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2025.11.11
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カテゴリ: 鈴木藤三郎

「鈴木藤三郎伝」鈴木五郎著 229~235ページ

この説明を聞きながら海浜に出た一行は、海水を導入する装置のある所に案内された。広い砂浜に井げたのようなものが3,4カ所あって、その先のさざ波の湧き立っている海面にも、赤塗りにした大きな鉄筒の表面が、波の合間合間に見え隠れしている。そして、砂中に埋設してある鉄管で、この井げたと鉄筒は通じている。干潮のときには、赤塗り鉄筒のある付近は、鉄管が露出するのだが、今は満潮なので、それは見えない。ただ湧き騒ぐ白波が、赤塗りの鉄筒と照りはえて美しかった。

「満潮のときの海水は、干潮のときよりも塩分に富んでいます。それで満潮のときに、この比重の重い海水が、勢いよく海中に突出した鉄管に打ち込まれるように設計してあります。そして、海水は、この37間の鉄管を過ぎ、100余間の土管を通って、貯水池に送られるのです。」

 藤三郎が、こう説明すると、支配人が井げたの蓋を押し開けた。中には、海中に通じている鉄管と、貯水池に達する土管との両端が、径三尺ばかりの井戸を中央にして、両方から大口を開けているのが見える。井戸は深く掘られて、それに海水が一杯に溜っている。これが『砂取りタンク』である。

「導水管の先端には、砂除けの装置がありませんので、海水といっしょに打ち込まれた砂が、鉄管内を埋めやしないかと心配しました。それで、この設備をしておけば、水とともに送られた砂は、このタンクの中に沈んでしまうので、3,4カ所のタンクを過ぎれば、海水には全く砂が混じらなくなるはずです。これがこの設備をした理由ですが、しかし、今までの経験では、砂は、ほとんど鉄管には打ち込まれないようです。

それよりは、最初に導水管を敷設するときに地下は掘っても掘っても砂ばかりです。どんなに深く掘って埋設しても、少し海が荒れると、すぐに破壊されてしまいます。また土管も、継ぎ目から真水が浸入したり、圧力で破損したりして、かえって、このほうに苦心しました。」

藤三郎は笑いながら、こういった。しかし、その笑いの奥には、開拓者らしい苦い汗と涙が潜んでいることを思わずにはいられなかった。一行は、わずか一本の導水管でも、それが埋設されて今日の状態に落着くまでには、思いがけない隠れた苦心が含まれていることを知った。

海辺から少し東に戻った一行は、松林をしのいで八階建ての大ビルディングのような乾燥台が、竹の小枝や萩の大きな束を、いく段んも高く積み重ねて建っている真下へ来た。海水が頂上の束から順次に滴り落ちて、その飛沫が霧のように散っている。藤三郎の案内で、その間を潜って、三階になっているハシゴを、十間の高さの頂上まで登ると、長さ60間、幅4間の広い運動場のような所に出た。そこは帽子を飛ばされそうに風が強く吹いていて、脚下を見ると、気味が悪いくらいに高い。眼をあげると、小名浜一帯の風光がひと目に収まった。これが藤三郎の発明した風力採鹹装置(特許第9139号)である。

この乾燥台の中央には一個の樋(とい)が通っていて、貯水池からポンプで押し上げられた海水は、この中を流れている。この中央の樋から左右に小さい樋がいく個となく設けられて、樋の底にある栓(せん)の作用で、海水の滴下量を加減できるようになっている。滴った海水は、脚下になん段にも積み重なった枝条の間を伝わりながら滴下する間に、乾いた風で水分が蒸発して、非常に塩分の濃厚な水となって最下の床に落ち、それが底の大樋に集って、次の装置に送られるのである。また、この枝条は、最初は竹の枝を束ねたものを用いたが、なにぶん、一列を積み上げるだけに径3尺のもの1200束を要するので、間もなく近くで竹の枝を手に入れることが困難になった。それで、今は萩の枝を用いていた。

この乾燥台で濃縮にした海水は、塩石分解汽缶(ボイラー)に導かれる。この缶は、蒸気機関を運転するのと同時に、加熱塩水を噴射蒸発装置(特許第16420号)で処理し、熱した空気に接触させて一部の蒸発を完了させ、さらにこれを自動沈殿器(特許第6957号)に送って灰分を分解沈殿させ、やや純分に近くなった塩水を、四重効用缶(直径8尺、長さ20尺の真空缶)に送りこむ。この缶は4基あって、塩水は4つの缶の間を巡流して、互いに移るごとに濾過機を過ぎて夾雑物を濾すようにしてある。だから、この4缶を巡回して出てくる海水は、非常に濃厚ななもっとも純粋のものとなる。これを甲乙2個ある永続結晶缶(特許第14638号)に導いて、なお蒸発させると、結晶した塩分が自動的に母液と分離して、下部から純白の一等塩となって落下する。そして残った塩水も管の作用で乙缶に送られて、ここで同一作用によって結晶を完了するようになっている。だから、この装置では、一方から海水が導き入れられると、一貫作業でできた結晶塩が他方から続々として出る。こうして終年、製造の絶えることがないのだから、真に永久的なオートメーション方式の製塩装置である。

鈴木製塩所の設備は、海水を大海から直接取り入れるところから塩に結晶するまで、すべて藤三郎の新発明にかかる機械ばかりを利用したもので、どれ一つとして彼の特許でないものはない。この製塩所は、まことに彼の発明的頭脳の複雑巨大な結晶であると、一行には思わされた。

塩は人生の必需品であって、製塩の歴史は、人類の歴史と同時に始まっているが、これまで、日本はもちろん、欧米でさえも、その製法は自然のままに放任されて、ほとんど改良を加えられていないといってもよいほどである。これは、欧米では改良の必要がないからである。ドイツの岩塩は、石炭と同じように地下から掘り出すのであるし、米国やその他の海水製塩も、何カ月も雨の降ることのない天日を利用して、簡単に製造できる。だから機械を応用して、海水から製塩しようというような考えさえも、浮かんだことがないであろう。

それだから、藤三郎の製塩法は、この保守的な世界の製塩界にとって、破天荒な革命であるといわなければならない。

前述のように藤三郎の製塩法の特長は、機械を用いて、一方から海水を取り入れると、他方から結晶した塩となって出て来るというところにある。風力を利用するから、降雨期でない秋から春までがもっとも適しているが、しかも一年中、休まずに製塩ができる。それだから大設備をしても、途中の休日から生ずる損失がない。それだのに、天日製塩はたいてい4,5か月、塩田製法も夏の間の一定期間で、一年中就業ができるものはない。

また、従来の製塩法は、燃料が多くいる。百斤(60キログラム)の塩を造るにに、千二、三百斤の石炭がいる。これを鈴木式では、乾燥台で海水を濃くして、煮詰めるときもボイラーの構造と蒸発の装置とに新くふうが凝らしてあるから、燃料が少なくて、よく蒸発する。現に百斤の塩を製造するには、わずかに石炭二、三百斤をいるだけである。

製塩上もっとも困難なことは、海水中に含む硫酸石灰を、うまく除くことである。ところが鈴木式は、巧みにこれを分解除去する新装置がある上に、砂で濾過するから、できた塩は純粋で、少しも夾雑物を混えない。分析の結果では、塩分が90%以上ある。これは、日本塩としては、比類まれなものである。

また労力も、きわめて少なくてよい。最初から最後まで、すべて機械力によっていて、人力は、わずかにこれを補助する程度だからである。

これらの特長は、当然に製品を純良に、価格を低廉にする。これまでの実験でも、明らかにこれを示している。もし設備を大きくしさえすれば、ここだけで2、3億斤の精良品を廉価に生産することは容易である。

実際の設備と機械を眼の前に見ながら、その発明者である藤三郎から詳しい説明を聞いて、一行は、これだけのことを十分に了解することができた。ことに奥、田沢の両技師は、専門家だけに、その感嘆振りはいっそうであった。それを見ては、岩下も都倉も、この発明の真価を悟らない訳にはいかなかった。

だが、ジャーナリストである都倉には、この発明や設備に、どのくらいの資金が投じられたものか、見当がつかなかった。それで、

「いったい、これにまでなさるのに、どのくらいかかったのでしょうか?」

と、聞いてみた。これは、一行のだれもが、尋ねたいところであった。

藤三郎は、これにも笑いながら、

「そうですな、この製塩機械の発明を完成して、機械を運転し始めたのは明治40年10月ですが、少し不完全な点を発見したので、昨年5月から、更に研究とくふうを重ねました。そして、本年1月以来、またまた多くの改良を加えて、現在の一昼夜に300石、1年に3万石(541,170キロリットル)が生産できる設備とまでにしたのです。まずこれまでの試験に費した金額は40万円を越えとりましょう。」

といった。個人で一事業の試験費に、40万円の巨費をを投じたと聞いて、藤三郎の性格をよく理解している岩下以外の一同は、思わず驚嘆の叫びを発せずにはいられなかった。都倉などは、危く鉛筆を取り落とすところであった。これは、米が1升10銭くらいのときではあり、まだ、わが国の経済界では企業合同による大資本組織の経営は行われず、会社の資本も100万円台が最高で、創業資本1千万円という工業会社は一つもなかった時代のことであるから、無理もなかった。

この時の詳しい視察の記事を、都倉は「世界無比の機械製塩を視る記」(「実業之日本」明治42年4月15日号)に書いている。

しかし、この鈴木製塩所は、半世紀後の今日、ようやく世界の問題となっているオートメーションの生産方式を、これまでに完成しながらも、その後、間もなく起こった醤油事業の経営上の失敗に巻き込まれて、事業化することができないで瓦解してしまったことは、国家経済の上から考えても真に遺憾なことであった。

わが国の通産省は、昭和30年(1955年)12月19日に『技術白書』を発表して、その中で、わが産業を発展させる重要な要素の一つとして、『海水の完全利用』を説いている。これは、近年わが国は、人口の増加と工業の発展の結果として、塩の需要はますます増加して、昭和30年度の消費総量は270万トンで、内訳は食塩100万トン、工業塩170万トンである。ところが、塩の国内生産量はわずかに60万トンで、消費量の2割2分に過ぎないで、その8割近くを外国から輸入しているという状態であるから、通産省が、こういうのも当然である。

(以下鈴木五郎氏の所感は省略する)






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最終更新日  2025.11.11 06:00:05


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