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2025.01.27
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カテゴリ: イマジン
幕末日本の「識字率世界一」を支えた江戸時代の教育制度 都市だけでなく農村部で「寺子屋」が必要とされた理由



 初代岡山藩主の池田光政が1641年に開設した花畠教場の生徒は、8歳以上で前髪のある小生と、19歳未満で前髪を落とし済みの大生からなり、小生には習字、読書、習礼(礼儀作法の学習)、槍術、大生には四書五経、史書、乗馬、鉄砲、音楽を修業させた。

全国の諸藩で藩校の設立が盛んになるのは、財政再建や幣制改革が焦眉の急と化した18世紀中頃からだが、状況証拠からすると、どこもが花畠教場を手本にしたように見受けられる。特に寛政の改革が実施された18世紀末以降は、低い家柄の出身でも学識豊かで有能であれば要職に抜擢される例が珍しくなくなったので、利己的な目的で学問に励む藩士も増え始めた。

 ただし、藩校の教育内容も時代の要求に合った改変を免れず、内外情勢が緊迫を増し始めた同じく18世紀末以降、医学や天文学、西洋科学など、実学が増える傾向にあり、医師や儒学者、蘭学者などによる私塾の開設も盛んになった。

幕末の雄藩と言えば、薩長土肥の4藩が抜きん出た存在で、薩摩藩では第8代藩主の島津重豪が安永2年(1773年)に諸武芸を学ぶ演武館や医学を学ぶ医学院を併設した藩校の造士館を設立。第11代藩主の島津斉彬は教科に日本の古典や歴史、西洋科学など幅広い科目を加えさせた。「維新の三傑」に数えられる西郷隆盛や大久保利通、日清戦争と日露戦争時の日本海海戦で名を馳せた東郷平八郎も造士館の出身者だった。

 人材を輩出した点では長州藩の明倫館や肥前佐賀藩の弘道館も負けてはいない。弘道館からは明治政府で活躍する副島種臣、早稲田大学の創設者でもある大隈重信、「近代日本司法制度の父」と称される江藤新平らが巣立ち、吉田松陰が教鞭を執ったこともある明倫館からは明治の陸軍で重きをなした山縣有朋や「維新の三傑」の1人に数えられる桂小五郎(木戸孝允)らが巣立っていった。

これらの倒幕に走った諸藩の藩校や私塾には、ある共通点があった。儒学を教育の柱としながら、幕府が正統教学と認定した朱子学ではなく、異端とされた陽明学を重んじた点である。

 同じ儒学の中でも、中国・宋の朱熹(1130-1200)に始まる朱子学に対し、陽明学は明の王陽明(1472-1529)を開祖とする。幕府が朱子学を正統としたのは権威と秩序を重んじる教えだったからである。対する陽明学は自分が善、正義と信じることをとことん追求し、その思いを行動で表わすよう促す教え。既存の体制を揺るがす危険性を帯びていたのだから、幕府がこれを異端認定したのも無理はなかった。

 けれども、列強の艦船が頻繁に近海に出現する緊迫した状況下、既存の体制や秩序では危機を乗り越えることはできないとの危機感から、藩政改革に踏み出す藩もあった。その成功により、比較的経済的に余裕のある雄藩で、陽明学が広く受け入れられ、具体的な行動に出る者が続出したのは、260年続いた徳川幕府によるリスクマネジメントの失敗というより、時代の趨勢でもあった。



 江戸時代中頃以降、京都・大坂・江戸の三都と諸大名の城下町を中心に商業経済が浸透し、商家はなくてはならない存在と化したが、そこでは農家の二男以下を住み込みで雇う習慣が広まった。無給であらゆる雑用をこなす丁稚から、働きぶりや能力に応じて、手代、番頭と出世し、暖簾分けを許されるか、商家の主(旦那)に女子しかいない場合、娘婿として跡取りに選ばれる可能性もあった。

だが、いつまでも読み書きと算盤ができないのは店の恥でもある。そのため丁稚奉公の開始とともに、手代か番頭、旦那の夫人が読み書きと算盤を教えるのが当たり前となった。これが丁稚教育である。

 それに対して寺子屋は都市部の庶民だけでなく、農村の子弟をも対象とした初等教育機関で、農村部では僧侶や神官、都市部では浪人が教師を務めることが多かった。

 親が子を寺子屋に通わせた理由は都市部と農村部で異なる。都市部では向学心や詐欺被害の回避、および玉の輿を目指して箔をつけるのが主目的であったのに対し、農村部では村請制という制度への対応が最大の要因だった。

 兵農分離が徹底された江戸時代、武士とその家族は城下町に集住したため、年貢や諸役の徴収及び上納は村役人に一任された。

 村役人の呼称は地方によって異なるが、関東・東海・北陸では名主、組頭、百姓代の村方三役からなり、名主は村全体の責任者、組頭は名主の補佐役、百姓代は村民の代表に当たった。誰を三役とするかは農民たちの推薦や入れ札(投票)で決められ、現実には豪農や上層農民から選ばれたが、建前上は農民男性のすべてに可能性があった。

 選ばれたはいいが、読み書き算盤ができないのでは役目を果たせない。そんな醜態を避ける意味から、農村部でも寺社に場所を借りた寺子屋が普及したのだった。

ただし、子どもたちの学習意欲は概して低く、5年から8年間在籍しても普通の手紙文を書けるようになるのは10人のうち1人にすぎず、それ以外は日常で使う機会の多い祝儀や香典の書き方、人名、村名の読み書き覚えるのがせいぜいだったとする説もある。

 つまり、何をもって「識字」とするかで識字率の数字は大きく異なるわけで、教育史を専門とする八鍬友広(東北大学大学院教授)は著書『読み書きの日本史』(岩波新書)の中で、〈明治初期における識字状況は、自署という最低限の識字能力でみても、地域間の格差、および性による差異がきわめて大きかった〉としながら、幕末の状況はこれと大差なく、〈多くの村では、文通可能な男子人口は、一〇%程度〉だったと結論付けている。

 識字率の過大評価については、東京大学史料編纂所教授の本郷和人も同意見で、『婦人公論.jp』の記事中で、〈ネットなどを見ていると、江戸時代の識字率について70%とか80%とか、ものすごく高い数字を書いたものがありますが…。いくらなんでも無理があります〉、〈幕末に平均して20%台の識字率があったようなので、江戸時代でもそのあたりが妥当ではないでしょうか。それでも当時“世界一”の識字率であったことは間違いありません〉と語っている(2025年1月19日付『本郷和人『べらぼう』蔦重が活躍する江戸時代に人口が激増。平和な日々で庶民が励んだのは<子育て>と…当時の日本が「識字率世界一位」になれたワケ』)。

 実際に日本人の文通可能なレベルの識字率が9割以上に達したのは、明治19年(1886年)の小学校令の施行に伴い、本格的な義務教育がスタートして以降のこと。義務教育を受けた子供たちが親世代、祖父母の世代になった頃だった。






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最終更新日  2025.01.27 19:06:20


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