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2025.07.30
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カテゴリ: 鈴木藤三郎
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 第二の誕生
結婚は、人生にとって第二の誕生であるといえる。しかし、藤三郎にとっては不思議にも、この時が、また精神的にも第二の誕生の時となった。
それはどういうことであったろうか?
藤三郎は、その正月に、生家の太田家へ年始に行った。その時、普段は店先に吊り下げてある古着類も、きょうだけは片づけられているので、なんとなくいつもより明るいように思われる茶の間の片隅に、一冊の本が置いてあった。彼は、なに心なくそれを手に取って、開いて見た。そして1,2枚読んでゆくうちに、彼の心は、全くその本に引き付けられてしまった。
「お正月だから、まァ、ゆっくり遊んで行きなさい」と引き止めるのを、振り切るようにして、その本を借りて家へ帰ると、ひと息に読んだ。そして、外の賑やかな追い羽根の音も、凧(たこ)のうなりも、万歳(まんざい)の唄声も、耳にはいらぬ位に夢中になって繰り返して読んだ。読みながら『眼から鱗が落ちた』と、キリスト教の聖書の中でパウロもいっているような気持ちになると、自分の今まで立っていた立場が急に崩れ落ちたように感じた。そして、彼は、不意に眼の前に展開して来た、今まで見たこともない輝かしい世界の荘厳さに打たれて、新しいひとみを見張らずにはいられなかった。
それは、彼には、なにかまぶし過ぎるようでもあった。今まで住みなれた暗い世界のほうが、寂しく頼りなくはあるけれど、落着きがよいようにさえ思われた。けれど、その輝かしい世界の光の権威は、藤三郎に、再び暗黒の世界をふり返ることを許さなかった。彼は、それを光栄に思った。自分が日頃、心の底で漠然と尋ね求めていたものが、ハッキリとそこにあることを知った。武者震いをしながらも、彼はそのほうへひた向きに進まずにはいられなかった。
藤三郎の思想上に、それからの一生の基盤となるような大きな影響を与えたこの本は、二宮尊徳の『報徳の教え』を書いた書物であった。もし、その時、そこに、その本が置いてなかったなら、彼は、せいぜい凄腕の一製茶貿易商として終ったかもしれないと思うと、神から見れば当然なことなのであろうが、人間の眼からは偶然としか見えない運命の神秘さについて、いまさらに思わない訳にはゆかないのである。


※1 藤三郎が実家で見た本は、「鈴木藤三郎伝」で「二宮尊徳の『報徳の教えを書いた本」とある。
 この本は何か?
 なぜ、藤三郎の実家(森町)にあったのか?
 この本を福住正兄が著した「富国捷径」とする説もあるが、鈴木藤三郎が「斯民」のインタビューに答えた記事では、「この時、実家から借りて帰った本はかの『天命十箇条』でありました。」とある。『天命十箇条』とは、天命十訓とも言われるものである。
遠州の報徳社で「法書(御報書)」の一つとされる「藤曲仕法書」の中の最後で尊徳先生が教訓されたもので、遠州の報徳社の集会ではその冒頭で読み上げられるものであった。
「社員すでに集まれば、先生正面に坐して机に向かい、まず法書を朗読し終わりて講話をなす。法書は多く藤曲、宮原の二書(共に二宮先生の御趣法書なり。)を用ゆ。」
 森町では、藤三郎がこの本に出会うおよそ25年前の1852年(嘉永5)閏2月に、安居院庄七の指導のもとで、新村里助、中村常蔵により森町報徳社が結成されていた。翌1853年9月14日、2人は遠州7人衆と一員として日光の桜秀坊で二宮尊徳と面会した。彼らはその折に多数の教訓書・仕法書等を書き写して遠州に持ち帰っていた。

「斯民」第1編第9号(明治39年12月23日)
「荒地開発主義の実行」  鈴木藤三郎 (同25ページ)

 子供の時から報徳という語は聞いていましたが、私はただ身代を殖やした人たちが、破れ草鞋(わらじ)を履き、けちな事をして金をためるのを報徳というのだとばかり思っていました。

報徳に入るの発端
 私は養子でありますが、19歳の年になるまでは、いわゆる生活の問題については何という考えもなく、無事に働いて日を暮らせば、それで善いくらいに思っておりましたが、ふとこれではならぬという気になって、何でも一つ金を儲けることだと思って、親の家は以前から菓子製造業であったけれども、自分はその頃流行の製茶の商売に手を出しまして、その年から23になる頃(明治8年)まで働いておりました。
然るに23歳の正月でありますが、実家へ年頭に行ったところ、座敷に「二宮先生何々」という本がありました。これを観て「にぐう」とは何の事かと義兄に聞きますと、「にぐう」ではない、二宮先生といって、報徳の先生の本であるという話に、そこで始めて報徳にも本が有るのかと不思議に思って、いろいろ質問をしたことでありました。

天命十箇条
この時、実家から借りて帰った本はかの「天命十箇条」でありました。 これを読んで見るとすこぶる心を動かすことが多い。それからようやく報徳社に出入りして話を聴くようになったのであります。この頃郷里森町(遠江国周智郡)の報徳社の社長は、安居院翁の門人で新村豊助という人でありました。私は最初は正社員ではなく、客分ということで出席しておりましたが、段々と様子がわかって見れば、報徳なるものはかって想像しておったものとはまるで違ったものである。これは何でもとくと腹に入るまで研究してみたいものだと思いまして、それからは諸方に行って師を求め説を聴いてあるきました。

※2 「森町史」通史編下巻
森町報徳社の設立  1852年(嘉永5)閏2月、(安居院)庄七の指導により森町報徳社が結成された。ただ「森町報徳社」という名称はこの時点では使われておらず、報徳を信奉しようとする仲間が数人集まったという程度の組織であったと思われる。1852年閏2月の「勤行義定連印帳」には「休」や「病死」の抹消を除くと、8人が銘記されている。そこには、里輔(里助)、常造(常蔵)の名も見える。連印帳によれば、彼らは毎月3日、13日、23日に集うこと(参会)にした。参会の日は、朝から心がけて7つ時(午後4時)には仕事を終えるようにし、暮れ前に余業を行って、夕飯後集まるようにした。参会では、重立った者が「御報書」の読み聞かせをしたり、「勤行之図」を見て感服したり、農業や家業の「勤方」などが話し合われたりした。また、「義定一札之事」として、無駄な出費をせず余業に励みできたものを日掛けにして積み立てておくこと、公儀法度を守ること、天照皇太宮ならびに氏神への拝礼、困窮者には「窮民撫育金」を入札により「無利足年賦」で貸し付けること、休日には早朝から昼まで村内の道造りをすることなどが決められた(資料編4、148号)。
この「勤行義定連印帳」には、里助、常蔵のほかに「勘左衛門」の名が見える。山中勘左衛門である。山中家の当主は代々勘左衛門を襲名しており、この勘左衛門は9代目山中勘兵衛で、新村里助の兄にあたる。勘兵衛も里助同様報徳に熱心であった。勘兵衛は森町村の名主も勤めた人物である。・・・山中勘兵衛や里助の父豊平(とよひら)は「遠淡海地志」をはじめ多くの記録を残している。





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最終更新日  2025.07.30 12:00:08


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