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NHK「映像の世紀バタフライエフェクト」を見ました。今回は《ルート66~アメリカの夢と絶望を運んだ道》です。ちょうど4月にU-NEXTで、ジョン・フォードの「怒りの葡萄」を観たばかりだったので、ルート66のことは気になってたのよね。◇番組で取り上げられた事項を、年代順に並べると以下のような感じ。1926 国道66号線(シカゴ~サンタモニカ)が創設。1928 大陸横断マラソン(LA~NY)5500km。1929 世界大恐慌で失業者1200万人=4人に1人。1933 ボニー&クライドがミズーリ州ジョプリンの隠れ家から逃走。1934 ルイジアナ州の警官隊がボニー&クライドを射殺。テキサス州ダラスで葬儀。1935 ダストボウルによる《黒い日曜日》。1936 黒人ドライバーのためのグリーンブック創刊。1939 ジョン・スタインベックの小説「怒りの葡萄」。1940 ジョン・フォードの映画「怒りの葡萄」。1940 ウディ・ガスリー「我が祖国」(This land is your land)。1941 第二次世界大戦。シリコンバレーの軍需産業が300万人の雇用を生む。1942 日系人の強制収容。カリフォルニア州マンザナー収容所に1万人。1945 終戦。1946 ネバダ州ラスベガスにカジノホテルの建設ラッシュ。1948 マクドナルドがカリフォルニア州サンバーナーディーノでセルフサービス開始。1951 ラスベガスの北西約105kmにネバダ核実験場が開設。1953 マイルス・デイヴィスがオクラホマ州エドモントで黒人排斥に遭う。1956 ナット・キング・コール「ルート66」。1956 州間高速道路網の整備が開始。1957 ジャック・ケルアックの小説「路上」。1960-64 テレビシリーズ「ルート66」。1960 ラスベガス観光客1000万人収益2億ドル。アトミックパーティと原爆カクテル。1962 ジョン・スタインベックがノーベル文学賞。1963 マクドナルドのテレビCM。1964 公民権法が成立。1965 ママス&パパス「夢のカリフォルニア」。ベトナム反戦運動。1967 黒人ドライバーのためのグリーンブック廃刊。1969 ピーター・フォンダ&デニス・ホッパーの映画「イージーライダー」。1973 米軍がベトナムから撤退。カウンターカルチャーの収束。1985 国道66号線が廃線。1987 アリゾナ州で「Historic Route66 協会」設立。2008 リーマンショック。車上生活の季節労働者ワーキャンパーが増加。2016 ドナルド・トランプが大統領選に勝利。◇大都市と大都市を結ぶ国道が整備されたら、沿線の田舎町も潤うかと思いきや、皮肉にもダストボウル難民が発生してしまう。そして、土地を追われた彼らは、出来たばかりの国道でカリフォルニアへ向かうものの、そこに十分な仕事はなく、粗末な難民キャンプで暮らすしかなかった。ちなみに、ダストボウルは、無計画な耕地開発による人災とも言われるけど、もしかしたら、それ自体が、国道整備を当てにした資本投入の結果だったのでは?とにかく、オーキーと呼ばれた人々にとって、国道整備は恩恵どころか悲劇しか生まなかった。最終的に彼らを救ったのが大戦特需だったのも皮肉です。そして、第二次大戦によってオーキーが救われる代わりに、こんどは日系人が排斥されて強制収容される。ヘンリー・フォンダはネブラスカ州出身。なお、音楽惑星さんは、ボブ・ディランが「ウディ・ガスリーの後継者」であり、スタインベックが1962年に、そしてディランが2016年にノーベル文学賞を受賞したのは、まったく無関係な出来事なのではない。http://manzara77.blog.fc2.com/blog-entry-144.html…と書いてましたが、たしかにウディ・ガスリーを起点に考えると、2人のノーベル賞受賞は関連してるように思えます。第2の国歌とも呼ばれる「This land is your land」。◇一方、戦後のルート66の享楽的なイメージは、ナット・キング・コールの歌に象徴されます。個人的にはマンハッタントランスファーでよく聴いたけど。マフィアがカジノを仕切ったラスベガスでは、ネバダの核実験を見物しながらカクテルを飲んだりしてた。◇とはいえ、戦前のボニー&クライドや、戦後のジャック・ケルアックの小説のように、自由と退廃の交錯するイメージも、ずっと尾を引いてる。サマー・オブ・ラブの実態は、ヒッピーたちのドラッグ&セックスだった。ボニー&クライドのことは、「時をかけるな恋人たち」のマギー&キケロのときに、ちょっと取り上げたけど、彼らの犯罪もルート66がらみなのね。1967年の映画「俺たちに明日はない」は、日本でいう《アメリカン・ニューシネマ》の嚆矢になる。ピーター・フォンダの「イージーライダー」も、やはり《アメリカン・ニューシネマ》の代表作。父のヘンリー・フォンダとともに、息子も映画でルート66を走るという不思議な因縁。◇マイルス・デイヴィスが、オクラホマ州のエドモントで黒人排斥に遭ったように、国道沿線には「サンダウンタウン」と呼ばれる町があり、基本的には白人保守の世界だった。黒人旅行者のためのグリーンブックが発刊されたのは、理由もなく黒人が射殺されるような状況があったから。現在は、そうした白人保守層が、リーマンショック後に貧困化するなかで、共和党のドナルド・トランプが強力に支持される現実がある。公民権法が施行されてもなお、社会の分断がなくなったわけじゃなく、むしろ亀裂はいっそう複雑化して深まってます。ルート66をゆくーアメリカの「保守」を訪ねてー(新潮新書)【電子書籍】[ 松尾理也 ]価格:660円 (2024/6/14時点) 楽天で購入
2024.06.16
NHKの「日曜美術館」は宇野亜喜良の特集でした。寺山修司の俳句を題材にして、即興のイラストを描くところから番組が始まってた。それ以外の内容は、おおむね↓以下のサイトなどにも紹介してあります。https://webtaiyo.com/pickup/18200/◇わたしがいちばん知りたかったのは、新書館の「フォアレディース」シリーズのこと。文学、アート、漫画などのジャンルを横断しつつ、少女向けのハイカルチャーを発信していて、寺山修司と宇野亜喜良はそこにかかわってました。宇野の特有の画風は、越路吹雪のポスターのデザインや、そのシリーズでの仕事をとおして確立されたといえる。◇このシリーズについて比較的くわしく紹介してるのは、↓以下のサイトです。https://cookbooks.jp/ef-3/ef-3.htmlhttps://cookbooks.jp/ef-3/ef3-1.html#sethttps://cookbooks.jp/ef-11/ef-11.htmlわたし自身も、↓由貴ちゃん絡みですこし話題にしたことがある。http://manzara77.blog.fc2.com/blog-entry-319.html宇野亜喜良は、そのシリーズの背景を知るキーパーソンなのだけど、今回の番組でも、それについての掘り下げはほとんどありませんでした。なので、わたしとしてはちょっと食い足りない…(笑)◇そもそも新書館の「フォアレディース」とは、誰がどんなコンセプトで立ち上げたシリーズだったのか?なぜ寺山修司はそこに深くかかわったのか?寺山修司は、詩人・劇作家としての面で注目されることが多いけど、じつは萩尾望都や竹宮惠子ら24年組を中心とする、文学性の高い少女漫画の潮流にも深く関わってました。にもかかわらず、そのへんの事情に注目が向けられる機会は少なすぎます。【今度の #日曜美術館 は…】不思議な魅力を放つ、笑わない少女。イラストレーター、 #宇野亞喜良。90歳。時代を超えても色あせないイラストレーションの秘密とは!?Eテレ 5月26日(日) 朝9:00https://t.co/aZHTugSoFB pic.twitter.com/eIlXZKku2i— NHK びじゅつ委員長 (@nhk_bijutsu) May 24, 2024 【#日曜美術館 SP ハッピーニューアーツ! 】<再放送>2024年に出会えるアートを豪華プレゼンターが熱く語る日曜美術館SP。#のん さんが訪れたのは高校生のときから大好きだという #宇野亞喜良 さんのアトリエです。1月7日(日) Eテレ 朝9時https://t.co/kz77o7zwTQ pic.twitter.com/afrivcxV27— NHK びじゅつ委員長 (@nhk_bijutsu) January 2, 2024https://www.operacity.jp/ag/exh273/pdf/list.pdf
2024.06.06
映画「ラ・カリファ」がついに劇場公開されるらしい。映画が無名なのに、昔からエンニオ・モリコーネの音楽だけが有名で、日本盤のサントラも何度か発売されてましたよね。映画「ラ・カリファ」の音楽は、NHK特集「ルーブル美術館」で使われて有名になった。わたしは、だいぶ前に、この映画をYouTubeで観たことがあります。もちろん原語音声で字幕もなかったけど、おおよその内容は分かりました。ロミー・シュナイダー演じる労働組合のリーダーが、企業側の工場長と禁断の男女関係になる話。いちおう社会派作品なのでしょうね。音楽は素晴らしいけれど、映画としては可もなく不可もない印象だった。日本のモリコーネ受容には、大きく3つの段階がある。1964年:セルジオ・レオーネ「荒野の用心棒」1985年:NHK特集「ルーブル美術館」1988年:ジュゼッペ・トルナトーレ「ニューシネマパラダイス」NHKの番組も含めてですが、エンニオ・モリコーネという音楽家は、いろんな意味で日本との因縁があるように思います。1.荒野の用心棒1964年の西部劇「荒野の用心棒」は、黒澤明の時代劇「用心棒」を無断でパクった作品です。(訴訟のすえに和解してリメイク扱いになってますが)つまり、黒澤明の「用心棒」の物語をそのまま借用して、イタリア人の西部劇に仕立ててしまったわけですね。本来の西部劇は、あくまで米国の開拓時代の物語だから、イタリア製の西部劇ってのは、いわば架空の「無国籍映画」なのだけど、この「荒野の用心棒」が成功したことで、イタリア製の西部劇が量産されることになった。そうして成立した無国籍映画の謎ジャンルを、淀川長治が「マカロニウェスタン」と名づけたので、日本ではその呼称が定着してます。◇エンニオ・モリコーネの出世作も、クリント・イーストウッドの出世作も、この「荒野の用心棒」だったといえます。※撮影時のイーストウッドは英語で台詞を喋り、公開時には各国の言語に吹き替えられたようです。モリコーネの音楽は、口笛とムチの音を使用した斬新な様式でしたが、楽音でなく具体音を用いるのは、いわば現代音楽的な手法だったかもしれません。モリコーネは純音楽の作曲家を志してたので、もともと映画音楽のことは軽蔑してたようですが、このときの仕事が認められて以降、有象無象のB級映画から、パゾリーニやベルトルッチなどの芸術映画まで、多くのイタリア映画で音楽を手掛けることになる。◇黒澤明の映画は、スターウォーズのようなSF映画や、手塚治虫などの漫画に影響を与えてるだけでなく、じつはマカロニウェスタンというジャンルにも関係してる。黒澤明の「用心棒」がなければ、モリコーネが映画音楽の分野に進出することもなかったし、パゾリーニやベルトルッチの音楽を手掛けることもなかった。クリント・イーストウッドが俳優として飛躍し、のちに監督として活躍することもなかったかもしれません…。2.ルーブル美術館エンニオ・モリコーネの名前は、マカロニウェスタンの音楽を手掛けた作曲家として、ある程度は日本の映画ファンに知られることになったし、1984年には、やはりセルジオ・レオーネの作品で、「Once Upon a Time in America」もヒットしましたが…それでも一般のモリコーネの認知度はまだ低かったはず。彼の名前がお茶の間でも注目されたのは、翌85年のNHK特集「ルーブル美術館」によってです。この番組でモリコーネの音楽がふんだんに使われた。◇わたしも当時、毎月の放送を欠かさず見てました。いまでも番組のオープニングは覚えてます。ルーブル宮殿の空撮映像にあわせて印象的な音楽が流れ、画面の右下に「エンニオ・モリコーネ」とテロップが出る。でも、当時のわたしは、「えん、にお、もり、こーね??」と呟くばかりで、それが何語なのか、曲名なのか人名なのか、はたまたグループ名なのかも分かりませんでした。わたしのような視聴者は日本中にいたらしく、やがて新聞記事に「NHKに問い合わせが殺到」と書かれ、番組の放送が終わった翌年には、そのTVサントラがレコードになりました。◇その音楽は、じつは番組のオリジナル楽曲ではなく、モリコーネの既存の映画音楽の寄せ集めであり、その中心になっていたのが、映画「ラ・カリファ」(La Califfa)映画「ある愛の断層」(Questa specie d'amore)…などの70年代初期の音楽だったわけです。音楽を選定していたのはNHKではなく、番組を共同制作したフランスの民放局でした。オープニングで流れていたのは、「恋の始まりと終わりに」(Prima E Dopo l'Amore)という映画「ラ・カリファ」の2分足らずの挿入曲で、番組ではわずかに再生速度を変えて使っており、サントラ盤では「永遠のモナリザ」と曲名を変えている。再生速度を変えることについては、当然ながらモリコーネが不満を示したようですが、最終的には折れたのでしょうね。結果的には日本での知名度が大きく高まり、のちに大河「武蔵」を担当することにも繋がった。ちなみに、NHKの番組テーマになった挿入曲も素晴らしいけれど、海外で有名なのは映画のタイトル曲「La Califfa」のほうで、その優美なメロディには歌詞もつけられ、サラ・ブライトマンなど多くの歌手がカバーしてます。ちなみに、NHKのドキュメンタリーシリーズは、それまでにも「シルクロード」で喜多郎を発掘してたし、その後も「大黄河」では宗次郎の音楽に、90年代には「映像の20世紀」で加古隆の音楽に光を当てます。ある意味では、モリコーネの音楽も、NHKのドキュメンタリーシリーズで認知を広めたといえる。3.ニューシネマパラダイスそしてNHK特集「ルーブル美術館」から3年後に、映画「ニューシネマパラダイス」が公開されて大ヒット。そのテーマ曲が泣く子も黙るモリコーネの代表曲になった。でも、あの映画音楽は、モリコーネにしては、だいぶ甘くて分かりやすいと思う。本来のモリコーネの音楽は、けっして万人受けするような作風のものではなく、どちらかというとビターで渋い音楽です。わたしが思うに、彼がオスカーを逃しつづけた理由もそこにある。実際、1988年の米アカデミー賞において、モリコーネの「アンタッチャブル」の音楽は、坂本龍一の「ラストエンペラー」の音楽に敗北しました。本来なら、ベルトルッチの「ラストエンペラー」の音楽も、モリコーネが担当していたはずですが、かりにそうだったとしても、やはりモリコーネはオスカーを逃したと思います。なぜなら、モリコーネの音楽は、坂本龍一のようなキャッチーさに欠けるからです。モリコーネはオスカー受賞を望んでたらしいけど、その機会は若い日本人にあっさり奪われてしまった。しかも、よりによって、ずっとコンビを組んでいたベルトルッチの映画で!かたや「ニューシネマパラダイス」の音楽については、あまりにモリコーネらしからぬ作風のために、「じつは息子が書いたんじゃないか?」…という、まことしやかな噂さえあります。もしかしたら、みずからの作風をねじ曲げて、俗受けしそうな映画のために、俗受けしそうな音楽を書いたのかもしれませんが。【中古】ラ・カリファ 楽天で購入 ラ・カリファモリコーネの甘美なメロディが心に沁みる─。伝説の女優ロミー・シュナイダーが許されぬ恋におちる女性を演じた社会派メロドラマが、待望の日本初公開!本作のテーマ曲は、数あるモリコーネのスコアの中で人気の高い曲♪👏劇場情報↓https://t.co/npcyrT5O0U pic.twitter.com/CXvh5ylp2Z— エンニオ・モリコーネ特選上映 (@morricone_ss2) April 18, 2024
2024.04.20
↓2ヶ月前の記事にも書いたとおり、https://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/202402280000/U-NEXTの1ヶ月見放題カードを、誤まって2枚も買ってしまったので、「せっかくだから元を取らねばっ」と、2ヶ月で映画30本観るつもりで意気込んだものの…1ヶ月以上経っても4~5本しか観れず…その後、春ドラマが終わったタイミングの、残り半月でスパートをかけるつもりが、体調を崩して映画どころではなくなってしまい…ようやく最後の1週間でラストスパートをかけ、なんとか期限までに以下の11本を観ました。大林宣彦「時をかける少女」沖田修一「子供はわかってあげない」相米慎二「魚影の群れ」ジャン・コクトー「双頭の鷲」ジョン・フォード「怒りの葡萄」ウォシャウスキー兄弟「マトリックス」濱口竜介「ドライブ・マイ・カー」ジャック・ドゥミ「シェルブールの雨傘」川島雄三「女は二度生まれる」ロバート・スティーヴンソン「ジェーン・エア」周防正行「舞妓はレディ」何事もギリギリに追い込まれなければつくづく物事ができない人間なんだなと、われながら痛感しました(逆に、追い込まれると出来てしまうのが不思議なんだけど)まあ、映画以外にも、「峰不二子という女」などのアニメ数本と、TVerで見逃したドラマやバラエティ、読み放題の雑誌なども見ることができたので、なんとか元は取れたかな、と思う。いろんな映画をつまみ食いしてたので、最初のほうだけをチラッと観たまま、中途半端にしてしまった映画もかなりある。◇夏ドラマか秋ドラマが終わったぐらいのタイミングで、またこのサービスを利用してもいいかなとは思うけど、1200ポイントの使い方がちょっと難しいのよね。端数を余らせるのももったいないし、ポイントの利用期限が異様に短い(チャージから90日間)のも難点です。
2024.04.14
東日本大震災から13周年の祈念日に、『ゴジラ-1.0』がオスカーを獲得し、受賞後の山崎貴は、「オッペンハイマーへのアンサーを作らなければ」と発言しました。◇国際的な評価とは裏腹に、国内の怪獣ヲタクの多くは、今回の作品にネガティブな反応を示していたし、ネトウヨやミリタリーヲタクも、ゴジラが社会派作品であることを望まないので、次回のゴジラ映画は、きっと、いつものように、怪獣が暴れまわるだけの痛快なエンタメに揺り戻す…とも予測してたわけですが、意外なことに、山崎貴は、あくまで「社会派路線」を強めるのかもしれません。◇実際のところ、海外市場のいっそうの拡大を目指すなら、国内のヲタク層の嗜好なんぞに合わせるべきではない。ちなみに、国内の怪獣ヲタクが、『ゴジラ-1.0』を正当に評価しなかったように、国内のアニメヲタクも、宮崎駿の新作をまともには評価しませんでした。結局のところ、国内のヲタク層というのは、怪獣やロボットや美少女への「萌え」を追求するだけで、作品のテーマ性には関心がなく、理解力もないのです。もちろん、怪獣映画やアニメ映画にとって、怪獣やロボットや美少女への「萌え」は必要条件だけれど、たんにそれだけでは、海外市場に訴求するための十分条件にはなりえません。怪獣映画であれ、アニメ映画であれ、国際的な評価を獲得するためには、いっそうのテーマ性の追求こそが不可欠だし、そのためには社会派作品であることを畏れるべきではない。◇今回の米アカデミー賞では、『ゴジラ-1.0』や『君たちはどう生きるか』だけでなく、作品賞の『オッペンハイマー』にせよ、国際長編映画賞の『関心領域』にせよ、短編アニメ賞の『War is Over!』にせよ、戦争をテーマにした作品が高く評価されました。なお、短編アニメ『War is Over!』を作ったのは、ジョンとヨーコの息子のショーンですが、もともとジョン・レノンが反戦運動に身を投じたのも、被爆国出身のオノ・ヨーコの影響だったのは疑いないし、ショーン・レノンも当然ながらその志を継いでいる。◇一方、わたし自身もふくめた国内のリベラル層は、山崎貴のことを、「百田尚樹の小説なんぞを映画化した男」として、やや警戒もしてるわけですが、もともとの話をすれば、本多猪四郎や円谷英二の場合も、けっしてリベラルな人間だったわけではなく、どちらかといえば保守的だったと思います。むしろ、保守的な日本人だからこそ、反米的な意志をもってゴジラを作ったのだ…とも言える。現代のネトウヨみたいに、広島や長崎の原爆被害をも過小評価して、反核運動を抑圧しようとする新米右翼は、もはや「日本人ですらない」と言うべきですが、ほんとうの保守思想をもつならば、日本人が被った悲惨な原爆被害について、「アメリカ人に正面から思い知らせるべきだ」…と考えるのが普通だろうと思います。◇もちろん、アメリカの一般の観客や評論家たちが、それを真面目に受け止めるかどうかは別問題です。しかし、ゴジラ映画のなかで、「原爆症」などの被害を表現する場合に、かならずしも米国を加害者として描く必要はないし、物語の舞台を広島や長崎に設定する必要もないとは思う。たとえば、ひとつの手法として、福島の原発事故をモデルにしながら、そこで「原爆症」と同様の被害を表現することも、テクニックとしてなら十分に可能だろうし、それどころか、ゴジラが、「原爆」のみならず「原発」の問題に向き合うのは、ある意味での必然じゃないかとすら感じます。それは、とりもなおさず、ゴジラが「東北」に向き合うということでもある。◇本多猪四郎や円谷英二は東北の人間でした。とくに円谷英二はフクシマ出身です。ゴジラ誕生から70年目のオスカー受賞が、よりによって「3.11」だったのは偶然ではないかもしれない。福島第一原発が立地する双葉町は、フタバスズキリュウなどの恐竜の化石の宝庫であり、そこもまた広島や長崎と同様の「被爆地」なのです。◇これは、一義的には東宝の責任でしょうが、今回のような世界的な栄誉をめぐっても、ゴジラの生みの親である本多猪四郎や、視覚効果技術の原点である円谷英二へのリスペクトは、まったく足りてないんじゃないかと思います。本多や円谷の地元の東北で、今回の快挙がどう受け止められてるのかも、メディアの報道からはまったく聞こえてこない。東宝は、ライセンスなどの面でもそうですが、内容の面においても、円谷英二や本多猪四郎の業績に対して、もっと真摯な形で向き合うべきです。◇山崎貴が、どのような構想をもって、「オッペンハイマーへのアンサーを作る」と言ってるのか分かりませんが、わたしは、ゴジラの次回作が、東京でもなければ、広島や長崎でもなく、東北に結びつく形で作られる可能性もあると思う。▶ 山崎貴『ゴジラ-1.0』と関川秀雄『きけ、わだつみの声』の関係。『ゴジラー1.0』Blu-ray 豪華版 3枚組【Blu-ray】 [ 神木隆之介 ] 楽天で購入
2024.03.12
日本アカデミー賞の授賞式を見ました。およそ20年前、井筒和幸の「パッチギ」をおさえて、山崎貴の「三丁目の夕日」が12部門総ナメにしたときは、さすがに出来レース感がバリバリだったので、思わず不満たらたらの記事を書いたものですが↓https://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/200603030000/去年は、わたしも「ゴジラ-1.0」の出来にかなり満足したし、今回の日本アカデミー賞は、ノミネートされた作品のラインナップを見るかぎり、どれが受賞してもおかしくないほど豊作だったので、授賞式を見ていても楽しかった。濱口竜介の「ドライブマイカー」が、海外のみならず国内の賞でも評価されたあたりから、全体的に映画界の意欲が高まってる気はする。◇去年は、坂元裕二の「怪物」の脚本がカンヌで評価され、ゴジラと宮崎駿のアニメも海外でヒットし、ヴェンダースの作品もオスカーにノミネートされ、かつてないほど日本映画が国際的に注目されました。関東大震災100年目に作られた「福田村事件」も、クラファン予算の自主映画ながら話題になりました。できることなら、山田洋次じゃなく宮崎駿の作品を、アニメ枠ではなく一般の作品賞枠でノミネートしてたら、賞予想はもっとヒートアップしただろうに!と悔やまれる。◇なお、主演女優賞はともかくとして、助演女優賞は安藤サクラじゃなくてもよかったよね。逆にいうと、作品賞の枠が豊作だったわりに、助演女優賞の枠は不作だったのかもしれませんが…。◇それから、坂元裕二が脚本賞にノミネートされなかったのは何故?もしかしたら、ノミネートしなかったのではなく、本人が拒否した可能性もあるかしら?日テレとなんらかの距離を取ってる気もしなくはない。でも、いちおう一昨年には「初恋の悪魔」を書いてるんだし、べつに日テレと関係が悪化してるわけでもないと思うけど。ちょっとそこは不可解でした。『怪物』 豪華版【Blu-ray】 [ 安藤サクラ ] 楽天で購入 初恋の悪魔 Blu-ray BOX【Blu-ray】 [ 林遣都 ] 楽天で購入 anone【Blu-ray】 [ 広瀬すず ] 楽天で購入
2024.03.09
NHKの100分de名著「シャーロック・ホームズSP」を見ました。わたしのお目当ては、1887年の「緋色の研究」(A Study in Scarlet)です。ホームズシリーズの第1作だけど、以前から、このタイトルの意味を知りたかったのよね。でも、残念ながら、それについての言及はなかった。◇フリッツ・ラングが、ジャン・ルノワールの映画「牝犬」をリメイクしたとき、かなり"イヤミス"っぽいフィルムノワールにアレンジして、タイトルも「緋色の街」(Scarlet Street)と改めたのだけど、 おそらく欧米では「スカーレット=緋色」というのが、ゴシックロマンス世界を象徴する共通イメージなのだと思う。そして、その元ネタは、たぶん米国のナサニエル・ホーソーンが書いた、1850年の「緋文字」(The Scarlet Letter)じゃないのかしら?…ってなことを、以前、シネマレビューのほうに書いたんだけど、https://www.jtnews.jp/cgi-bin/review.cgi?SELECT=24063&TITLE_NO=15518#HITそれと同じことが、ホームズの第1作にもいえる気がする。◇スカーレット=緋色というのは、ナサニエル・ホーソーンの小説では、ピューリタンの社会が、姦通した女性の服に、その罪を刻印した際の「A」(=adulteress)の文字色です。かたやコナン・ドイルのホームズ第1作では、恋人を一夫多妻制だった初期モルモン教会に奪われた男が、血で壁に「RACHE 」(=復讐)と書いたときの色です。この小説の原題「A Study in Scarlet」は、日本では「緋色の研究」と訳されてきたけど、英語の「study」は仏語の「étude」と同義であり、絵画なら「習作」、音楽なら「練習曲」と訳す言葉なので、邦題を「緋のエチュード」としている訳もあります。コナン・ドイルとホームズにとっては、謎解きの対象となった米国のゴシックサスペンス事件が、いわば「緋色のエチュード」だったのかもしれません。◇そしてフリッツ・ラングの映画では、通りの名前が「Scarlet Street」なのです。原作の「牝犬(La Chienne)」は、パリのモンマルトルを舞台にしてますが、フリッツ・ラングの映画では、それをNYのグリニッジ・ヴィレッジに移してる。モノクロ映画だから分からないけど、グリニッジ・ヴィレッジは赤煉瓦の町だから、それにちなんで「Scarlet Street」としたのでしょう。(実際にそういう呼称があるかどうかは不明)◇思えば、マーガレット・ミッチェルの「風と共に去りぬ」が、ヒロインの名前をスカーレット(Scarlett O'Hara)にしたのも、南部ゴシック的な世界観を暗示してのことかもしれない。ちなみに、ナサニエル・ホーソーンの「緋文字」は、17世紀の北東部ニューイングランドの物語ですが、コナン・ドイルの「緋色の研究」は、19世紀、南北戦争前の西部ユタ州の物語で、マーガレット・ミッチェルの「風と共に去りぬ」は、19世紀、南北戦争下の南部ジョージア州の物語、…ってことになるかと思います。◇余談ですが、現在の日本では、あまり「緋色」という言葉を使いません。もともとは「火色」が転じたものらしく、すこし黄味がかった赤のことなのだけど、一見しただけでは、たんなる「赤」としか思えないし、せいぜいのところ「濃い橙色」とか、あるいは「赤味の濃いオレンジ」って感じです。そして、紛らわしいのはバイオレットとの区別なのよね。バイオレットは青紫/菫色のことだから、本来はスカーレットとまったく違うのだけど、日本では、桑名正博の「セクシャルバイオレットNo.1」のせいで、セックス&バイオレンスからの語感的な連想があり、バイオレットのほうがどぎつい色と思われがちだし、かなり"赤寄り"に誤解されてる感じもある。松本隆の書いた歌詞は、《情熱の朱/哀愁の青》《ときめきの赤/吐息の青》と、赤と青の混じった色と言ってるだけですが、ジャケットデザインはあきらかに"赤寄り"の紫です。欧米人がスカーレットに託す暴力的なイメージは、日本人がバイオレットに抱くイメージに近い気がする。ちなみに、桑名正博の曲のタイトルは松本隆の発案ではなく、CMソングを依頼したカネボウ側の提案だったらしい。追記:▽こんな考察記事がありました!https://itukami.lampmate.jp/study-of-scarletコナン・ドイルの「緋色 /Scarlet」の由来として、ギリシャ神話由来、聖書由来などの説が紹介してあります。へええ~。▽こちらの論文によると、https://www.jiu.ac.jp/files/user/education/books/pdf/841-73.pdfもともと日本の「緋色」には、明るい赤(スカーレット)&暗い赤(茜色や赤紫)の2系統があり、フランス語の「pourpre」の訳語にもなってるらしい。へええ~。
2024.01.24
もともとミクロス・ローザは好きだったけど、最近はYouTubeやサブスクでたくさん聴けるようになり、あらためてその魅力を認識しなおしてる。なぜか日本のWikipediaやクラシック系サイトでは、ハンガリー風の表記で「ロージャ・ミクローシュ」となってますね。◇一般的には「ベン・ハー」の音楽が有名ですが、わたしがとくに好きなのは、ヒッチコックの「白い恐怖」、フリッツ・ラングの「ムーンフリート」、ダグラス・サークの「愛する時と死する時」の音楽です。Alfred Hitchcock/Spellbound (冒頭がテルミンではじまる) Fritz Lang/Moonfleet Douglas Sirk/A Time to Love and a Time to Die 好きになった最初のきっかけは、30年くらい前に映画館で観た「ムーンフリート」。シネマスコープによる冒険絵巻でした。物語はよく覚えてないけど、ミクロス・ローザの血湧き肉躍る音楽が、ゴシックロマン的な冒険譚を否応なく盛り立てていた。◇ラフマニノフやレスピーギあたりと同じく、「遅れてきたロマン派」とも「擬古典主義」とも言えるけど、本家のロマン派より、もっとロマン主義的なのよね。まさに大迫力のスペクタクルにふさわしい作風。場面の転換にともなって、分裂症的に目まぐるしく変わっていく曲想にも、物語的なロマンティシズムを掻き立てられる。口ずさめるようなキャッチーなメロディも豊かで、ジェリー・ゴールドスミスやジョン・ウィリアムスが、ミクロス・ローザの弟子だってのも合点がいく。もともとはユダヤ系のハンガリー人ですが、土俗的な響きを大胆に打ち鳴らすところとか、そこはかとなく東欧的なエキゾチズムも感じられる。どこかしら日本の伊福部昭を思わせる面があるかも。◇わたしはコダーイやバルトークも好きだけど、同じハンガリー出身の作曲家として、彼らに並べるべき存在じゃないかと感じます。実際、映画音楽以外にも、バイオリン協奏曲などの純音楽を残してる。映画音楽にくらべれば、純音楽のほうが近代的かもしれません。ちなみにハンガリーでは、日本と同じようにファミリーネームが先に来るのだけど、Wikipediaなどの表記が、ハンガリー風に「ロージャ・ミクローシュ」と書くのは、米国ではなく、ハンガリーの作曲家と見なすがゆえ?それって、もしかして、「ヘンデルは英国人じゃなくドイツ人だ!」みたいなのと同じ理屈でしょうか??たしかに純音楽のほうでは、「Hungarian Serenade, Op. 25」(1945)のような作品もあったりするので、ハンガリーの作曲家と見なすのは妥当ともいえる。かたや英語のWikipediaのほうは、あくまで英語風に「Miklós Rózsa」の表記になってるのよね。◇その英語のWikipediaによると…母親はフランツ・リストの孫弟子にあたるピアニスト。やはり当初はブダペスト北部の民謡を収集したりして、コダーイやバルトークの後継者たろうとしてたようだけど、まもなく個人主義を抑圧する民族主義の危うさに気づき、一転してドイツ音楽のほうへ傾倒し、19才でライプツィヒ音楽院に入って作曲を学び、バッハゆかりの聖トーマス教会では合唱音楽を学んでる。しかし、純音楽の作曲家としては生計を立てられず、フランスで映画音楽を手掛けてた友人のオネゲルにならい、同じハンガリー出身の映画制作者アレクサンダー・コルダのために、ロンドンやハリウッドの映画界で作曲に従事する。ワーグナー風のライトモチーフをもちこむなどして、第二次大戦中の米国映画界で高い評価と成功を収め、戦後まもなく米国籍を取得し、後半生は米国で過ごしたようです。アカデミー賞には11度ノミネート。そして3度受賞。◇そこから考えると、祖国ハンガリーを捨ててドイツに学び、米国で生きることを選んだように見える。(ユダヤ人だったことも関係してるかもしれないけど)…とはいえ、音楽そのものは、やはりドイツ的とも米国的とも言い切れない何かがあって、そこはかとなく《ハンガリーっぽさ》を感じるのよね。ハンガリーのマジャール人の祖先は、コーカソイドじゃなくモンゴロイドだったらしく、ファミリーネームが先に来ることからも分かるように、言語的にもインド・ヨーロッパ語族とは別系統。ヨーロッパでは例外的なほどアジア・ユーラシア的で、かなり特殊な民族なのだといえます。ミクロス・ローザの音楽からも、しばしばアジア風の旋律が聞こえてくることがある。◇コダーイやバルトークは、いわば「近代の国民楽派」だと思いますが、チェコのヤナーチェクやマルティヌーも、米国のガーシュウィンやコープランドも、アルゼンチンのヒナステラも、ブラジルのヴィラ=ロボスも、同じように位置づけることが出来るし、わたしの好みも、そこらへんに集中している。そして個人的には、ミクロス・ローザもそこへ並べたい気がしてます。
2024.01.23
NHKスペシャル「世界に響く歌 ~日韓POPS新時代」を見ました。1980年代の台湾ニューシネマ(侯孝賢や楊徳昌)もそうですが、2000年代以降の韓ドラやK-POP(冬ソナやBTS)も、国家的な文化事業が成功した結果だったのね…。かたや日本の場合、今回のYOASOBIの「アイドル」がアニソンだったことを考えると、日本の文化政策が基幹産業に位置づけるべきなのは、映画や音楽ではなく、やっぱりアニメなのかなあ…と思う。◇ひとたび海外でアニメ作品がヒットすれば、それにともなってアニソンや劇伴音楽も輸出できるし、さらには実写映画化、演劇化、ゲーム・玩具化、あるいは出版・ノベライズ化などによって、周辺産業にまで海外展開の可能性がひろがるし、もちろんライセンスの使用権を輸出することもできる。アニメに登場するシーンが、海外からの観光客の「聖地巡礼」を促すことも、ファッションや食品の輸出増につながることもある。ジブリパークのような施設さえ輸出できるかもしれない。◇国家的な文化政策としては、助成制度、受賞制度、教育制度などを整備する、…みたいな方法もありますが、たとえば、ブラック労働を強いられてる末端のアニメーターを、経済的な面から支援していくだけでも、産業全体の底上げになるんじゃないかと思います。ソニーや東宝のような国際企業を通じて、海外の市場調査・マーケティングをしていくのも重要になる。◇…さて、ここからは昨年末の紅白についての話です。ジャニーズを排除したぶんK-POP勢が増えて、いろいろと賛否両論もあるのだけど、わたし自身は、なんだかんだで、やっぱりK-POPのパフォーマンスの実力を見せつけられ、日本のアイドルとの差を痛感させられた感じ。◇文化の違いといえばそれまでだけど、K-POPのグループには、音楽とダンスを一体的な作品として見せる発想があって、わたしみたいに個々のメンバーに興味のない人間でも、そのパフォーマンスの魅力は十分に伝わってくる。わたしは、K-POP勢にアイドル的な興味はもってないし、そもそもメンバーの名前もまったく知らないけど、それでもBTSやTWICEのパフォーマンスには魅了されます。今回の紅白でも、SEVENTEENやNewJeansのパフォーマンスに惹きつけられた。◇ダンスの技術にかんしては、日本人と韓国人の筋力の差ってのもあるだろうけど、それ以上に重要なのは、やっぱり振り付けやプロデュースの方法じゃないかな。SEVENTEENなどは、「自分たちで振り付けをした」と言ってましたが、音楽とダンスの相乗性が高くて、テレビの生パフォーマンスでも映えるように、視覚的な効果がよく考え抜かれている。YOASOBIの「アイドル」のときにも、日韓のアイドルが代わる代わる踊ってたけど、やっぱり日本勢より韓国勢のダンスのほうが映えます。日本勢で対抗できるのはPerfumeぐらいじゃないかしら?◇日本のアイドルグループの場合は、個々のメンバーをアピールすることが主目的で、ダンスはそのための手段でしかないように見える。旧ジャニーズやAKBのパフォーマンスを見てても、ダンスそのものの魅力を感じることはほとんどない。個々のメンバーに興味がなければ、パフォーマンスそのものはちっとも魅力的に思えない。これは子供の学芸会と同じことで、親たちは大喜びしてるけれど、無関係な第三者から見たら、ただの取るに足らないお遊戯でしかないってこと。この点が世界市場にアピールするか否かを分けていると思う。◇もちろん、今後も日本のアイドルグループが、国内のガラパゴス的な市場だけで活動していくのなら、それもまたひとつの文化だとは思うけど、NHKの紅白歌合戦が、そういうガラパゴス的な文化を披露する場なのか、それともボーダレスな文化に開いていくべきなのか、そこは判断の分かれていく部分になる。おそらく、ボーダレス化を拒否して、あくまでガラパゴス的な文化の存続を望むのは、おもに40代以上の世代だろうと思うけど、コンテンツの未来を考える上では、そういう層は無視すべきじゃないかって気もする。◇先日、ネットニュースを見てたら、AppBrew「今なりたい顔」ランキングってのがあって、↓どれだけ信用できる調査かは知らないけど、https://news.mynavi.jp/article/20231220-2844783/どうやら日本の10代・20代の女子は、みんな「韓国アイドルみたいな顔になりたい!」と思ってるらしい。あまりの隔世の感に驚いてしまいましたが、若い世代はあきらかにボーダレス化のほうに向かっていて、日本のガラパゴス化なんてぜんぜん望んでないのでしょう。◇来年の紅白には、旧ジャニーズ勢もすこし戻ってくるだろうけど、ふたたびガラパゴス的なイベントへ逆戻りするのなら、紅白という番組自体を存続させる意義も薄いかなと感じます。
2024.01.17
朝ドラ「ブギウギ」欠かさず見てます。趣里は、美人というわけじゃないし、とくに歌唱力に長けてるわけでもないけど、さすがにランちゃんと水谷豊の血を引いてて、物語を引っ張るだけの説得力を感じるし、不思議と惹きつけられる魅力がありますね。東京出身なのに、大阪人っぽいド根性もよく出てます。恋愛展開になってからは、ほのかに色気も漂ってる。ドラマの内容も申し分ないです。途中で脚本家の交代もあったらしいけど、とくに大きな違和感もなく展開してます。◇わたしはもともと、笠置シヅ子の歌が好きだったので、ベスト盤などはよく聴いてましたが、生い立ちなどについては、今回のドラマを見てはじめて知ったことが多い。服部良一とか、吉本興業の息子とかは、てっきり大阪で出会ったと思ってましたが、そうじゃなかったんですね。まあ、大阪人脈みたいなものが、東京の芸能界にもあったのでしょうが。◇わたしが以前から好きだった曲は、「東京ブギウギ」とか「買い物ブギ」とかじゃなく、まさに今回のドラマで取り上げられた曲。すなわち「ラッパと娘」「アイレ可愛や」でした。この2曲は、楽しいというより、不穏なほど過激なエネルギーに満ちてて、それこそが魅力だったのです。どこかしら戦争の雰囲気も感じていた。今回のドラマを見て、それらが、ごく初期の曲だったことを知った。スキャットだらけの「ラッパと娘」の歌詞を、服部良一みずからが書いてたのも知らなかった。…最初のヒットソングの「ラッパと娘」は、笠置シヅ子の曲のなかで、いちばん過激に感じる。わずか3分ほどの曲ですが、その後の歌謡曲の様式には全然収まってなくて、とくに後半の展開は異常なくらいに凄まじい。スウィングジャズというより、むしろモダンジャズみたいにラリった感じがあり、笠置シヅ子の日本語の発音も暴力的かつ不埒で、人心を惑わすような力を感じさせるヤバい曲です。国の検閲を受けても無理ないと思うほど、いかがわしくてクレイジーな音楽。初期の曲のほうが、戦後の作品以上に過激です。戦前のモダニズムの極致だったかもしれない。◇ちなみに、トミー・ドーシーの「ブギ・ウギ」が、米国でヒットしたのは1938年のこと。笠置シヅ子の「ラッパと娘」はその翌年です。服部良一によるブギウギの受容は驚くほど早かった。追記:「ラッパと娘」は4ビートのスイングなので、8ビートのブギウギではないそうです…。米国では、40年代にブギウギブームがあり、50年代にロックンロールが誕生しましたが、日本でも、40年代に笠置シヅ子がブギウギを歌い、50年代にロカビリーブームが起こってる。つまり、米国と日本のタイムラグは、ほとんど無いに等しい。そこから考えても、「日本のロックははっぴいえんどから始まった」なんてエセ神話は、ちゃんちゃらおかしいのです。もちろん、加藤和彦も細野晴臣も、そのことをよく分かってたからこそ、服部良一をリスペクトしたのでしょうが。分かってないのは本人たちじゃなく安易なフォロワーってこと。◇当時、映画評論家の双葉十三郎が、笠置シヅ子のパフォーマンスを絶賛してたらしい。しかも、それはまだ「ラッパと娘」が発表される前。帝劇でSGDの「カレッジ・スヰング」を観たらしく、"マーサ・レイやアリス・フェイをも凌ぐ!"と言って、エラ・フィッツジェラルドのような黒人のスウィング感が、日本人にも可能かもしれない…と希望を述べてます。いうならば、米国の白人より、笠置シヅ子のほうが黒人のフィーリングに近いってこと。https://fujinkoron.jp/articles/-/10212?page=3Martha Raye "You'll Have to Swing It" Rhythm on the Range 1936Martha Raye "What a Rumba Does to Romance" College Swing 1938Alice Faye "Alexander's Ragtime Band" 1938◇さて、ドラマのほうの内容ですが…すでに宝塚の小林一三らしき人物も登場して、前作「らんまん」と重なる部分もありました。さらに、3年前の「エール」に描かれた、古関裕而の戦時歌謡の話なども出てきました。年下の恋人が出てきてからは、6年前の「わろてんか」にも重なる内容になってる。要は「宝塚・松竹・吉本」という、関西で生まれた戦前の三大興行すべてが絡んでるのよね。笠置シヅ子は、宝塚に落ちて、松竹に所属し、服部良一に見出され、吉本の御曹司と恋愛した。まさに近代の関西大衆芸能を体現したスターなのです。◇わたしは、あまり「わろてんか」をちゃんと見てなかったけど、人物の対応関係はたぶん次のようになるはず。北村てん(葵わかな)=村山トミ(小雪)※モデルは吉本せい。伊能栞(高橋一生)=坂口(黒田有)※モデルは林弘高。北村隼也(成田凌)=村山愛助(水上恒司)※モデルは吉本頴右。加納つばき(水上京香)=福来スズ子(趣里)※モデルは笠置シヅ子。なお、今回の「ブギウギ」はわりと史実に忠実ですが、吉本せいをモデルにした「わろてんか」は、かなり史実をアレンジしてたようで、実在の人物とはだいぶ違っていたみたいです。「わろてんか」隼也の悲恋のモチーフか。笠置シヅ子の名曲「東京ブギウギ」は恋人との別れから生まれた https://t.co/DWcwsMhm6O @Excite_Review pic.twitter.com/TaV1kbK556— エキサイトニュース (@ExciteJapan) March 4, 2018 【コラム】水上京香、『わろてんか』3人目のヒロインへ 成田凌との恋路に注目!#わろてんか #水上京香 #成田凌 https://t.co/bfQ9MHNzQq pic.twitter.com/caWQu23xCB— リアルサウンド映画部 (@realsound_m) February 18, 2018 【コラム】成田凌は松坂桃李と同じ道を選ぶ? 『わろてんか』隼也とつばき、切ない“最後”#わろてんか #成田凌 #松坂桃李 https://t.co/WXBAROi125 pic.twitter.com/mnTZBa6zhC— リアルサウンド映画部 (@realsound_m) February 24, 2018 村山興業東京支社長の坂口。モデルは林弘高と考えられる。吉本興業の吉本せいの実弟で、兄はのちの吉本興業社長の林正之助がいた。せいの息子・頴右が上京し早稲田大学に通っているあいだ、弘高が面倒を見ていた。お目付け役であったともいえる。#わろてんか には出てこなかった。#ブギウギ— 酒上小琴【サケノウエノコゴト】 (@raizou5th) December 13, 2023 「当時見ていた人は知ってる」大事にしていた息子以外の設定の共通点はないので比べる意味がない。「愛した歌手」もいない。なお、 #わろてんか ラストは1946年春なので #ブギウギ 愛助モデルの人の最期1947年よりも前に終る https://t.co/g6MzaBn5AW— 松井一郎 (@ichiromatsui) December 25, 2023◇今回のドラマは、主人公が早い段階で社会的な成功を手にして、すでに淡谷のり子にも匹敵するスターになっています。なので、物語は、世間的にも知られた話になってる。笠置シヅ子は、戦後に頂点へ昇りつめますが、その後は美空ひばりが登場することもあって、あっという間に斜陽になるはずですね。そう考えると、どのあたりの時期が、物語の落としどころになるのかも気になります。
2023.12.27
Norah Jones Is Playing Along with Rufus Wainwrightノラ・ジョーンズのポッドキャスト・シリーズ。今回のお相手はルーファス・ウェインライト。とても素敵な共演でした。合間にはすこし政治的な話もしていたようです。◇一般に、ノラの音楽はジャズで、ルーファスの音楽はオルタナロックに分類されるだろうけど、2人とも根っこにあるのはカントリー/アメリカンフォークなのね。だから、音楽性がとても近いんだなと思った。ルーファスは現在50才。ノラが44才。デビューしたのもルーファスが3年ぐらい先ですが、ともに00年代を代表する存在だったと言っていいでしょう。ノラは、ビリー・ジョーと共作した2013年の『Foreverly』で、エヴァリー・ブラザースを取り上げたりしてますが、ルーファスも、今年の『Folkocracy』で、アイルランド、ドイツ、ハワイ、カナダなどへ越境しつつ、アメリカ音楽のさまざまなルーツを探っています。ノラも、ルーファスも、もともとの声質がカントリーシンガーっぽいのよね。ルーファスは顔つきもカントリー歌手みたくなってきた。◇今回、演奏したのは4曲。1曲目は「Poses」ルーファスの2ndアルバム(2001)のタイトル曲。2曲目は「Going To A Town」ルーファスの5thアルバム『Release the Stars』(2007)の曲。今年の『Folkocracy』ではアノーニと一緒に歌っています。3曲目は「Down In The Willow Garden」人殺しの男を歌ったアパラチアンバラッドですが、ノラは、これを『Foreverly』のときにカバーしてるし、ルーファスも今年の『Folkocracy』で、ブランディ・カーライルと一緒に演奏しています。4曲目は「How Long Has This Been Going On?」1927年にガーシュインが作ったミュージカル曲。ルーファスは、ジュディ・ガーランドへのトリビュートとして、07年の『Rufus Does Judy At Carnegie Hall』と、去年の『Rufus Does Judy At Capitol Studios』で取り上げています。Poses & Going To A Townhttps://t.co/UZDhYTeJby— まいか (@JQVVpD7nO55fWIT) November 17, 2023 Down in the Willow Garden & How Long Has This Been Going On?https://t.co/smFO7S1ikb— まいか (@JQVVpD7nO55fWIT) November 17, 2023ガーシュインの曲については、こちらに詳しい解説が。▶ https://blog.goo.ne.jp/keyagu575/もともと1927年のミュージカルのために書かれたものの、実際には1957年の映画『パリの恋人(Funny Face)』の中で、オードリー・ヘプバーンが歌って有名になったのですね。エラ・フィッツジェラルドも早くから歌っていたようですが、ヘプバーンの映画公開後はスタンダード曲として、サッチモ、チェット・ベイカー、サラ・ヴォーン、レイ・チャールズなど、いろんな人が取り上げているようです。一般には「いつの頃からか」という邦題で知られてますが、ジュディ・ガーランドの61年のライブ盤は、邦題が「いつからこんなことに」になっています。Ella Fitzgerald「How Long Has This Been Going On?」Audrey Hepburn「How Long Has This Been Going On?」Louis Armstrong「How Long Has This Been Going On?」Chet Baker「How Long Has This Been Going On?」Judy Garland「How Long Has This Been Going On?」Sarah Vaughan「How Long Has This Been Going On?」Ray Charles「How Long Has This Been Going On?」Rufus Wainwright「How Long Has This Been Going On?」(2007)Rufus Wainwright「How Long Has This Been Going On?」(2021)Rufus Wainwright「Poses」Rufus Wainwright「Going To A Town」Rufus Wainwright feat. Anohni「Going To A Town」The Everly Brothers「Down in the Willow Garden」Billie Joe Armstrong & Norah Jones「Down in the Willow Garden」Rufus Wainwright feat. Brandi Carlile「Down In The Willow Garden」Norah Jones & Rufus Wainwright「Down in the Willow Garden」
2023.11.18
ひさしぶりに映画館へ出向き『ゴジラ-1.0』を観てきました。いつものとおり、レビューはこちらに書いています。大迫力の怪獣エンタメに期待したのですが、実際は、かなり陰鬱な戦争映画といった印象でした。でも、観てよかった。上記のサイトにも最高点につぐ9点をつけました。◇タイトルが「-1.0(マイナスワン)」となっているとおり、戦争の "負の遺産" をいかに乗り越えるかが作品のテーマです。戦争の負の遺産というのは、米国が投下した核爆弾と放射能でもあるはずですが、それだけではありません。登場人物はそれぞれに戦争の負の遺産を背負っている。神木隆之介が演じる男性は、特攻の命令に背いた逃亡兵として負い目を感じている。山田裕貴が演じる若者は、その若さゆえに従軍できなかった負い目を感じている。浜辺美波が演じる女性は、空襲で両親を亡くしたらしき戦争孤児を育てています。多くの日本人が、本来なら背負わなくていいはずの何かを背負っている。◇物語の序盤では、米軍が日本近海にばらまいた機雷の除去の様子が描かれます。これも、やはり戦争の"負の遺産"です。米軍がばらまいた機雷なのに、それを日本人が除去する羽目になっており、終戦直後の日本には軍隊も自衛隊もないので、あろうことか民間の組織がそれを請け負っている。そして、海域にばらまかれた機雷に怒っているのは、かならずしも日本人だけではありません。海中生物であるゴジラも怒っているわけです。ゴジラは、その怒りの矛先を、米国ではなく、目の前の日本に向けてきます。米国の占領軍はソ連との関係に配慮して出動せず、日本にも軍隊はもちろん自衛隊もまだ存在しないので、結果的に、旧軍人と民間人の有志がゴジラに立ち向かうことになる。…そのような物語です。◇◇ところで、わたしが注目したのは、ゴジラ撃退法が「ワダツミ作戦」と名付けられたことです。ワダツミとは、記紀神話に登場する海神のことです。以前の記事にもワダツミのことは書きましたが↓https://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/202102260001/https://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/202208290000/おもに長野や島根(出雲)にゆかりのある神であり、わたし自身は新海誠のアニメにも関わりが深いと感じています。ワダツミは、水の神である蛇神や龍神に比定されることもあるはずなので、その意味では「ワダツミ=恐竜ゴジラ」と解釈することもできます。◇しかし、その一方で思い起こされるのは、「きけ、わだつみの声」のタイトルで知られる学徒兵の遺稿集と、それを原作にした1950年の関川秀雄の映画です。手記を残した戦没学生のなかには、上原良司のような特攻兵も含まれます。とくに上原良司は、ワダツミの故郷とされる長野県安曇野市(旧穂高町)の出身なので、彼自身が "海に沈んだワダツミ" だったとも言える。安曇氏は、海神の「ワタツミ(綿津見)」を祖とする氏族。安曇は「アマツミ(海津見)」に由来するとの説がある。博多湾の志賀島から散った一族は、信濃国の安曇郡(現・長野県安曇野市)などに移ったとされ、穂高神社には安曇氏の祖神として「ホダカミ(穂高見)」や「ワタツミ(綿津見)」などの海神が祀られている。そこから考えれば「ワダツミ=特攻学徒兵」とも解釈できます。◇音楽惑星さんの以下の記事にも、関川秀雄と本多猪四郎のことが触れられていたのですが、http://manzara77.blog.fc2.com/blog-entry-368.html#honda「わだつみ」を作った関川秀雄は、「ゴジラ」を作った本多猪四郎と東宝の同僚でした。関川のほうが3つ年上ですが、東宝に入ったのは本多のほうが5年ほど早いようです。本多猪四郎には過酷な従軍経験があり、復員後はもっぱら戦争映画を作っていました。…といっても、本人が語っているように、彼には左翼的な思想らしきものは見られません。かたや関川のほうは、従軍経験がない代わりに、非常に理念的で左翼的な思想の持ち主だったようです。労働争議を経て東宝を離れ、1950年に「日本戦歿学生の手記~きけ、わだつみの声」を、1953年に「ひろしま」を監督しています。当時はレッドパージの余波もあり、彼の作品は東宝や松竹のような大手の配給を得られず、その後も長らく忘れられていましたが、2019年にNHKが「ひろしま」を放映したことで、ふたたび注目されるようになっています。◇関川秀雄の「ひろしま」は1953年に、本多猪四郎の「ゴジラ」は1954年に作られています。どちらも反核をテーマにしており、ひそかに反米色を滲ませているだけでなく、両作品には《伊福部昭が音楽をつけた》という共通点もある。しかも、伊福部昭は、「ひろしま」の音楽を「ゴジラ」に転用しているらしい。2つの映画が共通のテーマで通底していると考えたのでしょうか?◇今回の『ゴジラ-1.0』は反戦的ではありますが、非武装や非戦を主張しているとまでは言いがたく、情報統制を敷く日本政府の隠蔽体質は批判しているものの、米国への怒りを滲ませるだけで、日本政府や日本国民の戦争責任を問うているとも言いがたい。そのことには賛否両論あっても仕方ないと思いますし、わたし自身、正直なところ、山崎貴の憲法観や政治姿勢については、よく分かりません。(これは庵野秀明についても同じです)ただ、反米色をにおわせる傾向は、関川秀雄の「ひろしま」や本多猪四郎の「ゴジラ」以来の、伝統的な姿勢といえなくもありませんし、今回の映画は、その背景にある政治思想や信条とは切り離して、とりあえず作品自体として評価したいと思います。
2023.11.11
さほど坂本龍一を熱心に聴いてきたわけでもないのに、死んだ途端に語りまくるってのもどうかとは思うけど、これで第4弾ですw…前回からだいぶ時間が空きましたが。◇…というのも、例の松尾潔の日刊ゲンダイの記事に、https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/325603/4またも「炭鉱のカナリア」なんて表現が出てきたからです。まあ、松尾潔は、あくまで達郎への皮肉で書いてるのかもしれませんが、そもそも音楽家ごときが「カナリア」であるはずがない!ミュージシャンに、そんな能力はありませんwなぜか晩年の坂本龍一が、そんなことを口にしはじめたせいで、湯川れい子までがそれに同調したりしてるのですが、坂本龍一ともあろうものが、そんな下らない幻想を本気で信じていたとしたら、あまりに愚かじゃないの?と思っていたわけです。◇一般的にいっても、「音楽家が時代のカナリアだ」という考えは、まったく根拠のない幻想にすぎません。一部の馬鹿なミュージシャンが、自分で勝手にそう錯覚しているだけの話。歴史的に見れば、社会の変化にもっとも敏感なのは文学者であって、けっして音楽家ではありません。むしろ音楽家が、いちばん鈍感なのです。音楽は、芸術の諸分野のなかで、社会の変化に対する反応がもっとも遅い。これには必然性があります。◇たとえば「文学のロマン派」は、フランス革命が起こる前から存在していましたが、「音楽のロマン派」が登場するのは、フランス革命の後です。つまり、文学者ははやくから革命の時代を予兆していたけれど、音楽家たちは、モーツァルトにせよ、ベートーヴェンにせよ、革命が起こるまでロマン派の時代の到来に気づかなかった。※ウィーンが辺鄙だったからってのもあるけど。それと同じことは、印象派やシュルレアリスムにも言えます。音楽の印象派は、美術の印象派よりも遅いし、サイケデリック音楽も、美術のシュルレアリスムに比べて、だいぶ遅い。◇同じことはロックにも言えます。アウトロー/アウトサイダーの表現は、米国でいうなら1940年代の、ビート文学やハリウッド映画の中に予兆されているし、ヨーロッパの退廃主義や実存主義は19世紀から存在しています。しかし、音楽の世界でロックンロールが登場するのは、せいぜい50年代の半ば。ここでも音楽がいちばん遅い!日本でも、無頼派の文学や東映・日活映画などが、アウトローの表現を終戦直後から先取りしてましたが、日本の学生たちが、アウトロー気取りでフォークやロックをはじめたのは、ようやく60年代も後半になってからのことです。それにもかかわらず、自分たちが「時代の先端」のように勘違いしていたのなら、たんに滑稽というほかありませんw◇文学者が時代の変化に敏感なのは必然です。それは、人間の精神や感性そのものが、時代の言語や観念に規定されているからです。そのことに自覚的な文学者ほど、社会の変化を必然的に予兆することになる。それに対して、音楽家というのは、往々にして、自分自身の感性の構造に無自覚なのです。だから、「インスピレーションは空から降ってくる」だの、「感性こそが言語に先立つ」だのと、ファンタジックな勘違いをしてしまう。つまり、無邪気な音楽家ほど、自分の感性が時代の観念に規定されていることを、なかなか自覚できないのです。そのくせ「空からのインスピレーション」があれば、自分たちこそが時代を先取りできると思い込む。…坂本龍一は、日本の音楽家の中では、かなり「文学的」なほうだったと思うのですが、それにもかかわらず、《音楽の予知力》なんぞを本気で信じていたとしたら、意外に迂闊だったんじゃないか、と思います。◇◇ちなみに、ジョン・レノンの「イマジン」という有名な曲があって、なぜか、日本の頭の悪いロック愛好家ほど、この曲を「ジョンの妄想」だと言って馬鹿にするのだけど、そもそも、あの曲の内容はジョンの独創ではありません。あれは、いわば文学思想の翻案であって、一種のパクリです。そのことが分かっていれば、あの歌詞の内容を一概に「妄想」だとはいわない。◇ジョンの「イマジン」の思想は、おそらくカント哲学を根っこにしていて、国連やEUや戦後の日本憲法の理念としても受け継がれてきた、一種の文学的な予言なのです。それが、被爆国出身のオノ・ヨーコを介して、ジョンのポップソングの形に翻案されたってこと。その予言は、すくなくとも、国連やEUの形で暫時的に実現してきているのだから、たんにミュージシャンの気まぐれな「妄想」ではありません。◇実際、クラシックの分野であれ、ポピュラーの分野であれ、欧米の優れた音楽家というのは、けっこう文学に対する造詣があって、作品の基礎を文学に置いている場合が多いと思います。ジョン・レノンの場合も、(ビートルズのやんちゃ時代はともかく)ボブ・ディランやオノ・ヨーコの影響を受けて以降は、それなりに文学的になっていったわけですよね。それに対して、日本のミュージシャンの多くは、「感性こそが言語に先立つ!」と思い込んで、本も読まずに、空からの啓示ばかりを後生大事にしている。こうした点は、もっと欧米を見習うべきで、根拠のない幻想に酔っている暇があったら、もっと多くのことを文学から学ぶべきです。
2023.07.07
さほど坂本龍一を熱心に聴いてきたわけでもないのに、死んだ途端に語りまくるってのもどうかとは思うけど、…第3弾ですwジョビンの話。これは外せない。◇考えてみれば、わたしがアントニオ・カルロス・ジョビンを好きになったのも、坂本龍一の影響だったのよね。…と言っても、それは『CASA-Morelenbaum2/Sakamoto』じゃなくて、むしろ『時の輝き:坂本龍一選曲集』の影響です。つまり、坂本龍一がセレクトしたボサノバ作品集。坂本龍一自身も、「ジョビン=ボサノバという観念を取り払うべき」みたいに言ってましたが、わたしも、このコンピレーションを聴いて、ジョビンの音楽を、ボサノバじゃなく、むしろクラシックの観点で聴くべきと理解しました。そして、それはとりもなおさず、「クラウス・オガーマンを軸にジョビンを聴く」ということでもあった。◇そもそも、このコンピレーションは、ジョビンのセレクションというより、オガーマンのセレクションといったほうが正しい。ほとんどの曲に、オガーマンのオーケストレーションが入ってるからです。小室敬幸と伊藤ゴローも以下の動画で話してますが、ジョビンとオガーマンの共同作業によるオケ楽曲は、どちらの作品と見なすべきか判断しがたいところがある。おそらくは、ジョビンの本来のクラシック的な素養が、オガーマンによって引き出されて成長したのでしょう。思えば、わたしと音楽惑星さんの関わりも、いまは斉藤由貴のことが中心になってるけど、いちばん最初は、「オガーマンを軸にしてジョビンを聴く」みたいな発想で共鳴したのでした。 音楽惑星さんのサイトにも、オガーマンのページがあります。◇ちなみに、坂本龍一の作品や演奏スタイルには、ジョビンの作曲の影響も、ピアノの影響も、オガーマンのオーケストレーションの影響も、それほど感じられないとは思うけど、大貫妙子の2ndアルバムに入ってる「振子の山羊」は、かなりジョビンっぽい(あるいはオガーマンっぽい)と思う。その昔、坂本龍一と大貫妙子が、「ジョビンのアルバムをふたりで正座して聴いた」みたいなエピソードがあって、それがいつの話だったのか知らないけど、たぶん、この「振子の山羊」の頃じゃないかしら?そして、その後の大貫妙子のアルバムには、宮田茂樹がプロデューサーとして加わり、いわゆる「ヨーロッパ三部作」などが作られ、さらに宮田茂樹は、ジョアン・ジルベルトに繋がっていくわけです。宮田茂樹が書いた以下のコラムを読むと、http://music-calendar.jp/20171208011994年、ジョビンが死ぬ直前に、大貫妙子とジョビンが共演する可能性もあったそうです。なお、ジョアン・ジルベルトは2019年に亡くなり、宮田茂樹も去年亡くなっています。◇ところで、アルバム『CASA - Morelenbaum2/Sakamoto』は、モレレンバウム夫妻の演奏は素敵なのだけど、坂本龍一のピアノがやかましくて、あまり好きじゃない。ただ、あのアルバムを聴くと、坂本龍一が、ジョビンの曲をボサノバとしてではなく、サンバカンソンとして捉えているのが分かります。※ Samba-canção(サンバ・カンサォン/サンバ・カンサゥン)です。そうでなければ、ジョビンのトリビュート盤を作るときに、1曲目に「誰もいない海岸/As Praias Desertas」は選ばないでしょう。これってエリゼッチ・カルドーゾの曲ですから。実際、ジョビンは、当初はサンバカンソンの作曲家でした。ヴィニシウスと一緒に、ジョアン・ジルベルトに曲を提供して以降は、「ボサノバの作曲家」として認知されるようになったけど、本来は「想いあふれて/Chega de Saudade」も、エリゼッチ・カルドーゾに歌わせたサンバカンソンだし、それ以降にジョビンが書いた曲も、たとえば「愛の語らい/Falando De Amor」であれ、たとえば「無意味な風景/Inútil Paisagem」であれ、たとえば「白い道/Estrada Branca」であれ、一貫してサンバカンソンだったと思います。◇ジョアン・ジルベルトは、「俺はボサノバじゃなくてサンバをやってるんだ」みたいに言ってたけど、それなら、さしずめジョビンは、「ボサノバじゃなくサンバカンソンを作っていた」といっていい。かたや、ヴィニシウス・ヂ・モラエスの音楽にも、もともはといえば「黒いオルフェ」のような志向があって、バーデン・パウエルとの共作などを聴いても、けっしてボサノバの枠には収まらない野性味や野蛮さがある。上品なボサノバだけを作っていた文人ではない。先に挙げた動画では、宮田茂樹と伊藤ゴローが、「ジョアンの発想がジョビンに曲を作らせた」みたいなことも話していますが、いわば相互作用の産物としてボサノバが誕生したのでしょう。ただ、基本的には、ジョアンやヴィニシウスが強烈なリズムの人だったのに対して、ジョビンは叙情的なメロディの人だったと言えるし、そういうジョビンの音楽性は、後輩のシコ・ブアルキやエドゥ・ロボにも受け継がれていて、やはり彼らにもサンバカンソンとして聴くべき側面がある。◇じゃあ、最初にジョアンの音楽を「ボサノバ」と呼んだ犯人は、いったい誰だったのかといえば、これはまあ、ジョビンだったことが実証的に言えますwそもそも、ジョアンに「ヂサフィナード/Desafinado」を歌わせたのも、オデオンのレコードの宣伝文句として、「ジョアンの音楽こそがボサノバだ」みたいなことを書いたのも、ほかならぬジョビンですから。そこは疑いの余地がない。しかし、その後のボサノバは、やや安易なスタイルとして広がった面もあるし、ブラジル本国では「米国に媚びを売った金持ちの音楽」と罵られ、しだいに「ボサノバ」と口にすることさえ憚られるようになった。ジョアンが、「俺はボサノバじゃなくてサンバをやってるんだ」と主張した背景にはそういうこともあるし、ジョビンも「ボサノバ」からは距離を置くようになりましたが、そういう政治的な背景は抜きにしても、ジョアンやヴィニシウスの音楽を「サンバ」として、またジョビンやシコやエドゥの音楽を「サンバカンソン」として、さらにはジョビン&オガーマンの音楽を「クラシック」として、角度を変えて捉えなおしていく発想は大事だし、たぶん坂本龍一にも、そういう観点があったでしょう。
2023.04.09
さほど坂本龍一を熱心に聴いてきたわけでもないのに、死んだ途端に語りまくるってのもどうかとは思うけど、第2弾ですw◇渋谷陽一は以前、坂本龍一の音楽について、「音が立ってる」という表現をしてたんだけど、それはやっぱり非常に正しくて、それこそが彼の音楽の最大の特徴であり魅力だと、いま振り返ってみて、あらためて思います。たぶん「尖った音」と言い換えてもいいんでしょうけど、要するに、サウンドの輪郭が明瞭で、きっぱりとした強烈な色彩がコントラストを際立たせて、それが皮肉やユーモアにもなっていて、絵画でいうならポップアートに近い感じだった。結果的に、このサウンドは"時代の音"になっていましたが、それは坂本龍一の「時代感覚」から来ていたというより、むしろ生来の「資質」から来ていた気がするし、70年代末の坂本龍一こそが、それをもっとも先鋭的な形で先取りしていたと思う。まもなく坂本龍一は、大島渚の映画でデヴィッド・ボウイと共演しますが、そういう特性は英国のニューウェイヴにも近くて、また、80年代のサウンドを予告してもいたと思います。◇坂本龍一は、クラシックを基礎にしていたはずだし、作品の多くはインストゥルメンタルだったのに、何故あれほどポップでありえたかといえば、メロディーの抒情性もさることながら、やはりサウンドの「尖り方」に訴求力があったからよね。そして、これはポップスのサウンドだけじゃなく、映画音楽のような管弦楽にも当てはまってて、たとえば88年の『Playing The Orchestra』などを聴いても、やっぱり音がキリリと立ちあがっている。ただ、後年のオーケストラサウンドなどを聴くと、だいぶ音の立ち方は弱くなっていて、演奏によっては寝てしまってる感じもありました。それは時代のせいなのか、本人の年齢のせいなのか、あるいはニューヨークという都市の感覚だったのか分からないけど、(全般に米国の音楽って大きく構えててあまり尖ってはない)その結果、ポップスの市場から遠ざかった面も否めない。
2023.04.08
今朝のニュースで、坂本龍一が亡くなったことを知りました。人が死ぬたびに、さして知りもしないのに追悼してみせたり、これみよがしに冥福を祈ってみせたりするのは、ちょっとどうかと思うのだけど…。たまたま最近「Behind The Mask」のことを考えていたのよね。それは2月の関ジャムで坂本特集をしていたからなのだけど。それにくわえて、昨日は、大貫妙子が代理を務めたラジオ番組をYouTubeでちらっと耳にし、コトリンゴがゲスト出演した井上芳雄のラジオを聴いたりしてて、なんとなく頭の片隅に坂本龍一のことがありました。まあ、そういう符合はよくあることです。YMOがそんなに好きだったわけでもないんだけど、癌の転移の話とかはぜんぜん知らなかったから、メンバー2人が続けて亡くなったのはちょっと驚きです。…と言いつつ、YMOは海外ではまったく売れてなかったとの話もあるので、そこらへんの神話の検証も必要ですね。◇関ジャムでは、番組からの質問に長文の書面で回答してたけれど、すこしでも何か伝えておきたいんだろうなと思った。わたしも何故かスクショを取っていました。◇さて、本人は「Behind The Mask」について、≫ 作曲は10分ぐらいで出来たけど、≫ なぜヒットしたかは何十年考えてもわからない。みたいに言ってましたよね。この曲は、「イントロ~Aメロ~Bメロ~サビ」のような歌謡曲的な構造じゃなく、いわば第1主題と第2主題と第3主題が、ぜんぶ重なって無限にループしつづけるような構造で、ダンスミュージックの様式ですよね。ジェームス・ブラウンのファンクもそうだけど、単純なダンスミュージックの強さがあると思います。サンプリングネタにもなりやすいし、この構造のうえに別のメロディーも自由に乗せられるから、マイケル・ジャクソンやエリック・クラプトンなどは、そういう形でカバーしているわけですね。欧米人からすると、いちばん上のメロディは、変ちくりんなオリエンタルミュージックみたいで、そこも面白いのかもしれません。…てことを、さっき考えました。生前の坂本龍一に教えてあげれば良かったけど、間に合わなかったな(笑)坂本龍一の代表作は、「戦メリ」「Behind The Mask」「ラストエンペラー」の3曲だろうと思う。「energy flow」はつまらないので除外!わたし自身がよく聴いたのは、アルバム『Beauty』『Heart Beat』あたりなんだけど、本人的には不本位な作品だったかもしれません(笑)。ベスト盤の『グルッポ・ムジカーレ』もよく聴いたから、「黄土高原」や「Ballet Mecanique」なんかも好きですね。やっぱりご冥福をお祈りします。
2023.04.03
GYAOの無料動画で、ドキュメンタリー映画「エッシャー~視覚の魔術師」を観ました。原題の《Journey Into Infinity》を直訳すると、さしずめ「無限への旅」あるいは「無限への探究」でしょうか。実際、エッシャー自身が探究したのは、けっして「だまし絵」とか「視覚的トリック」とかではなく、あくまで「無限」だったわけなので、やはり原題のほうが正しい。◇例のダグラス・ホフスタッターの、『ゲーデル、エッシャー、バッハ』は全然読んでませんが!その書名の印象だけは無駄に強いので、エッシャーというと、つい反射的にゲーデルとバッハのことを連想しますwこの映画にも、バッハの話はちゃんと出てきました。エッシャー自身も、バッハを好んでいたようです。一方、ゲーデルの話は出てきませんでしたが、エッシャーは、電話をかけてきたグラハム・ナッシュに、自身のことを「芸術家ではなく数学者だ」と言ったそうです。◇とはいえ、子供のころは数学が嫌いだったらしく、親の意向に反して、建築の道にも進まなかったのですね。エッシャーの父親は、明治日本にお雇い外国人として招かれたほどの、かなり高名な土木工学者だったらしいから、優秀な理系の血を受け継いでいるのは明らかだし、結果としては、きわめて数学的・建築的な発想で、独自の美術表現に取り組むことになったのだけど、逆にいうと、本人の言葉どおり、「科学者と名乗るには愚かすぎるが、芸術家でもない」みたいな中途半端な天賦であったがゆえに、「数学と芸術の間を漂う」以外になかったのかもしれません…。美術大国のオランダに生まれたことも、彼の立場をどっちつかずにしてしまった気がする。フランドル美術を生んだ風土と文化が身近にあったのは大きい。◇彼は、内向的なオランダ人であると同時に、いかにも理系的な気質だったと思いますが、他人との面会や手紙などを嫌い、貨物船の上での孤独な海上生活を好んだり、版画の反復的な印刷に没頭するような偏執的な性向も見られます。しかし、その反面、イタリアやスペインのような南欧の風土を愛したり、船上から見る地中海や空の青を眺めては、その自然から美的なインスピレーションを得たり、さらにはムーア人の幾何学…すなわちアルハンブラのアラベスク模様に惹かれたりした。◇彼の「無限の反復」というコンセプトは、数学や建築などの理論から得られたのではなく、自然からのインスピレーションで得られた感じです。実際、そこにもフラクタルのような数学的な構造があるし、自然のなかの時間や空間は反復的になっているといえます。強いて数学でいえば、彼の関心にいちばん近かったのは「結晶学」だったようで、それがいわゆる「平面の正則分割」の手法に繋がっていく。さらに、コクセターの「反転変換」の話なども出てきましたが、エッシャーは、それを理論的に把握したのではありません。むしろ感覚的に「無限」の表現方法を模索し、やがて有限な平面のなかに「無限」をもちこむことに成功。そこに実現したのは、いわば「全世界」や「終わりなき循環」を内包させる表現でした。◇エッシャーは、自身の作品がサイケデリックアートとして消費されることに、かなり嫌悪感を抱いていたらしい。でも、わたしが思うに、有限のなかに無限をもちこむ発想は、やっぱりサイケデリックの価値観にも通じ合う部分があって、ロックの時代のヒッピーにとっては、おそらく彼のアートも、瞑想やドラッグと同様に、内的な小宇宙を実感するための一つの手段だったのでしょう。◇ちなみにエッシャーの表現は、従来の西欧美術の遠近法をあきらかに否定しています。すなわち、〈前景〉と〈後景〉の主従関係を否定し、鳥の背景を鳥にしたり、虫の背景を虫にしたりして、すべての細部に同等の価値を与える表現になっている。まさに「平面の正則分割」などが、その典型です。これって、けっこうキュビズムに近いと思うのですが、なぜか彼自身は、キュビズムにもシュルレアリズムにも接近しなかった。それどころか、あらゆる美術界の"潮流"とは無縁だったようです。その立ち位置もまた、冒頭の「芸術家ではなく数学者だ」という発言に結びつくのでしょう。◇もともと、彼の表現の原点は、西洋絵画というよりもグラフィックアートだったし、彼が実際に選択したのは、反復的な複写の可能な「版画」という手法だったし、もっといえば、エッシャーのような表現は、むしろアニメーションやCGにこそ親和的だったのですね。
2023.03.08
GyaOの無料動画がサービスを終了するそうです。わたしはネットのサービスに疎くて、GyaOを利用したのはわずか1年ほどだったけど、最後に安田公義の映画をたてつづけに観れたのは収穫でした。◇それまで、森一生や三隅研次や田中徳三は観たことがありましたが、なぜか安田公義の映画をまったく観たことがなく、その名前を意識したことすらなかったのですが、GyaOの無料動画で、「大魔神」の第一作を観て、その美しさに驚嘆し、さらに「眠狂四郎」や「座頭市」のシリーズ作品を観て、わたしの評価は揺るぎないものになりました。どのシリーズにおいても、安田作品のクオリティは、他の大映の職業監督を上回っていると思う。◇とはいえ、安田公義については、ネットにも詳しいページが見当たらないし、Wikipediaの記述もなんだか物足りないのですよねえ…。ひとたび、海外の映画祭で上映されたり、映画評論の権威が取り上げたりすれば、それに追随して国内のシネフィル気取りも、さぞかし口を揃えて褒めるようになるのだろうけど、今のところ、本格的に評価しようという動きはどこにもないし、ネット上にも、熱心なファンと呼べるような人は見当たらないし、まして全集が発売されたりする気配もありません。◇実際、一般的には、三隅研次のほうがはるかに評価が高い。三隅研次は、たしか90年代ぐらいに海外で紹介されて、そのときに蓮實重彦の言及などもあったので、急速に評価が高まったのだと思う。まあ、たしかに、三隅研次は個性的な作家ですけども、わたしが観た範囲内でいえば、三隅の作品にはけっこう当たりはずれがあるし、むしろ演出家のとしての力量は、安田公義のほうが安定して上回ってると思う。それどころか、安田公義の演出力は、溝口健二さえ上回るんじゃないかと思うのです。◇ただ、残念なことに、安田公義が撮ったのは、チャンバラとか怪獣とかオバケなどの通俗劇ばかりで、いわゆる《芸術映画》と呼べるものが見当たらないのですね。三隅研次でさえ「釈迦」のような大作に取り組んだのに。三隅研次の評価が高いのは、そのシャープな個性もさることながら、ただチャンバラのような通俗劇を撮っただけでなく、「剣三部作」のような文芸作品や、「釈迦」のような大作を手がけたことが大きいのだと思う。ちなみに、三隅の「釈迦」は商業的には成功したようですが、お世辞にも出来がいいとは思えません。むしろ駄作です。それに対して、安田公義が評価されにくいのは、通俗的な題材にしか取り組まなかったからでしょう。もしかしたら、彼自身が、あまり芸術的な大作などを好まなかったのかもしれませんが、もし「雨月物語」や「羅生門」のような題材に取り組んでたら、さぞかし世界的な傑作として評価されただろうと思う。◇もちろん、芸術的な映画を作るためには、何よりもすぐれた脚本が必要ですが、わたしの観たかぎり、安田公義の作品は、どの脚本家と組んでいても一定の水準を維持しており、物語に安定的な深みがある。たとえ通俗的な時代劇でも、脚本が無駄なく引き締まっているし、エログロ的な題材においてさえ、ある種の文学性を湛えています。それは、彼がたんなる職業的な演出家であるのみならず、脚本家との連携にも長けていた、ということでしょう。あるいは彼自身が脚本制作にも関与していたのかもしれない。安田公義の作品は、怪物・妖怪・チャンバラのような題材ばかりなので、なかなか傑作と呼びにくいのも事実ですが、すべてが名作・佳作と呼ぶに値するものだし、わたしに言わせれば傑作も含まれると思います。◇ところで、安田公義の作風には、師匠にあたる山中貞雄からの影響があるはずです。ただし、山中貞雄や小津安二郎のような軽みには欠ける。なので、コメディには不向きで、ある程度の重みがある題材のほうに向いている。実際、多くの作品が、きわめて制御された手法で、抑制された表現に徹しています。その意味では、むしろ溝口健二の個性に近いと思う。溝口健二の場合は、世界的な巨匠としての評価が確立しているけれど、実際には、けっこう当たり外れがあるし、そもそも宮川一夫のカメラがなければ、その世界的な評価があったかどうかも疑わしい。これと似たことは、じつは小津安二郎にもいえる。そもそも野田高梧の脚本がなければ、現在のような小津の評価はなかったかもしれません。ただ、溝口健二が女優の演出に長けていたのに対して、安田公義の女性描写はやや紋切り型で、むしろ田中徳三のほうが、女性は魅力的に見えます。その点で溝口健二に比肩し得るのは、川島雄三でしょうか。
2023.02.11
先日、ブラタモリの《静岡編》を見たのですが、タモリは、その町の成り立ちを詳しく知るまで、ずっと静岡市を「面白みがない」と感じていたようです。◇タモリはもともと「名古屋嫌い」で有名でしたが、以下の記事を読むと、じつは嫌いなのは名古屋だけではなかったらしい。そこで「なぜ、名古屋を槍玉にあげるのか?」と問われたタモリは、じつは大阪も東京もどちらかといえば好きではないと明かしたうえで、次のように語った。《なんとなく一歩離れて、内地として日本を見るようなことありますね。父も祖父も満州の生活が長くて、しかも道楽者。ひょっとしたら、その影響もあるかなあ。名古屋は日本で一番日本的なものが集約されてるような面もあります》https://gendai.media/articles/-/51960?page=2◇あくまでわたしの想像だけど、家康や秀吉の作った城下町って、本質的につまらないのだと思う。とくに江戸・名古屋・静岡がつまらないのは、家康の実利主義や合理主義がきわめて近代的だからであり、あまりにも近代都市と相性が良すぎるからじゃないかしら?たとえば、京都や鎌倉を近代の首都にするのは困難だったろうけれど、家康や秀吉のつくった城下町の礎のうえになら、いくらでも近代的な都市が作れただろうと思うのです。しかし、かえってそのことが、歴史好きからすると「つまらない」と思えてしまう。つまり、近代的に改造するのが容易なぶんだけ、歴史の情趣みたいなものが残りにくいのでしょう。◇今回の大河『どうする家康』第1話のエンディングで、≫ 静岡がプラモデルの町になったのは、≫ 家康が全国から呼び寄せた金型職人のおかげとのエピソードが紹介されました。きっと、トヨタやヤマハみたいな近代産業が発展したのも、家康の町づくりの遺産と無関係ではないのだろうと思います。≫ 愛知と静岡の音楽文化について。
2023.01.17
NHKスペシャル「超進化論」を見ました!去年の再放送みたいです。第1集は「植物からのメッセージ」。どれも知らない話ばかり!!…おどろきモモノキの連続でした。◇余談ですけど…Stevie Wonderの79年の「シークレットライフ」という作品は、なぜかサントラだけが作られて、映画がお蔵入りになっていた。その原作は「The Secret Life of Plants」で、植物の神秘を題材にした科学ドキュメンタリー映画。つまり「植物にも知性がある」みたいな話です。何故お蔵入りになったのか知らないけど、ちょっと "トンデモ科学" 的な話だったから、きっと信憑性に疑問符がついたのだろうと思ってました。◇ところが、今回のNHKの番組を見たら、まさに「植物にも知性がある」みたいな話じゃないですか!!びっくりしたー。植物は、ホルモンみたいな情報伝達物質を生成し、その組み合わせによる "言語的なメッセージ" を、ほかの器官や、仲間の植物に対して送ってる。さらに、それを空気中に放出して、虫たちや鳥たちにもメッセージを送ってる。たとえば、葉を食べる害虫を攻撃するため、周囲に情報を発信して、植物自身で有毒物質を生成したり、天敵の虫や鳥をボディガードとして呼ぶのだそうです。ほとんどおとぎ話の世界。もしかしたら、人間も無意識に植物のメッセージを感知してて、いわゆる "第六感" を働かせてるのかもしれません。◇それだけじゃあない。植物は、動物の神経細胞と同じく、電気信号を使った情報伝達もしてるらしい。動物の神経も、シナプスでグルタミン酸を受容して、ナトリウムイオンなどで電気を伝えてるはずだけど、植物も、やはり葉の細胞などでグルタミン酸を受容し、維管束などでカルシウムイオンを発生させるようです。ほとんど神経系と同じ仕組み…?◇植物は、音、温度、重力、化学物質などの情報を、20以上の受容体で感知できるそうです。…虫が葉を食べると、その咀嚼音や唾液成分を感知して、虫の種類を判別したうえで有毒物質を"調合"する。…雨が降ると、雨粒の圧力を感知して抗菌物質を生成する。…人間などに触られると、その危険を感知してわざと成長を遅らせる。…土のなかの種子に号令を発して、最適なタイミングでいっせいに発芽させたりする。ちょっとサンゴの産卵みたいですね。…ネナシカズラなどは、寄生相手のヨモギを匂いで判別しているそうです。つまりは、嗅覚も聴覚も触覚もあるってこと!ここまでくると、もはや《森の妖精が実在する》というのと同じじゃないの?ヤバいくらい神秘的な世界だと思いました。いとうせいこうは、一貫してこのテーマを追いかけてるっぽい。お蔵入りになった映画がネット上に流出したときも、いち早く取り上げていました。植物の神秘生活~緑の賢者たちの新しい博物誌/ピーター・トムプキンズ植物は〈知性〉をもっている~20の感覚で思考する生命システム/ステファノ・マンクーゾ植物は〈未来〉を知っている~9つの能力から芽生えるテクノロジー革命/ステファノ・マンクーゾつづけて、第2集は「愛しき昆虫たち」でした。テーマのひとつは、どうやって昆虫は空を飛ぶようになったのか?詳細はまだ分かっていないらしいけど、わたしは女王蟻にヒントがあるような気がする。女王蟻だけが羽をもっているのは、遠くに移動しなければならないからです。かりに高度な羽を持っていなくても、胸の節の部分がパラシュートのように広がっていれば、落下したときにも空気抵抗があって安全だろうし、うまく風に飛ばされれば、遠くへ行ける可能性も高まる。それが徐々に動く羽へと進化したんじゃないかしら?◇それにしても、蟻の世界は、あまりにも社会的にすぎて怖い。同じ女王の子かどうかを厳しく判別して、あくまで家族間だけで食物を分け合うのだそうです。そして、やがて若い女王がひとり旅立って、別の場所で新たな家族を作る、みたいな物語がある。その物語性が、かえって不気味です。なお、蟻の家族に居候するコオロギがいるそうです。キリギリスだったらよかったのに!!◇もうひとつのテーマ。チョウチョのような昆虫は、なぜ幼虫から成虫に変態するのか?答えは、多様な生態を実現するためだそうです。でも、CTでサナギの内部を撮影する実験を見ていたら、あれはきっと系統発生を高速で反復してるんじゃないか、と思えました。◇今夜は第3集「すべては微生物から始まった」です。大河のあと、絶対見ます。La Voz de Tres「Secret Life of Plants」
2023.01.08
NHK-FM「蓄音機ミュージアム~セロニアス・モンク」を聴きました。◇セロニアス・モンクといえば、濁った音色、奇妙なメロディ、よたったリズム、…みたいなイメージ。要するにヘタウマ。◇あくまで音だけを聴いたイメージでいうと、前歯の欠けたグラサンのおじさんが、節々の曲がった太い指で、ラリって弾いたような音楽。あるいは酔っ払って足のもつれたダンス。…みたいな映像が目に浮かびます。◇しかし、今回の番組のなかで、挾間美帆はこう話していました。ただたんにピアニストとしてとらえることは出来ない。作曲家が自分の個性を存分に引き出すためにピアノを弾いている。頭の中に色々な音色とか音程がうごめいていて、それを演奏するとああなる。…ピアノを超えた演奏なんじゃないか。つまり、モンクの特殊な音楽は、演奏の癖とかスタイルによるものじゃなく、あくまでも「作曲されたもの」だということ。本人の頭のなかでは、ピアノ以上の作・編曲がなされていたかもしれない。それを譜面に起こすことが出来るのか分からないけど、すくなくとも本人の頭のなかには何らかの楽曲像があって、それを鍵盤のうえに再現してたってことですね。番組では、作曲過程を録音した音源も流していましたが、"ヘタウマ風"の楽曲を意識して作っているのが分かりました。◇挾間美帆は、モンクの楽曲をビッグバンドのために編曲してますが、じつは自由度が少ないとも話しています。自由度の高い曲のはずなのに、すごく首を絞められるんですよ。有余があるようで全然ない。4小節しかメロディがなくてすごく単調なはずなのに、和音1つ変えちゃうとその曲じゃなくなってしまうような感じがあるんです。どの曲もテーマは和音1つ変えられずリズム1つ変えられず、そのまま提示するだけ…そうしないと彼の曲らしさがなくなっちゃう。≫ 挾間美帆が語るセロニアス・モンク◇コードや旋律だけでなく、音色の濁りとか、リズムの揺らぎまでが、あらかじめ「作曲されたもの」なのだとしたら、一般的なジャズの楽曲のように、シンプルな構造だけを提示するものとは違って、演奏や編曲の自由度がとても少ないってことですね。◇もし、それが、「演奏様式」でなく「作曲様式」だったとするなら、かつてホンキートンクピアノとも呼ばれた黒人独特の感覚が、モンクの頭のなかでは抽象化され形式化されていたってこと。つまり「ニュアンスの言語化」みたいなことが、彼の頭のなかでは実現していたってことだと思います。ちなみにモンクのような音楽性は、たしかに西洋音楽の対極に位置するものだと思うけど、それをただちに「アフリカ的」と呼べるのかどうかは分からない。フランス的な諧謔モダニズムのようにも聞こえるし、ユダヤ的な変態エキゾチズムのようにも聞こえます。
2023.01.06
NHK「玉木宏の音楽サスペンス紀行」。《引き裂かれたベートーヴェンその真実》を見ました。もともとはBSの番組ですが、12/30に総合でも放送されていた。ベートーヴェンの《神話解体》がテーマ。本人が自覚してるかは知らないけど、玉木宏も「ベト7人気」の立役者の一人だから、こういうところのNHKの人選は抜かりない。…去年は、映画「CODA」やドラマ「silent」で、ろう者や中途失聴者のことが取り上げられましたが、ベートーベンも、まさに中途失聴者です。番組では、彼がコミュニケーションに用いた「会話帳」に焦点が当てられました。そして、この「会話帳」が神話形成の土台になっている。◇わたしが思うに、ベートーベンの神話形成には3つの側面があります。1.ドイツナショナリズム番組ではこの点にはほとんど触れなかったけど、実際には、この要因がいちばん大きいはずです。ドイツは長いあいだ、ヨーロッパの後進国として劣等感にさいなまれた。シューマンからワーグナー、やがてフルトヴェングラーやヒトラーに至るまで、その文化的な後進性を乗り越えるうえで、ベートーヴェンはずっと象徴的な存在だったと思う。2.個人的な崇拝これはアントン・シンドラーのことです。すなわち、会話帳の改竄と、それにもとづいて捏造された伝記の出版。いつの時代にも神話を作りたがる人はいる。「はっぴいえんど史観」も然り(笑)。過度に心酔するあまり、事実を捏造してでも神話を広めようとする。とくにシンドラーの場合は、シューマンなどのロマン派による再評価に触発されて、その機運に乗っかった面も多分にあったはず。逆にいえば、当時のドイツの文化的ナショナリズムのほうが、捏造された神話を積極的に欲してしまったのです。シンドラーは、「ベートーヴェンが『ファウスト』を題材に作品を構想してる」みたいな嘘も吐いたらしいけど、そういう発想こそがドイツロマン派の理念に呼応しています。さらにシンドラーは、「運命」だの「テンペスト」だの、もっともらしい表題まで考案したらしいのだけど、実際のところ、これらの表題がなければ、楽曲がいまほど有名になることはなかったでしょう。シンドラーが、ベト7の2楽章のアレグレットを、アダージョに改竄した気持ちもなんとなく分かる。わたし自身、あれは荘重な葬送行進曲だと思ってたし、現在でも遅いテンポで演奏する指揮者はいるはず。3.東西のイデオロギー対立戦後のドイツが東西に分断されたことで、ベートーヴェンの虚像と神話も、それぞれのイデオロギー的な解釈によって、まったくちがう様相を見せていった。番組では、その点を大きく取り上げていました。スパイが暗躍して、会話帳の奪い合いまで起こっていたのですね。◇しかし、いまや、ベートーヴェンの神話は解体されつつあります。もともとシンドラーによる伝記は、アレグザンダー・ウィーロック・セイヤーなどによって、当初から内容が疑問視されていたけれど、冷戦期に西側の《情報化》が進展すると、東側も神話を助長するだけでは対抗できなくなり、むしろ積極的な《神話解体》で研究をリードしようとした。そして、ついに1977年、東側の研究者が、シンドラーによる会話帳の改竄を完全に暴き、楽譜の校訂においても、東側の研究がリードしていった、とのこと。ただし、冷戦終結によって頓挫してしまいます。◇ベートーヴェンの神話は需要が減じています。かつては後進国だったドイツですが、いまやすっかりヨーロッパの盟主になったわけで、神話によってナショナリズムを喚起する必要がなくなった…って事情もあると思います。これは、日本についても言える。同じ後進国として、ドイツのナショナリズムに同調する必要がなくなった。そもそも、戦後のドイツも日本も、ナショナリズムの称揚を国際的に許されていなかったかもしれませんが。かくして日本では、「のだめ」の影響でベト7が人気を獲得し、ドイツ本国でも、「笑うベートーヴェン像」が作られるなど、従来的ないかつい虚像のイメージがだいぶ変わってきた。◇ところで、今回の《神話解体》の極めつきは、じつは第9の「歓喜の歌」って「酒宴の歌」だったかも…という仮説です(笑)。そういえば、ヨハン・シュトラウスの「美しく青きドナウ」も、もともとは酒を酌み交わして歌う合唱曲だったのよね。…あらためて「歓喜の歌」の内容は、こうです。歓喜よ、美しい神々の火花よ 楽園からの乙女よ、我々は感激して、あなたの天上の楽園に足を踏み入れる。あなたの魔力は 世界が厳しく分け隔てるものを 再び結びつけ、すべての人々は あなたの優しい翼のもとで兄弟になる!(N響「第9」演奏会2022の字幕より)これがもし「酒宴の歌」だとするのなら、≫ 楽園酒場に足を踏み入れたら、≫ アルコールの魔力でいちゃりばちょーでー!みたいに意訳できるかも。◇さらに、番組でも紹介されていましたが、ベートーヴェンには「ポンス(パンチ酒)の歌」ってのがあって、その歌詞も、ちょっと「歓喜の歌」に似ているのです。いったい誰だ?パンチ酒が熱き手から手へと仲間を回っているというのに、喜びと楽しさを感じない奴は誰だ?そんな奴はさっさと這って消え去れ!(「ポンス(パンチ酒)の歌」Punschlied, WoO. 111)「歓喜の歌」にも似たような部分がありますよね。一人の友を真の友とするという幸運に恵まれた者、優しい妻を持つことができた者は、ともに喜びの声を上げよ。ただ一人でもこの世で友と呼べる人のいる者も。しかし、それができなかった者は、涙とともにこの集いから去るのだ!つまり、≫ 恋愛も結婚もできず、≫ 友達もいないようなヤツはすっこんでろ!みたいな内容です。◇世間では、この「歓喜」こそが第9の結論のように誤解されてますが、実際は、そうじゃありません。いったん「歓喜」が高らかに歌われたあと、急にガラッと雰囲気が変わって、荘重かつ不穏な感じで「抱擁」が歌われます。そして最後に「歓喜」と「抱擁」が融合して結論に至る。その弁証法的な構造の意味合いが、あまり理解されていないんじゃないか、って気がする。わたしが思うに、じつは「歓喜」には排他的なところがあって、それを弁証法的に乗り越える必要があったんじゃないかしら?ちなみに、「歓喜」の部分は同胞の視点で歌われますが、「抱擁」の部分は神の視点で歌われます。百万の人々よ、わが抱擁を受けよ全世界に、この口づけを兄弟たちよ、星空の彼方に愛する父は必ずや住みたもう百万の人々よ、ひざまずいているか世界よ、創造主の存在を感ずるのか彼を天上に求めよ、星空の彼方に創造主は必ずや住みたもう実際、友達のいない人を排除したまま、社交的な人間だけで歓喜の結論に至るってどうなの?たしかに「隣人愛」も大事だけれど、孤独であるがゆえの「神の愛」だって必要でしょ。だからこそ、「歓喜」と「抱擁」を止揚したところに、最終的な結論が置かれているのだと思います。
2023.01.05
ノラ・ジョーンズの『I Dream Of Christmas』。去年のアルバムですが、今年は2枚組のデラックス・エディションが出てます。◇去年のオリジナル版は、正直、のめりこんで聴くほどでもなかったけど、今回のデラックス版に追加された[Disc2]は、全体にレイジーな雰囲気が増していて、こっちのほうがずっと彼女らしい。ちなみに去年は、「Christmas Calling」などを看板曲にしてましたが、わたし的には「You're Not Alone」のほうが好みだった。「Christmas Calling」は、スタジオver.よりも、むしろライブver.のほうが、ビターな味わいがあって良かったし。今回の[Disc2]には、そのライブver.が収められてます。そして今年は、ノラ自身も「You're Not Alone」を推してるのか、その弾き語りをInstagramにアップしたりしてます。「I'll Be Home For Christmas」や「The Christmas Waltz」も、ブルージーなアレンジが素敵。…ってなわけで、もっぱら[Disc2]ばかり聴いてます。◇ノラ・ジョーンズ「I Dream Of Christmas」2022 Deluxe Edition[Disc2]Last Month Of the YearI'll Be Home For ChristmasThe Christmas WaltzO Holy NightI Dream Of ChristmasHave Yourself a Merry Little ChristmasChristmas in My Soul / Christmastime (Live From The Empire State Building)Run Rudolph Run (〃)Blue Christmas (〃)You're Not Alone (〃)Christmas Calling (〃)You’re not alone. ❤️ pic.twitter.com/IKMzeznt4y— Norah Jones (@NorahJones) December 16, 2022
2022.12.23
すっかり年末モードです(笑)。昨日は、夕方にNHK総合で『中村仲蔵』の後編!夜はFMらじるらじるでN響定期公演!◇ドラマ『中村仲蔵』の後編。台本作家にいじめられた仲蔵。弁当幕などと蔑まれた忠臣蔵第五段のチョイ役で、セリフも見得も取り上げられながら、全身白塗りのビジュアルと、鬼気迫る立ち姿と、ただならぬ所作だけで観客を釘付けにした、度肝を抜くような芝居に痺れました。◇夜は、なにげなく聴いてみた、FMらじるらじるの聴き逃しサービス。N響の定期公演です。ラフマニノフの第2コンチェルトと、ドボルザークの新世界。年末の忠臣蔵に負けず劣らず、笑っちゃうほどベタなプログラム!!でも、意外なほど新鮮な気持ちで聴くことができました。…べつに、映画「蜜蜂と遠雷」がらみのピアニストを、意識して追いかけてるわけでもないのだけど、先日は、NHK俳句番組に金子三勇士が出てたし、昨日の演奏は、たまたま河村尚子のピアノだった。そして、べつにラフマニノフが好きなわけじゃないのだけど、去年は藤田真央くんで、今年は河村尚子でラフマニノフを聴くことに(笑)。まあ、ラフマニノフって、ソリストの個性が目立つ音楽だから、つい「どんな演奏かしら?」と気になってしまうのもある。…河村尚子の演奏は、とても華やかで、きらびやかでした。なんならファンタジックといってもいい。クリスマスが近いから余計にそう感じるのかしら?ある意味、リズムも、メロディも、通俗的ともいえるほど、堂々たる分かりやすさを押し出してて、あまりスマートすぎないところが良い。どこにも、難解さとか重々しさとか面倒臭さとかはなくて、夢中で聴き入ってたら、あっという間に終わってしまいました。ファビオ・ルイージのオケも、イタリアの指揮者だからなのか、オペラ的というか、なんなら映画音楽みたい。つい最近、GYAOの無料動画で、フェリーニの映画を見たから余計にそう感じるのかも。…アンコール曲とCDの曲もラフマニノフ。こちらは初めて聞きましたが、なんとなく、ゆったりとして、一足先にお正月の気分を味わえた感じです。…後半はドボルザークの「新世界」。正直にいうと、はなからバカにしてる曲なので(笑)、今まであんまりちゃんと聴いたことなかった。あらためて聴いてみると、へ~、こんな曲だったのね~、と面白かったです。とてもストーリー性のある演奏で、やっぱり映画音楽的な感じがしたのですよねえ。クラシックの演奏を「映画音楽的」といったら、ぜんぜん誉め言葉じゃないだろうけど、けっして薄っぺらいということではなく、映像とか、物語の背景が、ありありと見えてくるような奥行きのある演奏。そのストーリー性に没頭してしまって、一本の映画を見終わったような充実感がありました。とっても楽しかった。◇ラフマニノフも、ドボルザークも、べつに年末とは何の関係もないんだけど、そのベタな分かりやすさが、なにやら年末気分を盛り上げてくれた感じ?(笑)ちなみに、バイロイト音楽祭もらじるらじるで少しずつ聴いてます。夏のバイロイトも、毎年のNHK-FMの刷り込みのせいで、わたしの年末的な気分を盛り上げてくれます(笑)。◇忠臣蔵狂詩曲No.5 中村仲蔵 出世階段脚本・演出 源孝志音楽 阿部海太郎中村勘九郎・上白石萌音・中村七之助・藤原竜也吉田鋼太郎・高嶋政宏・段田安則・市村正親N響第1973回定期公演ラフマニノフ「ピアノ協奏曲第2番 ハ短調 作品18」(河村尚子/ファビオ・ルイージ/NHK交響楽団)ラフマニノフ「エレジー 変ホ短調 作品3第1」(河村尚子)ドボルザーク「交響曲第9番 ホ短調 作品95「新世界から」」(ファビオ・ルイージ/NHK交響楽団)CD:ラフマニノフ「前奏曲 変ト長調 作品23第10」(河村尚子)
2022.12.18
ポカリスエットのCMで、鈴木梨央が吉田羊と一緒に「瞳を閉じて」を歌っています。なかなか良い選曲センス。原田知世の「時をかける少女」もそうだけど、こんなふうに無垢な少女性にぴったりハマるときがあるのよね。逆にいうと、なぜ宮崎駿は、「魔女宅」とか「風立ちぬ」とか「コクリコ坂」のときに、これをテーマ曲に選ばなかったのかしら?と思ってしまう。ここに描かれている無垢な少女性&海への郷愁こそ、宮崎アニメの世界にピッタリでしょ!わたしなら「やさしさに包まれたなら」とか「ひこうき雲」は選ばない。つーか、「カントリーロード」のときもそうだったけど、このポカリのCM自体、完全にジブリの世界ですよねw◇…まあ、こういう通好みのセンスを避けるあたりが、「ナウシカ」のときに細野晴臣ではなく久石譲を選んだのと同じで、子供向け作家としての宮崎駿の通俗性なのかな、とも思うけど。とはいえ、次回作の宮崎アニメのテーマ曲を、鈴木梨央の歌う「瞳を閉じて」にしてもいいんじゃないかな、と本気で思ってしまいます。
2022.08.01
Youtubeで4月に配信された、ノラ・ジョーンズのスタジオライヴ演奏。Come Away With Me 20th Anniversary LivestreamLive At Allaire Studios, Shokan, NY, USA 2022Norah Jones, Bill Frisell, Tony Scherr, Brian Blade, Jesse Harris ノラ・ジョーンズというと、一般には「Don't Know Why」の印象が強いので、ニューヨークの洗練されたジャズシンガーのように思われてるけど、もともと彼女はテキサスの出身で、根っこにあるのはジャズというよりも、カントリーやゴスペルのような南部の土臭い音楽です。わたし自身、ジャズ歌手としてのノラよりも、南部の音楽を演奏する(あるいは南部風のアレンジで演奏する)ノラのほうが、圧倒的に好き。さらにいうなら、スタジオで録音された音源よりも、リラックスしたライブでの自由な演奏を聞くほうがいい。2002年のニューオーリンズでのライヴが、わたしのいちばんのフェイバリットでした。ニューヨークのお洒落なジャズではなく、南部の力強くて逞しい雰囲気があったから。ところが、コロナ禍になって、わたしをさらに魅了したのはYoutubeでの自宅ライブでした。▶ Norah Jones Live at Home素朴なピアノしかない狭い部屋で、リラックスした普段着で、ぽつぽつお喋りしながら弾き語る彼女の演奏を聴いていると、まるでお母さんがそばで歌ってくれてるかのような、この上なく贅沢で落ち着いた気分になる。…わたしよりだいぶ年下だけどね!(>_
2022.07.26
NHK-FMのクラシックの迷宮。「恐るべしルイ14世~フランス・バロック音楽と絶対王政~」を聴きました。テーマは《政治と芸術》。あるいは《政治と宗教》でしょうか?◇例によって、王の「踊る音楽」が紹介され、さらには「食事の音楽」から「就寝の音楽」までが紹介されました。王の踊りは、けっして遊びではなく、日本の王朝時代の皇族や貴族が雅楽を演奏して踊ったように、あるいは太閤秀吉がみずから能を演じたように、それも政治のうちだった。…とのこと。つまり、権力者の神聖性を顕示するための政治的なパフォーマンスだったのですね。◇以前、わたしは、「バロック音楽をフランス中心に捉え直すべき」と書きましたが、番組の後半は、それに近い話で、ルイ14世の時代に、フランス各地の野外の舞踊音楽が軍楽のなかに取り入れられ、やがてそれが宮廷内音楽として中央集権的にカタログ化されていった。たとえばバッハの組曲にも、その時代に確立されたフランスの舞踊組曲の様式が及んでいる。…とのこと。ちょうど19世紀のウィーンで、ワルツやポルカなどの周辺地域の舞踊音楽が流行したのに似ています。うすうす感じていたことだけれど、フランスのバロック音楽って、もともとは農民たちの素朴で可愛らしい舞踊音楽だったのですよね。ちなみに、ルイ13世時代の「アメリカ人」という曲も紹介されましたが、なにやらマカロニウェスタン風のアパラチア民謡みたいな謎の舞曲でした。当時のヌーベルフランスの文化に影響されたものだろうけど、北米先住民の音楽ってどんなものだったんだろう?◇やがてフランス革命によってルイ16世が殺され、絶対王政時代の「王権神授説」は、革命後の「人間理性万能説」へと転換していく。それは「王権神授」ならぬ「民権神授」ともいえるけど、いずれにせよ、ゲーテにならって言えば、神ではなく悪魔から授かった権力というべきかもしれません。そして片山杜秀は、アンドレ・カンプラの『新世紀の運命』という作品のなかに、啓蒙主義の側面を見て取っていました。わたしは、フランスバロックのなかでカンプラがいちばん好きなのですが、彼は、宗教音楽と世俗音楽を股にかけていた人で、その響きのなかには、神聖さと親しみやすさが共存しています。ルイ14世の政治が、かりに「世俗権力の宗教化」だったとすれば、アンドレ・カンプラの音楽は、逆に「宗教信念の世俗化」だった、という気がします。
2022.07.24
ここ3ヶ月あまり、GYAOの無料動画で映画ばかり観ている。レビューはほぼ全部こちらに書いてるけど、https://www.jtnews.jpこれまで観たのは約30本。若いころは、劇場通いをして年間200本くらい観てたこともあったけど、(週末の名画座で2本立てなどを観つづけるとそのぐらいの本数になる)それに次ぐようなハイペースになっています。わたしはDVDをレンタルする習慣もないし、テレビのロードショー番組もほとんど観なかったから、一時期は、年に数本しか映画を観ていなかった。いつか観ようと思いつつ、なかなか観れずにいた映画も多いけれど、ここにきて思いがけず観る機会に恵まれています。◇フェリーニ、パゾリーニ、ベルトルッチなど、イタリア映画を観れたのは思いがけない収穫だったし、相米慎二の映画を良好な画質で観れたのも良かった。往年の松田優作の映画や角川映画などは、こんな機会でもなければ観ることもなかったと思う。あまりに観たい作品が多いので、いちおう優先順位はつけているものの、無料配信期間内に消化しきれず、小津安二郎の無声映画や市川雷蔵の時代劇などは、取りこぼしてしまいましたが。◇テレビドラマなどを長時間見ていると、目が疲れてしまうことも多いけど、なぜか古い映画はあまり目が疲れない。昔は、画面が暗くてよく分からない映画も多かったけど、最近はどの作品もリマスターが施されていて、古い映画でも画質上のストレスがほとんどありません。…ただ、GYAOの難点は、変なタイミングでCMが入ること。そして、作品の検索がしにくいこと。レンタルビデオ屋並みに分類がいい加減だし、作品情報もまともに登録されてないから、監督名や俳優名で検索しても出てこないことが多い。いちおう、関連作品やおすすめ作品などは表示されるのだけど、正直、自分の好みとはかなりズレています。結局のところ、公開されている作品を隅なくチェックするしかありません。
2022.06.30
シンウルトラマン。Youtubeで冒頭映像10分33秒を観ました。一度目は、何が起こってるのかよく分からなかったけど、単純にスペクタクルとして面白かったです。二度目は、0.75倍速で見てみました。字幕もちゃんと読めたし、セリフも聞き取れた!ネロンガは透明禍威獣だったんですね(笑)日本が核兵器の何に批准したのかは聞き取れませんでした。ネロンガがミサイルを迎撃!美しい…ゴメス!マンモスフラワー!ぺギラ!ラルゲユウス!パゴス!禍威獣けっこうカワユス…
2022.06.25
GYAOの無料動画で、相米慎二の「風花」を見ていたら、わたしのなかで、相米の「雪の断章」と黒沢清の「岸辺の旅」が繋がりました。ネットで検索する限り、この3つの作品を関連づけるテキストは見当たらなかったので、とりあえず私的なメモとして書いておこうと思います。もしかしたら、それは「雪の断章」の不可解な特異性とか、そのラストシーンの忠臣蔵の謎を解く手懸かりになるかもしれない。◇一般に、相米慎二は、ロングショットの長回しに象徴される「文体の作家」だと思われていて、その物語の内容に関心が寄せられることは、ほとんどありません。なんなら、相米自身が、物語にまったく無関心な作家だとさえ思われてるし、わたし自身も、おおむね今まではそう考えてきました。事実、「雪の断章」などを見ると、サスペンスの真相を明かす台詞がカットされてたりして、物語に対するあからさまな関心のなさが現れてるようにも見える。そんなわけで、相米慎二が「物語の作家」として言及されることは、ほぼ無いに等しいのですね。◇けれど、今回、彼の遺作になった「風花」を見ていたら、相米慎二にも何かしら描かずにはいられない内容があったんだな…と思ってしまったのです。といっても、それは明確に《物語》というほどのものではなく、むしろ、ぼんやりとした、風景とか、記憶とか、感情みたいなもの。端的にいうと、「雪の断章」と「風花」に共通して描かれているのは、北海道の《記憶》と、そこに付随する《底知れぬ寂しさ》のようなもの。より具体的にいうと、「風花」で小泉今日子が死のうとするまでの流れと、「雪の断章」で世良公則が海で死のうとするまでの流れが、とてもよく似ているのです。酒を呑んで、性の売り買いがあって、雪が降っていて、水のそばで死のうとする。この一連の流れが、とてつもなく悲しくて寂しい。死の淵から引き寄せられているような怖さもある。ちなみに、相米慎二は岩手の生まれですが、6才から18才までの少年期を北海道で過ごしています。◇黒沢清の「岸辺の旅」で、深津絵里が滝壺や海岸から戻ってくる物語も、この小泉今日子や世良公則が死の淵から引き返してくる物語に近い。もっとも「雪の断章」の世良公則の場合は、結局、ラストで原作どおりに死んでしまいますが、小泉今日子と深津絵里は、最後に生きる力を取り戻すのですね。…濱口竜介は、「あ、春」を肯定的に捉えることで「雪の断章」を相対化し、その不可解さにひとつの答えを出していたけれど、彼が言及していたのも、結局は「文体」の問題だったといえる。でも、案外、黒沢清などは、相米が「風花」で描いた物語に注目したうえで、あえて「岸辺の旅」のような作品に挑んだのかもしれません。浅野忠信の役柄だけでなく、文体の面でも「風花」と「岸辺の旅」は似ていると思う。◇わたしは、いままで、相米の「雪の断章」も「あ、春」も、そして黒沢清の「岸辺の旅」についてさえも、もっぱら文体という点からしか観てこなかったので、過去に書いたレビューでも、ほとんど内容面には触れてこなかったけれど、▶「雪の断章」▶「岸辺の旅」▶「あ、春」このたび「風花」を見たことで、これらの映画も文体だけで論じるべきではないと感じています。 …ってことで、とりあえず「風花」についての基本的な感想もこちらに書きました。▶「風花」ちなみに、相米慎二の映画は、しばしば原作を冒涜してるともいわれるけど、彼があえて佐々木丸美や鳴海章なんぞの小説をとりあげたのも、この2人が北海道の作家だからこそだろうと思います。 なお、4月18日に映画プロデューサーの佐々木史朗が亡くなりました。彼が最後に制作したのが、黒沢清の「岸辺の旅」だったようです。追記:U-NEXTで「魚影の群れ」を観ました。くわしいことは↓こちらに書きましたが、https://www.jtnews.jp/cgi-bin/review.cgi?SELECT=24063&TITLE_NO=6934#HITやはり死の匂いのする北海道の海岸で、セックスをして酒を呑むという構造は「雪の断章」と同じ。緒形拳は生きて帰ってきますが、代わりに佐藤浩市が死んでしまう。製作の順序から考えれば、「雪の断章」や「あ、春」や「風花」の原型は、この「魚影の群れ」なのかもしれません。
2022.05.14
日テレの「金田一少年の事件簿」は、ジャニーズの出世頭から抜擢されることになってますが、今回は、なにわ男子の道枝駿佑が選ばれました。相手役は萌歌が務めてますが、「キミスイ」で美波と共演した大友花恋や※彼女は「幽かな彼女」にも出てたらしい。「こどわか」で萌歌と共演した細田佳央太など、東宝シンデレラに縁のある共演者も顔を揃えています。このドラマの制作の背景として、ジャニーズと東宝の一致した《先祖返り戦略》が見て取れます。1.ジャニーズの伝統回帰なにわ男子は、これまでのジャニーズのなかで、ある意味で伝統的、ある意味で革新的なグループです。ジャニーズは伝統的に、「可愛い・王子様」系の男性タレントを育ててきましたが、近年では、EXILE や BTS などの影響もあり、「ワイルド・やんちゃ」系のタレントや、本格派ダンスユニットのほうへ軸足を移してきています。しかし、なにわ男子は、あくまで「可愛い・王子様」系の伝統を守っていて、まるで女の子のようなルックスの美少年ばかり集まっている。そして、このグループが革新的なのは、そうしたキャラクターを関西圏から集めていることです。2.上方エレガンスと阪神間モダニズムKinKi Kids、関ジャニ∞、ジャニーズWEST など、以前からジャニーズには関西のグループが存在しましたが、彼らの多くは、大阪弁を話すなどして、いわば「コテコテの関西色」を打ち出していました。これに対して、なにわ男子の場合は、「京都・神戸風のエレガンス」を打ち出してるように見える。とくに道枝駿佑は、ほとんど関西弁を話しません。こうした路線には、平安京以来の「雅な上方文化」への回帰という面があって、これがじつは東宝の伝統路線とも重なり合っています。もともと東宝は、阪神間モダニズムを象徴する宝塚を母体にしていて、コテコテの大阪色というよりも、むしろ「上方のエレガンス」を体現してきました。沢口靖子や福本莉子も関西出身です。◇昨年から今年にかけて、東宝シンデレラ出身の上白石萌音が、NHKの「大河」「朝ドラ」「紅白」に出演、そして帝劇の「千と千尋」でようやく山場を越えたのですが、これからまた、9度目になる東宝シンデレラオーディションがあり、そして福本莉子が主演する映画「セカコイ」の公開が控えます。2004年に行定巌×長澤まさみの「セカチュー」が公開、2017年に月川翔×浜辺美波の「キミスイ」が公開されましたが、このたびの「セカコイ」は、いわば第3弾に位置づけられます。3.青春映画の決定版1980年代には、「時をかける少女」や「ねらわれた学園」など、SFジュブナイル系の青春映画が人気だったのですが、なぜか2000年代になると、「セカチュー」「いまあい」「1 リットルの涙」など、病弱なヒロインを主人公にした純愛ものが人気を博し、さかんにドラマ化・映画化されるようになりました。その系譜にあるのが、いうまでもなく浜辺美波の「キミスイ」です。これらはすべて、内容的にみればベタな通俗小説の映像化なのですが、おおざっぱにいえば、伊藤左千夫の「野菊の墓」や、堀辰雄の「風立ちぬ」のような純愛路線への回帰となってます。◇三木孝浩×福本莉子の「セカコイ」は、こうした一連の流れを受けて制作されていますが、そこで道枝駿佑がクローズアップされることになります。今回の映画では、「キミスイ」の月川翔が脚本、「空色物語」の三木孝浩が演出、松本穂香、古川琴音、野間口徹、水野真紀らが共演。ここで福本莉子のプロモーションがおおむね完了し、第9回オーディションで次の東宝シンデレラが誕生します。道枝駿佑は、「セカチュー」の森山未來、「キミスイ」の北村匠海につづく抜擢になります。彼の色白のルックスは、「可愛い王子様キャラ」と「やんちゃな不良っぽさ」の両面を、全盛期の田原俊彦のように表現できる特長がありますが、今回の「セカコイ」では、彼の「あやうさ・儚さ・脆さ」がいっそう注目されることになるでしょう。 世界の中心で、愛をさけぶ君の膵臓をたべたい今夜、世界からこの恋が消えても
2022.04.26
昨夜のNHK「うたコン」で、五木ひろしと、清塚信也、村治佳織とのコラボがお洒落だったので、さっそく新作『DREAM』を聴いてみようと思ったのだけれど、なぜか配信していない!かろうじて試聴が出来るだけ。こういうアルバムこそ、海外市場を視野に入れて配信すべきでしょ。そして、フルで聴ける音源を、数曲程度は YouTube にアップしなければいけません。そうじゃないと、海外の反応を把握することすらできないでしょ!それとも、レーベル側は、はなから国内向けの「企画もの」という程度の意識しか、もちあわせていないのでしょうか?◇わたしは、じつは、21世紀のJ-POPのベストテイクのひとつが、森進一の「愛のままで…」だと思っているのだけど、なぜか、演歌歌手によるJ-POPは、いまだにキワモノ的な企画扱いで終わってしまう。今回の五木ひろしのアルバムを聴いても、けっして演歌とJ-POPを接ぎ合わせたような無理矢理感はないし、そもそも、この2つのジャンルには、世間で思われているほどの音楽的な差異など存在しないのです。それは、あくまで国内リスナーのくだらない先入観にすぎないし、そういう先入観は、いずれ「外圧」によって取り払われるのだろうと思っている。だからこそ、世界市場にむけて積極的に発信すべきなのです。◇ちなみに、以前、小西康陽が八代亜紀をプロデュースしたり、Pink Martiniが由紀さおりをプロデュースしたりしてたけど、作品そのものも、さほど上手くいっていなかったし、しょせんは旧渋谷系界隈の一時的なトピックに終わっていた。そもそも、こうしたミュージシャンによる編曲は、まったく「歌」というものを主軸にしていないので、せっかくの歌を彼らの好みのサウンドに押し込めてるにすぎない。結果的に、本来の歌唱力を殺してしまっている。とくに、J-POPの場合は、下手な歌を前提にサウンドを作ることしか考えてないから、歌唱力を最大限に活かす方法論をもちあわせてないし、そういう組み立てがまったく出来ないのですね。かたや演歌の場合は、歌唱力にばかり依存しすぎて、楽曲やサウンドの発展をまったく追求してきませんでした。◇その点、清塚信也は、音数を減らして、歌を活かすアレンジを実現しています。もともとクラシックの中には、歌を軸にして組み立てる手法がきちんとあるからです。そういう点で、やっぱりJ-POP系のアレンジャーよりも、クラシックの基礎をもったミュージシャンのほうが、全体の構造を高い次元からとらえることが出来るし、視野が広くて、選択肢も多いとは思う。結局、そういう視点からでなければ、《演歌の歌唱力》と《J-POPの楽曲》を統合することは、なかなか難しいのかもしれません。まあ、近年は、アカデミックな音楽教育を受けてる編曲家も多いし、こういう試みは、以前よりも容易になるだろうとは思います。追記:あらためて確認したら、ちゃんと配信されていました!スミマセン…(^^;なぜ勘違いしたかというと、(これは spotify のサイトに問題があって!)以下の2つのページが統合されていなかったのです。https://open.spotify.com/artist/19UvGbujplb8Ra8xV5yedshttps://open.spotify.com/artist/4nhQij93FmyNK73ewqgoDZ「ハナミズキ」「桜坂」がおすすめ。森進一の『Love Music』もちゃんと配信されています。https://open.spotify.com/album/4iJcFsy8P35gCUrLisqLoZ
2022.04.20
原田知世の新作「fruitful days」。…これは名盤。最近は、アルバムを通して聴くことも少なくなったけど、めずらしく一気に聴き通してしまった。今年のわたしのベストアルバムかも。全9曲で捨て曲もありません。Wikipediaの記事は1曲ぬけてる…(^^;◇原田知世のアルバムは、つねにチェックはしていたものの、たいていはチェックだけで終わってた(笑)。アイドル時代のものや、鈴木慶一時代のものには、長く聴き続けている作品もあるのだけど、伊藤ゴロー時代になってからは、おおむねチェックするだけで終わっていた(笑)。しかし、今回は違う。これなら長く聴き続けられそう。というより、もう長いこと聴いてきたような錯覚に陥るほど、すんなり耳に馴染んでいる。伊藤ゴローのサウンドには懐の深さがあるし、知世の歌声にもまったく無理なところがない。自信がみなぎってて安定感があります。これが、おそらく、伊藤ゴロー時代の代表作になるでしょう。じつをいうと、これは「スナックキズツキ」を見て感じてたのだけど、今の原田知世は、とても良い状態にあるんだろうな、と思う。◇あのドラマで彼女が演じたのは、漫画家の夢を諦めて、スナックのママになって、客に対して「あんた」とタメ口で話しつつも、何故か酒類はいっさい提供せず、新鮮なフルーツジュースや、暖かいホットココアや、優しいオニオングラタンスープや、手作りの料理を振る舞ってる風変わりな女性でした。あのドラマを見て、原田知世は変わった、と思いました。デビュー40年目にして、ようやく彼女なりに「少女性」を乗り越えたって感じ。◇原田知世は、デビューして以来40年近く、ずっと「少女」のままだったのですよね…。大林宣彦と一緒のときはもちろん、角川春樹や渡瀬恒彦と一緒にいるときも、鈴木慶一と一緒にいるときも、細野晴臣や高橋幸宏と一緒にいるときも、いつも彼女の表現は「おじさんと少女」の組み合わせで成立していた。結婚しても、子供を産むことはなかったし、およそ家庭というものを感じさせなかったし、けっして「少女性」が失われることはなかったのです。それが知世の長所でもあり、短所でもあった。◇伊藤ゴローとの組み合わせにおいては、その意味で、彼女の短所のほうが目立っていたと思う。伊藤ゴローは、彼女にとって「おじさん」じゃなかったし、その組み合わせはいまひとつ安定感に乏しく、どこか背伸びするような無理を感じさせていました。知世の歌にも、伊藤ゴローの音楽にも、なかなか目指すものに到達しきれてない感じがあった。…しかし、離婚をして、大林宣彦も死んで、ようやく、ここにきて、原田知世の「少女性」が抜け落ちた感じがします。それは逆にいえば「おじさんを必要としなくなった」ということ。そのことが、いまの彼女の自信と安定感に繋がっているように見える。本人の話によると、コロナ禍になって周囲に振り回されずに済んでいることも、精神的に良い影響を及ぼしているらしい。このアルバムを聴いていたら、また「スナックキズツキ」を見たくなりました。どちらかというと「おばさんと青年」みたいな図式。
2022.04.19
鈴木茂×小原礼×林立夫×松任谷正隆「SKYE」。このなかで、いちばん好きなのが、松任谷のつくった「川辺にて」という曲なのだけど、これを聴いて、…この曲、どっかで聴いたことあるのよ!…たしか、どっかのオジサンが歌ってたのよ!…しかも、それはわたしのすごく好きな曲だったはず!…誰だっけなあぁ。と頭をグルグルさせてたら、やっと思い出した(笑)。↓これです。Ringo Starr「Gave It All Up」 わたしは、リンゴ・スターがとても好きなんだけど、なかでも、この曲がいちばん好きかも!泣いちゃうよ!◇ちなみに、この曲が入ってる『Ringo The 4th』というアルバムは、リンゴが絶不調のときの作品といわれていて一般的にとても評価が低く、商業的にも大失敗でいまだに配信もされていない …という不遇な扱い!アトランティックレコードで、アリフ・マーディンが作ったせいもあって、かなり米国色が強いからなのか、とくに英国ではまったく受け入れられなかったらしい。でも、わたしはこのアルバムがとても好きなのよ!はたして松任谷がリンゴを意識して作ったかどうか知らないけど、ここからも、「妻(ユーミン)は英国好き、夫(正隆)は米国好き」というのが分かる。あと、最後の「BLUE ANGELS」もいいですね。
2022.04.19
東出昌大の独立にあたって、所属事務所のユマニテが文書を発表しました。おりしも、濱口竜介の映画「ドライブ・マイ・カー」が、米アカデミー賞の4部門ノミネートで注目されているさなか!2020年3月の『Flash』の記事には、「東出昌大は村上春樹原作の映画を降板」と書かれていました。(おそらく彼の代役は岡田将生です)◇今回の文書のなかで、ユマニテ社長の畠中鈴子は、東出に対して、怒りを超えた「徒労感と虚しさ」を表明しています。昔から、芸能プロダクションが、独立したタレントの活動に対して、隠然と圧力をかけて妨害する話はありましたが、これほどのネガティブキャンペーンを、あからさまに世間に対して発信するのも珍しい。おそらく、ユマニテの畠中鈴子は、>非があるのはもっぱらタレントのほうであり、>事務所の側はあくまで被害者なのだ…と主張することで、今回の契約解消を社会的に正当化したかったのでしょう。そうでもなければ、こんな文書をわざわざ世間に公表する必要はないのだから。そうした企業戦略もなく感情にまかせて書いた文章だとすれば、あまりに幼稚な一人語りだと言わざるをえません。かつてとは違って、現在の芸能事務所には、タレントに圧力をかけるほどの力がないのかもしれません。だからこそ、これはメディアを巻き込んだ一種の情報戦であり、世論を味方につけるための演出なのだろうと思う。あるいは、違約金などの問題で、今後、争っていくことを念頭に置いているのかもしれません。◇ちなみに、濱口竜介の映画は、こうした一連の経緯に対して、不思議なほどに"予言的"です。2018年の「寝ても覚めても」は、消えた恋人と同じ顔の男に溺れていく女性の物語。ここで、東出昌大は、唐田えりかの恋人役を一人二役で演じていました。キネマ旬報ベスト・テン第4位。ヨコハマ映画祭作品賞。そして、東出昌大は、2020年1月の『週刊文春』で唐田えりかとの不倫を報じられます。◇同じく2020年、濱口竜介が脚本を担当した「スパイの妻」は、関東軍による細菌戦の実態を告発しようとした男の物語。ここで、東出昌大は、主人公の妻をひそかに慕いつつも、やがて無慈悲な軍人へと変貌する若い男を演じています。キネマ旬報ベスト・テン第1位。ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞。そして現在公開中の「ドライブ・マイ・カー」は、脚本家の妻に先立たれた演出家の男の物語。ここで岡田将生は、かつて主人公の妻と浮気していた若い俳優を演じています。かたや、東出昌大のほうは、離婚後の恋愛を『週刊文春』に報じられています。カンヌ国際映画祭 脚本賞・FIPRESCI賞・エキュメニカル審査員賞。ゴールデングローブ賞 非英語映画賞。全米映画批評家協会賞 作品賞・監督賞・脚本賞。ロサンゼルス映画批評家協会 作品賞・脚本賞。ニューヨーク映画批評家協会 作品賞。ボストン映画批評家協会 作品賞・脚本賞。トロント映画批評家協会賞 作品賞・脚本賞。アジア太平洋映画賞 脚本賞・作品賞。はたして、濱口竜介の映画のほうが予言的なのでしょうか?それとも、現実の人々こそが、作品の登場人物のように「物語」を演じているのでしょうか?…端的にいうならば、柴崎友香や村上春樹の小説にせよ、濱口竜介の映画にせよ、それらの「物語」は現実社会と同じ構造で作られているのだと思います。同じ構造のなかを生きるかぎり、小説や映画の登場人物であろうと、現実の社会を生きている人間であろうと、あらかじめ仕組まれた人生を運命的に生きるしかありません。すぐれた作家の物語がしばしば予言的なのは、そのためだと思います。>>濱口竜介による"斉藤由貴論"
2022.02.16
大晦日放送の、NHK「クラシック名演・名舞台2021」を見ました。藤田真央くんの「トルコ行進曲」でまたも驚いた。てっきり彼はモーツァルト向きと思っていたけれど、実際の演奏はむしろ「モーツァルトらしさ」が抑制されていて、緻密に究めるような、ストイックな印象。遊び心たっぷりに楽しく弾くのでもないし、純真無垢に可愛らしく弾くのでもない。ある意味、マットな演奏と言ってもいい。それが意外で面白かったです。◇もともと「トルコ行進曲」ってのは、当時のトルコブームにあやかって、大衆受けを狙ったノベルティ的な楽曲であって、まあ芸術的な価値は低いんだろうと思いがちだけど…最近は、いろいろ意欲的な演奏があって面白いですね。ファジル・サイのトンデモ編曲のときも驚いたけど、今回の演奏で、またこの曲の印象が変わったし、真央くんの演奏に対する印象も変わりました。https://medicitv.jp/VerbierFestival/xohfF◇このほか、カヴァコスのブラームス、オピッツの「展覧会の絵」なども素敵だったので、もっと聴いてみようと思います。レオニダス・カヴァコス×萩原麻未:ブラームス「バイオリンソナタ第1番ト長調作品78」ゲルハルト・オピッツ:ムソルグスキー「展覧会の絵」あ、ファビオ・ルイージのベト7も良かったです。それにしても、プロムスとかバイロイトとか、欧州の音楽祭は楽しそうで羨ましい。ウィーンのニューイヤーばかり有り難がってる日本人にくらべて、やっぱり音楽を楽しむ能力が高いんだなあと感じます。
2022.01.02
Little Glee Monster。「透明な世界」「REUNION」「君といれば」。いまの季節に沁みる。勝手に3部作に認定して、ひたすらパワープレイしてるよ。
2021.12.02
先週のNHKクラシック音楽館。前に見た藤田真央くんのシューマンが面白かったので、今回のラフマニノフ3番も聴いてみようと思いました。普通なら聴くだけでも体力を要する曲だけど、真央くんなら、まったく違うラフマニノフになりそうだし。しかし、その前に、17才の奥井紫麻おくいしおが弾くモーツァルトの23番!まず、これに心惹かれてしまった。聴いた瞬間、「うわー、この人はモーツァルト弾きだぁ」と思う。天使の戯れのように清らかで軽やかな音。わたしとしては理想的なモーツァルトでした。かたや、2楽章になると一転して、しっとり色気を感じるような、慈しみのある演奏だったり。同時に、モーツァルトの音楽が、驚くほどモダンだということにも気づく。わたしは今まで、もっぱらピアノソナタとかしか聴かなくて(笑)、(たいていピリスの演奏)あまりモーツァルトのコンチェルトに関心が向かなかったけど、今回の演奏を聴いて、はじめて魅力に目覚めたかも。おかげで23番が好きになった。あとで奥井紫麻のことを調べてみましたが、べつにモーツァルトにばかり傾倒しているわけでもないようです。というか、Wikipediaのページもまだなくて、もしかしたら、今回が初めてぐらいの本格メディア出演だったのかもしれません。◇そして、真央くんのラフマニノフ。やはり面白かった。わたしは知らなかったけど、彼はチャイコのコンクールでもこれを弾いたらしい。ラフマニノフの協奏曲といえば、甘いメロディーの2番に対して、ずっしりした重さの3番だし、わたしはどうしてもアルゲリッチの印象に直結してしまう。けれど、真央くんの演奏は、そういう重さや暗さとは無縁で、ひたすら絢爛豪華な世界を楽しむって感覚のほうが強い。しかも、抒情的で甘い。忘我の状態で華やかさの中へ耽溺するような演奏。ロマン派はロマン派でも、貴族文化に憧れる大正ロマン幻想って感じ?(笑)意匠を凝らした瀟洒な調度品を見せられてるみたいです。良くも悪くもクールな演奏で、ほとんど感情表現というものを伴わないから、感情にまかせてドバっと曲想が押し寄せたりしないし、そのぶん、細部の造りがクリアに耳に入ってきて、隅々までその美しさを堪能できます。本人も、汗だくだけど、ニコニコして楽しそうに弾いてる。一般的には「難曲」といわれる3番だけど、けっして肉体的に振りしぼって力まかせに弾くのでもなく、技術的には余裕をもって弾いてるようでした。シューマンを聴いたときも、「まるでチャイコのくるみ割り人形みたい」と思ったけど、今回も、そういう華やかさと楽しさを感じました。奥井紫麻/井上道義&アンサンブル金沢:モーツァルトのピアノ協奏曲第23番藤田真央/高関健&仙台フィルハーモニー管弦楽団:ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番
2021.11.11
CHAIは、2018年の1stアルバムで、いきなり世界デビューしている。わたしぐらいの世代から見ると、初代ミカバンドや少年ナイフのような、日本生まれの女子パンクバンドって感じです。あまりよく知らなかったけど、最近、萌歌の影響で聴くようになりました。◇CHAIは、かつてのザ・ピーナッツと同様に、双子のデュオを中心にした4人組ユニットですが、興味深いのは、どちらも名古屋出身だってこと。八神純子や緑黄色社会もそうだけど、名古屋には歌の上手い女性が多くて、しかも、世界に進出している人が多い。◇名古屋といえば、派手めの格好をした人たちが、「みゃー」とか「にゃー」とか言いながら、町の喫茶店でモーニングセットを食べるという、そんな八丁味噌と味噌カツのイメージですが、もともと名古屋のある愛知県は、駿府のある静岡県にならぶ徳川のお膝元でもあり、世界のトヨタの拠点でもあり、イチローや藤井聡太のような天才が出現したり、武井咲のような絶世の美女が出現するだけでなく、朝ドラの「純情きらり」や「エール」を見ても分かるように、早くからクラシックやジャズの文化が育った場所でもあるので、きっとそこには独自の音楽も発展しているのだと思います。ちなみに、愛知のトヨタと、静岡のヤマハは、飛行機から自動車、バイク、楽器に至るまで、木製機械製作を発端にした世界産業を作りあげましたが、そこにもやはり徳川文化を土台にしたバックボーンがある。ヤマハのある静岡からは上原ひろみという天才も出現しています。◇しばしば日本のロック文化は、首都圏や関西圏のみならず、博多、広島、札幌などにも独自の土壌があるといわれます。それと同じように、おそらく名古屋を中心とする東海地域にも、きっと独自の音楽文化の土壌があるのだろうと思う。CHAIの音楽からは、そんなことを感じます。ちなみにCHAIのイメージカラーは、いかにも "名古屋っぽい!" と思わせるような "どピンク" です。《新旧の天才双子デュオ》
2021.09.26
細田守の「竜とそばかすの姫」に登場するアバターは、従来のイメージとはかなり違っています。その最大の特徴は、ユーザーの生体情報をスキャンし、それを仮想空間にアップロードする …ということ。しかし、細田守は、そのことの意味を極限まで突き詰めていないように見える。◇従来のボディシェアリングはたんに仮想空間の身体(アバター)を所有するということです。しかし、「竜とそばかすの姫」におけるボディシェアの技術では、まず自分の現実の身体(生体情報)を、仮想空間にアップロードする、ということになっている。ヴァーチャルに再構成されたアバターとしての身体は、生身の体と連動した状態にも出来るでしょうが、理論的には、本体から切り離して一人歩きさせることも出来るし、不特定多数の人々に共有させることも出来るはずです。ちなみに、スキャンされる「生体情報」とは、たんに身体の姿形だけでなく、運動能力や知能、そして動作や思考や感情のパターンも含むはずです。◇おそらく、そうした生体情報は「商品」になって、需要に応じて無限に複製されるでしょうし、必要に応じて無限に整形されることになるでしょう。人々は、他人の身体や、恋人の身体や、アイドルの身体や、死者の身体や、自分の過去の身体や、さらには未来の身体までも、自由に所有し、書き換え、体験し尽くすことが出来る。身体的な経験の比重が仮想空間のほうに傾き、自分自身のバリエーションが無限に拡散し、それが不特定多数の人々に共有されていくなかで、もはや本物と偽物の区別など意味をなさなくなり、本物の意味がなくなれば、そのプライバシーや匿名性を守ることの意味も消失するはずです。それが、生体情報を共有しあうボディシェアの究極の世界だと思います。
2021.09.04
J-WAVEでサラーム海上が、ダニ・エヴァ・ハダニというイスラエルの女性歌手を紹介してたので、そのアルバムを聴いてみたら、とてもいい曲がありました。ミニアルバムの4曲目に入ってる「Eyze Mazal」です。7/1には公式のYouTubeチャンネルにもUpされてるんだけど、7/10の時点で、なんと再生回数がたったの6回!(そのうちの1~2回はたぶんわたし…)それからさらに4日たってますが、いっこうに再生回数が増えません。どうやら世界中でわたししか聴いていないっぽい(笑)。そんなことあります?イスラエル人は聴いてないんかいっ!!つか、サラーム海上も聴いてないんかいっ!小島麻由美も聴いてないんかいっ!アーティスト自身も、スタッフも、だれも聴いてないんかいっ!…てなわけで、もしかしたら世界でわたししか聴いてないかもしれませんが、とてもカッコいい曲なので貼っておきます。ちなみに、彼女がキーボーディストとして在籍しているBoom Pamの音楽は、もっとダサめの中東サーフ歌謡です。たぶん、こっちのほうが人気があるんだろうなあ。
2021.07.14
なぜか、この新旧4曲をひたすらパワープレイしてるわたし。4曲とも、歌詞はともかく、メロディがすごく面白い。
2021.07.08
NHKはこれまでにも、北海道の一族のルーツとか、安彦良和についての番組を作ってますが、今回は、ひたすら作業場を撮影する番組でした。おかげで美しい絵をたっぷり堪能できた。できれば、彩色するところも見てみたい。◇安彦良和の絵は、ほかの誰とも似ていません。学生運動の闘士だった人の、硬派な内容のストーリーとは裏腹に、その絵の柔らかさと美しさには、ほとんど女性的な繊細ささえ感じます。◇今回の番組でくりかえし語られたのは、彼の根っこが「アニメーター」だということ。このことが、漫画の作風にも大きく影響しているのですね。ペンで書くのではなく、筆で塗る。これはアニメーターならではの手法ですが、だからこそ、絵が柔らかくなるし、より絵画的になるのだと思う。あえて水分の滲みやすい用紙を使ってるところにも、やはり「塗る」という発想に近いものを感じます。普通の漫画家のように、線とセリフで物語を筋を語っていくのではなく、また、メカの形状を精密に描写するのでもなく、すべての事物と、場面と、出来事を、ひたすら淡い「光と影」によって浮かび上がらせています。これは、ある意味で印象派に近いかもしれない。どんな硬質なメカニックであっても、それを遠くから見れば、やはり光と影の視覚現象にちがいはないのだから。しかも、アニメーターというのは、止まった絵ではなく、動く絵を作る人たちです。1枚1枚の絵には、かならずその前と後に流れる時間があって、すべての絵は、一連の動きのなかの一瞬でしかない。逆にいえば、どの一瞬のなかにも躍動が宿っているし、しかも、そのすべての瞬間を分析的に取り出さなければなりません。そこがまた漫画の発想とは違うところでしょう。◇考えてみれば、このような安彦良和の特徴は、彼のライバルの宮崎駿に共通してるかもしれません。(ちなみに2人とも所沢在住)宮崎駿の光と影の柔らかさ、人物の柔らかさ、メカの柔らかさ、そして動きのダイナミズム。一般的には、アニメよりも漫画のほうが「絵画的」と思われがちだけど、ほんとうは逆なのかもしれません。NHKプラスの配信は16日まで。click!
2021.06.10
凄かった~!!思わず我を忘れて見入ってしまいました。ドラマ『まめ夫』で絶賛注目されているKID FRESINOと、萌歌が好きだと言っていたカネコアヤノ。NHKの音楽番組がこんなに面白いと思ったことないよ!生放送でこんなハイクオリティな演出ができることも驚き!渋谷のセンター街を歩いてると思ったら、いつの間にかスタジオの中?!どうなってんの~!!そのほかにもカッコよくて驚くような演出がたくさん。これはNHKの音楽番組史に残るような、伝説的な回になったと思います。もちろん映像だけでなく、音楽的にも素晴らしかった。ヒップホップにこんなに聴き入ったのは初めてかも。センスが良いだけでなく、スティールパンが入ったり、ストリングスが入ったり、サウンドも豊かで多彩だし、表現にユーモアもある。◇毎回、フジの『まめ夫』の内容とセンスの良さにも驚かされるけど、今回のNHKの番組にも心底驚かされました。ドラマといい、映像といい、音楽といい、いままでにない表現が出てきてる感じだなー。↓来週の土曜日までNHKプラスで見れるようです。click!
2021.06.06
土岐麻子の『HOME TOWN』というカバー集。ずっと聴いてます。HOME TOWN 〜Cover Songs〜01. ソラニン 編曲:川口大輔02. Jubilee 編曲:関口シンゴ03. アイ 編曲:佐伯youthK04. 夏夜のマジック 編曲:Shin Sakiura05. 楓 編曲:mabanua06. Rendez-vous in '58 (sings with バカリズム) 編曲:川口大輔07. 白い恋人達 編曲:川口大輔08. I Miss You 日本語訳詞:土岐麻子 編曲:関口シンゴ09. CHINESE SOUP 編曲:トオミヨウ10. VITAMIN E・P・O 編曲:トオミヨウ11. HOME 編曲:トオミヨウ彼女のアルバムにしては珍しく、わたしともすごく波長が合う(笑)。いつもの土岐麻子は、昔のEPOみたいに、80年代風のシティポップを軽快に歌ってる人です。でも、わたしにはそれがちょっと軽快すぎる。あまりにも陰翳がなさすぎて明るすぎるので、日本人的なわたしの情緒には、かえって疲れてしまうのです。その点、今回のアルバムは、ほどよい湿度と陰翳があります。しっとりしたバラードが多いけれど、持ち前の明るくて軽やかな歌声のおかげで、重くなりすぎず、湿っぽくなりすぎず、ほどよく優しく、ちょうどよく沁み入ってくる。わたしの情緒にもしっくりきて優しい。どうやら周囲の意見を取り入れて選曲したらしく、本人としては妥協の産物だったのかもしれません。いわば最大公約数的なポピュラリティ。でも、それがうまくいったんだろうなと思います。アレンジも洗練されていながら、尖りすぎず、まったく邪魔にならないサウンド。とくに秦基博の「アイ」は、なんとなくBill Withersの「Lean On Me」を思わせる感じ。本人の好みかどうかは分からないけど、彼女にこういうバラードは合っている気がします。
2021.04.06
昨夜、関ジャムの J-POP 20年史ランキングが発表されました。わたしの予想は、「パプリカ」「ポリリズム」「PPAP」の、いわゆる"3P"フィニッシュだったのだけど(変な意味じゃありません!)第1位に選ばれたのは、P は P でも「Pretender」でした。惜しい!◇上位30曲のうち、わたしの予想が当たったのは16曲。思ったよりも、正答率が低い…。上位50曲でも18曲しか当たっていません。ちなみに、元ちとせ「ワダツミの木」夏川りみ「涙そうそう」森山直太朗「さくら(独唱)」Superfly「愛をこめて花束を」サカナクション「新宝島」…あたりは、迷ったうえで外した曲なので、それほどの不満はありませんけど。◇しかし!それでもなお、今回のランキングには、かなり不満があります。それは、以下の6つの点で。1.一青窈の「ハナミズキ」を無視している。2.MONGOL800の「小さな恋のうた」を無視している。3.いきものがかりを全面的に無視している。4.中島みゆきを全面的に無視している。5.RADWIMPSとLiSAの評価が低い。6.90年代の価値観を引きずりすぎている。これらの点について、番組関係者には納得のいく説明をしてもらいたい。このままでは断固として受け入れられません!(笑)◇1.一青窈「ハナミズキ」を無視している。「ハナミズキ」は2000年代をもっとも代表する曲で、カラオケでもつねに上位にランキングしつづけています。たとえば夏川りみの「涙そうそう」などは、ほとんど歌謡曲として受容されたというべきですが、「ハナミズキ」は、あきらかなJPOPであるにもかかわらず、まるで歌謡曲のように世代を超えた受容を実現しました。そのことの意義をもっと深く認識してください。この曲を結婚ソングとして見るべきかは議論があるけど、Superflyの「愛をこめて」とか、木村カエラの「Butterfly」がランクインしてるのに、「ハナミズキ」だけランク外というのはかなり違和感があります。番組関係者は、土下座したうえで説明してください。2.MONGOL800「小さな恋のうた」を無視している。2000年代には、ORANGE RANGE、HY、GReeeeN、ケツメイシ、湘南乃風、WANIMAなど、ガレージパンク系のバンドが活躍するようになったのですが、その発端が、このモンパチのインディーズヒットでした。このヒットは2000年代の音楽シーンの先駆的な出来事。しかも、彼らの音楽は日本を超えて世界的に認知されました。これを見逃したのは、かなりの過失です。土下座案件。3.いきものがかりを無視している。まさか1曲もランクインしてないとは…!しかも水野良樹が座ってるのに…!(笑)どういうこと?忖度がないにもほどがある。番組終了後に、出演者やスタッフは、いったいどんな顔で水野に接したのでしょうか?まあ、いきものがかりと西野カナはヒット曲が多かったので、票が分散してしまった可能性はあるし、それと似た理由かもしれないけど、EXILE関連を完全無視ってのもスゴイですよね。逆にいうと、ヒゲダンが「Pretender」だけに集中して、「宿命」や「I LOVE…」にまったく分散しなかったのが謎です。そんなことありえるでしょうか?ちょっと集計方法にも疑念をもってしまいます…。4.中島みゆきを無視している。小田和正と中島みゆきと桑田佳祐は、2000年代にもヒット曲を出したのですが、わたしは、この3人を見比べたうえで、あえて中島みゆきだけを選びました。彼女は、まず現役のミュージシャンとして、いきなり「地上の星/テールライト」「銀の龍」を2000年代初頭にヒットさせ、さらにTOKIOに「宙船」を提供し、きわめつけに「糸」もリバイバルヒットさせました。とりわけ「糸」は、「ハナミズキ」と同様に、世代を超えた国民的なヒットになっています。(発表は90年代だから除外したけど)総合的に見て、彼女が2000年代に示した存在感は、小田や桑田よりも頭ひとつ抜けています。桑田の曲が2つもランクインしてるのに、中島みゆきを完全無視って違和感ありあり。これについても、責任者には土下座のうえで説明してもらいたいです。5.RADWIMPSとLiSAの評価が低い。もしかしたら、RADWIMPSとLiSAは「アニソン」扱いってことで、音楽的に低く見られているのかもしれません。しかし、アニソンがアーティスティックな意味で評価され、なおかつ巨大なセールスを挙げるというのが、2000年代の特徴的かつ画期的な現象だったわけだし、LiSAのレコ大受賞はそれを象徴する出来事でした。まずは、この時代性を重視しなければなりません。さらに、こう言っちゃなんだけど、たとえばヒゲダンとか星野源とかって、音楽的には素晴らしいけど、作詞がヘタクソなのです。その点、野田洋次郎とLiSAは歌詞が素晴らしい。とくに野田洋次郎は、(たまに「HINOMARU」みたいなこともやらかすけど)作詞家としての能力が同世代のなかでは傑出しています。そのあたりの認識が十分に共有されていないようです。番組関係者は、この点についても再考してください。6.90年代を引きずりすぎている。ゴールデンタイムの放送ってことで、オジサンやオバサンの視聴者にも忖度したのか、あるいは選者自身がオジサンとオバサンだったのか、だいぶ90年代の価値観を引きずった結果になっています。2000年代の上位50曲のなかに、桑田もミスチルも2曲、林檎も宇多田も2曲って、いくらなんでも多すぎるでしょ。わたし自身は、今回の30曲を選ぶ際に、あらかじめ90年代のミュージシャンを除外しました。まずミスチル、スピッツ、林檎、宇多田を除外して、もちろん浜あゆも、B’zも、除外。基本的にはスマップも除外しました。ただ「世界に一つだけの花」にかんしては、あれはもう楽曲うんぬんの問題じゃなく、ひとつの現象として評価したうえで選びましたけど。林檎の「ギブス」や、宇多田の「traveling」は、たしかに素晴らしい曲だし、それを選ぶこと自体に不満はないのですけど、選んだ人たちは、その曲が2000年代に発表された時代的な意義を、しっかりと説明できなきゃいけません。(わたしなら説明できる自信があります)いずれにせよ、スマップを2曲選ぶくらいなら、キンプリの「シンデレラガール」を選ぶほうが正しかったと思います。アイドルがらみでいうと、欅坂がランク外だったのもやや不満です。
2021.03.04
明日の3/3に、「J-POP 20年史ベスト30」が発表されるってことで、一昨日の関ジャムでは、4人の選者が事前にランク外作品を紹介してました。ちょっと興味深かったのは、鬼滅の「紅蓮華」を作曲した草野華余子が、2000年代は、日本語の母音をカットして子音だけで歌うのが主流だったけど、2020年代になって、また母音が復活している。と話してたこと。これは、かなり的確な指摘だと思う。桐谷健太や菅田将暉や上白石姉妹など、俳優による歌唱が注目されてるのも、やはり日本語表現の回復に関係してると思います。◇さて、肝心の予想ランキングですが、個人的な好みでいえば…キリンジ「エイリアンズ」Perfume「ワンルーム・ディスコ」いきものがかり「YELL」MISIA×GReeeeN「アイノカタチ」King Gnu「白日」RADWIMPS「愛にできることはまだあるかい」折坂悠太「さびしさ」ヒゲダン「I LOVE...」あいみょん「裸の心」LiSA「炎」…あたりがベスト10なのですけど(笑)まあ、予想としては、以下に大きな文字で書いた30曲が、たぶん有力なんじゃないかなあと思います。すでに「ハナミズキ」がランク外確定だったのはかなり驚きですが。ちなみにベスト3は、ぜんぶPならびで、「パプリカ」「ポリリズム」「PPAP」もありうると思う。◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 2000キリンジ「エイリアンズ」MISIA「Everything」中島みゆき「地上の星」平井堅「楽園」(ランク外確定)鬼束ちひろ「月光」小柳ゆき「あなたのキスを数えましょう~You were mine~」夏祭り「Whiteberry」大泉逸郎「孫」福山雅治「桜坂」浜崎あゆみ「M」B’z「今夜月の見える丘に」花*花「さよなら大好きな人」サザンオールスターズ「TSUNAMI」2001MONGOL800「小さな恋のうた」BUMP OF CHICKEN「天体観測」CHEMISTRY「PIECES OF A DREAM」(ランク外確定)中島美嘉「STARS」木村弓「いつも何度でも」氷川きよし「箱根八里の半次郎」ゴスペラーズ「ひとり」Kiroro「Best Friend」宇多田ヒカル「Can You Keep A Secret?」椎名林檎「ギブス」モーニング娘。「恋愛レボリューション21」2002RIP SLYME「楽園ベイベー」(ランク外確定)平井堅「大きな古時計」元ちとせ「ワダツミの木」2003SMAP「世界に一つだけの花」大塚愛「さくらんぼ」(ランク外確定)夏川りみ「涙そうそう」森山直太朗「さくら(独唱)」はなわ「佐賀県」中島美嘉「雪の華」TOKIO「AMBITIOUS JAPAN!」宇多田ヒカル「COLORS」2004平原綾香「Jupiter」スキマスイッチ「奏」一青窈「ハナミズキ」(ランク外確定)ORANGE RANGE「花」ゆず「栄光の架橋」平井堅「瞳をとじて」2005修二と彰「青春アミーゴ」(ランク外確定)小田和正「たしかなこと」(ランク外確定)伊藤由奈「ENDLESS STORY」コブクロ「ここにしか咲かない花」EXILE「ただ…逢いたくて」スキマスイッチ「全力少年」Crystal Kay「恋におちたら」YUI「feel my soul」木村カエラ「リルラリルハ」大塚愛「プラネタリウム」2006レミオロメン「粉雪」YUI「TOKYO」手嶌葵「テルーの唄」絢香「三日月」「I believe」AKB48「会いたかった」いきものがかり「SAKURA」伊藤由奈「Precious」湘南乃風「純恋歌」TOKIO「宙船(そらふね)」BONNIE PINK「A Perfect Sky」2007Perfume「ポリリズム」YUI「CHE.R.RY」(ランク外確定)秋川雅史「千の風になって」(ランク外確定)フジファブリック「若者のすべて」(ランク外確定)EXILE「道」Mr.Children「しるし」2008GReeeeN「キセキ」HY「366日」青山テルマ feat.SoulJa「そばにいるね」(ランク外確定)Superfly「愛をこめて花束を」アンジェラアキ「手紙 ~拝啓 十五の君へ~」秋元順子「愛のままで…」EXILE「Ti Amo」ジェロ「海雪」2009いきものがかり「YELL」ゴールデンボンバー「女々しくて」(ランク外確定)木村カエラ「Butterfly」Perfume「ワンルーム・ディスコ」MISIA「逢いたくていま」2010西野カナ「会いたくて会いたくて」Superfly「タマシイレボリューション」植村花菜「トイレの神様」斉藤和義「ずっと好きだった」AKB48「ヘビーローテーション」いきものがかり「ありがとう」(ランク外確定)秦基博「アイ」(ランク外確定)2011SEKAI NO OWARI「スターライトパレード」斉藤和義「やさしくなりたい」福山雅治「家族になろうよ」椎名林檎「カーネーション」2012きゃりーぱみゅぱみゅ「つけまつける」(ランク外確定)いきものがかり「風が吹いている」花は咲くプロジェクト「花は咲く」2013AKB48「恋するフォーチュンクッキー」2014松たか子「レット・イット・ゴー~ありのままで~」(ランク外確定)三代目 J SOUL BROTHERS「R.Y.U.S.E.I.」(ランク外確定)秦基博「ひまわりの約束」(ランク外確定)キング・クリームソーダ「ゲラゲラポーのうた」SEKAI NO OWARI「スノーマジックファンタジー」2015ゲスの極み乙女「私以外私じゃないの」桐谷健太「海の声」西野カナ「トリセツ」(ランク外確定)back number「クリスマスソング」サカナクション「新宝島」2016RADWIMPS「前前前世」ピコ太郎「PPAP」星野源「恋」欅坂46「サイレントマジョリティー」Suchmos「STAY TUNE」2017SHISHAMO「明日も」乃木坂46「インフルエンサー」椎名林檎「人生は夢だらけ」2018米津玄師×Foorin「パプリカ」米津玄師「Lemon」あいみょん「マリーゴールド」King & Prince「シンデレラガール」星野源「アイデア」(ランク外確定)Little Glee Monster「世界はあなたに笑いかけている」(ランク外確定)MISIA×GReeeeN「アイノカタチ」2019King Gnu「白日」ヒゲダン「Pretender」瑛人「香水」(ランク外確定)LiSA「紅蓮華」折坂悠太「朝顔」RADWIMPS「愛にできることはまだあるかい」サカナクション「忘れられないの」2020LiSA「炎」ヒゲダン「I LOVE...」あいみょん「裸の心」藤井風「何なんw」
2021.03.02
NHKクラシック音楽館。藤田真央くんが、シューマンのピアノ協奏曲を弾いてました。◇前に「題名のない音楽会」で言ってたけど、もともと彼は、悲しい曲を弾くのが苦手で、昔、先生から、「悲しい曲をなんて嬉しそうに弾くの!」と言われたことがあるそうです。そんな真央くんが、よりによってシューマンのピアノ協奏曲?キャラ的に、真逆なのでは?◇わたし自身、この曲はちょっと苦手です。素晴らしい曲だとは思うけど、なんだか聴いてるだけで鬱病になりそう。(T_T)ロマンティシズムが精神を侵食していくのが分かる。暗すぎて、聴くのがちょっと怖い。わたしのなかでは、真央くんのピアノとは、まったく結びつかない。◇どんなふうに弾くのかと興味津々だったけど、弾く前からニコニコしてるよ!(笑)なんか、ともだちの家に遊びに来て、お菓子を出してもらうのを待ってる子供みたいに。そして、オケが鳴って、おもむろに弾きはじめたら、やっぱり明るいwwwえー?!こんな曲だっけ?シューマンて、こういう人だったっけ?全然べつの曲みたいだよっ!ニッコニコしながら弾いてるしwたとえばクリスマスとかに、何も知らずにこれを聴いたら、「あら!チャイ子のくるみ割り人形かしら?」と勘違いしそうなくらい、軽やかで楽しい演奏。おとぎ話っぽい華やかさ。これがN響との初共演だったようですが、けっこうセンセーショナルだったのでは?天地が逆転しそうなくらいのカルチャーショックでしたが、案外、クララもこんなふうに弾いたのかも。一方、アンコールでは、シマノフスキの甘やかで夢見心地な曲を、なにか苦悶しながら重々しく弾いていて、これがまた不思議なのでした。
2021.02.08
ミュージックステーション ウルトラSUPER LIVE 2020。LiSAの舞台セットが、今年見たなかでいちばんカッコよかったので、思わず画像保存(笑)
2020.12.27
NHK-FMのベートーベン250。第四夜は室内楽の特集でした。「ラズモフスキー」や「クロイツェル」の話かと思いきや、ゲストがチェリストの長谷川陽子だったこともあり、おもにチェロの作品を取り上げていました。◇あくまで個人的な印象ですが、ベートーベンの室内楽作品は、シューベルトやブラームスあたりの室内楽とは、だいぶ違うんだなあ、と思う。楽器どうしの秘めやかな対話、といった感じの音楽じゃない。つまり「ダイアローグ」の要素が少ないように感じます。これはベートーベンの性格の問題でもあるだろうし、あるいは聴力を失ったことにも関係するのかもしれませんが、弦が響き合う滋味深さみたいなものは、あまり感じない。◇主役が弦楽器に置き換わってはいるけれど、前半生の室内楽作品は、ピアノ協奏曲に近いし、後半生の室内楽作品は、ピアノソナタに近い。いわば、ピアノで歌う代わりに、バイオリンやチェロで朗々と歌っている感じです。外に向かっているか、内に向かっているかの違いはあっても、基本的にベートーベンの室内楽は「モノローグ」なのだと思いました。徹頭徹尾、ひとりで語り、ひとりで歌っている。◇共演という意味では、むしろ「三重協奏曲」なんかが、すごくベートーベンらしい。スター演奏家どうしが、火花を散らしながら、全力でぶつかっていく感じ。このあいだ、Eテレで、ヨーヨーマと、アンネゾフィームターと、バレンボイムの競演を見たけど、華やかで、見てるだけでワクワクするし、理屈抜きで楽しかったです。
2020.12.22
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