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世の中には良い事をする人もいれば、悪い事をする人もいる…という認識を持っている人は多いと思う。また、わざと人が困るような事ばかりを狙って行い、物事を悪くしようとする人がいると思っている人も多い気がする。でも実は、どんな人間もイイコトしかしないのだと最近思うようになった。人は基本的にどんな物事や行動を選択するにしても、必ずイイ方を選ぼうとしていると思う。悪い方を選ぶヤツはいないのだ。常にイイコトだけをやっている。とは言っても、実は人間は全て善良だと言ってるつもりはない。誰もが皆善人で正しい事をしていると言ってるわけでもない。過ちを犯さないとも犯罪等の悪事を働かないとも言ってない。性善説を唱えたいワケでもない。むしろ、世の中の大抵の人間は、多少なりとも何らかの悪事を働いていると思う。それが警察に逮捕されるような事かどうかは別としてもだ。じゃあ、どういうこと?何が言いたいの?と思うよね、当然。人が何かをしようと思う時、どちらかを選ばなければならない時、その動機や理由には色々あると思う。何を目的にし、どんな意図や狙いがあるかも様々だと思う。ただ、その時の判断に共通しているのは、誰でも必ず「イイ方」を選んでいるということ。人は誰も「悪い方」を選ぶことはない。当の本人に自覚があるかどうかは関係なく、必ず「イイ方」を選んでしまうのは人間の本能だと思っている。どんなに酷い悪行を行う場合にも、人はイイ方を選んでイイコトをしている。ただ問題なのは、それが“何に対して/誰にとって”イイ方なのか?という点が、それぞれに異なるだけなのだと思う。例えば、他人に対して無差別に通り魔的犯行等を実行する時でさえ…例えば、本人が明確な悪意を持って、他人に被害を及ぼそうとしても…仮に、やってる当人さえも「これは悪事だ」と明確に意図していても…それでも自分にとってはイイコトをしている。少なくとも、誰か他人を傷つけることで、自分にとって「気分のイイコト」をしているに違いない。他人からすれば許せないことだが。自分で自分を傷つけるような自虐・自傷的行為に至る場合にも、本人が「こんな事してちゃいけない」と思いながらやっていても、それでもそれがやめられないのは、何らか形でイイコトだからだ。自らを傷つける行為の中に、何らかの快感やカタルシス、または何者かに対する憂さ晴らし等の表現欲求を満たす動機が存在していないだろうか?自分でもいけないと思う反面でやめられないのは、心のどこかにそれをすると何かが満たされるイイコトがあって、それを繰り返し味わいたくなるからでは?人は自分にとって本当にイヤでイヤで仕方のない事はやり続けることができないと思う。世間がどう思うかではなく、他人にとって良いかどうかでもなく、本当に自分にとって心底嫌なこと/悪いことは、やろうとしない…少なくともやり続けられない。他人にとっては迷惑でも、自分にはイイコトだからやってしまう。結果的に間違いだったとしても、やる時にはイイコトだと思ってやっている。周囲が全員反対していても、それは周囲の理解力がないだけで、イイコトのはずだと思ってやってしまう。自分の正しさを認めさせる為だったり、自分の気分を良くする為にやってるだけだったり、自分の利益のみを追求しているだけかも知れないけど…それでも「自分の気分も含めた何もかもが悪くなるため」に何かをする人はいない。人がやろうとすることは全て何らかのイイコトを狙ってやっている。それが結果的に誰の得にもならなくても、何も良い事をもたらさない不毛なものであっても。とりあえず、人は何かしらイイコトがある方を選んで行動する。熟慮の結果か、浅薄な衝動かは別として。狙いが正しいかどうかは別として。それが他人にとってイイかどうかは別として、人は常に自分なりの「イイ方/イイコト」を選び続けている。その意味では「何もイイコトがないワルイコト」をやろうとする人間はいなくて、受け止める側が一方的に善悪を決めている面もある。ただ自分にとってイイコトだというだけでは、それを正当化出来るわけではないのだが。また「悪気が無いからこそタチが悪い」というケースも多々あるのだが…
2013/05/29
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昔から、女の髪やカラダから発せられる石鹸やシャンプーのニオイが好きで惹かれるという男は結構いた気がする。そして最近では、女は男の好き嫌いを無意識の内に体臭を嗅ぎ分けて判断しているという説も有力視されている。ヒトの女は男の遺伝子のパターンを体臭から区別する能力があり、自分の遺伝子と組合せの良さそうな相手のニオイを「好きなニオイ」として感じるとか。思春期を迎えた年頃の娘が、父親のニオイをクサイ!と言って嫌がるのは、実の親の遺伝子は自分に近いので、交尾する相手として相応しくないというのも潜在要因らしい。どんなに顔立ち等のカッコ良さに惚れ込んで好きになった男でも、その男の体臭を「嫌いなニオイ」だと感じる場合、女にとってその恋愛感情は長続きせずに終焉を迎えてしまう…のかも??思考というか気持ちの上では好きなはずなのに、何故か「このヒトの子供を生みたい!」とまでは思えず体の芯から高揚しない場合は、女としての本能が相手に反応しないのかも知れないな。さて、ニオイというのは無意識の内にも非常に人の印象に残るものらしい。風邪を引いて嗅覚が利かなくなると食事の味がよくわからないというのもよく聞く話。ニオイというのは意外と重要な存在なのだ。そしてこれが食べ物や芳香剤等のニオイではなく、人のカラダから発するニオイ(体臭・口臭・加齢臭等々と呼ぶモノ)となると、デリケートな側面も持ってくる。自分のニオイが他人にとって臭くないかどうかを気にする人は多いし、ニオイの好みが他人と変わっていると、変人扱いされることさえある。人間も含めた生物というものは、実は様々な生物的ニオイを発することが宿命だ。ニオイは即ち、汗などの体液や体表の菌類の存在とも深い関わりがある為、不潔感や感情的な嫌悪感にも直結し易いものだったりする。アンタのニオイは臭くて嫌い!…と言われる事は、全人格すら否定されてしまったかのような、非常に傷つく言葉になることすらある。個人的には、確かに、自分の好きないいニオイのするものは好きに決まってる。でも、あまりニオイに過敏になりたくないとも思う…かな。自分のニオイに神経質になり過ぎて、潔癖症なほど消臭剤や芳香剤を使いまくる人間にはなりたくない。そして、他人の発するニオイに対しても、口臭や体臭は勿論のこと、例え「おなら」でもそんなに過剰反応したくない。いや勿論、クサイものはどんな理屈をこねてもクサイわけで、嫌いなニオイを無理に好きになれるわけじゃない。でも、男だろうが女だろうが、生きていれば生物的な反応や作用は避けられないわけで、それにまつわるニオイが発せられるのは、普通のことであり当然のこと。ニオイの質や強弱は体調や生活習慣、季節要因等で常に変動するし、それをいちいち過剰反応して忌み嫌うような自分にはなりたくないなと、正直思う。ところで、ニオイは多少なりとも人の好悪に影響するのは間違いないが、時折、このニオイに対する執着というか、強い好みを持つ人も存在する。欲に言う「ニオイフェチ」とも言われる人というのは結構いて、特にヒトのカラダの特定のニオイに対して、人並み以上の反応をする人がいたりする。ニオイフェチな人とは、果物や香料などの「多くの人が好む香り」にこだわる人の事ではない。どこの高級ブランドの香水が好きだとかを熱心に語りたがる人に、この場で触れたいわけでもないし。要は、履き古した靴下のニオイが好きだとか、男の汗のニオイが好きな女だとか、他人のヘソのニオイを嗅ぎたがる人等々の話だ。ニオイフェチの中には、一般の人がクサイと言って嫌がるニオイが好きな人も多く、しかも、そのニオイを嗅ぐ事である種の快感というか恍惚感・高揚感を覚える人も結構いる。もしくはそのニオイを嗅ぎながら寝ると安らぎを感じるなどという人も。他人の悪臭を神経質に嫌うのは、どちらかというと女性に多いと思うのだが(男がニオイに無頓着という意味ではない)、このニオイフェチもどちらかというと女性に多いような印象がある。話が最初の方に戻るけど、もしかするとこれも、女性はヒトの体臭を嗅ぎ分ける嗅覚が発達しているからかも?なんて思ったりする。香料などの人工的なニオイではなく、ヒトの生物的なニオイに含まれる成分を無意識の内に嗅ぎ分けて、他人が感じないニオイから快・不快を敏感に感じるタイプのヒトが、意外と少なからずいるのかも。実は、これまで自分と付き合ってくれた女性の中にも、自分の汗のニオイを好んで嗅ぎたがる人がいた。自分は昔からかなりの汗かき体質で、夏場などはどうしても大量の汗をかく。汗をかけば当然汗臭くなる。自分としては汗が嫌いで汗臭さも気にしていて、汗かきである事は今でもコンプレックスのひとつ。なのにその女性は、夏場に会って自分が大汗かいてると、そのニオイをクンクンと嗅ぎながら、良いニオイだというのだ。その後ホテルに行っても、シャワーを浴びなくていいと言う。そして、汗まみれの自分と平気で抱き合い、脇の下のニオイを嗅いだりもする。そのまま脇の下をベロベロと熱心に舐めてくれたりもした。久しぶりに会った時などは、自分の脇の下の汗のニオイを、懐かしいとさえ言うのだ。そういう特異な面が嫌いな人から見れば、その女性は変態のジャンルに入るのかも知れない。多分、多くの人は汗のニオイを不快だと感じ、汗臭い男など不潔で嫌いだと言うだろう。だから、汗かきの自分は汗がコンプレックスで、汗をかく自分が嫌いだ。でも、その女性はそれが良いと言ってくれるわけで、どこまで本気にして良いのか最初は少しだけ戸惑ったが、その後は彼女と会う時は汗のニオイを抑えるデオドラントは使わずにいたりしたし、遠慮なく汗をかいて腋のニオイもその場では気にしないでいられた。自分にニオイに好感を持ってもらうのは嬉しいもの。それも、「あなたの香水(コロン)選びのセンスがいいね」等と価値判断を褒められるより、「あなたの体臭が好き」と言われる方が心底感動的に嬉しく興奮する。多分、そう言ってくれる相手は数少なくて滅多にいないだろうけど、滅多にないだけに、その「変態ぶり」は歓迎だ。
2013/05/29
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今も昔も、男女問わず、もしかしたら老若にも関わらず、「モテたい」と思う/思ってた人は多いはず。異性にモテる為に服装や髪型などを気にしたり、モテたい一新で色々とカッコつけたり、合コン等に勤しむ人もいる。モテることを自慢して驕る人もいれば、モテない事を嘆いて卑屈になる人もいる。そういう自分自身、これまで一度もモテた経験が無い。恋愛経験や女性との交際経験が皆無という意味ではないが、少なくとも女性からの愛の告白を受けたり、女性から積極的なアプローチを受けた覚えがあまりない。一番単純な例として言えば、バレンタインにマトモに本命チョコ(好意の告白を込めたチョコという意味で)を貰ったことすらないわけで。※交際真っ只中の女性から貰ったとかは除く。※さすがにその場合は余程冷めた関係じゃない限りくれる。でも、良く考えると「モテる」ってなんだろ?皆が大抵モテたい!って言うけれど、ホントにそれって大事なの?…と改めて整理して考えてみる。まず、どういう状態を「モテる」って言うか?実は、単に「恋人が一人います」という状況を指して、モテるとはあんまり言わない気がする。恋愛経験がゼロという人はモテないヤツ認定される事はあるが、1人や2人付き合ったことがある程度では、他人から「あなたはモテるね!」と感心されることもないし、自分で「オレはモテる!」なんて自覚することもあまりない。つまり、モテるという状態は、大勢からモテはやされるような人気集中を指すわけで、恋人や旦那や奥さんが1名いても、それをモテるとは言わないわけである。1人から「好き」と言われてもモテたことにはならない。複数の人との恋愛関係を経験しても、例えばそれが30年くらいの人生の中で3、4人とかいうレベルの人を、わざわざモテるとは認定しない。要するに、短期間のうちに大勢から好意を持たれて具体的なアプローチを受けるなどしないと、自分自身も周囲もモテるとは認識しない気がするわけだ。さて、このように考えてみた場合、本当に「モテる」必要ってあるのだろうか?モテることのメリットって何だろうか?勿論、誰からも一切見向きもされない寂しく悲しい状態に比べれば、その真逆となる「モテモテ状態」に憧れや羨望を覚える感情は理解できる。自分自身も「一生に一度くらいはモテてみたい!」と思ったりもする。周りのみんなから好かれて、複数の人から交際を求められる気分はどんなに良いモノだろうかと。誰からも選んでもらえずに振るい落とされていた自分が、選りどり見どりで自由に選べる立場になれるなんてどんなに気分の良いコトだろう?…とは、想像する。大勢からモテる自分は価値の高い存在だと感じられて、自分に色んな意味の自信をもたらすのだろうとは思いもする。「お前なんか要らない、お前なんか嫌い」と言われるよりは、「好きです!あなたが必要です!」と言われる方がいいに決まってる。でも、現実的な問題として、モテるのがそんなに必要なことなのか?モテるとホントに一生幸せなのか?と考えると、実はそれほどでもないような気もするわけだ。ちょっとぐらいモテたからってどうだっていうの?…と。いや、モテる人への僻み根性で否定するとか、モテない自分への慰めや諦めという意味じゃなくってね、マジで。もしも、数千・数万単位の人から愛されるぐらいのモテならば、それは十分に特殊な才能だと思うし、それは単なる恋愛レベルで終らせずに、芸能界等で活躍して成功したら良いのではないかと思うわけですよ。でも、そういうレベルほどじゃない場合、それこそ「ちょっとモテたぐらいでどうなんだろう?」とも正直思うわけなのだ。・バレンタインでいっぱいチョコを貰えた?・何度も異性から呼び出され告白されたりラブレター貰った?・交際相手が途切れることなく常に誰か側にいた?・みんなから可愛いとか格好いいと褒められて気分が良かった?・自分を好きだという異性達の中から一番の好みを選ぶ権利があった?・遊び相手にもセックス相手にも不自由したことがない?いや、これだけでもモテたこともない自分にとっては十分に羨ましい限りだと思うし、そうなればそれでかなりいい気分になれるだろうとは思うのだけど…。でも、それが真に自分の求めるモノ、目指すべき姿なのかと考えると、なんか違うような気もしちゃうわけだ。例えばの話、お金が無いと生活出来ないし、色々と不自由で困るけれど、だからといって必要以上の大金を手に入れても、必ずしも幸せになれるとは限らない。いや、金持ちには金持ちの、貧乏人には理解どころか想像すら出来ない豪華な幸せがあるのかも知れないけど、そこまで大金を持ってない自分でも、実は結構幸せなのよね。セレブリティじゃないからこそ、気楽で自由な面もあるし、小さくて安っぽく見える些細なモノからも、喜びを見出せたりしちゃうわけで。自分の身の丈に合った、必要な生活資金さえ自分で稼ぎ出せれば、何もかも安泰とは言わんけど、そんなに不満や不幸ばかりの日々じゃない。モテというのもこれに似たような面が感じられる。もし、今の日本でも一夫多妻制が一般的なら、モテる人は大勢の伴侶を確保出来るのかもね。でも、幸か不幸か今の世は一夫一婦制を採用する国が世界的にも多くて、恋愛に関しても「複数の相手をはべらせる」とか「二股三股をかける」という行為に対して拒絶反応を示す人が多い。そんな情勢の中では、結局はどんなにモテても同時に大勢と付き合うわけにもいかないし、複数の相手と同時に結婚すれば重婚の罪に問われることになる。最終的には複数を確保し続けることは出来ない。むしろ複数キープは、色んな面で多大なコスト(お金に限らない)を要する割には、見返りは多くない気がするのだ。例えば、自分という人間は一人しかおらず、自分の持ち時間は一日24時間というのが変わらない以上、恋人が10人いても10倍の恋愛やセックスを楽しめるわけじゃない。ただ、維持するコスト(手間隙)は、人数に比例して負担増になる。友達は大勢いた方がいいかも知れない。でも、恋人や伴侶は、複数を保持することを良しとする社会システムじゃないし、自分自身の実力面においても無理がある。結局一人を選ぶしかないのなら、大勢からモテてもメリットは一時的。誰か1人を選んだ時点で、他の心は離れてモテも終了していく宿命にある。(いや、既婚でもモテ続ける者もいないわけじゃないが、それはそれでまた問題の原因になったりして…)勿論、大勢からモテた方が色んな相手の中から自分にとって一番良い人を選べるではないか!という意見もあるだろう。自分の求める外見や経済力、才能、家柄等々の、様々な条件を満たす相手を選べる選択肢が増えるのだと。でも、それは理屈上の問題に過ぎないのだ。実は、人間は選択肢が多ければ多いほど良いモノを選べるわけじゃない。実は、選択肢が多過ぎると、人の心は迷いやすく最適な決断が出来なくなるからだ。また、多くの選択肢の中から一度は一つを選んで決断したとしても、その決断を後から後悔して再び迷いを持ちやすいのも、選択肢が多い場合の現実だ。じっくり選んで決めたつもりだったのに、やっぱりあっちにしとけば良かったと、迷いや後悔を覚えやすくなる。そして、いつまで経っても「モテた自分」の過去の栄光が忘れられないから、今からでも全てを捨ててやり直せるんじゃないか?なんて思ったりもする。自分の選んだ決断にさえ、覚悟を決められない要因となる。本当にキレイさっぱりとリセットして、やり直し出来ればそれも悪いとは言わないが、そう思い通りに行かないのが恋愛や結婚等の「相手のあること」だろう。人間関係で迷いや後悔を抱える事は、決して幸せな事だとは言えないと思う。誰からも好かれることが無いのは辛過ぎるが、もしもたった一人でも自分を好きになってくれたら、ある意味それだけでも十分だと言える面が多い。大勢からモテるという状態は華々しく見えるが、実は案外「どーでもいいその他大勢」からチヤホヤされてるだけという場合も多いのだ。それでもモテている最中は楽しいだろうとは思うのだけど、それが将来的にも幸せなのか?本当に自分はそんな状態になりたいのか?と改めて問うと、別に「モテる!」と他人に自慢出来るほどじゃなくてもいいなと素直に思う次第。ま、それでも「少しはモテたい」という邪心はずっと持ち続けるんだけど。恋人がいようが結婚しようが、誰かから好きだと思われたいという気持ちは、誰しも密かに持ち続ける気がするよ。
2013/05/28
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