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車・・・・移動する時は指定のバスで移動しますが、中国は左ハンドルなので、日本の道路感覚では走れない。確かに北京のタクシーでの街は10元もあればかなりの距離を走ってくれる。車とオートバイ・三輪バイク・自転車と人が交差する道路はヒヤヒヤする場面に遭遇する。信号は青は進めだが、北京は赤も進めには驚く。さすが警察が交差点で交通整理をしておればそうでないと思っていても平気で無視するにはただ唖然とする。割り込みは当たり前で、まるで運動会で競争するような混雑です。譲ることなど全くなく、早い者勝ちだ。日本の道路および交差点は、北京からすれば安全だと思う。なれない道路事情もあるが、とにかく移動する車中は落ち着かない。
2004.08.18
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北京に在住中は天気の良い日は一日もありませんでした。8月9日は大幅に遅れての北京入りでした。北京に降りたら蒸し暑いこと・・・日本より湿度が高いと思います。夕食は北京料理を食べに行きましたが、さすが混雑しています。お腹も十分満たされ、ホテルに帰り後は寝るだけ。ホテルの冷房の調子が悪く、また、眠れない夜でしたが、一週間はこの状態かと思うと、やはり日本は過ごしやすい。初日の出来事でした。
2004.08.17
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今日から北京です。中国中医研究院・・・中国の医療最高センターです。帰国は15日(日曜日)に予定しています。東洋医学・推拿・漢方など学んできます。でも昨日の雷で我が家は、親戚の家に行きお風呂に入りました。食事は外食で済ませましたが、電気がこないのは何もできません。ただローソクの灯りだけが、部屋の唯一の照明です。毎日の生活では何不自由過ごしていますが、電気がないということは、生活の機能が全く働きません。ただひたすら電気が来るのを待つだけです。深夜12時までまったが、あきらめて寝ることにしました。
2004.08.08
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今日は我が地区に雷が落ち、地響きしたが、我が家のPCのLANが飛んでしまった。この日記はもう一台のノートから打ちこんでいます。電話機は壊れるし、全く予期しなかった一日になりました。停電は回復して、NTTさんも来て頂、電話も通じるようになりました。雷のエネルギーの凄さも改めて認識しました。地震・雷・火事・おやじなどと言いますが、いまでもゴロゴロと鳴り響いています。さてもう一台のPCの修理が如何ほどかかるやら?皆さんも雷が鳴りましたら、コンセントは必ず外したほうが得策です。
2004.08.07
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幸福の条件の中で、健康は非常に大切なことです。成功するには、時代の流れを読みとることが大切な要素です。だがこの世の中「思うことが思うように成る」という人も少ないのも事実です。まして、自分の周りにいつ何時困難・危機が待ち構えているかわからない状態です。自然界の働きで災難に遭うかもしれません。交通事故などに巻き込まれかもしれません。人にだまされて、財産を無くす人もいます。売上が伸びず、倒産に追い込まれる経営者もいます。事が起きてから対策を取るといううことは、泥棒が侵入して縄を編むようなことです。転ばぬ先の杖・・・石橋を叩いて渡る・・・など危機に備えた自分の平生時にどのように判断して対処するかです。例えば、7年越の病気を治すのに、3年干しの漢方薬が効くからといって、これから干しにかかるようなことをする。これでは、干しあがるまえに死んでしまいます。急場になってからあわてても間に合わないということです。ふだんからの備えが大事だということです。人材もそうですが、人材も簡単に得られない。平素から心がけておかなければ、必要なときになってあわてて探し求めても間に合わないです。日本経済の危機。銀行の危機。家庭崩壊の危機。食糧危機。テロの危機。危機だらけです。まさに日本中が危機にさらされています。
2004.08.05
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8月2日~3日にかけて和歌山港からフェリーで徳島に渡る。フェリーは以外とすいていました。ゆっくり2時間海を見ることが出来ましたが、台風の影響か、海は濁った海水のようでした。とにかく、時間で動き廻っていますので、ゆっくり楽しむことはできませんが、次回にかけて今度は訪問したいです。徳島の阿南な方々、大変お世話になりました。
2004.08.04
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宝くじの話題が昨日でました。当たったら・・・夢を語りかける。そう~・・・当たるといいね。所で、コンゴ民主共和国さんは買わないノ。買わないと当たらないヨ。そりゃそうだけど。たわいもない話ですが、今日はお金について考えてみたいです。お金や地位があれば集まってくる者が多く、お金も地位もないとなれば交友関係も少なくなる。これは自然のなりゆきで、人を恨んでもしかたがない。市場(しじょう)と同じで、求める品があれば集まる。なければ散っていくのは当然かもしれない。人間関係にうぬぼれや、過度の期待をするととんでもないことになる。ご注意ください。
2004.08.02
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しなやか・・・の反対は固い。しなやかなもの、弱いものが、かえって固いもの強いものに勝つ。なぜかというと、「柔」とは、他者を育(はぐくむ)む徳をもっている。「剛」とは、他者を傷つけ損なう、悪には必ず代償がともなう。競争の原理かもしれませんが、「弱」は誰からも擁護されるが、「強」はだれからも狙われる。自然界は働きで、弱者の牛・馬などは子孫を残しているが、ライオンとかトラなどは子孫が危ぶまれている。ここからが重要です。というものの、ただ柔のみを後生大事に守り、ただ弱のみを誇り思っていては、なんの意味もありません。柔と剛、弱と強の4者を兼ね備えたうえで、時に応じて使いこなすことが大切になります。柔弱一方でも剛強一方でも、ともに滅亡してしまいます。その場所・その時代・その時間・の変化のなかで適応していくことが大切になります。頭が固いと偏った物の見方・考え方になりやすい。頭が柔かく、かといって頭が固い時も必要です。ここが絶妙に人生の(苦)でなく楽しみなのです。
2004.07.31
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思い通りにならないからといって、くよくよしないこと。万事うまく運ぶからといって、いい気にならない。平和が長くつづくからといって心を許さないこと。最初にぶつかった困難にくじけないこと。人生は一人一人ちがう。また、事業においても。めまぐるしいまでの社会情勢の変化に対応していくのは大変です。先の予測がつかないからと言って、出たとこ勝負というのでは、生残ることはまずむずかしいと思う。かといって、直面している問題にのみとらわれて見失っていけない。自分の物差しでは狂いがある。国際的物差しで事をはかる。「天は自ら助くるものを助く」
2004.07.30
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銀行のUFGの役員辞任。代議士・・1億の金の流によっては辞任。中部電力・・・会長・・・辞任。学歴は最高です。お金は沢山あります。地位もあります。権力もあります。ない物・・・道徳心でも人間として間違いをおこしました。中部電力・・知人の古美術商から約5億8千万円の中国古美術を購入した不明朗の取引で責任をとり辞任することになった。1億9千万円相当の美術品を無料で自宅に保管していた。どんな功績ある経営者も裸の王様になれば、公私混同し、そして身の処し方を間違える。成功しても結局、自分が撒いた種を刈るしかない。
2004.07.29
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太陽が今日も東から登りました。この太陽のエネルギーによって地球の生物は法則に従って生存を許されています。人間も太陽の光によって、酸素を頂くことができます。共存共栄ですね。酸素が5分も供給されなかったら、私達は死んでしまいます。この太陽も無限ではありません。これから49万億年には消滅するそうですが、いまの所は心配ないですが、地球も変化します。ところが我が家の畑地にキウイが植えてあります。キウイは大きな実をつけていますが、下が空いていますので、スイカを植えてみましたが、育たない。時々は光は射しますが、やはり実は大きくなりません。なるほど。いくら土壌に養分があっても最高の肥料は太陽です。条件が整うことは大切ですネ。人も太陽のように輝く人は、自然の摂理をよく理解している。太陽の光は7原色ですが、その中に紫外線とか赤外線とか多くのエネルギーを無料で提供していただいています。ある国では太陽を神として崇めています。暑い夏ですが、汗をふきながらも、感謝で一杯です。
2004.07.28
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毎日の生活で好き・嫌い・損・得・の意識が働きます。この意識に支配されています。この意識が一番自分を苦しめています。何かおもしろくない事があると、すぐに相手にむかって放言します。その後で「あんなこと言わなければよかったな、悪いことしてしまったな」というように気がとがめる経験があると思います。そんな時、不快感が走ります。これが「悪因悪果」といいます。「今日はいいことしたな。彼は大変喜んでくれた」「君のおかげで事が好転した、ありがとう」と心からお礼を言われた時、あんなに彼が喜んでくれた。こう思った時が「善因善果」なのです。本人の心のさわやかさ、それは暖かい春の日差しのようなポカポカしたものでしょう。この積み重ねが成功と幸福の基礎となります。
2004.07.27
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中国の古典に「善つまざれば、もって名を成すに足らず。悪積まざれば、もって身をほろぼすに足らず」(易経)これは、大善事も大悪事も一朝一夕にできるものではなく、長い年月にわたり小さな善事や悪事が積もり積もった結果であることを示しています。成功するにも、善事の積み重ね。不幸になりたい人はいません。たとえ小さな善行でも、持続して行うことによって大きな成果をもたらします。人に親切な人は、人に親切にされます。簡単なことですが、以外と忘れてしまいがちです。注意・・・同情親切は止めましょう。
2004.07.26
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幸せにしても不幸にしても、特別な門があって入ってくるわけではありません。どちらも当人が招き寄せたものが多いです。だから、幸せになりたかったら、そうなるように努力も必要です。不幸せであるなら、その原因は自分にある。撒いた種は自分で刈り取るです。自らの努力でそこから抜け出すよう努めるべきで、間違っても他人のせいにしてはいけません。不幸の境遇におちいると、とかく自分のことは棚に上げて他人を恨みたくなるものです。正しいことをしても、相手から不当な処遇を受けたとして、ただ不貞腐れるだけではなんの展望も開けず、事態は益々悪くなる。宝物は遠い所にあるのでなく、自分の足元にゴロゴロ落ちてる場合が多いです。遠くを見るのも悪くはありませんが、自分の周りに以外と幸せの道が続いているものです。今日は農業作業です。曇っているから、牛糞堆肥を田んぼに撒きます。やるぞ~。
2004.07.25
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ほとんどが、「何も悩みがない」と言う方は少ない。少なくとも、物事の一部に惑わされて全体を把握するのがむずかしいからです。人はなぜ心を惑わされるかというと、好悪の感情に左右されるからです。判断が好きか嫌いかで、人は心を惑わされる。そればかりでなく、損か得かでも心を動かされる。また、過去、現在の一方にもとらわれる。どんなことでも、一面だけをとらわれると、心が惑わされて全体が見えなくなる。人間は、とにかく自分の望むほうに、都合のいいほうに目が向きがちなものです。だからと言って諦めてはいけない。悩みは付物と思えば良い。一度悩んだ大きな問題は、次回は簡単に解決がつく。同じ悩みをいつも悩んでいては失格ですが、あとで日記に書いた悩みが、なんであのような事で悩んでいたのか?と思うでしょう。その人にとっては、以前の悩んだ悩みは、悩みでなくなっただけのことです。学校の試験問題もそうですが、解らない問題は頭を抱えます。自宅に帰り、解らなかった問題を調べ、正解がわかっただけでも次回に同じ問題が出題されても、簡単に答えを書くことができます。人生とは沢山の問題がだされます。その問題を解いていくのは一生の宿命かもしれません。
2004.07.24
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さてさて、毎日が生きていられるのも当然と言われる人もいると思いますが、また、災難にあって悲しみに沈んでいる人もいる。船がひっくり返ってはじめて、誰が泳ぎがうまいかがわかり、馬が暴走してはじめて、誰が馬術にすぐれているかがわかる。つまり、普段は気づかない人の才能や実力が、非常事態に直面したときにはじめて明らかになります。日常業務やら、日常生活の平凡な繰り返しのなかでは、毎日顔をつき合わせている同僚でも、どんな特技を持っているかはなかなかわからないものです。突然の外国人の訪客があって、語学の堪能な人間が誰かが明らかになり、強盗を撃退してはじめて、小柄な同僚が空手の有段者であることに気付くこともあります。人はみかけによらない・・・でした。
2004.07.23
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論語に次のことが書かれています。知るを知ると為し、知らざるを知らずと為せ、これを知るなり知之為知之 不知為不知 是知也孔子が弟子の子路に「わかる」とはどういうことか教えよう、と言って語りかけたことば。「自分にはなにがわかっているのか、また、なにがわかっていないか、この区別がつくこと、それがわかるということなのだ」子路はすぐれた決断力の持ち主だが、それだけにやや先走りする性向がみられ、孔子はつねづねその点を心配していた。その気持ちが、この言葉となって表れています。ずばずば決断を下していく、このような人物は見ていても気持ちがよいが、本当に何もかもわかったうえだろうか・・・と気になる教訓です。
2004.07.22
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どんな組織や集団のリーダーに聞いても「和」がかなりの重要な項目としてあげられることが多い。プロ野球の監督。サッカーの監督。バレーの監督。などなどありますが、この世界は勝たなくては話にならない。企業の監督は代表取締以下社員で構成されているが、この組織も「和」とか、会社において社是をかかげている。勿論企業であれば利益を生まなければ社員及び自分達の経済がたもたれない。いずれにしてもチームの「和」ということを強調する。しかし、真の意味での「和」を保っているチームが、はたしてあるだろうか。勝ち進んでいるときは和気藹藹(わきあいあい)に見えているのに、負けがこんでくるとあちこちから不協和音が聞こえてくる。中小企業は不況和音が聞こえてくる。さて、こういうのは「和」ではなく「同」であったからで、真の「和」を永続させるには、人格とか品性の器に分量に比例する。人格者とか、品性の高い人は協調性に富んでるが、無原則な妥協はしない。そうでない人は、やたらと妥協はするけれど、真の協調性には欠けている。成功者と、そうでない人の分岐点かもしれない。
2004.07.21
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人の一生は、白馬が戸の隙間の向こうを駆け抜けるようなもので、あっという間に過ぎてしまいます。一年は365日時間に直せば8760時間だれもが平等に与えられているはずだが、30代から40代、さらに50代へと年をとるにつれて、ますます加速度がついていくような気がします。いわゆる老後の年代に入ってからは、そのスピードは一体どんな感じになるのか、考えてみれば不安にならざるを得ない。悠々自適が、昔からリタイヤ後の生活の理想とされてきたわけだが、年金問題や、借金大国の日本では、悠々自適とはいかなくなった。今日も暑いようですが、一日を大切にしたいです。
2004.07.20
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目を閉じ自分の将来を見つめよう。先見と洞察力を養おう。中国古典に次のような名言がある。「天網恢恢、疎にして失わず」てんもうかいか、そにしてうしなわず。天に張りめぐらされた網は、とてつもなく広く大きい。網の目も粗いが、それでいてなにひとつ取り落としはしない。悪事にも、早晩しかるべき報いがくる、というたとえ。日本歯科医師会も蒔いた種です。そうは言うけれども、現実の世の中に悪人がはびこり、善人がしいたげられているではないか、と納得しかねなる人も多いにちがいない。だがそれは、一時的な見方をするからで、長い目で見れば、天は必ず悪を懲らしてくれるのです。でなければ、我々庶民は、一体何を心のよりどころとして生きていけばよいのだろうかと思われるでしょう。目をつぶり、天と会話ができる訓練も必要ではないかと思います。人を相手だと、腹をたてたり、不平不満やら、怒りくるってみたところで、何も生まれない。天を相手であれば、自分に対する精神作用は、すべて天にお任せの世界である。例えば、私の妻が私に怒って物をぶつけたとします。妻が物を投げたことに腹をたてた所で、妻と私の間には、ただ憎しみとか怒りとかしかありません。妻が天のお使い人であるならば、妻の姿をかりて私に忠告していると思えばよいのです。すると、妻を恨むこともなく、怒ることもなく、ただ自分のあり方を反省し、次の自分の精神作用を立替えていくことが大切ではないでしょうか。あの人が、妻が、子どもが、上司が、全て、人相手に考えるとまったく納得のいかないことばかりです。人も大切ですが、先見と洞察を訓練することで、見えない物も見えてきます。何が善で、何が悪かはの標準を理解しないと迷いますが、天地自然の法則により、「天地の法則にかなうことが善で、そうでないものは悪である」といわれています。法律で裁きを受けなくても、必ず天はお見通しです。因果律がはたらきます。天は公平ですが、受ける悩みは自分が蒔いた種です。
2004.07.19
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今日は名古屋の熱田生涯学習センターに誘われました。これもご縁です。新たに20名のご縁ができました。さて、何のセミナーですか?中国では気功ですが、今回は日本で発生した霊気のセミナーでした。霊気は海外では人気があるそうです。所が、日本ではまだまだインチキ的な受取が多いとのことです。でも最高に良かったです。宇宙のエネルギーを頂いたのです。でも、これは人によって受取方が違いますので一概には言えませんが、PC・で霊気を検索して確認してください。でも今日は沢山の方との出会いは大切にしたいです。良かった・良かった・の一日でした。感謝。
2004.07.17
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中国古典より。可なるを見て進み、難なるを知りて退く。絶対に勝てるという条件を見極めたうえで進み、勝てそうもないと見たら退却することも必要。当然と言えば当然だが、実戦の場でいざ行動というときに勝てるか勝てないかを判断することは、きわめて難しい。そこで当時は、占いが最終的な判断のよりどころだったが、呉子は、その前に相手の一挙一動をよく観察して、可なるか難なるかをみきわめよ、と合理的な判断が重要なことを強調しているのです。トップが判断に迷って預言者の託宣を仰ぐ例は現代でもあるが、その前に十分な検討がなされたかが問題である。大衆を相手にすることだから、自分だけの判断で満足すると、とんでもない結果となることも大いにあるうる。いくら良い商品でも売れなければ、ゴミ。いくら良い企画でも、大衆が動かなければ、ただの思いつき。一歩一歩進むしかない。
2004.07.15
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中国古典。マージャンの愛好者には役満のひとつとしておなじみですが、もともとは一国に二人といないすぐれた人物の意です。名将韓信(かんしん)を評した言葉です。韓信は「背水の陣」を敷きいたことで知られ、百万の大軍を己の手足のごとく動かすともいわれた用兵の天才でもあった。そんな彼も、はじめは主君にはまったく認めてもらえず、嫌気がさして逃げ出したことすらあった。そのご、丞相の蕭何(しょうか)に見出され、その推挙によってようやく活躍の場を得る。韓信ほどの男でも、上司の目にはなかなかとまらないものです。まして、凡人は身の不遇を嘆くまえに、自分の能力を再点検するほうが得策しょう。いくら能力があっても、出会いの中で、すぐれた人物との関係が大きなチャンスが待っている。
2004.07.14
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中国の古典です。君、好を見わさば、則ち群臣、能を誣う。(きみ、こうをあらわさば、すなわちぐんしん、のうをしう。)君主が何を嫌うか知られてしまえば、臣下は嫌われそうなところを見せなくなる。君主が何を好むか知られてしまえば、臣下は好みに合ったふりをする。つまり、君主が好悪の感情を表に出すと、臣下は表面をとりつくろうと手がかりを得る、というのである。トップがギャンブル嫌いとわかれば、賭け事に無関心をよそおう手合いが出るし、カラオケが好きだとわかればカラオケ熱が高まるというわけ。これでは、ひとりひとりの本心は見抜けない。選挙戦も幕を閉じたが、さて小泉政権の政策に野党は戦いに挑む姿勢だが、当選した議員さんに一言申し上げます。上記の事にならないように、しっかり国政をお願いします。
2004.07.12
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だれでもみんな、お父さん、お母さんから生まれてきました。そのお父さん、お母さんも、両親から生まれてきました。永続した命の歴史が誰でも持っています。仮に一世代を三十年として7百50年さかのぼりますと、私たちの先祖の数は三千三百五十五万四千四百三十二人になります。私の命もこんなに大変な数のご先祖がいるのです。次は子どもたちが引継ぎます。次のランナーにバトンを渡すのももうすぐです。長女の結婚もこの秋です。
2004.07.11
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「変えるのは難しい」「自分の考え方はなかなか変らない」「どうやって変えたら良いかわからない」このような反応が返ってくる。これは当然かも知れませんが。自覚的に考え方を変えようとしたことがない、考え方について学んだことがない、という場合が普通で、考える方法についても理解していないのは当然かもしれません。例えば、自動車の運転したいと思えば、これまで運転したことがない人でも、直ちに運転できるのであれば簡単ですが、普通はそうはいきません。運転したいという遺志があっても、運転の仕方については学び、練習する必要があります。考え方を変える技術は、初歩の段階では、やさしい点も多いが、奥が深いので、マスターするにはかなりの時間がかかるともいえます。自動車の運転のように、実際に運転できるというはっきりした基準をたてづらいことです。どの程度になればマスターしたことになるかもはっきりしていないのです。しかし、このコツをつかめば、どんどん先に進んで行くことができるようになります。考え方を変えるためには、いろいろなことが関係しています。変えようという気持ちさえあれば、方法はどんどん見えてくるでしょう。自動車の運転を習う場合には、近くにたくさん教えてくれる人がいますから、学習しやすいですが、考え方を変える学習となると、先生を探すのが大変です。最近は生涯学習セミナーとか、いろいろサークル活動が盛んです。同好会を数人作り、共同学習するのもよいでしょう。あまり理解していない人が集まっても、意見交換していくうちにいろいろ見えてくるでしょう。
2004.07.10
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毎日が暑いですね。でもこれが自然なのです。暑いといって文句言う人もいます。暑いから喜んでいる人もいます。Mさんが修業から帰りました。会社の命令で、禅寺に3日間研修とのことで無事帰りました。どうでした?大変勉強になったそうです。規則正しい生活と食事も精進料理。で、一番の収穫はなんでした。和尚さんの言われた一言が良かった。Mさんはグループ20人で禅寺にて座禅に参加しましたが、毎日禅寺の言われるままに過ごしました。最後の日です。「ここに来た目的はなんですか」と尋ねられました。Mさんは心をみがくために来ました。と和尚さんに言いました。すると和尚さんは、「わかりました。では実演して見せてください」と言ったのですが、Mさんは困りました。そのとき和尚さんは、ポケットから心を出して磨くわけにはいきません。目に見えない心は、磨きたいと思っても磨きようがない。だから、まず最初に目に見えるものをしっかり磨きなさい。気がついたら目に見えない心もも磨かれていますよ・・・・・禅寺という特別な所に来て、座禅という特別なことをしないと心が磨かれないと思ったら、大きな間違いです。あなたの毎日の生活の中で、あなたが毎日やる仕事の中で、当たり前のことに心を込めることによって、あなた自身が磨かれることののですよ・・・その一言が今回の座禅に参加して良かった。Mさんの顔はまるで別人のような顔でした。そしてMさんは、日課として家のトイレ掃除から始めるそうです。私もその話を聴いて、自分も考えさせられました。
2004.07.09
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愛・・・とは?簡単に愛・・・とはなんですかと尋ねるといろいろな言葉が返ってきます。キリストは愛を説いています。仏教は慈悲という表現をしています。ところが、愛もいろいろ複雑な状況を造りだします。妻を愛しています。主人を愛しています。動物を愛しています。形とか、動物とか、人を対象とした表現で自分の愛の深さを形で見せています。心の愛は形がなかなか見えません。では人生に愛だけあれば幸福になれるのでしょうか。人生には山あり谷があります。だれの人生も問題の連続です。直面する問題に対してなんとか解決しなければ、と焦ることもあります。解決の糸口がみつからなくて、ときに悩み、ときに苦しむことがあります。しかし、焦ったり、悩んだり、苦しんだりすることから少し離れて、別の角度から問題に対してみてはどうでしょうか。頭だけでどうしたらいいか考えるのでなく、どうしたら愛のこもったやり方になるかを実践してみよう。以外と難しいと思われた問題も、な~んだ。悩んでいたことが、笑い話になることさえあります。この心から愛に直面していると、以外と愛の知恵とか、愛の力が発揮できると思います。
2004.07.08
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人間関係で問題が起こった場合、おおよそ三つの解決法があるようにおもいます。1っは、自分が置かれている状況から、自分が離れていく方法です。人間関係のトラブルから起こる転職、移転、別れなどがそれにあたります。これは本当の解決法にはつながらないでしょう。2っめは、自分を変えないで、相手を自分の思うどおりに変えていく方法です。一時的にはお金の力や権力などでできることかもしれません。しかし、相手を自分の思いどおりに変えるのは、なかなかできないことです。3っめは、自分自身が反省して心ずかいとを改め、他の人に対して尊敬と思いやりの心で接していく方法です。そして他の人の長所や美点を見いだし、短所や欠点に対しては謙虚な気持ちで補っていくことです。さて、どの解決法を選ぶかは自由です。
2004.07.07
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昨日のことです。NHK放送ラジオで地球温暖化と環境破壊のテーマについて談話が流れてきました。(午後3時30分頃)なるほどと聴いておりまたが、地球温暖化で5度上がれば、人類の危機は間違いなしとのことです。まず環境破壊はもちろん、農作物はまったく出来ない環境になってしまいます。世界56億人の人たちの食糧はとても賄われない。すでに食糧危機に直面している諸外国においては深刻な問題ですが、では日本はどうでしょう。60%が海外から食糧を輸入に頼っている。では自給率が40%あるかと言えば、平均23%程度といわれている。農業はとても大変な作業であることは、農業従事者はよく知っている。個人農業であれば、経費が払えない状態の農業政策にため息をついている。日本でも最近遺伝子組替えの動きがあるが、これも元をただせば人間の勝手都合の良い理屈にしか思えない。確かに収穫量は多く、害虫も少ないとの言い訳であるが、また、新しい病虫害に悩まされる。自然農法とか、減農薬野菜とか有機栽培とかようやく国民もなんとなく理解してきたものの、やはり財布と相談して購入している。私も市場調査で、スーパーの食糧品のコーナーにいきますが、なんと品数が多いのも確かですが、海外からの輸入した品数も多い。ほとんどがすぐに食べれる状態の食材商品が、所狭しと並んでいる。今の日本では、食べることについては危機感はほとんどゼロに近い意識で国民が生活している。農業生産者も農産物消費者も、一度原点に立ち返り、真剣に取組まないと大変なことになると危機を感じます。食べれる生活から、食べれない生活になれば、もちろんパニックになります。農作物は盗まれ、群集が一気に食糧調達に駆け回り、通常の判断は通用しない世界になることは間違いありません。何も食べないで何日生きることができるかを思ったら、もっと物を大切にするのではないかと痛切に思います。
2004.07.06
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皆さんコマ回ししたことありますネ。コマは与えられたエネルギーのあるうちは物凄い勢いをもって回転します。その間は遠心力によって中芯は動かないので、チョット見ると一定不変の様に見えます。その円周に不平均のあるものでも、回転中はわずかに芯棒が傾きながら(法則に従って)廻っている。一度エネルギーが切れると、たちまちにしてひっくり返り、遠くのほうまでふっとんでしまう。事業は生きものです。コマのエネルギーがあるうちは、他のものと接触しても跳ね返してしまうが、邪魔者を跳ね飛ばした時はいいが、外敵が強い時はこちらが跳ね飛ばされる。競争原理が働きます。この事実は新聞・マスコミなどでご存知の如くです。事業運転はこの原理が働いています。一旦経営困難になるか、不治の災害に遭遇すると、たちまちのうちにあとかたもなくつぶれてしまうのです。経営者は、コマのエネルギーをいかに補充するかにかかっている。ある一面ですが、重要な法則ですので学ぶ必要大です。自然の法則には逆らうな。です。
2004.07.05
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今日は稲作の圃場での作業。田んぼの稲は元気に育ちました。もちろん、草も元気です。今日の作業は田の草取り。無農薬ですので、草も元気に育っています。でも今日は暑かったですネ。今は水風呂を浴びて、一段落したところです。今日も元気でリポビタンDでした。
2004.07.03
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子どもの頃、ダルマさんが転んだ・ダルマさんが転んだ。一人がジャンケンで負けたら、木にもたれながら唱えた。そして数人は、ダルマサンが転んだと言っている間に、段々と近づいて行き、捕らえられた人を救出する遊びがありました。最近の子どもはこの遊びをしないようです。このダルマさんは、選挙には必ず登場する立役者です。片方の目を墨で塗り、当選したら両目をいれる。これは子どもの遊びでなく、代議士の遊びかもしれない。達磨は達磨大師からでたのであろうが、ダルマはインドの法と言う意味だそうです。ダルマは形の上から、いかに転ばしても置き直るのですが、日本では古来「七転八起き」といって、最も努力的な途中困難最後必勝的な意味に解している。このダルマの直立すると言うのは、即ち地球の中心を通る地軸と一致することにあります。それは万有引力に起源しますが、直立するのは自然の法則に適合していることです。選挙運動も盛りあがり、ダルマサンに祈願する代議士さん。ダルマサンの意味がわかっているのでしょうかね。子どもの頃親しんだダルマサンと、代議士の身代わりダルマでは本質的に違います。ダルマの動きを見れば判ると思いますが、民が右に左に動揺していようとも、必然止めるべき処があります。人の必ず守らねばならぬ標準点でもあり、神の心に誓うべき意味を表しています。政治家であろうとも、子どもの遊ぶであろうとも、ダルマさんの意味がわかれば、何をしなくてはいけないのかの自覚を教えています。ダルマさんにはじない政治をお願いします。
2004.07.02
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今日から7月1日ですね。子どもたちは夏休みがあります。もう夏です。遊びの世界はたくさんあります。遊びの世界は、うっとりできる時間を持つことができます。最近はこの遊ぶ楽しさを味わっていない人もいます。子どもの頃の遊びは自然の中から学びました。現代では、お金を一杯使った遊びが多いです。子どもに、よく学び・よく遊ぶ。と教育しました。最近の親は、わが子に教育を前提とした結果、ついでに遊んでいる。私の持論は、よく遊び・よく学ぶ・・・です。遊ぶ世界から人間関係が広がります。私の友人でAさんは元厚生省の勤務ですが、人脈がありません。毎日勉強ばかりで、友達がありません。頭はいいのですがネ。そんな彼Aさんが、事業をやりたいと言い出した。でも人脈がありません。Bさんという彼もいます。Bさんは、子どものころは親分はだで、子分を引連れて、川に魚とりとか探検ゴッコが大好きで、毎日遊ぶことに一生懸命でした。学校サボッテ遊んでいました。現在は成功者です。儲けては使っているが、使った分以上に儲けている。不思議です。ですから勉強は大嫌いなBさんです。いまでも、海に潜りにいったり、あちこち・あちこち・遊びに出かけます。私も一緒に遊びに行きますがネ。今月はうなぎ釣り。スッポン釣り。山菜採り。など遊ぶことばかりの人です。ところが、Bさんの周りにはそんな仲間が一杯います。Aさんは独立しましたが、さっぱり売上がのびない。Bさんは、遊んでばかりですが、売上が多い。Aさんの会社にBさんの紹介者を貼り付けました。Aさんの会社にCさんが入り、Cさんは遊ぶ仲間にいいました。これ買え・・・の一言。するとCさんの人脈がAさんの会社の売上に大きな成果がうまれました。一般にあの人は遊んでばかりいる。遊ぶことが、なまけ者扱いにする傾向にあります。遊ぶ楽しさとか、遊んだあとの充実感は理屈ではありません。そのなかから、たくさんの人間関係がうまれます。農業も遊び心でやればよいです。すると遊び仲間が、農業に感心を持ちます。仲間が集まれば、いろいろな楽しいことを提案してきます。ペットボトルでチョウチン作ってナイター野外農園・・・など。とんでもなことを思いつきます。そこで野外バベキュー・カラオケ・寝泊りはテントです。遊びは心のふれあい広場みたいなもんです。成功と幸福が遊び心で得られます。たいしたお金もかけないでも、遊んでいるうちに、いりいろヒントが生まれてきます。サアー・・・・頑張って遊び心に燃えてみませんか。
2004.07.01
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相手の欠点はよく見えるものです。特に家族は毎日の生活の中で、お互いが協力して成り立っています。私は28歳で結婚しました。見合い結婚。それまでは、教育関係の職場でしたが、東京・千葉から岐阜へ養子縁組で知らない土地での新婚生活が始まりました。自分の産みの両親には素直な心がはたらきますが、結婚して、環境・慣習・などがまるで違います。自分の両親から、今日からは新しい両親との生活です。食事の作法から、生活習慣まですべて違う中で、やはり問題がおきました。新しい父親は、地元ではかなりの権力者です。あだなが、大久保彦左衛門です。その父親に仕えるために努力はしましたが、どうもうまく行きません。父親はわが子のようにと、厳しい態度でいつも接していました。だんだんと、そんな父親が嫌いになりました。すると威信伝心であるように、ますます厳しい状況になりました。そんなある時、以前職場の先生が訪ねてくださいました。私は、いままでの父親の事を先生に永延と話続けました。自分はこんなに一生懸命親に仕えておるが、ここの親は私のことは何一つ理解していない。いつも私を命令して、私の自由の時間なんてありゃしない。グチ・グチ・グチ、と話続けました。先生は、なるほど・なるほど、と聞いてくださいました。それでは聞くが、あんたはどうしてもらいたいのか?親に一生懸命仕えたと言っておるが、やってあげてるのか?そんなに悪い親なれば、だれも好き好んであんたを養子に迎えようとしないだろう。この父親に仕えて、今までの学んだことを実行する試練の場所と思わないのか?どんな親でも欠点はある。その欠点をあなたが補充しなかったら、おんたは今の親より劣った人物となるがそれでもよいか?あんたが「一生懸命」話したことは、皆、自分の都合の良いはなしばかりだ。相手の心を変えるには、まず自分が変らなければ相手はかわらん。何か、わかったような、わからんような話になってしまいました。遅くまで先生の指導を受けておりました。すると先生は、明日の朝、親に謝罪しなさい。エ・・・・・私がですか?そうだ・・・あなたがするのだ。私が父親と話しても問題解決はできない。新聞紙をまず用意しなさい。いまから、親に対して謝罪の文章を書きなさい。いわれたままに、文章を作りました。やはり自分のこばかり書いていました。いままで親にしてあげたことばかり書きました。先生は手直しをしてくれましたが、ほとんど書きなおしました。やがて朝がきました。お父さん・お母さん・おはようございます。昨晩お泊り頂きました先生が是非謝罪しなさいとのことですので、座敷のあがる入り口に、両親と妻と三人が並んで座ってもらいました。私は新聞紙と昨晩書きなおした原稿用紙を持って、玄関土間に新聞紙を敷いた所に座りました。土下座です。両親は何事が始まったのか、驚いた様子でこちらを眺めていました。いよいよ始めようと書いた文章を読もうとしても読めません。涙が次ぎから次ぎからこぼれ落ち、原稿は涙でびしょぬれです。すると、父親も母親も妻も涙を流し、私もただ泣くばかりで、結局何もしゃべれませんでした。最後にようやく、目に見えない心配をかけていました私でしたが今後とも宜しくお願いします。ようやく一言いうことができました。父親も母親も妻もまだ泣いています。すると父親から、わかりました。と一言だけうなずかれました。その後、先生とお話をしました。相手を変えようとしても、それは自分自身を変えない限り、相手はかわらない。それも言葉では変らない。いままでの自分は高慢心で一杯でした。おれは親より偉い人間だとも思っていました。そんな自分を根本から治してもらいました。「人のために流す涙は、相手の心を動かす」が実行して自分の心の立替ができました。あれから19年の歳月が過ぎた今も、昨日のように思われます。その父親もいまは天国で生活していますが、毎日、毎日見守ってくれています。
2004.06.30
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以前「ギブ・アンド・テイク」と言う言葉が良くつかわれました。最近ではあまり使われていませんが。つまり“相手に利益を与えることによって、自分も相手から利益をとる”ということでしょう。何か得るには、まず、こちらから努力して差し出すことが必要だたいう考え方です。ところで、今は物があまるほどつくられ、ほしいものはお金があれば何でも手にはいるようになった。農業でも機械化されましたが、やはり人間の手で行う作業は多いですが、作物の出来が違ってきます。キャベツも機械で切ったキャベツは見立てはきれいです。包丁で切ったキャベツは見立ては良くないが、味は美味しいです。「プロは別です」「何がいまさら努力なんて」「私がせっかく苦労して得たものを、人に与えるなど、とんでもない」という声が聞こえそうです。ザワ・ザワ・ザワ・・・単純に考えれば、与えて得たわけですから、差し引きゼロです。つまり、余分に何も残らないことになります。「余分に何も残らなくてもいい」「派手にもうけて、パット使うのが私の主義」とは言っても、差し引きはゼロ。人生上の計算は必ずマイナスが含まれています。これを借金といいます。自分一人の力では生存できません。親から生まれ、太陽や水、空気などの自然の恵みなど、また家庭、学校、職場、などの社会の中で生かされていきているのですが、結局私たちは、実に多くのものにお世話になっています。借りたものは返すのは当然のことです。このお世話になった分は借りとなります。相手に利益になるぶんプラスとなります。一日を基準とすれば、このプラスとマイナス=エックスとなります。毎日の生活で、プラス・マイナスは日常生活のありかたできまります。物質的に豊かになることは悪いことではありません。必要なことです。でも、その基礎は精神的豊かになることが永続の鍵です。人生計算通りにはいきません。頭で考えてしまいます。心は使えば使うほどみがかれます。すると人が集まってきます。なかなか簡単なことですが、なかなかできないのも事実です。日々の生活習慣から少しづつ登ればいいわけです。チリも積もれば山となります。
2004.06.29
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毎日たくさんの人とつきあいます。つきあいの原点は、相手との心の交流です。信頼される人は、どちらかと言うと損得を考えない「情感人間」の人が多い。自分の心の中に湧き出してくる感情にきわめて忠実に対応している。ところがMさんの場合は、やることすべてについて一通りの理屈をつけないでは気がすまないタイプです。人つきあいの中で、事ごとに理屈が先に立つので、相手のほうでいやけがさしてしまう。そのような付き合いをするうちに、大きな悩みにぶっかって頭を抱えているのに誰一人アドバイスしてくれないことで、Mさんは初めて自分が一人ぼっちであることに気付いた。Mさんは仕事にかける情熱もある。それなのにのけ者にされている原因がMさんにはさっぱり理解できない。自分のことはわからなくても、相手のことは何かとよく気がつく。このMさんの日常生活をみていくと、能力、性格以外のささいなことが積み上げられて孤立する破目になぁたようだ。Mさんは、正論ぶって相手をねじふせるとか、同僚の雑談の中に割り込んでいって知識を得意げに話す「理くつ屋」さんになっている。自分一人が目だとうとする態度が周囲の反発を買うのだろう。近頃は昼の食事、夜の一杯にもめったに声がかからない。たしかにMさんのように物事を理路整然と解明できる人は、素晴らしい能力の持ち主として尊敬に値するが、その能力が必ずしも信用に結びつくわけではない。頭のよさを自慢したいとあせる気持ちを睡眠薬で一時眠らせておくのも、対人関係をスムーズにいかせるコツかもしれない。人は誰でも、その人なりの自尊心をしっかり持っている。それを理くつというバットをあたりかまわず振り回していたのでは、相手の思いを汲みとれないばかりか、拒絶反応さえひきおこしてしまう。つきあいはむしろ、合理性を超えた非合理性の世界のほうがうまく行く。人からこうしてほしいと思うことを理くつ抜きにさらりと、人にしてあげたほうがよい。相手を全面的に信用していると、心ある人ならすぐに打算のないよい人柄を見抜いてくれて、それなりの対応をしてくれるものです。このMさんの話は、自分にとっても他人事では済まされません。以外と自分の意見を押し通す傾向にあるからです。冗談ばかり言って人を喜ばすひともいますが、その人がいるだけで周り全体が明るくなる人もいます。私も「理くつ屋」さんにならないように心がけます。追伸・・・パジェロ情報がありましたらお願いします。
2004.06.28
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今、社会的問題にもなっている三菱ですが、パジェロの平成1年から平成7年までのパジェロを探しています。パジェロ・・4ドアー(ロングタイプ)2ドアーでもかまいません。 できたら4ドアー希望。ガソリン・・・ディーゼル・どちらでもかまいません。動けばOKです。外観きにしません。友達・・知り合い・・その他・・・情報がありましたらお願いします。買取価格・・・5万円でいかがでしょうか。現地まで頂きに行きます。パジェロを探している意味。この車は海外のインフラ事業に利用します。
2004.06.27
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6月25日で57歳になりました。娘がお誕生日ケーキを用意してくれました。お誕生日は私が皆にお祝いをすることです。我が家では・・・・誕生日は本人が皆に祝います。一般では、誕生日の方が皆から祝福されていますが、実際は誕生日を迎えた本人が、感謝の誠を捧げます。誕生日を迎えることは、おおぜいの人のおかげです。まずは両親に誕生日をむかえることができた喜びを伝えます。そして、家族が毎日元気で暮らせる喜びを伝えます。そして新たな節目として、人と出会い、人とふれあい・・・共にいき、共に育つ・・・次の誕生日まで生きる喜びを感謝し、人生を豊かにするために、周りの人たちに、与える心と、愛する心で、この1年がはじまりました。
2004.06.26
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昨日の出来事。仕事関係である人物との出来事です。その方は良く嘘をつくかたでした。時間は守らない。約束はやぶる。結果その方は自分から私から離れていった。縁もありますが、途中で縁が切れることもあります。その方は何が大切で、何が必要であるかは受け取り方がちがったのだと思う。でもこちらから縁を切ることはしません。結果的にはことらが救われているのかもしれません。恨み・妬み・愚痴などをこちらが思えば、相手よりこちらの方がその方より価値がさがってしまいます。昨日の出来事でした。
2004.06.25
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今回の台風の影響で、当地区は農作物に大きな被害がでました。近所のビニールハウスのビニールは風で飛ばされ、我が家のトマトも途中で折れてしまいました。それでも、農作物は生きる力を持っています。人生にたとれれば、予期しないことはたくさんあります。台風がこなければこんな難儀もしないですんだのに。と愚痴をこぼしてみてもなんの解決策にもなりません。人間の力の範囲は微々たるものだと痛切に思う。その後どうするかが大切なことで、今回の台風も自然界にとってはたくさんの恩恵もあります。一部をとらえてながめていると、まったく良いところが見えなくなってしまう。今回の台風も、地球全体で眺めてみれば、生きる力を引き出すことだったかもしれない。
2004.06.23
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私たちの生命の根源は祖先にあります。日本のおいては祖先とのつながりは私たちの生活に息づいています。「暑さ寒さも彼岸まで」というように、彼岸は春と秋に七日ずつあります。この間にほとんどの人は墓参をするのが、本来日本の習慣です。彼岸の中日には、墓に花や供物を捧げ、祖先の供養をします。ムギワラなど燃やしながら、「ジイサンバアサン、アカリモヨイシ、カエッテオイデ」という意味の唱えごとをするのは、「魂むかえ」という観念で、先祖を大切にする心から習慣となったものです。その他、国民の祝日としての春分の日(自然をたたえ、生物をいつくしむ)秋分の日(祖先をうやまい、なくなった人をしのぶ日)にも引き継がれています。盆や正月には、生きている両親に生魚などを贈って祝ったそうですが、仏教の影響だけでない、日本の古俗として、先祖代々、命がつながっていることを意識していたと考えられます。「全体の中の個」「自然との調和」、そして「先祖との命のつながり」など日本人の道徳的な考え方は、私たちの生活に大きく関係しています。グローバル時代と言われる今日ですが、こうした日本人自身の姿を見つめて、自国の誇りを、単なるおごりではなく、つつしみあるものとしてとらえていくことも大切ではないかと思います。
2004.06.20
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日本人の心のあり方は、日常の習俗の中にも受け継がれていることが多くあります。民俗とは古代から時を超えて、民衆の間に受け継がれてきた、いわば無意識の習慣であり、民間伝承という形をとって、各民族の基層文化を形成する基本要素であるとも考えられます。祭りの心・・・・全体と個私たちは、一年を単位として、ふだんの生活を繰り返しています。日本のおける伝統文化の一端を担っている年中行事や習慣の特色はその節句ごとに祭り祈ってきた神意(精神)が、自分の家一軒だけのものでなく、ムラ全体の共同の祈願であぁたことです。天候のよいことを祈るのは、ムラ全体に関わることなので、そのために、行事や習俗を守り行うことによって、ムラは一致し。社会的秩序が保たれ、それが同時に個々の幸せでもあると考えていました。こうして、日本人は長い歴史のなかで「全体の中の個」という精神につながります。
2004.06.19
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挨拶は日常生活に中では大切なコミニケーションです。家庭・・・職場・・・近所付き合い・・・学校・・・などなど。こんにちは。おはようございます。お元気ですか。いつもお世話になります。今日は良い天気ですね。お疲れ様です。ありがとう。など、毎日人と接する時にはお互いに挨拶からはじまります。挨拶も他人の方には挨拶をするが、以外と家庭の中では、なれあいになっていて挨拶がおろそかになりがちです。ましては、夫婦喧嘩などしていたら、挨拶どころではありません。お互いが意地を張り、プンプン顔になっています。挨拶を最初に交わすのは家族です。その家族の中で挨拶がおろそかになると、家庭は冷蔵庫のように冷たい家庭になってしまいます。「おはよう」という朝のあいさつ、「自分の心を開いて相手に向き合う」ための一言です。まず自分から心を開くわけですから、勇気が必要です。あいさつをする相手に対しては。次の三つの意味を込めた言葉だといえるでしょう。1、相手の存在を認める(あなたは私にとって大切な人)2、相手の幸福を祈る(きょうも一日、どうかご無事で)3、相手との良好な関係を願う(きょうも一日、よろしく)この三つの心であいさつをします。これを習慣にすることです。親があいさつすれば、子どもも必ずまねをします。それが習慣となります。注意すること。あいさつは人のためではありません。以前わたしは朝の早くから近くの駅に清掃奉仕に行っておりました。一番電車の乗る通勤客が階段を登り改札口に向います。ほうきとチリトリを持って階段の掃除をしますが、そのときにあいさつをします。おはようございます。行ってらっしゃい。など、挨拶をしますが、無言で通り過ぎる方もみえます。最初は知らない方に挨拶するのに、はずかしいとか、ていさいが悪い、とかで中々言えませんでした。勇気がいります。でも清掃奉仕を続けていると、向こうから「御苦労様です」「おはようございます」とあいさつが返ってきました。そのようにあいさつ一つで、一日がとても充実した一日になります。よくあることですが、挨拶しても挨拶しない方もいます。おはようございます。無言です。なにあの人。私のプライドが傷ついた。と思い込みます。それを、こちらがあいさつしているのに、挨拶しないとはと、怒っている人もいます。あいさつは、相手がしようと、しないとは関係ありません。これは自分のためにすることで、相手を責めるあいさつなら最初からしないほうがよっぽど楽です。人間関係は以外とささいなことからくずれていきます。
2004.06.17
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私たちは日本と言う国に住んでいます。この日本の歴史や文化に対して感心が高まり、その良さを見直す動きがみられます。ところが、私たち日本人自身はどうかと言われると、以外と日本の良さに気付かないことが多いようです。海外から日本を見る人の方が、良く知っている場合が多く、質問されても返答に困ることさえあります。日本人は礼儀正しい民族と受け取られている。物を大切にするとか、美徳や精神文化を持っている日本人と受け取られている。ところが最近は日本人も海外で過ごす方も多くなった。この文化とか、民族の違いを改めて考えたいと思います。日本人は農耕民族とも言われております。食べ物の主食は米です。穀類・菜食がほとんで、最近は肉食が多くなりましたが、農業が伝統文化の継承を育んできていることが多い。意識的にどうもウツむいてしまう傾向は、農耕民族が関係し、あまり海外のように社交性は乏しい。空間とか察しの世界を大切にする民族でもあります。これは日本建築の構造から、相手の心とか、動作は何も言わなくても感じとっていました。現在でもフスマがある家の場合は、全部取り外すと大きな部屋になります。小さな部屋単位は鍵もかかっていないフスマだけです。その生活空間は誰も侵害しません。寝るときも、お客様がきても、ルールを守っていました。最近の住宅は物騒の世の中になった関係で、全て鍵がかかり、相手の侵入を防いでおります。それと海外様式の住宅になってしまいました。子どもの部屋までが鍵がかかり、親でも中に入れません。家族の単位が個人主義の生活空間になってしまいました。でも意識的にはまだまだ日本人の心は伝承されています。日本人の意識構造とアメリカ人の意識構造の違いがよくわかる事例があります。家族揃って今日はお出かけです。道路を親子で歩いております。子どもと一緒に歩いています。日本人の親は、必ず道路側を歩きます。子どもを交通事故から守るために、無意識に親は行います。そこに突然車が進入してきました。親は驚き、子どもの身の安全を図るために親は子どもを抱き包み座りこんでしまいます。ほとんどの親が行う行動です。そのために、交通事故に遭遇した場合は親子共々怪我をするか、最悪の場合は死亡事故となってしまいます。これが日本人の意識構造となっております。では、アメリカはどうかと言うとこの逆の行動をとります。アメリカ人も親子で道路を歩いて散歩します。当然子どもは日本と一緒でです。突然車が親子の目の前に迫りました。アメリカの親は危険と思い、子どもを突き飛ばします。「安全と思われる方向に」子どもは親からはなれて転んでいます。悲しいが、車の犠牲になるのは親だけで、子どもは助かります。この意識構造はその民族の伝承により無意識な行動となっています。日本人の親は子どもと運命共同とする。アメリカ人は親は親・子どもは子ども。ただそれだけのことですが大きな開きがあります。どちらが正しとか悪いとかではありません。文化、伝統・民族の風習などが、人間の生活に大きなかかわりがあると言うことを表しています。当然幸福のあり方も違ってきますが、世界でも日本の良さを感じとっているのは、海外の人が多いのも不思議ですネ。
2004.06.16
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人間は完ぺきな人はいません。わずか2%をどのように生活の中に取り入れるかだけです。皆さんは生活習慣病はどのように思っていますか。以前は成人病ともいわれましたが、この頃は生活習慣病と表現されるようになりました。糖尿病・心臓病・脳卒中・癌などの慢性病(成人病)はあるひ突然にやってくるものではなく、若い頃からの生活習慣のあり方によって、病気の根がだんだんと広がっていき、ある年齢に達すると症状がでてきます。病気になれば、医師の指示に従い改善します。心の生活習慣病は?心づかいは目にみえません。隠そうとしても隠しきれるものではありません。表情や言葉、態度、行動などに表れ、いつとはなしに周囲にも伝わっていきます。すごい顔つきになる人もいます。怖い~と感じるぐらいです。心づかいは、日々の生活の中で、人を思いやり、優しく慰めるよいはたらきもします。その反面、人をせめたり、傷つけたりという悪いはたらきもします。こうした「心の生活習慣病」が積みかさなって、人生のある時期になると、人間関係を中心に、さまざまな形で問題が表れてきます。今まで問題なく過ごしてきた人が、ある時期になって「どうしてこんなことになってしまったのだろう」「いつ道を間違えたのだろう」「家族も中で自分だけが孤立していた」という言葉をもらすことがよくあります。それは、自分ではなんでもないと思うような日々の小さな行いと、目には見えない心づかいの積み重ねが、人生を形づくっているからです。その時がチャンスです。問題が表れたときこそ、生き方を変えていく最大のチャンスです。決して人生には手遅れはないと確信しています。成功と幸福はこのような小さな積み重ねです。
2004.06.15
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毎日の日常生活の中で、どのような心で暮らし、どのような心で人に接しているでしょうか。毎日の生活習慣が体に影響をおよぼすように、私たちの人生も、日々の小さな行いや心づかいの積み重ねによって大きく変わっていきます。よりよい人生を送るために、「心の生活習慣」を一度振り返ってみましょう。
2004.06.14
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中国の古典「孝経」コウキョウに、「身体髪膚(しんたいはっぷ)、これを父母に愛く。敢(あ)えて毀傷(きしょう)せざるは、孝の始めなり」と言う言葉があります。これは、私たちの体は、毛髪・皮膚にいたるまで、すべて親からいただいたものであって、それを痛めたり、傷つけたりしないように大切に守っていくことが、親孝行の始まりであると言う意味です。私たちは、自分の体はもちろん、内面の心も、父母、されに祖父母、祖先の存在があってこの世に生まれてきたものです。そして生まれてから今日まで、親の深い愛情の中で、はぐくまれてきました。ですから親にすれば、わが子は、どんなに成長しても、わが子です。社会的に高い地位を得て、経済的に豊かになっても、つねに親はわが子のこと、中でも体のことを心配し、気づかう存在です。その意味で、自分の健康に気をつけ、親に安心してもらうことが大切なのです。それが親孝行の第一歩であるといえましょう。実行するも、実行しないのも強制しませんが、本人が決めます。さてどちらの道を歩みますか。
2004.06.13
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幸福の種を蒔く。自然界の働きで地球は万物を生成化育しています。(進化するものと退化するもの)我が家のお米もトマトも胡瓜も南瓜も蒔いた種から収穫します。では成功の種はなんだろうか。動機・目的をはっきりする。何をしたいのかをまず決める。何のためにするのか。社会的に大衆が望んでいることか。そうでないと迷いばかりで先に進まない。あとは条件が重なりあいます。いくらトマトの良い種であっても、アスファルトの上とか、コンクリートの上では芽がでません。一般的な常識ですが、以外とこのルールを守らない企業家もいる。春に蒔く種を夏に蒔いて見たところで、実はなりません。寒い冬に種を蒔いても、芽はでません。この条件が悪いと、なんぼ良い事だと言っても成果はありません。必ず良い種を蒔くには、時と場所と条件が揃わないと結果的には「骨折り損のくたびれ儲け」となってしまいます。良い種を蒔けば、良い結果が現れますが、悪い種もありますので悪い種は蒔かないことです。所が、自分中心的な考えの方は、上記の条件を無視して、勝手気ままな行動によって取り組みます。(俺の種を俺が蒔くのに文句を言うな)など。その結果、こんなはずじゃなかった。と後悔してみても、自分が蒔いた種と思わず、相手のせいにしたり、愚痴と不平不満の心で相手に攻撃します。日常的な生活の中から、準備するものは準備して、時期が来たなら行動に移すだけのことです。難しい問題を解読するのでなく、簡単な自然界の働きに合わせた者が幸福の種をまいております。(自然の法則に合わせる)成功は結果として容として見ることができます。お金とか、物とか、権利とか、目に見える部分を言います。幸福は目に見えない部分を言います。幸福は心のあり方を言っていますので、容としてみえ難いですが、一般的には人格とか品格とか徳とか、品性として表現しています。ですから幸福は一人一人の心のあり方ですので、何が幸福で、何が不幸だと決め付けられません。一人一人の良い種を蒔いた結果、幸福の度合いが違ってきます。種の条件は最初誰でも同じスタートですが、ゴールに近づくに連れて順位が付いてしまいます。これは自然界の働きがそうさせるのであって、別に悲観することでもないのですが、以外と気にして、自分を落とし込んでいる人もいます。毎日・毎日・幸福の種おまこうと、実行と願いを持てば必ず幸福の種も、成功の種も実をつけます。お互いに幸福な人生を迎えたいと思います。
2004.06.12
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人生を生きるうえで「最高のチャンス」があたえられている。よくピンチがチャンスとも言われています。最高のチャンスも自分で開拓する人もいます。自分の周りの方の影響で最高のチャンスを得ている人もいます。中学生の話。愛知県のある中学生です。その子は男性。お母さんは美容院を経営。中学になると男子は段々と学校では番町的存在になる。家庭は裕福であったが、中学生のお父さんは理由があって離婚。母親に育てられた。成績は最初は良かったのだが、段々と勉強しなくなった。ある日の出来事です。授業も終わりに近づき、教室の掃除が始まりました。男子生徒は窓拭きです。女性徒とは雑巾で机えとか腰掛の雑巾ガケです。そこで出来事がおきました。その番長的存在の男子生徒が、女子の雑巾を奪い、その雑巾を女子生徒に投げつけようと、男子生徒は狙いを定めて今にも投げようと態勢をとっていると、そこに校長先生が教室を見回りをするなか、校長先生がその男子生徒が、女子生徒に雑巾を投げる寸前の所に居合わせました。名札を見て、校長先生はその場を立ち去りました。男子生徒も校長先生ではと思い、雑巾を女子生徒に返しました。さて、その翌朝です。毎日朝礼が習慣となっていますので、学生一同校庭に集まり、連絡事項やら、校長先生のお話がありました。その時、校長先生は次の話を全校生徒の前でお話をされました。昨日(きのう)の出来事です。わが校として誇りある生徒を発見しました。その生徒の名は○○君です。皆さんが毎日教室を掃除して、お互いに綺麗な教室にと一生懸命に掃除をして頑張っている姿をみさせていただきました。その中で優秀な生徒○○君は、女子生徒の雑巾を取り上げて、自分が率先して掃除を行う姿を見て私は感動しました。よって○○君を表彰したいとおみますが、皆さんどう思われますか。一同がざわめきはじめました。ある生徒が、それはよいことです。お願いします。と校長先生に発言しました。さて困ったのは、○○君です。雑巾を女子生徒に投げようとした行為。校長先生は、率先して掃除をする生徒の行為。形は同じですが、受取方が違います。もちろん、校長先生は○○君がどのような状況であったかは、わかっていました。これが事実と判断の差です。そのまま校長先生が、○○君をどなりつけていたら、○○君はおそらく一層反抗的な生徒になったと思います。校長先生は育てることの重要性を持っていました。人を育てる教育の重みを実行されました。○○君は表彰されました。その後○○君は生徒会長となり、率先して生徒の身のまわりのことやら生徒に信頼される生徒になりました。校長先生も人を育てる教育をしました。生徒もそれにこたえて、学校全体の指導的立場になりました。形は同じであるけど、行為が自分本位であるか、他人本位であるかでこうも違いがでてきます。やはり、心のありかたで違いがしょうじます。生徒もよくなり、学校もよくなり、校長先生もよかった。この三法が良いと言うことは、三法良法則と言います。自分も良し、相手もよし、第三者も良し。この三法良が理解できれば、表題通り、成功と幸福の原理が理解され、実際その境地になれます。私も努力していますが、なかなか三法となると困難もあります。その困難が「最高のチャンス」といえます。
2004.06.11
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