全190件 (190件中 51-100件目)
【本文】つかふ人あつまりて泣きけれどいふかひもなし。「いと心うき身なれば死なむと思ふにもしなれず。かくだになりて行ひをだにせむ。かしがましく、かくな人々いひさはぎそ」となむいひける。【訳】武蔵の守の娘が尼になってしまわれたので、使用人たちは集まって泣いたけれども、いまさら何を言ってもしかたがない。「大変つらい身のうえなので、死のうと思ったが、死ぬことも出来なかった。せめて、このように尼にでもなって、来世の極楽往生を願って修行だけでもしよう。あまりやかましく、私がこんなふうに尼になったこと言って騒ぎなさるな」と言ったとさ。【本文】かかりけるやうは、平中そのあひけるつとめて、人をこせむとおもひけるに、司のかみ、俄に物へいますとて、よりいまして、よりふしたりけるをおひ起こして、「いままでねたりける」とて、逍遥しに、とほき所へ率ていまして、酒のみののしりて、さらにかへしたまはず。【訳】こんなことになった事情は、平中が、武蔵の守の娘と契りを結んだ翌朝、使者を女の所に行かせようと考えていたところ、役所の長官が、急にどこかへ行かれるというので、お立ち寄りになって、平中が物に寄りかかって臥していたのを、たたき起こして、「こんなに遅くまで寝ているやつがあるか」といって、ぶらぶらと散策しに、遠い所へ連れてお行きになって、酒をのんであれこれ話しこんで、平中をいっこうにお帰しにならなかった。【本文】からうして帰るままに、亭子の帝の御ともに大井に率ておはしましぬ。そこに又二夜さぶらふに、いみじう酔ひにけり。夜ふけてかへりたまふに、この女のがり行かむとするに、方塞りければ、おほ方みなたがふ方へ、院の人々類していにけり。【訳】やっとのことで帰るやいなや、宇多天皇のお供として平中を大井に一緒に連れて行かれた。そこでまた二晩おそばでお仕えしたところ、ひどく酒に酔ってしまったとさ。夜がふけてお帰りになるので、この女の所に行こうとしたところ、陰陽道の不吉な方角を避ける方塞りに該当してしまったので、ほとんど全員、不吉な方角とは違う方角へ、院の人々がまとまって行ったとさ。【本文】この女いかにおぼつかなくあやしとおもふらむと、恋しきに、今日だに日もとく暮れなん、いきて有樣も身づからいはむ、かつ文もやらんと、酔ひさめておもひけるに、人なむきてうち叩く。「誰ぞ」と問へば、なほ「尉の君に物きこえむ」といふ。さしのぞきてみればこの家の女なり。胸つぶれて「こち来」といひて文をとりてみれば、いとかうばしき紙に切れたる髪をすこしかいわがねてつつみたり。いとあやしくおぼえて、書いたることをみれば、あまのがは そらなるものと ききしかど わがめの前の 涙なりけりとかきたり。【訳】この武蔵の守の娘が、どんなに待ち遠しく、また、訪ねないことを不審に思っているだろうかと、恋しかったが、せめて今日だけでも日も早く暮れてほしい、女の所に行って、今までのいきさつを自分で説明しよう、また、手紙も送ろうと、酔いも醒めて考えていたところ、人がやってきて門をたたいた。「誰だ?」と問うと、「左兵衛の尉さまに申し上げることがございます」という。すきまから覗いてみたところ、武蔵の守の娘の家の女だった。胸がつぶれそうな思いで「こちらへ来い」といって、女の届にきた手紙を取って見てみると、とても香りのよい紙に切れた紙を少し掻きたばねて包んであった。非常に不思議に思われて、書いてある文字を見たところ、天の河は、空にあるものだと聞いていたが、なんとその正体は、こんなに身近な、わたくしの目の前の、沢山流れる涙だったのだなあ(尼になるなんて、空にある天の河のように、自分には無関係の遠い世界のことだと思ってきましたが、あなたの冷たい仕打ちに、河になるほど涙をながし、とうとう尼になりました)と書いてあった。【本文】尼になりたるなるべしと見るに目もくれぬ。心もまどはして、この使にとへば、「はやう御ぐしおろしたまうてき。かかれば御達も昨日今日いみじく泣きまどひたまふ。げすの心ちにもいとむねいたくなむ。さばかりに侍し御ぐしを」といひてなく時に、男の心ちいといみじ。【訳】武蔵の守の娘は、尼になってしまったのにちがいない、と手紙の和歌を見るにつけても、目の前も真っ暗になってしまった。心もうろたえて、この使者に問いただしたところ、「なんと髪を剃って尼になってしまわれた。こんなことになってしまったので、お仕えしていた女房たちも昨日も今日もひどく泣いて動揺しておられる。わたくしめのような身分の低い者の心にも、非常に胸が痛みます。あんなにも長くて美しい髪でございましたのに」と言って泣いたときに、平中の心境も非常に悲痛であった。【本文】なでうかかるすきありきをして、かくわびしきめをみるらむとおもへどもかひなし。なくなく返事かく。よをわぶる 涙ながれて 早くとも あまの川には さやはなるべき「いとあさましきに、さらに物もきこえず。身づからたゞいま参りて」となむいひたりける。かくてすなはち来にけり。そのかみ塗籠にいりにけり。ことのあるやう、さはりを、つかふ人々にいひて泣くことかぎりなし。「物をだにきこえむ。御声だにしたまへ」といひけれど、さらにいらへをだにせず。かかる障りをばしらで、なほただいとをしさにいふとやおもひけむとて、男はよにいみじきことにしける。【訳】どうして、このような風流な方々の散策をして、こんなつらいめに遭うのだろうと思ったが、その甲斐もない。泣く泣く返事を書いた。男女の仲をつらく思う涙が流れて、たとえその流れが早くなっても、そんなに簡単に天の河になったりするものだろうか(簡単に尼になってほしくなかったよ)「自分でも非常にあきれたことに、まったく連絡も申し上げませんでした。わたくし自身いますぐ参上して事情を説明します」と使者を通じて言ったとさ。こうして、即座に女の所に平中がやってきたとさ。その折り、尼は納戸に入ってしまったとさ。平中は、ことのいきさつ、支障を、使用人の女房たちに言って泣くこと、このうえない。「せめてお話だけでも申し上げよう。お声だけでも聞かせてください」と言ったが、まったく返答さえなさらない。このような支障があったことを知らずに、やはり、ただ恋しい未練だけで言うのだと尼君は思っているのだろうかと言って、平中はひどく辛く感じたとさ。
February 15, 2011
コメント(0)
【本文】土左の守にありけるさかゐの人真(ひとざね)といひける人、病して弱くなりて、鳥羽なりける家に行くとてよみける、ゆく人はそのかみ来むといふものを心ぼそしなけふのわかれは【注】・さかゐの人真=延喜十四年(914)、従五位下、土佐の守となった。(生年不祥……917年没)『古今和歌集』に「大空は恋しき人の形見かは物思ふごとにながめらるらん」の歌が収められている。・鳥羽=京都市伏見区の地名。【訳】土左の守であった酒井人真といった方が、病気をして体が弱って、鳥羽にあった家に行くというので、作った歌、ふつう、出かける人は、その折り、「またここに帰ってこよう」と言うのに、心細いなあ、生きてかえれるかどうかわからない今日の別れは。
February 14, 2011
コメント(0)
【本文】おなじ季縄の少将、病にいといたうわづらひて、すこしをこたりて内にまゐりたりけり。【注】・季縄の少将=藤原季縄(すえただ)。【訳】同じ季縄の少将が、病に非常に苦しんで、そののち、すこし症状がやわらいで、宮中に参内なさっていたとさ。【本文】近江の守公忠の君、掃部の助にて蔵人なりけるころなりけり。【注】・近江の守公忠の君=源公忠(きんただ)。三十六歌仙の一人。延喜十三年(913)に掃部助、同十八年に六位の蔵人、天慶四年(941)には近江守として任国へ下った。官は従四位下、右大弁に至った。【訳】ちょうど近江の守公忠様が、掃部の助で蔵人だった時分のことだったとさ。【本文】その掃部の助にあひていひけるやう、「みだり心ちはまだおこたりはてねど、いとむつかしう心もとなく侍ればなむ参りつる。のちはしらねど、かくまで侍こと。まかりいでて明後日ばかり参りこむ。よきに奏したまへ」などいひ置きてまかでぬ。【訳】その掃部の助に向かって言ったことには、「悪い気分はまだ完全には良くなっていないが、家でいるのもうっとうしくて気がかりでしたので参上しました。あとはどうなるかわかりませんが、このような状態でございますよ。今日はこれで退出いたしまして、明後日ぐらいにまた参上いたしましょう。よろしく帝にお伝えくださいませ」などと言い置いて退出してしまった。【本文】三日ばかりありて、少将のもとより文をなんおこせたりければ、くやしくぞのちにあはむと契りける今日を限りといはまし物をとのみかきたり。【訳】それから三日ばかり経って、少将の所から手紙をよこしてきたところ、無念なことに、先日、また後日会おうと約束したことです。今日が最後の対面だと言っておけばよかったのに。という歌だけが書いてあった。【本文】いとあさましくて、涙をこぼして使にとふ。「いかがものし給ふ」と問へば、つかひも、「いと弱くなりたまひにたり」といひて泣くをきくに、さらにえきこえず。【訳】とても驚きあきれて、涙をこぼしながら使者に尋ねた。「少将はどうなさったのだ?」と質問したところ、「とても体がお弱りになってしまっています」と言って泣くのを聞くが、いっこうに聞こえない。【本文】「みづからただいま参りて」といひて、里に車とりにやりてまつほどいと心もとなし。近衛の御門にいでたちて、まちつけてのりてはせゆく。【訳】「自分でいますぐ少将のお屋敷へ参上して、見舞いに行ってまいります」と言って、部下に自宅に牛車を取りに行かせて牛車の到着を待つあいだも、ひじょうにじれったい。近衛府の御門のところまで出て、立って、牛車を待ち受けて乗り込んで駆けつける。【本文】五条にぞ少将の家あるに行きつきてみれば、いといみじうさはぎののしりて門さしつ。死ぬるなりけり。【訳】京の五条に少将の屋敷はあるが、そこに行き着いて見ると、人々が非常に騒いで口々にあれやこれやと言い、門を閉ざしてしまった。少将は死んでしまったのであった。【本文】消息いひいるれどなにのかひなし。いみじう悲しくて、なくなくかへりにけり。かくてありけることを、かむのくだり奏しければ、帝もかぎりなくなむあはれがりたまひける。【注】・帝=醍醐天皇。【訳】来意を少将の家の者に言い入れたが、何の甲斐もない。非常に悲しくて、泣く泣く帰ってしまったとさ。こうして、少将の家であった通りの出来事を、上に述べたように帝に申し上げたところ、帝もこのうえなく気の毒がられたとさ。
February 13, 2011
コメント(0)
【本文】大井に季縄(すゑただ)の少将すみけるころ、帝の宣(のたま)ひける、「花おもしろくなりなば、かならず御らむぜん」とありけるを、おぼし忘れて、おはしまさざりけり。されば、少将、ちりぬれば くやしきものを 大井川 岸の山吹 けふさかりなりとありければ、いたうあはれがりたまうて、いそぎおはしましてなむ御らんじける。【注】・大井=いまの京都市右京区の地名。・季縄少将=左中弁藤原千乗の子、藤原季縄。官は従五位上、右近衛の少将に至った。(生年不祥……919年)。・帝=ここでは醍醐天皇。・宣ふ=「言ふ」の尊敬語。・大井川=京都府嵐山付近を流れる桂川上流の名称。【訳】大井に藤原季縄少将が住んでいた時分、醍醐天皇がおっしゃったことに「花が、もし見頃になったら、きっと見に行こう」とおっしゃっていたのに、ご記憶をお忘れになって、大井にいらっしゃらなかったとさ。それで、少将が、もしも天皇がご覧あそばされないうちに散ってしまうと残念だなあ、大井川の岸の山吹が今日まっさかりだ。と歌を作って天皇にお贈りしたところ、たいへん称賛なさって、さっそく準備されて大井に出向かれてご覧になったとさ。
February 12, 2011
コメント(1)
【本文】亭子の帝の御ともに、太政大臣大井につかうまつりたまへるに、もみぢ小倉の山にいろいろいとおもしろかりけるをかぎりなくめで給て、【注】・亭子の帝=宇多天皇。・太政大臣=藤原忠平。・大井=京都市右京区嵯峨のあたりを流れる大井川の流域。延喜七(907)年九月十日に、宇多院の大井への行幸があった。・小倉山=京都市右京区嵯峨にある。【訳】宇多院のお供として、太政大臣が大井の里にお仕え申しあげておられた時に、紅葉が小倉山に色とりどりに美しかったのを、このうえなく絶賛なさって、【本文】「行幸もあらむにいと興ある所になむありける。かならず奏してせさせたてまつらん」など申給て、ついに、おぐらやま峯の紅葉し心あらばいまひとたびのみゆきまたなむとなんありける。【注】・奏す=天皇に申し上げる。・せさせたてまつらん=行幸・あるいは紅葉の観賞を、おさせいたそう。・みゆき=天皇のおでまし。院政時代以後は、天皇の外出は「行幸」の字をあて音読して、「ぎょうこう」、上皇・法皇・女院など天皇以外の皇室の外出は「御幸」の字をあて「ごこう」とよむ。【訳】「醍醐帝が行幸なさるとしたら、ここは非常に風情のある場所だなあ。きっと帝にご報告して行幸させて差し上げよう」などと申されて、しまいには小倉山の峰の紅葉よ、もし人の心を解するならば、もう一度みかどがおいでになるまで散らずに待っていてほしい。と歌をお作りになったとさ。【本文】かくて、かへりたまうて、奏したまひければ、「いと興あることなり」とてなむ、大井の行幸といふことはじめたまひける。【注】・興あり=魅力がある。心がひかれる。【訳】こうして、宮中にお帰りになって、帝に小倉山に行かれて、ぜひ紅葉を楽しまれるよう申し上げたところ、「非常に魅力的なことだ」とおっしゃって、大井への行幸ということをおはじめになったとさ。
February 11, 2011
コメント(200)
【本文】同じ太政大臣、左の大臣の御母の菅原の君かくれたまひにけるとき、御服はてたまひにけるころ、亭子の帝なむ、うちに御消息きこえ給て、いろゆるされたまひける。【注】・同じ太政大臣=藤原忠平。・左の大臣=藤原実頼。忠平の子。・菅原の君=宇多天皇の皇女、順子内親王。菅原道真の外孫で、忠平の妻、実頼の母。・かくる=皇室など高貴な方が亡くなる。・服=喪にこもる期間。服喪が終わると「ぶくなおし」といって、喪服を通常の服にあらためる。・亭子の帝=宇多天皇。・うち=ここでは醍醐天皇。・いろゆるす=皇族などの服色と紛らわしいために臣下に着用を禁じた梔子(くちなし)色・黄丹(きあか)・赤色・青色・深紫色・深緋色・深蘇芳(すおう)色の七色の使用を特別に許可する。【訳】同じ太政大臣が、ご自身の妻で、ご子息の左大臣さまの御生母にあたる菅原の君がお亡くなりになってしまったとき、その服喪期間を終えられたころ、宇多天皇が醍醐天皇に手紙をさしあげて、禁色の使用をお許しになったとさ。【本文】さりければ、大臣いときよらに蘇芳襲などきたまうて、后の宮にまゐりたまうて、「院の御消息のいとうれしく侍りて、かくいろゆるされて侍こと」などきこえ給。さてよみたまひける、ぬぐをのみかなしとおもひし亡き人のかたみの色はまたもありけりとてなむ泣きたまひける。そのほどは中弁になむものしたまひける。【注】・后の宮=宇多天皇の妃。藤原基経のむすめで、醍醐天皇の母、藤原温子。・中弁=太政官の中位の弁官。参議と少納言の間の位。正五位にあたる。【訳】そういうわけで、大臣がとても上品で美しく、すおうがさねなどをお召しになって、后の宮の所へおうかがいなさって、「宇多天皇さまのお手紙が大変うれしうございまして、このように禁色の使用を許されましたこと」など申し上げなさった。そうして、お作りになった歌、喪服を脱ぐのをばかり悲しいと考えていたが、亡き妻の形見の着物の色は、再び宇多院のおかげで着られることになりよ。といってお泣きになったとさ。その当時の役職は中弁でいらっしゃいましたとさ。
February 6, 2011
コメント(0)
【本文】かくて世にも労ある物におぼえ、つかうまつる帝かぎりなくおぼされてあるほどに、この帝うせ給ひぬ。【訳】こうして、世間でも気の利いた男だと評判し、お仕え申し上げる帝もこの少将をこのうえなく目をおかけになっていたところが、この帝がお亡くなりになってしまったとさ。【本文】御葬の夜、御供にみな人つかうまつりける中に、その夜よりこの良少將うせにけり。ともだち・妻も「いかならむ」とて、しばしはこゝかしこ求むれども、音耳にもきこえず。【訳】ご葬儀の夜、おともに皆ご参列もうしていた中で、その夜から、この良岑少将が姿を消してしまったとさ。友人や妻も「どうしたのだろう」といって、行方不明になってからしばらくは、あちらこちら探したが、うわさも耳にはいらなかった。【本文】「法師にやなりにけむ、身をや投げてけむ。法師になりたらば、さてあるともきこえなむ、身をなげたるなるべし」とおもふに、世中にもいみじうあはれがり、妻子どもはさらにもいはず、夜晝精進潔齋して、世間の仏神に願をたてまどへど音にもきこえず。【訳】「法師になってしまったのだろうか?投身自殺してしまったのだろうか?もし法師になっているのなら、たぶん、そうしているとうわさが耳にはいるだろう。うわさがきこえてこないのは、きっと投身自殺してしまったのにちがいない」と思うので、世間の人々も大変気の毒がり、妻子たちは言うまでもなく昼夜精進潔斎して、あらゆる神仏に「どうか少将が生きておりますように。生きているなら所在がわかりますように」と願を掛けなさったが、うわさにも聞こえてこない。【本文】妻は三人なむありけるを、「よろしくおもひけるには、なを世に經じとなむ思」と二人にはいひけり。【訳】少将には妻が三人いたが、「つくづく考えたことには、やはりこのまま俗世間にはいるまいと思う」と、二人の妻には告げたとさ。【本文】かぎりなく思て子どもなどある妻には、塵ばかりもさるけしきもみせざりけり。このことをかけてもいはば、女もいみじとおもふべし、我もえかくなるまじき心ちしければ、よりだに來で、にはかになむ失せにける。【訳】このうえなく愛して、子供などももうけていた妻に対しては、ちっともそんなそぶりも見せなかったとさ。この本心を、もし少しでも口にしたら、女もとても辛く悲しいと思うにちがいない。自分も出家する心が揺らいでしまう気がしたので、子のいる妻の所には近寄りもしないで、突然姿を消してしまったのだとさ。【本文】ともかくもなれ、「かくなむおもふ」ともいはざりけることのいみじきことを思ひつゝ泣きいられて、初瀬の御寺にこの妻まうでにけり。【訳】夫がどうなるにせよ、この妻は少将が「こんなふうに考えている」とも自分に告げてくれなかったことが、とても悲しくつらいことだと思いながら、自然と泣かずにいられない状態におなりになって、長谷寺にこの妻が参詣したとさ。【本文】この少將は法師になりて、蓑ひとつをうちきて、世間世界を行ひありきて、初瀬の御寺に行ふほどになむありける。【訳】この少将は、法師になって、蓑ひとつを身につけ、日本中を修行して歩き回って、ちょうど長谷寺で修行している時分であった。【本文】ある局ちかう居て行へば、この女、導師にいふやう、「この人かくなりにたるを、生きて世にある物ならば、今一度あひみせたまへ。身をなげ死にたる物ならば、その道成し給へ。さてなむ死にたるとも、この人のあらむやうを夢にてもうつゝにても聞き見せたまへ」といひて、わが裝束、上下・帶・太刀までみな誦經しにけり。身づからも申しもやらず泣きけり。【訳】本堂の、衝立で仕切られた、とある一角に近いところで少将が修行していたところ、この女が、導師にむかって言うことには、「この人(夫)がこんなふう(行方不明)になっているが、もし生きてこの世にいるものなら、もう一度お引き合わせください。もし投身自殺したものなら、成仏させてください。そうして、たとえ死んでいるとしても、この人が現在あの世でどうしているか、その様子を、夢の中ででも現実にでも聞かせたり見せたりしてください。」といって、自分(少将)の装束・上下・帯・太刀にいたるまで、全部供えて導師に経文を唱えさせていた。そうして自身(妻)も経文を唱えることもうまできないほど泣いたとさ。【本文】はじめは何人の詣でたるならむと聞きゐたるに、わが上をかく申つゝ、わが裝束などをかく誦經にするをみるに、心も肝もなく悲しきこと物に似ず。【訳】はじめのうちは、どんなひとが参詣しているのだろうと、聞いていたところ、自分の身の上をこのように導師に申し上げながら、私の装束などをこんなふうに供えて経文を唱えるのを見ると、どうしようもなく悲しいことといったら、似る物もないほどだった。【本文】走りやいでなましと千度思けれど、おもひかへしかへし居て夜一夜なきあかしけり。【訳】いっそ、私はここにいるぞと妻の前に走って出てしまおうか、やめようかと何度も考えたが、考え直し考え直しして、とうとう一晩泣き明かしてしまったとさ。【本文】わが妻子どもの、なを申す聲どももきこゆ。いみじき心ちしけり。【訳】自分の妻子たちの、昨晩から引き続き経文を唱える声などが聞こえた。とてもつらい気がしたとさ。【本文】されど念じて泣きあかして朝にみれば、蓑も何も涙のかゝりたるところは、血の涙にてなむありける。「【訳】けれども、逢いたい気持をぐっと我慢して、泣き明かして翌朝に見てみたら、蓑も何もかも、涙がかかった所は、血の涙で赤く染まっていたとさ。【本文】いみじうなれば、血の涙といふものはあるものになんありける」とぞいひける。「その折なむ走りもいでぬべき心ちせし」とぞ後にいひける。【訳】大変な心痛だったので、血の涙というものは本当に存在するものだったのだなあ」と言ったとさ。「よっぽど、その折りに、妻子の前に走り出てしまいそうな気がした」と、少将がのちに語ったとさ。
February 6, 2011
コメント(1)
【本文】太政大臣の北の方うせたまひて、御はての月になりて、御わざのことなどいそがせ給ころ、月のおもしろかりけるに、はしにいでゐたまて、物のいとあはれにおぼされければ、かくれにし月はめぐりていでくれどかげにも人はみえずぞありける【注】・太政大臣=藤原忠平。藤原基経の第四子。摂政・関白・太政大臣を務めた。(880……949年)。・はて=四十九日が終わる日。または、一周忌。・わざ=法事。【訳】太政大臣藤原忠平さまの奥方さまが、お亡くなりになって、服喪期間の終わりの月になって、御法要のことなどを御準備なさっていたころ、月が美しかった晩に、座敷の端に出てお座りになって、亡き人のことなどが非常にしみじみと感じられたので、かくれてしまった月は、再びめぐって空に出てくるけれども、幻影にも私の愛するあの人は姿を見せないなあ。
February 5, 2011
コメント(1)
【本文】かくて、九の君、侍従の君にあはせたてまつり給ひてけり。【注】・九の君=三条の右大臣、藤原定方のむすめ。・侍従の君=藤原師尹(もろまさ)。侍従を務めたのは(935……937年)。【訳】このようにして、九の君を、侍従の君と夫婦にしてさしあげられたとさ。【本文】同じ頃宮すむ所を、宮おましまさずなりにければ、左の大臣、右衛門の督(かみ)におはしける頃、御文たてまつりたまひけり。【注】・宮すむ所=御息所。藤原定方のむすめ仁善子。醍醐帝の后で、九の君の姉。・宮=式部卿の宮、敦実親王。醍醐帝亡き後、仁善子と夫婦関係にあった。・左の大臣=藤原実頼。師尹の兄。(933……935年)に右衛門の督、(947……967年)に左大臣を務めた。(900……970年)。【訳】同じころに、御息所に対し、式部の卿の宮が訪問なさらなくなって(夫婦関係が途絶えて)しまったので、左大臣実頼さまが、右衛門の督でいらっしゃったころ、お手紙をさしあげなさったとさ。【本文】かの君むこどられたまひぬときき給て、大臣、宮すむどころに、なみのたつかたもしらねどわたつみのうらやましくも思ほゆるかな【注】・なみのたつかたもしらねどわたつみのうらやましくも思ほゆるかな=かた」は「方」と「潟」の掛詞、「うらやまし」には「浦」を言い掛ける。「なみ」に対し「たつ」「潟」「わたつみ」「うら」は縁語。【訳】侍従の君師尹さまが、定方さまの娘むこ(九の君の夫)に迎えられなさったとお聞きになって、左大臣実頼さまが、御息所にあてて(岩波日本古典文学大系)に、この歌を「あなたのお気持ちはどなたの方に向いているのか、私にはわかりませんが、弟があなたと義理の姉弟となったのが、羨ましく思われてなりません」と解する。存疑。
February 5, 2011
コメント(7)
【本文】おなじ右のおほい殿の宮すむ所、帝おはしまさずなりてのち、式部卿の宮なむすみたてまつりたまうけるを、いかがありけむ、おはしまさざりけるころ、斎宮の御もとより、御文たてまつりたまへりけるに、宮すんどころの、おはしまさぬことなどきこえたまうて、おくに、しら山にふりにし雪のあとたえていまはこしぢの人もかよはずとなむありける。御返あれど、本になしとあり。【注】・右のおほい殿の宮すむ所=藤原定方のむすめ仁善子。・帝おはしまさずなりてのち=醍醐天皇が崩御されて以後。・式部卿の宮=宇多天皇の皇子、敦実(あつみ)親王。(893……967年)・斎宮=宇多天皇のむすめ柔子内親王。敦実親王の妹。・しら山にふりにし雪のあとたえていまはこしぢの人もかよはず=「ふり」は「降り」と「古り」、「雪」と「行き」、「こし」に「越」と「来し」を言い掛けた。【訳】同じ右大臣殿の御息所に、帝がお亡くなりになってのち、式部卿の宮が夫として通っておられたのに、どうしたのであろうか、おいでにならなくなっていた時分、斎宮のところから、お手紙をさしあげなさっていたが、御息所が、式部の卿の宮のおいでにならないことなどを申し上げられて、手紙の最後に、白山に降ってしまった雪のように、足跡もぱったり途絶えて、今となっては、越路の人も通行しません。(よくお越しになっていた式部卿の宮も、最近こちらには、ぱったり通ってこなくなりました)と書いてあったとさ。斎宮の御返事の歌もあったが、原本に書かれていないと書いてある。
February 2, 2011
コメント(0)
【本文】故中務の宮の、北の方うせたまひての後、ちひさき君たちをひきぐして、三条右大臣殿にすみたまひけり。【注】・故中務の宮=醍醐天皇の皇子、代明親王。中務卿を務めた。(生年不祥……937年)中務卿は、天皇の侍従として、詔勅の文案作成・国史の監修・女官の選考をはじめ、宮中の事務や皇居の警護などを掌った中務省の長官。・三条右大臣殿=藤原定方邸。【訳】故中務の宮が、奥様がお亡くなりになって後、小さいお子様たちをひき連れて、奥様の実家の三条右大臣殿のお屋敷にお住まいになったとさ。【本文】御いみなどすぐしては、つゐにひとりは過し給まじかりければ、かの北の方の御おとうと九君を、やがてえたまはむとなんおぼしけるを、「なにかは、さも」と親はらからもおぼしたりけるに、【訳】服喪期間などを過ごしたあとは、結局男親ひとりではお過ごしなされそうもなかったので、例の奥方の妹にあたる第九女を、すぐに妻となさろうとお考えになったのを、「どうして差し支えがありましょう、それもよろしいでしょう」と親兄弟もお思いになっていたが、【本文】いかがありけん、左兵衛の督の君、侍従に物したまひけるころ、その御文もて來となむきき給ける。【注】・左兵衛の督の君=藤原師尹(もろまさ・もろただ)。忠平の子。侍従・左兵衛佐・右中弁・参議などを務め、正二位、左大臣に至った。(920……969年)【訳】どうなさったのだろうか、左兵衛の督の君藤原師尹さまが、侍従でいらっしゃったころ、その御手紙を第九女のもとに持って来たりしているとお聞きになったとさ。【本文】さて心づきなしとやおぼしけむ、もとの宮になむわたりたまひにける。その時に宮すむ所の御もとより、なき人の巣守にだにもなるべきをいまはとかへる今日の悲しさ【注】・宮すむ所=藤原定方のむすめ、仁善子。三条御息所。【訳】ところで、気に入らないとお考えになったのだろうか、もとのご自宅にお帰りになってしまったとさ。その時に、三条御息所の所から、せめて亡き人の残していったヒナの面倒だけでもみるつもりでおりましたのに、いまはここにはもう住めないと、羽が抜け替わる鷹のように、あなたが自宅へ帰る今日の悲しさといったらありません。【本文】宮の御かへし、すもりにとおもふ心はとどむれどかひあるべくもなしとこそきけとなむありける。【訳】中務の宮の御返事に、小さい子供たちが取り残された巣を守っていただきたいと思う心は残りますが、第九女には、ほかに好きなお方がいらっしゃるようですし、お願いしても甲斐がありそうもないと聞いたからです。と歌を作ったとさ。
January 31, 2011
コメント(0)
【本文】これもおなじ中納言、斎宮のみこをとしごろよばひたてまつりたまうて、今日明日あひなむとしけるほどに、伊勢の斎宮の御占(みうら)にあひたまひにけり。【注】・おなじ中納言=藤原敦忠。・斎宮のみこ=醍醐天皇の皇女、雅子内親王。承元元年(931年)に斎宮となった。(910……954年)【訳】これも、同じ中納言が、斎宮のみこに何年も言い寄りもうしあげなさって、今日かあすにも逢って契りを結んでしまおうとしていたところ、伊勢の斎宮の占いにおいて、次期斎宮に決定なさってしまった。【本文】いふかひなく口をしと男おもひたまうけり。さてよみてたまうける、いせの海千尋の浜にひろふともいまはかひなくおもほゆるかなとなむありける。【注】・かひなく=「貝なく」と「甲斐なく」の掛詞。斎宮は未婚でなければならないので、求婚してもとうてい受け容れてもらえないので甲斐がない。・千尋の浜にひろふとも=千尋は、長い距離。どこまでもつづくような長い砂浜で拾ったとしても。【訳】言いようもないほど残念だと男はお思いになったとさ。そうして、お作りになった歌、たとい伊勢の海の千尋もある長い砂浜で拾ったとしても、いまはもう貝が無いように、あなたに求婚するのはその甲斐が無いように思われるなあ。と斎宮のみこの所へきた手紙に書いてあったとさ。
January 26, 2011
コメント(200)
【本文】故権中納言、左の大殿の君をよばひたまうける年の師走のつごもりに、物おもふと月日のゆくもしらぬまに今年は今日にはてぬとかきくとなむありける。【注】・故権中納言=藤原敦忠。時平の子。三十六歌仙の一人。枇杷の中納言と呼ばれた。(906……943年)・左の大殿の君=藤原忠平(時平の弟)のむすめ、貴子。・よばふ=求婚する。言い寄る。・物おもふ=もの思いをする。思いにふける。【訳】故権中納言藤原敦忠さまが、左の大殿の君藤原貴子さまに、求婚なさっていた年の十二月末日に、恋をしてあなたのことばかり思っていると、月日が過ぎゆくのも気づかない、そのうちに今年は今日でおわってしまうとか聞きましたと歌を作ってお贈りになったとさ。【本文】又かくなむ、いかにしてかくおもふてふことをだに人づてならで君に語らむ【注】・人づて=ほかの人を通じて、言葉を伝えたり聞いたりすること。【訳】また、こんなふうに歌を作ったとさ。どうやって、このように深くあなたを愛しているということだけでも、他人を介することなく直接あなたにお話しようか。【本文】かくいひいひてつひにあひにけるあしたに、けふそへにくれざらめやはとおもへども堪えぬは人のこころなりけり【注】・そへに=副助詞「さえ(さへ)」の語源とされる「添へ」に助詞「に」の付いたもの添加の意を表す。…もまた。「に」については格助詞・間投助詞その他の説もある【訳】このように、恋心を歌に作って訴えて、とうとう逢って夫婦の契りを結んだその翌朝に、今日もまた、日が暮れないことがあろうかと思うけれども、夜になったら逢えるのはわかっていながら、その待ち遠しさに堪えられないのは、人間の気持ちなのだなあ。
January 24, 2011
コメント(0)
【本文】三条の右のおとど、中将にいますかりける時、祭の使にさされていでたまうけり。【注】・三条の右のおとど=藤原定方。内大臣藤原高藤の子。平安中期の歌人。官は従二位、右大臣に至り、三条の右大臣と呼ばれる。(873……932年)・中将=藤原定方は、(906……911年)右近衛権中将をつとめた。・祭の使=。京都の賀茂神社で旧暦四月の中の酉の日に行われた祭りの際に、朝廷からヌサをたてまつるために派遣された使者。近衛の中将などが、この任にあたった。【訳】三条の大臣こと藤原定方様が、中将でいらっしゃった時に、賀茂の祭りの奉幣の勅使に指名されて出かけなさったとさ。【本文】かよひたまひける女の、絶えてひさしくなりにけるに、「かかることなむいでたつ。扇もたるべかりける、ひとつたまへ」といひやりたまへりけり。【訳】夫として通っておられた女が、定方様の訪問が途絶えてひさしくなってしまった時に、定方様が「このたびこのような事態が起きて出発する。扇を持っておられたはずだから、一つください」と言っておやりになったとさ。【本文】よしある女なりければ、よくておこせてむとおもふたまひけるに、色などもいときよらなる扇の、香などもいとかうばしうておこせたり。ひきかへしたる裏の端の方にかきたりける。ゆゆしとていむとも今はかひもあらじうきをばこれにおもひよせてむとあるをみていとあはれとおぼして、返し、ゆゆしとて忌みけるものをわが為になしといはぬは誰がつらきなり【注】・よしあり=由緒がある。また、奥ゆかしく風情がある。・きよげなり=綺麗だ。・ゆゆし=不吉だ。賀茂の祭りは夏に行われるが、それに必要ということは、祭りが済めば不要になるということ。もともと扇は秋には不要になる。秋は和歌では男が女に飽きる「飽き」と掛けて用いられるため、秋になって捨てられる点が、男が飽きて捨てられる女を連想させるので不吉だということ。【訳】由緒ある家柄のしっかりした女だったので、きっとうまく用意して寄越すだろうと思っておられたところ、色彩なども非常に綺麗な扇で、香などをたきしめて香りなども非常によい状態にして寄越した。その扇の裏返した端のほうに書きつけてあった歌、祭りが終わればすぐ用済みになるのが不吉だからといって、贈るのを避けたとしても、結婚してすぐ用済みになったようにあなたに捨てられた私には、いまさらなんの甲斐もないでしょう。せめてこの扇に恨みつらみの思いをこめた歌を書いてあなたに贈りましょう。と書いてあるのを見て、ひじょうに済まなかったとお感じになって、そこで作った返歌不吉だといって避けていた扇を、わたしのために「そんなもの無いわ」と言わないで、わたしのところにその不吉なものを贈って寄越すのは、いったい誰が冷淡なのだろう。(あなたのほうこそ、私に対して冷たいのじゃありませんか?)
January 22, 2011
コメント(1)
【本文】同じ女、故兵部卿の宮、御消息などしたまひけり。「おはしまさん」とのたまひければきこえける、たかくとも何にかはせん呉竹のひとよふたよのあだのふしをば【注】・同じ女=修理の君という女房。・故兵部卿の宮=陽成天皇の皇子、元良親王。《百人一首》の「わびぬれば今はたおなじ……」の歌で知られる。(890……943年)・消息=たより。文脈により、手紙・伝言・来意を告げること、などの意になる。・呉竹=淡竹(はちく)。竹の一種で葉が細く節が多い。宮中の清涼殿の御溝水(みかわみず)のほとりにも植えられていた。中国で梁の孝王が御苑に竹を植え修竹園と名づけた故事にちなみ、往々にして「竹」は、皇族のたとえに用いられる。・ひとよふたよ=竹の節と節との間を指す「よ」と、一晩二晩の「夜」の掛詞。・あだ=「無益だ」と「移り気であてにならない」意を兼ねさせている。【訳】おなじ女に、故兵部卿の宮さまが、お手紙のやりとりなどなさっていたとさ。兵部卿の宮さまが手紙で「行きますよ」と、おっしゃったので、返事に申し上げた歌丈が高くても何になるでしょう、呉竹の一節二節といったちょっとした役にも立たない節なんか。(あなた様の身分がいくら高くっても何になるでしょう。一夜二夜しかいらしてくださらない、不誠実なお泊まりなんて)
January 19, 2011
コメント(0)
【本文】修理(すり)の君に右馬(むま)の頭(かみ)すみける時、「かたのふたがりければ、方違(かたたがへ)にまかるとてなむえ参りこぬ」といへりければ、これならぬことをもおほくたがふればうらみむ方もなきぞわびしき【注】・修理の君=父兄が修理職(皇居の修理・造営をつかさどる役所)の役人だった女房。・右馬の頭=右馬寮(御所の厩や諸国の朝廷用牧場を管理する役所)の長官。・ふたがる=陰陽道で大将軍や天一神(なかがみ)のいる方角にあたる。大将軍は、八将軍の一。その神のいる方角は三年ごとに変わり、その方角は塞がるといい、忌むべき方角とされた。天一神は、吉凶禍福を支配する神。天上に十六日間いて、そののち東北・東・東南・南・南西・西・西北・北と時計回りに巡行し、四十四日後に再び天上にもどるという。この間、東・西・南・北に各五日ずつ、その中間に六日ずつ滞在する。この神のいる方角を「ふさがり」といい、その方角に向かって何かをすることを嫌う。・方違へ=陰陽道で「ふさがり」の方向に外出するとき、前夜に他の方角の所で一泊して、方角を変えてから翌日あらためて出かけること。【訳】修理の君の所に、右馬の頭が夫として通って暮らしていた時分、「そちちらは不吉な方角になったので、よそに方たがえに行くので今日は行けないよ」と言ったところ、「かたふたがりでなくったって、あなたはしょっちゅう約束をやぶるから、恨もうという方角も無い(今さらもう誰を恨もうなんていう相手もいない)のがつらい」という歌を修理の君が作ったとさ。【本文】かくて右馬の頭行かずなりにけるころ、よみてをこせたりける、いかでなほ網代の氷魚(ひを)にこととはむ何によりてか我をとはぬとといへりければ、かへし、網代よりほかには氷魚のよるものか知らずはうぢの人にとへかし【注】・網代=冬に氷魚などを捕るために川の瀬などに仕掛ける、竹や木を編んで連ね、端に簀を付けた漁具。・氷魚=アユの幼魚。【訳】こうして、右馬の頭が修理の君の所へ結局いかずじまいになってしまったころ、作った歌、そうはいうものの、なんとかして網代にひっかかった氷魚に聞いてみよう「なにが原因でわたしの所を訪ねないのか」と。と歌を作ったので、その返歌に、網代以外に氷魚が寄りついたりするものか、知らないのなら宇治の里人に聞いてごらんなさいよ。と右馬の頭が作ったとさ。【本文】又同じ女にかよひける時、つとめてよみたりける、あけぬとていそぎもぞする逢坂の霧たちぬとも人にきかすな【注】・逢坂=山城(京都)と近江(滋賀)の境の逢坂山。歌枕として恋人に「逢ふ」意に掛けて用いられることが多かった。【訳】また、同じ女の家に通っていた時分に、早朝に作った歌夜が明けてしまうといって、帰りを急ぐと困る、たとい逢坂山の霧か立ちこめたとしても、あの人に聞かせないで。【本文】男はじめのころよんだりける歌いかにして我は消えなむ白露のかへりて後のものはおもはじかへし、かきほなる君が朝顏みてしがな返て後はものや思ふと【訳】男が付き合いはじめて初期のころに作った歌どうやって私はこの世から白露のように消えてしまおうかしら。どうせ、冷たいあなたは帰宅したら私のことなんかつゆほども考えないのでしょう。女の返歌、垣根にある朝顔ならぬあなたの朝の顔を見たいものだわ。帰宅したあとは、私のことを考えながら物思いにふけっているかしらと。【本文】おなじ女にけぢかく物などいひて、かへりてのちによみてやりける、心をし君にとどめて来にしかば物思ふことは我にやあるらん【注】・けぢかし=近い。(岩波日本古典文学大系)に「けぢかく物などいひて」を「契りを交わして」とするのは、男女は結婚するまでは、几帳や屏風といった家具などの物越しに話をするのが普通だったから。【訳】同じ女に、間近で話などして、帰ってのちに作って贈った歌、私の心をあなたの所に置いて来てしまったので、物思いにふけるのは私だろうか、いや、あなたのほうですよ。【本文】かへし、たましひはをかしきこともなかりけりよろづの物はからにぞありける【注】・から=肉体。「たましひ(魂)」の縁語。「空(から)」との掛詞。【訳】女の返歌、あなたが私の所に置いてきたという魂は、面白味も無かったですわ。どれもこれも中身のない誠実さのないものばかりでしたわ。
January 16, 2011
コメント(0)
【本文】おなじ男、紀の国にくだるに、「寒し」とて、衣をとりにおこせたりければ、女、紀の国のむろの郡にゆく人は風の寒さもおもひしられじかへし、男、きのくにのむろの郡にゆきながら君とふすまのなきぞわびしき【注】・むろの郡=三重県の北・南牟婁郡と、和歌山県の東・西牟婁郡の地域。・おもひしられじ=「十分実感する」意の「思ひ知る」と、女の「気持ちを察する」意を掛ける。・ゆきながら=赴任するの「行き」と「雪」の掛詞。・ふすま=「臥す間」と「衾」(夜ねるときに上から掛ける布で仕立てた夜具)の掛詞。【訳】おなじ男が、京のみやこから紀国に下るにあたり、「寒いから」というので、着物をとりに家来をよこしたところ、女が、紀伊国のむろの郡に行く(南方の温暖な家に行く)あなたは、風の冷たさも感じないでしょうし、行かないでほしいという私の思いをそうぞうできないでしょうね。と歌を作って男に贈ったそれに対する返歌として、男が、紀伊国のむろの郡に向かって行く道は雪がふっているが、あなたと一緒に寝て別れを惜しむ時間も、防寒の夜着のふすまも無いのがつらいよ。と作ったとさ。
January 15, 2011
コメント(0)
【本文】但馬の国にかよひける兵庫の允なりける、女を置きて京へのぼりければ、雪の降りけるにいひおこせたりける、やまざとに我をとゞめて別れ路のゆきのまにまに深くなるらむといひたりければ、返し、やまざとにかよふ心もたえぬべしゆくもとまるも心ぼそさにとなむかへしたりける。【注】・但馬の国=山陰道八か国の一つ。いまの兵庫県北部。・兵庫の允=兵庫寮(兵部省に属し、武器庫や武器の出納・虫干し・修理などをつかさどる役所)の三等官。【訳】但馬の国の女の所に、夫として通っていた兵庫の允だった男が、女を置いたまま単身京へのぼったので、雪が降った日に男の元へ作ってよこした歌、人けの少ない山奥の村里に私ひとりだけあとに残して別れてゆく道に降る雪が深くなっていくのにつれて、あなたの私に対する冷たさも深まっていくのでしょう。と歌ってあったので、それに対する男の返歌、あなたの住む人けの少ない山奥の村里に通う気持ちも無くなってしまいそうだ。雪深い道を進んで行く私も、とどまるあなたも心細いわけだから。と歌を作って返したとさ。
January 12, 2011
コメント(3)
【本文】む月のついたちごろ、大納言殿に兼盛参りたりけるに、物などのたまはせて、すずろに「うたよめ」とのたまひければ、ふとよみたりける、今日よりは荻の焼け原かきわけて若菜つみにと誰をさそはむとよみたりければ、になくめでたまひて、御返し、片岡にわらび萌えずはたづねつつ心やりにやわかな摘まましとなむよみたりける。【注】・大納言殿=ここでは、藤原顕忠の屋敷。藤原顕忠は、藤原時平の子で、(948……959年まで)大納言をつとめた。・兼盛=平兼盛。官は従五位上、駿河の守に至った。三十六歌仙の一人。・焼け原=焼け野。野焼きを終えた野原。・若菜摘み=春先に食用の野草を摘む。陰暦正月七日には、邪気を払い万病を除くという七種の野草を摘むこと宮中の行事が行われた。もとは神事として若い女性が摘んだが、のちには春の行楽として民間でも行われた。・片岡=歌枕としては、「奈良県北葛城郡王子町。王子町から香芝町にかけての丘陵地帯」が有名だが、ここでは、都から近い「京都市北区、上賀茂神社の東にある山。片岡の杜」を指すか。(岩波日本古典文学大系)は、一般名詞ととり、「一方が急傾斜になっている丘」としている。【訳】陰暦一月の一日ごろ、大納言藤原顕忠さまのお宅に、兼盛がうかがったところ、世間話などをなさって、それから特にこれといった理由もなく「和歌を作れ」とおっしゃったので、その場でさっと作った歌、今日からはオギの焼き原をかき分けて、若菜を摘みにと誰を誘おうかしら。(顕忠さま、わたくしと一緒に行かれませんか?)と作ったところ、これ以上ないほど、おほめになって、作られた返歌片岡に、もしも、わらびが芽をだしていなければ、あちこち探しながら気晴らしに若菜でも摘もうかしら。とお作りになったとさ。
January 12, 2011
コメント(0)
【本文】おなじ右近、「桃園の宰相の君なむすみ給」などいひののしりけれど、そらごとなりければ、かの君によみてたてまつりける、よしおもへあまのひろはぬうつせ貝むなしき名をば立つべしや君となむありける。【注】・右近=藤原季縄のむすめ。醍醐天皇の中宮穏子に仕えた。・桃園の宰相の君=藤原師氏。関白藤原忠平の子。官は正三位、大納言に至った。邸宅名にちなみ、桃園大納言・枇杷大納言と呼ばれた。(913……970年)・ののしる=くちぐちに、ああだ、こうだと言う。・そらごと=うそ。・よし=どうなろうとも。ままよ。・うつせ貝=中身がない貝。・むなしき名=ありもしないことのうわさ。【訳】同じ右近が、「桃園の宰相の君(藤原師氏)が彼女のところにお通いになっている」などと世間の人があれこれ噂したが、事実無根だったので、桃園の宰相の君に作って差し上げた歌、えい、もう、世間の人なんて好き勝手に想像するがいいわ。それにしても、このまま海女が拾わない空っぽの貝のように、事実無根のむなしい浮き名を立てるおつもりなのですか、あなた。(そのおつもりが無いのなら、私の所へ通ってきて私と結婚なさってくださいな)と書かれていたとさ。
January 9, 2011
コメント(0)
【本文】おなじ女、おとこの「わすれじ」とよろづのことをかけてちかひけれど、わすれにけるのちにいひやりける、わすらるる身をば思はずちかひてし人の命の惜しくもあるかなかへしはきかず。【注】・おなじ女=右近。藤原季縄のむすめ。第八十一話に見える。・おとこ=藤原敦忠。第八十一話に見える。【訳】おなじ女が、男が「あなたを忘れまい」と様々な言葉をかけて誓ったが、自分のことをすっかり忘れてしまったのちに、作って贈った歌、あなたに忘れられてしまう我が身のことを、あのころは想像もしなかった。それにしても神にかけて愛を誓ったあなたが、誓いを破った報いの神罰で命を落とすことになるあなたの命が惜しいですこと。
January 8, 2011
コメント(0)
【本文】おなじ女、内裏の曹司にすみける時、忍びてかよひ給人ありけり。頭なりければ殿上につねにありけり。雨のふる夜曹司の蔀のつらにたちよりたまへりけるもしらで、雨の漏りければ、むしろをひきかへすとて、おもふ人雨とふりくるものならばわがもる床はかへさざらましとなむうちいひければ、あはれとききて、ふとはひいりたまひにけり。【注】・おなじ女=右近。・曹司=つぼね。私室。・蔀=日差しや風雨をよけるために、片面に板を張った格子戸。【訳】同じ女性が、宮中の個室に暮らしていた時、こっそりと人目をさけて彼女の所にお通いになる人がいたとさ。役所の長官だったので、殿上の間にいつも居たとさ。ある雨が降る夜、彼女の部屋のしとみ戸の正面に立っておられたのにも気づかずに、雨が漏ってきたので、むしろを裏返しに敷くというので、もしも、愛する人が、今夜の雨が急に降り出したように、とつぜんやって来てくれていたなら、私の部屋の雨漏りして、また、彼が来ないので流した涙に濡れた寝床の敷物は、ひっくり返さないですんだのになあ。と口に出して歌ったので、外にいた彼がしみじみと聞いて、さっと彼女の部屋におはいりになったとさ。
January 7, 2011
コメント(0)
【本文】おなじ女のもとに、又さらに音もせで、雉をなむをこせたまへりける。かへりごとに、くりこまの山に朝たつきじよりもかりにはあはじとおもひし物をとなむいひやりける。【注】・「さらに……で」=「ちっとも……しないで」。・くりこまの山=栗駒山。秋田・宮城・岩手県にまたがる標高千六百二十七メートルの山。【訳】また、同じ女性のところに、また前と同じように、ちっとも連絡もしないで、キジをお寄越しになったとさ。その返事として女が作った歌、栗駒山に朝飛び立つキジ以上に、狩りには出くわすまい(かりそめにはあなたに逢うまい)と思っていたのに。
January 7, 2011
コメント(0)
【本文】季縄の少将のむすめ右近、故后の宮にさぶらひけるころ、故権中納言の君おはしける、たのめたまふことなどありけるを、宮にまゐること絶えて、里にありけるに、さらにとひたまはざりけり。【注】・季縄の少将=藤原季縄(すえただ。一説に、すえなわ)。平安中期の官吏。左中弁藤原千乗の子。官は従五位下、右近少将に至った。鷹狩りの名手として知られ、交野の少将と呼ばれた。(生年不祥……919年)・右近=藤原季縄のむすめ(一説に妹)で、『百人一首』の「忘らるる身をは思はず……」の歌で知られる。・故后の宮=醍醐天皇の中宮、藤原穏子。・故権中納言の君=藤原敦忠。左大臣藤原時平の子。三十六歌仙の一人。『百人一首』の「あひ見てののちの心に……」の歌で知られる。(906……943年)【訳】季縄の少将のむすめ右近が、故后の宮(穏子)にお仕え申し上げていたころ、故権中納言の君(藤原敦忠)がいらっしゃって、頼みに思わせるようなことをおっしゃったことがあったが、右近が宮に参上することが途絶え、実家にいたところ、いっこうに中納言が訪問なさらなかったとさ。【本文】内わたりの人きたりけるに、「いかにぞ、まいり給や」と問ひければ、「つねにさぶらひ給」といひければ、御文たてまつりける。わすれじとたのめし人はありときく言ひし言の葉いづちいにけむとなむありける。【訳】宮中の人がやって来たときに、「どうですか、中納言さまは最近、宮中へ参上なさっていますか」と質問したところ、「いつもいらっしゃっておいでです」と言ったので、御手紙を差し上げたとさ。その手紙にはあなたのことは決して忘れるまいと、甘い言葉で私にあてにさせた人は、いつもそちらにいると聞きましたが、あのとき言った言葉は、どこへいってしまったんでしょうねえ。という歌が書いてあったとさ。
January 6, 2011
コメント(0)
【本文】宇多院の花おもしろかりけるころ、南院のきみたちと、これかれあつまりて歌よみなどしけり。右京の大夫(かみ)宗于(むねゆき)、きてみれど心もゆかずふるさとのむかしながらの花はちれども異人のもありけらし。【注】・宇多院=宇多天皇が退位後にお住みになった場所。・南院のきみたち=是忠親王のご子息たち。南院は源是忠(四条の北、壬生の西にあった彼の邸宅のことだが、彼自身もこう呼ばれた)。・右京の大夫宗于=是忠親王の子。三十六歌仙の一人。第三十話にも見える。【訳】宇多院の桜の花が美しかった時分に、是忠親王の御子息達と、ほかにも、この人やらあの人やらが集まって、歌を作りなどしたとさ。そのときに右京の大夫宗于様が作った歌、きてみれど心もゆかずふるさとのむかしながらの花はちれども異人のもありけらし。やって来て桜を見てみたが、じゅうぶん満足もいかない、昔住んでいた場所に昔通りの桜の花がひらひらと美しく散るけれども。(それというのも亡き父君といっしょに見られないからだなあ)ほかの方たちの歌もあったらしい。
January 5, 2011
コメント(0)
【本文】又おなじみこに、おなじ女、こりずまの浦にかづかむうきみるはなみさはがしくありこそはせめ【注】・おなじみこ=弾正のみこ章明親王。・おなじ女=監の命婦。・こりずまの浦=「前の失敗にもこりないで」という意の「こりずまに」という副詞と「須磨の浦」を合わせた言い方。「浦」に対し「かづく」「うき」「みる」「なみ」は縁語。・うきみる=根が切れて水面に浮いている海松(みる)という海藻。【訳】また同じ親王に、おなじ女が作って贈った歌、しょうこりもなく甘い言葉にだまされてあなたと逢ってしまったわたしは、もういっそのこと須磨の海岸で入水して死んでしまいましょう。根の切れた海松が海面に浮かんでいるように、私が憂き目を見ることで身投げして海に遺体が浮くのは、あなたのせいで世間の噂がさわがしいからですよ)
January 4, 2011
コメント(0)
【本文】監の命婦、朝拝の威儀の命婦にていでたりけるを、弾正のみこ見たまうて、にはかにまどひ懸想したまひけり。御文ありける御かへり事に、うちつけにまどふ心ときくからに慰めやすくおもほゆるかなみこの御歌はいかがありけむ、わすれにけり【注】・監の命婦=父兄が近衛府の将監だった女房。・朝拝=元日の辰の刻に百官が大極殿にあつまり、帝に年頭の祝いの言葉を申し上げる儀式。・威儀の命婦=元日の朝賀や即位式の時に天皇が大極殿の高御座(たかみくら)にお座りになるのに先立って高御座の左右に座り、威儀を添える女房。左右とも四位・五位各一人の計四人がつとめ、礼服を着用した。・弾正のみこ=章明親王。醍醐天皇の子。上総の守・大宰の帥・兵部卿・弾正尹などをつとめた。(924……990年)・懸想=思いをかける。恋い慕うこと。【訳】監の命婦が朝廷の朝拝の儀式のときに、威儀の命婦の役として姿を見せたのを、弾正のみこ章明親王がご覧になって、とつぜん心が乱れて恋慕なさったとさ。親王さまから命婦に御手紙があったが、その返事のなかに、うちつけにまどふ心ときくからに慰めやすくおもほゆるかな急に恋に落ちたと聞きましたから、きっとわたしをからかいやすい女だとお思いになっているんでしょうねえ、またあなたの気持ちも遊びのつもりだから冷めやすいのだと思われますよ。という歌が書かれていたとさ。親王の歌はどんな内容だったかしら、もう、わすれてしまったとさ。
January 3, 2011
コメント(2)
【本文】これも同じみこにおなじ男、ながきよをあかしのうらにやくしほの煙は空にたちやのぼらぬ【注】・同じみこ=宇多天皇の皇女、孚子内親王。・おなじ男=源嘉種。・あかし=「明かし」と「明石」の掛詞。・うら=「浦」と女に会えずに独りで夜を明かす「うら(み)」を掛ける。・やく=恋の思いに身を「焼く」と塩を「焼く」の両意をもたせる。【訳】これも同じ皇女に同じ男が作った歌、あなたを恋しく思いながら長い夜を泣き明かし、明石の浦で塩を焼く煙のように、私の恋の炎は空に立ちのぼらないことがあろうか。(あなたも空に立ちのぼった煙を見て私の情熱がわかったでしょう)【本文】かくてしのびつつあひたまひけるほどに、院に八月十五夜せられけるに、「参りたまへ」とありければまゐり給に、院にてはあふまじければ、「せめて今宵はな参り給ひそ」と留めけり。されど召なりければ、えとどまらでいそぎまゐり給ひければ、嘉種、竹取のよよになきつつとどめけむ君は君にとこよひしもゆく【注】・な参り給ひそ=「な……そ」は禁止表現。・えとどまらで=「え……(否定)」で不可能表現。・よよ=鳴き声を表す「ヨヨ」と「夜夜」を掛ける。また、「よ」は「竹の節と節の間」の意があり、竹の縁語。・君=「かぐや姫」と「あなた(桂の皇女)」。・君=月に桂の木があるという中国古代伝説から、「あなた(桂の皇女)」つまり「桂」自体が月の意になる。また「君」は、天皇の意をも持たせてある。また、竹の別名に「此君(このきみ)」があるので、竹の縁語。【訳】こうしてこっそりデートを重ねていたが、宇多院において八月十五夜の月見の宴をなさったさいに、「こちらへ参上さない。」と連絡があったので、参上なさったが、院では女とデートするわけにもいかなかったので、男は皇女に「けっして今晩は参上なさってはいけません」と連絡して皇女が来るのをとめたとさ。けれども、天皇のお呼びなので、思いとどまることができないで、皇女が急いで参上なさったさいに、嘉種が作った歌、竹取の翁が、毎夜のようにワアワアと泣きながら月に帰るのを引き留めたという姫君は、月にと今夜なにがなんでも行くのですね。(私がいくらあなたを引き留めても、あなたは宇多天皇にお会いに出かけなさるのですね)
January 2, 2011
コメント(0)
【本文】桂のみこの御もとに嘉種がきたりけるを、母宮すむ所ききつけて門をささせたまうければ、夜一夜たちわづらひてかへるとて、「かくきこへたまへ」とて、門のはざまよりいひいれける、こよひこそ涙のかはにいりちどりなきてかへると君はしらずや【注】・桂のみこ=宇多天皇の皇女、孚子内親王。・嘉種=源嘉種。清和天皇の孫、源長猷(ながかず)の子。官は正五位下、美作の守。・たちわづらふ=立ち続けてくたびれる。・いひいる=外から内にいる者に向かっていう。取り次ぎの者に内へ伝えさせる。【訳】桂の皇女のおところに、源嘉種がやって来たのを、母宮さまがお住まいのお部屋のかたが聞きつけて、門を閉めさせなさったので、一晩中屋敷の外に立って開けてくれるのを待つのにも疲れて帰るというので、「このように申し上げてくだされ」と言って、門の隙間から伝言させた歌、今夜は、自分が流した涙の川にはいってしまった千鳥のような我が身ですよ。私が閉め出されて泣きながら帰るとあなたはご存知ないのだろうか。
January 1, 2011
コメント(0)
【本文】又おなじ中納言、蔵人にてありける人の加賀の守にてくだりけるに、わかれ惜しみける夜、中納言、きみのゆく越(こし)の白山(しらやま)しらずともゆきのまにまにあとはたづねんとなむよみたまひける。【注】・おなじ中納言=藤原兼輔。平安前期の官吏・歌人。・蔵人=天皇の日常生活に奉仕し、勅旨の伝達や天皇への奏上、公文書の書写、諸事務を行う役人。五位および六位。・『古今和歌集』と『兼輔集』では、大江千古(おおえのちふる)に贈った歌とする。大江千古は、平安時代前期の官吏・学者。大江音人(おとんど)の子。官は従四位上、式部大輔(しきぶのたいふ)に至る。醍醐天皇の侍読をつとめた。(866……924年)・越の白山=石川県白山市と岐阜県白川村にまたがる標高二千七百メートルの山。【訳】また、同じ中納言が、蔵人だった人が加賀の国守として下向するときに、別れを惜しんだ夜、中納言が、あなたが行く越(北陸道)の白山がどんな所かをたとえ知らなくても、あなたが任地に行くにしたがって、雪のやみ間に足跡を探すような苦労をしてでもお便りを差し上げましょう。と歌をお作りになったとさ。
January 1, 2011
コメント(0)
【本文】同じ中納言、かの殿の寝殿の前にすこし遠くたてりける桜を、ちかくほり植へたまひけるが、かれざまにみえければ、やどちかく移してうへしかひもなくまちどほにのみ見ゆる花かなとよみたりける。【注】・同じ中納言=藤原兼輔。閑院左大臣藤原冬嗣(ふゆつぐ)の曽孫、利基(としもと)の子。平安前期の歌人。三十六歌仙の一人。『百人一首』の「みかの原わきて流るるいづみ川……」の歌で知られる。従三位中納言となり、賀茂川の堤近くに邸宅を構えていたため、堤中納言と呼ばれた。(877……933年) ・寝殿=貴族の屋敷である寝殿造りの南面中央に位置する正殿。【訳】同じ中納言が、例のお屋敷の母屋の前に、すこし離れて立っていた桜を、ちかくに地面を掘ってお植えになったが、枯れそうな様子に見えたので、屋敷の近くに移植した甲斐もなく、花が咲くのが待ち遠しく思われるほど、すぐには咲きそうにもない様子にばかり見える桜だなあ。と歌を作ったとさ。
January 1, 2011
コメント(0)
【本文】人の国の守のくだりける馬のはなむけ、堤の中納言してまち給けるに、暮るるまでこざりければ、いひやりたまひける、わかるべきこともある物をひねもすに待つとてさへもなげきつるかなとありければ、まどひ来にけり【訳】地方の国の国守が、任国に下るときの送別会を、堤の中納言が準備して待っていたところ、国守が、日が暮れるまでやって来なかったので、作ってお贈りになった歌、別れなければならないという悲しい出来事もあるのに、おまけに日中ずっと待つというので、余計に溜め息がでましたよ。と、作ったところ、相手が慌てて駆けつけたとさ。
December 30, 2010
コメント(0)
【本文】同じ宮、おはしましける時、亭子院にすみたまひけり。この宮の御もとに兼盛まゐりけり。めしいでて物のたまひなどしけり。【注】・同じ宮=故式部卿の宮。宇多天皇の皇子、敦慶親王。・亭子院=宇多天皇の譲位後の御所。いまの東西両本願寺の間(平安京の左京、七条坊門小路の南、油小路の東)にあった。・兼盛=平兼盛。篤行王の子。官は従五位上、駿河の守に至った。三十六歌仙の一人。『百人一首』の「しのぶれどいろにでにけり……」の歌で知られる。(生年不祥……990年)第五十六話にも見える。【訳】同じ式部の卿の宮が、生きていらっしゃった時、亭子院にお住まいになっていたとさ。この宮様の所に、藤原兼盛が参上したとさ。宮様が兼盛を呼び出してお話などなさっていたとさ。【本文】うせたまひて後、かの院をみるに、いとあはれなり。池のいとおもしろきに、あはれなりければよみける、池は猶昔ながらの鏡にてかげみし君がなきぞかなしき【訳】宮様がお亡くなりになって後には、例の亭子院を目にするにつけても、宮様のことが思い出されてしみじみ感慨深かったとさ。池がとても風情があったので、しみじみこの景色を宮様に見せてあげたかったと思って作った歌。池は依然として、昔、宮様がご健在だったころと同じように鏡の面のようにきらきらと美しいのですが、いっしょに池の水面に姿を映して見たあなた様が亡くなられて、今この場にいらっしゃらないのが悲しい。
December 29, 2010
コメント(0)
【本文】同じ人に、監の命婦、山ももをやりたりければ、みちのくのあだちの山も諸共(もろとも)に越えばわかれのかなしからじをとなむいひける。【注】・同じ人=藤原滋望。・監の命婦=父兄が近衛府の将監をつとめていた女房。・山もも=楊梅。歌中に「山ももろともに」の部分にヤマモモが詠み込まれている。・みちのく=ほぼ現在の青森・岩手・宮城・福島の四県。・あだちの山=福島県安達郡安達太良山(あだたらやま)。・もろともに=いっしょに。【訳】同じ人に、監の命婦がヤマモモを贈ったところ、陸奥の安達の山もあなたと一緒に越えるのなら、別れが悲しくないだろうに。と男が歌を作ったとさ。【本文】さて堤なる家になむ住みける。さて鮎をなんとりてやりける。かもがはの瀬にふす鮎の魚(いを)とりて寝でこそあかせ夢にみえつや【注】・(岩波日本古典文学大系)に「鮎はおもに夜間に捕らえる」という。現在でも行われる鵜飼いが夜にかがり火を焚きながら行われるのも、その例であろう。・夢にみえつ=古代には、相手が自分のことを強く想っていると、相手が自分の夢に現れるという俗信があった。・「ふす」「寝」「明かす」「夢」は縁語。【訳】ところで、女は土手にある家に住んでいたとさ。そこで、アユを捕って男に贈ったとさ。賀茂川の瀬で眠るアユを捕まえて寝ずに夜を明かしました。あなたのことをこんなに想っているのだから、私が夢に見えましたか。【本文】かくてこの男みちのくにへ下りける便につけて、あはれなる文どもを書きをこせけるを、「みちにてやまひしてなむ死にける」とききて、女いとあはれとなむおもひける。【訳】こんなふうにして、この男が東北へ下るさいに、京へ行く使者に託して、女への愛を切々と訴える手紙を書いて女によこしたが、「道中で病気をして男が死んでしまった」と聞いて、女は男のことをとても悲しく、しみじみ気の毒に思ったとさ。【本文】かくききて後、篠塚の駅(むまや)といふところより、たよりにつけてあはれなることどもかきたる文をなんもてきたりける。いとかなしくて、「これはいつのぞ」と問ひければ、使の久しくなりてもてきたるになむありける。【注】・篠塚の駅=愛知県宝飯郡小坂井町。・たよりにつけて=京へ向かう人などにことづけて。【訳】こう聞いてのち、篠塚の宿場というところから、京へ使者をやるついでに、女に愛を訴える内容を書いた手紙を持ってきたとさ。女はそれらを見て、とても悲しくて「これは、あのかたがいつ書いたの?」と質問したところ、使者が男に託されてからだいぶん経ってから持ってきたものだったとさ。【本文】女、しのづかのむまやむまやとまちわびし君はむなしくなりぞしにけるとよみてなむ泣きける。【訳】そこで、女が篠塚の宿場から、つぎはどこそこの宿場から、手紙を下さるかしらと、今か今かと私が待ちわびていたあなたは、亡くなってしまったんですねえ。と歌を作って泣いたとさ。【本文】童にて殿上して、大七といひけるを、かうぶりして蔵人所におりて、金の使かけて、やがて親のともにいくになむありける。【注】・童にて殿上して=公卿の子で、元服以前に、見習いのために昇殿を許されて奉仕して。・かうぶりして=元服して。・蔵人所=宮中の校書殿の西廂にあり、蔵人が勤務する役所。蔵人は、天皇の日常生活に奉仕し、勅旨の伝達・天皇への奏上・公文書の書写・諸事務などを行った五位・六位の役人。・金の使=宮廷用の黄金や砂金を召すために東北地方へ派遣された使者。・かけて=兼任して。・やがて=そのまま。【訳】この死んだ男は、子供のときに殿上して大七と言ったのを、成人後は蔵人所にいて、黄金徴収の使者を兼任して、そのまま親のお供として東北に行くところだったとさ。
December 27, 2010
コメント(0)
【本文】忠文がみちのくにの将軍になりてくだりける時、それが息子なりける人を、監の命婦しのびてあひかたらひけり。馬のはなむけに、めとりくくりの狩衣・袿・幣などやりたりける、かの得たる男、よひよひにこひしさまさるかりごろも心づくしの物にぞありけるとよみたりければ、女めでて泣きけり。【注】・忠文=藤原忠文。参議藤原枝良の子。平将門の乱では追討のため征東将軍、藤原純友の乱では追討のため征西将軍に任ぜられた。従四位下、参議民部卿兼紀伊権守に至った。(873……947年)・それが息子なりける人=藤原滋望(しげもち)。従五位上、木工頭に至った。・監の命婦(げんのみょうぶ)=父兄が近衛府の将監をつとめていた女房。第八話に見える。・めとりくくり=布の糸筋を針で小さくひっかけてつまみあげ、その部分を糸で巻き、くくって染めた絞り染め。・狩衣=平安時代の男性貴族の普段着。・袿(うちき)=(岩波大系本)には「婦人の上着。打着の意」と注をつけてあるが、「うちき」には、「男が装束の下に着る衣服」の意もあり、ここでは女から男への贈り物であるから、狩衣の下に着る普段着として、セットで贈ったのであろう。・幣=旅の道中の安全を祈るため、布や紙を小さく切って作った、道の神への供え物。【訳】藤原忠文が、東北地方の将軍になって下向した時、彼の息子だった滋望を、監の命婦がひそかに恋をして夫婦の約束を交わしたとさ。餞別として、しぼり染めの狩衣・うちき・ぬさなどを贈ったところ、例の手に入れた男(滋望)が、毎晩毎晩恋しさがまさります、あなたがくれたこの狩衣を見ていると、ほんとうに心のこもった品物でございますよ。と歌を作ったので、女が感無量になって泣いたとさ。
December 25, 2010
コメント(0)
【本文】枇杷殿より、としこが家に柏木のありけるを折りにたまへりけり。折らせてかきつけて奉りける。我やどをいつかは君がならのはのならしがほには折りにをこする【注】・枇杷殿=藤原仲平。関白藤原基経の子。正二位、左大臣に至った。(875……945年)。・としこ=藤原千兼の妻。【訳】枇杷殿のところから、俊子の家に柏木があったのを折りに使用人をよこしてくださったとさ。使用人に折らせて、その柏木の枝に結んだ手紙に書きつけて献上した歌。私の家をいつかは貴方が取り壊して平地にしてしまおうというおつもりでいるのかしら、ナラの葉が折るときに音を鳴らすように、平地にならしてしまいそうなようすで、時折えだが伸びると折りに使用人をよこすのですねえ。【本文】御かへし、かしは木に葉守の神のましけるを知らでぞ折りし祟なさるな【訳】枇杷殿のお返事の歌、柏木に枝葉を守るあなたのような神様がついていらっしゃるのを知らずに折ってしまいました。悪気があったわけではないのですから、祟らないでください。
December 24, 2010
コメント(0)
【本文】また、としこ、雨のふりける夜千兼を待ちけり。雨にやさはりけむ、来ざりけり。こぼれたる家にて、いといたく漏りけり。「あめのいたく降りしかば、え参らずなりにき。さる所にいかで物し給つる」といへりければ、としこ、君をおもふひまなき宿とおもへどもこよひの雨はもらぬ間ぞなき【注】・としこ=藤原千兼の妻。第三話に見える。・千兼=肥前守藤原千兼。・え参らずなりにき=参上できなくなってしまった。【訳】また、俊子が、雨が降った晩に千兼の来訪を待っていたとさ。雨で差し支えたのだろうか、俊子のところにやって来なかったとさ。傷んだ家なので、たいそう雨漏りをしたとさ。「雨がひどく降ったので、参上しないままになってしまいました。そんなボロ家にどうしていつまでも暮らしておいでなのですか」と言ったところ、俊子があなたを思い出すのにひっきりなしの、すきまもない家と思っていましたが、今夜の雨は漏らないすき間がありませんよ。(雨漏りと、あなたを待っても来ない私の涙で私の着物の袖はびしょぬれです)
December 24, 2010
コメント(0)
【本文】としこ千兼をまちける夜、来ざりければ、さ夜ふけていなおほせどりのなきけるを君が叩くと思ひけるかな【注】・としこ=肥前の守藤原千兼の妻。第三話にも見える。・千兼=右京大夫藤原忠房(三十六歌仙の一人)の子。・いなおほせどり=稲負ほせ鳥。古今伝授の三鳥と言われ、どんな鳥を指すかの秘伝があったというが、現在のなにどりを指すか不明。『古今和歌集』に「わが門のいなおほせどり鳴くなへに今朝吹く風に雁は来にけり」とあるから、秋の鳥とされ、ここでは「秋」に掛けて「飽き」の意味を効かせているのであろう。【訳】俊子が、千兼の来訪を待っていた夜、千兼が来なかったので、作って送った歌夜が更けてがコツコツと鳴いたのを、あなたが来てうちの戸を叩くのかと思ってしまいましたよ。(薄情なあなたを夜おそくまで待っていて損しちゃったわ。私にはもう飽きてしまったのかしら)
December 23, 2010
コメント(0)
【本文】南院の五郎三河の守にてありける、承香殿にありける伊予の御を懸想しけり。「こむ」といひければ、「宮すんどころの御もとに、内裏へなんまいる」といひをこせたりければ、たますだれうちとかくるはいとどしくかげを見せじとおもふなりけりといへりけり。【注】・南院の五郎=是忠親王の五男、今扶王のことかという。・承香殿=後宮の御殿の一つ。当時、光孝天皇のむすめで醍醐天皇の女御、源和子が住んでいた。・伊予の御=未詳。「御」は、女性の敬称。【訳】南院の五郎が、三河の守だったとき、承香殿にいた伊予の御に恋をしたとさ。「逢いにいきます」といったところ、「御息所のもとに呼ばれて、内裏へ参ります」と言って返事をよこしたので、たますだれを内側にも外側にも掛けるのは(内裏にも外にも用事があると私から逃げ隠れるのは)どうしても私には姿を見せまいというおつもりなのなだあ。【本文】又、なげきのみしげき深山のほとゝぎす木隱れゐても音をのみぞなくなどいひけり。【訳】また、鳴き声ばかりがしきりに聞こえる(あなたに逢えないなげきという木ばかりが茂る)深山のホトトギスは木に姿を隠しても声を出して鳴く。(私もあなたが姿を隠して恋しさに声をあげて泣く)などと歌を作ったとさ。【本文】かくてきたりけるを、「いまはかへりね」といひやらひければ、しねとてやとりもあへずはやらはるるいといきがたきここちこそすれかへしおかしかりけれど、え聞かず。【訳】こうして、伊予の御をたずねてやってきたのを、「いまはお帰りください」と言って追い返したので作った歌、「死ね」というつもりだろうか、私をあっけなく追い返しなさるのは。ほんとうに生きるのが辛い気がいたしますよ。返事の歌も、趣深かったが、聞けなかった。【本文】又雪のふる夜きたりけるを、ものはいひて、「よふけぬ。かへりたまひね」といひければ、えいかでかへりけるほどに、戸をさしてあけざりければ、我はさはゆきふる空に消えねとやたちかへれどもあけぬ板戸はとなむいひていたりける。【訳】また、雪の降る夜に訪ねて来たが、女は言葉だけは掛けて「夜が更けてしまいます。もうお帰り下さい」と言ったが、自宅へ向かったがどうしても帰れずに引き返したところ、戸を閉めて開けなかったので、私は、それでは、凍え死んで雪の降る空に消えてしまえというのですか、あなたへの強い思いから、こうして立ち戻ってきても板戸を開けないのは。と歌を作って戸外に立っていたとさ。【本文】「うたもよみあはれにいひゐたれば、いかにせましとおもひて、のぞきてみれば、顏こそなをいとにくげなりしか」となむかたりしとか。【訳】「歌も作り、切々と愛を訴えるので、どうしたものかと思って、戸の隙間からのぞいて見たところ、顔がやはり非常に憎らしそうだった」と伊予の御がお話になったとかいうことだ。
December 22, 2010
コメント(0)
【本文】平中、にくからずおもふ若き女を、妻のもとに率てきて置きたりけり。【注】・平中=平定文(貞文とも書く)。桓武天皇の皇子仲野親王の曾孫。宇多・醍醐天皇に仕え、官は左兵衛佐に至った。和歌に長じ、容貌すぐれ、好色の浮き名を流した。・にくからず=相手を愛しいと思う。感じがよい。【訳】平中が、いとしいと思う若い女性を、妻の家に連れて行って住ませていたとさ。【本文】にくげなることどもをいひて、妻つゐにをいいだしけり。この妻にしたがふにやありけむ、らうたしとおもひながらえとゞめず。【訳】憎らしいようなことをあれこれ言って、妻はとうとう若い女を追い出したとさ。平中は、この妻に頭があがらなかったのだろうか、若い女を可愛いと思いながらも、妻が追い出すのを引き留められなかった。【本文】いちはやくいひければ、近くだにえよらで、四尺の屏風によりかかりて立てりていひける。「世中のかくおもひのほかにあること、世界にものしたまふとも、忘れで消息したまへ。己もさなむおもふ」といひけり。この女、つつみにものなど包みて、車とりにやりて待つほどなり。いとあはれと思ひけり。【訳】妻が早く追い出すように激しく言ったので、若い女に近寄りさえせずに、四尺の屏風によりかかって立ち物越しに次のように言ったとさ。「世の中がままならずこんな意外な展開になってしまったが、ここを出て余所でお暮らしになっても、私を忘れずに連絡を下さい。わたしも、連絡するつもりです」と言ったとさ。それは、この若い女が、つつみに身の周りの引っ越し荷物などを包んで、召使いに車をとりに行かせて車の到着を待っている間のできごとだったとさ。【本文】さて女いにけり。とばかりありてをこせたりける、わすらるなわすれやしぬるはるがすみ今朝たちながら契りつること【注】・「たち」=「霞が立ち」と「屏風によりかかりて立ち」を言い掛けた。【訳】そうして、女が出ていってしまったとさ。それからしばらくして、若い女が平中のもとへ寄越した歌、「決してお忘れになりませんように……。それとも、薄情なあなたは、もう、忘れてしまったでしょうか、春霞が今朝立っていたように、屏風によりかかって立ったまま今朝あなたが私に約束したことを」。
December 21, 2010
コメント(0)
【本文】故右京の大夫(かみ)の、人のむすめをしのびてえたりけるを、親ききつけて、ののしりてあはせざりければ、わびてかへりにけり。さて朝によみてやりける。さもこそはみねの嵐はあらからめなびきし枝をうらみてぞ来し【注】・故右京の大夫=源宗于。平安初期の歌人。光孝天皇の皇孫。源氏の姓を賜って臣籍に下った。《百人一首》「山里は冬ぞさびしさまさりける……」の歌で知られる。第三十話にも見える。(生年不祥……939年)【訳】故右京の大夫が、ある人の娘をこっそりと手に入れていたのを、娘の親が聞きつけて、ああだこうだと難癖をつけて、正式に結婚させなかったので、大夫はしょんぼりして帰ったとさ。そうして、翌朝作って女の元へ送った歌あんなにも峰を吹く風は荒々しかったよ、それにしてもその風が吹くのになびいてしまった枝の裏側を見ながら帰ってきたよ。(あんなにも、あなたの親の反対は激しかったよ。それにしても、親の言いなりになって私の味方になってくれなかったあなたを、恨めしく思いながら帰宅しましたよ)
December 20, 2010
コメント(5)
【本文】のうさんの君といひける人、浄蔵とはいとになうおもひかはす中なりけり。かぎりなく契りておもふことをもいひかはしけり。【注】・のうさんの君=未詳。貴族の女性の名。・浄蔵=三善(みよし)浄蔵。平安中期の天台宗の僧。三善清行(きよゆき)の子。宇多法皇の弟子で各地を遊歴修行し、平将門(たいらのまさかど)の乱の際には鎮圧平定のための大威徳法を修した。(891……964年)・おもひかはす=心を通わす。・契りて=互いに固く約束して。・いひかはし=語り合う。【訳】のうさんの君という人は、三好浄蔵とは、比類ないほど相思相愛の仲だったとさ。このうえなく固い夫婦の契りを結んで胸の思いも互いに打ち明け合っていたとさ。【本文】のうさんのきみ、おもふてふ心はことにありけるを昔の人になにをいひけんといひおこせたりければ、上ざうだいとく返し、ゆくすゑの宿世(すくせ)をしらぬ心にはきみにかぎりの身とぞいひける【注】・昔の人=以前なじみであった人。昔の恋人。・上ざうだいとく=浄蔵大徳。・宿世=運命。前世からの因縁。【訳】のうさんの君が、あなたの言う人を愛するという気持ちは、私が考えていたのとは全く異なるものだったのに、昔の恋人であったあなたは、どうしてあんなことを私に言ったのかしら。と作って歌を寄越したところ、浄蔵大徳は次のような返事の歌を作った将来どうなる運命かもわからない自分の心においては、あなたのためなら命を捨てるとまで言ったことだなあ(こうして出家するとわかっていたなら、愛しているなんて軽率に言いませんでした)。
December 19, 2010
コメント(200)
【本文】亭子の院に宮すん所たちあまた御曹司(みざうし)してすみ給ふに、としごろありて、河原の院(左大臣源融の邸宅)のいとおもしろくつくられたりけるに、京極の宮すむどころひとところの御曹司をのみしてわたらせ給ひにけり。【注】・宮すん所=宇多天皇の御息所には、藤原温子・藤原胤子・橘義子・菅原衍子・橘房子・源貞子・藤原褒子・伊勢の御らがいた。・曹司=宮中や貴族の大邸宅の個人用の部屋。つぼね。・河原の院=左大臣源融の邸宅だったが、その死後には宇多院がお住まいになった。・京極の宮すむどころ=藤原時平のむすめ褒子。【訳】亭子院に御息所たちが、大勢お部屋をしつらえて住んでおられたが、何年も経って、河原の院がとても景色よく築造されたので、京極の御息所さまのお部屋だけを引っ越してお移りになったとさ。【本文】春のことなりけり。とまり給へる御曹司ども、いとおもひのほかにさうざうしきことをおもほしけり。【注】・さうざうしき=心みたされず寂しい。【訳】折しも春のことだったとさ。亭子院に留まっておられた御息所たちが、自分たちが取り残されたことがとても意外で、さびしく物足りないと思っておられたとさ。【本文】殿上人などかよひ参りて、「藤の花のいとおもしろきを、これかれさかりをだに御らんぜで」などいひて見ありくに、文をなむ結びつけたりける。【訳】殿上人などが亭子院に通って参上して、「フジの花がとても美しいのに、このかたも、あのかたもご覧にもならないで」など言ってお庭のフジを見て歩いたところ、手紙を結びつけてあったとさ。【本文】あけてみれば、世中のあさき瀬にのみなりゆけばきのふのふぢの花とこそ見れとありければ、人々かぎりなくめであはれがりけれど、誰が御曹司のしたまへるともえ知らざりけり。【訳】手紙を開けてみると、飛鳥川の昨日深かった淵が今日は浅い瀬になるように、男女の仲が愛情が冷めやすく、院の寵愛がどんどん薄くなっていってしまうので、昨日の淵のようにフジの花を過去の深い寵愛を思いだしながら懐かしく見ることです。と歌が書いてあったので、人々がこのうえなく共感なさったけれども、どの御息所さまのお作りになった歌だかは不明だったとさ。【本文】男どものいひける、ふぢのはな色のあさくもみゆるかなうつろひにけるなごりなるべし【訳】ところで、男たちの作った歌、フジの花が色が浅く見えるなあ、これもフジの色が衰えた影響にちがいない(取り残された御息所さまたちのお顔の色がさえないのも、京極の御息所さまに寵愛が移ってしまわれたせいにちがいない)
December 18, 2010
コメント(0)
【本文】五条の御(ご)といふ人ありけり。【注】・五条の御=藤原山蔭のむすめ。「Aのご」の形で、女性に対する敬称。【訳】五条の御というおかたがいたとさ。【本文】男のもとに、我かたをゑにかきて、女の燃えたるかたをかきて、煙をいとおほく燻(くゆ)らせて、かくなむ書きたりける。きみをおもひなまなまし身をやくときは煙おほかる物にぞありける。【訳】男の所に、自分の姿を絵に描いて、女が燃えているさまを描いて、煙を非常に多くもくもくと立たせて、こんなふうに歌を書いてあったとさ、あなたを思い、生きながら生身の我が身を恋の炎に焼くときは、煙が多いものでしたよ。
December 18, 2010
コメント(0)
【本文】世中(よのなか)をうむじて筑紫へくだりける人、女のもとにおこせたりける、忘るやといでてこしかどいづくにもうさは離れぬものにぞありける【注】・世中=男女の仲。男女間の情。・うむじて=うとましくおもって。嫌気がさして。・筑紫=もと、筑前・筑後(福岡の古名)を指す。転じて、九州地方をも指す。・うさ=大分県の地名「宇佐」と身のつらさの「憂さ」を言い掛けた。【訳】男女の仲を厭って福岡へ下った人が、交際のあった女の所に送って寄越した歌、あなたのことを忘れることができるかと思って京を出て来たが、すぐ近くの大分には宇佐があり、どこへいっても憂さは我が身から離れないものだなあ。
December 17, 2010
コメント(0)
【本文】おなじ兼盛、みちの国にて、閑院の三のみこの御(おほむ)こにありける人、黒塚といふ所にすみけり、そのむすめどもにをこせたりける、みちのくの安達の原の黒塚に鬼こもれりと聞くはまことかといひたりけり。【注】・閑院の三のみこ=清和天皇の第三皇子の貞元親王。・黒塚=福島県二本松市の東部、安達原の一部の名称。花崗岩の塚がある。昔、鬼女が住んでいたという伝説があり、歌枕として名高い。【訳】同じ平兼盛が、東北地方で、清和天皇の第三皇子の貞元親王のお子様だった人が、黒塚という所にすんでいたのだが、その娘たちに送って寄越した歌、東北地方の安達ヶ原の黒塚に鬼が隠れ住んでいるというのは本当か。と言ったとさ。【本文】かくて、「そのむすめをえむ」といひければ、親、「まだいとわかくなむある。いまさるべからむ折にを」といひければ、京にいくとて、やまぶきにつけて、はなざかりすぎもやすると蛙なく井手の山吹うしろめたしもといひけり。【注】・井出=京都府綴喜郡井手町。【訳】こうして、「その娘を嫁に欲しい」と言ったところ、親が、「うちの娘はまだ結婚するには若すぎる。もう何年か経って適齢期がきてから」と言ったところ、兼盛が京へ行くというので、山吹の花の枝につけて、花盛りが過ぎてしまうと大変だと蛙が鳴く井出の山吹がしおれて散ってしまわないかと心配だなあ(私が京へ行っているあいだに娘さんの女盛りが過ぎてしまわないかと気がかりだ)と言ったとさ。【本文】さて、名取の御湯といふことを、恒忠の君の妻よみたりけるといふなむ、この黒塚のあるじなりける。【注】・名取の御湯=現在も宮城県名取市には熊野堂温泉・桃源の湯温泉がある。・恒忠の君=左少弁藤原有蔭の子。官は従五位上、日向守。【訳】こうして、名取の温泉を題として、藤原恒忠さまの妻が歌に作ったというが、その人がこの黒塚の主(兼盛の思いをかけた相手)だったとさ。【本文】おほぞらの雲のかよひぢ見てしがなとりのみゆけばあとはかもなしとなむよみたりけるを兼盛のおほ君ききて、おなじこころを、しほがまの浦にはあまやたえにけんなどすなどりのみゆる時なきとなむよみける。【注】・「見てしがなとりのみゆけば」の中に「なとりのみゆ」が詠みこまれている。・「すなどりのみゆる時なき」の中に「なとりのみゆ」が詠みこまれている。・しほがま=宮城県中央部、松島湾南西部の支湾。【訳】おおぞらの雲の通路を見たいものだな、鳥だけが行くので跡も形もありません(あなたは、私を置いて自分一人京へ行ってしまい、手紙も下さらないのですね)。と作ったところ、兼盛さまが聞いて、同じ題で塩竃の海岸には海女がいなくなってしまったのだろうか。どうして漁する姿が見える時がないのかしら(どうして「とりのみゆるときなき」=私の姿が見えない、などと冷たいことをおっしゃるのですか)。と作ったとさ。【本文】さてこのこころがけしむすめ、ことおとこして、京にのぼりたりければ、ききて兼盛「のぼり物し給なるを告げたまはせで」といひたりければ、「井手の山吹うしろめたしも」といへりける文を、「これなむみちのくにのつと」とてをこせたりければ、男、としをへてぬれわたりつる衣手をけふの涙に朽ちやしぬらんといへりけり。【訳】ところで、この兼盛が思いをかけていた娘が、別の男といっしょに、京にのぼってしまったので、それを聞いて兼盛が、「京へのぼりなさったのを連絡もしないで」と言ったところ、「井出の山吹がしおれて散ってしまわないかと心配だなあ」と言って寄越した手紙を、「これが東北みやげです」と言って寄越したので、兼盛は、何年にもわたってあなたを思う恋の涙に濡れ続けていた衣の袖だが、今日のショックで流す涙に台無しになってしまうのだろうか」と歌を作ったとさ。
December 15, 2010
コメント(0)
【本文】近江の介平の中興がむすめをいたうかしづきけるを、親なくなりてのち、とかくはふれて、人の国にはかなき所にすみけるを、あはれがりて、兼盛よみておこせたりける、をちこちの人目まれなるやまざとに家居せむとはおもひきや君とよみてなむおこせたりければ、見てかへりごともせで、よよとぞ泣きける。女もいとらうある人なりけり。【注】・平中興=平高棟の孫。平季長の子。官は正五位下、左衛門権佐に至った。彼は娘を宮仕えさせようと考えていたらしいが、娘が僧浄蔵と関係を持ったので断念した。娘は延長八(930)年に父が没すると地方に住んだという。元良親王らとの贈答歌が『後撰和歌集』『新勅撰和歌集』などに収載されている。・兼盛=平兼盛。筑前守篤行の子。官は越前権守・山城介・大監物などを経て、従五位上駿河守に至った。『拾遺和歌集』・『後拾遺和歌集』などに収載されている。・らうあり=心のゆきとどいたさま。気が利き洗練されているさま。【訳】近江の介平中興が、娘をとても大事にしていたが、親が亡くなってのち、いろいろな事情で落ちぶれて、京以外の地方の身よりもない土地に住んでいたのを、気の毒に思い、兼盛が作って娘の元に寄越した歌、遠くの人も近所の人も訪れることがまれな寂しい山里にあなたが家を構えて暮らすとは私は想像もしませんでしたよ。と作って寄越したところ、その歌を見て返事の歌も作らずに、オイオイと泣いたとさ。女も非常に心遣いのある洗練された情緒の持ち主だったとさ。
December 14, 2010
コメント(0)
【本文】越前権守(ごんのかみ)兼盛、兵衛の君といふ人にすみけるを、としごろはなれて又いきけり。さてよみける、ゆふさればみちもみえねどふるさとはもと来し駒にまかせてぞ行く【注】・越前権守兼盛=平兼盛。天暦四(950)年に越前権守となった。平安中期の歌人で三十六歌仙の一人。《百人一首》の「しのぶれど色にでにけり……」の歌で知られる。・兵衛の君=参議藤原兼茂(かねもち)のむすめ。【訳】越前権守兼盛が、兵衛の君という人の所に通って夫婦として生活していたが、何年か離れて暮らし、のちに再び兵衛の君の所へ行ったとさ。そうしてその折りに作った歌、夕方になると道も暗くて見えないけれども、かつて暮らした家は、道を憶えているであろう以前乗って来た馬の進むにまかせて行く。【本文】女、かへし、こまにこそまかせたりけれはかなくも心の来ると思ひけるかな【訳】兵衛の君の返事の歌、あなたは私の所にくるかどうかを馬なんかにまかせていたのねえ、そんないい加減な人だと知らずに、愚かにも私の心が、あなたは私を深く愛しているからこそ来るもんだと思っていたわ。
December 14, 2010
コメント(0)
【本文】平中が色好みけるさかりに市に行きけり。なかごろは、よき人々市にいきてなむ色好むわざはしける。【訳】平中が恋愛に夢中だったころ、市場に行ったとさ。一時期には身分の高い方がたが市場に行って恋愛をしていたんだとさ。【本文】それに故后の宮(皇后温子)の御達市にいでたる日になむありける。【訳】ちょうど、皇后温子さまの女官たちが市場に出かけた日だったんだとさ。【本文】平中いろこのみかかりてになう懸想しけり。のちに文をなむをこせたりける。女ども「くるまなりし人はおほかりしを、誰にある文にか」となむいひやりける。さりければ男のもとより、ももしきの 袂のかずは みしかども わきておもひの 色ぞこひしきといへりけるは、武蔵の守のむすめになむありける。それなむいと濃きかいねりきたりける。それをとおもふなりけり。【訳】平中がさっそく恋愛して、このうえなく好きになったとさ。のちには、恋文を女たちの元によこしたとさ。女たちは返事に「牛車に乗っていた人は多かったですが、そのなかの誰に宛てた手紙かしら」と書いて送ったとさ。そうしたところ、男の所から、「宮中のご婦人がたの袂の数はいくつも拝見しましたが、とくに緋色の色の着物を着たかたが恋しい」と書いてよこしたとさ。その着物のぬしは武蔵の守の娘だったとさ。その人はとても濃い紅色の練り絹の着物を着ていたとさ。そのかたを恋人にしたいと思うのであったとさ。【本文】さればその武蔵なむ、のちはかへりごとはして、いひつきにける。かたちきよげに髪長くなどして、よき若人になむありける。いといたう人々懸想しけれど、思ひあがりて、男などもせでなむありける。【訳】それで、その武蔵の守の娘が、そののちは返事をして、平中の求婚は成功したとさ。その女は顔立ちが上品で髪も長くて、若い人だったとさ。とても頻繁に男の方がたが交際を求めたけれども、プライドを高くもって、男性との交際もしないでいたとさ。【本文】されど、せちによばひければあひにけり。そのあしたに文もをこせず。夜まで音もせず。心うしとおもひあかして、又の日、待てど文もをこせず。その夜したまちけれど、あしたに、つかふ人など「いとあだに物したまふと聞きし人を、ありありてかくあひたてまつり給ひて、自らこそ暇も障り給ふことありとも、御文をだにたてまつりたまはぬ、心うきこと」などこれかれいふ。【訳】そんなふうだったが、平中が熱心に求婚したので会って契りを結んだとさ。その肉体関係を結んだ翌朝に手紙もよこさず、夜まで便りもよこさなかったとさ。つらいと思いながら一晩明かして、その翌日も連絡を待っていたが、手紙もよこさない。その夜も心待ちにしていたが、(結局音沙汰なく)翌朝、使用人などが「非常にいいかげんに女性に接すると噂に聞いた人を、いろいろないきさつがあって、こうして契りを結ばれておきながら、ご自分でお見えになるには差し支えがあって訪問の時間がないとしても、手紙さえ差し上げなさらないのは、不愉快ですねえ」など、この者もあの者も言う。【本文】心ちにもおもひゐたることを、人もいひければ、心うく悔しとおもひて泣きけり。その夜、もしもやとおもひて待てど又来ず。又の日も文もをこせず。すべて音もせで五六日になりぬ。この女、ねをのみなきてものも食はず。つかふ人など「おほ方はなおぼしそ。かくてのみ止みたまふべき御身にもあらず。人に知らせでやみたまひて、ことわざをもしたまうてむ」といひけり。物も言はでこもりゐて、使ふ人にもみえで、いとながかりける髪をかいきりて手づから尼になりにけり。【訳】自分の心中に感じていたことを、周囲の者たちも言ったので、「不愉快だわ、あんな不誠実な男と契りを結んだのが悔やまれる」と思って泣いたとさ。その夜、「ひょっとすると訪ねてくるかしら」と思って待っていたが、また来なかった。その翌日も手紙もよこさなかった。まったく音沙汰なしに五、六日もたった。この女、泣いてばかりで食事もしなかった。使用人などは「あんまり思いつめてはいけません。こうして殿方に冷たくされてばかりで終わってしまうようなあなたさまではありませんよ。あんな冷淡な男に引っ掛かったことは他人に知らせないようにして、交際を終わりにして、別の男性と恋をなさってしまうのがよろしいでしょう」と言ったとさ。武蔵の守の娘は、口もきかずに部屋に閉じこもって、使用人にも姿を見せずに、非常に長かった髪を勢いよく切って、ご自身の手で尼になってしまったとさ。
December 11, 2010
コメント(0)
【本文】男、かぎりなくおもひける女をおきて、人の国へいにけり。【訳】ある男が、このうえなく愛していた女を置いて、京以外の地方へ行ってしまったとさ。【本文】いつしかとまちけるに、「死にき」といひてきたりければ、今こんといひてわかれし人なればかぎりと聞けどなほぞ待たるるとなむいひける。【訳】早く帰って来ないかしらと待っていたが、「あのかたは亡くなった」と知らせてきたので、すぐあなたの家にいくよと言って別れていった人だから、あの日が二人の会った最後だと聞いても、それでもやはりもしかしたら生きてうちを訪ねてくるのではないかしらと待たれますと歌を作ったとさ。
December 11, 2010
コメント(0)
全190件 (190件中 51-100件目)