伊賀へいらっしゃい

伊賀へいらっしゃい

2022年07月28日
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伊賀市東湯舟 手力神社
藤林長門守の氏神様
祭神は天の岩戸を開いた 天手力雄命(あまのてじからおうのみこと)を祀っていて故の 手力神社でしょう。
正応年間(1288-1292)に戸隠神社(長野県戸隠村)から勧進し祀りました。

この時代藤林家の先祖が戸隠で修業していたと言われています。

伊賀服部氏は服部郷内に氏神を持つ惣領家を中心に黒田荘、石打荘、平柿荘、加茂荘に庶子をおいたとあり
平柿は阿山地区とあるのでこれが藤林家の始まりでしょう。
この手力神社勧進の時、藤林家は服部氏の分家から独立したと思われます。






神苑奥にに樹々があり古墳の形態を呈しています。境内正面左右に掘を巡らし錦鯉が泳ぎ、
石造神橋の擬宝珠(ぎぼし)が水面に影、神明造りの本殿、神楽殿、参籠舎と二頭の狛犬、大鳥居。
拝殿の中央に進むとそこには、昔から今日に至るまでの数十万人に及ぶ祈りの鐘の緒がさがり奉納者の願いが神に通じています。








手力神社鈴の緒
周りが4m、高さ3m、重さ2トンと全て日本一とテレビで放送されていました。
以降何処からも異義が無いので間違い無いのでしょう。








正覚寺(しょうがくじ) 上人がそう発音されていました。
藤林長門守墓所
中央が藤林長門守保豊墓 
右隣が藤林長門守保高墓  この人 まではこの地に住んでいました。
保高の息子が「万川集海」を著した藤林左武次保武です。
保武は延宝4年(1676年)に「万川集海」を著し元禄14年(1701)に正式に伊賀者に召された。

しかし高久公の時代に藤堂長門という代官がおられたので、藤林の姓を遠慮して、冨治林と改めたと伝わります。

保武の孫の第4世冨治林正直は『三国地志』の編纂で藤堂元甫に命じられ伊賀編を担当しています。








正覚寺 『本誓山正覚寺』(ほんぜいざんしょうがくじ)と号し、永久3年(1115年)東大寺解案に
『興福寺末寺正覚寺領七丁・・・』の文章が残っており、興福寺荘園の地にありました。
ご本尊は阿弥陀如来座像で左右には観音菩薩・勢至菩薩の立像が安置されており、ここ東湯舟の地において
地域の方々の信仰の拠点となっています。







藤林長門守城跡 
城跡は民家になっています、見学は出来ませんが背後に「藤林長門守城跡」の石碑があり前の道は甲賀市です。
大きな土塁状になっていて一見ただの丘の様です。東端はコの字に囲まれた土塁箇所が城域なのでしょう。

東湯舟地区は全て藤林家が関わっていると言っても良いほどで絶大な力が有ったことが分かります。

藤林家墓所はこの場所にありましたが大正時代に正覚寺に移されました。
 藤林家が藤堂藩に仕え上野地区に移る時に譲り渡しました。





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Last updated  2022年08月06日 15時37分25秒
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