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「続 窓際のトットちゃん」p.182 NHK専属の東京放送劇団第5期生採用試験が終わったのは、昭和28年2月のことだった。2月1日からはNHKのテレビジョン放送が始まっていて、巷の話題も「テレビジョン」のことで持ち切りだった。トットたちは、テレビ時代の一期生としての期待も背負っていたことになる。6000人もの応募者の中から残ったのは、女性17人、男性11人の計28人。最初の応募者がおよそ200分の1まで絞られたけど、これで最終合格というわけではない。さらに3か月の第一次養成期間を経て、若干名の採用者が採集的に決まる。28人は不安な気持ちを抱えながら、テレビやラジオの俳優として必要な実技や知識を学ぶことになった。仕事を持っている人でもそのまま通えるように、平日は夕方6時から夜9時まで、土曜日が休みで、日曜は午前10時から午後3時までという時間割だった。・・・・「この方が、朗読や物語を教えてくださる大岡龍男*さんです。普段は、NHKの文芸部に勤務しています。」*12歳で巌谷小波に師事して俳句を学び、大正初期に高浜虚子門下生となり、のちに「ホトトギス」同人となる。昭和2年「不孝者」を刊行し、他に「妻を描く」などの著書がある。銭湯 家では下の八畳と茶の間の六畳を今度人に貸すことにした。護一は寮へ入り、母は亡くなるし私と女中では廣過ぎて淋しくも不用心でもあるので、幸ひ海軍の軍人夫婦が是非貸【ママ】りたいと云ふのですぐ話をきめた。 今朝はその人の荷物が届いたので女中と運送屋の男と私と三人で夕方までかゝつて部屋を綺麗にして、荷物を納めてあげた。 どの部屋の戸棚にも本が山のやうに仕舞つてあるのでその整理ですつかり草臥れてしまつた。 本好きのこれが病ひでいよ〜となるまで下らぬ書物すら捨てかねるのであつた。鼠糞やかびの匂ひをかいだのでどうにも一と風呂這入らずにはゐられなくなり、逗子へ來てはじめて町の錢湯へ行つてみた。夏の夕方の明るい錢湯にはまだ浴客が三四人しかゐず、湯も澄んでゐてゞ氣持がよかつた。たゞどぶんとつかる氣で湯槽へとびこんだらすぐどとんと足がついてしまつて、その淺いことは岡湯位しかなくやつと肩を沈めると足が浮いてしもうのであつた。 それでもいゝ氣持になつて、タイル張の太田道灌の山吹を貰ふ圖や、小野道風の蛙柳の圖や與一が扇の的の圖を、こんな俗な繪もたまには無邪氣でいゝなと思つてあくびしながら周圍を眺めてゐた。するかりほこりを洗つて外へ出るとまだ夕日でまつぴるまのやうにまぶしい町の有樣だ。少し散歩がてらの買物をして家へ戻ると女中はびつくりして、「旦那様、お風呂へいらしつたんですか」 と濡れ手拭とシヤボン箱をうけとる。「あなたも行つてらつしやい、いゝお湯だつた、たゞ湯槽がいかにも淺いな、驚いた、すぐ足がついちまうんだもの」「へえ! …あら旦那様それは子供の湯槽でごさいますよ、その隣りに深いのがございますんですよ」「さうか、あれ、子供の湯槽か。どうりで」 私は實に久々心からをかしくなつて大笑ひした。女中は可笑いとて笑こけてゐた。・・・トットはこのおじいさんに、がぜん興味を持った。大岡先生は、手の甲で口元を隠すようにして、子どもみたいにはにかんだ笑顔を浮かべてこう言った。「担任の先生なんて、そんなんじゃございません。小間使いとでも思っていただければよろしいんで。それにしても、みなさま、ここまでお残りになるの、大変でございましたねえ」・・・・大岡先生のほかには、セリフの基礎は、NHKの演劇部長だった中川忠彦先生、動きなどの基礎演技は、のちのテレビの美術部長になった佐久間茂高先生、音声学は、東大や東京芸大で教えていらした颯田琴次先生*、*耳鼻咽喉科学者、音声学者。ヴァイオリン演奏では専門家の域に達しており、しばしばプロの交響楽団に加わって演奏したり、声楽家の診断から発声指導まで幅広く行なった芸能についての講座は、のちにNHKの会長になった坂本知一先生。タップダンスは日劇のスターだった荻野幸久先生。仲間の一人がしみじみとつぶやいた「この先生たちの授業を、一人ずつお願いして月謝を払うとしたら、いったいいくら払えばいいのか想像もつかないなあ」養成が始ってひと月ほどが過ぎたころ、「トットさま!」朗読の授業が終わると、大岡先生から呼び止められた。大岡先生は、トットのことをいつからか「トットさま」と呼ぶようになっていた。「トットさまの声と節回しは、まるでゼンマイ仕掛けのフランス人形がしゃべっているよるようですね」「トットさまはジメジメしたところがなくて活発で、巻いたゼンマイが勢いよく解かれるように、一気にしゃべり終える。そんな意味で言ったんですが、わかりにくかったですかね。ホ、ホ、ホ」
2025.08.31
「続 窓際のトットちゃん」p.174-180ある日、人形劇『雪の女王』をみた。クライマックスが近づき、雪の女王が、男のカイと女の子のゲルダに恐ろしいことを命令したとき「かわいそう」とか「ひどい」とか客席の子どもたちのささやく声がきこえてきた。このとき、トットは不思議な感情に襲われた。なにかやさしいもので満たされたような、昔から知っているともだちと出会ったみたいな気持ちがした。・・・・トットはママに尋ねた。「絵本の読み方や、人形劇のやり方を教えてくれるところなんてないかな」「そうねえ、新聞に出てるんじゃないの?」ママにそう言われて、トットはその日のみ、新聞を開いてみた。「NHKでは、テレビジョンの放送を始めるに当り、専属の俳優を募集しまし。プロの俳優である必要はありません。一年間、最高の先生をつけて養成し、採用者はNHKの専属にします。なお、採用は若干名・・・」なんという偶然!新聞のまん中にNHKの広告を見つけて、トットはピンときた。テレビジョンがなんなのかはよくわからなかったけれども、朗読の仕方とかを教われば、絵本が上手に読めて、いいお母さんになれるに違いない。トットはパパにもママにも内緒にして、さっそく履歴書を送った。何日かたって、NHKから書留が届いた。「受かったのかな」と思って封を切ると、トットが送った履歴書が出て来た。「履歴書は持参しなさいと書いてあったはずだったのに、どうして郵送したのですか」という内容の手書きが同封されていた。失敗!もうやめておこうかとも考えたけれど、履歴書の締め切りは2日後、まだ間にあう。・・・採用試験が始まった。一次試験を通過して、二次の筆記試験に進むことになった。・・・・「カルメンービゼー」「イサム・ノグチー彫刻家」とかすぐわかるものもあったけど、昭和27年度の放送部門の芸術祭賞受賞作品は、みたいな、放送や演劇に関する問題はむずかしかった。それがぜんぶで20問ぐらい。トットは思わず、となりの席の眼鏡をかけた男の人に尋ねてしまった。「教えていただけませんか?」するとその人は、トットを見すえてはっきりとした声で言った。「いやです」そりゃ、そうでしょうねえ。・・・・最後の問題は、「あなたの長所と、短所を書きなさい」だった。やっと、自分を知ってもらえる問題に出あえたと思い、トットは鉛筆を握り直した。「長所」には、ためらうことなく「素直」と書いた。ママにいつもそう言われていた。次に「親切」と書き、「ともだちがそう言います」と書き加えた。・・・・「短所」には「私は楽天的なせいか、いろんなことを、すぐ忘れてしまいます。母はときどき、私に『ちょっと参考までに聞いておきたいんだけど、さっき、あなた、自分で失敗したとか言って、ワアワア泣いていたわね。でも、いま、そうやってゲラゲラ笑って、オセンベをポリポリ音立てて、食べるでしょう?少しは、さっきの泣いたの、どっかに残ってる?』と聞きます。そんなとき考えてみると、私は、さっきのことをすっかり忘れています。反省とか悩みをすぐ忘れるのですから、これも短所と思います」・・・・でもなぜか、トットはこの筆記試験も通った。三次試験を受ける前に、ママにNHK劇団の俳優になる試験を受けていたことを報告した。絵本を読むのが上手なお母さんになりたいからNHKを受験することや、パパには反対されるのに決まっているから黙っていてほしいことを伝えた。ママはトットの気持ちをわかっいぇきれたし、トットもママに話したら、孤軍奮闘から解放されて、気持ちが少し軽くなった。三次試験のパントマイムはやったことがなかったので、前の人のマネをしたら、なぜか試験官は大笑いだった。四次の歌の試験では、試験官から「履歴書には声楽科と書いてあるけど間違いないんだね」と怪訝そうに尋ねられたりもした。とても受かる自信はなかったけれども、なんとかパスすることができて、最終の面接試験に臨んだ。面接では受験の動機を聞かれて「いいお母さんになりたいんです」と答えたら、「なにを言っているんだ」と笑われた。履歴書の父親の欄には「不明」と書いておいたのだが、パパについての質問があった。「黒柳って、ヴァイオリンの黒柳さんと関係があるの?」「う~んと」でも嘘はつけない。「父です」「お父さんに相談してきた?」「父に相談したら、そんなみっともない仕事はやめろと言われるに決まっているので、黙って受験しました。あ、みっともないというのは、父の考えです」「お父さんは反対する?」「こういう世界はだます人が多いからやめなさいって、きっと言われると思います」トットが必死に答えるたびに、試験官たちは笑いころげた。さすがに自分でも自分でも、これでは受かるはずがないとあきらめていたが、面接試験の翌日、トットがいないときにNHKの偉い人が家までやってきて、対応したママにトットの内定が伝えられた。そして「守綱さんはお許しになるでしょうか」と聞かれたそうだが、ママが上手に答えてくれた。信じられなかったけど、この日のうれしさはずっと忘れないでいようと思った。パパには、ママがうまく説明してくれたみたいだ。パパはトットに「やってみるといいね」と言ってくれた。
2025.08.31

「遠州報徳の師父と鈴木藤三郎」(2016)は64大学図書館「遠州報徳の師父と鈴木藤三郎 報徳の師父第1集」(2022改訂版)は5大学図書館の蔵書となっている。北海道大学 附属図書館 北図書館 北海道教育大学 附属図書館 弘前大学 附属図書館 岩手大学 図書館 東北大学 附属図書館 福島大学 附属図書館 宇都宮大学 附属図書館 千葉大学 附属図書館 東京大学 総合図書館 信州大学 附属図書館 中央図書館 三重大学 附属図書館 2京都大学 附属図書館 京都大学 教育学部 図書室 京都工芸繊維大学 附属図書館 大阪教育大学 附属図書館 兵庫教育大学 附属図書館 和歌山大学 教育機構学術情報センター 図書館 高知大学 学術情報基盤図書館 中央館 九州大学 中央図書館 長崎大学 附属図書館 高崎経済大学 図書館 図 大阪公立大学 杉本図書館 図書館北海学園大学 附属図書館 図 酪農学園大学 附属図書館 図 八戸学院 図書館 図 弘前学院大学 附属図書館 図 獨協大学 図書館 図 青山学院大学 図書館 国学院大学 図書館 駒澤大学 図書館 昭和女子大学 図書館 図 聖心女子大学 図書館 大東文化大学 図書館 東海大学 付属図書館 東京農業大学 生物産業学部図書館 東洋大学 附属図書館 日本女子大学 図書館 法政大学 図書館 愛知学院大学 図書館 情報センター 金城学院大学 図書館 立命館大学 図書館 近畿大学 中央図書館 神戸学院大学 図書館 有瀬館 武庫川女子大学 附属図書館 松山大学 図書館 九州産業大学 図書館 西南学院大学 図書館 福岡大学 図書館 活水女子大学 図書館 沖縄国際大学 図書館 国立研究開発法人 水産研究・教育機構 水産大学校 静岡県立大学 附属図書館 草薙図書館 鹿児島純心女子短期大学 図書館 会津大学 情報センター (附属図書館) 聖隷クリストファー大学 図書館 鹿児島県立短期大学 附属図書館 豊橋創造大学 附属図書館 高知工科大学 附属情報図書館 関西国際大学 メディアライブラリー 浜松学院大学 図書館 図 北陸学院大学 ヘッセル記念図書館 静岡文化芸術大学 図書館・情報センター 敬和学園大学 図書館 静岡県立農林環境専門職大学 図書館(改訂版)お茶の水女子大学 附属図書館 鹿屋体育大学 附属図書館 東京都立大学 図書館 東海大学 付属図書館 静岡図書館 静岡県立農林環境専門職大学 図書館
2025.08.31
32『報徳』2025年9月号「鈴木藤三郎伝」鈴木五郎著 77~79ページ藤三郎の事業は、一昨(明治19)年から順風に帆をあげたような進展をして、毎年1万円に達する利益を上げるに至った。しかし、近く東京に工場を移転して、精製糖業に従事しようという希望を持っていたから、いたずらに事業に固定させないで、その時期の一日も早く来るようにと、全員それを目がけて働いていた。また、気づかわれた彼の健康も、昨年からの冷水摩擦や冷水浴で見違えるように回復してきた。この夏ごろには、東京移転のあらゆる条件は整ってきたので、彼は勢いこんで、その準備を始めていた。その時、藤三郎の上に、晴天に大雷が落ちたような事件が降ってきた。彼の妻かんは、妊娠中であったが、この夏の初め頃から腎臓を悪くして、よそ目にも大分苦しそうであった。しかし、何分にも事業は注文に追われて、猫の手でも借りたいという位であるところへ、東京へ移転の計画の準備が重なった際なので、無理とは知りながら、その無理を続けない訳にはゆかなかった。ところが、もう先発として藤三郎が東京へたつ日も間近に迫った9月6日に、2,3日前から気分が悪いといって引きこもっていた かん が、突然発作を起して意識不省になった。すぐに医者を迎えて手当をしたが、意識は戻らず、ついにそのまま急逝してしまった。享年28歳、病名は子癇(しかん)であった。 明治9年(1876年)に15歳で嫁いで来てから13年間、藤三郎が氷砂糖製法発明の生みの悩みの時代を、養父母と夫との間に立って苦労のありったけを尽くしたあげくに、ようやく前途に光明もハッキリと見えて、さァ、これからというときに、寒椿の花が春風に吹かれてホロリと散るように、嘉一郎、次郎、みつの幼い三人の子を地上に残したまま急逝したのであるから、「おかんさんは、苦労をしに生まれて来たようなものだった。」と、お通夜の席で身内の女達が泣いたというが、全くそうに違いなかった。 藤三郎も、いまさらにともに過した十余年の辛苦を顧み、あとに残された三人の幼児の前途を思えば、涙を新たにせずにはいられなかった。しかし、いつまでも涙に浸っている訳にはいかない。事業は今、飛躍の一頂点に達して、一刻のすきもなく彼の活動を待っている。よしっ、精製糖の事業を完成して、わが国の産業の発達に貢献することで、養父にも妻にも、菩提を弔う手向けとしよう!彼は、そう覚悟をきめて、葬式を済ますなり、また東京移転の計画に没頭した。この明治21年(1888年)という年は、藤三郎にとっては、吉凶並び来たった年であった。4月に養父を失い、9月に妻の急逝にあった反面に、5月には冷水浴を始めて健康の基礎を確立し、10月には多年待望の東京移転の第一歩を踏み出したのである。あらゆる意味で、この年は、彼の郷里生活の大清算期であった。亡き妻の忌明(きめい;49日)の法要を10月24日に済ますとすぐに、藤三郎は東京で精製糖事業を開始するために、吉川の弟の安間熊重夫妻を伴って上京した。3人の幼児は養母に、氷砂糖工場は吉川をはじめ工場員に託して、土もよく乾かない二つの墳墓と、思い出の多い故郷の山河をあとにして、悲しみの涙にぬれた心を、前途に燃えている大きな希望の火で乾かしながら、彼は元気に出発したのであった。東京へ着くとすぐに、先年、数ヶ所を候補地として選んでおいた中から、再びよく調査考究した結果、工場移転地を南葛飾郡砂村(現江東区北砂町)と決定した。ここは小名木川の南岸であって、この小名木川は、隅田川と中川とに貫流しているので、今のように鉄道やトラックの便の全くなかった時代には、原料や製品の運搬に、この舟運が非常に役立った。それであるから、その後20年程の間に、この小名木川の両岸には大小の工場が建ち連らなって、全くの工場地帯となったのであるが、この時代は、まだ文字通り狐狸のすみかであった。ことに不思議なことは、この地は、村人から「阿波様の下屋敷」と呼ばれて、江戸時代には蜂須賀侯の下屋敷のあった所で、八代将軍吉宗が享保12年(1727年)に琉球から取り寄せた甘蔗の苗を、浜や吹上のお庭で試作させたあとに、江戸近在では西の大師河原村と、東ではこの砂村新田へ初めて本式に栽培させたという、砂糖には深い因縁のある所であった。 藤三郎は、ここの土地数千坪の買収を終って、12月1日に地所内にある百姓家へ安間夫妻とともに引き移るとすぐに、その報告や今後の打合せなどのために、郷里へ帰った。森町では養母のやすが、老いの身で3人の幼児を養育するのに、一方ならない難儀をしていた。それを見かねて福川が、その縁続きである同町中町の質屋、比奈地久三郎の二女こと(慶応2年(1866年)8月13日生)を後妻に迎えるように勧めた。藤三郎も、その必要を認めたので、この恩人の言葉にありがたく従った。喪中のこととて式は内輪だけであげて、彼は、また、単独で上京した。ことは極めて小柄で、身長は四尺六寸(1.4メートル)くらいであった。森町では祭礼をなかなか盛んにやって、その時は、町中を若い衆が勢いよく引き出す山車の上で、童女が手踊りをやった。幼い頃のことも、若い衆におぶって連れて行かれては、そこで踊らされた。色白で目鼻立ちのパッチリとした小柄のことが、高い山車の上で踊る姿は、まるで生きた人形のようだとはやされた。そして、質屋の箱入り娘に成長して、町の教員と結婚した。だが、間もなく夫が病没したので、生家へ帰っていた。それで、ことも再婚だった。ことは22歳で鈴木家の人となると、その日から嘉一郎(9歳)、次郎(5歳)、みつ(1歳)の三児の母とならなければならなかった。嘉一郎はきわめておとなしい子であったが、次郎はその反対に極端な腕白小僧で、しかも「泣き次郎さ」といわれた位の泣き虫であった。また、みつは癇の強い子で、どうしても負うか抱いて寝かしつけなければ眠らなかった。冬の寒い晩に、家人の眠りを妨げないために、ことは、泣きむつかるみつを負ぶって1時間も2時間も外を歩いたものだった。
2025.08.31
「続 とっとちゃん」の23-28頁p.23 小学校に上がる前の年のこと、夏の朝、右足全体がズキズキ痛くて目が覚めた。「寝ているときに足が痛かった!」p.24 ママは朝ごはんの支度をする手を止めた。「大変!すぐ病院へ行きましょう」(略)ママはトットの手をひっぱると、近くにある昭和医専の病院に連れていった。(略)医者「すぐ、入院しましょう」トットは、自分の身になにが起こったかのかがわからないまま、いきなり寝かされると、ドロドロの石膏にひたした包帯で、右足の指先からウェストまで、あっという間にぐるぐる巻きにされてしまった。 トットの右足は、結核性股関節関節炎という病気だった。(略)グルグル巻きのギブスができあがった瞬間に、先生は「上等、上等の助!」とか言って、トントンと、でもやさしく、ギブスで固められた右足を叩いた。(略)先生は「絶対安静」とおっしゃって、そのままトットを子ども用のベッドに連れて行った。「お嬢さんは、一生松葉杖を使う事になりかねませんよ」トットは知らなかったけど、ママは先生にそう言われたらしい。(略)トットはよくよく不運な子だった。昭和医専に入院中にしょう紅熱にかかってしまった。しょう紅熱は、おもに子どもがかかる伝染病で、トットは右足をギブスにくるまれたの状態で、昭和医専から近くの荏原病院という伝染病専門の病院に隔離されることになった。(略)やっとしょう紅熱が治まり昭和医専に戻ったトットは、今度は水疱瘡になった。水疱瘡も伝染病なので、トットはギブスをつけたまま荏原病院に逆戻り。足のギブスもまだまだ取れる気配がなかった。p.27 水疱瘡は泣きそうなほどかゆかった。しかも季節は夏。体じゅうにブツブツができて、・・・ギブスの中はまったく手が入らないし、汗はかくし、むれてしまうしでたまらない。ギブスと体のすきまに細長い棒をつっこんで、かこうとしても、なかなか入っていかない。 そんな窮状を察したパパが、物差しを持ってきてくれた。隙間からゆっくりと入れたら、ペタンコの物差しは、かゆいところの近くまで行く事に成功した。「パパ、ちゃんと届いた!大成功!」バイオリンで忙しいパパが一生懸命になってくれるのがうれしくて、ありがたくて、トットは拍手をした。(略)病院の外から、カナカナカナと鳴くセミの声が聞こえはじめるととうとうギブスを取る日がやってきた。夏のあいだ、ずっとギブスの中に押し込められていた右足は、うんと細くなっていた。入院中に少し背も伸びたけど足の長さは、右足より左足のほうが長くなっていた。「あれ、足の長さが違うんじゃない?」先生がギブスを外してくれたとき、トットとママは、顔を見合わせて笑ってしまった。だけどこのままでは、両足のバランスが崩れてうまく歩けない。そこでトットは、昭和医専の病院を退院すると、接骨院に通ったり、湯河原の温泉で湯治をしたり、いまでいうリハビリに取り組んだ。 湯河原にはパパのお母さまと、若いお手伝いさんの二人がつきそってくれた。おばあさまは、トットが畳の上を走ったとき、「静かになさい」ではなく「音は嫌いです」と言った。トットはその一言を聞いただけで「怖い!」と思い、なるべく静かに暮らすようにした。湯河原からの帰りには、品川駅にパパとママがお迎えにきてくれた。列車から降りたトットがプラットホームを走ってパパとママのところに行くと、二人とも泣いていた。どうして泣いているのかと思ったら、昭和医専の先生から「松葉杖になるかもしれません」と言われていたからだった。それなのにトットが走ってきたので、うえしかったのだと、大人になってから教えてもらった。足の長さは同じになった。歩くことも走ることもできる。トットは運がよかった。戦争中の東京の冬は、いまよりも寒かったと思う。「寒いし、眠いし、おなかがすいた」トモエ学園の行き帰り、トットたちはみんなでそう言いながら歩いていた。簡単な曲をつけて、自分たちのテーマソングみたいに歌うことがあった。お米の配給制が始まったのは太平洋戦争が始まる前だったけど、しばらくすると、たべもの屋さんはどんどん閉まっていったし、戦争が長引くにつれて、サツマイモ、大豆、トウモロコシ、コーリャンなどが「代用食」として配給されるようになった。(略)p.36 15つぶの大豆ある寒い朝、学校に出かけるときにママから、フライパンでいった大豆が15つぶ入っている封筒を渡された。「いいこと、これが徹子さんの今日一日分の食べものよ」ママはトットの手に封筒を置いた。「急いでぜんぶ食べちゃったらダメよ。帰って来てもなにも食べるものがないから、いつ、何つぶ食べるかは自分で塩梅してね」そうか。今日のお弁当はお豆だけなんだ。おなかがすいても、いっぺんに食べちゃいけないんだ。「食べたら、お水をいっぱい飲むのよ。そうすれば、おなかがふくれるから」ママは何度もトットに念を押した。「15つぶかあ。じゃあ朝は3つぶにしよう」そう決心して、学校に行く途中にまず一つぶ食べた。「ぼりぼりぼり」奥歯でかんでいると、一つぶめの大豆はあっという間に口の中から消えてしまった。「あーあ。もう3つぶも食べちゃった」学校に着いたトットは、ママに言われたとおりお水をたくさん飲んだ。「さっき食べた大豆が、おなかの中で水をいっぱい吸ってふくらむんだわ」トットは、おなかの中の様子を想像した。「残りは12つぶかあ」トットは、大豆の入った封筒をズボンのポケットにしまった。授業を受けていると、お昼ごろに空襲警報のサイレンが鳴った。トットたちは、校庭のすみっこにある防空壕に避難した。防空壕の入り口を閉めると、中はまっ暗になってしまう。(略)まっくらな防空壕の中では、どうしても大豆のことを考えてしまう。トットは我慢ができなくなって、ポケットから封筒を取り出すと、一気に2つぶ、落とさないように注意しなから口にねじこんだ。「ポリ、ポリポリ」いますぐに、残りぜんぶを食べたくなった。でも、もしいまこれを食べてしまったら、家に帰ってから、なにも食べるものがなくなってしまう。「がまん、がまん・・・・・・」そう思いながら、トットは考えた。「私はいま、大豆を10つぶ持っている。ひょっとしたら、もうすぐ、この防空壕に爆弾が落ちて、みんな死んでしまうかもしれない。だったら、いま食べたほうがいいかもしれない。」(略)「家が焼けていないといいけど」そう思いながら2つぶ食べた。p.46 「ショウシュウ レイジョウ ガ キタ」昭和19年の春、太平洋戦争が始まってから2年半が過ぎたころ、トットの家では、うれしい出来事と哀しい出来事が立て続けに起こった。4月に妹の真理ちゃんが生まれて、4人きょうだいになったのがうれしい出来事だ。ところが5月に、上の弟の明児ちゃんが敗血症で亡くなってしまった。ついこのあいだまで元気に学校に通っていた明ちゃん。勉強もできて、ヴァイオリンも上手に弾けて、トットと明児ちゃんはいつもいっしょだったのに、ペニシリン一本あれば助かる命だったと、あとから聞いた。 でも奇妙なことに、トットは明児ちゃんが死んだときのことを覚えていない。というより、明児ちゃんのことを、なんにも覚えていない。「いつも肩を組んでいっしょに学校に行ってたじゃない」とママが言うぐらい、なかよしだったはずなのに、なぜかまったく記憶がない。写真を見ても、「へーえ、こんな子だったんだ」と思うほどだ。きっとトットは、明児ちゃんが死んだという事実を受け入れられず、明児ちゃんの記憶を頭の中から追い出してしまったのだろう。だから、トットの記憶の中には、明児ちゃんを失って悲しむママとパパの姿も残っていない。 明児ちゃんは息を引き取る前に、「神さま、僕は天国に行きますけれど、どうぞこの家の人たちが、平和で楽しく暮らせるようにしてください」とはっきりとした声で祈っていたと、あとからママに聞いた。(その年の夏、ママは疎開することを決心し、疎開先を探す。パパは東京生まれ、ママの故郷の北海道は遠すぎる。最初の候補地は仙台、トットのおじいさまは東北大学医学部を卒業した。)p.47 ママは、トットたちを引き連れて仙台駅に降りると、駅前をぐるりと一周した。ところが、ピンとひらめいたものがあったらしい。「ダメだわ、絶対にここは空襲がある」ママの予言はあたった。(略)仙台への疎開をあきらめると、今度は福島へ向かった。福島駅に降り立つと、通りがかりの人に「このへんで疎開できそうなところはありませんか」「それなら飯坂温泉がいいべな」と教えられ、バスに揺られて飯坂温泉に到着した。(略)p.47 パパからの返事はすぐに来たのだが、その電報を読むママの顔がみるみる凍りつき、トットたちは、すぐに荷物をまとめて東京に戻ることになった。電報には「ショウシュウ レイジョウ ガ キタ」と書いてあった。p.99(滝川のおじいさまは亡くなり、ママはおばあさまを連れてぜんぶで5人函館から青函連絡船で青森に到着した。東北本線のホームは、大混雑だった。)「仕方がないわね。みんなも疲れているし、とりあえず一晩駅で過ごして、朝一番の汽車に乗りましょう」ママがそう言っているところに、汽車がホームに入ってきた。トットはなぜだかわからないけど、乗りたいと強く思った。「お母さま、これに乗りましょうよ」ママは即座に「ダメよ」と言った。(略)いつもなら、ママのいう事に従うトットだけど、このときは、この汽車に乗って一刻も早く青森駅から離れたほうがいいと思った。「尻内からだったら、歩いてもそんなに大変な距離じゃないわ」トットはそう言い張って、列車の乗り口にある鉄製の取っ手につかまり、「乗る、乗る、乗る!」と駄々こねた。子どもっぽい態度だったけど、いつになく強情なトットにママも折れて、五人はその汽車に乗り込んだ。(略)(7月28日の青森大空襲で、B29から落とされた何万発の焼夷弾が青森の町に降り注ぎ、千人以上の人が亡くなり、市街地の大半が焼失した。もしあのまま青森駅で一夜を明かしていたら、トットたち家族もどうなっていたかわからない。)p.101 ふだんはママの野生の勘を頼りにしているトットが、なぜあのときだけ「この汽車に乗らなければならない」と思ったのか、いまでも不思議でならない。p.31 まだアメリカとの戦争が始まる前、パパを除く全員で、北海道のママの実家に遊びに行ったことがある。ママにとっては初めての里帰りだった。 帰りの青森から上野に向う汽車の中で、トットは窓にへばりつくようにして、外の景色を眺めていた。前の席にはおじさんが二人座っていた。「あの栗毛の馬はとてもいがった」「子馬は安かったから買いたかった」と、さかんに馬の話をしていた。 発車してしばらくすると窓いっぱいに広がる真っ赤な光景が、突然トットの目の前に現れた・リンゴ畑だった。「リンゴだ、リンゴだ!」 トットだけじゃなくて、ママもいっしょになって大きな声をあげた。真っ赤なリンゴの実がたくさんなっていて、それがあまりにきれいで、おいしそうで、トットたちはうっとりした。「どうしましょう。降りるわけにもいかないし」なんて、ママがトットたちに話していたら、前に座っていたおじさんの一人が、「リンゴ欲しいか?」と話しかけてきた。「ええ!欲しいです。もうリンゴなんか東京では、ずーっと食べたことないですし、売ってもいませんから」「私たちは次の駅で降りるけれどね、そうだ、奥さん、お宅の住所を書きなさい」 ママはおおあわてでメモ帳を破ると、大きな字で東京の住所を書いて、それをおじさんに渡した。メモの切れ端をポケットにつっこんだおじさんたちは、次の駅で降りていった。 おじさんからトットの家にリンゴが届けられたのは、それから2週間ぐらいたった日のことだった。大きなリンゴの木箱が2箱も、籾殻の中から顔を出した真っ赤なりんごたちは、本当においしそう。もちろん甘くておいしくて、泣いちゃうぐらいうれしかった。「チョッちゃんのここまで来た道」p.43結婚して子どもが3人になったとき、初めて里帰りをしました。パパがコンサート・マスターをつとめる新交響楽団(N響の前身)は、山田耕さく先生は政府の依頼で作曲した『紀元2600年祝典シンホニー』を演奏し、その夏満州へ祝賀演奏旅行に出かけることになり、2か月ぐらい留守になります。父や母も『孫たちに会いたいから、ぜひ帰って来るように。旅費も送るから・・・・』といってきました。そのころ、東京から北海道の滝川に帰るのには、3日がかりの長旅でした。東京から青森まで数十時間汽車に乗り、津軽海峡をわたる連絡船を待って船底に揺られること5時間くらい。さらに函館から滝川まで10時間近くかかります。徹子の下に生まれた長男が4,5歳、二男が7,8か月でした。東京の大学にいっていた弟も同行してくれて、元気でなつかしい両親の待つわが家に着きました。両親はじめ、看護婦さん書生さん、お手伝いさんたちにねぎらわれ、大歓迎されました。父は着いたその晩、長男の明児に鳥を呼ぶための竹笛の作り方を教え一緒につくっていました。明児は、いい音の出る笛を作り上げ「うまいものだ。さすが俺の孫だ」と父を喜ばせました。翌日、その笛をピイピイ吹きながら、鳥刺しにでかけました。次男の紀明は、お人形さんみたいにきれいな赤ちゃんで、父は紀明を抱いて「東京の孫だよ」と散歩をよそおって近所に見せびらかしに歩き回りました。夏休みは瞬く間に過ぎて、9月1日からは学校が始まります。父に「あした、帰ります」というと「9月1日からといったって、小学生なんだから1日2日遅れたってどういうことないだろう」と旅費を渡してくれません。いよいよ帰るという日の朝、父は玄関まで送りに出てきました。父は下を向いたまま、玄関に脱いであった下駄の上に涙をポトリポトリと落としました。p.47 ドラマ『チョッちゃん』が始まってから、毎日ドキドキして見ました。皆様がご覧になるのと、私の見る目はずいぶん違っていると思います。私はむかしの真実とダブらせてみるのですから、あんなふうではなかった、もっとこうして欲しかったとつい思ってしまいます。 でも、由紀さおりさんの演ずるおだやかで無邪気な母は、ほんとうによく母の姿を映し出していると思います。声もよく似ています。 母はほんとうに心の美しい人でした。 母が人を傷つけたり、とがめたりするのを見たことがありません、つらいこと悲しいこともたくさんあったのに、ちっとも耐えているという感じがなく、清く澄んだ湖のような人でした。いつも祈っていました。私はこの母の美しいものを見過ぎてしまったような気がします。 母の母も、熱心なプロテスタントのクリスチャンでした。母は、豪農の一人娘として乳母日傘で育てられ、ミッションスクールの宮城女学校に通っていたころには「仙台小町」と言われていたそうです。父とは見合い結婚でした。 料理、洗濯、掃除などの家事はとても下手で、料理などはどうしたらこんなにまずいものがつくれるのかしらと思うほどでした。 静かに本を読んだりするのが好きで、教会へ熱心に通っていました。小さな体にいつも厚い重い聖書を持つ、というより抱いているように見えました。「チョウちゃん、祈りなさい。どんなことでも神様は聞いてくださるのだから」が口ぐせでした。 私は、一度も母から叱られたことはありません。おてんばな子ども時代はもちろん、女学校で問題を起こしたり、パパにさらわれるようにして無断で結婚してしまったときでさえも・・・。 突然行方が分からなくなってしまった娘を、母はどんなに心配して、無事に帰してくださるように神様に祈ったことでしょう。 いつのときも、母は責める代わりに私の幸せのため、神様のご加護をただただ祈り続けてくれました。 由紀さんは清楚でお顔の色も白く、私の母の役には最高の方だと思います。お会いしてみると、とてもおどけたユーモラスな方で「私は、料理、洗濯、掃除がぜんぜんだめなの。お母様の役は私しかいないでしょう」とにっこりと笑われました。p.49 食事の前には、母が長いお祈りを捧げます。私たちはそれが待ちきれず、おかずのとりかえっこしたりしました。母はそれを知っていて少しも態度を変えないで、静かにお祈りを続けます。 母がやっと「あーめん」といいますと、私たちはいままで真剣にお祈りを聞いていたように元気に声をそろえて「いただきまあす」と言いました。母はそれだけでは足らなくて「アーメンでございます」と頭をあげ、それからニコニコして食べ始めるのでした。 青森に疎開していたころは、毎晩食事の後、みんなの知っている讃美歌を歌ったものでした。徹子と紀明と母と私と4人で、讃美歌集のなかのみんなの知っている歌をぜんぶ、ほんとうに飽きもせず声をかぎりに歌いました。 パパが出征したまま、生死も不明のこともあり、母を含めて私たちがいちばん心をひとつにして一生懸命生き抜いた時代だったと、由紀さんに母のことをお話ししながらなつかしく思い出しました。 由紀さんのあの美しいお声で、讃美歌をたくさん歌っていただきたいと思っています。天に宝を積みなさい いつか私が自分用に黒いセーターを買ってきたことがあります。貧乏暮らしだったので、少しの余裕があれば、まずパパや子どもに必要なものを買いましたから、私のものを買うのは珍しいことでした。 母に見せると、色が地味なので母は、自分に買ってきてくれたものと思い込み、「まあ、チョウちゃん、私にセーターを買ってきてくれたの、うれしいわ」あんまりうれしそうにいうので、「私のなの」といいそびれてしまい、「そう、よかったわ、気に入ってもらえて」こうしてセーターは母のものになりました。 人をほめたり、感心したり、好意を喜んだり、母はそういうふうにしか言葉をつかわない人でした。 母はとても小柄でしたので、私の古いスカートをはくとロングスカートになり、あたたかくてとてもいいわといっていました。 寒いときはその上に短いスカートを重ねてはき、長袖のセーターの上に半袖のセーターを重ねて、それがまたとてもよく似合っていました。いまから40年以上も前のことですから、重ね着ルックのはしりです。 母に着るものを買えばといってお金をあげたことがありましたが、いつまでたっても靴下一足買うでもなく、私たちの不用になったぶかぶかの靴を、厚い毛糸の靴下をはいて使っていあmした。「あのお金は、教会に献金したの」といいました。母の涙は、小さいころも、また大きくなってからも何度も見ました。祈っても祈っても悲しみはあったと思います。母は、いつも私をたしなめました。「天に宝を積みなさい」「チョウちゃんは、すぐこの世的なことを言って」 声もやさしく静かで、笑うときは赤い顔をして恥ずかしそうに品よく笑いました。それに比べて私は声も大きく、笑うときもバカ声で出してころげて笑うので有名でした。「いろいろな大人がいるのですから、いろいろな子どもがいてもちっとも不思議はない、と私には思えました。ですから、大変だとか、どうしようと嘆く問題ではなく、私は、むしろ楽観的に考えていました。(中略)子供が親のいうことを、なんでもハイハイと聞いて、そのとおりにしていたら、親を乗り越えていくことはできませんし、心豊かな大人になるためには、子どもながらに自分の頭と心で考えて行動する自己体験の積み重ねが必要ではないでしょうか。失敗をものともせず、チャレンジしていく元気さ、健やかさは、本当にすばらしく、大切なものだと思います」『チョッちゃんのここまで来た道』p.154 おてんばだった私の血をひく徹子のおてんばぶり、好奇心の旺盛さは、それはたいへんなもので、小学校に入ってから、私はしょっちゅう先生に呼び出されました。「徹子さんがチンドン屋さんを校庭に引き込むのでクラスどころか学校じゅうの授業の邪魔になります」「いつも窓の外のツバメの巣のことばかり気にするので、勉強にまるで身が入りません」 先生のおっしゃることはもっともで、先生には申しわけなく、いつも謝ってばかりいました。でも私は徹子が悪い子だとは思いませんでした。 徹子の通っていた北千束の赤松小学校の校舎は通りに面していて、チンドン屋さんがすぐ脇を通るのです。 チンドン屋さんというのは、当時の唯一のコマーシャルです。どこどこに新しく肉屋が回転します。きょうとあしたは大安売りをしますと、前と後ろに垂れ幕を下げて、かつらをつけ白粉を真っ白く塗った五、六人の人たちがクラリネットやトランペットを吹きながら、チンチンドンドンとやるわけです。
2025.08.31
💛糖尿病型と判定される数値空腹時血糖値 ≧126 mg/dLHbA1c(NGSP値) ≧6.5%健康診断でHbA1cが初めて7.0を超え、要精密検査に先日糖尿病専門医に行ってきた健康診断では空腹時血糖値は126 を下回ったが、病院で採血検査の結果、130を超え『立派な(>
2025.08.31
195二宮翁夜話巻の2【5】尊徳先生はおっしゃった。「村里の復興は直を挙げることにある。土地の開拓は沃土を挙げることにある。善人は、おうおう退いて引きこもる癖があるものだ。勤めて引き出さないと出てこない。沃土は必ず、低い窪地にあって掘り出さないとあらわれないものだ。ここに気づかないで、開拓した土地を一様にならす時は、沃土は皆土中に埋ってあられない。村里の損、これより大きいものはない。村里を興復するのも、また同じ理だ。善人を挙げて、隠れないようにすることを勤めるがよい。また土地の改良を欲するならば、沃土を掘り出して田畑に入れるがよい。村里の復興は、善人を挙げて精出している人を賞誉することにある。これを賞誉するには、投票で耕作に精出して品行がよろしく心がけがよろしい者を選んで、無利足金を貸し付けるとよい。無利息金貸付旋回法は、たとえば米をウスでつくようなものだ。杵(きね)は、ただウスのまんなかをつくだけで、ウスの中の米は、同一に白米となるのと同じ道理だ。無利息貸付金の返済さえとどこおらなければ、社中一同知らず知らず自然と富裕になっていこう。だが、返済がとどこおるときは、たとえばウスの米が返らないようなものだ。これがこの仕法の大患である。ウスの米が返らない時は、村搗(むらつき)となってキネが折れ砕くるものである。この仕法で返済がとどこおる時は、仕法は萎縮してふるわなくなるものだ。貸付を取り扱う時、よくよく注意して説諭しなさい。【5】翁曰く、村里の興復は直を挙ぐるにあり、土地の開拓は沃土を挙ぐるにあり、然るに善人は、兎角(とかく)に退きて引籠(ひきこも)る癖ある物なり、勤めて引出さゞれば出ず、沃土は必ず、卑(ひく)く窪(くぼ)き処にありて掘出さゞれば顕はれぬ物なり、爰(ここ)に心付かずして開拓場をならす時は、沃土皆土中に埋まりて永世顕(あら)はれず、村里の損、是より大なるはなし。村里を興復する、又同じ理なり。善人を挙げて、隠れざる様にするを勤めとすべし、又土地の改良を欲せば、沃土を掘り出して田畑に入るべし。村里の興復は、善人を挙げ出精人を賞誉するにあり。是を賞誉するは、投票を以て耕作出精にして品行宜しく心掛宜しき者を撰み、無利足金、旋回貸附法を行ふべし、此の法は譬へば米を臼(うす)にて搗(つ)くが如し、杵(きね)は只(ただ)臼の正中(まんなか)を搗(つ)くのみにして、臼の中の米、同一に白米となると同じ道理にて、返済さへ滞らざれば、社中一同知らず知らず自然と富実すべし、而して返済の滞るは、譬へば臼の米の返らざるが如し、是れ此の仕法の大患なり、臼の米返らざる時は、村搗(むらつき)となりて折れ砕くる物なり、此の仕法にて返済滞る時は、仕法痿靡(ゐび)して振(ふる)はざる物なり、貸附取扱ひの時、能々注意し説諭すべし。
2025.08.31
青森県弘前市立図書館と岩手県盛岡市立図書館に『安居院庄七と鷲山恭平』と『報徳の師父』3部作を寄贈する。『安居院庄七と鷲山恭平』は既に青森県では、藤崎町立図書館と弘前大学図書館で蔵書となっており、十和田市立図書館では収蔵していただけていない。岩手県では、奥州市立図書館で蔵書となっている。一方、残念なことに花巻市立図書館からは寄贈した本を返却され、二戸市立図書館では収蔵していただけていない。弘前市立図書館の本会出版図書の所蔵状況1. 資料で読む技師鳥居信平著述集 台湾の地下ダムの原点は徳島県技師時代にある2. 遠州報徳の師父と鈴木藤三郎3. 報徳記を読む 第1集 『報徳記』第一巻(『報徳要典』準拠全ルビ原文(朗読・輪読用)、現代語訳、資料集)盛岡市立図書館の本会出版図書の所蔵状況1. 補注 鈴木藤三郎の『米欧旅行日記』2. 報徳記を読む 二宮尊徳の報徳の教えが世界に広まり真正の文明の実を見ることを 第4集 『報徳記』第六~八巻全ルビ補注付原文、現代語訳3. 報徳記を読む 報徳は国を興し民を安ずる大業である 第3集 『報徳記』巻の三、巻の四、巻の五(『報徳要典』 準拠全ルビ)4. 二宮金次郎の対話と手紙 中学生からお年寄りまでよくわかる 第一 小田原編(少年・青年期)5. 報徳記を読む 第1集 『報徳記』第一巻(『報徳要典』準拠全ルビ原文(朗読・輪読用)、現代語訳、資料集)6. 報徳記を読む 報徳は精神変革である 第2集 『報徳記』巻の二、『報徳論』 (『報徳要典』準拠全ルビ) 、報徳本教・青木村治蹟7. 砂糖王鈴木藤三郎 氷砂糖製造法の発明8. 報徳産業革命の人 報徳社徒鈴木藤三郎の一生 「二宮尊徳の会」鈴木藤三郎💛11月1日秦野市で『報徳サミット』が開催される。秦野市は遠州地方を中心に「報徳」を伝え、60もの報徳社を設立した安居院庄七先生生誕の地である。『報徳サミット』をきっかけに安居院先生のことが広く知られ、寄贈した『安居院庄七と鷲山恭平』と『報徳の師父』3部作が市民の皆様に読まれることを願う。第30回全国報徳サミット秦野市大会について
2025.08.31
現生人類の脳の化学組成、古代の人類に対して競争上の優位を保持か 新研究8/30(土)約60万年前、現生人類はネアンデルタール人やデニソワ人を生み出した系統から遺伝的に分岐した。これらは人類の系統樹において現生人類に最も近い親戚だ。分岐後のある時点で、アデニロコハク酸リアーゼ(ADSL)と呼ばれる酵素が現生人類で異なる進化を遂げた。この酵素の484個のアミノ酸からなる鎖において、429番目の位置にあるアラニンというアミノ酸がバリンに置き換えられた。これは小さな変化だが、現代の人間だけが持つADSLの一種が誕生した。この酵素は、DNAやRNAの構成要素であるプリン体の生成に不可欠な成分だ。現代人でADSLが欠損すると、多動性や攻撃性といった行動異常につながる可能性がある。科学者は、たった一つのアミノ酸の変化が我々の行動にどのような影響を与えるのかを調査した。研究結果は学術誌「米国科学アカデミー紀要(PNAS)」に掲載された。沖縄科学技術大学院大学(OIST)のヒト進化ゲノミクスユニットのシァンチュン・ジュ博士は「太古の昔からの小さな遺伝子変化が、我々を人間たらしめる脳の特徴の形成にどのように役立ったかを明らかにすることは非常に興味深い」と述べた。水との親和性これまでの研究では、現代人の変異したADSLによって酵素の安定性が低下してプリン生成の効率が低下することが示されていた。それに比べると、ネアンデルタール人やデニソワ人が持っていたオリジナルのADSLは特定のたんぱく質分子の合成をさらに効率的に行える。現生人類では、これらの分子は臓器、特に脳に蓄積する。これが行動にどう影響するかを知るために、マウスを使った実験が行われた。マウスの一部は、人間のADSLを模倣して、効率の低いADSLを持つよう遺伝子操作された。これらの「ヒト化」されたマウスと、改変されていない対照群のマウスを、まず12日間にわたって徐々に水へのアクセスを制限し、その後、音と光で合図して水を飲めるようにする実験を行った。すると、ヒト型の酵素を持つ雌のマウスは、のどがかわいたときに水が供給される場所を、より頻繁に訪れることがわかった。科学者は、この効率の低いバージョンのADSLは水へのアクセスに肯定的な影響を与え、この重要な資源に対する現生人類の競争力を高めたのではないかと仮説を立てた。二つ目の調査では、現代人類のゲノムを調べ、人間に特有の酵素を生成するADSL遺伝子に焦点を当てた。研究では、少なくとも97%の現代人が持つ遺伝子変異のクラスターを発見した。この変異はADSLのRNA発現効率をさらに低下させ、行動への影響を増幅させる可能性がある。研究によれば、この遺伝子は、進化の過程で人間に有利とされたゲノム領域に位置しており、ADSL発現のこの変化が人間に何らかの利点をもたらした可能性が高いために受け継がれてきたことを示唆しているという。シカゴ大学の人類遺伝学助教のマーナサ・ラガバン博士は「このような研究を通じて、現代人を独特たらしめる遺伝的変化を特定する段階から、それらの変化がどのように我々の独自性を形作ったのかを理解する段階へと移行しつつあることは、実に刺激的だ」と述べた。ラガバン氏は今回の研究に関与していない。「この研究は、不安定な環境と限られた資源の中で、我々の祖先がどのようにしてネアンデルタール人やデニソワ人のような同時代の人々に対して優位に立つことができたのかという興味深い可能性を提起している」(ラガバン氏)ネアンデルタール人のゲノムの全容は2010年に初めて解読され、その2年後にはデニソワ人のゲノムも解読された。アフリカやアジア、欧州にひろがる現代人の遺伝子データと比較することで、他のヒト族が絶滅する一方で現代人が成功するのに役立った可能性のある行動を特定している。OISTのジュ氏は「現代人に起こった多くの変化が、我々の脳の発達と機能に影響を与えているという見方が、この研究によってさらに明確になった」と述べた。「これは、こうした変化を理解し、最終的にはそれらがどのように連携していくかを理解するための一歩になるだろう」
2025.08.30
中国の「抗日戦勝記念」式典は歴史の歪曲 米国の大手研究機関が報告書で「虚構」と非難8/30(土)「中国政府の抗日戦争勝利記念の式典は歴史をゆがめ、捏造(ねつぞう)した虚構の政治宣伝だ」―。米国主要研究機関が、9月3日に中国政府が催す日本への勝利を祝賀する式典を厳しく非難する報告書をこのほど公表した。トランプ政権にも近い同研究所の報告書は、中国共産党の軍隊が日本と戦って勝利した戦闘は皆無に近く、その「抗日勝利」の主張は「虚偽」だとまで断じている。ワシントンの大手研究機関のハドソン研究所が発表したのは「中国の第二次大戦での勝利パレードは究極のフィクション」と題する報告書だ。同研究所中国部のマイルズ・ユー部長が執筆した。ユー氏はカリフォルニア大で博士号を取得したベテランの中国研究者で、第1次トランプ政権ではポンペオ国務長官の中国問題顧問を務めた。現在も米海軍士官学校の教授を兼ねる。ハドソン研究所はトランプ政権にも極めて近く、その政策提言は同政権の意向を反映することも多い。中国政府は日本が降伏文書に署名した翌日にあたる9月3日に、北京の天安門広場で対日勝利の記念式典を軍事パレードとともに開く。今回は戦後80周年を強調して国際的な宣伝を行い、ロシアのプーチン大統領や北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)朝鮮労働党総書記ら他国の首脳が参加を表明している。こうした動きに対してハドソン研究所の報告書が指摘した骨子は以下の通りだ。▽中国共産党軍が日本軍の主敵として日本の侵略と戦い、勝ったとする主張は共産党を美化する厚顔なウソだ。▽1937年から45年まで日本軍と戦ったのは蒋介石麾下の国民党軍で、総計350万人の死傷者を出したが、共産党軍は延安地区に引きこもり日本軍とはほとんど戦わなかった。▽共産党が日本軍との戦闘として宣伝する「百団大戦」も実際の日本側の死傷者は500人ほどで、共産党発表の4万6千人殲滅(せんめつ)は根拠がない。▽共産党の八路軍は日本軍との戦闘が少ないため被害も極めて少なく、戦死した軍幹部は左権将軍1人しか確認されていない。▽共産党は戦時中に米軍と協力した抗日軍事活動も強調するが、中国での米軍の戦略情報局(OSS)は国民党軍との協力が主体で、むしろ共産党側は米軍工作員を暗殺の標的にさえした。■ソ連が中国共産党に攻撃回避の圧力同報告書は以上のような記録を挙げて、今の中国共産党の「われわれが日本軍を破り、反ファシズムの抗日戦争、そして第二次世界大戦に勝利した」という主張はまったくの虚構だと断定した。さらに報告書はその背景について、ソ連の共産党政権が当時、日本との間で結んでいた日ソ中立条約のために中国共産党に日本軍への直接の攻撃を避けるよう圧力をかけていたことや、中国共産党の毛沢東主席がその後の国民党軍との戦闘に備え、八路軍への損害を最小限にするため、日本軍との戦闘を制限していたことなどを挙げた。こうした指摘が今の米国側のトランプ政権に近い陣営から出てくることは、日本側にとっても中国への反論の有力な材料となるだろう歴史問題でも中国と共闘 ロシア大統領、日本名指し8/30(土)ロシアのプーチン大統領は31日からの中国訪問を前に中国国営通信新華社の書面インタビューに応じた。第2次大戦下でソ連軍と中国が連携して日本と対峙したとした上で「ロシアと中国は第2次大戦の歴史を歪曲するたくらみを断固として非難する」と表明。日本を名指しし歴史問題でも中国と共闘する姿勢を示した。
2025.08.30
石破首相、インドのモディ首相と新幹線乗車…「日本式」の技術力や安全性アピール8/30(土) 石破首相は30日午前、来日中のインドのモディ首相と東京駅で東北新幹線「はやぶさ」にそろって乗車し、仙台市に向かった。29日に行った両首脳の会談では、インドへの最新の日本式新幹線技術の導入に向けた協力で一致しており、日本の新幹線の技術力や安全性をアピールする狙いがある。 石破首相は30日午前、自身のX(旧ツイッター)に、モディ氏と並んで新幹線の座席に座る写真を投稿し、「モディ首相と仙台へ。昨夜に引き続き、車内からご一緒します」と書き込んだ。午後には仙台市内で昼食を共にし、宮城県内の半導体製造装置メーカーの工場を視察する。モディ氏は2016年の来日時にも、当時の安倍首相と東海道新幹線に同乗している。石破総理 来日中のインド・モディ首相と半導体工場を視察 “インドの高度人材受け入れ”がカギ 人口世界一位のインドは人口減少の日本を救うのか8/30(土)石破総理はきょう、インドのモディ首相と新幹線に乗り、宮城県にある半導体の工場を訪れました。両首脳はきのう、半導体などの分野で協力を強化する新たな枠組み「経済安全保障イニシアチブ」の創設で合意。これからのお互いの発展の鍵になると見ているのが「人的交流」です。石破総理「高度人材をはじめとするインド人材の力は、日本経済の成長、地方の創生に不可欠であります」きのうの共同記者発表では、ITなどの分野で専門性の高い知識や技術を持つ高度な人材を中心に、5年間で5万人を受け入れるという目標を発表しました。日本では、IT人材が2030年にはおよそ79万人不足すると予測されているなか、インドは今やIT大国とも呼ばれ、国際的にインドの人材の獲得競争が激しくなっています。名古屋市でバルブなどの製造・販売を行う企業で働いているインド人のシャズさん。インドで理系の最高峰とされるインド工科大学を卒業し、新卒でこの企業に入りました。高砂電気工業 シャズ・アリ・ジャベドさん「機械工学と材料科学を専攻していた私にとって、ここでの研究は自分の専攻と合っていると感じ、とても魅力的だと思いました」大学で開かれた就職フェアで日本人の社長から直接説明を受け、「専攻を活かせるこの会社なら、一緒に自分も成長できる」と考えて入社を決めたといいます。3年前にインドでの採用を始めたこの企業の担当者は、“経済成長や人口の多さを考えると、ビジネスにはインド人の力も必要”と強調します。高砂ホールディングス 人事担当(チーフ) 中野咲樹さん「まだまだ発見できていないポテンシャル、会社さん、人、人材がインドにはたくさんいると思います。ものづくりを提供することでインドと日本が協力関係でやっていけるんじゃないかなと思います」シャズさんのようなイスラム教徒の社員には、礼拝ができる場所や、肉を使わない食事を用意するなど、働きやすい環境づくりに努めています。高砂電気工業 シャズ・アリ・ジャベドさん「セールスエンジニアの仕事では、語学力を活かして人をつなぎ、日本との橋渡しをする役割を担っています。学んだ知識や経験を活かし、さまざまな企業同士をつなぐ『架け橋』として役立てていきたいです」人口減少による働き手不足に悩む日本。インドの高度人材をどのように呼び込むかが今後のカギとなります。
2025.08.30

195二宮翁夜話巻の2【12】 尊徳先生は、床の間のかたわらに、不動尊の像を掛けられていた。山内董正(ただまさ)が言った。「あなたは、不動を信ずるのか」先生はおっしゃった。「私は壮年の時、小田原侯の命を受けて、野州(栃木県)物井(ものい)に三村を復興させるため来ました。人民は離散し、土地は荒れはて、どうしようもありませんでした。そこで功の成否に関わらず、生涯ここを動くまいと心に決しました。たとえ事故が起こっても、背に火が燃えついた事態にたちいたろうと、決して動くまいと死をもって誓いました。不動尊は、『動かざれば尊し』と訓じます。私は、その名義と、猛火で背を焚いても、動かざるの像形を信じ、この像を掛けて、その決意を妻子に示しているのです。不動尊のどのような功験があるかは知りませんが、私が今日にいたったのも、不動心の堅固一つにあります。ですから今日もなおこの像をかけて、妻子にその決意を示すのです。【12】 翁(をう)床(とこ)の傍(かたはら)に、不動仏の像を掛けらる。山内董正(ただまさ)曰く、卿(きみ)不動を信ずるか、翁曰く、予壮年、小田原侯の命を受けて、野州物井(ものゐ)に来(きた)る、人民離散土地荒蕪、如何(いかに)ともすべからず、仍(よつ)て功の成否に関せず、生涯此処(ここ)を動かじと決定(けつぢやう)す、仮令(たとひ)事故出来(しゆつたい)、背に火の燃え付くが如きに立(たち)到るとも、決して動かじと死を以て誓ふ。然るに不動尊は、動かざれば尊しと訓ず、予其の名義と、猛火背を焚くといへども、動かざるの像形を信じ、此の像を掛けて、其の意を妻子に示す、不動仏、何等の功験(こうけん)あるを知らずといへども、予が今日に到るは、不動心の堅固一つにあり、仍(よつ)て今日も猶此の像を掛て、妻子に其の意を示すなり。☆報徳記によると、尊徳先生が成田不動尊に籠った時どのような感得を得たのかは生涯人に語られなかったという。後年、岡田氏が成田に参って聞き取った「二宮先生の7大誓願」という文章がある。生涯人を助け世を救うことを実践された尊徳先生の事績をみると、この誓願もさもあらんという感慨がわいてくる。尊徳先生は、新勝寺の別寮に移られて、日々朝から晩まで水を浴び、お経を唱え、祈念怠ることがなかった。 和尚は、間を見て、二宮先生に問うた。「世に当山に祈願するものを見るに、あるいは自らの病気を治すため、あるいは貧乏を免れようとし、あるいは栄華や利益を願うためにし、あるいは愛欲をみたさんと願い、おおよそその私情私利の欲念のために祈願しないものはない。 今、私があなたを見るに健康で病気でもない。衣服は粗末だが、貧乏を憂えてのことでもない、栄華利欲を祈るものでもない。言語もしっかりしており、とても危うい道を踏み行って災難に遭遇するとも思えない。心ひろくまっすぐで欲念や怒りをはらすためでもない。 そもそも何を祈願することがあって、特に当山に来て、食事を絶ち、身を苦しめようとするのか」 先生はこうおっしゃった。「わたしは病気があるわけでもない。 しかしながら私は幼くして父母の病気にあって不幸にしてはやく父母をなくしてみなしごとなった。その不幸はいかほどか。 思うに天下に私と不幸を同じくするものが少なくないことを知るゆえに、天下の人の父母たるものが無病健全で子どもが安心して生育できるよう祈願するものである。 私は今貧乏を憂えるものではない。しかし、極貧の家に成長し、父母の艱難は言葉に尽くしがたいものであった。世の中で貧乏より悲しいものはないということを知った。 ここをもって天下の貧者をみては、あまねくこれを救済して富者になさしめることを祈願するものである。 私が生まれた年、天明の大飢饉であった。死者は何万人いたかわからないほど多かった。関東の諸州の死亡がもっとも多く、栃木の芳賀郡の村々が廃亡したのもこの時であると聞いている。 今、ここの開墾の任務にあたり、飢饉の害ほど大きいものはないことを知る。60年前後に必ず凶荒のときがあると聞いている。あらかじめその備えをなして、天下に飢えた民がないことを祈願するものである。 私は幼いとき、しばしば洪水にあい、所持の田畑は再三押し流された。その開墾のため、父母の苦労は筆舌につくしがたいものであった。元通りにしようとしても、容易には良田になしえず、数年の労力でやっと復旧しても、このために負債を生じて所有地を売り払うこととなった。一家滅亡したものも我が家だけではない。 だから天下の水害をこうむって滅亡にいたるものを救助すること、私が自ら我が家をたてなおしたようにならんことを祈願するものである。 天下にはさまざまな災厄をこうむって、借財を生じて、利息が累増し、元利を償還することができず、家財産を失い、逃亡する者も少なくない。あるいは家老の職にあってぜいたくになれて、負債のため職務を全うできず、厳しく重税をとりたてて国家危急にいたるものも少なくない。 私はこれがために方法を設け、救い取ろうと祈願する。 要をもって言えば、禍を転じて福となし、凶を転じて吉となし、借財を変じて無借となし、荒蕪を変じて開田となし、やせ地を変じて肥沃の地となし、衰貧を変じて富栄となし、困窮を変じて安楽となし、おおよそ人民のにくむところを除いて好むところを与えようと日々夜々に祈願するところなり わたしは君命を受けて、物井村にいたってよりここに七年、着々これを実地に施した。しかしながら、民心はいまだにこれを理解せず、土地が開け、人民は豊かになってきて、しかも人心は喜ばず、かえって反抗をこころみ、よこしまな者どもは威力をたくましくして、良民はその志をのべることができない。 すでに人民の困窮を変じて安楽の道をあたえ、すでに人民の貧を変じて富み栄させ、すでにやせ地を変じて開田とし、借財を幾度となく無借としてきた。しかしながら、人心の凶を変じて吉とすることがなしがたく、国家の禍を福とすることができない。 どういう理由か、これは人民が私の誠に疑惑があるためである。私は君命のために国家を復旧の道をたて、民を水火に救おうと欲するだけである。天地神明いやしくもこの誠心を真実としなければ、死ぬとも食をとらず、民を水火から救うことができなければ、この身を猛火になげすてよう。 これが当山に来て祈誓するゆえんである」 和尚はその誓願に感嘆し、「あなたの誓願はまさに世を救う法であり、世間の教えの及ぶところではない。 よくその誓願をたもって動くことがないならば、いかなる天魔や悪鬼の妨げるものあるもついにはどうすることもできないだろう。」 そして不動経を与えた。 先生はこの不動経を受持し、朝夕昼夜怠ることなく、毎時ごとに沐浴し、不動尊の前に礼拝し、誓願を唱えた。 そして、実に21日目に感応があり、次の歌をよんだ。 身を捨ててここをせんどとつとむれば 月日の数もしらぬなりけり 心あれば成田の山にこもりなん 石の上にも岩の上にも
2025.08.30
カラスよけに秘策、市職員手作りのアイデア ごみ集積所の9割で効果ごみの集積所を荒らすカラス。困っていた宮崎県日向市の職員が、あるものを作った。それを置いたら、9割の集積場で被害が減った。まちの美観保全だけでなく、農業などへの活用も見据えている。製作したのは市環境政策課の課長補佐、奥原孝雄さん(60)。市内にはごみ置き場が約1400カ所あり、うち6、7割がネットをかけるタイプだ。かけ方が不十分だったり隙間があったりすると、カラスがごみをついばむ。「荒らされた」という通報が多い時は1日2、3件寄せられ、そのたびに収集業者や市職員が出向いて掃除してきた。負担が大きいため、奥原さんは今年6月、ほかのカラスよけグッズを参考に、黄色地に黒のドットを入れ、ゆがみを加えたデザインの表示板を考案。A3判に印刷して防水加工し、ネットに取り付けられるようにした。 7月14~31日、被害が大きかった集積所79カ所に取り付け、収集のたびに散らかり具合を調べた。その結果、延べ430回の収集のうち、被害ゼロが326回、わずかだったのが53回。88%で効果があったという。 現場で収集作業をする日向衛生公社の若杉友輔さん(33)は「時には車道いっぱいにごみが散乱し、掃除するだけでも危険だった。効果は実感している」と話す。 奥原さんはカラスが慣れることを見越し、目玉入りのデザインやタカの目を入れたデザインを「二の矢」「三の矢」として用意した。いまは全部で10種類に増えた。 カラスが寄りつかなくなった理由は分からないが、コストをかけずに困りごとを解決できた。「軽い気持ちで始めたが、ここまで結果が出るとは。掃除の手間を省き、まちの美しさにつながればうれしい」と話す。 表示板のデザインのうち8種類が、市のホームページからダウンロードできる。
2025.08.30
森信三「幻の講話」第二巻より 坂村真民さんは、五十三才の時、宇和島の旅館に森信三先生を訪ねた。念願詩誌『詩国』の発刊は、真民さんは、その出会いによって啓示を受け、決意を固めたものだが、その出合いを次のように語っている。「先生にお会いしなかったら、お言葉に感動しても、それが骨髄にまで達せず、月刊詩誌『詩国』も途中で挫折したであろうし、今日まで続くことはなかったであろう。『腹がすわる』ということは、なかなか難しいものである。先生は旅館の部屋で、お一人夕食をとっておられた。初めての対面なので、わるい時に来たなと思ったが、いろいろ話を聞いてくださり、最後に何か困っていることがありますかと言われるので、わたしが朝鮮にいる時、一番お世話になった人の消息を知りたいと話したとたん、食事をやめて、鞄を取り寄せハガキを出し、それを書かれて、これを帰りしなポストに入れなさい、この方ならきっと捜してくださいますと、おっしゃったのである。このことが、わたしの腹をつくってくれたのであった。先生が偉大な哲学者、教育者であるだけだったら、腹はすわらなかったであろう。先生は偉大な実践者でもあった。実践とは、大地に足をつけて、ゆるぎない人をいう。そのことを丹田に打ち込んでくださった。『詩国』が、一回も休まずに今まで続いてきたのは、先生のおかげであり、あれから病気をしなくなり、『詩国』の読者も全国的に増えていった」と。 主人貧しくも 坂村真民 主人貧しくも 鶯来鳴き 春の戸ひらく 主人貧しくも 月照り ひかり堂に満つ 主人貧しくも 石笛吹けば 天女舞う 主人貧しくも タンポポ咲いて 種子四方に飛ぶ ひとりひそかに 坂村真民 深海の真珠のように ひとり ひそかに じぶんを つくってゆこう ねがい 坂村真民 ただ 一つ 花を 咲かせ そして 終る この 一年草の 一途さに 触れて 生きよう 花は開けど 坂村真民 花はひらけど わが眼ひらかず わが心ひらかず 罪業の深さよ 視力を失おうとする 眼に映りくる 花の清さよ 念ずれば花ひらく 坂村真民 念ずれば 花開く 苦しいとき 母がいつも口にしていた このことばを わたしも いつのころからか となえるようになったそうしてそのたびに わたしの花が ふしぎとひとつ ひとつ ひらいて いった
2025.08.30

♥8月27日(水)病院で糖尿病の診断をされた!!長らく「境界値」だったが、「糖尿病」に陥落(><)土曜日朝食後に近くの丘まで自転車でおもむき階段を上りまずは踵落とし100回で呼吸を調えスロースクワットを100回行う運動の効果で空腹価126以下に戻れますようにそれにしても宣告されないと「やる気」が起こらない(^^)もう血糖値スパイクは起こさない!<必見>食べ方・運動ルールとは血糖値スパイクは食後の短時間に血糖値の急上昇と急降下を招く状態のことで、糖尿病や動脈硬化による病気のリスクを高める可能性があります。糖尿病で起こる持続的な高血糖とは異なり、健康診断で血糖値に異常なしと言われている若者や痩せ型の女性にも起こるケースがあります。血液中のブドウ糖の濃度を表す「血糖値」。一般的な健康診断では空腹時の血糖値を測定し、その値が70〜99mg/dLであれば正常と判断されます。一方、健康診断では発見しにくい血糖値の異常に 「血糖値スパイク」という状態があります。血糖値スパイクは、食後短時間に血糖値が急上昇、急降下する現象で、糖尿病に進行するリスクが高いだけでなく、脳梗塞や心筋梗塞をはじめとしたさまざまな病気を引き起こす可能性があることが指摘されています。本来、血糖値は常に変動しており、健康な人でも一定ではありません。正常な状態であれば血糖値の上がり方は緩やかで、下がる時も時間をかけて元に戻ります。運動は血糖を消費するという点だけでなく、筋肉量を増やし、常に血糖を使い続ける体質をつくるという点からも血糖値の上昇を防ぐのに役立ちます。血糖値スパイクを予防する2つの運動ルールを意識して効率よく運動を続けましょう。ルール①:運動した日は血糖値が上がりにくい!運動で筋肉を動かすと、筋肉が糖を消費するためインスリン分泌が少なくても血糖値が上がりにくくなります。マラソンや自転車といった強度の強いスポーツでなくても、少し速く歩く、階段を使ってしっかり脚を使うことを心がけるだけでも効果的。毎日の通勤通学や買い物、散歩などの機会を利用して、こつこつカラダを動かしましょう。ルール②:食後に運動すると食後高血糖を防げる食後15〜30分してから軽い運動をすると血糖値コントロールに効果的だと言われています。消化のために胃に集まる血液を末端に動かし、急激な血糖の上昇を防ぐ意味合いを持ちます。例えば、職場から少し離れた店にランチを食べに行き、少し速いと感じるペースで歩いて帰ってくるなど、普段から食後に軽い運動時間を取り入れることで意図して予防ができます。
2025.08.30
<あんぱん>手嶌治虫の仕事場に“名作マンガ”の原稿が! 視聴者沸く「心躍り感がパない」「実写映画の主演は八木さんだったな」8/30(土)第110回では、新居に引っ越したのぶ(今田さん)と嵩(北村匠海さん)は、羽多子(江口のりこさん)と同居生活を始める。そんな中、嵩宛てにかかってきた電話に出た羽多子が、明日の朝までにラジオドラマの脚本を書き上げてほしいという依頼を引き受けてしまう。嵩は以前書いた短編の「やさしいライオン」をアレンジし、結末を変えて、30分のラジオドラマとして完成させた。 「やさしいライオン」は、母親を亡くしたライオンのブルブルと、お母さんがわりの犬のムクムクの親子の絆を描いたストーリー。翌日、このラジオドラマが放送されると、手嶌も仕事場でこの物語に耳を傾けていた。 この場面で、机に突っ伏している手嶌の姿が映り、机の上には「どろろ」と書かれた原稿があった。「どろろ」は、手嶌のモデルである手塚治虫さんが、1960年代に「週刊少年サンデー」(小学館)ほかで連載し、2007年には実写映画も公開された名作マンガ。戦国時代を舞台に、自分の体を取り返そうとする百鬼丸と少年・どろろの旅と戦いを描いた。なお、実写映画では、「あんぱん」で八木を演じる妻夫木聡さんが百鬼丸を演じ、主演を務めた。 この「どろろ」の原稿に反応する視聴者も多く、SNSでは「手塚先生(ドラマでは手嶌先生)どろろ描いててめっちゃ興奮しちゃった」「手嶌治虫の作業机にどろろの原稿あって最高だった」「『やさしいライオン』に号泣しているところにインサートしてくる『どろろ』のタイトル。架空の作品ではなくガチもんが出てくると心躍り感がパない」「手塚治虫先生がどろろを描いているという事は、水木しげる先生のゲゲゲの鬼太郎が大ヒットしていた頃か」「実写映画の主演は八木さんだったな」といった声が上がっていた。*「どろろ」は、1967年から1969年にかけて、掲載紙の移籍を経ながらも、手塚治虫が発表した漫画。物語の舞台は、架空の日本・能登半島であり、時代設定は戦国時代である。生まれながらに身体の48箇所分が不足する少年・百鬼丸は、道中出会った幼年のこそ泥・どろろを相棒に、その身体の不足分を奪い去った48体もの魑魅魍魎の討伐を目的とした旅路を描く。プロローグ室町時代の中ごろ、武士の醍醐景光は、ある寺のお堂で魔物に通じる48体の魔神像に天下取りを願い出て、その代償として魔神の要求する通り、間もなく生まれる自分の子を生贄として彼らに捧げることを誓う。その後、誕生した赤ん坊は身体の48箇所を欠損した状態で生まれ、母親と引き離されて化け物としてそのまま川に流され、捨てられてしまう。医者・寿海に拾われた赤ん坊は、彼の手により義手や義足を与えられた。どろろとの出会い14年後、成長した赤ん坊は百鬼丸と名乗り、不思議な声に導かれるままに自分の身体を取り戻す旅に出る。旅の途中、百鬼丸は数人の大人から袋叩きにされていた幼子の盗人どろろと出会う。百鬼丸はどろろを助けるが、どろろは礼を言うどころか彼の左腕に仕込まれた刀に目を付け、しつこく百鬼丸を付け回すようになった。初めは邪険にしていた百鬼丸だが、自身の身体の秘密や生い立ちを話してもびくともせず、むしろ面白がってますます自分に興味を持ってくるどろろを、どこか憎めなかった。そして幾多の危機を乗り越えていくうちに、いつしか2人の間には相棒とも友人とも呼べる奇妙な絆が生まれる。そして2人旅の道中、声が教えた通り、魔物を倒すたびに奪われた48箇所の身体は1つずつ復活していく。だが、異形の体と妖怪退治の力を持つ少年、盗人の子供という身の上ゆえに、2人は行く先々で人々に忌み嫌われ、絶えず追われ続ける不遇が続いていく実写版「どろろ」妻夫木「百鬼丸は悲しみや愛を忘れずに持っているキャラクター」
2025.08.30
報徳産業革命の人 : 報徳社徒鈴木藤三郎の一生(「二宮尊徳の会」鈴木藤三郎氏顕彰, 第1集)現在、再版し印刷原価で大日本報徳社で販売しています(写真は『報徳』2025年9月号)大学図書館所蔵 57館北海道教育大学 附属図書館 釧路館 小樽商科大学 附属図書館 弘前大学 附属図書館 本館 岩手大学 図書館 東北大学 附属図書館 本館 宮城教育大学 附属図書館福島大学 附属図書館宇都宮大学 附属図書館 埼玉大学 図書館東京大学 総合図書館 一橋大学 附属図書館 新潟大学 附属図書館上越教育大学 附属図書館 金沢大学 附属図書館 中央図書庫 福井大学 附属図書館 静岡大学 附属図書館 滋賀大学 附属図書館 京都大学 附属図書館 大阪教育大学 附属図書館 神戸大学 附属図書館 社会科学系図書館 愛媛大学 図書館高知大学 学術情報基盤図書館 中央館九州大学 中央図書館 佐賀大学 附属図書館長崎大学 附属図書館 鹿児島大学 附属図書館高崎経済大学 図書館 東京都立大学 図書館 大阪公立大学 杉本図書館 北星学園大学 図書館酪農学園大学 附属図書館 獨協大学 図書館 青山学院大学 図書館国学院大学 図書館駒澤大学 図書館 拓殖大学 八王子図書館 玉川大学 教育学術情報図書館東海大学 付属図書館 静岡図書館 東京農業大学 生物産業学部図書館 東洋大学 附属図書館 法政大学 図書館関東学院大学 図書館同志社大学 図書館神戸学院大学 図書館 有瀬館武庫川女子大学 附属図書館 周南公立大学 図書館 九州産業大学 図書館 国立研究開発法人 水産研究・教育機構 水産大学校金沢学院大学 図書館鹿児島純心女子短期大学静岡産業大学 図書館 静岡産業大学 図書館 聖隷クリストファー大学 図書館 関西国際大学 メディアライブラリー 三木 浜松学院大学 図書館 静岡文化芸術大学 図書館・情報センター 静岡県立農林環境専門職大学 図書館
2025.08.30
トランプ氏、ウクライナ平和維持部隊への中国参加を提案 英紙報道8/30(土) ロシアの侵攻を受けるウクライナへの「安全の保証」に関し、英紙フィナンシャル・タイムズ(FT)は29日、トランプ米大統領が停戦後のウクライナへの平和維持部隊に中国の参加を検討していた関係者4人の話として伝えている。ただ、トランプ政権幹部はFTの取材に対し、「中国の平和維持活動については議論していない」と否定した。 米欧とウクライナの当局者は、ウクライナの前線付近に非武装地帯を設定し、平和維持部隊を配置する構想の協議を進めているという。 FTによると、欧州の首脳らはトランプ氏の提案に反対を表明した。ロシアとの協力関係を深める中国に対し、ゼレンスキー氏らは不信感を募らせているとされる。また、中国外交部は平和維持部隊への参加を否定している。 ロシアは、米欧側が検討する平和維持部隊の派遣案に反発している。ラブロフ外相は20日、国連安全保障理事会常任理事国である米英仏中露の5大国による安全の保証の枠組みに言及した。 FTによると、ロシアは2022年4月、トルコ・イスタンブールでの和平協議で、米英仏中露が「保証国」となり、ウクライナでの紛争発生時に一致して対応する「集団安全保障」の枠組みを提案した。ウクライナは侵略国ロシアが事実上の拒否権を握ることになるとして拒んだという。ゼレンスキー氏、「安全の保証」要求3項目を提示 軍の規模維持など8/30(土) ウクライナのゼレンスキー大統領は29日、ロシアとの停戦後に再侵攻を受けないための「安全の保証」に関し、国として求める3項目を明らかにした。ウクライナ軍の維持や、有事における北大西洋条約機構(NATO)加盟国による支援などが含まれる。首都キーウ(キエフ)での記者会見で明らかにした。 地元メディアによると、ゼレンスキー氏は、自国の軍がその能力と規模を維持し、欧米諸国から兵器の供給を受けること▽NATOに加盟しない代わりに、ロシアの再侵攻を受けた場合にはNATO加盟国から支援を受けること▽対露制裁とロシアの凍結資産の活用――という3点が、「ウクライナにとって重要」だと説明した。 安全の保証の具体案を検討する米欧諸国は、NATOの一加盟国への攻撃を全体への攻撃とみなす条約第5条の集団的自衛権に似た仕組みを議論している。和平交渉に向けたゼレンスキー氏とプーチン露大統領の首脳会談が模索される中、ウクライナ側が自国の立場を明確にした形だ。 ロイター通信によると、ゼレンスキー氏はこれらの項目について、欧米の首脳らと来週にも議論したいと述べた。 一方、ウクライナのイエルマーク大統領府長官と米国のウィットコフ中東担当特使は29日、米ニューヨークで会談した。イエルマーク氏の側は、25人が死亡した27日夜の露軍のキーウ攻撃について説明し、ロシアを和平に向かわせる「国際的な圧力」の必要性を訴えた。自身のX(ツイッター)への投稿で明らかにした。
2025.08.30
■ブルーベリーの成分が肥満と代謝を改善する仕組みブルーベリーには「ポリフェノール」が含まれており、これが肥満や関連する代謝の病気(例えば糖尿病など)を防ぐのに役立つ可能性があることが知られています。しかし、どの種類のポリフェノールが効果的なのか、また腸内細菌(腸内細菌叢)がどのように関わっているのかはよく分かっていませんでした。今回の研究では、ブルーベリーに含まれる2つの主要なポリフェノール、「プロアントシアニジン(PAC)」と「アントシアニン(ANT)」が、肥満やインスリン抵抗性(血糖値を下げるインスリンが効きにくくなる状態)にどう影響するかを調べました。さらに、腸内細菌の役割を明らかにするために、「糞便細菌叢移植(FMT)」という方法も使っています。■実験結果体重の変化:プロアントシアニジン(PAC)を摂取したマウスは、高脂肪・高ショ糖食(HFHS)のマウスよりも体重が少なく、痩せていました。エネルギー摂取量は同じでしたが、プロアントシアニジン(PAC)グループのマウスは身体活動量が多かったことも分かりました。この効果は、プロアントシアニジン(PAC)グループの腸内細菌を移植された無菌マウスでも見られました。インスリンの改善:プロアントシアニジン(PAC)とアントシアニン(ANT)を摂取したマウスは、ブドウ糖負荷試験でインスリンの反応が改善していました。つまり、血糖値を下げる能力が向上していたのです。この効果も、腸内細菌を移植された無菌マウスで再現されました。■結論この研究から、ブルーベリーに含まれるプロアントシアニジン(PAC)とアントシアニン(ANT)に3つのことがわかりました。1)食事による体重増加を抑える。2)インスリン感受性を改善し、血糖値のコントロールを助ける。3)これらの効果は、腸内細菌叢の調整によるものと考えられる。つまり、ブルーベリーの成分であるプロアントシアニジン(PAC)とアントシアニン(ANT)は、肥満や代謝の問題を改善する可能性があり、その仕組みには腸内細菌が重要な役割を果たしていると考えられます。ブルーベリーを食べると、体重や血糖値の管理に役立つだけでなく、腸内環境を整えることで健康をサポートしてくれるというわけなんですね!ブルーベリーを食べましょう!♥毎朝、ヨーグルトにブルーベリー果実をたっぷりのせて食べているブルーベリーは目にいいというので。血糖値上昇を抑えるにもいいんだたっぷりヨーグルトにのせて食べよう
2025.08.30
32『報徳』2025年9月号「鈴木藤三郎伝」鈴木五郎著 74~77ページ 藤三郎は、もともと身長は5尺2寸くらいで、あまり高いほうではなかった。しかし、子供の時分から丈夫に育って、丁年(20歳)の時には体重も13貫500匁あった。それが21歳の時から氷砂糖の製法の発明に、身を打ちこんで日夜苦心したので、知らず知らずのうちに過労となって体が衰弱して、23歳のころには体重が減じて11貫500匁となってしまった。それで、冬はいくら着物を重ねても寒さに堪えられず、いつも風邪に冒されがちで、これが家族の者の心配の種であった。かかりやすく、また昔のような身体でなかったので、人によってはいよいよ予が前途を憂慮させるにいたった。 藤三郎自身も、こんなことでは、将来事業を大成することはとてもできないと考えて、医者に養生の法を聞いたり、書物を調べたりして、この数年来、良いといわれたことは片っ端からやって見た。けれども、なんらの効がなかったばかりか、かえって衰弱を増した位のことで、最近ではスッカリ悲観してしまっていた。ところが、昨(明治20年)年11月に、仕事の用で名古屋に行ったときに、宿屋で退屈しのぎに新聞を見ていると、『人間生涯無病の新法』という本の広告がのっていた。それで、さっそく買って来て読むと、『毎朝、冷水に浸した布片で身体を摩擦すれば、感冒にかかることはない。感冒は万病の根源であるから、これさえ実行すれば、生涯無病ですごせる』ということが書いてあった。それを読んで、これは確かに良い方法であると思った。しかし、冬になると幾枚着物を重ねても寒さがしのげず、常に毛布でえり首をおおっているような身では、とても今から実行することはむずかしい。こんなに良い方法が見つかりながら、それをすぐに実行ができないのも、やはり体が弱いためだと考えると、いまさらに自分の虚弱なのが恨めしく、こんなことでは、これまでに苦労して来た事業の前途も、どうなることであろう?とさすがの藤三郎もションボリと、宿屋の二階の欄干にもたれたまま考えこんでしまった。その時、フト下を見ると、3,4人の芸者が美しく着飾って、面白そうに話し合いながら通る姿が彼の眼にはいった。時は11月末の夕暮れのことである。相当寒い風が街を吹いている。それだのに、その芸者達は、柳腰の三味線持つさえ重そうな体つきをしながら、素手に褄(つま)をとって、寒さなどは気にもかからぬように、笑いながら歩いている。二階から見おろしていた彼には、ことに背中までも見えるような抜衣紋(ぬきえもん)姿が、強く眼にはいった。その時また、藤三郎の頭に一つの考えが浮かんだ。それはこの芸者達だって、初めから寒さに無神経なわけでもなかったろう。それだのに、今、あのように平気でいられるのは、鍛錬と慣れのために違いない。一般の婦人達が、和服では寒中もシャツやシタバキを用いないでいられるのも、みんな、この鍛錬と慣れのためだ。自分は男子であるのも、冷水摩擦法の良いことを知りながら、これを実行する勇気がないということは恥ずかしいではないかと、深刻に考えこんだ。そこで決心して、その時から、断然えり巻をやめ、翌朝から、まず半身の冷水摩擦を始めて、その後は毎日続いていた。ところが、その数ヵ月後の今(明治21年)5月に、医学博士の佐々木政吉が第一高等学校でした講演の筆記が『冷水養生法』という題で、東京日日新聞に5日間にわたって連載された。冷水摩擦を半年も続けて、その有効なことを知っていた藤三郎は、これを読むなり、摩擦だけでも良かったものは、浴びたあとを摩擦したならなお良かろうと、その日から冷水浴を始めて、生涯これをやり通した。その熱心のかいがあって、42歳では15貫500匁、45歳では16貫500匁の強健な体になったということを、前記のパンフレットに、各年代の写真まで入れて公表している。また自分ばかりではなく、事務の協力者である『吉川長三郎氏を始め、予が門弟20有余人もまた、皆これを励行して、身体強健、精神剛毅であることを得た』と、大得意でそれに書いている。この門弟20余人の中には、おそらく大いに迷惑がりながらも、大将が勧めることだからと、渋々やっていた者も相当あったことであろうと想像すると、いささか微苦笑ものである。しかし、当時は元老井上馨なども、大いに冷水浴の実行者、奨励者であった。これなどは、やや『年寄りの冷水』の感があるが、ともかく、明治20,30年代に、わが国の政治家、実業家の間に、冷水浴のような思い切った健康法が信奉され、勇敢に実行されたということは、当時の新興の意気に燃えたわが国の指導階級が、いかに発剌として健全であったかを示すものである。
2025.08.30
195二宮翁夜話巻の2【4】尊徳先生はおっしゃった。「世界の中に法則とするべきものは、天地の道と、親子の道と、夫婦の道と、農業の道との四つである。この道は誠に、両全完全の物である。百事この四つを法則とすれば誤ちがない。私の歌に「おのが子を 恵む心を 法(のり)とせば 学ばずとても 道に到らん」とよんだのはこの心だ。天は生々の徳を下し、地はこれを受けて発生する。親は子を育てて、損得を忘れてひたすら子の生長を楽しんで、子は育てられて父母を慕う。夫婦の間もまた相互に喜び楽しんで子孫が相続する。農夫は勤労して、植物の繁栄を楽しみ、草木もまた喜んで繁茂する。皆共に苦情なく、喜び悦ぶ情だけである。さてこの道にのっとる時は、商法は、売って悦び買って悦ぶようにすればよい。売って悦び買って喜ばないのは道ではない。買って喜び、売って悦ばないのも道ではない。貸借の道もまた同じだ。借りて喜び貸して喜ぶようにするがよい。借りて喜び貸して悦ばないのは道ではない。貸して悦び借りて喜ばないのは道ではない。百事このようである。私の教えはこれを法則とする。だから天地生々の心を心とし、親子と夫婦との情に基いて、損得を度外に置いて、国民の潤し助け、土地を復興することを楽しむのである。そうでなければできない事業である。無利息金貸付の道は、元金が増加することを徳としない、貸付高が増加することを徳とする。これは「利を以て利とせず、義を以て利とする」という意味なのだ。元金が増加することを喜ぶは利心である、貸附高が増加を喜ぶのは善心である。元金はついにに100両であっても、60年繰返し繰返し貸す時には、その貸つけ高は12850両となる。そして元金は元のように100両で増減ないが、、国家人民のために利益のある事莫大である。まさに日輪が万物を生育し、万歳を経ても一つの日輪であるようである。古語に、『敬する処の物少くして悦ぶ者多し、これを要道という』とあるのに近い。私がこの法を立てた理由は、世間で金銀を貸して催促を尽した後、裁判を願、、取れなかった時に至って、無利足年賦とするのが通常である。この理を未だ貸さない前に見て、この法を立てたのだ。しかしまだ足りないと思って、無利足何年置据貸しといふ法をも立てた。このようにしなければ、国を興し世を潤おすに足らないからである。およそ事は成り行くであろう先を、前に定むることにある。人は生れるれば必ず死ぬべきものである。死ぬべきものという事を前に決定(けっじょう)すれば、生きているだけ日々利益である。これが私の道の悟りである。生れ出ては、死のある事を忘れてはならない、夜が明けたら暮れるということを忘れてはならない。二宮翁夜話巻の2【4】翁曰く、世界の中、法則とすべき物は、天地の道と、親子の道と、夫婦の道と、農業の道との四つなり。此の道は誠に、両全完全の物なり。百事此の四つを法とすれば誤(あやまち)なし。予が歌に「おのが子を恵む心を法(のり)とせば学ばずとても道に到らん」とよめるは此の心なり。夫れ天は生々の徳を下し、地は之を受けて発生し、親は子を育して、損益を忘れ混(ひたす)ら生長を楽み、子は育せられて、父母を慕ふ、夫婦の間、又相互に相楽んで子孫相続す、農夫勤労して、植物の繁栄を楽み、草木又近欣々(きんきん)として繁茂す、皆相共に苦情なく、悦喜(えつき)の情のみ、扨(さ)て此の道に法取(のっと)る時は、商法は、売りて悦び買ひて悦ぶ様にすべし。売りて悦び買て喜ばざるは、道にあらず、買ひて喜び、売りて悦ばざるも道にあらず。貸借の道も亦同じ、借て喜び貸して喜ぶ様にすべし、借りて喜び貸して悦ばざるは、道にあらず、貸して悦び借りて喜ばざるは、道にあらず、百事此の如し。夫れ我が教へは是を法(のり)とす、故に天地生々の心を心とし、親子と夫婦との情に基き、損益を度外に置き、国民の潤助と土地の興復とを楽しむなり、然らざれば能はざる業(わざ)なり。夫れ無利息金貸付の道は、元金の増加するを徳とせず、貸付高の増加するを徳とするなり、是利を以て利とせず、義を以て利とするの意なり、元金の増加を喜ぶは利心なり、貸附高の増加を喜ぶは善心なり。元金は終に百円なりといへども、六十年繰返し繰返し貸す時は、其の貸附高は一万二千八百五十円となる、而して元金は元の如く百円にして増減なく、国家人民の為に益ある事莫大なり、正に日輪の万物を生育し万歳を経れども一つの日輪なるが如し、古語に、敬する処の物少くして悦ぶ者多し、之を要道と云ふとあるに近し。我れ此の法を立てし所以は、世上にて金銀を貸し催促を尽したる後、裁判を願ひ取れざる時に至て、無利足年賦となすが通常なり。此の理を未だ貸さざる前に見て、此の法を立たるなり、されども未だ足らざる処あるが故に、無利足何年置据貸しと云ふ法をも立てたり。此の如く為さざれば、国を興し世を潤すにたらざればなり。凡(およ)そ事は成行くべき先を、前に定むるにあり、人は生るれば必死すべき物なり、死すべき物と云ふ事を前に決定(けつぢやう)すれば、活(いき)て居る丈け日々利益なり。是予が道の悟なり。生れ出でては、死のある事を忘るゝ事なかれ、夜が明けなば暮るゝと云ふ事を忘るゝ事なかれ。
2025.08.29
沖縄県立図書館が「報徳の師父」3部作を蔵書としていただいている。沖縄県立図書館20件1. 報徳開拓者安居院義道 現代語訳 ( 報徳の師父 第3集 )2. 静岡県報徳社事蹟 訳注 ( 報徳の師父 第2集 )3. 資料で読む技師鳥居信平著述集 台湾の地下ダムの原点は徳島県技師時代にある4. 報徳記を読む 第4集 二宮尊徳の報徳の教えが世界に広まり真正の文明の実を見ることを5. 報徳記を読む 第1集 『報徳記』第一巻(『報徳要典』準拠全ルビ原文(朗読・輪読用)、現代語訳、資料集)6. 海を越えた産業革命の父 鈴木藤三郎翁の足跡を求めて7. 報徳記を読む 第5集 二宮先生語録8. 八田與一と鳥居信平 台湾にダムをつくった日本人技師9. 遠州報徳の師父と鈴木藤三郎10. 報徳記を読む 第3集 報徳は国を興し民を安んずる大業である
2025.08.29
横浜市立図書館が『安居院庄七と鷲山恭平』及び『報徳の師父』3部作を蔵書としていただいた。神奈川県内の『安居院庄七と鷲山恭平』の所蔵館平塚市1件鎌倉市1件松田町1件厚木市1件相模原市1件伊勢原市1件秦野市1件小田原市1件藤沢市1件神奈川県立図書館1件桐蔭学園1件横浜市1件横浜市立図書館の本館出版図書の収蔵状況横浜市11件1. 静岡県報徳社事蹟 訳注2. 遠州報徳の師父と鈴木藤三郎 新版3. 資料で読む 技師鳥居信平著述集 台湾の地下ダムの原点は徳島県技師時代にある4. 八田與一と鳥居信平 台湾にダムをつくった日本人技師5. ボーイズ・ビー・アンビシャス 第5集 内村鑑三 神と共なる闘い-不敬事件とカーライルの「クロムウェル伝」6. ボーイズ・ビー・アンビシャス 第4集 札幌農学校教授・技師広井勇と技師青山士-紳士の工学の系譜-7. 二宮尊徳と日本近代産業の先駆者鈴木藤三郎8. 海を越えた産業革命の父 鈴木藤三郎翁の足跡を求めて9. 報徳産業革命の人 報徳社徒鈴木藤三郎の一生10. 鈴木藤三郎 第3集 日本近代製糖業の父 台湾製糖株式会社初代社長11. 安居院庄七と鷲山恭平
2025.08.29
「成形の功徳」森信三先生今日はここに 成形の功徳 という語を掲げました。・・・この題目で私の申したいと思うのは、すべて物事というものは、形を成さないことには、十分にその効果が現われないということです。・・・このことが、この現実界のあらゆる方面に当てはまる事柄であって、その意味からは、この現実界における根本理法の一つとさえ言い得るかと思うほどです。・・・現実界が有形界だとしたら、この地上に一つの新たな有形物を生み出すということは、それ自身確かに一つの善事であり、功徳のあることと言ってもよいわけです。・・・成形の功徳、すなわちすべて物事は、形にまとめることによって、始めて真の効果が生ずるものだということについて、最近私の経験した一つの実例を申してみましょう。実は私一昨日専攻科の人達をつれて、今宮のスラム街の真ん中にある 徳風勤労学校 へ参観に参ったのであります。そこは、諸君らも知らない人が多かろうと思いますが、貧しい人たちの子弟を集めて教育している特殊の学校であります。・・・ところがその学校の校長先生は非常に熱心な尊徳翁の研究家であって、全校の教育は、まったく報徳精神によって行われているのです。・・・実地参観した私達一同も、非常に感慨に打たれたしだいであります。(森先生は、引率した専攻科の生徒に感想文を書かせた。当初、毛筆でもペンでもよいとしていたが、せっかくなら差し上げたいと和紙に書いてもらうことにし、ペンで書いた人には毛筆で書き直してもらうこととし、和綴じの専門職に綴じてもらった)内容としてはそれほどのものでなくとも、本式に製本して差し上げればご覧をいただくにも便利で・・・・ここにいわゆる「成形の功徳」ということがあるわけです。同じく製本するにしても、専攻科で手工でやってもらうというみちもないではありません。・・・しかし先方の方が、他からの参観者にでも見せたいと思われるような場合を考えて私は、結局本職の手で製本させたのです。・・・形を与えるか否かによって、その内容の現実における働きの上では、大きなひらきが出てくるわけです。・・・これ私がここに、「成形の功徳」という言葉で言いあらわそうとしているものであって、そこには確かに功徳という言葉にふさわしい、ある種の不思議な力が働くとさえ言えましょう。
2025.08.29
トヨタの創業者豊田佐吉の父伊吉は、報徳運動を普及するのに心力を注いだ。日経ビジネス2009.1.5の46ページにはこうある。「世界を代表する日本の自動車メーカーの源流に報徳思想を見いだすことができる。 浜名湖の西岸、ミカンの果樹園が広がり、眼下に浜名湖を望む。遠江国敷地郡吉津村字山口、現在の静岡県湖西市に生れた豊田伊吉は腕の良い大工で、手がけた建築物は後年取り壊すのにも苦労するほど堅牢だったという。 静岡県西部では、尊徳の高弟の1人、岡田良一郎らの尽力によって報徳思想運動が盛んだった。1903年には山口報徳社が設立され、伊吉は中心的なメンバーとして運動に参加した。 その生涯は、報徳運動の実践だったといってよい。 大工としての腕を磨きながら、浪費を慎んで4人の子供を育てた。子どもが成長すると、貯蓄から拠出して、道路修繕や教育基金に寄付を繰り返し、遺産をほとんど残さなかった。村会議員や区長も務め、83歳の生涯を終えた。まさに分度と推譲の人生だった。 この熱心な報徳運動の実践者の長男が、豊田自動織機を創業し、トヨタ自動車の源流を作った豊田佐吉だ。(略) 佐吉の一代記「豊田佐吉伝」にはこうある。「豊田佐吉翁の思想的背景は、日蓮主義と報徳宗である」「成金には理想がない。佐吉翁には日本民族精神に根ざした高邁な理想があった。・・・翁が衷心から望んだことは、発明によって郷里の貧乏を救いたい。国家を富ましめたいという理想の実現であった」
2025.08.29

『あんぱん』でついに『やさしいライオン』誕生!やなせたかしの運命を変えた名作には故郷の「石材店」も関わってた?8/28(木)『アンパンマン』の作者、やなせたかしさんと、妻の暢さんをモデルにした2025年前期のNHK連続テレビ小説『あんぱん』110話では、「柳井嵩(演:北村匠海)」がラジオドラマの脚本として『やさしいライオン』という物語を作ることが発表されています。 1969年にやなせさんの初の絵本としてフレーベル館から出版される『やさしいライオン』は、1967年に文化放送でラジオドラマとして発表されました。四谷の荒木町に住んでいたやなせさんは、家から15分ほどのところにあった文化放送(現在は浜松町にある)で多数仕事を請け負っていたそうです。 やなせさんは当時のことを、さまざまな書籍で振り返っています。やなせさんはライオンの「ブルブル」と、ブルブルを育てた犬の「ムクムク」を描いた『やさしいライオン』の物語を、最初は短いコントとして書いていました。そして、1967年春にやなせさんのもとへ、文化放送から「やなせさん、『現代劇場』(番組名)のホンがまにあわなくて穴があきそうなんですよ。何でもいいから大至急一本書いてください」(自伝『アンパンマンの遺書』より引用)と、依頼が入ります。 やなせさんは『やさしいライオン』の話を30分にふくらませ、もともと仕事で知り合って親交のあった女優の久里千春さん(ブルブル役)、声優の増山江威子さん(ムクムク役)に声の演技を頼み、さらに1965年にやなせさん作詞の「手のひらを太陽に」のシングルを出した男性コーラスグループ、ボニージャックスにブルブルとムクムクの会話をつなぐ歌を歌ってもらうことにしました。作曲はボニージャックスの名付け親で、やなせさんと親交もあった磯部俶さん担当です。 ラジオドラマは好評で、前述のように絵本になりました。さらに、やなせさんは美術とキャラクターデザインで参加した虫プロのアニメ映画『千夜一夜物語』(1969年)完成後に、手塚治虫さんからお礼として虫プロで短編を作っていいと言われ、アニメ映画『やさしいライオン』を作ります。同作は1970年、第12回児童福祉文化奨励賞や、第24回毎日映画コンクールの大藤信郎賞を受賞しました。 やなせさんはこの『やさしいライオン』をきっかけに、のちに絵本『あんぱんまん』(1973年)も書くフレーベル館での仕事が始まっため、自著『アンパンマン伝説』のなかで「『やさしいライオン』がなければアンパンマンもなかった」とも語っています。 その『やさしいライオン』は、やなせさんが新聞で「ドイツの動物園で犬がライオンを育てた」「サーカスの猛獣が逃げ出して射殺された」というふたつの記事を読んだのがきっかけだったそうです。また、自伝『人生なんて夢だけど』では、やなせさんの人生で印象に残っていた『やさしいライオン』以外の「2頭のライオン」について語っています。 1頭目は、やなせさんが幼少期を過ごした高知県後免町(現:南国市)でのことでした。ある時、伯父の寛さんが営む柳瀬医院の向かいにあった高橋石材店の親方が、墓石ではなくライオンの彫刻の依頼を受けて、得意げに石を彫り始めたそうです。 しかし、親方は神社の唐獅子を彫ってほしいという依頼を勘違いして作っており、行き場がなくなったライオンの彫刻は柳瀬医院の庭に置かれることになりました。その後、やなせさんはその彫刻を「やなせライオン」と名付け、2003年に母校の南国市立後免野田小学校に寄付しています。 また、2頭目はやなせさんが1947年から53年まで勤務した日本橋三越の正面玄関の前にいる、ブロンズ像のライオンだそうです。フリーになるまでお世話になった人生の出発点として、印象に残っていたといいます。 やなせさんにとって、この2頭は「怖くない」「噛みつかない」という点が『やさしいライオン』と共通していたそうです。さらに、やなせさんは特に親方作の「やなせライオン」について、『やさしいライオン』と似ていると語っています。 柳瀬医院の近くに石材店があった事実は『あんぱん』にも影響を与えていますが、ドラマにはライオンの彫刻は出てきていません。朝ドラでは、嵩がどのように『やさしいライオン』を思いつくのかも注目です。
2025.08.29
「自分の髪の毛から作った歯磨き粉で歯を治す」英大学が研究で示したケラチンの可能性8/29(金) 自分の髪の毛から作られた歯磨き粉によって、虫歯などによる歯の損傷を再生できる可能性が研究で示された。キングス・カレッジ・ロンドンの発表によると、研究チームは、髪や皮膚、羊毛に含まれるタンパク質「ケラチン」に、歯のエナメル質を保護・再現する働きがあることを発見した。歯のエナメル質は一度失われると再生しないため、歯磨きなどのケアを怠ると欠けていき、過敏や痛みを伴い、最悪の場合は歯を失う可能性もある。従来はフッ化物入り歯磨き粉で進行を遅らせる方法が主流だったが、ケラチンによる処置は進行を完全に止めるという。研究では、羊毛から抽出したケラチンを歯の表面に塗布。唾液中のカルシウムやリン酸イオンと反応し、自然のエナメル質の機能や構造を再現する結晶状の「足場」を作り出すことを確認したという。ケラチンが作り出した「エナメル質」は、歯磨き粉などに生かすことできるといい、研究チームは「2〜3年以内の実用化」を見込んでいる。この研究論文の第一著者サラ・ガミア博士研究員は、 BBCの取材に対し「この技術は、自然のプロセスを再現するエコなバイオマテリアルを提供し、生物学と歯学の架け橋になる」と語っている。また、責任者のシェリフ・エルシャーカウィ博士は「私たちは今、身体の一部を用いて、生体機能を再生させる時代に入っています。髪を切るだけで強く健康的な歯を得られる未来が訪れるかもしれません」と展望を示した。
2025.08.29
北海道の北斗市立図書館から『安居院庄七と鷲山恭平』と『報徳の師父』三部作寄贈の御礼状が届いた北斗市と札幌市は二宮尊徳の弟子大友亀太郎が活躍した報徳有縁の地である札幌市からは「収蔵拒否」された北斗市で蔵書となり市民の皆様が読んで頂ければいいな(^^)北斗市の本会出版図書の収蔵状況1. 報徳記を読む 第4集 二宮尊徳の報徳の教えが世界に広まり真正の…二宮尊徳の会 2016/092. 報徳記を読む 第3集 報徳は国を興し民を安んずる大業である 『…二宮尊徳の会 2016/033. 報徳記を読む 第2集 報徳は精神変革である 『報徳記』第二巻(…二宮尊徳の会 2014/114. 報徳記を読む 第1集 『報徳記』第一巻(『報徳要典』準拠全ルビ…二宮尊徳の会 2014/035. ボーイズ・ビー・アンビシャス 新渡戸稲造の留学談・帰雁の蘆 図…二宮尊徳の会 201402
2025.08.29
32「鈴木藤三郎伝」鈴木五郎著 74ページ 東京へ 明治21年(1888年)4月4日、もう老衰していた養父伊三郎は、近くの町で開かれた競馬を見て帰って、機嫌よく晩飯を食べていたが、脳溢血で、膳に向かったまま急逝してしまった。享年67歳であった。32歳の藤三郎の責任は、いよいよ重くなった。 彼は、この年の5月から冷水浴を始めて、生涯やり通した。晩年、60歳近い彼が、発明した乾燥機の事業で、北海道の釧路港へ行っていたときなど、真冬の早朝、起きるとすぐ宿屋の風呂場に行って、水おけの水を破って水を浴びたので、壁一重隣の部屋に寝ていた宿の女中たちは、その音を聞くと、寒くて寝ていられなかったという笑い話もある位である。彼がこの、冷水浴をやり始めたときのことは、後年(明治32年(1899年)12月)印刷して知友に配った『冷水養生法』(※)というパンフレットの中に、詳しく書いている。 ※「冷水養生法」鈴木藤三郎著 現代語訳 抜粋冷水養生法の効験については、既にこれを知っている者は多いが、今これを実行している者は少ない。予が遺憾とする所である。本編は、我が国医術界の権威、佐々木政吉博士が、去る明治21年4月20日、第一高等中学校生徒に向かって、演説された冷水養生法の筆記で、当時東京日々新聞に数日間連載されたのを、予が業務に忙しく、寸隙もない時に書き写し、家人の心得として、現に珍蔵していたものである。今予はこの法を重んじ、特にこれを書き写した理由と、予と同志がこれを実行してその効験をこうむった現状を述べて、まだこれを実行していない諸氏に向かって勧告しようとする所である。いやしくも事業を大成して、国家に貢献したいと欲する者は、身体が強健でなければならない。身体が強健でなければ、精神もまた剛毅となれない。たとえ一時は大希望を抱いて、大決心を持って、事に従っても、中頃急に挫折して、また、手を下す勇気を奮起することができないようになる。身体養生の法は、少しもゆるがせにはできない。予は生来、身体は体が大きく、立派ではなかったが、幸いに、幼時から強健だったから、20歳の時、体重は実に51キロあった。しかし、当時非常に時事に感ずる所があって、誓って国家の一大事である製糖業を大成し、少しでも国家に貢献しようと欲した。業務を執行するかたわら、この計画を行うとともに、これに必要な読書の講習を約4年ほど熱心に実行した。この間に、非常に身心を過労し、知らずしらず、次第に身体は衰弱して25歳の頃、体重は43キロまで減った。冬季には衣をかさねても、なお寒さに耐えることができず、それだけでなくいつも風邪にかかりやすく、また昔のような身体でなかったので、人によってはいよいよ予が前途を憂慮させるにいたった。 予もまた思った。身は不敏であっても、いつの日か事業を大成し、皇恩の万分の一に報いようと欲した。そして身体がとても弱いことは、このようであった。どうしてよく宿願を達することができようか。しかず、専心一意、養生の法を行って、身体の回復を図り、その後、事業に従うにはどうすればよいかと、医師に養生の法を聞き、または、養生に関する書籍を求め、衣服飲食の注意はもちろん、その他個人的衛生に係る事で行わないものは一つもなかった。しかし身体の回復は容易に行われないだけでなく、かえって衰えて、その疲れを高め、まさに肉が落ち、骨があらわれる悲境に近づいた。ところが去る明治20年11月末、業務のため、病体を忍んで名古屋に旅行し、宿で暇なとき、たまたま同地の新聞に人間生涯無病の新法と題した本が発売されたという広告があるのを見た。試しにこれを購入して閲覧したところ、その要旨は、毎朝冷水に浸した布切れで、身体を摩擦すれば、風邪にかかる憂いを除き去ることができるということにあった。思うに、これはきっと良法であろうと。しかし、従来、冬季に衣をかさねても、なおかつ、寒に耐えないで、常に毛布で、襟をおおっている身で、今これを実行したら、事は急激に失し、かえって害ではなかろうかと。方法が善良であることは信じたが、これを実行する勇気を奮い起こすことはできなかった。ひとり窓の柵によりかかって、事業の前途を考え、身体の弱いことを嘆き、茫然自失していたとき、たまたま美しい妙齢の芸者が3,4人、お化粧し盛装して襟を延べ、褄(つま)をとって、冷たい風が吹きすさぶなか、肌が戦慄することも物ともしないで、互いにおしゃべりしながら、まさに遊客のもとに至ろうとするのを見て、ひるがえって自覚する所があった。おもうに、芸者はもともと寒さを恐れないわけではない。しかし今その気にしないようになったのは、きっと習慣が然らしめる所であろうか。あの普通の婦女子が下着又は乳房を出して赤ん坊に乳を与えて育て、少しも風邪にかかる者がなかったのも、またこれは習慣によるものではなかろうか。予はふだんしきりに養生の法を求めて得なかった。今偶然、冷水養生法の効果があることを知って、これを実行する勇気を奮い起こすことができない。どうして婦人女子に恥じないでいられようかと。ここにおいて断然決意して、すぐに襟巻をやめて、翌朝から布切れを冷水に浸し、これで、先ず半身を摩擦することを始め、以来、毎日これを実行し、これまで一日も廃することがなかった。 翌明治21年5月4日から同8日に至る5日間、東京日々新聞は、冷水養生法と題した、医学博士佐々木先生の演説筆記を連載した。予はこれを拝読したところ、条理は整然として、挙証は明確であり、冷水養生法の必要効能及び用法を詳しく説いて、また、余すところがなかった。これによって、予はますます厚く信じ、誓って博士の説に従い、この法を励行すべきことを決意した。それと共にこれを家人の心得として、永く子孫に伝えようと欲し、事務が集中し、身はまさに忙殺されようとする時に際し、親しくこれを書き写した。以来この法に従って、毎朝全身に冷水をかけて、そして強く皮膚を摩擦し、一日もこれを廃しなかったところ、幸いに、風邪にかかる癖を全治し、次第に身体は強健になり、精神もまた爽快となった。 去る明治29年6月、製糖視察のため、にわかに海外旅行を企て、アメリカを経て、ヨーロッパに至り、また南洋諸島を過ぎて、明治30年6月に帰国した。この間北ドイツに寒さをしのぎ、南ジャワに暑さにたえ、転々ほとんど地球を一周して、1年余りの日月を費やしたが、少しも病気におかされることがなかっただけでなく、身心に少しの疲労を感じなかった。以来、身体はますます強健となり、精神もまたいよいよ強固となったことは、自からも任じ、他もまた許す所である。しかも体重も、現在60キロ余りの多きに達した。これはすべて、13年間励行してきた、冷水養生法のたまものということができよう。そして、15年間、予が事業をたすけ、予と苦楽を共にして、始終かわらない吉川長三郎氏を始め、予が門弟20有余人もまた、皆これを励行して、身体強健、精神剛毅であることを得たのを見れば、その効験が誠に顕著であることは確かである。 ことわざに曰く、「命あっての物だね」と。実にそのとおりである。しかし彼の天寿を顧みないで、いたずらに生命を長久ならしめ、飽食暖衣して気楽に遊び暮らすようなもの、または息が絶え絶えで今にも死にそうで、何を行う所がなくて、みだりにその長命を貪ろうとするようなものは、決してその真意ではなかろう。予は信ずる。このことわざは、きっと人はその身体を強健にして天寿を全うし、そして貴賎貧富の区別なく、各々一生懸命に熱心に、その職分を尽くすことに在るという意味であろうと。予が予と同志が親しく実行している現状を述べ、謹んで博士の卓説を紹介し再拝してこの実行を勧告する理由もまた実にこのためである。昔から我が国民は、欧米人に比較すれば、その体格は小さく、かよわであり、顔色は憔悴し、体はやせ衰え、精神も萎縮し、忍耐力もまた欠如する傾きがあるが、もしこれを自然に委せないで、みずからよくこれを培養し、子孫もまたよくこの意を体して事に従うならば、今から数代の後、彼と肩をならべ、あるいは彼に凌駕することも、必ずしも至難の業といえないであろう。トウトウたる天下有為の士よ、幸いに予と感を同じくし、予が勧告をいれて、これを実行し、これによって、各々その志を達し、さらには子孫を身体強健にし精神剛毅とさせ、大いに国家に貢献する所があれば、その光栄はひとり予だけに止まろうか。 終わりに臨んで一言。この出版は予が数年来の望みであったが、業務に忙しくてこれを果たす機会を得なかった。このごろたまたま少し閑ができたので、序文を書いて、秘蔵していた冷水養生法の謄本と共に、博士にお見せして、これを公にする許しを求めたところ、博士は喜んでこれを承諾され、特に巻首に出す序文を書いて贈られた。予は予が光栄を喜ぶと共に、博士がこの道のために努力されていることに深く感謝するものである。 明治32年2月
2025.08.29
195二宮翁夜話巻の2【3】尊徳先生がおっしゃった。「吉凶・禍福・苦楽・憂歓等は、相対する物である。なぜかといえば猫が鼠をとる時は楽みの極である。一方、とられた鼠は苦しみの極である。蛇の喜びが極まる時は蛙の苦しみが極まる。鷹の悦びが極る時は雀の苦しみが極まる。猟師の楽しみは鳥獣の苦しみである。漁師の楽しみは魚の苦しみである。世界の事皆このようである。こちらが勝って喜べば、彼は負けて憂える。こちらが田を買って喜べば、彼は田を売って憂える。こちらが利を得て悦べば、彼は利を失って憂える。人間の世界は皆このようである。たまたま悟りの門(仏門など)に入る者があれば、これを厭って山林に隠れ、世をのがれ世を捨てる、これもまた世間の用をなさない。その志その行いは尊いようであるが、世のためにならなければ賞するにたらない。私がたわむれに詠んだ歌に「ちうちうと なげき苦む 声きけば 鼠の地獄 猫の極楽」、とある、一笑するがよい。ここに彼も喜んでこちらも悦ぶの道がないかと考えるに、天地の道、親子の道、夫婦の道と、また農業の道との四つの道がある。これらは法則とすべき道である。よく考えるがよい。二宮翁夜話巻の2【3】翁曰く、吉凶禍福苦楽憂歓等は、相対する物なり、如何(なん)となれば、猫の鼠を得る時は楽の極なり、其の得られたる鼠は苦の極なり、蛇の喜極る時は蛙の苦極る、鷹の悦極る時は雀の苦極る、猟師の楽は鳥獣の苦なり、漁師の楽は魚の苦なり、世界の事皆斯の如し、是は勝ちて喜べば、彼は負けて憂ふ、是は田地(でんぢ)を買ひて喜べば、彼は田地を売りて憂ふ、是は利を得て悦べば、彼は利を失ふて憂ふ、人間世界皆然り、たまたま悟門に入る者あれば、是を厭ひて山林に隠れ、世を遁れ世を捨つ、是又世上の用をなさず、其志其行ひ、尊きが如くなれども、世の為にならざれば賞するにたらず、予が戯れ歌に「ちうちうとなげき苦むこゑきけば鼠の地獄猫の極楽」、一笑すべし、爰(ここ)に彼悦んで是も悦ぶの道なかるべからずと考ふるに、天地の道、親子の道、夫婦の道と、又農業の道との四つあり、是れ法則とすべき道なり、能く考ふべし
2025.08.29
「坂村真民」の詩の紹介(森信三「幻の講和」第二巻より)○第三講「生きることの探求」より「 主人貧しくも 坂村真民 主人貧しくも 鶯来鳴き 春の戸ひらく 主人貧しくも 月照り ひかり堂に満つ 主人貧しくも 石笛吹けば 天女舞う 主人貧しくも タンポポ咲いて 種子四方に飛ぶ 坂村さんは、戦前は朝鮮で先生をしていられたのです。そして敗戦によって食糧難の祖国へ引き上げてこられて、四国の片田舎で苦難の日々を送られたようですが、そうした中からも、つねに詩作にはげんで、毎年一冊ずつ詩集を出して、ごく少数の知己の範囲に頒って来られたのです。 そしてこの詩は、その処女作の『六魚庵天国』の中に入っている詩ですが、そのころの坂村さんの生活や心境の点からして、ここに掲げてみた次第です。 清貧というコトバが、いかにもピッタリとよくあてはまる詩でしょう。しかし坂村さんの今日あるのは、ひとえに、当時このような極貧に近い生活にもかかわらず、詩を自分の「天職」と心得て、それに没頭してこられたからであります。つまり、坂村さんが今日、一部の人々から『国民詩人』と呼ばれるようになった土台は、いわばこの時期に築かれたといっていいでしょう。現在、坂村さんは、ご自宅のお住まいを『タンポポ堂』と名づけていられますが、そうしたタンポポへのふかい愛情も、すでにこのころきざしていたと言えそうですね。」○森先生は、「われわれ人間が、この二度とない人生を真実に生きようとしたら、「師」を持たなければならない。真に生きた真理は、これを生み出した人自身によって語られ、さらにはその人が実践されるのを目の当りに見るのでなければ、真実の趣は分り難い。」と言われる。「われわれの人生は、実に限りない深さをもったものだが、また無自覚のうちに死んでゆく人も少なくない。何ゆえ人生の真理の深さは、かくも限りないのか。われわれ人間がこの地上に生まれ出た根源の力は結局神に基づく。それは「宇宙生命」とか「大自然」といってもよい。一人ひとりが、大宇宙の根源意志につらなって生きているのだ。」○第四講「自分を育てるのは自分」「 ひとりひそかに 坂村真民 深海の真珠のように ひとり ひそかに じぶんを つくってゆこう ごらんのように、この詩はごく短い詩ですが、それだけにかえって、読む人の心に深く訴えるものを持っているといえましょう。 坂村さんは、戦後海外からの引揚者の一人で、四国の片田舎で、極度の食糧難の中で、五人の家族をかかえて、日々を苦しい生活にあえぎつつも、その間自己の天職と考える詩作の道に励まれたのです。 しかしながら、そのころ詩人としての坂村さんの本質を知る人は、ほとんど無かったといってもよいでしょう。しかもそうした深い孤独の中にありながら、坂村さんは詩作のあゆみを怠らなかったのです。そしてこの詩は、ある意味ではそうした坂村さんの心境を表現したものといってよく、そのためにこんなに短い三行詩でありながら、よく万人の心を打つことができるのでしょう。」○「前回、われわれ人間にとって、自分の生き方の探求ほど大事なものはないと申しました。そして、書物以上に大事なのは「師」で、書物に書かれた真理が平面的だとすれば、「師」を通して得られる真理は立体的で、人生のふかい真理は一人の生きた人格において初めて生かされるのです。われわれが真摯に人生の真理を探求しようとしたら、生きた人格として、全力を挙げて真理に生きようとしている「師」について学ばねばならない。 真に「師」に学ぶということは、単に「師」の言われたり、行われることを模倣することで満足しないで、「自分を育てるものは結局自分以外にはないのだ」という態度を確立しなければならない。
2025.08.28
為末大氏、SNS“炎上”に注意喚起「両サイドの極論を煽って分断を広げる手法がすでに…」8/27(水) 為末氏「みなさん、何かが炎上している時はその元となるアカウントは本当に人間がやっているものなのか、日本国内の日本人がやっているものなのか、チェックが必要ですよ」と呼びかけ、「議論が分かれそうな話題に絞り、両サイドの極論を煽って分断を広げるという手法がすでに国内でも観測されているようです。以前は少し文法が怪しかったりしたのですが、AIで翻訳の精度が上がったのでほとんど見分けがつかないようですね」「一気に複数の匿名アカウントが話題に飛びついた時は、警戒するようにしています」「私が安全保障上SNSは実名にせざるを得ないと考える理由です」
2025.08.28
32『報徳』2025年9月号「鈴木藤三郎伝」鈴木五郎著 71~73 このようにして、氷砂糖工場も、福川の援助で、一昨明治十七年六月に第一工場、昨十八年四月には第二工場が完成した。また、今年正月からは、吉川長三郎の協力を得て全般の支配を任せ、その下に工場員としては、身内の鈴木竹次郎、鈴木喜代司、太田文平たちが、吉川の弟の安間熊重、中根太吉とともに中堅となって働き、その下に相当多数の職工を使用するようになった。それで藤三郎は、これらの人々に、単に仕事ばかりではなく、彼が、この事業を経営する根本精神を会得させる必要を感じて、毎月10の日の夕方には、作業が終ったあとで全員を一室に集めて、報徳の教えについて講和したたり、ともに研究したりすることを始めた。これは、上京したずっと後まで続いたのである。 ※ 鈴木藤三郎顕彰第3集、、山中真喜夫氏の序文より抜粋。「藤三郎は21歳のとき、初めて報徳の教えを知りました。1年足らずではあったが、夜学にも通い必死で勉強もしました。氷砂糖の製法研究も始めました。報徳の面では森町報徳社に加入し、家業改善5か年計画を立てて、毎日早朝から精出しました。翌年、周智報徳社発会に伴い(以下報本社文書より)、幹事の一員に推され、毎月の常会の折には、100~150人の参集社員を前にして、報徳記・二宮翁夜話・報徳富国論など報徳の原典ともいわれている書物の読み聞かせや、生活改善に必要な講話などを担当して、熱心に報徳の深化・普及に努めました。このような活動は、東京進出の前年まで続いています。」 藤三郎をはじめ全従業員は、この新事業のために協力一致して努力したので、たちまちに従来輸入していた清国福州産の氷砂糖を、全く市場から駆逐してしまった。したがって事業の成績も予期に違わず、明治19年(1886)以来は、毎期の利益が1万円に上るに至った。 そうなると氷砂糖事業は有利だという噂が広まったので、藤三郎が多年心血を注いで発明した製法を盗み取ろうとする者が、いろいろな形で工場にはいりこんで来ては、まだ特許制度が完全にしかれていなかった時代なので、これをまねて各地で氷砂糖製造業を始めるに至った。藤三郎は、「彼らがどんなに自分の製法を盗み知ったとしても、それより上に出るということはできないが、私は昼も夜も新しいくふうを凝らして追い抜くから、いくら真似されても大丈夫だ」といって、あまり警戒もしないで平気でいたが、あとではあまりのうるささに閉口して、その製法を秘密にしてほかには知らせないようになった。 そのころのことである。職工の一人に、後藤某という者があった。これは、以前ルンペンしていたときに、フトした機会から藤三郎が知り合って、気の毒に思って森町へ連れ帰って、工場で働かせていたのである。小才がきいてまめまめしく働くので、次第に信用して、母親まで呼び寄せさせて、身内のようにして氷砂糖製造については何もかも手伝わせていた。ところが近ごろになって、他に内通していろいろな秘密を知らせているばかりでなく、時期を見て他に走って氷砂糖製造業を起そうとの陰謀を企てていることが分って、その証拠までもあげられるようになった。 藤三郎は、これを知ると、ますますその者を大事に扱うようにしたので、家内の者も工場員達も不審に思って、中にはわざわざ藤三郎に、早く彼を解雇したほうがよいと、忠告に来る者などもあった。けれども、藤三郎は、首を強く振って、これに耳をかす様子もなかったので、その真意を解しかねて心中不平に思っていた者もあった。 ちょうど、そのころに、この後藤の母親が病気をしたので、藤三郎は養母に、『後藤の母親が病気をしているそうですが、いっぺん、見舞いに行ってやって下さいませんか?』と頼んだ。すると養母は、『後藤のような恩知らずの裏切り者の母親の所へ、見舞いに行けといいなさるのか?いくらお前の頼みでも、私には、そんなことはできません。』と憤りを含んで拒んだ。それで藤三郎は、『お母さん、あなたまでが、それ程までに私の心の中を了解して下さらなくては困るではありませんか。この仕事は、もともと私がくふうをして始めたものですから、他から少しくらいまねられても恐れはしませんが、十分この仕事に熟練した者が、いまほかへ走って、相当に資力のある人と組んで競争者となられては、まだなんといっても、こっちが二葉の時代ですから厄介です。 後藤のことは、私もよく知っています。奴は今、何かの機会があったらここを飛び出そうと、その折をねらっているのです。私が、このごろ、特に彼を大事にするのは、その機会を与えないためです。もう少しすれば、この事業の基礎も確立します。そうなれば、後藤の一人や二人出たって恐れることはありません。それまでの間、彼を恩愛のきずなで縛るのです。またそれほどまでにされたなら、彼も人間です。その慈悲に感じて、間違った考えを思い直さないものでもありません。そうなればお互の幸福です。どうか、お母さん、私の心の中を察して、お気も進まないでしょうが、見舞いに行ってやって下さい。お願いです。』 藤三郎のこの言葉を聞いて、気丈な養母も涙を落とした。そして、自分の浅い心を詫びて、後藤の母親の見舞いに行った。 このようないろいろな困難はあったけれども、それは他からうらやまれるくらいに事業が繁栄したからの結果であって、藤三郎の事業は、年々非常な勢いで伸びて行ったのである。 明治20年4月29日には、長女みつが生まれた。
2025.08.28
195二宮翁夜話巻の2【2】尊徳先生はおっしゃった。「入るのは出たものが帰るのである。来たるのは押し譲ったものが入り来るのである。たとえば、農民が田畑のために力を尽くし、こやしをかけ、干鰯(ほしか)を用い、作物のために力を尽すならば、秋になって実りを得る事は、必ず多いのはもちろんのことだ。それを菜種をまいて、芽が出たら芽をつんで、枝が出れば枝を切って、穂が出たら穂をつんで実がなれば実を取る、このようであれば、決して収獲はない。商法もまた同じだ、自分の利欲だけを専らとして、買い手のためを思わないで、みだりに貪るならば、その店の衰微は、眼前であろう。古語に、人心は惟(これ)危し、道心惟(これ)微(かすか)なり、惟(これ)精惟(これ)一允(まこと)に其の中(ちゆう)を執(と)れ、四海困窮せば天禄永く終らん、とある。これは、舜(しゆん)が禹(う)に天下を授受したときの心法である。上として下に取る事が多く、下が困窮すれば、上の天禄も永く終るとある。終るのではない、天から賜ったものを、天に取り上げられるのである。その理はまた明白である。誠に金言(きんげん)というべきだ。しかしながら、儒者のように講じては、現在の私たちの身には、何の役にもたたない。だから、今、私がなんじらのために、わかりやすく読んで聞かせよう。中国の話だと思って、ぼんやり聞かず、よく肝に銘ずるがよい。人心惟(これ)危(あやう)し、道心惟(これ)微(かすか)なり とは、身勝手にする事は危いものであるぞ、他のためにする事は、いやになるものぞという事だ、惟精惟一允(まこと)に其の中を執(と)れ とは、よく精力を尽して、一心を堅固にして200百石の者は、100石で暮し、100石の者は、50石で暮して、その半分を推し譲って、一村が衰えないように、一村がますます富んで、ますます栄えるように勤め励めよ、ということである。四海困窮せば、天禄永く終らん とは、一村が困窮する時は、田畑をどれほど持っていても、決して作徳は取れないようになるものぞ、ということだと心得えなさい。帝王の話だからこそ、四海といい、天禄というのだ。なんじらのためには、四海を一村と読んで、天禄は作徳と読むがよい。よくよく肝に銘じるがよい。」二宮翁夜話巻の2【2】翁曰く、夫れ入るは出でたる物の帰るなり、来(きた)るは押し譲りたる物の入り来るなり、譬へば、農人(のうじん)田畑の為に尽力し、人糞(こやし)を掛け干鰯(ほしか)を用ひ、作物の為に力を尽せば、秋に至りて実法(みの)りを得る事、必ず多き勿論なり、然るを菜を蒔て、出るとは芽をつみ、枝が出れば枝を切り穂を出せば穂をつみ実がなれば実を取る、此(こ)の如くなれば、決して収獲なし、商法も又同じ、己が利欲のみを専らとして買人(かいて)の為めを思はず、猥(みだ)りに貪らば、其の店の衰微、眼前なるべし、古語に、人心は惟(これ)危し道心惟(これ)微(かすか)なり、惟(これ)精惟(これ)一允(まこと)に其の中(ちゆう)を執(と)れ、四海困窮せば天禄永く終らん、とあり、是舜(しゆん)禹(う)天下を授受するの心法なり、上として下に取る事多く、下困窮すれば、上の天禄も永く終るとあり、終るにはあらず、天より賜りたるを、天に取上げらるゝなり、其の理又明白なり、誠に金言(きんげん)といふべし、然りといへども、儒者の如く講じては、今日上、何の用にもたゝぬ故、今汝等が為に、分り安く読みて聞せん、支那(から)の咄しと思つて、迂闊(うくわつ)に聞ず、能く肝(きも)に銘ぜよ、人心惟(これ)危(あやう)し道心惟(これ)微(かすか)なりとは、身勝手にする事は危き物ぞ、他の為めにする事は、いやになる物ぞと云ふ事なり、惟精惟一允(まこと)に其の中を執(と)れとは、能く精力を尽し、一心堅固に200百石の者は、100石にて暮し、100石の者は、50石にて暮し、其の半分を推し譲りて、一村の衰へざる様、一村の益々(ますます)富み益々栄える様に勉強せよ、と云ふ事なり、四海困窮せば、天禄永く終らんとは、一村困窮する時は、田畑を何程持ち居るとも、決して作徳は取れぬ様になる物ぞ、と云事と心得べし、帝王の咄(はな)しなればこそ、四海と云ひ、天禄と云ふなれ、汝等が為めには、四海を一村と読み、天禄は作徳と読むべし、能々肝銘(かんめい)せよ。
2025.08.28
健康診断で血糖値が高めで要精密検査糖尿病専門医にいく健康診断結果を見せるとHbA1cは7.1だけど空腹時血糖値が126にいってないので糖尿病ではないのでところが院内で血液検査したら131糖尿病境界型から立派な糖尿病が〜ん塞翁の馬早めに治療に入れてよかったと思おう(+_+)〇「隠れ糖尿病」みなさん,「隠れ糖尿病」という言葉をご存知でしょうか?「隠れ糖尿病」立派な「糖尿病」ですが,通常の健康診断では見抜けません.その特徴は空腹時の血糖値は正常なのに,食後に血糖値が糖尿病患者なみに跳ね上がることです.ですから通常の健診で行う空腹時血糖値やヘモグロビンA1c値ではわかりません.空腹時血糖値が正常な人の約3割がこの体質を持つといわれています.ではどうやって診断するのでしょうか? 75gのブドウ糖を含んだ炭酸水を飲み,2時間後に血糖値を調べます.この値が200mg/dL以上で「隠れ糖尿病」,140mg/dL以上で「糖尿病予備軍」といいます.従来こういった患者さんは診断されずに放置されたり,診断されても「糖尿病の気があります」とか「予備軍です.糖尿病にならないように注意しましょう」という程度の指導で済まされてきました.しかし最近では2つのリスクで注意が必要とされています.1つは,「隠れ糖尿病」ではもちろんですが「糖尿病予備軍」でも多くが糖尿病へ移行し,糖尿病特有の合併症(神経障害・網膜症・腎症)が出現することです.2つめは心筋梗塞や脳梗塞の発症が「隠れ糖尿病」で健康な人の3倍,「糖尿病予備軍」でも2倍も高くなることです.健康な人の場合,血糖値が正常に保たれるのはインスリンのおかげです.インスリンは血液中のブドウ糖を細胞まで届ける役割を持っています.インスリンが不足すると,ブドウ糖は自力では細胞に入れませんので血液中に留まり高血糖になります.本来は血液中にブドウ糖が入ってきた早い段階でインスリンが出て,血液中のブドウ糖を細胞まで運ぶので,食後の血糖値は140mg/dL以上に高くなりません.「隠れ糖尿病」や「糖尿病予備軍」の場合,インスリンの分泌が立ち遅れるために食後に血糖値が大きく上がります.もう1つ,内臓脂肪の脂肪細胞でインスリンの働きを妨害する物質が作られ血糖値が上がることが知られています.インスリンの分泌の立ち遅れと内臓脂肪の蓄積が合わさると血糖値がより上昇し血管がさらに傷つきやすくなります.インスリン分泌の立ち遅れは糖尿病の家族歴のある人に起こりやすく完全に防ぐことは困難ですが,内臓脂肪を減らすことは生活習慣の改善である程度は可能です.内臓脂肪を減らし,インスリンが働きやすい環境を作れば,血糖値の上昇を食い止めることができます.血糖値は空腹時のみでなく,食後の上昇にも注意が必要なのですね.コージー冨田が語る糖尿病との闘いと生活改善の重要性 | nemlogコージー冨田さん、測定された血糖値は260という高値で、“立派な糖尿病”との診断を受けた医者の警告を無視し、最終的には視力を失った・糖尿病の主な症状 口の渇き、多尿、体重減少、視力の低下・糖尿病の予防 バランスの取れた食事、定期的な運動、健康的な体重の意地・糖尿病の治療法 食事療法、運動、薬物療法、インスリン注射
2025.08.27
8月26日米大リーグ ドジャース戦 ウルトラマンとバルタン星人登場 60周年を迎える記念プロジェクトを実施中 ドジャースとの共同企画 ウルトラマンが登場すると 既にグラウンドにいたバルタン星人と取っ組み合い 最後はウルトラマンが〝一本背負い〟でバルタン星人をKOウルトラマン登場バルタン星人もドジャースベンチへ
2025.08.27
事件の3日前に“別の20代女性”尾行しオートロックすり抜けか… 神戸24歳女性刺殺事件8/27(水)神戸市のマンションで女性が殺害された事件で、逮捕された男が事件の3日前にも別のマンションに住む女性の後をつけて、オートロックをすり抜ける行為を行っていたとみられることがわかりました。谷本将志容疑者は今月20日、神戸市中央区のマンションで住人の片山恵さんの胸などをナイフで複数回刺し、殺害した疑いがもたれています。 その後の取材で、谷本容疑者が東京から神戸に到着した、事件3日前の今月17日、宿泊していたホテルの近くで容疑者とみられる男が別のマンションに住んでいる20代の女性の後をつけて、オートロックをすり抜ける行為を行っていたことが新たにわかりました。 女性がマンションのオートロックを解除した際、扉が閉まる直前に見知らぬ男が入ってきたことに気づき、奥のスペースに避難。その後、時間を置いて確認したところ男の姿が見えなくなっていたということです。女性にけがなどはありませんでした。 谷本容疑者の逮捕後、女性からの相談を受け警察もこうした経緯を把握していて、谷本容疑者がターゲットを決めずに女性を物色していた可能性があるとみて詳しく調べています。 読売テレビの取材に対して、女性は、「午後10時ごろ仕事終わりにマンションに帰宅した。オートロックを解除してエレベーターを待っていた時、自動ドアが閉まるギリギリで男が入ってきたので思わず振り向いた。男はスマホを耳に当てているのに無言で、通話している雰囲気もなく、ジロジロこちらを見てきたので『この人とエレベーターに乗るとやばい』と直感的に思いエレベーターには乗らず、奥のスペースへ避難して友達に電話をした。1分ほどして戻ると男はいなくなっていた。」と当時の状況を話しました。警察は27日、谷本容疑者が住んでいた東京都内の会社の社員寮の家宅捜索を行いました。捜査員らは27日午前5時すぎに家宅捜索に入り、谷本容疑者が生活していた東京都内の社員寮内にある4畳半の部屋などを約2時間にわたって捜索しました。 捜査関係者などによりますと、谷本容疑者は2年前から東京の運送会社でドライバーとして勤務していましたが、休暇をとって事件の3日前から神戸市内の現場近くのホテルに宿泊。事件当日は神戸市内の片山さんの勤務先付近から、約50分にわたって後をつけた上、マンションのオートロックが閉まらないうちに侵入し、エレベーター内で片山さんを羽交い絞めにして、犯行に及んだとみられています。 事件後、新幹線などで東京に移動した谷本容疑者は、22日、奥多摩町の路上を歩いていたところで身柄が確保されましたが、警察の調べに対し、「殺意をもっていたかはわかりませんが、ナイフで刺したことに間違いありません」「(片山さんは)全く知らない人です」などと供述しています。
2025.08.27
二宮町立図書館が「報徳の師父」第1集、第3集を蔵書としていただいた1 遠州報徳の師父と鈴木藤三郎(報徳の師父 第1集)2 報徳記を読む-報徳は精神変革である-2集 報徳記-「報徳論」(「報徳要典」準拠全ルビ)、報徳本教・青木村治蹟-巻の二 3 報徳記を読む-「報徳記」第六~八巻全ルビ補注付原文、現代語訳)-第4集 二宮尊徳の報徳の教えが世界に広まり真正の文明の実を見ることを4 報徳記を読む 5集 二宮先生語録 齋藤髙行著-読み下ろし全ルビ原文・現代語訳- 5 報徳記を読む-「報徳記」第一巻(「報徳要典」準拠全ルビ原文(朗読・輪読用)、現代語訳、資料集)- 6 報徳開拓者 安居院義道(報徳の師父 第3集)
2025.08.27
195二宮翁夜話巻の2【1】尊徳先生がおっしゃった。「学問は活用を尊ぶ、万巻の書を読んでも、活用しなければ用をなさない。論語に、『里(り)は仁をよしとす、撰(えら)んで仁に居らずんば焉(いずくん)ぞ智を得ん』とある。誠に名言である。しかしながら、遊び人や借家の人であれば、風儀の整ったよい村を選んで居住する事もできよう、しかし田畑や山林、家・蔵を所有する、何村の何某といわれる者が、どんな仁義の村があるからといって、その村に引越す事ができようか。さりとてその不仁の村に不快ながら住んでいても、智者とはいわれないのは勿論である。さて断然不仁の村を捨て、仁義の村に引越す者があっても私はこれを智者とは言わない。書を読んで活用を知らない愚者というであろう。なぜかといえば、何村の何某といわれるほどの者が、全戸を他村に引き移す事は容易なことではない、その費用も莫大であろう、この莫大の費用を捨て、住み馴れたふるさとを捨てる、愚といわないで何と言おうか。人には道がある。道は蛮貊(ばんぱく)の国といえども行われるものであるから、どんな不仁の村里でも、道の行われないことはない。自ら此の道を行って、不仁の村を仁義の村になして、先祖代々そこに永住することこそ、智というべきだ。このようでなければ、決して智者といってはならない。そしてその不仁の村を、仁義の村にするには、決して難かしくない。まず自分が道を踏んで、自分の家を仁にすることにある。自分の家が仁にならないで、村里を仁にすることは、白砂をたいてご飯にしようとするのと同じだ。自分の家が誠に仁になれば、村里が仁にならない事はない。古語(大学)に言う、『一家仁なれば一国仁に興り、一家譲(ゆづ)りあれば一国譲りに興る』、また言う『誠に仁に志せば悪なし』とある通り、決して疑いないものだ。ここに竹木など本末が入り交り、縦横が入り乱れたものがあるとしよう、これを一本ずつ本を本に、末を末にして止まない時は、ついに皆本末が揃って整然となるようなものだ。古語(論語)に、『直きを挙げて諸々(もろもろ)の曲れるを措(お)く時は、よく曲れる者をして直からしむ』、とある通り、善人を挙げ、直な人を挙げて、厚く誉めたたえてやまない時は、必ず4,5年間を出ないで、整然とした仁義の村となることは疑いない。世間の富者は、この理にくらくて、書を読んで活用を知らない。自分の家を仁義にする事を知らないで、いたずらに迷いを取って、村里の不仁であるのを憎んで、『村人は義を知らない、人々の心持も悪く、風儀も悪い』などとののしって、他方に移ろうとする者が往々にしてある、愚というべきだ。さて村里の人気を一新し、風俗を一洗するという事は、困難な事だが、真心をもって行い、その方法を得るならば、さほど難しい事ではない。まず衰貧を挽回し、頽廃を興復するより手を下して、私の説く方法のようにすれば、次第に人気や風儀を一洗するであろう。さて人気・風儀を一新するに、機というものがある。たとえば今ここに戸数100の村があるとする。その中40戸は衣食に不足がなく、60戸は窮乏していると、一村がその貧を恥としない、貧を恥としないと租税を納めないのを恥としない、借財を返さないのを恥としない、役務を怠たることを恥としない、質に入れるのを恥としない、暴言を言うのを恥としない、このようであれば、法令も、庄屋の威力や権威も行われない。法令が行れない時には、悪行が至らないところはない、何を以てこれを導くことができよう、ここにいたっては法令も教諭も皆役にたたない。また100戸の中、60戸は衣食に不足がなく、40戸は貧窮な時は、教えなくてもおのずから恥を生じる、恥を生ずれば、正義の心を生ずる、正義の心を生ずれば、租税を納めないのを恥とする、借財を返さないのを恥とする、役務を怠るを恥とする、質を入れるのを恥とする、暴言を言うのを恥とするようになる、ここに至って法令も行われ、教導も行われ、善道に導くように、勤労に趣かせることができる、その機はこのようだ。たとえばはかりの釣合いのようだ、左が重ければ左に傾いて、右が重ければ右に傾くようなものだ。村内に貧しい者が多い時は貧に傾き、悪が多い時は悪に傾く、だから互いに恥としない、富が多い時は富に傾いて、善が多い時は善に傾く、だから恥を生ずれば正義の心を生じ、汚俗を一洗し、一村を興復する事業は、ただこの機があるだけだ、知らなくてはならない。どんな良法・仁術であっても、村中一戸も貧者を無くすことは難かしい、なぜなら、人に勤惰があり、強弱があり、智愚があり、家にも積善があり不積善があり、それだけでなく前世の因縁もある。これをどうともできない、このような貧者は、ただその時々の不足を補って、破綻しないようするにするのだ。二宮翁夜話巻の2【1】翁(をう)曰く、学問は活用を尊ぶ、万巻の書を読むといへ共、活用せざれば用はなさぬものなり。論語に、里(り)は仁をよしとす、撰(えら)んで仁に居らずんば焉(いずくん)ぞ智を得ん、とあり、誠に名言なり、然りといへども、遊歴人(いうれきじん)や店借人(たなかりにん)などならば、撰んで仁の村に居(を)る事も出来(でく)べし、されど田畑山林家蔵を所有する、何村の何某なる者、如何なる仁義の村があればとて、其の村に引越す事出来べきや、さりとて其の不仁の村に不快ながら住み居りては、智者とは云はれざる勿論なり、扨(さ)て断然不仁の村を捨て、仁義の村に引越す者ありとも我は是を智者とは云はず、書を読んで活用を知らざる愚者と云べし。如何(いかん)となれば、何村の何某と云はるゝ程の者、全戸を他村に引移(ひきうつ)す事容易にあらず、其の費用も莫大なるべし、此の莫大の費金を捨て、住み馴れし古郷を捨つる、愚にあらずして何ぞ、夫れ人に道あり、道は蛮貊(ばんぱく)の邦といへども行はるゝ物なれば、如何(いか)なる不仁の村里といへ共、道の行れざる事あるべからず、自ら此の道を行ひて、不仁の村を仁義の村に為して、先祖代々其処(そこ)に永住するをこそ、智といふべけれ、此の如くならざれば、決して智者といふべからず、然して其の不仁の村を、仁義の村にする、甚だ難からず、先づ自分道を踏んで、己が家を仁にするにあるなり。己が家仁にならずして、村里を仁にせんとするは、白砂を炊いで飯にせんとするに同じ、己が家誠に仁になれば、村里仁にならざる事なし、古語に曰く、一家仁なれば一国仁に興り、一家譲(ゆづ)りあれば一国譲りに興る、又曰く、誠に仁に志せば悪なし、とある通り、決して疑ひなき物なり、夫れ爰(ここ)に竹木など本末入交り、竪横に入り乱れたるあり、是を一本づゝ本を本にし、末を末にして止まざる時は、終に皆本末揃ひて整然となるが如し。古語に、直きを挙げて諸々(もろもろ)の曲れるを措(お)く時は、よく曲れる者をして直からしむ、とある通り、善人を挙げ直人(ちょくじん)を挙げて、厚く賞誉して怠らざる時は必ず四五ヶ年間を出ずして、整然たる仁義の村となる事、疑ひなき物なり、世間の富者、此理に闇く書を読んで活用を知らず、我が家を仁義にする事を知らず、徒(いたづ)らに迷ひを取つて、村里の不仁なるを悪(にく)み、村人義を知らず、人気悪し、風儀悪しと詈(ののし)り、他方に移(うつ)らんとする者往々あり、愚と云べし。扨(さ)て村里の人気を一新し、風俗を一洗すると云ふ事、尤も難き事なれども、誠心を以てし、其の方法を得れば、左程(さほど)難き事にはあらざるなり。先づ衰貧を挽回し、頽廃を興復するより手を下し方法の如くして、漸次人気風儀を一洗すべし。扨て人気風儀を一新なすに機会あり、譬へば今爰(ここ)に戸数一百の邑(むら)あり、其の中四十戸は衣食不足なく、六十戸は窮乏なれば、一邑(いふ)其の貧を恥とせず、貧を恥とせざれば租税を納めざるを恥ぢず、借財を返さゞるを恥ぢず、夫役(ふえき)を怠るを恥ぢず、質を入るを恥ぢず、暴を云ふを恥ぢず、此の如くなれば、上(かみ)の法令も里正の権も行れず、法令行れざる時は、悪行至らざる処なし、何を以て之を導かん、爰(ここ)に到りては法令も教諭も皆益なきなり、又百戸の中、六十戸は衣食不足なく、四十戸は貧窮なる時は、教へずして自(おのづから)恥を生ず、恥を生ずれば、義心を生ず、義心生ずれば、租税を納めざるを恥ぢ、借財を返さゞるを恥ぢ、夫役を怠るを恥ぢ、質を入るを恥ぢ、暴を云ふを恥づるに至る、爰(ここ)に至つて法令も行はれ、教導も行はれ、善道に導くべく、勉強にも趣かしむべし、其の機、斯(かく)の如し、譬へば権衡(はかり)の釣合の如し、左重ければ左に傾き、右重ければ右に傾くが如く、村内貧多き時は貧に傾き、悪多き時は悪に傾く、故に相共に恥なし、富多き時は富に傾き、善多き時は善に傾く、故に恥を生ずれば義心を生ず、汚俗を一洗し、一村を興復するの業、只此の機あるのみ、知らずばあるべからず、如何なる良法仁術と云へども、村中一戸も貧者無からしむるは難しとす、如何(なん)となれば、人に勤惰あり強弱あり智愚あり、家に積善あり不積善あり、加之(しかのみならず)前世の宿因もあり、是を如何とも為すべからず、此の如きの貧者は、只其の時々の不足を補ふて、覆墜(ふくつい)せざらしむるにあり。
2025.08.27
池田彬人(白鷺小中4年生)さん2025年6月ベルギーのブリュッセル開催ヴァイオリンコンクール「第9回レオニード・コーガン国際コンクール」大会史上初のグランプリ受賞💛テレビを見てたら、たまたま出演していた「第9回レオニード・コーガン国際コンクール」は本来グランプリはなく、1位が最高ところが池田さんの演奏が素晴らしいというので、初めて「グランプリ」を設けて表彰したという。バイオリンを始めたのは3歳から5歳からはコンテストに出場したが、はかばかしい結果は出なかったところがベルギー・ブリュッセル在住のヴァイオリニスト、カレン・アルチュニャン教授に師事してから、めきめきとその演奏技術は向上特にボーイング(弓の持ち方)が悪い、五か月ブリュッセルに来なさいと告げられ、お母さんとベルギーに渡った。鉛筆を弓代りに持って、ひたすらボーイングの練習。音質が劇的に変わり、長時間弾いても疲れにくくなったという。8th Leonid Kogan International Competition 2024若手バイオリニスト国際コンクール 池田さん(白鷺小中4年生)グランプリ 世界的奏者を目指す2025/6/18
2025.08.27
「妻夫木聡さんが出てくれるなら…」中園ミホが設定を変えた!サンリオ創業者の評価に納得しかない【あんぱん第107回】8/26(火) モデルのサンリオ創業者が八木に好感触 茶碗や皿に絵と詩を書いて売るビジネスを考えた八木(妻夫木聡)。 あっという間に嵩(北村匠海)の絵と詩付きカップと皿が完成。のぶ(今田美桜)は、それで飲む紅茶は味が変わらないがなんだか元気になると感想を述べる。 健太郎(高橋文哉)の家では絵皿をトイレに飾っている。せめて玄関に飾ってあげてーと思ったりもするけどトイレに教訓を飾る習慣はわりと一般的だ。 商売上手の八木のモデルは、サンリオ創業者で現会長の辻信太郎だと中園ミホはインタビューで語った。 「朝ドラでは短期間で役割を終えていなくなるキャラクターも多いですが、妻夫木聡さんが出てくださるなら、できるだけ長い間出ていただきたい。でも、八木のモデルの一部はサンリオの創業者で現会長の辻信太郎さんで、そうなると、ドラマの後半3分の2くらいからの登場になってしまう。それはもったいないなと思って、嵩と戦地で出会い、その後、長いつきあいになるキャラクターにしました。 辻さんもやなせさんと同じく反戦の気持ちの強いかたで、やなせさんとはその思いで繋がっています。それならば、一緒に戦地で出会っていたことにしたら、関わりもより深まるのでないかと思いました。妻夫木さんは辻さんにお話を伺いに行っているんですよ。そのとき辻さんは『かっこいいね』と喜んでいらっしゃいました」 「売れるものを見抜く才能がある」と健太郎は八木の嗅覚に感心する。その八木が、嵩の詩の才能を見抜き、詩を書くように言う。 漫画を描かなくていいのかとのぶは相変わらず心配するが、漫画を描くように詩が沸いてくると嵩は新たなフェーズに入ったようだ。 亡くなった父・清(二宮和也)、育ててくれた叔父・寛(竹野内豊)や叔母・千代子(戸田菜穂)、大切な弟・千尋(中沢元紀)、ヤムさん(阿部サダヲ)……これまで出会った人たちが、嵩に詩を書かせている。当然、そこにはのぶも存在している。まぶたの裏にはいつものぶがいる。 嵩が書いた詩を読んだ八木は、突如、出版部門を立ち上げることにする。その最初の作品は柳井嵩の詩集。戦争を体験した自分たちは人を幸せにすることで、そのためには優しさや思い入れの気持ちを伝えることだと八木は考えていて、嵩の詩はまさにそれができるものだと太鼓判を押す。 「愛することがうれしいんだもん」 嵩はたくさんの人たちと触れ合いあふれだす言葉を詩に書く。 八木は「これはすばらしい叙情詩だ」「メルヘンだ」と絶賛。そして今度は自費出版ではなく、商業ベースの嵩の詩集『愛する歌』が発売された。このタイトルを八木に伝えるとき、『手のひらを太陽に』のアレンジ曲が柔らかく流れていた。嵩の作品にはどれも生きることや愛する喜びが詰まっている。 八木のモデルの辻信太郎も自社で出版部門を作っている。 彼の著書『これがサンリオの秘密です』によると、出版部門の立ち上げは1967年。きっかけはやなせたかしに、コップや茶碗につけるキャラクターの絵を頼みにいったとき、やなせからガリ版刷りの詩集を見せられたことだった。 「すごいよ、先生、これが叙情詩だ」と言って出版を提案したという。 八木のほめ言葉「叙情詩」はまんま辻の言葉であった。ただ、辻は昭和2年生まれ。やなせは大正8年生まれ。実際は辻のほうが年下だ。 本は好きでも出版のイロハを知らない辻だったが、ガッツで売って回って、結果、この手の本(詩集)としては売れた。次に出版したのはサトウハチローの作品『美しきためいき』だった。 辻が目指したのは「本を贈る」という行為。「ギフトブックシリーズ」と銘打って、やなせの『愛する歌』とサトウの『美しきためいき』の2冊でそのコンセプトを軌道に乗せた。中園 「蘭子と豪ちゃんがあまりにも人気で、豪に生きて帰ってきてほしいと複数の人に言われるほど。俳優さんの演技の素晴らしさがそう思わせているのだと思います。でも蘭子をなんとか幸せにしてあげたいですね」
2025.08.27

「絶対に蘭子のときだけ、製作陣の熱量が違う」「ローレン・バコール、ハンフリー・ボガードの奥さん」「うわぁぁぁぁ…この物語にメイコがいた理由が『えくぼの歌』とは…」
2025.08.27
「森信三先生随聞録」より「親より受けた恩の有無厚薄を問わない。親即恩である。」西晋一郎先生「而して父母もまた然るなり。父母また連綿たる父母の生命を継ぐ。」「親への孝養とは、単に自分を生んでくれた一人の親を大事にするだけでなく、親への奉仕を通して、 実は宇宙の根本生命に帰一することに外ならない。」たらちねの 親のみいのち わが内に 息ますと思ふ 畏きろかも森信三先生
2025.08.27
スポーツ報知によると、7月2日のイースタン・ヤクルト戦に登板した田中将の投球について、桑田二軍監督は「スプリット以外のボールは良かったなという評価をしています」とコメント。「もう一個半ぐらいボールがパッと落ちれば、ゴロとか空振りが取れると思う」と指摘していた。 その4週間後、田中将は同月30日のイースタン・ヤクルト戦に再び先発。一軍に再昇格前の最後の登板となったこの試合で、5回1失点の好投を見せた。 日刊スポーツによると、桑田二軍監督は試合後、「時々伸びる感じのようなスプリットがあるから、(課題は)スプリットだけじゃないかな。あれが思うように落ちたらもっと簡単に(空振りを)とれると思う。そこだけじゃないですかね」と田中将の課題が解消しきれていないことに言及しつつも、改善点が1つの球種に絞れていることは明らかだった。結果的に二軍での調整中に桑田二軍監督と二人三脚でスプリットの改善に取り込み、その成果が一軍で出始めたといえるのではないか。田中将にとってストレートとスプリットのコンビネーションはまさに生命線。それが大きく改善しているとなれば、一時は雲行きが怪しかった200勝の達成どころか、先発ローテーションを担う戦力としても重要な役割を期待できるかもしれない。
2025.08.27
放映権料は50億円超えか?!なぜ来春WBCの地上波放映がなくなりネットフリックスの独占配信となったのか…「時代に乗り遅れた日本のビジネススタイル」SNSは「残念」「寂しい」の声で荒れる8/27(水) ネットフリックスが日本国内で全試合を独占配信することを発表、事実上、WBCが地上波で見ることができなくなったSNS「老若男女、多くの国民が無料で手軽に視聴できてこその盛り上がりだろう」「野球の普及、という面から見ると痛い」「野球に関心にない人が見なくなる」「NHK及び民間放送各局は、報道目的での試合映像は放映できますので、テレビニュースでは従来どおり試合のハイライトをご覧いただけます」→テレビニュースでハイライトのみの時代?大谷人気狙い撃ち…ネトフリ26年WBC日本での独占配信の衝撃 米国ではテレビ放送で見られるのに8/27(水) 米動画配信大手「ネットフリックス」は26日、来年3月に開催される第6回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の日本での独占放送権を獲得したと発表した。全47試合をライブとオンデマンドで配信し、テレビの地上波での中継はなくなる。ドジャース・大谷翔平投手(31)人気も相まってWBC熱の高い日本を「黒船」が狙い撃ちする形となり、国内各業界に衝撃が広がった。 午前7時過ぎ。ネットフリックスがSNSで日本での「独占生配信」を電撃発表した。米国では有料のテレビ放送もある見込みだが、日本での地上波放送はなくなる。ネット上はいわゆる「大荒れ」になり、国内の各業界にも衝撃が走った。 前回23年を含め、地上波で放送してきたTBS関係者は「来年も放送すると思っていたので、はしごを外された感覚。局内からは怒りの声もあると聞く」と困惑した様子。別のテレビ関係者は「TBSとテレ朝で共同で準備作業をしていたはずだ」と驚きを隠さなかった。 WBCを組織する「WBCI」とともに東京開催試合の運営・興行を担うのは読売新聞社。前回大会ではWBCIが読売新聞社を通じ、国内の民間放送局などに放送・配信権を付与し、テレビ朝日とTBSが生中継を行った。読売新聞社はこの日、声明を発表。「WBCIが当社を通さずに直接ネットフリックスに対し、日本国内での放送・配信権を付与した」と協力関係を無視したことへの憤りとも取れる内容だった。 背景には放送権の高騰がある。テレビ関係者によると、前回30億円とみられた放送権料は5倍に跳ね上がり、150億円前後に高騰したとみられる。国内テレビ局では手が出せないレベルで、26年大会以降も放送権料は上がる見込み。資金力が豊富な米配信大手が独占を手中に収めた。 侍ジャパンが世界一に輝いた前回大会。テレビ朝日が中継しドジャース・大谷が先発した準々決勝のイタリア戦は、野球中継歴代2位の視聴率48%(ビデオリサーチ調べ)を記録するなど、国民的な盛り上がりを見せた。地上波で手軽に視聴できなくなることで、野球人気に影を落とす可能性も秘めている。 近年はスポーツ中継の動画配信への移行が拡大。ボクシング・井上尚弥の世界タイトルマッチはここ数年、地上波放送がなくネット配信のみ。サッカーW杯予選の日本代表戦も地上波で中継されなかったこともある。英国では国民のスポーツを見る権利「ユニバーサルアクセス権」を定めて人気イベントの有料放送を国が規制している例もあるが、世界的流れは確実に変化。地上波主体だった日本のスポーツ中継に大きな波が押し寄せた。
2025.08.27
アメリカ合衆国の2フィート6インチ軌間鉄道一覧ハワイ1.アフキニ・ターミナル・アンド・レイルウェイ社(廃業)2.リフエ・プランテーション鉄道(グローブ・ファーム・シュガー・プランテーション博物館内に位置)(4台の機関車が米国国家歴史登録財に指定)(運行中)3.カウアイ鉄道(廃業)4.ラウエア・シュガー・プランテーション(廃業)5.ワイアナエ・シュガー社(廃業)1.アフキニ・ターミナル・アンド・レイルウェイは、アメリカ合衆国ハワイ州の狭軌鉄道会社であった。カウアイ島東海岸のアナホラ港からリフエまで、2フィート6インチ(762mm)の狭軌で全長19キロメートル(12マイル)の路線を運営していた。同島内の他の鉄道であるカウアイ鉄道(同じ軌間)とは接続していなかった。 1920年に開通し、1932年に地元の利用者によって買収された。最終列車は1959年に運行された。 線路の一部は現在、ケアラ・ヘレ・マカラエ・パス・レイルトレイルとして利用されている2.3.カウアイ島初の鉄道は1881年に開通した。島のプランテーションは間もなく、収穫したサトウキビを加工・輸出するために運搬する軌間2フィート6インチ(762mm)の鉄道網を整備した。これらの鉄道は1959年にトラック輸送に取って代わられた4.キラウエア・プランテーション(キラウエア砂糖農園)は、ハワイ州カウアイ島北部に位置した大規模なサトウキビ農園であり、キラウエア地区を含む地域を指した。1880年に設立されたキラウエア砂糖会社が所有・運営し、1899年以降はキラウエア砂糖農園株式会社となった。[1][2] 1863年までに、アメリカ人チャールズ・ティトコムがカメハメハ4世からこの土地を購入し、牧畜に利用した。その後、イギリス人ジョン・ロスとE・P・アダムスに売却され、彼らはティトコムから追加の土地も借り受けた。ロスとアダムスはサトウキビを栽培し、会社を設立した。[3] 1880年から1971年までプランテーションとして運営された。5.1878年、ハーマン・ウィデマンはワイアナエで最初の作物を植えた。これはオアフ鉄道土地会社が設立される11年前、同社が製糖工場に到達する17年前のことである。ワイアナエ製糖会社のプランテーションはマカハ、ルアルアレイ、ワイアナエの三つの渓谷で耕作地を開拓した。2フィート6インチ(762mm)の狭軌鉄道を有していたが、島内でOR&Lの線路と接続できなかった唯一の砂糖農園であった。水不足に苦しみながらも、同社は69年間存続し、1947年にオアフ鉄道の廃止と同じ年に閉鎖された。1890年までに、600エーカー(約243ヘクタール)の土地にサトウキビが植えられ、2,500トンの収穫量を記録した。同社は350人の労働者を雇用し、3台の機関車で12マイル(約19km)の狭軌線路をサトウキビを輸送していた。
2025.08.27
森信三先生の修身教授録第33講「敬について」「敬とはどういうことかと申しますと、それは自分を空しうして、相手のすべてを受け入れようとする態度とも言えましょう。相手のすべてを受け入れるとは、積極的に申せば、相手のすべてを吸収しようということです。相手のすべてを吸収しようということは、相手の一切を奪わずんばやまぬということだといえましょう。ですから真に徹底した敬というものは、生命の最も強い働きに外ならぬわけです。すべて尊敬するとか敬うというのは、自分より優れたものを対象として発するところの働きです。ですから敬うとは自分より優れたものの一切を受け入れてこれを吸収し、その一切を奪いとって、ついにはこれを打ち越えようとする強力な魂の、必然な現われと言ってもよいでしょう。世間では、人を敬うということは、つまらないことで、意気地のない人間のすることでもあるかのように、考えられているようですが、これは大間違いです。・・・人間というものは、単なる理論だけで立派な人間になれるものではありません。理論が真に生きてくるのは、それが一個の生きた人格において、その具体的統一を得るに至って、初めて真の力となるのです。したがって諸君らも、単に理論の本を読んでいるだけでは、決して真の力は湧いてこないのです。真に自分を鍛えるのは、単に理論をふり回しているのではなく、すべての理論を人格的に統一しているような、一人の優れた人格を尊敬するに至って、初めて現実の力を持ち始めるのです。同時にこのように一人の生きた人格を尊敬して、自分を磨いていこうとし始めた時、その態度を「敬」と言うのです。・・・バケツに汚い水を入れたままでは決して新しい水は入らない。古い水を捨て去って、初めてそこに新たな水を満たすことができるのです。」修身教授録は、将来小学校の先生になろうとする大阪の天王寺師範学校の生徒に森先生が一言一句が「実践」につながる修身(文字通り「身を修める」学)を語ったものである。森先生はそれを書写力の一番遅い生徒を最前列の窓辺にかけさせ、その書く速度を見ながら話された。これが「修身教授録」という稀有の書がこの世に残り、いつまでも私たちを啓発しつづけるゆえんである。この書はまず第一に先生を目指す生徒に語られている。「諸君らが、将来教師となって最も大事な事柄は、まず生徒たちが、尊敬心を起すようになることでしょう。それには一応内外二つの道が考えられましょう。外から入る道としては、教師自身が、礼を正しくするということです。内面的な道としては、教師自身が、生徒から敬われるだけの人間となることです。しかしこの後のほうは、実に容易ならぬ問題です。というのも、生徒達に対して自分を敬えとは、言えたことではないでしょう。万一さような事を言ったとしたら、これほど滑稽なことはないでしょう。そしてなんらの効果もないどころか、あるのはただ逆効果のみです。ではどうしたら生徒が教師を敬うようになるでしょうか。それには結局教師自身が、尊敬する人格を持つということでしょう。実際人々から尊敬されるような人は、必ず自分より優れた人を尊敬しているものです。そこで教育の根本問題は、どうしたら生徒たちが、自分を尊敬するようになるだろうかなどと、【あくせく】することではなくて、まず教師自身が、自分の尊敬する人を求めて、生徒とともにその方の教えを受けるというような、謙虚な態度から出発すべきでしょう。」
2025.08.27
32「鈴木藤三郎伝」鈴木五郎著 62~65ページ 協力者 事業家としての藤三郎は、一生を通じて事業遂行のスピードをゆるめたということは、全くなかった。彼は生涯を通じて、事業という矢を射つづけた射手のようなものであった。的は時々変ったが、彼の手から矢が射出されない日は、全く一日もなかったのである。こうした傾向は、その処女事業ともいえる氷砂糖製造の事業が、ようやく始まったばかりのときに、すでに現われたのである。普通ならば8年間も苦労した結果が、やっと報いられるときが来たのであるから、出来るだけその状態を持ち続けるように心がけるはずである。それを藤三郎は、氷砂糖工場の新築が成ったばかりの年の夏には、これが東京移転を企てたのである。この事実を知ったときには、友人達はもとより家の者までが、彼の気が狂ったのではないかと思ったのは、無理のないことである。 しかし、藤三郎だって、一時の気まぐれに、こうしたことを思いついたのでは、もちろんない。自分としては、長い間、よく考え抜いた結果なのである。氷砂糖事業に対して、彼は非常な自信を持っていた。自分の製品が、清国の福州あたり主として輸入されていた『福永』あるいは『瓦片』とう呼ばれる褐色の氷砂糖を、近い将来には完全に駆逐するであろうことを知っていた。だが、そうなっても、自分が製造している純白透明の氷砂糖の原料となっているのは、香港から輸入される精白糖である。だから、氷砂糖としての輸入は防げても、その原料としての精製糖をそれだけ、あるいは需要が増せばそれ以上も輸入したのでは、国家の経済上から見れば、大して得にならない。いたずらに外国人に利益を占めさせるばかりである。それでは、まことに残念だ。砂糖そのもの生産は、気候風土の関係上、わが国ではできないが、それを純白に精製する位のことは、どうしてもやらなければならない。しかし、精製糖製造には、氷砂糖よりもいそう複雑精密な学理と機械の応用を必要とするが、それはこんな田舎にいては、とうてい学ぶことも造ることもできるものではない。この研究と完成には、どうしても東京へ出るよりほかに方法はない。これが、東京移転の第一の理由であった。第二の理由としては、現在の氷砂糖業だけでいっても、その原料である精白糖が横浜に輸入されたものを、鉄道は東海道線さえまだ全通してはいなかった時代であるから、また船に積み換えて遠州(静岡県)の袋井町南方の福田(ふくで)まで回船して、そこから陸路を森町まで運ばなければならなかった。そして製品は、またそれを逆に東京へ送ったのである。それに、当時の沿岸航路はすべて旧式の帆船であったから、風次第で航海日数の予定もつかない上に、少しの風浪でも浸水や沈没はするし、保険制度もなかったので、荷主の不便と危険は非常であった。したがって、これらを加算したものは、生産原価の大きな部分を占めていた。工場を東京に移転すれば、この失費は非常に節減されるから、製品もいっそう安く販売できて、それだけ国家の経済にも貢献できるわけである。こうした直接的利益だけからいっても、彼が東京移転を考えたのは当然であったともいえるのである。 藤三郎は、これらのことを熱心に養父に説いて、東京移転の許しを求めた。しかし、一代を田舎町の菓子屋として、なんの懐疑も不満もなく穏やかに過して来た老人には、国家経済上の利益というようなことは、あまりに耳遠かった。それよりも、これほど家運が順調に向いて来たばかりのときに、また訳の分らぬ大望を起して、大冒険のうちに一家を巻き込んでしまおうとする息子の気まぐれには、開いた口がふさがらぬ程に驚いたばかりでなく、やがて、その口の中に泥を投げ込まれたような憤りをさえおぼえた。 「お前のような気まぐれ者は、わしゃ知らん。せっかく、泉吾さまのお力添えで氷砂糖工場ができたかと思えば、もう東京へ移転するなどといい出すとは、飛んでもないことじゃ。こんなことでは先々が案じられる。お前が、どうしても東京へ行くというのなら、そりゃァ勝手にするがいいが、野たれ死にするかもしれぬ所へ、嫁や孫をいっしょにやる訳にはいかぬから、それは承知でやるがいい。」と、養父は、怒りの興奮にドモリながらいい渡した。藤三郎は、養父と口論しても無駄なことを知っているから、「お父さんが御安心下さるまでは、私一人だけやって頂ければ結構です。」と逆らわずに答えた。それから彼は、新村をはじめ2,3の報徳社の先輩の人々に意中を話した。しかし、ここでもだれ一人、賛成してくれる者はなかった。「氷砂糖事業も、せっかくこれまでになったのだから、そう焦らないでも、ジッとやっていさえすれば、この地方で指折りの富豪になれるではないか。」と、口を揃えていうのであった。藤三郎もこの場合、これ以上を、この人達に期待することの無理なことを知っていた。さすがの彼も、福川に意中を打ち明けることは、よほど考えた。しかし、打ち明けないで済む訳のものではない。そこで、彼は意を決して福川を訪ねて、最近、恩借によって事業を始めたばかりであるのに、またまた、こうした方針変更の申し出をする罪を深く詫びてから、氷砂糖工場を東京へ移転することの希望と理由を、詳しく話した。福川は眉一つ動かさずに、静かに熱心に聞いてくれた。それにいささか勇気を得て、藤三郎は言った。「負えば抱けと申し上げるようで、甚だ申訳ないことでありますが、もし東京へ移転の費用さえ出して頂けましたら、活動資金のほうは、氷砂糖の一手販売を託しております村山商店が、まだ会ったことはありませんが、昨年来の取引ぶりで見ると、中々商売も熱心ですし、産業界の大勢にも通じているようですから、キット話に乗ってくれようと思います。それで、固定資本のほうだけ御融通をお願いしたいと存じますが、いかがでしょう?」 彼は、福川に熱心に頼んだ。福川はしばらく考えていたが、「よく分かりました。村山商店で活動資金を引受けてくれるようでしたら、東京移転の費用は御用立て致しましょう」 と即座に承諾してくれた。藤三郎は、自分の真意を了解してくれるのは福川だけだという感じを胸いっぱいにたぎらせて、言葉に尽きせぬ感謝の念と、この信頼を裏切らぬようにしようという決意を新たにして、洗い磨かれたような心になって、福川家の門を出たのであった。初秋の夕焼け雲が、真紅に頭上で輝いていた。 藤三郎は、すぐ旅の支度をして、東京へ出かけた。東京へ着くなりその足で、日本橋堀留の村山仁兵衛商店を訪ねた。秋といっても9月のことで、まだ日中は焼きつくような陽が強く照りつけている紺のれんを、ソッと分けてはいって来た見慣れぬ埃まみれの田舎者を見て、居並ぶ番頭、小僧達は眼を見合わせ薄笑いを浮かべて迎えた。「私は、いつもお世話になっております森町の鈴木藤三郎でございます。御主人がおいででしたら、一度お目にかかりたいと存じますが・・・・・。」 これが、このごろ素晴らしい氷砂糖の製造に成功して、業者の間でも評判になっている本人かと、店の者達は、いまさらのように見直した。当時の藤三郎は、田舎町の菓子屋の一職人であり、氷砂糖工場の一職工にすぎない見すぼらしい風采であったが、もう相当にこの店とは取引を続けていたから、名前を聞けば、そう冷遇はしない。それで、小僧の知らせで、奥の方から年配の番頭が出て来て、「主人は幼少でございますから、手前が代って、お話を承りましょう。それにしても、ここではなんですから、ともかく、お宿へ御案内してから伺うことにいたしましょう。」と、煙草入れを腰にさすなり先へ立って、霊岸島の宿屋へ案内した。藤三郎は、そこで村山商店の番頭に、近く精製糖業に着手したい希望と、その瀬踏みとして氷砂糖工場を東京へ移転するから、その際に活動資金を融通してもらえまいか、ということを話した。 西陽の射し込む部屋の中で、もう大分くたびれた扇子をパチパチいわせながら聞いていた番頭は、彼の話が終るか終わらないうちに、「それは、およしになったほうが良いでしょう。」と高飛車にきめつけた。そして、業界の事情にうとい田舎者を哀れむような口調で、薄い唇をなめながら流れるような江戸弁で、まくし立てた。それは、こういうことであった。精製糖事業などというものは、日本で成功するものではない。明治10年(1877年)頃、島某という人が、アメリカから帰って、有力者の出資を得て東京築地に洋式製糖所を建てたが、創業後1年もたたないうちに倒れてしまった。また讃岐の某地にも精製糖製造所を設立した者があったが、これも2,3年のうちに廃業した。大阪でも川崎某ほか知名の豪商の発起で、中之島に紙砂糖製造所というのができたが、これも不結果に終った。北海道の紋鼈(もんべつ)には、官営の紋鼈製糖所という甜菜(てんさい)から砂糖をとる工場が、ずっと前からできていて、近ごろはドイツから技師を2人まで雇って来ているが、まだろくな製品が出ていない。「こんな工合で、日本では製糖事業というものは、お上(かみ)の力でやっても、なかなかうまくゆかないのですから、とてもほかの人がやれようはずはありません。先年、島が築地でやったときには、同業者のうちでも、大分金を出して大損をかけられた者もありますので、砂糖問屋は、製糖事業と聞いただけでも身震いする位ですから、これは、どこへお話になっても無駄です。それに氷砂糖のほうも、なるほど東京へ工場をお移しになれば、運賃は大分助かりましょうが、もともとこの品は、高価なところが値打なのですから、そう安くする必要はありませんし、また産地がどこか分からないところで、世の中に珍重されるというものですから、人の気のつかない地方で製造なさったほうが、お互いに利益も多いというものです。国益のためだなんていっても、そんなことは、だれも、ありがたがりはしませんよ。」という調子であった。藤三郎は、東京の大商人といえば、地方の人とは違い、思想も高かろうし、時勢に対する達見もあろうから、必ず自分の意見に共鳴して、力を貸してくれるであろうと思っていた。そうなれば、家族を残し、友人とも別れ、故郷を捨てても、この念願を成就しようくらいの覚悟を持って上京して来たのであるから、これには全く失望しない訳にはゆかなかった。しかし、その考えることに、あまり距離があり過ぎることを知ったので、村山商店の援助を得るために、これ以上説くことは断念した。そして、東京に一週間いた間に、市の内外を回り歩いて、工場敷地の候補地を4,5か所見つけただけで、森町に帰った。
2025.08.27
女性記者の遺体に隠せぬ拷問痕、眼球など摘出し証拠隠滅か…最期究明へ取材「裁き与えるまで調査続ける」8/26(火) ウクライナの首都キーウの教会に8日、多くの報道陣が詰めかけた。この日行われていたのは、ウクライナ人記者ビクトリア・ロシチナさん(当時27歳)の葬儀だった。 ロシチナさんは2022年、米国拠点の「国際女性メディア財団」の「勇気あるジャーナリズム賞」を受賞するなど、ウクライナ侵略での報道が国際的に評価されていた。23年8月、露占領下の南部ザポリージャ州エネルホダルで取材中、露当局に拘束され、収容中に死亡したとされる。 ロシチナさんの死は、露国防省の公表で昨年10月には明らかになっていたが、今年2月の遺体返還後にさらに注目が高まった。遺体に不審な点が数多くあったからだ。 遺体の入った袋には「身元不明の男性」を示す「NM」と記載されていたが、DNA鑑定などで女性のロシチナさんだと判明。長かった髪はそられ、脚にはやけどや切り傷があり、肋骨(ろっこつ)は折れるなど、明らかに拷問を受けた傷があった。 さらに、脳や眼球、気管の一部が摘出されていた。絞殺された際、その痕跡が残るとされる部位だった。 死の真相解明に取り組む記者の一人、ヤニナ・コルニエンコ記者(28)は語る。「遺体の欠損で死因特定は阻まれたが、絞殺の証拠隠滅が図られた可能性が高い」
2025.08.26
26年WBC 地上波で見られない…ネトフリが日本国内独占放映権獲得 “同時放送”は困難8/26(火) 来年3月に開催される第6回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の日本国内での独占放送権を、米動画配信大手「ネットフリックス」が獲得したことが25日、分かった。26日にも発表される。日本国内では同社がWBC全47試合を独占で配信するとみられ、過去5大会で放送をしてきた地上波では見られない見通しとなった。 大谷翔平(31、ドジャース)も出場に意欲を示す野球のスペシャルイベントに「黒船」と呼ばれた米国の動画配信大手「ネットフリックス」が襲来する。26年WBCの日本国内での独占配信が決まったことが判明した。 前回23年大会はテレビの地上波と「プライムビデオ」のネット配信で中継。地上波では決勝の日本―米国戦の平均世帯視聴率が42・4%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)と、平日午前に異例の数字になった。日本戦全7試合はいずれも40%超え。日本総人口の約75%が何らかの形でWBCを生視聴する国民的な盛り上がりだった。 ただ、放映権料は高騰の一途。23年は17年大会の3倍近い約30億円だったともいわれ、地上波が撤退する可能性も大会後にささやかれていた。今回も数倍に跳ね上がったもよう。潤沢な資金でオリジナル映像作品も制作するネットフリックスが独占配信に手を挙げた。 前回大会は侍ジャパンが世界一に輝いた勢いが、日本野球界全体の盛り上がりにつながった。プロ野球のみならず、少年野球を含めた全カテゴリーに波及。視聴しやすい地上波で放送がなくなることで国内の野球人気に影を落とす可能性を秘めている。 一方で、近年は動画配信事業者がスポーツコンテンツの拡充に力を入れている。最近ではボクシング・井上尚弥の世界タイトルマッチは地上波の放送はなく、ネット配信のみで中継。サッカーW杯予選の日本代表戦が地上波で中継されなかった例もある。WBCは世界的なビッグコンテンツ。今回の独占配信がスポーツ放送のあり方を確立させるきっかけになるかもしれない。 テレビ関係者によれば、日本のテレビ文化を重視したNPBも地上波での同時放送ができるように働きかけたが、かなわなかったという。同関係者は「独占配信ということで、地上波との同時放送は難しかったようです」と語る。26年大会の日本国内での盛り上がりへの影響が注目される。 ▽ネットフリックス 米カリフォルニア州ロスガトスに本社を置く動画配信大手。97年設立。07年に動画配信を始め、15年に日本進出。映画やテレビ番組を定額で見放題とした事業戦略が好評で、190以上の国・地域で展開している。日本では24年上半期に加入者が1000万人を突破し、全世界では3億人を超えた。独自制作の作品にも力を入れており、大リーグのレッドソックスに密着したドキュメンタリー作品も配信している。
2025.08.26
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