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【本文】右京の大夫宗于のきみ三郎にあたりける人、博奕(ばくやう)をして、親にもはらからにもにくまれければ、あしのむかんかたへ行かむとて、人の国へなんいきける。【注】・右京の大夫宗于のきみ=源宗于。・博奕=囲碁や双六などの盤や采などを使ってやるバクチ。呉音「ばくやく」のウ音便。・人の国=京以外の地方。いなか。【訳】右京の大夫源宗于様の三男が、博奕をして、親にも兄弟姉妹にも憎まれだので、足の向く方向へ行こうと思って、京を離れ他国へ行ったとさ。【本文】さておもひける友達のもとへよみておこせたりける、しをりしてゆく旅なれどかりそめの命しらねばかへりしもせじ【注】・しをりして=「木の枝を折って道しるべとする」意の「しをる」と、親兄弟が自分のことを「しかりとがめる」意の「しをる」の両意をもたせているのであろう。【訳】そうして、気心の知れた友達の元へ作って寄越した歌、枝を折って目印を付けて行く(親兄弟が自分を叱って、その結果しぶしぶ出かける)旅だけれども、人の寿命ははかないもので、いつ旅先で尽きるかもわからないから、(太く短く生きるつもりの命知らずの)自分だから、きっと無事には帰らないだろう。
December 8, 2010
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【本文】陽成院にありける坂上のとほみちといふ男、おなじ院にありける女、さはることありとてあはざりければ、秋の野をわくらむ虫も我ごとやしげきさはりに音をばなくらん【注】・陽成院=ここでは陽成天皇の出家後のお住まいを指すか。・坂上のとほみち=田村麻呂の孫、継野の子にあたる坂上遠道か。・さはること=差し支えること。また、「月の障り(さわり)」すなわち月経の意もある。【訳】陽成院で働いていた坂上遠道といふ男が、おなじ院で働いていた女が「さしつかえることがある」と言って、会わなかったので、作って贈った歌、秋の野の草葉をかき分けて動き回るような虫も、あなたが繁雑さに追われて会ってくれないのを、私が声をあげて泣くように、生い茂る草のわずらわしさに声をあげて鳴くのだろうか。
December 5, 2010
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【本文】これもうちのおほむ、わたつうみのふかき心はをきながらうらみられぬる物にぞありける【注】・をき=「置き」と「沖」を言い掛けた。・うらみ=「恨み」と「浦見」を言い掛けた。【訳】これも帝のお作りになった歌、大海のようにあなたを深く思う私の心は理解してくれずに放っておきながら、あべこべに恨まれてしまうものだなあ。
December 5, 2010
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【本文】斎院(君子内親王)よりうちに、おなじえをわきてしも置く秋なれば光もつらくおもほゆるかな【注】・斎院=君子内親王。賀茂の斎院をつとめた。四十九話に見える。・うち=内裏におられる帝。【訳】斎院君子内親王から内裏におられる帝のもとに贈られてきた歌、同じ枝なのに区別して霜が置く秋なので、太陽の光も私には冷たく感じられますよ。(同じ姉妹なのに差別扱いされるので太陽のような父上のお心も私には冷淡に感じられますよ)【本文】御返し、花の色をみてもしりなむはつしもの心ゆきてはをかじとぞ思ふ【訳】それに対する帝のご返事の歌、春に見事に咲く花の色を見てもはっきりわかるでしょう、初霜が気晴らしに置くわけではないと思いますよ。(きびしく接するからこそ、あなたもいつかきっと人生の見事な花が咲くことでしょう)
December 2, 2010
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【本文】かいせん、山にのぼりて、雲ならでこだかき峯にゐるものはうき世をそむくわが身なりけり【注】・かいせん=戒仙。紀貫之・紀友則らと交わった。第二十七話の「かいせう」と同一人物とされる。・山=比叡山。・ゐる=ここでは「雲や霞などが動かずにかかっている」意と「一つ所に落ち着く。住む」意の両意をもたせて使ってある。・うき世=無常で辛い現世。また、俗世間。・世をそむく=世を捨てて仏道にはいる。【訳】僧戒仙が、山に登って作った歌、雲でもないのに小高い峰にとどまっているものは、いったい何かというと他ならぬ世を捨てて仏道修行をする我が身であることよ。
December 2, 2010
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【本文】又、おなじ帝、斎院(さいゐん)のみこの御もとに、菊につけて、ゆきてみぬ人のためにとおもはずは誰か折らまし我やどの菊斎院の御かへし、我やどにいろおりとむる君なくはよそにもきくの花をみましや【注】・斎院のみこ=君子内親王。893年から902年に没するまで賀茂の斎院(平安時代に天皇が即位なさるたびに選ばれて、賀茂神社に奉仕した未婚の皇女または女王)を務めた。・菊につけて=花の枝などに手紙を結びつけて贈る習慣があった。・ゆきてみぬ=出かけて行ってもその姿を見ることがない。神に仕える神聖な身なので、俗人との面会が許されなかった。【訳】また、おなじ宇多天皇が、斎院のみこ君子内親王の御ところに、菊に手紙を結びつけて、次のような和歌を作って贈られたもしも出かけても姿を見られない人のために是非見せてあげたいと思わなかったら、いったい誰が折角咲いた自分の屋敷の菊を折ったりするでしょうか。斎院君子内親王の御返事の歌、もしも自分のお屋敷のきれいな色の菊を折り求める父君がいなかったら、宮中から離れたこの場所で菊の花を見る機会があるでしょうか。
December 1, 2010
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【本文】先帝の御時、刑部(ぎやうぶ)の君とてさぶらひ給ひける更衣(かうい)の、里にまかりいでたまひて、ひさしくまゐり給はざりけるにつかはしける、おほぞらをわたる春日のかげなれやよそにのみ見てのどけかるらむ【注】・先帝=ここでは宇多天皇を指す。・刑部の君=未詳。父兄が刑部卿(裁判や処罰に関することをつかさどった刑部省の長官)を務めていたのであろう。・更衣=後宮の女官で女御に次ぐ位で、天皇の御寝に奉仕する。四位、五位に相当する。【訳】先帝の御代に、刑部の君といって帝にお仕えもうしあげていた更衣が、宮中から実家に退出なさり、長いあいだ参上なさらなかったので帝が贈った歌、大空を移動する春の太陽の光だからであろうか、宮中を他所にばかり見て心のどかに過ごしてなかなか宮中にもどってこないのは。
November 30, 2010
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【本文】陽成院の一条の君、おくやまに心をいれてたづねずばふかき紅葉の色をみましや【注】・陽成院の一条の君=陽成天皇(在位868……949年)の皇女であろう。・心を入れて=本気で。・AばBまし=もしAだったらBだろうに。いわゆる半実仮想の表現。【訳】陽成院の一条の君がお作りになった歌、もしも奥山に熱心に足を運ばなければ、色濃い紅葉の色を見ることができるだろうか、いや、できませんよ。(それと同じで恋しい人に対しては熱心に訪問しないと相手の深い愛情を感じることはできませんよ)
November 27, 2010
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【本文】平中(平貞文)、閑院の御(ご)にたえてのち、ほど経てあひたりけり。さて後にいひをこせたる、うちとけて君はねつらむ我はしもつゆのおきゐてこひにあかしつ【注】・平中=平安前期の歌人、平貞文。好風の子。祖父は桓武天皇の孫にあたる茂世王。内舎人・三河の介・侍従・右馬介などを歴任し、従五位上左兵衛佐に至った。(?……923年)・閑院の御=源宗于のむすめかという。延喜年間ごろの人。・うちとく=くつろぐ。・「しも」「つゆ」は「とけ」の縁語。「おき(置き)」は、「しも」「つゆ」の縁語。「おき」は、「置き」と「起き」の掛詞。【訳】平中こと平貞文が、閑院の御の所に行かなくなって結婚生活がたえてのち、だいぶん期間が経ってから再会したとさ。そうして、のちに平中が言って寄越した歌、リラックスしてあなたは寝たのだろうが、私のほうは夜に霜や露が置くように袖を涙で濡らして起きたまま、あなたを恋しく思いながら夜を明かしましたよ。【本文】女、返し、しらつゆのおきふしたれをこひつらむ我は聞き負はずいそのかみにて【注】・おきふし=寝ても起きても。たえず。・聞き負ふ=聞いて自分のことだと思う。・いそのかみ=奈良の地名。「布留」に在るので「振る」「降る」「古」などの枕詞としても使われる。【訳】それに対する女(閑院の御)の返事の歌、白露の置くように起きている時も寝ているときも、あなたは一体誰を恋しく思っていたのでしょう。私は聞いても自分のことだと思いませんよ、石の上のある布留の名の通りあなたにとってはフルイ過去の女にすぎませんから。(きっと別の新しい女のことでも考えていて眠れなかったのでしょう)
November 26, 2010
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【本文】堤の中納言の君、十三のみこの母宮すむ所を内裏にたてまつりたまひけるはじめに、「帝はいかがおぼしめすらむ」など、いとかしこくおもひなげき給けり。【注】・堤の中納言の君=藤原兼輔。邸宅が賀茂川堤にあり、従三位中納言をつとめたので堤中納言という。三十六歌仙の一人。『百人一首』の「みかの原わきて流るるいづみ川」の歌で知られる。第三十五話にも見える。・十三のみこ=醍醐天皇の皇子、章明(ふみあきら)親王。・母宮すむ所=醍醐天皇の更衣、藤原兼輔のむすめ桑子。「みやすんどころ」は、天皇の御寝所に仕える女性。天皇から寵愛を受ける女御・更衣などの女官。【訳】堤の中納言の君が、十三のみこ(醍醐天皇皇子章明親王)の母御息所を入内させ申し上げたはじめに、「帝はどのようにお思いであろうか」などと、非常に悲観なさっていたとさ。【本文】さて帝によみてたてまつりたまひける、人のおやの心は闇にあらねども子を思ふみちにまよひぬるかな先帝いとあはれにおぼしめしたりけり。おほむ返事ありけれど人え知らず。【訳】そこで帝に作って献上なさった歌、人の親の心は闇ではありませんが、子の身の上を思うという方面ではどうすればよいのか迷ってしまうものですよこの歌を見て醍醐天皇が非常にしみじみと共感なさったとさ。ご返事の歌もあったけれども、誰もご存知ではありません。
November 25, 2010
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【本文】おなじ人に、ある人「やまへのぼり給ふべき日はまだ遠くやある。いつぞ」といへりければ、のぼりゆくやまの雲ゐの遠ければ日もちかくなるものにぞありけるとぞいひをこせたりける。【注】・おなじ人=僧侶「ゑしう」。【訳】同じ人に、ある人が「山へお登りになる予定の日はまだ先ですか。いつですか」と言ったところ、登ってゆく山の雲のある場所が遠いので、登る日も太陽も近くなるものですよ。と言ってよこしたとさ。【本文】かくのみよからぬことの、あるがうへにいできければ、のがるとも誰かきざらむ濡衣あめのしたにし住まんかぎりはといひけり。【訳】こんなふうにばかり良くないうわさが、次から次へと起こったので、たとえ俗世から逃れたとしても、誰が濡れ衣を着ないことがあろうか、この涙の雨を降らす天の下で暮らしている限りは。と言ったとさ。
November 24, 2010
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この大徳、坊にしけるところのまへに、切懸をなむせさせける。そのけづりくづにかきつけける、まがきする飛騨のたくみのたつき音のあなかしがましなぞや世中などいひて、「行ひしにふかき山にいりなむとす」といひていにけり。【注】・この大徳=第四十二話の「ゑしう」。・切懸=柱に横板を鳥の羽のように重ねて付け、外から透けて見えないように立てた板塀。・飛騨のたくみ=もと飛騨から毎年交替で上京し公役に従事した大工。転じて一般の大工をもいう。・たつき=きこりなどの用いる幅広の斧。なた・まさかりの類であろう。金沢庄三郎編纂『広辞林』に「杣人の用ふる刃の広き斧」。・あな=ああ。・かしがまし=やかましい。【訳】この高徳の僧が、僧坊にしていた土地の前に、切りかけを設置させたとさ。その板塀を作る際に出た削り屑に書きつけた歌、垣根を作る飛騨の職人の斧の音がやかましい、どうしてこの俗世はこんなに騒々しいのだろうか。などと言って、「修行しに深い山に入ろうと思う」と言って山へ行ってしまったとさ。【本文】ほどへて「『いづくにかあらむ』とて、ふかきやまにこもり給ぬとありしはいづくぞ」といひやりたまひたりければ、なにばかり深くもあらずよのつねの比叡を外山とみるばかりなりとなむいひたりける。横川(よがは)といふ所にあるなりけり。【注】・横川=比叡山の東北、滋賀県滋賀郡横川。【訳】だいぶん経ってから、「『どこにいようか、こんな所にはいられない』と言って、深い山にお籠もりになったと聞いたが、場所はどこですか」と言っておやりになったところ、それほど深い所でもありません。通常比叡山を外山と見るほどの所です。と言ってきたとさ。横川という所にいるのだったとさ。
November 24, 2010
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【本文】源大納言の君の御もとに、としこはつねにまゐりけり。曹司してすむ時もありけり。【注】・源大納言の君=陽成天皇の皇子、源清蔭。正三位、大納言に至った。・としこ=肥前の守、藤原千兼の妻。千兼は清蔭の弟。第三話に見える。・曹司=貴族の屋敷で女房などに与えられる個室。【訳】源大納言さまのお屋敷に、俊子は常に参上していたとさ。屋敷に個室をしつらえてそこで過ごす時もあったとさ。【本文】つれづれなる日、このおとど、としこ、又このむすめ、姉にあたるあやつこといひてありけり、母に似て心もをかしかりけり。又このおとどのもとによふこといふ人ありけり、それも、もののあはれしりていと心をかしき人なりけり。【注】・おとど=大臣・公卿の尊称。【訳】これといってほかに用事もないある日、この大納言さまと、俊子と、また、俊子の娘と、俊子の娘の中では姉にあたるあやつこというかたがいたとさ。このあやつこというかたは母親に似て性格もすばらしかったとさ。また、この大納言さまの所にようこというかたがいたとさ。そのかたも、ものの情趣を理解して、とても性格のすぐれた人だったとさ。【本文】これ四人つどひてよろづの物がたりし、世中のはかなきこと世間のことのあはれなるいひいひて、かのおとどのよみ給ひける、いひつつも世は儚きをかたみにはあはれといかで君にみえましとよみたまひければ、たれもたれも返しはせでよよとなむ泣きける。あやしかりける物どもにこそはありけれ。【注】・かたみには=「かたみに」を(岩波日本古典文学大系)に「お互に」と解するが、おそらくずっと年上の清蔭が先に死ぬわけであろうから、ここでは「死後の思い出の種として」の意にとる。【訳】この四人が集まって四方山話をし、世の中の無常なことや、世間のしんみりした話などをして、その大納言さまがお作りになった歌、 いくら話をしていても世の中は無常であることに変わらないのに、どうやって過去の思い出として「ああすばらしい方だったのに」と思ってもらえるようにあなたに会えばよいのだろう。(「あの人は、すばらしい方だった」と死後も思ってもらえるようにするには、生きているうちにどんなふうにあなたの前で良い義兄として振る舞えば良いのだろうか)と歌をお作りになったところ、誰ひとりとして返事の歌を作ることもせずに、ひたすらシクシクと泣いていたとさ。一風変わった人たちだったとさ。
November 21, 2010
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【本文】桂のみこに式部卿宮すみ給ひける時、その宮にさぶらひけるうなゐなん、このおとこみやを「いとめでたし」と思ひかけたてまつりたりけるをも、えしりたまはざりけり。【注】・桂のみこ=宇多天皇の皇女、孚子内親王。・式部卿宮=敦慶親王。桂のみことのことは第二十話に見える。・すむ=夫として妻の所に通う。・うなゐ=髪を襟首のところで結んだ七、八歳ぐらいの子供。・思ひかく=慕う。【訳】桂の皇女に、式部卿宮様が通って夫婦として生活しておられた時分、その皇女の御殿にお仕えしていた七、八歳ぐらいの少女が、この式部卿宮様のことを「とても素敵なおかた」と好意を抱いてお慕い申し上げていたことを、まったくご存知なかったとさ。【本文】蛍のとびありきけるを、「かれとらへて」とこのわらはにのたまはせければ、汗袗(かざみ)の袖に蛍をとらへて、つつみて御覧ぜさすとてきこえさせける、つつめどもかくれぬものは夏虫の身よりあまれるおもひなりけり【注】・とびありく=飛び回る。・のたまはす=おっしゃる。「言ふ」の尊敬語。・汗袗=初夏に童女などが着る上着。裾が長く晴れ着として用いる。・きこえさす=申し上げる。・おもひ=「思ひ」と「火」を言い掛ける。【訳】ホタルがあちこち飛んでいたのを、「あれを捕まえて」と、この少女におっしゃったところ、かざみの袖にホタルを捕まえて、包んでご覧にいれるというので、申し上げた歌、こうして袖に包みましたが隠しきれないものは夏虫身から余って発している火だなあ。(このホタルのような取るに足らぬ我が身もあなた様への熱い思いという火を包み隠しきれずに打ち明けるのです)。
November 20, 2010
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【本文】伊勢の守もろみちのむすめを正明(まさあきら)の中将の君にあはせたりける時に、そこなりけるうなゐを、右京の大夫よびいでてかたらひて、あしたによみておこせたりける、しら露の置くを待つ間のあさがほはみずぞなかなかあるべかりける【注】・伊勢の守もろみち=未詳。藤原諸葛(もろふぢ)の誤写かともいう。・正明の中将=源正明。平安時代中期の公卿。天暦年間に左中将だった。参議・弾正大弼(だんじょうのだいひつ)をつとめた。(893……958年)・右京の大夫=源宗于。正明の兄弟。・うなゐ=髪を襟首のあたりに垂らす七、八歳前後の年頃の子。・しら露の置くを待つ間のあさがほ=ここでは結婚するまでの女性をたとえているのであろう。(岩波日本古典文学大系)では、「しら露」を右京の大夫とし、「うなゐ(少女)」と「かたらひ(契りを交わし)」たとする。【訳】伊勢の守もろみち(藤原諸藤か)のむすめを(源)正明の中将さまに妻合わせた時に、そばにいた子供を、右京の大夫(宗于:正明の兄弟)が呼び出して頼み込んで、翌朝に作って寄越した歌、しら露が置くのを待つ間のあさがおは、見ないほうがかえってよかったなあ。(わたしは、兄弟が見合いしたあなたを見たばかりに恋に落ちてしまいました)。
November 19, 2010
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【本文】先帝の五のみこ、御むすめ一条の君といひて、京極の宮すんどころの御もとにさぶらひ給けり。【注】・先帝=先代の天皇。清和天皇。文徳天皇の第四皇子。九歳で即位なさったが、幼少のため外祖父の藤原良房が摂政をつとめた。(在位858……876年)・五のみこ=第五皇子。貞平親王。母は藤原良近の娘。(生年未詳……913年)・一条の君=藤原褒子に仕え、陽成院の歌壇で活躍した。元良親王と付き合いがあったが、のちに、壱岐の守の妻となり、夫の任地へ赴いた。歌は『後撰和歌集』『拾遺和歌集』に収める。・京極御息所=藤原褒子。藤原基経の孫。宇多天皇の妃となったが、元良親王と関係を持ったことが大スキャンダルとなった。【訳】先代の帝の第五皇子、貞平親王さまのお嬢様は一条の君と言って、京極の御息所さまの所にお仕えしていらっしゃったとさ。【本文】よくもあらぬことありてまかで給て、壹岐の守のめにていますとて、たまさかにとふ人あらばわたのはらなげきほにあげていぬとこたへよ【注】・よくもあらぬこと=宇多天皇の妃となった藤原褒子と元良親王との不倫に絡んでのことであろう。・たまさかに=もしも。【訳】不都合なことがあって、そこを退出なさって、壱岐の守さまの妻となって壱岐へいらっしゃるというので、作った歌もしも、たまたま私のことをどうしておいでですかと問う人がいたら、大海原に泣く泣く帆を揚げて去ったと答えておいてください。
November 17, 2010
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【本文】いづもがはらから、ひとりは殿上(てんじやう)して、我はえせざりける時によみたりける、かくさける 花もこそあれ わがために おなじ春とや いふべかりける【注】・いづも=出雲の守。誰を指すかは不明。・はらから=同じ腹から生まれた兄弟姉妹。また、単に兄弟姉妹もいう。・殿上=四位・五位、および六位の蔵人で、宮中の殿上の間(清涼殿の南廂にあり、昼の御座に隣接する部屋)への昇殿を許されること。【訳】出雲の守の兄弟が、一人は殿上人となり、自分は殿上人となることができなかった時に作った歌、こんなふうに咲いている花もあるけれども(大出世して見事に花を咲かせた兄弟もいるけれども、出世して花を咲かせることができずにいる)私にとって同じ楽しい春と言うことができようか。
November 15, 2010
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【本文】伊勢のくにに前の斎宮のおはしましける時に、堤の中納言勅使にてくだり給て、くれたけのよよの宮こときくからに君はちとせのうたがひもなしおほむかへしはきかず。【注】・前の斎宮=前任の斎宮。宇多天皇の皇女、柔子内親王。・勅使=天皇の使い。みことのり(天皇の命令)を伝えるために遣わされる使者。・くれたけの=「よ」にかかる枕詞。くれたけは、葉が細く節が多いタケの一種。【訳】伊勢の国に、前任の斎宮がおられた時に、堤中納言様が勅使として京から伊勢に下られて、くれたけの節と節との間がいくつも連続しているように神代からの代々の神殿のあるところだと聞いておりますので、あなたさまが千年も長生きなさることは疑いもありません。と歌を贈ったが、ご返事の歌は聞けなかった。【本文】かの斎宮のおはします所はたけの宮となむいひける。【注】・たけの宮こ=多気の宮。伊勢神宮で斎宮のおられる所。伊勢の国多気郡(たけのこおり)竹郷にあった。【訳】あの斎宮がおられた所は、タケの宮といったとさ。
November 14, 2010
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【本文】堤の中納言(藤原兼輔)内裏の御つかひにて、大内山に院の帝おはしますにまいりたまへり。【注】・大内山=京都市右京区嵯峨にある。・院の帝=宇多天皇。大内山に離宮があったことは、『今昔物語集』巻二十四・第三十一話に「亭子院の法師に成らせ給ひて大内山といふ所に深く入りて行はせ給ひければ」と見える。【訳】堤の中納言(藤原兼輔)様が、内裏の御使者として、大内山に院の帝がいらっしゃるところに参上なさった。【本文】物心ぼそげにておはします、いとあはれなり。【訳】院の帝がなんとなく心細げなご様子でいらっしゃいますのが、とてもお気の毒です。【本文】たかき所なれば雲は下よりいとおほくたちのぼるやうにみえければ、かくなむ、しらくもの九重にたつみねなれば大内山といふにぞありける【注】・九重=ここのえ。・大内山=山の名と、皇居をさす「大内裏」を言い掛けた。【訳】院の帝のいらっしゃるところは、山の高い所なので、雲は下から非常にたくさん立ちのぼるように見えたので、このように歌を作った白雲が九重にも立つ高い山の峰なのでオオウチヤマというのだなあ。
November 12, 2010
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【本文】右京の大夫のもとに、女、いろぞとはおもほえずともこの花にときにつけつつ思ひいでなむ【注】・右京の大夫=右京の司法・警察・戸口・税金など民衆に関わることを管轄した右京職の長官。源宗于。第三十話に見える。・おもほゆ=思われる。・なむ=未然形に付いて他に対する願望を表す。【訳】右京の大夫藤原定方さまのところに、ある女が、つぎのように和歌を作って贈ったとさ美しい色だとは思えなくても、この花をごらんになって、折に触れてこれを贈った私のことを思いだしてほしい。
November 12, 2010
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【本文】躬恒(みつね)が院によみてたてまつりける、たちよらむ木のもともなきつたの身はときはながらに秋ぞかなしき【注】・躬恒=凡河内躬恒(おほしかふちのみつね)。平安前期の歌人。三十六歌仙の一人。『古今和歌集』撰者の一人。宇多・醍醐天皇に仕えた。『百人一首』の「心あてに折らばや折やむ」の歌で有名。・院=亭子院のみかど、すなわち、宇多天皇。・たちよる=寄り添う。・もと=『竹取物語』の「もと光る竹なむ一筋ありける」と同様、幹の意。【訳】凡河内躬恒が、宇多院に作って献上した歌、もたれかかる木の幹(すなわち、頼りに出来る人)もないツタのような我が身は、永遠にしおれて枯れるのを待つ秋の季節みたいで(出世もできずに落ちぶれて)いるのが悲しいことでございます。
November 11, 2010
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【本文】亭子の帝に、右京の大夫のよみてたてまつりける、あはれてふ人もあるべくむさし野の草とだにこそ生ふべかりけれまた、しぐれのみふる山里の木のしたはおる人からやもりすぎぬらむとありければ、かへりみたまはぬ心ばへなりけり。「みかど御らむじて『なにごとぞ。心えぬ』とて僧都の君になむみさせたまひけるとききしかば、かひなくなんありし」とかたり給ひける。【注】・亭子の帝=宇多天皇。譲位後に亭子の院(今の東西両本願寺の間にあった)にお住まいになった。・右京の大夫=源宗于。三十六歌仙の一人。百人一首の「山里は冬ぞさびしさ」の歌で知られる。・むさし野の草=『古今和歌集』「紫のひともとゆゑに武蔵野の草はみながらあはれとぞ見る」(ムラサキグサがたった一本あるために武蔵野の草は全部しみじみなつかしいと思って見る)をふまえる。・山里=石田穣二訳注『伊勢物語』(角川文庫、一三五ページ)に「『山里』は、語義は、山中の人里の意であるが、実際の用例の大部分はより限定された特殊の意味を持つ。京の周辺、東山、北山、宇治など、山水の便りある景勝の地に貴族たちの営んだ別荘そのもの、あるいはそうした別荘を営むに恰好の地をいう」。・僧都の君=未詳。「僧都」は、僧綱の一つ。僧正につぐ僧官。【訳】亭子の帝に、右京の大夫の作って献上した歌、しみじみ愛しいという人もいるように、せめてむさし野の草のように人から愛されるように生きてくるべきでございました。また、あるときには、しぐればかりが降る山里の木の下は枝を折る人のせいで雨漏りして出世からもれたまま月日が過ぎてしまうのでしょうか。という歌を作ったのは、帝が右京の大夫さまに目をおかけにならないという趣意である。「亭子のみかどが御覧になって、『なんということだ。納得がいかぬ』というので、贈られてきた歌を僧都の君にお見せになったと聞いたので、甲斐が無かったよ」とお話になったとさ。
November 10, 2010
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【本文】又おなじ右京の大夫、監の命婦に、よそながらおもひしよりも夏の夜の見はてぬ夢ぞはかなかりける【注】・おなじ右京の大夫=源宗于。・監の命婦=第八話に見える。父兄が右近府の将監をつとめていた中臈女房。【訳】また、同じ右京の大夫が、監の命婦に、次のような和歌を作って贈ったとさ。他人事として考えていたの以上に、夏の短夜の見終わらないうちに覚めてしまう夢がはかなかいことよ。
November 9, 2010
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【本文】故右京の大夫(かみ)宗于(むねゆき)の君、なりいづべきほどに、わが身のえなりいでぬこととおもうたまひけるころほひ、亭子の帝(みかど)に紀の国より石つきたる海松(みる)をなむたてまつりけるを題にて、人々うたよみけるに、右京の大夫、おきつかぜふけゐの浦にたつなみのなごりにさへや我はしづまむ【注】・故右京の大夫=源宗于。光孝天皇の皇子、是忠親王の子。三十六歌仙の一人。私家集『宗于集』がある。(生年不明……九三九年没)「右京の大夫」は、右京職(律令制で右京の司法・警察・行政などを担当する役所)の長官。・なりいづ=出世する。・え……ぬ=「え……ず」で不可能を表す。・亭子の帝=宇多天皇。・紀の国=紀伊。和歌山県の大部分と三重県の一部。・海松=海藻の一つ。浅い海の底の岩に生え、濃い緑色の枝葉が分岐する。古くは食用とした。・ふけゐの浦=いまの大阪府泉南郡岬町。『万葉集』に見える「吹飯浜(ふけいのはま)」。【訳】故右京の大夫(かみ)宗于(むねゆき)さまが、出世してもよさそうな時分になっても、我が身が出世できないもんだなあとお考えになっていたころ、亭子の帝(宇多天皇)に紀の国から石が付着している海藻の海松を献上したということを題として、人々が和歌を作った際に、右京の大夫さまが、沖の風よ吹け、吹けという名をもつフケイの浦に立つ波の余波にあおられてさえ浜に打ち上げられることなく私は沈んだままなのだろうか(底に石がついたままの、この海藻のように、いつまでたっても上に浮き上がって出世できないものだ)という和歌をお作りになったとさ。
November 7, 2010
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【本文】故式部卿の宮に、三条の右のおとど、異上達部(かむだちめ)など、類(るい)してまゐり給ひて、碁うち、御(おほむ)あそびなどし給ひて、夜ふけぬれば、これかれさけ酔ひ給ひて、ものがたりし、かづけものなどせらる。をみなへしをかざし給ひて右の大臣、をみなへし折る手にかかる白露はむかしのけふにあらぬなみだかとなむありける。こと人々のおほかれど、よからぬはわすれにけり。【注】・故式部卿の宮=宇多天皇の第四皇子、敦慶親王。(887年……930年)・三条の右のおとど=藤原定方。和歌管絃に長じていた。(873……932年)・上達部=公卿の別名。摂政・関白・大臣と大納言・中納言・三位以上の朝臣、四位の参議。・類す=連れ立つ。・かづけもの=引き出物として肩に掛けて与える衣服。・をみなへし=秋の七草の一。夏から秋にかけて枝先に黄色の小さな花が多く咲く。・かざし=上代には草木の美しい花や枝を髪に挿してかざることをいった。平安時代以後は冠に挿すことをもいい、おもに造花を使った。【訳】故式部卿の宮のお屋敷で、三条の右大臣(藤原定方)様や他の上達部など、仲間同士寄り集まって参上なさって、碁を打ったり管絃の遊びをなさったりして、夜もふけてしまったので、この人もあの人も酒にお酔いになって、雑談などして、みんなに褒美の着物などをお与えになった。オミナエシの花を頭に挿してお飾りになり、右の大臣が、オミナエシを手折るこの手にかかる白露は、むかし式部卿が生きておられた時に一緒に楽しく遊んだ日と今日とでは違う悲しみの涙かしら。と歌を作った。他の方がたの歌も多数ございましたが、出来栄えのよくないものは、忘れてしまいました。
November 7, 2010
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【本文】おなじ人、かの父兵衞(ひやうゑ)の佐(すけ)うせにける年の秋、家にこれかれあつまりて、宵より酒のみなどす。いますからぬことのあはれなることを、まらうどもあるじも恋ひけり。【注】・兵衞の佐=兵衛府(律令制における内裏の警護や行幸・行啓のお供などをつかさどった役所)の次官。・いますからぬ=ラ変動詞「あり」の尊敬語「いますかり」の未然形に打消助動詞「ず」の連体形がついたもの。・まらうど=客人。【訳】おなじ人(つまり戒仙)、彼の父の兵衞の佐が亡くなった年の秋に、家に知人のこの人もあの人も集まって、夜になって間もない時分ら酒を飲んだりした。この座に亡父がいらっしゃらないで、しみじみ悲しく残念なことを、客人も主人もしのんだとさ。【本文】あさぼらけに霧たちわたれりけり。まらうど、あさぎりのなかに君ますものならばはるるまにまにうれしからましといひけり。【注】・あさぼらけ=夜がほのぼのと明けはじめるころ。・たちわたる=あたり一帯をおおう。・ます=「あり」の尊敬語。平安時代からは、もっぱら和歌でのみ使われた。・Aば……Bまし=いわゆる反実仮想の表現で、もしAだったらBだろうに。【訳】ほのぼのと夜が明け始めるころに、霧がたちこめていたとさ。すると客人の一人が、この朝霧のような煩悩の闇の中に今は亡きあなたがもしおいでなって迷っておられるのならば、晴れるにつれてうれしいことでしょう。と歌を作ったとさ。【本文】かいせう、返し、ことならばはれずもあらなむ秋ぎりのまぎれにみゆる君とおもはんまらうどは貫之・友則などになむありける。【注】・貫之=平安時代前期の歌人。『古今和歌集』の撰者の一人で仮名序を書いた。『土佐日記』の作者。私家集『貫之集』がある。三十六歌仙の一人。『百人一首』の「人はいさ心もしらず」の歌で知られる。・友則=平安時代前期の歌人。紀貫之とはイトコ。『古今和歌集』の撰者の一人。私家集『友則集』がある。『百人一首』の「久方の光のどけき」の歌で知られる。【訳】それに対する戒仙の返事の歌、どうせ同じことならば、晴れないでほしいものだ、秋霧の中に気のせいかぼんやりと人影が紛れているように見えるのを、われわれにあの世から会いにきたあなたの姿だと思いましょう。という歌を作った。この時の客人は、紀貫之・紀友則などだったとさ。
November 6, 2010
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【本文】かいせうといふ人、法師になりて、山にすむあひだに、あらはひなどする人のなかりければ、親のもとに衣をなむあらひにをこせたりけるを、いかなる折にかありけむ、むつかりて、「おやはらからのいふこともきかで法師になりぬる人は、かくうるさきこといふものか」といひければ、よみてやりける、いまは我いづちゆかまし山にても世のうきことはなをもたえぬか【注】・かいせう=『後撰和歌集』に和歌が引かれている戒仙のことという。紀貫之・紀友則らと交際があった。「う」は、この時代の「ン」の表記法の一という。柑子(カンジ)を「かうじ」と書く類か。【訳】カイショウという人が、法師になって、山に住んで修行しながら暮らしていたところ、洗濯などをする人がいなかったので、親の元に衣類を洗いに寄越したのを、どんな折りだったろうか、機嫌を悪くして、「親兄弟の言うこともきかずに法師になってしまった人は、こんな面倒なことを言うものなのか」と言ってきたので、そこで作って贈った歌、今はわたしはどこへ行ったらよいものだろうか、山奥で暮らしていても世間のつらいことは、それでも無くならないか。
November 6, 2010
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【本文】桂のみこ、いとみそかにあふまじき人にあひたまひけり。おとこのもとによみてをこせたまへりける。それをだにおもふこととてわが宿を見きとないひそ人のきかくにとなむありける。【注】・桂のみこ=第二十話に見ゆ。宇多天皇の皇女、孚子内親王。【訳】桂のみこが、とてもこっそっりと結婚するのにふさわしくない人と契りを結びなさったとさ。そして、相手の男の元に歌を作ってお贈りになった歌。そのことばかり考えているからといって、わたしの家を見たと言わないでくださいね、他人が聞きつけると困るので……、と書いてあったとさ。
November 6, 2010
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【本文】比叡(ひえ)の山に、念覚といふ法師の、山ごもりにてありけるに、宿徳(しうとく)にてましましける大徳(だいとこ)の、はやう死にけるが室(むろ)に、松の木のかれたるをみて、 ぬしもなき やどに枯れたる 松みれば ちよすぎにける 心ちこそすれとよみたりければ、かの室にとまりたりけるしどもあはれがりけり。この念覺はとしこが兄なりけり。【注】・比叡の山=京都と滋賀の境にある山。また、その山上の延暦寺をいう。・念覚=未詳。この話の末尾の記事によれば「としこ」(第三話に見える肥前守藤原千兼の妻)の兄。・山ごもり=山寺にこもってする修行。・宿徳=しゅうとく。修行・年功を積んで人徳あるさま。・大徳=だいとこ。もと、修行を積んだ高徳の僧。のち、単に僧をも指す。・はやう=「はやく」のウ音便。むかし。かつて。・室=こもり住むところ。とくに、僧坊・庵室。・ちよ=千代。千年。非常に長い年月。・松=中国の古典や、その影響を受けた日本の古典では千歳の寿命を保つとされる。・とまる=あとにのこる。生き残る。また、ここでは「(修行するために僧坊に)泊まる」意とも考えられる。・あはれがりけり=(岩波日本古典文学大系)では「感にたえないといってほめた」と、歌の出来栄えに対する評価のようにとっている。【訳】比叡山で、念覚という法師が、山ごもりをしていたが、修行を積んで徳が高くていらっしゃった僧侶が、かつて亡くなった庵室のかたわらに、松の木が枯れているのを見て、もはや主人もいない庵室のそばで枯れている松を見ると、千年も過ぎてしまった遠い昔のことのような気がする。と歌を作ったところ、例の庵室に生き残っていた法師たちが、しみじみと亡き僧をしのんで悲しんだとさ。この念覚という法師は、としこの兄だったとさ。
November 4, 2010
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【本文】先帝の御時に、右大臣殿の女御、うへの御(み)つぼねにまうのぼりたまてさぶらひ給けり。おはしましやするとしたまちたまひけるに、おはしまさざりければ、ひくらしに君まつやまのほととぎすとはぬ時にぞこゑも惜しまぬとなむきこえける。【注】・先帝=醍醐天皇。885年……930年。在位897年……930年。宇多天皇の第一皇子で名は敦仁。藤原時平・菅原道真を登用し、延喜元年(901年)に菅原道真が藤原時平に讒(ざん)されてからは、時平を重用して善政を行い延喜の治と称せられる。臣下に『三代実録』『古今和歌集』『延喜格式』などの編纂を命じた。 ・右大臣殿の女御=藤原定方のむすめ仁善子。醍醐天皇亡きあと、敦実親王に嫁し、のちにさらに藤原実頼の妻となった。・うへの御つぼね=中宮・女御・更衣などが、ふだん過ごす部屋とは別に、時に帝の御座所近くに賜る部屋。・ひぐらしに=阿倍俊子・今井源衛校注『大和物語』(岩波日本古典文学大系)に、ひぐらし」に「終日」と「蜩」、「松山」に「待つ」をかける、とあるが、蝉のヒグラシは秋の景物であり、初夏の景物であるホトトギスとは時季がずれるので、いかがなものか。【訳】先の天皇さまの御代に、右大臣の女御(藤原定方様のお嬢様)が、宮中の御局に参上なさってお仕え申し上げていらっしゃったとさ。帝がおいでになるかと、心待ちにしておられたが、おいでにならなかったので、一日を暮らしつつ、今いらっしゃるか今いらっしゃるかと帝を待つわたしは、まるで人間が山をおとずれない時には声もおしまず盛んに鳴く松山のホトトギスのようで、帝がいらっしゃらないときには悲しくて声を惜しまずに泣いておりますよ。(わたしを嘆かせないで、いらっしゃってください)と和歌を作って帝に差し上げたとさ。
November 3, 2010
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【本文】陽成院の二のみこ、後蔭の中将のむすめに、としごろすみたまひけるを、女五のみこ得たてまつりてのち、さらにとひたまはざりければ、いまはおもひたえて、いとあはれにてゐたまへりけるに、いとひさしくありて、思ひかけぬほどにおはしましたりければ、え物もきこえで逃げて戸のうちにいりにけり。かへりたまひて、みこ、あしたに、「などか、としごろのことも申さむとてまうできたりしに、かくれたまひにし」とありけれ、ことばはなくて、かくなん、せかなくに絶えと絶えにし山水の誰しのべとかこゑをきかせむ【注】・陽成院の二のみこ=陽成天皇の第二皇子、元平親王。三品弾正尹。・後蔭の中将=藤原後蔭。民部卿藤原有穂の子。(生年不明……921年没)・女五のみこ=宇多天皇の皇女、依子内親王。(859……936年)【訳】陽成天皇の第二皇子、元平親王が、中将の藤原後蔭さまの息女のもとに、何年も夫婦として通っておられたが、宇多天皇の皇女、依子内親王さまを妻に得られてのちは、いっこうに後蔭さまの娘のもとを訪問なさらなかったので、今となっては諦めて、たいそうお気の毒なようすでいらっしゃったが、ずいぶん久々に、思いがけない時においでになったので、後蔭さまのご息女は、言葉も申し上げることもできず、逃げて戸のうちに引きこもっておしまいになったとさ。元平親王は、しかたなく、お帰りになり、翌朝に「どうして、わたしが年来の積もる話でも申し上げようとおうかがいしたのに、隠れておしまいになったのか」と手紙に書いてよこした。その手紙に対する返事には、文章はなくて、こんな歌が書いてあった わたしがせき止めたわけでもないのに、自然とすっかり途絶えてしまった山かげの水が誰を思い慕えと音を聞かせることがあろうか。(わたしがお逢いするのを拒絶したわけではないのに、一方的にあなたの来訪がとだえてしまったのです。その理不尽な山水のようなあなたが、いったい誰を恋い慕えなどと臆面もなく私におっしゃるのでしょう)
October 31, 2010
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【本文】良少将、太刀の緒にすべき革をもとめければ、監の命婦なむ「わがもとにあり」といひて、ひさしくいださざりければ、 あだ人のたのめわたりしそめかはの色のふかさをみでや止(や)みなむとなむいへりければ、監の命婦、めでくつがへりて、もとめてやりけり。【注】・良少将=良岑義方。936年……945年まで左近衛少将をつとめた。第二十一話に見ゆ。・太刀の緒=太刀のひも。『古事記』上巻「太刀がをもいまだ解かずて」。・監の命婦=未詳。父兄が近衛府の将監をつとめた中臈女房。第八話に見ゆ。・Aくつがへる=ひどくAする。・あだ=いい加減な。誠意のない。・「わたり・かは・ふかさ」は縁語。「かは」は、革と川を言い掛けた掛詞。【訳】良岑義方少将が、太刀のひもにするのに適当な革を探していたところ、監の命婦が「私のところにありますよ。」といって、それっきり長いあいだ出してくれなかったので、少将が命婦に いい加減な人が当てにさせつづけた染め革の色の深さを見ないまま終わってしまうのだろうかと和歌を作って贈ったところ、監の命婦が、ひどく感動して、さっそく探し出して少将のところへ届けさせたとさ。
October 30, 2010
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【本文】良少将、兵衛の佐なりけるころ、監の命婦にすみける。女のもとより、 かしは木の もりの下草 おいぬとも 身をいたづらに なさずもあらなむ返し、 かしはぎの もりの下草 おいのよに かかるおもひは あらじとぞおもふとなむいひける。【注】・良少将=良岑義方。良岑衆樹の子。官は右近の中将に至る。(936……945)にかけて少将をつとめた。・兵衛の佐=兵衛府の次官。・監の命婦=未詳。父や兄などが近衛府の将監をつとめていたと思われる中臈の女房。第八話にも見える。・かしは木=柏木。兵衛や衛門の異名。・下草=木陰などにはえている草。【訳】良岑義方少将が、まだ兵衛の佐であった頃、監の命婦と結婚して彼女の元へ通って暮らしていたが、彼女のところから、 柏木の森の下草のように衛門府に勤めるあなたの庇護を受けている私がたとい年老いてしまっても、お見捨てなさりませんように。と歌を作ってよこした。それに対する返事に、 柏木の森の下草が生いしげる老後に、あなたへの愛情のようなこんな熱い思いは、もう二度とないだろうと思いますよ。と歌を作ったんだとさ。
October 26, 2010
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【本文】故式部卿の宮を、桂のみこ、せちによばひ給ひけれど、おはしまさざりける時、月のいとおもしろかりける夜、御文たてまつり給へりけるに、 ひさかたの そらなる月の 身なりせば ゆくともみえで 君はみてまし となむありける。【注】・故式部卿宮=敦慶親王。宇多天皇の第四皇子。・桂のみこ=宇多天皇皇女孚子内親王。敦慶親王の異母妹。・よばひ=よばふ。=何度も呼ぶ。また、求婚する。言い寄る。・AせばBまし=いわゆる反実仮想の表現。もしAだったらBだろうに。【訳】故式部卿の宮敦慶親王を、桂の皇女孚子内親王が、逢いたいからぜひともお越しくださいと何度もお呼びになったけれども、おいでにならなかった時分、月がとても美しかった夜に、皇女が御手紙を差し上げなさったところ、 もしも私が遠くへだたった空にある月のような身であったならば、あなたの所に訪ねて行くようには他人から見えなくても、あなたは私の姿が見えるでしょうに。と返事に和歌が書かれていたとさ。
October 23, 2010
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【本文】おなじ人、おなじみこの御もとに、ひさしくおはしまさざりければ、秋のことなりけり。 世よにふれど こひもせぬ身の 夕されば すずろにものの かなしきやなぞ とありければ、【訳】同じ二条御息所さまが、同じ敦慶親王さまのもとに、 世の中にいたずらに年を重ねておりますけれども、あなたさまが恋しくも思ってくださらないわが身が、夕方になると、むやみにもの悲しく感じられるのはどうしてでしょうか。と歌を作って贈った、【本文】かへし、 ゆふぐれに ものおもふことは 神無月 我もしぐれに おとらざりけり となむありける。心にいらであしくもなむ よみたまひけるとぞ。 【訳】その返事として二条御息所さまの所へ親王さまのもとから届いた和歌には、夕暮れ時に、恋しい人のことを思うことは、時雨が一雨ごとに木々の葉を染める神無月のようなものです。わたしもあなたのことを思って涙の雨を盛んに落としているのですから時雨に決して劣らないことですよ。と書いてあった。ご自身のお気に召さずに、下手にお作りになったとさ。
October 22, 2010
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故式部卿宮、二条の御息所にたえ給ひて、またの年のむ月の七日(なぬか)の日、若菜たてまつりたまうけるに、 ふるさとと あれにしやどの 草の葉も 君がためとぞ まづは摘みつる とありけり。 【注】・故式部卿宮=宇多天皇の第四皇子、敦慶親王。八八七……九三〇年。・二条の御息所=ふつうは清和天皇の皇后、藤原高子を指すが、時代的に適合しない。「三条の御息所」とするテクストもあり、三条右大臣藤原定方のむすめとも、時平のむすめ藤原善子のことだともいう。・またの年=翌年。九三一年。・む月の七日=一月七日。春の七草の若菜をあつもの(スープ)として食し、無病息災を願う行事。・たえ=訪問が絶える。【訳】故式部卿宮さまが、二条の御息所さまのお屋敷を訪問なさることが絶えて、翌年の正月の七日の日に、宮様に若菜を献上なさったときに、御息所さまのお作りになった歌 ご訪問も絶えて古びてすっかり荒れてしまった我が家の草の葉も、あなた様のためにと思って真っ先に摘みましたよ。と書いてあったとさ。
October 21, 2010
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【本文】故式部卿の宮の出羽(いでは)の御(ご)に、継父(ままちち)の少将のすみけるを、離れて後、女、薄(すすき)に文をつけて遣(や)りたりければ、少将、 秋風に なびく尾花は むかしより たもとに似てぞ こひしかりける 【注】・故式部卿宮=宇多天皇の皇子敦慶親王。容姿端麗で音楽に長じていた。(887……930)・出羽の御=女房の名。未詳。父兄が出羽の守をつとめていたのであろう。・すみ=動詞「すむ」=女の所にかよって夫婦生活をする。他にも花山院と中務母子の例があるように平安時代には継父と娘の恋愛関係はとりわけ珍しいというわけではなかった。・遣る=人を使いとして行かせる。・むかしより たもとに似てぞ=『古今和歌集』在原棟梁「秋の野の草の袂か花薄穂に出でて招く袖と見ゆらむ」。【訳】故式部の卿の宮にお仕えしていた出羽の御のところに、継父の少将が結婚して通っていたが、別れてのち、出羽の御が、ススキに手紙を結び付けて使者に届けさせたところ、少将が、次の歌を作ってよこした 秋風に なびくススキの穂は 昔から衣の袖に似るといわれるが まぢかで見た あなたの袂に似て なつかしく恋しいことですよ。【本文】出羽の御、かへし、 たもととも しのばざらまし 秋風に なびく尾花の おどろかさずば【訳】それに対する出羽の御の返事の歌 あなたは薄情だから私の袂だとも なつかしく思いだすことはなかったでしょう もしも秋風になびくススキの穂に添えた私の手紙が あなたをはっとさせなければ。
October 18, 2010
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【本文】陽成院のすけの御(ご)、ままちちの少将のもとに、 はるの野は はるけながらも わすれぐさ 生(お)ふるはみゆる ものにぞありける 【注】・「はるけながらも」を(岩波日本古典文学大系)に「春の野は遠くまで見はらしが利いてひろびろとしていますが、その中に忘れ草の生えているのは、よく見えるものです。」とするが、「ながらも」は、「狭いながらも楽しい我が家」のような逆説表現なので、「見はらしが利いて……よく見える」では、逆説の訳になっておらず、マズイ。「はるけ」には「春気」も言い掛けて、春の気配が充ち満ちていて温かいけれども、お父さんの心は冷たいという意もあるか。【訳】陽成院のすけの御が、継父の少将の元に、ここから春の野原までは遥かとおい距離がありながらも、忘れ草が生えているのははっきりと見えるものでございましたよ。(お父様から何の連絡もないのは、わたしのことなどもうすっかり忘れておしまいなのでしょう)【本文】少将、かへし、 はるののに おひじとぞおもふ わすれぐさ つらきこころの たねしなければ【訳】 少将からの返事に、春の野には生えないだろうと思うよ、ワスレグサは。わたしがおまえに対して薄情な心になる種(原因)など無いのだから。(連絡しないからといって、お前のことを忘れたりするほど私は薄情ではないよ)と詠んでよこしたとさ。
October 17, 2010
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【本文】又釣殿の宮に、若狭(わかさ)の御(ご)といひける人をめしたりけるが、又も召(めし)なかりければ、よみてたてまつりける、 かずならぬ 身に置くよひの しらたまは ひかりみえさす ものにぞありける とよみてたてまつりければ、みたまひて、「あなおもしろのうたよみや。」となむのたまひける。【注】・釣殿の宮=光孝天皇の皇女綏子内親王(陽成天皇に配する)のお住まい。・若狭の御=女房の名。未詳。父か兄が若狭の守をつとめていたのであろう。・さす=「マッチの燃えさし」の「さし」と同様、中途で動作が消滅する意。【訳】また綏子内親王の釣殿の宮にお仕えしていた、若狹の御と云う方を陽成天皇は側室としてお召しになったが、二度とお召しが無かったので、作って献上した歌、 数のうちにも入っていない取るに足らないわが身に置く宵の白玉(白露)は、光が見えていたかと思うとすぐに消えて見えなくなるものでございましたよ。と作って献上したところ、帝がごらんになって、「ああ、興味深い歌人だなあ。」とおっしゃった。
October 16, 2010
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【本文】本院の北の方の、みおとうとの、童(わらは)名を、おほぶねといふいますかりけり。【注】・本院の北の方=左大臣藤原時平の妻、在原棟梁(むねやな)のむすめ。もと大納言藤原国経 の妻だったのを、時平が奪ったと伝えられる。・みおとうと=御妹君。「おとうと」は、弟を指す場合も、妹を指す場合もある。【訳】本院の北の方の妹君で、幼名を、オオブネというかたがおられました。【本文】陽成院の帝に奉りけるに、おはしまさざりければ、詠みて奉りける、 あらたまの 年は経(へ)ねども さるさはの 池のたまもは みつべかりけり 【注】・陽成院の帝=陽成天皇。(868……949年)・猿沢の池=奈良市にある池の名。奈良の帝に仕えた采女が帝の寵愛のうすいことを悲観して 身を投げた。『大和物語』第百五十話に見える。・玉藻=藻の美称。ただし、『大和物語』第百五十話に「わぎもこのねくたれ髪を猿沢の池の 玉もとみるぞかなしき」のように、女性の黒髪にたとえられる。【訳】陽成院の帝の妃として差し上げたところ、帝が彼女のところにちっともお出ましにならなかったので、作って帝に献上した歌、何年も経ってはおりませんが、猿沢の池の底に生える玉藻は見られそうですよ。(入内して帝の妃になって新年も迎えないうちに、帝から飽きられて池に身投げして水中の藻を目にするような辛い目にあっております)(藻がはえるほど何年も経ってはおりませんが、猿沢の池の底に満ちて生えている玉藻のように、沈んだ私の遺体の黒髪を帝はごらんになれるでしょうよ)
October 15, 2010
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【本文】右馬(むま)の允(ぜう)藤原の千兼といふ人の妻には、としこといふ人なむありける。【注】・右馬允=右馬寮の三等官。・藤原千兼=忠房の子。・としこ=第三話にも見える。【訳】右馬允藤原千兼という人の奥さんに、俊子という人がいたとさ。【本文】子どもなどあまたいできて、おもひてすみけるほどに、なくなりにければ、かぎりなくかなしとのみおもひありくほどに、【訳】子供などが沢山うまれて、愛し合って俊子のもとに通って暮らしているうちに、夫が亡くなってしまったので、このうえなく悲しいと思い続けていたが、【本文】内の蔵人(くらうど)にてありける一条の君といひける人は、としこをいとよく知れりける人なりけるほどにしも、とはざりければ、あやしとおもひありくほどに、このとはぬ人の従者の女なむあひたりけるをみて、かくなむ【注】・内の蔵人=内裏の女蔵人(にょくろうど)。内侍や命婦よりも下の下臈の女房。・一条の君=清和天皇の皇子貞平親王のむすめ褒子。京極御息所に仕えた。【訳】内裏の女蔵人であった一条君という人は、俊子をよく知っている人だったのに、ちっとも訪ねてこなかったので、奇妙だなと思いつづけていたところ、この訪ねて来ない人の小間使いの女とばったり出会ったので、こんなふうに詠んだ【本文】 「おもひきや すぎにしひとの かなしきに 君さへつらく ならむものとは ときこえよ。」といひければ、かへし、 なき人を 君がきかくに かけじとて なくなくしのぶ ほどなうらみそ 【訳】「亡くなった夫のことが悲しいのに加えて、あなたまで私に冷たくなろうとは想像したでしょうか。(いや、思いもしませんでしたよ)」と歌を作って、お前の主人に申し上げよ」といったところ、こんな返事がきた「亡くなった人のことをあなたがまた聞いて思い出して悲しくなるから、お耳にいれまいとして泣きながら悲しみをこらえ、口に出すのをがまんしているのですから、お恨みなさいますな。」
October 11, 2010
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【本文】おなじおとど、かの宮をみたてまつり給ひて、帝のあはせたてまつりたまへりけれど、はじめごろしのびて、よるよるかよひたまひけるころ、かへりて、 あくといへばしづ心なき春の夜の夢とや君をよるのみは見む あくといへば しづごころなき はるのよの ゆめとやきみを よるのみはみむ 【注】・おなじおとど=源清蔭。・かの宮=宇多上皇の娘。ただし十一話の注にあったように、醍醐天皇の皇女韶子内親王のことといわれている。【訳】同じ大臣が、例の宮さまを手に入れ申し上げて、宇多法皇が娘に正式に仲を認め結婚させて差し上げなさったが、交際初期の頃の、人目を忍んで毎夜通っておられた頃、宮の所から帰って、一番鶏がもう夜が明けるといって鳴くので、帰る仕度を急がないといけないので落ち着かない春の短い夜のはかない夢のように貴女のお姿をこうして夜だけ見るのだろうか。(夜も昼も一緒にいたい)と詠んで贈った。
October 11, 2010
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【本文】故源大納言の君、忠房のぬしのむすめ東(ひむがし)の方(かた)を、としごろおもひてすみわたりけるを、亭子院(ていじのゐん)のわか宮につきたてまつり給ひてのち、はなれたまひて程経(へ)にけり。【注】・故源大納言の君=源清蔭。参議となり源姓をたまわり、のちに正三位、大納言になった。・忠房のぬし=藤原忠房。藤原興嗣の子。音楽に長じ、従四位上、右京大夫となった。・亭子院のわか宮=亭子院(すなわち宇多上皇)には、該当するような内親王がいないため、醍醐天皇の皇女である韶子内親王(918……980年)のことかと言われている。【訳】故大納言の君、源清蔭さまが、藤原忠房卿のむすめ東の方を、何年もの間恋い慕って通いつづけておられたが、亭子院の若宮さまにお心を寄せ申し上げなさることになって以後、お別れになって、だいぶん経ってしまった。【本文】子どもなどありければ、ことも絶えず、おなじ所になんすみたまひける。【注】・すみ=「住む」の連用形。女の所に通って夫婦生活をする。【訳】源清蔭さまは、東の方との間に子どもなどがいたので、連絡も絶えず、同じ所に通いなさっていた。【本文】さて、よみてやり給ひける、 すみよしの まつならなくに ひさしくも きみとねぬよの なりにけるかな とありければ、かへし、 久しくはおもほえねども住の江の松やふたたび生ひ代るらむ ひさしくは おもほえねども すみのえの まつやふたたび おひかはるらむ となむありける。【訳】そこで、源清蔭さまが作って贈った歌、住吉の松の寿命ではないが、あなたと共寝しない夜がつづいて長くなってしまったなあ。といって贈ったところ、東の方からのその返事には長くなってしまったとは感じられませんが、住の江の松が再び生え替わるのだろうか(それくらいマツことをつづけないと、あなたと共寝する日はやってこないでしょうかねえ)と書いてあった。
October 7, 2010
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【本文】監の命婦、堤にありける家を人にうりて後、粟田といふ所に行きけるに、その家のまへをわたりければ、よみたりける、 ふるさとを かはと見つつも わたるかな 淵瀬ありとは むべもいひけり【注】・監の命婦=第八話に既出。・堤=土手。阿倍俊子・今井源衛校注『大和物語』(岩波日本古典文学大系)に「加茂川堤」とする。・粟田=山城国愛宕(おたぎ)郡の地名。現在の京都市左京区から東山区にかけての地で、平安京の別荘地。・渡る=「通る」と解されているが、ここは船に乗って通りかかったという意かも知れない。・淵瀬あり=『古今和歌集』《雑・下》に「世の中は何か常なる飛鳥川昨日の淵ぞ今日は瀬になる」という有名な古歌がある。・むべ=なるほど。・ふるさと=以前に住んでいた土地。・かは(川)・わたる・淵・瀬は縁語。【訳】監の命婦が、川の土手にあった家を人に売却してのち、粟田といふ所に行って住んだが、その売却した元の家の前を通ったので、作った歌、 以前に住んでいた土地を、かの家はどうなっているかしら、ああ、もう川となってしまったのかしらと見ながら通ることだなあ、淵や瀬があるとは、なるほどよくも言ったものだわ。人の世の移り変わりは激しいものねえ。
October 5, 2010
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【本文】桃園兵部卿宮(ひやうぶきやうのみや)うせ給ひて、御はて九月晦日にし給ひけるに、俊子、かの宮の北の方に奉りける、 おほかたの 秋のはてだに かなしきに けふはいかでか 君くらすらむ【注】・桃園兵部卿宮=醍醐天皇の皇子、克明親王。清和天皇の皇子、貞純親王とする説もあるが、薨去が五月七日なので無理があるか。『続後撰集』によれば宇多天皇の皇子、敦固親王。・御はて=服喪期間の終わりの法事。一周忌。・俊子=藤原千兼の妻。・かの宮の北の方=藤原時平女。醍醐天皇の皇女、慶子内親王とする説もある。【訳】桃園の兵部卿の宮がお亡くなりになって、その一周忌を陰暦九月末日に行われたとき、俊子が 兵部の卿の宮の奥方さまに差し上げた歌、 ふだんの秋の末でさえ悲しいのに、今日あなたさまはどのようなお気持ちでお暮らしになるのでしょうか。【本文】かぎりなくかなしとおもひて、泣きゐたまへりけるに、かくいへりければ、 あらばこそ はじめもはても おもほえめ 今日にもあはで きえにしものを となむかへし給ひける。【訳】1年前に亡くなった夫の兵部の卿の宮の死をこのうえなく悲しいと思って、泣いておられたところ、俊子がこんなふうに言ってよこしたので、 もし生きていたら秋の初めも終わりも感じられましょうが、夫は今日という日に出会うこともなくこの世から消えてしまったのに。(たとえ、あの人の私に対する飽き(秋)がきて、夫婦関係の終わりがくることになったとしても生きていてほしかった)と返歌をなさったとさ。
October 4, 2010
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【本文】監(げむ)の命婦(みやうぶ)のもとに、中務(なかつかさ)の宮おはしましかよひけるを、「方(かた)のふたがれば、こよひはえなむまうでぬ。」とのたまへりければ、その御かへりことに、 あふことの かたはさのみぞ ふたがらむ ひとよめぐりの 君となれれば とありければ、方ふたがりけれど、おはしましてなむ、おほとのごもりにける。【注】・監=近衛府の将監。女性を呼ぶときに親兄弟の官職を付けて呼んだ。・命婦=宮中や後宮の女官。平安時代以後は中級の女官をさす。・中務の宮=醍醐天皇の皇子、式明親王。中務卿。907……966年。・かたふたがり=陰陽道で外出のとき、天一神(なかがみ)がいる方角を忌むこと。どうしても、その方角に行くには、前夜に一旦他の方角へ立ち寄って方違えをしたのち、翌日そこから目的地へ向かう。・かへりこと=返事。・おほとのごもる=おやすみになる。「寝(ぬ)」の尊敬語。【訳】近衛府の将監の命婦のもとに、中務の宮がいらっしゃってお通いになっていたが、「かたふたがりのため、今夜は参上できない」とおっしゃったところ、そのご返事に、「私に会いにくる方向はさぞふさがっているのでしょう一晩ずつあちこちめぐって泊まりあるく天一神のように浮気な人におなりになっているので」と詠んでよこしたので、方ふたがりだったが、命婦の所においでになって、共にお休みになったとさ。【本文】かくて又、ひさしく音もし給はざりけるに、「嵯峨の院に狩すとてなむ、ひさしく消息(せうそこ)などもものせざりける。いかにおぼつかなくおもひつらむ。」など、のたまへりける御返に、 おほさはの いけの水くき たえぬとも なにかうからむ さがのつらさは 御返しこれにやおとりけむ。人わすれにけり。【注】・嵯峨の院=嵯峨は京都市右京区嵯峨。平安時代には遊猟の地として知られた。嵯峨天皇の離宮が造営されて以後、貴族が別荘を多く建てた。古来、花・紅葉・秋草・虫の名所で、大覚寺・清涼寺などの名刹も多い。・水くき=筆跡。手紙。【訳】こんな一件があってのち、また、長い間お便りもなさらなかったが、「嵯峨の院で狩りをするというので、忙しくて長いことお手紙なども差し上げなかった。どんなに待ち遠しく思っていたことだろうか」など、手紙でおっしゃったそのご返事に、大沢の池の水くきならぬあなたからの水くき(手紙)がたとえ来なくなったとしても、どうして男の性(さが)の冷淡さを辛く感じたりしましょうか、あなたの薄情なのは思い知らされているので、いまさら辛くなど感じませんよ、と詠んだ。この歌に対する親王のお返事は内容が劣っていたのだろうか、この話を語った人も忘れてしまったとさ。
October 3, 2010
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【本文】男女、あひしりて年経(へ)にけるを、いささかなることによりてはなれにけれど、あくとしもなくて、止(や)みにしかばにやありけむ、男もあはれと思ひけり。【注】・あひしる=付き合う。交際する。・年ふ=何年も経つ。・いささかなり=ちょっとした。些細な。・はなる=別れる。・あく=飽きる。【訳】ある男と女が、付き合って何年もたったっていたが、ちょっとした行き違いによって、別れてしまっていたが、女に飽きたというわけでもなくて、交際が終わってしまったからであろうか、男のほうも女のことをしみじみといとしく思いだしていたとさ。【本文】かくなんいひやりける、 あふことは 今はかぎりと おもへども 涙はたえぬ ものにぞありける 女、いとあはれとおもひけり。【訳】そこで、こんなふうに歌を詠んで贈ったとさ、 逢うことは、もうこれが最後だと思うけれども、涙は絶えることがないものだなあ。この歌を贈られた女も、男のことをとてもしみじみといとしく思ったとさ。
October 3, 2010
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【本文】朝忠の中将、人の妻にてありける人に、しのびてあひわたりけるを、女もおもひかはして、かよひすみけるほどに、かのをとこ、人のくにの守になりてくだりければ、これもかれも、いとあはれとおもひけり。【注】・朝忠の中将=藤原朝忠。藤原定方の子。近江の守、左中将、参議、中納言となった。三十六歌仙の一人。910……967年?・人のくに=京以外の地方。・おもひかはす=相思相愛になる。・すみ=住むは、女のもとへ男が頻繁に通う。【訳】近衛の中将朝忠が、人妻だった人に、こっそり逢いつづけていたが、女のほうも互いに心を通わせて関係をつづけているうちに、女の夫が、地方の国守となって女も付いて下ったので、朝忠も女も、とても残念に思った。【本文】さて、よみてやりける、 たぐへやる わがたましひを いかにして はかなきそらに もてはなるらむ となむ、下りける日いひやりける。【注】・たぐふ=連れ添わせる。・いかにして=どういうわけで。・もてはなる=他人との間に隔たりを置く。深い関係を持たないようにする。ここでは、旅に出るので「持ったままどんどん離れる」という意をも掛けて用いているのであろう。【訳】そういう事情で、朝忠が詠んで贈った歌、たぐへやる我が魂をいかにしてはかなき空にもて離るらむ あなたに連れ添わせた私の魂を、どういうわけで貴女は、私の知らないうちに、はかない旅の空に、持ったまま(私の心をつかんだまま)離れていってしまうのだろう。と、下ることになった日に詠んで送ったとさ。
October 2, 2010
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【本文】先坊の君うせたまひにければ、大輔(たいふ)、かぎりなくかなしくのみおぼゆるに、きさいの宮、后に立ち給ふ日になりにければ、「ゆゆし。」とて隠しけり。【注】・前坊の君=醍醐天皇の皇子保明親王。坊は東宮坊(皇太子)の略。903年…923年。・大輔=源弼(みなもとのたすく)の娘。穏子に仕えて保明親王の乳母をつとめた。・きさいの宮=藤原基経のむすめで醍醐天皇の皇后となった穏子。保明親王の生母。885…954年。・后に立ち給ふ日=延長元年四月二十六日。【訳】前皇太子がお亡くなりになってしまったので、乳母の大輔は、このうえなく悲しいとばかり感じていたが、皇后が、立后なさる日になってしまったので、「不吉だ」ということで大輔を人前から遠ざけたとさ。【本文】さりければ、よみていだしける、 わびぬれば いまはとものを おもへども こころに似ぬは 涙なりけり【訳】そういうわけで、大輔が作って呈示した歌。嘆いてばかりいたので、めでたい立后の日を迎えた今は気持ちを切り替えないといけないと思うけれども、その心中とはうらはらに出てしまうのは涙であるなあ。
September 30, 2010
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【本文】野大弐、純友がさわぎの時、うての使にさされて、少将にてくだりける。【注】・野大弐=小野好古。大宰の大弐、小野葛絃(くずお)の子で、道風の兄。940年、藤原純友の乱のとき、山陽・南海の追捕使となり、純友を博多で破って捕らえた功により、山城守、大宰大弐などを経て参議に進み、従三位にいたった。・うて=討手。・少将=近衛府の次官。正五位下相当。・純友がさわぎ=平安中期の藤原純友の乱。彼はもと伊予の掾(三等官)だったが、任期を終えても帰京せず、瀬戸内海西部の海賊を配下とし、939年に日振島を拠点に反乱を起こし、淡路や讃岐の国府、大宰府などを襲撃た。天慶四年(941年)、朝廷の命を受けた小野好古らにより鎮圧された。【訳】小野の大弐が、藤原純友の乱のときに、討伐軍の使者に指名されて、少将として下ったとさ。【本文】おほやけにもつかうまつり、四位にもなるべき年にあたりければ、むつきの加階たまはりの事、いとゆかしうおぼえけれど、京よりくだる人もをさをさきこえず。【注】・四位=天皇から授けられる位階。一位が紫、二・三位が薄紫、四位は深緋、五位は緋(朱)、六位は緑の位袍を着用。 ・加階=天皇が位を授けること。【訳】朝廷にもお仕えもうしあげ、四位に昇進しそうな年に当たっていたので、正月の加階をいただく事が、とても知りたく思われたけれども、京から下った人も何もそのての情報を申し上げなかった。【本文】ある人にとへど、「四位になりたり」ともいふ。ある人は「さもあらず」ともいふ。「さだかなる事いかできかむ」とおもふほどに、京のたよりあるに、近江の守(かみ)公忠(きむただ)の君の文をなむ持てきたる。【注】・近江の守公忠の君=光孝天皇の孫。源公綱の子。平安中期の歌人。醍醐・朱雀天皇のとき蔵人をつとめ、天慶四年(941)近江守として任国に赴任した。【訳】ある人に問いただしたが、「四位になりました。」とも言い、ある人は、「四位にななりませんでした。」という。「確かなことを何とかして聞こう。」と思っていたところ、京からの便りがあり、近江守公忠君の手紙を持ってやってきた。【本文】いとゆかしううれしうて、あけてみれば、よろづの事どもかきもていきて、月日などかきて、おくのかたにかくなん、 たまくしげ ふたとせあはぬ 君が身を あけながらやは あらむと思ひし これを見て、限りなく悲しくてなむ泣きける。【訳】とても中身が知りたく嬉しくなり、手紙を開けて見たところ、さまざまな事柄を書き連ねて、日付など書いて、最後に 美しい櫛をおさめる箱のふたではないが、ふたとせ(二年間)会わないあなたの身を 箱の蓋を開けたままでいると想像したでしょうか、想像もしなかった。年も明けながら、まだ朱色のままでいると想像したでしょうか、想像もしなかった。と歌が書いてあった。この歌を見て、このうえなく悲しくなって泣いた。【本文】四位にならぬよし、文のことばにはなくて、ただかくなむありける。【訳】四位にはならなかった旨、手紙の文句には無くて、ただこのように和歌に暗示されていたとさ。
September 28, 2010
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