感があります。今年リー・カンユーの長男が首相に就任しましたが、IT中心にどうのように巻き返すのか興味があるところです。P.S.ホテルでの始めての経験であったので忘れないうちに書いておきます。やっと部屋に付いてシャワーが浴びれると勇んで部屋のある階でエレベーターを下り部屋を探しましたが、全ての部屋のドアに部屋番号が書いてありません。何処が自分の部屋なのか探しようがありません。何百と言うホテルに泊まりましたが、始めての経験です。狐につままれた感じでした。レセプションに下りて聞いたらドアの直ぐ下の床に番号が書いてあるとの事。そうならそうとチェックインのときに’言わんかぁー’部屋に行ったらドアの下に小さな数字で部屋番号がありました。設計者はなんてセンスの無い人かと思いました。 名前は、The Gallary Hotel ですが、誰か将来行く人がいれば気を付けてください。
2004年09月17日
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明日からシンガポールに行きますが、今回初めてHISで航空券を買いました。ユナイテッド航空で往復4万1千円、シガポール航空で5万4千円。ユナイテッドで購入しました。ユナイテッドは、夜中の24時前の到着、帰りの出発は07:30で、到着の夜は数時間の睡眠だけ、帰りも5時前に起きる必要が有るから数時間の睡眠です。一方、シンガポール航空は、15:30着で帰りが11:30発。よく考えたら安かったのかどうか疑問に思えて来ました。シンガポールに3泊しますが、ユナイテッドあれば実質の滞在は二日。シンガポール航空を使えば、着いた日の夜はゆっくり出来るし帰りもゆっくり帰ることが出来ます。仕事以外にすることが無いので、ゆっくりする必要は無いのですが、次回は値段だけでなくてもう少し考えてからフライトを決めようと思いました。
2004年09月12日
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3年前の今日の悲劇とあの信じがたい映像は誰も忘れることが出来ない出来事でした。このテロに続くアメリカのイラク攻撃とイラクの武装勢力の抵抗、さらには世界中で頻発している大規模テロ、全てはパレスチナ問題と言う同じ根っこから出発しています。1947年のイギリス主導で決められたイスラエルのパレスチナでの建国と国連の承認、ここから始まっています。国の無い国家であったイスラエルに追い出されたパレスチナを、全てのアラブ諸国が立ち上がり抵抗運動が始まりました。一神教のイスラム教は、歴史的に戦争宗教です。さらに、現世よりも来世の幸せを願うイスラム教は、聖戦での殉教により来世に幸せが来ると教え込まれています。いま、世界中に喜んで聖戦に命を捨てる若者が何万人も居ます。世界の金融を牛耳ったイスラエル、そのイスラエル系金融機関から大量の政治資金を受けているアメリカ、さらにアラブの石油資源を牛耳りたいアメリカ。勿論テロは極悪極まりない行為で、許すことが出来ませんが、アメリカ、イスラエルにより同じように悲劇を受けている沢山のアラブ人が居る事も事実です。何処に敵が居るのか分からないテロは、力では抑えられません。抑えれば抑えるほどテロが激しくなります。喜んで死ぬ人が幾らでも居るからです。この悲劇の連鎖を何処かで断ち切らないともっと大変なことになると危惧しています。この問題に原爆を経験した日本が世界で大きな役割を担うことが出来ると思います。9.11の日だけにこの問題を考えるのではなく、普段からテロ事件の事実だけでなく、その背景をもっとマスコミは伝えるべきと感じます。
2004年09月11日
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インドもそろそろ話題が出尽くした感があります。また思い出した時に書くことにします。インドの駐在が終わり帰国となりましたが、帰国便ではめったに経験できない経験をさせてもらいました。某航空会社のムンバイ所長はゴルフ仲間で仲良くしていたので、帰国便では彼の特別の計らいでコックピットに乗せてもらうことが出来ました。当時はムンバイー関空の直行便が有りました。夕方8時頃のムンバイ発で関空が翌朝6時頃の到着でした。ムンバイを離陸して夕食が終わった頃にスチアーデスが呼びに来てコックビットに案内されました。確か当時の最新の260人乗りのボーイング767だったと思いますが、コックピットは予想以上に小さく、操縦士、副操縦士のシートの後ろに予備の小さなシートがありそこに座りました。酒好きの話の合う操縦士で有ったので、親切に色々説明してくれました。操縦はもっぱら副操縦士の仕事で、操縦士は殆ど何もしていません。最近の飛行機は、離陸から着陸まで全て自動操縦で、人間の手をまったく使わなくても安全に着陸するように作られています。さすがに関空に着陸する時は、操縦桿を握っていましたが、天候が良ければ何もしないこともあるそうです。ビックリしました。地上の中継地とのやり取りは殆ど副操縦士の仕事で、副操縦士が英語で地上と頻繁に交信していました。空路地図を始めて見ましたが、この地図を見ながら、レーダーと地上の中継地から来る天気予報などを総合して、進路を決定するわけです。前後に飛んでいる他社の飛行機との交信も頻繁に行われ、前の飛行機の情報を聞きながら走行していました。高度1万メートルの世界は、本当に満点の星の世界です。地上ではけして見ることが出来ないこの星の景色だけでも感激でした。コックピットからは普通の座席の窓とは違い180度のワイドで迫ってくるので迫力が違います。関空に着陸前に日の出も見ることが出来ました、美しい日の出でした。着陸時は、操縦士、副操縦士以外の人間は全てコックピットから出なければなりませんが、どうしても着陸時の模様をコックピットから見たかったので、特別に着陸まで居させてもらいました。もしこれが外部の人に知られると航空法違反の罪に問われるので、スチアーデスにも内緒ですよと言われ、降りる時は、スッチーが降りた後に飛行機を降りました。中々話の分かる操縦士で、今度新橋で飲みましょうと言って分かれましたが、飲み会は実現していません。色々な苦労の連続のインド駐在生活でしたが、最後の帰国で素晴らしい夜の景色を満喫し、心が洗われる貴重な体験をさせてもらいハッピーエンドのインド駐在でした。
2004年09月09日
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1.日本との貿易インドから日本に輸入されている代表的なものは、綿糸、繊維製品、鉄鉱石、海産物(海老)、化学品、等です。所が、輸入金額で常に一番大きなものは、これら代表的なインド製品ではなく、なんとダイヤモンドなんです。インドはダイヤモンドの産地ではありませんが、ダイヤ以外のエメラルド、サファイヤ等の宝石は取れます。その結果宝石の加工技術は高く、また加工料が安い為に世界のダイヤの加工の基地になっているわけです。その加工されたダイヤを大量に輸入しているのが日本です。2.映画ボンベイ(ムンバイ)にはハリウッドに対抗してボリウッドと呼ばれるインド最大の映画の製作基地があります。インドの年間の映画の製作数はハリウッドの米国を凌いでその数は世界一です。日本でも数年前に’踊るマハラジャ’が放映されましたが、インドの映画は殆どが、踊りと歌のミュージカル風映画です。インドのテレビは、30チャンネルくらいありますが、その殆どが映画番組で、同じような踊りと歌の映画のオンパレードです。日本人が見てもあまり面白くないあのインド映画にインド人は熱狂します。インド人を理解するには、まずあの映画を理解することが必要なのかも知れません。
2004年09月06日
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