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人類誕生以来何十万年と人々は「顔の見えるつながり」の中で生きてきました。でも、今ではみんな「顔の見えないつながり」の中で生きています。現代人をつないでいるのは「お金」、「情報」、「法律」、「社会ルール」、「経済活動」などといったような「顔のないもの」ばかりです。ネット経由では顔を見ることが出来ますが、その「顔」は、直接つながることが出来ない「情報としての顔」に過ぎません。そして、コロナ騒動以降、その流れは加速してしまっています。現代社会では、「お金」、「情報」、「法律」、「社会ルール」、「経済活動」などとつながっていれば、「顔が見えるつながり」がなくても生活できるし、生きていくことも出来ます。そしてそういう生活が一般的になることで、「顔の見えるつながり」を、「うざい」、「面倒くさい」と感じる人も増えてきました。でも、昔の人は「人と人のつながり」(顔が見えるつながり)の中にいないと生活できませんでした。だからみんな「村八分」を恐れたのです。でも、現代社会では多くの人が自ら望んで村八分状態になっています。今では、「隣の人の名前も、顔も、家族構成も知らない」などということは普通です。引っ越ししても近所に挨拶にも行きません。実際、今、ご近所に家を五軒建てていますが、引っ越しの挨拶に来たのは一軒だけです。自治会に入らない人も増えてきたようです。家族の間でさえ「顔が見えるつながり」が消えてきています。お父さんもお母さんも仕事、子どもは学校、塾、ゲームに忙しくて、顔を見合わせて一緒に食べたり、笑ったりすることも出来ません。問題は、「顔の見えるつながり」の中にいなくても生活は出来ますが、「子育て」は出来ないということです。子どもの成長を支えることも出来ません。とういうかそもそも結婚相手を見つけることすら困難です。今では「マッチングアプリ」でお相手を見つけるのが一般的なようですが、そこにあるのは「情報」だけです。リアルなものは何もありません。写真も情報も加工できますから。「顔が見えないつながり」の中で結婚相手を探すなんて恐ろしいことを今時の若者は普通にやっているのです。ただ、上にも書いたように子どもの精神、心とからだが生き生きと成長するためには「顔が見えるつながり」が絶対的に必要なんです。だから、子どもたちは群れて遊びたがるのです。「群れ遊び」は「顔が見えるつながり」によって支えられているからです。そして、古来から子どもたちは「群れ遊び」の場で人と人の関わり合いの基本を学んでいたのです。大人の社会は「顔」が見えなくなってきましたが、それでもつい最近まで子どもたちは町の中の隙間を見つけて、顔を見合わせながら群れて遊んでいたのです。でも、その隙間すら大人達に奪われてしまいました。でも、「顔の見えるつながり」を作りたいという本能は人間の根本的な本能なので消えません。だから、「隙間」を探して反社会的な人たちが多くいるような場所に「顔が見えるつながり」を求めてさまよってしまう子もいっぱいいます。そういう場所に集まってくるのは寂しい子どもたちです。そして寂しい子どもたちは必要以上にお互いを束縛し合います。
2026.08.11
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一昨日は、あと問題はゲームです。ゲームやVRなどデジタルの世界の中には、命の世界、人間の感覚、心とからだの世界、子どもの成長のルールなど存在していません。なぜなら、ゲームなどのデジタル世界を支配しているのは、「命が存在していない世界のルール」だからです。という所で終わりました。今日はその続きです。ゲームなどのデジタル世界を支配しているのは、「命が存在していない世界のルール」です。そこでは、物理法則は無視され、死んだ人が生き返り、時間、空間、因果の律は無視され、願えば何でもかなえることが出来ます。「死んだ人が生き返り」と書きましたが、実際にはデジタルの世界の中には生も死もないので、生き返っているわけではありません。そう見えるだけです。まただから、「シネー」とバンバン殺しても罪悪感も感じないし、罪にも問われないのです。問題は「命が存在している世界のルール」を学ぶべき時期の子ども達が、「命が存在している世界」と触れ合う前に、それよりももっと刺激的で面白くて楽しい「命が存在していない世界」と出会ってしまう危険性です。最初に「命が存在している世界」と出会うことが出来た子は、その世界を「自分が生まれてきた世界」として認識し、様々な体験を通して、その世界のルールを学ぼうとします。その世界には、五感を刺激する「音」「触れてくるもの」「味」「匂い」「様々な視覚的な刺激」があります。そして、子どもは「他者」と出会うことによって「自分」を認識できるようになります。五感の働きを通して「他者」に触れることで「自分」を感じることが出来るようになるのです。「自分」という存在を知るためには「他者」という存在が必要なんです。また、それら五感の働きは「外の世界」を感じるためのものですが、そのような「外の世界の刺激」は心やからだといった「自分の内側からの反応」を引き起こすので「体内からの感覚」を感じる能力も育ちます。「美しいもの」を見れば気持ちが良くなり、「醜いもの」を見れば気持ちが悪くなったりしますよね、五感からの全て刺激に対してそういう反応が起きるのです。ただし、それらの「内側からの感覚」を感じ取る能力が育つためには、感じたことを何らかの形で表現する必要があります。「味覚」が育つためには、「他者と味覚を共有する体験」や「自分が感じた味」を言葉などで表現する必要がある言うことです。「美味しいね」「甘いね」「いい匂いだね」と顔を見合わせながら味わうことで「味覚」が育つのです。だから、味覚には文化差があるのです。肉体の機能としての感覚能力は生まれつき備わったものですが、文化としての感覚能力、たとえば雲を見て「モクモク」と感じたり、風に触れて「ソヨソヨ」と感じたりするのは文化としての感覚能力です。モンゴルの人たちは馬を見分ける能力に非常に優れているそうです。日本人は動物の死体を見ると不快感を感じますが、それを感じない文化圏の人たちもいっぱいいます。殺し合いに嫌悪感を感じる人は多いですが、逆にワクワクする人もいます。というようなことを見ていくと、幼い子ども達が「命が存在している世界」と出会う前に「命が存在していない世界」と出会うことの問題点と危険性が山のように見えてくるのです。ゲームをやったり、ユーチューブなどの動画を見たりしても「音」と出会うことは出来ます。でも、その「音」は「自然界の音」つまり「命が存在する世界の音」とは全く異なります。タブレットが自然の風景を写しだし、自然の音を流してもそれらは全く「自然」ではありません。タブレットの中の風景の中には「空間」がありません。そのため、映像に映し出されている空や木と自分が、空間を共有することが出来ません。ただ、「情報」として見ることが出来るだけです。「音」も目の前にある小さなスピーカーから出てくる、デジタル化された音しか聞くことが出来ません。その音もまた空間を含んでいません。でも実際に森の中に入れば、「からだ全体を包むような音」を体験することが出来ます。自然の中で自然な音を聴いて育った人は、その違いが分かります。また、スピーカーからの音を聴いても、自然の中で聴いた音を想い出しながら聞くことが出来ます。スピーカーから流れてくる風の音を聞きながら、風に揺れる木々をイメージすることも出来ます。でも、最初からスピーカーを通してしか「自然の音」を聞いたことがない子にはそういうことが出来ないのです。スピーカーから流れてくる音だけが情報の全てだからです。でも、子どもたちが何を見て、何を聞いて、何を感じているのかということは子どもたちを見ているだけでは分かりません。それを、絵を描いたり、詩を書いたり、歌や踊りで表現させてみた時に、初めて子どもが何をどのように聞き、何をどのように感じ、何をどのように見ているのかが分かるのです。「命が存在していない世界」からやってくるのは全て「情報」に過ぎません。そこにリアルはありません。そしてリアルがない世界に囲まれて生活していると、子どもは自分の心や、からだや、命にもリアルを感じなくなります。自殺してしまう子どもたちは「命のリアル」「死」のリアルを知らないのでしょう。ちなみに阿蘇山は自殺の名所として知られているそうですが、飛び込んでも火口の下の段に引っかかって助かってしまう人も多いそうです。でも、そこから再度飛び込む人は滅多にいないそうです。実際に飛び込むという表現行為を通して、「命のリアル」や「死のリアル」を知ってしまうからなのでしょう。
2026.08.10
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昨日は、「成長」には大きく分けて二種類あります。「適応する」という形で進行する「受動的な成長」と、自分の意志や好奇心で進行する「能動的な成長」の二種類です。という中の、「受動的な成長」について書きました。「受動的な成長」は、「他者とのつながり」の中で成長するものであるが故に、「他者とのつながり」における自由をもたらしてくれます。それは、人の気持ちを理解したり、自分の気持ちを伝えたり、一緒に生活したり、常識や生活を共有する能力の成長です。ですから、この成長がちゃんと進んでいる子は、一人前の社会人として生きて行くことが出来ます。逆に、この成長が阻害されてしまっている子は、自分勝手に考え、自分勝手に感じ、自分勝手に行動するようになるため、社会から受け入れられなくなり、一人前の社会人として生きて行くのが困難になります。その場合、「悪いのは自分ではなく、社会の方だ」と考えます。そういう風にしか考えることが出来ないのです。そして、そのような状態の人は、「社会の中」に自分の居場所を確立することが困難なので、小さく自分だけの世界を作って、その中に自分の居場所を作ります。「オタク」や「引きこもり」と呼ばれる状態もその結果生まれたものだと思います。それに対して、自分の好奇心や意志に基づく「能動的な成長」の方は、「個人としての自己実現」の可能性を高めてくれます。この「能動的な成長」において優れている子の中には、他の人には出来ないような能力を開花させる子もいます。そのような子は、「受動的な成長」において劣っていても社会の方がその子の能力を必要としているので、積極的に「居場所」を用意してくれます。自分勝手な人間でも、「社会が必要とする能力」を持っているなら、それなりに社会の中で生きて行くことが出来るわけです。ただし、家族であろうと、友人であろうと、有効な人間関係を築くのが困難なため、人間関係において様々なトラブルを抱えて生きることになります。本人はそれで良くても、その人を受け入れることで周囲は大変な状態になります。ですから、「能動的な成長」だけでは不十分なのです。「受動的な成長」は、子どもが周囲に合わせることで進行していきます。(発達障害の子はこれが苦手です。)それに対して、「能動的な成長」の方は、周囲が子どもの能力や特性に合わせることで進行していきます。つまり簡単に言うと、周囲の大人が「その子らしさ」を肯定することで、その子は「能動的な成長」を進行させることが出来るということです。社会人として一人の人間が生きて行くためには、「みんなと同じであること」が非常に重要です。そうでないと、他の人とコミュニケーションをとることも出来ません。でも一般的に、多くの人が、それだけでは何か満たされないものを感じます。人間には「私は私らしく生きたい」という本能があるからです。その、私が私らしく生きるために「能動的な成長」が必要になるのです。「受動的な成長」は「社会の中での自由」を与えてくれますが、「能動的な成長」は「自分の心とからだの自由」を与えてくれるのです。実は、「成長する」とは他者や自分自身とのつながりの中で「自由になること」であり、「老化」とはその「自由を失うこと」なのです。どんなに知識や技術を得ても、それがテストのためだけで、その人を自由にする力になっていないのなら、それは「成長」ではないのです。最後になりますが、「受動的な成長」は環境を整えることによって、「能動的な成長」はその子らしさを肯定することによって成り立ちます。子育てや教育においてはこの両方の視点が必要になります。そしてそれ故に、密室の中に閉じ込められ、親に否定されて育っている子は、この両方の成長が萎えてしまいます。そのような状態の人は、まずその密室から外に出て下さい。すると「新しいつながり」が生まれます。変化はそこから始まります。
2014.06.10
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最近、学校に行けない、学校に行かない子ども達が増えてきました。そのような子ども達にも、大人が用意した「何年何組」という居場所はちゃんとあります。ではなぜ、学校に行けない、もしくは行かない子ども達が増えてきたのかというと、「大人が用意した場所」はあっても、その子と、他の子ども達や先生との間に「つながり」がないからです。「場所としての居場所」はあっても、「つながりの中の居場所」がないのです。それが昨日書いた「心の居場所」です。だからクラスメイトがいても、独りぼっちなんです。つながっていないので、感覚や感情や行動の共有も出来ません。先生の指示に従ってみんなと同じことをしても、それは「みんなと一緒にやった」のではなく「先生の指示に従った」だけのことです。さらに、つながりのない相手からの干渉や束縛もあります。そういう状況の中で、子どもが「ここは自分の居場所ではない」と判断するのは自然な結果です。子どもが「ここは自分の居場所だ」と感じるためには、「その場所」や、「その場所にいるもの達」とのつながりが必要になるのです。「森」とつながれる子は「森」が居場所になります。「本」とつながれる子は「本の中」が居場所になります。昔の子ども達は自分の意思で、「楽しく遊ぶため」という目的を共有しながら神社の境内や野原での遊びに参加していました。また、伝承された様々な遊びも共有していました。だからつながれたのです。そして、つながれたから「群れ遊びの場」が「自分の居場所」になったのです。また「つながり」があったから、ケンカなどのトラブルも自分たちで解決できたのです。今、「子どもの居場所を作ろう」と熱心に活動している人もいっぱいいます。それは素敵なことです。でも、いくら素敵な「場所」を作っても、そこに「子ども同士のつながり」が生まれなければ、子どもはそこを「自分の居場所」として受け入れることはしないのです。その場所にオモチャやゲーム機や本をいっぱい用意しておけば、そういうものが好きな子はその場所が気に入るでしょう。親も、「うちの子はここが気に入ったみたいです」と言うかも知れません。でも、そのような場は「子どもの育ちを支える場」ではなく、「親を安心させるための場」です。当然、子ども同士の「つながり」も生まれません。また、最近の子は、幼いときからオモチャや、ゲーム機や、テレビや、タブレットなどで一人で遊んでいることが多いので「他の子とのつながり方」を知りません。だから気に入ったオモチャがあると「一緒に」とか「順番っこ」が出来ずに奪い合いになります。小さい子や、力の弱い相手に対して加減するということも出来ません。弱い者を助けるという発想もありません。大きい子も手加減なしに、小さい子とムキになって張り合うとするのです。「この子はまだ小さいから特別ルールにするね」と言うと「ズルイ」と言います。また、他の子が嫌がるようなことも平気でやったり、みんなが迷惑するような大きな声で騒いだり、ガタガタやって騒音を出したりもします。自分に注目させようとして過激なことをやる子もいます。でも、本人に悪気はないのです。相手が困っていることも分かりません。それがその子にとっての普通だからです。そういう状態が一番苦手なのは「つながる楽しさを知っている子」です。「つながる楽しさ」を知らない子は「つながり」の中に居場所がなくても気にしません。みんなで一緒に騒げればそれだけで楽しいのです。まただから、子どもたちが楽しくつながり合えるような保育をしていた幼稚園や保育園を出た子の方が、学校に居場所を見つけにくくなってしまうのです。プレイパークのような場では、プレイリーダーと呼ばれる人が、そんな「つながり方」や「つながる楽しさ」を知らない子ども達に、「遊び」を通して「つながり方」や「つながる楽しさ」を伝えようとしています。火や刃物といった「危険なもの」も使わせます。大きな声で騒いだり、危険な行動も度を超さなければ許容します。でもそれ故に、住宅街の中でそのような活動をするのは困難です。友人達がやっている茅ヶ崎での活動でも色々なトラブルがあるようです。火を使う、刃物を使うということに対して否定的な人もいます。横浜にはプレイパークが結構ありますが、そういうものがない地域も多いです。というか、ない方が圧倒的に多いのではないでしょうか。作ろうと活動している人もいますが、地域や役所の理解を得るのが困難なようです。また、そのような活動をするためには適度な自然も必要です。横浜にあるプレイパークは、みんなそれなりに大きな公園の中にあります。あと、プレイリーダーの給料は安いです。娘が横浜市のプレイリーダーをやっていましたから。私は、子ども達のつながりを作るためには、まず大人達のつながりを作るとこから始める必要があると考えています。子ども達がケンカを通してつながり、学ぶことが出来るためには、大人達の間に、ケンカを許容できるつながりが必要だからです。ですから私は「子どもの居場所」を作るのなら、ちょっと遠回りして、価値観を共有出来る人たちと「大人の居場所」を作るところから初めた方がいいのではないかと思っています。
2026.06.26
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自覚しているかどうかはともかくとして、子育てをしている多くの親は、我が子に対して何らかの期待を持っています。例えば、「優しい子に育ってほしい」、「良い子に育ってほしい」、「自立した人間に育ってほしい」、「スポーツが得意な子に育ってほしい」、「勉強が出来る子に育ってほしい」、「強い子に育ってほしい」、「かっこいい子に育ってほしい」、「賢い子に育ってほしい」などなどです。子どもに対して何にも期待しないで子育てをしている人の方が少ないのではないでしょうか。そして、実際の子育てにおいても、その期待に沿って子どもに言葉かけをしたり、子どもを励ましたり、子どもを追い立てたり、子どもの遊びや生活の環境を整えようとしています。ですから、そのお母さんが子どもにどのような言葉かけをして、どのようなことに追い立てているのかを見れば、そのお母さんが子どもに何を期待しているのかを知ることが出来ます。本人が自覚していなくても、周囲の人には分かるのです。私の場合は、今思えば「賢い子に育ってほしい」だったのではないかと思います。ただし、子育てをしている最中にはそんな自覚はありませんでした。「今、振り返って思えば」ということです。だから勉強にも追い立てませんでした。「学校の成績」と「賢さ」は関係がないからです。「優しさ」も強制しませんでした。「優しさ」は「賢さ」の表れに過ぎないからです。「優しくしなさい」と言わないと優しくできないのは「優しい子」ではないのです。「良い子」も求めませんでした。大人や親の言うことに従うだけの子は「賢い子」ではないからです。「自立」も強制しませんでした。「精神的自立」もまた「賢さ」の結果に過ぎないものだからです。子どもに「自分らしく生きる」ことを望むのなら、「自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の意思と判断で行動することが出来る賢さ」を育てることが必要になります。じゃあ、私は何をしたのかというと、山のように読み聞かせをしました。仲間や自然と出会わせました。色々なところに連れていき、色々な大人と出会わせました。モノや道具に依存しない色々な遊びや活動に子どもたちを誘いました。「そのような関わり合いで育つ何か」を期待していたからです。今思えばそれが「賢さ」ということだったのではないかということです。じゃあ、その「賢さ」ってなんなのか、ということです。私はそれを「相手の立場に立って考える能力」と考えて、このブログに書こうと思っていたら、ちょうど「賢さ」について書いた記事と出会いました。それは「ナゾロジー」というサイトの以下の記事です。「賢い」と思われる人の条件は相手を思いやれること!11カ国で共通以下はここからの抜粋です。「賢い」と思われる人には多くの国で共通する特徴があったようです。カナダ・ウォータールー大学(University of Waterloo)の研究チームは最近、11カ国における約2700名の参加者を対象に「どういう人を賢いと思うか」を調査。その結果、どの国でも「内省的で論理的に思考し、他人の感情を思いやって気遣うことができる人」が最も賢い人と捉えられていました。研究の詳細は2024年8月14日付で科学雑誌『Nature Communications』に掲載されています。どうやら、私が「賢さとは何なのか」と考えていたことは、私一人の思い込みではなかったようです。ここではっきりしているのは、どの国でも、「成績が良いこと」を「賢いこと」とは認識してないということです。世界中で多くの人が、「賢さ」とは「相手の立場に立って感じ、考え、判断する能力」と考えているということです。それは、そこが「人間らしさの根幹」だということなのでしょう。ただし、「賢さってなにか」ということが分かっても、実際にそれを育てるのは至難の業です。なぜなら、「賢い子ども」を育てるためには、親もまた賢くなる必要があるからです。ただし、潰すのは簡単です。子どもが感じていること、子どもが考えていること、子どもがやりたいこと、子どもの成長に必要なことを無視して一方的に親の期待を押し付ければ、「賢さの育ち」を簡単につぶすことが出来ます。でもそれを止めるためには、親自身が自分の人生を自分の意志で生きる覚悟が必要になります。
2024.08.31
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気質は素質や能力のようなものですから、それ自体に善し悪しも、善悪もありません。それは人間には「考える能力」があるのと同じです。人間は考える能力を使って武器を作り、環境を破壊し、戦争をします。でも、その一方でその能力を使って、科学を発達させ、人や、動物や、地球を救おうともしています。これを、「考える能力は武器を作る能力だから、悪い能力だ」と言ってしまうのはナンセンスです。問題なのはその能力の使い方なのであって、その能力自体ではないからです。傘は、雨の時に濡れないように、身を守るための道具ですが、それで人を殺すことも出来ます。だからといって、「傘は危険だから」と傘を禁止してしまうのは、問題のすり替えに過ぎません。でも、実際には多くの人が本質を見ないで、すり替えで見かけだけを誤魔化そうとしてしまいます。ナイフでケガをしたり、人を殺したりする人がいると、ナイフは危険だからといって禁止します。木登りをして木から落ちてケガをする子がいたら、木登りを禁止したり、木を切ってしまったりします。今、ハサミですら「あぶない」と言って使わせないお母さんも増えています。実際、幼稚園児や、時には小学生でもハサミがちゃんと使えない子がいます。それは人間が長い歴史の中で獲得してきた能力を否定することであり、人間の活力を奪うことにつながってしまいます。子どもの遊びから危険を取り去ったら、子どもはその活力を失います。危険がある状況の中で、どのように行動したらいいのか、その能力をどのように使ったらいいのか、自分の行動や能力がどのような危険とつながっているのか、ということをしっかりと学んでいく過程で、子どもは自分の能力の意味と使い方を学び、その能力をみんなのために使うことが出来るようになるのです。子どもにとっては、様々な危険を克服する過程がそのまま能力の獲得の過程なのです。それは「ケンカ」も含めてです。コマ回しですら、時として非常に危険です。他の人に対する「優しさ」や「思いやり」は危険な状況の中でその意味を持ってくるのです。危険を取り除いた状況は人工的で不自然な状況です。でも、人間の能力の多くはその危険に対応するために進化してきました。それは、全ての生き物に共通する事実です。全く安全な状況の中では、人間や動物はその能力を使う必要がありません。そのため、それが幼い子どもであれば、その能力が育たないまま成長することになってしまいます。でも、多くの人がそれでも構わないと考えているようです。現代人の生活は、安全に囲まれているので危険を回避する能力は必要がない、ということです。そして、万が一、事故にあったら、相手を告訴したりしてその危険な要素を取り除けばいいだけのこと、と考えています。でもそれでは、子どもたちは狭い檻の中の動物園の動物たちのように、無気力になってしまい、そして、やがて人類は退化していくでしょう。「用意された安全」は「檻」と同じ働きをするのです。安全な時代、安全な社会に生きていても、子どもたちは自分で自分の身を守り、仲間を守る能力を育てる必要があるのです。そうでないと脳が活性化しないのです。(身を守るのは腕力だけではありませんからね。本来、五感の全てが身を守るための道具です。)だから、安全な社会の中で生きているのに、戦争や戦いにあこがれる子どもがいっぱいいるのです。男の子が大好きなゲームの大半も戦いものなのではないでしょうか。これは脳が要求する本能なので否定するだけでは無意味です。大切なことはその本能を満たし、その正しい使い方を教えてあげることです。「ゲームの中だけなら安全」と思っていると、そのうち大変なことになります。ここで大切になるのが、「平和を願う人間としての価値観」を育てることです。ナイフの使い方を教えるだけでは、自分がケガをしなくなるだけのことです。意識的にそのナイフが他者に向けられる時、それを抑制するのはその「ナイフの使い方」ではなく、「人間としての価値観」です。これはセットにして子どもたちに伝える必要があります。そうでないと危険は増えます。核の力を兵器に使おうとするのも、平和のために使おうとするのもその価値観の違いです。核の力を危険なものにするか安全なものにするかは、その「平和を願う人間としての価値観」を構築できるかどうかにかかっているのです。これを、「核を無くせばいい」と考えるのは現実的ではありません。「平和を願う人間としての価値観」を共有できない国が、その指示に従うわけがないからです。そして、そのような「危険な国」が核を持っていれば、他の国もそれに対抗して核を持たざる終えません。兵器としての核を無力化するためには、世界レベルで「平和を願う人間としての価値観」を構築する以外に道はないのです。でも、今だかつて人類はそのような価値観を手に入れたことがありません。今まで存在してきたのは「仲間の中(身内)だけ平和にする価値観」だけです。それは宗教でも同じです。人間は地球をも滅亡させることが出来るような強大な能力を得てしまいました。ですから、その能力をコントロールするためには、それをコントロールするための価値観が必要になります。しかもその価値観は人類レベルでなくてはなりません。身内を守るだけの価値観では核の危険性は消えないからです。その価値観は利害や損得とは無縁のものである必要があります。また、みんなが求めているものである必要もあります。そうでないと押しつけになってしまうからです。さらに、その価値観は幸せや喜びにつながっている必要があります。そうでないと他の人や子どもたちに伝えることが出来ないからです。古来からこれは宗教が担ってきた役割です。でも、何かを信じなくてはいけない宗教は、他の何かを信じている人たちを否定することになってしまいますから、世界標準の価値観にはなり得ません。科学はただの道具であって、価値観として使うことは出来ません。もっと人間性と密着につながったものでないと「価値観」として機能しないのです。それに一番近いものとして私が考えているのが「芸術」なのです。ただしこれは美術や音楽などのような「ジャンルとしての芸術」ではありません。芸術家のように物事を見て、感じて、考えて、関わろうとする感性や態度を大切にする価値観ということです。それは、人間や動物だけでなく、全ての物や出来事の中にも「生命の働き」を感じようとする価値観です。それは宗教以前の宗教です。そして、子どもたちの感性や価値観がそのお手本になってくれると思います。
2009.08.16
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ちょうど今日書こうと思っていたことを科学寅さんが昔は、科学は権力の無い者のの味方だったんですけどね。私は、現代の科学ではない、もっと前の科学を科学と言っているんだなあって、あらためて思いました。と、コメントして下さいました。これは多くの人が勘違いしていることです。多くの人が「ノーベル賞などの話題の時に出てくる科学」、「新聞などで紹介される最新科学」、「教科書に出てくる科学」などを「科学」だと思い込んでいます。だから、高尚なもの、難しいもの、手が届かないもの、自分たちとは無縁のものと感じているのです。これは「芸術」についても全く同じことが言えます。私が絵描きを目指していた若い頃、自己紹介で「絵を描いています」というと「それは高尚なことをやっていますね」と反応する人が少なからずいました。なぜそういうことになってしまっているのかというと、日本の科学や芸術は、もともと欧米から「出来上がったもの」を輸入する形で始まったからです。つまり、「自分たちで作るもの」として始まったのではなく、「買ってくるもの」「真似をするもの」として始まったのです。(民主主義も・・・)だから、自前のものより、欧米から輸入したものの方が高尚だという根強いコンプレックスがあるのです。でも、もともと科学も芸術も単なる遊びに過ぎないのです。科学は知性の遊びであり、芸術は魂の遊びです。それは「役に立つもの」として始まったのではなく、単純に「楽しいから」始まったのです。ずーっと長い間、科学も芸術も「役に立たないもの」だったのです。でも、産業革命以降、科学が産業と結びついてしまったため、現代の科学は「役に立つもの」としてしか認識されていません。文科省が「このまま科学離れが進んだら大変なことになる」と考えるのも、それは科学が産業の基盤だと考えているからです。つまり、文科省が子どもたちに求めているのも、「役に立つ科学」だということです。そしてそれは、日本だけでなく世界中で起きている意識の変化です。現代では、それだけ強く「科学」と「産業」が結びついてしまっているのです。でも、「役に立つ科学」は科学本来の姿ではありません。「遊びとしての科学」こそが科学本来の姿なんです。人間はその遊びを通して「科学」を手に入れたのです。でも、その「科学」が産業や戦争に使えると分かった時、人々は「産業や戦争のための科学」を目指すようになってしまいました。それが「役に立つ科学」です。そして、科学が「遊び」ではなくなってしまいました。その結果、科学は「民衆のもの」から「企業や国家のもの」になってしまいました。「遊びとしての科学」には「科学館」や大きなイベントなど必要ありません。家の中でも、お風呂の中でも、公園でも、森の中でも、どこででも遊べます。それが「遊び」というものです。(芸術も同じです)ブログつながりの寅さんやモアイさんはそんな遊びの名人です。科学が嫌いな子は「遊びとしての科学」を知らない子です。そんな遊びの楽しさを、どうやって子ども達に伝えるか、それこそが今一番大切な問題なのです。そのためには、教科書なんかいりません、テストなんか有害です、ただその楽しさを教えてくれる大人と、その楽しさを共有する仲間がいればいいのです。科学や芸術がまた、「役に立つもの」ではなく「楽しい遊び」に戻った時、人々の心はイキイキとしてくるのではないでしょうか。
2009.08.28
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私は障害を持っている人や貧しい人、教育を受けることが出来ない人などいわゆる「弱者」と呼ばれる人たちを見て「可哀想」などと思ったことはありません。姥捨て山伝説の中で捨てられてしまうおばあさん達の事でさえ可哀想などとは感じません。ただ、「生きるのが大変だろうな」と感じるだけです。インドを歩いていた時、多くの手や足が切られた子どもたちと会いましたがそれでも、可哀想という感情は感じませんでした。またもし、自分が病気やけがなどで障害を持つようになっても、また破産して路上で暮らすようになっても決して自分を「弱者」などとは思わないでしょう。可哀想などと思って欲しくないでしょう。でも、そんな私でも「可哀想」と感じることもあります。それは、恐怖と絶望と孤独から逃れることが出来ない人を見た時です。つまり、「希望」を失った人たちに対してだけは「可哀想」と感じるのです。どんなにお金がなくても、重度の障害を持っていても「希望」を持って生きることは可能です。手が動く、声が出る、生きているということでさえ「希望」になりえるからです。また、自然や宇宙とつながった生き方をしていれば道ばたの花が咲くことでさえ希望になりえるのではないでしょうか。私は、「希望を持って生きることが出来る」ということこそが「自由に生きる」ということなのではないかと思っています。束縛や不自由がないことが「自由」なのではなく、どんな状況の中でも希望を失わないで生きることが出来ることが「自由」だということです。そして、それこそが「人間としての尊厳」を支えるものなのではないかと思っています。ですから、「自由への教育」と呼ばれるシュタイナー教育は「希望を育てる教育」と理解しています。「自由にさせる教育」ではないということです。見ることが出来るようにする、感じることが出来るようにする、考えることが出来るようにする、行動することが出来るようにする、繋がることが出来るようにする、自分を肯定出来るようにする、そういうことが希望と自由を育てるのです。これは障害の有無に関係ありません。障害を持っている子に対してでも希望を育てる教育は出来るのです。するとどんな障害を持っている子でも自由になることが出来ます。それが障害児教育の目指すべき方向なのではないかと思います。いや、全ての教育が目指すべき方向なのでしょう。私は、「強者」とか「弱者」という考え方が理解出来ません。そういう考え方で人間を区分けすることは差別だと思っています。また、自分で自分のことを「弱者だ」と言い、一方的に権利を要求する人は「希望を失った寂しい人」だと感じています。でも、確かに「手助けを必要とする人」はいます。そして同時に「手助けをすることが出来る人」もいます。これは、どんな時、どんなところにも存在する人間関係です。でも、その人間関係は固定されていません。ある状況ではAさんは「手助けを必要とする人」で、Bさんが「手助けをすることが出来る人」であっても、別の状況ではこの関係が逆転することもあり得ます。この関係を昔の人は「おたがいさま」と呼びました。「おたがいさま」の人間関係の中には強者も弱者も存在していません。ここにも「ジャンケンルール」が働いています。でも、現代の「強者」と「弱者」の関係は逆転しません。関係が一方的なんです。だから弱者は要求するばかりになってしまっているのです。そして、要求するばかりだから弱者という立場から抜け出すことが出来ないのです。それは非常に不自由な状態です。自分を弱者だと思い込んでいるお母さんは子どもに対してでさえ「弱者である自分」と「権利」を主張します。「なんであんたは私を困らせるの」、「なんでお母さんの仕事を増やすの」、「どうしてもっと静かにしていてくれないの」、「何で言うことを聞いてくれないの」と子どもに要求しているお母さんはいっぱいいます。そういう人は、自分はいつでも被害者なのです。実際、自分を「被害者」と考える人はいっぱいいますが、「加害者」としての自分を認識している人は多くありません。そして今日本では、権利を要求するだけの「被害者」がどんどん増えています。****************************<気質の一言>(2)気質には「多血質」「胆汁質」「憂鬱質」「粘液質」の四つの基本要素があります。ただし、これらは色に例えると「原色」にあたるので、普通の人の気質はこれらの要素が混ざった状態として考えられています。多血質の人は感受性が豊かな感情を持っています。胆汁質の人は強い意志と強い感情を持っています。憂鬱質の人は不安定な感情と深い思考力を持っています。粘液質の人は安定した感情と冷静さを持っています。
2009.05.31
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以下は「ももさん」からの質問です。今日は、この質問にお答えしながら色々なことを考えてみたいと思います。私は妊婦でもうすぐ出産予定です。夫の給料がとても少ないことと、実母が独身で老後援助が必要になることを心配して、生後7ヶ月で保育園に入れて私が働くことを考えています。シュタイナー関連書を読んでも、それは「いけないこと」と言われるので、悪いこととはわかっているのですが、怖くて仕事を辞めることができません。ゆっくり産休をとったら仕事に復帰できるかわかりません。私の同世代の女性たちは、夫が高収入の人は専業主婦でそうでないひとは早くから保育園に入れて働くか、あるいはギリギリの生活で将来の子供の教育費や老後の資金が不安な状態で子育てすることになります。すると今度は子供に老後迷惑をかける心配もでてきます。夫が失業した場合はイライラして虐待の危険もあります。どうすれば子供にあわせ、かつ金銭面でも不安なく子育てできますか?私の仕事はSOHOなので、時間のやりくりをすればなんとか自宅で育児できるのでしょうか?なにか読んだほうがいい育児書などがありましたなら教えてください。まず、今のももさんの不安を解消するために役立つような育児書など存在していません。なぜならこれは「子育ての問題」ではなく、ももさんの「生き方の問題」だからです。それとシュタイナー教育関係の本や、その他の育児書になんと書いてあろうと、今の自分に出来ないことは気にしないことです。そうではなく、そのような本の中から「今の自分にでも出来ること」を探して実行すればいいのです。(シュタイナー教育は正解を押しつけるような所があって、それが欠点です。)その時、たとえちょっとのことしか出来なくても「今の自分に出来ること」を見つけ、実行しているうちにその「出来ること」の範囲が広がっていくのです。そうすれば、少しずつでも成長していくことが出来ます。でも、「出来ないこと」ばかり気に病んでいると、何も出来ないままになってしまうため、少しも成長することが出来なくなります。それと、今のももさんは非常に不安が強い状態です。個人差もありますが、それは妊婦の生理的な現象の一つでもあります。人類が人類になる以前からつい最近に至るまで、妊娠と出産と子育ては死の危険と隣り合わせでした。それは他の生き物たちも同じで、全ての生き物たちは、他の生き物に襲われる危険、出産のトラブルによる危険を乗り越えながら子どもを産み、育ててきたのです。人間だけが文明を持ち、他の動物に襲われる危険性は低下しましたが、出産のトラブルは減っていません。むしろ増えているような気もします。昔の女性達は、赤ちゃんを産む時「白装束」を身につけたと聞きます。「白装束」とは死んだ人に着せる衣装のことです。つまり、女性にとって赤ちゃんを産むと言うことは、「死」を覚悟するような出来事だったのです。そのため、妊娠と出産と子育て中の女性は、非常に神経質になるのです。そして、危険や不安に敏感になります。そうやって子どもと自分を守ろうとしてきたのです。これは人間以外の動物でも同じです。遺伝子の中にそういう本能的無意識が書き込まれているのです。ですから、今のももさんも妊娠以前よりもかなり不安が強くなっているはずです。その強い不安は子どもがオッパイを離れるまで続きます。その後も不安は続きますが、子どもの成長と共に少しずつ弱くなっていきます。そのように不安が強い状態の時には冷静に考えることが出来ません。ですから、今はあまり多くのことを考えない方がいいです。また、考えても無駄です。それよりも、今ももさんが考えなければいけないことは、もうすぐ産まれてくる「お腹の中の赤ちゃん」のことです。将来のことばかり考えて、今のことを考えなければ、「将来」はやって来ないのです。逆に、毎日毎日をしっかりと生きていれば、ちゃんと将来はやってくるのです。赤ちゃんにとっての幸せは「お金」ではありません。お母さんが安心して、ゆったりしていることです。お母さんの不安はすぐに子どもに伝わり、子どもも不安を感じるようになります。と書くと、余計に不安を感じてしまうかも知れませんが、ですから今は自分の心とからだのケアに専念して、心とからだを落ち着かせることです。どっちみち今は何も出来ない状態なのですから、ジタバタしないことです。もっとも「何も出来ない状態」だからこそ、不安が強くなっているのですけど・・・。(セルフケアに関しては明日書きます。)そして、自分の生き方、自分の人生、自分の価値観、自分がやりたいことをゆっくりと考えて見て下さい。ももさんにとって「大切なこと」、「守りたいこと」は何なのですか。その時、お金のためだけに生きる人生は選ばない方が身のためです。そうではなく、自分が出来ること、自分がやりたいことの延長でお金を稼ぐことが出来る方法を考えるのです。「持っていないもの」を嘆くのではなく、「持っているもの」を大切に活用するのです。私は30才の頃に絵描きになる夢を追って、仕事を辞め、ヨーロッパやインドの放浪に出ました。その時、「お前はドンキホーテだ」「仕事を辞めてどうやって生きていくつもりだ」「人生を甘く考えている」などと、友人達が忠告してくれました。最初パリに行き、安宿に入ると、その壁に日本語で「豊かな青春 みじめな老後」と落書きが書いてありました。それでも、やりたくないことに縛られ、不平不満をいながら窮屈に生きていくよりは、たとえ夢の半ばで野たれ死んでも、自由な人生を生きる方がずーっといいと思ったのです。だって、たった一回きりの「私の人生」なのですから。「死」は誰にでも訪れます。ですから死ぬこと自体は怖くありません。私にとって怖いのは「ちゃんと生きることが出来ない」ということの方なのです。そのように、私は「私が出来ること」「私がやりたいこと」を追い求めて生きてきました。結果として「絵描き」にはなれませんでしたが、でもこれも「やりたいこと」を追い求めてきた結果ですから後悔はしていません。そして今年で60才になりますが、素敵な子ども四人に恵まれ、色々な人や神様に助けられ、今でもちゃんと「豊かな青春」の延長のまま、夢を追いかけて生きています。それと私は先生運がいいので、何人もの本当に素晴らしい先生と出会ってきました。その中の一人の先生が「人のために生きなさい。人のために生きていれば、贅沢は出来なくても食べるだけはなんとかなるものです。」と教えて下さいました。その先生は実際そのように生きている人でした。まだまだ私はそこまでの生き方は出来ませんが、でも、この言葉を忘れたことはありません。***********************以下は絵本の講座のお知らせです、日がないのですが集まりが悪いのでご興味ある方はご参加下さい。あまりに集まりが悪い時には中止にします。●「物語の力と声の力」(お母さんのための絵本講座)素話や、読み聞かせや、様々な子どものための活動をなさっている友人の大畑真由美先生をお呼びして絵本の講座をします。どんな本を選んだらいいのか。読み聞かせをする時にはどんなことに注意したらいいのか。子どもの成長にとって「絵本」はどのような意味を持っているのかお母さんの声は子どもの心にどのように働きかけるのか。などをお話しして貰います。日 時: 4月25日(月) 10:00~11:30 乳児は同伴可能ですが、歩き回る年齢の子どもは同伴不可です。参加費: 1000円会 場: ネスパ茅ヶ崎5F B・C創作室茅ヶ崎駅の改札を右側(北側)に出て、そのまま階段を降りずに、左側に行きます。すると、「ネスパ茅ヶ崎」という建物の3Fに直接入ることが出来ます。一階が「長谷川書店」という本屋さんです。
2011.04.21
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どんな生き物でも同じですが、生きるためには自分の周囲の環境とつながる必要があります。というか、どんな生き物でも常に全体とつながっていないと生きて行くことが出来ないのです。それは私たちの身体を構成している細胞が単体では生きることが出来ないのと同じです。全ての命あるものは、からだの中の細胞のように、つながり合い、支え合い、循環しあってさらに大きな生命体を構成していているのです。私たちはみんなその「大きな生命体」の一部なんです。「他者から切り離された生命体」というのも存在しないし、「他者から切り離された私」というのも存在しないのです。そのつながりを無視して「オレがオレが」と自分勝手なことをしているのがガン細胞です。でもそのガン細胞でさえ、自分を支えてくれていた全体が崩壊するときには一緒に崩壊して行きます。いくら周囲を無視しても、周囲とのつながりの中でしか存在出来ないからです。その「つながり」を支えているのが「対話」です。細胞達はお互いに対話しながら全体の状態を維持し、そしてその全体によって支えられているのです。部分と全体は一つながりのものなので、部分を全体から切り離すことも出来ないし、部分への影響は全体に及び、全体への影響は部分に及ぶのです。「部分」と「全体」を分けているのは人間の意識の働きであって、そのもの自体の状態がそうなっているわけではないのです。そのことを忘れて、「部分」が「私の勝手でしょ」などと自分勝手なことをすれば「全体」の状態が狂うのです。それが、現代社会や今の地球の状態です。だからといって、「部分(一人一人)は全体(みんな)の犠牲になりなさい」ということではありません。そんなことをしたら全体もまた身動きが取れなくなってしまうだけです。そうではなく、「部分(一人一人)がもっと自分を生かすような生き方をすれば、全体も活性化して行くのですよ」ということです。でもそのためには「対話」が必要なんです。対話がないから自分勝手になってしまうのです。また、自分を生かす生き方も出来なくなってしまうのです。家族も、社会も、国家も、それを構成する一人一人の対話によって成り立っています。赤ちゃんは、自分が生まれてきた環境、状況、文化と対話を繰り返しながら成長し、自分が生まれてきた世界のつながりを支える能力を身につけていきます。過去の人達が作り、伝えてきた文化や文明や精神性も、その対話を通して学び、自分もまた子どもたちに伝えることが出来るような大人に育っていきます。「人間らしさ」もそうやって伝わっていきます。人間の「人間らしさ」は生まれつきのものではなく、周囲との対話を通して生まれた後から身につけるものなんです。子どもたちの成長には体験が必要だというのも、体験が対話を促してくれるからです。でも、人々の生活が簡単で便利になるにつれて、私たちの生活から「対話」が失われてきました。社会全体もまた、対話を必要としない社会へと変容してきました。人と人が対話しなくても、機械と機械が対話して人間の生活を支えるようになったので、「人と人との対話」が必要なくなったのです。昔はご飯の炊き方一つでもお母さんと対話しながらお母さんから学ぶ必要があったのですが、今ではその能力がプログラミングされた炊飯器を買えば、美味しいご飯を炊くことが出来るのです。そのことで、「他の人と関わる煩わしさ」が減ったと喜ぶ人もいますが、でもその結果、人々の間から「対話する能力」や「対話する喜び」が失われ、対話によって成長する機会を失ってしまったのです。
2022.09.05
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現代人は「感覚との対話」「からだとの対話」が非常に苦手です。でもそのことに気付いている人は多くありません。なぜなら、頭ばかり使っているような現代人の生活の中にはそのことに気付くきっかけがほとんど存在していないからです。まただから、それらの能力が育たないのです。そして、だからそれらに関することを言い表す言葉も消えてしまっているのです。「どういう感覚や能力が失われてしまったのか」ということは、「どういう言葉が消えたのか」ということを調べればなんとなくは分かります。でも、「消えた言葉」は調べることは出来ても、それらがどういう感覚や能力のことだったのかという、その言葉の「中味」までは分かりません。「腹の探り合い」「腹を据える」「腹が立つ」という言葉がありました。それらは、現代的にいえば「心の探り合い」「覚悟を決める」「怒る」というような意味になるのでしょう。でも、じゃあなぜ「腹」という言葉が使われているのだと思いますか?それが分からないと、「腹の探り合い」「腹を据える」「腹が立つ」という言葉の本当の意味も分かりません。長いこと武道などをやっている人はその意味を知っています。これは文字通りに「腹の状態」を言い表している言葉なんです。「心の状態」のことではありません。「心の状態」は「腹の状態」の結果に過ぎません。その「腹」の感覚は武道などを長いことやっていると少しずつ分かってきますが、そのような体験がない人に説明しようとしても通じません。臍下三寸にあると言われている「丹田」も同じです。「解剖学的な存在としての丹田」は存在しませんが、「感覚的な存在としての丹田」は非常にはっきりと存在するのです。眉間の辺りにある「上丹田」、胸の所にある「中丹田」も同じです。面白いのは日本の武道では「臍下三寸」にあると言われている「下丹田」を重視しますが、ロシアで生まれたシステマという武術では胸の所にある「中丹田」を重視していました。それで私は「篠さんはいつも重心を落としすぎ」と注意されていました。日本の武術では「腹の探り合い」をしますが、システマでは「胸の探り合い」をするようです。日本語には「気」という漢字を使った言葉がいっぱい存在していますが。その言葉を「文字通りに」理解することは出来なくなってしまっています。「気持ち」がなぜ「気の持ちよう」と書かれるのか、「天気」がなんで「天の気」なのか、「気づく」がなんで「気」に触れることなのか。その言葉が生まれた頃の人にははっきりと分かったのでしょうが、現代人には分かりません。失われたのはこのような特別な言葉だけではありません。私が子どもの頃には普通に使われていた「つまむ」「ねじる」「こよる」「しぼる」「はらう」「触れる」という言葉も子ども達には通じなくなってしまっています。「対話する」とか「感じる」という言葉も通じません。でも、通じていないのですが、子ども達は「通じていない」ということには気付きません。なぜなら、「腹の探り合い」を「心の探り合い」というように自分の語彙に合わせて解釈しているのと同じように、子ども達も「自分なりの解釈」をしてしまうからです。ですから、「雑巾を絞って」と言って絞らせると、似たようなことはします。でも、絞れてはいません。動画で見せれば動作は分かります。でも、いくら動画を見ても、手のひら、腕、肩、からだ、腹の感覚までは分かりません。だから、手の動きだけを真似るのです。そしてこの感覚が分からなければ「心をふり絞る」という感覚も分かりません。現代人はこの言葉を「頑張る」というように理解しているのかも知れませんが、「心をふり絞る」と「頑張る」は同じではありません。子どもたちに「他の子の作品には触れないでね」と言っているのに平気で触れ回していた子がいました。その子に「触れないでと言ったでしょ」と言ったら、「触れてないよ、(手に持って)見てただけだよ」と言い返されたこともあります。「飢える」という言葉も分からなくなってしまっています。ある学校で先生が「世界には食べ物がなくて飢えて苦しんでいる人がいっぱいいる」と言ったところ、「私もお腹が空いて苦しかったことがあるから分かります」と言った子がいたそうです。でも、「お腹が空く」と「飢える」は全くの別物です。「飢え」は命の危機に直結します。成長も止まります。動けなくなります。「お腹が空いた」という感覚すら消えてしまうかも知れません。すると、生きているのにハエなどがたかってくるそうです。「飢えている」というのは「お腹が空いている」ということではなく、「死にかかっている」ということでもあるのです。お腹が空いているだけなら食べ物を与えれば問題は解決します。でも、飢えている人に不用意に食べ物を与えると死を早めてしまうこともあります。でも、その感覚が現代の子には通じません。それはそれでありがたいことでもあるのですが、でもそれ故に飢えている人の苦しみが分からなくなってしまっています。
2026.07.30
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科学で追求していることには必ず普遍的な答えがあります。というか、科学では普遍的な答えがあるものしか扱いません。それが科学の最大の特徴であり、正しさの根拠でもあります。でも、皮肉なことに「人間の心やからだにとって大切なこと」には答えがありません。もちろん「子育て」にも答えがありません。あったとしても、それはその人だけの、その時だけの答えです。当然、普遍性など全くありません。「子どもを東大に合格させる方法」というような本がありますが、「その方法に従ってやれば100%我が子を東大に合格させることが出来る」などということは100%ありません。それはその本を書いた人の個人的な体験記に過ぎないからです。でも現代人は、その答えがないことを考えることが苦手です。そしてすぐに答えを求めます。教室の子に知恵の輪を渡すと、ほとんどの子が、知恵の輪を手にした途端に「どうやって解くの?」と聞いてきます。それじゃあ意味がないので「自分で考えろ」と言うのですが、すると今度は「ペンチを使ってもいい?」と聞いてきます。とにかく自分の頭で考えて解決しようとしない子が多いのです。全部とは言いませんが、子どもだけでなく大人も、自分の頭で試行錯誤せずにすぐに答えを聞くような人が増えて来ました。子育てで悩むとすぐに本やネットで答えを探します。子育てだけではありません。何かに躓くとすぐにネットなどで答えを探すのです。ちなみに「占い」もその仲間です。そして、ネットの世界にはその「答え」(情報)がいっぱいあります。でも、自分の頭で考える習慣のない人ほどその「答えの海」の中から、「一番自分に合った答え」を探し出すことが出来ません。「自分に一番あった答え」を見つけるためには自分の頭で考えなければならないからです。」その結果、そういう人は「自分にとって都合がいい答え」に飛びつきます。それが「問題を解決するために有効な答え」なのかどうかではなく、「自分にとって都合がいいのかどうか」だけで答えを選ぶのです。そしてそれを「正解」と信じ込みます。でも、それがどんなものであろうと、「他の人が考えた正解」は「自分の正解」ではありません。そのため、正解を他者に依存している人ほど、大量の情報に振り回され、ますます自分を失って行くのです。じゃあどうしたらいいのかということになるのですが、困ったことに、情報に依存しながら生活している現代人には、「自分の頭で考える」という習慣がありません。その背景には、文明の進歩と共に、遊びの場でも、生活の場でも、「自分の頭で考える」という必要がなくなって来たということもあります。「必要」がなくなってきたので「価値」もなくなってきたのです。ということを書くと「イヤオレはいつも考えている」と反論する人も多いでしょうが、多くの場合、そのような人の「考えている」は「心の中で言葉が自由に飛び交っている状態」に過ぎません。だから、「感想」は言えても「考え」を言うことが出来ないのです。「問題を解決する手段として考える」ということも出来ません。また学校でも覚えることばかりを教えられ、なまじ自分の頭で考えると叱られます。そのため、「自分の頭で考えてはいけないんだ」ということを学習していきます。だから、「自分の行動を決めるための情報」を求めるのです。でも、人間が人間らしく生きるために必要なことは「正解を得ること」ではなく「正解を求めて考え続けること」なんです。「正解を求めて考え続けること」が人間の人間らしさを支えているのです。今回の人種差別の問題でも、「答え」を設定してしまったら、話がおかしな方に進んで行ってしまうでしょう。それは、「暴力をなくすために暴力を使う」というような方向です。また、「正解」を見つけたと思っても、その正解はすぐに変化してしまいます。「正解」は生き物のように常に変化しているものだからです。だからこそ、「固定された正解」にこだわると困ったことになってしまうのです。でも、正解を求めて考え続けていると、その正解の変化に対応できるのです。大事なのは「正解を得ること」ではなく「正解を求めて考え続けること」なんです。人種差別の問題も、みんなで考え続けることが必要なんです。正解を決め、誰かを悪人にするだけでは決して解決できないのです。
2020.06.15
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「上」と「下」は反対の方向を指す言葉です。似たような言葉で、「敵・味方」、「表・裏」、「白・黒」などというような言葉がありますが、これらも正反対の意味のものを組み合わせた言葉です。ただ、これらの言葉が意味するものを「対立関係」と見るか「補い合う関係」と見るかはその時の状況によります。「男・女」も同じです。「男」と「女」を「対立する存在」と見ることもあれば、「補い合う関係」と見ることもあります。この時、一方の立場だけに立てば、他方は「対立する存在」になります。男性の立場だけで物事を考える人は「全く女は・・・」と言うでしょう。女性の立場だけで物事を考える人は「全く男は・・・」と言うでしょう。でも、男・女を超えた「人類」という視点に立てば「男」と「女」は「補う合うもの」になります。「対立」だと思い込んでいるのは単なる「役割の違い」に過ぎないことにも気付くでしょう。大人と子どもも、利害が対立することがあります。子どもは「ゲームをしたい」と言い、大人は「勉強をしなさい」と言い、それぞれ相手に対して対立的な要求を求め合うことでバトルしている親子はいっぱいいます。この場合も、子どもの立場に立てば「全く大人は・・・」となり、大人の立場に立てば「全く子どもは・・・」ということになります。でもこれも、人間の成長という視点から見たら「役割の違い」に過ぎません。どっちの方が正しいということではなく、それぞれの立場に立てばどっちも正しいのです。だから、自分だけの正解を押しつけ合うのではなく、お互いの言葉に耳を傾け、話し合う必要があるのです。戦争はいつも、「正義」と「悪」の戦いではなく、「正義」と「正義」の戦いです。この場合も、どっちかの立場を選ぶことで反対側の相手が「悪」になるのです。「日本の裏側の国は?」というクイズでは「ブラジル」が答えのようですが(実際には違うそうですが)、ブラジルにいる人から見たら、ブラジルが表で、日本が裏になります。これもその判断をする人の位置の問題であって、「どっちの方が正しい」ということではありません。与党の立場に立てば与党の言うことが正しく、野党の立場に立てば野党の言うことが正しいのです。(国民の立場から見たら、両方とも正しくないこともよくありますけど・・・。)原発反対派から見たら原発政策は間違いですが、原発推進派から見たら原発反対は間違いです。自分が属している小さなグループの立場や利害や正解だけにこだわるから、対立や戦いや苦しみがいつまで経っても終わらないのです。「私は男だ」にこだわれば女性と対立します。でも、「でも、男であると同時に人間だ」という視点に立てば、女性と対立しなくなります。そして話し合うことが可能になります。私が「日本人であること」にこだわれば、外国の人と対立するでしょう。でも、「同じ地球に住む人間」という意識に立てば、その対立は無意味なものになり話し合うことが可能になります。そして、対立するどこか「お互いに補い合う大切な存在」だということにも気付くでしょう。「人間」と「自然」が対立しているのも、人間が人間だけの立場に立ってしまっているからです。でも、人間も自然の一部であることを想い出せば、人間と自然は対立するどころか補い合う関係に戻ることが出来るのです。「対立」は人間の脳の中にしか存在していない概念に過ぎないのです。私たちが生きている現実世界では、「補い合う関係」があるだけで何も対立していないのです。神と悪魔も、未来と過去も、美と醜も、プラスとマイナスも、破壊と創造も、お互いに補い合っているのです。成功と失敗もお互いに補い合っています。多くの人が成功ばかり求め、失敗を嫌いますが、そういう人には新しい発見は出来ません。成長することも出来ません。失敗を大切にすることが出来る人だけが、新しい世界を発見したり、成長することが出来るのです。私は、こういうことを教えるのが、未来に向けてあるべき教育の姿なのではないかと思っています。人間は何でもかんでも理解しようとします。そして科学は理解するために世界を細かく分析しました。そのことで分かったことも多いのですが、逆に分からなくなってしまったことも多いのです。人間を細かく分析することで、人間を構成している細胞や様々な要素のことはよく分かるようになったのですが、生きて考え、感じ、喜び、悲しみ、苦しんでいる「人間」そのもののことが分からなくなってしまったのです。これからの時代は、分析する方向だけに進むのではなく、その分析したものを統合していく方向へ進む必要があるのです。科学は、「分析」によって成り立っているので、「分析可能なもの」しか扱いません。でも、人間の心やからだにとって大切なことのほとんどは「分析できないもの」ばかりです。それなのに、多くの人が「科学が発見した分析可能なこと」だけがこの世界の全てだと思い込んでいます。私たちは、その科学が扱うことが出来ない、分析不可能な「統合された世界」の存在に気付いていく必要があるのです。その時、「この世界には無駄なものなど一つもない」ということに気付きます。多くの人が気付いていませんが、その分析不可能な統合化された世界があるから科学における分析というものが可能になるのです。分析している「人間」は分析できないのです。
2020.06.18
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先日、中井喜一と緒形拳主演の「風のガーデン」の最終回を見ていました。私はあまりテレビドラマは見ないのですが家内が熱心に見ているので必然的に一緒に見ていました。非常に質の高い良いドラマだったと思います。今でもこういうドラマを作る人がいるんだ、こういう演技が出来る人がいるんだ、こういう番組を熱心に見る人がいるんだということを知り安心しました。このドラマの大きなテーマは「孤独」だったのでしょうか、私には中井喜一が「生きることの孤独」を非常に見事に演じているように感じました。その主人公が死を前にして父親(緒形拳)に自分の子どもの頃のことを語ります。テレビを買ってくれとせがんで自分の部屋にテレビを置いてもらった。たった一人で、そのテレビを見てゲラゲラ笑っているとき、急に言いようのない孤独感に襲われた。その時から僕は家族から離れていってしまった。というような内容でした。この言葉には「思春期に訪れる孤独」と「文明の孤独」が表されています。文明は人を孤独にするのです。便利であると言うことは他者の手助けがなくても生きていけると言うことです。でも、人は人のぬくもりがないと生きていくことは出来ません。昔は不便な生活をやりくりする過程で人と人との触れあいやぬくもりを感じる場面がいっぱいありました。お隣へお醤油を借りに行くことだって昔は普通のことだったのです。昔は、人と人が触れ合わなければ生きていくことが出来なかったのです。だから、昔の人は人と人が触れ合うことになんのためらいもありませんでした。でも、文明の進歩は生活の中での人と人の触れあいのきっかけをどんどんと削って来てしまいました。家庭の中が様々な家電で便利になることで「お手伝い」の必要も消えました。今、子どもたちが生活の中でやっていることはお勉強をすることとテレビやゲームで遊ぶことと様々な習い事に通うことだけです。そして、家族がお互いのぬくもりを感じる機会は本当に少なくなってしまいました。そのぬくもりが絶対的に必要な7才前の幼児ですら、ゲーム漬け、テレビ漬け、習い事漬けの子どもが少なくない時代です。そして、一緒に食卓を囲んでいても、みんなの視線と意識はテレビの方を向いています。「風のガーデン」の主人公は思春期にになって孤独を感じましたが、今の子どもたちは幼児の時から孤独なので、逆に自分が孤独であることにすら気付いていません。でも、ぬくもりにあこがれながらそれを素直に伝えることも、受け取ることも出来ません。あこがれはあるのに、からだが受け付けなくなってしまっていることもあります。触れてもらいたい、でも、実際に触れられると嫌悪感を感じると言うようなものです。現実のぬくもりを知らないので、ぬくもりが理想化されてしまっているのでしょう。それで、物や機械にその代償を求めている人もいます。ピチピチのからだを締め付けるスーツを着ていると安心するという人もいるようです。このような時代では大乗的な救いはなかなか困難です。みんなが同じ思いを共有することが出来ないからです。だから苦しいのに宗教へは行きません。そして、カウンセラーやヒーラーの所に行って個人的に救ってもらおうとします。でも、カウンセラーやヒーラーは苦しんでいる人の今目の前にある障害物を取り除くことは出来ても、その人の孤独そのものを癒すことは出来ません。だから、すぐに似たような障害物が現れて、またカウンセラーやヒーラーの所へ通うことになります。薬への依存と同じことが起きるのです。これからの時代は、自分の孤独は自分で癒すしかないのです。それはつまり自分自身を成長させることで孤独から抜け出すと言うことです。そのことがまた、身近な人との繋がりやぬくもりを再生していくきかっけにもなっていくのです。孤独に縛られている人は他の人との繋がりを作ることが出来ません。そこから抜け出せた人だけがその繋がりを作り、ぬくもりを伝えることが出来るのです。ドラマの最後で主人公は死の孤独と向き合います。その時、その孤独から彼を救ったのは幼いときの家族とのぬくもりの記憶と、子どもの時の仲間とのぬくもりの記憶です。そして、やっと「元いた場所」に帰ることが出来たのです。そして死と向き合う覚悟を得ることが出来ました。でも、今その記憶を持つことが出来ないまま大人になって行かざるおえない子どもたちがいっぱいいます。彼らの孤独を救うことが出来るのは「自分」以外にはないのです。そういう時代になってしまったのです。
2008.12.20
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現代人は小さい時から「脳」ばかり使って、あまりからだを使わない生活をしています。そのため、脳が「脳本来の機能」を育てる事が困難になってしまっています。その「脳本来の機能」とは、心、意識、感覚、からだ、現実、感情という「人間を構成している様々な要素」を一つに統合する能力のことです。人間は、その機能が低下しているので、一つの「生命体」としての統合性を失い、その生命の状態が不安定になってしまっているのです。心の不安定さもその表れです。現代人は昔の人よりも遙かに寿命が長いですが、それは生命力が高くなったからではありません。そうではなく、文明の働きで人間の生命力を補助することが出来るようになったからです。例えて言えば、実際に歩く能力や体力は、いつも車に乗っている人よりも、いつも歩いている人の方が高いのに、結果としての移動距離は、車に乗っている人の方が遙かに大きいのと同じです。現代人は昔の人よりも遙かに物知りだと思っていますが、それも勘違いです。現代人が知っているのは「役に立たないこと」ばかりです。そして、自分自身が生きるために必要なことはほとんど知りません。自分の心のことも、からだのことも、感覚のことも、現実のこともあまりよく知りません。からだを通して学んでいないからです。だから「生き方」が分からないのです。ちなみに、ここで「知っている」というのは、「実際に使えるかどうか」ということです。子どもに「ノコギリの使い方知っている?」と聞くと、「知っている」と言います。そこで「どうして知っているの?」と聞くと、「テレビで見たから」などと言います。これは正確には「見たことがある」というだけのことであって「知っている」ということではないのですが、からだで学ぶ体験が少ない子にはその区別が付きません。それで、ノコギリを渡して実際に切らせるのですが、みんな「あれ!!」という反応をします。テレビで見たようには切れないからです。ノコギリを前後に動かせばいいと思っていても、ノコギリが木に引っかかって動きません。また、木を切る感覚が分からないので力の入れ方も分かりません。木の押さえ方も分かりません。実際に使えないのですから知らないのです。でも、本人は「知っている」と思い込んでいます。「知っている」と言い張ったりもします。「じゃあ何で切れないの?」と聞くと、「ノコギリが悪いからだ」などと言い出したりします。子どもだけでなく現代人はみんな「知識として知っていれば実際にも出来るはずだ」と勘違いしています。現代人の頭の中にはそんな「思い込み」がいっぱい詰まっています。そして「実際には何にも知っていないのだ」ということを知りません。「子育て書」を山のように読み、暗記しても、「思い込み」が増えるだけです。そんなもの、実際の子育ての現場では何の役にも立ちません。むしろ邪魔になる場合もあります。実際に子どもが生まれる前に「知識として知っていた子育て」と、「現実の子育て」は全くの別物です。でも、普段からからだを使った生活をしていないため、その違いが分からなくなってしまっているのです。そして、「知っていれば出来る」と思い込み、うまく行かないことがあると「まだ知識が足らないからだ」とさらに知識を求めます。時には「ノコギリが悪いのだ」と言う子と同じように、「うまく行かないのは子どもが悪いのだ」と言う人もいます。ただし、からだで学ぶことが出来る人は知識を応用することが出来るので、「子育て書」なども有効に使うことが出来ます。ですから、「子育て書」そのものが必要がないというわけではありません。それを使う人の問題です。元々「脳」は、複雑化したからだを一つの「有機体」として統合するために生まれたものです。全ての生命は単細胞から始まります。それは人間も同じです。精子や卵子の時には単細胞です。この時期には「脳」は存在していません。でも、細胞分裂を繰り返して様々な内臓などが創られ、からだの構造が複雑になるにつれ、それらを統合する機能が必要になってくるのです。それが「脳」本来の機能です。この「脳」は、「生命体」そもののと、その「生命体が生きている現実の世界」とを統合する働きもしています。環境の変化に合わせて生命体の状態を変化させるのです。そしてそれが「生きる」という事です。この「統合する働き」こそが脳の最大の機能であって、そのために脳が生まれたのです。現代人は「脳=論理的に考えるところ」と考えていますが、それは脳の機能の一部に過ぎません。でも、現代人はその一部の機能だけを使い、脳本来の機能の方は育てようとしていません。だから、考える能力自体も低下しているのです。「統合化する時に必要になる思考」こそが「生命を支えるための思考」であり、「本当の思考」なのです。思考には「分析する思考」と「統合する思考」の二種類あるのですが、現代人が使っているのは「分析する思考」の方ばかりです。だから「全体」が見えなくなってしまっているのです。生命は「統合する思考」によって支えられています。「物語」はその思考の結果です。科学は「分析する思考」によって支えられています。コンピュータや機械はその思考の結果です。ただし、最近の最先端のコンピュータは「統合する能力」も持ち始めています。その能力がないと、天気予報のような予報が出来ないからです。「どうして今日は雨になったのか」という「すでに起きてしまったこと」を知るための思考と、「明日の天気はどうなるのか」ということを知るための思考は全く異なったものなのです。でも、学校で教えてくれるのは「どうして今日は雨になったのか」という思考だけです。学校の試験では、「太郎君はどうして泣いているのでしょうか、その理由を書きなさい」という問題は出ても、「この後、太郎君はどのような行動をすると思いますか」という問題は出ないのです。でも、「子育て」に必要なのは後者の思考なのです。人間の能力はますます低下し、機械の能力はますます高度化しています。このままでは、そのうち人間は機械の奴隷になってしまうでしょう。
2014.06.13
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私は大勢の子どもたちを見てきていますが、自分で考えて、自分の意志で行動できる子と、依存心が強く、“やってやって”、“できないできない”、“わかんない”を連発する子の間にはからだの違いがあるような気がするのです。自分で考えて、自分の意志で行動できる子のからだは全般的に姿勢が良く、安定していてよく動きます。けん玉や竹馬などにも挑戦し、そしてすぐできるようになります。でも、依存心が強い子どもたちのからだはなんとなくフニャフニャしています。でも、柔らかいわけではありません。ストレッチは全然出来ないのですが印象としてフニャフニャしているのです。背中に筋が通っていないと言う感じです。そして、コマ回し、けん玉、竹馬などからだを使う遊びが苦手です。うちには木で作った竹馬のような「木馬」や、ホッピングなどが置いてあるのですが、そういう子はあまりそういうものに挑戦しようとしません。置いてあっても興味を示さないのです。それでもやる子がいると“ぼくもやる”と言って引きずられてやろうとするのですが、そういう子が竹馬やホッピングに挑戦するとすごく変なのです。からだ全体が一緒に動かないのです。マンガのようにちぐはぐな動きをするのです。例えばホッピングでは、まず片足を載せてからもう一方を離すということができないので、壁により掛かって両足を載せます。それで、小さい子はお母さんに支えてもらいながらなんとか動こうとするのですが、なんかジャカジャカジャカと動くだけで全然ホップしません。上半身と下半身、ホッピングとからだがつながっていないのです。からだだけおかしな様に動かすのですが、動かした力がホッピングに伝わっていかないのです。ですから、全然ホップしません。それですぐに諦めます。自分でも全然無理だということが分かるのでしょう。簡単な遊びですから少し頑張ればすぐに出来てしまうはずなんですが、ちょっとやって思い通りにいかないとすぐに辞めてしまうのです。とにかくあきらめが早いのです。これは造形をやっている時も同じです。そして、これは小学生でも同じです。以前は、ホッピングのような単純なものは誰でも簡単に出来ると思っていたのですが、でも、今ホッピングが出来ない子の方が多いのです。コマ回しも同じです。(ただし、これは幼稚園によって大きな違いがあります。コマ回し、竹馬が出来るのが当たり前の幼稚園もあります。)そういう子を見ていると、からだ全体がバラバラなんです。頭とからだの対話が出来ないのです。ですから当然からだと道具との対話が出来ません。最近、縄跳びもできない子が増えてきたと聞きます。ジャンプは出来る、ヒモも回せる。でも、全体がつながらないのです。頭とからだがつながっていないということなんだろうと思います。そういう子は最初に書いた通りホッピングだけでなく、他のことに対しても挑戦ということをしないのです。知らないこと、初めてのこと、ちょっと難しそうなこと、時間がかかりそうなこと、ちょっとやって出来なかったこと、うまく出来そうもないことなどには挑戦しません。失敗することを非常に恐れるのです。そして、何回もやって知っていること、ちゃんと出来そうなこと、一目で分かること、簡単そうなことなら手を出します。これはいわゆる“成功体験”の少なさが大きな原因なのではないかと思うのです。成功した時の喜びを知らないのです。ですからそういう子に成功した時の喜びを体験させたくて“頑張れ”と言うのですが、成功した時の喜びを知らない子は頑張ることもできないのです。頑張ることが出来ないから成功しません。そして、成功しないから頑張ろうとしません。という悪循環になってしまっているのです。ということで、明日へ。
2008.01.11
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最初にちょっとお知らせです。明日、「冒険クラブ」で大山に登ることになっていましたが、今日予定されていた息子の運動会が雨のため明日に延期されてしまったため、明日の大山登山を中止させていただきます。秋頃に再挑戦したいと思っています。********************************子どもたちの心を支えているのは「仲間」と「希望」です。仲間は「今」を生きるための「横のつながり」であり、「希望」は人生を生きるための「縦のつながり」です。ですから、このいずれかが失われれば子どもは生きる力を失い虚無に陥るか、自暴自棄になります。それが時として、自殺や他人に危害を与える事件につながります。物語の世界に生きている子どもたちにとって、「物やお金という現実」には心を支えるだけの力はないのです。ここに「愛情」も加えたい人もいるかも知れませんが、希望とつながる愛情は子どもの心を支えますが、希望とつながらない愛情は子どもの側から見たらただの「束縛」に過ぎません。ですから、必ずしも「愛情」が子どもの心を支えるものにはならないのです。ということで取り除いてあります。「希望」の中に愛情も含まれると理解しておいて下さい。教育も「希望」につながる教育は子どもの心を支え、子どもを成長させることが出来ますが、「希望」とつながらない教育は単なる「労働」であり、「つらい義務」に過ぎません。もちろん、そのような教育では子どもの心を支えることも、子どもを成長させることも出来ません。ところが現代の子どもたちは、この「仲間」も「希望」も手に入れることが困難な状況の中で生きています。つまり、つながりを失った状態で生きなければならなくなってしまっているのです。そのような状況が、自殺の増加や様々なおかしな事件の背景にはあるのだと思います。このような状態に対して「子どもたちが変わったから」と説明することもあります。確かに表面的なところでは随分と変わってきています。でも、その本質は全く変わっていません。今の子どもたちでも「仲間」と「希望」を手に入れることが出来ればどんどん成長することが出来るからです。これは、大人が充分な栄養を与えることを忘れているのに、「元気がないのは子どもが変わったからだ」と言っているようなものです。子どもたちの変化は大人の心の鏡として見るべきなんです。そして今、このような状態を改善するために地域のつながりを取り戻そうと活動している人がいっぱいます。でも、大人達が地域のつながりを作ったとしても、それがそのまま子どもの仲間や夢を育てる力になるわけではありません。つながりは時として「束縛」になるだけだからです。それが嫌でみんな田舎から都会へと逃げてきたのですよね。ですから、ただの郷愁だけでつながりを作っても、それを喜ぶのは大人ばかりだと思います。そこに希望がなければ若者にとってはそれはただの束縛なのです。実際、つながりが存在していた戦前は今よりも少年少女の事件が多かったというデータもあるようです。それは、「つながり」という「束縛」を絶ちきり、希望を得るための行動だったのかも知れません。子どもたちにとって何か事件を起こすことは、子どもを束縛している希望のない物語を打ち壊し、“希望があるかも知れない”新しい別の物語の世界へと転移するための儀式なのです。それがどんなに残忍な事件でも、その事件を起こした子どもにとってはそれはただの自分の物語を変えるための儀式に過ぎないのです。その子どもの心が残忍なわけではありません。ですから、反省をする意味も分かりません。反省をしなければならない物語自体を拒否するために事件を起こしたのですから。(お分かりになるでしょうか?)つまり、子どもたちは、自分に押しつけられた物語を放棄し、その物語を破壊するような衝撃的な出来事を引き起こせば、全く違う物語の世界にワープすることができると思い込んでいるのです。それが物語の世界に生きている子ども達の発想なんです。そのような視点がないと、子どもたちの起こす事件を正しく理解することは出来ません。本当の意味で人と人が束縛ではない関係でつながるためには、「希望とつながる何か」を共有する必要があるのです。<続く かも知れません・・・>**************************今日から「気質の一言」を書いていきます。(毎日かどうかは不明・・・)興味を持たれた方は私が書いた小冊子をお求め下さい。胆汁質の人は成功したことは良く覚えていますが、失敗したことはあまり覚えていません。それで、他の人が失敗した時のことを言うと怒り出すか、運が悪かったか、誰かのせいにします。憂鬱質の人は失敗した時のことは良く覚えていますが、成功したことは良く覚えていません。それで人が成功した時のことを言うと“まぐれ”とか、“運が良かったから”などと言います。ちなみに胆汁質の人はまぐれで成功しても、「実力だ」と思い込みます。多血質や粘液質の人は成功とか失敗にあまり興味がありません。胆汁質の人は、冷静に自分の失敗と向き合えるようになると成長します。憂鬱質の人は、素直に自分の成功を喜ぶことが出来るようになると成長します。
2009.05.30
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昔の人は「親はなくとも 子は育つ」と言いました。実際、子どもは親が一生懸命に子育てをしなくても、みんなと一緒に生活しているだけで勝手に育ってしまいます。それが、動物の子育ての基本です。一緒に生活していると、子どもは自分の生活の中から自分の育ちに必要なものを自分の力で選び取って、勝手に学んでいきます。ですから子育てで必要なことは「どのように育てるか」ではなく、「どのように生活の中に子どもの成長に必要なものを組み込ませるか」ということなのです。つまり、子どもの生活を整えることこそが子育ての本質なんです。(自然の中で生活していたライオンの親子を、檻の中に閉じこめてしまったら、その親ライオンは子どもを「ライオンらしく」育てることが出来なくなります。親がいるだけでは子どもは育たないのです。)でも、昔の人達はそんなことすら考える必要がありませんでした。自然と共に生きていた時代の人々の生活の中には、子どもの成長に必要なものが全て詰まっていたからです。「大きな森の 小さな家」(ローラ・インガルス著)という本を読むと、自然の中の生活には子どもの成長に必要なものが全て詰まっていたことを知ることが出来ます。(「大草原の小さな家」というテレビ番組で紹介されました。)衣食住の他に子どもの成長に必要なものは、支え合う家族、一緒に遊び、喜びや悲しみを共有する仲間、自然とのつながり、からだを使った生活、自然への畏れと、芸術や文学や学問といった人間的なものへのあこがれ、そして手本となる年長者や大人などです。そういうものが満たされている生活をしていれば、子育てなんか意識しなくても子どもは自分の力で、ちゃんと、しっかりと育っていくのです。でも、今それだけのものに満たされた生活をしている子はほとんどいません。少なくとも「衣食住」はあるでしょうが、他の要素に関しては心許ない限りです。そのため、子どもたちは自分の成長の方向を見失ってしまっています。そして、その喪失感から来る不安を、物や刺激で埋めようとしています。それで様々な「子育て法」が必要になってくるわけです。子どもは、原始人と同じ感覚世界を生きています。人間は何万年も前と同じ状態で生まれてくるからです。人類が文明を持ったのは、たかだか一万年前に過ぎません。大きな都市の中で生活するようになったのは、せいぜい千年、二千年前頃からです。それも、都会で生活していたのはほんの一握りの人たちだけです。現代でさえ、自然の中で生活している人たちはいっぱいます。ですから現代人であっても、赤ちゃんは都会の中ではなく、自然の中で生活するための感覚を備えた状態で生まれてきます。人々が自然の中で生活していた時には、そんなこと意識する必要はなかったのですが、自然から切り離された文明社会の中で生活している私たちは、そのことを知っておく必要があります。そうでないと子どもの心や行動を理解することが出来なくなってしまうからです。お母さん達は「しつけ」と称して、手づかみでご飯を食べる子どもを叱り、その行動を否定しますが、でも、原始人の感覚を生きている子どもにしてみたら、それは全く自然な食べ方です。そっちの方が食べやすいし、「食べている」という実感があるからです。確かに、現代ではそのまま大人になったら困りますが、でも、子どもはやがてお母さんやお父さんの真似をして、手づかみでは食べなくなります。でも、そこには信頼関係が必要です。大好きなお母さん、大好きなお父さんだから真似をしたくなるのです。でも、その信頼関係を壊してまで子どもに「しつけ」を強要しているお母さんやお父さんがいっぱいいます。でも、その「しつけ」はなかなか成功しません。子どもは自分が選んだ方向にしか成長しないからです。大人の都合通りには子どもは成長しないのです。多くの人が、「子どもの育て方」と「子どもの仕付け方」を混同していますが、本来それは全く別物です。現代では、意識して子どもが「自らの力で成長していくことが出来るように生活を整えてあげる」ことが、子どもが育つ「子どもの育て方」なのです。そしてそれは、「子どもと共に生きる」ということが基本です。そのような生活をしていれば、仕付けなどはムキにならなくても、それなりに何とかなってしまうものです。ですから、「子育て」なんて特に意識する必要はないのです。毎日の生活を充実させることがそのまま子育てになってしまうのですから。
2009.08.21
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現代の医学の状態を表すブラックジョークとして「病気には勝ちました、でも患者は死にました」というものがあります。また、「病院では胃や腸や心臓などからだの一部は検査、治療してくれるが、からだ全体の調子を診て、治してくれる科がない」とも言われます。本人は具合が悪くて病院に行ったのに、検査では何にも引っかからなかったということで、「気のせいですよ」と帰されてしまったという話しも時々聞きます。テレビで聞いた例では、その数日後に死んでしまった人もいたそうです。病院に行くと、中耳炎などの治療では抗生物質を使います。抗生物質で菌を殺すことで病気を治そうとするのです。それで、100%菌を殺すことが出来れば病気は治ります。でも、途中で薬を飲むのを止めてしまう人が多いので、再発してしまう人がいっぱいいます。西洋医学では常に科学的に検査可能な「現象」を対象としています。そして、異常な現象が出たら、その現象を消してしまえば、「正常に戻った」と判断します。そしてまた、同じ状態が現れたら「再発した」と言います。これは西洋医学だけの考え方ではなく、このような現象だけを対象とする考え方は現在では色々な分野で一般的な考え方になってしまっています。問題行動を起こす子がいたら、その問題行動をやめさせれば、問題が解決したと考えます。その手段に関しては問いません。体罰や内申書で脅かしてやめさせても、子どもが問題行動をやめれば「問題は解決した」と考えるのです。学力の問題も、どんな方法を使ってでも試験で成績が上がれば「学力が上がった」と判断します。お母さん達もまた同じ方法を使っています。叱ったり、怒鳴ったり、時には叩いて子どもを仕付けようとしている人がいます。そして、子どもが素直に言うことを聞くようになれば「問題は解決した」と考えます。このような考え方の根底には西洋文明の「結果主義」という価値観が隠れています。現代の社会では結果によって代価を支払います。私がいつも大切なこととして言っている「見守る」とか「待つ」という関わり方は、直接的な結果につながらないので「価値がない」こととして扱われてしまいます。それでも欧米では、その結果に至る過程も大切にしています。過程をよく分析していないと、思い通りの結果が出なかった時に修正することが出来ないからです。過程をよく分析しているのなら状況に合わせて柔軟に対応することが出来ます。その柔軟さがあるから、アメリカはロケットを月まで送ることが出来たわけです。でも、日本では過程を大切にしないで、結果だけで成功、不成功を判断しています。○×式、埋め込み式の試験方法がその象徴です。過程がなくても結果がOKなら、正解なんです。だからカンニングが有効になります。そして、うまく行かないのは「努力が足らないからだ」などと言います。だから個人的な努力だけでなんとかなるような分野では成功することが出来ても、大勢の人がシステムとして関わるような大きな分野では、成功することが出来ません。それはつまり、日本兵とアメリカ兵が一対一で戦うのなら勝つことが出来ても、日本軍とアメリカ軍が戦ったら勝てないということです。過程の分析を共有し、利害関係にこだわらず純粋に結果との関係性においてその過程について話し合うという能力が日本人にはありません。日本には、そういう能力が育つような文化的な土壌がないのです。ですから、裁判員制度で不具合があってもそれは公開されない可能性があります。また、公開されたとしても修正することは出来ないでしょう。過程の分析が出来ないからです。それは現在の政治の状況を見ていれば容易に予想できることです。過程の分析が可能になるためには、過程の情報が公開されている必要があります。でも、日本では結果は公開しても、過程を公開することに対しては消極的です。むしろ、過程を隠そうとするのです。過程の情報が公開されていなければ、結果との因果関係を分析することが出来ません。そのお陰で、過程に関わった人たちは、結果に対する責任を追求されることもなくなります。でも、結果を改善することも出来ません。これが今の日本の社会を動かしているシステムです。だからこそ、教育では子どもたちのそのような能力を育てなければいけないのに、実際には結果だけを求めるような教育しかやっていません。でも、そのような「結果」と「過程」によって世界を変えていこうとする方法とは別の方法もあります。それは、部分だけを見るのではなく、全体の中での部分と部分の関係性を見ようとする方法です。ここで問題になるのは「部分」ではなく、「関係性」ということになります。「部分の異常」は、その部分の問題ではなく、その部分と他の部分との関係性のゆがみが原因だと考えるのです。「部分」は常に周囲との関係に適合する形で変化しているだけだということです。子どもが問題行動を起こす時、それはその子が「悪い子」だからではなく、子どもにそのような行動を促すような周囲との関係性が存在していると考えるのです。そして実は、日本人は分析は苦手ですがそのような関係性を感じる能力は高いのです。
2009.08.11
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今日は、大分前に書いたものをそのまま載せさせて頂きます。しつけの多くは、親子の信頼関係がちゃんと築けているなら、必要の範囲内で自然と整ってしまうものです。子どもと大人がしっかりとつながっていないから、子どもたちは問題行動を起こしたり、仲間とつながることが出来ないのです。それなのに、大人達は子どもの問題行動を子どもの責任として押しつけています。そして厳しく仕付ければなんとかなると考え、取り返しの付かないことをしてしまうのです。森の中に置き去りにされてしまった男の子が無事に戻ることを祈っています。***************人間は「つながり」の中で成長します。言葉も、歩き方も、感じ方も、考え方も全て他の人との「つながり」を通してしか学ぶことが出来ません。どんなに高価な知育玩具を与えても大人との人間らしい関わり合いがなければ子どもの知能は成長しません。そして、その「つながり」には大きく分けて二種類あります。大人も含めた異年齢による「縦のつながり」と、同年齢による「横のつながり」です。異年齢のつながりは新しい世界、異質な世界との出会いをもたらしてくれます。子どもが大人の考え方や、学問などと出会うのもこの「縦のつながり」を通してです。また、様々な年齢の人と出会うことで人生や、生き方ということを考えるきっかけにもなります。世話をされたり、世話をしたりすることで優しさを学ぶことも出来ます。また、考え方、感じ方、心の使い方、からだの使い方、価値観などを学ぶのもこの「縦のつながり」を通してです。つまり、いわゆる「人間性」と呼ばれるもののほとんど全てを子どもはこの「縦のつながり」を通して学んでいるわけです。子どもは人生の最初、この縦のつながりのなかに生まれてきます。3才くらいまでの子どもにとってはお母さんやお父さんとの縦のつながりが全てです。そのつながりのなかで子どもは歩き方や、言葉や、コミュニケーションの方法や、心やからだの使い方の基礎を学んでいます。でも、3才前後から仲間との横のつながりを求めるようになります。それはこの頃から社会性を育てるための本能が働きだすからです。でも、横のつながりは縦のつながりと違って、何か「共有するもの」を必要とします。それは例えば「言葉」を含めた様々なコミュニケーション能力や、常識や、知識や、技術や、趣味や、価値観などです。それは大人でも同じですよね。そして、そういうものは主に「縦のつながり」を通して学んだものです。つまりそれは、3歳までに「縦のつながり」によって身につけたものを共有する形で「横のつながり」が生まれるということです。ですから、お母さんやお父さんなどとよく森の中で遊んでいた子どもは仲間とも森の中で遊ぶことを喜びます。だからそういう仲間が集まります。でも、小さい時から家の中ばかりで遊んでいた子は家の中で遊びたがります。だからそういう仲間が集まります。「仲間を作りたい」というのは子どもの本能なのですが、実際にどういう仲間作りをするのかということにおいては、それまでの親と子の縦のつながりが非常に大きく影響しているのです。ですから、逆に言うと生活の中でのお母さんやお父さんとの縦のつながりがしっかりとしていない子は、仲間と共有するものを持つことが出来なくなるため、横の繋がりも作ることが困難になってしまうということです。織物と同じように、「縦糸」がしっかりと通っていなければ、しっかりとした「横糸」は通せないのです。そして、「横のつながり」を作ることができない子は、孤独になり、相手を否定することで自分の居場所を作ろうとしたり、様々な攻撃的な関わり方によって仲間とつながろうとします。また、時には空想や読書の中に逃避してしまう子もいます。成長しつつある子どもにとって一番苦しいのは「孤独」だからです。だから必死になって「孤独」から逃げようとするのです。でもだから余計につながることが難しくなってしまうのです。ただし、障害を持っている子の場合は生まれつきこの「縦のつながり」が作りにくいようです。そのため、結果として友だちに攻撃したりするような問題行動が多くなってしまうのですが、そんな時は“優しくしなさい”と叱っても無駄です。トラブルは「横のつながり」の中に現れていますが、もともとの原因は「縦のつながり」の中にあるからです。これは障害のある子でも、ない子でも同じです。こんな時はまず、大人とのしっかりとした「縦のつながり」を育てることをまず一番大切に考えなければなりません。それはなかなか困難な作業ですが、子どもを否定せず、ゆっくりと見守りながら「縦のつながり」を育てていくのです。あきらめてしまったらそこで止まってしまいます。これは障害の有無とは関係がありません。そして、「縦のつながり」がしっかりとしてくれば「横のつながり」も落ち着いてきます。この時、「横のつながり」の中だけでトラブルを解決させようとしても無駄です。また無理に“ゴメンナサイ”を言わせても無意味です。“ゴメンナサイ”は大人同士の関係改善のための言葉です。ただし、ここで間違えないで欲しいのは、「縦の繋がり」とは、単なる「しつけ」のことではないということです。現代の「しつけ」はただ子どもの行動に規制をかけることだけが目的になってしまっています。昔のしつけには精神的なものを伝える意味もあったのですが、その“精神的なもの”に価値を感じなくなってしまった現代人はただ子どもの行動だけを制御しようとしています。そしてそれは結果として動物を調教する方法と似た方法になってしまっています。アメとムチを使った大人の権力による押しつけです。でも、そんな方法ではいくら一生懸命にしつけても子どもが人間らしく成長することはありません。そして、しつけに熱心になればなるほど、子どもはペットのように大人に依存するようになってしまいます。そして、思春期が来たとき“自立出来ない自分”に苦悩することになります。それが「縦のつながり」であろうと、「横のつながり」であろうと、「つながり」に必要なのは「お互いを認め合う双方向的な関わり」なのです。この双方向的な関わりがあるから大人から子どもへと大切なことが伝わり、また、仲間同士もしっかりとつながり、子どもは安定するのです。子どもが安定出来ないようなものは「つながり」ではないのです。さらに「縦のつながり」においては「あこがれ」や「尊敬」や「信頼」の有無も大切な要素になります。例えば、小さな子は何でも出来るお兄ちゃんやお姉ちゃんに憧れを抱いています。だから、そこに「縦のつながり」が生まれるわけです。自分のことを大切にしてくれる大人に対しては尊敬や信頼が生まれます。だからそこにも「つながり」が生まれます。「つながり」は共有するものであって、一方的に押し付けることはできないのです。このようなことは学校でも同じです。先生と生徒が信頼関係によってしっかりとつながっているクラスでは、「横のつながり」もしっかりとしています。逆に、先生と生徒がつながっていないクラスでは生徒は乱れ、学力は低下し、イジメなども多発します。先生と生徒の間に信頼関係のないクラスで道徳教育などやっても全く無意味です。“生命を大切にしよう”、“友だちを大切にしよう”と訴えても、先生と生徒の間に信頼関係のないクラスではその言葉に何の説得力もありません。ですから、イジメを子どものせいにばかりしてはいけないのです。以前、学級崩壊しているクラスを見学したことがありますが、先生と生徒が全くつながっていませんでした。先生は生徒の細かいところばかり見て注意するばかりです。生徒もまた先生など見ていません。それに対して、先生と生徒が信頼し合っているクラスでは道徳教育などしなくても助け合うのです。それは先生が大切にしている価値観をみんなで共有することが出来るからです。みんなで同じ価値観を共有するから横につながることが出来るのです。そしてその価値観は「縦のつながり」を通して子どもたちに届くのです。ですから、学校における最高の道徳教育とは、先生が生徒との間に信頼を築くことに他ならなりません。また、そのためには校長が一人一人の先生との間に信頼を築くことも必要になるでしょう。政治の世界でもまた、国民と政治家がしっかりとつながっていれば社会は安定するでしょう。でも、政治家が国民をバカにして、国民が政治家を信用しない国では、社会が混乱するばかりです。子どもたちはこのような縦と横のつながりに支えられて成長していきます。そして、そのつながりの中で自由に生きることが出来るようになります。人は一人では生きていくことが出来ないので、「つながりの中での生き方」を学ばないことには、自由に生きることが出来ないのです。でも、現代人はそのことを忘れてしまっています。そして、まだ一人では生きることが出来ない状態の子どもを縦横のつながりから切り離し、“自由に生きなさい”、“早く自立しなさい”と言って追い立てています。それは、現代人が誰からも束縛されていない状態を「自由である」、「自立している」ことだと思いこんでいるからなのでしょう。でも、実際にはそれは自由でも自立でもなく、ただ単に「つながりから切り離された状態」に過ぎないのです。そして、「つながりから切り離された子ども」は「つながりのなかでの生き方」を学ぶことが出来ないまま、一生「孤独」という束縛に縛られ、不自由に生きることになります。
2016.06.01
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今日はちょっと話題を変えます。別の所で「お母さんが子どものリーダーになって下さい」的なことを言ったら「お母さんがリーダーになる」ということが、その人が大切にしてきた「子どもに寄り添う」ということと違うような気がして困惑したというような感想を持たれた方がいました。確かに子どもに寄り添うのは大切です。問題は子どもの何に寄り添うのかということです。「子どもに寄り添う」という名目で、子どもの気持ちや要求に合わせてばかりいるお母さんが結構います。そしてこれは、子育ての場で何をしたらいいのかよく分からないお母さんにとっては非常に便利な方法でもあります。何をすべきか、子どもが指示を出してくれるのですから。また、自分の時間ややりたいことを犠牲にしていることによる自己満足感も得ることが出来ます。でもこれは、親子で初めての町を歩いている時に、その町のことについて何にも知らない子どもに「どっちに行きたい」ということを決めさせているようなものです。子どもはおもちゃ屋が見えれば「あっちに行きたい」と言い、またお菓子屋さんが見えれば「あっちに行きたい」と言い、遊園地が見えれば「あっちに行きたい」と言うでしょう。そして、この方法に従えば、お母さんがいちいちその町のことや地図を調べる必要もありません。またおもちゃ屋を見つけて「あっちに行きたい」と泣き叫ぶ我が子と戦う必要もありません。でも、この方法を続けていたら、当然のことながら親子で迷子になってしまっています。迷子になっても近くにいる人に手助けを求めればなんとかなるのですが、このような子育てをしているお母さんほど、他の人に手助けを求めない傾向があるような気がします。また、子どもとも話し合うのも苦手です。だから、子どもに従うことでその場をうまく処理してしまうのです。でも、子どもが一人の時はこの方法で子育てが出来るのですが、二人、三人になったら完全にアウトです。だって子どもの気持ちや要求は一人一人違うのですから。さらに兄弟は競い合うので、わざと異なった要求をお母さんに同時に求めてきたりもします。そうなったらお母さんはどちらかを選択しなければならなくなります。「まだ小さいんだから」と下の子を選べば上の子が拗ねます。「まだ下の子はよく分からないから」と上の子を選ぶと、下の子はいつまでも泣き続けます。子どもに寄り添うことを大切に子育てをして来たはずなのに、気がつくと、どちらかの子どもを切り捨てなければならないような状況に追い込まれてしまうのです。で、にっちもさっちも行かなくなって、相談に来るお母さんがいます。でも、一度こういう親子関係が出来上がってしまっていると、これを変えるのはなかなか難しいのです。それまで自分の意見を言わなかったお母さんが急に意見を言い出しても誰も聞きません。また、お母さん自身がその原因を作ってしまった当事者でもあります。だからお母さんが何か言っても話がこじれるばかりです。そこで第三者の手助けが必要になるのです。でも、子どもの気持ちや要求に寄り添うのではなく、子どもの成長に寄り添うようにすればこういう状態にはならないのです。確かに、子どもの気持ちや要求は大切にしてあげる必要はあります。でも、気持ちを受け取り大切にするだけでいいのです。従う必要はないのです。「寄り添う」と「従う」を混同しない方がいいです。子どもは自分が生まれてきた世界のことを何も知りません。そのため、不安でもあります。だからいつもお母さんの側にいて、お母さんのことをよく見て、お母さんから色々なことを学びたいと思っています。子どもに取ってお母さんはお手本であり、ガイドであり、先輩なんです。そんな時、お母さんが子どもの気持ちや要求にばかり合わせていたら、子どもは何も学べないままになってしまいます。何も学べないので不安も消えません。お母さん以外の人との関わり方が分からないため、いつまでもお母さんから離れることが出来なくなります。お母さんに要求をぶつけ、要求が叶わないと文句を言うのにお母さんから離れることが出来なくなってしまうのです。それで子どもも苦しみます。全く知らない外国に行った時、道案内をしてくれるはずのガイドが、「あなたの行きたいところについて行きますよ」と言ったらあなたは喜びますか。逆でしょ。子育ての最終的な目的は、子どもの精神的な自立を支えることです。精神的に自立している子なら経済的な自立の方は自分で何とか出来るものです。そして子どもの精神的な自立を支えるためには、お母さん自身が精神的に自立している必要があるのです。「子どもに寄り添う」という名目で子どもに依存していては、子どもは精神的に自立できなくなってしまうのです。
2020.07.21
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日本の子どもたちは言われたことだけをやるように求めれています。それは、家庭でも、学校でもおなじです。社会に出てからも同じです。なまじ、自分の感覚で感じて、自分の頭で考えて、自分の判断で行動すると「勝手なことをするな」と言われます。お母さんや(お父さんもですけど)先生の言うことさえちゃんと聞いていれば「いい子」として肯定的に評価されます。逆に、お母さんや先生の言うことに従わない子は「悪い子」と言われたり、「問題児」として扱われてしまいます。特に、個性が強い子や、自分の頭で考えるのが好きな子や、発達障害の子は、お母さんや先生の言うことに従わないので問題児扱いされます。反抗しているわけではなく、ただ「自分らしく」行動しているだけなんですが、反抗的だと思われてしまうこともあります。でも、大多数の子はそれほど「自分らしさ」にこだわらないので、「悪い子」や「問題児」までは行かずに、「ちゃんと言うことを聞けないダメな子」として扱われます。 皆さんはお子さんに何を求めていますか。というようなことを子育ての勉強会で聞くと「自分の頭で考えて行動出来る自立した人間に育つこと」と答える人が多いのですが、その一方で「言うことを聞かなくて困っているんです」という相談もしてきます。望んでいることと実際にやっていることが正反対なんですが、でも、その矛盾に気付いていないのです。そのため、結果も望みとは正反対の状態になってしまっているのです。「現実」は「心の中で何を望んでいるのか」ではなく、「実際に何をしたのか」の結果でしかないのです。もし本当に、「自分の頭で考えて行動出来る自立した人間に育つこと」を求めているのなら、我が子がお母さんの言うことを聞かないのなら喜ぶべきなんです。ただし、子どもが何をしても「いいよ いいよ」で肯定しているだけでは、子どもは「自分の頭で考えて行動出来る自立した人間」に育つことは出来ません。でも時々、勘違いしてそういう子育てをしている人もいます。子どもが困ったことや間違ったことをしたなら、親はちゃんとそれを指摘し、正すべきなんです。そこで大事になるのは「上から目線の指示や命令」ではなく「対等な関係での話し合い」なんです。親が子どもと対等な立場で話し合うことを心がけているから、子どもは「自分の頭で考えて行動出来る自立した人間」に育つことが出来るのです。だからダメなことをしたら「ダメ」としっかりと言うべきなんです。ただし、子どもの言い分にもちゃんと耳を傾ける必要があります。子どもは、親や先生が自分をどのように扱うのかで、自分の価値や能力を知って行くからです。でも実際には多くの大人が、「言い訳をするんじゃありません」「屁理屈を言うんじゃありません」と子どもの言葉を否定するか、「言っても分からないから」と何も言いません。対等な関係で話し合うことから逃げようとしているのです。自分に自信がないからなのでしょう。でも、指示や命令ばかりを押しつけられている子が、「大切な存在としての自分」に気付くわけがないのです。子どもは「自分の頭で考えて行動出来る自立した人間」として扱われることで、「自分の頭で考えて行動出来る自立した人間」に育っていくのです。信じてあげることで「信じるに値する人間」に育っていくのです。子どもの言葉に耳を傾けてあげることで、子どもは自分の価値に気付き、他の人の言葉にも耳を傾けることが出来るようになるのです。お母さんが自分の頭で考えた言葉で子どもの言葉に応えてくれるから、子どもは自分の頭で考えることが出来るようになるのです。それが正解であるかどうかは関係がありません。間違っていたっていいのです。大事なのは「自分の頭で考えたことなのかどうか」ということなんです。
2020.08.13
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子どもや若者が何か事件や問題行動を起こしたりすると、「親はどういう子育てをしているんだ」となじられます。大きな事件であれば、親がテレビなどで謝罪することも珍しくありません。電車やお店の中などで子どもが泣いているだけで、「泣き止ませろ」と言われます。「じゃあおまえにそんなこと出来るのか」と言ってやりたい気持ちをグッと抑えて、「スミマセン」と謝っています。お母さん達が過剰に子どもの行動に介入したり、支配しようとする背景には、そのような世間の目や、社会の圧力があるような気がします。社会全体が子どもの「子どもらしさ」に対して不寛容になってきてしまったのです。そして、子どもが子どもらしい行動をするだけで「親がちゃんと仕付けろ」と非難される社会になってしまったのです。でも、子どもの「子どもらしさ」や「子どもらしい行動」は、子どもの成長に必要な状態であり、行為でもあるので、それを否定されたり、奪われたりしてしまった子どもは、その育ちに偏りが生じることになります。その一番わかりやすい例が「自己肯定感の低さ」と呼ばれるものです。幼い子どもにとっての「子どもらしさ」は、「自分らしさ」でもあります。ですから、「子どもらしさ」を否定すると言うことは、子どもの「自分らしさ」を否定することでもあるのです。そして、幼い時から「自分らしさ」を否定されて育てば、当然、自己肯定感も低くなります。そして日本の若者の自己肯定感の低さは世界でもトップレベルです。それはそのまま、日本の社会が子どもの「子どもらしさ」に対して、どれだけ不寛容なのか、ということの現れでもあります。でも、今ではそんな風に「子育て」はお母さんの役割のように思われてますが、昔からそうだったわけではありません。なぜなら、昔のお母さんは家事や仕事が忙しくて、子どもの相手などしている暇などなかったからです。それが大きく変わったのが昭和30年代の高度経済成長期です。高度経済成長期には「サラリーマン」という存在が急増しました。そして、経済的に豊かになることで「庭付き一戸建て」を求める人が増えて来ました。でも、都心でそれを求めるのは難しので、若い夫婦達は親から離れて比較的土地が安い郊外に家を建てました。そして会社までは電車で通うようになりました。通勤ラッシュが始まったのです。また、人々の大量移動が始まることで地域が崩壊しました。山を崩したり、田んぼを埋めたりして作られた新しい町には最初から地域など存在していませんでした。空き地にはビルが建ち、道路には自動車が走るようになり、受験競争が始まり、子どもたちの群れは消え、子どもたちは外で遊ばなくなりました。地域の大人による見守りは消え、代わりに監視が増えました。その結果、子どもの側にはお母さんしか居なくなりました。そして、子どもは家の中で過ごすことが多くなりました。お母さんが一人で、家事をし、子どもの世話をし、子どもと遊び、子どもの仕付けをしなければならなくなりました。仕事を抱えながらその全てをやっているお母さんもいっぱいいます。そして、子どもの周囲にはお母さんしか居ないのですから、子どもの状態はそのまま「お母さんによる子育ての結果」として受け取られるようになってきました。良い子に育っていればお母さんが褒められ、困った子に育っていればお母さんが非難されるようになったのです。つまり、お母さんが、子どもの行動や成長の状態に対する責任も全て負わなければならなくなってしまったのです。でも、ほとんどの場合、お母さんがどんなに頑張っても、子どもはお母さんの期待通りには育ちません。なぜなら、子どもも「自分の意思を持った一人の人間」だからです。それは当然のことなんですが、多くのお母さんが「ちゃんと子育てが出来ない自分」を、自分で責めています。私はこうなる以前の社会も、こうなってきた経過も見て育ってきたので、今の子育て事情がいかに不自然な状態なのか分かるのですが、でも、今子育て中のお母さん達は、それが当たり前だと思っています。そして、子どもの状態は全部親である自分の子育ての結果だと思い込んでいます。でも、お母さんがどんなに頑張っても子どもはお母さんの思い通りには育ちません。むしろ害になるばかりです。なぜなら、お母さんが一人でどんなに頑張っても子どもの育ちに必要なものを十分に与えることが出来ないからです。どんなに優秀な幼稚園の先生でも、大学の子育ての専門家でも、子育ては決して一人では出来ないのです。子どもは家族や、地域や、仲間や、自然とのつながりの中で育つ生き物だからです。家の中でお母さん暮らしているだけでは、子どもは育ちようがないのです。どうか、子どもを外に連れ出して下さい。そして色々な人に出会わせ色々な体験をさせてあげて下さい。お母さんもまた仲間作りをして下さい。子どもが思い通りに育っていなくても、その状態を肯定してあげて下さい。それは子育ての失敗ではないのです。もちろんそこにはお母さんの責任も含まれます。でも実際には、お母さんをそのように追い詰めてしまっている社会の責任の方が大きいのです。社会全体が子どもの子どもらしさにもっと寛容になれば、お母さんは子どもを束縛せずに、もっとのびのびと子育てが出来るのですから。また、自分を責めることを止めて下さい。自分を責めることはそのまま子どもを責めることになってしまうのですから。もっと開き直っていいのです。でも、このことを知ってしまった以上、これからどういう子育てを選択するのかはお母さんの責任にかかってきますけどね。過去には責任がなくても、未来には責任があるのです。
2020.08.14
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「慣習農法」と呼ばれる一般的な、「耕し、肥料や農薬を撒く農業」においては、農家の人が生産計画を立てて、計画的に生産します。そしてこの方法なら質が高く、均一な作物を、大量に収穫することが出来ます。夏に冬の作物を作ったり、冬に夏の作物を作ることも可能です。(天候や害獣の影響は受けますけど)この場合の主人公は農家(人間)です。それに対して自然農法においては、「人間」ではなく「作物」や「自然」の方が主人公になります。人間は自然の力を借りて、作物の育ち、命の働きを補助するだけです。この場合、「人間の都合に合わせて」計画的に生産、収穫することが出来ません。だから普及しないのですが、でもだから生き生きとした作物を育てることが出来るのです。子どもを育てたり教育する場合も「規格品的な子ども」を育てる場合には、大人が管理する子育てや教育が必要になるでしょう。子ども一人一人の気質や特性に合わせて子育てや教育をするのではなく、大人の都合や社会の都合に合わせて子どもを育てるのです。その方法としては、大人がコースを作って子ども達を競争させます。すると子どもたちは、「そのコースがどこに向かっているのか」とか「何のために競争しているのか」などということを考えることなく、競争に勝つことや落ちこぼれないことを目的として頑張るようになります。でもその過程で「自分らしさ」は失われて行きます。自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の意思で判断し行動する能力も育たなくなります。でも、何らかのきっかけでその能力が育ってしまった子は、その競争に参加できなくなってしまいます。「赤信号みんなで渡れば怖くない」という言葉がありますが、人は、みんなと一緒、みんなと同じだと安心するのです。でも、「今は赤だ」とか「どこに向かっているのか分からない」というようなことに気付いてしまった子は、みんなと一緒に渡れなくなってしまうのです。そして今、そういう事に気付いてしまう子どもたちが増えてきました。それは、子どもの時に「みんなと一緒」という体験が出来ない子ども達が増えてきたこととも関係しているのではないかと思います。一昔前は、みんなと一緒に遊び、みんなと一緒にみんなと同じ教育を受け、みんなと同じ能力を育て、みんなと同じようにサラリーマンになって、みんなと同じような仕事をしているだけで生きて行くことが出来ました。そして、みんながそうだったので、そのような生き方に疑問を感じる人も多くありませんでした。そのような社会では、「実際に何が出来るのか」ということよりも、「学歴」の方が有効でした。でも今、そのような社会的価値観や構造が崩れて来ています。「みんな一緒」「みんな同じ」を求めることが、逆に危険を導いてしまう時代になったのです。今の時代、「みんながバイトで暮らしているから、自分もバイトで暮らしている」というような判断をしている若者は多いでしょうが、そのような生活は、「病気をした」とか、「嫌な上司がいた」というようなちょっとしたイレギュラーなことが起きただけで破綻してしまいます。「みんなと一緒」、「みんなと同じ」ということの中に安心と居場所を見出してきた子はそのイレギュラーに対応できないのです。テレビを見ていたら、「入社早々、退社代行サービスを使って退社してしまう若者がいっぱいいる」というようなニュースをやっていました。「聞いていた話と現実が違う」というような理由が多いみたいですが、そんなこと、この現実世界では当たり前のことなんです。「結婚したら、結婚前と相手の様子が変わってしまった」というのも当たり前のことです。「子育て書に書いてある子ども」と、「実際の我が子」が違うのも当たり前のことです。子ども達は、その「思い通りにならない世界」を「自分らしく思い通りに生きるため必要な能力」を育てるために学ぶ必要があるのです。それが子育てや教育の非常に大きな目標のはずなんです。思い通りにならないからと言ってドロップアウトを繰り返していたら、あっという間にどん詰まりに追い詰められてしまうのです。そしてそのためには「大人が主人公の教育」から、「子どもが主人公の教育」に変える必要があるのです。ただしそれは、「子どもが大人の主人になり、大人が子どもの家来になる」と言う意味ではありません。そんなの社会では通用しませんから。カスハラをするような大人は、子どもの頃、家来としての子育てや教育を受けてきたのではないでしょうか。そうではなく、「子どもが、他人からの評価を気にすることなく自分自身の主人になる」ということです。その時必要となるのは、支配者としての大人ではなく、子どもの育ちを支え、子どもから学び、共に育つパートナーとしての大人です。
2025.04.11
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今、子ども達は夏休みです。私が子どもの頃は、夏休みに入ったら勉強のことなど考えずに毎日屋外で遊びまくっていました。宿題をやるのは学校が始まる数日前です。毎年焦っていましたけど・・・。うちは裏が山に直結していて、海までも歩いて10分くらいでした。だから山でも遊びましたが、夏休みはもっぱら海で遊びました。大人などいません。子どもだけ、時には一人だけでも海で遊びました。ライフガードなど付けません。昔は、そんな物を付けて遊んでいる子など見たことがありません。そもそも、そんな物を付けていたら泳げません。泳ぎは海軍特攻隊の生き残りの父親から教えてもらいました。プールで泳ぐような競技用の泳ぎ方ではなく、昔から日本に伝わっている古式泳法です。早く泳ぐのは得意ではありませんが、安全に、何時間も泳いでいることが出来る泳ぎ方です。古式泳法で泳いでいたのは私くらいでしたが、でも、その頃はみんな普通に泳げました。水泳の授業もありました。でも今では、水泳の授業がドンドンなくなってきているようです。でも、水泳は木登りと同じ全身運動なので、子どものからだを統合する働きも持っているのです。今、子どものからだがバラバラになってしまいましたが、それは、木登りや、水泳や、森や野原を走り回るような「感情の働きと共にからだ丸ごとを使うような活動」が消えてしまったことも大きく影響しているような気がします。部屋の中で、一人で、機械や、オモチャや、本だけを相手に遊んでいたらからだがバラバラになるのは当然の結果です。そして、からだがバラバラになれば、心も不安定になります。「心の状態」は「からだの状態」の表れだからです。不安も強くなるし「自分」という存在に対する実感が育たないため、自己肯定感も低くなります。子どもの心を落ち着かせたいのなら、子どものからだを落ち着かせるところから始める必要があるのです。一番簡単なのは、自然の中で、仲間と一緒に自由に遊ばせることです。で、海に入ると足のつかないところまで泳いでいって、何時間も浸かったまま遊びました。疲れたら、遊泳限界を示すブイにつかまって休みました。ただ空を見上げて浮いていることもありました。足がつることもありましたが、プカプカ浮いて放っておけば治ります。沖に出て、波に揺られてプカプカ浮きながら空や、山や、海を見ているのは非常に気持ちがいいものです。沖の方なら波も来ません。今でもその感覚と情景を覚えています。でもそのせいで、毎年夏休みは日焼けで真っ黒になりました。一夏に三回くらい皮がむけました。お風呂が痛くて大変でした。でも最近は、「真っ黒な子ども」や「皮がむけている子ども」をほとんど見たことがありません。子どもでも日焼け止めを使っていたりします。皆さんのお子さんはどうですか?夏休みといえば海の想い出だけではありません。虫もいっぱい捕まえて遊びました。私が子どもの頃には海にも、山にも、町の中にも、色々な生き物がいっぱいいたのです。一晩に何匹も家の中にセミが飛び込んできました。道を歩いているとハンミョウがピョンピョン跳んでいきます。ヤンマも道を行き来して飛んでいました。庭のイチジクの木にはカミキリムシがいっぱいついていました。時々モグラが地面をムクムクさせていました。セミも、アブラゼミ、ニイニイゼミ、ツクツクホウシ、クマゼミなどが賑やかにがなり立てていました。カミキリムシも、色々な種類がいっぱいいました。トンボも色々な種類がいて、「トンボ釣り」をして遊んでいる子もいました。ヤンマを捕まえるために、網を持ってヤンマの通り道の道の中央に立って待ち構えていたこともあります。昔は車も少なかったですから。小川や池や沼もいっぱいあって、そこに行けばザリガニ、クチボソ、カエルなどを捕まえることが出来ました。でも今ではみんな埋め立てられるか、蓋をされてしまっています。夏休みの自由研究では、何人もの子が昆虫をいっぱい捕まえて標本を作っていました。私も作りました。子どもが簡単に何十匹もの昆虫を捕まえることが出来るほど、昆虫が身近なところにいっぱいいたのです。海にもいっぱい生き物がいました。そして、生き物がいっぱいいろところで子ども達も遊んでいました。でも今、生き物も、自然の中で遊んでいる子どもも、自然そのものもどんどん減ってきてしまっています。私は時々「磯遊び」も企画するのですが、本当に磯の生き物が減りました。比較にならないほど減りました。探さないと見つからないほどです。でも、子ども達は探して見つかると「いっぱいいる」と喜びます。そんな子ども達に私が遊んだ頃の海を見せたいです。砂浜は桜貝、宝貝、ツノガイ、その他綺麗な貝殻でいっぱいでした。バカ貝やアサリもいっぱい捕れました。毎年、バケツいっぱいバカ貝を捕ってフライにしたり、貝ご飯にしたりして楽しみました。
2026.08.01
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今、テレビやニュースでは、桐生のイジメで自殺した女の子の事件が大きく取り扱われています。親は「イジメによる自殺だと認めろ」と言い、学校側は「イジメはあったが自殺との因果関係は不明」だと言っています。でも、心が介在するような出来事では、そこに明確な因果関係を証明することは不可能です。人間の心はそんなに単純には出来ていないからです。ですから、「イジメはあったが自殺との因果関係は不明だ」という言葉は明らかに言い逃れです。そんなもの誰にも証明できないのですから。でも、会見でそのように言っていた校長先生はものすごく苦しそうでした。校長もそんなこと分かって言っているのでしょう。テレビでは校長や学校の対応を非難していましたが、現場の状況はそんなに単純なものではないと思います。まず、学級が崩壊していたそうです。学級が崩壊していたという時点で、子どもたち同士のつながりも崩壊していたのです。つながりが崩壊すれば、当然個人的な好き嫌いや、弱肉強食だけが群れの原理になります。するとクラスの中が階層化して、余計に「つながり」が生まれにくくなります。今の日本の社会全体で同じことが起きています。どんな状況の中でも子どもたちは必死になって自分の居場所を作ろうとします。好きな仲間だけでグループを作ったり、強いもの同士でグループを作ったりして居場所を作るのです。そして、そのグループ以外の子どもたちを排除しようとします。仲間以外の子を排除することで仲間意識を保とうとするのです。そのような階層化された状態をインドのカースト制度にちなんで「スクールカースト」と呼ぶそうです。詳しく知りたい人はネットで「スクールカースト」と検索してみてください。そして、「イジメ」は主にどのカーストにも属すことが出来ない子どもに向けられます。そのような点で「今のイジメ」は「昔のイジメ」とは異なっているのです。昔のイジメは個人的なものでした。ですから、いじめっ子を指導すればそれで問題が解決しました。でも、今のイジメは、構造的なものなので誰かを指導すれば問題が解決するというようなものではないのです。今のイジメでは、「いじめている子=いじめっ子」ではないし、ましてや「いじめている子=悪い子」でもないのです。だから、「いじめた子」を特定しても意味がないのです。彼らも必死になって生き延びようとしているだけなのですから。一人一人の子どもが必死に生き延びようとした結果、どの群れにも属することが出来ない子がはじき出されてしまっているということなのです。ですから、子どもたちの社会の中にそのような構造を作り出している原因を取り除かないことには、イジメはなくならないのです。この問題の一番大きな原因は、子どもたちを競争に駆り立てている大人なのです。今、大学などでは一人でご飯を食べていると、「仲間がいない人間」だということがばれてしまうので、一人で食べる時にはお便所で食べる若者が増えてきているそうです。それほど今の若者達にとっては、「仲間がいない」というのは恐怖なのです。「仲間がいない=いじめられる」ということに直結してしまうからでしょうか。8日の朝日新聞の朝刊に『リアル漂う「絶望郷」漫画』という記事が出ていました。今、無差別殺人や、自殺をテーマにした漫画が増えているそうです。その中である漫画家が「アシスタントなど多くの若者と付き合っているが、驚くほど沢山の子が『苦しくない方法があったら 自殺したい』とさらっと言う。夢を持てないからとか、やりたいことが見つからない。そんな程度の理由ですぐ、自殺や他人への殺意を口にする」と言っています。そのような子どもたちは、自分が生きるだけで精一杯なので、自分以外の子の苦しみなどどうでもいいのです。この問題を解決するためには、家庭や学校を子どもたちにとって「安心できる居場所」に作り替えていくしかないのです。そのためには、競争を止めさせるべきなんです。そのためには先ず「親の価値観」が変わる必要があります。そして、社会全体の価値観が変わる必要があります。学校が変わるのはその後です。学校は家庭や社会の要請に合わせて運営されているからです。学校を攻撃しても、現場の先生達が苦しむばかりで、本質的な問題は何にも変わりません。家庭や社会が学校に競争を求めれば、それが「荒れ」の原因だと分かっていても、先生達はその要請を拒否することは出来ないのですから。今、私たちに出来ることは、家庭を子どもをの居場所にしてあげることです。子どもにとっては家庭こそが最後の砦なんです。でも、現実には家庭の中にすら居場所がない子どもたちが増えています。悲しいことです。子どもだけではありません。今、家庭は家族の居場所ではなくなってきました。母親も、父親も家庭の中に居場所がありません。「居場所」はつながりによってしか生まれないからです。家族がつながっていれば必然的に子どもの居場所も出来るのです。
2010.11.10
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(セルフケアについては明日書きます。多分・・・)キーロさん、ルーシーさん、カノンさん、ダージリンさん有り難うございます。皆さんのコメントの中に、ももさんや、三日月さんや、かぶさんが「これからどうしたらいいのか」ということを考える時のヒントが詰まっているような気がします。ダージリンさんが迷った時はいつも、「今の」自分にできそうなことの中で最善を探す。と書いて下さいました。人生は「想定外」の連続です。どんなに綿密な将来設計を立てて生きていても、その将来設計は100%外れます。人生とはそういうものなのです。だから、今のような困難な状態になってしまっているのです。皆さんは計画的に今の苦しい状態を選んで来たわけではありませんよね。幸せを願って生きてきたはずなのに、想定外のことの連続で今の状態になってしまっているのですよね。だとすると、将来への不安から、あれこれ考え「今から準備しておこう」と色々なことをやったとしても、多分その予想は外れます。それが、「今」を犠牲にして努力してきたことなら、それまでの時間と人生を悔やむことになるでしょう。でも、その時間を取り返すことは出来ません。でも逆に、「今」を大切にして生きてきたなら、想定外のことが起きても後悔はしないのです。そこまでの時間と人生は充実していたのですから。子どもの早期教育でも「子どもの今」を犠牲にしていると、想定外のことが起きてお母さんが思い描いていた計画が崩れてしまうと、後には「後悔」しか残りません。そして、ほとんどの場合そうなります。なぜなら「今」を否定されて育ってきた子どもには「今」を生きる能力がないからです。「今」を生きる能力がない子どもは、常に「不安」を基準にして考えたり行動したりするようになります。そして、「守ること」ばかりを考えて生きるようになります。でも、それでは前向きに生きることも、他の人とつながることも出来ません。ですから、人生はますます困難な袋小路に迷い込んでしまうのです。キーロさんは「人生で、最初で最後の貴重な経験かもしれない」と。そう思えるようになってから妊婦生活が楽しいものに変わりました。と書いて下さいました。そう、人生は常に「最初で最後の貴重な経験」の連続で出来上がっています。ですから、「想定外のことが起きたから計画がめちゃくちゃになってしまった」と後悔するのではなく、その「最初で最後の貴重な経験」を楽しむように意識を変えていくしかないのです。そうすると、来月からは、また、「今の私にできること」をひとつ増やしました。楽しみです。(キーロさん)という生き方が出来るようになるのです。「今」を変えれば「未来」が変わります。「未来」のために「今」があるのではありません。ですから、「未来」を心配するなら「今」を充実させる以外にないのです。そうしてると、「何かがつながって」くるのです。そして、お金はあとからついてくるような気がします。(キーロさん)ルーシーさんはあなたに会えるの楽しみよ!とお腹に語り掛けましょう~可愛い赤ちゃんの顔を見ると「よ~し頑張るぞ!」という気になると思いますよ!母は強しです。と書いて下さいました。今を大切にするということはそういうことです。その延長に「どうしたらいいのか」を考えて下さい。子どもに対して罪悪感を感じるような選択はしない方がいいと思います。一生そのことで後悔することになってしまうからです。また、カノンさんは不安の解消法メッセージの言いっぱなし聞きっぱなしが私には効果がありました。と書いて下さいました。これもまた非常に大切なことです。一人で心の中で苦しんでいるだけだと、どんどん孤独が強くなり、どんどん「どつぼ」にはまっていってしまいます。ですから、どんな形でもいいですから言葉や何らかの形にしてその思いを吐き出すようにするのです。ブログで吐き出すのもいいでしょう。何らかの創作をして、その中で吐き出すことも可能です。すると、単に「ストレス発散」になるだけでなく、キーロさんや、ルーシーさんや、カノンさんや、ダージリンさんのような人が現れて、何らかの手助けをしてくれるものです。また、そんなとき助けとなったのは家族による自助グループです。ただ話を聞いていただけたこと、いろいろな経験や想いを聞かせていただけたこと、それがなにより力になりました。(カノンさん)というように積極的に手助けを求めることも可能でしょう。一人で背負いきれない荷物は、誰かに手伝ってもらえばいいのです。娘がもう少し大きくなって働く、というのでも取り返しはつくかな、なんて楽観的に考えてます。(キーロさん)子どもとちゃんと向き合って子育てをしていると、将来子どもはお母さんを助けてくれるようになります。すると、荷物の重さが半分になります。でも、子どもを「将来の準備のため」に犠牲にしていると、子どもは自立出来なくなり、大人になってもお母さんに依存するようになる可能性が高いです。すると、荷物の重さが倍になります。そして、今そのような親子が増えています。不安な気持ちや貴重な経験を聞かせていただきありがとうございます。そして今日も個人的なことを書かせていただきました。ありがとうございます。(カノンさん)いえいえ、こちらこそ有り難うございました。
2011.04.22
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人間における「意識」という働きは実に不思議です。この「意識」が目覚める以前は「無意識」の状態です。というより、「意識」がないのですから「無意識」もありません。光があるから影もあるのです。光がない世界には「影」というものは存在していません。そして、人間以外の全ての生き物がこの状態です。そして、人間以外の生き物たちは皆ただの「反応」によって生きています。感覚的反応、生理的反応、感情的反応、体験的反応です。猫は犬を怖がります。それが感情的反応です。子どもにいじめられた記憶を持つ犬は子どもに対して警戒心を持つようになります。それが体験的反応です。その場合、単なる「反応」ですから、「あの子は警戒しなければいけないが、あの子は大丈夫だ」等という判断はしません。そして、多くの場合この体験的反応は感情的反応とセットになっています。小さな子どもが病院に行って痛い想いをすると、ただの検査に行くだけの場合も恐がり、泣きます。これも体験的反応です。この反応は子どもだけでなく人間はみんな持っています。「優しそうな人だな」と思い心を許した人にだまされると、その後「人間不信」になってしまうのもその反応です。この反応は生理的なものなので、努力だけで乗り越えるのは困難です。でも、人間には「意識」というものがあるので、その状況を分析して理解しようとします。そして、「理解」によって「反応」という束縛から自由になろうとするのです。放射能への不安も、正しく学び、正しく理解することで和らげることが出来ます。そのことで、単に不安に束縛されるのではなく、自分で判断してその危険性を避けることが出来るようになるのです。そのようなことを可能にしているのが「意識」の働きです。「意識」の働きによって、不安や危険から身を守ることが出来るのです。ですから、不安や苦しみに捉えられやすい人はその「意識の働き」があまり活発ではない人です。また逆に、強い不安や苦しみによって「意識の働き」が低下してしまう場合もあります。2,3才頃までの子どもにはこの「意識の働き」はありません。ですから、ただ反応だけで行動しています。でも、「なぜ?」「どうして?」と聞くようになってくると、意識が目覚め始めます。この「不思議を感じる感覚」こそが「意識の働き」を目覚めさせるのです。人間でも、反応だけで生きているような人はこの「なぜ?」「どうして?」という感覚が鈍いです。軍隊では訓練によってわざとこの感覚を鈍くします。オカルトなどで洗脳する場合も同じです。徹底的に「なぜ?」「どうして?」を感じないようにしてしまうのです。すると反応だけで考え、反応だけで行動するようになります。そのような人は「How」は考えても「Why」は考えないのです。日本の学校教育でも同じようなことをしています。正解を押しつける教育では「How」ばかり重視して「Why」は無視します。だから、日本人の意識の働きが鈍くなってしまっているのです。テレビに出てくる東電の社員にも同じものを感じます。彼らには「なぜ?」「どうして?」「Why?]という疑問はタブーなのです。そのような人のからだは強い緊張を持っていると思います。ただし、思春期前の「意識」は他者に向けられたものであって、自分自身に向けられることはありません。他の人の言うことや行動は意識によって処理することが出来るのですが、自分自身の言葉や行動は意識することが出来ないからです。9才を過ぎた頃から少しずつそのような「意識の働き」が目覚め始めます。それは子どもたちの絵の変化によっても確認することが出来ます。そもそも「絵を描く」(写生)という行為自体が意識の働きの現れなんです。3次元的世界を2次元の世界に変換するためには意識の働きが必要だからです。だから、まだ意識の働きが弱い7才前の幼児は写生が苦手です。幼児は見て描くのではなく、記憶によって描くのです。だから人間の方が家よりも大きくなってしまうことがあるのです。そしてそのことに何の違和感も感じていません。家や人間は意識することが出来ても、自分の絵や感覚に意識を向けることが出来ないのです。ですから、9才までの子どもの絵はみな主観的です。客観性がないのです。「私にはこう見えた」、「僕はこう感じた」という事だけしか描いてありません。それはそのまま子どもの心の世界です。ですから、幼い子どもの絵に対して批評、評価、技術的指導をしてはいけないのです。ところが9才を過ぎる頃から子どもの絵に客観性が現れます。飛行機は飛行機らしくなり、人間は人間らしくなるのです。それまでは「僕にとっての飛行機」を描いていたのに、9才を過ぎると「飛行機というもの」を描くようになるのです。でも、まだその絵には「視点」が固定されていません。「パース」がないのです。昔の日本の絵や世界各地の民族的な絵は皆そのようなものです。(「パース」とは「一点透視図法」などに使われている見方のことです。)思春期が始まると、その「視点」を固定した絵を描くことが出来るようになります。「自分の視点」を意識することが出来るようになるということは、とりもなおさず「自分自身への気付き」が目覚めたと言うことです。その気付きが目覚めないと「科学」を理解することは出来ません。「科学」は自分自身を「他者」として認識する意識の働きによって生み出されているからです。思春期前の子どもは「次はどうなるんだろう」と物語を楽しむように「科学」を楽しみます。でも、思春期でこの意識が目覚めた子は「原因は何だろう」と時間を遡って考えることが出来るようになります。
2011.07.17
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私は人間の「本当の幸せ」や、「何を求めるべきか」は、子どもたちの姿の中にあると思っています。なぜなら、太古の昔から子どもの延長に大人の姿があったからです。本来、人間は、子どもの時に求めていたものを大人になっても求めるものです。だからこそ、子どもはその追求の結果としての大人の姿を見てあこがれを感じたのです。そして、「早く大人になりたい」と思ったのです。だから勉強なども頑張り、大人の言うことも聞いたのです。さらに、大人は「賢人」としての年寄りにもあこがれを感じ、「ああいう年寄りになりたい」とも思っていました。だから子どもも年寄りを尊敬しました。昔は、「子どもから年寄りまで」という人間の一生が、「成長を喜ぶ」という一つの価値観の中に統合されていたのです。今では単に「老化」と呼ばれる「年をとること」もまた「成長」だったのです。なぜなら、精神の成長だけは、死の直前まで可能だからです。年をとらなければ分からない精神の世界があるのです。それは「小さな泉」から始まった川の流れが、途中、様々な生命あるものや人間の役に立ちながら、やがて大海にまで至ってその一生を終えるようなイメージの人生観です。でも、今では大人にあこがれを感じ、「早く大人になりたい」と思っている子は少数派のようです。それは、大人と子どもをつないでいた「成長を喜ぶ」という価値観が失われてしまったからです。むしろ、「大人になどなりたくない」と思っている子どもの方が圧倒的に多いのではないでしょうか。そのような子どもは、「大人に対するあこがれ」の代わりに、「物や、お金や、有名になる事へのあこがれ」を持っています。今時の子どもたちの「ゴッコ遊び」で、一番人気は「子ども」と「ペット」だそうです。そして人気がないのがお母さんとお父さんです。幼稚園などでは友達にヒモを付けて、ペット遊びをしている子もいるそうです。イジメではありません。ペットになりたい子が多いのです。大切にしてもらえるからです。(実際に二つの幼稚園の先生からそのような話を聞きました。)また、大人も大人で、みんな「年寄りになどなりたくない」と思っています。今は、子どもは大人にあこがれを感じず、大人は年寄りにあこがれを感じない時代なのです。それは、子どもから老人までをつなぐ共通の価値観が存在していないからです。それはつまり、現代人は「生きる」ということに希望を感じず、「人間として成長する」ということに価値を感じないということを意味しています。子どもは「愛」というものに敏感です。いつでも愛されたいと思っています。でも、それは「私だけ愛して」というような独占的な愛ではありません。愛を独占しようする子どもは、愛に満たされていない子どもです。子どもは、植物にも、動物にも、他の人にも愛を注ぐ人が大好きです。ですから、聖書の話を聞かせると子どもはイエス様が好きになります。私も、イエス様が好きだからクリスチャンになったので、キリスト教を信じたからではありません。同様に、マザーテレサやナイチンゲールや野口英世などの話を聞かせると、素直に尊敬します。幼稚園や学校などでも、みんなを愛してくれる先生の所に子どもは集まるものです。逆にいうと、子どもは「自分のことしか考えない大人」を信じないし、好きにもなりません。でも、そういう大人に育てられると、そういう大人になってしまうのです。そして、そのような大人はいつも「愛」に飢えています。「愛」は「愛を与える人」の所にしかやって来ないからです。「愛」は、「愛を求めるだけの人」の所にはやってこないのです。また、子どもたちは何よりも「自分の成長」を喜びます。ですから、自分の成長につながるなら、喜んで色々なことを学んだり、色々なことに挑戦したりします。幼い子どもが転んでも転んでも立ち上がるのは、そのことが自分の成長につながることを知っているからです。子どもが“なぜ?”、“どうして?”と聞くのも、この世界の出来事を知ることが自分の成長につながると感じるからです。ですから子どもは色々なことが出来る人、色々なことを知っている人にあこがれます。昔は、子どもたちは町の中で「働く大人の人」をいっぱい見ることが出来ました。大人から見たら上等な仕事ではない仕事している人達もいっぱいいましたが、子どもたちは「自分たちには出来ないこと」を易々とやっている大人に素直にあこがれました。便所のくみ取りに来るおじさんの見事な天秤棒の操り方。植木職人の人がぱぱっと木に登ってしまう姿、氷屋のおじさんが、一抱えもあるような大きな氷を大きなノコギリでザッザッと切って、最後にカツンとやって見事に二つに割る姿などにうっとりしました。でも、子どもはコンピュータをいじっているだけの大人にあこがれは感じません。私もしょっちゅうコンピュータとにらめっこしていますが、子どもは「仕事をしている」とは思っていないようでした。そのため「お父さん○○へ連れて行って、だってお父さんひまでしょ?」とよく言われました。以下の写真は昨日のお昼頃のものです。まん丸の虹です。道を歩いていたら多くの人が空を見上げていたので、私もつられて見上げたら「まあるい虹」がありました。人間はこのような自然現象に神秘を感じます。そして、子どもたちは大人以上に自然に対して神秘と畏れを感じています。だから「なぜ?」と聞きます。でも、その神秘と畏れを感じることが出来ない大人は、知識で答えようとします。すると子どもは「自然の神秘」に対する感受性と、畏れと、興味を失っていきます。そして、「大人は本当のことを知らないんだ」ということを知ります。子どもはいつでも「本当のこと」を知りたいのです。子どもは「知識」は「本当のことではない」ということを知っているのです。だから「知識」などには興味がないのです。実際、知識を語り合う子どもなどいないでしょ。でも、大人達は「本当のこと」を考えずに、知識ばかりを追い求めています。それは子どもには理解出来ないことです。また、あこがれも感じません。
2011.06.01
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「文化」と呼ばれるものはみんなで共有することができます。言葉も、物語も、宗教も、歌を歌う事も、踊りを踊ることも、何かを学ぶことも、何かを作ることも、絵を描くことも、みんなで共有することが出来ます。そして、このようなものを共有することで、人類は人間らしい精神と、人間らしい生活をするための能力を身につけることが出来ました。そして、人間にはその共有するための非常に高い能力が備わっています。赤ちゃんは何も知らない、何も出来ない状態で生まれてきます。でも、自分の周囲の大人や、仲間との関わり合いを通して、人間としての能力を身につけていきます。そこでは「学習」という現象が起きているのですが、実はこの「学習」という能力を支えているのが「共有する能力」なのです。確かに、ネズミなどでも訓練すれば色々な芸を学習することができます。でも、人間の子どもは訓練などしなくても、一緒に暮らしていたり、遊んでいたり、ただ見ていたりするだけで「人間として生きていくための高度な能力」を身につけることが出来るのです。人間は人間として生きていくために必要なことは、環境さえ与えられれば、教えなくても学ぶことが出来るようになっているのです。それは「共有する能力」があるからです。そしてその能力が人間の成長を支えています。(障害を持っている子は、この能力が弱いのです。だから訓練が必要になります。)逆にいえば、共有によって学ぶことが出来ず、訓練によってしか学ぶことが出来ないようなことは人間としての成長には必要がないことなのです。それは犬や猿の芸と同じです。人は共有することによってつながることが出来ます。共有することで孤独ではなくなるのです。「自分だけしか知らないこと」、「自分だけしか持っていないこと」は人に優越感や、「自分は特別」だいう意識を与えるかも知れません。でも、同時にその意識は人を孤独にします。だから、本来子どもたちにとって「学ぶこと」は喜びなのです。学ぶことによって孤独ではなくなるからです。子どもにとっては学ぶことも、遊ぶことも、歌を歌うこともみんな同じなんです。でも、現代人は「共有出来るもの」より「共有出来ないもの」、「普通」より「特別」の方が価値があると思い込んでいます。みんなが知っていることより自分しか知らないこと、みんなが持っているものより自分しか持っていないもの、みんなが出来ることより自分にしか出来ないことの方が価値がある。と思い込み、みんな「特別」を求めています。「ブランド」と呼ばれるものはその象徴です。でも、「特別」は優越感を与えてはくれますが、人を孤独にするものです。自分だけ英語がペラペラでも、それにこだわっていたら友達を作ることが出来ません。実はそのような考え方は、人間本来の考え方ではなく、近代的な経済システムが、その経済システムを維持するために作り出した幻想なのです。なぜなら、「特別なもの」には商品価値があるからです。“ただ”のものであったり、普通のものには商品価値がないのです。でも、その大人の幻想に洗脳されていない子どもたちは「特別」など求めていません。子どもたちは、みんなと共有出来ないものには興味がないのです。みんなが知っている歌はみんなで歌うことが出来ます。だから楽しいのです。いくらいっぱい歌を知っていても、その歌を知っているのが自分だけなら孤独です。だから、みんなと歌いたい子は、みんなに自分が知っている歌を教えます。もちろん、ただでです。遊びでも同じです。そうやって遊びや歌は伝わってきたのです。大人に大金を与えると溜め込みます。でも、子どもに大金を与えると、みんなにあげてしまいます。子どもとはそういう生き物なのです。でも、現代人は「特別」が大好きです。「ブランド」と呼ばれるものはその「特別」の象徴です。「歌」も人から人へと伝わっていた時代には「特別」ではありませんでしたが、CDやネットなどでお金を出して買った歌は「特別」です。そして高価なものほど「特別」です。それを勝手にコピーして友達にあげたら犯罪です。でも、人間には共有本能があるので、そのことに罪意識を感じる人は少数です。確かにそれは(法律的には)悪いことなんですが、でも、人間の本性には合わないシステムであることも事実です。ですから、必ず破綻するのです。「経済」という価値基準では、「特別なこと」の方が価値があります。値段が高ければ高いほど価値があるのです。でも、「生命」という価値基準では、逆に値段が高いものにはなんの価値もありません。むしろ“ただ”のものにこそ価値があるのです。でも、みんなそのことを忘れてしまっています。だから空気を汚し、水を汚してきたのです。経済的には、そのおかげでミネラル水や、浄水器や、空気清浄機に価値が生まれたので喜ばしいことなのでしょうが、「生命」には困ったことなのです。私の「自分に気付く」というワークでは、「自分に出来ること」を思いつく限りカードに書き出してもらいます。すると、みんな「英語が話せる」「ピアノが弾ける」「資格を持っている」などというような「特別なこと」をいっぱい書きます。私は最初に「どんなことでもいいんですよ。目が見えるということでも、歩くことが出来るということでも。」というのですが、そのようなことを書く人は少数です。その後、大切なもの順に並べてもらいます。そして、「その中で出来なくなったら困るものはなんですか?」と聞きます。本当に出来なくなったら困るのは、目が見えること、歩くことが出来ること、話すことが出来ること、というような「当たり前のこと」ばかりなのです。そしてそれらは全て「共有すること」で学び、育つものばかりです。その「当たり前のこと」がちゃんと出来るからこそ、「英語が話せたり」、「ピアノが弾けたり」というような「特別なこと」に価値が生まれるのです。日本語がちゃんと話せない子が、英語がペラペラでも何の意味もないのです。でも、今困ったことに、この「当たり前のこと」が出来ない子どもたちが増えてきているのです。見ることが出来ない、聞くことが出来ない、話すことが出来ない、手を使うこと、からだを使うことが出来ない、本を読むことが出来ない子どもたちが急増しているのです。そのくせ、「この色なんていう名前か知っている」と聞くと「パープル」などというのです。今、スイミング、ピアノ、ダンス、そろばん、等々色々なことを習っている子は普通です。みんな3~4くらいの教室に通っています。でも、見ることが出来ない、聞くことが出来ない、話すことが出来ない、手やからだを使うことが出来ない、本を読むことが出来ないのです。そういう子どもたちに学力を求めても無駄です。だから、子どもたちには「特別なこと」を求めないで欲しいのです。そうではなく、大人や仲間とのつながりの中で「普通のこと」をしっかりと学ばせてあげて欲しいのです。それにはお金はかかりません。必要なのは「つながり」だけです。**************************★茅ヶ崎でやっている親と子が一緒に遊ぶ「ポランの広場」の生徒募集です。 毎週火曜日の午前で、2才からです。 詳しくは<こちら>で。
2011.06.03
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先日テレビで面白い実験をしていました。テーマとしては「芸術の国フランスの人は本当に芸術に詳しいのか」というようなものです。それで日本人なら誰でも知っているようなゴッホの「ひまわり」や、ミレーの「落ち穂拾い」や、ムンクの「さけび」などの絵を見せて、作者を聞いていました。すると驚いたことに圧倒的に知らない人が多いのです。ミレーの「落ち穂拾い」を見て、「日本人の絵かい」などという人までいました。それで、フランスの美術教師にその事情を聞くと、フランスの教育では絵や作者の名前を覚えることは重視していないというのです。それよりも絵を深く感じる力を育てる方が大切だというのです。それでテレビではテーマを変えて再度日本人とフランス人に絵を見せていました。そこで質問したのは絵や作者の名前ではなく、「この絵を見た感想を聞かせて下さい」というようなものです。絵も分かりやすい絵ではなくクレーの「花」というチェック柄の抽象画です。一見、何が描いてあるか分かりません。日本人はその絵を見て、一瞬固まります。そして一生懸命に言葉を探しとぎれとぎれに説明しようとするのですが、その平均時間はおおよそ5秒程度でした。ほとんど感想らしい感想は出てきません。それに対して、フランス人は自分が感じたことをちゃんと言葉化することが出来ていて、その平均時間は35秒程度でした。ちなみにこの番組は私の父親と「竜泉寺の湯」の露天風呂に浸かりながら見ていたので、正確な記憶ではないかも知れません。でも、大筋ではこのようなものでした。この番組の結果だけで決めつけるわけではありませんが、日本人は知っていることは話すことが出来るが、自分が考えたこと、感じたことを話す能力が非常に低いということは確かなことなのではないかと思います。これはお母さん達のワークでお母さん達に「感じたこと」や「考えていること」を聞いても同じような結果になるからです。お母さん達に「あなたはどう思いますか、どう感じますか」と質問しても、知識として「知っていること」しか答えとして返ってこないことが多いのです。それで、「それは一般論であってあなたが考えたことではありませんよね。あなたが考えたことを聞かせて下さい。」と再度聞くのですが、その意味を理解することが出来ない人の方が多いです。自分で考えたことは必ずどこかで自分の体験とつながっているはずなのです。自分の体験とのつながりがない感想はただの知識に過ぎません。「戦争は嫌だ」というような私たちの身近にはないことでも、そのことを「自分の言葉」で語ることが出来る人は、必ずどこかで自分の体験とのつながりがあるのです。だから「自分の言葉」で語ることが出来るのです。また、「個性を大切にすることは大事」というようなことを言うことは簡単です。じゃあ、どうしてそう考えるのかということを自分の体験とつなげて語ることが出来ない人は、その意味が分かっていないのです。「あなたは自分の子育てで何を大切にしていますか」というような質問でも同じです。ほとんどの人が同じようなことしか言いません。そこで、「優しい子になって欲しいと思っています」という答えのお母さんに、「優しい子ってどんな子ですか」「優しい子に育ってもらうために具体的にどのようなことを心がけていますか」と聞き返すと、ほとんどの人が言葉に詰まり、その時点で言葉を探します。つまり、聞かれたからあらためて自分にとって大切なことを考え、それを答えただけで、普段からそのように意識して子育てをしているわけではないということです。だから具体的に話すことが出来ないのです。日本人はあまり物事を深く考えないで生活しています。みんなと同じ知識を持ち、みんなと一緒に行動していれば安心していることが出来るからです。でもだから、言葉を使うことが出来ないのです。「自分の言葉を持つ」ということは「自分の意志と意識」を持つということです。「自分の意志と意識」を持っていない人には「自分の言葉」は必要がないのです。逆に言うと、「自分の言葉」を持っていない人は「自分の意志と意識」を持っていないということでもあります。そのような人は「みんなと一緒」ばかりを気にするのです。そして責任を取ろうともしません。「自分の言葉」には「責任」が伴うのです。日本の政治家を見ているとそのことがよく分かります。でも、それでは「自分の人生」を自分のものとして生きることが出来ないのです。言葉はコミュニケーションの道具であると同時に、人間においては意識の現れでもあります。日常的に意識をどのように働かせているのかと言うことがその人の言葉に表れるのです。そして同時に、言葉が意識の働きを導いてもいます。ですから、「意識の使い方」を学ぶことがそのまま「言葉の教育」にもなるし、「言葉の使い方」を学ぶことがそのまま「意識の教育」にもなります。この二つは分離出来ないし、分離して考えてはいけないのです。子どもの言葉の使い方は子どもの意識の現れそのものです。幼い子どもを育てている時、お母さんが子どもにどのように言葉かけをし、日常的にどのように言葉を使っているのかということが子どもの意識を育て。その意識が子どもの言葉を育てているのです。
2011.08.01
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人々の生活が機械に依存していない社会は、言い換えると「不便な社会」です。何か調べごとをするにしてもコンピュータがあれば家から出なくても、ネットに接続して世界中の情報を集めることができます。でも、そのような機械がなければ歩いて図書館まで行き、実際に本を借りて調べるか、直接色々な人に聞くしかありません。ご飯を炊くにしても、お掃除をするにしても、自分の手と体と頭を使ってやるしかありません。当然時間もかかるし、技術も必要です。そしてその「技術」を修得するのにも時間がかかります。ですから、人々の生活が機械に依存していない社会では「技術」ということを非常に大切にします。そしてその技術は親から子へ、祖父母から孫へ、仲間から仲間へ、師匠から弟子へと受け継がれていきます。その「技術」は、ご飯の炊き方、洗濯の仕方、お掃除の仕方というものに限らず、話し方、箸の上げ下ろしにまで及んでいます。昔は獲物の取り方、武器の使い方、布の織り方、糸の紡ぎ方なども「大切な技術」として伝えられていたでしょう。そして「技術を大切にする社会」は「形を大切にする社会」でもあるので保守的でもありました。今では、「炊飯器」を買えば、そんな技術など不要です。お母さんがわざわざ我が子に「ご飯の炊き方」など教える必要がありません。お金さえあれば「技術」を買うことが出来る時代だからです。便利な世の中になりました。お金さえあれば親が子に何も教えなくても、子どもは困らなくなったのですから。そのため、今の親は子どもたちにお金を稼ぐための学歴や能力や資格を与えることに夢中になっています。そしてそれすらも、お金を払えば親ではなく専門家がやってくれます。ですから、親が我が子に出来ることは一生懸命に仕事をして、一生懸命にお金を稼ぐことです。お父さんが単身赴任で家にいなくても、お金さえ稼いでくれているなら子どもは困らないのです。お母さんも子どもに何かを伝える必要がなくなったので、ただ子どもの世話をするだけになりました。子どもはお勉強やテレビやゲームなどで時間を過ごすだけで何も技術を学びません。でも、子どものうちはお母さんがやってくれるし、大人になればお金で機械を買えばなんとかなります。外食したり、クリーニングやさんを使えば機械すら必要がありません。そこで必要なのはただ「お金」だけです。どんな些細な技術であろうと、「技術」を伝えるためには厳しさが必要です。ノコギリの使い方でも、自分でやってみて学ぶしかないからです。機械は買い与えることが出来ます。でも、「技術」は買い与えることが出来ないのです。自分で努力しないことには受け継ぐことが出来ないのです。昨日は12~13人ほどの小学生達に竹でお箸、コップ、スプーン、フォークといったものを作る指導に行ってきました。当然、ノコギリ、ナイフ(カッター・切り出し)等を使います。最初に「カッターを使ったことがある子はいますか」と聞きました。半数ぐらいの子が「使ったことがある」と答えました。「ナイフで鉛筆を削ったことがある子」と聞くと、一人でした。「じゃあ、このカッターのどっち側が刃だか分かる?」と確認したら1/3近くの子が「刃」と「ミネ」を間違えました。、さっき「使ったことがある」と言っていた子の中にも「ミネ」の方を「刃」だと間違える子がいました。つまり、この「使ったことがある」は本当に単に「使ったことがある」と言うだけのことであって「使える」ということではないということです。実際、みんなカッターや切り出しナイフの使い方には苦労していました。無理矢理押すだけなので切れないのです。無理矢理押すだけでは私だってなかなか切ることが出来ません。また、ちゃんと教えたのに、作業の途中でも「ミネ」の方で一生懸命に竹を削ろうとしている子もいました。(当然、ノコギリも苦労していました。)「技術」というものは頭で理解しただけでは身に付かないのです。ひたすら繰り返して学ぶ以外に学びようはないのです。当然、時間と労力と手間暇がかかります。でも、その過程で工夫力と能動性が育ちます。一見、無駄な労働、無駄な時間に見えますが、この無駄な労働、無駄な時間を大切にしないと子どもが育たないのです。そして、私は色々な技術を教えてきました。子どもたちは頑張りました。最後にはみんな疲れていました。それでもまだ「やったことがある」「知っている」というレベルであって、「使える」というレベルではありません。でも、その「技術を伝える」ということを通して、私とその子どもたちはつながることが出来ました。「伝える」ことは、「つながること」でもあるのです。「技術」を大切にしない社会は、「伝えること」を大切にしない社会です。そして、人と人のつながりがない社会でもあるのです。でも、機械はその技術を「意味のないもの」に変えてしまいました。ちなみに昨日の参加者の大部分が女の子でした。男の子は低学年の子が2人だけで高学年の子はいませんでした。それで「おうちで包丁を使ったことがある子」という質問もしました。これは結構多くの子が体験しているようです。でも、「じゃあトマトを切ったことがある子」と聞くと2,3名だけでした。トマトは押したらつぶれるだけで切れません。ですから、刃物の使い方を教えるためにはいい材料なんです。女の子にはお母さんが伝えることが出来ることも色々とあります。問題は男の子です。
2011.07.24
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私は基本的に、子ども達のために文章を書いています。子どもたちが幸せに生きることが出来るように願って書いています。つまり、未来に向けて書いているわけです。だから、子育てに当たって避けるべきこと、やってはいけないこと、注意すべきことなどを書いています。それは、そのようなことが子どもが幸せに生きることを阻害する危険性が高いからです。また私は、「人類の未来」ということも考えています。世界中の子どもたちが将来苦しむことがないようにです。だから、「こういう生活、こういう社会はおかしいよ」ということも書きます。なぜ、そういうことを強く言うのかというと、今私たちの社会では「生活の豊かさ」を求めるあまり、「心や精神の豊かさ」を犠牲にしてしまっているのではないかと感じるからです。人々がまだ貧しい時には、「生活が豊かになれば幸せになれる」と思っていました。だからみんな一生懸命に豊かさを求めました。そして、先進国と言われる国ではそのことに成功しました。でも、求めて頑張っている時には幸せでしたが、実際に手に入れてしまったらその豊かさの中に「幸せ」はありませんでした。昭和30年代、人々はみんな新しい時代の、新しい幸せを心に描いて頑張っていました。だから幸せだったのです。実は、「幸せ」は手に入れた結果の中にあるのではなく、目標に向かって頑張っている時の、いきいきとした過程のなかにこそ存在していたのです。でも、すでに豊かさを手に入れてしまった私たちは「幸せになるための目標」を失ってしまいました。それと共に、「幸せ」も実感のないものになりつつあります。そして、「豊かなんだから幸せなんじゃないの」という論理で自分たちの「幸せ」を肯定しようとしています。「世界には毎日のご飯を食べることが出来ない子も、学校に行く事も出来ない子もいっぱいいるんだよ。毎日、お腹いっぱいご飯を食べることが出来て、学校に行けるだけ君たちは幸せなんだよ」というような言葉をよく耳にしますが、これは本当のことでしょうか。きちんと3食ご飯を食べることが出来ない子どもたち、満足に学校に行くことが出来ない子どもたちは、豊かな日本人より不幸なんでしょうか。じゃあ、なぜそのような貧しい国より日本の方が自分の生命を絶つ人が遙かに多いのでしょうか。「死刑になりたくて人を殺しました。死刑になることが出来るのなら相手は誰でもよかったんです。」という理由で人を殺す人が増えています。こういう人に、「自殺という手もあるんじゃないですか」と聞くと「自分でやるのは痛いから嫌だ」などというようなことを言います。それでみんな?????ということになるのですが、これは本心ではありません。死ぬ時には、みんなに自分の存在を知ってもらい、「一人の人間として認められて死にたい」ということなんです。だから「自殺」ではだめなんです。孤独だから死にたいのです。でも、孤独のまま死にたくはないのです。このような事件を起こす人たちでも、アフリカなどで飢餓で苦しんでいる人たちよりはズーッと物質的には豊かです。時々、マイカーや自分の家を持っていながら餓死する人もいますが、「豊かさ」と「幸せ」は全く別のものなのです。でも、多くの人がそのことに気付きません。「豊かさ=幸せ」という公式を信じ切っています。ですから、子どもたちに物を与え、お金を掛けることで子どもが幸せになると思い込んでいます。確かに、物を与え、お金を与えれば子どもは喜びます。でも、その喜びはすぐに欲望に変化し、さらに物やお金に飢えるようになります。現代社会はその「欲望」によって支えられています。欲望を満たすだけの行為は欲望を肥大化させるだけなのです。そして、決して満たされることはありません。幸せも感じません。逆に「幸せ」に飢えるようになってしまうのです。でも、自分の意志が満たされた時、人は幸せを感じます。山登りをしていると、途中が苦しくても頂上までたどり着けば「幸せ」を感じます。逆上がりでも、手に血豆を作りながらでも出来るようになれば幸せを感じます。人が幸せを得るためには努力が必要なんです。だから、「愛されるより、愛する方が幸せだ」だどと言われるのです。実際、受け身的な「愛されるだけの幸せ」は実感を感じにくいので、言葉による確認を必要とします。「愛してるよ」と言ってくれないと幸せを感じないのです。でも、お金や物に満たされた子どもたちはこの「努力」が出来ません。難しいこと、苦しいこと、めんどくさいことには挑戦しようとしません。考えることもめんどくさいので避けようとします。私は18年間子どもと関わっていますが、ここ4,5年、ますますその傾向が強くなってきています。造形の場でも常に受け身的で、「面白いこと」ではなく「簡単なこと」ばかり子どもたちが選ぶのです。そして、お母さんへの「おみやげ」を作るばかりで、作ることを楽しもうとしません。だから、私は今の子ども達の状態、しいては社会のあり方、文明の方向性に非常に強い危機感を感じています。それで、「○○ではだめです」などというようなことを言うのです。でも、それは誰かを非難しているわけではありません。みんな知らないでここまで来てしまったのですから、このような状態になってしまったことに関して誰かの責任を追及しても意味がないのです。人類はこの道を通らなければいけない運命だったのだろうと思います。また、お金や物ばかり与えているお母さんを非難しているわけでもありません。ただ、「そのまま続けていたら困ったことになりますよ」ということを伝えたいだけです。お金や物だけを与えられて育ってきた人を否定しているわけでもありません。人は自分の責任ではないことで否定されることはないのです。卑下する必要も、自己嫌悪に陥る必要もありません。子どもがゲーム漬けになっていても、それは子どもの責任ではありません。だからゲーム漬けの子どもを非難したり、否定したりもしません。ただ、「このままでは困ったことになるよ」というだけのことです。大切なことは、それに気付くことと、変えていこうとする努力をすることなのです。非難からは何も生まれません。非難は事態を停滞させるだけです。でも、「どうしてこうなってしまったのか」という事実をしっかりと見つめること、「このままこの状態を続けていたらどうなるのか」と考えてみることは必要です。それを非難と感じて固まってしまったら、何も変えることが出来ません。みんなが幸せになることが出来る確かな未来を築いていくために、現在のことと過去のことをしっかりと見つめ直すことが必要だと言うことです。
2009.09.05
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今、「ビーバー族のしるし」(エリザベス・ジョージ・スピア/小玉知子・あすなろ書房)という本を読んでいます。アメリカインディアンの子どもと、マットという白人の子どもの交流について書いてあります。マットは事情があって森の中の一軒家で一人で暮らしています。(お父さんは遠くまで家族を迎えに行っています。)でも、小麦粉はクマに食べられ、ちょっとした事件によって鉄砲から釣りの針からみんな失ってしまいます。つまり、食べ物も、食べ物を得る手段も消えてしまったということです。(森の中の一軒家ですから、お店などありません。)そんな時、あるきっかけでインディアンの男の子と関わるようになります。そして、狩りの仕方、釣りの仕方を学びます。マットは鉄砲がないから動物を捕ることが出来ないと思い込んでいました。でも、インディアンの子は罠を作って簡単に獲物を捕まえてしまいます。弓矢を作って鳥さえも簡単に捕まえます。釣り針を失ったマットは「もう魚も食べることが出来ない」と思いますが、インディアンの子は簡単に釣り針を作ってしまいます。文明人は買ってきた道具がないと何にも出来ないのですが、インディアンの子どもは身近にあるものを使って簡単に道具を作り出してしまうのです。お金さえあれば文明社会では生きていくことができますが、自然と共に生きていくためには、お金など何の価値もありません。そこで必要なのは知恵と技術です。自然と共に生きていく場合だけではありません。現代人はお金さえあれば何でも出来ると思い込んでいますが、「子育て」もまたお金ではどうしようも出来ないのです。その状況は人間がまだ文明的な生活を始める前と同じなのです。なぜなら赤ちゃんは何万年も前と同じ状態で生まれてきて、何万年も前と同じものを必要としているからです。そのような子育てで必要なのは智恵と技術です。自然と共に生きていく時に必要なものと、子育てで必要なものは似ているのです。なぜなら、子どもは自然だからです。それらの智恵や技術は親や仲間から伝えられたり、また自然や仲間と共に生きる過程で自分で学ぶものです。でも、必要な物はお店から買ってくる事に慣れてしまっている現代人は、お金で対処できないことに対しては白人のマットと同じように無力です。でも、知識やお金に頼るのではなく、子どもと共に生きようと覚悟を決めるのなら、他のお母さんを見習いながら自分の力で子育てに必要な智恵や技術は発見することは出来るのです。教えてもらっていなくても、子育て上手なお母さんを発見して、ひそかに見習ってしまえば自分の力で必要な智恵や技術は身につけることが出来るのです。助けを待っているだけでは、何にも変わりません。むしろ時間と共に事態は悪化するばかりです。また、そのインディアンの子どもはそのように何でも自分で出来るのですが、だからといって遊びで狩りをしたり、遊びで釣りをしたりはしないのです。本当に必要な時に、必要な量の獲物しか捕らないのです。そして、捕った獲物は「頂き物」ですから、決して無駄にはしません。それが自然と共に生きてきた人たちの智恵です。これは、アメリカインディアンだけでなく、世界中の自然と共に生きている人たちに共通している価値観です。日本でも昔はそのような価値観がありました。以前ご紹介した、「100年前の女の子」(船曳由美著)という本の中でも、自然からの頂き物は、必要な時に、必要なだけの量しか採取しなかった生活が書かれています。だから基本的に無駄なゴミは出ないのです。そこで大切になるのが「感謝」ということです。その感謝の気持ちが「もったいない」という考え方につながっているのです。自然と共に生きている人たちは、動物や鳥や様々な自然の恵みを「資源」とは考えていません。「頂き物」や「贈り物」として、感謝して受け取っているのです。共に生きるためには「感謝」が必要なのです。これは相手が「自然」であろうと、「子ども」であろうと、「隣人」であろうと、「異民族」であろうと、「障害を持っている人たち」であろうと、「老人」であろうと同じです。動物達は本能的に必要以上のものを求めず、共に生きようとしますが、人間は「感謝」がないと共に生きることは出来ないのです。「感謝」がない人間は自分の欲望のままに生きてしまうのです。それは、人間においては、感謝」は欲望が暴走することを抑えるブレーキだからです。現代人はその「感謝」を忘れてしまったから、欲望が暴走してしまっているのです。そして、子育ても難しくなってしまっているのです。実際、子どもと共に生きている人は子どもに感謝しています。もちろん、私も子どもに感謝しています。子どもたちのお陰で今の私があります。障害を持っている子どもと共に生きている人は、障害を持っている子どもたちに感謝しています。老人と共に生きている人は、老人に感謝しています。それが「ために」ではなく「共に」生きている人の特徴です。そしてだから「共に」生きている人は見返りを求めないのです。でも、「ために」生きている人は達成感や、成果や、見返りが欲しくなります。じゃあどうしたら感謝することが出来るのかということです。それは、人は一人では生きていくことが出来ないということ、みんなつながりの中で支えられているという自覚によって生まれます。昨日、外に出たら何かすごく気持ちが良くなりました。何かに包まれている感じがしたのです。自転車で走っているとセイタカアワダチソウが綺麗に黄色い花を咲かせています。ススキも風に揺れています。その時、素直に「ああ綺麗だ、幸せだ」と感じました。今ここに、生かされている私がいます。感謝です。
2010.10.23
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今、テレビで麻生さんが「日本の景気は全治三年」と言っています。つまり、それだけの期間我慢すれば、また景気がよくなるということなのでしょう。また、景気回復を前面に打ち出していない党も、多大な財源を必要とするような政策は、基本的にすべて活発な景気が前提ですから、やはり景気回復は一つの目標になるでしょう。そうしないと、次の選挙で勝てるわけがないからですでも、「地球」という視点で見た時、このまま景気が拡大していったらどうなるのでしょうか。エコ技術が開発され、「地球に優しい製品」がいっぱい作られても、地球はそれを喜んでいるのでしょうか。(今までは包丁で傷つけていたけど、これからはカッターナイフにしてあげるから出血が少なくなるよ。優しいでしょ。という話しと似ていませんか。)CMで、「お買い物の時には自動的に5%オフになります。お得な○○ですから、どんどん買い物をしましょう」などというような言葉を耳にする時、違和感を感じる人は少ないのでしょうか。「何%オフ」の広告と、「地球に優しい製品」の広告には同じ「騙し」の原理が働いています。多分、エコ技術はますます進むでしょう。すると、5年ぐらいしたらまた買い換えを勧められるでしょう。今の製品は簡単に部品が交換出来ないようになっています。下手をすると、部品を交換するための費用より、新品を買った方が安いくらいです。本当に「エコ」を言うのならモデルチェンジをせずに、エネルギー消費が多い部分や壊れやすい部分を簡単に、そして安く取り替えることが出来るようにすべきです。新しいエコ技術が生まれたら、その部分だけ取り替えればいいのです。でも、新しいもの好きな日本人はそのようなやり方を受け入れないでしょうね。日本人は中身が変わらなくても、見かけが変わればそれで満足してしまう国民ですから。また、アメリカのように経済競争が盛んな国でも無理でしょうね。見かけが変わらなければ競争心を煽ることが出来ませんから。スペインにいた時に見たのですが。石造りの建物の外装はそのままで、中だけを新しく作り替えていました。こういう発想は日本にはありません。また、どんなにエコな製品でも、地球に100%無害な製品など存在しません。工場で作られた材料は地球の中で循環しないからです。どんなにリサイクルをしても最後にはゴミになります。材木や生ゴミのようなものは、地面に埋めれば地球に還りますが、でも、私たちの周りにはそれを埋める地面がありません。それに、人口が多すぎてみんながそれをやったら、町中「生ゴミ」の匂いだらけになってしまいます。ですから結局、「ゴミ」という形で出すしかありません。現代では落ち葉も「ゴミ」です。ですから、地面に還ることなくゴミ処理場で焼かれて、灰になり、集積場に捨てられます。結局、どんどん地球は不可逆的に痩せていきます。「ペットボトルはゴミではありません、資源です」という広告を見かけますが、ペットボトルを資源として再利用しても、その先は結局ゴミになります。これは全ての工業製品の運命です。人間は工場で大量の「地球のエネルギー」を消費して「地球が受け入れることが出来ないゴミ」を作っているのです。それがどんなに優秀なエコ製品であっても結果は同じです。ただし、誤解しないで下さい。私は、「いい」、「悪い」の話をしているわけではありません。また、人間や現代人や日本人を非難しているわけでもありません。ただ、人類という視点を離れて俯瞰的に見た時に見えてくる事実を言っているだけです。このような事実を知った上で、人類のこれから進むべき道を考える必要があるのではないかと思うからです。そうでないといつか必ず「こんなはずではなかった」という事態が訪れます。「このままでいい」と決めるのも一つの選択です。でも、その時にはこの先訪れる最悪のシナリオも覚悟しておく必要があります。でも、この流れを変えたとしても、その変革は多くの混乱と悲劇を生み出すでしょう。楽な選択肢はないのです。そして人類は今そのどっちかを選ばなくてはならない岐路に立っています。「あなたならどっちを選びますか?」ということです。人類はどんどん増え続けています。でも、地球は広くなっていきません。資源は減ることはあっても増えることはありません。でも、消費は増えていきます。そして現在の人口は自然な循環だけではまかないきれない所まで来ています。工場での大量生産があるからこそ、これだけの数の人たちが生きていけるのです。それを止めたらどうなるか? 止めなかったらどうなるのか?最新の電子機器にはレアメタルが必要です。携帯電話もそのレアメタルがないと作ることが出来ません。レアメタルは「レア」なので、地球上にそんなに多く存在しているわけではありません。人間はその「レア」なものを湯水のごとく使っています。でも、一度失ったものは二度と取り戻せません。木々などの生命は再生しますが、鉱物は再生しないのですから。それで今レアメタルの値段が急騰しているようです。そして、日本はそのレアメタルを全て輸入に頼っています。レアメタルが手に入らなくなった時、携帯電話も、エコ製品も作ることが出来なくなる可能性があります。科学技術はどこまでも進化することが出来ても、資源は有限なのです。ですから、100年後には技術はあっても、携帯がない社会になっているかも知れません。ゴミを作るだけの文明は必ず滅亡します。これは冷静に考えれば小学生にだって分かる事実です。ただ、エコ技術を開発することでその終末までの時間を延ばすことが出来るだけです。二酸化炭素の排出量を減らしたとしても、ゴミが増え、資源がなくなれば、文明は崩壊するのです。まあ、人類が滅亡したら地球は喜ぶかも知れませんけど。人類は「新しい文明の形」を考えなければならない岐路に立っているのです。これはSFの話でも、悲観論者の妄想でもなく、客観的な事実です。子育てや教育もそのような視点での変革が必要なのです。なぜなら人間の価値観を決めるのは教育なのですから。教育こそが人類を救う希望なのです。今まで、「文明」という電車に運転手はいませんでした。それでも電車は小さく、大地は広かったので特に問題は起きませんでした。でも、今電車は巨大化し、大地は狭くなっています。このような状況で安全に電車を走らせるためにはちゃんとした「運転手」が必要なのです。つまり、これからの時代は、「文明のあり方」は自分たちできちんと計画して決めていく必要があると言うことです。流れに任せては行けないのです。そのためには教育から根本的に変えていく必要があります。とにかく競争させては行けないのです。競争させると、「競争」という価値観が染みこんでしまいます。それは文明の死期を早めるだけです。
2009.08.23
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私の印象では、新任の先生の多くは比較的普通だし、まともなような気がします。でも、教師という仕事に慣れてきはじめてきた頃から、少しずつ、思い上がったようなおかしな言動が増えてくるような気がします。さらに、校長先生になると「素敵な先生」と「困った先生」が極端に分かれます。そして、「素敵な先生」は少数で、困った先生が多数を占めるようになります。なぜなら、日本の学校は「校長先生にふさわしい人」が推されて校長先生になるのではなく、「校長先生になりたい人」が校長先生になるシステムだからです。政治家と同じです。元小学校教師の友人が言っていましたが、山登りをする人達の間には「教師は仲間に入れるな」という暗黙のルールがあるらしいです。どうしてかというと、人の話は聞かないし、指示や命令が多く、みんなと一緒の行動が出来ないからだそうです。山登りのパーティーにそのような人がいると、状況によっては全員の命が危険にさらされてしまいます。だから、入れるな・・・。みんながみんなそういう人ではないでしょうが、そういう人が多いということです。ちなみにその友人は、いつでも子どもの立場に立って考え授業をする人で、子どもや親には人気がありましたが校長にはいつもにらまれていたそうです。でも、知名度も実力もあり、また態度もでかいので、校長も強くは押さえ込むことが出来なかったようで、自分のやりたいように授業をやっていました。他にも同じように子どもを大切にした活動をしてきた先生はいますが、みんな出世は出来ませんでした。旅館などでも、教師の集団の宿泊は嫌がると聞きます。先生達は子どもには色々と理想論を言って指導しますが、でも、「お手本」としても立派な先生は多くありません。先生達は「教えろ」と言われたことを教えているだけで、「お手本」であることは求められていないからです。またそういう自覚もありません。子どもには「イジメは良くない」といいながら、先生同士のイジメは結構多いと聞きます。教師は、昔は「聖職」と呼ばれた仕事でしたが、現代では教師も普通のサラリーマンと同じです。長女が入学したとき、最初の父兄と教師との懇談会で、先生達がまず言ったのが「教師もサラリーマンなんです」という言葉でした。だから、「必要以上のことを求めないでくれ」ということなのでしょが、私はその言葉に強い違和感を感じました。なぜなら、普通のサラリーマンなら、自分の部下でもなんでもない人に、上から目線で指示や命令を出したり、人間性を否定するようなことを言ったりすることはないし、またそんなこと許されないからです。また、サラリーマンなら自分の失敗を人に押しつけたりは出来ません。自動車を売る営業の人が自動車が売れないからと言って、それをお客のせいには出来ないのです。教師の仕事は子どもに勉強を教えることです。そのために雇われています。ですから、子どもが勉強を理解できないのは、先生やその教える内容を決めている文科省の責任であって親の責任でも子どもの責任でもありません。家庭教師はまさにそのような仕事をしています。でも、学校の先生は平気でそれを子どもや親のせいにしています。家庭教師がそんなことをしたら、簡単にクビになります。「学校の先生は特別なんだ」ということなら、「私たちは単なるサラリーマンなんだ」などと言わずに、「特別な仕事をしているもの」としての自覚を持って欲しいと思います。その自覚がないのなら子どもや親に上から目線であれこれ指示を出さないようにして欲しいです。ただ、先生にも同情すべき事は色々あります。まず、先生の能力に関係なく、日本の教育は子どもに合わせた教育が出来ないシステムだということです。日本の教育は、「子どもの成長に必要なこと」を「子どもの年令」に合わせて教えているのではなく、「大人が教えたいことを教えるだけの教育システム」なので、先生の努力にも限界があるのです。それは、お母さん達が「お母さんの価値観」を子どもに押しつけようとしているのと同じです。「なぜ歯を磨くのか」、「なぜ手を洗うのか」などということは、どんなに丁寧に、易しく説明しても子どもには理解できないのです。だから、「なんべん言ったら分かるの!!」などと怒り、怒鳴ったり叩いたりしてしまうのですよね。子育てなら、手を洗わなくても、歯磨きしなくても「ま、いいか」で済ますことが出来ますが、先生にはそういう対応は許されていないのです。「今は分からないから、来年教えるか」などと判断する自由は与えられていないのです。また、先生は孤独です。先生は教室の中では王様のようです。でも、相談できる仲間も、仕事を手伝ってくれる家来もいない、たった一人だけの王様です。言うことを聞かない子どもたちを相手に、何でもかんでも自分一人でやらなければならない裸の王様です。「密室育児」という言葉がありますが、クラスは常に密室なんです。しかも、子どもの成績や状態が、自分自身の評価に直結してしまいます。このようなこともお母さん達と似たような状況です。また、勉強を教えること以外の雑用があまりにも多すぎます。お母さんもまた子育て以外の仕事がいっぱいあるので大変ですよね。そのような状況の中でも、ちゃんと自分を保って授業をすることができるためには、精神的に自立している必要があるのですが、そのような人は多くありません。また最近は、昔はあまりいなかったような、「困ったお母さん」、「困ったお父さん」、「困った子どもたち」が増えてきています。そのような人達は、自分の個人的な価値観を先生にも押しつけてきます。でも、親の価値観、子ども価値観は一人一人違いますから、それに合わせて対応することは出来ません。それが集団生活なんですが、個人的に雇った家庭教師に望むようなことを、学校の先生にも平気で要求するのです。そして、それが無理だと分かると、だだっ子のようにすねます。先生はそういう人の相手もしなければなりません。以前、ある幼稚園の先生達の勉強会に呼ばれた時のテーマが、「お母さん達との関わり方」でした。多少困った子でも、子ども相手なら先生達は専門家ですからなんとか対応できるのですが、「困った親」に対応するのは非常に困難なんです。それで、相手の気質に合わせた対応の仕方について話をさせて頂きました。子どもを虐待をしているお母さんが必ずしも人間的にひどいお母さんであるとは限りません。実際には、どうしようもない状況の中で追い込まれて自分のことしか考えられなくなっていることの方が多いのです。学校の先生もまた同じだと思います。「先生」という職業を目指した志の中には、「子どもへの愛」も含まれていると思います。そこを感じ、そこを信じてあげるところからしか、対話の糸口は見つけることが出来ないと思います。先生や学校を非難するだけでではなく、「子ども」という存在を中心に、お互いに助け合う関係が築けたらいいですね。
2016.05.20
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昨日の夜、友人達が企画した自主上映会で「祝の島」という映画を見ました。この映画は有名な『ミツバチの羽音と地球の回転』という映画の番外編のような映画で、原発のことよりも「祝島」(いわいしま)の人々の日々の生活や素顔の方に重点を置いています。原発に対する祝島の人々の活動は、歴史的、地理的な多くの偶然が重なって生まれています。ですから、祝島の人々の活動は、「原発を廃止に追い込みたい」と願う人達に、「なぜ原発に反対しなければいけないのか」という原点を教えてはくれますが、だからといって彼らとは異なる歴史を負い、異なる生活をしている私たちが、彼らと同じように感じ、彼らと同じように行動出来るわけではありません。それは、もし茅ヶ崎に「原発を作る」という計画が起きたとしても、私たちは祝島の人達のように26年間も戦い続けることは出来ないということです。それはどんなにあの映画に感激した人でも同じです。なぜなら、私たちは茅ヶ崎がなくても生きていくことが出来るからです。それに対して、祝島の人達は、祝島やその周辺の海がなければ生きていくことが出来ないのです。それは単に、祝島の人達が漁業で生きているからだけではありません。そうではなく、祝島の人達にとって「海」は生活の一部であると同時に、生命の一部だからです。長い歴史の中で、祝島の人達は海とそのようなつながりを作ってきたのです。そして、私たちの祖先もまた、大地や海とのそのようなつながりの中で生きていたのだろうと思います。その関係は「搾取するもの」と「搾取されるもの」という関係ではありません。「感謝」と「思いやり」でつながった関係です。だからこそ「かけがえのないもの」であり、生命をかけて守る価値があるのです。それに対して、そのような「つながり」を失ってしまった私たちは「根無し草」です。自然に対しても、人間関係においても「根無し草」です。私たちは、同じ地域に住んでいるから、利害関係が一致しているから、同じような子どもがいるからつながることが出来るわけではありません。それらは「つながりのきっかけ」ではありますが、お互いの間に感謝と思いやりがなければつながることは出来ないのです。人間との人間のつながりも、人間と自然のつながりも基本は同じなのです。そして、今ではほとんどの日本人が、「根無し草」になってしまっています。漁業や農業で生きている人たちも同じです。大地や海のことを心配しないで、収穫量や漁獲高の方を心配する人は、大地や海とつながっていないのです。その「根無し草」にとって一番大切なのは「自分」と「お金」だけです。「根無し草は」自分や自分に関係するものは守ろうとします。でも、「根」がないので強い風が吹けば簡単に転がっていってしまいます。そういう人はいつも不安です。だから、根を張って生きている人にあこがれます。そのような生き方をしている人達に会うために遠くまで行く人もいます。そうやってコロコロ転がって生きている人がいっぱいいます。そのような人は「素晴らしい人」の話をいっぱい知っています。でも、自分はその人達のようには生きていません。転がってばかりいるので根を張ることが出来ないからです。私たちは遠くに求める必要はないのです。理想を遠くに求めてしまったら「根無し草」になってしまうのです。それは現代人の悪い癖です。今自分が生きている場所、生活している場所に全てがあるのです。ただ「それ」に気付き、「それ」とつながればいいのです。そうすれば全てが手にはいるのです。つながりがないから、何もないように感じてしまうだけなのです。そのためにはまず「遠くに求めない」ことです。「人をうらやまない」ことです。そして、自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の意志と責任で行動することです。確かに、私たちは祝島の人達のように、豊かな自然やそこで生きるための生活や智恵を受け継いでいるわけではありません。(そういう人もいるかも知れませんが・・・)でも私たちは例外なく、35億年間途絶えることなく受け継がれてきた生命を生きています。そして、45億年の歴史を持つ地球に支えられて生きています。私たちのからだの中には生命の智恵がぎっしり詰まっています。子どもたちは「人間はいかに生きるべきか」を教えてくれます。風は悲しみを吹き流し、喜びを運んでくれます。太陽は生きるエネルギーと幸せを運んでくれます。木々や、草木や、花々は、空気だけでなく喜びを与えてくれます。子どもの笑顔は生きる元気を与えてくれます。毎日の食べ物は生きている実感と、活力を与えてくれます。本を開けば昔の人や世界中の人と出会うことが出来ます。仲間がいれば、一人では出来ないことが出来ます。お金がなくても、頭やからだを使えばもっと楽しく色々なことが出来ます。他に何が必要なのですか。このような「持っていないもの」ではなく、すでに「持っているもの」に気付いていくことで根っこが生えてきて、転がらなくなるのです。すると「本当に大切なこと」「本当に守らなくてはならないこと」が見えてくるのです。
2011.06.08
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子どもは成長を必要としています。また、成長を求めています。それが子どもの本能でもあります。でも、当然のことながら、食べて、寝て、テレビを見ているだけでは成長しません。そこにゲームが加わっても同じことです。衣食住が足りていれば体は正常に成長しますが、それだけでは、意識や、思考や、感覚や、からだや、心の働きが成長しないのです。ではなぜ、子どもは成長する必要があるのかというと、大人になった時に、一人前の人間として、自分の頭で考え、自分の感覚と心で感じ、自分の意思と責任で行動できるようになるためです。多くの人とのつながりの中で、自分の人生を「自分のもの」として、自分らしく幸せに生きるためです。それが人間としての自然な姿なのでしょう。だから子どももそれを求めるのです。でも今、多くの子どもにおいて、それが満たされなくなってしまっています。なぜなら、多くの大人が求めるように、良い成績を取り、良い学校に入り、良い会社に就職するだけだったら、知識を溜め込めばいいだけのことなので、人間として成長する必要がないからです。そして今ではそれが日本の子育てや学校教育の「普通の姿」になってしまっています。でも、子どもの頃は大人が作ったシステムの中で、大人の指示命令に従って生活していれば済むのですが、学校を卒業して社会に出たら、突然、自分の頭で考え、自分の感覚と心で感じ、自分の意思と責任で行動することを求められるのです。「社会に出る」と言うことはそういうことなんです。そこで求められるのは「自由を生きる能力」です。でも今、多くの子どもにその能力がありません。そういう学びをしてこなかったからです。そのため、社会に出ても、指示や命令を出してくれる依存先を探します。それがうまく見つかった子は会社からの指示命令に従って、退社するまで従順に働きます。死ぬまで働かされる子もいます。退職した後も、自分から積極的に動こうとしないので奥さんが困ります。就職が出来なかった子は、アルバイトや派遣になって、やはり同じように指示命令に従って生活します。それにもなじめない子は、ニートになったり、引きこもったりします。それはそれでまともな感覚のような感じもしますが、でも人間は仕事をしないことには生きて行くことが出来ません。指示や命令に従うことが嫌ならば、自分の頭で考え、自分の感覚と心で感じ、自分の意思と責任で行動することで、自分の力で仕事を創り出すことは出来るはずなのですがそれもしません。というか出来ません。また、後継者がいなくて困っている仕事も山のようにあるのに、そういうものを探そうともしないし、そういう世界に入ろうとも思いません。テレビで見ている限りでは、そういう仕事の大部分は、自分の頭で考え、自分の感覚と心で感じ、自分の意思と責任で行動する能力を必要とする仕事が多いような気がするのですが、そういうことも関係しているのかも知れません。今の日本の教育システムが創り出しているのは「労働力」としての人間だけです。日本の教育システムは「人間を育てるためのもの」ではないのです。だから、自分の頭で考え、自分の感覚と心で感じ、自分の意思と責任で行動する能力を育てる必要がないのです。それよりも、「先生の言うことに従順に従う能力」を育てる事の方が重要なんです。でも子どもは、そのような状態の中に押し込められてしまうと、「成長したい」という欲求が満たされなくなり苦しくなります。人間にとって「成長」は本能なんですが、その本能が出口を失って苦しくなるのです。その苦しみが様々な「イジメや」「万引き」のような問題行動につながったりします。私は、学級崩壊もまた、子どもの「成長への欲求」が満たされないことによって生まれているのではないかと思っています。学ぶのが嫌だから騒ぐのではなく、ちゃんとした学びが出来ないから騒ぐのです。学級が崩壊すると学校は厳しい先生を投入して、厳しく管理することでその状態を押さえ込もうとします。でも、それで表面的には大人しくなっても、その「成長出来ない苦しみ」が消えたわけではありません。そのため、その苦しみが仲間に対するイジメや、叱らない優しい先生に対する攻撃という形で表れることもあります。学級崩壊を押さえるためには、子どもの「学びたいという欲求」を満たす授業をしてあげればいいのです。「学ぶって楽しい」ということに目覚めさせてあげれば子どもは落ち着くのです。先生が優しいからと言って、なめたり攻撃的にはならないのです。学校が本来の「子どもを育てる場」「子どもが育つ場」になれば、子どもは落ち着くのです。そうではなく、「子どもを管理する場」になってしまっているから、子どもが苦しみ言動が荒れるのです。これは子育てでも同じです。多くのお母さん達も、学校の先生達と同じように指示と命令だけで子育てをしています。子どもの「学びたい欲求」や「成長したい欲求」に気づき、それを支えてあげようとしているお母さんは多くないような気がします。それでいながら、「これを学びなさい、あれを学びなさい」と「学び」を強要しています。「子どもが必要とする学び」は与えずに、「大人の理想に合わせた子どもを育てるための学び」を押しつけるのです。その苦しみの中でゲームの中だけが子どもの救いの場になっています。そこまでは大人が追ってこないからです。また、ゲームの世界の中には擬似的な体験があるので、擬似的な成長もあります。それが楽しいのです。でも、現実の世界以外の所に自分の居場所を作ってしまうと言うことは、それはそれで別の問題につながるのです。では、「子どもの成長を支えることが出来るような子育て」とはどのようなものなのか、それを明日書きます。
2019.11.02
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***************クリスマスお目出度うございます。今日から「子どもの育ちに必要なもの」にテーマを変えます。楽しい「クリスマスイブ」を過ごすことが出来ましたか。クリスマスは、イエス・キリストの誕生を祝う日ですが、歴史的に正確な誕生日は不明だそうです。ただ、冬至のこの時期は「太陽の力が一番弱まり、ここを境にして太陽がまた力を取り戻す」という非常に象徴的な時期なので、イエス・キリストの誕生もこの時期に設定されたようです。ですから、キリスト教以外でも、多くの宗教、または文化圏で、この節目はお祝いします。ただ、自然界は循環によって成り立っているので、一度下降してもまた時が来れば自然と上昇に転じますが、人工的に作られた人間の社会で起きていることはなかなかそういう訳にはいきません。人工的に作り出されたものや社会には、「循環のシステム」が内蔵されていないからです。人のからだは、病気になっても大したことなければ自然と元に戻りますが、機械はそれがたとえ小さな故障であっても、自然と直るということはないのです。(そういう研究も進んではいますけど)そのため、下降を上昇に転じるためには、やはり人の意思と判断と行動によって流れを変えるしかないのです。人工的な世界では、待っているだけではドンドン状況が進行していくだけなんです。「みんなやっているから大丈夫」、「これが今時の普通だよ」、「時代は変わったんだよ」と流れに流されているだけでは、取り返しのつかないところまで自然降下してしまうのです。今、子どもたちの状態がどんどんおかしな事になってきています。皆さんもニュースで見たかもしれませんが子どもたちの体力が最低記録を更新しています。 スポーツ庁は23日、小学5年と中学2年の2019年度「全国体力・運動能力、運動習慣等調査」(全国体力テスト)の結果を公表した。実施種目の成績を点数化した「体力合計点」は08年度の調査開始以降、女子が上昇傾向、男子も横ばい以上で推移してきたが、いずれも大幅に低下した。男子が顕著で、小5男子は過去最低、中2男子も過去5年で最低となった。高齢者体力、向上継続=30、40代女性は低下-18年度体力調査・スポーツ庁 スポーツ庁は背景として、(1)授業以外の運動時間減(2)スマートフォンなどの使用時間増(3)小中男女の肥満増―などがあると指摘。運動習慣の確立とともに、運動時間を延ばす施策を推進する。https://www.jiji.com/jc/article?k=2019122300593&g=socまた、昨日、お子さんが中学校に通っているあるお母さんから聞いたのですが、周囲に起立性調節障害の子どもが増えてきているようです。簡単に言うと「朝起きられない」というような状態です。起立性調節障害は、自律神経系の異常で循環器系の調節がうまくいかなくなる疾患です。立ち上がった時に血圧が低下したり、心拍数が上がり過ぎたり、調節に時間がかかりすぎたりします。この疾患は自律神経疾患なので身体的要素以外に、精神的、環境的要素も関わって起こると考えられています。身体的要因のひとつとして、自律神経系が不安定になることが挙げられます。小学校高学年~中学生に多くみられますが、この時期は第二次性徴期とも重なり、体の様々な機能が大人へと変化していく時期です。この変化は自律神経系にも起こるため、循環器系の調節がうまくいかなくなることがあります。また、真面目で気を遣うタイプの子どもが起立性調節障害になりやすいと言われていますが、これはストレスをため込みやすいという精神的、環境的要素に関連すると考えられます。注意しなければいけないのは、あくまでも体の病気であり、本人が頑張ればどうにかなるということではありません。https://www.saiseikai.or.jp/medical/column/od/体力が低下すれば必然的に生命力が低下します。生命力が低下すれば、命の働きに支えられている全ての機能が低下します。意思の力も、集中力も、思考力も、免疫力も、肯定的な感情も、精神的な安定も、身体的な安定も失われます。当然、自律神経系系の働きも低下します。自動車でいうと、バッテリーの機能が低下して、出力が不安定になったり低下しているような状態です。そして、バッテリーの状態がおかしくなれば、それは自動車の全ての機能に影響してきます。エンジン(からだ)を動かせばまた電気をチャージできるのですが、それもしないので、状態はドンドン悪化していきます。ただ、ガソリン(食べ物)も不純物が多いものや質が悪いものを入れていたら、エンジン(からだ)を動かそうと思っても、思うようには動きません。それでも無理に動かそうとすればエンジンが壊れてしまうでしょう。また、自動車を使う目的も必要です。どこにも行きたくない人を運転席に座らせてもエンジンを始動させないでしょう。その必要がないからです。運転を始めたとしても、目的がないのですから退屈です。するとスマホやゲームをいじりたくなります。でも、スマホやゲームをいじりながら運転していたら事故を起こします。だからこの問題は、運転手(子ども)が目的を見つけ、質の良いガソリン(食べ物)を入れ(食べ)、どんどんエンジン(からだ)を動かせば自然に回復するのです。でもなぜか、みんな不調の出ているところだけを修理(治療)しようとしています。バッテリーの機能が低下しているからエンジンが動きにくくなっているのに、エンジンの修理をしようとするのです。体力低下の問題も、体操教室に通わせたり、何らかのスポーツクラブに通わせることで解決しようとします。でも、「からだを動かす喜び」が育たなければ、その効果は限定的です。一番大事なことは、「からだを動かさせる」ことではなく「からだを動かす喜び」を育てることなんです。でも、指示や命令によって子どもを動かそうとする体操教室やスポーツクラブではこれは育たないのです。そういう所で才能を発揮する子は、最初からからだを動かすことが好きな子です。からだを動かすのが苦手な子は、余計に嫌いになるだけです。また、社会がドンドン不寛容になって、子どもたちが公園で自由に遊び回るのを嫌う大人が増えて来ました。昔の子は自然の中や町中で自由に遊び回っていました。大人もそれを黙って見守っていました。それが高度経済成長の頃から公園のような人工的な場所だけで遊ぶように追い立てられ、さらにその場所まで奪われようとしています。本質的な問題には目を向けず、また、そういう状態は放置したままで、それで「子どもの体力が低下した」「起立性調節障害の子が増加した」と騒ぎ立てているのです。言葉は悪いですが「ばっかじゃないの」と言うしかありません。先日亡くなった中村医師は、「水が足らなかったり、不衛生なことから生まれてくる心やからだや社会の苦しみは薬では治せない」というような発想から井戸作りをしたそうです。https://www.tokushukai.or.jp/media/newspaper/1215/article-9.php今、そういう発想が求められているのです。でもそれをされると製薬会社や医師が困るのです。そして、お金によって支えられている政治や経済も困ります。だから、親が動くしかないのですが、でも、親もまたお金によって操られているマスコミに踊らされています。
2019.12.25
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世界中に自分一人しかいない状況で育った人は、自分の個性が分かりません。比較対象がいないからです。自分は背が高いのか、低いのか、頭がいいのか、頭が悪いのか、美人なのか不美人なのか、どういう性格なのか、そういうことの全てが分かりません。というより、自分一人しかいない世界に住んでいる人は、「個」という意識自体を持つことが出来ません。自分が世界の全てだからです。そこに一人の異性が現れれば、自分と相手との違いに気付きます。でも、分かるのは一対一の違いだけです、自分の個性までは分かりません。「個性」や「個としての自分」に気付くためには「集団」との出会いが必要になるからです。そこに様々な性の人が集まって来れば、自分が男性という性に属するのか、女性という性に属するのかが分かります。そして、「全く女という生き物は」とか、「全く男という生き物は」というようなことを言い出す人が現れます。そこで、「自分にとっての性という個性」に気付きます。「集団の中の個」という体験も出来ます。人が「一人の人間としての自分」や「自分の個性」に気付くためには、「自分とは異なる人達」との出会いが必要になるのです。そして、相手との違いの中に「個としての自分」や「自分の個性」を発見することが出来るのです。他者との出会いや関わり合いが、自分と他者との違いを意識させ、個としての意識や自分が持っている個性への気付きを促してくれるのです。その時、「どういう場で、どういう他者と、どういう状況で関わったのかと」いうことで、「見えて来る自分の姿」も変わってきます。異性と関わることで、自分とは異なる性の人の特徴に気付きます。それはまた、自分の性への気付きでもあります。何かしら集団で活動する場で、他の人と出会えば、様々な人の能力と出会います。それはまた「自分の能力」への気付きを促してくれます。スポーツや戦いの場では、他の人の身体能力と出会います。そのことで、自分自身の身体能力への気付きも生まれます。人間以外の生き物たちと出会い、関われば、「人間」と「人間以外の生き物」の違いに気付きます。それはまた「人間としての自分」への気付きにも繋がります。さらに、石や、水や、鉄といった、「命を持たないもの」と出会い関われば、「命を持たないもの」と「命を持つもの」との違いに気付きます。外国の人と関われば、外国の人と日本人との違いに気付きます。外国語を学べば、外国の人のものの考え方と出会えます。それは同時に、日本人のものの考え方への気付きにもつながります。(翻訳機を使ったら外国の人の考え方と出会えません。)人は、そうやって他者との出会いを通して、他者のことを知ると同時に自分のことに気付いていくのです。それが自分自身の個性への気付きにも繋がっていくのです。そしてまた、自分の個性に気付き、大切にする事が出来るようになることで、他の人の個性も大切に出来るようになるのです。そういう出会いの体験がない人に「自分の個性を大事にしよう」とか「自分の個性を生かそう」と言っても、そもそも自分が何者であるのかが分からないのですから、何を大切にしたらいいのか、何を生かしたらいいのかが分からないのです。で結局、自分の欲求や感情を大切にしようとします。それしか分からないからです。でもそこには「他者」が存在していません。自分の欲求や感情だけを大切にしている人には他者は存在していないのです。当然、自分の個性も分かりません。「個性を大切にしよう」と言われても何のことか分かりません。人が自分を知り、自分の個性を生かすことが出来るようになるためには、多様な他者との、多様な形での関わり合いが必要になるからです。でも、その多様な他者との多様な出会いを阻害されている現代の子どもたちは、自分を知り、自分の個性を生かす能力を育てることが出来なくなってしまっています。当然、そういう状態では、他者を尊重する気持ちも生まれません。
2020.06.23
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最初にちょっとお知らせです。noteの方でも記事を書きます。ただし、noteの方は「気質」の話だけで、3回目以降は有料(100円・クレジット払い)になります。それと、毎日書いているブログと違って不定期になります。ブログに書いた過去記事も転載しますが、noteの方は気質だけしか扱わないのと、目次も付くようなので、気質に興味のある方は調べやすくなると思います。また、一回がブログ三日分ぐらいの量になると思います。noteはこちらです。まだ自己紹介しか書いていませんが覗いてみて下さい。*****************人は皆、眠る時には目を閉じます。目を閉じないことには脳が休まらないからです。眠らなくても、ただ楽な姿勢になって目を閉じるだけでも頭やからだは楽になります。でもそれは、それだけ私たちの脳は日常的に「目から入ってくる強い刺激」に晒されているということでもあります。特に現代人は目への依存がかつてないほどに強まっています。また、過去にないほど偏った使い方をしています。そしてそれがまた、心と、脳と、からだへの強いストレスを生み出しているのです。本来、「視覚」と呼ばれる感覚は、聴覚、味覚、触覚、嗅覚などと同じように「感じるためのもの」でした。色や、光や、空間や、形や、動きや、変化などを感じるものとして視覚があったのです。そして、視覚がそのように使われている時には、視覚は心にも、脳にも、からだにもストレスを生み出しませんでした。シュタイナー教育では、視覚のその「感じる働き」を大切にしています。視覚だけでなく,全ての感覚の働きにおいて「感じる」ということを大切にしています。でも現代人は、その視覚を「感じるためのもの」ではなく、「判断するためのもの」として使っています。赤い色を見て「これは赤だ」判断し、文字を見てその意味を判断し、物を見てそれが何であるかを判断し、形を見てそれがどんな形であるかを判断するために、視覚を使っているのです。モンテッソーリ教育ではそのような視覚の使い方を大切にしています。五感の他の感覚に対しても同じです。それ故、社会のニーズには合っています。古代の人にとって感覚は「感じ、味わい、一体化するためのもの」でしたが、現代人にとって感覚はデジタル的なセンサーと同じように「判断するための道具」になってしまっているのです。社会が機械化、デジタル化すると共に、人間の感覚もそれに合わせた使い方をするようになってきたのです。でも、このような感覚の使い方は、何万年前と変わらない状態の「動物としての人間のからだ」には不自然なのです。それは感覚の働きが生まれてきた理由を考えればすぐ分かることです。動物だけでなく全ての生物にとって感覚の働きは、周囲の状況や環境を感じ取り、それに適応したり、危険を感じたり、餌を採ったり、身を守ったりするためのものとして発達してきたのです。その際、いちいち脳の判断を待っていたら手遅れになってしまいます。それに脳の判断は迷います。そもそも、脳を持っていない生き物もいっぱいいますが、感覚の働きを持っていない生き物はいません。もともと、感覚の働きは脳の支配下にあるものではなかったのです。それが、人間が脳の働きが創り出した人工的な環境の中で暮らすようになってくると、頭が勝手に感覚の働きを脳の道具として使うようになってしまったのです。そして、その不自然な感覚の使い方が現代人の心とからだに強いストレスを与えています。また、感覚が本来の感覚の働きを失うことで、心とからだの「内側の世界」と「外側の世界」がダイレクトに繋がらなくなってしまい、それが「なんとなく不安」という感情を創り出してもいます。それは目を閉じて歩いている時に感じる不安と同じものです。それでも、7才前の幼い子どもたちはまた古代人と同じ感覚世界に生きているので、感覚の働きを脳の道具として使うことが出来ません。だから、「ちゃんと見なさい」、「ちゃんと聞きなさい」と言っても、なかなか出来ないのです。でもそれは,お母さんにとっては困った状態ではありますが、幼い子どもに取っては自然な状態であり、自分の心とからだの安定を保つためには大切な状態でもあるのです。それを、「困ったこと」として捉え、大人と同じような感覚の使い方が出来るように訓練してしまうと、子どもは心とからだの中に「不自然」を抱えることになり、それが「心とからだの強い緊張」や「なんとなく不安という感情」の原因になってしまったりするのです。
2020.07.14
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noteに気質の新しい記事を書きました。三つのテーマで書いていますが、最初の一つだけは無料なのでご覧になって下さい。二つ目以降もお読みになりたい場合は有料(100円)になります。https://note.com/morinokoe**************昨日も書いたように、体験が子どもの成長を導くのですが、でも、実際には子どもの知性や、心や、からだの成長に繋がるような体験をするのはそう簡単ではありません。同じ体験をしても、その体験を通して何に気付き何を学ぶのかは人それぞれだからです。子どもたちを森に連れて行っても、「暗くて怖い」、「虫がいていやだ」、「何も遊ぶものがないからいやだ」という体験しかしない子もいれば、「木の香りが良かった」「風が気持ちよかった」「色々な生き物がいて面白かった」「木が大きくて驚いた」「色々な音があって面白かった」「光が綺麗だった」などという発見をする子もいます。これは大人でも同じですよね。そして、後者の「色々と肯定的な体験」が出来た子は、その体験を通して自分の世界を広げ、知性や、心や、からだを成長させることができるでしょう。でも、否定的な体験しかできなかった子は、その体験からは何も学べないのでしょう。どうしてこのような違いが起きるのかというと、体験というのはその場だけで起きているものではないからです。それはどういうことかというと、「新しい体験」は「日々の生活の場での体験」の延長に過ぎないからです。つまり、お散歩や、お買い物などの時に、道ばたにある身近な自然に気付き、お母さんとその自然についての色々な会話をしている子なら、森の中に入っても色々なことに気付き、色々な体験をする事が出来るでしょう。また、いつも自然に繋がるような絵本を読んでもらっていたり、そのようなお話しを聞いている子どもも、森の中で色々な発見をする事が出来るでしょう。でも、全く自然から切り離されたような生活をして、自然に繋がるような会話もせず、絵本も読まず、ゲームや人工的なオモチャでばかり遊んでいるような子をいきなり森の中に連れて行っても違和感しか感じないと思います。そして、森から肯定的なことを学ぶことが出来ないでしょう。お母さんとしては、「いつも人工的な環境の中で暮らしているから、たまには自然の中に連れて行ってあげよう。そうすれば少しは自然が好きになるかも知れない。」と考えるのかも知れませんが、いきなり毎日の生活の場と全く異なるところに連れ出された子どもは面食らうだけです。不安も感じるでしょう。どうしていいのかも分からないでしょう。そして「もうあんな所行きたくない」と言うでしょう。結果として、森を好きにさせるための体験が、逆に、森を嫌いにさせてしまうのです。よく、「子どもたちに自然体験をさせたいんだけど、うちの周りには自然がないんです」と言うお母さんがいますが、そのようなお母さんの言う「自然」は「リアルな自然」ではなく「観念としての自然」にすぎません。「自然とはこういうものだ」という先入観があるのです。だから身近にある自然に気付かないのです。またそれを大切にしないのです。そもそも「食べ物」自体が自然ですからね。私たちは「自然」を食べて生きているのです。ですから、「食べ物」の話をするだけでそれは「自然」の話に繋がっていくのです。そういうことに気付かないお母さんもまた、自然があまり好きではないのでしょう。そのため、生活の場でも自然を大切にしてない可能性が高いです。そして、そのような生活をしている子を、いきなり森の中に連れて行っても森から学ぶことは出来ないのです。ここでは「森」とか「自然体験」についていますが、これは全ての体験について言えることです。人間関係の体験でも、社会体験でも同じです。家族がつながり合って生活していれば、子どもは家の外でも仲間とのつながりの中で遊ぶことが出来るでしょう。でも、家族がバラバラでは、子どもは「人と人が繋がる」という体験が出来ないため、仲間ともつながり合って遊ぶことが出来ないでしょう。お母さんが、毎日の生活の場での、些細な体験を大切にしていると、子どももまた体験を楽しむ感性を育てることが出来るのです。そしてそれが子どもの知性や、心や、からの成長の基礎にもなっていくのです。子どもから毎日の生活や様々な体験を奪って早期教育に追い立ててしまったら、子どもは自分で学ぶ力を育てることが出来なくなり、結局は行き詰まってしまうのです。急がば回れです。
2020.08.06
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本人に自覚はありませんが、耳は年齢が上がるに従って高い音が聞こえにくくなるそうです。10000Hz:60代の方まで聞こえるレベル12000Hz:50代の方まで聞こえるレベル14000Hz:40代の方まで聞こえるレベル15000Hz:30代の方まで聞こえるレベル16000Hz:20代の方まで聞こえるレベル18000Hz:モスキート音この若者にしか聞こえない「モスキート音」を、コンビニなどがお店の前に若者がたむろしないように流すこともあるようです。ただし、私には聞こえないのでそれが事実なのか、都市伝説なのかは分かりません。それで、先日、ネットで「あなたは耳年齢は?」というサイトを見つけたので試してみました。1000Hz 60代 楽勝1200Hz 50代 楽勝ここまでは良かったのですが、1400Hz(40代)-聞こえない、1500Hz(30代)-聞こえない・・・・モスキート音なんて全く聞こえません。という悲しい現実に出会いました。全く聞こえないので本当に音が出ているのかが、誤魔化しているんじゃないかと疑ったりもしてみました。ただその時面白いことに気付いたのです。悔しいので何回も繰り返して聞いていると、30代、40代の音の時には何か「違和感」を感じるのです。聞こえてはいないのに、何かザワザワ感はあるのです。最初はそれは「気のせい」だと思ったのですが、何回も繰り返していると、20代の音ではそのザワザワ感がぴたっと消えるのです。30代、40代の音の時にだけザワザワ感じるのです。それで私はこの現象を、「耳(意識)には聞こえていないけどからだには聞こえているんだ」という風に理解しました。その対象を具体的には認識できなくても、からだは確かにそれを感じていたのです。からだはそれを「ザワザワ感」で伝えようとしたのでしょう。もしかしたら、皆さんが何か違和感を感じたり、ザワザワ感を感じたときは、頭ではその対象を確認出来なくても、確かにそこに「心とからだに良くない影響を与えるもの」が存在しているのかも知れ得ません。この違和感やザワザワ感が続くと人は不安を感じます。そして心とからだが不安定になっていきます。だから、違和感やザワザワ感を感じたら、その対象が何なのか分からなくても、早急にその場から離れた方がいいと思います。この違和感やザワザワ感のようなものを感じる能力を「直感」といいますが、一般的に男性よりも女性の方が直感力に優れています。直感力が「命を守るための能力」の一つだからなのでしょう。それに対して、男性はあまり直感を重要視しません。ちゃんと見えるもの、ちゃんと聞こえるものしか相手にしない傾向があります。そして、直感ではなく論理を重視します。だからそこで男性と女性の意見の対立が起きたりしてしまうのですが、これは役割分担であって優劣ではありません。何かを作り出すような具体的な作業の場合は論理的に考える男性的な能力が必要になります。男性の能力は「物」や「抽象的な概念」や「人工的な世界」を扱うときには非常に重要な能力なんです。でも、「命や、自然や、心や、からだの状態を感じる能力」に関しては女性の方が高いのです。目で見え、耳で聞こえるものしか信じようとしない男性は、この能力に劣るのです。ただし、これはそういう傾向があるというだけのことであって個々の人においては女性的な能力に優れた男性もいれば、男性的な能力に優れた女性もいます。また、気質も関係しています。ですからここで書いているのは「一般論としては」ということです。女性でも胆汁質が強い人は、男性的な考え方や判断を好む傾向があります。男性でも憂鬱質が強い人は、女性的な考え方や判断を好む傾向があります。子どもを守る時に必要なのは、この女性の直感力なんです。でも、社会は男性論理で動いています。
2021.09.25
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現代社会では、多くの人が「心の苦しみ」を抱えています。それは、便利な機械や社会的インフラの普及と共に、私たちが「からだを動かす生活」をしなくなった事とも関係しているのですが、社会から多様性が失われ、知識や、常識や、考え方が固定化され、多様性が肯定されなくなってしまったこととも関係しています。現代社会では、みんなが流行に合わせて似たようなものを買い、似たような趣味を持ち、「観光地」と呼ばれる似たような所に旅行に行き、テレビで紹介されているような似たような遊びをしています。職業も、本当は無数にあるのにみんな似たような所に就職したがっています。そしてみんな似たような生活にあこがれています。子どもに対しても似たような価値観や活動を求め、似たような子ども像を「理想的な子ども」として考え、似たような勉強をさせ、似たような基準で子どもの上下、優劣を判別しています。「しつけ」も、子どもの個性や成長の程度など無視して、みんなに同じ「しつけ」を押しつけています。それを煽っているのがテレビなどのマスコミですが、現代人はそれを当然の常識として受け入れ、その社会の流れから外れないように必死に頑張っています。子どもの成績が悪かったり、子どもが「幼稚園(学校)に行きたくない」と言った時に感じる不安感もそこから生まれています。また、このように多様性が失われることで競争も始まります。広い野原では競争は始まらないのですが、そこに道が出来、選択肢が減れば競争が始まるのです。そしてそれは、人々の心からゆとりを奪います。でも同時にその競争が経済活動を活性化させているので、その流れに疑問を感じる人は多くありません。でも、このようにして、社会の文明化が進めば進むほど多様性が失われ、競争が激しくなり、そして最後には自滅します。これは人類の歴史が示す通りです。でも、一度この流れに飲み込まれてしまうと、「乗り遅れないように」とか「落ちこぼれないように」といった不安に支配されるようになり、思考が停止し、何の疑問も感じずに競争に参加するようになってしまうのです。その結果、「多様性」によって支えられている心やからだが苦しみ始めるのです。人が森や自然の中に行くことで心やからだが緩み、癒やされるのはそこに多様性があるからなんです。生命の世界も、自然界も多様性によって支えられているのです。 でも、最近では「社会の部品」として完成されてしまい、自然の持っている多様性を受け入れることが出来ない感性の人達も増えてきています。そのような人達は、ちゃんと管理され、ちゃんと整理整頓された人工的な環境の中でないと安心出来ないのです。出産も子育ても管理されていないと不安になります。病気に対しても薬などで管理していないと不安になります。子どもの遊びも管理していないと不安になります。生活の場も、自由に管理出来る場でないと不安を感じます。子育てを「楽しいもの」として感じない人が増えてきたのも、そういう人が増えてきたからだと思います。本質的に子どもは「管理不能な生き物」だからです。「心」を病む人が増えてきたのも同じ理由からだと思います。「心」は管理出来ないものなのに、その「心」を管理しようとするから「心」が病んでしまうのです。自己肯定感が低い人も自分の「心」を管理しようとしている人です。管理しようとしても管理出来ないから自信を失ってしまっているのです。でも、「心」は「管理するもの」ではなく、「自分」と「世界」をつなぎ、「自分の生き方や人生を支えてくれる大切なパートナー」なんです。だからその声に耳を澄ますべきなのに、「心の声」に耳を傾けないばかりか、逆に「頭で考えた正解」を「心」に押しつけてしまっているのです。確かに文明は「安心」を与えてくれました。文明のおかげで、私たちは食事や、住居や、オオカミやクマに襲われる心配をしなくても良くなったのです。でもそれと引き替えに心や感覚や思考の「自由」を失いました。そしてそのことで新しい不安が生まれました。それは、自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の意思で行動していない事から生まれる不安です。それは、目を閉じて歩いているかのような不安です。生命の働きが発する本能的な不安です。そして、この不安に対して文明は無力です。薬も効きません。どんな贅沢な暮らしをしても、どんな権力を得ても消えません。大人だけではありません。子どももまた管理された環境の中では本能的な不安を感じるのです。それは自分の生命の働きを否定される事から生まれる不安です。その結果、他者や自分自身に暴力的になったり、生きる意欲を失ったりします。だからといって私は文明を否定しているわけでも、「文明を放棄しなさい」ということを言いたいわけではありません。そうではなく、「ちゃんと目を開け、今自分たちが置かれている状況に気付き、流れに流されないようにして下さい」ということを言いたいのです。
2022.03.14
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「虹が好き」さんから、以下のような質問が来たので、今日は「習い事」について私の考えを書いてみます。私の周囲には子供にたくさんの習い事をさせています。4.5個は当たり前のようで、自由に能動的に過ごす時間はないように見受けられます。大人にとっての習い事は楽しみ、ストレス発散?なのですが、子供には訓練のようだと思います。可能性と機会を奪わないようにというのが周囲の意見でした。習い事は自由で能動的ではないものがほとんどであるかと思いますが、幼少期の習い事についての先生のお考えをお聞かせいただけたらとおもいます。子どもをいくつもの教室に通わせている人は、「虹が好き」さんがおっしゃるように「いっぱい習い事をさせることが子どもの可能性を拓くことになる」と考えているのでしょうね。でも実際に、毎日そのように育てられて大人になった多くのお母さんと関わっている私の印象としては、それは単なる「親の思い込み」に過ぎないと実感しています。ほとんどの人において、子どもの頃に学んだことが、その人自身の生き方や、考え方と繋がっていないように感じるからです。その習いごとをしたことで、その人の人生の可能性が広がったようにも感じません。このブログを読んで下さっている皆さんも、子どもの頃に多くの習いごとをしたと思いますが、その習い事が今の自分自身の人生の可能性を拓いてくれたと感じていますか。大人になった今でも、趣味として残っている人はまだいい方です。でも、そういう人は少ないように感じます。ほとんどの人が「昔、習っていたけど・・・・」と、過去の出来事になってしまっているのではないでしょうか。そもそもが「子どもの可能性」ってなんでしょうか。まだ未知数の子どもの可能性を、その可能性の中味を知らない大人が活動内容を限定して与えることで拓くことが出来るのでしょうか。毎日、走る練習をさせれば、みんなが走ることが好きになったり、早く走れるようになったり、走ることで自分の可能性を拓くことが出来るようになるのでしょうか。もともと「走る才能」があった子はそれでもいいかも知れませんが、「走る才能」ではなく「絵を描く才能」を持っていた子は、走ることばかりを強要されることでその才能が潰れてしまうかも知れません。ただし、習い事の全てを否定する気はありません。子どもの才能を感じて、その才能をもっと伸ばしてあげたいと教室に通わせるのはOKだと思います。また、「お母さん自身もピアノが大好きだから子どもにもやらせたい」というのもOKだと思います。子どもがピアノを学ぶことで、お母さんとの共通の趣味、話題が生まれるからです。一緒に演奏したり、一緒に演奏会などに行って楽しむことも出来るでしょう。お母さんが踊ることが好きだから、子どもにもやらせるお母さんが山登りが好きだから、子どもにもやらせる。お母さんが英語が好きだから、子どもにもやらせる。お母さんが勉強が好きだから、子どもにもやらせる。お母さんがテニスが好きだから、子どもにもやらせる。これは、そういうことが好きなお母さんの元に生まれてしまった子どもの宿命ですからしょうがありません。また、そのことで親子の繋がりも深くなるでしょう。(ただし、子どもがそのことを喜ばず、強く拒絶するときには止めた方がいいです。子どもの拒絶にはちゃんと理由があるからです。)子どもに自分の趣味を押しつけることを悪いことのように考える人もいますが、でもそれは、日本で日本人の元に生まれた子に、子どもの意見を聞かずに日本語を教え、日本人としての考え方やマナーを教えるのと同じことですから、悪いことではないのです。また、親が大切にしていることを子どもにも伝えることは、その子の「ルーツ」を育てることにもなります。ただし、子どもが成長して自分の考え方や意思を持つようになって、「私は日本人ではなくアメリカ人になりたい」と言い出したら、それを尊重してあげる必要はあると思います。「ピアノなんかやりたくない」と言い出したら、それを尊重してあげる必要があります。でも、それまでは、お母さんの趣味を押しつけてもいいのです。でも、だとしたら習い事はせいぜい、1つか、2つぐらいで十分なはずです。お金を払って教室に通わせなくても、お母さんが教えてもいいはずです。一日に2つとか、週に5個とか習い事に行っている子もいますが、これはやり過ぎだと思います。親自身にポリシーがありません。子どもも疲れてしまいます。それにこんなことしていても、学んだことが身につきません。逆に混乱してしまいます。習い事の「やりすぎ」は子どもの可能性を拓くどころか、逆に潰してしまうと思います。親が仕事で忙しいから、子どもの居場所として教室に通わせている人もいます。「みんながやっているから」という理由だけで、子どもを様々な教室に通わせている人もいます。「虹が好き」さんが言うように、「子どもの可能性を拓くため」という理由で教室に通わせている人もいます。そのようなお母さんは自分に自信がない人のような気がします。放課後の「子どもの居場所」がなくなってしまったことの影響も大きいと思います。昔の子はみんな、学校から帰った後は家の外で、暗くなるまで仲間と遊び回っていました。そして、そのような場で子どもは自分の可能性を拓いていました。でも今、学校から帰った後仲間と遊びたいと思っても、外で遊んでいる子がいません。放課後、子どもが集まっているのは色々な習い事の教室だけになってしまっているのです。そんなにイッパイ通わせたくないと思っても、通わせざる終えないような社会になってしまっているのです。でも、そのような場では子どもたちに自由がありません。家の中でも、学校でも、学校から帰った後でも、今の子に「自由」はないのです。そして、自由がなければ子どもの可能性も拓かれないのです。もし習い事に通わせるのなら、お母さん自身が本当に大切だと思う一つか、二つにした方がいいと思います。また、出来るだけ子どもの自由を尊重してくれる教室を選んだ方がいいと思います。それならば、子どもの可能性を拓く手助けになると思います。あとは、お母さん自身の生活を変えることです。
2022.06.11
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「家族」は「子どもの育ちを支える環境」の最小単位です。豊かな人間性を育てるためには「家族」だけでは十分ではありませんが、「家族」が崩壊したままだと子どもはその「人間らしさ」を育てることができないのです。ただし、この場合の「家族」は「お互いに信頼し、支え合っている仲間」のことです。血はつながっていなくても、「お互いに信頼し、支え合っている仲間」なら「擬似的な家族」として、子どもの育ちを支えることができます。逆に、血はつながっていても、同じ家の中で暮らしていても、信頼し、支え合うことなくバラバラに暮らしているのなら、それは「同居人」であって「家族」ではありません。私が言っているところの「家族」は日本語の「家族」よりも、英語の「Family」に近いです。「家族」をネットの辞書で調べると同じ家に住み生活を共にする、配偶者および血縁の人々。と書いてあります。(Oxford Languages)それに対して、「Family」は家族、一家、(一家の)子供たち、(血縁関係のある)一家、一族、一門、家柄、名門、(共通の特質によって関係づけられた民族などの)一群、(マフィアなどの)暴力団の一家と書いてあります。( Weblio辞書)英語の授業では「家族=Family」と習いますが、実際には、この二つは同じものではないのです。「家族」は「血のつながり」を大切にしていますが、「Family」の方は「血のつながり」よりも、「大切なものを共有している仲間」的な要素の方が強いのです。逆に言えば、だから、シングルのお母さんやお父さんでも(英語的な意味での)「家族」を作ることは出来るのです。そして、子どもの「人間らしさ」は「血のつながり」の中で育つのではなく、「大切なものを共有している仲間」(Family)の中で育つのです。いくら血がつながっていても、心がバラバラであったら、子どもの「人間らしさ」は育たないのです。でも、簡単で便利な機械の登場や、みんなが「自分の欲」を満たすことだけに夢中になることで、家族は同じ屋根の下に住んでいてもバラバラに生活するようになってしまいました。今、「家族同士で共有しているのは家と、お金と、ネット環境だけ」という家族も多いのではないでしょうか。「心のつながり」を支えるようなものを共有している家族がどんどん少なくなってきてしまっているような気がします。子ども達もゲーム機さえあれば、何時間でも一人で遊ぶことが出来るし、それ以外のことを求めてもいません。その結果、子どもの周囲から、「子どもが育つ環境」が消えてしまったのです。お父さんが「お金を稼ぐだけの人」になってしまって、「家族(Family)の一員」ではなくなってしまっている家族もいっぱいあります。お母さんも「簡単で便利な子育て」を求めて、我が子との間に「家族としてのつながり」を作ろうとしていない人も増えてきています。「出産も子育ても、楽で簡単な方が方がいい」と考える人たちが増えてきたのです。出産で痛い思いをするのも、子育てで自分だけ苦しむのも嫌なんです。でも、「家族」(Family)は「与えられるもの」ではなく、「自分の努力で育てるもの」なんです。みんながそういう意識を持ってお互いに支え合わないことには「家族」は成り立たないのです。ちなみに「出産」は、「お母さんによる一方的な作業」ではなく、「お母さんと子どもの共同作業」です。子育ても「お母さんと子どもの共同作業」です。だから、「子どもの言葉」にも耳を傾けないことには「子育て」は成り立たないのです。でも、そのことに気づかない人がいっぱいいます。
2023.11.30
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私は30年ぐらい子ども達と関わる仕事をしていますが、その間に子ども達も、お母さんたちも大きく変化してきました。社会の変化に伴って、その社会の中で生きている人たちの意識も変化するのは当たり前だし、それは人類誕生以来続いてきたことではあるのですが、今回は変化はちょっとこれまでの変化とは異なる様子なんです。それは、ここ数十年で起きた社会的変化が人類史上初めて起きた変化だからなのでしょう。その「人類史上初めて起きた変化」とは「人と人のつながりの喪失」です。この場合の「人と人のつながり」とは、「実際に会い、触れ合うような直接的なつながり」のことです。「機械を介した間接的なもの」は含みません。人類は、人類誕生以来「人と人のつながり」に支えられ、「人と人のつながり」の中で生まれ、成長し、生きてきました。妊娠・出産・子育ても、「人と人のつながり」の中で行われてきました。でも、人間の代わりに色々なことをやってくれる便利な機械が家庭の中に入り込むようになると「人と人のつながり」がなくても生きることが出来るようになりました。実際に会わなくても話しをすることが出来るようになりました。自然がなくても、仲間がいなくても、楽しく遊ぶことが出来るようになりました。科学の進歩で、直接的な「人と人のつながり」がなくても生活できるようになったのです。そして、コロナ騒動を通してその流れはさらに加速しました。でもその「人と人のつながり」は、人間が人間らしく成長し生きていくためには絶対的に必要なものなのです。その「つながり」があったからこそ、言葉が生まれ、社会が生まれ、文化が生まれ、科学が生まれ、人間らしい精神や高い知能が目覚め、それらが継承されてきたのです。現代に生まれてきた子どもたちでも、その「つながりの中で人類が何十万年とかけて育ててきたもの」を受け継ぐためには「人と人のつながり」が必要です。ネット経由でも受け継げません。なぜなら、その「受け継がれてきたもの」は遺伝子に組み込まれているわけではないので、成長と共にそれを「受け継いだもの」から直接受け継ぐ必要があるからです。この「つながりの連鎖」が途切れることなく何十万年と続いてきたからこそ、今の人類の文化や科学が存在しているのです。たった一世代そのつながりが途切れただけで、人類の何十万年という歴史は無に帰してしまうのです。これは客観的、科学的な事実でもあります。でも多くの人がこの事実に気付いていません。そして、子どもを「つながり」から切り離して育てています。「子どもをつながりから切り離していても、教育さえちゃんと与えておけば、子どもはちゃんと人間らしく育つ」と思い込んでいるからなのでしょう。でも、これは妄想に過ぎません。そもそも、子どもを「人と人のつながり」から切り離したら「教育」自体が成り立たなくなってしまうのです。教育の意味と目的も消えてしまいます。いかなる学びにおいても「基礎」と「応用」があります。その「基礎」とは「つながりの中で共有されていること」です。「基礎」は共有されているものですからそこに個性はありませんし、普段あまり意識することもありません。日常会話が話せることが基礎だとすると、物語を書いたり、本を読んだり、スピーチをする能力が応用になります。そして、その「応用能力」は「基礎能力」の上に組み上げていくものです。日常会話も満足に出来ない子に、物語を書いたり、本を読んだり、スピーチさせようとしても無理なんです。日常会話も満足に出来ないような子は、本を読んでも理解することが出来ません。教科書なんかもっと理解できません。そしてその「日常会話」は学校では教えることが出来ません。生活の場で「人と人のつながり」の中でしか学ぶことが出来ないのです。日常的な買い物で必要になる足し算や引き算は基礎になります。微分積分のような「生活に必要のないもの」は「応用」になります。そして、日常生活で使うような、簡単な足し算や引き算すら理解出来ていない子に微分積分を教えても無駄です。それはつまり、「生活の場で、人と人とのつながりを通して学ぶべきことがちゃんと学べていない子は、学校での学びにも付いていくことが出来ない」ということでもあるのです。造形の場でも、「人と人のつながりを通して生活の場で学ぶべきこと」が学べていない子は何も作れません。ゲームでしか遊んでこなかった子は何も作れません。会話も困難です。日常的な生活の場で言葉をちゃんと学ぶことが出来ていない子は、教科書を読んでも理解することが出来ません。そして今、「問題が解けるか解けないか」という以前に、問題を読んでも理解が出来ない子が増えてきているようです。そういう状態の子は、学校でも先生が言っている言葉を理解するのは困難だと思います。そのような状態の子にとって、椅子に座らされ、ただ黙って先生の話を聞くように強制される学校は苦痛以外の何物でもないでしょう。それで授業中でも自由に話し、自由に動こうとします。先生はそれを注意するのでしょうが、そのような状態の子は、先生が言っている言葉の意味を理解することも困難だと思います。そして、「人と人のつながりの中で育った子」ほど、「人と人のつながりから切り離されて育った子」に強い違和感を感じます。そういう子が多いクラスにいるだけで、感覚的違和感を感じて苦しくなります。また、失われたのは「人と人のつながり」だけではありません。「人と自然のつながり」、「見える世界と見えない世界のつながり」も消えました。なぜなら、そういうものも「人と人のつながり」を介して伝えられてきたものだからです。
2025.04.26
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無事、昨日から行っていた冒険クラブの親子キャンプから帰ってきました。冒険クラブの親子キャンプは、多分、他の一般的なキャンプとは大きく違うと思います。「テーマ」はありますが、細かいスケジュールも担当もありません。お料理のメニューもありません。みんなその「テーマ」を共有することだけを大切にしています。定番の川遊び、火遊び、流しそうめん、スイカ割りはもちろんやりましたが、夜はみんなで「一芸」の発表会をしまいした。どんなことをやったのかはちょっと説明できません。「桃太郎かも・・」という、劇遊び的なことも影絵遊びもやりました。ここでお見せできる写真を探したのですが、みんな子どもやお母さん達の顔ばかりの写真なので、以下のような当たり障りのないものしかお見せできません。
2026.08.09
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昨日、ご紹介した竹馬の絵です。靴を脱いで、裸足で乗っています。さらに、足の指で竹をはさんでいます。この絵を勝手に読み解いて面白かったのは、左の上手な二人は下駄で、右のヘタッピーは靴なのではないかということです。「なつかしい日本の遊び201」(角川書店)より********************************おととい、英語で躾に関すると思われる言葉に<discipline>と<manner>があるようだと書きました。そして、<discipline>が規則、規律、訓練というような意味で、<manner>が行儀、作法、風習というような意味で、こちらの方が日本語の躾に近いようだと書きました。(詳しくは23日のブログをご覧になって下さい。)確かに、日本の躾の概念には規則、規律、訓練という要素は少ないようです。“いや、そんなことはない”とお思いになる方もいらっしゃるかも知れませんが、その多くの場合は子どもに要求するだけの規則、規律、訓練に過ぎません。つまり、校則のようなものです。でも、欧米の規則、規律、訓練は社会常識としての規則、規律、訓練という意味だろうと思われるので、当然大人も守るべきものだろうと思います。だから、子どもたちにそのようなものをきちんと守らせることが一人前の大人になるために必要なのではないかと思います。だからこそ“しつけ(躾)”なんです。でも、校則をきちんと守っても、一人前の大人とは無関係です。つまり、日本では規則、規律というものが社会常識ではないのです。校則も、交通ルールも守ることに意味がないようなもの、普通の感覚では守れないようなものが多すぎます。実際、40キロ制限の道路を40キロで走っている人なんていません。(まれにいますが、後ろが渋滞してしまいます。)つまり、規則、規律を作る人も単なる“建前”として考えているとしか思えないのです。それで、“赤信号みんなで渡れば怖くない”と言うことになるのです。国語辞典で“躾”を引いたら“礼儀作法を教えること”と書いてありましたが、日本ではみんなが赤信号を渡っている時に、“それはいけないんだよ”と言うのは“礼儀”に反するのです。そういう精神風土があるので、談合もなくならないし、内部告発も非難されるし、政治家も身内のことばかり考えているのです。それに対して、欧米ではキリスト教(宗教)の影響が大きいのか、善悪の基準が客観的ではっきりしているように感じます。日本では集団ごとに(家族ごとに)善悪が異なっていますが、キリスト教の影響の強い欧米では社会全体を通して、常識として善悪の基準が決まっているのでしょう。(宗教が生きている国ではキリスト教に限らず善悪の基準ははっきりしています。ただし、日本の仏教はそれほど客観的な善悪の基準を持っていません。)実際、昔の日本人は子どもたちに規則や規律を強く求めなかったようです。それで、明治の頃日本に来た欧米人の多くが日本人があまりに子煩悩なので驚いたのです。それで、日本語の“躾”には“規則、規律、訓練”という意味が含まれていないのだろうと思います。そして、その状況は今のお母さん達もあまり変わっていないようです。そのため、日本の子どもが欧米に行くとかなり強いヒンシュクを買っているようです。お母さん達に“子育てで腹が立つことはなんですか”と聞くと、“子どもが言うことを聞かないこと”という答えがいっぱい出てきます。日本では、家庭の中ではお母さんが規則や規律であり、学校では先生が規則や規律のようです。でも、その両者の規律にあまり共通性がないのが日本の社会の特徴です。でも、それでは子どもは戸惑いますよね。
2006.05.25
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よく「子育てに正解はない」と言われます。でも、実際には本屋さんに行くと子育て関連の本がいっぱい並んでいます。そしてそれらの本には「正解」が書いてあります。でも、ここで問題になるのはその「正解」が本によってみんな違うことです。ですから、子育てに悩んでいたり、一生懸命子育てをしようとして色々な本をいっぱい読みあさる人ほど混乱して、子育てへの自信を失っていきます。すると子どもの状態はますます手が付けられなくなり、お母さんはますます自己嫌悪が強くなります。人間にとっての「子育て」とは、何にも知らない、何にも出来ない状態の赤ん坊を、「一人前の人間」に育てる行為です。これが「子育て」の原点です。ここに異論を挟む人は滅多にいないと思います。問題は、その「一人前の人間」とはどのような人間なのか、という「人間像」が一人一人違うことです。経済的に自立した人間を「一人前の人間」と考える人がいます。また、自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意志と責任で行動することができる人間を「一人前の人間」と考える人がいます。きちんとした仕事が出来る人間を「一人前の人間」と考える人がいます。人格的に優れた人を「一人前の人間」と考える人もいます。みんなと助け合うことが出来る人間を「一人前の人間」と考える人もいます。有名人や社会的地位の高い人を「一人前の人間」と考える人もいます。子育てが出来る人を「一人前の人間」と考える人もいます。実際にはもっともっと色々な「一人前」があるでしょう。これだけ色々な「一人前」があったら、一人前の人間を育てるための方法にだって色々な種類があって当然です。さらには、(例えば)「経済的に自立した人間」を育てるための方法論にだって色々なやり方があるでしょう。「小さい時からびしびし鍛えた方がいい」と考える人もいれば、「小さい時は充分に遊ばせた方がいい」と考える人もいます。その結果、本屋さんには数知れぬほどの「子育て書」が並ぶことになります。そして、人は自分の好みに合わせて、子育て書を選んでいきます。つまり、自分の人間像を肯定してくれている本を選ぶわけです。多くの場合、人は自分が育てられた方法を肯定してくれるような子育て方法を肯定します。厳しく育てられた人は「厳しく仕付ける子育て」を肯定します。優しく育てられた人は、「優しく育てる子育て」を肯定します。時に、厳しく育てられたが故に「厳しく育てる子育て」を否定する人がいますが、でも感覚的に、「厳しくしない子育て」がどのようなものか分からないので、色々本を読みあさることになります。そして、不安になります。「自分が受けた子育て」を肯定することが出来ない人も、色々な本を読みあさり、不安になります。自分が受けた子育て以外の子育てのイメージが分からないからです。人は体験したことのないことをイメージすることは出来ないのです。親が、自分を肯定するための子育て方法を子どもに押しつけると、子どもは「おれはあんたじゃない」と反逆します。逆に、子育て方法に不安を感じながら子育てをしていると、子どもも不安を感じ不安定になります。でも、ここで見落とされている大事なことがあるように思うのです。それは、「子どもは親の思い通りに育つようには出来ていない」ということです。これは子育てを終えた人なら誰でもが知っている事実なのではないでしょうか。でも子どもがまだ小さい時には、お母さん達はこの事実をよく知りません。「自分が頑張れば子どもは思い通りに育つ」と思い込んでしまっているお母さんもいっぱいいるように思います。その思い込みが間違えであったと気付くのは、子どもが中学生頃になってからです。改めて言いますが、子どもは親の思い通りに育つようには出来てはいません。そのことを理解していないと、頑張れば頑張るほど子どもはお母さんやお父さんの理想から遠ざかっていきます。子どもは自らが育ちたいように育つのです。その育ちを支えているのは「あこがれ」です。子どもは「あこがれ」に導かれるように育っていくのです。ですから、子どもはいつでも「あこがれ」を探しています。それは本能です。小さな子どもはアンパンマンやウルトラマンにあこがれを感じます。そして「アンパンマンになりたい」などと言います。時にはそれはお母さんかも知れません。テレビの中のアイドルかも知れません。でも、大人になってまで「アンパンマンになりたい」などという人はいません。小さい時には「アンパンマン」であっても、成長するにつれ、それがもっと現実的なスポーツマンや、お花やさんや、学者などに変化していきます。子どもは自分の成長に合わせてちゃんと「あこがれ」も変えて行くのです。だから、お子さんが「アンパンマンになりたい」などと言っても心配する必要はありません。そんな風に「あこがれ」を持つことが出来た子どもはまっすぐ育ちます。でも、あこがれを持つことが出来ない子は不安になり、迷子になり、苦しみます。それは多くの場合、親の期待を押しつけられてしまった子どもたちです。親の期待を押しつけるということは、子どもの「あこがれ」を否定することになってしまうのです。でも、それでは子どもは自分が育つべき方向を見失うことになってしまいます。子育て書の多くは大人からの視点ばかりで書かれています。子育てが楽になるような方法ばかり書かれています。親の期待通りに育てる方法ばかり書かれています。でも、子どもを「大人の製品」ではなく、「一人前の人間」に育てたいのなら、子どもの視点に立った、子どもの「あこがれ」を育てる子育てが必要になるのです。ちなみに、私が言うところの「一人前の人間」とは、自分の大切さも、仲間の大切さも知っていて、自分一人でも、またみんなと一緒にでも色々な活動をすることが出来る人間のことです。難しく言うと「全体から切り離された個でも、全体に縛られた個でもなく、全体とつながりながらも縛られず、むしろ全体を支えることができる個」ということです。
2009.08.20
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