LAUNDRY ROOM

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2006/06/14
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カテゴリ: TRIP & TRAVEL
先日の、最後の写真、あの場所から市内を一望できたという記憶、実は、私にはありません。
私があの写真を写すために立った場所の後ろは、 炭住に住む職員へ畑として貸し出されていた辺りではなかったか と記憶しています。
つまり、下の写真の、 この道の右が畑 で、 左側には林 があったという遠い記憶です。
08ベルトコンベア
長い長いベルトコンベアが走っていますが、これは全く覚えていません。右方向がズリ山なので、この中は ズリ(廃棄粉炭)がコンベア輸送されているのではないか と思いますが・・・


全長600m以上はある というコンベアの下をくぐって振り返ると、これは低いですが、 ズリ山
09ズリ(ボタ)山
ズリ山と言う言葉は北海道 のもので、 九州の炭鉱ではボタ山 と呼ぶ、と、一般的にはそうなっていますが、 私が子どもの頃はズリ・ボタ どちらも使っていました。
映画「にあんちゃん」 など、九州の炭鉱(ヤマ)を題材にしたプロレタリア映画の影響かもしれません。

この 「にあんちゃん」 「南の島に雪が降る」 などを "幻燈映画" で見た記憶があります。
労働組合が元気だった時代、TVが普及するまでは、組合主体の"幻燈映画上映"も、子どもにはたいへん楽しみな娯楽のひとつでした。

ゆきつ戻りつです。1枚目の場所から少しだけ下って 選炭場 を見下ろしたところです。貯水池のようになっているところは、呼び名を忘れましたが、 選炭場から出る粉炭交じりの水を貯めて沈殿させている装置
10選炭場
これは、処理の仕組み自体は大きく違うのでしょうが、昔から良く似た様子で目に焼きついている 貯水槽 であり、これのために、私は長い間 「選炭場」のことを「洗炭場」だとばかり思っていた のです。
この貯水装置の脇に、父の勤務する 「修理工場」事務所 がありました。


ズリ山の見えた場所からもう少し下って振り返って、塔屋 を見上げてみました。
左側のベルト、ズリ山へではなく、 興津(おこつ)からの地下ベルトから選炭場への輸送ベルト かもしれませんね。。。ちょっと不明です。
輸送鉄道から青雲台
脚のギブスを外したばかりの 5歳の春先 、リハビリ代わりだったのでしょうか、出勤する父に連れられてこの道をぶらぶらと下って 同伴出勤(!) し、事務所脇の小さな タンポポの丘 で遊びながらお昼の 「ボー」 が鳴るのを待ちました。

あまり場所が特定されるのは好ましくないので、ここ以降の写真は掲載しません。。。

その タンポポの丘すぐ近くの窪地に小さなアイヌの集落 があり、 私の幼児期から小学校低学年までの仲良し は、家の近所の子どもではなく、 主にここのコタンの子達 でした。
子どもとしての、あるいは人としての 個性の問題 だったのでしょうが、近所のどんな友よりも、この コタンの子達が、動きの良くない私に対しての気遣いに優れて いて、
集落の大人たちも、常に子を見守る視線だったために、 なにやらたいへん居心地が良かった のだと、長じてから理解した私です。

そのコタンに住む 数家族の氏は殆んどが○○さん なので、その コタンは○○部落と呼ばれており 、子ども達は当然、氏ではなく名で呼び合っていたのですが、 少し変わったその名 にも、また、 あきらかに異民族であるその面立ち にも何の違和感も感ぜずに、ただ、 その大きな、たいへん綺麗な目には強く惹かれて いました。
大人も子どもも、たった一人を除けば、とにかく 優しげ な、絵に描けば瞳の中にいくつも星を入れたくなるような 大きく綺麗で魅力的な目 を持っていて、 イザベラ・バードが日本奥地紀行の中で絶賛 しているのが、私にはたいへん良く理解できます。

私が 怖かったたった一人の人 というのは、仲の良かった子の おばあさん

今思えば怖い目ではなかったのでしょうが、 独特の様式を持つ昔ながらのアイヌの家の中 、小さな窓の 明かりも届かないような部屋の一番奥 に、いつも 気配無く座っていたおばあさん の口の周りには 大きな刺青 があり、話す言葉も私には全く理解できなかったため、近寄ることさえできずにいました。
でも、こうして考えてみると、あの頃のコタンの中では、 まだまだアイヌ語は「生きて」いた のです。
私も自分で発することは殆んどなかったものの、彼らの中で交わされるいくつかの 言葉は、ごく自然に理解 できていました。

残念なことに小学校に上がってから以降、多くの差別の中で、仲の良かった子も 呼び名を変えて 、学校では 殆んど言葉を発することも無く なり、私と一緒に連れ立って帰る道すがらでは饒舌になるものの、彼女自身が 一切のアイヌ語を封じ込めてしまった ため、今となっては幼い時になんと呼んで遊んでいたのかさえ思い出せません。
その部分だけ スッポリと記憶から抜け落ちている のは、彼女の強い思いが私に通じて、もしかしたら、 呪詛をかけられたようになっているのかも知れない と思うことがあります。
小学校に入ってからは、幼い2年間に私が慈しまれた全てをかけて、私が盾となって彼女を、 欠けたところがない彼女 を、まるで 守るような日々 でした。

「理不尽」 という言葉を知らないながらも、 抱えていた思いは多分、ソレ だったと思います。
近所の友に、なぜ 「あの子と遊ぶのはやめなさい」と言われるのか?
なぜ 彼女に向けて陰から石が投げられるのか?
なぜ、 他の子は、彼女の柔らかな笑顔で満たされることがないのか?

こんなに可愛くて、こんなに優しくて、


でも、私はもともとが 社交的 な性格だったのでしょう。
幼い時に ギブスのために封じられていた同年代の多くの子達との交わり にも夢中になって、すぐに、 彼女だけが友というわけではなくなり 、小学校3年生の時のある事件をきっかけに学校の中で彼女の姿を目にすることがなくなったことにも、大きく動揺することも無く、ごく自然に、 アイヌの友のことは「思い出」になってしまって いました。

それから10年近くたって、 アイヌ民族の内からの解放運動 がさかんになった頃に初めて、小学生の私が感じた 悲しみと怒りの正体 に気付きました。
その当時の友にもっともっと寄り添えなかったことを悔やみ、 民族から言葉を奪い去ることの罪の大きさ を、どんな形でもいいから、私が伝えられる限りのところで伝えたいと思うようになりました。
■「魔神の海」前川康男著 ■ を読んだ ことも、この気持ちを後押ししてくれました。


今回の釧路行きでは、 「友よ、済まぬ」 の思いを新たにするためにも、 青雲台の高台からコタンのあった窪地への道 をどうしても辿りたかったのです。
また、 「札幌こどもミュージカルグループ」 での活動に何故あそこまで入れ込んだのか、 わが子にだけはどうしても知って欲しい ので、いつもにも増して個人的なことですが、ここに書き記しておきます。




指導者の細川真理子先生 に深く感謝!

☆また、
  6歳~70歳までとたいへん幅広く
  しかもわずか数十名の聴衆であるにも関わらず、
  飽きさせることなく、2時間もの講演をして下さった
『南方熊楠』研究で広く世に知られる
  鶴見和子さん
に心からの賛辞を!!

☆さらに、
  グループの子達に楽しい交流を経験させてくださり
ムックリを伝えてくださった
二風谷のみなさん に心からお礼をお申し上げます。



【わが子へ】 こういう思いを抱える母としては、
コミック 「うしおととら (藤田和日郎)」 、たいへん面白い漫画ですが面白いだけに、 アイヌ民族に関する安易な記述と誤った概念を伝える内容 が残念で、あそこで 譲ることはできなかった のですヨ(T_T)



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なお、前々回の 「炭鉱展示館模擬坑道」 の様子で、私の写真を見ただけでは、実際の機械の動きが充分ご理解いただけなかったのではないかと思いますので、 採炭の様子の動画 をたくさん掲載しているコンテンツをご紹介します。
くしろ石炭.COM「採炭の様子」動画ページ





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最終更新日  2006/06/15 12:52:32 PM
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