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相手の欠点はよく見えるものです。特に家族は毎日の生活の中で、お互いが協力して成り立っています。私は28歳で結婚しました。見合い結婚。それまでは、教育関係の職場でしたが、東京・千葉から岐阜へ養子縁組で知らない土地での新婚生活が始まりました。自分の産みの両親には素直な心がはたらきますが、結婚して、環境・慣習・などがまるで違います。自分の両親から、今日からは新しい両親との生活です。食事の作法から、生活習慣まですべて違う中で、やはり問題がおきました。新しい父親は、地元ではかなりの権力者です。あだなが、大久保彦左衛門です。その父親に仕えるために努力はしましたが、どうもうまく行きません。父親はわが子のようにと、厳しい態度でいつも接していました。だんだんと、そんな父親が嫌いになりました。すると威信伝心であるように、ますます厳しい状況になりました。そんなある時、以前職場の先生が訪ねてくださいました。私は、いままでの父親の事を先生に永延と話続けました。自分はこんなに一生懸命親に仕えておるが、ここの親は私のことは何一つ理解していない。いつも私を命令して、私の自由の時間なんてありゃしない。グチ・グチ・グチ、と話続けました。先生は、なるほど・なるほど、と聞いてくださいました。それでは聞くが、あんたはどうしてもらいたいのか?親に一生懸命仕えたと言っておるが、やってあげてるのか?そんなに悪い親なれば、だれも好き好んであんたを養子に迎えようとしないだろう。この父親に仕えて、今までの学んだことを実行する試練の場所と思わないのか?どんな親でも欠点はある。その欠点をあなたが補充しなかったら、おんたは今の親より劣った人物となるがそれでもよいか?あんたが「一生懸命」話したことは、皆、自分の都合の良いはなしばかりだ。相手の心を変えるには、まず自分が変らなければ相手はかわらん。何か、わかったような、わからんような話になってしまいました。遅くまで先生の指導を受けておりました。すると先生は、明日の朝、親に謝罪しなさい。エ・・・・・私がですか?そうだ・・・あなたがするのだ。私が父親と話しても問題解決はできない。新聞紙をまず用意しなさい。いまから、親に対して謝罪の文章を書きなさい。いわれたままに、文章を作りました。やはり自分のこばかり書いていました。いままで親にしてあげたことばかり書きました。先生は手直しをしてくれましたが、ほとんど書きなおしました。やがて朝がきました。お父さん・お母さん・おはようございます。昨晩お泊り頂きました先生が是非謝罪しなさいとのことですので、座敷のあがる入り口に、両親と妻と三人が並んで座ってもらいました。私は新聞紙と昨晩書きなおした原稿用紙を持って、玄関土間に新聞紙を敷いた所に座りました。土下座です。両親は何事が始まったのか、驚いた様子でこちらを眺めていました。いよいよ始めようと書いた文章を読もうとしても読めません。涙が次ぎから次ぎからこぼれ落ち、原稿は涙でびしょぬれです。すると、父親も母親も妻も涙を流し、私もただ泣くばかりで、結局何もしゃべれませんでした。最後にようやく、目に見えない心配をかけていました私でしたが今後とも宜しくお願いします。ようやく一言いうことができました。父親も母親も妻もまだ泣いています。すると父親から、わかりました。と一言だけうなずかれました。その後、先生とお話をしました。相手を変えようとしても、それは自分自身を変えない限り、相手はかわらない。それも言葉では変らない。いままでの自分は高慢心で一杯でした。おれは親より偉い人間だとも思っていました。そんな自分を根本から治してもらいました。「人のために流す涙は、相手の心を動かす」が実行して自分の心の立替ができました。あれから19年の歳月が過ぎた今も、昨日のように思われます。その父親もいまは天国で生活していますが、毎日、毎日見守ってくれています。
2004.06.30
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以前「ギブ・アンド・テイク」と言う言葉が良くつかわれました。最近ではあまり使われていませんが。つまり“相手に利益を与えることによって、自分も相手から利益をとる”ということでしょう。何か得るには、まず、こちらから努力して差し出すことが必要だたいう考え方です。ところで、今は物があまるほどつくられ、ほしいものはお金があれば何でも手にはいるようになった。農業でも機械化されましたが、やはり人間の手で行う作業は多いですが、作物の出来が違ってきます。キャベツも機械で切ったキャベツは見立てはきれいです。包丁で切ったキャベツは見立ては良くないが、味は美味しいです。「プロは別です」「何がいまさら努力なんて」「私がせっかく苦労して得たものを、人に与えるなど、とんでもない」という声が聞こえそうです。ザワ・ザワ・ザワ・・・単純に考えれば、与えて得たわけですから、差し引きゼロです。つまり、余分に何も残らないことになります。「余分に何も残らなくてもいい」「派手にもうけて、パット使うのが私の主義」とは言っても、差し引きはゼロ。人生上の計算は必ずマイナスが含まれています。これを借金といいます。自分一人の力では生存できません。親から生まれ、太陽や水、空気などの自然の恵みなど、また家庭、学校、職場、などの社会の中で生かされていきているのですが、結局私たちは、実に多くのものにお世話になっています。借りたものは返すのは当然のことです。このお世話になった分は借りとなります。相手に利益になるぶんプラスとなります。一日を基準とすれば、このプラスとマイナス=エックスとなります。毎日の生活で、プラス・マイナスは日常生活のありかたできまります。物質的に豊かになることは悪いことではありません。必要なことです。でも、その基礎は精神的豊かになることが永続の鍵です。人生計算通りにはいきません。頭で考えてしまいます。心は使えば使うほどみがかれます。すると人が集まってきます。なかなか簡単なことですが、なかなかできないのも事実です。日々の生活習慣から少しづつ登ればいいわけです。チリも積もれば山となります。
2004.06.29
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毎日たくさんの人とつきあいます。つきあいの原点は、相手との心の交流です。信頼される人は、どちらかと言うと損得を考えない「情感人間」の人が多い。自分の心の中に湧き出してくる感情にきわめて忠実に対応している。ところがMさんの場合は、やることすべてについて一通りの理屈をつけないでは気がすまないタイプです。人つきあいの中で、事ごとに理屈が先に立つので、相手のほうでいやけがさしてしまう。そのような付き合いをするうちに、大きな悩みにぶっかって頭を抱えているのに誰一人アドバイスしてくれないことで、Mさんは初めて自分が一人ぼっちであることに気付いた。Mさんは仕事にかける情熱もある。それなのにのけ者にされている原因がMさんにはさっぱり理解できない。自分のことはわからなくても、相手のことは何かとよく気がつく。このMさんの日常生活をみていくと、能力、性格以外のささいなことが積み上げられて孤立する破目になぁたようだ。Mさんは、正論ぶって相手をねじふせるとか、同僚の雑談の中に割り込んでいって知識を得意げに話す「理くつ屋」さんになっている。自分一人が目だとうとする態度が周囲の反発を買うのだろう。近頃は昼の食事、夜の一杯にもめったに声がかからない。たしかにMさんのように物事を理路整然と解明できる人は、素晴らしい能力の持ち主として尊敬に値するが、その能力が必ずしも信用に結びつくわけではない。頭のよさを自慢したいとあせる気持ちを睡眠薬で一時眠らせておくのも、対人関係をスムーズにいかせるコツかもしれない。人は誰でも、その人なりの自尊心をしっかり持っている。それを理くつというバットをあたりかまわず振り回していたのでは、相手の思いを汲みとれないばかりか、拒絶反応さえひきおこしてしまう。つきあいはむしろ、合理性を超えた非合理性の世界のほうがうまく行く。人からこうしてほしいと思うことを理くつ抜きにさらりと、人にしてあげたほうがよい。相手を全面的に信用していると、心ある人ならすぐに打算のないよい人柄を見抜いてくれて、それなりの対応をしてくれるものです。このMさんの話は、自分にとっても他人事では済まされません。以外と自分の意見を押し通す傾向にあるからです。冗談ばかり言って人を喜ばすひともいますが、その人がいるだけで周り全体が明るくなる人もいます。私も「理くつ屋」さんにならないように心がけます。追伸・・・パジェロ情報がありましたらお願いします。
2004.06.28
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今、社会的問題にもなっている三菱ですが、パジェロの平成1年から平成7年までのパジェロを探しています。パジェロ・・4ドアー(ロングタイプ)2ドアーでもかまいません。 できたら4ドアー希望。ガソリン・・・ディーゼル・どちらでもかまいません。動けばOKです。外観きにしません。友達・・知り合い・・その他・・・情報がありましたらお願いします。買取価格・・・5万円でいかがでしょうか。現地まで頂きに行きます。パジェロを探している意味。この車は海外のインフラ事業に利用します。
2004.06.27
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6月25日で57歳になりました。娘がお誕生日ケーキを用意してくれました。お誕生日は私が皆にお祝いをすることです。我が家では・・・・誕生日は本人が皆に祝います。一般では、誕生日の方が皆から祝福されていますが、実際は誕生日を迎えた本人が、感謝の誠を捧げます。誕生日を迎えることは、おおぜいの人のおかげです。まずは両親に誕生日をむかえることができた喜びを伝えます。そして、家族が毎日元気で暮らせる喜びを伝えます。そして新たな節目として、人と出会い、人とふれあい・・・共にいき、共に育つ・・・次の誕生日まで生きる喜びを感謝し、人生を豊かにするために、周りの人たちに、与える心と、愛する心で、この1年がはじまりました。
2004.06.26
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昨日の出来事。仕事関係である人物との出来事です。その方は良く嘘をつくかたでした。時間は守らない。約束はやぶる。結果その方は自分から私から離れていった。縁もありますが、途中で縁が切れることもあります。その方は何が大切で、何が必要であるかは受け取り方がちがったのだと思う。でもこちらから縁を切ることはしません。結果的にはことらが救われているのかもしれません。恨み・妬み・愚痴などをこちらが思えば、相手よりこちらの方がその方より価値がさがってしまいます。昨日の出来事でした。
2004.06.25
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今回の台風の影響で、当地区は農作物に大きな被害がでました。近所のビニールハウスのビニールは風で飛ばされ、我が家のトマトも途中で折れてしまいました。それでも、農作物は生きる力を持っています。人生にたとれれば、予期しないことはたくさんあります。台風がこなければこんな難儀もしないですんだのに。と愚痴をこぼしてみてもなんの解決策にもなりません。人間の力の範囲は微々たるものだと痛切に思う。その後どうするかが大切なことで、今回の台風も自然界にとってはたくさんの恩恵もあります。一部をとらえてながめていると、まったく良いところが見えなくなってしまう。今回の台風も、地球全体で眺めてみれば、生きる力を引き出すことだったかもしれない。
2004.06.23
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私たちの生命の根源は祖先にあります。日本のおいては祖先とのつながりは私たちの生活に息づいています。「暑さ寒さも彼岸まで」というように、彼岸は春と秋に七日ずつあります。この間にほとんどの人は墓参をするのが、本来日本の習慣です。彼岸の中日には、墓に花や供物を捧げ、祖先の供養をします。ムギワラなど燃やしながら、「ジイサンバアサン、アカリモヨイシ、カエッテオイデ」という意味の唱えごとをするのは、「魂むかえ」という観念で、先祖を大切にする心から習慣となったものです。その他、国民の祝日としての春分の日(自然をたたえ、生物をいつくしむ)秋分の日(祖先をうやまい、なくなった人をしのぶ日)にも引き継がれています。盆や正月には、生きている両親に生魚などを贈って祝ったそうですが、仏教の影響だけでない、日本の古俗として、先祖代々、命がつながっていることを意識していたと考えられます。「全体の中の個」「自然との調和」、そして「先祖との命のつながり」など日本人の道徳的な考え方は、私たちの生活に大きく関係しています。グローバル時代と言われる今日ですが、こうした日本人自身の姿を見つめて、自国の誇りを、単なるおごりではなく、つつしみあるものとしてとらえていくことも大切ではないかと思います。
2004.06.20
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日本人の心のあり方は、日常の習俗の中にも受け継がれていることが多くあります。民俗とは古代から時を超えて、民衆の間に受け継がれてきた、いわば無意識の習慣であり、民間伝承という形をとって、各民族の基層文化を形成する基本要素であるとも考えられます。祭りの心・・・・全体と個私たちは、一年を単位として、ふだんの生活を繰り返しています。日本のおける伝統文化の一端を担っている年中行事や習慣の特色はその節句ごとに祭り祈ってきた神意(精神)が、自分の家一軒だけのものでなく、ムラ全体の共同の祈願であぁたことです。天候のよいことを祈るのは、ムラ全体に関わることなので、そのために、行事や習俗を守り行うことによって、ムラは一致し。社会的秩序が保たれ、それが同時に個々の幸せでもあると考えていました。こうして、日本人は長い歴史のなかで「全体の中の個」という精神につながります。
2004.06.19
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挨拶は日常生活に中では大切なコミニケーションです。家庭・・・職場・・・近所付き合い・・・学校・・・などなど。こんにちは。おはようございます。お元気ですか。いつもお世話になります。今日は良い天気ですね。お疲れ様です。ありがとう。など、毎日人と接する時にはお互いに挨拶からはじまります。挨拶も他人の方には挨拶をするが、以外と家庭の中では、なれあいになっていて挨拶がおろそかになりがちです。ましては、夫婦喧嘩などしていたら、挨拶どころではありません。お互いが意地を張り、プンプン顔になっています。挨拶を最初に交わすのは家族です。その家族の中で挨拶がおろそかになると、家庭は冷蔵庫のように冷たい家庭になってしまいます。「おはよう」という朝のあいさつ、「自分の心を開いて相手に向き合う」ための一言です。まず自分から心を開くわけですから、勇気が必要です。あいさつをする相手に対しては。次の三つの意味を込めた言葉だといえるでしょう。1、相手の存在を認める(あなたは私にとって大切な人)2、相手の幸福を祈る(きょうも一日、どうかご無事で)3、相手との良好な関係を願う(きょうも一日、よろしく)この三つの心であいさつをします。これを習慣にすることです。親があいさつすれば、子どもも必ずまねをします。それが習慣となります。注意すること。あいさつは人のためではありません。以前わたしは朝の早くから近くの駅に清掃奉仕に行っておりました。一番電車の乗る通勤客が階段を登り改札口に向います。ほうきとチリトリを持って階段の掃除をしますが、そのときにあいさつをします。おはようございます。行ってらっしゃい。など、挨拶をしますが、無言で通り過ぎる方もみえます。最初は知らない方に挨拶するのに、はずかしいとか、ていさいが悪い、とかで中々言えませんでした。勇気がいります。でも清掃奉仕を続けていると、向こうから「御苦労様です」「おはようございます」とあいさつが返ってきました。そのようにあいさつ一つで、一日がとても充実した一日になります。よくあることですが、挨拶しても挨拶しない方もいます。おはようございます。無言です。なにあの人。私のプライドが傷ついた。と思い込みます。それを、こちらがあいさつしているのに、挨拶しないとはと、怒っている人もいます。あいさつは、相手がしようと、しないとは関係ありません。これは自分のためにすることで、相手を責めるあいさつなら最初からしないほうがよっぽど楽です。人間関係は以外とささいなことからくずれていきます。
2004.06.17
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私たちは日本と言う国に住んでいます。この日本の歴史や文化に対して感心が高まり、その良さを見直す動きがみられます。ところが、私たち日本人自身はどうかと言われると、以外と日本の良さに気付かないことが多いようです。海外から日本を見る人の方が、良く知っている場合が多く、質問されても返答に困ることさえあります。日本人は礼儀正しい民族と受け取られている。物を大切にするとか、美徳や精神文化を持っている日本人と受け取られている。ところが最近は日本人も海外で過ごす方も多くなった。この文化とか、民族の違いを改めて考えたいと思います。日本人は農耕民族とも言われております。食べ物の主食は米です。穀類・菜食がほとんで、最近は肉食が多くなりましたが、農業が伝統文化の継承を育んできていることが多い。意識的にどうもウツむいてしまう傾向は、農耕民族が関係し、あまり海外のように社交性は乏しい。空間とか察しの世界を大切にする民族でもあります。これは日本建築の構造から、相手の心とか、動作は何も言わなくても感じとっていました。現在でもフスマがある家の場合は、全部取り外すと大きな部屋になります。小さな部屋単位は鍵もかかっていないフスマだけです。その生活空間は誰も侵害しません。寝るときも、お客様がきても、ルールを守っていました。最近の住宅は物騒の世の中になった関係で、全て鍵がかかり、相手の侵入を防いでおります。それと海外様式の住宅になってしまいました。子どもの部屋までが鍵がかかり、親でも中に入れません。家族の単位が個人主義の生活空間になってしまいました。でも意識的にはまだまだ日本人の心は伝承されています。日本人の意識構造とアメリカ人の意識構造の違いがよくわかる事例があります。家族揃って今日はお出かけです。道路を親子で歩いております。子どもと一緒に歩いています。日本人の親は、必ず道路側を歩きます。子どもを交通事故から守るために、無意識に親は行います。そこに突然車が進入してきました。親は驚き、子どもの身の安全を図るために親は子どもを抱き包み座りこんでしまいます。ほとんどの親が行う行動です。そのために、交通事故に遭遇した場合は親子共々怪我をするか、最悪の場合は死亡事故となってしまいます。これが日本人の意識構造となっております。では、アメリカはどうかと言うとこの逆の行動をとります。アメリカ人も親子で道路を歩いて散歩します。当然子どもは日本と一緒でです。突然車が親子の目の前に迫りました。アメリカの親は危険と思い、子どもを突き飛ばします。「安全と思われる方向に」子どもは親からはなれて転んでいます。悲しいが、車の犠牲になるのは親だけで、子どもは助かります。この意識構造はその民族の伝承により無意識な行動となっています。日本人の親は子どもと運命共同とする。アメリカ人は親は親・子どもは子ども。ただそれだけのことですが大きな開きがあります。どちらが正しとか悪いとかではありません。文化、伝統・民族の風習などが、人間の生活に大きなかかわりがあると言うことを表しています。当然幸福のあり方も違ってきますが、世界でも日本の良さを感じとっているのは、海外の人が多いのも不思議ですネ。
2004.06.16
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人間は完ぺきな人はいません。わずか2%をどのように生活の中に取り入れるかだけです。皆さんは生活習慣病はどのように思っていますか。以前は成人病ともいわれましたが、この頃は生活習慣病と表現されるようになりました。糖尿病・心臓病・脳卒中・癌などの慢性病(成人病)はあるひ突然にやってくるものではなく、若い頃からの生活習慣のあり方によって、病気の根がだんだんと広がっていき、ある年齢に達すると症状がでてきます。病気になれば、医師の指示に従い改善します。心の生活習慣病は?心づかいは目にみえません。隠そうとしても隠しきれるものではありません。表情や言葉、態度、行動などに表れ、いつとはなしに周囲にも伝わっていきます。すごい顔つきになる人もいます。怖い~と感じるぐらいです。心づかいは、日々の生活の中で、人を思いやり、優しく慰めるよいはたらきもします。その反面、人をせめたり、傷つけたりという悪いはたらきもします。こうした「心の生活習慣病」が積みかさなって、人生のある時期になると、人間関係を中心に、さまざまな形で問題が表れてきます。今まで問題なく過ごしてきた人が、ある時期になって「どうしてこんなことになってしまったのだろう」「いつ道を間違えたのだろう」「家族も中で自分だけが孤立していた」という言葉をもらすことがよくあります。それは、自分ではなんでもないと思うような日々の小さな行いと、目には見えない心づかいの積み重ねが、人生を形づくっているからです。その時がチャンスです。問題が表れたときこそ、生き方を変えていく最大のチャンスです。決して人生には手遅れはないと確信しています。成功と幸福はこのような小さな積み重ねです。
2004.06.15
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毎日の日常生活の中で、どのような心で暮らし、どのような心で人に接しているでしょうか。毎日の生活習慣が体に影響をおよぼすように、私たちの人生も、日々の小さな行いや心づかいの積み重ねによって大きく変わっていきます。よりよい人生を送るために、「心の生活習慣」を一度振り返ってみましょう。
2004.06.14
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中国の古典「孝経」コウキョウに、「身体髪膚(しんたいはっぷ)、これを父母に愛く。敢(あ)えて毀傷(きしょう)せざるは、孝の始めなり」と言う言葉があります。これは、私たちの体は、毛髪・皮膚にいたるまで、すべて親からいただいたものであって、それを痛めたり、傷つけたりしないように大切に守っていくことが、親孝行の始まりであると言う意味です。私たちは、自分の体はもちろん、内面の心も、父母、されに祖父母、祖先の存在があってこの世に生まれてきたものです。そして生まれてから今日まで、親の深い愛情の中で、はぐくまれてきました。ですから親にすれば、わが子は、どんなに成長しても、わが子です。社会的に高い地位を得て、経済的に豊かになっても、つねに親はわが子のこと、中でも体のことを心配し、気づかう存在です。その意味で、自分の健康に気をつけ、親に安心してもらうことが大切なのです。それが親孝行の第一歩であるといえましょう。実行するも、実行しないのも強制しませんが、本人が決めます。さてどちらの道を歩みますか。
2004.06.13
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幸福の種を蒔く。自然界の働きで地球は万物を生成化育しています。(進化するものと退化するもの)我が家のお米もトマトも胡瓜も南瓜も蒔いた種から収穫します。では成功の種はなんだろうか。動機・目的をはっきりする。何をしたいのかをまず決める。何のためにするのか。社会的に大衆が望んでいることか。そうでないと迷いばかりで先に進まない。あとは条件が重なりあいます。いくらトマトの良い種であっても、アスファルトの上とか、コンクリートの上では芽がでません。一般的な常識ですが、以外とこのルールを守らない企業家もいる。春に蒔く種を夏に蒔いて見たところで、実はなりません。寒い冬に種を蒔いても、芽はでません。この条件が悪いと、なんぼ良い事だと言っても成果はありません。必ず良い種を蒔くには、時と場所と条件が揃わないと結果的には「骨折り損のくたびれ儲け」となってしまいます。良い種を蒔けば、良い結果が現れますが、悪い種もありますので悪い種は蒔かないことです。所が、自分中心的な考えの方は、上記の条件を無視して、勝手気ままな行動によって取り組みます。(俺の種を俺が蒔くのに文句を言うな)など。その結果、こんなはずじゃなかった。と後悔してみても、自分が蒔いた種と思わず、相手のせいにしたり、愚痴と不平不満の心で相手に攻撃します。日常的な生活の中から、準備するものは準備して、時期が来たなら行動に移すだけのことです。難しい問題を解読するのでなく、簡単な自然界の働きに合わせた者が幸福の種をまいております。(自然の法則に合わせる)成功は結果として容として見ることができます。お金とか、物とか、権利とか、目に見える部分を言います。幸福は目に見えない部分を言います。幸福は心のあり方を言っていますので、容としてみえ難いですが、一般的には人格とか品格とか徳とか、品性として表現しています。ですから幸福は一人一人の心のあり方ですので、何が幸福で、何が不幸だと決め付けられません。一人一人の良い種を蒔いた結果、幸福の度合いが違ってきます。種の条件は最初誰でも同じスタートですが、ゴールに近づくに連れて順位が付いてしまいます。これは自然界の働きがそうさせるのであって、別に悲観することでもないのですが、以外と気にして、自分を落とし込んでいる人もいます。毎日・毎日・幸福の種おまこうと、実行と願いを持てば必ず幸福の種も、成功の種も実をつけます。お互いに幸福な人生を迎えたいと思います。
2004.06.12
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人生を生きるうえで「最高のチャンス」があたえられている。よくピンチがチャンスとも言われています。最高のチャンスも自分で開拓する人もいます。自分の周りの方の影響で最高のチャンスを得ている人もいます。中学生の話。愛知県のある中学生です。その子は男性。お母さんは美容院を経営。中学になると男子は段々と学校では番町的存在になる。家庭は裕福であったが、中学生のお父さんは理由があって離婚。母親に育てられた。成績は最初は良かったのだが、段々と勉強しなくなった。ある日の出来事です。授業も終わりに近づき、教室の掃除が始まりました。男子生徒は窓拭きです。女性徒とは雑巾で机えとか腰掛の雑巾ガケです。そこで出来事がおきました。その番長的存在の男子生徒が、女子の雑巾を奪い、その雑巾を女子生徒に投げつけようと、男子生徒は狙いを定めて今にも投げようと態勢をとっていると、そこに校長先生が教室を見回りをするなか、校長先生がその男子生徒が、女子生徒に雑巾を投げる寸前の所に居合わせました。名札を見て、校長先生はその場を立ち去りました。男子生徒も校長先生ではと思い、雑巾を女子生徒に返しました。さて、その翌朝です。毎日朝礼が習慣となっていますので、学生一同校庭に集まり、連絡事項やら、校長先生のお話がありました。その時、校長先生は次の話を全校生徒の前でお話をされました。昨日(きのう)の出来事です。わが校として誇りある生徒を発見しました。その生徒の名は○○君です。皆さんが毎日教室を掃除して、お互いに綺麗な教室にと一生懸命に掃除をして頑張っている姿をみさせていただきました。その中で優秀な生徒○○君は、女子生徒の雑巾を取り上げて、自分が率先して掃除を行う姿を見て私は感動しました。よって○○君を表彰したいとおみますが、皆さんどう思われますか。一同がざわめきはじめました。ある生徒が、それはよいことです。お願いします。と校長先生に発言しました。さて困ったのは、○○君です。雑巾を女子生徒に投げようとした行為。校長先生は、率先して掃除をする生徒の行為。形は同じですが、受取方が違います。もちろん、校長先生は○○君がどのような状況であったかは、わかっていました。これが事実と判断の差です。そのまま校長先生が、○○君をどなりつけていたら、○○君はおそらく一層反抗的な生徒になったと思います。校長先生は育てることの重要性を持っていました。人を育てる教育の重みを実行されました。○○君は表彰されました。その後○○君は生徒会長となり、率先して生徒の身のまわりのことやら生徒に信頼される生徒になりました。校長先生も人を育てる教育をしました。生徒もそれにこたえて、学校全体の指導的立場になりました。形は同じであるけど、行為が自分本位であるか、他人本位であるかでこうも違いがでてきます。やはり、心のありかたで違いがしょうじます。生徒もよくなり、学校もよくなり、校長先生もよかった。この三法が良いと言うことは、三法良法則と言います。自分も良し、相手もよし、第三者も良し。この三法良が理解できれば、表題通り、成功と幸福の原理が理解され、実際その境地になれます。私も努力していますが、なかなか三法となると困難もあります。その困難が「最高のチャンス」といえます。
2004.06.11
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大切なものを見失っている。人間には、快適なこと便利なこと満足をもたらすものにはすぐ慣れてしまう。当たり前のことが当たり前のことと思う傾向があります。そして失ってみれば、いやというほどそのありがたみが分るかけがえのないものについても、すっかり慣れてしまって、それが何か、どれほど大切なものかさえ考えなくなっている。健康で暮らせることはありがたいことです。生活するうえで、慣れは大敵。
2004.06.10
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昨日は苦労についてかきましたが、今日も苦について考えたいと思います。携帯電話も電波の届かないところは、携帯電話が使用できません。パソコンも電気が入っていなければ使えません。テレビはアンテナがなかれば、映像がみえません。社会生活の中で、出会いとか気付きは、アンテナが立ち、スイッチが入っていないと成立しません。さてスイッチを入れる役目をするものは何か。それが苦しみであることが多いのです。苦がアンテナを立てる。「私が苦しみから救われる」のではなく、「苦しみが私を救う」のです。ローマ法王の側近としてバチカンで活躍しておられた尻枝正行神父が曽野綾子さんに手紙を送っています。苦から逃れて救われるのでなくて、苦に導かれて救われる。苦のおかげでアンテナが立ち、アンテナが立ったおかげで教えに出会い救われるということです。曹洞宗無量寺住職青山俊董 住職の文章を引用しております。
2004.06.09
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成功者も苦労はしている。幸福と思っている人も苦労はしている。人生は苦労を味わう場所でもある。人は悩みや苦を嫌う。幸福の神さんもいる。貧乏神もいる。いずれも神様です。さて・さてどちらの神様が毎日見守ってくれているのでしょう。世は苦の娑婆(シャバ)と言います。とにかく我慢して生き抜くうちに、いつの日か必ず「苦を苦にしない心の持ち主」になれる。そうした心境に到達すれば、生まれた意義はあったとみる。苦しむことが不幸への道と思い、苦悩せる人を避けたがる。しかし、どうあがいてみても苦は人の身に訪れてくる。それならいっそ「人生は苦を味わう場所」と割り切り、居直ったほうがいいのではないかと思う。いずれも人生の道で、経済的な苦。お金も有れば苦、なければ苦。健康(病気など)の苦。家族・家庭の親子関係・職場の人間関係の苦。箱根の関所みたいなもので、だれでも一度はとおらなければならない。自分の成功・幸福に酔うことでなく、他者の不幸や苦悩に少しでも同情し、なんらかのかたちでお手伝いをするほうがいいのではないかと思う。やがて苦のほうから逃げていく。
2004.06.08
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人生はマラソンに例えられたり、よく登山にたとえられます。また企業経営も同じでしょう。四季になぞらえれば、登りは春夏で、秋冬は下山です。いったん山に登ったら、無事に下りてこなければなりません。ところが、人生や経営に置き換えると「登ることに一生懸命で、下ることをちっとも考えていない人」が案外多い。山から下りる際には、登ること以上に神経とエネルギーを使うものです。私の人生も立ち止まり振り返ってみると、多くの方々の犠牲や援助のうえになりたっていることに気付かされます。社会や自然から多大な恩恵を受けています。空気は無料で頂いております。太陽の光も無料で頂いております。命も親から頂いております。頂いておりますが、借りたものはきちんと返していく、これが人生の生き方です。この、お返しの人生に気付く方と、そうでない方では、山あり、谷ありが不平不満の人生になってしまいます。成功と幸福は、このような毎日の生活の積み重ねです。
2004.06.07
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小学生も中学生も若者も大人も、みな持っている。人間は心がいろいろな働きをします。人間は一人では生きていけません。いろいろな人との出会いもあります。皆さんは、心にとびらがあることを知っていますか。そのとびらはには取ってがついていないのです。外から開けようとしても絶対に開かないとびらなんです。だから一度閉ざされると、外からどんな強力な力で開けようとしても開かないのです。「心のとびらがが内側から開くのは、友だちや先生、お父さん、お母さんなどの温かい心やさしい言葉にふれたときではないでしょうか。家庭も、学校も、職場も、社会も、温かい心のふれいあいによって心のとびらは開きます。その反対に、冷たい言葉とか、嫌われる態度では相手の心のとびらは閉ざされてしまいます。女子小学生も心のとびらを開けていたら、問題は起きなかったかもしれません。心のとびらを開いておれば、先生・親に相談できたかもしれません。小学生だけの問題でなく、ほんとうに心のかよう温かい生活をすることは、本人にとってみれば、最高の喜びでもあり、幸福な毎日が過ごせるものです。思いやりの心は大切です。
2004.06.06
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ビジネスは生きものです。そこで成功者の共通点があります。「人間として正しい道を踏む」立派な経営をしたいと思っている経営者なら「自分の心を高めることが前提である」ということです。星野前監督も心を高める努力を禅にて修業した。一流と言われる方はなんらかのかたちで常に自分を見つめて、心の立替にはげんでいる。「そんなくそまじめなことを言っていてはビジネスにならない」と一般にはいわれるでしょうが、このくそまじめが成功への大切なありかたです。京都には何百年も続いている老舗もあります。ビジネスで彗星のごとく現れた人がいつの間にか消えていくという現象も数多くあります。一生懸命努力して自分の心を磨き、心が立派になれば、会社は必ずうまくいくものです。どのようなものでも磨けば必ず光ります。
2004.06.05
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結果として不幸な出来事になってしまった。だんだん事実が明らかになりましたが、インターネットのチャットから事件の引き金となってしまった。それまでは仲の良い友達であったはずが、書き込みによって信頼関係がくずれた。小学生であれば、命の尊さは知っている。大人も知っている。この時期の小学生は心が揺れる思春期でもあり、少女はなぜ衝動を爆発させてしまったのか、最も解明すべき点である。大切なのは、信頼できる親や他者の存在である。信頼できる他者に依存できて初めて安心したコミュニケーションがとれ、衝動もコントロールできる。他者への信頼感をベースに持たない子どもは、他者との距離をうまく測れず孤立しがちである。ささいな葛藤も、普段から追い詰められている心境にある子どもには、生存を脅かされるに等しいと感じることがある。インターネット上のやりとりも見逃せない要素だ。大人でも感情の暴走を招きやすい。子どもたちは、毎日毎日テレビなどで、命の失われる情報をいやというほど見ている。子どもたちは例えばイラク戦争などでかけがえのない多くの命が、日々失われていることも知っている。命は限りなく軽く見える。言葉で命の重さを伝えるのは至難の業だ。子どもや少年に共通しているのは、自分は孤立し、愛される価値がないと思い込む自己否定の感情の強さだ。自分を愛せない人間に他者を思いやれ、といっても無理がある。自分の価値を知らなければ、他者の価値もわからない。ましてや他者の命に思いは向きようもない。インターネットも便利です。ハサミも使いようによっては便利なものです。カッターナイフも使う目的によっては便利なものです。これも使いようを誤れば、人を傷つけることになる。学校側では徳育(道徳)も学習していた。命の尊さももちろん学んでいる。自らを傷つけることと他人を害することは紙一重だ。いまや小・中・高生が飛び降り自殺し、自らの命を絶っている。この社会情勢の中で、紙一重のところにある他害のエネルギーもふつふつとたぎっている。親も・学校も・社会も、子どもの支えになることが一番大切なことではないかとおもわれます。
2004.06.03
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日本じゅうが、長崎・佐世保で小学生の殺害事件で、驚きと衝撃に包まれた。学校側も、PTA関係者も、父兄も、国民も、驚きとまさかと思う出来事になってしまった。このような事件は一朝一夕におきるはずがないと思うが、いろいろの要素が積み重なり、結果として現象(出来事)した。まさに日本が抱え込んでいる社会問題の一部で、教育基本法でも盛んに取り上げられ、検討されておることですが、一度に改革することは大変なことと思いますが、でも各自の自覚のもとで治していかなければならないことです。企業では、三菱・カネボウ・ダイエイ・銀行・その他さまざまな社会的責任が問われています。いかなる大企業といえども、法を犯し、社会的責任を等閑(とうかん)に付したら、消費者からの信用を失い、商品はボイコットされて、衰滅の道をたどらざるえないでしょう。民事再生法は税金で再生しますが、ここにも問題は潜んでいます。年金問題も、国民の78%が見直しを述べているが、誰の為の法案かまったく信用をなくしている状態です。企業も教育も行政も個々に問題提示するのでなく、全体的な基本が欠けているから、いくら討議しても解決の道から遠ざかるばかりです。監督責任がある行政ではなく、一般消費者・国民の評価です。企業であれば、消費者は商品やサービスの背後にある企業の心を見ているのです。今、大企業のみならず、すべての企業に求められているものは、うそとごまかしのない道徳的な経営姿勢な確立です。道徳は法律ではありません。強制されるものでもありません。しかし、経済活動をはじめとする人間の諸活動を正しい方向に導き、進化と向上を実現していくうえで不可欠です。今、世界も日本もまさにモラル(道徳)を真剣に自覚しないと、ますます社会的責任のありかたが問われることになってしまう。ただたんに、首のすえかえではすまされません。
2004.06.02
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さて皆さんは子どもにどのような役割を与えていますか。平均すると、今の子どもたちは、家事分担をはじめとする生活体験の乏しさから、生きる力をいちじるしく衰退させてしまっている。つまり人間形成は、まず家庭と言う集団生活からの知恵からはじめないと、社会生活に対応できない子どもになってしまう。この家庭こそがが人間形成の道場とすれば、この道場で形成してやらなければ、育ちそびれを起こしているのです。よく聞くはなしです。「子どもに何かをやらせようと思うのですが、やらせる仕事がないのです」ということでなく、たとえどんな小さな仕事(役割)でもよい、意図的、意識的に、子どもの分として残しておく・・・・それが現代を生きる知恵でなければならないと思う。家庭における子どもの居場所や存在価値を奪ってしまうことがあってはならなと思うのである。現代の親は、子どもの仕事(分担)までやってしまっている。ですから、子どもが成長していく過程でなにも出来ない子どもを養成している。社会人として働くことになった若者が、さて自分は何をしなければならないか分らない人も出てきている。言われないと動かない若者もいる。成功と幸福から遠ざかった状態では、手遅れとなる。家庭こそが、成功と幸福の一番基礎となる場所です。
2004.06.01
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