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福地美晴が演じる松野トキ(少女)松野家の一人娘家族のこと怪談を聞くことそして母のフミが作るしじみ汁が大好きシジミ汁のんでトキ「あーー・・」父から「はしたない」と叱られる「しじみ汁は松江人の血トキが大好きな松野家のしじみ汁しじみも味噌も松江のもの」「出汁には他のものは一切使わず100%しじみ出汁体に染み渡るしじみの旨味思わず『あーっ』と声が出る」♥天才子役演技を感じさせない自然さ👏コメディアンヌの才能もある!!ヒロイン、トキ(福地美晴さん)の松野家は、父・司之介(岡部たかしさん)が明治の世になっても、武士の誇りが捨てられず、働くことができない状態が続く。第2回は、小学校で将来の夢を聞かれたトキが、親友の野津サワの答えに影響され、教師を目指したいと言い出したことで広がる余波が描かれた。 トキは、お茶の稽古をつけてもらうため親戚の雨清水家を、母のフミと訪問。大勢の女中たちに囲まれ何不自由なく暮らす雨清水タエ(北川景子さん)と、夫の傳(堤真一さん)が初登場。 テレビ画面の前にいる人のうち、画面を実際に注視している人の割合を調べた「注目度」は、何度か乱高下しながら、大きな“山”を2度作った。ただ、その“山”は、第1回で最高値だったオープニングでも、タエや傳の印象的な登場シーンでもなかった。 最初の“山”は、ドラマ開始から徐々に上昇し、迎えた午前8時3分の67.5%。松野家の夕食中、トキが「お話があるのですが」と家族に切り出すと、「先生」と書かれた半紙を手に「私、小学校の先生になろうかと」と宣言する。「なんじゃい、やぶからぼうに」と言っていた司之介だったが、次のトキの言葉でぐうの音も出なくなる。「そげしたら、父上も、おじじ様も武士のままでいられますでしょ。もう少々お待たせしますが、がんばりますけん、ずっと武士でいてごしなさい」 ここまでが午前8時3分台。4分台で、「なるほど、よき娘に育ちましたねえ」とつぶやくフミの反応などがあって、オープニングに入る。次の“山”は、第2回の最高値、午前8時11分の68.6%と、続く12分の68.2%。雨清水家で、まげを落とし、ざんぎり頭で商売を始めると言い出した傳の姿を見たトキが、帰宅後、母のフキと話し始める場面だ。 「おじさまのような父上がよかったなあ」。雨清水家から頂いたお菓子を食べながら話すトキ。「くれぐれも父上の前で口にするんじゃありませんよ」とフキにたしなめられるが、「おじさまはあまりにステキ。なして、うちの父上は何というか、あげな、あげな……」とぼやいているさなかに、司之介が帰ってくる。「ただいま帰りました。あげな父上がただいまー」。そんなコントのような、楽しい家族の一場面がこの日の最高値だった。
2025.09.30
田中将大が日米通算200勝達成 渾身の85球で6回2失点…“王手”から4度目の挑戦で大記録9/30(火)巨人 4ー2 中日(30日・東京ドーム) 巨人の田中将大投手が30日、本拠地での中日戦に先発。6回2失点の好投で今季3勝目を挙げ、王手をかけてから4度目の挑戦で日米通算200勝の大記録を達成した。勝利が決まると笑顔でガッツポーズを見せ、幼馴染であるチームメートの坂本勇人内野手から花束が手渡された。初回に3点の援護をもらうと、2回まで無失点と快調な立ち上がりを見せた。3回に細川に右中間へ20号2ランを浴びて1点差とされたが、その後は立ち直り、5回を投げ抜いて勝利投手の権利を得た後も続投。6回を3者凡退に仕留めると、ベンチに戻って阿部慎之助監督とグータッチを交わし、笑顔を見せた。今季最長タイの6回85球を投げ、4奪三振、4安打2四球2失点という見事な内容だった。 7回からは田中将に勝利を届けるため4人が継投。再三にわたり得点圏に走者を抱えるも、守護神のマルティネスが8回途中から回跨ぎで投げる執念の継投で失点を許さず、9回2死で辻本を空振り三振に仕留めると、田中将もベンチで笑顔を見せて両手でガッツポーズ。グラウンドに出てファンの大歓声に応えると、坂本とハグを交わした。 2021年に楽天に復帰し、3年間で計20勝を挙げるも、昨季はわずか1登板で未勝利に終わり、オフに退団。巨人に入団した今季は、試合前時点で9試合に先発登板。2勝4敗、防御率5.31としていた。 8月21日のヤクルト戦で今季2勝目を挙げ、日米通算200勝に王手をかけたが、それ以降は3連敗を喫して足踏みが続いた。前回登板となった9月21日の中日戦では、5回1/3を5失点と踏ん張りきれなかった。 日米通算200勝を達成したのは過去にダルビッシュ有、黒田博樹、野茂英雄の3人。田中将はここまでメジャーで78勝、NPBで121勝をマークしてきた。 既に3位でクライマックスシリーズ進出を決めている巨人は、10月1日の中日戦でレギュラーシーズンの143試合を終える。この日が今季中の日米通算200勝達成に向け、実質的なラストチャンスだったが、見事に結果を出した。
2025.09.30

ウクライナのドローン猛襲がロシア経済に打撃 現代版「ダビデの投石」、巨人の急所を撃つウクライナがロシアに対する航空作戦を激化させている。ロシア国内の製油所を破壊するだけでなく、ロシアの経済インフラや政治エリート層の脆弱さを露呈させることも狙いだ。9月9日には、ウクライナのドローン(無人機)が黒海沿岸のソチを襲った。そこでは数時間前に、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領が会合を行ったばかりだった。3日後の9月12日、ウクライナのドローンはロシア北西部レニングラード州のプリモルスク港を初めて攻撃した。サンクトペテルブルクに近く、ロシア西部で最大の原油積み出し港である同港は、一時的に操業停止に追い込まれた。ドローンの脅威のためにサンクトペテルブルク市内のプルコボ空港も閉鎖された。ウクライナのドローン攻勢は、燃料危機の深刻化やインフレの加速を通じてクレムリンに対する圧力を強めている。ロシアの国土は11もの時間帯にまたがっており、皮肉にもこの広大さこそがウクライナのドローン攻撃に対する防御で最大の弱点になっている。「製油所への攻撃と鉄道への攻撃が相まって、ロシアの製油能力の17~21%が機能不全に陥っています」製油所に対する攻撃は、クレムリンの軍資金の流入元を締め上げるとともに、ロシアのすでに逼迫している経済にさらに圧力を加えることを目的としている。「ロシア国内の燃料価格はおよそ25%上がっていて、燃料不足はとくに遠隔の地域や(占領下のウクライナ南部)クリミアで深刻です」「ウクライナによる攻撃はロシアの経済と軍の脆弱さを浮き彫りにし、『成功』を主張するプロパガンダを掘り崩し、国民の不満を高めています」ゼレンスキー大統領は9月14日、ロシアの石油施設に対する攻撃は「最も効果的な制裁」だと述べた。ウクライナは、最も大きな混乱が起こるようなタイミングを見計らってドローンの群れを飛来させている。ドイツにあるカーネギー国際平和財団ロシア・ユーラシアセンターのセルゲイ・バクレンコ上級研究員は、ドローン攻撃によって空の便や鉄道が乱れるために車を利用する人が増え、その結果、ガソリンの需要も押し上げられていると指摘している。こうした動きはとくに、モスクワと黒海沿岸を結ぶルートで顕著だという。ウクライナ国防省情報総局(HUR)の関係筋は2024年1月、地元メディアのウクラインシカ・プラウダに、HURのドローンがサンクトペテルブルクの石油貯蔵施設を攻撃したことを認めたうえで、「今後、サンクトペテルブルクとレニングラード州の軍事施設はウクライナ部隊の攻撃範囲に入る」と言明した。米シンクタンク、ハドソン研究所のルーク・コフィー上級研究員は筆者のインタビューで「ロシアの戦略的資産は歴史を通じてその国土の広大さでした」と説明した。しかし、その「資産」は、ウクライナのドローン戦力が拡大するにつれて、急速に「負債」、つまり不利な点に変わってきている。「単純に、ロシアはどこもかしこも守れるほどの装備や能力を欠いているのです」ウクライナのオレクシー・レズニコウ元国防相は米紙ウォールストリート・ジャーナルに「現代の戦争は資源の戦争」だと述べたうえで、「ウクライナはゴリアテの弱点を見つけようとしているダビデ*なのです」*「8 ゴリアテは立ってイスラエルの戦列に向かって叫んだ、「なにゆえ戦列をつくって出てきたのか。わたしはペリシテびと、おまえたちはサウルの家来ではないか。おまえたちから、ひとりを選んで、わたしのところへ下ってこさせよ。9 もしその人が戦ってわたしを殺すことができたら、われわれはおまえたちの家来となる。しかしわたしが勝ってその人を殺したら、おまえたちは、われわれの家来になって仕えなければならない」。」(サムエル記上17章8、9節)ペリシテ人の中には、ゴリアテという巨人がいました。ゴリアテは身長が3m近くもあるうえに、青銅のかぶと57キロのよろい青銅のすね当て7キロの鉄がついた青銅の投げ槍を装備している「32 ダビデはサウルに言った、「だれも彼のゆえに気を落してはなりません。しもべが行ってあのペリシテびとと戦いましょう」。」(サムエル記上17章32節)ダビデは1つの杖と、石が5つ入った石投げだけを持ってゴリアテのところへ向かった「49 ダビデは手を袋に入れて、その中から一つの石を取り、石投げで投げて、ペリシテびとの額を撃ったので、石はその額に突き入り、うつむきに地に倒れた。 50 こうしてダビデは石投げと石をもってペリシテびとに勝ち、ペリシテびとを撃って、これを殺した。」(サムエル記上17章49、50節)
2025.09.30
2025年後期NHK朝ドラ『ばけばけ』で、主人公・松野トキの幼少期を演じているのは、10歳の子役の福地美晴(ふくち・みはる)さん演技は自然でのびやか。純真さと芯の強さをあわせ持った表情が印象的で、すでに「次世代のスター子役」と評されるほど。SNS上でも「目の表情だけで感情が伝わってくる」「本当にトキという人物が生きているみたい」と絶賛福地さんは2023年、人気ミュージカル『SPY×FAMILY』でアーニャ役を演じ俳優デビュー。その無邪気さと舞台度胸で一気に注目を集めました。
2025.09.30

久しぶりに妻と江ノ電で鎌倉にお出かけ。小町通りの横道にオープンしている 「鎌倉紅谷 小町横路店」“クルミッ子”のカフェでコーヒーと限定スイーツをいただき、先日、大きなみずみずしい梨を送ってくれた友人に、「くるみっこ盛り合わせ」を宅配便で送る。ミッフィーおやつ堂で 孫のために ミッフィーの洗濯できる ぬいぐるみ(孫が口に入れても大丈夫なように)を購入。
2025.09.30
大日本報徳社の「報徳」(2025年10月号)が届いた鷲山社長の巻頭言のテーマは「久遠の光 求めつつ 貴く生きん もろともに」青年団運動の田澤義輔について『次郎物語』に静岡県清水の杉山部落に行く事情が描かれている。下村湖南の「次郎物語」で杉山部落が取り上げられています。友愛塾で朝倉先生のもとで研鑽を励んでいた次郎は塾生達みんなと静岡県に旅行に行くのです。「最初の目的地は、静岡県のH村だった。この村にはKという友愛塾の第一回の修了生がいて、村生活に大きな役割を果たしているということが、すでに早くからたしかめられていた。朝倉先生としても、次郎としても、ぜひ一度はたずねてみたい村だったのである。 みんなは、H村につくと、まず小学校の一室に招(しょう)ぜられた。そこには村の青年たちばかりでなく、村長以下のあらゆる機関団体の首脳者が集まっていて、歓迎してくれた。儀式ばった歓迎では決してなかったが、顔ぶれがあまり大げさなので、朝倉先生がK青年にそのことをそっとただしてみると、かれはこたえた。「この村では、一つの機関や団体が何かいい催しをやると、他の機関や団体もいっしょになって喜んでくれ、できるだけの応援をしてくれるんです。今日も私のほうからむりにお願いして集まってもらったわけではありません。」 いちおうあいさつがすみ、お茶のごちそうになると、陽(ひ)のあるうちに村中の諸施設を見学した。そのあと、また小学校に集まって、村の青年たちと夕食をともにし、座談会をやったが、ただ場所がちがっているというだけで、気分ははじめから終わりまで友愛塾そっくりだった。この村の青年たちは、すでに友愛塾音頭(おんど)までを、塾生たちといっしょにじょうずにおどることができたのである。 ふんだんに用意してあった夜具にくるまって一夜をあかし、翌朝早くこの村をたったが、塾生たちのこの村からうけた印象は、なごやかな空気の中にみなぎっている生き生きした創意工夫と革新の精神であった。なお、わかれぎわに、村長が朝倉先生に私語した言葉は、それをはたできいていた塾生たちに、異常な感銘(かんめい)を与(あた)えたらしかった。村長は言った。「この村をごらんになって、何かいいことがあったとしますと、その半分以上は、実はK君の力ですよ。K君は、自分ですばらしいことを考えだしておいて、それを実施する場合には、だれかほかの人を表面に立てるんです。私が村長としてこれまでやって来たことも、たいていはK君の入れ知恵でしてね。ははは。」 第二日目は、報徳部落として全国に名のきこえた、同県の杉山部落の見学だった。杉山部落は、歴史と伝統に深い根をもち、すでに完成の域にまで達しているという点で、新興革新の気がみなぎっているH村とは、まさに対蹠的(たいしょてき)だった。明治維新ごろまでは乞食(こじき)部落とまでいわれた山間の小部落が、今では近代的な組合の組織を完成し、堂々たる事務所や倉庫や産業道路などをもつに至ったその過去は、塾生たちにとって、まさに一つの驚異であった。 かれらはめいめいに自分たちの村の貧しい光景を心に思いうかべながら、この富裕な部落をあちらこちらと見てあるいた。ほとんど平地にめぐまれないこの部落の人たちは、過去数十年間の努力を積んで、山の斜面を残るくまなく、茶畑とみかん畑と竹林とにかえてしまったのである。その指導の中心となったのは片平一家であるが、すでに70歳をこしていると思われる当主九郎左衛門翁(くろうざえもんおう)の、賢者を思わせるような風格に接し、その口から報徳社の精神と部落の歴史とをきくことができたのも、塾生たちの大きな喜びであった。 」 次郎たちはこの後、清水の鉄舟寺に向かいます。この次郎物語の記述に対して、2004年11月9日開催の日本児童文学会大会で東京学芸大学の鷲山学長はこのように言われています。「私は静岡県の出身ですが、『次郎物語』も少し静岡県と縁があって、「第5部」の青年団運動の指導者の「田沼先生」というのは、湖人の親友の田沢義輔がモデルといわれますが、この人は静岡県の安部郡の郡長をした方でした。 終わりの所は、2・26事件の後に、自由主義的な青年団運動は弾圧されるのですが、最後に全国行脚をして、全国に散らばった同志たちと座談会を持とうということになって旅に出るのですが、報徳部落として知られる清水の杉山部落を訪れるところがあります。 乞食部落といわけた杉山部落を、二宮尊徳の報徳思想で立て直し、近代的な産業組合を持つ豊かな村に作り替えたという話は、よく聞かされて知っていましたが、この小説の中に、指導者の片平九郎左右衛門という名も載っていて、これは中学時代には全く気付かなかったことでした。その場面に「H村のK君」という名前が出てくるのですが、「おそらくこれは初倉村の河村七太郎さんのことだろう」と父に言われて、これにも驚きました。当時の農村では、疲弊した村の立て直しが深刻な共通課題で、篤農家や活動家が、修養会や先進的な各地の視察などを通じて知り合になり、情報を交換しつつ、あの人があのように頑張っているから、おれたちも頑張ろうと村の立て直しに奮闘し合っていたことがわかります。」
2025.09.30
トランプ氏、ガザ戦争終結へ20項目のプラン発表ドナルド・トランプ米大統領とイスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相は29日、ホワイトハウスで会談した。会談後、ホワイトハウスはパレスチナ自治区ガザの戦争終結に向けた20項目の和平プランを公表した。イスラム組織ハマスに対して72時間以内に人質全員の解放と遺体の返還に応じるよう求め、パレスチナ国家樹立への可能性を残した。この提案は、約2年にわたるガザ戦争の終結に向けた米国のビジョンと位置づけられている。トランプ氏は1月のホワイトハウス復帰以来、ガザの戦闘停止を和平努力の柱としてきた。トランプ氏は首脳会談後の共同記者会見で、和平合意に「非常に近づいている」と述べた。ハマス側はこの提案をまだ受け入れていない。トランプ氏は「ハマスも合意を望んでいると聞いており、良いことだ」としつつ、ハマスが計画を拒否する可能性にも言及した。ネタニヤフ氏を愛称で呼び、「(ハマスが)受け入れなければ、ビビ、あなたは必要なことを行うために、米国の全面的な支援を受けることになる」と話した。ガザ戦争開始以来、米政権はたびたび和平合意に近づいているとしてきたが、交渉は難航している。この提案は「ガザの再建・復興を目指すトランプ大統領の経済開発計画」が完成するまでの間、人道支援を拡大することも求めている。アナリストらによると、今回の計画にはハマスにとって受け入れがたい項目がいくつかある。特に、ハマスによるガザ支配を一切容認せず、トンネルなどハマスのインフラを破壊するよう求めている項目だ。和平計画の発表に先立ち、イスラエルとアラブ諸国は文面の修正を求めていた。最終版では2国家解決についての文言を和らげるなど、イスラエルが求めていた複数の変更が反映された。トランプ氏との首脳会談の一環として、ネタニヤフ氏はカタール首相に電話をかけ、ハマス幹部を標的とした今月のドーハ攻撃で同国の主権を侵害したことを謝罪した。事情に詳しい関係者によると、ネタニヤフ氏はカタールの警備員が殺害されたことに遺憾の意を表明した。ホワイトハウスが公表した電話会議の記録によると、ネタニヤフ氏は停戦交渉中にドーハを攻撃したことについても遺憾の意を表した。「イスラエルは今後、このような攻撃を二度と行わない」と約束した。関係者によると、ネタニヤフ氏は28日、計画の主要項目で合意するため、米国のスティーブ・ウィットコフ中東担当特使、およびトランプ政権1期目で中東政策の顧問を務めたトランプ氏の娘婿ジャレッド・クシュナー氏と複数回にわたり会談した。アラブ当局者や事情に詳しい関係者によると、イスラエルは新たな提案について、国際部隊の任務や権限、ガザの戦後統治でパレスチナ自治政府が担う役割など、修正を求めて複数の問題を提起した。一方、サウジアラビアとエジプトは2国家解決への明確な道筋に加えて、ガザの戦後統治でパレスチナ自治政府が重要な統治役割を果たすことを求めている。アラブ当局者によると、2国家解決への明確な道筋がなければ、サウジは計画に資金を提供する可能性は低い。29日の米・イスラエル首脳会談に合わせ、カタール、サウジアラビア、アラブ首長国連邦(UAE)など複数のアラブ諸国当局者は関連会議に出席するとみられる。
2025.09.30

肉食外来魚「コウライオヤニラミ」が爆発的に繁殖 駆除作戦は「釣って、食って」9/29(月) 宮崎県の川で肉食の外来魚が爆発的に増えていて、在来魚など生態系に危機が迫っています。そこで、市民を巻き込んだ大規模な捕獲作戦が行われました。27日、宮崎県都城市を流れる大淀川で行われた釣り大会。およそ100人の釣り人が狙っているのは、外来魚の「コウライオヤニラミ」です。参加者「うれしかった。またいっぱい釣りたい」 朝鮮半島原産の肉食の淡水魚「コウライオヤニラミ」。元々、日本には生息していませんでしたが、2017年に大淀川で初めて確認され、群馬県の利根川水系でも発見されています。観賞用に輸入されたものが放流されたとみられます。 宮崎県では絶滅危惧種の「オオヨドシマドジョウ」など豊かな生態系への影響が心配されていて、先月には電気ショッカーを使った捕獲作業が行われました。 今回は、市民の手を借りながら、釣り大会というユニークな形での駆除作戦です。NPO法人 都城大淀川サミット宇都年文理事長「去年(の調査で)爆発的に拡大・繁殖していたので、県民への啓発活動という形で計画した。やっぱり、競い合った方が興味が湧くかなと」
2025.09.30
195二宮翁夜話巻の2【33】俗儒があった。尊徳先生の愛護を受けて、儒学を子弟に教えていた。ある日近村に行って大酒を飲んで、酔って道傍にふして醜体を極めた。弟子のある子は、これを見て、翌日から教えを受けに来なかった。儒生は憤って、先生にこう言った。「私の行いが不善はいうまでもない。しかし、私が教えるところは聖人の書である。私の行いが不善を見て、あわせて聖人の道を捨てるという理屈があろうか。あなたが説諭して、再び学ぶように来させてください。」とこうた。尊徳先生はおっしゃった。「あなたは憤ってはならない。私がたとえをもってこれを解説してあげよう。ここに米があるとする。ご飯に炊いでで糞桶に入れて出したとして、君はこれを食べるか。もとは清浄な米飯であることは疑いない。ただ糞桶に入れただけである。しかし、人がこれを食べる者はない。これを食べるのはただ犬だけであろう。君が学問もまたこれと同じだ。もと光り輝く聖人の学だが、あなたが糞桶の口から講説するために、子弟が聴かないのだ。その聴かないのを不理というか。あなたは中国の産れだと聞いた。誰に頼まれて、この地に来たのか。また何の用事があって来たのか。家を出ないで、教えを国になすのが聖人の道である。今ここに来て、私の食客となる、これは何のためか。口腹を養うだけであれば、農商をなせばよかろう。あなたは何のために学問をしているのか。」儒生は言った。「私が過っていました。私はただ人に勝つ事だけを欲して読書していました。私は過っていました。」と言って謝して去っていた。【33】俗儒あり、翁(をう)の愛護を受けて儒学を子弟に教ふ、一日近村に行つて大飲し酔ふて路傍に臥し醜体を極めたり。弟子某氏の子、是を見て、翌日より教へを受けず、儒生憤りて、翁に謂ひて曰く、予が所行の不善云ふまでにあらずといへども、予が教ふる処は聖人の書なり、予が行(おこなひ)の不善を見て併はせて聖人の道を捨つるの理あらんや、君説諭して、再び学に就かしめよ、と乞ふ。翁曰く、君憤る事なかれ、我れ譬へを以て是を解せん、爰(ここ)に米あり、飯に炊(かし)いで糞桶(くそおけ)に入れんに、君是を食はんか、夫れ元清浄なる米飯に疑なし、只糞桶に入れしのみなり、然るに、人是を食する者なし、是を食するは只犬のみ、君が学文(がくもん)又是におなじ、元赫々(かくかく)たる聖人の学なれども、卿(きみ)が糞桶の口より講説する故に、子弟等聴かざるなり。其の聴かざるを不理と云ふべけんや、夫れ卿は中国の産(うまれ)と聞けり、誰(たれ)に頼まれて此の地に来りしぞ、又何の用事ありて来りしや、夫れ家を出でずして、教へを国になすは聖人の道なり、今此処(ここ)に来りて、予が食客となる、是れ何故(なにゆゑ)ぞ、口腹を養ふのみならば、農商をなしてたるべし、卿(きみ)何故に学問をせしや。儒生曰く、我過てり、我只人に勝たむ事のみを欲して読書せるなり、我過てり、と云ひて謝して去れり。
2025.09.30
31 「鈴木藤三郎伝」鈴木五郎著 144~145ページ 台北に1週間滞在して、その間に総督府を訪ねて、台湾の糖業の状態を聞いたり、参考資料を借りたり、又本島人の白糖製造所を視察したりした。この知識が、数年後の台湾製糖会社創立の時に非常に役に立った。 藤三郎は5月1日に基隆(キールン)港から釜山港に乗って、午後5時に出帆した。船は4日長崎、5時門司、6日宇品に寄港して、7日御前7時に神戸に入港した。上陸するなり「無事帰着」の電報を、東京本社や森町の福川泉吾、姉婿の村松七平、妻の父の比奈地休三郎、岡田良一郎に打った。午後6時神戸発の汽車で東京に向かった。8日の午後2時に横浜へ着くと、安間熊重、安部幸兵衛ら4,5の人々が出迎えていてくれたので、一時下車して西村旅館で休息した。そして、午後3時30分再び乗車して、4時25分に東京新橋駅に着いた。駅には長尾社長、吉川取締役をはじめ社員、職工や知人が多数出迎えていてくれたので、人力車を連ねて日本橋倶楽部に打って、出迎え人一同に帰朝のあいさつをして、小名木川の自宅へ帰ったのであった。5月1日 晴 70度 午前11時まで日誌をしたためる。そして午後4時より釜山丸に乗り込み、同5時基隆港を出船する。この夜風雨のために船体は大いに動揺した。5月2日 曇り 前日より引き続き風浪のため船体の動揺ははなはだしい。5月3日 晴 この日は波が静かで異状なし。5月4日 晴 午前8時無事長崎港に着船する。これより私は同乗客の大阪の砂糖商香川氏、共立物産会社台南支配人大喜吉平氏と共に上陸して長崎市を見物する。午後5時本船に帰る。これより直ちに同港を出船する。5月5日 晴 午前8時長崎馬関港に着船する。これより以上の両人とまた上陸して市内を見物する。午後5時本船に帰り、これより直ちに出船した。5月6日 晴 午前6時宇品港に着く。これより香川氏と上陸して市内を見物する。またこれより広島市に行き、当日は招魂祭日であり、旧場内で盛んなお祭りを見る。正午12時本船に帰る。これより午後1時出船する。5月7日 雨降 午前7時和田ヶ崎に至る。このとき検疫医が来て乗客を検査し、これより更に進行して午前8時30分無事神戸港に着船する。これより直ちに上陸して海岸の安場旅舎に宿をとる。ここで東京本社及び遠州森町福川泉吾・村松七平・比奈地久三郎・岡田良一郎諸氏へあてて、無事着の電報を発する。午後6時発の汽車で当地を発する。5月8日 晴 午後2時横浜へ着く。ここで安間氏。中村氏及び安部・坪井諸氏の出迎えに会う。よって横浜に一時下車し、西村旅舎で休息し、3時30分当地を発車し4時25分無事に東京新橋に着く。このとき社長・取締その他社員職工一同及び親しい諸氏数人の出迎えに会い、これより腕車で日本橋クラブに行き、ここで出迎えの一同へ挨拶をして、そして直ちに小名木川の自宅に着く。(「米欧旅行日記」の原本は森町立歴史民俗資料館が所蔵している) 明治29年(1896年)7月14日に横浜を出帆してから、30年5月8日に帰京するまで、まる11か月にわたって地球を完全に一周するの大旅行であったが、全く無病息災で使命を果すことができたのは、天佑といわなければならない。藤三郎は、この洋行によって名実ともに、当時のわが国の製糖業界の第一人者となった。 藤三郎は日記の終りに、この旅行中に汽船や汽車に乗ったマイル数を記しているが、それによると、この旅程の総計は31,784マイル半で、その内訳は21,175マイルが海路で、10,609マイル半が陸路である。この総日数299日は、船または汽車の中にいたのであって、ロンドンその他の滞在日数を加えると、まる11カ月にわたった。この洋行の総費用は金7,010円8銭5厘であった。当時の優秀船で日本横浜から、太平洋、米大陸、大西洋を横断して英国ロンドンまでの上等通し切符代は、金468円73銭であったことから、最後の神戸から東京新橋までの上等汽車賃が金11円25銭であったことまで、全費用を明細に記入した帳簿が今も残っていて、放胆であった反面細心であった彼の性格を、よく物語っている。
2025.09.30
195二宮翁夜話巻の2【29】尊徳先生が弁算和尚に問うておっしゃった。「仏が一代の説法は無量である。しかしながら、区々の意あるわけではなかろう。もし一切の経蔵に一言で題する時はどう言えばよいか。」弁算和尚は答えて言った。経典に「諸悪莫作(しょあくまくさ:もろもろの悪をなすなかれ)、衆善奉行(しゅぜんぶぎょう:もろもろの善を実践せよ)という。この二句をもって、万巻の一切経を覆うことができよう。」先生はおっしゃった。「そのとおりだ。」【29】翁、僧弁算(べんさん)に問ふて曰く、仏一代の説法無量なり、然りといへ共、区々の意あるべからず、若し一切経蔵に題せん時は如何(いかん)。弁算対へて曰く、経に、諸悪莫作(しょあくまくさ)、衆善奉行(しゆぜんぶぎやう)、と云へり、此の二句以て、万巻の一切経を覆ふべし。翁曰く、然り。【27】 翁曰く、仏書に、光明遍照(こうみやうへんせう)十方世界、念仏衆生(ねんぶつしゆじやう)摂取不捨(せつしゆふしや)といへり。光明とは太陽の光を云ふ。十方とは東西南北乾(いぬゐ)坤(ひつじさる)巽(たつみ)艮(うしとら)の八方に、天地を加へて十方と云ふなり。念仏衆生とは、此の大陽の徳を念じ慕ふ、一切の生物を云ふ。夫れ天地間に生育する物、有情(うじやう)蠢動(しゆんだう)の物は勿論、無情の草木と雖(いへども)、皆大陽の徳を慕ひて、生々を念とす。此念ある物を仏国故に念仏衆生と云ふなり、神国にては念神(ねんしん)衆生と読むべし。故に此の念ある者は洩さず、生育を遂させて捨て玉はずと云ふ事にて、太陽の大徳を述べし物なり。則ち我が天照大神(あまてらすおほみかみ)の事なり。此の如く太陽の徳は、広大なりといへども、芽を出さんとする念慮、育てんとする気力なき物は仕方なし。芽を出さんとする念慮、育たんとする生気ある物なれば、皆是を芽だたせ、育たせ給ふ、是れ太陽の大徳なり。夫れ我無利足金貸附の法は、此の太陽の徳に象(かたど)りて、立てたるなり。故に如何なる大借といへ共、人情を失はず利足を滞りなく済し居る者、又是非とも皆済して他に損失を掛じ、と云ふ念慮ある者は、譬へば、芽を出したい、育ちたいと云ふ生気ある草木(くさき)に同じければ、此の無利子金を貸して引立べし。無利子の金といへども、人情なく利子も済さず、元金をも蹈倒(ふみたふ)さんとする者は、既に生気なき草木に同じ、所謂(いはゆる)縁無き衆生なり。之を如何(いかに)ともすべからず、捨て置くの外に道なきなり。
2025.09.29
31 藤三郎は、6日の午後4時にフランス船セダン号でシンガポールを出帆して、13日朝8時に香港に入港した。彼は、ここで下船して、香港市中を見物してから、同地の砂糖商である広万泰店に行って、主人の安天に面会した。14日は午前9時から三井物産会社香港支店に行って、支配人の呉大五郎や社員の幡生から当地の砂糖の商況や見本を見せてもらって、海岸にある倉庫に行って、砂糖在荷の様子や荷造りの模様などを実見した。午後5時から広万泰に、中華料理へ招待された。同店は、日清戦争の時に藤三郎に助けられたことがあるので、席上では中国人形の余興までして非常に歓待をした。欧米の料理になれた藤三郎の舌も、中華料理の言葉通りの山海の珍味には、ひと巻もふた巻もしない訳にはゆかなかった。それから数日は、香港市内を見物したり商況を調査して過した。4月13日 晴 78度 進行180マイル 午前8時無事香港に着く。これより私は、加藤・大前・乙宗・後藤諸氏と上陸して東洋館に宿をとる。そしてまた諸氏とケーブルカーに乗り山頂に上り、四方を展望する。これより日本領事館に行き、午後4時、以上の諸氏はまた本船に乗り込む。午後5時30分日本に向かって出船せり。午後3時より広万泰店に行く。主人安天氏に面会する。4月14日 晴 68度 午前9時より三井物産会社に行き、支配人呉大五郎氏に面会する。また社員幡生氏について当地砂糖の成行及び見本等を見る。午後3時より海岸の倉庫に行き、砂糖在荷及び荷造り模様等を実際に見る。5時より広万泰の招待により中国料理店に行き、この席で中国人形の余興があった。また特に精選の中国料理で実に山海の珍味なり。夜11時宿に帰る。4月15日 曇り 67度 午前8時東京深川乙商店の手代林氏外4名及び陸軍大尉小沢某等宿をとる。この日は以上の諸氏と当市内を散歩見物する。4月16日 雨降 65度 午前9時より日本商店日森商店へ行き、大坂共立物産会社香港出張員今川平兵衛氏に面会して当港の砂糖の成行その他取引の模様の一切を聞く。午後6時より三井物産会社の幡生氏が来て、同氏の案内で支配人呉氏の住宅に行き、日本料理の饗応を受ける。この席で逓信省南洋巡回員榊氏と同席する。夜11時30分帰る。4月17日 雨降 65度 午前9時より広万泰に行き、砂糖の見本数種を見る、ここで主人及び婦人に私は近日台湾に渡航する旨を語って暇乞いをする。これより正金銀行に行き、金500円を受け取る。 藤三郎は4月18日の日記に、「九時よりボーイを案内として、シヤーデン・マゼソン製糖所を外見す。是よりまた太古製糖所に行き、山頂に登り工場の模様を望見す。而して当地公園を散歩して、午後五時帰宿す。」と書いている。当時、日本で消費する精製糖は、80パーセントまで香港から輸入されていたのであるから、ここの精製糖工場は、彼としては、どんな困難があっても詳しく参観も調査もしたい所だった。しかし、アメリカのシカゴ・シュガー・ミル会社でさえ「コワイ、コワイ」と縦覧を拒絶された位だから、この直接の競争相手には、とうてい取りつくしまもなかった。 藤三郎は4月18日の日記に、「九時よりボーイを案内として、シヤーデン・マゼソン製糖所を外見す。是よりまた太古製糖所に行き、山頂に登り工場の模様を望見す。而して当地公園を散歩して、午後五時帰宿す。」と書いている。当時、日本で消費する精製糖は、80パーセントまで香港から輸入されていたのであるから、ここの精製糖工場は、彼としては、どんな困難があっても詳しく参観も調査もしたい所だった。しかし、アメリカのシカゴ・シュガー・ミル会社でさえ「コワイ、コワイ」と縦覧を拒絶された位だから、この直接の競争相手には、とうてい取りつくしまもなかった。当時、『汽車は出て行く、煙は残る。残る煙がしゃくのたね』という流行歌があったが、藤三郎も太古製糖所の煙突から勢いよく出ている煙を、はるかに山の上から眺めて、「しゃくのたね」と実感したことだろう。そのつかえは、あとで公園をブラブラした位では、とても解けなかったに違いない。 藤三郎は4月20日に汽船海門(ハイモン)号に乗って、香港を出帆した。21日は、仙頭(スワトウ)港に、22日には厦門(アモイ)に寄港して、23日午後2時、新領土になったばかりの台湾の淡水港に着いたので上陸した。24日午前9時に川蒸気船に乗って、11時に台北市に着いた。台北に1週間滞在して、その間に総督府を訪ねて、殖産課長の高橋昌や糖業主任の豊島栄から産糖の情況を聞いたり、『台湾産業取調』という報告書3冊を借りて読んだり、三井物産会社出張所で支配人代理の友野欽一から商況を聞き、また本島人の白糖製造所を視察したりした。この知識が、数年後の台湾製糖会社の創立のときには非常な役に立った。 4月19日 晴 69度 この日午後1時より日本領事館に行き、清水領事に面会して談話すること4時まで、これより宿に帰って明日出発する用意をした。この夕方三井社員幡生氏が来て台湾の同社支店あて添書を付与される。4月20日 晴 70度 午前9時旅館東洋館を出発して汽船海門(ハイモン)号に乗り込む。このとき船中に法学博士増嶋六一郎氏、従者萩原孝三郎両氏に面会する。両氏は夏門に行くという。午後5時当港を出港した。4月21日 晴 82度 午前8時仙頭港に到着する。これより私は増島氏の一行と上陸して市中を散歩した。午後5時30分当港を出船する。4月22日 曇り 72度 午前6時30分夏門港に到着する。これより増嶋氏と上陸して、私は日本領事館に行き、上野領事に面会して当地の商況等を聞く。当地の砂糖はおもにこの近くの土地で生産する氷砂糖を集めて、これを中国北部の各地に輸出しているという。1か年およそ60万円内外だという。その他の砂糖は僅々30万円であるという。このことから外国に輸出する港ではないことを知る。午前10時領事館を去り本船に帰る。また増嶋氏一行も淡水に向かうことに決め、乗船した。午後2時40分当港を出船する。この夜、雨風のため船体の動揺がはなはだしい。4月23日 雨 85度 昨夜から風雨が止まない。午前10時台湾淡水港を去る。およそ7マイルの沖合に停船する。これは港口が干潮のために船体が進むことができないのだという。午後2時になってようやく淡水港に入船する。これより税関の役人、梅津某が来て手荷物の検査を受け、そして上陸する。私は当所の大和屋旅舎に投宿する。この夜、イギリス女王60年祝賀として花火の催しがあり、大変にぎわっていた。4月24日 晴 87度 午前9時大和屋を出発して川蒸気船に乗って、台北府に向かって出発する。同11時台北府川岸に到着し、これより直ちに吾妻館に投宿する。午後1時より六館街大東商行に行き、水戸徳助氏を訪問する。同氏は目下本国東京に行き、不在だったので、手代某に会い、しばらく当府の商品状況を聞く。これより総督府に行き、藤江勝太郎氏を尋ねる。同氏は目下本国に帰省中であるという。ここでまた字三ノ橋に行き、藤江長吉氏に面会する。これより字大稲程三井物産会社出張所に行き、支配人代理友野欽一氏に面会して当地の商況を聞く。午後5時30分宿に帰る。この夜書状をしたため、東京本社に発する。この夜、大工 氏が訪ねて来た。4月25日 雨 65度 日曜 今朝より大雨風、終日にして外出ができないので、日誌その他の調書をする。午後1時頃三井店友野欽一氏が来る。一酒を呈す。そしてこの夕方、三井物産会社出張所の招きに応じ、夕食の馳走を受け、友野氏と商況や時事を談話する。そして10時宿に帰った。4月26日 晴 75度 午前8時藤江長吉氏が来て、これより同氏の案内で総督府の殖産部に行き、課長高橋昌氏に面会して産糖の取調を聞く。ここで糖業主任豊嶋栄氏より台湾産業取調という冊書3冊を貸与してもらう。これよりまた中国人白糖製造所に行き、工場及び製造の模様を見る。これより淡水橋に行き、対岸の田地の光景を見る。4月27日 晴 78度 この日は朝より、昨日殖産部より借用した台湾産業取調書を終日読む。4月28日 曇り 72度 午前10時より三之橋詰に行き、藤江長吉氏に会い、同氏と民政局に行き、殖産課長高橋氏に面会して借用した書冊を返し、また書冊の中のことについて質問した。これより藤江氏の案内で淡水橋詰という土地の人の人工孵卵場を見る。これより午後になって枋橋村に行き、4時到着する。公医吉田音二郎氏に面会し、同氏の案内で林本源の住宅構内をすべて見物した。また同家の番頭(黄良聡)氏に面会し、黄氏は日本語を理解する。数分談話して去る。これより直ちに台北に帰る。午後6時なり。この夜藤江氏に一酒を呈する。4月29日 曇り 午後より雨降 70度 この日朝より行李(こおり)を整え、12時吾妻館を出発し、午後1時発の汽車で台北に出発する。午後3時基隆駅に着く。これより小舟に乗って対岸に渡り、字小基隆の下倉旅館に宿をとる。4月30日 晴 68度 この日は大基隆市内を見物し、及び近傍新開道路を散歩する。
2025.09.29

「べらぼう」歌麿の妻に“異変”…ネットで動揺広がる9/28(日) 9月28日放送・第37回では、喜多川歌麿(染谷将太)の妻きよ(藤間爽子)の“異変”を示す描写が注目を浴び、フラグと見る声が多く寄せられている歌麿の作品に感涙した栃木の豪商(U字工事・福田薫)が、歌麿に「うちの屋敷に飾る絵を肉筆で」と依頼。一点ものの肉筆は高値がつくだけではなく絵師の名を高めるもので、歌麿は大喜び。「おきよがいたら俺なんでもできる気がするよ」と声を弾ませる歌麿その後に映しされたのがきよのくるぶしのアップ。そこには赤い湿疹視聴者は「今のカットは何?」「足元が気になる」「足にデキモノあったよね?」「これはもしや…」「きよさん病気なの?」「やめて!」「おきよちゃん疱瘡?」とざわざわ。後の場面では政演が歌麿宅を訪ねた際、きよの湿疹が広がっており、SNSでは「ああああ増えてるー!」「広がってる」「嫌な予感…」「不穏すぎる」「脚本鬼」「勘違いであってほしい」「きよさんまで奪わないでくれ」 耳が聞こえないきよは親を亡くし、洗濯女として生計を立て、時には客を取りながらかろうじて生きてきた。歌麿にとって、きよは自身のトラウマを克服するきっかけとなった、かけがえのないミューズ。しかし……これまでも瀬川花魁(小芝風花)、誰袖花魁(福原遥)、新之助(井之脇海)ら蔦重と近しい人物たちが幸福の絶頂を迎えたのちにどん底に突き落とされるケースが多々あったため、歌麿ときよもまた同じ末路をたどるのではないかと不安視する声が上がっている。ウイルス感染症で人類が唯一、根絶に成功したのは疱瘡(天然痘)で、WHO(世界保健機関)が、その根絶宣言を出したのは1980(昭和55)年のことです。 疱瘡は高熱と全身に生じる豆粒状の発疹が化膿、この発疹は呼吸器など内臓にも発し最悪、呼吸不全で死に至る病で、致死率は20~50%と高く、患者からはがれた瘡かさ蓋ぶたでも1年以上の感染力があり、治癒しても俗に‶あばた″と言われる跡を残したり、失明を引き起こしたりします。「独眼竜」で知られる伊達政宗の右眼や、「米百俵」のエピソードで有名な小林虎三郎の左眼の失明は疱瘡によるものです。 疱瘡の病魔から逃れるため、古くから疱瘡は赤色を嫌うとされ、会津(福島県)の赤べこのように玩具に赤が多用されたり、寛文12(1672)年に佐渡で疱瘡が流行した時、相川の町では疱瘡除けとして赤牛の腹の下をくぐらせ子供1人銭12文を取る者がいたというように、かつては呪まじないや神仏に頼っていました。「新潟県神社寺院仏堂明細帳」には寺社の境内の小さな堂や石のほこらに疱瘡神がまつられているのが散見されます。 有名なジェンナーによる種痘(牛痘法)が発表されたのは1798(寛政10)年のことですが(注1)、日本では鎖国のため本格的に種痘が普及するのは嘉永2(1849)年以降であり(注2)、漢方と蘭方の対立や体に傷をつけ牛から採取した痘苗接種に対する庶民の恐れや流言などで普及が遅れました。このような中で安政4(1857)年、幕命により蝦夷地に渡りアイヌの人々5000人余に種痘を施し、生涯の種痘実施者は7万人に及んだという新発田出身の桑田立斎や、長崎で種痘を学び嘉永2年に立ち寄った広島藩で藩医に種痘を伝授し普及に助力、江戸でも種痘を行い同6(1853)年に帰島し佐渡最初の種痘医となった長野秋甫など、種痘に活躍した越佐出身の医師がいました。 維新後、新政府は明治3(1870)年太政官布告で進んで種痘を受けるよう奨励し、種痘医免許制を制定、明治7(1874)年には定期種痘を定めた種痘規則を布達しました。これを受け新潟県は各戸長に対し種痘を受けるよう村民を諭し、種痘の謝礼金は6銭2厘5毛以下とし貧窮者からは謝金を受けないよう、種痘を終えた子には医師の種痘済み証を渡すなどの県庁布告を数度にわたって出しています(注3)。その後、明治9(1876)年制定の天然痘予防規則で種痘接種は義務とされ、明治42(1909)年の種痘法により種痘は国民に定着し、疱瘡の流行はなくなっていきました。 明治44(1911)年、小出町(現魚沼市)の諏訪神社境内にまつられていた疱瘡神社は、かなり離れた薮神村(現魚沼市)の大石神社に合祀されることになりました。その願書には「時勢ノ変遷ニヨリ到底維持ノ見込相立チ難ク」とあります(注4)。疱瘡は怖いものではなくなっていました。 日本では昭和51(1976)年以降種痘は行われず、昭和49(1974)年度生まれの人が種痘の定期接種を受けた最後の世代となりました。
2025.09.28
笠井信輔アナ 緊急入院の現状「入院時は目の奥も痛く味覚障害も」「帯状疱疹をとても甘く見ていました」 9/27(土)元フジテレビでフリーアナウンサーの笠井信輔(62)が27日、自身のインスタグラムを更新。帯状疱疹の悪化で入院した現状をつづった。 26日の投稿で「緊急入院しました」と入院していることを明かしていた笠井アナ。それまで喉の調子が悪く、咳き込むこともあったが、コロナウィルスではなく、副鼻腔炎との診断を受け「体調を見ながらそのまま働いておりました」。しかし、右の鼻の根元におできのようなものができ、右目のまぶたが腫れ上がって開かなくなってしまったという。結膜炎だが感染することはないという診断を受け、仕事を続けていたが、予想以上に状況が悪く、緊急入院。精密検査の結果、右目が開かなかった原因は帯状疱疹の悪化。帯状疱疹ウイルスが目に悪影響を与えたためだったと明かした。 この日の投稿で、寄せられた励ましの言葉にありがとうございます 何よりの力付けです」と感謝。「帯状疱疹と言うものをとても甘く見ていました がんと言う命と向き合う病気を経験してしまうとその他の病気を軽んじていたのかもしれません とても反省しています」と反省しきり。「と言うのも がんに関する知識はかなりあるのですが 帯状疱疹に関して、非常に無知であったなと痛感しているのです 水疱瘡にかかった人が、皆持っているのが帯状疱疹のヘルペスウィルス そのウィルスは脊髄や顔面神経の根元などに潜んでいるそうで 免疫が低下したり 疲労が重なったりすると活動を始めるということなんです 1番重要なのは発症したら、72時間、3日以内に治療をするのが良いと言う事 そんな基本中の基本も知りませんでした」とつづった。 「右の鼻の根元に水泡ができて おできのようになって、右目が開かなくなっても 徹底的に治療しようと言う気持ちに切り替えられず 簡単な治療でそのまま働いていました」と笠井アナ。「仕事が大好きな私なので、どうしても自分にブレーキがかけられませんでした 異常を感じてから入院するまで1週間以上 そりゃ緊急入院になりますよね」とした。 「頭頂部からこめかみにかけて、ピリピリピリピリ痛みが走ると言うのは、もう帯状疱疹の典型的な症状のようです 右のまぶたが下がり(眼瞼下垂) 右眼の動きも制限されている状態で右目の視力は今0.2まで落ちてしまいました」と告白。現在、感染症科、神経眼科、皮膚科、血液内科など6つの診療科にかかっているといい、「令和時代のチーム医療は本当に進んでいるなとありがたく思います」と記した。 「ただ、それぞれの先生方に自分の症状を話しているので、結構疲れます(笑) カルテには私の症状が書かれているのですが やはり病院内のコミュニケーションは患者と医療者が直接お話をすることが大切だと考えます これは自分のがんステージ4の経験からです 直接、自分の症状をしっかりと伝えるのが良いと考え 詳しく自分の症状を各診療科の先生にお話しすることが重要 疲れてるなんて言ってられません」と笠井アナ。「病気の捉え方が診療科の違い 先生の専門の違いによって微妙に差があるので、そこもまた興味深いです 入院時は目の奥も痛く 味覚障害も起きていたので 病院食の味が本当にまずくて 抗がん剤治療の5年前を思い出しました でも、あの時の大変さに比べたら今回は、乗り越えられる! なかなか右目は開きませんが そう思って前を向いています」と締めくくった。
2025.09.28
豊昇龍 奇襲は通じず 付け人に「もう1回、こう行けば」 横綱初優勝は大の里に先着許す◇大相撲秋場所千秋楽(2025年9月28日 両国国技館) 大の里が13勝2敗で並んだ豊昇龍との横綱同士の優勝決定戦を寄り倒しで制し、2場所ぶり5度目の優勝を果たした。横綱昇進後は初制覇。本割では1差で追っていた豊昇龍に押し出された。 本割は豊昇龍の快勝だった。立ち合いをもろ手突きで先行し、大の里の胸、復部を押して追撃。左へ回り込むのを逃さず押し出した。 約10分後の優勝決定戦。今度は立ってすぐ左上手を狙った。得意とは逆からの「奇襲」だろうか。深い位置をつかめたが、大の里に得意の右差しを許したため上体が起きた。後退しながらの投げだけに土俵際では自身の体も飛んだ。軍配は大の里。大の里の左足が返っていたのでは?と物言いがつき、協議した結果、返っていなかった。
2025.09.28
9月28日(第4日曜日)円覚寺日曜説教とその後の坐禅会に参加してきた日曜説教の講師は浄智寺朝比奈恵温住職元円覚寺管長朝比奈宗源曾孫にあたる話は軽妙中井貴一さんちのお墓は円覚寺にあり、墓参りのときは自家の墓を掃除するだけでなく母方、田中絹代さん、小津、木下両監督のお墓まで掃除するという足立大進老師が修行僧の修行を蚕が「ひきる」状態に喩えられたお話も面白かった蚕が糸を吐く前の準備をしている状態のことを「ひきる」という蚕は繭になる前に、排泄を全部済ませ、体の中には糸の成分だけになり7~8cmの体が縮んで光にかざすと体が透き通り、あめ色のように見える♥修行僧の坐禅も修行が進むと「ひきる」ように透明になるという坐禅して「ひきる」ように透明になるいいなぁ🤩「回向返照」沢木興道坐禅が本当に円熟してくると、一堂に何十人坐っていても、十分か二十分は、じつにシーンとして、それだけの人間がいるとは思われぬまでに、それこそ物凄いほど静かな、澄んだ雰囲気ができる。(略)この雰囲気ができれば、何十人一緒におっても全体が透明になる。一歩進めば、大円鏡智といって、広く大きな鏡の如く、時間空間が透明になる。そこに自己を見出だせば、これはいつもの自己とはまた別の自己である。石頭大師が「回向返照 便(すなわ)ち還り来たる 霊根に廓達(かくたつ)すれば向背にあらず」と言っておられるが、われわれが回向返照するというのは、天地と同根、万物と一体の自己を体験するのである。
2025.09.28
「世界ユーザーの50%がアニメ視聴」とNetflixが衝撃発表 日本発の文化がエンタメの中心になった理由9/28(日)「もう日本には追いつけない」——2025年7月、アメリカ・ロサンゼルスで開催された世界最大級のアニメイベント「アニメエキスポ2025」において、Netflixが日本アニメの国際的地位を決定づける発表をしたことが世界中のアニメファンの間で反響を呼んでいます。 Netflixによれば、同社の登録ユーザーのうち50%以上、つまり1億5000万世帯、推定3億人がアニメを視聴しているといいます。世界人口のおよそ4%にあたる規模であり、2024年には総視聴回数が10億を突破。同社の「グローバルトップ10(非英語部門)」にランクインしたアニメ作品は33タイトルに達しました。2021年の2倍以上という短期間での飛躍であり、もはやブームを超えた国際的な社会現象です。 対応言語は最大33に拡大。アニメは日本発でありながら、各国の生活に自然に溶け込み、翻訳ではなく自国語として楽しまれる存在となっているようです。日本アニメが突出した存在であり続ける理由のひとつとして、巨大な漫画市場が“無尽蔵の物語源泉”となっていることが挙げられます。少年誌、少女誌、青年誌とターゲットが細分化され、毎週新しい才能が登場し、その中から膨大な作品がアニメ化されてきました。 友情や努力を描く少年漫画、重厚なダークファンタジー、恋愛や日常ドラマ、異世界ものやスポーツ作品と、誰もが共感できる物語を供給できるのは日本ならではの強みです。日本のアニメは完璧なヒーローではなく、弱点や欠点を抱えた人物を主人公に据え、成長の過程に視聴者が感情移入しやすい作りとなっています。目や表情の繊細な描写、コミカルなデフォルメ、背景美術との融合によって言語を超えて感情を伝える技術も磨かれ、説明的な欧米作品と異なる余白や静寂の美学が、海外の視聴者には新鮮で魅力的に映るのでしょう。 海外のアニメファン「日本アニメはもう世界の共通言語だ」「カフェで普通に鬼滅の話をしている」「10年前ならオタク扱いだったのに」といった声が聞かれ、今回のNetflixの発表は、単なる視聴データの公開ではなく、日本アニメが世界文化の中心に座したことを示す象徴的な瞬間だったとも言えます。💛最近ね、来日外国人が ナルト や ハイキュー など漫画について熱く語っているので図書館で漫画を借り出して読んでみたよ もはや漫画はオタク文化じゃなくて日本を代表する文化になっているみたい完全新作PV “ROAD OF NARUTO” | アニメ『NARUTO-ナルト-』20周年記念アニメ「ハイキュー!!」10th Anniversary ―繋ぐ― Project/1期ダイジェスト映像
2025.09.28
195二宮翁夜話巻の2【27】尊徳先生はおっしゃった。「仏書に、光明遍照十方世界、念仏衆生摂取不捨という。光明とは太陽の光をいう。十方とは東西南北乾坤巽艮の八方に、天地を加えて十方という。念仏衆生とは、この太陽の徳を念じて慕う、一切の生物をいう。天地の間に生育する物、命あるものはもちろん、無情の草木であっても、皆大陽の徳を慕って、生きることを念とする、この念ある物を仏国ゆえに念仏衆生というのである。神国であれば念神衆生と読めばよい。だからこの念のある者はもらさず、生育をyとげさせて捨てることがないという事で、太陽の大徳を述べたものである。我が国の天照大神の事である。このように太陽の徳は、広大であるが、芽)を出そうとする念慮、育とうとする気力がない物は仕方がない、芽を出さんとする念慮、育とうとする生気ある物であれば、皆これを芽を出させ、育たせるのである。これは太陽の大徳である。我が無利足金貸付の法は、この大陽の徳にかたどって、立てたものである。だからどんな大借であっても、人情を失わず利息を滞りなく済せている者が、またぜひとも皆済して他に損失をかけるまい、という念慮がある者であれば、たとえば、芽を出したい、育ちたいという生気のある草木に同じであれば、この無利子金を貸して引き立てるがよい。無利子の金であっても、人情がなく利子も払わず、元金をも踏み倒そうとする者は、すでに生気のない草木と同じで、いわゆる縁なき衆生である。これをどうともすることができない、捨て置くのより外に道がない。【27】 翁曰く、仏書に、光明遍照(こうみやうへんせう)十方世界、念仏衆生(ねんぶつしゆじやう)摂取不捨(せつしゆふしや)といへり。光明とは太陽の光を云ふ。十方とは東西南北乾(いぬゐ)坤(ひつじさる)巽(たつみ)艮(うしとら)の八方に、天地を加へて十方と云ふなり。念仏衆生とは、此の大陽の徳を念じ慕ふ、一切の生物を云ふ。夫れ天地間に生育する物、有情(うじやう)蠢動(しゆんだう)の物は勿論、無情の草木と雖(いへども)、皆大陽の徳を慕ひて、生々を念とす。此念ある物を仏国故に念仏衆生と云ふなり、神国にては念神(ねんしん)衆生と読むべし。故に此の念ある者は洩さず、生育を遂させて捨て玉はずと云ふ事にて、太陽の大徳を述べし物なり。則ち我が天照大神(あまてらすおほみかみ)の事なり。此の如く太陽の徳は、広大なりといへども、芽を出さんとする念慮、育てんとする気力なき物は仕方なし。芽を出さんとする念慮、育たんとする生気ある物なれば、皆是を芽だたせ、育たせ給ふ、是れ太陽の大徳なり。夫れ我無利足金貸附の法は、此の太陽の徳に象(かたど)りて、立てたるなり。故に如何なる大借といへ共、人情を失はず利足を滞りなく済し居る者、又是非とも皆済して他に損失を掛じ、と云ふ念慮ある者は、譬へば、芽を出したい、育ちたいと云ふ生気ある草木(くさき)に同じければ、此の無利子金を貸して引立べし。無利子の金といへども、人情なく利子も済さず、元金をも蹈倒(ふみたふ)さんとする者は、既に生気なき草木に同じ、所謂(いはゆる)縁無き衆生なり。之を如何(いかに)ともすべからず、捨て置くの外に道なきなり。
2025.09.28
195二宮翁夜話巻の2【30】尊徳先生がおっしゃった。「仏教に極楽世界の事を説いて、赤色には赤光があり、青色には青光があるという。極楽といっても珍らしい事があるわけではない。人皆それぞれ自分の家や田畑は、作物のできる徳がある。自分の商売や職業は、利益がある。自分の家屋敷は、安宅となる。自分の家財は、身の用便となり、自分の親兄弟は、身に親しく、自分の妻子は、身に楽しく、また田畑はうるわしく米麦百穀を産出し、山林は繁茂して良材を出す、これを赤色には赤光があり、青色には青光があるというのだ。このようであれば、この土はすなわち極楽である。この極楽を得る道は、おのおの受け得たところの天禄の分内を守ることにある。もし一度天禄の分度を失なうならば、自分の家や田畑は作徳にならず、自分の商売、自分の職業は利益にならず、自分が安住するべき家屋敷は自分が安宅にならず、自分の家財は身の用便にならず、自分の妻子親族も楽しくなく、また田畑は荒れて米麦を生ずることなく、山林は藤たつたにまとわれて野火に焼けて材木を出さない、これを赤色には赤光がなく、青色には青光がないというのだ。苦しみはこれより大きいものはない。これがいわゆる地獄である、餓鬼界に落ちるものは、飢えて食べようとすると食べ物がすぐに火となり、のどがかわいて飲もうとすれば水がすぐに火となるという。これは人々が天より賜わった、父祖より請け伝えた天禄を利息に取られ、賄賂につかって、自分の衣食が足らないのと、何が異なろう。これが苦しみの極みではないか。私の仕法はお経を読まず念仏も題目も唱えないで、この苦罪を消滅させて極楽を得させ、青色をして青色あらしめ、赤色をして赤色あらしめようという大道である。【30】翁曰く、仏教に極楽世界の事を説きて、赤色(しやくしき)には赤光(しやくくわう)有り、青色(せいしき)には青光(せいくわう)ありと云へり。極楽といへ共珍らしき事あるにあらず、人皆銘々己が家株田畑は、己に作徳あり、己が商売職業は、己に利益あり、己が家屋敷は、己が安宅(あんたく)となり、己が家財は、己が身の用便になり、己が親兄弟は、己が身に親しく、己が妻子は、己が身に楽しく、又田畑は美はしく、米麦百穀を産出し、山林は繁茂して良材を出す、是を赤色には赤光あり、青色には青光ありといふなり。此の如くなれば、此の土則ち極楽なり。此の極楽を得るの道、各受け得たる天禄の分内を守るにあり。若し一度(たび)天禄の分度を失はば、己が家株田畑己が作徳にならず、己が商売己が職業己が利益にならず、己が安住すべき家屋敷己が安宅にならず、己が家財己が身の用便にならず、己が妻子親族も己に楽しからず、又田畑は荒れて米麦(べいばく)を生ぜず、山林は藤蔦(ふぢつた)にまとはれ野火(のび)に焼けて材木を出さず、是を赤色には赤光なし、青色には青光なしといふ、苦患(くげん)是より大なるはなし、則所謂(いはゆる)地獄なり、餓鬼界(がきかい)に落つるものは、飢へ喰(くら)はんとすれば食忽(たちまち)に火となり、渇(かつ)して飲まんとすれば水直ちに火となると云へり、是則ち人々天より賜はり、父祖より請け伝へたる天禄を利足に取られ賄賂(わいろ)に費し、己が衣食の足らざるは、何ぞ是に異らん、是れ苦患の極にあらずや。夫れ我が仕法は経を読まず念仏も題目も唱へずして、此の苦罪を消滅せしめて極楽を得させ、青色をして青色あらしめ、赤色をして赤色あらしむるの大道なり。
2025.09.28
195二宮翁夜話巻の2【32】ある人が、道を論じて条理が無った。尊徳先生がおっしゃった。「あなたの説は、悟道と人道と混同している。悟道をもって論ずるのか、人道をもって論ずるのか、悟道は人道に混同してはならない。なぜかといえば、人道のよしとするところは、悟道にいわゆる三界城(迷いの世界)である。悟道を主張すれば、人道は軽蔑すべきである。その間を隔てること、天地と雲泥のようである。だから先にその居場所を定めて、それから後に論ずるがよい。居場所を定めないと、目がなき秤(はかり)で重さを量るようで、終日弁論しても、その当否を知ることはできない。悟道というのは、たとえば今年は不作であろうと、まだ耕さない前に観ずるようなことをいう。これを人道に用いて不作であるから、耕作を休もうというのは、人道ではない。田畑は開拓してもまた荒れるのは自然の道であると見るのは、悟道である。そして荒るからといって開拓しないのは、人道ではない。川のそばの田畑は洪水があれば流失するということを平日に見るのは悟道である。そうかといって耕さず肥料をやらないのは、人道ではない。悟道とはただ自然の行くところ見るだけであり、人道は行き当る所まで行くべきものである。論語に、父母につかえては繰り返しいさめ、その志が通じないときは、敬って違わない、努力して怨まない、とある。これが人道の極地を尽したというべきだ。俳句にも「いざさらば雪見にころぶ所まで」という。これがその心である。だから私は常に言うのだ。親を看病して、もはやおぼつかないなどと見るものは、親子の至情を尽すことはできない。魂が去って体が冷えて後も、まだ全快あろうかと思う者でなければ、尽すと言ってはならない。だから悟道と人道とは混合してはならない。悟道はただ、自然の行くところ観じ、そして勤めるところは、人道にある。人間の道とするところは、仏教にいわゆる三界城裏(迷いの世界)の事である。十方空を唱へる時は、人道は滅するであろう。善知識(僧侶)を尊び、娼妓(しょうぎ)を賤しむのは迷である。そうはいってもこのように迷わなければ人倫は行われない。迷うが故に人倫は立つのである。だから悟道は人倫に益はないそうであっても、悟道でなければ、執着を脱する事はできない。これが悟道の妙である。人倫はたとえば繩をなうようなものだ。よりがかかるのよしとする、悟道はよりを戻すようなものだ。だからよりを戻すことをもって善とする、人倫は家を造るようなものだ、だから丸木を削って角材とし、曲ったのをためて直とし、長いのを切って短かくし、短いのを継いで長くし、穴をうがって溝を掘り、そして家を作るのである。是れはすなわち迷うが故に三界城内の仕事である。それを本来なき家なりと破るのは悟道である。破って捨てる故に十方空に帰するのである。しかし、迷といい悟というのは、まだ徹底していない。その本源を極めるならば迷いも悟りもともにない。迷いといえば悟りと言わざる事を得ない。悟りといへば迷いと言わざる事を得ない。本来迷いと悟りで一円の世界である。たとえば草木のように、一粒の種から生じて、あるいは根を生じて土中の潤いを吸って、あるいは枝葉を発して大気の空気を吸い、花を開いて実を結ぶ、これを種から見るときは迷いというべきだ。そうかといって、秋風にあえば枯れはて本来の種に帰る。種に帰てったといっても、また春陽にあえば枝葉花実を発生する、そうであれば、種となったのが迷いか、草となったのが迷いか、草に成ったのか本体か、種になったのが本体か、これに因ってこれを観るに、生ずるのも生ずるのではない、枯れるのも枯れるのではない。そうであれば無常も無常ではなく有常も有常ではない。皆旋転して止まない世界に住するものであるからである。私の歌に「咲けばちりちれば又さく年毎に詠(ナガ)め尽せぬ花のいろいろ」と詠んだのもその心だ。一笑するがよい。【32】或(あるひと)道を論じて条理無し。翁曰く、卿(きみ)が説は悟道と人道と混(こん)ず、悟道を以て論ずるか、人道を以て論ずるか、悟道は人道に混ずべからず、如何(いかん)となれば、人道の是(ぜ)とする処は、悟道に所謂(いはゆる)三界城なり、悟道を主張すれば、人道蔑如(べつじよ)たり、其の相(あひ)隔るや、天地と雲泥とのごとし。故に先づ其の居所(ゐどころ)を定めて、然して後に論ずべし、居所定らざれば、目のなき秤(はかり)を以て軽重(けいちよう)を量(はか)るがごとく、終日弁論するといへども、其の当否(たうひ)を知るべからず。夫れ悟道とは、譬(たとへ)ば当年は違作ならんと、未だ耕さゞるの前に観ずるが如きを云ふ、是を人道に用ひて違作なるべき間(あひだ)、耕作を休まんと云はば、人道にあらず、田畑は開拓するとも又荒るゝは自然の道なりと見るは悟道なり、而して荒るればとて開拓せざるは、人道にあらず、川附(かはつき)の田地洪水あれば流失すると云ふ事を平日に見るは、悟道なり、然して耕さず肥しせざるは、人道にあらず、夫れ悟道は只(ただ)自然の行く処を見るのみにして、人道は行き当る所まで行くべし。古語に、父母に事ふる幾(やうや)く諌(いさ)む、志の随はざるをみて、敬して違(たがは)ず、労して恨(うらみ)ず、とあり、是れ人道の至極(しごく)を尽せり。発句(ほっく)にも「いざさらば雪見にころぶ所まで」と云へり、是れ又其の心なり。故に予常に曰く、親の看病をして、最早(もはや)覚束(おぼつか)なしなどゝ見るものは、親子の至情を尽すことあたはじ、魂(たましひ)去り体(たい)冷(ひへ)て後も、未だ全快あらんかと思ふ者にあらざれば、尽すと云ふべからず。故に悟道と人道とは混合すべからず、悟道は只、自然の行く処を観じて、然して勤むる処は、人道にあるなり。夫れ人倫の道とする処は、仏(ぶつ)に所謂(いはゆる)三界城裏(さんかいじやうり)の事なり、十方空を唱ふる時は、人道は滅すべし、知識(ちしき)を尊み娼妓(しやうぎ)を賎しむは迷ひなり、左はいへども、如此(かくのごとく)迷はざれば人倫行はれず、迷ふが故に人倫は立つなり、故に悟道は人倫に益なし、然りといへども、悟道にあらざれば、執着(しうぢやく)を脱する事能はず、是れ悟道の妙なり、人倫は譬ば繩を索(な)ふが如し、よりのかゝるを以てよしとす、悟道は縷(より)を戻(もど)すが如し、故によりを戻すを以て善とす、人倫は家を造るなり、故に丸木を削りて角とし、曲れるを揉(た)めて直とし、長を伐(き)りて短とし、短を継ぎて長くし、穴を穿ち溝を掘り、然して家作(かさく)を為す、是れ則ち迷故三界城内の仕事なり、然かるを本来なき家なりと破るは悟道なり、破つて捨つる故に十方空に帰するなり、然りといへども、迷と云ひ悟と云ふは、未だ徹底せざる物なり、其の本源を極れば迷(まよひ)悟(さとり)ともになし、迷といへば悟と言はざる事を得ず、悟といへば迷と言はざる事を得ず、本来迷悟にて一円なり。譬へば草木の如き、一種よりして、或は根を生じて土中の潤沢をすひ、或枝葉を発して大虚の空気を吸ひ、花を開き実を結ぶ、是を種より見ば迷と云べし、然りと雖も、忽(たちま)ち秋風に逢へば枯れ果(はて)て本来の種に帰す、種に帰するといへども、又春陽に逢へば忽ち枝葉花実を発生す、然らば則ち、種となりたるが迷か、草となりたるが迷か、草に成りたるが本体か、種になりたるが本体か、是に因て是を観るに、生ずるも生ずるにあらず枯るゝも枯るるに非ず、されば、無常も無常にあらず有常も有常にあらず、皆旋転(せんてん)不止(ふし)の世界に住する物なればなり、予が歌に「咲けばちりちれば又さく年毎に詠(なが)め尽せぬ花のいろいろ」一笑すべし。
2025.09.28
31「鈴木藤三郎伝」鈴木五郎著143ページ3月14日朝8時20分に土佐丸は、サウサンプラン出航以来33日ぶりでシンガポールに入港した。藤三郎は三井物産会社の友常に迎えられて上陸して、同市カンポルバァルブの大野の宅に行って、主人の勧めのままに同家に泊った。15日はバタリーロードの三井物産会社支店に行って、当港の砂糖輸出入状況を調べた。そして、16日からジャヴァ国に渡って、半月余りを赤道直下の華氏106度(摂氏41度)の酷暑を冒してジャヴァ全島を調査して歩いて、4月4日に、またシンガポールに帰った。明治30年3月14日 晴 91度 日曜 進行181マイル 北緯1度18分 東経103度51○今午前8時20分シンガポールに到着する。 このとき三井物産会社より友常氏が迎えに来て、これより同氏上陸してシンガポールカンポンパアルブの大野氏の居宅に行き、同氏に面会する。そして氏の勧めによって同家に宿泊した。この日午後6時より当地扶桑館において日本料理をもって土佐丸の事務員4名(三浦・柳川・北条・佐藤)を招いて送別のために一酒を呈する。夜10時退散した。3月15日 晴 92度 午後大雨 午前9時よりバタリロードの三井物産会社支店に行き、当地出入の砂糖年表等を取り調べる。そしてまた明日ジャワ島に行く出船があるため、同社員の友常氏と同行し、陸地に向う用意をする。3月16日 晴 98度 午前7時30分カンポンパアルブの大野氏宅を出発する。(私と友常氏両人)、バンリーメン号に乗り込み、午前10時西南に向かって出船する。(このとき三井より林・河村両氏が船まで見送る)、この夜11時より大雨が降り、風浪のため船体が大変揺れる。3月17日 晴 午前8時より右方にスマトラ島の西岸を見て進航する。左方には数多くの群島がある。いずれも草木が繁茂している。この辺りは赤道の直下であるため暑さが一層ひどく、106度なり。しかし時々雨が降るため暑さの苦しみをしのぐ。この夜11時より大きな雷雨が降る。3月18日 晴 午前8時無事ジャワ国バタビア港に着船する。直ちに上陸して税関の検査を受け、これより直ちに汽車で9時40分バヒアのデスネザランデンホテルに宿をとる。午後1時より当所カリブツサーマクリインワッソン会社に行き、支配人に面会して砂糖見本を見る。また当地の商況を聞く。これより市役所に行く。上陸を届けを行う。途中バッサルバール街において日本商店を見る。ここにおいて同店に立ち寄り店員に面会する。これは和歌山県人後藤実之氏の店(雑貨店)である。3月19日 曇り 95度 午前9時より馬車で市中を回覧した。午後1時後藤氏が訪ねて来た。これより同氏の案内で旧トバト及び市中汽車の原動器据付所を見物した。3月20日 95度 午前9時より後藤氏が来て、これより同氏の案内でフハンニーロップ氏の店に行き、支配人に面会した。またマクリインワツソン氏に面会して、砂糖取引の慣例その他の手続を聞く。午後6時ホテルに帰る。3月21日 日曜 96度 この日はすべて休業なので、ホテルで当地の物産輸出表などを取り調べる。3月22日 95度 午前9時後藤氏が来て、しばらくして帰る。友常氏は市内へ行き、私は前日の調べを行う。 午後3時よりマクリインワツソン会社へ行き、午後5時ホテルに帰る。3月23日 96度 午前9時より友常氏は外出する。私はホテルで前日の調べを行う。また明日出発の用意をする。3月24日 晴 98度 午前6時バタビア府を出発し、当地より汽車に乗り午後7時マウスに着き、ステイションホテルに泊まる。3月25日 晴 97度 午前6時マウスを発車して午後6時リラパヤ府に着く。これより馬車でホテルに宿をとる。3月26日 晴 96度 午前8時より市役所に行き、私たちの到着を役所に届けようとする。しかるに馬車の御者が言葉が通じないため、中国人役所に行き、私たちを中国人として取り扱おうとする。ここで筆談して中国人ではないことを論じ、これより日本人の画家鳥羽氏の住所に行き、同氏に面会する。このとき、藤田領事の通訳である大川氏に面会する。これより同氏の案内でネザランドホテルに行き、藤田領事に面会する。これより直ちに私たちはホテルに引き上げ、更にネザランドホテルに引っ越し、藤田領事と同宿とする。これより領事の添書をもって当府の知事の自宅に行き、内地旅行の承諾を得る。これよりフレーザーイートン会社へ行き、支配人に面会して砂糖の見本及びすべて取引先の要点を取り調べる。そしてまた同氏に求めるに明日製糖所の見物を申し込む。これより氏は私たちに紹介状を与えられた。ここに明日パショラムに行くことを約束する。この夜、林・鳥羽両氏が訪れてきた。3月27日 晴 97度 午前6時発の汽車で9時パショラムに到着する。これより3マイルばかり馬車でターナー氏製糖所に行き、主人に面会してフレーザーイートン氏の紹介状を示す。ターナー氏はこれより自ら案内して第一に甘蔗(サトウキビ)畑に行き、これより工場を説明して見物した。これより同氏に精糖に関するたくさんの質問をしたが、氏は懇切に説明してくれた(現在は製糖の時季ではない)、12時になって同所を去り、午後1時パショラム駅より乗り込み、4時スラバヤ府のネザランドホテルに帰る。この日藤田領事はシンガポールに向かって出発した。3月28日 晴 97度 午前9時より私と友常氏は小船に乗り、川を下り、港口の光景を見る。これより帰途上陸して鳥羽氏の宅に立ち寄り、これより同氏の案内で中国商館2,3店を訪ねる。これより直ちにホテルに帰る。この夜、林・鳥羽両氏は私の注文した当所の写真を持参してきた。3月29日 晴 午前9時より友常氏は外出する。私はホテルで日誌をしたためる。夕方鳥羽氏が訪ねてきた。3月30日 晴 午前8時ネザランドホテルを出発してこれより川船で港口に下り、汽船パンタム号に乗り込み、午後1時スラバヤ港(※)を出船する。3月31日 晴午前6時パエヤム島に到着する、ここで下等客200名が乗り込み、午前10時当地を出発する。4月1日 晴 98度 午前6時よりボルネオ島を右方に見て進航する。4月2日 晴 98度 この日午後1時より大雷雨あり。4月3日 晴 93度 午前7時30分無事シンガポールに到着する。これより直ちに上陸してシテカンポンパルニに行き、大野氏宅へ行き、10時より日本領事館へ行き、藤田領事に面会する。これよりパタリーロード三井物産会社へ行き、またハイストリート26番地の乙宗商店(日本雑貨店)へ行き、支配人田原寅吉に面会する。これより直ちにカンポンバルプの大野氏宅に帰る。4月4日 晴 92度 午後雨 午前9時より三井物産会社へ行き、友常氏と中国人某の氷糖製造所に行き、工場を見る。また香港行き乗船切符を求める。4月5日 日曜 午後雨 92度 この日は休業につき、大野氏宅において日誌その他の書類を取り調べる。午後3時より大野氏と公園に行く。4月6日 晴 94度 午前7時フランス国郵便船セダン号が入船する。同船よりロシア国日本公使館一等書記官大前・フランス国同一等書記官加藤の2氏が上陸して大野氏宅に来る。ここにおいて私は両氏に面会する。そして午後4時より大野氏宅を出発して右両氏と乗船する。このとき藤田領事・大野氏は桟橋まで見送りに来る。午後5時セダン号はシンガポール港を出船した。この船に日本人の乗客は大前・加藤・田原・後藤・坂本・周東外3人、西洋人120名、中国人200名なり。 東京堀江丁19番新居支店 周東喜三郎
2025.09.28
ド軍指揮官 佐々木朗希に賛辞止まらず「全てが格段に良くなっている」60発男からの奪三振を絶賛9/27(土) デーブ・ロバーツ監督「彼の球の質は全く落ちていなかった。むしろアロザレーナにヒットを許して、そこからどう反応するかを見ることができて良かった。彼は見事に、動じることなく投げきった。そういう姿は常に期待していたものだ。我々は彼にワクワクしている。いや、“ワクワクしている”と言い切れる。彼に闘志や感情が出てきているのはチームにとって良いことだ」 残り2試合となったレギュラーシーズンで登板するか「いや、もう投げない」ワイルドカードシリーズ初戦を迎えるのか「様子を見てみよう。厳しいが、良い判断をしなければならない」 ローリーとの対戦について「あの対戦は見たかった。朗希はしっかり投げたし、彼の球の良さを物語っていた。十分な速球で打者を正直にさせて、そのうえでスプリットは特別な球だ。見ての通り、空振りを奪っていた」 数日前に佐々木はシーズン序盤とは別人のようだと言っていたが、ローリーとの対戦はそれを象徴するようなものかと問われると「まさにそうだ。4月なら同じ結果にはならなかっただろう。今の彼は日本時代のような制球を取り戻している。速球はかつてのように生きているし、スプリットもストライクに見えて最後にストンと落ちる。要するに、彼は今、全く違う投手になっている。自信も、球も、体の状態も、全てが格段に良くなっている」
2025.09.27
清涼飲料水が「大腸がんの転移」を加速させる可能性...新たな代謝経路が関与か?【最新研究】テキサス大学MDアンダーソンがんセンターの研究チームは、多くの清涼飲料水に含まれるブドウ糖と果糖の混合物が、がんの転移を直接的に引き起こすことを前臨床研究で明らかにした。がんの転移とは、がん細胞が原発部位から他の臓器へと広がる現象を指す。転移は、がんが進行した段階で起こり、大腸がん患者の死亡原因の多くを占めている。「清涼飲料水のリスクを正しく理解するには、がんの発症だけでなく、何ががんを悪化させるのか、そして転移を加速させる可能性があるかを検証する必要がありました。(...)早期と後期のがんは同じではありません。遺伝子変異、代謝、生物学的特性も異なります」大腸がんは結腸がんと直腸がんを指し、アメリカがん協会の推計によると、2025年には結腸がんが約10万7320件、直腸がんが約4万6950件の新規症例が報告される見込みだ。大腸がんは、男女を合わせたがん死亡原因の第2位であり、アメリカでは2025年だけでおよそ5万2900人が亡くなると予測されている。体重過多や食生活など、大腸がんの半数以上は変更可能なリスク因子に起因しているとされている。今回の研究では、進行した大腸がんに対する清涼飲料水の影響を調べるため、マウスモデル、ヒト細胞株、ヒト由来サンプルを用いた前臨床実験を実施。ブドウ糖(グルコース)と果糖(フルクトース)の混合物、そしてそれぞれ単体の影響との比較が行われた。果糖単体での先行研究では、実際の清涼飲料水(加糖飲料/Sugar Sweetened Beverages:SSB)の構成を正確に反映できていないと研究チームは指摘する。清涼飲料水には通常、ブドウ糖と果糖の両方が含まれており、ヒトの体内では果糖が単独で存在することはないという。本研究では、清涼飲料水を砂糖(ショ糖/スクロース)や異性化糖(高フルクトース・コーンシロップ)を添加した飲料と定義。対象となる飲料には炭酸飲料に加え、エナジードリンク、甘いコーヒー飲料、栄養補助飲料、果汁飲料なども含まれるとユン准教授は述べる。アメリカでは、成人の半数以上、若年層では3分の2近くが清涼飲料水を毎日摂取していることになる。この傾向が若年層での大腸がんの増加と死亡率上昇と並行している点を研究チームは強調する。本研究では、ブドウ糖と果糖の混合物のみが「ソルビトール脱水素酵素(SORD)」と呼ばれる酵素を活性化することが確認された。この酵素はグルコース代謝を促進し、コレステロール経路を活性化することで、「最終的に転移を促進する」という。肝臓は大腸がんの転移先として最も一般的な部位であるが、この経路ががん細胞を移動しやすくさせ、転移を促進していると考えられている(なお、この経路はコレステロールを下げるスタチン系薬剤が標的とする経路と同じである)。しかし、ソルビトール脱水素酵素(SORD)を阻害した場合、たとえ糖分の混合物が存在していてもがんの転移速度は遅くなった。この結果から、ソルビトール脱水素酵素(SORD)を標的とすることで、がんの転移を抑制できる可能性があると研究チームは指摘する。「腫瘍がすでに形成された段階でも、清涼飲料水を断つことで大腸がんの転移を抑えることができました。つまり、病気の進行後でも食生活の見直しに効果があるということです」とユン准教授は語る。ただし、臨床応用にはヒトを対象とした治験が必要だという。ユン准教授のこれまでの研究では、清涼飲料水の適度な摂取量でも、肥満の有無にかかわらず早期の大腸がん細胞の増殖を促進することが示されている。そして今回の最新研究では、進行がんにおいても清涼飲料水の制限や、ソルビトール脱水素酵素(SORD)を標的とする治療法が有効である可能性を示す結果となった。つまり、清涼飲料水の摂取量を減らすなど、食事指導の見直しにもつながるとして、ユン准教授は次のように述べる。「次のステップは、これらの結果がヒトにも該当するかを検証することです」
2025.09.27
栃木県の友人から、大きな梨が送ってきたみずみずしい梨を食べなから、友人と一緒に奥日光を巡ったことを思い出す朝夕涼しくなってきた旅の季節、食欲の秋御礼の手紙に、通信135号と『安居院庄七と鷲山恭平』の本を添えて、レターパックで送る。2025年9月27日K 様 酷暑の夏がようやく終り、朝夕涼しくなってきました。 みずみずしい梨ありがとうございました。おいしく頂いています。 今年2月に出版した『安居院庄七と鷲山恭平』と通信135号を同封します。 今回の本はクラウドファンディングであまり資金が集まらず、・・・・本づくりも終了します。朝ドラ『あんぱん』も昨日で終了しました。「何のために生まれたのか?何をして生きるのか?」何のために生まれたのか?報徳の精神、札幌農学校精神を伝えるために本を20冊以上出版し、図書館に寄贈してきました。鈴木藤三郎の「報徳の精神」とは、「私たちは先人のお蔭でいまここに仕合せにいる。そうであれば、私たちも次の世代に為に何かよいものを遺さなければならない」神奈川県立図書館などに寄贈した本が「貸出中」になっていて喜びました。 何をして生きるのか? おかげさまで、○○で引き続き非常勤職員として勤労しています。鈴木藤三郎の「報徳の精神」とは「仕事を通じて世の中に推譲する」ことでもあります。 本づくりを終了し、現在、坐禅を毎日して自分をみつめています。 (略) どうぞ健康にご留意ください。 奥様にもよろしくお伝えください。 ありがとうございました。通信135号より(抜粋)二宮尊徳の会」通信第135号 2025.9.159月15日(月)・神奈川県内の「安居院庄七と鷲山恭平」の収蔵状況。神奈川県立図書館、平塚市、相模原市、松田町、鎌倉市、秦野市、厚木市、小田原市、藤沢市、桐蔭学園大学図書館・静岡県内の「安居院庄七と鷲山恭平」の収蔵状況。(Mさん寄贈担当)静岡県、森町、袋井市、御殿場市、富士市、掛川市、菊川市、静岡市、湖西市、牧之原市、沼津市、三島市、富士宮市、浜松市、静岡文化芸術大学・秦野市立図書館・公民館図書館では3館で「貸出中」になっている。11月1日秦野市で「報徳サミット」が開催される。全国の二宮尊徳先生ゆかりの市町村が秦野市に一堂に集い、報徳仕法の検証を通してこれからの人づくりや町づくりに必要な取組を学ぶため全国報徳サミット秦野市大会が開催される。・神奈川県立図書館に次いで鎌倉市立図書館でも「安居院庄七と鷲山恭平」が「貸出中」になっている。嬉しい🥳
2025.09.27
元照ノ富士が師匠の苦労明かす「何でこんなことで怒ってんのって思ったけれど」元旭富士の気持ちが分かった【大相撲秋場所】9/21(日)伊勢ケ浜親方(元横綱照ノ富士)が相撲博物館でのトークショーに参加した。 掃除など生活面で弟子の指導に苦労している、と明かした親方。イベント後に取材に応じ「うるさく言わないと分からない。ほったらかしにしてもいいけど、そういう性格じゃないから。気持ちが入るとつい怒っちゃう。覚えてほしいという思いが強い」と、時折苦笑を浮かべて語った。 自身の師匠だった宮城野親方(元横綱旭富士)を挙げ「(現役の時は)なんでこんなことで怒ってんのって思ったけれど。自分が今、怒っています」と話した。部屋を継承して3カ月。師匠の責任感を胸に、弟子の指導に頭を悩ませている。
2025.09.27
夜間飛行 サン=テグジュベリ 山崎庸一郎訳4p.25「監督ロビノーは、詩ではなく報告を提出してもらいたい。監督ロビノーは、その職権をよく活用して、従業員の熱意を刺激してもらいたい」そんなわけで、彼は毎日のパンにとびつくように、人間の過失にとびかかっていった。酒を飲んで機関士にも、幾晩も徹夜した飛行場主任にも、着陸時にバウンドした操縦士にも。リヴィエールは彼のことをこう評していた。「あまり頭はよくないが、そのためにかえって役に立つ」と。リヴィエールが定めた規則は、リヴィエール自身にとっては、人間の認識にもとづいていたが、ロビノーにとっては、もはや規則の認識しか存在しなかった。リヴィエールは、ある日、彼にこう言ったことがあった。ーロビノー、出発が遅延した場合はすべて、精励賞を取り消すべきだ。ー不可抗力の場合もですか?霧が発生した場合もですか?ー霧が発生した場合もだ。するとロビノーは、不正に陥る事も怖れないこのような峻厳な上司を得たことで、一種の誇りを感じるのだった。・・・彼はそのあと、飛行場主任たちにたいして、こう繰り返した。ーきみたちは、6時15分の出発を指示したじゃないか。われわれとしては精励賞を出すわけにはいかんぞ。ーでも、ロビノーさん、5時半には、10メートル先も見えませんでしたぜ。ー規則は規則だーでも、ロビノーさん、霧を追っ払うわけにはいきませんよ!するとロビノーは、謎の沈黙のなかに閉じこもってしまうのだった。彼は上層部に所属していた。彼は上層部に所属していた。これら頤で使える人間たちのなかで、彼だけが、人間を罰することによって、どんなふうに時間を改善できるかを知っていたのだ。「あの男はなにも考えない。だからこそ、まちがった判断が避けられるのだ」とリヴィエールは彼を評していた。機体を破損させた場合、その操縦士は無事故賞を失うことになっていた。ー森のうえで故障したときもですか、とロビノーはたずねた。ー森のうえだろうと変わりはない。
2025.09.27
195二宮翁夜話巻の2【27】尊徳先生はおっしゃった。「仏書に、光明遍照十方世界、念仏衆生摂取不捨という。光明とは太陽の光をいう。十方とは東西南北乾坤巽艮の八方に、天地を加えて十方という。念仏衆生とは、この太陽の徳を念じて慕う、一切の生物をいう。天地の間に生育する物、命あるものはもちろん、無情の草木であっても、皆大陽の徳を慕って、生きることを念とする、この念ある物を仏国ゆえに念仏衆生というのである。神国であれば念神衆生と読めばよい。だからこの念のある者はもらさず、生育をyとげさせて捨てることがないという事で、太陽の大徳を述べたものである。我が国の天照大神の事である。このように太陽の徳は、広大であるが、芽)を出そうとする念慮、育とうとする気力がない物は仕方がない、芽を出さんとする念慮、育とうとする生気ある物であれば、皆これを芽を出させ、育たせるのである。これは太陽の大徳である。我が無利足金貸付の法は、この大陽の徳にかたどって、立てたものである。だからどんな大借であっても、人情を失わず利息を滞りなく済せている者が、またぜひとも皆済して他に損失をかけるまい、という念慮がある者であれば、たとえば、芽を出したい、育ちたいという生気のある草木に同じであれば、この無利子金を貸して引き立てるがよい。無利子の金であっても、人情がなく利子も払わず、元金をも踏み倒そうとする者は、すでに生気のない草木と同じで、いわゆる縁なき衆生である。これをどうともすることができない、捨て置くのより外に道がない。【27】 翁曰く、仏書に、光明遍照(こうみやうへんせう)十方世界、念仏衆生(ねんぶつしゆじやう)摂取不捨(せつしゆふしや)といへり。光明とは太陽の光を云ふ。十方とは東西南北乾(いぬゐ)坤(ひつじさる)巽(たつみ)艮(うしとら)の八方に、天地を加へて十方と云ふなり。念仏衆生とは、此の大陽の徳を念じ慕ふ、一切の生物を云ふ。夫れ天地間に生育する物、有情(うじやう)蠢動(しゆんだう)の物は勿論、無情の草木と雖(いへども)、皆大陽の徳を慕ひて、生々を念とす。此念ある物を仏国故に念仏衆生と云ふなり、神国にては念神(ねんしん)衆生と読むべし。故に此の念ある者は洩さず、生育を遂させて捨て玉はずと云ふ事にて、太陽の大徳を述べし物なり。則ち我が天照大神(あまてらすおほみかみ)の事なり。此の如く太陽の徳は、広大なりといへども、芽を出さんとする念慮、育てんとする気力なき物は仕方なし。芽を出さんとする念慮、育たんとする生気ある物なれば、皆是を芽だたせ、育たせ給ふ、是れ太陽の大徳なり。夫れ我無利足金貸附の法は、此の太陽の徳に象(かたど)りて、立てたるなり。故に如何なる大借といへ共、人情を失はず利足を滞りなく済し居る者、又是非とも皆済して他に損失を掛じ、と云ふ念慮ある者は、譬へば、芽を出したい、育ちたいと云ふ生気ある草木(くさき)に同じければ、此の無利子金を貸して引立べし。無利子の金といへども、人情なく利子も済さず、元金をも蹈倒(ふみたふ)さんとする者は、既に生気なき草木に同じ、所謂(いはゆる)縁無き衆生なり。之を如何(いかに)ともすべからず、捨て置くの外に道なきなり。
2025.09.27
195二宮翁夜話巻の2【31】尊徳先生がおっしゃった。「世界万般皆同じく一理である。私は一草をもって万理をきわめた。中庸に、「その書始めは一理を言い、中は散じて万事となり、末はまた合して一理となる、これをはなてばすなわち六合にわたり、これを巻けば退いて密にかくる。その味い窮りなし」とある。今たわむれに、一草をもってこれを読んでみよう。このようだ。この草は始めは一粒の種である。蒔くと発して根や葉となり、実れば合して一粒の種となる、これを蒔いて植れば世界に満ち、これをしまえば密にかくれる、これを食すればその味い窮りなしと。また仏語に、本来東西無し、何れのところに南北ある、迷うがゆえに三界城、悟るが故に十方空、という。また一草をもってこれを読んでみよう。このようだ。本来根葉はない、どこに根葉があろう植えるがために根葉の草となり、実るがために根葉空しいと、ハハハ【31】翁曰く、世界万般皆同じく一理なり、予一草を以て万理を究(きは)む。儒書に、其の書始は一理を言ひ、中は散じて万事となり、末復合して一理となる、之(これ)を放てば則ち六合(がふ)に弥(わた)り、之を巻けば退いて密に蔵(かく)る、其の味ひ窮(きはま)りなし、とあり。今戯(たはむ)れに、一草を以て之を読まん。曰く、此の草始めは一種なり、蒔けば発して根葉となり、実法(みの)れば合して一種となる、之を蒔き植ゆれば六合に弥(わた)り、之を蔵(をさむ)れば密(みつ)に蔵(かく)る、之を食すれば其の味ひ窮りなし。又仏語に、本来東西無し、何れの処に南北ある、迷ふが故に三界城、悟るが故に十方空、とあり。又一草を以て之を読まん。曰く、本来根葉なし、何れの処に根葉ある、植ゆるが故に根葉の草、実法るが故に根葉空し、呵々(かか)
2025.09.27
31 「鈴木藤三郎伝」鈴木五郎著140~141ページ 明治30年1月20日から2週間ほど、グラスゴー、グリーノック、リヴァープール各地の機械製造所を回って、注文した機械の製作状況を、実際に視察もし、督励もして2月2日、またロンドンに帰った。藤三郎の出発後の機械の製作や発送の監督は、すべて三井物産会社ロンドン支店に、インボイス尻金高の2パーセント半の手数料で委託した。2月5日には、同社支配人渡辺専次郎、同支配人福原から送別のためにゲーテー・レストラントに招かれて夕食をしたあと、ドゥリー・レイン・シアターに案内された。トーマス・ハミルトン会社社長のハミルトンからは、記念として製図器械一箱を贈られた。また藤三郎は、21ポンドで金鎖つきの金時計を買って、今井に進呈して、半年に近い彼の協力に対して感謝した。 藤三郎が、藤山の場合にも今井の時にも、「阿呆の一つ覚え」のように金時計を礼に贈ったということは、彼が、こうした装飾品には全く関心を持たず、したがって、もっとも実質的な金時計以外には、気のきいた分別も出なかったことを示すものとして、興味がある。1月20日 晴 早朝より正午まで翻訳書類を取り調べる。午後より市内へ行き、ラスペ商会及び郵船会社に行き、そして午後6時宿に帰る。これより旅装をととのえて、この夜10時5分ビクトリア駅を出発して蘓国(スコットランド)のグリーノツク市に向かう。1月21日 曇 午前7時30分グラスゴーに到着する。これから直ちにスチワード会社に行き、メインパイプの図面を請求する。これよりワツソンレードロー社に行き、工場を見物し、分蜜機の製品を求める。これよりワッソンレードロー会社に行き、無気缶の製品を見る。そして同社長は私をクラブに案内して昼食をご馳走してくれた。これよりまたデースチワード会社に行き結晶器(アパラタス)の構造について相談した。これより午後7時当市を出発して8時10分グリーノック市に到着し、タンタインホテルに宿をとる。1月22日 曇り大風 午前10時より当市ヒウストン会社の工場に行き、社長ヒウストン氏に面会する。これより兼ねて当会社に注文した器械の構造について相談する。午後2時より市内を散歩して宿に帰る。1月23日 晴 午前10時よりヒウストン工場へ行って、事務長に面会する。これより同氏の案内で当会社の新工場を見る。また製図師に面会して総設計の相談をする。午後3時より当市の博物物を見物する。1月24日 晴 この日は例の休業日なのでホテルで図面及びその他の取調べをする。1月25日 晴 30度(摂氏-1度) 午前10時よりヒウストン会社に行って、社長とフライホイル及びヒロツプレーを相談する。これより事務長の案内で当地の骨灰製造所(ジョン・ポインターソン及びマクドナルド)会社の工場に行って、骨灰製造を詳しく見物する。当工場は他人の見物を厳禁しているという。しかし今回はヒウストンの頼みによって特に許可したという。規模盛大で種々の副産物も兼業している。午後2時よりまたヒウストン工場に行って、設計図面の相談をして午後6時宿に帰る。骨灰見本を得る。骨灰値段 1英ポンドについてグリノック居払い 8ポンド15シリング 二重袋入り10シリング 計9ポンド5シリング1月26日 晴 29度(摂氏-2度) 午前10時20分よりヒウストン氏より馬車で私を迎えにきて、これより当地(精糖所)ジー・セリアルスコンパニー・リミテッド(株式会社のこと)に行き、製造工場を見物する。この工場では通常の砂糖製造は一部分で、これまた大規模で盛大である。午後3時よりまたヒウストン工場へ行き、図面を見る。そして5時30分宿に帰る。*この日よりラスゴーのプレーヤーカンプベル氏が来た。1月27日 曇り 29度 午前10時ダンカンスチワード会社の技師ワッソン氏が来る。注文した器械について相談した。そして11時30分汽車で私たち2人グラスゴーに行く。プレーヤーカンプベル及びマクリイン会社に行く。同社長はこれより私たちを案内して当地の酒精製造所に行き、蒸留器械を見る。これよりコーヒーエキス製造所に行き、無気缶の装置を見る。そしてプレーヤー工場に行き、無気缶の製造について大いに相談するところがあった。午後6時当地を発車して7時グリノツク市トンタインホテルに帰る。1月28日 晴 午前10時よりヒューストン会社の工場に行き、製図を見て相談する。また午後2時より同所に行き、そして6時宿に帰る。1月29日 晴 午前10時よりヒューストン会社のヒッシャー氏が来て、氏の案内で当地で有名な造船所ヴィクトリアドックを見物する。またシティオフローム号の内部及び器械を見物する。これより午後1時同氏に分れて宿に帰る。このときグラスゴーのワツソンレードロー会社の事務員が来て、分蜜機の製図について相談する。この夜当ホテルで当所紳士令嬢100余人で盛大な舞踏会があった。1月30日 大雪 午前10時よりヒューストン会社に行き、骨灰製造器械及びその他の器械でこれまで契約が未定の分の値段をとりまとめて、更に注文の約束をする。これより宿に帰る。このときプレーヤー氏が来て、そこで同氏とアルコール製造器械の値段を話し合ってようやくとりまとめ、同氏に注文することに決定した。午後7時当所で会食して、氏はこれよりグラスゴーに帰る。1月31日 日曜 晴 今日は例の休業につき、ホテルで翻訳その他の取調をする。2月1日 晴 午前10時よりヒューストン自宅へ行き、(同氏は病気である)、同氏に面会して前後注文の諸器械についていろいろ相談した。これより同会社の工場に行き、製図を受け取る。ここに同所を去って午後6時出発して7時30分グラスゴーに到着する。このときプレーヤー氏は、駅まで私たちを迎えに出てきてくれた。これより同氏は私たちを自宅に案内して、この夕食のご馳走があり同婦人も会食した。そして当地をこの夜10時45分発の汽車で出発した。2月2日 曇り 午前5時10分リバプールに到着する。夜未明で当地のノースウエスタンホテルでしばらく休憩した。午前9時より当地のジャムスプカナン会社の工場へ行き、社長プカナン氏に面会して骨灰キルンの製図及び組立に必要な説明を聞く。これより当所を去って午後2時発車し午後6時ロンドンのユウストン駅に到着する。これより馬車で直ちにハムステットパウラメンタトヒル16番地のチャップマン方の宿に帰る。午後7時である。このとき国民新聞主筆徳富猪一郎氏に面会する。同氏は通弁深井氏と2人で最近このホテルに泊まったという。2月3日 曇 午後小雨降 午前10時よりアーレンス商会に行く。セフェル氏と面会して注文品の約束を相談した。これより郵船会社に行き、根岸氏及び由井氏に面会して土佐丸号の出帆日時を聞く。これより三井会社に行き、渡辺専次郎氏に面会して注文品の約束書を受け取る。これよりラスペ商会に行き、これより午後になってハミルトン会社に行き、注文品の調書を促す。これよりトテナンコートロードのシウルブレッド(大きい勧工場)に行き、雑品を買う。これより直ちに宿に帰る。午後6時である。2月4日 小雨降 午前10時アーレンス商会のセッフェル氏が訪ねて来て契約書にサインする。これより正金銀行に行って、金100ポンドを受け取る。これより市内に行って雑品を買い求める。そして宿に帰る。この夜ハミルトン氏の自宅に行って、同氏から製図器械1箱を記念としていただく。2月5日 雨降 早朝より両人で各注文した器械の説明書を翻訳した。午後5時30分カンノンストリートのハミルトン会社に行き、これより三井会社に行き、この夜三井会社支配人渡辺専次郎氏及び副支配人福原氏2人は私たちをゲーテーレストランドで夕食を饗応される。これよりドルウワー・レインスエター(演劇場)に案内して見物する。そして夜12時宿に帰る。2月6日 雨降 早朝よりハミルトン会社に約定した注文品の説明書等を翻訳した。午後2時より書類を取調べて荷造りの用意をした。2月7日 晴 日曜 この日は例の休業である。午前10時頃徳富氏としばらく談話する。これより日誌及び手紙をしたためる。2月8日 晴 この日正金銀行で金50ポンドを受け取り、午前9時よりハミリトン氏の自宅に行き、ハミルトン氏に面会して、明日出発の暇乞いをなす。これより郵船会社に行き、渡辺氏に面会する。これよりハミルトン会社に行き、ロツカード氏と午後6時より送別のためホルボーンレストランドホレルで会食する。これよりガワストリート76番地に行き、浅野宗一郎氏、通訳小林・三浦諸氏に面会する。そして直ちに宿に帰る。夜9時なり。
2025.09.27
1988年放送の第1話『アンパンマン誕生』をアニメ公式YouTubeチャンネルで配信中!『アンパンマン誕生』<あらすじ>ある日のこと、ジャムおじさんがパンを焼いていると、空から流れ星が降ってきてパン工場に落下! いのちの星がパンに宿り、愛と勇気で人々を助ける「アンパンマン」が誕生したのです。いっぽうそのころ、嵐の海に浮かぶバイキン島では、カミナリと共にもうひとつの命が誕生していました。
2025.09.26
《朝ドラ完結》のぶは「何者にもなれなかった女性」だった…脚本の中園ミホが告白する『あんぱん』全130話で“どうしても描きたかったシーン”のぶ「精一杯頑張った積りやったけど何者にもなれんかったそんな自分が情けなくて世の中に忘れられたような置去りにされたような気持ちになるがよ」この台詞私の友達が同窓会で溢した言葉を使ったびっくりするほど反響が大きく「のぶは私だ」という人が沢山現れた
2025.09.26

夜間飛行 サン=テグジュベリ 山崎庸一郎訳4p.21リヴィエールはペルランを観察していた。20分後、車からおりるとき、この男は、疲れとけだるさを味わいながら群衆のなかに入ってゆくだろう。そして。おそらくはこう考えるだろう。「ひどく疲れた・・・・いやな仕事だ!」・・・・・リヴィエールは考えた。「どんな群衆のなかにも、目立たないながら、すばらしい使者となる人間たちが存在する。しかも、彼ら自身はそのことを意識していない。ただし・・・」・・・・リヴィエールは彼を祝福した。「どうやってうまく切り抜けたのかね?」・・・・ペルランはまず、退路を断たれてしまったことを説明した。「ですから、ほかにづしようもなかったんです。」そのあとは、もうなにも見えなかった。雪で視界がきかなかったのだ。しかし、はげしい気流が、気流が機体を7000メートルまで押し上げてくれたおかげで、彼は救われたのだった。「山脈を越えるあいだじゅう、尾根すれすれの高度が維持されたにちがいありません」彼はまた、ジャイロ*についても語り、空気の取り入れ口の位置を変えねばならないと言った。雪でふさがってしまうのだ。*飛行機のように前後・左右に加え上下にも動くものを操縦するには、自機の姿勢(傾き)や方位を知る必要が有ります。物体の角度や角速度(=回転の速さ)、角加速度のセンサである「ジャイロ」を利用して姿勢や方位を検出する機器がジャイロ計器「なにしろ、そいつが凍りついてしまうんですよ」ついで別の気流がペルランを押し下げた。高度3000メートルほどなのに、どうしてなにとも衝突しないでいられるのか、彼には理解できなかった。それは、彼がすでに平野のうえを飛んでいたからだった。「晴れた空のところに出たんで、突然そのことに気づきましたよ」最後に彼は、その瞬間、洞穴から抜け出してきたような気がしたといった。ーメンドサも嵐だったかね?ーいいえ、着陸したときは、晴れていて、風もありませんでした。でも嵐はすぐうしろからつけていたんですよ。・・・高い山頂は雪雲のなかに姿を消していたが、山裾のほうは、黒い溶岩のように平野に流れ出ていた。町がひとつひとつ呑み込まれていった。「あんなのは見たことがありませんよ・・・」リヴィエールは監督のほうを振り返った。ー太平洋からのサイクロンだよ。予報は間に合わなかった。それに、あんなサイクロンがアンデスを越えたためしはないんんだ。こんどのサイクロンが、東に向かって進路をとりつづけるなど、予想もつかないことだったのだ。
2025.09.26

31「鈴木藤三郎伝」鈴木五郎著 140~141ページ 明治29年(1896年)12月18日から翌年1月19日までの間に、英・米・仏・独の各機械製造会社と、予定した精製糖機械購入の契約を、自分でも満足する位に割安に結んで、この洋行の使命を半ば果たしたのであった。ジュー・エンド・ヒューストン会社から精製糖機械類、ジェームス・プカナン会社から骨灰製造機械類、トーマス・ハミルトン会社から分蜜機その他、ザンガハウゼン機械製造会社からヒルター・プレス類を主として買い入れた。その金額は、機械代だけで約1万5千ポンド(当時の日本金で約15万円)に達していた。明治30年1月1日 西暦1897年 晴 今元旦皇国に向かいて遙かに新年を祝す。そして電報で東京本社に年賀詞を発する。これより今井氏と2人でキルリツクク氏(写真師)に行き、そして帰途アーレンス商会のセッフェルと会う。これより宿に帰って、同氏と談話する。これより日本にあて数通の年始状及び報告書をしたためる。1月2日 濃霧 早朝より午後1時まで前日よりの書状をしたためる。これより今井氏は右の日本書状を市の郵便局へ持って行く(この日、日本メール午後2時締めきりである)、この日の濃霧これまでないくらいはひどい。実に終日すぐ先が分からない、そのため市内の鉄道の衝突、馬車の転覆など数ヶ所で起こり人々の怪我もだいぶあった。1月3日 曇り 日曜 今日は早朝より2人で(今井氏は翻読し、私はこれを筆記した)、各工場よりの見積書及び説明書の翻訳を行う。1月4日 曇り 前日同様に翻訳を行う。午後2時30分よりセッフェル氏が来る。3時頃帰る。この夜ハミルトン三男ブルース氏と私たち3人でテストランドコメディシアター(演劇)を見物して夜1時、宿に帰る。1月5日 曇り 今朝グリーノツク市のヒューストン氏が来て、設計及び見積書で午後2時まで相談した。これより前日のとおり翻訳をする。1月6日 晴 午後曇り 午前9時よりプレーヤーカンプヘル氏が来て、無気缶の製図について午後3時まで相談する。これよりセフエル氏が来て、見積書及び図面を受け取る。この夜も前同様に翻訳をする。1月7日 曇り 午前9時より今井氏と2人でハミルトン会社に行って、社長と同行してまたワーシングトン会社に行ってポンプを見る。そして正金銀行に行って、中井氏に面会する。午後5時に宿に帰る。この夜も前同様に翻訳をする。1月8日 雨降午前7時20分キングクロース駅を出発して、午後12時20分ハツダースヒルド市に到着し、当地のトオマスブロードベンド及びヒソン会社に行き、分蜜機及び工場を見る。そして午後3時同所を出発して、午後8時ロンドンに帰る。1月9日 曇り 早朝より各所の説明及び代価表を取調べ、さらに翻訳をする。この夜7時よりハミルトン氏の自宅へ行き、分蜜機の件を相談する。1月10日 日曜 曇り 午前9時三井物産会社の山本氏が来た。また高田商会の下城氏が来た。しばらくだけで両氏は帰った。これより前日同様に取調のための翻訳を終日する。1月11日 曇り 今井氏は市内に行って三井及びハミルトン会社へ行き12時帰る。このときハミルトン氏とワッソンレードロー技師が来て、分蜜機について相談する。これよりまた見積書の取調べをする。1月12日 曇り 午前9時30分ヒューストン氏が来て、見積書について12時まで説明して帰る。午後1時セツフェル氏が来て、氏帰る。マタワーシングトン技師が来て4時3分まで相談する。これより今井氏は市内に行き、三井会社に行き、6時帰る。私は翻訳書類を取り調べる。1月13日 曇り 午前10時カンノンストリート90番のハミルトン会社に行き、ワッソンレートソー会社の技師に面会して分蜜機の約束をする。そして直ちに宿に帰る。午後2時セッフェル氏が来てフフク式機械を注文することに決定する。氏が帰ると直ちにシェムスプカナン氏が来て、骨炭キルンについて数時間相談して約束が成る。午後7時30分同氏は帰る。1月14日 晴 今井氏は朝より市内に行き、ハミルトン会社及びラスペ商会へ行き、午後2時帰る。私は朝より設計図を作製する。この日朝9時三井の渡辺氏が来る。この夜また三井の山本氏が来る。三井ハミルトン両会社より船積荷物の送り状を受け取る。1月15日 晴朝より製図を訂正する。午後1時ヒューストン氏が来て、そこで製糖図の一部を同氏に約束する。午後5時に同氏は帰る。この夜ハミルトン氏の自宅へ行って、ワシントン製ポンプを相談した。1月16日 曇、夜雪降 午前9時プレーヤーカンプペル及びマクリイン社長が来て、無気缶について終日相談する。そしてアレンス商会のセッフェル氏が来て、そこでプレーヤー会社へ無気缶を注文することに決定する。午後5時両氏帰る。1月17日 日曜 晴 午前10時三井の渡辺専二郎氏が来て1時ごろまで談話して帰る。午後より書状をしたためる。この夕方私は今井氏と公園に行き、雪の景色を見て散歩する。この日手紙を書く。1月18日 晴 早朝より三井及びハミルトン会社の送り状並びに見積書明細等を翻訳して記録に載せる。1月19日 曇り 今日早朝よりタンクの製図をなし、夕方までに同図を封入して日本に送る。この日午後3時頃アーレンス・セッフィル氏が来て、器械発注の契約書にサインする。この日今井氏はアメリカの角糖の説明書を翻訳する。この夜三井より山本氏が来て注文品の契約書を持参した。
2025.09.26
195二宮翁夜話巻の2【26】綾部の城主の九鬼侯が御所蔵の神道の書物十巻、「これを見よ」と尊徳先生に送られた。先生は、読む暇がないと、2年封を解かないでおられた。あるひ先生は少し病気となり、私(福住正兄)にこの書物を開いて、病床で読ませられた。先生はおっしゃった。「この書物のようなものは、みんな神に仕える者の道であって、神の道ではない。この書の類が何万巻あっても、国家の用をなさない。神道というものは、国家のため、今日上、用がないものであろうか。中庸にも、『道はしばらくも離れてはならない。離れることのできるものは道ではない。』といった。世の中に道を説く書籍は、おおよそこの類である。この類の書があっても益はなく、無くても損はない。私の歌に「古道に積もる木の葉をかきわけて 天照らす神の足跡を見む」とよんだ。古道とは皇国固有の大道をいう。積もる木の葉とは儒仏を始め諸子百家の書籍の多いのをいう。皇国固有の大道は、今現に存しているが、儒仏諸子百家の書籍の木の葉のためにおおわれて見えないから、これを見るには、この木の葉のような書籍をかき分けて大御神の足跡はどこにあろうかと、尋ねなければ、真の神道を見る事はできない。君たちも落ち積っている木の葉に目をつけるのはは、大変な間違いじゃ。落ち積った木の葉をかき分けて捨てて、大道を得る事をつとめなさい。そうでなければ、真の大道は、決して得られないぞ。 【26】綾部の城主九鬼侯、御所蔵の神道(しんだう)の書物十巻、是れを見よとて翁に送らる。翁暇なきを以て、封を解き玉はざる事2年、翁一日少しく病あり、予をして此書を開き、病床にて読しめらる、翁曰く、此の書の如きは皆神に仕ふる者の道にして、神の道にはあらざるなり、此の書の類(るゐ)万巻あるも、国家の用をなさず。夫れ神道と云ふ物、国家の為、今日上、用なき物ならんや。中庸にも、道は須臾(しばらく)も離るべからず、離るべきは道にあらず、と云へり。世上道を説ける書籍、大凡(おほよ)そ此の類なり。此の類の書あるも益なく、無きも損なきなり。予が歌に「古道に積る木の葉を掻(か)き分けて天照す神のあし跡を見む」とよめり。古道とは皇国固有の大道を云ふ。積(つも)る木の葉とは儒仏を始め諸子百家の書籍の多きを云ふ。夫れ皇国固有の大道は、今現に存すれども、儒仏諸子百家の書籍の木の葉の為に蓋(おほは)れて見えぬなれば、是れを見んとするには、此の木の葉の如き書籍をかき分けて、大御神の御(み)足の跡はいづこにあるぞと、尋ねざれば、真の神道を見る事は出来ざるなり。汝等落ち積りたる木の葉に目を付くるは、大(だい)なる間違ひなり。落ち積りたる木の葉を掻き分け捨て、大道を得る事を勤めよ。然らざれば、真の大道は、決して得る事はならぬなり。
2025.09.26

夜間飛行 サン=テグジュベリ 山崎庸一郎訳3遠いそのエンジンの響きは、しだいに濃密なものになってきた。・・・ー見えた!機はすでに、サーチライトの光芒のなかを飛んでいた。・・・いよいよ格納庫のまえで停止し、整備員や職工たちが郵便物をおろそうと寄り集まってきたのに、操縦士のペルランは動こうとはしなかった。ーどうしたんです?なんでおりないんです?・・・彼はゆっくりとうなずきながら、まえかがみになって、なにかを操作していた。・・・・彼はまず、彼らに悪態をついてやろうと思った。だが彼は好人物だった。ー・・・おごってもらうぜ!そして機からおりた。彼は途中の話をしたかった。ーいやはや、まったく!・・・・たぶんそれだけいえば十分だと思ったのだろう。彼は革の飛行服を脱ぎに立ち去った。陰気な監督と黙りこくっているリヴィエールといっしょに、車でブエノスアイレスの市内に向かう途中、彼は憂鬱な気分になった。・・・サイクロンのなかでの格闘、すくなくとも、それだけは現実だ。・・・・彼はアンデス山脈を平穏に越えつつあった。・・・・奥行200キロにわたって、人間ひとり、生命の息吹や営みのひとつなかった。ただ、高度6000メートルでやっと越えられる切り立った尾根、まっすぐに垂れ下がる岩石のマント、怖ろしいばかりの静寂があるだけだった。トウプンガトの山頂付近にさしかかったときだった・・・・彼の周囲の山々が、最初の乱気流とともに揺らぎはじめたのはその時だった。強烈な行動はほとんどその痕跡を残さない。彼はもはや、自分を押し流した猛烈な乱気流の思い出をとどめていなかった。おぼえているのは、狂ったように灰色の焔のなかでもがきまわったことだけだった。彼はつくづく思った。「サイクロンなどなんでもない。なんとか逃げ出せる。だが、こわいのはそれ以前だ!あのような出合いだ!」
2025.09.25

夜間飛行 サン=テグジュベリ 山崎庸一郎訳p.14こんなふうに、パタゴニア、チリ、パラグアイからやってきた三機の郵便機は、南と西と北の三方向からブエノスアイレスめざして戻りつつあった。ブエノスアイレスでは、夜半、ヨーロッパ便を出発させようと、彼らの積み荷を待っていた。・・・全路線網の責任者であるリヴィエールは、ブエノスアイレスの滑走路のうえを縦横に歩き回っていた。彼は黙りこくっていた。三機の郵便機が到着するまでその一日は危惧に満ちたものでありつづけるからだ。一分ごとに、電報が手元にとどくにつれて、リヴィエールは、なにものかを運命から奪回し、未知の部分を減少させ、搭乗員たちを闇のそと、岸辺まで引きあげつつあることを意識するのだった。ひとりの整備工がリヴィエールに近づいて、無線局からの報告を伝えた。ーチリ線の郵便機が、ブエノスアイレスの灯が見えると言ってきました。ーそうか。ほどなくリヴィエールは爆音を聞くだろう。潮の満ち干と神秘にも満ちた海が、ながいあいだいきつ戻りつさせていた宝物をついに浜辺に引き渡すように、夜はすでにその一機を引き渡そうとしているのだ。やがて他の二機も夜の手から受け取るはずだ。・・・・ールルー、きみはいままで、色恋にうつつを抜かしたことがあったかね?ーいやあ!色恋なんて、支配人さん・・・ーわたしとおなじだ。その暇がなかったわけだ。ーええ、あまりリヴィエールは、その答えがにがいものであるかどうかを知ろうとして、声の響きに聞き耳を立てた。それはにがいものではなかった。この男は、過ぎ去った人生を前にして、みごとに板を削り終え、「よし、これでいい」とつぶやく指物師の静かな満足感を味わっている。「よし」、とリヴィエールは思った。「わたしの人生もこれでいい」彼は疲労からうまれたいっさいの悲しい想いを押し戻し、格納庫のほうに向かった。チリ線の郵便機の爆音が聞こえた。
2025.09.24
血糖値が改善する身近な香辛料は?~メタ解析地中海食に含まれるハーブ/スパイスが2型糖尿病患者の血糖プロファイルに及ぼす影響を調査したシステマティックレビューおよびメタ解析の結果、いくつかのハーブ/スパイス摂取が空腹時血糖、HbA1cおよびインスリン値の低下と関連していて、とくにショウガの摂取でそれらすべてが有意に改善したことを、スペイン・University of ZaragozaのMaria C. Garza氏らが明らかにした。Nutrients誌2024年3月7日号掲載の報告。地中海食には豊富なハーブ/スパイスが含まれていて、それらが血糖値やコレステロール低下作用、抗酸化作用、抗炎症作用などを示す可能性が示唆されている。そこで研究グループは、地中海食に一般的に含まれるハーブ/スパイスが2型糖尿病患者の血糖プロファイルに及ぼす影響を調査した。 PubMed、Web of Science、Scopusの各データベースを2023年9月まで検索し、2型糖尿病の成人患者の血糖プロファイルに対するブラッククミン、クローブ、パセリ、サフラン、タイム、ショウガ、黒コショウ、ローズマリー、ターメリック、バジル、オレガノ、シナモンの影響を調査した介入研究を適格とした。主要アウトカムは空腹時血糖値、HbA1c、インスリン値の変化であった。 主な結果は以下のとおり。●システマティックレビューの対象となった論文は77報で、このうち45報(45研究、3,050例)がメタ解析の対象となった。●空腹時血糖値が有意に改善したのは、ブラッククミン、シナモン、ショウガ、ターメリック、サフランであった(以下、括弧内は95%信頼区間)。 ・ブラッククミン摂取群:26.33mg/dL低下(-39.89~-12.77、p=0.0001) ・シナモン摂取群:18.67mg/dL低下(-27.24~-10.10、p<0.001) ・ショウガ摂取群:17.12mg/dL低下(-29.60~-4.64、p=0.0004) ・ターメリック摂取群:12.55mg/dL低下(-14.18~-10.86、p<0.001) ・サフラン摂取群:7.06mg/dL低下(-13.01~-1.10、p=0.020)●HbA1cが有意に改善したのは、ショウガとブラッククミンであった。 ・ショウガ摂取群:0.56%低下(-0.90~-0.22、p=0.0013) ・ブラッククミン摂取群:0.41%低下(-0.81~-0.02、p=0.0409)●インスリン値が有意に改善したのは、ショウガとシナモンであった。 ・ショウガ摂取群:1.69 IU/μL低下(-2.66~-0.72、p=0.0006) ・シナモン摂取群:0.76 IU/μL低下(-1.13~-0.39、p<0.0001)※各ハーブ/スパイスの最も一般的な摂取量は、ブラッククミン:500mg、シナモン:1,000mg、ショウガ:2,000mg、ターメリック:2,000mg、サフラン:30~100mg。 著者らは、本研究の限界として「それぞれのハーブ/スパイスの用量が不均一であるため、有効用量を考慮することはできなかった」ことなどを挙げつつ、「ショウガは、地中海食のハーブ/スパイスの中で、空腹時血糖、HbA1cおよびインスリン値の3つの検査結果すべてに有意な影響をもたらす独特のものであるようだ」とまとめた。
2025.09.24
「ロシア海上作戦の要、ついに初撃破!」対潜水陸両用機Be-12、ウクライナ無人機の猛攻で“壊滅ウクライナが希少なロシア製の水陸両用機を史上初めて破壊し、戦果を誇示した。22日(現地時間)、ウクライナ国防省情報総局(HUR)は特殊部隊「プリマリ」がこの日、クリミア半島でロシアの「Be-12・チャイカ」2機の破壊に成功したと発表し、その映像を公開した。公開された映像では、ウクライナ軍のドローン(無人機)が夜間飛行し、目標であるBe-12に接近する様子が確認できる。ウクライナ軍が主要な戦果として挙げたロシアのBe-12は、水陸両用機として対潜水艦および海上哨戒任務に従事する1950年代に設計され、1960年代に初飛行を果たした。最高速度は約540km/h、最大高度は約3,000mと旧式ではあるが、西側の情報機関は2023年、Be-12をロシアの海上航空パトロール作戦における重要な資産と位置付けた。その理由は、設計こそ古いが、潜水艦探知および照準用の高価なセンサーとシステムを搭載しているためである。特にBe-12は、黒海においてウクライナの海上ドローンが猛威を振るう前に早期発見できるため、致命的な脅威になる。ご存じの通り、伝統的な海軍を持たないウクライナは、爆発物やミサイルを搭載する海上ドローンの攻撃により、ロシアの軍艦に致命的な打撃を加え、大きな戦果をあげてきた。
2025.09.24
MLB、「ロボット審判」を来季から正式導入 ボール・ストライクの一部を自動判定…機構発表9/24(水)メジャーリーグ機構(MLB)は23日(日本時間24日)、2026年シーズンから自動ボール・ストライク判定(ABS)のチャレンジシステムを導入することを発表した。オープン戦、レギュラーシーズン、ポストシーズンの全試合で適用される。 MLBは2022年からマイナーでボールとストライクの判定の一部をカメラを使って行う、いわゆる「ロボット審判」をテスト。2025年はオープン戦、オールスター戦で試験的に導入してきた。来季からの導入について、6人の球団オーナー、4人の現役選手、1人の現役審判員で構成される競技委員会の投票により承認された。 試合はこれまで通り球審がボール・ストライクを判定。判定に異議がある場合、すぐに帽子やヘルメットに触れて「チャレンジ」できる。申告できるのは投手、捕手、打者だけで、チャレンジ権の回数は各チーム2回まで。成功した場合はチャレンジ権は保持される。延長戦で残りチャレンジ権がないチームには1回分が与えられる。 投球は打者ごとのストライクゾーンと比較され、ボールの一部でもストライクゾーンにかかっていればストライクと判定される。球審はチャレンジが行われたことを場内にアナウンス。判定結果はスコアボードなどにグラフィックで表示される。チャレンジのプロセスは約15秒で完了するという。◯MLBコミッショナーのロブ・マンフレッド氏「これまで競技委員会で採用されたルール改正は、定着して試合に勢いをもたらしてきました。ABSについても同じプロセスを用い、ファンの声に耳を傾け、マイナーリーグで徹底的にテストし、常にゲームをより良くすることを目指してきました」「この過程を通じて、選手に受け入れられる形でのシステム導入を検討してきました。全ての投球を自動判定するよりもチャレンジ方式を好む選手の強い要望が、今回の決定における大きな要因となりました。競技委員会が審判の重要な役割を維持しつつ、重要な局面で誤審を修正できる仕組みを導入し、しかも試合のテンポやリズムを損なわないというバランスを取ったことを称えたい。ファンのためにゲームを前進させるにあたり、MLB審判員の協力、そして選手たちの意見に感謝します」
2025.09.24
31「鈴木藤三郎伝」鈴木五郎著 139~140ページ こうした赤ゲットがもう一つある。それは、アメリカ大陸横断の汽車の中のできごとであったが、ある駅から一人のアメリカ娘が乗ってきて、汽車がこんで座席がなかったので、断りもしないで藤三郎のトランクの上へ平気で腰をおろした。それを見た藤三郎は、ムッとした顔で立ち上がると、いきなり、そのトランクをヒッタクッたので、その娘は、美事にヒックリ返ってしまった。ヤンキー・ガールの絶叫で、車中は総立ちとなった。娘は立ち上がると、金切り声を振り立てて、藤三郎に食ってかかる。それに加勢する男がある。藤三郎は、トランクをつかんだまま凄い顔をして、それをにらんでいる。 これには、同行の藤山もスッカリ参った。しかし、アメリカで、しかも相手が婦人で、それを東洋人が侮辱したというのであるから、放っておいたら、どんな大事件になるかも分かない。それで、マアマアと割ってはいって、やたらに頭を下げて、藤三郎に分らないのを幸い「この男は、少し頭が変なのだから・・・・・・」と、気違い扱いにまでして、ようやく納めた。あとで「なぜあんなムチャなことをしたのか?」と、藤山が聞いたら、「あのトランクの中には、出発のとき、母が道中を心配して、わざわざ方々のお宮やお寺にお参りして、いただいて来てくれたお守り札がはいっている。それに、自分が多年の苦心の結果である記録類も入れてある。その上に、娘ふぜいが遠慮もなく尻をのせるとはけしからん」と、藤三郎は、もう一度ヒックリ返しかねない剣幕だった。まだ一つある。ドイツのハンブルク市へ行ったときに、そこのカール・メーケル商店の主人シモン氏の宅へ、夕食に招かれたことがあった。いよいよ食堂が開かれるというので、「あなたが主婦の手をとって、食卓まで導くのです」と、同行の今井が注意すると、藤三郎は、「そんなことは、マッピラ御免だ。君、やってくれ」という。「それでも、それが招待を受けた主客の礼です」というと、「そんな礼儀をしなければ、飯を食わしてもらえないなら、わしは、このまま帰る」と言い出した。シモンスの家族の人々は、もう立ち上がって待っている。これには今井は弱って、やむなく自分が主客の身代りになって、急場のバツを合わした。欧米の男子には恐れなかった藤三郎も、婦人は、よほど苦手だったものらしい。
2025.09.24
「なんで今日は祝日なんだ」あんぱん・蘭子(河合優実)の“指スリスリ返し”にネット沸くも「朝ドラ受け見たかった」9/23(火) アンパンマンに何か足りないと感じていた嵩(北村匠海)は愛すべき悪役のばいきんまんを描く。そんなある日、嵩、のぶ(今田美桜)、蘭子、八木の4人で話していると、嵩、のぶが去った後、八木が蘭子に「一度断った君の取材、受けるよ」と自らの戦争体験の取材を受けると告げた。その後、場面は暗い部屋に変わり、八木が蘭子に1回目の従軍体験を告白。銃剣であやめた敵兵のポケットから財布が落ち、妻と子供の写真が出てきたことを泣きながら話すと、向かい合って座っていた蘭子は、八木の隣に行って優しく抱き寄せた。 ネット上で注目を集めたのは泣き崩れる八木の隣に座った蘭子の最初の行動。八木の左に座って八木の左手を右手で触り、握り直すと親指でスリスリした。その後、向き合って抱き寄せるのだが、指スリスリは9月2日放送の第112話で、蘭子が持つ傘を八木が握って指をスリスリしたことからネット上で話題となっていた。 八木と蘭子の恋の行方が注目されている中、Xでは「蘭子が親指スリスリしてる!」「蘭子ちゃん、八木さんの指スリスリしてる」と”指スリスリ返し”に反応する声のほか、この日は祝日であさイチの放送がなく、恒例の”朝ドラ受け”がなかったとあって「今日の朝ドラ受けは観たかったなぁ」「もう、鈴木アナと華丸さんがテレビの前でキャーキャー騒いでるのを想像してしまうwww あ~なんで今日は祝日なんだ… 何で祝日にあさイチは無いんだ…」「蘭子さんのスリスリからの華丸さんの朝ドラ受け見たかったな」といった声が並んだ。『あんぱん』八木(妻夫木聡)「#指スリスリは無意識だったなぁ」雨の中、蘭子(河合優実)の手を握り…「無意識?キャー」フォロワーも興奮satoshi_tsumabuki_official 3週間前#朝ドラ ヤムおんちゃんと八木さん10代の頃、阿部さんとビリヤードしに行ったなぁ阿部さん憶えてなかったけど😭#あんぱん#阿部サダヲ#八木さん トレンド一位おめでとうございます#指スリスリは無意識だったなぁ
2025.09.23
「ばいきんまんのキャラクターはどうして生まれたんですか?あんぱんまんも相手が死なないようにかかってきますよね」“バイキンは食品の敵ではあるけれど、アンパンをつくるパンだって菌がないとつくれない。助けられている面もあるのです。つまり、敵だけれど味方、味方だけれど敵。善と悪とはいつだって、戦いながら共生しているということです――”八木は押し黙る。八木「おれは卑怯者だろうか?」「やない君も奥さんも君も30年前の戦争と向き合っている」ドキンちゃんって誰かと似てない?美人でおしゃれで たかいモデルはおかあさんなんですか?確かに母に少し似ているかもしれないけれど、気の強いところや、めげないところはのぶちゃんだよ。やっぱり💛どきんちゃんが、のぶならどきんちゃんに仕切られている ばいきんまん は、また たかし本人 かも?そして 世の中の男性すべては ばいきんまん みたいなところがあるのかも?
2025.09.23

夜間飛行 サン=テグジュベリ 山崎庸一郎訳p.91 機体のしたに連なる丘陵が、夕暮れの金色の光のなかで、ようやくその陰影の航跡を深めつつあった。平野は輝きはじめていた。しかも衰えを知らぬ輝きによって、この地方では、平野はいつまでも金色の光を残す。冬がすぎ去ったあと、いつまでも雪を残すのと同じように。南の涯からブエノス・アイレスに向かって、パタゴニア線の郵便機を北上させてきた飛行士ファビアンは、港の水とおなじ兆しによって、その凪と、動かぬ雲がかろうじて描き出しているかすかな襞とによって、夕暮れの近づきつつあることに気づいた。彼は広い幸福な泊地に入りつつあった。・・・・「サン・フリアンが視界に入る。十分後に着陸の予定」同乗の無線士は、この報告を路線の各局に伝えた。マゼラン海峡からブエノス・アイレスまで、2500キロにわたって、おなじような中継基地が転々とつづいていたが、サン・フリアンは、アフリカにおいて、最後の帰順部落が神秘に向かったひらかれているように、夜の境界線に向かってひらかれていた。無線士は操縦士に一枚の紙片を渡した。「雷雨がひどく、受信機は放電のみ。サン・フリアンで一泊してはいかが?」ファビアンは微笑を浮かべた。空は水槽のように静かだし、行く手の中継基地はすべて、「快晴、無風」と報告しているのだ。彼は答えた。「先をつづける」・・・・・エンジンの回転数を落してサン・フリアンのほうに降下しながら、ファビアンは疲れをおぼえた。・・・・・人間はまた、その貧しさによっても豊かでもあり、この地で、窓辺からもはや変わることのない光家をながめる単純な人間であることによっても豊かなのだ。・・・一度選んでしまえば、ひとはおのれの生活の偶然に満足し、それを愛するようにもなる。それは愛とおなじように、ひとを制限してくれる。・・・・・10分間の中継時間が過ぎると、ファビアンはふたたび出発しなければならなかった。彼はサン・フリアンのほうを振り返った。それはもはや一握りの光にすぎなかった。ついで、一握りのまたたく星となった。やがて、塵のように消えてゆき、それが最後に彼の心を誘った。「もう計量器が見えない。電気をつけよう」
2025.09.23
31「鈴木藤三郎伝」鈴木五郎著 136~137ページ 世界一周終る 明治29年(1896年)の7月14日に横浜を出帆してから満5ヵ月間、汽車や汽船に乗っている時か、日曜日のほかは、ほとんど一日も休むことなく、当時、科学的には日本よりも断然、先進国であった米・英・仏・独の4カ国をあまねく歩いて、製糖工場だけでも23ヵ所を見学し、製糖機械製造所やその他の工場は数えることもできない位に視察し尽したのであるから、藤三郎の頭も、半年前とは格段の進歩をしていた。同じ精製糖業でも、各国ともに部分部分で、特長もあれば優劣の差もあることも分った。彼は、今度自分がこしらえる工場は、この4カ国の粋を集めたものにしたいと考えた。しかも、資金には限度があるから、できるだけ安く、これらの機械を購入しなければならないと、くふうを凝らした。 そこで仏・独両国を十分に視察して、再びロンドンに帰った翌日の12月18日から、これまで手もとに集めた機械類の見積書や説明書の翻訳を、今井に協力してする一方、各国の機械の粋を集めた上、わが国の国情にも合う最新式な工場を設計することに、まず努力した。そして、それができ上がると、一種の機械ごとに、その製作を得意とする数ヵ所の製造所に命じて、詳細な仕様書を提出させた上で、競争入札をさせた。それでも、まだ高値と思われるものには、その落札額からなお適当な値引きを要求した。 ある製造会社などは、2割5分の値引きを要求してやったところが、社長があわててロンドンへ出かけて来て、藤三郎に会うなり、2分5厘の間違いではないかといった位に、なかなかきびしいものであった。これには、この数年来、自分で鉄工部を経営してきた経験が、非常に役に立った。どの機械も、大よそ原価の推定ができるので、値引きの要求も、よく説明すれば先方を承諾させる力があった。現在残っている当時の契約書の控えを見ても、平均1割5分の値引きをさせている。これが主として。掛引きがないといわれているイギリスの工業家を相手としてであるから、相当やったものであるといわなければならない。ある製造家などは「開業以来の最低限で取引をした」とこぼしたそうであるが、東洋の鴨にも、たまには羽根の強いのがいることを示したのは、いささか痛快であった。 当時、日本から機械購入に行った者は随分あったが、みな欧米人を、無批判に心酔したり恐れたりして、頭から呑まれてしまっていた。また欧米には、機械製造所も無数にあって、同一の目的に使用する機械でも多種多様のものが製作されていた。そして、各製造所は、自分の所の製品が最上の物であることを極力宣伝したから、よほど機械に精通している者でなければ、その選択に迷ってしまうのが通例であった。そこへもってきて、外国商人は巧妙なコンミッション政策で誘惑したから、多くはこれに引っかかってしまって、品質よりは情実を主として買い入れるようになるのが常であった。 しかし、藤三郎は機械の選択には自信を持っていたから、遠慮なくビシビシやった。これに閉口した各製造所は、陰に陽にコンミッション政策を用い出したが、これは例の潔癖で、断然と拒絶してしまった。その排撃のしかたが、あまちに徹底していたので、コンミッションを当然と心得ている欧米人心理では理解できないで、一時は藤三郎が、真に会社の代表者であるかを、疑った位だった。 その物の値打がほんとうに分っていて、しかも欲心に引っかけられることさえなければ、欧米人を相手にしても、決して卑下する必要はない。科学が段違いに進んでいたり、取引きの習慣が少しくらい違っていても、商業の根本では日本人も欧米人も、そう違うものではないということがハッキリと分った。それで、ちょうどそのころ、徳富猪一郎(蘇峰)が通訳の深井英五とともに、藤三郎と同じミセス・チャップパン方に沿っていたので、明治30年(1897年)2月7日は例の日曜日で、お互に暇があったので、午前10時ごろ、蘇峰と雑談をしたおりに、このことをいったら、蘇峰も大いに共鳴して、商業以外のことでもやはりそうだと。彼の経験を話した。 ここいらは、大いに士魂商才の日本少壮実業家の面目を発揮したのであったが、時々は、自分でも腹をかかえて笑うような、旅の恥はかき捨て式の赤ゲットのボロもあった。 それはパリに行ったときのことであったが、ある日、ひとりで街を歩いた。ところが、正午近くなって空腹になったので、通りかかったレストランへ飛び込んだ。そして、もうだいぶ勝手も分って来ていたので、大きな顔をして椅子にかけた。すると、ボーイがメニューを持って来た。見たって、どうせ分りはしないのであるから、前のほうに書いてあるのを5皿ほど指でさした。ボーイが何かいったようであったが、ただ「ウン、ウン」と、うなずいていたので、向こうへ行ってしまった。しばらくすると、スープを持って来た。(シメ、シメ、洋食では、いつもスープが真っ先ときまっている)と思って、食べてしまった。そこへ、次の皿を持って来た。何かと思って見ると、前よりは少し濃いのであるが、やはりスープだ、(オヤオヤ、これは少し変だな)と思いはしたが、仕方がない。ままよと、それも食べてしまった。すると、次のも、またスープ! その次も、その次も、薄いの、濃いの、野菜のはいっているの、揚げたパンの小片が浮いているのと、いろいろに種類は違っていたが、5皿とも、みんなスープだった。これには、さすがに強情我慢の藤三郎も閉口し、ダブダブする腹をかかえながら、ホウホウの体で逃げ出した。 12月18日 濃霧 午前9時より今井氏と両人で市内に行き、高田商会・正金銀行・三井物産会社・郵船会社等諸店に行って、これより午後に至ってアーレンス商会に行く。セッフェル氏及び藤山氏にたまたま会った(同氏は特別の用で出てきて昨日ロンドンに到着したという)、これよりハミルトン会社へ行って、社長に面会する。そして午後5時に下宿に帰る。この夜より諸工場の説明及び見積書を取り調べる。12月19日 小雪 この日は今井氏と2人で早朝より説明書・代価表の翻訳を夜10時まで終日する。12月20日 晴 午前9時より午後5時まで説明書を取調べ、及びドイツ器械工場2か所へ電報及び郵便を発する。午後5時30分よりハミルトン氏の自宅へ行って、7時まで主人と談話する。これより下宿に帰って、この夜も注文品の草案を作る。12月21日 降雪 午後10時藤山氏が来て、器械の件について相談する。午後1時両氏が帰る。またロッカードハミルトン氏が来て、これまた器械の件を話す。午後2時より諸説明書を取り調べる。この夜8時三井物産会社の渡辺氏が訪ねてきて器械の件について相談する。また郵船会社の伊吹山氏が訪ねてきた。12月22日 曇り この日、朝よりこれまで取調済みの諸工場説明書を整理して、購入する目的の器械を選択して、各部類を分かって、更に入札の手配をする。今井氏はこの書類を英文に翻訳する仕事に従事する。12月23日 曇り 午前10時シェムスブカナン氏が来て、骨炭キルンの件について終日相談する。この夜8時になって氏は帰る。この日藤山氏はまたベルリンに向かって出発した(この夜9時クック医師が来て、私が風邪気味なので診察を受ける)。12月24日 この日は前日より私は少し風邪気味で11時まで床にふしていた。正午より起きて日誌を再録する。今井氏は午後1時より市内に出る。高田・三井・アーレンスオスペ諸商店へ器械取調書を持参する。12月25日 晴 この日はクリスマス祭礼で、各戸は休業して七面鳥を料理するを例とし、あたかもわが国の元旦の式に似ている。この朝クック医師の来診がある。12月26日 雨降 この日も前日同様(ボリシングデー)と名付け、これまた大祭日である。この日午後より今井氏は外出する。私は精糖工場器械据付けに関する製図をする。12月27日 日曜 晴 この日もいつもの休業である。私は前日同様製図する。午後2時より3時までパウラメントヒルに行き散歩する。この日晴天なので市民もこのヒルに散歩するものがおびただしかった。大変にぎわっていた。今井氏はこの夜8時に宿に帰った。12月28日 曇り 今井氏は朝より市内へ行って、アーレンス店及びヒハミルトン会社へ行き、午後3時帰る。私は前日同様製図した。この夜8時よりハミルトン氏の自宅に行って、主人及び次男(インジニヤース)ハロルド氏と器械についての談話をする。夜11時、宿に帰る12月29日 午前晴、午後曇る この日は前日同様製図及び翻訳をする。この夜渡辺専二郎氏が訪れて来る。また下条氏も訪れた。12月30日 曇り 午前10時より私と今井両人でハイストリート写真師キルクツク方に行き、写真撮影する。午後3時シャー会社(製鋼工場)技師ジェームズ・シーシャー氏及びヒロツカードハミルトン氏両人が来て、蒸留器械について相談する。そして7時頃帰る。12月31日 晴 午前10時より私と今井両人で三井物産会社へ行って、渡辺氏に面会する。ここでグリーノック氏(器械製造所)ジーヒウストン氏に面会する。これより同氏と市内で会食し、そしてハムステッドの下宿に帰り、同氏と製糖器械について数時間相談し、氏は帰る。直ちにプレーヤー・カンプペル及びヒマクリン会社長プレーヤー氏が来て、これまた無気缶の件について相談する。午後7時30分に氏は帰る。この夜ロッカードが来て、樽製造器の見積書を持参する。以上11月1日より12月31日まで日誌はこのとおりである。第九号日誌
2025.09.23
蘭コーチが世界陸上を痛烈批判!「この仕事を35年続けているが、最悪の大会だった」史上最多6個のメダル獲得も…「選手たちは適切な保護を受けていなかった」多くの感動と話題をもたらした陸上の世界選手権が9月21日に閉幕。メダル獲得ランキングでは、計26個(金16、銀5、銅5)の米国が1位となり、2位に計11個(金7、銀2、銅2)のケニア、3位が計5個(金3、銀1、銅1)のカナダ、4位が計6個(金2、銀2、銅2)のオランダが入っている。そのオランダ選手団のコーチを務めるスイス人のローラン・ミューリーが、今大会の運営を痛烈に批判した。オランダメディア『Sportnieuws』によるとミューリーは、大会後に「私はこの仕事を35年続けているが、今回の世界選手権はこれまで経験したなかで最悪だった」とぶちまけたという。「今大会で選手たちに競技準備として要求されたことは、とんでもないものだった。ウォーミングアップからスタジアムのコールルームに呼ばれるまで30分もかかっていた。しかもバスで移動しなければならない。これは非常に危険で、とくに競技後の回復を考えるとなおさらだ。選手たちは適切な保護を受けていなかった」ミューリーはサブトラックの問題に加え、参加選手約2000人とサポートスタッフが宿泊する大型ホテルの環境にも口を出したようだ。「大会5~6日目までホテルは非常に過密で、とても騒々しかった。エレベーターの待ち時間も長すぎで、選手たちが落ち着いてストレスを感じないようにするのは本当に大変だった」オランダは史上最多となる計6個のメダルを獲得しており、ミューリーの意見に反して同メディアは「東京での世界陸上でオランダチームは素晴らしい活躍を見せた。金メダル2個、銀メダル2個、銅メダル2個。まぎれもなく、オランダにとって歴史的な大会だった」と振り返っている。オランダでは400mハードルで大会2連覇を成し遂げ、4×400リレーで銀メダル、そして4×400混合リレーで銅メダルを獲得したフェムケ・ボルらが活躍。オランダ史上最多のメダルを獲得した。それでもミューリーは不満のほうが大きかったようだ。世界陸連コー会長が大会総括「私の“世界記録”として記憶に残る大会」/東京世界陸上9/21(日)コー会長「9日間すばらしいプロジェクトだった」「素晴らしいものが見られた」「(日程の)ほとんどがフルスタジアムになった」イブニングセッションは連日のように満員となり、8日目終了時点で総入場者数が53万6990人に達した。最終日を含めると「60万人に到達する」見込み1991年東京大会の58万1462人を上回ることが確実。コー会長「私にとっての“世界記録”のように記憶に残る大会になった。夏のパーティーとクリスマスパーティーが一緒にやってきたものだ」
2025.09.22
北朝鮮労働者、ロシア軍に入隊 数百人が西部配属9/21(日)ロシア極東に出稼ぎ目的で派遣された北朝鮮労働者が、ロシア軍と契約を結び入隊していることが21日、ウクライナ国防当局の分析で分かった。国防省情報総局当局者が明らかにした。今年7月ごろから数百人規模でロシア西部クルスク州に配属されていると分析。ロ朝の軍事連携強化の一環とみられ、ウクライナ側が警戒を強めている。【写真】戦死した北朝鮮兵の遺族と面会する金正恩氏 ロ朝両政府は公式に認めていない。現時点の規模では軍事的な影響は限定的とみられるが、ロシア軍は自国兵の不足を補填できる。北朝鮮にとっても労働者がロシア軍から受け取る報酬によって外貨稼ぎを期待できることから、入隊者はさらに増える可能性がある。 情報総局当局者によると、ロシア国内での情報活動で判明した。ロシア極東に出稼ぎ労働者として渡航した後、ロシア軍と契約を交わし、ウクライナ軍が越境攻撃を仕掛けたクルスク州に展開するロシア軍の機械化旅団や海兵隊などに少数ずつ編入されているとみられている。現時点で実戦参加は確認されていない。
2025.09.22
「ぼくは戦争は大きらい」やなせ・たかしp.132戦争が終わって、それまで「贅沢は敵」とか「欲しがりません勝つまでは」と言われていた日本の人々は活字や音楽、娯楽全般に飢えていたのです。雨後の竹の子のように出版社や新雑誌が生まれていました。高級なのも低級なのもどんどん登場しては消えていきます。そこから、少しずつ残っていくのです。それまで報われなかった作家や音楽家にチャンスがまわってきました。戦後の新しい大衆文化の時代がやって来ていました。ぼくらの宣伝広告の仕事も忙しくなりました。ぼくは東京に戻ってしばらく、三越に入る前に、小さなデザイン会社で働いていました。田辺製薬の仲間がつくった会社です。仕事が殺到しているので手伝ってほしいと頼まれたのです。行ってみると、たしかに、次から次へと仕事が入ってきて、ぼくも大忙しでした。ぼくはそこで働きながら、広告関係の賞に応募して、デパート部の部会賞をもらったのです。それが三越の試験を受けるきっかけです。ところが、ぼくは口頭試験で生意気な発言をして、一度は落とされたらしいのです。それを覆してくれた高知出身の重役のお蔭で三越に入ったようなものです。。。。日本に戻ってからも、運命の不思議はついてまわっているわけですが、ぼくの戦争体験期記はここらで終わりにしましょう。なんにしても、ぼくはきらいな戦争や軍隊から解放されたのですから。おしまいにぼくは人を殺す戦争はきらいです。憎くもなんともない人を殺すのは嫌なのです。死ぬのも嫌だったけど、もう94歳になると、そっちのほうはどうでもよくなりました。戦争はしないほうがいい。一度戦争をしたら、みんな戦争がきらいになりますよ。本当の戦争を知らないから「戦争をしろ」とか、「戦争をしたい」と答えるのです。・・・こんなことを言うと「アンパンマンはばいきんまんをアンパンチでやっつけるじゃないか、あれはどうなんだ」と反論する人がいます。ばいきんまんは人じゃなくてばい菌です。しかも、やられたら「ばいばいきーん」と言い残して去っていきます。そして、また戻って来て悪さをする。あんぱんまんとばいきんまんは、食べ物とばい菌です。だから、仲良くしてもらっては困るのです。それでも、彼らはマンガの中でともに生きています。ぼくが最近怖いな、と思うのは、殺菌とか除菌がブームになって、ばい菌というだけで眼の敵にして消毒してしまうことなんです。たしかに、インフルエンザとかノロウィルスは怖い。でも、なんでもかんでも殺菌してきれいにしてしまうのはおかしい。無菌状態になると、今度は人間の抵抗力がなくなってしまいます。それでも本末顛倒です。なんだか、このところ世の中全体が嫌なものはみんなやっつけてしまおう、というおかしな風潮になっているような気がしてなりません。国同士も同じことです。国と国が「あいつは気にくわないからやっつけてしまえ」というのではまた戦争になってしまいます。嫌な相手ともなんとかして一緒に生きていくということを考えなければならないのだと思います。ぼくが言いたいのは、戦争にならないように、日ごろから頑張って、みんなが戦争なんてしなくてすむ世の中にしよう、ということです。戦争をしなくていいんだから、軍隊なんていらなくなります。でも、これはとても難しいことですよ。第一次世界大戦が終わったとき、世界の人たちは「戦争はもうこりごりだ」と痛感しました。それで、国際連盟をつくったり、軍縮会議を始めたりしたのです。ところが、平和は長続きしませんでした。・・・・ぼくは、戦争の原因は「飢え」と「欲」ではないか、と考えています。・・・ぼくが『アンパンマン』の中で描こうとしたのは、分け与えることで飢えはなくせるということと、嫌な相手とでも一緒に暮らすことはできるということです。・・・
2025.09.22
3112月9日 晴 ベルリン発 午前9時より藤山氏が来て、そして11時20分下宿を出発し、フリードリッヒストラッセ駅に行って、広田氏と会って、これより3人で乗車した。藤山氏はここでたもとを分かつ。これより同地を出発して午後2時30分ハンノバーに到着し、ホテルブリストルに宿をとる。この日3人で当市中を散歩した。12月10日 曇 午前9時よりハンノバーの近くのケールチング村ケールチング兄弟会社へ行き(電気及び器械製造所)、社長ケールチング氏に面会する。これより社長の案内で同工場を見物する。当工場の器械の運転はすべて電気による。また電気はガスの原動器に依りて発す。そもそもこの応用を見ることは私たちが欧米に到着して以来当所が始めてである。また工場の規模は盛大でさらに整頓していることには感銘を受けた。午後1時になって社長自ら馬車を御して私たち3人をホテルに送る。また午後2時30分社長自ら馬車を駆って私たちを迎え、そして同車して工場に行き、これより精糖器械の原動機に電気を応用することの利益をケルチング氏は主張して、その効用を説明した。午後5時になって、明日の再会を期してホテルに帰った。 *「二宮先生と余が欧米観」鈴木藤三郎著(「二宮翁と諸家」) 「▲ドイツ観 ドイツにおいて余はハノーバー府という都会を去ること約2里ばかりの処にある「ケールチング」工場を見舞うた。ここは「ケールチング」工場の職工を以て、実に500有余戸の一村落を形成しておる。ケールチングは当時64歳の矍鑠(かくしゃく)たる老人であったが、この翁の一生も優に立志篇中の材料を供給するに足るので、聞くところに由ると、彼は25歳まで鋳鉄職工であったが、その年「ケールチング」式暖房室機を発明して、財産を作り、遂に工場を起こして、今日では世界的にその工業を拡張し、万事よく整頓してほとんど間断する処を見出さないほどである。余はハノーバー府の旅館より通って1週間ばかりこの工場を視察したのであったが、ある日彼れ余に問うて曰く『君は欧米各国を歴遊して来られたから、定めし見聞が広いであろう、余不幸未だ米国を見ず、我が工場また終(つい)に固陋の弊あるを免れざらん。乞う我が為めに我が工場の欠所を語れ』と。『余曰く、なし、されども強いて言わば、余にただ一の疑問あり、貴場の盛大完備せる。これを英米の工場と比較して毫も遜色なし。ただ貴場の設計室極めて壮観を呈し、かつ聞く所によれば技師は31名の多数に上れり。けだし英米においてかつて見ざるの現象たり、知らずこれ何の故ぞ』と。彼拍手して曰く『善いかな言や、君の疑問まことに理りあり。されど我が工場に有給の技師は、たった一人である。その他は皆な工科大学卒業生が、実習の為めに来場せるものであって、彼らは自費自弁であるいは3年あるいは5年、実地の練習をここに試み、然る後他の工場より招聘し来たるを待っておるので、設計室のごときも余が国家に対する義務なりとして、多少装置を施せる次第である』と。総じてドイツにおいては工学士が大学卒業後、4,5年実地練習を試み、その上なお有給の技手となってから、特別なる功績あるにあらずんば容易に技師長となることが出来ないのである。即ち一人前の人物となるには、少なくとも大学卒業後10か年を要するので、余はケールチングが余に語る所、及びその実際の状態を見て、ドイツ工業の発展する所以、決して偶爾(ぐうじ)にあらざるを悟った。」 12月11日 晴 午前9時ケルチング会社より馬車で迎えが来て、これより私たち3人で同会社の工場へ行く。そして午前11時40分の汽車でハンノーバーを出発して再びブランシュワイに行く。(これはケールチング会社社長が設置する電気で分離器械を動かす器械を実際に見るためで、またこの日はケールチング工場の技師フリッケ氏が案内に同行してくれた)午後2時ブランシュワイに到着し、これよりセルビッグ及びランゲ会社に行く(分蜜器械製造場)、工場及び同会社で電気を応用した分蜜器の試験を見る。これより午後5時当所を出発して6時30分ハンノバーに到着し、直ちにホテルブルストルに帰る。12月12日 晴 午前9時30分より広田氏の案内で市内に設置する電気鉄道会社に行って、原動器械場を見物した。(250馬力の新式コンバオンド器械4台があった)、また最新式の電車に設けた蓄電器を見る。これよりホテルに帰って、昼食して、午後1時30分発の汽車で午後3時ヒブランシュワイに行く。このとき駅までランゲ会社の技師1人の出迎えがあった。これより同氏の案内で当所精製糖及び氷糖製造会社に行く。G・H・グラッソウ及び子息会社に行き、社長グラッソウ氏に面会する。同氏自ら案内して工場を見物する。当社は精製糖及び氷砂糖の製造所で、私たちがヨーロッパに渡って以来このような工場は初めて見る。最もこの工場主はランゲ会社社長と兄弟であるので特に私たちに見物を許したのだという。すべて厚意により十分な説明を受けた。これより午後6時40分ブランシュワイを出発して同8時10分ハテバーのホテルに帰る。 氷砂糖はすべて□氷である。上等の値段は100ウエート(すなわち50キロ)につき、ドイツハンブルグ港渡しで英貨20シリング、また黄色の2等品で同18シリングであるという、(当工場でこの品物を販売するに、自国ドイツが最もよく、これに次ぐのがオランダであるという)12月13日 晴 日曜 午前8時25分ハンノバーのホテルを出発し、駅で広田氏と袂を分かつ。これより同地を出発して正午12時ハンブルク港に到着し、ホテル・ド・オイロープに宿をとる。この日日曜で市内を散歩し、当地の有名な湖水の景色を見る。12月14日 晴 午後より降雪32度 午前9時より日本名誉領事マルチンブルカード氏事務所に行き、主人に面会する。この領事は日独商業を直接にして、将来大いに双方の利益を計ろうと大いに尽力しているという。そして私の望んだ当地の製糖工場にそれぞれ使いをやって見物の許可を問い合わせてくれた。しかし当地は先年以来直接日本に砂糖を輸出している関係から断然見学を拒絶された。(この領事マルチンブルカード氏は先年日本の横浜及び神戸に9か年居住していたという。日本語も日用のことは話せる)これより同氏の紹介で当所パウルスホツフ・ラボイゼン96番地のカル・メーチル商店の店主シモンズ氏に面会する。同氏もまた諸工場の見学許可を求めるため電話で数ヶ所に紹介した。これより同店においてドイツ工業器械製造家組合事務長シュルツ氏に面会して精糖器械について数時間質問する。これよりシモンズ氏の案内でセザントパリウスに行って、夜景を見る。12月15日 降雪 30度 午前9時よりカール・メーケル商店に行き、シモンズ氏に面会する。これより同氏の案内で当地のミツテルキヤナル1番地のガスプコオンズ工場に行き、(電気原動機(ダイナモモーター)製造所)社長に面会する。これより同氏の案内で工場を見る、この工場はすべて電気を応用して器械を運転した。これよりまたグロウベ・ブライヘン25番地のシュッツケルト及び会社の支店に行き、支配人に面会して電灯器械の設計について質問し、さらにまた同社へ見積りを注文して去る。これよりまたドイツ国器械工業家事務所に行き、所長シュルツ氏に面会して設計上の相談をする。これよりまたカール・メーケル商店に行って、主人シモンズ氏に会い、同氏の案内で当地の商品取引所に行き、商品取引所の事況を見る、(数千人群集してその盛大なことは世界第一だと称する)、午後5時よりシモンズ氏の厚志で私たち2人を自宅に招かれた。よって市中汽車に乗ってスヴハンズベツクレーベンストラツセ27番地に行き、夕食の饗応を受ける。午後9時ホテルに帰る。12月16日 降雪 午前8時30分メーヤー氏に当ホテルで会合しアルコール器械の図面及び代価表を見る。これよりシモンズ氏の店員案内で、当地アルテルボール4番地のエキズボールト及びラーゲルハウス・ゲゼルシャフトの工場であるレプゾルト街67番地より78番地のルドドイツセイ・スピリットベルケ(北ドイツ酒精工場)に行き、アルコール製造所を見る。これよりカール・メーケル商店に行き、主人シュモン氏に面会して、当地の砂糖見本を取り調べて値段を聞く。これよりホテルに帰り、このとき名誉領事マルチンプルカード氏が訪ねてきて、しばらく談話した。午後3時よりドイツ器械工業家事務所に行き、所長シュルツ氏及び技師ルドヴィウグ・レイボルト氏に面会して、精糖器械の設計について質問し、その他の談話を5時までする。これからホテルに帰る。このときシュモン氏は妻君・長男を連れて私たちの今夜当地を出発するについて、別れに来る。しばらく談話して去る。これより旅装を整え、夜10時30分当ホテルを出発し、当ハンブルグ府の駅より11時8分発の汽車に乗って、オランダに向かって出発する。12月17日 晴 午前11時40分オランダのフルツシンゲン港に到着する。これより当所で蒸気船に乗り込んで、海上平安で午後8時イギリスのクインバラ港に着船する。これより直ちに汽車に乗って、同10時イギリスのロンドン・ビクトリア駅に到着する。これより馬車に乗って11時20分ハムステット・パウラメントヒル16番地のチャップマン方の宿に帰る。
2025.09.22
【世界陸上】大雨の戦いを制したのはボツワナ 男子1600メートルリレー男子1600メートル決勝が行われ、ボツワナが優勝した。 レースが始まろうとしていた国立競技場が、大雨に包まれた。強い雨が降る中、コースに並ぶ選手たちに冷たい雨が降り注いだが、競技は続行。歓声の中、ボツワナが米国、南アフリカとの競り合いを制し、2分57秒76のトップでゴールした。 ◆ボツワナ共和国 外務省のホームページによると、アフリカ南部に位置するボツワナは日本の約1・5倍、56・7万平方キロメートルの面積に252万人が住む。首都はハボローネ
2025.09.21
9月14日.21日と鎌倉の円覚寺に行ってきた14日は法話と坐禅会本日21日は円覚寺居士林の日曜日坐禅会日曜日坐禅会には、40人以上の参加者があった。満員の道場でまず経行(きんひん:歩く禅)し、坐禅をし、お経(般若心経・坐禅和讃)を唱えるお坊さんが生成AIが発達すると、人間の頭脳活動の大部分が代替されるすると人間はバランスを取るために、心の問題やや仏教の坐禅などが注目されるのではということだった。円覚寺の「法話と坐禅会」や「日曜日坐禅会」の盛況ぶりをみると、そういうこともあるのかもとも思われてくる。さもあれ、昨年1月から、毎朝坐禅している。ようやく自分から進んで坐れるようになり、30分~50分坐れるようになったので各地の坐禅会に参加中(^^)
2025.09.21
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