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世の中には良い事をする人もいれば、悪い事をする人もいる…という認識を持っている人は多いと思う。また、わざと人が困るような事ばかりを狙って行い、物事を悪くしようとする人がいると思っている人も多い気がする。でも実は、どんな人間もイイコトしかしないのだと最近思うようになった。人は基本的にどんな物事や行動を選択するにしても、必ずイイ方を選ぼうとしていると思う。悪い方を選ぶヤツはいないのだ。常にイイコトだけをやっている。とは言っても、実は人間は全て善良だと言ってるつもりはない。誰もが皆善人で正しい事をしていると言ってるわけでもない。過ちを犯さないとも犯罪等の悪事を働かないとも言ってない。性善説を唱えたいワケでもない。むしろ、世の中の大抵の人間は、多少なりとも何らかの悪事を働いていると思う。それが警察に逮捕されるような事かどうかは別としてもだ。じゃあ、どういうこと?何が言いたいの?と思うよね、当然。人が何かをしようと思う時、どちらかを選ばなければならない時、その動機や理由には色々あると思う。何を目的にし、どんな意図や狙いがあるかも様々だと思う。ただ、その時の判断に共通しているのは、誰でも必ず「イイ方」を選んでいるということ。人は誰も「悪い方」を選ぶことはない。当の本人に自覚があるかどうかは関係なく、必ず「イイ方」を選んでしまうのは人間の本能だと思っている。どんなに酷い悪行を行う場合にも、人はイイ方を選んでイイコトをしている。ただ問題なのは、それが“何に対して/誰にとって”イイ方なのか?という点が、それぞれに異なるだけなのだと思う。例えば、他人に対して無差別に通り魔的犯行等を実行する時でさえ…例えば、本人が明確な悪意を持って、他人に被害を及ぼそうとしても…仮に、やってる当人さえも「これは悪事だ」と明確に意図していても…それでも自分にとってはイイコトをしている。少なくとも、誰か他人を傷つけることで、自分にとって「気分のイイコト」をしているに違いない。他人からすれば許せないことだが。自分で自分を傷つけるような自虐・自傷的行為に至る場合にも、本人が「こんな事してちゃいけない」と思いながらやっていても、それでもそれがやめられないのは、何らか形でイイコトだからだ。自らを傷つける行為の中に、何らかの快感やカタルシス、または何者かに対する憂さ晴らし等の表現欲求を満たす動機が存在していないだろうか?自分でもいけないと思う反面でやめられないのは、心のどこかにそれをすると何かが満たされるイイコトがあって、それを繰り返し味わいたくなるからでは?人は自分にとって本当にイヤでイヤで仕方のない事はやり続けることができないと思う。世間がどう思うかではなく、他人にとって良いかどうかでもなく、本当に自分にとって心底嫌なこと/悪いことは、やろうとしない…少なくともやり続けられない。他人にとっては迷惑でも、自分にはイイコトだからやってしまう。結果的に間違いだったとしても、やる時にはイイコトだと思ってやっている。周囲が全員反対していても、それは周囲の理解力がないだけで、イイコトのはずだと思ってやってしまう。自分の正しさを認めさせる為だったり、自分の気分を良くする為にやってるだけだったり、自分の利益のみを追求しているだけかも知れないけど…それでも「自分の気分も含めた何もかもが悪くなるため」に何かをする人はいない。人がやろうとすることは全て何らかのイイコトを狙ってやっている。それが結果的に誰の得にもならなくても、何も良い事をもたらさない不毛なものであっても。とりあえず、人は何かしらイイコトがある方を選んで行動する。熟慮の結果か、浅薄な衝動かは別として。狙いが正しいかどうかは別として。それが他人にとってイイかどうかは別として、人は常に自分なりの「イイ方/イイコト」を選び続けている。その意味では「何もイイコトがないワルイコト」をやろうとする人間はいなくて、受け止める側が一方的に善悪を決めている面もある。ただ自分にとってイイコトだというだけでは、それを正当化出来るわけではないのだが。また「悪気が無いからこそタチが悪い」というケースも多々あるのだが…
2013/05/29
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昔から、女の髪やカラダから発せられる石鹸やシャンプーのニオイが好きで惹かれるという男は結構いた気がする。そして最近では、女は男の好き嫌いを無意識の内に体臭を嗅ぎ分けて判断しているという説も有力視されている。ヒトの女は男の遺伝子のパターンを体臭から区別する能力があり、自分の遺伝子と組合せの良さそうな相手のニオイを「好きなニオイ」として感じるとか。思春期を迎えた年頃の娘が、父親のニオイをクサイ!と言って嫌がるのは、実の親の遺伝子は自分に近いので、交尾する相手として相応しくないというのも潜在要因らしい。どんなに顔立ち等のカッコ良さに惚れ込んで好きになった男でも、その男の体臭を「嫌いなニオイ」だと感じる場合、女にとってその恋愛感情は長続きせずに終焉を迎えてしまう…のかも??思考というか気持ちの上では好きなはずなのに、何故か「このヒトの子供を生みたい!」とまでは思えず体の芯から高揚しない場合は、女としての本能が相手に反応しないのかも知れないな。さて、ニオイというのは無意識の内にも非常に人の印象に残るものらしい。風邪を引いて嗅覚が利かなくなると食事の味がよくわからないというのもよく聞く話。ニオイというのは意外と重要な存在なのだ。そしてこれが食べ物や芳香剤等のニオイではなく、人のカラダから発するニオイ(体臭・口臭・加齢臭等々と呼ぶモノ)となると、デリケートな側面も持ってくる。自分のニオイが他人にとって臭くないかどうかを気にする人は多いし、ニオイの好みが他人と変わっていると、変人扱いされることさえある。人間も含めた生物というものは、実は様々な生物的ニオイを発することが宿命だ。ニオイは即ち、汗などの体液や体表の菌類の存在とも深い関わりがある為、不潔感や感情的な嫌悪感にも直結し易いものだったりする。アンタのニオイは臭くて嫌い!…と言われる事は、全人格すら否定されてしまったかのような、非常に傷つく言葉になることすらある。個人的には、確かに、自分の好きないいニオイのするものは好きに決まってる。でも、あまりニオイに過敏になりたくないとも思う…かな。自分のニオイに神経質になり過ぎて、潔癖症なほど消臭剤や芳香剤を使いまくる人間にはなりたくない。そして、他人の発するニオイに対しても、口臭や体臭は勿論のこと、例え「おなら」でもそんなに過剰反応したくない。いや勿論、クサイものはどんな理屈をこねてもクサイわけで、嫌いなニオイを無理に好きになれるわけじゃない。でも、男だろうが女だろうが、生きていれば生物的な反応や作用は避けられないわけで、それにまつわるニオイが発せられるのは、普通のことであり当然のこと。ニオイの質や強弱は体調や生活習慣、季節要因等で常に変動するし、それをいちいち過剰反応して忌み嫌うような自分にはなりたくないなと、正直思う。ところで、ニオイは多少なりとも人の好悪に影響するのは間違いないが、時折、このニオイに対する執着というか、強い好みを持つ人も存在する。欲に言う「ニオイフェチ」とも言われる人というのは結構いて、特にヒトのカラダの特定のニオイに対して、人並み以上の反応をする人がいたりする。ニオイフェチな人とは、果物や香料などの「多くの人が好む香り」にこだわる人の事ではない。どこの高級ブランドの香水が好きだとかを熱心に語りたがる人に、この場で触れたいわけでもないし。要は、履き古した靴下のニオイが好きだとか、男の汗のニオイが好きな女だとか、他人のヘソのニオイを嗅ぎたがる人等々の話だ。ニオイフェチの中には、一般の人がクサイと言って嫌がるニオイが好きな人も多く、しかも、そのニオイを嗅ぐ事である種の快感というか恍惚感・高揚感を覚える人も結構いる。もしくはそのニオイを嗅ぎながら寝ると安らぎを感じるなどという人も。他人の悪臭を神経質に嫌うのは、どちらかというと女性に多いと思うのだが(男がニオイに無頓着という意味ではない)、このニオイフェチもどちらかというと女性に多いような印象がある。話が最初の方に戻るけど、もしかするとこれも、女性はヒトの体臭を嗅ぎ分ける嗅覚が発達しているからかも?なんて思ったりする。香料などの人工的なニオイではなく、ヒトの生物的なニオイに含まれる成分を無意識の内に嗅ぎ分けて、他人が感じないニオイから快・不快を敏感に感じるタイプのヒトが、意外と少なからずいるのかも。実は、これまで自分と付き合ってくれた女性の中にも、自分の汗のニオイを好んで嗅ぎたがる人がいた。自分は昔からかなりの汗かき体質で、夏場などはどうしても大量の汗をかく。汗をかけば当然汗臭くなる。自分としては汗が嫌いで汗臭さも気にしていて、汗かきである事は今でもコンプレックスのひとつ。なのにその女性は、夏場に会って自分が大汗かいてると、そのニオイをクンクンと嗅ぎながら、良いニオイだというのだ。その後ホテルに行っても、シャワーを浴びなくていいと言う。そして、汗まみれの自分と平気で抱き合い、脇の下のニオイを嗅いだりもする。そのまま脇の下をベロベロと熱心に舐めてくれたりもした。久しぶりに会った時などは、自分の脇の下の汗のニオイを、懐かしいとさえ言うのだ。そういう特異な面が嫌いな人から見れば、その女性は変態のジャンルに入るのかも知れない。多分、多くの人は汗のニオイを不快だと感じ、汗臭い男など不潔で嫌いだと言うだろう。だから、汗かきの自分は汗がコンプレックスで、汗をかく自分が嫌いだ。でも、その女性はそれが良いと言ってくれるわけで、どこまで本気にして良いのか最初は少しだけ戸惑ったが、その後は彼女と会う時は汗のニオイを抑えるデオドラントは使わずにいたりしたし、遠慮なく汗をかいて腋のニオイもその場では気にしないでいられた。自分にニオイに好感を持ってもらうのは嬉しいもの。それも、「あなたの香水(コロン)選びのセンスがいいね」等と価値判断を褒められるより、「あなたの体臭が好き」と言われる方が心底感動的に嬉しく興奮する。多分、そう言ってくれる相手は数少なくて滅多にいないだろうけど、滅多にないだけに、その「変態ぶり」は歓迎だ。
2013/05/29
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今も昔も、男女問わず、もしかしたら老若にも関わらず、「モテたい」と思う/思ってた人は多いはず。異性にモテる為に服装や髪型などを気にしたり、モテたい一新で色々とカッコつけたり、合コン等に勤しむ人もいる。モテることを自慢して驕る人もいれば、モテない事を嘆いて卑屈になる人もいる。そういう自分自身、これまで一度もモテた経験が無い。恋愛経験や女性との交際経験が皆無という意味ではないが、少なくとも女性からの愛の告白を受けたり、女性から積極的なアプローチを受けた覚えがあまりない。一番単純な例として言えば、バレンタインにマトモに本命チョコ(好意の告白を込めたチョコという意味で)を貰ったことすらないわけで。※交際真っ只中の女性から貰ったとかは除く。※さすがにその場合は余程冷めた関係じゃない限りくれる。でも、良く考えると「モテる」ってなんだろ?皆が大抵モテたい!って言うけれど、ホントにそれって大事なの?…と改めて整理して考えてみる。まず、どういう状態を「モテる」って言うか?実は、単に「恋人が一人います」という状況を指して、モテるとはあんまり言わない気がする。恋愛経験がゼロという人はモテないヤツ認定される事はあるが、1人や2人付き合ったことがある程度では、他人から「あなたはモテるね!」と感心されることもないし、自分で「オレはモテる!」なんて自覚することもあまりない。つまり、モテるという状態は、大勢からモテはやされるような人気集中を指すわけで、恋人や旦那や奥さんが1名いても、それをモテるとは言わないわけである。1人から「好き」と言われてもモテたことにはならない。複数の人との恋愛関係を経験しても、例えばそれが30年くらいの人生の中で3、4人とかいうレベルの人を、わざわざモテるとは認定しない。要するに、短期間のうちに大勢から好意を持たれて具体的なアプローチを受けるなどしないと、自分自身も周囲もモテるとは認識しない気がするわけだ。さて、このように考えてみた場合、本当に「モテる」必要ってあるのだろうか?モテることのメリットって何だろうか?勿論、誰からも一切見向きもされない寂しく悲しい状態に比べれば、その真逆となる「モテモテ状態」に憧れや羨望を覚える感情は理解できる。自分自身も「一生に一度くらいはモテてみたい!」と思ったりもする。周りのみんなから好かれて、複数の人から交際を求められる気分はどんなに良いモノだろうかと。誰からも選んでもらえずに振るい落とされていた自分が、選りどり見どりで自由に選べる立場になれるなんてどんなに気分の良いコトだろう?…とは、想像する。大勢からモテる自分は価値の高い存在だと感じられて、自分に色んな意味の自信をもたらすのだろうとは思いもする。「お前なんか要らない、お前なんか嫌い」と言われるよりは、「好きです!あなたが必要です!」と言われる方がいいに決まってる。でも、現実的な問題として、モテるのがそんなに必要なことなのか?モテるとホントに一生幸せなのか?と考えると、実はそれほどでもないような気もするわけだ。ちょっとぐらいモテたからってどうだっていうの?…と。いや、モテる人への僻み根性で否定するとか、モテない自分への慰めや諦めという意味じゃなくってね、マジで。もしも、数千・数万単位の人から愛されるぐらいのモテならば、それは十分に特殊な才能だと思うし、それは単なる恋愛レベルで終らせずに、芸能界等で活躍して成功したら良いのではないかと思うわけですよ。でも、そういうレベルほどじゃない場合、それこそ「ちょっとモテたぐらいでどうなんだろう?」とも正直思うわけなのだ。・バレンタインでいっぱいチョコを貰えた?・何度も異性から呼び出され告白されたりラブレター貰った?・交際相手が途切れることなく常に誰か側にいた?・みんなから可愛いとか格好いいと褒められて気分が良かった?・自分を好きだという異性達の中から一番の好みを選ぶ権利があった?・遊び相手にもセックス相手にも不自由したことがない?いや、これだけでもモテたこともない自分にとっては十分に羨ましい限りだと思うし、そうなればそれでかなりいい気分になれるだろうとは思うのだけど…。でも、それが真に自分の求めるモノ、目指すべき姿なのかと考えると、なんか違うような気もしちゃうわけだ。例えばの話、お金が無いと生活出来ないし、色々と不自由で困るけれど、だからといって必要以上の大金を手に入れても、必ずしも幸せになれるとは限らない。いや、金持ちには金持ちの、貧乏人には理解どころか想像すら出来ない豪華な幸せがあるのかも知れないけど、そこまで大金を持ってない自分でも、実は結構幸せなのよね。セレブリティじゃないからこそ、気楽で自由な面もあるし、小さくて安っぽく見える些細なモノからも、喜びを見出せたりしちゃうわけで。自分の身の丈に合った、必要な生活資金さえ自分で稼ぎ出せれば、何もかも安泰とは言わんけど、そんなに不満や不幸ばかりの日々じゃない。モテというのもこれに似たような面が感じられる。もし、今の日本でも一夫多妻制が一般的なら、モテる人は大勢の伴侶を確保出来るのかもね。でも、幸か不幸か今の世は一夫一婦制を採用する国が世界的にも多くて、恋愛に関しても「複数の相手をはべらせる」とか「二股三股をかける」という行為に対して拒絶反応を示す人が多い。そんな情勢の中では、結局はどんなにモテても同時に大勢と付き合うわけにもいかないし、複数の相手と同時に結婚すれば重婚の罪に問われることになる。最終的には複数を確保し続けることは出来ない。むしろ複数キープは、色んな面で多大なコスト(お金に限らない)を要する割には、見返りは多くない気がするのだ。例えば、自分という人間は一人しかおらず、自分の持ち時間は一日24時間というのが変わらない以上、恋人が10人いても10倍の恋愛やセックスを楽しめるわけじゃない。ただ、維持するコスト(手間隙)は、人数に比例して負担増になる。友達は大勢いた方がいいかも知れない。でも、恋人や伴侶は、複数を保持することを良しとする社会システムじゃないし、自分自身の実力面においても無理がある。結局一人を選ぶしかないのなら、大勢からモテてもメリットは一時的。誰か1人を選んだ時点で、他の心は離れてモテも終了していく宿命にある。(いや、既婚でもモテ続ける者もいないわけじゃないが、それはそれでまた問題の原因になったりして…)勿論、大勢からモテた方が色んな相手の中から自分にとって一番良い人を選べるではないか!という意見もあるだろう。自分の求める外見や経済力、才能、家柄等々の、様々な条件を満たす相手を選べる選択肢が増えるのだと。でも、それは理屈上の問題に過ぎないのだ。実は、人間は選択肢が多ければ多いほど良いモノを選べるわけじゃない。実は、選択肢が多過ぎると、人の心は迷いやすく最適な決断が出来なくなるからだ。また、多くの選択肢の中から一度は一つを選んで決断したとしても、その決断を後から後悔して再び迷いを持ちやすいのも、選択肢が多い場合の現実だ。じっくり選んで決めたつもりだったのに、やっぱりあっちにしとけば良かったと、迷いや後悔を覚えやすくなる。そして、いつまで経っても「モテた自分」の過去の栄光が忘れられないから、今からでも全てを捨ててやり直せるんじゃないか?なんて思ったりもする。自分の選んだ決断にさえ、覚悟を決められない要因となる。本当にキレイさっぱりとリセットして、やり直し出来ればそれも悪いとは言わないが、そう思い通りに行かないのが恋愛や結婚等の「相手のあること」だろう。人間関係で迷いや後悔を抱える事は、決して幸せな事だとは言えないと思う。誰からも好かれることが無いのは辛過ぎるが、もしもたった一人でも自分を好きになってくれたら、ある意味それだけでも十分だと言える面が多い。大勢からモテるという状態は華々しく見えるが、実は案外「どーでもいいその他大勢」からチヤホヤされてるだけという場合も多いのだ。それでもモテている最中は楽しいだろうとは思うのだけど、それが将来的にも幸せなのか?本当に自分はそんな状態になりたいのか?と改めて問うと、別に「モテる!」と他人に自慢出来るほどじゃなくてもいいなと素直に思う次第。ま、それでも「少しはモテたい」という邪心はずっと持ち続けるんだけど。恋人がいようが結婚しようが、誰かから好きだと思われたいという気持ちは、誰しも密かに持ち続ける気がするよ。
2013/05/28
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楽天って、オ・ナ・ニーを中点抜きで書くと、「わいせつ、もしくは公序良俗に…」と言われて書き込めんのよね。…という前置きをしつつ、自慰の話。自慰は「手淫」という表現もするくらいで、最もスタンダードで手軽なやり方は、「手でやる」…という方法なのは間違いない。簡単だし、道具等の準備も要らないし、後始末も比較的すぐに終るので、まぁ、これはコレでいい。でも、男にとって「自分の手」と「女のアソコ」は感触的にかけ離れているのも確かで、一番手軽な「乾いた手の硬い皮膚や角質」で握って扱くという手段は、「濡れた膣の粘膜」で包み込んで摩擦される快感のシミュレーションとしては再現度が低い。そこで、古来から(?)男共は、どうにかして女から得られる快感に近いものを再現出来ぬものかと、愚かしくも涙ぐましい(?)試行錯誤を繰り広げてきたと言える。例えば、板こんにゃくに穴を開けて突っ込んだり、ミミズ千匹よろしく、緩めに冷ましたカップ麺の中に浸してみたりとか、板こんにゃくがイマイチなら糸こんにゃく(しらたき)ならどうか?とか、柔らかい座布団を丸めた中心部の穴に差し込んではどうかとか、そんな事を試した事がある男も少なくはないはずだ。そして大抵は、思ったほどキモチ良くなくって失望し、後に残った残骸を冷静になってみて、後悔と虚しさにまみれながら後始末したりして。その点、最近は出来の良い『オナホール』が比較的手頃な価格帯から市販されていて、昔のような苦労なく、自慰が可能になっていてイイ時代になったもんである。アダルトショップ等でジョーク・グッツという名目で売られているそれらは、本当にジョークかと思うような…いや、「冗談じゃねぇぞ!」と怒りたくなるような、実用性の乏しいモノも極稀にある。けれど、多くは質感、形状共によく研究(?)されていて、かなりの「実用性」を向上させる進化を遂げている。昔は、物凄く怪しい店で一万円に近いような高額で売られている割に、素材も形状も粗末で品質的に粗悪な物も多かった。しかし最近は、ネットで数百円から手に入るし、そんな安い価格設定のものですら、昔の数千円クラスより質的には安定している。今でも昔並みに高額なオナホは売られているが、それは本当に素材や形状設計等に拘った品が多くて、高いとは思うものの、それなりの価値や耐久性があるものだったりする。自分が初めて「これだ!」と思えるオナホに出会えたのは、まだそれが1個8000円もする時代だった。今ほどネットで手軽に買えるような時代でもなく、繁華街の裏路地にひっそりと存在する、怪しげな「大人のおもちゃ」と書かれた店で手に入れたモノ。でも、これは(当時としては)本当にキモチ良くて、使い始めた当時は「コレがあれば女なんて要らないんじゃね?」なんて、思いながら毎晩いそしんだものだった。勿論、高額なので使い捨てになんて出来るはずが無い。洗いながら何度も使い込んで、破れてダメになるまで使い切った。今は、それよりも遥かに質の良いオナホールが、数分の一の価格で、種類も豊富で選び放題。男の性欲処理の上では、随分と楽に「質のいい快感」を得られるようになった。でもその分、それが当たり前過ぎて、ありがたみがなくなったかも?とも思うのは単に自分が年を取ったということか?…かも知れない。まぁ、今の若い人達にとっては、性的快感はオナホで“とりあえず簡単に”体感することが出来る時代なのかも知れない。昔の自分らのように、無理して頑張って女を口説き落としたり、騙して押し倒してでもSEXしたい!と思うほどの快楽への恋焦がれを抱えずに済む時代?それが若い男の精神安定上、いい事ような、よくないような…複雑なところ。自分のような女にモテないオッサンには、性風俗に高額注ぎ込んで性感染症貰ってきたりしないで済む捌け口として便利なのだけど。
2013/03/18
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楽天ブログの機能なんだけど、自分のブログに自分でコメント(返事)をしても、「あなたのブログにコメントが…」なんてお知らせメールが来るんだね。言われなくてもわかってるよ!…と言いたくなる無駄な機能かも?まぁ、ブログ主とそれ以外の人のコメントを区別なんてしてないだけなんだろうけど。
2013/03/18
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仕事でも遊びでも恋愛でも家庭生活でも、ポリシーがある人とない人では、色々と細かい事の積み重ねが違ってくる気がする。ポリシーというと、独り善がりなオレ様節的自己主張をイメージする人もいるかも知れんけど、そういうのではなくてね。なんというか、自分なりの「明確な方針」…みたいなもの。漠然と自分の好き嫌いを我が侭に主張することじゃなく、必要があれば他人にもハッキリ説明出来るような、理路整然とした「自分としての約束事」みたいなもの。これが無い、または曖昧なままの人は、物事の程度を弁えることがなく、感情や感覚だけで衝動的に行動を決めてしまう面が増えるような気が。「私ってこういうヒトだから」と、相手に理解を要求して押し付けるようなポリシーなら要らない。そうじゃなくて、自分として自らに課すルールというか、やる/やらないの「線引き」というか、自分の行動を決める為の、判断の境界線としてのポリシー。それがきちんと備わっていない人の言動は、アテに出来ない部分が多くて信用し切れない所がある。阿吽の呼吸だとか、暗黙の了解だとか、そういうのもポリシーを感じられる相手としか共有出来ない面がある。いちいち主張して宣伝して広めるようなモノではないのだけど、心の中に自分なりのポリシーを秘めている人の方が、色んな意味で「共犯者」になれるような信頼を感じる。自分の中にも自らに課すポリシーを設定したいと常に思う。
2013/03/15
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実際に取得出来てるかどうかは別として、女性には「生理休暇」というものがある。これは労働基準法で定められたものであり、女性の生理日に体調不良等で就業が「著しく困難」な場合には、女性は休暇を申請出来るというもの。男にはない権利なのだけど、実は毎月…とまでは言わないが、時々自分は勝手に「生理休暇」を取っていたりする(笑)。男なので月経はないのだけど、男の生理現象の衝動を鎮める為に、仕事に支障のない日を選んで、自主的に有休を使って生理休暇を取っている。有休申請理由は「私用の為」としか申告しないけど。その生理休暇に何をしているか?実は、ひとりでラブホにフリータイムで入室して、平日昼間の数時間、エロビデオ等を観ながら性欲処理にいそしんだりしている。ホントはSEXできるパートナーが一緒ならいいんだけど、残念ながらそういうのに付き合ってくれるような相手などいないので、一人で気ままな数時間を過ごす事になる。そんなの休み取らなくても家で夜にでもすればいいじゃん?と思うかも知れないが、自宅には常に家族が居るし、長時間一人になれる場所も時間も今は自宅にはない為、そういうエロい欲求を心置きなく満たす機会が滅多になかったりする。だから、一人の時間を得る為に、時々自分の権利を行使して、自費で時間と空間を確保して、一日中自慰行為を堪能したりしてる。男は月経で生理痛に悩まされたりはしないけれど、性欲を適切に処理出来ずに悶々としてしまうと、肉体的には問題なくても、精神的にイライラやストレスに苛まれたり、下半身が疼いて他の物事に集中出来なくなったりすることがある。自分は特にエロい人間なので、普通の男以上なのかも知れんけど。だから広い意味では性的欲求不満も男の生理だと勝手に解釈し、たまに休暇を貰うことにしてる。実態は誰にも内緒だけど。
2013/03/14
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ある大手企業の子会社の話。子会社の新社長として親会社からある人物が送り込まれてきた。恐らく子会社の経営改革か何かを命じられ、もしかするとリストラ等も含めた合理化(人員削減)等もやるべきこととして背負ってきたのかも知れない。その新社長は、まず会社の実態を把握すべく情報収集に乗り出した。どんな会社にも日々様々な問題が発生し、時にはその対処がうまく行かずに失敗することもある。そういった問題を全て把握して、原因追及と抜本対策をしようというのだ。そして新社長は社内にこういう指示をした。「どんな問題でも全て必ず私に報告するように」と。問題やミスを一切自分には隠すなと。これ自体は実に正しい事だと思える。どんな組織でも、隠蔽体質は問題の解決に繋がらず、悪事の温床になる場合さえある。ミスを隠して誤魔化すことは組織が内部から腐っていく要因とも言える。その根本を正すのは間違いではない。しかし、新社長のその後やり方には問題があったと思う。新社長からの指示に従い、社員達はそれに対応した。正直に客先からのクレーム発生等の問題を報告し、細かなミスや問題も業績に影響する大きな課題も、全て新社長に直接報告を入れたのだ。だが、それに対して新社長は、報告した社員や問題を起こした社員に対して激しい罵詈雑言を浴びせて責任追及しまくったのだ。「なんでこんな問題を起こしたんだ!そんなバカは今すぐここから飛び降りて死んでしまえ!」などといった感じで、全ての問題の全関係者を会議に呼び出しては延々と何時間も罵った。何か報告がある度にその犯人探しのような追及をし、その責任者を罵倒し侮辱しまくったのだ。いまなら「パワハラ」と言われて訴えられてもおかしくないような強烈な言葉で、相手を何時間も拘束して怒鳴り続けたと聞いている。それに耐えられず心の病になって長期入院した者もいたと聞く。優秀な人間ほど、新社長のやり方を諌めようと口出ししたようだが、そういう人間は最終的に殆どが退職した。自ら辞めたのか、辞めさせられたのかは知らないが。さて、それだけ厳しく問題を洗い出し、その原因となった関係者に厳しく責任追及した結果、その子会社はどうなっただろうか?全ての問題や原因を新社長は把握できて、その根本を解決する改革が出来ただろうか?実際は、最初こそ新社長の指示を真に受けて、正直に全てを報告していた社員だったが、そのうち新社長には大事な事は何も報告しなくなった。特に問題が大きければ大きいほど、核心に触れる事は報告しないで密かに処理するようになった。当然だろう。バカ正直に報告すれば、必要以上に罵声を浴びせられ、少々のミスでも「責任取って死ぬか?!」等と言われるのだ。しかも正直に報告したからといって、その新社長が自ら手を打って問題解決してくれるワケじゃないのだ。報告して新社長の逆鱗に触れて酷い目に遭った挙句、その問題への対応は結局、自分で全部やる羽目になるだけ。だったら何も言わずに対処して終らせた方がイイに決まってる。新社長は、事実を全て知りたがって報告を求めたが、結果的には、事実を何も報告してもらえなくなったのだ。どんな会社でもそうだと思うが、社員も最初から悪気があってミスをするわけではない。仕事をする上で起こる様々な問題だって、職務を怠けてたせいで起こるばかりではない。熟慮して悩んだ末に判断し、その時にはベストだと思ったことが、やむを得ぬ情勢変化などで結果的に失敗することだってある。その結果だけを責められてもどうにも出来ない事は多い。ましてや、それで人格までも否定されるような責め方をされたのでは、誰だって堪ったもんじゃない。事実や実態を把握したいのであれば、まずは淡々とそれに徹するべきだと思う。正直に報告した者を激しく責めてしまっては、正直に報告する気が失せるのが人情というものだ。「本当の事を言うと酷い目にあって損をする」という状況を作り出してしまったら、どれだけ強く「報告しろ!」と詰め寄っても、それに素直に従う者はいなくなるだろう。それに「過ぎてしまった事」や「起きてしまった事」を、後から激しく責め立てるのも人心掌握上は最悪だと思う。問題は問題として誰かに責任はあるわけで、それを明確にするのは今後の対策の為に悪いことじゃない。でも、今後起きないようにするにはどうしたら良いかと指導するのではなく、既に起きた事を責めて単に責任取れというだけじゃ、追い詰められるだけで救いが無さ過ぎる。これでは、新社長の為にも仕事をもっと頑張ろう!という気にもならない。新社長に評価してもらえるいい仕事をしようと思う前に、新社長の罵詈雑言から自分の身を守るにはどうしたら良いかを先に考えてしまう。恋愛でも、自分と一緒にいない時の恋人が何をしているか気になって仕方の無い人が時々いる。恋人の全てを知りたがって勝手にケータイを覗き見たり、事細かに今日一日の出来事などの報告を求め、あれこれと詮索したがる人が。相手の言動を疑って、何か少しでも怪しいことがあると、必要以上に追求して相手の行動を責めたり。「お互い、隠し事は一切せずに何でも報告し合おうね!」と、ことさら「相手の全てを掌握する」という事に執着を見せる恋人達も少なくない。でも知ろうとするあまり、その追求を厳しくし過ぎてしまうと却って「信頼関係」という意味では逆効果になる。相手の行動を逐一チェックして裏切りがないかどうか監視しようとし過ぎることで、必要以上に詮索して、細かいことでも相手を強く責めてしまう。相手がウソを言えば怒るのは当然だろうが、正直に言っても疑ったり、正直に明かした行動を批判したり…。そんなことばかりしていると、特に何もやましい点がなくっても、相手に何かを知られる度に面倒が起こるので、「こいつには何も知らせたくない」という気分を相手に根深く植え付けてしまう。本当の事を知りたいのなら、相手と自分に間に信頼関係が必要だ。相手に疑惑を抱きながら相手の報告を信じる事は無理な話だし、自分に危害を加えるかも知れないような信頼出来ない相手に本当の事など言えるはずがない。勿論、「何を聞いても絶対に怒るな」というのはこれも無理で、知ればあまりの酷い内容に愕然とすることだってあるだろう。でも、何を言っても怒るに決まってるという状況では、誰だって言うに言えなくなってしまう。少なくとも相手から「この人にはちゃんと報告しよう」と思ってもらえる信頼関係を、まずは先に構築しなければ、全てを知る権利なんてないのだ。人は「報告すれば最終的には物事が良い方向に進む」と感じられなければ言いづらい事を言えるものではない。例えば自分の罪を告白する時でも、「言ったら全て終わり」というものでは言うに言えない。「言えば最初は辛くても、先々の為には言った方がいい」と思えればこそ、勇気を出して言おうと思うのではないか。良いコトを言うのは簡単だ。それはむしろ自慢になるのだから。でも悪いコトを言うには、リスクを背負う。そのリスクは信頼の出来る相手に対してしか負いたくないのが人の心の常じゃないだろうか。恋人を信用出来ないからこそ、事実を全てを知りたいと思って過度な詮索するのかも知れない。が、自分が信用出来ないと思っている相手なら、きっと相手も自分を信用出来ない…その状態では、何もかも知ろうと足掻けば足掻くほど、どんどん本当の事がわからなくなるような気がする。自分のことしか考えずに身勝手に報告を求める相手には、本当のことなど報告したくないからだ。
2013/03/08
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かなり以前の話だけど、協力会社(要は下請けさん)と一緒に組んで仕事をすることがあった。基本的に客先から依頼で現場に出張して作業する外回りの仕事だったのだけど、社員だけでは回りきれない件数の仕事を、協力会社に委託してやってもらうという形だった。自分は末端の一社員に過ぎないので詳しくは知らないが、多分、委託1件あたりいくらという感じで値段決まっていて、その協力会社と取引をしていたのだと思う。企業というものは営利を目的として、利潤を追求するのを宿命としているものである。売上が大きくてもコストがかかり過ぎては利益は出ない。そして、仕事や商品の品質や価値が低ければ顧客が離れてしまって商売にならない。だから、常にコスト低減と品質・サービスの向上を目指し続けなければならない。それは自社製品や自社の社員だけではなく、協業取引先にも協力を求めていくものだ。それ自体は悪いことじゃない。少しでも無駄を無くそうとしたり、少しでも質を上げていこうとする努力は常にお互いに必要だ。でも、得てしてそれを要求し過ぎてしまうばかりに、逆効果になることもあるように思う。仕事を依頼する側は、もっと安く、もっと質が良いモノを求めたくなる。特に自分のところの業績がイマイチだったり、同業他者に負けていると感じている時はそれが顕著にシビアになってくる。例えば売上が思うように上がらない場合、それでも赤字にならないように利益を確保しようと思えば、コストを下げるしかない。コストとは製品を作る材料だったり、作業をする人員の人件費だったりと色々だが。その矛先は当然、取引先に支払う費用にも及ぶ。取引先の協力会社に、1件あたりの委託料の値下げを要求する。「もう少し安くしてくれ?」と。御社も合理化や効率化をしていただいて、コストを抑える企業努力をしてくれないかと。それを言われる側は収入が減るので内心嫌に決まっているが、その話を簡単に断って今後の仕事が来なくなっても困る。相手が大事な取引先であればあるほど、相手の心証を悪くして仕事が減ったりしては困るのも確かだ。持ちつ持たれつの関係である以上、ある程度の無理難題も呑むしかない。立場が弱ければ弱いほど。結局、仕事の内容は今まで通りで、値段だけ下げることになる。今までと同じ仕事をしていても、入ってくる収入は少なくなる。それでも値下げを蹴った事で、仕事がゼロになるよりはいいと。しかし、要求はそれだけに留まらない。値下げをしたからといって、質を落として良いというわけではない。値段を下げた上に、もっと質の高い仕事をしろと求められる事はビジネスではよくあることなのだ。顧客のニーズに合わせて、こんなことやあんなこともしろと。この仕事には今後はこんな工程も追加してくれと。もっと早く出来ないか?もっとミスを減らせないか?もっとこんなサービスもやってくれないか?仕事はどんどん高度なものを求められていく。しかしそれでもその分値段を高くしてくれと言えない場合もある。むしろ、しばらくすると「さらにコスト落とせませんか?」なんて要求されたりする。そんな感じで仕事を請け負う協力会社の人を見ていると、露骨に態度が変わるわけではないけれど、やっぱり微妙にモチベーションが落ちているのを感じるものだ。どんどん要求が厳しくなる。そりゃあ、競争社会を勝ち抜く上で、常にレベルアップが必要なのはわかっているだろう。でも、仕事がどんどん大変になり、その上、手に入るお金は減るとなれば、誰だってジリ貧感を感じて嫌になるに決まってる。本当にいつまでもこんな事を続けなけりゃいけないのか?大事な取引先ではあるけれど、本当にこの相手といつまでも付き合っていて良いのだろうか?と。もっと他に良い仕事や取引先があるんじゃないか?と。自分達の未来に不安を感じて、次なる新天地を求めるべきでは?と駆り立てられるものを感じるに違いない。結果的に、要求通りに委託費は値下げとなり、「もっとやれ!」といった品質アップ要求も一応は相手も承知して呑んだ形にはなる。依頼側は安くなって質が上がると喜んで、何かを改善・改革したような気分を味わう。しかし実態はどうだろうか?表面的には相手の言いなりになって全ての要求を受け入れたような体裁になっているが、内心にふつふつと湧き起こる考えは、「ふざけんなよ、こんなのできるか!」というものや、「もう他を探してそっちに乗り換えることも視野に入れよう」という決意だったりする。結果的に、アレコレと求め過ぎてしまった結果、ヤル気のない仕事ぶりが増え、表面的な体裁はともかく、実質的にはあらゆる面で質が低下し、「やったフリ」などをして手抜き仕事も増えて行く。金にもならない努力なんて、ばかばかしいと思われてしまうのだ。恋愛でも似たような事が起きると思う。恋人にあれこれと愛情の証を要求して、自分を裏切ることが無いように束縛して何も出来ないようにさせて、私のことが好きならコレぐらい努力しても当然でしょ?という態度を見せて。もっと愛してくれ。もっと自分だけを見てくれ。他の事はどうでもいいから、もっと自分だけを最優先させてくれと。お互いの為だと言いながら、相手の自由を奪い取って、自分が満足する為に相手をどこまでも利用して絞り上げていく。そんな関係が長期的に良いはずがない。でも、それを求めてしまう消耗戦の恋愛関係は少なくなかったりする。自分が何かを求めるなら、相手にも何か喜びや意欲に繋がるものを与えたり提案したりするべきだと思う。例えば、値下げを要求するのなら、その分、仕事の幅や数を拡大させて相手にも利益が出るよう別の面で取り計らったり、こちらから提供する支援も強化するなど、相手にとってのメリットもセットで具体的に示すべきだと思う。要求する一方ではなく、相手の願いも聞き入れたり、相手の協力や尽力に感謝して、自分なりの支援を惜しまない姿勢も見せるべきだと思う。相手に努力ばかりを要求して厳しく締め上げれば結果が良くなるというものじゃない。時には小さな事は許すような寛大さがないと、相手の気持ちはどんどん離れていってしまう。立場が強かろうが弱かろうが、一方的な要求は長続きしない。厳し過ぎる要求は、どんなに強引に押し通しても、表向きの形だけで中身の伴わないものになる。それはビジネスの取引関係でも勿論のこと、恋愛などのプライベートな人間関係でも同じだと思う。最初は「好きだから」「嫌われたくないから」「別れたくないから」という思いで相手の要求を一生懸命聞こうとするが、それがエスカレートして要求でがんじがらめになってくると、だんだん一緒にいるもの辛くなってくる。自分なりに精一杯努力しても「足りない」と言われ、「もっと出来るはず」「どうしてこの程度が出来ないの?」なんて、やって当然のように要求が続いてくると誰でも段々嫌になる。恋愛は本来、メリット/デメリットでするものではないが、それでもあからさまに自分の負担が大きくて、その割に得るモノがあまりない相手とは、付き合い続けることに疑問が湧いて来る。相手に愛情を要求し過ぎると、逆に相手の愛情が冷めてしまうわけだ。
2013/03/08
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先日職場の飲み会(送別会)で、「意外とお酒飲むんだね。飲んだりしない人だと思ってた」なんて言われた。こんな風に言われるの、初めてじゃない。今までに何度似たようなことを言われたか。どうやら、夜遊びしたり大酒飲んだりしない真面目な人間だと思い込まれていたらしい。昔から何度も、色んな人から似たような先入観を持たれて来たけど、今でもそのイメージは有効らしい。酒なんて飲まなそうに見える。カラオケなんて歌わないと思ってた。スナックとかキャバとか風俗店とか行った事ないでしょ?恋愛とかSEXとかしそうなイメージない…等々。なんでそう見えるのかはわからないけど、今までそういうイメージを持たれたことは一度や二度ではないし、一人や二人でもない。勿論、自分から酒飲まないなんて言った事はないし、本当に表面的なイメージでそう捉えられがちらしい。勝手なイメージであり、誤解なのだけど、別にそんなに気にしたりイヤだったりもしないけどね。「またそう思われるんだ」と思うだけで。実際は、今でこそ昔ほどではないけれど、連日連夜欠かさずに飲み歩いていたし、キャバやスナック等の女性の接客のある店は好きではないけれど、飲み仲間が行くといえば付き合うことは吝かではなかった。週末などには徹夜で飲むようなことも頻繁にあったし、そうなればカラオケもガンガン歌ってた。夜は家に居る時間よりも飲み屋にいる時間の方が長かったかも知れない。恋愛の欲求も性的な欲求も人並み以上にはあるから、色んな夜遊び等々も一通りこなしたし、風俗遊びもそれなりにした。今は以前ほど自由になる金もないし、感染症も怖いから性風俗には全然行かないけど。ただ、「経験」としては多分、人並み以上だったかも知れない。タイ、フィリピン、韓国、中国等々、アジア系の女性とも幅広く交わったことがあるし。勿論、こういった経験等を、自慢げにベラベラと赤の他人に話す事もないから、事実として周りがそれを知らないのは無理がない。別に酒好きや女好き、遊び好きを恥だとは思ってないので隠し通そうとも思ってないのだけど、聞かれてもないのに職場で公表するようなことじゃないしね。でも、さんざん飲み歩いて「大の酒好き」を自認している自分からすれば、「真面目でお酒なんて飲まなそう」というイメージで見られやすいというのは少々笑ってしまうワケで。実は全然真面目でもないのにね。まぁ、社会に溶け込んで生きていく上では、「不真面目そうで信用出来ない」というイメージで見られるよりは遥かに良いのだけれど。誤解されて損をすることもあれば、誤解によって知らず知らずに得していることもあるんだろうな。ただ、真面目な堅物のように思われて、本来の自分とは違う姿を周囲から期待されるのも、時々は疲れる場合もあるんだけど。
2013/02/27
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どこから出た話かは詳しく知らないが、(恐らくは一時期流行った某書籍の一文が出典?)「男は30秒に1回SEXについて考える」とか「40歳の男性は4分に1回、18歳は11秒に1回考える」等と言われることがある。これに対し、男って本当にそんなにヤルことしか頭にないの?とか、いくらなんてもそんな事はあり得ない!男をバカにしているのか?!などと思った人もいるかも知れない。まぁ、恐らくはこんなのは個人差もあることだし、男だって仕事や勉学に集中したり、ゲーム等の遊びに熱中して他の余計なことなんて考えない時間ぐらいはある。人の注目を浴びる為にセンセーショナルで極端な表現をしただけだとも言えると思うし。自分は他人の頭の中を覗けるわけではないので、他人が30秒に1回何を考えているかなんて知らない。だから、「30秒に1回考える」なんて決めつけられる材料を持ち得ない。だから、わかるのはあくまでも自分の頭の中だけ。でも、その前提でこの言葉を自分として考えると…実は、当らずと言えども遠からずかも知れないなと思ったりする。自分は全然上品で高尚な人間ではないので、常に自分のいやらしい欲求のことばかり考えている。勿論、「それしか考えてない」というわけではないし、それだけでは生活していけないから他にも色々と考えるし、もっと大事な事を優先して真剣に考えることだってある。でも、ポーカーフェイスで仕事に集中している素振りを見せながらでも、脳内で「腹減ったなぁ」とか考えることもあるし、色々と(エロエロと)雑念や妄想を思考に挟み込むことも日常茶飯事だ。男がみんなそうだとは言わないし、あくまでも「自分は」という話なのだけど…。毎回確実に「30秒に1回」というペースを保ってるワケではないが、1日に何度もエロいことを思ったり、感じたり考えたりしているのは事実だというのは正直なところだ。街を歩いていて女性を見かければ、それ相応に相手を瞬時に観察して、「可愛い顔してるな」とか「胸が大きそうだ」とか「こんな女とヤリてぇな!」とか毎日脳内では思ったりする。仕事中でも職場の女性等を見れば、別に深い関係を狙ったりしてなくても、それなりに好き嫌いを考えたり、肌を見たり胸元をチラ見したり、後姿の尻を眺めたりはする。仕事でイライラすることがあれば、その欲求不満が性欲に結び付き、会議中だろうと接客中だろうと下半身が疼いたりすることだってある。常に物凄く深くSEXについて考え続けているわけではない。でも、ちょっとした欲望や妄想等は、ホンの一瞬あれば出来る事だ。人の頭の中には色んな思考や感情や本能的反射等が渾然一体となって渦巻いている気がする。自分自身で明確な自覚として「考えて」なくても、脳裏に一瞬何かが過ぎったりはいつもしている。まぁ、自分は多分、人並み以上にスケベで快楽好きなので、普通以上に頻繁にエロいことを考えてる可能性はあるが、様々な雑念や生理的な反応等は、誰でも多かれ少なかれあるんじゃなかろうか?厳密な意味で「30秒に1回SEXについて考える」とまでは言えないが、普段から頻繁に瞬間的な性的反応や下心はある。1日あたりの回数や頻度を計測したこともないし、今後も数えてみるつもりはないが、一日に何度もSEXやオナ等々のことを考えるし、女を見れば相手が誰であろうと何らかの形で「異性」として意識した反応をしている。だから、自分に限って言うならば、「30秒に1回SEXについて考える」は、あながち大ハズレではないと言える…ような気がする。
2013/02/20
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思うに、女は男に対しても関心があるが、女は女に対しても関心がある…ように思う。でも、同性愛者でもない限りは、男は女に対しては関心があるが、男は男に対してはあまり関心が無い…ような気がする。
2013/02/07
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「英雄色を好む」という言葉がある。英雄と呼ばれるような優れた(成果を上げた)人は、色事も旺盛で好む(女好き)傾向が強いという意味。恐らくこれは、当らずといえども遠からずの事実なんじゃないかと思ったりする。イマドキの時代には「英雄」なんて呼ばれる人間は輩出されにくいと思うが、英雄とまでは言わなくても、要するに仕事の出来る人とそうでない人間の差はあるわけで。出来る人間は社会の役に立つし、少なくとも周囲の人間からは一目置かれる存在になる。スポーツでも何でも良いのだが、何らかの分野で大きな成功を収める人は、それ相応の資質や行動力が備わっているのは確かだと思う。運も大事だが、運だけじゃそれほどの成功には結び付かんから。人に行動力やリーダーシップ、積極性をもたらすモノのひとつには、男性ホルモンの作用があるらしい。男性ホルモンは、攻撃性や闘争心にも繋がるので、粗暴さや犯罪傾向などに繋がるものでもあるのだけど、良い方向に働けば様々な活躍を促すものともなる。英雄的な行動力や決断力、指導力を発揮する人は、男性ホルモンの作用が強い人である可能性が高い…かも知れない。勿論、人の能力や言動はそれだけで決まるものではないけどさ。男性ホルモンが強いという事は、傾向としては、“性欲も強い”という可能性が高い。つまり、英雄と呼ばれるほどの実績を上げるような人間は、性欲も強くて、色恋沙汰にも積極的であるという傾向が強まるような気がする。ただし、「英雄が色を好む」からといって、「色を好めば英雄になれる」という意味にはならない。自分のように単にスケベなだけの男の場合、性欲が強くてセックス好き、女好きであっても、これといって目立った社会的成功は収めてない。色情狂や淫乱男が英雄になるわけじゃないし、「オレ様が女好きなのは英雄の器だからだ!」等と自慢になるわけでもない。ちなみに、男性ホルモンは男だけのものじゃなく女性にもあって、(逆に男にも女性ホルモンはある)男と女の違いは、男女性ホルモンの割合が大きく異なるという差。なので、男だけが「英雄」的な行動を取るわけでもなく、「色を好む」女が存在しないわけでもない。
2013/02/06
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「快楽」とは、快く楽しいと書く。自分は快楽主義だなと常々思う。といっても、別にエピクロス派がどうだとかいうような哲学思想的な意味ではないし、難しい理屈を議論する気もない。そういう深い意味ではなくて、単に快楽が好きで快楽を追い求めるような生き方をしている怠惰で享楽的な人間だということに過ぎないけど。快楽というと、イメージ的には性的で淫靡な欲望とか、ドラッグや酒等に溺れて酔いしれるような印象が強い気がする。もしくはタブーを犯してしまうような…。勿論、そういう意味合いの快楽(特にセックス等)も好きだけれど、それに限らない広い意味での快楽を求め続けて日々生きている。気分良く過ごしたい、キモチイイことがしたい。楽しいと思えるモノを探したい。自分を安息に導いたり、高揚感を味わったり、色んな意味でスッキリしたいなども含まれる。肉体的な意味でも、精神的な意味でも、広い意味での快楽を常に求めている。人間が味わう事が可能なあらゆる意味での「快楽」を、限りある人生の中で、出来るだけ味わって楽しみたい。ただ、キモチ良く生きるということは、毎日快楽だけに耽っていては成立しないのも事実。例えば、仕事もせずに毎日ダラダラと過ごして、好きなことだけやっているのは快楽として長続きしない。そういうのは周囲の手前なんとも気まずいし、そのうち気持ち良さよりも後ろめたさ等のマイナス感情の方が勝って来てしまう。そう感じないほどの図々しさや身勝手さを身につけるのも一手かも知れないが、そこまで成れる器が自分にはないのも確か。自分だけキモチイイ行為というのは、一時的には悪くないが、長期的にはつまらなくて不快になって来る。それに、例えばセックスや恋愛等の快楽を楽しむ為には、自分だけではなく相手(他人)が必要になる。愛と呼ぶほどの高尚な関係でないとしても、相手との関係の良好さがなければ、相手と交わる快楽は味わい難いものとなる。真に快い快楽を追い求めるには、嫌なこともやらなければならないし、最低限のやるべきことをやってないと快楽自体が長続きしない。快楽主義でいる為には、快楽に直結してる行為だけに耽ってはいられない。本当にキモチイイことをする為には、それなりのお膳立ても必要なのだ。少なくとも自分を納得させる程度には。自己嫌悪に陥らない程度には、社会的な体裁も保っておかなければ。
2013/02/06
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実は、ブログを書くのは初めてじゃないのだけど、随分と久しぶりになる。ブログって一時期はブームになったけど、今はTwitterとかFacebookとか色々あって、そちらに人々は流れて行ってるんだろうなと思う。最近のブログは何かのアフィリエイト絡みの宣伝とか、妙な勧誘やステマみたいなのも多くて、読むに値しないものも多いしね。昔は知らない人同士でも互いのブログを相互リンクしたりして、互いの記事を読み合って、コメントのやり取りなどで親しくなるようなケースも多々あったようだけど…。今はもうそういうのも滅多に無さそうな気もする。そういうのはきっと、TwitterとかFacebookでやることなんだろう。芸能人やスポーツ選手など、ファンがつくような有名人のブログは今でもそれなりに盛況なのかも知れないけど、無名の一般人が書くブログなんて、赤の他人はわざわざ読まない気もするなぁ。…と、思いながら、誰も読まないだろうと思いつつ、敢えて今さらブログを書いてみようかな?なんて思ったりする。
2013/01/30
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