伊賀へいらっしゃい

伊賀へいらっしゃい

2021年04月11日
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千賀地服部家は元は荒木服部だと言われていますが源平の合戦の時、千賀地服部の祖、
服部家長は平家側につき壇之浦まで行き、生き残りますが服部地区には戻れず
隠れ里の花垣郷与野に移り住み地名の千賀地と名乗った。



道路端に入口石碑があります。

千賀地宗家の分巣出国と足利幕府への仕官
服部半三保長は十二代将軍足利義晴に松永久秀を介して千賀地から京都に出仕した。
出国にあたり保長、当時三才の嫡子、保元を妻の実家である紀州、保田栄西
(楠木正成の縁辺といわれる)の養子として保田家に送った。

元則は大坂の陣で活躍、後に藤堂釆女家になり伊賀藤堂藩家老職を戴く



千賀地城跡はこの丘を登った上にあります。

「日本書紀」にみえる百済(くだら)(朝鮮)の王族。
仁徳(にんとく)天皇41年(推定353年)紀角(きの-つの) 宿禰が百済につかわされたとき, 紀角に百済の王の族にあたる酒君が礼を示さなかった。そのことで紀角が百済王を責めると、王は鉄の鎖で酒君を縛り捕らえ,日本におくられた。その後罪をゆるされ,43年天皇から鷹の飼育を命じられた。鷹甘(たかかい)部のはじまりという。




服部半蔵 藤堂釆女正 誕生地の石碑の裏側


応神天皇の時代(270年~310年)呉国から来た人を呉服(くれは) 漢国より来た人を漢服(あやは)と呼んだ。この渡来人が所属した部署を部(とり)と 言った。ゆえに 呉服部、漢服部と書く。呉機織り部(くれはたおりべ)この部とは衣服をつかさどる者に名付けられこの場所を服部という。そこを流れる川を前半を取って「くれは川」地名、姓は後半を取って「服部はっとり」としました。




右から服部半蔵の故郷塔 藤堂釆女供養塔 伊賀乱横死者供養塔





丘の上は少し開けています。


伊賀市服部に小宮神社(おみや)がある。
延喜式伊賀二十五座に列せられ 伊賀二ノ宮と称せられている。 
服部氏の祖神「酒の君」をお祭している。





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Last updated  2024年11月29日 12時22分02秒
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