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【訪問日:2024年(令和6年)11月3日(日・文化の日)】 ※ 公式HPより 笠間の菊まつりの見どころは、笠間稲荷神社境内に飾られる色とりどりの菊の花。立菊、懸崖菊、千輪咲き、古典菊、盆栽菊など、多種多様で色鮮やかな菊の花をお楽しみいただけます。菊人形や笠間稲荷美術館など、その他見どころも満載。 ※ 菊まつり 〈笠間稲荷神社(茨城県笠間市笠間1番地)〉
2024年11月03日
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【訪問日:2024年(令和6年)11月3日(日・文化の日)】 ※ 公式HPより 笠間稲荷神社の神事流鏑馬は、稲荷の大神様に縁の深い農作物の豊凶を占うとともに、日本の伝統文化で現存する二大流派の一つである弓馬術礼法宗家、小笠原流の古義古術を保存するために行われています。今年で73回目を迎え、鶴岡八幡宮・日光東照宮と並ぶ、三大流鏑馬の一つに数えられるもので、昭和25年11月3日の文化の日に第一回目が行われ、以後笠間稲荷神社の菊祭りの最盛期でもある11月3日を恒例日として行われるようになり、毎年約2万人の観客で賑わっています。 当日は、鎌倉時代の流鏑馬装束に威儀を正した小笠原流一門の射手及び氏子有志、古武道振興会の人々など総勢40余名が、拝殿前で、神事流鏑馬が滞りなく執り行われるように祈願した後、笠間小学校前(笠間藩弓馬訓練場跡)の全長260mにわたる道路に幅2m・厚さ20cmの砂を敷き詰めた特設馬場までの約700mを、古式にのっとり列を組んで進んで行きます。馬場では、3ヶ所(一の的:馬場元より30m、二の的:一の的より75m、三の的:二の的より75m)に設けられた、高さ2mの的に、射手が馬を走らせながら約20秒間に3本の鏑矢を射て、馬場中央にいる奉行所の日記役が、その命中度を記録し、割れ方によって来年の豊凶を占います。 ※ 神事流鏑馬 〈笠間稲荷神社(茨城県笠間市笠間1番地)〉
2024年11月03日
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【参拝した日:2024年(令和6年)10月25日(金)】 ※ 調(つき)神社 〈調(つき)神社(埼玉県さいたま市浦和区岸町3-17-25 )〉
2024年10月25日
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【参拝日:2024年(令和6年)10月13日(日)】 ※ 公式HPより 久伊豆神社例大祭 越ヶ谷秋まつり 埼玉最大級のみこし行列と8台の山車 これぞ、越谷のまつり越ヶ谷秋まつり限定御朱印をいただきました。 久伊豆神社神社例大祭とは 久伊豆神社例大祭は旧越ヶ谷町の山車祭りで、江戸時代中期の元禄時代から伝わる、五穀豊穰(ごこくほうじょう)を祝う祭りです。 久伊豆神社は社格こそ「郷社」ですが、武蔵野国越ヶ谷郷総鎮守として鎮座1,200余年の歴史ある神社であり、徳川将軍家が鷹狩りで越ヶ谷御殿にお成りの際に参詣をされていたとのことで、かつては、徳川秀忠公所用の三つ葉葵の定紋入りの御膳を所蔵していたと云われます(惜しくも戦災で消失)。 当社は徳川将軍家が信奉していたため、当時としては通常使用を許されない立ち葵紋が神社の定紋になっています。 神社の正式な年中行事・神事としての例祭は、毎年9月28日を期日と定め、神職により社殿において厳かに執り行われております。 実は、一般に言われている山車祭りとして久伊豆神社の例大祭は、神社の正式な年中行事ではなく、氏子主催・主導による氏子の行事。つまりは氏子が主役のイベントです。氏子は、神社の正式な年中行事・神事ごとの例祭を「陰祭り」と呼び、氏子主催・主導の山車祭りを「本祭り」と呼びます。 神社の正式行事ではないとはいえ、神社と不可分でなければ「本祭り」は成立し得ません。 山車の曳廻し行事は、鳳輦(ほうれん)によって旧越ヶ谷の街中へお渡り(渡御)いただいた御祭神の御霊を年番町内に設けられた御仮舎(おかりや)にお迎えし、氏子一同総出でお慰めするために行うものとなっています。
2024年10月13日
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【参拝日:2024年(令和6年)10月13日(日)】 越ヶ谷秋まつり限定御朱印をいただきました。 ※ 市神神明社 〈市神神明社(埼玉県越谷市越ヶ谷本町)〉
2024年10月13日
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【参拝日:2024年(令和6年)10月13日(日)】 ※ 公式HPより 久伊豆神社例大祭 越ヶ谷秋まつり 埼玉最大級のみこし行列と8台の山車 これぞ、越谷のまつり越ヶ谷秋まつり限定御朱印をいただきました。 久伊豆神社神社例大祭とは 久伊豆神社例大祭は旧越ヶ谷町の山車祭りで、江戸時代中期の元禄時代から伝わる、五穀豊穰(ごこくほうじょう)を祝う祭りです。 久伊豆神社は社格こそ「郷社」ですが、武蔵野国越ヶ谷郷総鎮守として鎮座1,200余年の歴史ある神社であり、徳川将軍家が鷹狩りで越ヶ谷御殿にお成りの際に参詣をされていたとのことで、かつては、徳川秀忠公所用の三つ葉葵の定紋入りの御膳を所蔵していたと云われます(惜しくも戦災で消失)。 当社は徳川将軍家が信奉していたため、当時としては通常使用を許されない立ち葵紋が神社の定紋になっています。 神社の正式な年中行事・神事としての例祭は、毎年9月28日を期日と定め、神職により社殿において厳かに執り行われております。 実は、一般に言われている山車祭りとして久伊豆神社の例大祭は、神社の正式な年中行事ではなく、氏子主催・主導による氏子の行事。つまりは氏子が主役のイベントです。氏子は、神社の正式な年中行事・神事ごとの例祭を「陰祭り」と呼び、氏子主催・主導の山車祭りを「本祭り」と呼びます。 神社の正式行事ではないとはいえ、神社と不可分でなければ「本祭り」は成立し得ません。 山車の曳廻し行事は、鳳輦(ほうれん)によって旧越ヶ谷の街中へお渡り(渡御)いただいた御祭神の御霊を年番町内に設けられた御仮舎(おかりや)にお迎えし、氏子一同総出でお慰めするために行うものとなっています。 ※ 久伊豆神社 御仮舎 〈久伊豆神社 御仮舎(埼玉県越谷市)〉
2024年10月13日
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【参拝日:2024年(令和6年)10月13日(日)】 越ヶ谷秋まつり限定御朱印をいただきました。 ※ 浅間神社 〈浅間神社(埼玉県越谷市中町7-2)〉
2024年10月13日
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【参拝日:2024年(令和6年)10月13日(日)】 越ヶ谷秋まつり限定御朱印をいただきました。 ※ 新町八幡神社 〈新町八幡神社(埼玉県越谷市越ヶ谷2-2-16)〉
2024年10月13日
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【参拝日:2024年(令和6年)10月11日(金)】 ※ 公式HPより 当社は、房総半島に技術と文化をもたらした天冨命をお祀りする古社です。 その御由緒ははるか昔、初代天皇・神武天皇の御代のお話しまで遡ります。 四国から房総へと渡られた天冨命は関東全域の発展に寄与されました。 そして技術の伝承ののちに当地に住まわれたと伝えられます。 江戸時代になると勝浦は、「勝浦三町江戸勝り」と例えられたほど繁栄するに至ります。 時が下った現在では、レジャーや観光、街全体が雛人形に彩られる『かつうらビッグひな祭り』など、全国から人々が集う地となりました。 特に二月下旬から三月に行われる「かつうらビッグひなまつり」では四十万人もの観光客が訪れます。 平成十三年から開かれているこの祭りは、御祭神ゆかりの徳島県勝浦町から七〇〇〇体のひな人形を譲り受けたことからはじまります。勝浦の名所でひな人形が飾られ、当社では六十段の石段に一二〇〇体のひな人形が並び、一番の目玉スポットとして多くの観光客で賑わいます。観光・漁業の町として発展した勝浦を今も当社は見守り続けております。 ※ 遠見岬(とみさき)神社 〈遠見岬(とみさき)神社(千葉県勝浦市浜勝浦11)〉
2024年10月11日
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【参拝した日:2024年(令和6年)8月21日(水)】 ※ 大間木氷川女体神社 〈大間木氷川女体神社(埼玉県さいたま市緑区大間木1522)〉
2024年08月21日
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【参拝した日:2024年(令和6年)8月21日(水)】 ※ 大間木稲荷神社 〈大間木稲荷神社(埼玉県さいたま市緑区大間木1914)〉
2024年08月21日
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【参拝日:2024年(令和6年)8月15日(木)】 ※ 公式HPより 南洋神社は、南洋群島の中心地パラオ(現パラオ共和国のコロール島)に昭和15年2月11日、皇紀2600年に際して、昭和天皇の格別の思し召しにより創立された神社です。その御祭神を「皇祖天照大神」一座とする官幣大社であり、我々神社人が「本宗」と仰ぐ伊勢の神宮の「南洋における分社」ともいうべき神社です。その後、昭和20年8月の終戦によって、御社殿は御焚き上げとなり、神社の祭祀は終結、社殿跡地が残るのみとなりました。しかし、創立以来、南洋の地で開拓・入植に励んだ方々が、また戦時下、アジアの解放と大東亜共栄圏の実現を信じて、遥か遠く故郷を離れて南方の戦地へと赴いた部隊・兵士たちが篤い祈りと誓いを捧げられた事実は永遠に消滅するものではありません。 伊勢の神宮と旧南洋神社との御神縁・御神慮を拝し、神宮当局の御指導・御協力を賜って平成16年4月11日久伊豆神社境内に「旧官幣大社南洋神社鎮座跡地遥拝殿」を建立いたしました。この遥拝殿は、氏子・崇敬者共々遥かに、幾多の兵士の最期の祈りと誓いをお受けになった大神様の御霊を和め、遠く故国を離れた南洋の地に散華された英霊への感謝と慰霊・鎮魂、功績顕彰の誠を致す御殿です。 ※ 旧官幣大社南洋神社鎮座跡地 遥拝殿(きゅうかんぺいたいしゃなんようじんじゃちんざあとちょうはいでん) 〈越谷久伊豆神社(埼玉県越谷市越ヶ谷1700)〉
2024年08月15日
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【参拝日:2024年(令和6年)8月15日(木)】 終戦記念日の朝、参拝してきました。 月次(つきなみ)とは、「毎月」のことです。自由に参列できます。 ※ 公式HPより 毎月一日と十五日に月次祭を執り行っております(1月1日以外)。祭典に先立ち、神職自身をお祓いし、本殿へ向かいます。そこでは、久伊豆神社の神々に神饌がお供えされ、天皇陛下と皇室の安泰、国の隆昌と地域の発展、そして国民の安寧を祈ります。 祭典が終了すると、神職はじめ参列者が直会の御神酒を頂戴します。 〈越谷久伊豆神社(埼玉県越谷市越ヶ谷1700)〉
2024年08月15日
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【参拝日:2024年(令和6年)6月22日(土)】 ※ 稲荷神社 〈稲荷神社(埼玉県越谷市北越谷4-12-3)〉
2024年06月22日
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【参拝日:2024年(令和6年)6月18日(火)】 ※ 公式HPより 若宮八幡宮は、八幡塚六郷神社(東京大田区東六郷にあり、源頼朝が鎌倉政略のとき、この地に陣を張り勝利し、その御礼に鶴岡八幡宮を分祀した)の氏子たちが、大師河原干拓のために移り住んだおりに、御祭神を分祀したのがはじまりといわれ、仁徳天皇をお祀りしています。それは、多摩川の治水を考えてのことでした。仁徳天皇は淀川の治水工事を完成させたことによって干拓事業の守護神として崇められていることから祀られたもので、多摩川の洪水に悩まされた大師河原の人たちの心からの願いが込められたものでした。また、仁徳天皇の御製「高殿にのぼりてみれば煙たつ民のかまどはにぎわいにけり」の和歌にあやかって、「日々の生活がよくなるように」という人々の切望でもあったのです。(因に、御父、応神天皇をお祀りした神社を八幡宮といい、その御子をお祀りするところから若宮八幡宮という)また、「若宮」という名から、子ども・若者の守護神でもあります。創建年代については明白ではないが、『小田原衆所領役帳』(永禄二年 1559年)に朱印地三石と記されていることが初見されるので、おおよその推定はできます。 ※ 若宮八幡宮 〈若宮八幡宮(神奈川県川崎市川崎区大師駅前2-13-16)〉
2024年06月18日
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【参拝日:2024年(令和6年)6月18日(火)】 ※ 大師稲荷神社 〈大師稲荷神社(神奈川県川崎市川崎区中瀬3-5-1)〉
2024年06月18日
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【参拝日:2024年(令和6年)6月18日(火)】 念願の川崎大師 三ノ宮卯之助の力石があります。 ※ 公式HPより 大本山川崎大師平間寺は、京都東山七条の智積院を総本山とし、成田山新勝寺(千葉県成田市)、髙尾山薬王院(東京都八王子市)とともに、真言宗智山派の関東三大本山の寺院のひとつです。 もろもろの災厄をことごとく消除する厄除大師として、霊験あらたかであると昔から知られる川崎大師のおこりは、平安時代末期・崇徳天皇の御代まで遡ります。 無実の罪により生国である尾張(現在の愛知県)を追われ諸国流浪の果てに川崎にたどり着いた平間兼乗(ひらまかねのり)は、漁師として慎ましく生計をたてながら、深く仏法に帰依しとくに弘法大師を崇信していました。 兼乗が42歳厄年のとき、夢まくらに高僧が立ち「我むかし唐にありしころ、我が像を刻み、海上に放ちしことあり。以来未だ有縁の人を得ず。いま、汝速やかに網し、これを供養し、功徳を諸人に及ぼさば、汝が災厄転じて福徳となり。諸願もまた満足すべし」と告げたのです。 夢のお告げに従い海にでた兼乗が、海中から引き揚げた木像こそ御本尊・厄除弘法大師尊像でした。兼乗は尊像を浄め、ささやかな草庵にお祀りし朝夕欠かさず供養を捧げました。 川崎大師に奉安する御本尊は、弘法大師空海上人・お大師さまのご尊像です。 お大師さまは、宝亀5年(774)讃岐国屛風ヶ浦(現在の香川県善通寺市)にご誕生になり、日本に真言密教の教えを広められました。 その一生は、国家安穏・済世利人のために不惜身命を尽くされ、仏教のみならず文化・教育・社会事業など様々な方面に大きな足跡を遺されました。ご入定された今もなお、私たちの心の、また生活のよりどころとして仰がれ慕われています。 お大師さまの教え(真言密教)は、私たち一人一人が現世の迷いから「心の目」を開き、現実生活の中に仏(目覚めた人)となることを説かれた「即身成仏」の教えです。 お大師さまは、ご誓願の中で「我が後生の門徒、たとい我が現相を見ずといえども、我が形相を見るごとに真に我に逢えりと思い、我が教えを聞くごとに真に我が言音を聞くと思わば、我定恵の力を以って摂取して捨てず」と仰せられています。 ※ 真言宗智山派 金剛山金乗院平間寺(川崎大師) ※ 力石ありました 〈真言宗智山派 金剛山金乗院平間寺(川崎大師)(神奈川県川崎市川崎区大師町4-48)〉
2024年06月18日
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【参拝日:2024年(令和6年)6月15日(土)】 月次(つきなみ)とは、「毎月」のことです。自由に参列できます。 ※ 公式HPより 毎月一日と十五日に月次祭を執り行っております(1月1日以外)。祭典に先立ち、神職自身をお祓いし、本殿へ向かいます。そこでは、久伊豆神社の神々に神饌がお供えされ、天皇陛下と皇室の安泰、国の隆昌と地域の発展、そして国民の安寧を祈ります。 祭典が終了すると、神職はじめ参列者が直会の御神酒を頂戴します。その後、神職は境内にある御末社に向かい、その神々にも神饌をお供えいたします。 〈越谷久伊豆神社(埼玉県越谷市越ヶ谷1700)〉
2024年06月15日
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【参拝日:2024年(令和6年)6月1日(土)】 6月になりました。 月次(つきなみ)とは、「毎月」のことです。自由に参列できます。 ※ 公式HPより 毎月一日と十五日に月次祭を執り行っております(1月1日以外)。祭典に先立ち、神職自身をお祓いし、本殿へ向かいます。そこでは、久伊豆神社の神々に神饌がお供えされ、天皇陛下と皇室の安泰、国の隆昌と地域の発展、そして国民の安寧を祈ります。 祭典が終了すると、神職はじめ参列者が直会の御神酒を頂戴します。その後、神職は境内にある御末社に向かい、その神々にも神饌をお供えいたします。 ※ 時計とか、お清めしました 〈越谷久伊豆神社(埼玉県越谷市越ヶ谷1700)〉
2024年06月01日
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【参拝日:2024年(令和6年)5月22日(水)】 ※ 公式HPより 当宮は万治三年(1660年)に讃岐国丸亀藩主であった京極高和が、その藩領内である象頭山に鎮座する、金刀比羅宮(本宮)の御分霊を当時藩邸があった芝・三田の地に勧請し、延宝七年(1679年)、京極高豊の代に現在の虎ノ門(江戸城の裏鬼門にあたる)に遷座致しました。爾来江戸市民の熱烈なる要請に応え、毎月十日に限り邸内を開き、参拝を許可しました。 当時は“金毘羅大権現”と称されていましたが、明治二年(1869年)、神仏分離の神祇官の沙汰により事比羅神社に、明治二十二年(1889年)には金刀比羅宮に社号を改称し現在に至ります。 ご神徳は海上守護、大漁満足は勿論のこと、五穀豊穣・殖産興業・招福除災の神として広く庶民に尊信され、東国名社の一つとして知られています。 ※ 虎ノ門金刀比羅宮 〈虎ノ門金刀比羅宮(東京都港区虎ノ門1-2-7)〉
2024年05月22日
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【参拝日:2024年(令和6年)5月22日(水)】 ※ 公式HPより 寛弘年中(1004~12)に、源頼信(多田満仲の三男)が、石清水八幡宮の神霊を請じて、霞ヶ関のあたり(榎坂とも)に創建したという。太田道灌の江戸城築城に際し(築城は長禄元年・1457)、現在地に遷された(諸説あり慶長5年とも)。徳川秀忠(徳川二代将軍)正室の崇源院(諱は「江(ごう)」・「お江」・浅井長政とお市の方の三女・家光の生母)は、慶長5年(1600)、家康・秀忠の関ヶ原の戦での戦勝と安全を祈願し、その報賽として社殿建立の遺志を残しており、家光公御代寛永11年(1634)、社殿が造営され、同時に御神体の木像(八幡宮座像・仲哀天皇座像・神功皇后座像)と明 王像(不動明王立像・愛染明王座像)も奉納された。(享保8年(1723)の火災により焼失) 元和5年(1619)には時の鐘が建てられたが、寛文10年(1670)に割れてしまい、現存はしていない。享保8年(1723)の火災の翌年には土蔵にて社殿が建造されたが、文化8年(1811)にも火災に遭い、文政元年(1818)に再建されている。この二回の火災により宝物・旧記等はことごとく失われた。また、その間にあっても明和3年(1770)・文化12年(1815)・文化13年(1816)には境内で大相撲が行われ、落語や講談で有名な阿武松緑之助(おうのまつみどりのすけ)も相撲を取っている。 明治維新の神仏分離までは、八幡山普門院と称し、東叡山の末寺であったが、江戸八所八幡の一つに数えられ、八八幡詣(ややはたもうで)として多くの参詣を受け、周辺は門前町として賑わった。 また、天保9年(1838)刊行の「東都歳時記」8月15日の項に当時の祭礼の様子が次の通り記されている。『毎年神輿産子の町を渡し、 西久保大通りへ御旅所を儲けて十三日より御旅出あり。今日放生会をなす。町々より隔年踊りねりものを出す事、丑卯巳未酉亥の年なり。』 昭和15年、皇紀2600年を記念して、境内を整備し、玉垣・神楽殿・御輿庫が新築された。祭礼には門ごとに軒提灯を下げ、牛車にのせた御輿が氏子中を練り歩いた。市兵衛町(六本木一丁目あたり)の偏奇館主人荷風散人(永井荷風)は、その日記に「西ノ久保八幡宮祭礼にて近巷賑かなり」「飯倉八幡宮の祭礼にて馬鹿囃子の音夜ふけまで聞こゆ」など記す。 昭和20年3月、戦災により、社殿はじめ御輿庫、社務所を焼失、5月神楽殿も焼夷弾の直撃を受けた。終戦当日は、焼野原に建つトタン葺の仮社殿で大祭式を終え、数名の参列者とともに、玉音に接するありさまであった。氏子の町々の復興とともに昭和28年8月社殿を総桧木により復興、同29年町内御輿庫再建、同時に手水舎を時の氏子総代山田信治郎氏奉納、同37年末社稲荷社・人麻呂社を復興。同40年国道一号線拡幅工事に伴い、鳥居・石灯籠および熊谷橋の移築。同51年8月社務所を木造瓦葺で新築した。 平成23年1月、御鎮座一千年奉祝事業の嚆矢として男坂玉垣を修復、同8月奉祝記念大祭斎行、同12月奉祝記念碑を建立した。 平成27年7月には戦災により消失した御本社神輿を復興。平成29年8月11日、戦後初めて御本社神輿の神幸祭を行った。 令和の御大典を奉祝し、令和元年より社殿ほか神社施設の建て替えおよび境内整備事業、「令和の御造替事業」を開始。社殿は戦後復興時の様式を踏襲し流造の本殿と幣殿、拝殿を連結した複合社殿(権現造)により再建され、令和3年10月29日本殿遷座祭を斎行した。 ※ 西久保八幡神社 〈西久保八幡神社(東京都港区虎ノ門5-10-14)〉
2024年05月22日
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【参拝日:2024年(令和6年)5月5日(日・こどもの日)】 今年も、地域を代表して、雷電神社に参拝してきました。 〈雷電神社(群馬県板倉町板倉2334)〉
2024年05月05日
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【参拝日:2024年(令和6年)5月2日(木)】 ※ 黄檗宗 少林山達磨寺 〈黄檗宗 少林山達磨寺(群馬県高崎市鼻高町296)〉
2024年05月02日
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【参拝日:2024年(令和6年)5月2日(木)】 ※ 公式HPより 一之宮貫前神社は群馬県富岡市一ノ宮、蓬ヶ丘(よもぎがおか)と呼ばれる丘陵の北斜面、俗に菖蒲(綾女・あやめ)谷といわれる渓間に南面して鎮座しています。南の参道をのぼって総門に至り、そこから石段をくだった位置に社殿があり、いわゆるくだり参道となっています。 創立は社伝によると鷺宮(さぎのみや:現在の安中市)に物部姓礒部氏が氏神である経津主神(ふつぬしのかみ)をお祀りし、次いで鷺宮の南方、現在の社地に社を定めたのが安閑天皇の元年(西暦531年)とされてます。 天武天皇の時代に初の奉幣(ほうべい:天皇の命により神社に幣帛を奉ること)があり、当時遠く奈良の都にまで貫前神社の存在が知られていたといえます。 醍醐天皇の時代に編纂の始まった『延喜式』のなかの『神名帳』にも記載され、上野国一之宮として朝野をとわず崇敬をあつめてきました。明治時代に定められた社格は国幣中社であり、群馬県内では最高位でした。戦後社格制度が廃止されると「一之宮貫前神社」として神社本庁の包括となりました。 ※ 一之宮貫前神社 〈一之宮貫前神社(群馬県富岡市一ノ宮1535 )〉
2024年05月02日
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【参拝日:2024年(令和6年)4月25日(木)】 ※ 上間久里 香取神社 〈上間久里 香取神社(埼玉県越谷市千間台東1-23-2)〉
2024年04月25日
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【参拝日:2024年(令和6年)3月31日(日)】 ※ 正一位稲荷大明神 〈正一位稲荷大明神(埼玉県越谷市七左町7-286)
2024年03月31日
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【参拝日:2024年(令和6年)3月31日(日)】 ※ 七郷神社※ 力石発見! 〈七郷神社(埼玉県川口市戸塚3-13-6)〉
2024年03月31日
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【参拝日:2024年(令和6年)3月15日(金)】 ※ 大衾(おおぶすま)香取神社 〈大衾(おおぶすま)香取神社(埼玉県春日部市大衾90)〉
2024年03月15日
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【参拝日:2024年(令和6年)3月15日(金)】 ※ 永沼八幡神社 〈永沼八幡神社(埼玉県春日部市永沼2283)
2024年03月15日
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【参拝日:2024年(令和6年)3月15日(金)】 ※ 米島香取神社※ 力石 〈米島香取神社(埼玉県春日部市米島1-1)〉
2024年03月15日
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【参拝日:2024年(令和6年)3月15日(金)】 ※ 水角(すいかく)神社 ※ 力石※ 富士塚※ 力石? 〈水角(すいかく)神社(埼玉県春日部市水角1477)〉
2024年03月15日
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【参拝日:2024年(令和6年)3月15日(金)】 ※ 藤塚香取神社※ 力石 〈藤塚香取神社(埼玉県春日部市藤塚429)〉
2024年03月15日
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【参拝日:2024年(令和6年)3月15日(金)】 ※ 大畑香取神社※ 力石 〈大畑香取神社(埼玉県春日部市大畑230)〉
2024年03月15日
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【参拝日:2024年(令和6年)3月2日(土)】 ※ 公式HPより 神社として九州最大級の規模を誇る太宰府天満宮は、天神さまをお祀りする全国12000社の天満宮の総本宮としても知られています。美しい朱塗りの御本殿とそれを取り囲む神苑をはじめ、敷地内には宝物殿、お子様向けのだざいふ遊園地、九州国立博物館もあります。 太宰府天満宮に祀られているのは、9世紀の政治家で著名な学者でもあった菅原道真公。845年、学問で朝廷にお仕えする家柄に生まれた道真公は、若くして学者の最高位である文章博士(もんじょうはかせ)となりました。その後、右大臣にまで登り詰め日本の文化と政治のために尽くしましたが、901年、当時の政治を支配した藤原氏の政略によって位を剥奪。太宰府へと左遷され、903年にこの地で59年の生涯を終えました。 京都から追従した門弟の味酒安行(うまさけのやすゆき)が今の地に御遺骸を葬り、祠廟(しびょう)いわゆる御墓所を創建したのが太宰府天満宮の起源であり、1100年以上の歴史があります。桃山時代の豪壮華麗な様式を伝える現在の御本殿は1591年に再建されたもので、国の重要文化財に指定されています。 秀逸な才能と最後まで誠心を尽くした生涯を讃えられた道真公への崇敬は学者や政治家だけにとどまらず、禅宗の僧、寺小屋の子供たちなど幅広い層にまでおよび、文道の祖また至誠の神としての信仰が広がりました。現代においても学問・文化芸術・至誠・厄除けの神としても慕われ、国内外より多くの参拝者が訪れています。 ※ 太宰府天満宮 〈太宰府天満宮(福岡県太宰府市宰府4-7-1)〉
2024年03月02日
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【食べた日:2024年(令和6年)2月16日(金)】 ふらっと参拝しに行ったら、力石がありました。 ※ 半田稲荷神社 〈半田稲荷神社(埼玉県三郷市半田430)〉
2024年02月16日
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【参拝日:2024年(令和6年)2月11日(日・建国記念の日)】 ※ お清めしました 〈越谷久伊豆神社(埼玉県越谷市越ヶ谷1700)〉
2024年02月11日
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【参拝日:2024年(令和6年)1月18日(木)】 ※ 公式HPより 草加宿シモ3町の鎮守で毎年7月に祭礼が行われます(シモのまつり)。文政9年(1826)に野口金蔵が描いた龍の天井絵や、大きな雌雄一対の獅子頭(市指定文化財)が保存されています。 ※ 八幡神社※ なぜ力石が、土台になっているのか 〈八幡神社(埼玉県草加市高砂2-20高砂二丁目会館)〉
2024年01月18日
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【参拝日:2024年(令和6年)1月18日(木)】 ※ 三柱(みつばしら)神社 〈三柱(みつばしら)神社(埼玉県草加市神明1-6-6)〉
2024年01月18日
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【参拝日:2024年(令和6年)1月18日(木)】 ※ 公式HPより 正徳3年(1713)に、草加宿の総鎮守として現在の位置に建てられたといわれます。現在の社殿は弘化4年(1847)に再建されたもの。毎年9月に祭礼が行われています(カミのまつり)。 ※ 神明神社(市神・神明宮)※ こ、これは※ 力石 〈神明神社(市神・神明宮)(埼玉県草加市神明1-6-6)〉
2024年01月18日
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【参拝日:2023年(令和5年)12月31日(日)】 年末にお参りして感謝を伝えてきました ※ 年末詣 〈武蔵国 越谷郷 久伊豆神社(埼玉県越谷市越ヶ谷1700)〉
2023年12月31日
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【参拝日:2023年(令和5年)12月22日(金)】 ※ 石神井神社 石神井神社(埼玉県越谷市西新井314)
2023年12月22日
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國王神社は、平将門公・終焉の地に静かに佇む古社です。 将門公の三女・如蔵尼(にょぞうに)が、父の最期の地に庵を建てたことが國王神社の創始であり、父の三十三回忌に当たって刻んだ「寄木造 平将門木像」(茨城県指定文化財)を御神体に戴いております。 天慶三年(940)二月十四日、新皇として下総国猿島郡石井郷(現在の茨城県坂東市岩井)に営所を構える平将門軍と、朝廷による将門討伐の命を帯びた藤原秀郷・平貞盛連合軍が、この地で最終決戦を迎えました。 将門の精鋭400騎は、敵軍3,000騎に対して当初は追い風を得て、敵を圧倒します。 しかし、にわかに風向きが逆転して劣勢に立たされた将門は、陣を敷いた北山へと退く途中で、流れ矢に当たって戦死したといいます。 地元の言い伝えによれば、首を取られた将門の身体は馬に乗せられ、後に國王神社となるこの場所(石井営所近辺)に辿り着いたのです。 月日は流れ、将門の最期から三十二年が過ぎたあるとき、一人の尼僧が石井郷を訪ねてきます。それは、奥州・慧日寺に逃れていた、将門の三女・如蔵尼でした。 奥州で隠遁生活を送っていた如蔵尼は、あるとき悪夢を得て、急いで下総に帰郷すると、村人に父の最期の地を尋ねたのです。 熾烈な残党狩りの記憶から、口を閉ざしていた村人たちでしたが、尼僧が将門の縁者だと分かると、将門が辿り着いた最期の地──現在の國王神社へと案内したのでした。 如蔵尼はこの場所で、傍らの林の中より怪木を見つけると、一刀三礼しつつ心厳かに父の霊像を刻んだといいます。 そして春、父の三十三回忌にあたる二月十四日には祠を建て、「國王大明神」の神号を奉りました。 天下泰平、国家安全を祈願して傅いたこの祠こそ、現在の國王神社であり、以来千年の永きに亘って深い信仰を集めています。 ※ 国王神社 〈国王(こくおう)神社(茨城県坂東市岩井951)〉
2023年12月15日
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【参拝日:2023年(令和5年)12月15日(金)】 ※ 公式HPより 第96代 後醍醐天皇の御代(1318~1339)に香取神宮(千葉県香取市香取)より御分霊を伏木村字大木(西原地区付近)にお迎えしました。 その後、後円融天皇の御代、永徳3年(1383)大木より現在地の馬場(香取山)に遷座しました。 ※ 伏木香取神社 〈伏木香取神社(茨城県猿島郡境町伏木1)〉
2023年12月15日
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【参拝日:2023年(令和5年)12月15日(金)】 ※ 長井戸香取神社 〈長井戸香取神社(茨城県境町長井戸991)〉
2023年12月15日
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【訪問日:2023年(令和5年)12月12日(火)】 ※ 公式HPより 昔から10月は「神無月」といわれ、全国の神々が出雲へおでましになるという信仰が古来広く普及しています。当神社では、神様が末日の夜には神社にお帰りになるという信仰からこの御燎祭を斎行し、境内にて篝火を焚き神様をお迎えし、あわせて氏子・崇敬者にこれより一年間火の災いのないようにと祈願祭を行います。当夜は古神札や古熊手などを持参した多数の参拝者がかがり火にてお焚き上げをしますが、この火に当たると風邪にかからないといわれています。晩秋を彩る当神社ならではの神事です。 なお、出雲ではこの10月を神在月(かみありづき)といい、出雲大社の諸神事は現在でも旧暦によって行われています。そのため当社でもこの神事を旧暦10月晦日にて斎行しております。 おかがり祭では、久伊豆神社奉仕会の皆さんにご協力いただき、お焚き上げの火の管理などをお願いしております。奉仕会は平成7年に行われた「越谷お木曳祭」の実行委員会を前身として組織されたものであり、20年以上にわたり神社祭典の助勢や、お焚き上げ、境内清掃などを行っていただいております。特に、一昔前のダイオキシン問題により伝統文化であるお焚き上げが行いにくい時期もありましたが、その時にも「分別をすれば、お焚き上げは出来るはず」と積極的にご協力いただきました。 神様をお迎えするかがり火とともに奉納される御神楽は、夜空のなかで幻想的であり、参拝者の耳目を惹きつけます。 ※ 御燎祭(おかがりさい・旧暦10月末日)
2023年12月12日
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【参拝日:2023年(令和5年)11月25日(土)】 ※ 柳森神社 〈柳森神社(東京都千代田区神田須田町2-25-1)〉
2023年11月25日
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【参拝日:2023年(令和5年)11月25日(土)】 ※ 公式HPより 徳川五代将軍綱吉は儒学の振興を図るため、元禄3年(1690)湯島の地に聖堂を創建して上野忍岡の林家私邸にあった廟殿と林家の家塾をここに移しました。これが現在の湯島聖堂の始まりです。その後、およそ100年を経た寛政9年(1797)幕府直轄学校として、世に名高い「昌平坂学問所(通称『昌平校』)」を開設しました。 明治維新を迎えると聖堂・学問所は新政府の所管するところとなり、当初、学問所は大学校・大学と改称されながら存置されましたが、明治4年(1871)これを廃して文部省が置かれることとなり、林羅山以来240年、学問所となってからは75年の儒学の講筵は、ここにその歴史を閉じた次第です。ついでこの年わが国最初の博物館(現在の東京国立博物館)が置かれ、翌5年(1872)には東京師範学校、わが国初の図書館である書籍館が置かれ、7年(1874)には東京女子師範学校が設置され、両校はそれぞれ明治19年(1886)、23年(1890)高等師範学校に昇格したのち、現在の筑波大学、お茶の水女子大学へと発展してまいりました。このように、湯島聖堂は維新の一大変革に当たっても学問所としての伝統を受け継ぎ、近代教育発祥の地としての栄誉を担いました。 大正11年(1922)湯島聖堂は国の史跡に指定されましたが、翌12年(1923)関東大震災が起こり、わずかに入徳門と水屋を残し、すべてを焼失いたしました。この復興は斯文会が中心となり、昭和10年(1935)工学博士東京帝国大学伊東忠太教授の設計と㈱大林組の施工により、寛政時代の旧制を模し、鉄筋コンクリート造りで再建を果たしました。この建物が現在の湯島聖堂で、昭和61年度(1986)から文化庁による保存修理工事が、奇しくも再び(株)大林組の施工で行われ、平成5年(1993)三月竣工いたしました。 〈湯島聖堂(東京都千代田区湯島1-4-25)〉
2023年11月25日
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【参拝日:2023年(令和5年)11月25日(土)】 ※ 公式HPより 正式名称・神田神社。 東京の中心ー神田、日本橋、秋葉原、大手丸の内、旧神田市場、豊洲魚市場、108町会の氏神様です。「明神さま」の名で親しまれております。 〈神田神社(神田明神)(東京都千代田区外神田2-16-2)〉
2023年11月25日
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【参拝日:2023年(令和5年)11月25日(土)】 息子が受験なので ※ 公式HPより湯 島天神は 雄略天皇二年(458)一月 勅命により創建と伝えられ、天之手力雄命を奉斎したのがはじまりで、降って正平十年(1355)二月郷民が菅公の御偉徳を慕い、文道の大祖と崇め本社に勧請しあわせて奉祀し、文明10年(1478)十月に、太田道灌これを再建し、天正十八年(1590)徳川家康公が江戸城に入るに及び、特に当社を崇敬すること篤く、翌十九年十一月豊島郡湯島郷に朱印地を寄進し、もって祭祀の料にあて、泰平永き世が続き、文教大いに賑わうようにと菅公の遺風を仰ぎ奉ったのである。 その後、学者・文人の参拝もたえることなく続き、林道春・松永尺五・堀杏庵・僧堯恵・新井白石などの名が見える。将軍徳川綱吉公が湯島聖堂を昌平坂に移すにおよび、この地を久しく文教の中心としていよいよ湯島天満宮を崇敬したのである。 明治五年(1872)十月には郷社に列し、ついで同十八年(1885)八月府社に昇格した。明治維新以前は、上野東叡山寛永寺が別当を兼ね、喜見院がその職に当った。 元禄十六年(1703)の火災で全焼したので、宝永元年(1704)将軍綱吉公は金五百両を寄進している。 明治十八年に改築された社殿も老朽化が進み、平成七年十二月、後世に残る総檜造りで造営された。 〈湯島天神(東京都文京区湯島3-30-1)〉
2023年11月25日
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【参拝日:2023年(令和5年)11月22日(水)】 ※ 公式HPより 江戸時代中期に建立された小淵山観音院(春日部市)は、円空仏七躯(埼玉県指定有形文化財)を所有する本山修験宗聖護院門跡の末寺である。 〈小淵山 正賢寺 観音院(埼玉県春日部市小渕1634)〉
2023年11月22日
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