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一昨日は、あと問題はゲームです。ゲームやVRなどデジタルの世界の中には、命の世界、人間の感覚、心とからだの世界、子どもの成長のルールなど存在していません。なぜなら、ゲームなどのデジタル世界を支配しているのは、「命が存在していない世界のルール」だからです。という所で終わりました。今日はその続きです。ゲームなどのデジタル世界を支配しているのは、「命が存在していない世界のルール」です。そこでは、物理法則は無視され、死んだ人が生き返り、時間、空間、因果の律は無視され、願えば何でもかなえることが出来ます。「死んだ人が生き返り」と書きましたが、実際にはデジタルの世界の中には生も死もないので、生き返っているわけではありません。そう見えるだけです。まただから、「シネー」とバンバン殺しても罪悪感も感じないし、罪にも問われないのです。問題は「命が存在している世界のルール」を学ぶべき時期の子ども達が、「命が存在している世界」と触れ合う前に、それよりももっと刺激的で面白くて楽しい「命が存在していない世界」と出会ってしまう危険性です。最初に「命が存在している世界」と出会うことが出来た子は、その世界を「自分が生まれてきた世界」として認識し、様々な体験を通して、その世界のルールを学ぼうとします。その世界には、五感を刺激する「音」「触れてくるもの」「味」「匂い」「様々な視覚的な刺激」があります。そして、子どもは「他者」と出会うことによって「自分」を認識できるようになります。五感の働きを通して「他者」に触れることで「自分」を感じることが出来るようになるのです。「自分」という存在を知るためには「他者」という存在が必要なんです。また、それら五感の働きは「外の世界」を感じるためのものですが、そのような「外の世界の刺激」は心やからだといった「自分の内側からの反応」を引き起こすので「体内からの感覚」を感じる能力も育ちます。「美しいもの」を見れば気持ちが良くなり、「醜いもの」を見れば気持ちが悪くなったりしますよね、五感からの全て刺激に対してそういう反応が起きるのです。ただし、それらの「内側からの感覚」を感じ取る能力が育つためには、感じたことを何らかの形で表現する必要があります。「味覚」が育つためには、「他者と味覚を共有する体験」や「自分が感じた味」を言葉などで表現する必要がある言うことです。「美味しいね」「甘いね」「いい匂いだね」と顔を見合わせながら味わうことで「味覚」が育つのです。だから、味覚には文化差があるのです。肉体の機能としての感覚能力は生まれつき備わったものですが、文化としての感覚能力、たとえば雲を見て「モクモク」と感じたり、風に触れて「ソヨソヨ」と感じたりするのは文化としての感覚能力です。モンゴルの人たちは馬を見分ける能力に非常に優れているそうです。日本人は動物の死体を見ると不快感を感じますが、それを感じない文化圏の人たちもいっぱいいます。殺し合いに嫌悪感を感じる人は多いですが、逆にワクワクする人もいます。というようなことを見ていくと、幼い子ども達が「命が存在している世界」と出会う前に「命が存在していない世界」と出会うことの問題点と危険性が山のように見えてくるのです。ゲームをやったり、ユーチューブなどの動画を見たりしても「音」と出会うことは出来ます。でも、その「音」は「自然界の音」つまり「命が存在する世界の音」とは全く異なります。タブレットが自然の風景を写しだし、自然の音を流してもそれらは全く「自然」ではありません。タブレットの中の風景の中には「空間」がありません。そのため、映像に映し出されている空や木と自分が、空間を共有することが出来ません。ただ、「情報」として見ることが出来るだけです。「音」も目の前にある小さなスピーカーから出てくる、デジタル化された音しか聞くことが出来ません。その音もまた空間を含んでいません。でも実際に森の中に入れば、「からだ全体を包むような音」を体験することが出来ます。自然の中で自然な音を聴いて育った人は、その違いが分かります。また、スピーカーからの音を聴いても、自然の中で聴いた音を想い出しながら聞くことが出来ます。スピーカーから流れてくる風の音を聞きながら、風に揺れる木々をイメージすることも出来ます。でも、最初からスピーカーを通してしか「自然の音」を聞いたことがない子にはそういうことが出来ないのです。スピーカーから流れてくる音だけが情報の全てだからです。でも、子どもたちが何を見て、何を聞いて、何を感じているのかということは子どもたちを見ているだけでは分かりません。それを、絵を描いたり、詩を書いたり、歌や踊りで表現させてみた時に、初めて子どもが何をどのように聞き、何をどのように感じ、何をどのように見ているのかが分かるのです。「命が存在していない世界」からやってくるのは全て「情報」に過ぎません。そこにリアルはありません。そしてリアルがない世界に囲まれて生活していると、子どもは自分の心や、からだや、命にもリアルを感じなくなります。自殺してしまう子どもたちは「命のリアル」「死」のリアルを知らないのでしょう。ちなみに阿蘇山は自殺の名所として知られているそうですが、飛び込んでも火口の下の段に引っかかって助かってしまう人も多いそうです。でも、そこから再度飛び込む人は滅多にいないそうです。実際に飛び込むという表現行為を通して、「命のリアル」や「死のリアル」を知ってしまうからなのでしょう。
2026.08.10
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無事、昨日から行っていた冒険クラブの親子キャンプから帰ってきました。冒険クラブの親子キャンプは、多分、他の一般的なキャンプとは大きく違うと思います。「テーマ」はありますが、細かいスケジュールも担当もありません。お料理のメニューもありません。みんなその「テーマ」を共有することだけを大切にしています。定番の川遊び、火遊び、流しそうめん、スイカ割りはもちろんやりましたが、夜はみんなで「一芸」の発表会をしまいした。どんなことをやったのかはちょっと説明できません。「桃太郎かも・・」という、劇遊び的なことも影絵遊びもやりました。ここでお見せできる写真を探したのですが、みんな子どもやお母さん達の顔ばかりの写真なので、以下のような当たり障りのないものしかお見せできません。
2026.08.09
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今日は、これから毎年やっている親子キャンプに行くので、手短にさせて頂きます。ちなみに、今年のキャンプのテーマは「一芸持ちより」です。歌でも、踊りでも、絵本の読み聞かせでも、劇でも何でもOK。自分がやらなくてみんなにやらせてもOK。あと、竹工作もやります。楽器類は私が担当しますが、他のあれこれは友人が担当してくれます。ということで本題に入ります。昨日は、命のルール、自然のルール、心とからだのルールに従って表現されたものが「芸術」と呼ばれるのなら、同じように命のルール、自然のルール、心とからだのルールに従った子育てや教育も「芸術」になり得るのではないでしょうか。それは、「子どもの成長に寄り添う子育てや教育」のことです。絵を描いたり、踊ったりしなくても芸術なんです。ということを書きましたが、自然界には「自然のルール」があります。命の世界、人間の感覚、心とからだの世界、子どもの成長にもルールがあります。そして、それらは全てそのルールに従って動き働いています。そのルールが壊れたらこの世界は崩壊します。芸術はそのルールに従い、そこに人間の意識の働きを加えて、さらに高次の世界を実現しようとするものです。それは自然界には存在しないものですが、でも、自然界にあるものから抽出され、抽象化されたものです。ですから、芸術家は自然界から学ぼうとします。自然のルールを無視したら芸術は成り立たなくなってしまうのですから。でも、科学はそのルールに従うのではなくルール自体を変えようとしています。新しいルールを作って新しい世界を作ろうとしているのです。人は老いて死ぬのが自然のルールなのですが、科学は老いない、死なない方法を見つけようとしています。人は人から産まれるのが自然のルールなのですが、それすらも変えようとしています。子どもの成長には、決まった順序と、時期と、期間が必要なのですが、それも無視して、社会の価値感に合わせて子どもの自然な成長を歪めようとしています。だから、自然のルール、心とからだのルール、子どもの成長のルールが混乱し精神や心やからだの状態が不安定な子どもや大人が増えてしまったのです。でもそれは科学自体の責任ではなく、科学を「欲望を実現する道具」として使おうとしている人たちの責任です。あと問題はゲームです。ゲームやVRなどデジタルの世界の中には、命の世界、人間の感覚、心とからだの世界、子どもの成長のルールなど存在していません。なぜなら、ゲームなどのデジタル世界を支配しているのは、「命が存在していない世界のルール」だからです。<続きます>
2026.08.08
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「子どもがアリを殺して遊んでいるときにはどうしたらいいのでしょうか」という質問は時々受けます。それは、子どもがアリを殺すのが、身近でありふれた行為だからなのでしょう。大人としては子どもに命の大切さを教えなければいけないと思って、「かわいそうだからやめなさい」と、一方的に子どもの行為を否定して止めてしまいまが、でも、じゃあそれで子どもに「命の大切さ」が伝わるのかというと、そんなことはありません。そのような一方的なやり方では、子どもに「お母さんに否定された」という記憶しか残すことが出来ません。そもそも、そのようなことを言う大人が「生命」を大切にした生活や生き方をしているのでしょうか。茅ヶ崎の北の方に、「里山公園」という里山を生かした県立の大きな公園があります。以前、私はそこにも子ども達を連れて行って遊んでいたのですが、ドジョウやザリガニがいるので、子ども達はそういうものを捕まえて遊んでいました。うちのグループの子だけでなく、近隣の子ども達も子どもだけでやってきて同じようにドジョウやザリガニなどを取って遊んでいました。そうしたら、見回りの大人がやってきて、「ここで生き物を捕ってはいけない」などと言い始めました。そんな時も「生命は大切にしなければいけない」ということが言われます。いま、ちょっと大きな公園にはどこの公園にも「生き物を捕るな」「命を大切に」などというような看板が立っています。「木に登るな、草や花も摘むな」と書いてあるところもあります。その理由は「保護のため」ですが、でも大人達は必要があれば、一匹一匹生き物を殺すようなことをせず、そこに生きている生き物ごと、簡単に山を崩し、川や田んぼを埋め、ブルトーザーで草花を踏みつぶし、木を切り倒します。外来種が増えれば、「在来種保護のため」という理由で積極的に捕まえて殺したりもします。ここには無機的な「計画」があるばかりで、「命を大切にする」という発想は全くありません。その里山公園を作る時も、最初の計画では、「すでにあった山を崩して、設計図通りに新しく山を作って公園を作る」というものだったそうです。私は、その時の反対運動をしていた人からその話を聞きました。それで、「そんなバカなことをするな」と住民が立ち上がって、今のような形に落ち着いたそうです。昨今、生き物が非常な勢いで死滅し、私が子どもの頃と比べても明らかにその種類も量も減っていますが、これは子ども達の責任ではなく、山を切り崩し、川や田んぼを埋め、木々を切り倒してきた大人達の責任です。子ども達の「昆虫や生き物を捕まえて遊ぶ遊び」は太古の昔からあったと思います。でも、それで生き物が絶滅したなどという話は聞いたことがありません。昆虫採集を熱心にやった子が、残酷な大人になったという話も聞いたことがありません。子ども達はそのような遊びを通して、生命のはかなさを知りました。「バケツいっぱい取れた」と喜んで持って帰っても、そのままではすぐにみんな死んでしまうのです。機械やオモチャは死にはしませんが、生き物は死ぬのです。大人はそのことが分かっているので、最初から止めるのですが、子どもには「死ぬ」ということが分かりません。大人も言葉で伝えることは出来ません。これは体験するしかないのです。それで、子ども達は、自分が捕まえてきた生き物が死なないように世話をし始めます。その、「世話をする」という過程で、その生き物のことをより詳しく知るようになったり、死ぬとはどういうことなのかということが分かるようになるのです。最近では、「生き物は死ぬから飼わない」と言う人がいますが、「大切にしていたものの死」を体験した子と、死なない機械ばかりで遊び、「死」を体験したことがない子とではどちらの子の方が「命の大切さ」を知っていると思いますか。そもそも現代人の「命を大切にしよう」という考え方は非常に偽善的です。釣った魚をその場でさばいて料理すると「残酷」などと言う子がいますが、「バカなことを言うな」という感じです。それは単に「死ぬところ、殺すところを見たくない」と言うだけのことであって、「命を大切にする」ということとは全く無関係です。そのような子に限って好き嫌いが多く、「食材として提供された生命」を平気で残したりします。また、「蚊やゴキブリなんかこの世から消えてなくなればいいんだ」などとも言います。「じゃあ、アリは殺してもいいのか」というと、それもまた違います。「大人も一緒になって、アリを踏みつぶして遊んだ方がいいのか」というのも違います。そんな時は、「アリさんのお話」を聞かせて上げて下さい。一緒に図鑑を見て、アリはどのように生活をして、何を食べ、寿命はどのくらいで、ということを一緒に学んで下さい。また、「アリ」が主人公の物語があったら、聞かせて上げて下さい。「アリ」のことを知ることで、むやみに「アリ」を殺したりはしなくなるのです。これは戦争のような状況で敵を殺す時も同じです。アメリカ人のことを何にも知らない人は、簡単に「アメリカ人は鬼だ」という言葉を信じ、平気でアメリカ人を殺すでしょう。そして実際そうでした。でも、アメリカで暮らしたことのある人や、アメリカ人の友達がいた人や、アメリカのことをよく知っている人は、そんな簡単にアメリカ人を殺せはしません。人は、知ることで優しくなることが出来るのです。「優しくしなさい」と押し付けるのは逆効果なのです。子どものことを知ることで子どもに優しくなることが出来るのです。男性は女性のことを知ることで女性に対して優しくなることが出来、女性は男性のことを知ることで男性に優しくなることが出来るのです。障碍を持っている人に対しても同じです。「無知」が残酷な行為を生み出すのです。私が、「気質」について書いたりワークをしたりしているのも、お互いにより深く相手を知るためです。「気質」を知るだけで優しくなることが出来るのです。」今、世界中で苦しんでいる人がいっぱいいますが、私たちは「無視」という残酷な行為をしています。子ども達の心の中に「優しさ」を育てるためには、まず、「その子自身が優しく扱われること」と、「相手のことを知ること」が必要なのです。「優しくしなさい」と叱る行為はその逆の結果を生み出します。また、その子自身が優しく扱われていない場合は、知ることが妬みを生み出し、逆に残虐な行為に及ぶこともあるので要注意です。
2014.07.05
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告知です。「8/17 チャリティーおしゃべり会第四弾 ★かめおかゆみこ&篠秀夫」なるものをやります。詳しくはこちらでご覧になって下さい。あまり真面目な話は出ないと思います。*******************子どもに「なんで勉強ってしなければいけないの?」と聞かれて、答えることが出来ないお母さんは多いです。それはお母さん自身が「勉強なんかしたって、試験の時以外役に立たない」ということを知っているからだと思います。また実際、そういう勉強しかやってこなかったのでしょう。また、学校では試験の時にしか役に立たないようなことばかり教えているのも事実です。テレビ番組で「あなたは小学校五年生より賢いのか」というようなタイトルの番組がありますが、そういう番組が成り立つのも、多くの人が「試験の時にしか役に立たないようなこと」ばかりを学んで来たからなのでしょう。「試験の時にしか役に立たないようなこと」は試験がなくなればすぐに忘れてしまいます。だから皆さんも、子どもが高学年になると、子どもの宿題や勉強の相手をするのが困難になってしまうのです。でも忘れても何にも困りません。実際皆さんも困っていませんよね。その程度のことを学ぶために子どもたちは、子どもにとって大切な時間を犠牲にしてまで学校に通っているのです。またお母さんも、子どもを勉強を追い立てることで親子の関係をこじらせているのです。子どもたちに「学校行くの楽しい?」と聞くと多くの子が「楽しい」と答えてくれます。で、「勉強が楽しいの?」と聞くと「勉強は楽しくない、でも、友達と遊べるから」という答えが返ってきます。(時々低学年の子で「算数は楽しい」と答える子はいますが、高学年になってもそう言えるかどうかは不明です。)じゃあ本当に勉強って楽しくないのか、役に立たないのか、というとそれは全く違います。楽しくなくて役に立たないのは「試験のための勉強」だけです。実際、お母さん達の話を聞いていると、「社会人になってから勉強することが楽しくなった」と言う人が結構多いです。面白いことに、試験がなくなってから勉強した方が楽しいのです。実際、勉強は本当は楽しいものなんです。それを大人達が「楽しくないもの」に変えてしまっているのです。先日、「ブータン 山の学校」という映画を見ました。主人公はブータンの都会に住む一人の若い男性の先生です。この先生は先生という仕事が大嫌いで、先生を辞めて歌手になるつもりでした。でも、政府からの命令で最後の赴任先に山奥の小さな学校をあてがわれてしまいました。山道を一週間も歩き通さなければたどり着けないようなド田舎です。山々や風景は綺麗ですが他になにもありません。携帯も圏外です。それでも一応行くことは行きますが、着いた途端に村長に「私には向いていないからすぐ帰ります」と宣言してしまいます。でも、そんなこととは知らない子どもたちは大喜びし、先生を大歓迎します。子どもたちは勉強に飢えていたのです。仕方なく彼は、帰るまでの短い時間だけでもと授業を始めます。そして、子どもたちに「将来なりたい職業」を聞くと、多くの子が「先生になりたい」というのです。「どうして?」と聞くと「先生は未来に触れることが出来るから」と答えた子がいました。子どもたちは学ぶことでこの世界の広さや素晴らしさを知ることが出来ます。世界では今何が起きているのかを知ることも出来ます。様々な能力を身につけることも出来ます。それは子どもたちに職業の自由だけでなく、心の自由や生きる自由を与えてくれます。子どもたちは学ぶことで自由を手に入れることが出来るのです。だから、子どもにとって「学ぶ」ということが非常に大切なんです。ただし、試験のための学びは子どもを不自由にしてしまいます。だから追い立てないで欲しいのです。また最近、ネパールで現地の人のために活動しているOKバジさん(垣見一雅)の映画を見ました。そこで気付いたのが、「人は学ぶことで他の人を助けることが出来るようになる」ということです。バジさんがネパールの人を助けることが出来るのは、バジさんが色々なことを学んで来たからです。そして、「学ぶということが自分の幸せだけでなく、みんなの幸せにつながるんだ」ということに気付いたのです。みなさん、「学ぶ」って本来こんなにも素敵なものなんですよ。どうか子どもを追い立てないで下さい。競争させないで下さい。競争させてしまうと、子どもたちは「試験のための学び」ばかりするようになってしまい、「自分の成長に必要な学び」が出来なくなってしまうのです。
2021.08.05
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現代人は、昔の人に比べて色々なことに対する「こだわり」が強いような気がします。食にこだわる人、洋服にこだわる人、生き方にこだわる人、色にこだわる人、趣味にこだわる人、清潔にこだわる人、勉強にこだわる人、英語にこだわる人、スポーツにこだわる人など色々といます。ちなみに、自己肯定感が低い人はみんな「こだわり」が強いです。というかその「こだわり」が自己肯定感を下げているからです。そもそも「自己肯定感」などというものに対するこだわりを捨ててしまえば、そんなことどうでも良くなってしまうのです。自己肯定感を上げるためには、自己肯定感を上げようとすることを止めてしまえばいいのです。それだけのことです。インナーチャイルドにこだわっている人もいます。「自分らしさ」にこだわっている人もいます。でもそれは、「世の中がそれだけ自由で豊かになってきた」ということの表れなんだと思います。今日を生き延びることだけで精一杯の時代には、そんなこと言ってられませんでした。肉しか食べるものがないときには「菜食」にこだわることが出来なかったし、肉がないときには肉食にこだわることが出来ませんでした。そのような状況では、「こだわり」は「死」を意味していたからです。「今日の食べ物がない」という状態では、「何を食べるか」にこだわるどころではないですよね。「清潔」も、人工物に囲まれた人工的な生活をしているから、「清潔」にこだわることが出来るのです。森の中や自然に近いところで暮らしている人たちは、清潔にこだわろうと思っても出来ないのです。色々な洋服を選ぶことが出来る自由と豊かさがあるから洋服にこだわることが出来るのです。私は、「こだわり」は、そんなあふれるばかりの豊かな社会の中で、現代人が「自分らしさ」を自分で確認するための方法として機能しているのではないかと思っています。ただし、「こだわり」自体は古代からありました。でもそれは「個人のこだわり」ではなく、「部族や民族としてのこだわり」です。それは、「宗教へのこだわり」や、「血へのこだわり」や、「文化や言葉に対するこだわり」などです。その「こだわり」があったからこそ、自分たちの部族と他の部族の違いを明確にし、部族がまとまることが出来たわけです。今でも自然と共に暮らしている人たちは、部族ごとに民族衣装が決まっていますが、それは民族衣装が部族の象徴だからです。「こだわり」が「アイデンティティーを与えてくれるもの」として機能していたのです。ですから、「個人としてのこだわり」は限定されていました。江戸時代には「オレはキリスト教を信仰したいんだ」と言っても許されなかったのです。でも、現代社会では部族とか民族という概念は解体してしまいました。部族とか民族固有のこだわりも消えてしまいました。日本人だからといって、「着物を着なければいけない」ということもなくなりました。「結婚したら歯を黒く染めてお歯黒にしなければいけない」ということもなくなりました。代わりに現れたのが「個人」という概念です。その「個人」という概念では、何を食べても、何を着ても、どんな仕事をしても、どんな趣味を持ってもOKです。そして私たちはそれが可能な自由で豊かな社会に生きています。でも、そんな自由と引き替えに、みんな「根無し草」になってしまいました。アイデンティティーを失ってしまいました。私は、そのアイデンティティー作りのために現れたのが「個人としてのこだわり」なのではないかと思っています。「民族や部族を特徴付けるこだわり」は消えましたが、新しく「個人を特徴付けるこだわり」が生まれたのです。何かにこだわることで、「自分のアイデンティティー」を明確にしようとしているのだと思います。だから「同じこだわり」を持っている人同士で集まろうとします。でも、こだわりを持つことで自分のアイデンティティーは作れますが、それと引き替えに不自由になります。色々な食べ物がある中で、「肉」にこだわれば、他の食べ物が見えなくなり意識の不自由が生まれるのです。「しつけ」や「勉強」にこだわれば子どもの成長の全体が見えなくなり、不自由になります。「清潔」にこだわれば、「子どもの笑顔や、子どもの育ちに必要なもの」が見えなくなり不自由になります。子どもの色々な行動に対してお母さんがイライラするのも、子どもがお母さんのこだわりを無視するからです。お母さんは「子どものこだわり」にイライラしますが、それは「お母さんのこだわり」と「子どものこだわり」がぶつかっているからに過ぎません。「お母さんが頑張って作ったものなのになんで残すの!!」という怒りも「こだわり」から生まれています。こだわっている本人はそれを不自由だとは考えていないでしょうが、いっぱいある中で一つのものにしか意識を向けることが出来ない状態は、不自由そのものなんです。子育てや生き方の苦しみの多くもその「こだわり」から生まれています。でも、ちょっと意識を変えるだけで自由になることが出来るのです。意識を、「こだわる」から「大切にする」に変えればいいのです。こだわっているときにはこだわりの対象によって自分が束縛されてしまっています。でも、「大切にする」という意識の場合には、自分が主人公でいることが出来るのです。「成績へのこだわり」を捨てて「成績を大切にする」という考え方にするだけで大分自由になります。「こうでなければいけないというしつけ」にこだわることを止めて「しつけを大切にする」という考え方に変えると、「しつけ」から自由になることが出来ます。「こだわり」は「正解」を生み出します。だから束縛されてしまうのです。でも、「大切にする」という発想の場合には「正解」は自分の感性です。だから束縛されないのです。ただし、趣味としての「こだわり」はそれはそれでいいと思います。ただ「子育て」には合わないのでは・・・ということです。「子育て」で大切にしなければいけないのは「お母さんのこだわり」ではなく、太古の昔から変わらない「命の働きのこだわり」だからです。
2019.08.01
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人間は群れの中で育てられて初めて、「人間らしさ」を得ることが出来る動物です。ですから、幼い子どもには、それを実現するために「群れ遊び」に対する「本能的な欲求」があります。2~3才頃からいわゆる「反抗期」が始まりますが、その頃から子どもは「子ども」に強く反応するようになります。そして、他の子に共鳴し、他の子と同じことをしようとします。一人が走り出せば他の子も走り出します。一人が大きな声を出せば、他の子も大きな声を出します。一人がボールで遊び出せば、他の子もボールで遊び出します。その結果、時には「同じおもちゃ」の奪い合いになります。おもちゃはいっぱいあるのになぜか「同じおもちゃ」を奪い合うのです。ジャンケンをしても相手と同じものを出します。このような状態の遊びを私は「共鳴遊び」と呼んでいます。共鳴遊びは、ただ「みんなと一緒」を楽しむためだけの遊びです。ですから決まった形はありません。お絵かきでも、それまでは自分の感覚に従って自由に描いていたのに、この頃から他の子の絵を真似して描くようになったりもします。この「共鳴遊び」は、「みんなと違ってもいいじゃないか」という大人の価値観では理解することが出来ません。そのため否定しがちなのですが、子どもの社会性の育ちにとっては非常に重要な遊びなのです。このような遊びを通して、子ども達は「仲間といることの心地よさ」や、「仲間の心を感じる感覚」をからだの中にしみこませているのです。そして、ただ単純に「みんなと一緒」を楽しむことが出来る状態は9才頃まで続きます。この頃までは男の子も女の子もみんな一緒に遊ぶことが出来ます。このような状態への入り口に「反抗期」があるわけです。ですから、この頃から「お母さんと子どもとの遊び方」も変化していきます。それまでは、子どもの感覚に働きかけるような形で「やってあげる遊び」がメインでしたが、この頃から、「一緒に遊ぶ遊び」を喜ぶようになるのです。「ごっこ遊び」も出来るようになります。つまり、子どもの「仲間」として遊んであげると喜ぶのです。でも、この頃からお母さんは「子どもの遊び」について行けなくなります。一緒に走るのも、「ごっこ遊び」も苦手なお母さんはいっぱいいます。子ども本来の成長から見たら、本当はこの頃から子どもの相手は「お母さん」から「仲間」へと変化していくはずのものですから、それはそれで仕方がないことなのですが、でも、子どもの周囲に子どもがいない状況では、お母さんが「仲間」になる以外にないのです。実際、この頃から子どもは「遊んで遊んで」としつこくなってきます。でも、仲間がいるとお母さんの所には時々帰ってくるだけになります。もっともいい方法は、お母さん自身が仲間作りをして、「子どもの仲間」を作ってあげるのが一番自然でいいのですが、でも、それもなかなか苦手なお母さんの方が多いでしょう。それでつい、おもちゃや、テレビや、ゲームに「子どもの相手」を任せてしまうようになってしまうのだと思います。また、子どもの相手をすることが苦手なため、保育園に預けてしまうお母さんもいっぱいいます。昔は、「仕事をしなければならないから、しかたなく子どもを保育園に預ける」というお母さんが多かったのではないかと思うのですが、最近では、「子どもと一緒にいたくないから仕事を探して、子どもを保育園に預ける」という選択をするお母さんが多いようです。だからといって、私はそのようなお母さんを非難しているわけではありません。もともと、お母さんは「子どもの世話」をする存在であって、「子どもの遊び相手」ではないからです。実際、昔の母さんは忙しかったから子どもと遊んでいる時間などなかったのです。それでも、地域の中に子どもを受け入れてくれる「子どもの群れ」があったので大丈夫だったのです。また、年寄り達も子どもの世話を引き受けてくれていたでしょう。でも、社会が変化して、子どもの群れも年寄りも消えてしまったため、お母さんが子どもの遊び相手にならざる終えない状況になってしまっているのです。でも、お母さんは「子どもの遊び相手」としての学びをしたわけではありません。子どもの感覚も、子どもの心の世界も分かりません。さらには、今の若いお母さん達は子どもの頃に群れて遊んでいないので「みんなで遊ぶ遊び」を知りません。ですから、「保育園」という選択もやむを得ない状況なのです。それに、「私は子どもよりも、私の時間と私の生き方を大切にしたい」と思っている人や、子どもと一緒にいたくないお母さんが無理して子どもと一緒にいて、子どもをテレビ漬け、ゲーム漬けにしてしまうよりは、保育園で仲間と遊ばせてあげる方が子どものためにもなるでしょう。でも、その結果「子どもとの楽しい時間」や、「子どもと共に育つ喜び」や、「子どもが出会わせてくれる豊かな世界」を存分に味わう機会を失ってしまうでしょう。もっとも、「そんなものに興味はない」という人にはそれも無意味なことなのでしょうけど。
2012.11.24
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胆汁質は現実を変えようとし、憂鬱質は現実から逃げようとし、多血質は現実を楽しもうとし、粘液質は現実に適応しようとする傾向があります。ですから、基本的に粘液質の人は「ノー」(no)と言いません。いつでも与えられた条件の中で何とかしようと考えるからです。ワンマン社長がいる会社などでは、ワンマン社長が胆汁質で、優秀な補佐役の副社長が粘液質になると思います。憂鬱質や多血質では胆汁質の補佐ができないのです。多血質は胆汁質の側ではご機嫌を取ろうとします。憂鬱質は胆汁質の側では自分を抑制しなければならないので非常にストレスが溜まります。それに憂鬱質の人は胆汁質を怖がります。でも、粘液質は胆汁質とぶつからないのです。粘液質は胆汁質に「ノー」と言いませんが、でも、我慢して言うことを聞いているわけではないのです。我慢して胆汁質の言うことを聞いてしまうのは憂鬱質です。ですから、意見を求められれば胆汁質が不快に感じるようなことでも平気で言います。ただし、意見を求められない限り言いません。粘液質は、胆汁質が唯一「手に負えない相手」なのです。多血質の人は胆汁質の人が手に負えません。粘液質に手に負えないのは多血質です。憂鬱質は多血質や胆汁質の人は手に負えません。粘液質は胆汁質が言う無理難題を、数学やパズルの問題のように聞いてしまいます。そしてその初期条件の中でどうその問題を解いたらいいのかを考えます。胆汁質は思い通りにならない時にはすぐに腹を立てますが、粘液質は「何かを思い通りにしよう」等とは考えないので腹が立ちません。でも、腹が立っている胆汁質は腹を立てない粘液質を見て腹を立てます。胆汁質は粘液質の側にいると自分が子どもっぽく感じてしまうのです。ですから、その鈍重さに腹を立てながらも、一番信頼もしているのです。そのような粘液質の番頭を「思い通りにならないから」と言って受け入れないワンマン社長は、取り巻きにちやほやされるばかりで、経営を誤ります。ただし、粘液質には胆汁質のような奇抜なアイデアも行動力もありません。また、強いオーラも華もありません。胆汁質の人が舞台に立てば、人の目を引きつけます。でも、粘液質の人が舞台に立っても「裏方かな」と思われる程度です。実際、本人達もそのことを無意識に感じていて、服装なども胆汁質は赤や紫など強い色を選びますが、粘液質は緑やベージュのような目立たないアースカラーを選びます。胆汁質の人は赤や紫の服を着ても負けませんが、粘液質の人が赤や紫を着ると、色に負けてしまい非常におかしな状態になります。ちなみに多血質の人はピンクや黄色や薄緑や水色といった、「空気を感じるような明るく軽い色」を好みます。憂鬱質の人は青や黒といった「精神性を感じるような深い色」を好みます。粘液質は「わび・さび」を感じるような「渋い色」や、「自然を感じるアースカラー」を好みます。胆汁質は赤や紫といった「自己主張の強いはっきりとした色」を好みます。ちなみに「粘液質+憂鬱質」の私は、「エメラルドグリーン」と「ラピスラズリ」(宇宙を感じるような青)が好きです。若い頃描いていた油絵では、プルシャンブルーを多く使った「青い絵」が多かったです。「紫」は一番苦手です。特に濃い紫は怖いです。胆汁に憂鬱が入ると紫になるのかも知れません。「赤」は使えません。面白いことに「色」の好みは、気質と強く関係しているようです。気質のワークなどでも、単発のワークで気質ごとにグループ分けをしたい時など、好きな色で分かれて貰うと、なんとなく気質ごとに分かれます。自然を相手にする農耕文化の社会では、感覚を働かせながら待つことが非常に重要になります。「待つ」と言ってもテレビやゲームをしながら待っているようなことをしても自然の相手は出来ません。ひたすら相手を感じながら待つのです。だから気が長くなくてはできません。それが粘液質です。でも、現代人は、そんな粘液質を見ているとイライラしてきます。現代社会は簡単、便利、スピード化を目指しています。学校でも家庭でも社会全体でもそういう価値観が大切にされています。ですから、「ノンビリ」、「ゆっくり」は否定されてしまうのです。そして、置いてゆかれてしまいます。その結果、競争社会では落ちこぼれやすくなります。でも、人間には「ノンビリ」「ゆっくり」でないと成長しない部分もあるのです。「ノンビリ」「ゆっくり」を大切にすることで初めて見えてくる世界や感じることが出来る世界があるのです。その世界を忘れてしまったから、現代人の心は荒廃してしまっているのです。「生命の世界」は、「ノンビリ」「ゆっくり」を大切にしない人には感じることが出来ないのです。ただ、粘液質の人は独創的ではありません。現実対応型ですから、必要に迫られれば独創的にも考えますが、基本的には独創的であることに価値を感じないのです。ですから、アーティストには向きません。どちらかというと「職人」や「裏方」向きです。それに対して胆汁質の人は独創的であることを好みます。人がやらないことをやりたがります。また、粘液質は「ノンビリ」が基本ですから、リズム感は悪いです。演歌のようにゆったりと流れるメロディーは好きですが、リズムに乗って歌ったり、踊ったりが出来ないのです。それが得意なのは、深く物事を考えない多血質です。粘液質はいつでも「味わおう」としてしまうので、遅れてしまうのです。そして人と合わせることが出来ません。
2011.03.08
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さらささんから以下のような質問を頂きましたのでお答えさせて頂きます。2歳2ヶ月の息子が居ます。1歳6ヶ月から保育園に通っています。今日、支援センターのような場所に息子と行ったんですが(1歳の子が1人2歳の子が4人4歳〜5歳の子が2人位いました)息子がおもちゃで遊んでいて、他の子がそのおもちゃを触ろうとすると「やだ〜。ダメ〜」と言いおもちゃを抱えていました。その位なら仕方がないと思っていたんですが、息子が遊んでいて(おままごとのキッチンや電車のおもちゃで)他の子が同じおもちゃで遊ぼうとすると、「やだ〜」と言って他の子の体を押してしまうのです。それが何回も続き、その度に「ドンしないんだよ。お友達痛いよ」と言うのですが、何回もしてしまうんです。何回も続くので、息子の周りに他の子は来なくなっていました。息子が作った線路のそばを他の子が通っただけで怒ったりしてました。それがずっと続いた訳ではないですが。私の育て方のせいなのかと思い、落ち込みました。保育園では、そのような事はないそうです。息子は叩いたり噛んだりはしないのですが、嫌だと思うと体を押してしまいます。自分より下の子でも上の子でも。駄目な事は駄目だと伝えているつもりで、篠先生のブログにありました、嬉しい時、美味しい時、痛い時に「嬉しいね。美味しいね。痛かったね」等伝えているつもりでしたが足りないのでしょうか。この行動は何か意味する事でしょうか。また、息子がこの様な行動をした時の対応はどうしたら良いでしょうか。いつも質問ばかりですみません。まず、さらささんのお子さんの「心」は正常ですからご安心下さい。大人は大人の価値観で子どもの行動の善悪を判断してしまう癖があります。でも、子ども達は生理的反射で行動しているだけです。「悪い子だから」、「心がちゃんと育っていないから」、「悪いこと」をするわけではありません。そもそも、それらは「困ったこと」ではあるかも知れませんが、「悪いこと」ではありません。これを「悪いこと」と考えて指導しようとすると、子どもは「悪い子」になります。子どもの行動は「善悪」で判断してはいけないのです。そもそも、子どもに「善悪」は理解出来ません。ですから、子どもに「悪いことをしてはダメ」と叱ってもその意味が通じません。7才頃から、何が「大人に叱られること」で、何が「大人に許されること」なのかぐらいは分かるようになりますが、それは、「大人に叱られない方法が分かった」というだけのことであって、「善悪が分かった」ということではありません。そして、大人でも同じレベルの人がいっぱいいます。というか、それが一般的社会人における「善悪」の判断なのでしょう。そのような人は、「見つからなければ、法律に引っかからなければOK」という判断をします。でも、その善悪は「社会の基準」によってコロコロ変わります。ある時は法律で禁止されていたことが、ある時から許されるようになることも、その逆もあります。そのため、行為的には同じなのに、社会の状態によってその行為が、善になったり悪になったりします。「人を殺す」ということでさえ、時と場合によっては「善」になったり「悪」になったりします。でも、子ども達は生理的な反射だけで活動していることがほとんどで、社会の変化に対応して活動しているわけではありません。アリを見つければ踏みつけ、棒を見つければ拾い、水溜まりがあれば入り、お花があれば摘み、鳩を見かければ追いかけます。子ども達のこのような状態は、何万年も前から同じだろうと思います。このような行為を社会の状態によって変化している「善悪の価値観」で判断してしまうと、子どもの行為の意味や成長が見えなくなってしまいます。ここで、さらささんのお子さんの話に戻りますが、さらささんのお子さんの行動は「不安」と「気質」が原因だろうと思います。多分、憂鬱質が強いのでしょう。憂鬱質が強い子は「マイ・テリトリー」(自分の安全圏)にこだわります。その「マイ・テリトリー」に入ることが許されるのは、ほんの数人だけです。その子の「マイ・テリトリー」に入ることが許された子に取っては、その子は「明るく楽しい子」です。でも、拒否された子から見るとその子は「暗く、意固地で、意地悪」です。さらささんのお子さんにとって、赤ちゃんの時から通っている保育園は家庭と同じ「安心出来る居場所」なのだと思います。だから、あまり「マイ・テリトリー」にこだわらないのです。でも、支援センターでは異邦者です。知らない子がいっぱいいる知らない場所です。憂鬱質が強い子はそのような場では強い不安を感じます。そのため、しっかりとした「マイ・テリトリー」を作って、自分を守ろうとするのです。他の子に意地悪をしているのではなく、自分を守ろうとしているのです。自分を守ろうとする行為は悪いことではありませんよね。そのことを理解した上で、それでも「やっていいこと」と「悪いこと」を伝えて下さい。お母さんにその理解がないと、子どもは寂しくなります。
2014.12.07
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(昨日からの続きです)昨日は、「人は苦しいこと、悲しいことがあると、感覚を閉ざし、外の世界(現実世界)と内側の世界(心の世界)を分離することで、自分の心を守ろうとする」ということを書きました。でも、人々の感覚が閉ざされてしまうと言うことに関して、現代社会特有の新しい現象も起きています。それは、特別に強い悲しみや苦しみがあったわけではないのに、感覚の働きを否定し、頭での判断の方を優先させるような生活ばかりをすることで、感覚が閉ざされ、「現実の世界」と、「心の世界」が分離してしまっているような人が非常な勢いで増えてきてしまっているということです。そのような人は慢性的な孤独の世界に生きています。そのため、常に人を支配しようとしています。「孤独な人」は「共に」が出来ないので、そのような人が「強者」の立場に立つと、相手を支配しようとするのです。昨日書いたような、「苦しみによって感覚を閉ざす人」の場合は、どちらかというと「弱者」の側に回ることが多いのではないかと思うのですが、文明病的な要素がある「頭の働きばかり優先させ、感覚を否定することによって感覚を閉ざしている人」の場合はむしろ「強者」の側に立つことが多いのではないかと思います。このような人は、直接「目の前の現実」を見たり感じたりすることによってではなく、「その現実に関する数値やデータや知識」だけで、「目の前の現実」のことを理解し、判断し、対処しようとします。検査数値だけを見て、直接患者を診ることも、患者の話に耳を傾けることもなく、一方的に薬を処方するような医者はその典型です。先日、富士山が「世界遺産」に登録され、富士山が賑わっているようですが、2日の「読売オンライン」以下のような記事が出ていました。 須走ルート5合目では軽装で安易な登山を試みる人の姿もあった。明け方まで仕事をして、そのまま訪れたという東京都の男性会社員(25)は、半袖にスニーカー姿。午前8時半過ぎに5合目を出発し、山頂で友人の結婚式で流す映像を撮影後に下山し、そのまま帰宅する計画という。富士登山の経験はないが、「山のことは調べてきたから大丈夫。山という試練を乗り越えてきます」と言い残して出発した。このような人も、養老孟司さんが「バカの壁」という本の中で書いていた、「知識さえ学べば全て分かる」と思い込んでいる人も、子どもの言葉に耳を傾けず、子どもの顔を見ずに「子育て書」に合わせて子育てをしようとしている人も、マニュアルがないと仕事や作業が出来ない人も、みんな感覚が閉ざされている人です。そのような人が見ている現実、生きている現実は、脳が作り上げた「架空の現実」です。それは夢の中の世界と同じです。でも、小さい時からその世界しか知らないので、その人にとってはそれが唯一の現実になってしまっているのです。でも、そのような人が生きている現実は、「実際に生命が生きている現実」ではないので、しょっちゅう「想定外」のことが起きます。データだけを見て、「こういう対処をすればこうなるはずだ」と対処しても、実際の現実を見ていないので、それが平均的な事例ではない場合にはいつも想定外の結果になってしまうのです。子育てにおいても、子どもはお母さんの考えや行動に合わせて、自在にお母さんの気を引くようなことをやりますから、「目の前の子ども」をしっかりと見ていないと対処できないのです。万巻の武術の書を暗記していても、完璧な相手のデータがあっても、今目の前に対峙している敵をよく見て、感じていなければ勝てるわけがないのです。そんな時、知識やデータに頼ってしまうと身動きが取れなくなるばかりで、むしろ逆効果です。(当然ながら、自分自身のトレーニングも必要です。)それなのに、競争に勝ち抜いてその立場に立つことが出来た政治家達は、目の前の現実を見ずに、データや知識だけを相手にして、空理空論ばかりを唱えています。そのような人は「数値」は大事にしますが、「質」には意識を向けません。「質」は数値化できないからです。イジメも「件数」だけで、今と昔を比較します。そして、その「質」の違いには目を向けません。だから、世の中がこんなにもおかしくなってしまっているのです。ただ難しいのは、小さい時からデータや知識の中だけに「現実」を見ることに慣れてしまっている人は、「実際に生命が生きている世界」の方を「空想の世界」として扱おうとしてしまうことです。感覚が働かないため、その存在を確認することが出来ないからです。感覚が働けば「実際に生命が生きている世界」にリアリティーを感じることが出来るのですが、感覚が働かない人にとっては「データや知識が存在していない世界」の方が「空想の世界」なんです。原発などの問題も、「実際に生命が生きている世界」を感じながら生きている人にとっては、「あり得ない話」なのですが、データや知識によってしか物事を考えようとしない人にとっては、「原発反対」の方が「現実を見ないあり得ない話」なんです。その両者の意見の違いの根底には「感覚の違い」があるので、単なる対話だけではその溝は埋められないのです。だからやっかいなんです。
2013.07.03
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「命」というものは、どんなに一生懸命に守っても、時期が来たら消えてしまいます。これは避けることが出来ない運命です。「生きている」ということは、「やがて死ぬ」ということと同じなのです。産まれたばかりの赤ちゃんでも、「やがて死ぬ」のです。わざわざ殺し合わなくても、自殺しなくても、みんなちゃんと死ぬことが出来るのです。だからこそ、生きている間は自分に正直に一生懸命に生きる必要があるのです。ケンカなんかしている暇など無いのです。そうでないと「生まれてきた意味」が無くなってしまうからです。失敗を恐れて何もしないでウジウジ生きてもやがて死にます。人目を恐れて、隠れるように生きてもやがて死にます。どんなに整形や美容にお金をかけても、やがて限界が来ます。テレビで、実年齢が50才、60才なのに、見かけは30代、40代の人がもてはやされていますが、それでも寿命が延びるわけではありません。20才若く見えても、他の人よりも寿命が20年長いわけではないのです。見かけは若くても、「中味」はちゃんと年を取っているからです。消費するばかりで創造することのない人は「自分が生きた証」を残すことが出来ません。人とつながらずに生きている人は、誰の記憶にも残りません。そこには「永遠の孤独」があるばかりです。「それでもいい」という人もいるかも知れませんが、私はそのような人生を過ごしたくはありません。私は、お母さん達の勉強会だけでなく、2~4才児くらいまでの親子を対象にした教室もやっています。でも、幼い子どもの記憶というものは儚いもので、教室を卒業して数年もすると、私のことを忘れてしまう子が結構います。それでも確実に、一緒に楽しく遊んだ体験はその子の心とからだの中に残っているのです。そして、その子の人生において大きな働きをするでしょう。「幼児教育」とはそういうものです。お母さん達の勉強会もいっぱいやっていますが、ほとんどの場合、私はそのお母さん達の子どもは知りません。もちろん子どもの方も私のことは知らないでしょう。でも、私の「想い」や「生きた証」は勉強会に参加しているお母さんを通して、子ども達の中に受け継がれています。お母さん達はもっと直接的に我が子の人生に影響を与えています。お母さんが存在しなければ子どもも存在しないのですから。毎日食事を作り、洗濯をし、話しかけ、抱きしめても、子どもはすぐにそんなこと忘れて自分一人の力で大きくなったような顔をします。でも、そのお母さんの想いは子どもの心とからだの中に刻み込まれていきます。そして子どもが自分の人生を生きる力になるでしょう。確かに、私たち一人一人の生命は限られたものです。でも子ども達や他の人の心やからだの中に「生命の種」を蒔くことは出来るのです。そして、その「生命の種」には寿命がありません。人から人へと伝えられる限り、生き続けるのです。自分の人生を「自分がやりたいこと」のために使うのもいいでしょう。でも、特別なことをしなくても、「種を蒔く」という生き方もあると思うのです。お母さんが子どもを抱きしめるのも、美味しいお料理を作るのも、一緒に野山に行って遊ぶのも、毎日笑顔で接するのも、みんな「生命の種を蒔く」事だと思います。きっとそのうちその種は芽を出し、実を結び、子ども達はまた新しい「種を蒔く人」になるでしょう。「私の生命」はその「種」の中に生き続けるのです。そしてだから「嘘」はつきたくないのです。
2014.02.26
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物事を理解しようとするときには、大きく「部分から全体へ」という方法を採る考え方と、「全体から部分へ」という方法を採る考え方の二種類があります。 「部分から全体へ」という考え方では、まず、知ろうとする目的に合わせて、全体を「部分」に分解し、その「部分」の一つ一つを把握した後、その「部分」を組み合わせる形で「全体の姿」を理解していこうとします。この方法では、「全体」は常に「部分」に還元可能なものとして扱われます。 一般的に、科学ではこの方法を使います。ですから、科学的な方法に基づいて人間が作ったものは、必ず「部分」に分解することが可能です。 この考え方の長所は、より論理的に対象を理解することが出来ることです。なぜなら、人間の「思考の論理」そのものが、「部分」の組み合わせによって作られているからです。 それは「言葉」が「単語」などの小さな部分の組み合わせによって作られている事から見ても分かります。そして、人間は何かを理解するときだけでなく、ものを作るときにもこの方法を使っています。家も機械も、「部分」を組み合わせることで作られています。 そのようにして作られたものは、「部分」の状態を変化させることで、自在に「全体」の状態を変化させることが出来ます。つまり、コントロールが可能になります。「文明」はこの考え方の上に成り立っています。 もう一つの「全体から部分へ」という考え方では、「部分と全体は本来的に分離することが不能である」と考えています。そのため、全体のことを調べるために、それを部分に分解して調べるというようなことはしません。でも、「全体」をそのまま調べることは出来ないので、その全体の働きの表れとしての「部分」の状態を調べることで、その「全体」について知ろうとします。例えば、ある人について知ろうとする時には、その人の手足の動きや表情や行動といった「部分」を観察することで、その人の「全体」を知ろうとするのです。この場合の「手」や「足」は単なる「部分」ではなく、「全体の状態を表すもの」として理解されています。その手や足を切り離してしまったら、物理的には「手」や「足」のままですが、それは「全体の状態を表すもの」ではなくなってしまいます。一般的に芸術や哲学や宗教などではこの「全体から部分へ」という考え方を使います。「文化」と呼ばれるものはこの考え方に支えられています。シュタイナー教育もこのような考え方を大切にしています。この二つの考え方は発想の順序が逆になっていますが、だからといって、どちらの方が正しいということではありません。それは物事を「外側」から見る見方と、「内側」から見る見方のように、お互いに補い合うような関係になっているだけです。ちなみに、「部分から全体へ」という考え方は、「外側から見る見方」であり、「全体から部分へ」という考え方は、「内側から見る見方」です。それはまた、右脳と左脳の関係にも似ていると思います。右脳と左脳は異なる論理で働いていますが、それは世界を正しく認識するためにはその両方の見方が必要だからなのでしょう。そして、人工的な世界は「部分から全体へ」という発想で作られていますが、自然界は「全体から部分へ」という発想で作られています。「人間の発想」と「自然の発想」はちょうど逆になっているのです。 人間が何かを作るときにはまず「部分」を作ります。そして、「部分」が揃ってから全体を組み立てます。でも、生命の世界で起きていることは全くその逆です。受精の時には、まず「生命」という「全体」が受け渡されます。その状態の時には、まだ「手」や「足」といった「部分」は存在していません。でも、受精卵は「全体」としては完成形であって、後に「手」や、「足」や、「脳」が出来た状態の時との本質的な違いはありません。 だからこそ、成長の条件さえ与えられれば、外部から「部分」をもらわなくても、必要に応じて自分の力で作り出すことが出来るのです。受精卵には目には見えないけど全てが揃っているのです。ですから、「全体から部分へ」という考え方においては、その「目に見えないものを見る力」が必要になります。芸術を見るときも、「目に見えないもの」を見ることが出来なければ、芸術を味わうことは出来ません。それは「指の動き」に「心の動き」を見るようなものです。絵画を見て、構図や色彩やタッチといった「目に見えるもの」を通して、「作者が感じたもの」という「目に見えないもの」を感じるのも同じです。でも、「指の動き」そのものは誰にでも見ることが出来ますが、それを「心の動き」として見ることは誰にでも出来ることではありません。それが出来るのは、自分のからだを「自分の心を表すもの」として感じることが出来る人だけです。自分のからだを「道具」としてしか使っていないような人には、「指の動き」から「心の動き」を見ることは出来ないのです。だからそのような人は「そんなもの存在しない」と言うのです。 「部分」だけを見ることは簡単なのですが、その「部分」を「全体」とつなげて見るためには、「部分と全体のつながり」に対する深い理解が必要なのです。そしてその見方は「文化」として受け継がれて来たものです。仕草の読み取り方は「文化」なのです。でも、その文化は失われてしまいました。そして人々は「部分」しか見ることが出来なくなりました。だから、このような見方や考え方をすることが困難になってしまっているのです。でも、生命や自然の世界はこのような見方でないと理解することが出来ないのです。なぜなら、生命の世界も自然の世界も「全体から部分へ」という流れで作られているからです。子どもの成長も同じです。外側から「部分」を付け与えなくても、必要に応じて自分の力で内側から作り出すのです。だから大人は、その働きを支えてあげていればいいのです。それを「育てる」と言います。それに対して、部分を組み合わせる方は「作る」です。今、子どもを育てるのではなく、大人の意図通りに、子どもを作ろうとしている人がいっぱいいます。でも、その方法では「全体」の状態を壊してしまうため、「想い」とは異なる結果になります。この「全体から部分へ」という方法は、芸術を作ったり、鑑賞したりする方法と似ています。だから、子ども達に多くの芸術的体験を与えることで、子ども達は「隠れていて肉眼では見えないけど確かに存在するもの」を観る力を育てる事が出来るのです。
2013.08.06
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音楽的表現は無限にあり自由ですが、でも、「芸術としての音楽」に限って言えば、それらの音楽は「音のルール」「心のルール」に従っています。自由ではあるのですが、あくまでも「ルールの中での自由」なんです。そしてそこが大切なところです。そしてそのルールは「社会のルール」の影響も受けてはいますが、基本的なところは、時代や、地域や、文化が変わっても変化していません。なぜならそのルールを生み出しているのは「命のルール」「からだのルール」自然のルール」「心のルール」といった、社会のルールよりももっと深いところに存在するものだからです。まただから、明治維新の時、遠く離れた欧米の人でも、日本の美術に感動することが出来たのです。日本人もまた欧米の音楽を聴いて感動したのです。現代人でも、古代の人が洞窟の中に描いた絵を見て感動できるということは、「古代の人も現代人と共通したルールを持っていた」という証でもあるのです。絵を描く場合、絵描きは「色のルール」「明暗のルール」「形のルール」「人の心のルール」「物語のルール」「空間のルール」などに従っています。私たちが知っているような「何が描いてあるか分かる絵」は、風景や人物や静物がそれらのルールに従って描かれています。ミロやクレーのような、何が描いてあるのか意味不明な抽象画の場合は、その「ルールそのもの」で絵を描いています。だから、一見「子どもの絵」と似ていても、それらのルール無視して描く「子どもの絵」とは異なるのです。そもそも、具象画と抽象画とでは「ルールの使い方」が違います。だからその「新しいルール」に不慣れな人には何が描いてあるのか分かりません。それは同じ「ボール」を使っていてもバスケットとテニスが全く違うゲームのように見えるのと同じです。でも、見かけは異なっていても、ルールの根本的なところは同じです。それが「スポーツがスポーツとして成り立つためのルール」だからです。柔道もボクシングも、それがなければ「スポーツ」ではなく「殺し合い」になってしまいます。何をどのように描くのかは全く自由ですが、観る人の心に働きかけるように描くためには「絵画のルール」に従う必要があるのです。まただから、そのルールに従った歌や絵画や踊りなどは、時代、文化を超えて人の心に響くのです。そして、この理屈に従うのなら「子育て」や「教育」も「芸術」たり得るのではないでしょうか。実際、シュタイナー教育は「教育芸術」を自称しています。これは、芸術のことを教える「芸術教育」という意味ではありません。「芸術としての教育」という意味です。それは「ただ美しく」ということでもありません。シュタイナー幼稚園が美しいものを大切にするのは「結果」であって「目的」ではありません。ただし、私はただの「シュタイナー教育愛好家」であって、シュタイナー教育の専門家ではではないので、私の言うことは「私の理解では・・・」ということに過ぎません。そこの所はご理解下さい。命のルール、自然のルール、心とからだのルールに従って表現されたものが「芸術」と呼ばれるのなら、同じように命のルール、自然のルール、心とからだのルールに従った子育てや教育も「芸術」になり得るのではないでしょうか。それは、「子どもの成長に寄り添う子育てや教育」のことです。絵を描いたり、踊ったりしなくても芸術なんです。
2026.08.07
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日本人と欧米の人とでは自然観も人間観も異なります。だから本来は当然、自然との関わり方も、子育てや教育の方法も異なって当然なんです。これは個人においても言えることで、自然観や人間観が異なる人は自然との関わり方も、子育ての方法も異なるのです。だから、自分とは異なる自然観や人間観の人のやり方を無自覚的に真似していると、後で「こんなはずではなかった」という結果になります。でも、日本人は明治維新の時も、戦後もそのことには無頓着に、欧米のやり方ををそのまま取り入れてしまいました。だから急激に発展することが出来たのですが、でもだから自国の文化が空洞化してしまったのです。このような傾向はアジアの国々に一般的に見ることが出来ますが、でも日本が一番そのことに対しては無頓着でした。まるで子どものような素直さで欧米の文化や考え方を無条件に取り入れたのです。でも、「方法」は取り入れることが出来ましたが、「感覚」は取り入れることが出来ませんでした。「方法」は単なる技術ですからマニュアル化することが出来ますが、「感覚」は歴史、生活、文化、そして風土の中で育つものなので、そういうものを共有していない人の感覚を取り入れようがないからです。その結果、目的と方法が異なるようになってしまいました。というより、日本人は自らの目的を放棄してしまったのです。「方法」はあるのに「目的」がないのです。今、教育でも子育てでも、ちゃんとした目的意識を持って関わっている人は多くないと思います。 ほとんどの人が「方法」を守ることだけに精一杯なのです。そして、その「方法」がどのような「結果」につながっているのかなどと言うようなことは考えようともしていません。だから、「何のために子育てをしているのですか」とか、「何で勉強が必要なのですか」と聞いても、明確な答えが返ってこないのです。ちなみに「目的の放棄」は「感覚の放棄」に他なりません。今の日本人にとって、昔の日本の文化は文化財的な価値しかありません。子どもたちがその文化を受け継ぎ、さらに自分の子どもたちに伝えるという価値観や方法が生活の中から消えてしまっているからです。特別な人たちだけによって守られ、生活の中から消えてしまっているようなものは「文化財」であって、「文化」ではないのです。そのような視点で見ていった時、今の日本における世界に誇れる文化は、「アニメ」や、「ゲーム」や、「ロリータファッション」といったようなものです。これらに共通しているのは「感覚的」であり、「子ども的」な文化だということです。それはそれですごいのかも知れませんが、それだけではちょっと悲しくありませんか。日本食は世界中に広まってきましたが、肝心の日本では廃れてきてしまっています。ちょっと前までは世界に誇ることが出来ていた「物作りの技術」にも翳りが出ています。「ありのまま」や、「かそけきもの」や、「つながり」や、「生命」に美を感じる、日本人の美意識も消えてしまいました。世界中で有名だった日本人の「勤勉さ」ももう過去の話です。さらに、こんなにも教育が普及して、識字率がほとんど100%なのに、読書を楽しむ人はどんどん減ってきています。子育て関係の本も、今では絵を多くしてマンガのようにしないと売れないとも聞きます。文字が多かったり、ちょっと難しいことが書いてあったりするとみんな敬遠してしまうです。(このブログをお読みいただいている方達は、「変わっている人」なのかも知れません。)うちの近くの文教堂は1,2年くらい前に売り場の半分を「ゲームソフトのコーナー」にしました。さらに、残りの半分のうちの半分を「マンガコーナー」にしました。その位の割合でないとお店の経営が成り立たないのでしょう。日本人は読むのも書くのも話すもの、日本語すらうまく使えなくなってしまっています。英語がどうのこうのなどと言っているような状況ではありません。ネイティブのような発音で英会話が出来ても、実際問題として英語の本が読めないような人はまともな知識人として相手をして貰えないのです。そして、日本語の本すら読めない人が英語の本など読めるわけがないのです。小さい時からいっぱい塾や習い事に通わせて、高いお金を掛けて子どもを教育してきた結果がこうなってしまっているのです。でも、文科省は教科書を厚くして、学ぶ量を増やせばそれを乗り越えられると信じているようです。ここで求められているのは価値観の転換なのに、そのことが全く分かっていないのです。(選挙に勝つためにはタレント候補を多く立てればいい、と考えるような人たちが政治をやっているのでどうしようもありません。)そして、日本の幼稚園や学校あり方がこのような日本人を育ってきたのです。そのことに対する反省も必要でしょう。それを子どもや親の問題に転嫁してしまっています。でも、そのような子どもや親を育ててきたのは日本の教育制度なのです。私が幼稚園の園長だったら、「お話しを聞いたり、演じたり、楽しむこと」を保育の中心に持ってきます。幼い子どもたちは「お話し」を通して価値観を育てているからです。学校の校長だったら、図書室を学校活動の中心に持ってきます。図書室を子どもたちにとって一番居心地のいい場所にします。読書や図書室をないがしろにするような価値観で、「学力」が上がるわけがないのです。古今東西のあらゆる価値観や、考え方や、人間と出会うことが出来るのが図書室なのです。そして(これは不可能でしょうが)教科書を使わず、実際に見聞きしたり、体験したりすることと、本を読むことで学びます。子どもの人間としての成長にとって、「知識の詰め合わせ」のような教科書なんか何の役にも立たないからです。どんなに山ほどの知識を覚えさせ、人並みはずれた能力を育てることが出来ても、「本を読むことが出来ない」、「本を読むことを楽しめない」子どもたちになってしまったのなら、その教育は失敗なのです。今、「保健室登校」という言葉がありますが、教室に入れない子どもたちはみんな「図書室」で受け入れるようにします。保健室には「安心」があるかも知れません。でも、「安心」しかありません。他者とのつながりがないのです。でも、本当の安心はつながりの中で得る必要があるのです。そうでないと自立できないからです。ですから、司書の人の数を多くして、更に子どもの心との向き合い方も学んでもらいます。「お話し」や「物語」に高い治療効果があるのは認められた事実です。共同保育ににおいても「お話しを聞いたり、演じたり、楽しむこと」を大切にしてもらいたいと思っています。
2010.05.24
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動物が危険や恐怖を感じた時には「戦う」、「逃げる」、「固まる」という中のいずれかの行動を取ります。人間もまた危険や恐怖を感じた時にはこの三つの中のいずれかの行動を取ろうとします。気質との絡みで言うと、胆汁質は戦い、多血や粘液は逃げ、憂鬱質は固まる傾向が強いような気がします。ピノコさんのお子さんの状態は、この、憂鬱質の「固まる」という反応だろうと思います。その時、自分の気持ちを説明するために「人が見ているから~するのがイヤだ」と言っているのだろうと思います。それはまた、幼稚園の中で自分が受け入れられていないように感じていることの表れでもあると思います。これは「自我意識」と似ていますが、「自我意識」ではありません。しいて言えば「自意識」です。「自意識」が強い人は人の目を気にします。その時、自分の意識は自分の中に閉じ籠もりっきりです。相手の立場に立って考えているわけではありません。自意識が強い子は、絵が上手に描けなくたって誰も文句も、非難もしないし、笑われもしない状況でも、勝手に自分の中に「文句を言う存在」「笑う存在」を作り上げて、怖がるのです。つまり、自分で作った物語に縛られてしまうのです。それに対して、「自我意識」とは「人目」を気にすることではありません。そうではなく、「自分自身のことを冷静に見る」意識のことです。ウィキペディアには「自己を対象とする認識作用のこと」と書いてあります。ですから、「自我意識」がしっかりとしている人は、「相手の立場に立って物事を考える」ということができます。そしてこれは人間にしかない能力です。この能力があるから人間は客観的に物事を見たり、考えたりすることが出来るわけです。そして、この能力は思春期が近くなると目覚め始めます。ですから幼稚園児にはありません。ちなみにこの自我意識の目覚めには個人差が大きく、大人になっても自分のことを客観的に見ることが出来ない人もいっぱいいます。また、何らかの精神的なトラブルでそのような状態になってしまう人もいます。そのような人は「思い込み」だけで自分のことや他の人のことを判断してしまいます。そして、「思い込み」と「現実」を区別することが出来ません。幼児は全くこの状態です。(大人にとっては困った状態ですが、幼児にとっては自然な状態です。)それがひどくなると「統合失調症」になります。これを「自我意識の障害」と呼ぶようです。ですから、このような人が一度悩みや苦しみにとらわれてしまうと、なかなか抜け出すことが出来なくなります。そして、他の人を非難、攻撃し始めます。自分を見つめることが出来ないので、苦しみの原因は全て他の人のせいだと思い込んでしまうのです。それに対して、「自意識」は人間以外の動物にもあります。動物達も他の個体の目や人目は気にしています。だから猿などでもボスの前では小さくなって、自分より下位の相手に対しては態度をでかくするのです。臆病な犬が知らない人に吠えるのも同じです。自我意識がしっかりとした人は人目がなくても、自分で自分をコントロールすることが出来ます。人目に振り回されません。それに対して、「自意識」だけで動いている人は、人目に合わせて行動するばかりなので、人目がない状態ではどうしていいのか分からなくなります。つまり、「自由にしていいですよ」と言われると困ってしまうのです。現代人は「自意識」ばかりが強くて「自我意識」があまり育っていません。だから「幼児化」してしまっているのです。そしてそれが学力の低下や、科学嫌いとつながっているのです。全ての学問は「自我意識」の産物だからです。また、自分のことを客観的に見ることが出来ないから子育てでも、子どもを虐待してしまうのです。では、この「自我意識」をどのように育てたらいいのかという問題です。実はここで必要になるのは「学ぶこと」(入力)と「表現する」(出力)ことなのです。学ぶだけでは自意識ばかりが強くなります。他者による正解ばかりが多くなるからです。表現するだけでは思い込みばかりが強くなります。自分だけの正解ばかりが多くなるからです。でも、この二つがつながる時「考える」という働きが目覚めます。科学について学びます。そして、それを実験(表現)で確かめようとします。でも、事実は知識通りにはなりません。それで考えます。そして、また学びます。そしてまた実験します。この繰り返しで、「事実とは何か」ということを見る目が育っていくのです。そして、その繰り返しが「自我の育ち」を支えてくれるのです。このように見ていくと、どうして今の日本の子どもたちの自我の育ちが遅れてしまっているのかがよく分かります。家庭の中にも教育の中にも「表現能力」を育てる場がないからです。
2010.09.04
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どんこさんから以下のようなコメントを頂きましたので、今日は子どもの育ちに必要な「からだの使い方」について書いてみます。1人目ということもあり何事も慎重で運動神経はあまり発達しなかった小3の息子。でも生き物捕りは大好きで、小さい時から近所でよく虫や魚を捕まえています。ここ1,2年はキャンプや自然体験イベントにもよく参加するようにもなりました。今日は岩の多い川で、水中の生き物を観察してきました。岩場を登ったり下りたり、草むらや坂を転ばずに走ったり、そういう体の動きは生き物捕りをする中で自然に培われてきていると感じました。でも、運動自体は得意な方ではなく、体育でする鉄棒や前転後転やジャンプなんかは苦手です。ロデオは家でたまにしますが、しがみつく力はあります。動物たちは、大きく分けて二つの場面でからだを使っています。一つは攻撃するときです。獲物を追いかけ、飛びかかり、組み伏せ、打ち殺すようなときには非常に派手にからだを動かします。このようなからだの使い方に求められるのは、「早さやパワーにおいていかに相手を上まわることが出来るのか」ということです。弱肉強食的な世界です。スポーツはこのようなからだの使い方を競技として発展させたものです。そして私たちはこのようなからだの使い方に優れた子を見て、「あの子は運動神経がいいね」などと言います。からだを使う必要があるもう一つの場面は、逃げるときや、身を守るときなどです。物音がしたときなどにパッと穴や物陰に隠れたり、木に登って逃げるような動きです。そしてこれは、獲物を追いかけ、飛びかかり、組み伏せ、打ち殺すようなからだの使い方とは全く違います。そもそも使っている筋肉が違うのです。簡単に言うと、攻撃するときに使っているのは「押す筋肉」です。それに対して逃げるときに使っているのは「引く筋肉」(筋)です。ちなみに、いわゆる「筋肉」として見ることが出来るのは「押す筋肉」の方です。ですから、「押す筋肉」が発達しているとマッチョでかっこいいです。ジムなどで鍛えることが出来るのは「押す筋肉」です。そして、欧米人はこの「押す筋肉」に優れています。だから攻撃的でもあるのです。胆汁質が強い人も、この「押す筋肉」に優れています。でも、日本人は「力を入れずに引く」というからだの使い方の方が得意です。日本人は、押してからだを動かすのではなく引いてからだを動かしていたのです。もっとも最近の人は、昔の日本人のからだの使い方が分からなくなってしまっているので、押してからだを動かそうとしています。でもだから、からだを壊してしまうのです。スポーツ選手なんか、みんなどこかしらからだを壊していますよね。このからだの使い方の象徴が「ノコギリの使い方」です。欧米のノコギリは押して切ります。でも、日本のノコギリは引いて切るのです。そのため、刃の向きが逆になっています。押して切るときには腕力や体重が必要です。でも、引いて切るときには腕力はあまり必要ではありません。腰と腹とからだ全体をうまく使うことが出来ると、力を入れなくても切ることが出来るからです。刀の使い方も同じです。西洋の剣は押して切り、日本刀は引いて切ります。西洋の格闘技は力業ばかりです。ですから、レスラーなどもマッチョばかりです。 ドアを開ける時のことを考えてみて下さい。ドアを押して開ける時にはからだを固めて、腕に力を入れて押しますよね。 でも、引いて開ける時にはからだを固めませんよね。それと、からだ全体を使いますよね。 同じ重さのものを、同じ量だけ移動しているのに、からだの使い方は全く違うのです。それと、「押す力」は若いときは強いですが、加齢と共に急激に衰えます。攻撃する力は年齢のピークが過ぎると急激に低下するのです。スポーツ選手の寿命が短いのはそのためです。それに対して、日本の武道などでは60、70代になっても、20代の若者をポンポン投げている人もいっぱいいます。太極拳などでも同じです。それにマッチョはいません。これは、日本の武道や太極拳などは筋肉によって押して動いているのではなく、重力や、腹や腰などを使ったり、からだ全体をうまく使って引いて動いているからなのです。柔道で相手を倒そうとすると力を入れて力むことになります。すると力と力の戦いになります。でも、からだの内側にらせん的な流れを作り、からだの力を抜いたままその流れに相手を引き込むように動くなら力と力がぶつからないのです。だから、昔は「柔よく剛を制す」と言われたのですが、最近の柔道はまるでレスリングのようです。また、動物たちの動きも基本的には同じです。動物たちも普段は力を入れずに動いているのです。だからなめらかに動くことが出来るのです。戦っているとき以外に力んでいる動物って見たことがないでしょ。そして、子ども達がまず学ぶのも、この引いてからだを動かす方法です。コマ回しでも、竹馬でも、木登りでもマッチョな筋肉は全く必要ありません。腕立て伏せが一回も出来なくても、かけっこが遅くても、コマ回しや竹馬や木登りが得意な子はいっぱいいるのです。だから、子ども達の姿勢や動きは美しいのです。このような「遊びを通して身につけた身体能力」が、子どもの身を守ってくれていたのです。スポーツでは競争や記録が目的ですから、どうしても「力むからだ」(攻撃するからだ)になってしまうのです。
2015.08.03
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スポーツでは「パワーとスピード」を非常に重視します。というか、それを様々な形で競い合うのが「スポーツ」です。 テクニックも必要ですが、それは「パワーとスピード」をコントロールするためのテクニックです。 肉体の柔らかさも求められますが、それは「パワーとスピード」を効率よく使ったり、不自然なからだの使い方から生まれるケガを避けるためにです。 人間は本来「パワーとスピードに依存しない生活をする動物」なので、「パワーとスピードに頼った活動」ばかりをしているとからだを壊してしまうのです。 「パワーとスピードに頼った活動」は、本来、人間にとっては不自然な活動なんです。だから「からだ」もそのようには出来ていないのです。 実際、人間の様々な文化的な活動、生産的な活動、知的、芸術的活動において「パワーとスピード」を必要とするものはスポーツの世界だけです。 生活の場でも、学びの場でも、仕事の場でも、「パワーとスピード」はほとんど役に立ちません。 ゴリラは筋トレなどしなくても力が強いです。チーターは走るトレーニングなどしなくても早く走れます。生活のレベルを超えて訓練しなければ身につかない能力は、その動物にとっては本来必要がない能力なんです。 実際、スポーツ的なトレーニングを何もしていなくても、少しも困らずに生活している人の方が多いです。 でもだからこそ、「スポーツ」は見世物として成り立つのです。努力しなければ得ることが出来ない「人間らしさを超えた能力」だから、それを見てみんな驚くのです。 スポーツを「見世物」と書くと嫌な気分を感じる人もいるかも知れませんが、古代ローマの時代から歴史的に見てもそうなんですから、それは受け入れるしかありません。 相撲は「神さまに対する見世物」として生まれました。 実際、現代社会でもスポーツは見世物として扱われています。だから「経済活動」と密接につながっているのです。 ちなみに「健康のためのスポーツ」は「スポーツ」というよりも、「遊び」です。そこで大事なのは「勝ち負け」や「記録」ではなく「楽しむ」という事だからです。 ですから「健康のためのスポーツ」はいいと思います。それは否定しません。でも、子どもにはそれすらも必要がありません。 子どもには「遊び」があるからです。子どもに「スポーツ」は必要ありませんが「遊び」は絶対的に必要なんです。 からだの基礎がある程度出来上がっている大人なら、スポーツの人工的な不自然さを楽しむのもOKですが、そのからだの基礎を作っている時期の子どもには不自然なからだの使い方を要求されるスポーツはあまりふさわしくないのです。 子どもがからだの活動を通して育てなければならないのは、「パワーとスピード」でも、「スポーツ的な能力」でもなく、「心や意識の働きとつながった丁寧なからだの使い方」なんです。 それが子どもの心とからだを統合させ、精神的な安定をもたらすのです。 子どもは本能的にそれを知っています。だから大人に指示命令されなくても、自分の意思で遊ぶのです。 人類が「パワーとスピード」を身につける代わりに発達させたのが「考える能力」と「空想する能力」です。 それが人間の人間らしさを支えているのです。そして、子どもたちはその能力もまた遊びの中で身につけているのです。 でもなぜかみんな、その人類の進化に逆らうような活動にばかり夢中です。 それは「自分達が持っていないものに対する憧れ」なのでしょう。 それはそれで、気持ちは分かります。でも、子どもの成長には必要がないのです。
2020.02.02
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我が子のことを疑っているお母さんは多いですが、幼い子どもは100%お母さんのことを信じています。自分の命の全てを預けていてもニコニコしていられるくらい信じています。100%信じているからこそ、お母さんと共鳴し、お母さんを模倣しながら言葉や、様々な行動や、感じ方や、考え方を学ぶことが出来るのです。その際、「いい、悪い」の評価はしません。疑う能力がないのですから。そのため、お母さんの「いい所」だけでなく「悪いところ」も模倣してしまいます。でも、それでいいのです。子どもはお母さんをコピーしてそのまま成長するのではなく、「自分らしさを育てるための叩き台」をお母さんから学んでいるだけだからです。だから、子育てにおいてはお母さんは「理想的なお母さん」である必要はないのです。むしろ、人間らしさが強いお母さんの方が「叩き台」としては効果的なんです。幼い子どもたちは、「他の人と共通する要素」や「他の人とつながるための能力」を育てることから自分の成長を始めます。人間が人間らしく生きて行くための必要な能力はDNAには書き込まれていないので、幼い子どもは他の人との関わり合いを通して、「人と人のつながりの中で生きて行くために必要な能力」を育てるところからその成長を始める必要があるのです。その際、「自分と他の人の間に壁を作るような感覚」を育ててしまうと、「他の人からの学び」や「他の人との関わり合いを通しての学び」が阻害され、心とからだの成長が阻害されてしまう可能性が高くなってしまうのです。「他者とつながり、他者から学ぶ能力」も育ちにくくなってしまうでしょう。それは、疑うことばかりを覚え、「信じる心」を失ってしまった子は「人間らしさ」を育てることが困難になってしまうということを意味しています。ですから、幼い子どもの心とからだの育ちには、「信じる心」が絶対的に必要なんです。信じているから心とからだを開き、他者を受け入れ、他者から学ぶことが出来るのです。「疑う」という能力が必要になり育ち始めるのは思春期が来てからです。「信じる能力」が育った上に「疑うという能力」が育つことで正しく疑うことが出来るようになるのです。そしてそれが「学問の学び」や「個としての自立」を支えてくれるのです。この順序は逆には出来ないのです。でも現代人は、まず疑うことから子どもに教えようとしています。子ども同士を比較し、評価し、競争させる行為は全て子どもの「信じる心」を壊してしまいます。勉強も、それが評価を伴うものなら、子どもの「信じる心」を壊してしまいます。あと、部分ばかり教えて全体を教えようとしない教え方も「信じる心」を壊してしまいます。「部分ばかりを見て全体を見ない」という意識の状態がそのまま「疑う心」の現れでもあるからです。まただから疑いやすい人は騙されやすいのです。疑いやすい人は部分しか見ようとしていないので、その部分の帳尻を合わせられてしまうと、全体の状態がおかしくても、疑う理由が見つからなくなってしまうからです。日本の学校教育では、「知識」という名の、「全体から切り離され、細切れにされた部分」ばかりを教えています。だから、どんなにいっぱい知識が溜まっても全体を観る能力が育たないのです。だから簡単に騙されてしまうのです。それに対してシュタイナー教育では全体から教えようとしています。だから、信じる心を大切にしているのです。でもだから、「部分から学ぶ学び方」に慣れてしまっている人には何をしているのかが理解出来ないのです。
2020.12.05
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「頭でっかち」という言葉があります。goo辞書には以下のように書かれています。あたま‐でっかち【頭でっかち】 の解説[名・形動]1 からだの他の部分に比べて、頭が大きいこと。また、そういう人や、そのさま。あたまがち。2 上の部分が下の部分に比べて、ふつりあいに大きかったり多かったりすること。また、そのさま。「頭でっかちの花瓶」「頭でっかちな組織」3 知識や理論が先走って行動が伴わないこと。また、そういう人やそのさま。「頭でっかちな若者」今日扱うのはこの三番目の意味です。ここでは「頭でっかちな若者」というように、「若者」の一つの特徴として書かれていますが、現代社会では若者だけでなく、多くの大人や老人までも「頭でっかち」になってしまっています。なぜなら、社会環境も、子育て状況も、教育状況も、「頭でっかちな人」しか育たないような状態になってしまっているからです。また、人々の価値観も大きく変わりました。昔は、知識と理屈ばかりに饒舌で、実際には何も出来ないし、やろうともしない「頭でっかちな人」は「困った人」だったのに、現代社会では実際には何も出来なくても知識や理屈に饒舌な人の方が優遇されるようになったのです。実際、現場で頑張っている「ブルーカラー」よりも、頭で色々とこねくり回して「ブルーカラー」に指示を出している「ホワイトカラー」の方が社会的立場も給料も高いです。ノコギリを自由に使って色々なものが作れる人よりも、「ノコギリについての知識」をいっぱい持っている人の方が偉いのです。なぜなら、現代社会では人を評価する基準自体が「何が出来るか」ではなく「何を知っているか」だけになってしまっているからです。学校でやっていることはその典型です。また、知識や理論さえあれば、自分は出来なくても、機械や下請けに任せてしまえば何とかなります。そこで必要なのは経験ではなく、お金だけです。その際、知識や理論を持っている人が「頭」で、その指示で動く人が一段低い価値の手足になるわけです。ただ、人々の価値観や社会システムはそのように変わりましたが、問題は、心や、命や、からだや、自然と関わるような現場では何も変わっていないということです。そのような現場では、現代人の知識や理論が通用しないのです。教育学の専門家だって、自分自身の子育てでは悩み苦しむのです。心理学の専門家だって、自分の心や家族の心に振り回されるのです。一流の医者だって、自分のからだをもてあますのです。そして、老いも死も止められません。そういう場で必要になるのは、「体験から学ぶ能力」であって、教科書に書いてあるような高度な知識や理論ではありません。幸せに生きるために必要なことも、「体験から学ぶ能力」であって知識や理論ではありません。問題は、その「体験から学ぶ能力」は、「実際の体験」を通して学ぶしかないということです。教科書を丸暗記しても、本を山のように読んでも、それだけでは身につかないのです。でも、その「実際の体験」を体験する場が子どもたちの周りから奪われてしまっているのです。それが現代人の子育ての苦しさや、生きる苦しさにもつながっているのです。自分や、家族や、子どもや、パートナーや、周囲の人に理想を求めて苦しんでいる人は頭でっかちな人です。
2021.04.17
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(これは以前書いたものに手を加えたものです)辞書的な意味での「自立」の反対は「依存」ですが、実際には、他者に依存していない人などこの世界には一人もいません。この世界の全ての存在は繋がりの中で生まれ、繋がりに支えられて存在することが出来るような仕組みになっているからです。自分の意思で産まれて、自分の力だけで大人になった人などこの世界に一人もいないのです。みんな依存の中で生まれ、依存の中で成長して大人になったのです。ですから、依存することは恥ずかしいことでも、避けるべきことでもありません。また避けることも出来ません。ここで大事なことは、「依存しないこと」ではなく「支配されない」ことなんです。それが「自立」の本質的な意味でもあります。私たちはお金に依存して生活しています。それは避けることが出来ない現実です。それが嫌だったら、無人島や山の中で自給自足で暮らすしかありません。でも、同じようにお金に依存していても「お金に支配されている人」と「お金に支配されていない人」がいます。いわゆる「専業主婦」と呼ばれる人は、経済的にはご主人に依存しています。そして、ご主人は生活や子育てを奥さんに依存しています。ですから「お互い様」なんですが、お金を稼いでいないことを後ろめたく思っている女性の中には、その負い目から精神的にご主人に支配されてしまっている人もいます。また、「お金を稼いでいる俺の方が偉いんだ」と思い込んでいる男性は、奥さんを支配しようとしてきます。でも、「支配」は「依存」の裏返しでもあります。支配する対象に依存しないことには支配が出来ないからです。国民がいなくなったら支配者は支配者でいることが出来なくなってしまうのです。ですから、支配しようとする傾向のある人は依存心が強い人でもあるのです。でも、お互いに尊重し合って家族を支えている夫婦は、支配されても支配してもいません。それが「自立している」という状態です。子育てに本当に必要なのは「子どもの育て方」という「方法」ではなく、「お母さんが一人の人間ととして自立すること」なんです。自立しているからこそ、子どもの育ちを補助することが出来るのです。そして、自立するためにはまず、自分の感覚を開くことから始める必要があります。ちゃんと見て、ちゃんと聞いて、ちゃんと感じて、ちゃんと味わうことから自立が始まるのです。また、ここから始めないと「自分の頭で考える」ということも出来ません。そしてこれもまた、「支配されない」ための方法でもあります。「経済的に自立して下さい」ということでも、「ご主人や仲間に依存することをやめて下さい」ということでもありません。そういうことはみんな「お互い様」なので、素直に受け入れればいいのです。また、色々な本を読んだり、色々な先生の話を聞くのもOKです。それを「自分の生き方」や「自分の子育て」を考えるヒントとして使うのなら、色々な人の話を聞き、色々な本を読むことは素敵なことです。でも、自分で判断することなく、「偉い先生が言ったから」とか、「みんながやっているから」「テレビで言っているから」などと、自分の考えや行動を人任せにしている人は、支配されていることになります。学校の先生に言われた通りに子どもを追い立てている人は、先生に支配されている人です。「親の役割」と「先生の役割」は根本的に違うのですから、先生が親に指示命令を出すのも、親がそれに従うのもおかしいのです。でも、実際には多くの親が、先生や学校に支配されています。そして子どもを追い詰めています。テレビに出ている医者が言っていることに支配されている人も、他人の目に支配されている人もいっぱいいます。支配されないためには自分が「自分」である必要があるのです。そして、自分が「自分」であるためには、「自分は何を見て美しいと感じるか」、「何を美味しいと感じるか」、「どのようなことに感激するか」、「どのようなことに喜びを見いだすことが出来るか」ということを、「自分らしさ」として自覚し、大切にする必要があるのです。人と自分を比較していたら、「自分らしさ」は失われてしまうのです。そのため、人と自分を比較する癖のある人は自立できません。我が子と他の子を比較している人も自立できていません。
2022.08.09
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人間は「感情の動物」です。人間の特性を高い思考力に求める人がいますが、それは人間の人間らしさを支える根本的な特性ではありません。実際、感情の働きが萎えてしまうと、感じる力も、考える力も、行動する力も、生きる力も萎えてしまいます。また、姿勢も崩れ、病気に罹りやすくなります。感情には「病気からからだを守る働き」もあるからです。そして、その「感情の働き」の根本的な所は「からだの育ち」と共に成長します。「感情」と「からだ」はほぼ一体のものだからです。大人は義務で行動しますが、子ども達は義務では行動しません。「やりたい」という感情が動かなければ子どもは自発的には行動しないのです。そして、「頭の育ち」は「感情の育ち」と「からだの育ち」の結果として生まれます。ですから、「感情の育ち」「からだの育ち」がちゃんと満たされない子は「頭の育ち」も満たされないのです。ですから、「感情の育ち」「からだの育ち」を無視して、いきなり「頭の育ち」を促そうとすると、これら全部の育ちに困った影響が残ってしまうのです。順序を間違えると成長が歪んでしまうからです。でも、多くの現代人が、これをやってしまっています。実際、「やりたい」という感情が強い子ほど能動的に行動します。遊びはその「やりたい」を引き出すきっかけとして働いています。そして、7才頃までに、「遊び」を通して心とからだがちゃんとつながった子は、周囲の刺激に振り回されにくくなり落ち着いてきます。そのような子ばかりなら学級崩壊は起きないのです。学級崩壊という状態が一般的になってしまったのは、「心とからだがつながっていない子ども達」が増えてきたからなんです。そのような子は感情の育ちが未熟なため、簡単な刺激に触れただけで自分の感情に振り回されてしまうのです。また、それ故に、落ち着いて、論理的に考えることも苦手です。他者とつながったり、対話したり、支え合ったりするのも苦手です。そして、自分中心に感じ、考え、行動するようになります。その「感情の働き」は「からだの状態」とのつながりが強いので、からだの成長の段階に合わせて感情の成長の中身も変わってきます。子どもは、からだの基本的な機能が整った状態で生まれてきます。でもまだ「器」しかありません。その中身は産まれた後の体験を通して育っていくのです。感情もその時に育っていくのです。幼い子ども達は、まず感覚の働きを育てようとします。全ての生き物は感覚の働きを通して「自分が生きている世界」とつながり、食べ物をとり、敵や危険な状況から身を守っているからです。だから色々なものに触れ、色々なものを口に入れ、色々な所に行って、色々なことをするのです。その時、周囲にいる大人がその「子どもが感じている感覚」を共有しようとするとき、その感覚に伴う感情も育っていきます。「感情」は「言葉」と同じ性質を持っていて、人から人へと伝承されるものだからです。美味しいものを食べたときに「美味しいね」と言って笑顔で「子どもが感じている感覚」を共有していると、食に対する肯定的な感情が育つのです。確かに、一人だけで食べても栄養は取れます。でも、「食べる」と言うことに対する肯定的な感情は育たないでしょう。子どもが立ったとき「立った、立った」と周囲の大人が喜んでいると、「立つ」という行為に肯定的な感情を持つようになります。子どもがからだを動かして色々なことをやっている時、それを見ている大人も子どもと一緒に喜んでいると、子どもはからだを動かして遊ぶことが楽しくなります。そして、からだを動かすことに対する肯定的な感情がめざめます。(続きます)
2026.07.21
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最近の子ども達と話をしていて気になるのが「想像力」と呼ばれるものが非常に弱いことです。「ここをこうしたらどうなると思う」とか、「どうやったらうまく行くと思う」とか、「こっちから押したらこうなるから、反対から押したらどうなると思う」などと聞いても、全然答えることが出来ない子がいっぱいいます。考えようともしないで最初から「分かんない」と答えます。知恵の輪やパズルを渡すと、最初から「どうやって解くの」と聞いてきます。大人達は子どもたちの思考力を高めたいと思っているのでしょうが、想像力も空想力もない子には、思考力もありません。いくら算数の問題を解かせても無駄です。ただ単に「演算技術」が得意になるだけです。イスを作る時に、足をバラバラの長さに切る子がいます。それで、組み立ててみてイスがガタガタになると「なんでだろう?」などと本気で言うのです。「イスの脚は何本だと思う?」と聞かれて初めて「四本」と気付く子もいます。1cmの板を二枚打ち付けるのに5cmの釘を使おうとする子もいます。そのため、釘打ちをする場合は下に厚い板を敷かせています。そうでないと床に板を打ち付けてしまう子がいますから・・・。「弓矢で遊びたい」と言うので、弓矢を渡すと摩訶不思議な持ち方をする子がいっぱいいます。昔の子だったら、少し弓矢を見て、いじってみて、「ああそうか、ここにこうやって矢をつがえ、こうやって飛ばすのか」などと、一々教えてもらわなくても分かったのですが、最近の子は手取り足取り教えないと分からないのです。手取り足取り教えても分からない子すらいっぱいいます。これは「道具の使い方」でも同じで、ノコギリやナイフを持たせると摩訶不思議な持ち方をする子がいっぱいいます。でも、そういうことは教えてもらわなくても構造をよく観察すれば分かるはずなんです。そしてその時に必要になるのが「想像力」なんです。想像力を働かせながら観察するのです。幕末の頃に見本市みたいな所で「ポンポン蒸気船」のエンジンが展示されたそうです。江戸の職人はそれを見ただけで、同じようなエンジンを作ってしまったそうです。もちろん、展示物を解体することは出来ません。外から見て中を想像したのです。想像力があると「見えないもの」を見ることが出来るのです。「まだ起きていないこと」を知ることも出来ます。闇バイトに応募したらどういう結末になるのかも知ることが出来ます。欲に駆られてやっちゃってから反省するのは、想像力がない証拠です。正体不明の「ワクチン」を平気でからだに入れてしまうのも、子どもから遊びを取り上げてしまうのも、「親ガチャ」などといって自分の不幸を嘆くのも、子どもを勉強に追い立てるのも、エビデンスがないと判断することが出来ないのも、「エビデンスがあります」と言われたら信じてしまうのも想像力が弱い証拠です。ちなみに「想像」に似た言葉に「空想」とか「妄想」という言葉がありますが、これらの違いが分かりますか。AIに聞いてみたところ**************「想像」は現実の根拠や経験を基に頭で思い描くことであり、「空想」は現実から離れてあり得ない世界を自由に思い巡らすことです。大きな違いは現実味の有無にあります。想像の特徴根拠がある: 過去の経験や事実をベースにする。現実的: 実生活の予測や相手の気持ちを察するときに使う。役立ち: 問題解決や共感に結びつきやすい。空想の特徴現実離れ: 現実にはあり得ない自由な世界を描く。制約がない: 科学や常識のルールを無視できる。娯楽性: 物語を作ったり、楽しい夢を見たりするのに近い。******************とのことでした。他に「妄想」という言葉がありますが、「妄想」は「想像」や「空想」とも異なった脳内活動です。「想像」や「空想」は「言葉の原理」や「論理の因果関係」に従っています。ですから他の人と共有して一緒に想像したり空想したりすることも出来ます。でも、「妄想」の場合は、「言葉の原理」も「論理の因果関係」もメチャメチャです。そのため話し合いが出来ません。また非常に感情的で、論理ではなく感情によって話が展開してしまいます。以前、その妄想にとりつかれた友人がいました。彼女は「何らかの組織によって世界中のどこにいても監視されている」「娘がさらわれる」と言って、常に恐怖に駆られていました。統合失調症という診断も出ていました。時々電話がかかってきて相談に乗っていたのですが「盗聴されているかも知れない」と怯えていました。で色々と話をして、その時は「分かった」と納得してくれたのに、次に電話がかかってきたときにはまた全く振り出しに戻ってしまっているのです。それに対して、想像や空想は「言葉の論理」「因果の論理」には従っているので、他者と共有することが出来ます。一緒に想像したり空想したりして楽しむことも出来るし、状況に応じて想像や空想をやめて目の前の現実に立ち返ることも出来ます。問題は「言葉の論理」は「人と人とのつながり」の中で、「因果の論理」は「現実世界での様々な体験」を通してしか学ぶことが出来ないということです。そして、最近の子ども達にはその両方とも与えられていません。それでは想像力や空想力が育たないのは当たり前のことです。想像力が育っていない子は簡単に妄想にとりつかれてしまうでしょう。
2026.08.03
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皆さんは「楽観的悲観主義者」(optimistic pessimist)という言葉をご存じでしょうか。昨日、ネットを見ていて「森で想う環境のこと・人のこと」(伊勢武史)というサイトで知った言葉です。そこにはたとえば、環境保全のクラスで学んだ、E. F. Schumacherの「optimistic pessimist(楽観的悲観主義者)」という言葉。なんだか逆説的な表現だけど、すっきりと腑に落ちた。環境問題に関しては、僕らは悲観主義者であるべきで、起こっている問題や、その解決のむずかしさをしっかり知らねばならない。そしてそのうえで、「解決が困難なのは分かったけど、それでもできるかぎりのことをしよう」と楽観的に決意しなければならないのである。と書かれていました。(抜粋です)実は、私の立場も「楽観的悲観主義者」です。でも、そのような考え方を表す言葉があるとは知りませんでした。私はいつも、結構「悲観的」と見えるようなことを書いています。それで時々「篠さんは悲観論者だ」などと言う人もいます。でも、そうではないのです。私はただ、「今のままでは困ったことになってしまうよ」という現実をしっかりと認識した上で、「子育てのあり方や生活を変えていこうと」ということを言いたいだけなのです。ですから、私はほとんどの場合、「悲観的なこと」を書くだけでなく、「じゃあどうしたらいいのか」というところまで書いています。そして、その点に関しては結構楽観的です。多くの場合、世の中は、事実を知り、状態を理解し、決意し、行動すれば変えることが出来るのですから。人間によって引き起こされたことは、人間によって変えることが出来るのです。これは子育ての問題でも、自分自身の問題でも、社会の問題でも同じです。でも、知ろうとしなければ、理解しようとしなければ、決意しなければ、行動しなければ何も変わりません。そして、「困った結果」にしかならないでしょう。「知る」とか「理解する」というのはその入り口です。だから私は、「今はこうだよ」、「このままではこうなるよ」ということを書いているのです。確かに、それを読んで悲観的になってしまう人もいるかも知れません。でも、悲観的になっているだけでは、そのままの未来にしかならないのです。だからといって、「事実」に目を向けず、楽観信仰に浸っている場合でも同じです。どんなに「大丈夫大丈夫」と言っていても、「現状」が大丈夫でなく、そのことに気付かず、何の手立ても打たなければ、「大丈夫」ではないのです。私はいつも、「悲観的なこと」を書いていますが、それは「事実」に気付き、その「意味」を理解し、「どうしたらいいのか」を知って楽観的になって欲しいからなのです。「事実を知らない楽観」ほど、怖いものはないのです。これは過去の歴史においても同じです。「悪かったところ」だけを見ていては未来がありません。だからといって、「悪かったところ」を見ようとしない場合にも未来がないのです。「悪かったところ」と「良かったところ」の両方を見る必要があるのです。そうでないと、歴史は繰り返すばかりで前に向かって進みません。
2014.12.22
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お話や物語の中では自分が「自分以外のもの」になって色々と体験することが出来ます。「旅に出る」ということが「日常から離れ、非日常の世界に入って行く」というなら、これもまた立派な「旅」です。「心の旅」です。観光名所めぐりや、買い物や、美味しいものを食べることだけが目的の旅行よりも、ズ~っと「旅」です。そして人は、その「旅」で色々なものに出会い、色々なものを見て、色々なものを感じて、色々な体験をして、自分の「心の世界」を広げることが出来ます。ただし、その「心の旅」が出来るようになるためには、子どもの頃にいっぱいお話しを聞いたり、いっぱい物語を読む必要があるのです。心の中であれこれ空想するだけのことなら、お話しを聞いたり物語を読むことなく育った人でも出来ますが、そういう人は「他者の視点」に立つことが出来ないため、「自分」から外に出て、自分が知らない世界を旅することが出来ないのです。だから「新しい出会い」も生まれません。実は、この「他者の視点に立つ」というのは、心の体験を通して学ぶ一つのスキルなんです。しかもかなり高度なスキルです。そして、その体験を与えてくれるのが「お話し」であり「物語」なんです。「他者の視点によって表現された言葉の世界」の体験が、子どもたちの「他者の視点に立つ能力」を育ててくれるのです。でもここで問題があります。確かに、現代の子どもたちもテレビやタブレットなどを通していっぱい「お話」と出会っています。でも、「見る」という形ではお話の中に入れないのです。視覚には「自他を分離する」をいう働きがあるからです。ですから、本当に子どもの「他者の視点に立つ能力」を育てたいと思うのなら、映像に依存しない「言葉だけで語られたお話」が必要になるのです。「本」という形でもOKです。また「映像化されたお話」には、映像化される過程で制作者の視点が入ってしまいます。これは避けられません。絵本も同じです。そのため、映像で「お話」を見る子は、「登場人物の視点」ではなく「制作者の視点」で物語を見ることになってしまうのです。でも、言葉だけで語られたお話を聞いている子どもは、登場人物の視点で物語の中に参加することが出来るのです。映像はまず目に届きますが、声は直接心に届くからです。そのため、いくらいっぱいテレビやタブレットで「お話」を見せても「他者の視点に立つ能力」は育たないのです。古来から、「お話し」は見るものではなく「聞くもの」なんです。「物語」も同じです。確かに、映像化すると分かりやすくなります。でもそれが問題なんです。分からないことは分からないままでいいのです。分かるまで待てばいいのです。大人が善意で分かりやすくして、分かった気にさせてしまうと「?」が消えてしまいます。でも、子どもは「?」があるからお話の中に能動的に参加することが出来るのです。このように、大人の善意が子どもの成長を阻害してしまう事がいっぱいあるのです。特攻隊の生き残りだった父親からもよく聞かされましたが、戦争中、上官が理不尽な理由で新兵をいじめ、しごくのは当たり前だったそうです。それで自殺してしまった仲間も数人いたそうです。そのような上官は「俺も新兵の時にはしごかれた、だから今度は俺がお前らをしごく番だ」と、自分の行為を正当化していたようです。でもその一方で、「俺は新兵の時にしごかれて苦しい思いをした、だから俺はしごかない」という判断をすることが出来た上官もいたそうです。父親はそういう上官に恵まれたようです。それで、命が助かったのです。他者の視点に立てる人は、相手の立場に立って優しくすることが出来ます。でも、他者の視点に立てない人は、ただ自分勝手な思い込みを「あんたのためなんだから」と押し付けます。そして、そういう優しさしか思いつきません。相手のことを想っているのは確かでも、相手の立場や気持ちや感覚を無視しているのです。勝ち負けばかりにこだわり、相手の気持ちを考える事が出来ない子も同じ状態です。災害にあった人に救援物資を送る場合も、相手の立場に立つことが出来る人は「本当に相手が必要としているもの」を送ります。でも、相手の立場に立つことが出来ない人は「自分が送りたいもの」を送ります。そして送られた方は処分に困ります。そして実は、幼い頃からのお話しや物語の体験の有無がその違いを生み出しているのです。私はお母さん達から色々な話を聞いていますが、「虐待されて育ったから我が子も虐待してしまう」と言う人もいれば、「虐待されて育ったから、自分は絶対に虐待しない」とそれを貫くことが出来る人もいます。そういう人に共通しているのは「お話し好き」「本好き」だということです。単純な負の連鎖を食い止めることが出来るのは、子どもの頃からいっぱい本を読んで育った人に多いのです。(私の印象では、ということです。)また、子どもの頃にはあまり自然の中で遊んだ体験がないのに、大人になってから自然の中での活動が好きになった人の話を聞くと、子どもの頃から本の中では自然や仲間と出会い、色々な体験をしていた人が多いのです。「お母さんから聞いた桃太郎」と「テレビで見た桃太郎」は全く別物なんです。
2026.07.18
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人間は「人と人のつながり」の中でしか「人間として」生きることが出来ない動物です。隔離された状態でも「ヒト」という動物としてなら育つことが出来ますが、隔離された状態で育てられた「ヒト」には、「人間らしい感覚」も、「人間らしい思考」も、「人間らしい言葉」も、「人間らしい感情も」、「人間らしい意識」も、「人間らしいからだ」も備わっていません。単に「解剖学的にはヒト」というだけの存在です。確かに、隔離された状態でも機械が相手をすることで色々なことを学ばせることは可能です。人間は育ちの過程で周囲にいる存在を真似したり、周囲にいる存在から学ぶように出来ているからです。試験でいい点数を取るような知識を覚えさせることも可能です。ですから、「それで充分なんじゃないか」と勘違いしてしまっている人がいっぱいいます。誰から学ぼうと同じではないかと・・・。だからタブレット学習なるものもこれだけ普及したのでしょう。実際、ほとんどの人が「1+1=2」を人間から学ぼうと、タブレットなどの機械から学ぼうと同じではないかと思い込んでいます。調査したことはありませんが、学校がタブレット授業を始めてもほとんど反論の声が上がっていないのがその証拠です。反論している人もいますが全くの少数派です。でも、機械から学んだ「1+1=2」と、人間から学んだ「1+1=2」は同じではないのです。「なぜ、1+1=2を学ばなければいけないのか」という、そもそものところが人間と機械とでは全く違うからです。人間は、自分の体験を通して「1+1=2」を学ばなければならない理由を知っています。人間にとって、「1+1=2」は単なる知識ではなく「考え方」なんです。子どもは、人間から「1+1=2」を学ぶことで「考え方」を学んでいるのです。そして、その「考え方」を共有することで、「人と人の対話」も可能になるのです。でも、機械から学ぶことが出来るのは「1+1=2」という知識だけです。その知識を「考え方」にまで展開して子どもに伝えることが出来るのは人間だけなんです。そもそも、機械の働きを支えているのがその「1+1=2」という論理なので、機械は「考え方としての1+1=2」を知りません。機械は「人間らしさについて」は教えることが出来ても、「人間らしさそのもの」を伝えることは出来ません。「優しさについて」「愛について」教えることは出来ますが、「優しさ」や「愛」そのものを伝えることは出来ません。「知識」を教えることは出来ますが、その「知識の中身」や「知識の使い方」を伝えることは出来ません。そういうものを伝えるためには、「伝える人」と「受け取る人」が同じ「人間」である必要があるのです。そして当然のことながら「社会的な感情」も機械は教えることは出来ません。どんなに進歩しても機械は「道具」です。人間と対等な存在ではありません。だから「人間」と「機械」だけでは「社会」を構成できないのです。「社会」が構成できないのなら、いつも機械の中で暮らしていても「社会的な感情」は育たないのです。「社会的な感情」の目覚めは、お母さんとの一対一の関係の中から始まります。そのお母さんとの間の「一対一の人間関係」が、そこから始まる社会的な感情の育ちの原点になって行くのです。お母さんに肯定されて育った子は、他の人に対しても肯定的な感情を持つことが出来るようになります。だから、成長して動き回るようになっても、人と人のつながりの中で自分の世界を広げることが出来ます。でも、お母さんに否定されたり、関わり合いを拒否されて育った子は、他の人に対して肯定的な感情を持つことが出来なくなります。不安も強くなるためにお母さんから離れることも出来なくなります。そのため、人と人のつながりの中で自分の世界を広げることが出来なくなります。ちなみに、憂鬱質が強い子(不安が強い子)もなかなかお母さんから離れませんが、お母さんと一緒ならニコニコしているようなら全然問題はありません。成長と共にお母さんから離れて行動できるようになります。それと保育園や幼稚園の先生などは、「お母さん」の代わりにはなりません。そもそも、最初からそういう役割は想定されていません。また、お母さんから「自分の代わり」の役割を求められても困ります。子どもの方も保育園や幼稚園の先生に「お母さんの役割」を求めません。お母さんにしか伝えることが出来ないことがいっぱいあるのです。
2026.07.24
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1,2才頃までの子どもが求めるのは「お母さん」だけです。「他の人とのつながり」や「仲間」は求めません。2才頃の子どもにとっては、「お母さんと自分」だけが世界の全てだからです。「お父さん」すら必要としていません。そして、この頃の子どもは「お母さんの一部」として存在しているので、まだ「他者」と出会うこともありません。でも、2才頃から他の子にも関心を持ち始めます。「他の子が持っているもの」や「他の子がやっていること」にも関心を持ち始めます。そして少しずつお母さんから離れて活動することも多くなります。この頃から「お母さんと自分だけで閉ざされていた世界」の扉が、外の世界に向かって開き始めるのです。そして、お母さんから離れることが出来るようになることで、少しずつお母さんから「自分」という存在が切り離されます。でも、まだこの頃の子どもには「自分と対等の他者」は存在していません。「自分中心の視点」しか持っていないからです。この広い世界に「自分」だけが存在しているのです。それは「天上天下唯我独尊」というような状態です。この頃の子どもに「自分」の絵を描いてもらうと頭足人になります。だから、興味を感じたら他の子にもズカズカ近寄ろうとします。触れたりもします。また、他の子が持っているものを奪おうともします。正確に言うと、ただそこにあったから持って行こうとしているだけなので、奪おうとしているわけではありません。以前、造形の幼稚園児クラスもやっていたのですが、ある子が教室に落ちていたビー玉を見つけて「ボクが見つけたからボクのものだ」と言いました。そんな感じです。幼い子どもたちは、大人の目には他の子のものであっても「ボクが見つけたものはボクのものだ」という意識世界に生きているのです。それは森の中でドングリなどを見つけた時の感覚と同じものです。古代人の感覚でもあります。その時、「所有者は誰か」とか「相手の気持ち」など考えません。というか、そもそも「所有者」という考え方や、「相手も自分と同じような気持ちを持っている」などということ自体が分かりません。そのため、それが他の子のものであっても、「ボクが先に遊んでいたのだからボクのものだ」などと平気で言います。だから、相手が泣いても気にしません。もっと言えば、子どもは「自分の気持ち」も知りません。見たい、触りたい、欲しいという衝動に従っているだけだからです。そんな時、親は「見たかったんだね」「触りたかったんだね」「遊びたかったんだね」などと子どもの気持ちを代弁しようとしますが、その言葉も子どもの心には届きません。自分の気持ちを客観的に感じ取る能力自体が育っていないからです。同じ理由で、相手が嫌がることをやったり、勝手に触れたり、他の子が持っているオモチャを奪ったりしてその相手からぶたれても、何でぶたれたのか分かりません。そのため、「何にもしていないのにぶたれた」と感じます。親にもそう言います。そしてその言葉をそのまま信じてしまうお母さんも多いです。その「相手の気持ち」が分かり始めるのは9才を過ぎてからです。ただし、9才を過ぎても分からない子は分かりません。大人になっても分からない人は分かりません。「気持ち」は見えないですからね。でもだからといって、それまでの子がみんな自分勝手に振る舞う訳ではありません。他の子が嫌がるようなことを平気でやるわけでもありません。なぜなら、子どもは普段自分が扱われているように、他の子や人にも関わろうとするからです。日常的にお母さんから優しく話しかけられている子は、他の子にも優しく話しかけます。だからといって、相手の子の気持ちが分かってそうやっているわけではありません。子どもはただ、自分がお母さんにしてもらっているように相手にもしているだけです。日本語で話しかけられて育った子は、他のにも日本語で話しかけますよね。それと同じです。そのため、いつも一人で遊んでいる子、いつも機械やオモチャばかりを相手に遊んでいる子、お母さんに構ってもらえない子、話を聞いてもらえない子、優しく語りかけてもらっていない子は、「他の子と関わる方法」を学ぶことが出来ません。そのように、お母さんや家族との関わり合いを通して「他の子と関わる方法」を学ぶことが出来なかった子は、悪気はないのに平気で他の子が嫌がるようなことをやってしまいます。で、トラブルになるとお母さんは「なぜいけないのか」を一生懸命に説明します。でも、どんなに丁寧に説明しても、子どもはお母さんの言っている言葉の意味が分かりません。「ぶたれたら痛いんだから」と、その痛みを教えるために我が子をぶつ人もいますが、子どもは自分の痛みは分かっても、相手の痛みは分かりません。大人だって分からないですよね。また、お母さんに待ってもらっている子は、他の子に対しても待とうとします。「相手の気持ち」は分からなくても、「相手の気持ちを大切にする方法」なら学ぶことが出来るからです。「気持ち」は見ることも体験することも出来ませんが、「方法」は見ることも体験することも出来ます。だから、「優しさ」や「人間性」のようなものは、理屈を通してではなく体験を通して伝えるしかないのです。子どもたちに「命の大切さ」を伝えたいのなら、椅子に座ってやるような道徳の授業なんかやめて、みんなで野原や森の中に入って助け合って遊んだり、様々な生き物と触れ合う体験を与えればいいのです。「優しさ」を伝えたいのなら、子どもたちを優しく受け止めてあげればいいのです。
2026.07.25
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昨日は、「科学の使い方」は、人間が機械に頼らずに、自分の感覚と、心と、頭と、意識で考え、見つけていくしかないのです。そんな時、様々な芸術的な活動がその手助けをしてくれるでしょう。ということを書きましたが、では「人はなぜ、芸術的な活動を通して科学の使い方を学ぶことが出来るのか」ということです。それは、人は芸術的な活動を通して、「私たちの命の働きを支えている世界のルール」を学ぶことが出来るからです。音楽は「音のルール」によって出来ています。ただ音楽を聞いて楽しむだけなら、「音のルール」など知る必要がありませんが、自分で歌ったり演奏したりしようとするのなら「音のルール」を学ぶ必要があります。人に聞いてもらうために歌を歌おうとするなら、「心やからだのルール」も学ぶ必要があります。ちょっとした姿勢や、重心の位置や、心の状態の違いが「声の状態」にダイレクトに表れてしまうからです。「アレクサンダー・テクニーク」という、心とからだの調整法がありますが、これはオーストラリアの俳優F.M.アレクサンダーが、舞台上で声が出なくなったときに、自分の声を取り戻すために色々と工夫して発見した方法です。「声のルール」「からだのルール」に従って声を出せば、より自然でいい声が出るのです。好き勝手に歌ったり、しゃべったりするだけなら特に「学び」は必要ありませんが、芸術的な行為として声を出そうとするのなら「声のルール」や「からだのルール」を学ぶ必要があるのです。絵を描こうとするのなら「色のルール」「明暗のルール」「形のルール」「人の心のルール」「物語のルール」「空間のルール」などを学ぶ必要があります。絵を描かない人は、「絵は、ただ思いつきで自由に描くだけ」だと思っていますが、そういう描き方をしているのは子どもと素人だけです。単なる自己表現を超えて、芸術的な活動として絵を描こうとするのならそういうことを学ぶ必要があるのです。まただから、「子どもの絵」を褒める絵描きはいっぱいいるのに「子どもの絵」は美術館には飾られていないのです。ダンスや踊りも同じです。子どものように、単なる感情表現として自由に踊るだけなら特に何かを学ぶ必要はないのですが、人の鑑賞に耐えられるようなダンスや踊りを踊るためには、表現のルール、からだのルール、動きのルール、心のルールなどを学ぶ必要があるのです。私がダンスや踊りに詳しくないのでこの程度しか思いつきませんが、実際には「学ぶべきこと」はもっともっといっぱいあるでしょう。そして、「心のルール」と直結しているということは、全ての芸術的な活動において共通しています。だから芸術は人の心に響くのです。ただ自分で楽しむだけならこんなこと学ぶ必要はないのですが、芸術的な活動として人に聞いてもらう、人に見てもらうためには、そういう活動をしたことがない人には想像も出来ないような様々なことを学ぶ必要があるのです。だから「専門家」なるものが存在しているのです。まただから、人は「芸術的な活動」を通して様々な、「自分が生まれてきた世界のルール」を学ぶことが出来るのです。そのルールは人に不自由をもたらすものですが、その不自由をうまく使いこなすことを学ぶことで、さらなる高見に登ることが出来るのです。そしてその学びは機械にやってもらうわけには行きません。そのような「この世界の背後にあるルール」を学ぶことで、「科学の使い方」も分かってくるのです。自然や、人の心やからだを壊すような使い方ではなく、そういうものを生かすような使い方を知ることが出来るのです。それは「科学の芸術的な活用法」と言えるかも知れません。芸術的な活動をしなくても、子ども達は「社会のルール」は学ぶことが出来ます。そして、「社会のルール」を学ぶことが出来れば社会人として生きていくことは出来ます。だから、多くの人がそれだけで十分だと思っています。でも、その「社会のルール」は不安定です。人々の価値観の変動に合わせて「社会のルール」も大きく変わります。欲望に支配される人が多くなれば、社会のルールもそれに従います。「科学の使い方」を知らない人が欲望に任せて「科学の力」を使ったら社会全体が壊れてしまうかも知れません。本来人間は「社会のルール」よりも先に、「命のルール」「自然のルール」に従う必要があるのです。「命のルール」「自然のルール」を無視したような社会のルールは、人の心とからだを壊してしまうからです。そして、心とからだを病む人が増えれば社会も崩壊します。様々な芸術的な活動はその「命のルール」「自然のルール」を教えてくれるのです。
2026.08.06
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ゆうじんのかめおかゆみこさんが企画して下さっている「気質のワーク」について、かめおかさんから以下のようなメールが来ました。WEB視聴というと、当日、実況中継するようなイメージがあるということを、複数のかたから指摘されましたので、「直接参加」コースと、「動画配信」コースというふうに、名称を変えることにしました。それと、当初は「『聴く』を磨く」講座のひとを対象にしていましたが、一般公開にしたことで、タイトルがちょっとずれてきたと感じますので、募集途中ですが、こちらもタイトルを変えることにしました。「生き方が楽になる気質の学び」となります。日時/2015年6月25日9時30分~12時 会場/神奈川ホール (JR東神奈川駅・京急線仲木戸駅徒歩6分) 参加費/直接参加コース2500円、動画配信コース2000円ご興味のある方は、「ここ」をご覧になって下さい。***********************************私はよく「目を閉じて歩く」というワークをします。その時、全く普通に歩くことが出来る人や「楽しい」と言う人もいますが、中には非常に怖がって歩けなくなる人もいます。ワーク自体は安全な状態で行っているので、他の人や壁や椅子などにぶつかることはないし、床に何か落ちていたり、ましてや穴が空いていることなどもありません。それでも、怖くなって歩くことが出来なくなってしまう人が結構いるのです。そのような人の話を聞くと、「ありえないことだと分かってはいるのに、目を閉じているとあれこれ妄想が湧いてきてしまい怖くなってしまうのです」と言います。人間の感覚や感情は、「頭の論理」とは無関係に働いているからです。だから、叱らないように、怒らないように、気にしないようにしていても、毎回同じことを繰り返してしまうのです。また、絶対に安全だと分かっていてもジェットコースターや高いところが怖くなるのもそのためです。その時、日常的に不安が強い人ほど目を閉じると急に世界から遮断された感じがしたり、あり得ない妄想が次々とわき起こってしまい、怖くなるようです。実は、視覚以外の感覚は、「心の働き」と密接につながっているので、「心ここにあらず」という状態の人は、目を閉じた途端に世界から切り離されてしまうのです。そして、不安が強くなり、からだが動かなくなるのです。「目」だけが、「心」で他のことを考えていても、自動的に働いてくれるのです。だから、考え事をしながらでも洗いものが出来るのです。「目」以外の感覚は「心の働き」とのつながりが強いので、「心」がどっか他の所に行ってしまっているとちゃんと機能しなくなってしまうのです。(実は「目」も、「感じる働き」は「心」が消えていると働かなくなります。そのような時は、綺麗な花を見ても、夕焼けを見ても、ただ「見えているだけ」で何も感じなくなります。)だから、テレビやゲームに夢中になっている子どもやご主人に話しかけても無駄なんです。聞こうとしなければ、聞くことは出来ません。味わおうとしなければ、味わうことが出来ません。感じようとしなければ、触れていても感じません。かぎ分けようとしなければ、臭っていてもあまり気付きません。もちろん程度が強ければ気付くでしょうが、普通の状態では「目」以外の感覚は「心」が働かないとその能力を充分に発揮出来ないのです。「子どもの行動」は特に意識しなくても見えますが、「子どもの言葉」は聞こうとしなければ聞こえてこないのです。また、距離の問題もあります。10m、20m離れたところからでも子どもの行動を見ていることは出来ます。でも、「子どもの言葉」を聞くためには近くに寄らなくてはなりません。肌に触れるくらいまで近寄らないと聞こえない言葉もあります。触覚が働くためには触れる必要があります。味覚が働くためには食べてみる必要があります。犬の嗅覚は遠くからでも働きますが、人間の嗅覚は鈍いので鼻を近づけないと働きません。視覚だけが一番距離をとることが出来て、自分にとって一番安全なんです。そのため、不安が強い人は「目」だけで情報を得ようとします。匂いや味で「食べられるかどうか」を判断するのではなく、賞味期限を見て判断するのです。ネットだけで情報を集める人、携帯だけでコミュニケーションを取ろうとする人も同じです。匿名でないと自分の意見を言うことが出来ない人も同じです。とにかく、自分は常に「安全な場所」にいたいのです。そのため、人が大勢居るような場に行くと、自分からは相手が見えるけど、相手からはあまり見られないような位置を探します。他の人の批評をしたり、批判をしたり、指示命令を出したりはしますが、自分が率先してやってみせることはしません。また、「見えないと不安になる人」は、同時に、「自分にとって関心がないことは見ようとしない人」でもあります。このように、不安が強い人は見ることで不安を和らげようとしますが、実は、「見る」という行為は安心につながらないのです。なぜなら、「目」は常に部分しか見ることが出来ないからです。一生懸命に見ようとすればするほど、逆に「見えない部分」が多くなってしまうのが「見る」という能力の特徴でもあるのです。だから、「見る」だけで「子ども」や「他者」を知ろうとする人は「全体」が見えなくなり、いつまでも不安が消えないのです。そのような人が一番苦手なのが、「任せる」ということと「心を使う」ということです。「心」を使えば、視覚以外の他の感覚も働き出します。そうすると「全体」が見えて来て、「不安」は減っていくのです。目を閉じて歩いても怖くない人に話を聞くと、「人の気配を感じたから、明かりを感じたから、音が聞こえたから怖くなかった」というようなことを言います。つまり、「心」が勝手にどこかに行かずに、ちゃんと「からだ」と一緒にいたのです。だから「目」を閉じても「失われた視覚」を補うように他の感覚が働き出し、怖くないのです。「心」がすぐにどこかに行ってしまうような人は、意識して、聞くように、感じるように、味わうようにしてみて下さい。そうすると、「心」が自分の「からだ」の中に戻ってきて、不安は軽くなります。
2015.06.22
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今日は少し面倒くさい話を書きました。こういう話が苦手な人は飛ばして下さい。************西洋では、昔から物事を二分し、その二つを対立させることで、この世界を認識しようとしたり、真実を明らかにしようとしたりしてきました。そして、この世界は、「善と悪」、「神と悪魔」、「光と闇」、「生と死」、「美と醜」、「見える世界と見えない世界」の対立とバランスによって出来上がっている、と考えてきました。現代人が「自然」と考える考え方も、「人間の世界」に対峙した考え方として生まれたものです。西洋の考え方では、「自然の世界」と「人間の世界」は全く別の世界なんです。そして人間は、悪より善を、悪魔より神を、闇よりも光を、死よりも生を、醜よりも美を、見えない世界よりも見える世界を、自然の世界よりも人間の世界を目指すべきだと考えられてきました。そして、現代人もまた、その西洋の考え方をそのまま取り入れて、この世界を認識しています。法律や道徳も、ゲームの世界も、基本的には「善」と「悪」を対立させた発想で作られています。簡単便利を求めるのも、「不便」という考え方があるからです。でも東洋では、そのような「物事を対立させて真実を明らかにしようとする考え方」はあまり強くありませんでした。また、善と悪をそれほど明確に分離しようとしませんでした。神と悪魔、光と闇、生と死、美と醜、自然と人間、見える世界と見えない世界の違いもあいまいでした。確かに、私たちはそのようなものを見たり、感じたりしています。天国がある一方で地獄があることも知っています。そして、それが人間がリアルに感じている世界でもあります。ですから、東洋において、全くそのような考え方がなかった訳ではありません。ただし、西洋においてはその価値観は固定されていますが、東洋においては「Aは時としてBとなり、Bは時としてAとなる」という考え方をしていたのです。例えば、西洋では善は「善」、悪は「悪」です。それはキリスト教という価値観で固定されています。その「善」と「悪」が入れ替わることは永遠にありません。そして、東洋にも「善」と「悪」はあります。でも、東洋ではどっちが「善」で、どっちが「悪」なのかがはっきりとしないのです。善悪を判別する絶対的な基準がないからです。そのため判断する人の価値観次第で、簡単に善と悪が入れ替わってしまったりするのです。親鸞は「善人なおもて往生をとぐ いわんや悪人をや」と言いましたが、キリスト教にはこんな考え方はありえないのです。また、地獄と天国も固定されたものではありませんでした。キリスト教では地獄に落ちた者は永遠に地獄にいなければなりません。でも、東洋的な考え方では、人の魂は輪廻するので、地獄に落ちてもそこで終わりではありません。また、「そこが地獄だと思えば地獄だし、極楽だと思えば極楽だ」という考え方もあります。他者からは地獄に見えても、本人がそれを肯定的に受け入れてしまえば、そこがそのまま天国だということです。それはつまり、天国と地獄は神や仏が決めているのではなく、全部「自分」で決めているという考え方です。そんな白黒がはっきりとしない世界で対立が発生するのは、世界を「つながり」や「動き」の中で見ることをせずに、「自分」や「人間」の視点や価値観を固定し、自分中心、人間中心に世界を認識しようとするからなのです。人間関係でも、自分の考え方を絶対化する人ほど、他者と対立しますよね。それと同じです。だから西洋的な考え方では対立が発生しやすいのです。でもそれは、人間だけにとっての事実であって、人間が存在する世界の事実ではないのです。西洋の人は聖書によってこの世界のことを知ろうとしました。でも、東洋の人は瞑想によってこの世界のことを知ろうとしました。その違いが、この違いにつながったのではないかと思うのです。
2016.07.28
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私は「優しさ」には二種類あると思っています。それは、「母性的な優しさ」と「父性的優しさ」の二種類です。「母性的な優しさ」とは、「許し・寄り添い・励まし・支え・共に歩む優しさ」です。これは「共に生きる仲間としての優しさ」であり、「あなたはあなたのままで素敵だよ」という「ありのまま」を肯定する優しさでもあります。もう一つの「父性的な優しさ」はこれとは違う優しさです。それは、「目標を与え・成長を促し・生まれてきた意味や生きる意味を自分の意志で創り出すように促す優しさ」です。「母性的な優しさ」を持った人は共に歩んでくれます。そして、倒れそうになったら支えてくれます。お腹が空いたら食べ物を与えてくれます。「父性的な優しさ」を持った人は「ここまでおいで・こっちへおいで」と、その人が迷子にならないように前に立って歩いてくれます。そして、危険を近づけないように周囲に意識を向けています。側にはいてくれませんが、父性的な優しさが守ってくれているから、母性的な優しさが意味を持ってくるのです。ですから、この二つの優しさはお互いに補い合うようになっています。どちらか一方だけでは「人間らしさ」を育てる事は出来ないのです。私は、この二つの優しさを説明する時、二つの絵本を紹介しています。母性的な優しさを紹介する時には「てん」(ピーター レイノルズ著・谷川 俊太郎 訳) を使います。これは絵が描けなくて絵を描こうとしないワシテという女の子が、一人の先生から「あなたはあなたが出来ることをやればいいのよ」「それが素敵なことなのよ」というメッセージを伝えられ、それをきっかけに絵をどんどん描き始め、次第に自信を付けていくというお話です。(絵本の中に実際にこのようなメッセージが言葉で書かれているわけではありません。でも、ワシテに対してこのようなメッセージを込めた対応をするのです。)父性的な優しさを紹介する時には「びゅんびゅんごまがまわったら」(宮川 ひろ著・林 明子 絵)を使います。ある小学校の隣に素敵な森があり、子ども達はいつもその森で遊んでいました。でも、どこにでも危険なことにチャレンジする子どもはいるもので、ある日その一人が大けがをしてしまい、それ以来その森で遊ぶことを禁止されました。でも、子ども達は森で遊びたいので、丁度新しく赴任してきた校長先生にお願いに行きます。するとその校長先生は「これが出来たら考えてもいいよ」とビュンビュンゴマを回して見せます。今時の子ども達はそんなもので遊んだことがないのですぐには出来なかったのですが、それでも練習してみんな出来るようになり、校長先生の所に行きます。すると校長先生は、両足で一つ、両手で一つ、合計二個のビュンビュンゴマを同時に回して見せ、また「これが出来たら考えてもいいよ」と意地悪なことを言います。前よりも難しかったのですが、それでも子ども達は頑張って練習して、二つのビュンビュンゴマを同時に回せるようになり、校長先生の所に行きました。すると校長先生は三つのビュンビュンゴマを同時に回して同じことを言います。三つが出来るようになっても、四つのビュンビュンゴマを同時に回して同じことを言います。この時の校長先生の意地悪そうな顔が素敵です。最終的には一人だけしか出来るようにならなかったのですが、その頑張りが認められ子ども達は森で遊ぶことが許されました。この校長先生は子ども達に意地悪をしていたわけではありません。この出来事を子ども達の成長につなげようと工夫していたのです。この時重要なのは、この校長先生のように「自らが手本を示す」ということです。これが父性の基本です。「あそこまで行きなさい」と子どもを追い立てるのではなく、「ここまでおいで」と自らが目標になってあげるのです。昔の異年齢の群れでは年上のお兄ちゃんやお姉ちゃんがこの役割をしていました。子ども同士の群れではみんな仲間ですから、お母さんのように優しく教えてなどくれません。ですから、年上の子が得意そうになってやっていることを必死になって真似して頑張るしかなかったのです。異年齢の群れの中では父性的な優しさが働いているのです。だから子ども達は目標を見つけやすいのです。同年齢の仲間だけでは、みんな同じレベルなので居心地はいいでしょうが、ただ大騒ぎするだけで前に進むことが出来ません。そして、子どもはお母さんには母性的な優しさを求めます。お父さんには父性的な優しさを求めます。本能的にそのように出来ているのです。その子の親ではない第三者が出来ることも父性的な優しさの方です。ただ、母性的な優しさを充分に与えられていない子は、他の人にそれを求め始めます。簡単にいうと甘え始めるのです。でも、「甘え」というのは親子の関係の中だけで許されることです。だから、親は甘えさせて上げていいのです。それを学ぶことが出来ないと、子どもは困った大人になってしまいます。それでも、幼児教育の場ではまだまだ許されることもありますが、小学校に入ったら普通は許されません。甘えることを許されないまま育った子は常に寂しさを抱えています。そのため、そのような子は母性的な優しさを与えてくれるお母さんを見つけるとまとわりつきます。でも、その人がどんなに頑張っても、子どもの心は満たされません。本当は「本当のお母さん」に甘えたいのですから。ですから、頑張れば頑張るほど子どもの甘えは拡大して行きます。そんな時は、「父性的な優しさ」を与えるようにした方が、子どものためになるのです。またそうしないと、自分の方がどうしようもなくなってしまいます。簡単に言えば、それは「ルールを守る」ということを伝えることです。それを伝えることも優しさなのです。
2014.04.03
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私は物理学科の卒業ですが、どうして物理に興味を持つようになったのかというと中学生の頃にアインシュタインという人が発見した「相対性原理」という考え方と出会ったからです。相対性原理は私に世界がひっくり返るような意識の転換をもたらしてくれました。「本当の世界」が見えた気がしたのです。それが、面白くて面白くてのめり込みました。それで物理学を学んでみたいと思ったのです。この「相対性原理」とは、簡単に言うと「全ての出来事は関係性の中で生起する」という考え方です。「この宇宙には絶対という基準などどこにもない」ということです。人はみな「私」という存在は絶対のものだと思い込んでいますが、この宇宙から「私」以外のものを消していったら、「私」も消えてしまうのです。あなたがいるから私がいるのです。私がいるから宇宙が存在しているのです。(「そんなことはない、あなたが死んでも宇宙は存在している」と考える人は、「その人」ではなく「自分」を基準にして考えているからそういうことになるだけです。基準を変えてしまったら「事実」も変わってしまうのです。)天動説では、「地球が止まっていて、太陽が地球の周りを回っている」と考えています。それに対して、地動説は「太陽の方が止まっていて、地球が太陽の周りを回っている」と考えています。そして、学校では「地動説」の方が正しいと教えています。でも、実際にはどちらも正しいし、どちらも正しくないのです。地球を中心にして考えれば、間違いなく太陽は地球の周りを回っています。だから、朝・昼・晩という変化が繰り返されているのです。でも、太陽を中心にして考えると、地球の方が太陽の回りを回っていることになります。太陽に行くことが出来て、太陽から地球を眺めることが出来るなら、それを事実として確認することが出来るでしょう。ですから、「天動説」も「地動説」もどちらも正しいのです。でも、ニュートン物理学的には、地球も太陽も、両者の質量を合わせた重心の回りを回っているのです。「太陽」でも、「地球」でもなく、「重心」の周りを回っているのです。さらに、銀河系の中では銀河の中心の周りを回り、その銀河系もまた、更に大きな系の中心を回っています。そのような視点で考えると、「天動説」も「地動説」も、両方とも間違っているのです。この違いは、基準をどこに置くのかということで生まれる違いに過ぎません。それは人間の意識の問題であって、この世界の実相とは何にも関係がないのです。人間は何かを感じようとしたり、思考しようとするときには、必ず何らかの基準を必要とします。「熱い」とか「暑い」という感覚は自分の体温を基準にした感覚です。川魚は人間の体温でも火傷すると言います。善・悪は、個人や社会の価値観を基準にした感覚です。何かを考えるときには言葉や、論理を基準にして考えます。でも、この基準は曖昧です。同じ温度のお風呂でも、外気温や、自分のからだの状態によって、感じる熱さは異なります。からだの状態が異なれば味も匂いも異なります。同じ異性を見ても、素敵な匂いと素敵な音楽がセットになっているとより素敵な人に感じるものです。(その逆もあります。)子どもの時にはコーヒーもビールも苦いだけでしたが、大人になると美味しいと感じるようになります。でも、コーヒーやビールの味が変わったわけではありません。「自分」という基準が変わったので、世界の方が変わったように見えだけです。それなのに、人は「自分という基準を測る基準」を持っていないため、自分の感覚や視点や意識は普遍的で絶対的なものだと思い込んでいます。そして、他者の是非や、善悪や、美醜を絶対的なものとして決めつけています。でもそれは思い込みに過ぎないのです。自己肯定感が低いのも単なる思い込みに過ぎません。それは拒食症の人がもう十分に痩せすぎているのに「まだ太っている」と感じてしまうのと同じです。自己肯定感が低い人は精神的な拒食症に陥っているのです。**************人生の99%は思い込み 支配された人生から脱却するための心理学 [ 鈴木敏昭 ]
2017.10.21
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今日は朝早くから、筑波山の麓で農業を(も?)やっている友人の所に「芋掘り」に行くので、簡単にさせて頂きます。ちなみに、昨日は家内が仲間とやっている畑で、子どもたちと一緒に「ダイコン掘り」をして大量の収穫がありました。**************子どもに問題行動が見られると、ほとんどの人がその原因を「心」に求めます。そのため、「心」に働きかけて、問題行動を直そうとします。でも、問題行動に繋がるような実際の原因は「心」ではなく「からだ」の方にあるのです。叱られたり、いじめられたり、虐待されたりした場合、最初は心に痛みを感じたり、心が苦しんだりします。でも、心の痛みや苦しみだけならしばらくすると落ち着くのです。ほとんどの場合は、お母さんに叱られても、時には叩かれても、兄弟や友達とケンカして嫌な思いをしても、しばらくすると元の状態に戻るのです。時々、子どもを叱った後で、「一生残る心の傷にならないかしら」と心配するお母さんがいますが、それが毎日継続されているわけでなければ、問題はありません。からだに自己治癒能力があるのと同じに、心にも自己治癒能力があるからです。というか、心の自己治癒能力を支えているのも、からだの自己治癒能力(恒常性維持能力)なんです。心が傷つくと、それに合わせて一時的にからだの状態も不安定になります。呼吸が浅くなったり、緊張が強くなったり、感覚が過敏になったりします。でも、それがからだにとって不自然な状態ならば、からだはその状態を元の自然な状態に戻そうとします。異常な状態のままではからだの機能が損なわれて苦しくなってしまうからです。その結果、しばらくすると呼吸も緊張も感覚も元に戻ります。すると自然に心の傷も消えていくのです。からだの状態が元に戻るから、心の状態も元に戻るのです。でも、心が傷つくようなことが日常的に繰り返し起きていると、からだの中にその異常な状態が癖として固定されてしまうのです。異常が普通になってしまうのです。すると、からだがその状態を受け入れてしまうため、からだの治癒能力が働かなくなります。すると、心の状態も固定されてしまうのです。この状態にまでなってから、子どもは問題行動を起こし始めるのです。すぐに回復してしまう程度の心の傷では問題行動など起こさないのです。からだが不自然な状態で固定されることで、からだが苦しくなるから、問題行動が起きるのです。でも、周囲の大人達は、子どもが問題行動を起こし始めてから、子どもの心の傷に気付き始めます。そして、子どもの心にアプローチし始めます。でも、心の傷が問題行動として表れるようになる頃には、からだの中にまで傷が定着してしまっているので、心にだけアプローチしてもどうしようも出来ないのです。かえって、子どもの反発に遭うだけです。
2020.11.22
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幼い子どもの感情は、まず母親との関わり合いを通して育ちます。赤ちゃんが「お母さんの言葉」を真似して「自分の言葉」にしていくように、「お母さんの感情」を真似して「自分の感情」にしていくのです。だから日本語で育てられた子は日本語を覚えるように、「日本人の感情」で育てられた子は「日本人の感情」を持つようになるのです。また、お母さんが「よいお母さん」を演じていると、子どもも「よい子」を演じるようになります。でも、「よい子」に育つわけではありません。見かけだけです。実際、そのような子は思春期が近づくと「よい子」を演じるのが苦しくなって「地」が出てきます。それがいわゆる「反抗期」ですが、それまでの「ガマン」が強かった子ほど強く爆発します。「反抗期」が全くない子は少ないですが、でも、家庭内で暴れまくるような暴力的な反抗を表すような子はズーッと、ズーッと強いガマンを強いられてきたのではないかと思います。それはお母さんが「吐き出したくても吐き出せない苦しさ」を、子どもにも押しつけてきた結果かも知れません。また「大人の都合」を子どもに押しつけてきた結果かも知れません。私は幼稚園などでもお話をさせてもらうことがありますが、質問の時間には質問しないのに、終わってから個人的に質問してくる人がいっぱいいます。その時、その質問の内容の多くは、「その幼稚園に通っている子」についてではなく、思春期に入っているその子のお兄さんなりお姉さんについてです。だから、みんなの前では質問できないのです。幼稚園時代までなら親のやり方を押しつけることが出来ます。また、反抗しても力尽くで押さえ込むことも出来ます。だから子どもの状態に問題が起きていてもなんとかやり過ごせるし、それほど問題も感じません。でも、10才を過ぎた頃からそのやり方が通用しなくなるのです。だから手に負えなくなってしまうのです。でも、「目に見えるようになった子どもの状態」は、長い時間をかけて積み重ねられてきた、「目に見えない心の中の苦しみ」の表れなので、簡単な対処法など存在しないのです。でも、そのようなお母さんほど「簡単な対処法」を求めてくるのです。あるお母さんの子は、思春期になって暴力的になり、家の壁を殴ったり蹴ったりするので、壁が穴だらけで、母親にも殴りかかってくると言っていました。でも、そのお母さんは、その状態が、「自分が子どもにズーッとガマンを押しつけてきた結果だ」ということが分かっていたので「黙って殴られています」と言っていました。犯罪に手を出して、しょっちゅう警察のご厄介になっている、という子もいました。兄弟間での悲惨なイジメに発展してしまう子もいます。「何にもしていないのに突然お兄ちゃんが殴りかかってくる」と言っていた子も何人かいます。弟をストレス発散の対象にしているのでしょう。大分以前に参加したワークで、「二人組になって自分の感情を吐き出す」というワークをしたのですが、私がペアを組んだ女性はお姉さんに対する恨みや苦しみを吐き出していました。そのワークでは受け手が座布団を抱えて、吐き出す側の人はその座布団を相手に見立てて自分の感情を吐き出すのですが、その人は「あんたのせいで」「あんたがいなければ」と叫びながら、座布団をバンバン殴っていました。この人の恨みの対象はお姉さんでしたが、その背景には間違いなくお母さんやお父さんがいます。兄弟(姉妹)を比較し、競争させながら育てていると間違いなく兄弟(姉妹)の関係は悪くなるのです。その一方、幼稚園時代は問題児だったのに、10才頃から落ち着いて素敵なお兄ちゃんやお姉ちゃんになっていく子もいます。私はそういう例を何人も知っています。「あの悪ガキが」という子が、久しぶりに会うと素敵なお兄ちゃんになっていて驚くこともあります。そのような子のお母さんは子どもの感情を否定しません。ダメなことはダメと「行為」は否定しますが、「感情」は否定しません。また、そのような保育をしている園もあります。そのような子育てや教育を受けている子は大きくなるにしたがって落ち着いてきます。幼いときは、ガマンを強いることなく、よい子を演じさせることなく、感じた感情はドンドン吐き出させるようにした方がいいのです。ただしそれを「攻撃的な言葉や行動」という形で出させてしまうと子ども同士の関係が壊れてしまいます。相手も傷つくし、自分も傷つきます。だから、「遊び」や様々な「表現活動」の中で自分の感情を吐き出させるのようにするのです。またケンカをした場合も、ケンカを止めるのではなく、温かい目で見守ることも必要です。子どもも大人も、そのような活動を共有することで、本音を出し合える仲間作りが出来るようになるのです。そして、感情も安定してきます。感情が安定してくると、感覚や思考力も安定してきます。
2026.07.23
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私は、子どもの心とからだの育ちには「美しいものとの出会い」が絶対的に必要だと考えています。その「美しいもの」にも色々とあります、満開の桜、新緑の山、夕日や朝焼け、野の花や、木々の木漏れ日、小鳥の鳴き声、太陽にキラキラする水面、蝶や昆虫などの造形なども美しいです。というか、よく見ると「自然」はみんな美しいです。大根もキューリも、足下の小石もみんな美しいです。家の中にも「美しいもの」はいっぱいあります。「自然」だけではありません。「声や仕草の美しさ」「動きの美しさ」もあります。「子どもの笑顔」も美しいです。私たちの周りは「美しいもの」に満たされています。そして、その美しさに気付いた人は「幸せ」を感じることが出来ます。なぜなら、「幸せを感じる心」と「美しいものに気付く心」は同じものだからです。それは、「何かを得ることで幸せを感じる心」とは別のものです。人は何かを得た時にも幸せを感じますが、その「幸せ」は一時的なものです。実際、それを得た時にはものすごく嬉しくても、しばらくすると別のもの、もっといいものが欲しくなりますよね。だから子どもは次から次へを新しいオモチャやゲームを要求するのです。でも、「美しいものに気付く心がもたらしてくれる幸せ」の方は持続します。他の人と共有することも出来ます。「子どもの笑顔」の美しさを感じることが出来る人は、「子育て」を楽しむことが出来ます。子どもの育ちを支えるような子育ても出来ます。なぜなら「子どもの笑顔」は「子どもの成長に必要なこと」を判断する時の羅針盤としても働くからです。逆に、「美しいものに気付く心」を持っていない人は「すでに自分が持っている幸せ」にも気付きません。そのため「物を得る幸せ」の方を求めます。でもそれは「競争」とつながっています。「美しいものを感じる幸せ」は他の人と共有出来ますが、「物を得る幸せ」は共有出来ないからです。ですから、子どもたちを美しいものと出会わせ、「美しさを感じる心」を育てることは、「平和を育てる教育」でもあるのです。それが子ども達にとって「美しいものとの出会い」「美しさを感じる心を育てること」が必要な理由でもあります。平和を守ろうとして「戦争の悲惨さ」を伝えようとしている人もいますが、まだ真・善・美の感覚が未成熟な状態の子どもたちに「戦争の悲惨さ」「人の心の醜さ」「この世界の醜さ」を伝えてしまったら、子ども達は生きる希望を失ってしまうでしょう。戦争の悲惨さを伝えるのは、「戦争の悲惨さ」「人の心の醜さ」「この世界の醜さ」に対して怒りを感じるようになってからにすべきなんです。また、そのような感覚が育つ前に戦争について教えられた子の中には、大人の思いとは逆に、ゲーム感覚で戦争に興味を持つようになってしまう子も出て来てしまうのです。 私たちは「必要なもの」には目を向けます。「困ったこと」や「役に立つこと」にも目を向けます。「欲望」や「利害」につながるものにも目を向けます。「刺激」や「自己主張」が強いものにも目を向けます。「豊かさ」や「簡単便利」を求める人も、安全や安心ばかりを求める人も多いです。 でも、目立たないもの、価値がないもの、刺激が弱いもの、自己主張しないもの、損得や利害に関係しないものにはあまり目を向けません。というかそういうものの存在にすら気付かない人がいっぱいいます。そのため、夕日が美しくても足を止めて見入っている人は滅多にいません。足下の花が美しくてもしゃがみ込んで見ている人も、美しい小石が落ちていてもそれを拾って、手に取って見る人も滅多にいません。子どもがそのようなものに見とれていると、「何やってんの! 早くしなさい!」と子どもをせかす人はいっぱいいますけど。でも、そのようなものに気づく心を育てることが、人々や社会に幸せをもたらしてくれるのです。戦争を「醜いもの」として感じる感性を育てることが出来るのです。そして、子どもが自分の人生を幸せに生きる手助けにもなるのです。
2026.07.27
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現代人の多くが「科学は絶対的に正しい」「科学には限界がない」「科学は人間にとっての夢であり希望だ」などと考えています。でもこれは、半分は事実かも知れませんが半分は幻覚です。なぜなら、こんなにも科学が進んだのに世界は相変わらず混沌に満ちているし、争いも、飢餓も減らないし、科学が未成熟だった頃より人々が幸せになった、健康になったなどという事実もないからです。「地球が荒廃して人類が住めなくなったので他の星に移住する」という設定のSF映画はいっぱい存在していますが、その場合も「他の星に行くことが出来るような宇宙船とそれを作ることが出来る科学技術がある」というのは「希望」かもしれません。でも、その地球を人間が住めないほどボロボロにしてしまったのも「科学」です。じゃあ、「科学の力で地球を元に戻せばいいじゃないか」と思うかも知れませんが、それは出来ないのです。なぜなら、「科学」は壊すことは出来ても元に戻すことは出来ないからです。それが出来るのは神様か魔法使いだけです。簡単で便利な武器で人を殺すことは出来ても、人を生き返らせることは出来ません。ブルドーザーで山を崩すことは出来ても、山を元の状態に戻すことは出来ません。「似たような形」に戻すことは出来ても「同じ状態」には戻せないのです。田んぼを埋め立てることは出来ても、その田んぼを元と同じ状態には戻せません。見かけ的には同じ状態に戻せても、土の状態、水の状態、生き物の状態は元に戻せないのです。時間が経てば自然の力で元に戻るものもあるかも知れませんが、永久に戻らないものもあります。それが「科学の限界」の一つです。だから、科学は慎重に使わなければならないのです。簡単で便利になったことを喜んで無分別にバンバン使っていると他の星に移住しなければならなくなってしまうかも知れないのですから。その科学は「人間の道具」として使われています。科学は「人間の好奇心」によって目覚めましたが、その発展を支えているのは「人間の欲」です。「欲を満たすための道具」として科学が使われているのです。なぜなら、科学を発展させるためには多額の「お金」が必要だからです。それは個人でなんとか出来るような金額ではありません。ですから、科学は、「権力やお金を持っている人たちに都合のいい方向」にしか発展しないのです。それが、科学の限界の二つ目です。また、科学は人間の様々な能力を代替えしてくれるものとして使われています。でも、人間の能力は必要に応じて目覚め、成長するように出来ているので、科学が作りだした便利な機械が普及してその能力を使う必要が消えたら、人間の能力も成長する必要が消えてしまうのです。すると、科学をコントロールする能力も消えるので、科学は暴走します。その結果、限界の「一」と「二」を制御できなくなります。それが、科学の限界の三つ目です。他にも、人間の認知、認識、思考の限界も科学の限界になっています。万能の神様は科学を必要としません。人間が科学を必要とするのは、人間が不完全だからです。でも、不完全な人間が完全を求めると歪みを拡大する方向にしか変化しないのです。なぜなら不完全な人間は自分の欲望を満たすことで完全になろうとするからです。自己肯定感が低い人が自己肯定感を高めようとして色々なことをやっても、結局さらに自己肯定感が下がるだけなんです。「自己肯定感が低くてもOK」と開き直ることが出来れば統合されるのですが・・・。
2026.08.04
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今日と明日で、あおいさんと緑の鈴風さんからの質問に答えさせていただきます。今日は緑の鈴風さんの質問に答えさせていただきます。緑の鈴風さんからの質問は以下のようなものです。以前にも教えていただいたと思いますが、やはり「善悪の世界に正解などありません」とおっしゃる意味が私にはよくわかりません。正解があるものもあるのではないかと思います。例えば、「いじめはよくないことなのでしてはいけない」と思うことは正しいと思うのです。ただ、いじめをしないために、自分に何ができるのかは、人それぞれだと思うので、そこには正解はないと思います。(以下省略させていただきます)それが「絶対的正解であるかどうか」を決めるためには,その是非を決めるための「絶対的基準(模範解答)」が必要になります。そしてそれは、個人の価値観や、時代や、文化や、人種や、年齢や、種を超えたものではければなりません。そうでなければその正解には普遍性がないからです。科学はそういう世界を相手にしています。科学は、どんな過去に行っても、どんな未来に行っても、また、宇宙の果てに行っても通用する世界を探求しています。でも、心の世界の正解にはそのような普遍性はありません。善悪を決める基準も時代によって、文化によって、個人によってコロコロ変わってしまいます。それは、歴史や、文化人類学や、民俗学というようなものを学べばすぐ分かることです。善悪の基準も、美人の基準も、味の基準も文化によって異なります。人の命の重さでさえ文化によって異なります。これが歴史や、文化人類学や、民俗学が示す事実です。だから今、アメリカで人種差別に関わった人だと非難され倒されている銅像が建てられたのです。人々の価値観が変化したため「善」が「悪」に変わってしまったのです。でも、「客観的で普遍的な正解」は存在していなくても「私にとっての正解」は存在しています。私は「私」という「絶対的な判断基準」を持っているからです。(ただし、「私」という存在をちゃんと自覚できない人には、この正解も存在していません。)だからデカルトは「我思う、故に我アリ」と言ったのです。緑の鈴風さんが感じる正解は、緑の鈴風さんの価値基準で判断した正解に過ぎません。でも、緑の鈴風さんとは異なった価値基準を持っている人にとってはそれは正解ではないのです。だから実際に、差別も戦いも起きているのですから。ただし、全く正解がないわけでもありません。人間が家族や、仲間や、人と人のつながりに支えられて生きて行く動物であることは生物学的事実なので、その「つながり」を支え、育てるような行為は「善」であって、破壊するような行為は「悪」であると設定することは可能だと思います。人間以外の動物にまでその正解を広げることは出来ませんが、この正解を守らなければ、人間は簡単に滅びてしまうのですから、すくなくともそれが「人間という種が持っている正解」ではあります。そしてこれは歴史と文化を超えた正解でもあります。問題は、その「大切にしたいと思うつながり」が人それぞれだということです。緑の鈴風さんは例えば、「いじめはよくないことなのでしてはいけない」と思うことは正しいと思うのです。ただ、いじめをしないために、自分に何ができるのかは、人それぞれだと思うので、そこには正解はないと思います。と書いていますが、そう「イジメは良くない」というのは一つの正解です。問題は「何をイジメとして認定するのか」という基準が存在していないということなんです。実際、この解釈の違いでトラブルが発生しているのです。人は誰でも自分が大切だと思う仲間をいじめたりはしません。仲間をいじめるのは悪いことです。これは時代や文化を超えた人間としての事実です。でも、仲間以外の人や生き物をいじめてもそれは「悪いこと」にはなりません。ここで問題となってくるのが、その人が「仲間」という範囲をどのように設定しているのかということなんです。某政治家のように、自分のために色々とやってくれる人だけを仲間と感じる人もいます。血の繋がった家族だけを仲間として感じている人もいます。同じ言葉、同じ宗教、同じ民族、同じ文化、同じ価値観、同じ肌の色を持った人を「仲間」と感じている人もいます。さらには、「人間は皆仲間」と感じている人もいます。緑の鈴風さんはそのような価値基準をお持ちなんだろうと思います。もっと大きく、動物や魚も人間の仲間だと考える人達もいます。ビーガンと呼ばれる絶対菜食主義の人達はそのように考えています。ですから仲間である動物や魚の肉は絶対に食べません。仏教や神道では、動物だけではなく昆虫や植物までも「命ある仲間」として教えています。緑の鈴風さんはゴキブリを見つけたらどうしますか。蚊が腕に止まっていたらどうしますか。温かく見守りますか。緑の鈴風さんはどうか分かりませんが、ほとんどの人はゴキブリや蚊を見つけたら躊躇なく殺しますよね。でも、昔の仏教徒やインドのある宗派の人達はアリや蚊さえも殺さなかったのです。小さな虫を踏んで殺してしまわないようにホウキで道を掃きながら歩く修行者もいました。さらには、腸や自然界にいる菌まで仲間だと考える人もいます。そのような人はむやみに除菌などしません。抗生物質も飲みません。甘いものも控えます。それは仲間を殺す行為だからです。お腹の中で回虫を飼っている人もいます。駆除しようとせず、ちゃんと名前を付けて飼っているのです。それを「やり過ぎだ」と感じる人は、みな差別的な意識を持っているのです。ただ、仲間の範囲がちょっと違うだけの話です。で、ここで大切になるのが教育なんです。「どこまでが私たちの仲間であるのか」を子どもたちに教えているのが教育だからです。戦争中は米英は仲間ではなく敵だと教えられました。だからいじめても、殺しても良かったのです。長い間ヨーロッパでは、人間で、しかもキリスト教徒で、しかも白人である人達が仲間だと教えられてきました。そして、その仲間は大切にしました。でも、それ以外の人達は仲間ではないので、大切にする理由が存在していませんでした。肌の色が違う人や異教徒をいじめても、殺しても、仲間ではないので心が痛みませんでした。それは私たちがゴキブリやアリや蚊を殺しても心が痛まないのと同じです。だから平気で肌の色が違う人達を奴隷にし、動物を殺し、自然を破壊してきたのです。でも、東洋の仏教国では、自然も、自然の中の様々な生き物も皆人間の仲間だと教えられてきました。だから、むやみに自然を破壊したり、自然の中で暮らしている生き物たちを殺したりはしませんでした。イジメをしている子どもたちも、戦争で敵を殺している人達も、仲間はいじめたり殺したりはしません。それは「悪いこと」だからです。その基準は守っているのです。でも、そのような子どもたちは、「人間はみんな仲間なんだ、人間以外の生き物たちもみんな人間の仲間なんだ」ということを学んでこなかったのです。教育で大切なことは「イジメは悪いことだ」と教えることではなく、「みんな仲間なんだよ」ということを教えることなんです。そうすれば「イジメは悪いことだ」などと言わなくても、イジメは自然と消えるのです。肌の色が違っても私たちはみんな仲間なんです。それは価値観の問題ではなく一つの事実でもあります。その事実を子どもたちにどう伝えるのか。それが問題なんです。そしてそのようなことは教科書では教えることが出来ないのです。「ゴキブリも仲間なんだよ」と教わっても、ゴキブリへの嫌悪感は消えませんよね。大事なのは「頭での理解」ではなく「感覚的な納得」なんです。「イジメは悪だ、止めよう」といくら言い続けても、子どもたちを比較し、競争に追い立てるばかりで「他の子も仲間だ」と感じることが出来るような教育をしていないのなら、イジメは永遠に消えないのです。
2020.07.01
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昨日、分からないことは分からないままでいいのです。分かるまで待てばいいのです。大人が善意で分かりやすくして、分かった気にさせてしまうと「?」が消えてしまいます。でも、子どもは「?」があるからお話の中に能動的に参加することが出来るのです。このように、大人の善意が子どもの成長を阻害してしまう事がいっぱいあるのです。と書きました。簡単で便利な機械や道具やインフラに手伝ってもらえなかった頃の大人は、生活するのも、仕事をするのも忙しかったです。自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の意思で判断して行動しないことには、ご飯すら炊けなかったのですから。皆さんは炊飯器も、IHやガスもない状態で美味しいご飯を炊くことが出来ますか。洗濯機も洗剤もない状態で、洋服をキレイに洗うことが出来ますか。なかなか難しいですよね。だから大人達は自分の仕事をこなすことで精一杯で子どもの相手をすることなど出来なかったのです。現代社会では、子どもが何らかのトラブルを起こすと「親がちゃんと見ていなかったからだ」とか「ちゃんとしつけていないからだ」などと言われますが、昔の大人には子どもの行動を観察したり、子どもと関わっている時間なんてなかったのです。また、お金もなかったし、子育てを支援するようなインフラも整っていなかったので、子どもを何らかの施設に預けることも出来ませんでした。子どもを遊ばせてくれる人や場所や施設もありませんでした。子どもの相手をしてくれるテレビやオモチャやゲーム機もありませんでした。だから子ども達は、家から外に出て、同じように暇を持てあましている子ども達と群れて遊んでいたのです。そして、群れの中で他の人との関わり方、協力の仕方、ルールを守ること、トラブルの解決の仕方、遊びの方法、「遊びを発見する方法」などを学んでいたのです。また、一生懸命に働く大人達を見て、生活の仕方や仕事の仕方などを学びました。大人に仕事の仕方を教えてもらって学んだのではなく、見て学んだのです。教えられたから学んだのではなく、必要だから学んだのです。まただから、子ども自身の成長のタイミングに合わせて学ぶことが出来たのです。でも、簡単で便利な機械や道具やインフラが普及すると、それらを生産し、維持するために野原にはビルが建てられ、池や沼は埋め立てられ、山は放置されることで荒れ、子ども達が自由に遊ぶことが出来る場が消えてしまいました。1951年生まれの私はその過程を見てきました。また、便利な機械や道具やインフラが普及すると、それらを買ったり使ったりするためのお金も必要になりました。そして、お金を得るための競争が始まりました。それは受験競争や早期教育をもたらし、子どもを追い立てるようになりました。それまでの子ども達は、学ぶ準備が出来てから学ぶことが出来ていたのですが、今の子ども達は、学ぶ準備が出来る前から勉強に追い立てられています。その結果、知識やいっぱい持っているのにその使い方を知らない子ども達が増えてきました。子ども達が試験のためだけに勉強するようになったのです。今の日本の社会や政治は、そのような競争に勝った人たちが動かしています。知識はいっぱい持っているし、言葉も巧みですが、それを自分が勝つためにしか使うことが出来ない人たちです。大人達は我が子を勝ち組にするために、まだ学ぶ準備が出来ていない時期から学ばせようとしています。幼稚園の時に小学校の準備をし、小学校の時に中学校の準備をさせています。でも今ではそれが普通になってしまっているので、それが適切な時期だと思い込んでいます。でも、現代人の感覚では「適切な時期」ではあっても、子どもの成長という視点から見たら「適切な時期」ではないのです。早すぎるのです。(続きます)
2026.07.19
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昨日書いたように昔の人は忙しかったです。でも、簡単で便利な機械や道具やインフラがいっぱい発明され、それらを使いこなしている現代人はもっと忙しいです。不思議なことです。昔の人が何時間もかけてやっていたようなことでもボタンをポチッと押すだけで出来てしまったりします。じゃあ、残りの時間はのんびりと過ごしているのかというとそんなことはありませんよね。空いた時間にも別の仕事を入れてしまいます。昔の人は仕事がないときはのんびり出来たのでしょうが、現代人は、その「のんびり」が出来ないのです。次から次へと色々な仕事をこなしているうちに「じっくりと取り組む」ということが出来なくなってしまったのでしょう。実は「のんびり」も「じっくり」と基本的には同じものなんです。音も似ていますよね。自分の心と、感覚と、頭と、意識と、からだを使ってご飯を作り、お洗濯をし、仕事をして頃は、自分の心のリズム、からだのリズム、意識のリズムに合わせて仕事をすることが出来ました。自分の心、からだ、意識を追い立てないで、自分の命のリズムに任せることが出来ていたのです。でも現代社会では「自分のリズム」ではなく「機械のリズム」「社会のリズム」に合わせなければなりません。だから、追い立てられ、振り回され、「自分」を見失ってしまうのです。「そろそろ園バスが来るから早くしなさい」などと子どもを追い立てているお母さんは多いですが、それも社会が簡単で便利になったことで生まれた副作用です。簡単で便利な機械やインフラが普及することで、生活のリズムを決めるのが「自分」ではなく「機械や社会」になってしまったのです。自分が「自分の時間」の主人ではなく、機械やインフラや社会に「自分の時間」を支配されるようになってしまったのです。それが「モモ」に出てくる「時間泥棒」ということなのでしょう。また、一つの仕事にかかる時間は減りましたが、やるべき仕事の種類は圧倒的に増えました。その結果、やることがなくなると無意識的に次にやるべきことを探し始める癖がついてしまいました。そして、「やることがない」という状態に不安を感じるようになります。「何もしない時間」を「無駄な時間」と感じ、考えるようになりました。だから次々と「やること」を探して、じっくり感じることも、じっくり考えることも、じっくり呼吸することも出来なくなってしまったのです。でも子ども達は、まだ便利な機械やインフラが生まれる前と同じ状態で生まれてきます。子どもの感覚、意識、思考、からだの主人は子ども自身です。そして子どもは「子どもの時間」、「子どもの空間」、「子どもの社会」を生きています。だから、日々社会の要求に応えることに一生懸命になっている大人達は、「自分の世界で、自分のリズムで、自分のために生きている子ども達」を見るとイライラするのでしょう。
2026.07.20
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色々な人を見ていると若くても元気がない人もいれば、歳を取っていても元気な人もいます。子どもでも元気な子もいれば元気がない子がいます。じゃあ、「その違いを生み出しているのは何なのか」ということです。子どもでも、大人でも、老人でも、元気な人は「やりたいこと」をいっぱい持っています。「元気だからやりたいことを持つことが出来るのだろう」と考える人もいるかも知れませんが、私はその逆だと考えています。「やりたいこと」を持っているから元気なんです。この「やりたい」には「知りたい」「聞きたい」「見たい」「体験したい」「行きたい」「作り(創り)たい」「表現したい」なども含まれています。病気をしていても、からだが不自由でも、これらの「やりたい」があればそれを実現するために色々と工夫し、乗り越えてしまうのです。「やりたい」という気持ちが、感覚や、思考や、意識や、からだの働きを活性化してくれるからです。幼いときの病気が原因で四肢を失った「中村久子」という人がいました。昭和12年に来日したヘレン・ケラーと対面したとき、ヘレン・ケラーは中村久子を強く抱きしめて涙を流し、「私より不幸であり、私より偉大な人」とたたえたそうです。(詳しいことはネットで検索して下さい)「やりたいこと」がその人と「未来」を、その人と「社会」を、その人の「心とからだ」をつないでいるのです。だから元気なんです。人間が生き生きと能動的に生きるためには、「やりたい」という「欲」が必要なんです。年を取ってくるとその欲が減ってくる人が多いのです。そして守りに入ってしまいます。すると急激に気力も体力も弱くなります。「欲」というと悪い印象を持っている人も多いかも知れませんが、「世界平和」を望むのも「欲」ですからね。「子どもの幸せ」を望むのも「欲」です。「いい仕事をしたい」、「いい作品を作りたい」という欲を持っている人もいます。それらの欲は「他の人と共有出来る欲」「他者を否定しないで実現できる欲」です。その一方で「お金を儲けたい」「権力者になりたい」「自分だけ幸せになりたい」「自分だけ自由になりたい」というような、「他者を否定しないことには実現しない欲」もあります。このような欲は当然、戦いの原因になります。「ゲームをしたい」という欲は、他者を否定しませんがゲーム以外の活動を排除します。そのため、子どもの成長に必要なものを学んだり、様々な体験をしたり、様々な人や事と出会う機会が奪われ、結果として成長が阻害されてしまいます。「〇〇ファースト」という考え方も「他者を否定しないことには実現しない欲」です。だから戦いが生まれます。欲には、みんなの幸せにつながる「自分を成長させてくれる欲」と、戦いを引き起こす「成長を阻害する欲」があるのです。私が「欲を持とう」と勧めているのは「自分を成長させてくれる欲」、「他の人の幸せにつながるような欲」、「自分の世界を広げてくれるような欲」の方です。そのような欲は、人を元気にし、活動的にし、健康にしてくれます。これは医者が出してくれる「薬」よりも効果がある「薬」です。昔読んだので記憶が曖昧ですが、お釈迦様がある信者から「お釈迦様は悟られているので、欲に振り回されて苦しむことなんてないのでしょうね」と言われたそうです。先日もあるお母さんが「悟りを開きたい」と言うので「何で?」と聞いたら「悟りを開いたら色々なことで悩んだり苦しむこともなくなるだろうから」などと言っていました。それに対してお釈迦様は「そんなことはないですよ。私は皆さんの誰よりも欲深く、大きな欲を持っているのですよ」と答えられたそうです。それは「世界中の苦しんでいる人を救いたい」という壮大な欲です。だから、「自分一人のための欲」なんてちっぽけなんです。そういう大きな欲を持っていたから、シャカ族の王子「釈迦牟尼」は苦しい修行を乗り越えて「お釈迦様」になることが出来たのです。アッシジのフランチェスコも、「自分のためではなく人のために生きたい」というような欲に目覚めて聖者になりました。問題があるのは「自分のための欲」の方です。この「自分のための欲」は世界を閉ざし、成長を阻害し、敵を作ります。でも、子ども達に「夢」を聞くと「お金持ちになりたい」とか、「一日中ゲームで遊んでいたい」というような「自分のための欲」しか出てこないのです。「知りたい」「聞きたい」「見たい」「体験したい」「行きたい」「作り(創り)たい」「表現したい」という欲が出てくる子は滅多にいません。私が子どもの頃にあこがれていた外国にも行きたくないと言います。「どうして?」と聞くと「怖いから」と言います。大人がそういう情報しか与えていないのでしょう。お金持ちを望むこと自体が悪いわけではありません。問題は「お金持ちになって何をしたいのか」ということです。それがなければお金に支配されるだけの人生を送ることになってしまうでしょう。ゲームの方も「ゲームを通して世界中の子とつながりたい」という欲は子どもを成長させくれます。でも、そのように望んでいる子は少ないです。
2026.07.22
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日本は若者の自殺が飛び抜けて多い国として知られています。以下は江戸川区のHPからです。日本は世界のなかでも特に自殺が多い国ってホント?社会問題になっている自殺ですが、日本では特に15~39歳の死因の第1位が自殺となっており深刻化しています。自殺によって命を落とした小学校・中学生・高校生は、2017年度は250名で、自殺による死亡率(人口10万人あたりの死亡者数)では英国は6.6、ドイツは7.7、米国は13.3ですが、日本は17.8と先進国のなかでも高い傾向にあります。若年層だけでなく、企業においても働きすぎやストレスによる過労死が問題視されており、政府としては過労死などの実態を明らかにして国民や企業の理解と関心を深め、過労死を効果的に防止していくことを目標に掲げています。大人は仕事と生活との調和を目指す「ワークライフバランス」を保ち、子どもたちは学校生活でさまざまな価値観をもった人たちを認め合い、一人ひとりがストレスを抱えない社会づくりが必要です。https://www.city.edogawa.tokyo.jp/tomoni/sdgs/column/article16.htmlこの中に、大人は仕事と生活との調和を目指す「ワークライフバランス」を保ち、子どもたちは学校生活でさまざまな価値観をもった人たちを認め合い、一人ひとりがストレスを抱えない社会づくりが必要です。と書いてありますが、これは全くおかしな考え方です。「社会」は「人と人のつながり」によって生まれ、支えられ、動いています。「社会のあり方」は「人間の生き方」が決めているのです。「社会」は人間の創作物でも、「他者」として人間によってコントロールできるものでもないのです。だから、社会を変えたいのなら一人一人の生き方を変えるしかないのです。でも、この記事を書いた人はそこのところが全然分かっていません。でも、困ったことにそのような考え方が「普通の考え方」でもあります。また、様々な価値観を持った人たちがお互いに認め合い、一人一人が必要以上のストレスを感じることがないような「人と人のつながり」は、「一人一人がちゃんと向き合って、本音を出し合って話し合い、助け合い、一緒に活動した結果生まれるもの」であって、「型に合わせて作ることが出来るもの」ではありません。子どもの場合は、ケンカも肯定されるような場での「本気の遊び」が「安心できる仲間作り」を支えてくれます。「こういう人間関係を作ろうよ」とか「みんなで仲良くしようよ」などというようなことを課題として掲げてしまうから、子ども達がストレスを感じてしまうのです。道徳教育も同じです。「人に優しくしよう」などということは人に強制することではないのです。優しい子に育てば、そんなこと言われなくても他の人に優しく出来るのです。子どもが他の人に優しく出来るのは、その子が「優しい子」に育った結果なんです。でも大人達は、その育ちを支えることなく「優しくする」という結果だけを子どもに求めています。だから、子どもはストレスを感じるのです。日本の子育てや教育では、子ども達を「大人が考えた理想像」や「大人にとって都合がいい型」にはめ込もうとしています。この記事の中にもそのような考え方が見えます。話題になっているドキュメンタリー映画、『小学校〜それは小さな社会〜』にも、子ども達を型にはめ込もうとしている姿が描かれているみたいです。(予告しか見ていないので、〝みたいです〟としか言えませんけど・・・)そしてそれはある程度成功しています。だから日本の子ども達はお行儀がいいです。そして世界からその「お行儀の良さ」に対する賞賛も受けています。でも、その一方で自殺率はダントツに高いです。これをどう考えるのか、ということです。大人のそのようなやり方を、子ども達が喜んで受け入れ、人間としても成長しているのなら自殺する子が増えるわけがないのですから。それはつまり、お行儀良くなった結果を大人は褒めても、子ども自身は喜んでいないと言うことを意味しているのではないでしょうか。そもそも、「みんな一緒」、「みんな同じ」、「みんな仲良く」を求められるような子育てや教育では子ども同士がつながれません。子どもと大人もつながれません。そして、つながれなければ「生きている意味」も、「生きている価値」も生まれないし、「喜び」や「成長」を感じることも出来ません。また、相互につながっているわけではないので、「先生」という「管理する人」がいない場だと、すぐにバラバラになってしまいます。でも、バラバラになると「つながり」に支えられていない子どもは急に孤独や不安を強く感じます。だから「管理してくれる人」を求めます。今の日本では、大人の都合や価値観を押しつけるような子育てや教育が一般的になってしまっています。そして、子ども達から「目的や感情を共有する仲間」や、「自由な時間」や、「自由な活動が出来る場所」や、「自由な体験」を取り上げてしまっています。「子どもらしい自由な表現」も否定し、「大人が求めるような表現」を押しつけています。日々の宿題や夏休みの課題も、子どもから自由に感じ考え行動する時間を奪っています。宿題があって喜んでいるのは大人だけです。日本の子ども達は、「一人一人異なった名前と、個性と、感覚と、考え方と、生き方を持っている一人の人間」としてではなく、「大人の指導を受けるべき子ども」、「先生の指導を受けるべき生徒」としてだけ肯定されているのです。その背景には、みんな一緒、みんな同じという「型」の中だけで生きている大人達がいます。大人が「型」の中で生きているので、子ども達に「型からはみだすようなこと」を言ったりやったりされたら困るのです。「型」の中で生きている人は「型」がないものに対処できないからです。そしてまただから、日本人の多くは、「自分の意見」を言いません。「自分を表現すること」や「対話や議論」からは逃げようとします。お母さん達に「子どもから、何で勉強しなければいけないの? と聞かれたらどう答えますか?」と聞いても知識や常識を並び立てるだけで「自分の言葉」で語ることが出来ません。まただから、対話や議論やケンカが否定され、「みんなで仲良くしようね」が強制されてしまうのです。人はなぜ自殺するのかというと、生きている意味や喜びを感じないからです。「自分が自分である必要」を感じないからです。それはつまり、日本の子ども達の自殺が多いと言うことは、日本では、子どもが「自分が自分である必要」を感じないような子育てや教育が行われているということです。
2026.07.26
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現代人の意識のあり方には非常に大きな問題があります。それは「部分」ばかり見て「全体」を観ようとしていないことです。だから、その場限り、対症療法、ご都合主義になったり、競争し合ったり、戦い合ってしまうのです。「平和のための戦争」などその最たるものです。みんな「幸せになりたい」と願っているのは同じなのに、みんな「目先の幸せ」ばかり追い求め、「幸せの奪い合い」ばかりしています。だから、一時的な幸せしか得ることが出来ないのです。「健康になりたい」とあれこれ薬を飲んだり、運動をしたり、ネットで色々と情報を調べても、心やからだの調子の悪いところだけに意識を向け、そこだけを何とかしようとしているかぎり、一時的には良くなっても「からだ全体」「命全体」の状態は良くなりません。かえって悪くなってしまいます。そのため、次第に、それに巻き込まれて部分の調子も悪くなって行きます。一昔前のお母さん達は、子どもに熱があっても、咳をしていても、元気で食欲もあるのなら「元気があるなら大丈夫」とそれほど気にしませんでした。ケガをしても「つばを付けておけば治る」などとムチャクチャなことも言っていました。多少、学校の成績が悪くても「成績だけで人生が決まるわけじゃない」と、のんびり構えていることが出来るお母さんも多かったような気がします。そのようなお母さん達は「成績よりももっと大切なもの」を知っていたのでしょう。このようなお母さんは、子どもの「部分」ではなく「全体」に意識を向けていたのです。比較や他人の評価による「成績」ではなく、「子どもの人生」や「人間としての育ち」の方に意識を向けていたのではないかと思います。だから、「目先の小さなこと」に振り回されなかったのです。それがいわゆる「肝っ玉かあさん」と呼ばれるような状態なのではないかと思います。ちなみに「肝」が座ると「全体」を観ることが出来るようになるのです。その「肝」とは「覚悟」のことです。でも最近のお母さんは、子どもは元気なのに「熱がある、咳をしている、病院に連れて行かなければ、薬を飲ませなければ」など目先の症状に振り回されてアタフタしてしまいます。子どもが転ぶと、子ども自身は平気な顔をしているのに「大丈夫?」「痛くない?」「病院に行こうか?」などと子どもの不安を煽り立てるような対応をしているお母さんも多いです。ちょっと地面にあるものに触れただけで、ばい菌の心配をしてアルコールや石けんなどで丁寧に手を洗わせようとするお母さんもいます。そんなことをしていると生命力が萎えてしまうのに・・・。そもそも、人間のからだの中にも外にも、無数の菌が生きています。その菌によって命が守られている側面もあります。そのため、その菌を全て取り除いたら人間は無菌室の中でないと生きることが出来なくなってしまうのです。現代人は、「人間とは」「命とは」「健康とは」「教育とは」「人生とは」というような大きな視点で物事を見ることが苦手です。だから、コロナの不安を煽り立てられると、簡単に正体不明のワクチンに飛びついてしまう人がいっぱいいたのです。あの時は、多くの人が「生きている意味を否定するような指示や命令」にも素直に従いました。子どもたちも押しつけました。でもその結果、多くの子どもたちの命の状態の中に歪みが生まれてしまいました。「生きること」に喜びを感じることが出来ない子どもたちが増えてきたのです。子育てにおいては、食事を作り、洗濯をし、子どもを勉強に追い立てることだけでなく、同時並行的に「何のため、誰のためにそのようなことをやっているのか」ということも考える必要があるのです。そうでないと、一生懸命に子育てをしても、それがかえって子どもを苦しめる結果になってしまったりしますから。教師も、勉強を教える前に「教育とは何のため、誰のためのものなのか」ということをよく考える必要があるのです。それを考えていないからただ知識を覚えさせたり、子どもの成長を阻害するような管理と押しつけをしてしまうのです。今の日本の教育は、算数は何のために教えるのか。理科や社会は何のために教えるのか。歴史は何のために教えるのか。そういうことを考え直す所からやり直す必要があるのです。決して「テストでいい点数を取るため」ではないはずです。ちなみに、シュタイナー教育ではまず「全体」を教えるところから始めるそうです。そのあとから「部分」を教えて行くのです。だから、自分が今学んでいる部分が、全体の中ではどのような役割を果たしているのかが分かるのです。「手や足のこと」から教えるのではなく「人間のこと」から教えるのです。「人間」のことから学び始めるから、「手」や「足」の意味が分かるようになるのです。
2026.07.31
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人間は「視覚」を奪われると、思考が停止します。それは、自然界でとにかく安全に危険を回避するための「からだの仕組み」です。急に猛獣が現れたり、崖が崩れてきたり、敵が襲ってきたときに、ゆっくりと考えていたら間に合わないからです。皆さんが何か考えながら道を歩いているときでも、目の前に急に自転車が表れたら、思考は停止しますよね。そんな時の頭の中は「え!」「なに!」「ばかな!」という感じですよね。子どもたちが簡単にスマホやゲームなどに夢中になってしまうのも、この「からだの仕組み」によります。大人よりも子どもの方が「動くもの」や、「光の変化」や、「音の変化」に対する感受性が高いからです。だから、スマホやゲームでなくても、子どものオモチャには、動いて、チカチカ(キラキラ)光って、音が出るものが多いのです。ゼンマイ仕掛けや、電気仕掛けのオモチャが現れるまでは、そんなおもちゃ存在していなかったのですが、オモチャが自分自身のエネルギーを持つようになったら、チョウチンアンコウのようにそのエネルギーを使って子どもを釣るようになってきたのです。この「からだの仕組み」は自然界で、とっさの危険から自分の命を守るために必要な能力です。その「仕組み」の背景には「不安への予感」があります。視覚や、音や、嗅覚などの感覚に対する急な変化は、人に不安を与えるのです。子どもの方が視覚的、聴覚的な変化に敏感なのは、周囲の環境への高い適応能力も関係していますが、子どもの方が身体的な能力が低いからということもあるのです。老人になると様々なレベルでの変化を好まなくなったり、小さな変化にも敏感になるのは、老人になると危険に対応する能力が低下するからです。子どもの甲高い声が耐えられなくなるのも、その声が不安を連想させるからだと思います。(だからゲームが変化への対応力を促し、リハビリに対して効果的に働いたりするのです。)スマホやゲームでは実際の「危険」は発生していませんが、「からだの仕組み」は「社会の変化」とは無関係な仕組みですから、現代人でも太古の人と同じように反応してしまうのです。でも、実際の危険にはつながっていないため、単なる視覚的、感覚的な変化だけだとすぐに慣れが生じて飽きてしまいます。そこで「音」と「成果」と「物語」という別の要素が登場します。視覚的な変化に音が着くことでよりリアルになります。赤ちゃんに音付きの動画を見せると、ジーッと見入ります。ただし、それは面白いからではありません。不安を感じて目を離せなくなってしまうからです。その段階を通り過ぎると、今度は好奇心で見続けます。ただ、4,5才頃になると「自分の心」というものが目覚め始めてくるので、視覚的な変化と音だけでは、視覚を奪えなくなってきます。そこで何かしら人間的な欲求を満たしてあげる必要が生まれてきます。そこで「成績や成果を競う」とか、「物語で遊ぶ」という別の要素が入ってきます。すると、友達と一緒に遊ぶことが出来るようになったり、物語の世界の中で一人で遊ぶことが出来るようになります。でも、あくまでもそのインターフェイスは「視覚」です。その内容に関係なく、ゲームでは画面を見続けることでしか遊びが成り立たないのです。「音」も、「成績」も、「物語」も、「視覚」を画面(ゲーム機)に釘付けにするための補助に過ぎません。ゲーム機は子どもの視覚を画面から離さないように作られているのです。そして、ゲームをやっているときは視覚を奪われているので思考は停止しています。だから何時間でも夢中になることが出来るのです。問題は、脳とからだがそのような状態に慣れてしまうと、今度は、変化に乏しい現実世界に違和感を感じるようになってしまうということです。強制的に「大きな音を出して激しく動くもの」ばかり見つめさせられていると、「動かないもの」や「ゆっくりしか動かないもの」や「音を出さないもの」に対して意識を集中することが困難になってしまうのです。そのため他の感覚に対して受動的にもなります。自分の意思で見たり、聞いたり、感じたり、集中したりすることが難しくなるのです。すると、当然のことながら観察力が低下します。観察力が低下すると、無心になることが出来なくなります。すると遊ぶ能力が低下します。体験から学ぶ能力も、お勉強の能力も低下します。でも、そのことで成績が下がったり大人から叱られると、ゲームには、パチンコと同じように視覚を奪い目の前の現実を忘れさせてくれる効果も高いので、そのために使われたりもします。ただ、映画を見たり、パチンコをしたりするように、それが一時的なことなら感覚はすぐに元に戻るのですが、幼児期からそのような遊びしか体験していないと、脳が視覚からの強い刺激に適応したまま成長してしまうので、なかなか元に戻らなくなってしまうのです。それは麻薬中毒者の脳と同じです。一見、「観察力」と「遊ぶ能力」とは関係がないように思えますが、実際には観察力がないと無心で遊ぶことは出来ないのです。子どもと遊べない人は、子どもをよく観察していない人でもあるのです。まただから、子どもは大人が気付かないようなことにもすぐに気付くのです。「森」の中には不思議がいっぱいありますが、その「不思議」に気付くのも観察力の結果です。観察力があれば石ころだって面白いのです。でも、観察力のない子には「森」は不思議でも何でもありません。石ころに面白さを感じることもありません。それよりも、ロボットや自動車の方が面白いのです。
2019.01.11
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私は、自宅では自由に色々なものを作る造形教室をやっています。「自由」ですから、「作りたいもの」を決めるのは子ども自身です。そして、その参考になるような色々なお手本や本をいっぱい揃えています。教室を始めた30年くらい前にはそれでうまく行っていました。「ここは自由に創れるから楽しい」と言ってくれる子どももいました。でもいつのまにか、その自由をもてあましてしまう子ども達が増えて来ました。「自由に創っていいんだよ」と言っても、「わかんない」と言うのです。そして「なに、作ったらいいの?」と聞いてきます。そのくせ、色々なお手本を見せたり提案をしてもことごとく却下します。そして「たいくつだー」と言いながらブラブラしていたり、友だちとおしゃべりをしています。でも、そういう子ども達でもアニメやゲームの話になると盛り上がります。最近、そういう子が多いのです。そのような状態の子が増えるのは9才、10才頃からです。1,2年生の子は素直にこちらの提案を受け入れてくれます。でも、9才、10才頃から自分で決めたがるようになるのです。それ自体は成長に伴う自然な変化なんですが、最近の子は自分で決めたくても決められない子が多いのです。こちらの提案に対して「それは嫌だ」とは言うのですが「じゃあ何がやりたいの?」と聞いても「わかんない」という答えしか返ってこないのです。9才、10才頃から子ども達は「社会」というものに意識を向け始めます。少しずつ「自分の将来」のことも考え始めます。それまでの「夢」は単に想像するだけのものでしたが、この頃から「将来の目標」が「夢」になっていくのです。そして、「アンパンマンになりたい」などという非現実的な夢はいつのまにか消えて行きます。そんな時、「やりたいこと」を見つけられた子は子は、生き生きとしています。でも、それを見つけられない子は無気力になっていきます。9才頃までは楽しければそれだけで満たされていました。でも、9才を過ぎる頃から楽しいだけでは満たされなくなっていくのです。達成感や充実感が欲しくなるのです。まただから、現実の世界の中でそれを見つけることが出来ない子はゲームにのめり込んでいくのです。ゲームの中で達成感や充実感を得ようとするのです。そして、ますます「現実の世界」への興味を失っていきます。ゲームしか「やりたいこと」がなくなってしまった子は、「動くもの」には意識を向けることが出来ても「動かないもの」に意識を向けることが困難なようです。そういう子は、見て感じたり、見て理解する能力も低いです。本来はその頃から社会的な活動や、大人の世界や、大人の仕事に意識が向いていって、「自分の将来につながるような目標探し」が始まるのですが、家庭や学校に閉じ込められてしまっている現代の子ども達には、社会的な活動や、大人の世界や、大人の仕事と出会う機会がありません。それでも、本をいっぱい読んでいるような子は、本の中で社会的な活動や、大人の世界や、大人の仕事と出会う事が出来ますが、最近の子は幼い時から文字は読めても、本を読むことを楽しむことが出来ません。だから、その時期の子ども達を家庭や、学校や、テレビや、スマホや、ゲームの中に閉じ込めてはいけないのです。「9才の危機」を迎えた子ども達を生き生きとさせるためには、色々な所につれて行き、色々な大人や世界と出会わせ、色々な体験をさせてあげる必要があるのです。
2024.05.23
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科学は人間の好奇心によって発見され、人間の欲望によって実用化され、社会を変えるほどに、人類の未来を変えるほどに、地球を破壊できるほどに大きく進歩してきました。でもこのままでは本当に、自分たちが作りだした科学の力によって人類は滅亡してしまいます。それはSFの中だけの話ではなく、実際に、もうそれが可能なほど科学は進歩してしまっているのです。よく言われることですが、人類はもうすでに人類を何回も滅亡させるくらいの量の核兵器を持っています。また研究室では、流失したらパンデミックを引き起こすような高い致死率を持ったウィルスが培養されています。実際、「コロナウィルスは研究室から流失したものなのではないか」という話もありますよね。それが本当かどうかは分かりませんが、そういう噂が流れると言うことは「そういうことが可能である」ということでもあるのです。また、人間が人間であることをやめるような研究も進んでいます。ブタに人間の臓器を作らせたり、自分のDNAを使って自分のコピーを作り、万が一の時にそのコピー人間の臓器を使えるようにする研究をしている人もいます。その際、コピーの方の脳は取り除いておきます。「脳がなければ人間としての意識を持っていないので倫理的な問題は生じない」という事のようです。最近は、痛い出産を嫌がって無痛分娩や帝王切開を選ぶ人も増えてきていますが、ブタのお腹を使って人間の子どもを産ませたりするような研究をしている人もいます。将来、人間は水槽が並んだ培養所のようなところで産まれるようになるのかも知れません。DNAを操作して、身長、顔立ち、目の色、知能まで自由にデザインした赤ちゃんを作り出すことはもう可能になっています。子どもは「産むもの」「授かりもの」ではなく「作ってもらうもの」になりつつあるのです。でもそうなると「顔が気に入らないから返品します」ということも起きるでしょうね。血のつながりも意味をなさなくなります。さらに、人間の体の中に機械を埋め込んで能力アップを図ろうと研究している人たちもいます。科学はどんどん人間の「非人間化」を推し進めているのです。でも、そういうことが可能になり、みんなが素直にそれを受け入れるようになったら「人間としての倫理観」は消え、「人間が人間であることの意味や価値」も消えてしまうでしょう。そして、「人間」の生命力は萎え、次第に滅亡して行くでしょう。人間は「生きている意味と価値」を見いだせないと自壊を始めてしまうからです。だから私たちは「科学の使い方」を学ばなければいけないのです。科学は「包丁」と同じで、正しく使えば人を幸せにする力を持っていますが、使い方を誤れば人を殺す道具になってしまうのです。科学を「欲望を満たすための道具」として使っていたら、人類は自滅してしまうのです。問題は、「その科学の使い方」は誰も教えてはくれないということです。科学も教えてくれません。科学はただ「事実」を提示するだけです。AIに聞いても無駄です。AIにとっては「人間の幸せ」など価値がないからです。学校でも教えることが出来ません。「教える」という方法で伝えることが出来るのは知識だけです。「科学の使い方」は、人間が機械に頼らずに、自分の感覚と、心と、頭と、意識で考え、見つけていくしかないのです。そんな時、様々な芸術的な活動がその手助けをしてくれるでしょう。科学が扱えるのは「物質の世界」だけです。「心の世界」を扱うことは出来ません。でも、芸術はその「心の世界」を扱うのが得意です。なぜなら元々心の世界から生まれたものだからです。社会全体から芸術的な活動が失われたら、全ての人が物質的な欲望に振り回され、「他の人の幸せ」になど関心を持たなくなってしまうでしょう。実際、そういう傾向が進んでいますから。人間が人間らしさを保つためには「不要不急の活動」が一番大切なんです。でも、それが真っ先に切り捨てられました。
2026.08.05
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昨日、シュタイナーのおもちゃや遊びに関する本を四冊ほど紹介させていただきましたが、今日はその内容についても少し書かせていただきます。まず、「おもちゃが育てる空想の翼」(シュタイナーの幼児教育)カーリン・ノイッシュ著ですが、最初この本のタイトルを見た時、「おや?」と思いました。なぜなら、シュタイナー教育では、一般的に「おもちゃ」と呼ばれるものを重視していないはずだからです。でも、目次を見て、そのことが理解できました。目次は、序章 遊びを通して子どもは生き方を学ぶ 想像力と遊び 人形の移り変わり 人形はひとがた 第一章 毎日が夢心地 乳児 乳児の心を形作る環境 人とのふれあいと物の刺激 第二章 ものまね時代 1~2才 子は親のかがみ アンナが絵を描く おもちゃの色 おもちゃの材料 四大元素 *望ましい遊びとおもちゃ第三章 言葉とリズム 3~4歳 詩と歌 子どもの分身としての人形 本物そっくりの人形 アンディが絵を描く 変身だ お願いもう一度 *望ましい遊びとおもちゃこれで半分ぐらいですが、全部紹介するとそれだけでいっぱいになってしまうので、このくらいにしておきます。一般的には「おもちゃ」と聞くと、「おもちゃ屋さんで売っているおもちゃ」のことをイメージすると思いますが、この本で「子どもの空想の翼を広げる働きをするおもちゃ」として紹介されているのは、木の実や布といったような、おもちゃ屋さんでは売っていないものばかりです。ですから、一般的な概念としての「おもちゃ」の素晴らしさが書いてあるのかなと思ってこの本を手に取ると、その期待を裏切られることになります。第二章の「おもちゃの材料」の所では プラスティックのおもちゃしか持っていない子にとっては、その環境自体が貧しいということになるのです。それだけではありません。プラスティックは、木やガラスや金属と違い、音色というものを持ちません。叩いても響くということがないのです。と書いてあります。レゴ・ブロックにも否定的なことが書いてあります。シュタイナー教育での基本的な立場としては、子どもの命を育てるために必要なものは、そのもの自体が命の働きとつながったものである必要があるのです。ですから、「機械によって作られたおもちゃ」は「子どもの育ちに必要なおもちゃ」としては認めていないのです。シュタイナー教育的な価値観では、何十万円もする知育玩具よりも、野山に行ってタダで拾ってくることが出来るドングリや木の枝や木の実の方が「子どものおもちゃ」としては優れているということです。ですから、この本を「おもちゃのことが書いてある」と思い込んで買った人は裏切られることになると思います。なんでこんなタイトルにしたのでしょうか。他の三冊で紹介されいるのは、自然と遊ぶ方法であったり、手作りをするものばかりです。ただし、それらも単なる「物」としてではなく、「子どもと他の世界をつなぐもの」として扱われています。その「他の世界」とは、「他の人」であったり、「物語」であったり、「自然」であったり、「見えない世界」であったりします。そういう「他の世界と子どもをつなぐ働きをするもの」が、シュタイナー教育では「子どもの育ちに必要なおもちゃ」として考えられているのです。それに対して、おもちゃ屋さんで売っているようなおもちゃは、子どもを「テレビの世界」や、「一人の世界」や、「人工的な狭い世界」に閉じ込めようとするばかりです。そのため、そういうおもちゃでばかり遊んでいる子は、どうしても排他的な感覚が強くなってしまうのです。ただ、だからといって、絶体そういうものに触れさせてはいけないということではありません。幼い子どもは、本能的に「自分の育ちに必要なもの」が分かっているので、物語や自然と遊んだり、おもちゃを手づくりして遊んでいる子は、お店で売っているおもちゃを与えても、その時は喜びますが、すぐに飽きてしまうからです。 ですから、おじいちゃん、おばあちゃんがオモチャを買ってくれたら、喜んで受け取って下さい。 すぐに、飽きるから大丈夫です。
2016.10.06
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私はよく「こういう時はどうしたらいいのでしょうか?」という質問を受けます。その気持ちは分かりますが、じゃあ、その方法を教えてもらえば簡単にそれが出来るのか、というと、実際にはそれはなかなか困難です。機械の操作のようなものはマニュアルに沿って動かせば、想定した通りに動かすことが出来ます。マニュアルとはそのためのものです。でも、中にはそんなマニュアルを使ってもうまく出来ない人もいます。私の家内も機械音痴ですから、コンピュータの操作などもなんべん教えても毎回うまく行かず、私に聞いてきます。マニュアル化出来るようなものでさえうまく出来ない人がいるのに、「子育て」のようなマニュアル化出来ないもののやり方を聞いても、その通りにうまく出来る訳がありません。ましてや、マニュアル化出来ないものは言葉では説明できないのです。だからこそマニュアル化出来ないのですから。でも、現代人は「マニュアル化出来ないもの」を学ぶ機会があまりありません。コマ回しでも、竹馬でも、お手玉でも、昔の子どもの遊びはみんな「マニュアル化出来ないもの」ばかりでしたが、今の子どもの遊びは機械を買ってきて説明書(マニュアル)通りにやれば遊べるものばかりです。それは、冷蔵庫や洗濯機の使い方と同じです。そのため、子育てでも「方法を聞けば簡単にできる」と思い込んでいる人も多いのでしょう。でも、「子育て」に必要なのは、武術や、踊りや、車の運転や、竹馬などと同じ「心とからだの技術」ですから、知識を学んだだけで出来る訳がないのです。また、その勘違いが子育てを困難にしているのです。そのような人は知識ばかりを求めて、現場で子ども相手に試行錯誤することをしないから、「子育ての技術」が身につかないのです。多くのお母さんが「早くしなさい」と子どもを追い立てています。でも、いくら「早くしなさい」と子どもを追い立てても、早くする子どもはいません。毎日毎日同じことを繰り返して、毎回失敗しているのに、毎回、同じ方法を繰り返すだけの子育てをしている人は試行錯誤をしていない人です。そしてそのような人に限って「どうしたらいいんでしょうか?」とマニュアル的な方法を聞いてきます。そのような人でも、自分なりに一生懸命に考えて、一生懸命に工夫していることは分かります。ですから、このようなことを言われたら「私だって頑張っているんです」と腹が立つでしょう。でも、ほとんどの場合その工夫が空回りしているのです。なぜなら、相手との対話がないからです。「子育ての技術」とは「子どもとの関わり方の技術」のことです。まず、そのことをしっかりと認識して下さい。ですから、その技術を学ぶためには「子どもとの対話」が絶対的に必要になるのです。ただし、この「対話」というのは「言葉による対話」のことではなく「感覚による対話」のことです。ですから、言葉を話すことが出来ない赤ちゃんとだって対話することが出来ます。「言葉を話すことが出来ない赤ちゃんとなんか対話できない」と思い込んでいる人は、「子育ての技術」を学ぶことが困難な人です。そのことに気付かないまま「子育ての方法」を学んでも、子育ては少しも楽にも、楽しくもなりません。子どもの表情や、動きや、声や、言葉にお母さんが反応してあげると、子どもはそのお母さんの反応に、表情や、動きや、声や、言葉によって反応を返してくれます。それにお母さんが反応すると、また子どもは反応を返してくれます。それが「子どもとの対話」です。「対話しようと思って一生懸命に話しかけているのに少しも答えてくれない」という人は、その「対話」が出来ていない人です。そのような対話を繰り返しているうちに、自分の子どもの「心とからだの特性」が見えてきます。すると、子どもに出来ることと、出来ない事の区別が付くようになります。ですから無理をしなくなります。また、「子どもとの関わり方」が見えてきます。すると、お母さんの気持ちを伝える方法も見えてきます。よく分からない人は最初は子どもの真似をするだけでもOKです。「楽しかった」と子どもが言えば、「楽しかったんだね」と返し、子どもが嬉しそうな顔をしていたら、お母さんも「楽しそうな顔」を返し、子どもが手をつないできたら、お母さんも手をつなぎ返し、子どもがスキップしたら一緒にスキップする。それだけで子どもは「お母さんとの対話」を楽しむことが出来るのです。そしてお母さんも子どもの心とからだのことが少しずつ見えるようになって来ます。*****************私は小・中と3年ぐらい町道場で柔道を習い、32才頃から太極拳を始め、それ以降も色々と学び、今でも武術的なことを学んでいます。でも、素質がないので何十年やっても未熟なままです。先生がやって見せてくれても、なかなかその通りに出来ません。「やって見ろ」と言われてやってみて、「ここがおかしいからこうしなさい」と指示されても、なかなかそのようには出来ません。つきっきりで指導してもらっていてもなかなか学べないのが技術の世界なんです。ですから、いつでも自分で工夫して試行錯誤しています。するとしばらくすると「それでいい」と言われます。先生の言葉はあくまでもヒントに過ぎません。最終的にはそのヒントを手がかりに自分の力で発見するしかないのです。
2014.11.13
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不思議なことに、人間は「自分」という視点を超えて、「他者」の視点に立って見たり、考えたり、感じたりすることが出来ます。その時、時間も空間も超えることが出来ます。人間以外の動物にも、さらには石や木にもなって見たり、考えたり、感じたりすることが出来ます。確かにそれは、事実ではないかも知れません。そもそも、人間以外の生き物は人間のようになど考えないからです。石や木はなおさらです。でも、そのように考えることで、その相手を自分のことのように考えることが出来ます。相手を守ろうとする気持ちも生まれます。また、「人間」とか「自分」という視点で考え、感じ、行動している時には見えなかったこと、分からなかったことも分かるようになります。宮沢賢治の童話の多くはそのような視点から書かれたものです。戦争の時は、味方の視点にばかり立って考え、感じ、行動し、殺しますが、でも、意識さえすれば、敵の視点に立って考え、感じ、行動することも出来ます。そして、みんながそういうことをすれば、戦争など起きなくなります。なぜ人間にだけそのような能力が備わっているのかは不明ですが、でもその能力をちゃんと使うことが出来れば、人間は本能に振り回されず、自分勝手にならず、相手のこと、みんなのことを考え、平和な社会を作ることが出来るのです。人間の社会だけでなく、全ての生命まで含めた世界が平和になるでしょう。でも、その能力を使わず、自分の価値観や都合ばかりを優先させ、自分勝手に考え行動すれば、多くの人が苦しみ、多くの人が死ぬ社会になります。人間は、世界や地球を救うことも、破壊することも出来る生き物なんです。そして、どちらを選ぶのかは人間の判断に任されています。そのような、「他者の立場に立って考え、感じてみる」というのは、実は「視点の多重化(多元化))」というようなことなんです。そして物事は、多重化された視点で見た方がよりありのままの状態に近い姿を見ることが出来るのです。カメラは、対象をそっくりに写し取ります。でも、カメラは一点透視でしか世界を写し取りません。ですから、写真は一見リアルに見えますが、実際の存在が持っている厚みも、重さも、立体感も消えてしまっています。たとえ、そういうものを感じたとしても、それは写真自体に取り込まれたものではなく、写真を見たときに、反射的に私たちの脳が勝手に足らないものを補って復元しているのに過ぎません。それに対して、私たちの目は「二点透視」で世界を見ています。だから、よりリアルに立体的に世界を見ることが出来ます。さらに、匂いや音も感じながら見ています。過去の体験も入れながら見ています。ですから、いくつもの視点を同時に総動員しながら、一つのものを見ているのです。でも、「思考」という方法だけで何かを知ろうとするときには、どうしても「自分の価値観」だけに頼ってしまいやすいのです。すると、「一点透視的な思考」になりやすいのです。すると、勝手な思い込みで世界を見るようになってしまいます。子どもが言うことを聞かないと、「反抗している」とか、「ワガママだ」と判断してしまうのはそのためです。「言うことを聞かない」のではなく、そもそも「お母さんの言っていることが理解できない」のかも知れません。「お母さんの期待に応えたくても、生理的、能力的に出来ない」のかも知れません。二歳ぐらいの子どもに「ジーッとしていなさい」と要求するのは、オタマジャクシに「ジャンプしなさい」と要求しているのと同じ事です。でも、自分の価値観だけで一点透視的に考えてしまうと、そうとしか考えられなくなってしまうのです。そんな時は、「子どもの立場」に立ってみる、「子どもだった頃の自分」の視点で考えてみる、子どもの表情や言葉や行動を自分の好き嫌いで判断するのをやめて客観的に見てみるということが必要になります。さらには、学問的な知識も一つの「視点」になります。そのような「多重の視点」を動員することで、より「子どもの現実」に対する理解が深まるのです。象は太い柱のようなものだ。象はビヤ樽のようなものだ。象は太いホースのようなものだ。象はヒモのようなものだ。いやいや、象は大きなウチワのようなものだ。いずれも、現実の象の一部分の事実に過ぎません。そんな時は、「どれが正しい」という議論をするのではなく、お互いの意見をお互いに補い合うような意識でつなぎ合わせるのです。すると、現実の象の姿に近くなるのです。幼い子ども達の荒唐無稽な言葉も、一つの「事実」なんです。現実にはあり得ないように思える「ファンタジーの世界」も、この世界の一つの事実なんです。だから感動するのです。
2016.06.11
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今日は「つながる」とはどういうことなのかを考えて見ます。「つながる」には二通りの形があると思います。先日、「全ての存在はお互いにつながり合っている」というようなことを書きました。それは、池に小石を投げ込めば宇宙の全ての存在が反応するのです。あなたが、ポンと手を叩くだけで、地球も宇宙も振動するのです。そのつながりが私たちの存在を支えています。というようなことです。 この「つながり」は私たちのからだにもあります。指を一本動かすだけで、からだ全体が動くのです。でも、ほとんどの人にその実感はありません。なぜなら、ほとんどの人が、無意識的にからだを固めて、指の動きがからだ全体に伝わることを阻止しているからです。指を動かしても手首が固まっていたら、その動きは肩まで届きません。手首や腕が動いても、肩が固まっていたら、その動きは胴体まで届きません。じゃあ、「指先の動きはからだ全体に伝わらないのか」というと、そういうことではありません。指からの動きに抵抗してからだを固めることで、内側の動きは止まりますが、今度は、固められた骨格を通してからだ全体に伝わっていくからです。からだが緩んでいる人の指を動かすと、その動きはその人のからだの中を通っていくのですが、からだを固めている人の場合は、指の動きが直接からからだ全体に作用してしまうのです。石像はどの部分を押しても、全体が反応しますよね。そういう状態です。その時、形が変わるわけではないので、相手の動きは伝わっていないように見えますが、そう思っているのは本人だけです。なぜなら、人間は「部分の動き」は簡単に知覚出来るのに対して、「全体の動き」や、「固める動き」を知覚することは困難だからです。実際、「指の動き」は知覚出来ても、「肩や肩甲骨の動き」は知覚しにくいですよね。「腕の動き」や「足の動き」は知覚出来ても、歩いているときのからだ全体の動きを知覚することは困難ですよね。また、気付かないうちに肩が凝ったり、からだが固まってしまったりしますよね。(ただし、トレーニングすれば知覚出来るようになります。)このように実際にはからだも宇宙も全てがつながっているのですが、今日書きたいことはその「つながり」ではありません。上に書いたのは、「インフラとしてのつながり」ですが、人間としての成長に必要なのは、その「インフラを使ったつながり」だからです。「インフラとしてのつながり」は本人の意思や意識とは無関係につながっています。それは、電話を買ってどこかと契約すれば、自動的に世界中の電話とお話が出来るつながり(基盤)を手に入れることが出来るのと同じです。でも、電話を持っていても、実際に誰かに電話をかけてお話をしないことには、「人間としてのつながり」は生まれませんよね。私が言いたいのはそっちの方の「つながり」です。あなたが子どもと手をつなげば、「インフラとしてのつながり」はセットされたことになります。でも問題は、その「つないだ手」で、子どもとどのような感覚的な交流を行うのかということです。「ただ繋がっているだけなのか、お互いに相手の手の感触や温もりを感じ合っているのか」ということです。指はからだ全体と繋がっていますが、「そのつながりを通して指とからだが対話できているのか」ということです。家族は一つ屋根の下で暮らしています。食べ物を通しても、お金を通しても、家を通しても、家族は一つに繋がっています。でも、家族一人一人の間に「双方向のやりとり」がなければ、それはインフラとしてのつながりに過ぎません。「人を育てるつながり」ではないということです。インフラ整備のための必要最低限のやりとりしかないのであれば、少なくともそれは「人間らしいつながり」とはいえないのです。*******************今日はちょっと「山登り関係」をご紹介します。うちの今年の夏休みは、家内と「鳳凰三山」に登って来ます。一番楽なコースですけど。4歳からはじめる親子トレッキング [ 関良一 ]子どもと楽しむ山歩き [ 上田泰正 ]赤ちゃんから始めました親子登山 自然に親しむ子育てプラン [ 新井和也 ]
2017.08.01
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私は、シュタイナー教育が大好きです。また、比較的シュタイナー教育の近くにいます。シュタイナー教育の先生の知り合いもいます。様々なシュタイナー幼稚園のお母さん達対象にワークもやり、シュタイナー幼稚園の園長先生などともお話しします。家内はシュタイナーのぬらし絵の先生をしていて、教員養成にも通っています。でも、私はシュタイナー教育の内部の人間ではありません。なぜか、内部に入りたいという気持ちが起きないのです。それは内部に入ると、「シュタイナー教育」に縛られてしまうように感じるからです。「内部の人間」になってしまったら、私がここ数日書いているような好き勝手なことを言ったり書いたりすることは出来なくなってしまうでしょう。ですから、私が書いていることはシュタイナー教育の内部で言われている「正解」とは異なります。というか、その「正解」に縛られたくないから、内部には入らないのです。そして、実はその方が「R.シュタイナーの立場」に近いような気がするのです。シュタイナーは自分の感覚と魂で感じ、自分の頭と精神で考え、あのような体系を創り上げました。それは芸術的で、創造的な行為です。シュタイナーと共にシュタイナー教育を創ってきた人達も同じです。今のシュタイナー教育の形は、シュタイナー一人が創ったものではありません。シュタイナーの思想に共感した多くの仲間達が創造的に創り上げてきたものです。そして、今でもヨーロッパなどのシュタイナー教育の現場では多くの先生達が「シュタイナー教育」を創造し続けているでしょう。「生命」というものは創造し続けないと消えてしまうものだからです。実際の「生命」も含めて、そのものが生き生きとした生命の働きを維持するためには、常に「生」と「死」が循環している必要があるのです。でも、欧米からの文化を有り難く拝領してくる日本人は、一度貰った形を「正解」として固定し、いつまでもそのままの状態で維持しようとします。そのものに手を加え、「生」と「死」の循環の中に取り込もうとはしないのです。だから、「形」はそっくりでも、「生命」が宿らないのです。だから、いつまでも「優秀な生徒」のままで、「教師」や「研究者」という立場に立つことが出来ないのです。日本人はいつでも「良くできました、偉いですね」と褒めて貰いたいのです。これは子育てでも政治でも同じです。だから、欧米の人が書いた本を読むと自分の頭で考えていることを感じることが出来るのに、日本人の本に書いてあることは、本や先生から学んだことや、シュタイナーの引用ばかりです。(全ての人がとは言いませんが、そのような傾向が強いと言うことです。)でも、それでは「シュタイナー教育」ではないのではないかと思うのです。R.シュタイナーの本を通して私が理解している「シュタイナー教育」はもっと創造的な精神に満ちあふれているものです。だからこそ「自由への教育」であり「教育芸術」なのです。創造的な精神こそが、自由や芸術を支える根元的な力なのです。ただ、ここで誤解する人がいるといけないので、少し補足を入れておきますが、「創造的である」ということは、「違ったことをする」と言うことではありませんからね。生命は刻々と「生」と「死」を循環させ、創造的に生命を支えていますが、マクロ的な変化が起きる訳ではありません。「朝目覚めたら顔が変わっていた」などと言うことはないのです。毎日同じ生活の繰り返しでも、創造的に生きることは出来るのです。舞台役者が何百回と同じ舞台で同じ役を演じても、毎回、新しく「役」を創造しているのと同じです。私にとってのシュタイナー教育は、極論すれば「自由への教育」と「教育芸術」というイメージだけです。シュタイナーが何を言ったのかなどということはその次の話しです。だから、自由を失った教育、芸術的ではない教育は私にとってはシュタイナー教育ではないのです。それがどんなにドイツのシュタイナー教育のやり方とそっくりでもです。ちなみに、「芸術的な教育」とは、「芸術を使った教育」のことでも、「芸術を教える教育」のことでもありません。教育そのものを芸術化することです。そこに、宮沢賢治の農民芸術とは宇宙感情の 地 人 個性と通ずる具体的なる表現であるそは直観と情緒との内経験を素材としたる無意識或は有意の創造であるそは常に実生活を肯定しこれを一層深化し高くせんとするそは人生と自然とを不断の芸術写真とし尽くることなき詩歌とし巨大な演劇舞踊として観照享受することを教へるそは人々の精神を交通せしめ その感情を社会化し遂に一切を究竟地にまで導かんとするかくてわれらの芸術は新興文化の基礎である(宮沢賢治の「農民芸術概論」からの抜粋。)という言葉がつながってきます。長いですが、是非ここで全文を読んでみて下さい。ピンクのカーテンや、ひらひらなスカートや、素敵な家具や、素敵な洋服など持っていなくてもいいのです。羊毛や蜜蝋などで遊ばなくてもいいのです。そういうものはヨーロッパ文化圏においてシュタイナーの思想を表したものであって、シュタイナーの思想そのものではないからです。違う文化圏の人は自分たちの文化に合わせて違う表現を創り出せばいいのです。そうでないと、シュタイナーは「思想」ではなく、ただの「ファッション」になってしまいます。実際、生活や遊びなどをシュタイナー的なファッションでまとめ、「私はシュタイナー教育をやっています」と言う人も結構いますけど。ボロをまとい、ごつごつの汚れた手を持ち、毎日汗みどろになって労働する生活であっても、その毎日の生活を「自由で芸術的な精神」と、「自分を支えてくれるものに対する感謝」によって生きようとしているのなら、それはシュタイナーが目指した世界と同じなのです。(と、私は思っています。)なぜなら「自由な精神」も「芸術的精神」も「感謝の気持ち」も霊的な世界からやってくるものだからです。そして、その世界こそがR.シュタイナーがシュタイナー教育で子どもたちに伝えたいと思ったことなのではないでしょうか。それを認めなければ、日本のシュタイナー教育はただの「ファッション」になってしまいます。ただ、日本のシュタイナー教育も第二世代に入りつつあります。シュタイナー教育を受けた子どもたちがシュタイナー教育の教壇に立つようになってきているのです。彼らは大人達が語る「正解」にはとらわれません。小さい時からその世界にいた人間は、かえってその世界に対して批判的な目を持つものです。私は、彼らが日本のシュタイナー教育を「欧米の物まね」ではなく「日本のシュタイナー教育」に変えてくれるのではないかと期待しています。
2011.02.13
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「ゆりかご」(0才~2才までの親子遊びと子育ての連続講座)のチラシを作りました。夏休み造形ワーク「ゴム動力で作ろう」のチラシを作りました。いずれも会場は茅ヶ崎駅周辺です。**************************昨日は人は、孤独が生み出す苦しみから逃避するために事件を起こすのです。そして、現代人は重度の「孤独という病」にかかってしまっています。と書きました。実は人間にとっては、この「孤独」こそが一番苦しいものなのです。いじめられた子が自殺するのも、単に、ぶたれたり、意地悪されることが苦しかったからだけではなく、誰も助けてくれないという孤独の苦しみに耐えることが出来なくなったからなのです。ですから、イジメによる自殺の場合、「いじめた子」だけではなく、それを「傍観していた子」達にも非常に大きな原因があるのです。イジメの問題を話し合うと、必ず「あんなイジメは昔からあった」と言う人がいます。それはその通りです。ぶったり蹴ったりというイジメは昔から在りました。私の友達もよくいじめっ子から叩かれていました。でも、その「いじめられている子」がクラス全体の中で阻害されることはありませんでした。いじめている子は特定の「いじめっ子」と、その子をリーダーとする「いじめっ子グループ」だけで、他の子はそのいじめられている子に対して「普通の友達」として接していたのです。周囲の子ども達が「巻き添えを恐れて付き合わない」などと言うことはなかったのです。だから、いじめられる苦しみはあったでしょうが少なくとも孤独ではなかったのです。そのため、「いじめられたから自殺した」という話はあまり聞いたことがありません。現代における「イジメ」の本当の問題は、「いじめた子」だけの問題ではなく、「いじめた子と」と「いじめられた子」という個人対個人の問題だけでもなく、「クラスという一つの社会単位」の中の全体的な人間関係の問題なのです。そしてそれは大人の社会の縮図でもあります。今の子ども達を見ていると、昔の子ども達に比べ、子ども達一人一人のつながりが脆くなり、人間関係が不安定になってしまっています。うちの教室の子ども達を見ていても、20年前の子ども達は一緒に遊ぶことですぐに「仲間」になっていましたが、今の子ども達は一緒に遊ぶこと自体が苦手です。そして、一緒に遊んでいても「仲間」という関係にはならないようです。子ども達が遊んでいるところを見ていると、お互いに助け合うのではなく、みんな自分の利害ばかり主張しているのです。そして、自分の主張が受け入れられないと、「じゃあぼくやらない」と引き下がってしまうのです。大人の組織でも同じような状態です。学校の役員決めでも、みんなが逃げ回ってなかなか決まらないのは誰でも知っていることです。大人も子どもも、みんな自分を守ることだけに一生懸命なんです。そして自分だけ損をしたくないと思っています。このような人間関係の中でイジメが起きると、「かわいそうだな」「嫌だな」とは思っても、巻き添えを嫌って積極的な関わり合いは避けてしまいます。基本的に、今の子ども達はみんな孤独ですが、周囲が関わり合いを避けることで、その孤独がすぐに絶望に変わってしまうのです。じゃあ、「子どもや現代人がその孤独から抜け出すためにはどうしたらいいのか」ということです。実は、「孤独」は「心の問題」である以前に「からだの問題」なのです。赤ちゃんは暖かいぬくもりや、抱かれたり、触れ合いが少なくなると不安を感じます。でもそれが一時的なものなら、「一時的な不安」で終わってしまうのですが、日常的にそのような状態が続くとそれが「孤独」に変化していくのです。「継続的な不安」が人を孤独にするのです。そして、一度「孤独」が定着すると、なかなか抜けなくなります。「不安」そのものは一時的なものなのですが、「孤独」は持続的なものなのです。そして、「孤独」を感じるようになってしまった人は、どんなことにも不安を感じるようになります。そういうからだの状態になってしまっているからです。この状態になると、憂鬱質の人でなくても、憂鬱質の人と似たような状態になります。でも、本来の憂鬱質の人と違って、その状態がただ苦しいばかりで「憂鬱質の世界」を楽しむことは出来ません。そのような人は「聴覚」よりも「視覚」に依存しています。味わうことが出来ず、判断するだけです。全体を見ずに部分だけをみます。待つことが出来ません。待っていると不安になってしまうのです。ちなみに、これは「一人が好き」という状態とは異なります。一人が好きな人は孤独ではないか、孤独との向き合い方を知っている人です。そのような状態から抜け出すための一番簡単な方法は、まず呼吸に意識を集中していっぱい歩くことです。一見「歩くこと」と「孤独」とは無関係なことのように思われますが、実は歩く事には、「バラバラになった心をからだを統合する」という働きがあるのです。孤独な人は心とからだがバラバラになってしまっています。そして心とからだがバラバラになってしまっているから不安が強くなってしまうのです。ですから、それを統合する必要があるのです。こういう所にもお遍路さんの意味があるのです。「遍路」というのは昔の人の体験的な智恵なのだと思います。(ヨーロッパにもあります)呼吸法や瞑想も効果的ですが、指導者がいないとなかなか難しいと思います。また、歌うことや踊ることにも大きな効果があります。意識が「部分」から「全体」へと広がるからです。いっぱい歌ったり、いっぱい踊ったりすると、しばらくは小さいことが気にならなくなるものです。あと、色々なことに感謝の気持ちを持つことです。「自分一人だけの力で生きているんだ」と思っているから孤独になってしまうのです。「感謝の心」は「支えられている存在としての自分」への気付きを促します。素直に、色々なことや人に感謝できる人は孤独ではないのです。でもそのためには何らかの「学び」も必要になるでしょう。ここに書いたようなことは全て、豊かさや便利さと引き替えに、現代人の生活の中から失われてしまったものばかりです。
2013.08.19
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