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広済寺の前を通る県道12号線。県道沿いに蔵造りの町並み方向の南に向かう。蔵造りの町屋がチラホラ見えるようになると歩道の人波が徐々に増え、観光客向けの店が軒を連ねる。ここまで来ると歩道は人で溢れ車道も歩道もない状態。県道を走る路線バスも気が抜けない、道行く人の多くは海外からの観光客が多かった。平日でもこの光景、観光客目当ての店舗や宿泊業を営む者にとっては嬉しい忙しさが戻ってきたという事で喜ばしい。一方で地元に住む者や国内の観光客からみればどの店に入っても大陸系の観光客で溢れ、ホテルも高くなり素直に喜ばしいとは思えない。今回の目的地は川越のシンボル時の鐘を目指します。県道沿いの「時の鐘入口」の看板で左に曲がり「鐘つき通り」に進みます。県道から東に入り人波は少しは…正面に見える時の鐘、川越のシンボルだけにカメラはこれ以上下に向けられない程賑わっていた。石畳の通りは商店や飲食店が連なり、その町並みにひと際高く聳える時の鐘がある。かみさんが川越を訪れたら見たいと云っていた時の鐘。観光案内の内容は以下。「時の鐘は、江戸時代の初期、酒井忠勝が川越城主(1627~1634) のころに建設されたと伝えられています。その後何度か焼失し、現在の時の鐘は、明治26年(1893)の川越大火の翌年に再建されたもの。高さは約17.5㍍、平成8年に環境庁の「残したい日本の音風景百選」に選ばれています」…ここもまた記念撮影スポットで人波が途切れることがない。見上げるばかりの時の鐘、三芳野名所図会の挿絵にもその姿があり、蔵造りの町並みにひと際高く描かれている。3重4階構造の鐘楼門で創建された江戸時代初期から、「時」を告げ、現在は1日4回(午前6時・正午・午後3時・午後6時)自動制御で鐘を鳴らしてくれます。屋根は方形の銅葺で側面は板張りのようで、現在の時の鐘は平成28年に耐震化工事が施された4代目になるそうです。梵鐘に精一杯寄って見るが自動金突打ち機の仕組みは分からなかった。川越市の解説は以下。「旧多賀町に立ち、蔵造りの町並みを見下ろす時の鐘は、江戸時代初期の寛永年間(1624-1644)に創建されて以来、度重なる大火によって、焼失、再建が繰り返されてきた。現在の建物は、明治26年(1893)の大火で焼失した後明治27年に再建され、鐘も再鋳造されたものである。3重4階建総高さ約17.5m(約57.7尺)の規模をもち、3重の屋根は銅板一文葺の方形造で、初重(しょじゅう)、2重の庇は銅板瓦棒葺となっている。施工者は、連雀町の大工棟梁 関根松五郎で、鐘を鋳造したのは神明町の鋳物師 矢沢四郎右衛門。二人とも地元川越の職人である。造営後、幾度か修理や整備が行われ、最近では平成27、28年度に半解体修理が実施された。時の鐘は蔵造りの町並みのシンボルとして今日まで親しまれている。」4階建ての一階は門になっており、おやじの目的地はこの先に鎮座する薬師神社。時の鐘は薬師神社の鐘楼門的な趣。頭を支える四本の柱、その右に「薬師神社」の社標が立てられています。「薬師神社の由来薬師神社は、以前瑞光山医王院常蓮寺という寺でしたが、明治維新の折に薬師神社となりました。本尊は薬師如来の立像で行基菩薩の作といわれています。五穀豊穣、家運隆昌、病気平癒、特に眼病にご利益があるといわれています。右奥の稲荷神社は出世、開運、合格に著しいご利益があるといわれています」とある。 時の鐘をくぐり石畳の参道を進む、参道右に手水鉢が置かれ清水が注がれていた。薬師神社全景。三芳野名勝図会の天台宗常蓮寺に薬師堂として以下のように記されていた。「以前は本町南側中程にあり、元和年中酒井備後侯之御時今之地に移し、一梵刹として常蓮寺と云、今の地には庚申塚あり、今猶猶寺内にあり。本尊 薬師如来 行基之作、脇士 日光・月光、脇壇 十二神将、聖徳太子、青面金剛等安置。庚申塔 堂前東之傍有 稲荷祠 金比羅権現祠」ここで云う本町は、ここから北東に5分程歩いた現在の元町あたりかと思われ、1615年から1624年にこの地に移されとあり、明治に入り常蓮寺は破却、薬師神社と改称したのが現在の姿のようです。川越大火で被災し、辛うじて本尊の薬師如来立像だけは運び出され、その他は焼失したと云う。現在の姿は平成14年(2002)に改修を受けたもの。右手にあるのが稲荷神社でその本殿の左側に青面金剛がある。境内にあると云う庚申塔や金比羅権現祠については見落としたのか見当たらなかった。何気に参道右の石碑群を撮ったこの一枚、ここにそれらがあったのかも知れない。拝殿額「川越薬師如来」とあり、ピントが甘く揮毫までは読み取れなかった。御利益は病気平癒、眼病に効果があるそうで、最近めっきり視力の衰えを感じるだけにいつもより長めに拝んでいた。稲荷神社全景。稲荷鳥居の先には小さめの狛狐が守護する。稲荷神社本殿と左に青面金剛。この稲荷、出世稲荷として親しまれているとか、その筋に御用の方は参拝するといいかもしれない。薬師神社側面。妻切り平入りの拝殿に幣殿、覆殿が一体となって連なるこぢんまりとしたもの。覆殿から眺める時の鐘。境内から時の鐘全景。人波が少なくなるのを随分待っては見た……無理だね。地元の御婆ちゃん、情緒ある小江戸川越をひっきりなしに訪れる観光客の姿を眺め何を感じているのか。観光立国……ですかぁ、買い叩かれてるなぁ。時の鐘建立 / 寛永年間(1624~1644)薬師神社創建 / 不明祭神 / 薬師如来立像境内社 / 稲荷神社所在地 / 埼玉県川越市幸町15-8広済寺から徒歩で県道12号線を南へ / 5~6分参拝日 / 2023/09/25関連記事・一泊二日武藏國一之宮巡り 一日目「川越市」・浄楽院 光西寺 (川越市小仙波町)・星野山 無量寿寺 中院・南院遺跡・仙波東照宮・川越大師 喜多院・喜多院 「白山権現、仙波日枝神社」・瘡守(カサモリ)社・川越総鎮守 氷川神社・川越市喜多町「広済寺」
2023.12.02
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名古屋市瑞穂区、環状線瑞穂通四丁目交差点 環状線沿いの小高い場所に杜に包まれ鎮座する『真好天神社』環状線を走るたびに嫌でも視界に入ってきます 夜は拝殿内に灯りがともされ杜の中に幟と共に浮かび上がっていますこの光景が好きです 環状線から見る外観は石垣の上の杜、風にたなびく幟が教えてくれますこの時期は歩道から見上げるような位置に本殿も良く見えますここから石垣沿いに東側へ向かいます東に回り込むと、スロープの先に鳥居が見えてきます小原村から寄進された四季桜が淡いピンクの花を付け出迎えてくれます桜を眺めて参道を進みます、雪の日は気が抜けない坂です境内には由緒書きも用意されています鳥居を過ぎるとそこには境内が広がり、狛犬一対とその先に拝殿・・・・・・???小高い丘の限られた敷地なので拝殿は右側になります、色白の牛もいますね正面の光景に気を取られ、手水舎を忘れていました鳥居の右側に手水鉢がありますが、龍はお休みの様です鳥居を過ぎると最初に右の狛犬が一人でこちらを睨んでいます、君のお相手は?境内を更に進む、いたねぇ狛犬に睨まれながら正面を見れば拝殿です、装飾を抑えた落ち着いた外観です左奥の幟の先が最初に見た境内への入口に至ります真好社と書かれた温もりを感じる扁額 愛知県神社名鑑からの抜粋ですが1983年(昭和58)眞好社を眞好天神社に改称、祭神を菅原道真と明らかにしたそうで 境内には真好社の社号標も見る事ができます 自身の姿を鏡に映し参拝、拝殿内から本殿を望む高台に建つ拝殿、鏡に直接太陽が反射する光景を見られる時期があるのかも本殿と本殿右の境内社真好天神社創建 / 1830~44年(天保年間)、1869年(明治2)おどり山(瑞穂区村上町2)から現在地に遷宮御祭神 / 真好真如天満自在天神(菅原道真)境内社 / 右/津島神社、中央/熱田神宮、左/秋葉神社住所 / 名古屋市瑞穂区瑞穂通四丁目34番アクセス / 市営地下鉄桜通線「瑞穂運動場西」下車徒歩約5分街中の高台に建つ『真好天神社』少し高いだけですが、通りの喧噪も抑えられ随分静かな空間です 郊外のひたすら真っ直ぐに延びる参道を持つ神社が好きですが街中に建つ『真好天神社』、素通りせずにたまには訪れて見ようと思います 彩の少ないこの時期、桜の色合いは新鮮です2018/1/23
2018.02.02
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名古屋市昭和区川名本町 市営地下鉄桜通線「川名」駅から西に5分程歩いた山王通り沿いに鎮座します。入口右に「曹洞宗 太平寺」の寺号標。広い境内の正面に庫裏、左に本堂の伽藍です。入口左掲示板の教え「一歩自分に振り返って、静かに坐り自己内省することで 物事への執着から放たれ「本来の面目」あるべき姿が現れてくる」曹洞宗の教えは座禅が根源と云われます。「形に拘ることなく禅を組み、姿勢を正し、心を集中することで心と体のバランスを整える」ものだと解釈しています。普段の雑念や今どきの煽りを受け、一日中不愉快な時などは坐って落ち着かせるようにします。この教えは広い意味でそうした時を持てと言っているのかも知れません。お寺の教えは普段忘れている事を教えてくれたりもします。境内正面に唐破風が施された庫裏、右手には山門があります。入口右の手水鉢。その後方は複数の地蔵を収めた堂に続きます。方型の堂を含め三つの地蔵堂が並んでいます。石畳の敷かれた右の参道の先は山門に続きます。手前の堂には錫杖と宝珠持つ地蔵菩薩を含め5体が安置されています。左の切妻屋根の覆屋の内部は二つに分かれ、左右に各々2体が安置されています。作られた年代など詳細は分かりませんでした。左の覆屋には複数の地蔵が安置されています。弘法大師や馬頭観音、役行者に千手観音、如意輪観音やユニークな不動明王なども安置されています。さながら石仏博物館の様相。伽藍全景。左の本堂裏手の墓地には、室町時代に作られたと云われる五輪塔があるそうです。山門全景。正面が山門、その先に本堂の伽藍なので、現在の山王通りの入口に対し、東側の細い路地に面したこちらが本来の入口だったのかな。山門左の戒壇石「不許葷酒入山門」とあります。葷(くん)は匂いのある野菜や肉、酒はおやじ大好物のサケだよね。臭いのあるものは修行の妨げになるので入門してはダメよという事。今日のおやじは大丈夫、飲んでませんよ。正面に入母屋瓦葺の本殿、右に庫裏。本殿の右には春を告げる梅が境内に彩りを与えています。梅の下にひっそりと小さな地蔵が祀られています。風化により像の表情や、正面に刻まれた文字は読み取れません。本殿全景。本殿の山号額。護邦(ごほう)山と読むそうです。創建は定かではありませんが、この地を治めた佐久間氏によるとも云われます。初代住職が1533年(天文2)に亡くなったと云われます、なのでそこから更に遡ることになります。1584年(天正12)の小牧・長久手の合戦で焼失、1897年(明治30)に再建されますが再び焼失、現在の伽藍は1931年(昭和6)に再建されたもの。本尊は聖観世音菩薩、大本山は福井県の永平寺。太平寺と北側の飯田街道にある川原神社とは関りがあり、神仏分離により大般若経のすべてが太平寺に移されたと云います。本堂の木鼻装飾(上)と半鐘(下)、最近はお寺の除夜の鐘も苦情として上がる世の中らしい、今も使われているのだろうか。本殿左の寄棟瓦葺お堂、詳細は分かりません。お堂の前の参道を右に進むと墓地に至ります。堂前に吊るされた鰐口と赤い鰐口紐。神社と寺では呼び鈴ともいえる鳴り物の形態や紐の色は微妙に違ってきます。どちらも風情のある音色に変わりないのですが。堂内、焦点が合っていないけれど、お釈迦様と脇侍が安置されているようです。本堂南側からの眺め。雲をデザインした鬼飾りには「太平」の寺号が入っています。子供の頃、ばあさんに連れられ、こちらにお参りに来た記憶があります。おやじになった今、当時の記憶をたどる様に訪れましたが、菩提寺ではない太平寺を訪れた理由は今となっては分かりません。子供は理由より駄菓子の方につられるものです。太平寺山号 / 護邦山宗派 / 曹洞宗創建 / 不明本尊 / 聖観世音菩薩住所 / 名古屋市昭和区川名本町4-24-7公共交通機関アクセス / 市営地下鉄桜通線「川名」駅から西に5分程、途中「川名の三体石仏」もあります。
2020.02.07
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香川県高松市一宮町讃岐平野のほぼ中央部に位置するのが讃岐國一ノ宮『田村神社』。ここから西に香東川が流れ、川がもたらす土壌と伏流水により、神社周辺は広く田畑が広がっています。水事情が悪く溜池ばかりじゃないの? そんな印象があるけれど、一帯は伏流水を灌漑や生活用水に賄う程自然の恩恵を受けている。県道12号線(三木国分寺線)と県道172号線(川東高松線)が交わる交差点から172号線を南に少し入った右側に大きな駐車場。駐車場からの眺め上左の建物が五楽殿、その右が千木が施された建物は相撲場、正面が社務所。下大きな石鳥居が二つ、素木の鳥居が見えます。鳥居が多い。社殿は右側に南を向いて横に鎮座するようです。表参道は写真の左の様なので、かみさんと別行動をとり一人表参道から向かうことにします。駐車場から5分程南に戻った一ノ鳥居からの眺め。住宅の間に石鳥居、石畳の参道がまっ直ぐ続く。ここから振り返った光景が下の写真。左にも参道が続き、遥か先に更に鳥居が見える、ここは一ノ鳥居ではないようです。あれが一ノ鳥居だとすると長い参道だ、あそこから眺めて見たいがさすがに怒られそうだ、ここから境内に向かおう。ニノ鳥居の前の大きな狛犬。耳が隠れるほどのロン毛で角が付いています。ムチムチの体形です。鳥居の扁額「國幣中社 田村神社」参道途中の注連縄鳥居と狛犬。垂れ耳でとんがった角付き、程よい肉付きでいい体格をしています。随神門も間近になり、その先の三ノ鳥居が漸く視界に入ってきます。ここの担当はこの面々です。こちらも角が取れた角がある。それぞれ個性のある面々が守護しているようです。随神門をくぐると境内が見えてきます。左に手水舎、手水鉢り龍は四つ足で立ちこちらを見据えています。三ノ鳥居と拝殿も近づいてきました、右手が相撲場の様です。その手前に右に続く参道、その先に鳥居と社が佇んている。ここを担当する狛犬は、小ぶりですが目つきは鋭く、とんがり尻尾で角も付いています。彼らの先に置かれた力石。6個の重量が違う力石があり、階級があるようです。これがクリアできないと肩身の狭い思いをするとあるが、一番右でも・・・・・無理。鳥居の額には「歳徳神(としとくじん)」。年神様とも呼ばれ、その年の福徳を司る神で、暦により恵方が変わり、その年の恵方に参り、事を行えば万事大吉とされる。駐車場から見えていた相撲場。この後方に小さな鳥居があり「子育て布袋尊」が安置されている。三ノ鳥居と田村神社拝殿は間近。幣拝殿正面全景。入母屋檜皮葺で現在の建物は1878年(明治10)に再建されたという。奥殿・本殿は1710年(宝永7)の造営で、奥殿と本殿は繋がっており、祭神は倭迹迹日百襲姫命、五十狭芹彦命、猿田彦大神、天隠山命、天五田根命の五柱を祀る。奥殿の御神座の床下が深渕(定水位と呼ばれる)になっていて、厚板で覆われ真夏でも冷気が漂うという。ここには龍が棲み、厚板を開け覗いた者は絶命すると云われ、日照りがあれば領主は必ず祈願に訪れたとされる水の神「定水大明神」。幣拝殿斜め全景。後方に本殿が見られる。幣拝殿の右に宇都伎社、蕎婆俱羅社、天満宮、宮島社と末社が並ぶ。幣拝殿の右が「宇都伎社」右に進めば容易に拝殿から参拝を済ませられますが、鳥居から拝殿に向かいます。「宇都伎社」鳥居から拝殿の眺め。参道中央に巨大な龍のモニュメントがいる。で、でかい。迫力満点の龍、しかも宝珠のみならず、小判まで持っている、こんなのが淵にいるのか?手や口が動き、目が光れば最強ではないか、とごぞでそんな龍を見たような。鎮座1300年記念で建てられた巨大龍は「金龍」と呼ばれ、小判に願いを書き奉納することで金運アップにご利益があるそうな。「宇都伎社」幣拝殿全景。末社とは思えぬ立派な入母屋、銅葺屋根で千鳥破風が付き、1987年(昭和62)に再建されたもの。左に一つ、右に一つ、よく見るとその奥にも小さな赤い鳥居が見える。祭神は大地主神、倉稲魂神で家内安全、生活守護の神として崇敬されているようです。上拝殿左の鳥居は「姫の宮」小さなお社だが、縁結びの神様として崇敬されている。右側の金色の布袋さんが見えますが、これは「金箔布袋尊」。金箔を貼り祈願することで、笑顔の絶えない家庭、夫婦仲良く、円満な人間関係にご利益がある。下「七福神」鳥居の先には「微笑み童七福神」が祀られています。讃岐七福神というものがあるそうで、それらを祀る寺社が恵比寿/東香川市・白鳥神社、弁財天/国分寺町・国分寺、毘沙門天/高松市・香西寺、大黒天/高松市・法然寺、寿老人/東香川市・与田寺、福禄寿/綾川町・ 滝宮天満宮とあり、田村神社は布袋様を祀る神社。鳥居右奥に小さな赤い淡路社の鳥居があります、参拝は鳥居の下を這ってくぐり抜け参拝するのが作法だそうです。鳥居の左に金色の「金箔大黒天」、金箔布袋尊と同じシステムの様です。境内の至る所に龍や七福神、干支のモニュメントが溢れ、手持ちの賽銭は枯渇。やっと合流したかみさんも「最初はお参りしていたけど途中からスルーした」、同じだ。なんとなくテーマパークに来たような気分になる。神宮献穀斎田鳥居から先は七福神が建ち並ぶエリアと神池に繋がります。「田村の神は水の大神 御神体は龍神なり」の云われ通り、豊かな水が湧き出しています。神池に浮かぶ「宮島社」、広島の厳島神社から勧請したもの。御祭神 / 市杵嶋姫命上宮島社の左に祀られる「弁財天」、水をかけてお参りすることで美しさを得られると云われるそうだ。右の社は宮島社の本殿。下弁天橋から素婆倶羅社方向の眺め。 「素婆倶羅社」幣拝殿は入母屋銅葺屋根で2002年(平成14)の再建。本殿は春日造り。御祭神 / 少彦名神女性の守護神として参拝が多く、安産、病気平癒、身体健康などにご利益があるそうです。「伊勢神宮遥拝殿」、この遥か先が伊勢方向ということです。後方の赤い社は稲荷社。「一宮天満宮」御祭神 / 菅原道真公学門の神であり、雷が転じ雨をもたらす稲作の神として崇敬されている。金の球を咥えた撫で牛、特別な願いを叶えてくれそうだ。境内の東端が「一宮稲荷大明神」の鳥居。鳥居をくぐった神池の畔に祀られています。その先に稲荷鳥居が続いています、北側にも稲荷に続く参道があるようです。鳥居の右に石の祠が三つ祀られています、境内にある祠の中では一番古そうです。右の祠の中に納められた丸い石は何だ?卵?…🐍一番惹かれる存在ですが詳細は分かりませんでした。上北に繋がる参道の中央にあるモニュエントがある、讃岐獅子の解説板です。内容は讃岐の獅子頭について解説されています、この地方の獅子頭は、張子で作られたもので、全国で作られる獅子頭に比べ軽量に仕上がり、それにより激しい獅子の動きが可能になっているそうです。下解説板の表は獅子頭。獅子頭から左に細い参道があり、そこから奥殿と本殿方向に繋がります。左上 手前から一宮天満宮、素婆倶羅社・・・・・右 一宮天満宮を除き本殿は春日造り。その参道の右予科練海軍飛行兵の冥福と平和を祈って建立された海軍少年飛行隊の碑やこの地から戦地に出兵し犠牲になられた方々の忠魂の碑などがこのエリアに祀られている。再び北参道に戻り参道入口へ。表参道に比べ鳥居も社号標は古めかしいけれど、掲げられた扁額は新しい。北参道の狛犬は獅子頭に似た顔つき、前屈みで尻尾を立てた勇猛な面々だ。上桃太郎のモニュメント田村神社祭神の倭迹迹日百襲姫命は桃太郎のモデルとなった吉備津彦の姉にあたる事からこの像が建てられたようです。下北参道の左に再び赤い鳥居が連なります。この参道にも八咫烏などのモニュメントが安置されています。上赤い鳥居の先は鐘楼門があり、大きな狸が現れた、ここまで来れば今更驚くことはない。下梵鐘には天地の罪穢れを祓うための文言「大祓詞」が彫られているそうで、夜間以外は鐘をついてもいいようです。上鐘楼門の先に樹齢を重ねた楠の巨木が聳えています、幹の太さ、枝ぶりは周囲の木々とは別格です。その根元に「お迎え布袋尊」田村神社の象徴でしょう。北参道から参拝に訪れると金色で大きな布袋様がお出迎えしてくれます。下北参道の大鳥居。北参道の大鳥居と大楠、周囲の建物からその大きさをイメージしてください。中央の鳥居は鐘楼門の鳥居、笠木に二匹の龍の頭が描かれ、尾は柱に巻き付いています。讃岐國一ノ宮 田村神社、水神信仰を根源とした歴史と伝説が伝わる威厳のある神社です。讃岐国一ノ宮 「田村神社」創建 / 709年(和銅2)祭神 / 倭迹迹日百襲姫命、五十狭芹彦命、猿田彦大神、天隠山命、天五田根命の五柱末社宇都伎社祭神 / 大地主神、倉稲魂神素婆倶羅社祭神 / 少彦名神一宮天満宮祭神 / 菅原道真住所 / 香川県高松市一宮町字宮東286
2020.05.02
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紅葉の秋。TVでは盛んに地元の紅葉の見所を紹介していますが、観光情報の中に熊出没状況に触れられません。一方で連日熊の駆除や被害のニュースは流れるものの、地元の情報はあまり耳にしない。上は愛知県がまとめた11/9時点の出没マップと場所の一覧。下は豊田市が纏めている出没情報の中から、10月から11月14日時点までの情報纏め。其々がデータを纏め、市町村と県の情報展開ができていないのが良く分かります。いかにも無駄が多いと感じる纏め方です。豊田市の情報を見る限り、猿投山周辺の保見や猿投でも目撃されています。瀬戸市・春日井市などの情報は見ていませんが、紅葉の山々にお出かけの際は地元の情報を見ておく方がいいかもしれません。お守り代わりの熊鈴くらいは付けておいても損はないと思います。あと一回キャンプにも行きたい気持ちはあるものの、キャンパー全員が食材や残飯の車中保管・炊事棟の清掃をしているかというと???と感じる時もあり、気乗りがしない。以前はそんな心配したことなかったが、やはり増えているのは間違いなさそうだ。
2025.11.14
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いよいよ夏本番。 我家のダイニングの窓から容赦なく陽光が降り注ぐ。風はあっても窓を解放すれば外気温そのままの熱風が入りむ。 結局遮光カーテンを閉め、エアコンを使うことになるが、エアコンでは自然風の心地よさは望めない。たまりかねて100均やホームセンターで遮光シェードとマグネット式や吸盤式の取り付け金具を買って窓シャッターに遮光シェード取り付けてみた。 結論から言えば、風で煽られたシェードは、マグネットや吸盤では外れてしまい頻繁に付け直しが必要になる。外壁に金具を付けるのが簡単で確実ですが、とはいえ外壁に穴は開けたくない。 そこで専用の金具を作り、シャッターの正面カバーに取り付け、そこにシェードを付ける事にした。我家の窓シャッターは正面カバーは鉄製で側面カバーは樹脂製。 カバーを外しそこに金具を止めたいところですが、それも気が乗らない。上は斜め下からシャッターを見上げたところ。 青丸のビスと右にピスらしき物が見えるはず。メーカーの製作図面の断面図を調べたところ、左のビスには内部で部品が共締めされておらず、純粋にカバーの固定用ビスなのが分かった。・上の緑の吹き出し部分の4mmのトラストビス(全長は10mm(+の正ねじ・左に回すと緩む))を試しに外してみた。 何も共締めされておらず、ビス穴がずれる事もないようだ。 ・カバーのビスはシャッターの左右と中央に一本(窓の開口幅で複数ある)の合計3本で固定されている。・上は中央の4mmのトラストビス。+の正ねじ(左に回すと緩む)これらのビスに金具を共締めする事にした。※共締めとは1本のビスで複数の部品を止める状態の事・外したビスの全長は10mm。ホームセンターでM4(ねじのサイズ)の10mm(全長)と15mmのステンレス製トラストビスを購入。10mmはシェードを付けていない窓の標準ビスがメッキ製だったので交換の為購入。・シェード取り付け金具としてステンレスの1mm厚で幅19mmのステー30㌢のものを選ぶ。(希望は厚3mmだったが取り扱いが無かった)・標準ビスが10mmなので1mm厚の板を共締めすると9mmの締幅になる。使うのが15mmなので以前より4mm中にビスが飛び出る事になる。試しに金具なしで15mmのビスを締めこんでもシャッターの動きに干渉する事はなかった。これでビスはOK 次は金具造り。※4mmの飛び出しが気になれば、11mmにビスを切ればいいでしょう、自分はやめた。既製品のステー。 大きい穴の方はシェードの鳩目をゴムで繋ぐ穴として使用、小さい穴をビス穴に使用。・残念ながら小さい穴は僅かにビス径に対し小さいのでドリルで4mm穴に広げた。・幅19mmのステーだと側面カバーがあり、ビス穴が合わないため、赤部分(約4mm)をサンダーで削る。・工具があるので、ステー1本の作成は5分程で完成。※今回は曲げ加工をせずそのまま使うが、上方向にしたい場合は金具全長を長くし曲げればいいが、長すぎるのも考え物。ポイントはシャッターを開けた際にシェードがストッパーの下にならない高さが必要。上の写真は標準ビスを外し15mmのビスでステーを共締めした状態。左下のシャッターストッパーに干渉せず、シェードは確実にストッパーの上で固定できそうだ。心配ならもう一度外して少し上に曲げてもいい。・これを両サイドに取り付け、中央は同じ長さのステーで削らないものを付け完成。後はシェードの上の鳩目と金具の穴に紐またはゴム紐で固定下側はフェンスにキャンプ用の伸縮ポールを固定、下側の鳩目とポールをゴム紐で繋いで完成。取付後1日経過、今の所外れる事もなく、カバー自体にも負荷はかかっていない。課題・今回は速攻取り付けの御試し版、台風に備え簡単に外れる様にする必要がある。・シェードの鳩目がマグネット金具に合わせたので、新しい金具に合わせ鳩目を開け直す必要がありそう。費用・10mm、15mmトラストビス、30㌢ステンレスステー合計600円以内・作成から取り付けまで20分注意点・ビスの相手側はアルミ素材なので電動ドライバーで締め過ぎるとネジを潰してしまう可能性がある。・側面カバーのリベットを外そうとしない事。感想・マグネット金具や吸盤等の止め金具を試したが、あれこれ買い求めるより、作った方が安くて確実。 特にマグネット金具は外れると風に煽られガラスを割るリスクがある、外れたり付けたりの繰り返しはカバーの塗装を傷つけ錆びの要因になる。・日課だった復旧作業から解放された。
2022.08.03
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2/14陽気に誘われ名古屋市中川区の荒子公園にある前田利家・荒子梅苑の梅を見に出かけてきました。掲載するのが遅れ一週間前の開花状況になりますが掲載します。そもそもこの日は名古屋市交通局の「駅から始まるヒラメキさんぽ」を歩いてきました。名古屋市交通局の最寄り駅からスタートし、名所・旧跡を巡りながら指定されたバス停又は地下鉄駅をゴールとする5~6㌔のウオーキングイベント。パンフレットに記されたコースを巡り、簡単な問題を解きながらコースを巡り、問題に正解すると抽選で豪華賞品が頂けるという。籤運の悪い我家には縁がないはずだが、昨年のイベントで、かみさんに見事マナカチャージ券が当たった。これに味を占めた訳ではないけれど、年が明けてから歩いていなかったかみさんの意向で出かけてきました。スタートは地下鉄高畑駅からで、今回のウオーキングテーマは前田利家を訪ねるものでした。写真は名鉄荒子駅西側出口に建てられた前田利家公初陣之像。馬にまたがった若き利家と左は利家のかみさんおまつの方。見送るこの姿はドラマの1シーンでも見ているようだ。今年初めて咲き誇る梅と香りを感じる。なるほど、このコース選択の趣旨には見頃を迎えつつある梅を感じてもらいたいようだ。前田利家公初陣之像から南西に歩く事10分強で荒子公園に到着。あまり歩いた事のないこの辺り、初めて公園を訪れたが公園には富士山もあったりする。温かい陽気に誘われ日向ぼっこを楽しむ人も多かった。荒子公園南側の「前田利家 荒子梅苑」の石標。梅の花の色合いと香りは、寒い冬も間もなく終わり、春が来たぞと感じさせてくれるものだ。園内には枝垂れ梅を始め紅梅など多様な種類の梅が見られます。園内枝垂れ梅の開花状況。こうして見ると当日は満開にはほど遠かったかな。前田利家の家紋として知られる花ですね。この梅が満開を迎えるのはいつ頃だろうか。地元の方の会話から「梅祭りの頃には終わってないか」の声が聞こえて来た。荒子公園では毎年梅祭りが開催されているようで、今年の梅まつりは3月2・3日で開催され、当日はキッチンカーや色々なイベントが行われるようです。ただ、花より団子なら別だが、花はどうだろうかねぇ。あれから一週間、暖かかったり、寒かったりの日が続いているだけに、今頃が見頃なのかもしれないね。今年も地球沸騰化にともない、梅に限らず全てのものが早い盛期を迎えているだけに、花見のイベント開催日は悩ましい所だと思う。余談ですが五条川の桜まつりは今年開催されるとか、久し振りに花より団子で訪れてみようかな。前田利家公初陣之像所在地 / 中川区吉良町138-2前田利家・荒子梅苑所在地 / 名古屋市中川区荒子2-193-2訪問日 / 2024/02/14公共交通機関 / 地下鉄東山線高畑駅から徒歩約20分
2024.02.22
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名古屋市天白区御幸山地下鉄「塩釜口」から南を見て頂き、右方向の小高い丘陵地にこんもりと森が視界に入ると思います御幸山と呼ばれ以前は音聞山とも呼ばれた事も御幸山の謂れは明治・大正両天皇の御野立所(休憩地)の史跡あり、それを残すために御幸山と呼ぶようになったそうです駅のある塩釜口の名は安産祈願で知られる塩竈神社への参詣口として、塩竃口とついたと云われます八事神社と塩竃神社の認知度を比較しても後者の方が知名度は高いように思います目指す八事神社は御光山の南山麓を目差す事になります麓には塩竈神社と八事神社が隣接し鎮座していますが、訪れる参拝客は塩竈神社が圧倒的に多いと思われます八事神社のある御幸山南麓、現在は元八事と呼ばれていますが、昔は八事の中心八事と言えば地名を冠する八事神社ではないかなと思います上は1893年(明治23)とほんの少し前のこの辺りの地図(右は現在、左が明治)明治の八事周辺、山手グリーンロードや八事霊園などある訳もなく、どちらが開けていたかはこの地図でも分かると思います、ここ元八事を八事町としなかったのかは知る由もありません八事神社は元八事の中心地から少し北外れに位置し、古くからこの地の氏神として鎮座しています住宅地脇の一画、御幸山の杜に包まれた八事神社へ続く参道があります杜の入口に鳥居と狛犬が祀られ、石段の先に拝殿も姿を現しています境内に続く石段はそこそこ斜度があり、真っ直ぐ境内に続きます太からず、細からず、容姿のいい狛犬、爪の手入れをした方がよさそうな石段の先に拝殿が見えて来た、???以前訪れた時の拝殿は木造で味のあるものだった気がするが、建て替えられたのか、思い違いかコンクリート造りでガラス張りの明るい拝殿は新しくとても綺麗、思い違いではなさそうです自宅に戻り昔の写真があればと思い探して見る、整理が出来ない自分故に当然見つける事などムリ綺麗な拝殿、綺麗な扁額境内全景左から社務所、右の小さな社は秋葉社、手水舎、正八幡宮と一之御前社、高峯大明神、拝殿本殿は一際高く積まれた石垣の上、右は西側、左が東側からの眺め八事神社創建 / 不明御祭神 / 應神天皇・大伴武日命・高峰大神末社 / 山神社・白山社・富士社由緒創建は詳らかではないが、室町時代には既に村民の崇敬が篤かったことが記録から明らかである明治四十三年、現地の八幡社に壱之御前社、高峰神社を合祀、社名を八事神社と改称さらに、山神社、富士社、白山社を境内に移し祀った大正十三年、祝詞殿を建設。昭和十年に愛知招魂神社(現愛知縣護国神社)の拝殿を移築上段 拝殿左の手水舎下段 力石伝説によるとこの石は1650年頃のものと伝わり、天王祭りではこの石を担ぎ上げ力試しを行うそうです拝殿左には秋葉神社、この近くの「御野立所」で明治・大正時代の著名人が集い、俳句が詠まれる程この地は風光明媚な場所、ここで詠まれた歌碑が建てられ、由緒を後世に伝えるべく建てられた石標かつての景勝地であった事を伝える「音聞山勝地」石柱、これらがこの一画に纏められています確かに尾張名所図会でも音聞山として記録に残り、南に年魚市潟を望む立地であったと想像できます八事神社の記述は残念ながら探しきれませんでした「音聞山勝地」石柱の左に古い手水鉢が3つ、今も残ります以前の様相と少し変わっている八事神社ですが、広くて静かな境内と周囲の杜は今も変わりはないようです、陽射しを受けながら訪れると杜の木陰と吹き抜ける風がとても心地いい住所 / 名古屋市天白区御幸山1339アクセス / 市営地下鉄鶴舞線 塩釜口から南へ徒歩で約15分
2018.08.04
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「鏡池」戸隠では知名度の高い絶景スポットとして知られている。鏡池へは以前記載した「戸隠 蕎麦処 そばの実」の前から県道36号線を左に進んで10分程の所にある。幅員の狭い対面通行の山道で、途中に一部すれ違いの難しい場所もあり、バックや幅寄せが苦手な向きには厄介な道かもしれません。そんな山道を抜けると前方が開け、右手に湖が見えてきます。鏡池到着。ここには「どんぐりハウス」というガレットを提供するレストハウスがあり、駐車はその前かもう少し奥に進んだ左側に広い駐車場があります。広々とした奥の駐車場から歩いても鏡池まではたかが知れています。写真は鏡池の湖畔に建つ周辺案内図。ここから眺める戸隠連峰はなかなか見ごたえがあり、紅葉の時期などは山々と周囲の紅葉が湖面に映りこみ絶景の写真スポットとして賑わうそうだ。この鏡池は天然の湖ではなく人造湖。この写真の左側は人工的な堰堤が築かれています。戸隠山を撮るなら堰堤側に進むと全景が入ると思いますが、そうしたところは人が集まります。この日も山を撮影しようと結構な人がカメラを構えていました。鏡池左側から見る戸隠連峰。尖った頂が続く山が西岳(標高2053㍍)で、左に見える標高1980㍍の第三峰から、標高1981㍍の第二峰、標高1989㍍第一峰と続き、中央の三角形のピークが標高2030㍍の本院岳で、そこから右に標高1900㍍の八方睨、同1904㍍の戸隠山、同1882㍍の九頭龍山と連なっています。少し右に視線を移すと八方睨から戸隠山、九頭龍山が望める。滞在中は今一つ快晴に恵まれなかったけれど、戸隠神社を参拝し、御神体の戸隠山をこうして眺められれは幸運なのかもしれない。朝や夕方はまた別の表情を見せてくれるのだろう。この鏡池、正式には「西原温水溜池」といい、聞きなれない温水が付いています。高冷地で水温の低い楠川の水は稲作には適さず、それを可能とするため、楠川源流のこの場所に堰堤を築き、一旦ここで流れを止め、水温を温めて田に引くことを目的とした人造湖。築堤されたのは意外に最近の事で1974年(昭和49)だという。堤を写さなければ自然の造形に見えるが、築堤は稲作に適した水源の確保とこの絶景をもたらしてくれました。周囲は散策路も整備され歩いて見たいところですが「クマ出没注意」はどうしても気になるところ。戸隠神社の御神体である戸隠山、昔から伝わる伝説に天の岩戸隠れの伝説があります。天照大神が、弟神の素戔鳴尊の乱暴振りに堪忍袋の緒が切れて、天の岩屋へ籠ってしまった。暗闇に閉ざされ困り果てた八百万の神々は、岩屋の前に集まり天照大神を岩屋から出てもらうための相談をする、天八意思兼命の提案で岩戸の前で鶏を沢山集めて鳴かせ、踊り上手な天鈿女命が舞を踊り、岩屋の中に籠ったままの天照大神の気を引き、岩戸をあけて外を覗いた時に天手力雄命が岩戸を開け放つこととした。策は見事に成功し天照大神が岩戸を少し開け外を窺った時に、天手力雄命は一気に岩戸を下界に向かって投げたという、その岩戸が飛んで戸隠山にあたり、今の戸隠山になったのだという。その立役者ともいえる天手力雄命を戸隠山の麓に祀ったのが戸隠神社奥社であり、策を提案した天八意思兼命を祀ったのが中社の始まり。高千穂からここまで岩戸を飛ばすとは、天手力雄命はなんという怪力。天照大神、なまめかしい踊りや外の騒ぎに釣られるとはなんとも人間味のある話だと思う。戸隠山はそんな伝説から誕生した山だ。その山の全貌を見るには、ここ鏡池が最適、風が無ければ湖面に写り込んだ戸隠山の姿も味がある。時間に余裕があれば立ち寄ってみて損はない。「どんぐりハウス」樹々に包まれ、鏡池を眺められるやや高い場所に建つ。ガレットが自慢のようで「おすすめ!」や「大人気!」の文字が躍る。先程蕎麦を食べて来たばかり、写真を見ていると食べたくなるがそんなに食べれるはずもなく。今回は見送る事にした。鏡池所在地 / 長野県長野市戸隠車アクセス / 上信越道長野ICより七曲経由、戸隠方面へ1時間10分、蕎麦処そばの実から約10分程関連記事 / キャンプしがてら戸隠神社五社巡り「奥社、九頭龍社」、戸隠 蕎麦処 そばの実
2021.09.15
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名古屋市北区大杉1「蔵王山 延命閣 地蔵院」名鉄瀬戸線「尼ケ坂駅」を起点に周辺を歩いて見ました。最初の目的地は駅から徒歩5分程の「蔵王山 延命閣 地蔵院」。「尼ケ坂駅」の南側道路の前に街中にしては大きめの公園、ここは「尼ケ坂公園」。入口の二つの石には公園の紹介、尼ケ坂の地名の由来が記されたプレートが埋め込まれています。上は公園の紹介「出会いの杜 尼ケ坂公園 この付近は、名古屋城から見て北東の位置に当たり、古くは名古屋城の鬼門を守る"鎮守"とされていました。今もなお、片山神社をはじめとして、長久寺、普光寺、久国寺など神社仏閣が数多く点在しています。その中で片山神社はその昔、"片山蔵王権現"と言い、境内一帯の緑は"蔵王の森"と呼ばれ、名古屋を代表する杜の一つとして有名でした。 現在では名古屋市緑地保全地区に指定されており、地域に息づく身近な自然との"出会いの杜"として親しまれている。」下は尼ケ坂の地名の由来「尼ケ坂地名むの由来と伝説片山神社に西から登るなだらかな坂道と、東から登る急な坂道があります。それぞれ"尼ケ坂"、"坊ケ坂"と呼ばれていますが、江戸時代この地に住んでいた"権現小町"と呼ばれる美人の村娘と高位の青年武士の悲話が地名の由来伝えられています。 "尼ケ坂"はその昔、樹木が茂る中を縫うような薄暗い道で、坂上の名古屋台へ向かう通路として"尼ケ坂近道"とも呼ばれていました。 当時は、辻切りが多く出没し、通行人が被害を受けることもしばしばでした。 公園の西にある"地蔵院"は、その霊をとむらうようにと、久国寺の住職が、寺の門前にあった六地蔵の内一体をここに移して祭ったのが初まりといわれています。 名古屋市史跡散策路では、このような地域の歴史を紹介しています。 一度歩いてみてはいかがですか。」なかなか分かりやすく書かれ、この散策路をトレースする感じでしょうか。プレートに書かれていた片山神社と蔵王の杜は文政(1818年~1831年)に纏められた「尾張名陽図会」に絵として残されていました。本殿の左上に「尼ケ坂」とあります、当時はこのような場所だったということです。尼ケ坂の駅は本殿の右の崖下に位置します。現在は右の片山神社と左の尼ケ坂公園の間は、切り開かれて車道と歩道が作られています。道路脇の擁壁の高さは名古屋台地と北の平地の高低差を物語っています。写真は下が尼ケ坂駅方向にあたります。因みに道路の上にかかる歩道橋から神社と公園を行き来することができます。地蔵院はここから西の坂を下ったところになります、尼ケ坂を足で感じることになります。坂を下ると右手に先ほどの尼ケ坂公園と駅が見えます、坂を体感したくない方は公園から直接アクセスできます。歩道橋先の杜の間から片山神社の本殿も見えています。「蔵王山 延命閣 地蔵院」全景。尼ケ坂の傾斜地にグレーのシャープな塀で囲まれた地蔵院が建つています。同系色の瓦が葺かれた入母屋造りの堂は塀とマッチし、境内の地蔵にかけられた前掛けの赤が浮き立っています。東側に境内入口。「南無延命地蔵菩薩」と書かれた赤い幟が並びます。境内左に手水舎、小さいけれど瓦で葺かれ重厚感が漂うものです。鉢に清水は注がれていません。下り棟の鬼瓦に五三の桐が施されています。境内右に赤い前掛けと帽子をかけられた六地蔵。毛糸で編まれた赤い帽子、今年は雪もなく温かくていいよね。全て地蔵さんは少し首を傾げてやさしい笑みを浮かべている、一体一体その表情は様々。還暦過ぎのおやじですが、目を三角にする表情も時にはある、災い除けの赤を身に着け、余分な力を抜いて自然な笑みを浮かべたいもの。堂の右の院号標は「蔵王山 延命閣 地蔵院」とある。堂の右脇に一体の地蔵が祀られています。下半身は地の色が現れていますが、顔だけが妙に黒ずんでいます。個性を主張するかのように、この地蔵だけグレーの帽子をかぶり、六地蔵を見つめています。久国寺から移された地蔵か?と勘繰りたくなりますが彼ではないようです。六地蔵の幼い愛らしい表情とは違い、目をうっすらと開け、瞑想でもしているかのような顔つきの寡黙な地蔵さん。本堂の鬼瓦。こちらにも五三の桐が入っています。堂に掲げられた山号額、これで「蔵王山」。言われれば読めなくもない。堂内の眺め。正面に小さな座像と奥に三体の地蔵が祀られています。公園の由緒に書かれていた久国寺門前の六地蔵から移されたとされる一体は中央のものです。鬱蒼とした杜の尼ケ坂、通行人目当ての辻切りが出没しても何らおかしくない。そんな蛮行の犠牲となった人の無念も残り、安らかに弔いたいと念じる気持ちが芽生えるのは自然だ。久国寺住職から「君しかいない」と期待と願いを託され、単身赴任でやってきて責務を全うし続けた。住職もさぞかし満足なことだろう。薄暗い尼ケ坂を行き交った旅人から、今や周囲は開け明るい森に変貌し、駅を目指す通勤・通学の住民が行き交う、緑が残る閑静な住宅地となり辻斬りに逢うこともない。変貌したとはいえ、ここで犠牲になった方々の無念を鎮めるため故郷には戻れる予定はなさそうです。「蔵王山 延命閣 地蔵院」住所 / 名古屋市北区大杉1-21-8公共交通機関アクセス / 名鉄瀬戸線「尼ケ坂駅」から南へ徒歩5分程
2020.02.15
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長久手市前熊根ノ上 長閑田園地帯を走る県道215号線沿い道路脇の見事な桜が目に留まり立ち寄ってみる事にしましたやがて玉垣に囲まれた「大峰山」へと辿り着きました これまで何度も前を通りながら、気付く事はなかっただけに「桜が教えてくれた」様なものです枝振りの見事な1本の桜、歩道の上空はピンクの花弁が覆い尽くしています道路脇に石標、社名は彫られていないような 地図で見ると「大峰山」と表記されていますが・・・・・隣接する公民館横から桜の先の境内全景(右) 左に小さな祠と御堂が配置されています1927年(昭和2)建之と彫られているが・・・社名は見落としているのでしょう境内へ 小さな祠は秋葉山境内に入った正面の庚申(こうしん)碑 庚申とは庚申講の庚申の日(60日/1回)に、人の体内にいると云われる三尸(さんし)の虫が、寝ている間に天帝へその人の悪事を報告に行くのを防ぐ目的から、夜通し天帝や猿田彦や青面金剛を祀る風習 地域の住民が寄り合い、繋がりを深める動機となる一つの行事なのでしょう現在も継続されているのかは定かではありません 子供の頃にこうした集まりに連れて行かれた覚えがあります今ではこうして地域が寄り合うイベントも無くなり、時代の流れとはいえ・・・・・御堂へ向かい参拝 堂内を窺わせて頂く 一体の石像が祀られていますが詳細は分かりません堂の前の「大峰山」と彫られた香台 漸く地図の名称と符合しました大峰山 山岳信仰の一つで奈良県吉野地方の蔵王権現の霊山山岳修験道の聖地、大峰山中心寺院は金峰山寺で、頂上山上ケ岳には大峰山寺があります 私もかみさんも若い頃は良く山に行きましたが登拝目的ではありませんでしたこの歳になってから登って見たい候補の一つともなっていますが、いつになるやら「大峰山」創建等の詳細は不明住所 / 長久手市前熊根ノ上アクセス / リニモ公園西駅下車徒歩20分程 御堂から境内、公民館の眺め その先は芽吹きの緑で萌える「愛・地球博記念公園」へと続きますそれにしても見事な桜です2018/3/28
2018.04.17
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瑞穂区井戸田町『龍泉寺』地下鉄妙音通駅から北に歩いて5分ほど緩やかな坂の続く傾斜地に曹洞宗龍泉寺(りょうせんじ)の寺号標と教えの書かれた掲示板が見えて来ます「人は死ぬことによって 生命が無くなるものではな天地一杯の生命が 私という思い固めの中から天地一杯の中に ばら撒かれたのだ」輪廻転生の教えを説いているのか?掲示板の右に黒いフェンスで囲われた一画、その前に白い石碑が建っています「亀井水」「府城の南一里三十町(約7km余)本井戸田なる村あり、井水すべて清らかなり 名ある清水七ヶ所ばかりあれど、亀井という清水こそ、名高くうるはし」(尾張志)龍泉寺山門の脇にある亀井水はまた、源頼朝の産湯の水を汲んだ井戸とも伝えられている 第二次大戦後しばらくの同名の通り、「亀」が水面をおおうほどに無数に生息していたものである」碑には源頼朝産湯の井「亀井水」と刻まれていますフェンスの中、今は亀の子一匹見られませんが今も水を湛えていますかみさん「なんでここで頼朝なの?」ここから近い津賀田神社の祠官「亀井六郎重清の母親が頼朝の乳母を務めた」という言い伝えもあり産湯の井があっても不自然ではないんじゃないの?こうしたものは素直に受け入れるもので、諸説ありなんです因みに頼朝の生誕地として、熱田神宮の西側に鎮座する誓願寺が知られ、山門前には「頼朝生誕地」の碑も建てられています山門へ向かう途中の左側、本堂を背景に赤い前掛けを付けた石地蔵が祀られています参道正面に赤い前掛けの付けられた地蔵「歯痛地蔵尊」全身に亀裂が入り、顔は半分欠けてしまい痛々しい姿、何事?傍らの随分朽ちた案内板「太平洋戦争中の昭和20年5月17日、B29の爆撃により旧本堂と共に被爆、お顔の半分を失い、お体もまっ二つに割れた」と記されています空襲で被災し本堂は焼け落ちても、地蔵は破片を集め復元されたんですね歯は痛くないが、歯痛地蔵さんにお参りしておこう歯痛地蔵尊の左に境内入口空襲で焼失し再建された本堂と山門も恐らく再建されたものでしょう山門扁額「亀井山」の山号は先ほどの亀井水から付けられた様です山門脇の掲示板「この試練を乗り越えよう・・・・・」よっし!気持ちを切り替え頑張ろう!山門から境内、正面の看板の言葉もいいよねお参りさせて頂きます境内に入った左の手水鉢井水を汲み上げているのでしょうか? 鉢は鉄分で赤く染まりますそれ程広くはないけれど緑豊かな境内奥に本堂本堂正面本堂扁額本堂から右手の寺務所、庫裡を眺める本堂の大棟には「亀井山」の山号瓦が入ります本堂左の笹の先に石が二つ右の石は平安末期の原始五輪塔と言われている昭和58年まで残っていたと言われる、大黒塚の塚上にあったもので大黒石と呼ばれる古石左が鎌倉時代の薬師寺開山覚一塔龍泉寺はかつて行基が開山した真言宗薬師寺を始まりとし五つ(龍泉庵、龍雲庵、福伝庵、妙喜庵、蔵伝庵)と言われる塔頭(たっちゅう)の一つ時の流れと共に本寺や龍泉寺以外の塔頭は消滅し、龍泉寺は曹洞宗へ改宗、1519年(永禄2)に熱田にある秋葉山円通寺の末寺となったここから南には藤原師長の謫居跡(嶋川稲荷)があり、配流された藤原師長は好んで「龍泉寺」を訪れたともいわれ、寺には師長公画像・師長公記(二巻)も所蔵されていると言われています『龍泉寺』頼朝が産湯を浴び、配流の身の師長が好んで訪れたという歴史を持つ宗派 / 曹洞宗創建 / 不明本尊 / 薬師如来(聖徳太子作と言われている)脇仏 / 不動明王(弘法大師作と言われる)、地蔵菩薩(聖徳太子作と言われる)住所 / 名古屋市瑞穂区 井戸田町4丁目90アクセス / 市営地下鉄名城線妙音通駅下車 北に5分
2018.08.14
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わいわいロードで遅めの昼食を済ませ歩いて10分程の住吉大社へ向かいます住吉大社の鳥居前に続く通りには、昭和の時代へタイムスリップしたかのような町並みが続き懐かしい路面電車(阪堺電車)が頻繁に走行し、眺めるだけでもとても楽しい場所また周辺や境内には古い巨大な石灯籠が林立し、足を止め見て行きたいところですかみさんに置き去りにされるのでここは我慢平日なのに多くの出店が出て、老若男女問わず多くの参拝客が訪れ参道はすごい人「大阪の人は信心深いのね」内心そう信じかけていた予備知識なしにこの日に訪れましたが、良く調べてから日程を決めれば良かった毎月最初の辰の日は「初辰まつり」が行われます、なのでこれが日常ではない様です昼を過ぎ参拝客のピークは過ぎていたようですが、それでも人が途切れる事はありません上段 朱も鮮やかな反橋(太鼓橋)下段 鳥居の先には第三本宮が間近です住吉大社には4つの本宮があり鳥居正面の第三本宮の後方に第二本宮、その後方に第一本宮が建てに並び第三本宮と横並びに第四本宮が並ぶ配置となっています境内正面の第三本宮(左)と第四本宮(右)本宮の本殿は何れも国宝に指定されています左が第三本宮本殿 表筒男命を祀ります右が第四本宮本殿 息長足姫命(神功皇后)が祀られます1810年(文化7)に造営された本殿は、檜皮葺で切妻の妻から入る住吉造の鮮やかな朱が印象に残ります本殿の内部は外陣と内陣に分かれています第二本宮 中筒男命を祀ります外観は千木が外研ぎと内削ぎの違いこそあれ、鰹木は5本で背景がなければどれがどれやら分からなくなりますそれにしてもこの本宮はシンプルでありながら艶やかな美しさを持っています第一本宮、底筒男命を祀ります個人的な住吉大社のイメージはこの4つの本宮に尽きると思っていましたが、本宮以外にも見所が多い一回で紹介できるものではないし、全てを参拝するには一日の僅かな時間ではとても無理です第二本宮の南側のおもと社(侍者社)神功皇后の命により住吉大社初代神主津守氏の祖田裳見宿祢、市姫命を祀り縁結びの神として知られます上段 右は楯の神社(祭神/武甕槌命) 第四本宮右に祀られる上段 左は第四本宮前の神井と翡翠の撫でうさぎ 住吉大社は神功皇后が住吉大神を祀ったのが辛卯の年(211)卯月の上の卯日とされることから、 ウサギが神使とされ、撫でウサギの他にも境内の手水鉢などでウサギの像を見られます下段 右は矛の神社(祭神/経津主命) 第三本宮左に祀られ、矛と楯の二社で本宮を守護する下段 左は第一本宮の左に祀られる大神宮 伊勢遥拝所上段 五所御前と本宮域をつなぐ門、その先は本宮域につながる 右は五所御前から石舞台を経て南参道につながります 下段 本宮域から門を出ると摂末社の連なる五所御前の領域へ 下段右 住吉鳥居の若宮八幡宮(祭神/誉田別尊、武内宿禰) 下段左 五所御前のパワースポット 1800年前に住吉大神鎮座の際に最初に祀られた神聖な場所と云われ 体力、智力、財力、福力、寿力が授かるといわれ、「五」「大」「力」と書かれた小石を 見つけ御守として持つと願いが叶うといわれます 願いが叶えばここで拾った石と身近な石に「五」「大」「力」と書いて倍返しでここに戻す 慣わし、玉垣の周りに集まっている皆さんはその石を探しています早速かみさんも五大力の小石を見つけ、守袋を買い求めお守りに……良くできたシステムです若宮八幡宮の先に祀られる「海龍社」扁額側の表と裏側の双方をお参りするようで賽銭箱が裏表其々に設けられています上段左 立聞社上段右 楠珺社 樹齢1000年を超える楠の大樹を御神木とするお稲荷さん初穂参りの中心的な神社で拝殿前にそびえる樹齢約800年の夫婦楠には、白蛇が住んでいると云われる招福猫が神様のお使いとされ毎月お参りに来ると小猫の招福猫を授かる事が出来、これを48体集めると中猫と交換してもらえます、ここまで4年中猫二体と子猫48体集めて12年、ここで初めて大猫と交換してもらえるしかも大猫は右手招きと左手招きの二種があり、両方が揃って大願成就となるそうですつまりコンプリートするまでには24年を要する……良くできたシステムですそれとは別に「みのりまいり」と「初辰まいり」二番目のチェックポイントで御祈祷の後に「稲種引換券」を頂きます祭神 / 宇迦魂命ご利益 / 商売発達・家内安全上段左 招魂社、上段右 左から薄墨社、斯主社、今主社、八所社、新宮社下段左 后土社 祭神 / 土御祖神、神域全体を守護する神下段右 五社 祭神 / 大領の祖神・板屋の祖神・狛の祖神・津の祖神・高木の祖神・大宅の祖神・神奴の祖神右 星宮 祭神 / 国常立命、竃神左 星宮左の手水舎、ここから左に進むと種貸社方向につながります末社の種貸社「みのりまいり」と「初辰まいり」最初のチェックポイントでこちらで御祈祷を受け「稲種引換券」を頂きます祭神 / 倉稲魂命ご利益 / 資金調達・子宝・知恵下段右 右から海士子社、祭神 / 鵜茅葺会不合尊、 左が兒安社、祭神 / 輿台産霊神上段右 志賀神社 祭神 / 底津少童命、中津少童命、表津少童命下段 摂社 大海神社 祭神 / 豊玉彦命、豊玉姫命種貸社の左手に位置し、住吉大社が創建される以前からここに鎮座していると伝わる一旦五所御前に戻り浅沢社に向かいます上段 五所御前から南門を出た所に石舞台 住吉大社の石舞台と四天王寺の石舞台、厳島神社の板舞台は、日本三大石舞台と呼ばれる 住吉大社の石舞台は1607年豊臣秀頼が奉納したもの(重文)中段 石舞台から南の門をくぐり参道が続く(振り返って全景を一枚)下段 門前の狛犬、住吉大社では個性的な狛犬が多数見られます、全てを紹介するにはページが足り ないので個別に整理した際に紹介する事にします 参道を南に進んだ先の鳥居を一旦出て路地を左方向に進むと右手方向に浅沢社が見えてきます末社 浅沢社ご祭神 / 市杵島姫命 住吉の弁天さんと呼ばれ美容・芸能の女神「みのりまいり」と「初辰まいり」の第三チェックポイントです浅沢社から南の目と鼻の先に大蔵社が鎮座しています末社 大蔵社祭神 / 大歳神「みのりまいり」と「初辰まいり」第四チェックポイントで「稲種引換券」を頂きますこれで引換券は3枚揃いますその引換券は翌月の初辰日に種貸社で籾と交換、楠珺社で籾から稲穂に交換してもらいます最後に浅歳社で稲穂から御神米に交換し「みのりまいり」はコンプリートとなります御神米は「御田」で収穫した米で、持ち帰ってご飯に混ぜて食べる事で御利益が得られる……良くできたシステムです上段左 / 市戎大国社、祭神は事代主神、大国主神、ご利益 / 商売繁盛の守護神下段左 / 御田、御神米はここで作られます 下段右 / 御田の左にある南鳥居御田沿いに参道を北に向かいます上段左 / 南鳥居から参道を進んだ正面の手水舎、手水舎に隣接する祠下段右 / 舟玉神社 祭神 / 天鳥船命、猿田彦神、船の守護神西側の鳥居の一つ、ここから境内を進むと船玉神社につながります鳥居は幾つあるのだろう上段 反橋(太鼓橋) 正面神池に架けられた神橋、住吉大社を代表するシンボルかも知れません この橋を渡る事が御祓いになるとも言われ、参拝者はこの橋を渡り本殿に向かいます 慶長年間(1596~1615)に淀君が豊臣秀頼の成長祈願を願い奉納したと云われます下段 参集殿 上段 北側参道の鳥居、直進すると反橋に至ります下段 北鳥居を守護する狛犬 岡崎形を見なれている眼には温かみがあり、とても新鮮に映ります住吉大社をざっくりと参拝し見てきましたが、しっかりと陽も傾き帰りの電車の時間もあります、今回はここまでです境内の大きさ、摂末社の数、燈籠や狛犬など見所が豊富で一度訪れるだけでは語りつくせない魅力のある神社です住吉大社鎮座 / 神功皇后摂政11年(西暦211年)住所 / 大阪府大阪市住吉区住吉2丁目9-89アクセス / 南海本線「住吉大社」下車東へ徒歩5分程
2019.03.22
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桜の開花宣言もだされここ数日の陽気で開花を期待したけれど寒の戻りからか今一つ開かない膨らんでいたチューリップのつぼみここ数日からパッカンとばかりに開きだす我家の庭にも待ちに待った鮮烈な色合いが訪れてきた自然は感心するほど環境に敏感です雨が降れば土筆はニョキニョキ、暖かくなればつぼみも膨らむ暖かい陽の下で咲き誇る桜を楽しむのはもう少しお預けか自分の体も気温差に敏感、腰が痛~い
2019.03.23
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名古屋市東区筒井、通称出来町通りと呼ばれる県道215号線の山口町交差点から南へ東区役所南交差点を左に向かうと左側に見事な山門が見えてくる、徳興山建中寺です道路の右側の建中寺公園も建中寺の境内で公園の南には瓦葺の重厚な山門が建っています右側には小さな鳥居と社、左に寺号標、門の先から見える公園の先に三門が見えます尾張名所図会を目を通すとこのあたりの絵が出てきた右山門が上の写真にあたり門をくぐると境内の左右には複数の堂宇が描かれています1651年尾張徳川家第二代藩主徳川光友の父である徳川義直の菩提を弔うため建立されたこの門の前で馬を降り参拝した様ですが、今はその先の本堂前の境内に若干の駐車場があり手軽に参拝する事が出来ます山門右の社中のお札から津島社の様です山門から見た建中寺公園と参道の先に三門訪れたのが4月1日、折しも公園の桜も咲き始め彩りを与えてくれる時期でした公園の桜は参道両脇に植えられ見頃までにはあと僅か待ちきれず桜を見に訪れる親子連れも多い公園北側の道路の先が三門、二層の造りのどっしりとした門です方火門三門の右にあり、現在はこの門の先は建中寺幼稚園の園庭となっています扉に施された金の葵紋に威厳を感じます門の左に尾張德川文化を巡る案内板が掲げられています(地元でありながらコンプリートには程遠い)上段三門左に名古屋市教育委員会の解説板から一部抜粋「徳興山と号し、浄土宗。慶安4年(1651)尾張二代藩主光友が、藩祖義直の菩提のため創建。成誉廓呑上人を開基とし、以後尾張德川家歴代の廟所なった。」下段 陳元贇墓所の石標 明の帰化人で詩書をはじめ製陶や拳法など多芸多才の持ち主、晩年は徳川義直に招かれて詩書を講ずるかたわら、瀬戸産の土を用いて陶作に妙技をふるった陳元贇はこの地で没した、その墓所が建中寺にある尾張名所図会の三門から本堂にかけての記録三門(名古屋市指定文化財)二階部分は釈迦牟尼仏を中心に十六羅漢像が祀られるが一般公開はしていない1651年(慶安4)の創建当時の建築物で、総檜造りで三間重層門と呼ばれる建築様式幸運にも戦災に遭う事もなく今も当時の姿を留めます三門の先に漸く本堂が見えて来ました門の扉にも葵の紋が輝く三門から境内へ左に手水舎、お地蔵様が見守る手水鉢本堂1785年(天明5)の大曽根の大火で延焼し門を除き焼失してしまう現在の建物は1787年(天明7)に再建されたもの(名古屋市指定文化財)入母屋造りの瓦葺きの建物は市内の木造建築物としては最大と言われています本尊阿弥陀如来開山廓呑上人が結城弘経寺から招来したとされ、止利仏師作と言われる大火の時は持ち出して無事であった見事な彫が施され煌びやかな堂内です本堂から三門を振り返る鐘楼三門東側の幼稚園敷地の一画に建つ、1787年(天明7)に再建されたもので瓦葺きの入母屋造りで袴腰つきの鐘楼です袴腰付鐘楼の様式は鎌倉時代に流行ったもので、他にも相応寺や大龍寺などで見かける事が出来ます四方が吹き抜けの鐘楼に比べると存在感があります内部に吊るされた梵鐘は戦時中の供出を免れ現在も残っています(名古屋市指定文化財)本堂右の経堂漆喰で塗られた二層の堂は棟札によると1828年(文政11)まで遡る内部の八画輪藏内には鉄眼禅師開版の黄檗版大蔵経五千八百巻が納められ、実際に輪藏を回転させることができる(要入館料)現在の堂は2004年(平成14)に修理を受け、境内で白く輝いています八画輪藏は善光寺や高野山に参拝に行かれた方は見覚えがあるかと思います書院本堂の右側に建ち、唐破風が印象的1964年(昭和39)に再建されたもの不動堂(明王堂)手水舎の左に建つ堂で「東海三十六不動尊霊場 南無大聖不動明王」と書かれた赤い幟が並んでいます現在の建物は1969年(昭和44)に再建された様です、佇まいはなかなかのものです本尊は不動明王江戸時代から尾張徳川家の戦勝を祈願する秘仏として受け継がれている堂内正面に前立て本尊の不動明王が祀られています地蔵堂不動堂(明王堂)の左に建つ小さなお堂で、内部には2体の地蔵様が祀られています尾張名所図会が描かれた当時、既に建立されていて右隅に小さく描かれていました開基堂不動堂(明王堂)の左に建つ寄棟瓦葺のお堂棟札によると、火災消失以降の1786年(天明6)に再建されたもので内部には歴代住職の位牌と開山上人中興上人の木像が安置されているという開基堂から左へ、本堂脇の参道に向かいます開基堂から左に進む桜の美しさも見事ですが、後方に祀られた巨大な馬頭観音に足が止まるここから先は桜並木と複数の碑が並びます参道の突き当りを左へ石畳の先に木陰の下に佇む小さな山門陰影の中で葵の紋だけが浮かび上がっている至る所に葵の紋が施され、尾張德川家菩提寺の風格を感じます当時の伽藍もそれに見合う大きな規模のもの現在は境内を車道が横切り、公園や幼稚園も併設され随分と様変わりしました徳興山建中寺建立 / 1651年(慶安4)宗派 / 浄土宗本尊 / 阿弥陀如来住所 / 名古屋市東区筒井1丁目1番57号アクセス / 基幹バス2「山口町」下車南へ徒歩10分程2019/04/01撮影下は2017年の御朱印
2019.04.22
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名古屋市熱田区大瀬子町陸路でつながれた東海道も、ここ宮宿から桑名宿までは、七里の渡しから海路となります七里も船に乗れない、乗りたくない旅人は佐屋街道へ迂回、佐屋宿から桑名までの三里の渡しを選択する事になりますどちらを選択するにしろ旅人が集中する場所、当然ながら湊からの物流や食事処、宿が集まる一大拠点当時の賑わいは尾張名所図会や広重の浮世絵から想像する事が出来ます今は七里の渡し公園として整備され、復元された常夜灯と時の鐘が名残りを留めていますそうした歴史のある土地柄なので白鳥橋から内田橋方面にかけて多くの寺社が残りこの界隈を訪れると離れる事が出来なくなります一方通行、時間進入禁止ばかりなので自由に移動できる歩きが一番効率的写真は堀川に架かる大瀬子橋、左からは新堀川が交わり、堀川を下ると名古屋港へと続きます今回は七里の渡しから堀川方向に徘徊してきました大瀬子浜公園の北側交差点角の大きなマンションの一画に組み込まれるように、東西に長く、南北に狭い境内を持つ「軻具突智社」軻具突智社の正面全景境内の幅が無い事から社号標と鳥居は社に対し斜めに向いて建てられています左は大瀬子橋方向歩道に沿って石垣が積まれ、結構高い場所に社と狛犬が祀られています境内に入って左に手水鉢歩道側と参道側から注意深く見るも年号が刻まれている痕跡は見つけられませんでした社前景羽団扇の紋が飾られた扉の先に、千木鰹木が施された社が佇む狛犬が居たはずですが門柱に遮られ今一つ姿を見てとれない扉の前まで上がって漸く狛犬が姿を現します(2枚重ねの写真なので阿形は実際より小さくなっています、お許しを)まずは参拝させて頂きます「町内安全」と刻まれた台座軻具突智社の鎮座する大瀬子町の他に内田町、神戸町、木之免町、須賀町、田中町、白鳥町等の町があるけれど、各町内に一社あると言っても過言ではないでしょう狭い通りに住宅は密集し、棟続きの住居も残るだけに、火之迦具土神(軻具突智)を祀る秋葉神社は火災除けとして必然的に祀られていったのかもしれません社から東の大瀬子町の眺め、氏子達が住む街並みが良く見通せます軻具突智社の由緒について記載した物がないので詳細などは不明ですが遡って調べてみてもそれ程過去のことではなさそうです創建を知る手がかりとして、玉垣などに文字が彫られているようですが識別は出来ません確実に識別できるものは大正十一年(1922)と刻まれた鳥居くらいでしょうか小高く積まれた台座から、古い街並みが続く大瀬子の町を一望しています2019/08/10『軻具突智社』創建 / 不明祭神 / 火之迦具土神住所 / 名古屋市熱田区大瀬子町28アクセス / 市営地下鉄名城線伝馬町駅 から徒歩約15分
2019.08.16
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名古屋市瑞穂区中山町の「中山神明社」へ参拝所在地は名古屋市立大学山の畑キャンパスの東と書けばイメージしやすいでしょうかキャンパスの東側の通りから北方向の眺め、直ぐ先に昭和税務署があり、その先は東西に伸びる八熊通りが見えています通りから東を眺めると住宅街に「ここが中山神明社だよ」と云わんばかりに杜が見えています中山神社を西側から見た眺め南から見た全景、街中にあってこの杜はとても存在感があります鳥居前から境内の眺め、鳥居の先の吹き抜け拝殿、左右に末社がある様です神社入口の由緒書き、細かく記録されこれを見る事で神社の生い立ちが良くわかります内容は「1667年(寛文7)、名古屋南寺町の養林寺の住職、専誉上人(せんよしょうにん)、愛知県高田村字藤塚の古墳上に祠を建立、天照皇大神を奉祀したのが神社の起源である。以来、1692年(元禄5)呑良上人、1754年(宝暦4)に明誉上人により熱田大神、若宮八幡社を歓進合祀。1907年(明治40)県立第五中学校、国立第八高等学校開校の為現在地に遷宮。1923年(大正12)社殿を造営。1937年(昭和12)神域を拡張。1939年(昭和14)秋葉社、天王社を合祀。1984年(昭和59)神木を龍神として奉祀。1987年(昭和62)大宰府天満宮を歓進合祀。」とあります今昔マップで明治・大正・現在と見比べてみます由緒に出てくる高田村藤塚、現在のキャンパスを含め昭和税務署一帯が西藤塚として地名が残っています瑞穂台地には塚も含めると相当数の古墳があり、八高古墳(青丸)はキャンパス内に現存し、ここから遷宮されたようですキャンパス内には、5世紀中頃の円墳と前方後円墳の二つがあり、原形は留めていないながらも残存するそうです八高古墳の名は国立第八高等学校の八高から付いた様です上段左が遷宮前の明治24年の当地ですが、鳥居マークは出て来ません下の大正になって国立第八高等学校や鳥居が表れてきます境内に入ると、大正12年と刻まれた玉垣、燈籠は社殿造営時の献納されたものですその先の左が手水舎眼光鋭い青光りした龍は綺麗な清水を満たしてくれています街中の神社なのでそれ程広いものではありませんしかし、拝殿、社務所、境内社もありながら良く纏まっていて境内は意外に広く感じます拝殿前の狛犬の達拝殿前景、切妻瓦葺の吹き抜け拝殿、賽銭箱に五七の桐派手な飾り金具で着飾る事無く、シックな佇まい拝殿、本殿と右の建物が社務所拝殿扁額(左)と本殿側の軒下の奉納額、☆と梅?、つるはし?つながりは分からない本殿全景大きなムクノキが作る木陰の下で南を向いて祀られています本殿左の三社を参ります左から津島社、秋葉社、熱田神宮と並びます次に本殿右の神明天満宮を参ります神明天満宮全景絵馬には道真公の姿が描かれています1987年大宰府天満宮を合祀とあります、梅紋や撫で牛は見当たりません社号標の脇に「飛梅」がありますが、それを主張するものはそれくらいです境内東外れの社務所拝殿右に聳え立つ楠木、正面に鳥居を構えた神明龍神社大きな木の立ち姿には神々しさを感じるものです、そうした場所には白蛇や龍が住むと語り継がれます神明天満宮右脇のムクノキ、保存樹として年輪を重ねていくとやがて白蛇が住みつくのでしょうね古墳の上で鎮座し続ける事ができた神社もあれば、引っ越しするしかない神社もあるけれど境内の手入れの良さ、由緒書きなど氏子に厚く崇拝されている事から、ここ中山神明社は引っ越して来て正解だったのでは「中山神明社」創建 / 1667年(寛文7)祭神 / 天照大御神境内社 / 秋葉社、熱田神宮、津島社、神明天満宮、龍神社住所 / 名古屋市瑞穂区中山町2-5アクセス / 市営地下鉄桜通線「桜山」下車、西へ徒歩で10分程
2019.08.18
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名古屋市熱田区大瀬子町1010等覚院の西筋の交差点を右に、最初に左に入る通りが秋葉社のある道筋になります等覚院から歩いても1、2分のところにあたり、正面は大瀬子浜公園です通りに入り左側に玉垣が見えると思います、大瀬子町1010の「秋葉社」です民家と民家に挟まれ、正面は扉の設けられた石の玉垣、他は板玉垣で囲われています社は高く積まれた石垣の上に鎮座し、ほぼ北を向いて祀られています社脇に一本の御神木がある細長い境内は、道の両脇を民家が立ち並ぶなかで神域として与えられ、その空間だけは開けています羽団扇の紋が飾られた扉の先に、鰹木と千木があしらわれた社が鎮座しますここ大瀬子町というか、この通りの氏神様が秋葉社と形容してもいいかもしれません創建等の詳細は分かりません近くの軻具突智社もそうであったように、創建はそれ程過去のことではなさそうですそれを知る手がかりの一つとして燈籠に刻まれた「昭和十年」1935年が唯一のもの当時はまだ南区熱田大瀬子と呼ばれていた頃で、現在の熱田区となったのはそれから2年後の事由緒は分からないけれど、この界隈自体は東海道唯一の海路「七里の渡し」があり、古くから旅籠や茶店が軒を連ね賑わっていた場所人が集まれば火伏の神が祀られますが、未だ出逢っていないだけの事かもしれませんが、古くから受け継がれた秋葉社はそれ程多くないのでは?大瀬子町の一本の道筋に鎮座する秋葉社、軒を連ねる家々を守る氏神様ですこの界隈の秋葉社はまだまだあります2019/08/21『秋葉社』大瀬子町1010創建 / 不明祭神 / 不明住所 / 名古屋市熱田区大瀬子町1010アクセス / 市営地下鉄名城線「伝馬町」駅下車西に10分程
2019.08.23
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春宮の鳥居から東の秋宮に向け、南垂れの斜面に残る旧中山道を歩く事5分程左側に石段が現れ、庚申塔と白華山慈雲寺寺号標が建っています石段の右には龍の口があるこの水は慈運寺を訪れる参拝者のために造られ、江戸時代は中山道を行き交う旅人の喉を潤したという江戸時代中期に旧横山村(現在の岡谷市)の山田金右衛門により造形された竜頭水口は通称「龍の口」と呼ばれ、龍の口からは今も絶え間なく水が注がれています龍口後方の解説板慈雲寺へはこの石段を上っていきます巨木に包まれた石段の途中に山門が見え、参道は更に上へと続きます急な石段の続く参道脇には複数の祠が建てられています藤森、白鷺、駒形三社稲荷神小さな狛犬一対の先に建つ堂、堂内の掛け軸に書かれた弘法大師の文字と白躰龍王赤、黄、白の御幣は確認できるけれど、他の情報が読み取れません堂の左に注連縄が架けられた小さな瀧不動明王像と○×龍王の碑がある、修行の場?龍王水?山門も近付いてきました、その右側にも急峻な斜面に石が積まれ三社祀られていますしっかりと表札も掲げられていながら、それを撮っていない大失態・・・・・思い出せません静かな参道ですが山門の先から時折車の通り過ぎる音が聞こえてきます先程の三社の上斜面にも祠開運厄除不動明王とあり、自然石の上に大きな不動明王像が安置されています全ての不浄を焼き払うと云われる火炎光背、明王や二童子像に施された彩色は随分色褪せていますこの像は1860年(万延元年)高遠の氷沼庄兵衛室宗寿の作とある調べて見たけれど人物像を知る事は出来ませんでしたが、作品は威厳がありいいものだと思います段々畑の様な参道脇最上段に大きな覆屋があり、御柱が建っています、その脇に小さな社が祀られています参道の上は車道になっているようです厄除観音とあり、扉は閉ざされ像を見る事は出来ませんでした覆屋には弥栄富神社とあるが、なんと読むの?富町にあった弥栄神社? 違うよナ弥栄富神社の右に「矢除石」と呼ばれる岩が在ります慈雲寺中興の祖、天桂上人を師と仰いだ武田信玄戦に行く際に慈雲寺に立ち寄った信玄は、天桂和尚に戦勝の教えを請うたそうです和尚は境内の岩の上に立ち、信玄に「弓で射よ」といい射かけさせたそうです信玄が放った矢全て岩にはじかれ、釈然としない信玄が訪ねると「この岩には矢除けの霊力がある」と教えられ、信玄はこの不思議な力が込められた矢除札を持ち戦に出向いていったそうです急な石段も終わり、視界が開け、目の前は国道142号線参道はここで一旦途切れ、国道を渡った先に二つ目の山門が現れます山門右側には慈雲寺の寺号標と駐車場があります車で通ると、ここが一の山門と思ってもおかしくないのでは下で見かけた不動明王は見逃す事になる、歩いて正解です二つ目の山門の奥にはもう一つ門がある様です門をくぐり参道へ両脇は杉並木が続き、石畳の両脇は緑も眩しい苔が絨毯の様に続きます右手は延命地蔵を安置する地蔵堂杉と桧に囲まれた参道脇と境内は一面緑鮮やかな苔の絨毯真っ直ぐに続く石畳の先に二層の山門、その先に松の姿が見えます癒しを与えてくれる清々しい空間です、初めて訪れましたがここはとても気に入りました春宮には大勢の参拝客が訪れるものの、慈雲寺は静寂に包まれていますもっと着目されていい寺なのでは?参道左に金刀比羅宮左に一つだけの石燈籠がありその脇には解説板があります金刀比羅宮についての解説ではなく石灯籠に対して解説されているものです「海印寺高麗形創作燈籠」普段見慣れた一対の石灯籠、古くは一つが正式な形だったようです韓国の海印寺にある六角形の石灯籠を原型にして、四角柱にアレンジしたもの春日大社の石灯籠「柚ノ木型」の源流となったと云われているようです直線を基調としたシンプルな燈籠です金刀比羅社の右日根野高吉の供養塔日根野高吉は豊臣秀吉家臣で高島城の城主、江戸時代初期の1600年(慶長5)に没する息子の日根野嘉明は1649年(慶安2)、高吉の50回忌供養の為に建立したものがこの五輪塔と云われます諏訪にある五輪塔としては最大で、1970年(昭和45)に下諏訪町の文化財に指定されたもの三つ目の山門前、左右に石仏が建ち、良く見慣れた形の燈籠が一対傍に寄りたいところですが、この見事な苔を踏みつける事は出来ないですね観光客までが踏み入れる事で苔は痛んでいきます三つ目の山門から境内二層で左右に仁王像を配し、二階に梵鐘のある楼門慈雲寺は春宮の鎮護を目的に建てられた鬼門寺で、下社春宮幣拝殿が1780年(安永9)ですが、この山門は、1777年(安永6)に村田長左衛門矩重により建立されたと伝わります慈雲寺は1806年(文化3)に本堂、庫裏、宝蔵など殆どの伽藍を焼失しましたが、唯一、この山門だけは焼失を免れまぬがれたそうです建立当初から慈雲寺の移り変わりを見続けています両脇の仁王像随分と状態の良さが目に付きますそれもそのはずで、1996年(平成8)に安置されたそうですこれから年月を重ね一層風格が増していく事でしょう楼門から境内石畳が敷かれ左に伸びていきます右手には赤松の一種で天桂松と呼ばれる見事な松が出迎えてくれますその下は生き生きとした苔庭が広がります「天桂の松」の樹齢は推定400年以上、苔庭一杯に広がったその枝振りは見事慈雲寺を開山した天桂和尚の手植と伝えられる、松の古木は1972年(昭和47)に下諏訪町の天然記念物に指定されています本堂正面の枯山水「帰錫庭」10個の巨石が配され、各々の石には意味がある様で、お釈迦様が修行から戻って来た時の弟子達の様子を石に見立てているそうで、「釈迦十大弟子の庭」とも呼ぶそうです枯山水を含めこの庭園の手入れは、京都から庭師を呼び手入れされる様です砂紋の白と石の周りに植えられた苔の緑のコントラストは美しいこれほど手入れされた庭を持ちながら、拝観料を取らない事に驚きを覚えます本堂扁額白華山慈雲寺宗派 / 臨済宗妙心寺派開山 / 1300年(正安2)山号 / 白華山本尊 / 千手千眼観世音菩薩現在の本堂は焼失後の1808年(文化)に再建されたものですこの本堂の裏にも庭園があります楼門の正面に地を這うように枝を張る天桂の松白砂の上に浮かぶ姿は緑豊かな島のようにも見えます 境内左の鐘楼梵鐘は1368年(応安元年)の鋳造で町指定有形文化財諏訪八景の7番目に「慈雲晩鐘」として、慈雲寺の夕暮の鐘声が諏訪を代表する一つとして選定されています清浄光殿とその前の石灯籠慈雲形石灯籠現在採石が禁止されている三名石(奈良石、白川石、本御影石)を用い作られている池泉庭園本堂裏手にあり、この後方にバイパスを作る計画があるようです少子高齢化、過疎化、車離れが進む中で継続的なインフラ維持を含め、慈雲寺が唱えるバイパスの必要性を問う幟は将来に向けての警鐘でもあるように思えます本堂左手から枯山水の庭園の先の天桂の松、楼門、鐘楼の眺め本堂全景と庫裏桜、苔、紅葉、針葉樹の緑と一年を通じて表情を変える趣のある寺だと思います信玄に庇護された慈雲寺、素通りするには惜しい寺です住所 / 長野県諏訪郡下諏訪町東町中606
2019.11.09
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京都府舞鶴市西 玉岡稲荷神社舞鶴西港ふ頭に近く、道の駅「舞鶴港とれとれセンター」から国道175号線を西町交差点右に入る。古い街道道だろうか? 細くて曲がり角の多い道が続く、見樹寺を右に見ながら早朝の町を歩く。この辺り一帯は愛宕山の北側に位置し、愛宕山は古くから信仰の山として崇められているようで、一帯の山裾には細い道沿いに複数の寺や神社が纏められています。玉岡稲荷神社はそんな道筋にあり、曲がり角の突当りに鎮座していました。左に浄土宗のお寺「見海寺」と玉岡稲荷神社が並ぶように鎮座しています。鳥居左手に社号標、階段の先に赤い明神鳥居が建っています。玉岡稲荷神社扁額神社の規模の割には鳥居も額も立派なものです。境内に入り目を引くのは、左の手水鉢とその先にある石灯籠、キノコの様に見えなくもない。自然石そのままを傘にした様な燈籠、苔むして味のあるものです。神社の創建に繋がる様な奉納年号が彫られていないか見ておくべきでした。石灯籠の左の見海寺の石垣に小さな祠。中には像容も分からない複数の地蔵が安置されていて、中には大きく欠損したものもあります。境内に戻り稲荷鳥居に向かいます、狛狐と右手奥に本殿が見えています。耳が立派な狛狐、結構痛みが目立ちますが風格が漂います。台座の年号は明治20年(1887年)と彫られているようです。鳥居の左に赤い小さな社が祀られていましたが、詳細は不明です。本殿前に先程のキノコの親ともいえる石灯籠が一対、もう一方は右手の大きな木の陰に隠れ気付きにくい。燈籠も春日、織部、平等院など種類が多く全く分からないけれど、個人的にこの手の燈籠が好きなだけに名前くらいは調べないと。本殿高く盛られた神域に朱塗りの玉垣で囲まれ、東を向いて本殿が祀られています。伏見稲荷大社から勧請された由緒ある神社の様ですが、詳細は分からないままです。大きな鈴が二つ吊るされた本殿、早朝で静まり返った境内に鳴り渡る。愛宕山の裾野に建つ玉岡稲荷神社は朱色の鮮やかさとキノコが印象に残る神社でした。玉岡稲荷神社創建・祭神 / 不明住所 / 京都府舞鶴市西79 隣の見海寺に向かいます玉岡稲荷から見る山門と石垣が描く曲線が印象的です。早朝なのでシルエットになってしまいましたが、漸く空も明るくなりました。浄土宗 龍詣山 遍照院 見海寺玉岡稲荷神社左の石段の先が見海寺への参道山門全景瓦葺の山門には三つ葉葵の門幕。この門はここから東にあった田辺城から移築したものと云われます。田辺城は細川藤孝により1582~91年(天正10年代)に伊佐津川と高野川の間に作られた城。城を中心にして見海寺のある西町は、高野川の西に当り、城の守りの要でもあった様です。入り組んだ細い道筋に多くの寺が集められたのもそうした理由からかも知れません。山門をくぐると目の前に両脇に火灯窓のある本堂。1660年に源誉和尚により開山され、すぐ東にある浄土寺の末寺。舞鶴湾を見渡す絶好の場所だったようですが、現在は近隣に住宅が密集する事もあり眺望はききません。境内左に地蔵堂と手水舎があり、清水は常に注がれています。11月ともなると清水の冷たさは正に清めてる実感が伝わってきます。境内左手奥の建物は恵比寿神社。棟札から1692年(元禄5)に建立されているようで、浄土宗のお寺に恵比寿社が祀られるのは珍しいと云われます。恵比寿神社なので事代主神が祭神、恵比寿様として親しまれる鯛釣り名人です。境内の「舞鶴百選」の石標と解説板、舞鶴百選全く知りませんでしたが、古くから栄えた港町なので意外な事と出逢えるかも知れない。設置された城下町倶楽部とは西町を中心として情報発信を行い、地元の活性化につなげる趣旨で発足された有志による会の様で百選の内34までが纏まっています。限られた予算の中での活動、webに現在休止中とあります。本堂西から境内の眺め恵比寿神社右側が庫裏の様です。2019/11/16龍詣山見海寺宗派 / 浄土宗開基 / 源誉和尚により1660年に開山本尊 / 不明住所 / 京都府舞鶴市西71
2019.12.15
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メインで使っていたコンパクトカメラの代替え機、到着しました。これでバッテリー切れの心配もないだろう。何よりフォーカススピードが遅くなり、マクロなんかカメラのご機嫌次第、ピントが合わない、合わせる気が無い。釣りの時にも使っていた事もあり、落とすは、ぶつけたりするは、自分が一番悪いのだけど、手軽に持ち歩き、思った時に撮る用途だと避けられないのかも知れない。バッテリーの劣化(700円程で入手可)が踏ん切りをつけるきっかけとなりました。清水の舞台から飛んでみた。(増税前に飛べば良かった)今回、代替機として決めたのはCANON PowerShot SX420 IS 早速箱を開けてみた、取説とストラップ、レンズカバー、バッテリーが梱包されていた。取説を読んで見る・・・・・文字が小さくて読む気にならないソフトケースは付属ではないので100均で何か考えよう。レンズが本体に収納されるタイプとは違い、側面は結構出っぱっている。写真だと大きく見えるけれど、気になるほどではありません。ズーム機能は前のモデルが光学40倍だったものが、この機種から光学42倍になったそうな。「プログレッシブファインズーム」を使えば84倍までズーム可能ともある。どれくらい寄れ、どのくらい画素数が落ちるのか試してみよっと。背面パネルファインダーが無いのはこれまで同様なので違和感なし、保護フイルムは必要だよね、100均で買ってこようせ。操作ボタンも似た様なもの、残念なのは内臓ストロボ、ボタンで起き上がるものと思い探して見るも何処にもない。なんと自分で持ち上げるようです、という事は戻しも発生する訳です。ストロボは使わないので支障はないか?大きさの比較左上がメインのコンパクト、小型ながら金属を多用、冬は触るととても冷たくなる。その分質感もあり、多少の衝撃は苦にしなかった。下が新しく買った代替機、出っ張ったレンズが無ければほぼ大きさは同じくらいか。見た目は間違いなく樹脂満載、本体のネジも含めてチープな感じです。持った感じは見た目の大きさに対し以外に軽い、ズームはブレやすそう。右は出番の少ないデジタル一眼、デカくて重いけれど構えた時の安定感はさすがです。上から見ると一眼に比べ圧倒的に小さい、ナンチャッテ一眼の雰囲気は漂っています。コートの内ポケットに入る大きささですね。実際に使って、比較をしてみたいけれど、フル充電後にしてみよう。昔、同様のO社のデジカメを持ったことがある。当時は電池の時代、ズームを多用すると消耗が早く、懐にやさしくなかった印象がある。新しいカメラもズームを多用すればバッテリーの消耗は早いでしょう、でも充電すればOKです。小遣いの消耗はない。開梱し、触ってみての感想、毎月の小遣い(ほぼ変化なし・・・・・)の枠内で買えたので満足。使った印象はここに書き足して行こう。
2019.12.16
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京都府舞鶴西「新町金刀比羅神社」玉岡稲荷神社/龍詣山見海寺から東に向かって街道筋を2~3分程歩いて行きます。この道筋にあたる新町、西町はその昔は旅籠町とも呼ばれていたそうで、旅籠やが軒を連ねていたと云います。今は旅籠屋から民家に変わっていますが、道筋には当時の雰囲気が漂っています。南には愛宕山が迫り、妙に狭くて入り組んだ道筋は東の田辺城へと続きます。歩き始めて直ぐ、右手に「長久山 妙法寺」の寺号標とその先に赤い山門が見えてきます。ここは立ち寄りたいけれど先に進むことにします。この道筋には寺社が多く、時間の制約がある放浪者にとっては悩むところ。妙法寺を通り過ぎ、道筋の右側に浄土寺の寺号標とその先に赤い鳥居が見えて来ます。昨晩、晩御飯を求め彷徨い、通りすがりにこの前を通り、自由時間には行きたいと思っていた場所、目的地「新町金刀比羅神社」です。浄土寺と隣り合う様に鎮座しています。「新町金刀比羅神社」全景石の明神鳥居(1921年)、参道の正面に社、参道脇に二社が祀られ、鳥居前には金刀比羅神社と刻まれた石燈籠(1932年)が建てられています。道筋から見る境内、境内は二段になっています。道筋から鳥居をくぐると、左に手水舎、その先に赤い鳥居が二つ並ぶ社、右手に流造の社。参道の石段を登ると金刀比羅神社の社。鳥居をくぐり境内へ。左の赤い社、詳細は分かりませんが伏見稲荷から勧請したものでしょうかね。右の社は弁財天。日本三大弁財天(竹生島の都久夫須麻神社、宮島の厳島神社、江の島の江島神社)の江の島から勧請された様です。小さな社ですが木鼻には彫が施され、中には美しいふくよかな弁天像が祀られているようです。この金刀比羅神社は新町構いで、その始まりは江戸時代にまで遡ると云われています。讃岐国(現在の香川県)金刀比羅宮を本宮とする金刀比羅信仰は、江戸時代に非常に盛んになり、海運救助、商売の守護神として全国に勧請されました。嵐に翻弄され、あわや船が沈むその時、金刀比羅さんの御幣が降ってきて助けて頂けると信じられていたそうです。金刀比羅神社の玉垣の寄進者に吉原町の漁師達の名が多く刻まれ、厚く信仰されていた事が分かります。1896年(明治29)の山崩れで社殿が被災、1931年(昭和6)に再建されたのが今の社殿です。石段下から社殿を見上げると、山肌はすぐ後ろに迫っている事が良くわかります。金刀比羅神社扁額社殿から苔生した境内を振り返る、左右の赤い鳥居と石造りの鳥居、その前の道筋は旅籠屋が軒を連ねた街道筋。ここから眺める鳥居の笠木と島木が描く反りは美しいものがあると思います。社殿から西にはお隣の浄土寺山門が一望できます。 石燈籠(1932年)は再建後に建てられた様ですが、道筋に建つこの燈籠は古い街道の趣を感じさせてくれます。新町「金刀比羅神社」創建 / 不明(再建1931年)祭神 / 大物主神境内社 / 弁天社、稲荷社住所 / 京都府舞鶴市新町小字新町
2019.12.23
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新町「金刀比羅神社」の西隣に立派な山門が印象的な寺「随心山浄土寺」は鎮座します。先に訪れた「龍詣山遍照院見海寺」はこちらの末寺にあたる。通りに沿う様に石垣が高く積まれ、庫裏が建っているので、道筋から山門以外の伽藍は良く見えません。東西に続く道筋から真っ直ぐに山門をくぐり境内に続く訳ではなく、山門が東を向いて立てられているので、参道は山門前から右に曲がります。すんなりと入れさせない?城の様な雰囲気が漂う。金刀比羅神社から見下ろす浄土寺が伽藍を見るには一番のビュースポットかも知れません。この立派な山門を持つ浄土寺の創建は定かではありません、末寺の見海寺が1660年の創建である事からそれ以前の創建と思われます。しかしながら、浄土寺は1946年(昭和21)に火災で山門を除き焼失してしまったようです。火災の難を逃れた山門が伽藍の中では一番古い物のようです。入母屋瓦葺の屋根、その大棟の両脇に乗せられた鯱瓦に目が行きます。鯱は火災の際には口から水を吹き出し火除けとされます。1946年の火災で山門が被害を免れたのも鯱のお陰かも知れません。山門は二層になっていて、上層を鐘楼としたこの造りはこの辺りでは珍しいもののようです。下げられるた梵鐘には、時の住職三誉(團仲)の知る限りの寺の歴史が銘文として刻まれているそうです。当然ながらいくら仰ぎ見ても見れる訳もなく。 山門の木鼻の装飾は獅子でしょうか、それ以外に各所に施された透かし彫など、なかなかのものです。隅棟の大きな鬼飾り、デザインは良くわかりませんが、早朝の空を背景にシルエットは像の鼻のようにも見えてきます。山門から境内の眺め浄土寺はこの地方の浄土系寺院の中でも古い起源をもつ浄土宗の寺院。江戸時代に田辺藩政に関わる有力な寺として位置付けられていたそうです。残念ながら火災により焼失し、現在の本堂は近代的な姿に生まれ変わっています。境内をひと回りしたいところですが時間も早いのでここまでとします。こちらの寺院も舞鶴百選の一つ、有志により語り継ぎたい地元のスポットとして解説板が設置されていました。「この地方の浄土系寺院の中でも古い起源を持つ浄土宗の寺院。江戸時代に田辺藩政に関わる有力な寺として位置づけられていた。昭和21年の火災で、山門だけを残し本堂等は焼失したが、今に残る山門(鐘楼門)は二層の楼門につくり、上層を鐘楼としておりこの地方ではめずらしいもので、鐘楼に下げられている鐘には、時の住職三誉(團仲)上人が、記憶にある限りの寺の歴史を鐘銘にとどめている。城下町倶楽部」焼けてしまい趣がなくなったとは言え、歴史が無くなる訳でもなく、この山門を守る鯱と語り継ぎたい歴史的建造物がある事は素晴らしい事です。我が町にこれ程の情熱を持って語り継ぎたいものは・・・・・そろそろかみさんも目覚める時間です、車に戻る事にします。「随心山浄土寺」山号 / 随心山宗派 / 浄土宗本尊 / 阿弥陀観音地蔵住所 / 京都府舞鶴市字新103
2019.12.24
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昨晩の事covid-19の感染者が出ていない自治体に住む息子から「マスク送ってください」のライン我家は一切買いだめをしていない事は今も、これからも同じだ在庫を分けて送るにしても、当該自治体、親方から公式発表の気配がないけれどどれだけタイムリーに公表されるのか対応が楽しみだ以前「温い」と書いたけれど、新幹線は時間約300㌔、飛行機は1000㌔で移動できる自転車並みの情報公開だけは避けてほしいものありのまま、真実をタイムリーに公表することを一番求めている情報なくして、自己防衛もとれまい感染する事より、知らさられない事の方が何より恐ろしい日頃から信じられる振舞いをしてきただろうか???
2020.02.29
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春日井市神領町『三明神社』県道15号線志段味中学校西の交差点を左折、県道75号線(春日井長久手線)を経由し下志段味橋を渡ります。庄内川を超え春日井市に入り神領町南の交差点を左折、一筋目を左に入ると杜が視界に入ると思います、その杜が神領町の「三明社」。神領町公民館から見た三明社は広大な敷地の中に杜が残され、南向きに拝殿等の伽藍が広がる。公民館の左の大きな解説板は神社の由緒が書かれているのではなく「神領第一号古墳」の解説板でした。この解説板の後方の更地部分が神領1号古墳、コンモリ感がないので古墳の痕跡は残っていません。過去より盛り土は取り除かれていたようで、平成に入り2回の発掘調査が行われ、横穴式石室と須恵器 の蓋坏・高坏などの埋葬品が発掘されています。直径15mほどの円墳らしく、石室は発掘調査後埋め戻され、石室の場所を示す石組みが地面に並べられ、大きさを知る事ができるようになっています、広大な駐車場ではないのでご注意を。公民館の右に参道らしき道筋があり、小社が二つ見える。左の社は社名札はなく詳細は分かりません。右の灯篭の文字はしっかり彫られているが達筆過ぎて読めない。地名?ひなご、神領、篠木、しだみ・・・・・???想像すらできない。参道の右の大きな樹の下にも年季の入った社がある。札は掲げられ文字が書かれていた痕跡はあるが読み取れません。公民館の裏からが参道のようで石鳥居があり、真っすぐに拝殿に繋がっています。参道と思い込んでいた道は車も通る生活道路のようです、右手の堤が庄内川右岸堤防。鳥居の扁額、なんとなく新しいような気がします。両脇に常夜灯(大正2年)と参道中央にも一基の灯篭があり、それぞれ年代も違うようです。参道左の立派な木、種類は分からないけれど若葉の緑がとても目に優しい。参道中央の灯篭の先が拝殿。境内の右に三つの社が祀られているようです。瓦葺切妻で妻入の四方吹き抜け拝殿、そこから渡廊を経て幣殿、本殿に繋がっている。鬼飾りと虹梁下に十六葉の菊紋、龍の彫飾りが施されています、縣魚の鰭には雲?が彫られています。拝殿後方の狛犬(1932年建之)。拝殿内を見渡すも創建に繋がる記載は見当たりません。祭神は伊弉册命、日本武尊、品陀和気命の三柱の様です。常夜灯の建之が1913年とあったけれど、上の地図は左が1891年、右がほぼ現在。1889年(明治22)に 大留村、堀之内村、熊野村、桜佐村、神領村が合併し雛五(ひなご)村となります。この周辺の建物で「ひなご」と残るものはここから来ているのかもしれません。地図には神領集落の北東の外れに鳥居の印が見られます。ここの地名神領は「しんりょう」と読むことから、その昔は神に仕える神官が暮らしていたので「神の領」が縮まり神領と呼ばれたようです。今は「じんりょう」と濁るようです。創建は更に遡り、尾張誌に「三明の社は、神領村にあり」と記されていることから、1844年(天保15)には既に何らかの形でここに鎮座しているのでは?拝殿右からの眺め。緩やかに盛られた斜面に幣殿、本殿が建てられています。拝殿右の三社は右の社は名札に「御嶽社」とありますが、他の二社は社名札がなく分かりません。拝殿左の眺め。本殿左に社があります。こんもりと盛られた斜面に石垣が組まれ、その上に社と意味あり気な二つの石が左右に置かれています。この社にも札はなく詳細は分かりません。本殿を横から見ると流造なのが良くわかります。本殿後方が小高く盛られている部分は、どうやらここも古墳の様です。三明(さんめい)神社古墳と呼ばれ、直径約20㍍、墳丘の高さ3.4㍍の円墳。神社は墳丘斜面を利用し建っている感じです。この周辺には神領第4古墳(現存はしない)など、神社周辺は複数の古墳があったようです。この辺りの神社、どうやら古墳がついて回ってくるようです。春日井市神領町『三明神社』創建 / 不明祭神 / 伊弉册命、日本武尊、品陀和気命住所 / 春日井市神領町屋敷田1032公共交通機関アクセス / JR中央線「神領」駅下車、南へ15分程志段味西新外「秋葉神社」から車のアクセス / 県道15号線⇒志段味中学校西交差点を左折⇒県道75号線、庄内川を超え神領町南の交差点を左折、一筋目を左に入る関連記事 / 下志段味西新外 「秋葉神社」
2020.05.20
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神領銅鐸出土地のある貴船神社から北西方向へ徒歩で10分、道すがらに神領銅鐸を保管するという瑞雲寺、その先の高御堂古墳を左に見ながら「堀ノ内町表」の交差点へ。交差点を右折し県道75号線を道なりに進むと左手に石鳥居と赤い鳥居が見えてきます。春日井市堀ノ内町の「神明神社」が今回の目的地。県道75号線沿いに鎮座し、境内はぐるりと玉垣で囲われています。この神社の立地は北に内津川、南に庄内川が流れ、その間に神社が鎮座します。豊かな土壌を生かし古くから人が居住し田畑が広がる農村地帯でしたが、今は田畑は減少し周囲は住宅地に変貌しています。現座の町名「堀ノ内」は、嘗て豪族が堀で囲った中に館を構え住んでいたそうです。やがて集落ができ堀ノ内と呼ぶようになったらしい。「堀ノ内町表」の交差点角に高御堂古墳がありますが、一説には古墳が堀で周囲を囲われていたから「堀ノ内」になったともいわれるようです。個人的には二つの川に挟まれた土地柄こそ、堀の内側の様に感じてしまいます。県道脇の右手に社号標、石の神明鳥居があり、その先で右手に折れ赤い明神鳥居へ続きます。神明神社、ニノ鳥居から境内の眺め。石畳は真っすぐに拝殿へ続いていきます。ニノ鳥居をくぐった右側に手水鉢、年号は見忘れましたが、そこそこ年期が入っていそうです。立派な灯篭の先に狛犬が守護する拝殿、境内右奥に小さな覆屋があるようです。拝殿前の狛犬は1937年(昭和12)のもの、なかなか凛々しい姿です。今回は奉納年度を悉く見忘れ、神社創建を知る手がかりとなるものは少ない。神明神社全景、ほぼ玉垣で囲われています。拝殿の軒先瓦には五三の桐紋が入り、止め蓋に逆立ちした獅子、棟瓦には神明社とある。シンプルな瓦葺の切妻造りの四方吹き抜けの拝殿ですが、其処彼処に彫飾りが施されています。腕の見せ所と云わんばかりに梁には手の込んだ馬と龍が飾られています。こちらは松、その枝の下に象の鼻の様にうねった長い物は何だろう、苦手なやつか?木鼻には今にも飛び掛からんとする獅子?が彫られています。拝殿内から幣殿の眺め、拝殿の額も神明社とある、その先には狛狐がお見えの様です。参拝を済ませ境内をひと回りします。玉垣の中の彼らに近寄る事はできませんが、痩せた狐は悲壮感が漂うけれど、彼らはそうではなさそうです、健康的なフォルムをしています。幣殿と本殿は神明造の様です、共に在来工法のもので年月が経っていないのか綺麗な外観をしています。本殿後方から拝殿方向を眺める。棟には内削ぎの千木と6本の鰹木が施されています。堀ノ内町「神明神社」の創建がいつ頃なのかは定かではありません。祭神は天照大御神。神社のある堀ノ内周辺の移り変わり。右がほぼ現在、左が1891年頃、この頃の地図に神明神社の鳥居は記されています。実際に見てはいないけれど、棟札に1602年(慶長7)に再建の棟札があるそうで、「この社、堀ノ内村にあり」と記されているといいます。上の写真は手水鉢の右に建てられた幟立てらしき石柱、そこに1799年(寛政11)と記されていることからも祭祀形態はともかく、結構古くから鎮座している様です。本殿右に御嶽大神が祀られ、霊神碑や左手に霊神像が見て取れます。隣接して石碑が並んでいます。左から山神、中央に廿二夜塔(特定の月齢の月夜に講の信者が集まり、飲む的な)、右が読み取れない。後方に御嶽大神の解説。もともとは「堀ノ内町表」の交差点角の古墳の頂に祀られていたようだ。本殿右の立派な鞘殿。津島神社の神札が納められています。鞘殿の右に脇参道があり境内の外れにも小さな鞘殿。この一社のみ北方向に向いて祀られています、中には赤い社が。周辺の宅地化にともないここに祀られた天王社だろうか。立派な鞘殿の中で扉の開けられた赤い社、中には津島神社の神札が見られます。伽藍は新しいけれど、「神明神社」は堀ノ内町の氏神様として古くからここに鎮座しているようです。堀ノ内町「神明神社」創建 / 不明 祭神 / 天照大御神境内社 津島神社、天王社 / 牛頭天王 、須佐之男命 稲荷社、御嶽大神、廿二夜塔、山神住所 / 春日井市堀ノ内町2丁目(神領貴船神社から徒歩10分程)公共交通機関アクセス / JR中央線「神領」から南へ徒歩10分関連記事 / 春日井市神領「貴船神社」
2020.05.30
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『大神教本院』から大鳥居沿いに大和國一之宮大神神社へ。参道を横切る桜井線の踏切を越えてニノ鳥居に向かいます。やがて左に大量の樽が見えてきます、「大神神社酒殿」ここまで来るとニノ鳥居も目前。まだまだ飲んだことのない銘柄の多い事。大神神社ニノ鳥居。左の社号標は人と比べるとその大きさがイメージできよう、大和国一之宮の風格が伝わってきます。ニノ鳥居をくぐり境内を進みます、コロナ禍とはいえ参拝者が途切れることはありません。参道に架かる新橋の左に人が集まっています。「祓戸神社」まずは祓戸四柱の神に参拝し、穢れを清める。祭神 / 瀬織津姫神、速秋津姫神、伊吹戸主神、速佐須良姫神夫婦岩を過ぎ、目の前の石段の先に拝殿が見えてきます。石段を上ると左に手水舎三輪の7本杉のひとつ「しるしの杉」と呼ばれる御神木(株のみ)、手水鉢に清水を注ぐのはとぐろを巻いた蛇。大きな樹には白蛇はつきものだ、この境内には何匹の白蛇がいることやら。大神神社境内案内図、御神体である三輪山。そこに多くの摂末社が点在し、ササッと訪れ参拝するには広すぎる。拝殿現在の姿は1664年(寛文4)徳川家綱により再建されたものと云われ、この拝殿の先にあるべき本殿はない。三輪山そのものをご神体とする大神神社には本殿がなく、拝殿を通して三輪山そのものを拝む原初の神まつりの姿を留めています。訪れたのが6月末、拝殿前には大きな茅の輪。杉、松、榊と神霊の宿る霊木が飾られたこの輪をくぐる事で無病息災を祈願するもの。拝殿からその奥にある三ツ鳥居を通し、大物主大神が鎮まる三輪山を拝する。三輪山は大黒様の人を幸せにする幸魂と、知性の奇魂が宿る、御神体の三輪山そのものを崇める。我国最古の神社とされ、この拝殿の先に本殿はなく、拝殿奥の三つ鳥居を通して三輪山を拝む原初の神祀りの姿を今も伝える。大和國一ノ宮三輪明神 大神神社御祭神 大物主大神配神 大己貴神、少彦名神この地は大和の文化発祥の地とされ、山の辺の道や最古の市とされる海柘榴市(つばいち)等、政治・経済・文化の中心として栄え、大神神社は皇城鎮守神の明神大社22社の一つとして奉幣を受け、中古より大和國一ノ宮として崇敬されている。勅使殿から拝殿からの眺め、左の御神木は「巳の神杉」と呼ばれる樹齢500年と云われる杉の巨木。大物主大神の化身とされる白蛇が棲むとされる。現在の社殿は1992年から始まった平成の大造営により、1997年に儀式殿、参集殿、祈祷殿を築造、1999年に三ツ鳥居(重要文化財)と拝殿が保存修理の手が入れられたもの。勅使殿から右に進むと左に末社「神宝神社」の鳥居。参道の傍らに解説板。神宝の名が示す様に古くよりお宝・財物を守護する神として崇敬されている。祭神は家都御子神、熊野夫須実神、御子速玉神を祀る。「天皇社」三宝神社の右の小高い山の頂に鎮座します。鳥居左に解説板。石段を少し登ると視界は広がり「天皇社」が現れます。祭神は三輪山の麓に都をおかれ、小さな国々を平定し大和朝廷の基礎を確立された第十代の崇神(すじん)天皇。拝殿から左方向に進むと「宝物収蔵庫」と「祈祷殿」、「狭井神社」へと続きます。1997年に建てられた「祈祷殿」、日々の祈祷や結婚式を奉仕する施設。久すり道(くすり道)狭井神社へ続く緩やかな登り坂が続く参道。三輪山登拝は社務所に申し込み、決められたルールを順守することが求められます。参道脇には薬業関係者により奉納された薬木や薬草が植えられています。「狭井神社」鳥居。鳥居脇の鎮女池に浮かぶ「市杵島姫神社」桜井市茅原に鎮座する末社の富士・厳島社から勧請された神社で、祭神は素盞嗚大神の子で、水の守護神とされる市杵島姫命を祀ります。安芸の宮島のご祭神として、七福神の中で福徳財宝、芸能を司る神様として親しまれています。5月下旬から6月上旬にかけて境内のささゆり園のささゆりが見頃を迎えます。この辺りの水辺でも見られ、神社に彩りを与えてくれる。摂社「磐座神社」背後に鬱蒼とした杉の樹が迫る神秘的な空間、鳥居の先に社殿はなく、玉垣で囲われた中の岩(磐座)をご神座として祀る。祭神は「神農さん」とも呼ばれる薬の神様、少彦名神を祀る。「狭井神社」正式には狭井坐大神荒魂(さいにいますおおみわのあらみたま)神社と呼ばれ、大神神社の荒魂を主神に大物主神、媛蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)、勢夜多々良姫命(せやたたらひめのみこと)、事代主神を祀ります。創建は垂仁天皇の時代の創建されたと伝わるそうです。入母屋檜皮葺の拝殿と春日造りの本殿の伽藍。こちらに参拝する目的の一つに、拝殿左奥にある井戸(薬井戸)から湧き出る霊泉でしょう。病気平癒、身体健康の神様として信仰が篤い神社、そこに湧き出る霊泉は様々な御利益があり、それを授かりに訪れる。井戸の周囲は狭いけれど、コップも用意されています、立ち寄って御利益を授かってはどうでしょう。ここからだと本殿の姿も窺うことができます。「狭井神社」を後に久延彦神社方向の展望台に向かいます。展望台は恋人の聖地と称するようですが、ネーミングはともかく、ここから見下ろす三輪の街並みと、そこにそそり立つ大鳥居の光景は恋人でなくとも立ち寄ってみても損はない。上久延彦神社の外れにある遥拝所、傍らにフクロウの絵馬が掛けられています、その数はすさまじい。下「久延彦神社」拝殿末社『久延彦神社』知恵の大神祭神は久延毘古命をお祀りする、「世の中の事を全て知る知恵が優れた神様」なので知恵や学問向上、合格・就職成就の徳を授かりに訪れ、そしてフクロウの絵馬に願をかける。久延毘古命も大変だ、黄金色の稲穂が実る田んぼの中でのんびりしたいのではないだろか。摂社「若宮社」久延彦神社正参道から山の辺の道を右に進み、右手に株だけになってしまった「おだまき杉」が現れるとそこが「若宮社」、直禰子神社(おおたたねこじんじゃ)とも呼ばれ国の重要文化財に指定されています。線の太い姿の鳥居前の狛犬。写真で大きさは伝わらないと思いますが、台座の上の彼らは見上げる様な高さにある。境内右手に小さな池があり、訪れた時には睡蓮の白い花が咲き誇っていました。その先には小さな社。末社「琴平神社」祭神は大物主神を祀ります。末社「御誕生所社」社務所の右に鎮座し、「磐座神社」同様に鳥居の先に本殿はなく磐座が祀られています。鴨津美良姫命を祀ります。「御饌石」お正月の御神日祭り際、正面にある岩に久延彦神社に神饌を供えたり、ここから大神神社を遥拝する場所として使われる。拝殿正面。外観は拝殿と云うより本堂の方がマッチする。明治の神仏分離以前までは大神神社の神宮寺「大御輪寺」であった。現在は大神神社の摂社として「若宮さん」として崇敬されています。祭神は大物主大神の子孫で大直禰子命で、 少彦名命と活玉依姫命の二柱を配祀しています。神宮寺当時の本尊の十一面観音像(国宝)は現在聖林寺に安置されているそうです。「若宮社」から正面に進めば目と鼻の先がニノ鳥居。素の道すがらで見かけたお堂、寺号標がある訳でもなく「馬場木村のお地蔵さん」とあるだけ。ボケ封じ、脳天地蔵かぁ、中に入りたいとこですが、ここで道草をする訳にはいかない。かみさんを追いかけねば。大神神社の参拝は以上で終わり、行きたかった神社もありますが、帰りの時間を考えるとこれ以上は回れません、ニノ鳥居に戻ります。「大和國一之宮大神神社」御朱印「大和國一之宮大神神社」住所 / 奈良県桜井市三輪1422公共交通機関アクセス(名古屋より) / 近鉄名古屋駅⇒名張駅⇒近鉄大阪線⇒桜井駅⇒JR桜井線「三輪」駅下車 関連記事 / 車中泊で紀伊國一之宮と大和國の一之宮巡りと紀三井寺の秘仏特別御開帳 ・大神神社境外摂社 綱越神社・大神神社 『大神教本院』
2020.10.31
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静岡県浜松市春野町領家『秋葉山本宮秋葉神社 下社』赤石山脈の遠州平野に突出した南端に位置し、天竜川上流の秋葉山の南東麓に下社、山頂の上社からなる「秋葉山本宮秋葉神社」と呼び、普段良く見かける秋葉神社の総本山。国道362号線から県道286号線を経由、気田川右岸沿いにある秋葉神社前キャンプ場の入口に参拝者駐車場があります。社頭は駐車場の真向かいにある。県道を渡ると常夜灯と石段が杜に消えていく。秋葉山を崇める山岳信仰と修験の場が融合した秋葉権現の発祥の地。修験の場ということで下社とはいえ、さぞかし過酷な参道が続くのだろう。一般的に上社は素朴で下社は大きくて豪華、そんな印象をもって訪れています。大きくて豪華なイメージとは裏腹に参拝者駐車場はガラガラ。コロナの「影響かな」と勝手に思い込んでいた。そもそも訪れたのは12/24、街中はともかく、こんな日に好き好んで山には来ないか?社頭脇の解説。祭神 / 火之迦具土大神、伊弉諾、伊弉冉の子で火の主宰神創建 / 709年(和銅2)社号 / 上古は「岐陛保神ノ社」と称し、中世は「秋葉大権現」と称した。後の神仏分離により「秋葉神社」と改め、昭和に入り「秋葉山本宮秋葉神社」へと改称した。神徳 / 火の幸を恵み悪火を鎮め、諸厄諸病を祓い除き、火防開運の神。 もともと江戸時代までは秋葉権現を祀る秋葉権現社と、観世音菩薩を本尊とする秋葉寺が境内にある神仏混淆として成り立っていたようですが、1872年(明治5)の神仏分離により秋葉神社に改め祭神を火之迦具土大神として、三尺坊を仏教の秋葉寺に分離した。この秋葉神社下社は戦時中の1943年(昭和18)、麓から発生した火災の延焼により、現在の上社の本殿東側にある山門を除き全ての建物を焼失したようで、容易に再建ができなかったことから、祭祀を継続するため麓に作られたのが下社だといいます。参道に入ると赤い欄干の神橋があり、そこから先は石段に変ります。ここから過酷な石段の参道が続く?と思いきや伽藍らしき建物が見えている。参道の周囲は杉が生い茂り、角の取れた石が積まれた石段は、さほど急な勾配ではなく登りやすい。先に見える建物まではたいした距離はない。登り切れば境内が広がり大きな社殿が現れるか、更に石段が続くものなのか、初めて訪れるので先は見えない。視界は広がりここが秋葉神社下社の社殿の様だ、正式には遥斎殿と呼ぶそうだ。思い描いていた姿とはかけ離れ、静かで素朴な佇まいの小さな社殿。境内の右に手水舎、左手に社務所、その右手に周囲の樹々とは明らかに大きさの違う御神木が聳えています。境内の右、手前は休憩所と奥に高床式で切妻の建物、神楽殿だろうか?札所(右)と社務所。全国の秋葉神社の本社となる秋葉神社の下社とは思えないこぢんまりとしたもの。落ち着いた外観の社殿と静寂に包まれた空間は穏やかな気持ちにしてくれる。拝殿左の御神木の前に巨大なスコップと火箸が吊るされています。スコップは「十能」というそうで、技術向上、作業安全を祈願し戦時中から度々奉納されたようです。炭を運ぶ際に用いる道具だそうで、戦時中はそうしたものも悉く供出され、現在のものはその後に奉納されたもので、大きさは日本一だといいます。さて、下社参拝。切妻平入で素木の拝殿は、飾りも少ないシンプルなもの。神紋は「七葉もみじ」建立は1943年と一世紀を経ていないけれど、趣には年月以上の風格が漂う。社殿の飾りのなさは、戦時中の限られた資材や時間の中で建立された事もあるのだろう。個人的には煌びやかな社殿より、飾り気のない質素な姿の方が信者の復興に対する思いが伝わってきて好感が持てる。拝殿から幣殿・本殿方向の眺め。実際にはもう少し薄暗いけれど、拝所からは正面の鏡が鈍く輝いている。1943年(昭和18)の建立から上社が再建される1986年(昭和61)まで信者の崇敬を一心に担ってきた。上社が再建され、車でも容易に訪れることが出来る事から、地味な下社を訪れる参拝者は少ないのかもしれない。井伊の赤備発祥の地井伊家が今川家の支配下にあった時代、当主不在となった井伊家を継いだ娘の直虎は、後に直政を養子として迎え育てたのが井伊直政。後に徳川方となり徳川四天王の一人として活躍しますが、その背景には、滅亡した武田方の精鋭部隊を徳川方に取り込んだ直政の活躍があったとされます。直政は赤一色の精鋭を率い井伊の赤鬼として活躍したとされ、起請文を取り交わした場所が秋葉山山頂のようです。社殿全景。拝殿と幣殿が一体となり本殿まで繋がっているようです。本殿に近づいてみましたが流造の様に見えますが見通す事はできません。見慣れた上社と下社のイメージと秋葉神社下社の建立の経緯はあまりに違っていました。焼失した社殿再建まで、火伏の神の祭祀を継続するという役割は、ある意味終えたのかもしれませんが、混乱の時期に下社の建立に携わり、拠り所とされた方々から見れば、訪れる方の少ない下社は秋葉神社そのものかも知れない。参道から社頭の眺め、参拝者の姿は意外なほど少なかった。2020/12/24秋葉山本宮秋葉神社 下社祭神 / 火之迦具土大神創建 / 709年(和銅2)下社建立 / 1943年(昭和18)住所 / 静岡県浜松市天竜区春野町領家328ー1下社社殿の右に隣接するように六所神社が鎮座しますが、改めて掲載する事にします。
2021.01.18
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稲置街道を歩き犬山城でビールを飲む、我が家のイベント前回の「羽黒八幡宮」から犬山城で待つビールを目指す名鉄小牧線「羽黒」駅前の小社から街道を進む。県道27号線から東の眺め。田園風景の中を走る小牧線、その先にポツンと杜が見えますこうした風景は好きな風景だ。丁度電車がやってきた。線路の向こうの杜は恩田社の杜、立ち寄りたいがここは次の機会にして先に進みます。県道27号線を横切る合瀬川に架かる小さな橋を渡った左側に常夜灯と「史蹟五郎丸初生地」と刻まれた石標が建ち、複数の社が祀られた一画があります。この時は後で調べがつくだろう、なんて安易に捉え境内に入らず外から写真に収め先を急いだ。これが調べる段になってスッキリする情報が見つからなかった。それは書いている今も変わらない、そもそも「史蹟五郎丸初生地」の由来からして分からない。ゴロゴロ石が沢山あったとか、かつての海辺で、四郎丸・五郎丸という大船から転じた、有力者の屋敷があったとか諸説あるようだ。地名由来でもスッキリしない、ラグビーのあの方の生誕地ではなさそうだ。ではいつからここにあるのか。上は明治の地図、そこからこの場所の存在も見つけられない。境内には板宮造りの社が三社祀られ、それ以外に注連縄らしきものが巻かれた石碑があるようです。正面の社は「稲荷社」で社名札と小さな狐が祀られている。右の社は外観からは分からない、地図から見ると岩橋村五郎丸の集落の外れの郷瀬川右岸の村はずれ。集落を守護する火の神や禍除けの社が祀られた?立ち止まっていてもビールには辿り着けない、不明社として先に進もう。歩いて来た県道27号線(稲置街道)の羽黒方向の眺め、歩道右側の常夜灯が「史蹟五郎丸初生地」。2021/03/09史蹟五郎丸初生地と不明社境内社 / 稲荷社、その他に不明社二社所在地 / 犬山市五郎丸八龍徒歩アクセス / 名鉄小牧線「羽黒」駅から徒歩20分程 関連記事 / 「羽黒八幡宮」
2021.04.13
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戸隠神社「中社」キャンプ地の戸隠イースタンキャンプ場から奥社方面に県道36号線を走る事10分程。下り坂の途中左側に写真の鳥居が見えてきます、鳥居の前が戸隠神社中社西参道駐車場。中社に一番近い無料駐車場で、駐車台数は限られているけれど運試しにここまで走っても損はない。車を降りれば西参道の大鳥居から石段を上る事無く拝殿に繋がっています。お歳を召された方が見える場合はお勧めの駐車場。西参道の大鳥居の手水舎。手水舎脇の中社境内案内図。キャンプ場からは図の左から来たことになります。戸隠山の麓に鎮座する奥社、中社、宝光社、九頭龍社、火之御子社の五社を参拝する事を戸隠五社巡りと呼びます。先に参拝した奥社では奥社と九頭龍社の二社が参拝ができたので、ここ中社で三社目となります。ここから徒歩で一旦県道に出て坂を少し下り、図の下側にある大鳥居を目指します。県道から見る大鳥居。この辺りは大門通りと呼び、嘗ての宿坊や蕎麦屋、バス停などがあり、中社の門前町。鳥居の左右と鳥居の先に3本の大きな杉が72㍍の間隔で三角の配置で聳えています。年輪を重ねたこの杉は「三本杉」と呼ばれ、樹齢は800年とも云われます。鳥居右手の石垣の先には五斎神社が鎮座し、こちらには諏訪社や宣澄社などありますが後日掲載します。まずは中社参拝です。遠目にコンクリート造りの明神鳥居に見えていましたが、ここまできて木造である事が分かりました。立派な鳥居です、ここから拝殿までは二つの石段が続きます。狛犬が守護する石段の先に見える大きな杉は三本杉のひとつ。石段を上る参拝者を見下ろすように聳える杉の巨木、三本が寄り添うように聳えているのでこれが「三本杉」と思われるかもしれませんが、これはその中の一本。ご神木として崇められ、石段途中から見上げるこの巨木の姿は、人では計り知れない自然の不思議な力が宿っている、そう感じてしまう。最初の石段を上りきると視界は開け、神橋の先の右に手水舎があり、正面は拝殿に続く最後の石段。左には女坂があり、西参道に繋がっています。手水舎と左の赤い覆屋は日吉社、後方が五斎神社。ここから左の女坂を進むか、まっすぐに続く石段を上るか分かれ道です。拝殿が顔を見せています。最後の石段を上ると境内が広がり、その境内を守護するのが彼ら。手前の阿形は角が付き、吽形は宝珠を付け、特徴的な横長の顔と伏せ耳。たて髪は平面的に表し、尻尾は柔らかな曲線で彫られた素朴な容姿。拝殿、入母屋の唐破風向拝を持つ落ち着いた佇まい。右手にさざれ滝と境内右に青龍殿がある。茅の輪が置かれた光景、今年も一つの節目を迎えた事を実感させられる風物詩。流行病が広がり、強烈な暑さが続く夏、歳と共に夏を乗り切る体力に自信がなくなってくる。ここは回るしかあるまい、「祓え給へ、清め給へ、守り給へ、幸へ給え」朝もやに包まれた中社拝殿、訪れるなら早朝がいい。天手力雄命が投げ飛ばした戸の一部が山にあたり戸隠山になったと伝わり、戸隠神社は御神体の戸隠山を中心に発達し、創建以来二千年余りの歴史を刻む神社です。平安時代末は修験道の道場として都にまで知られた霊場で、神仏習合のころは「戸隠山顕光寺」と称し、当時は「戸隠十三谷三千坊」と呼ばれ、比叡山、高野山と共に「三千坊三山」と言われるほど栄えたという。大鳥居周辺の20軒ほどの宿は宿坊の名残を感じさせる。江戸時代には徳川家康から厚遇を受け、一千石の朱印状を賜り、東叡山寛永寺の末寺になるなど、修験道場の場から、農業、水の神として崇められてきました。やがて明治の神仏分離で寺は切り離され、宗僧は還俗して神官となり、戸隠神社に名前を変えて現在に至ります。神社の栞には下の様に書かれています。「古事記・日本書紀に次ぐ古典「旧事記」によると、第八代孝元天皇5年(前210年)に、天手力雄命が奥社の地に鎮まられました。その後、康平元年(1058年)宝光社に、さらに30年を経て中社に現在の御祭神が分祀奉斎されました。平安時代には既に天下に知られた修験の名所となっていた事が「染慶秘抄」(治承2年1178)に記されています。」祭神は天八意思兼命(あめのやごころおもいかねのみこと)天の岩戸を開けるために神楽を創案したとされる知恵の神。拝所の奥では太々神楽が奉納されるようで、運が良ければ稽古する姿が見られるようです。社紋は鎌卍(かままんじ)で、この奥の天井に狩野派絵師、河鍋暁斎が描いた「龍の天井絵」があると聞いたが、ここからではその姿は拝めなかった。拝殿右奥の「さざれ滝」戸隠山から湧き出た水がここで小さな滝となり境内を流れ下っていきます。そんな姿から崇敬されるようになったのかも知れない、瀧がもたらす清涼感は有難い。正面に石垣が積まれ、その上段に幾つかの石塔があります、この一画は「さざれ滝」よりこちらのためにあるような気がしてならない、詳細は不明。拝殿左に社務所と授与所、写真の奥に向かえば女坂、西鳥居に続きます。これから向かう無人の宝光社、火之御子社の御朱印はこちらで頂くことになります。なので宝光社、火之御子社を参拝し、中社を参拝するといいかもしれない。かみさんは中社をスルーして既に神道を進み始めました。参拝客がいない早い時間だったので、人が写り込まない中社拝殿を写真に収め、追いつかなければ。クマ除けの鈴は自分がぶら下げ、彼女は持っていない。戸隠神社 中社創建 / 不明御祭神 天八意思兼命(あめのやごころおもいかねのみこと)所在地 / 長野市戸隠中社公共交通機関アクセス / JR長野駅から戸隠キャンプ場行きバス(約1時間~1時間10分)、中社宮前バス停下車関連記事 / キャンプしがてら戸隠神社五社巡り「奥社、九頭龍社」 念佛池
2021.08.08
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2021/10/26一ノ宮巡りでこちら方面を訪れ、兵庫県の城崎温泉に宿を取り、翌日の早朝に訪れた「玄武洞」今回はそちらを取り上げます。山々に雲が垂れこみ水墨画の様な光景は早起きのご褒美。雲海に浮かぶ竹田城も足を延ばせる場所だけに、予定変更して目指したくなるがドラマは短い、諦めよう。城崎温泉で迎えた当日の最大の目玉(おやじ的に)「玄武洞」に揺らぎはない。城崎温泉から玄武洞までは円山川対岸を車で10分もあれば到着できる距離です。前日の雨は上がり切らず、霧雨の様な天候。玄武洞公園の前に車を停め、円山川右岸の河畔に建つ石の博物館「玄武洞ミュージアム」を眺める。この時間は会館前、中には世界中から集めた珍しい石や鉱物、化石など約2500点収蔵されていて、右側の別棟には土産やレストラン・カフェなどの施設もある。玄武洞のある玄武洞公園はこの施設の向かいの山側にあります。駐車場から続く階段を上った先が玄武洞公園で、円山川右岸の山肌から露出した柱状節理や洞窟があり、国の天然記念物に指定され、山陰海岸国立公園に含まれる絶景が広がります。主となる玄武洞のほかに、青龍洞、白虎洞、南朱雀洞、北朱雀洞の洞窟が連なり玄武洞公園として整備されています。公園と云っても施設は休憩所とトイレがあるくらいで、観光客目当ての店は並んでいない。「玄武洞」は国の天然記念物に指定され、周辺地域一帯は、1963年(昭和38)に山陰海岸国立公園となり、現在に至っています。柱状節理自体は地元名古屋に近い所で行けば福井県の東尋坊や三重県の香落渓谷でも見ることが出来ます。こちらのものは大自然が造り上げたうねりの造形美、人の及びもつかない自然の圧倒的な力を感じることが出来ます。「玄武岩」の名は良く耳にすると思います、これは玄武洞からこの名が来ているようです。1884年(明治17)岩石の日本名を制定する際に玄武洞の名に因んで「玄武岩」と命名されたようで、言ってみれば玄武岩の発祥の地と云っても良いのかもしれない。ここの玄武岩の持つ磁気は、現在の地磁気と反対の向きを指していることが発見され、この地の玄武岩が出来た当時の地球の磁場は反転していたとされ、その説は後に260万年前から78万年前まで逆転していたことが広く認められるようになったという。なんともSF映画を彷彿とするような発見がこの地からもたらせられた。160万年前の火山活動で流れ出したマグマが、冷えて固まる時に作り出した規則正しいきれいな割れ目は柱状節理と呼ばれ玄武洞の始まりで、約6000年前に地上に隆起し、波に洗われ姿を現したのが現在の玄武洞、と云われていますがそんな火山があったのは事実だろう、その火山とはまで明確に言及されないのは何か消化不良気味な感じがしてならない。「そんな火山があったのね」でサラッと流せばいいんだろうが、城崎温泉の源泉の熱量は紛れもなく地下に秘めている事を思うと・・・なんだろう?ついつい考えたりもする。なんだろう?から流れ出た溶岩は柱状節理として露出し、人が採取し洞窟となって行き、現在の姿になったようです。採掘された岩は人の営みに利用され、石垣や身近なところでは漬物石などにも利用され、江戸時代の1807年(文化4)に幕府の儒官、柴野栗山により「玄武洞」の名が付いたとされます。玄武洞。公園に入り最初に異様な光景を魅せてくれるのがこの玄武洞。右には社が祀られているようなので向かってみました。成田山不動明王と彫られた石標、これも柱状節理の岩を利用したものかもしれない。規則正しく綺麗に面が整ったこの岩は、様々な使い方に対応できそうだ。「成田不動尊」社殿全景と解説。玄武洞を訪れた全ての人々に玄武洞不動明王のご利益を授かれるという。これは参拝しておくしかないだろう。創建等詳細は調べきれませんでしたが、本尊は不動明王。玄武洞と「成田不動尊」。玄武洞と火山活動についての解説。「火山の形は残っていません」とある、それはそれでいいのだが…玄武岩溶岩の厚い層が形成され、むき出しとなった玄武洞。マグマが冷却され体積が収縮して出来る割れ目(節理)は切り出しやすかったのだろう。これを人々が採掘し、その採掘跡が洞窟として残った人口の洞窟。ここから切り出された玄武岩は城崎温泉街の護岸や豊岡の石積みなどに利用されたという。綺麗に整った5~8角の石柱は写真右手にも断面として現れています。断面が見えるかと思えば側面が現れ、溶岩の複雑なうねりが見られる。想像もつかない自然の造形が目の前に現れている。玄武洞の名の由来と人とのつながりを伝える解説板。現在見る玄武洞は1925年(大正14)の北但馬地震による震度6の揺れで崩落した後のもので、案内板には崩落前は巨大な洞窟が幾つもあった事を伝えています。青龍洞。成田不動尊から右に進んだ先に露出する岩壁。横方向の流れが多かった玄武洞に対し、こちらは縦方向にうねりながら流れたのが見て取れる。岩壁の前には小さな池(願掛け池)があり、水面に写る柱状節理の姿は池の主「龍」をイメージさせるものがある。思わず賽銭を投げ込みたくなる、不思議な空間。鏡の様な願掛け池の水面に青龍洞や四季折々の景観が写り込む姿も美しい事だろう。縦の流れに、右からも上方向に流れ込んでいる。なんという地形、そして岩盤の上に堆積した僅かな地表に根をおろす樹々の生命力。圧倒的な自然の造形美と生命の逞しさに唯々佇むのみ。青龍洞解説。玄武洞、青龍洞と見て、次は玄武洞の左方向の白虎洞、南朱雀洞、北朱雀洞に向かいます。園内は写真上の様に歩道が整備され、石段や石垣などにも柱状節理が利用され、この地にとっては欠かせない重要な資源だったのが分かる。下白虎洞全景と解説板。白虎洞。こちらは正面は横に流れ、左方向はこちらを向いて流れたようで、石垣でも積んだかのように綺麗な多角形の断面が整列している。こうした岩は採掘が容易なのかも知れないが、常に危険が付きまとう命がけの作業だっただろう。現在も経年劣化や地震等で部分的な崩落は起き、青龍洞などでは崩落した柱状節理が池に堆積している光景が見られ、今も山全体が蠢いているようだ。白虎洞解説。白虎洞から左に進むと南朱雀洞。こちらはこれまで見た綺麗な多角形の節理の姿はあまり目に付かない。解説によると溶岩の先端にあたる部分で、固まった先端部分からトコロテンの様に次々に溶岩が吹き出た事からこの様な形状になったのだと云う。この正体は誰よ。南朱雀洞解説。南朱雀洞から少し下がった左方向に北朱雀洞があります。正面に石垣の様に断面が現れ、奥には柱状節理がはっきりと表れていて、南朱雀洞と似てはいますがここはまた表情が違います。玄武洞、青龍洞、白虎洞、南朱雀洞、北朱雀洞と見て廻ると1時間程。訪れたのが10/26、紅葉には早かった。周囲が紅葉で染まると更に美しく神秘的な光景を魅せてくれるでしょう。展望台から見る円山川に山陰本線を走る列車が写り込む、右方向は城崎温泉方向になります。玄武洞公園から円山川河畔に下りて見ました。先ほどまでは手前に水鳥が群れ、対岸の列車と手前の渡し船を一枚に収めようと待っていたが、列車が来た頃には群れはいない、残念な写真だ。渡し船は対岸の山陰本線玄武洞駅から玄武洞を渡すもので、風波の影響が欠航しななければ、この船で円山川を渡れるようです。圧倒的な自然の造形美が日常の雑念を解き放ってくれる。玄武洞(げんぶどう)公園・成田不動尊所在地 / 兵庫県豊岡市赤石1362玄武洞ミュージアム営業時間・入場料金 / 9:00~17:00・大人800円駐車場 / 玄武洞ミュージアム、公園、玄武洞観光センターなど3カ所あり公共交通機関アクセス / JR城崎温泉駅から車で10分程、山陰本線玄武洞駅から渡船がありますが欠航が多いようです。
2021.11.20
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地御前駅に戻り、ここから終着駅である宮島口駅に向かいます。厳島神社の表玄関だけに、途中の駅舎に比べて非常にお洒落な駅舎です。駅を降りれば目の前が宮島に渡るフェリー乗り場で、JR宮島フェリーに乗ることをお勧めします。乗船する際は右舷側をお勧めします。宮島口から宮島フェリーは目の前、そこから宮島まではフェリーで10分程。このJR宮島フェリーは、行きの途中に厳島神社の鳥居の近くを通過してくれるので、右舷側で待っていれば修復を終え海に浮かぶ両部鳥居と社殿を一枚に収めることができます。宮島港桟橋。宮島(厳島)を訪れる観光客は年間300万人を超える、その多くがこのフェリーで訪れます。宮島桟橋広場。宮島や厳島と呼ばれる神の島ですがどちらも同じ島を指していますが、国土地理院の定める正式名称は「厳島」です。厳島の由来はいくつかあるようで、ひとつに祭神の市杵島姫命の「いちきしま」から厳島(いつくしま)に転じたとされ、戦乱の時代が終わった江戸時代頃から厳島神社(お宮)のある島から、宮島と呼ばれるようになったとようです。これ以降は通称の宮島として記載します。宮島桟橋広場に出ると、神の使いとされる鹿が出迎えてくれます。もともと陸続きだった頃から宮島に生息していた野生の鹿で、禁足地だった頃から神の使いとして見守られてきたこともあり、人を恐れませんが飼いならされたものではありません。人が接し方を間違え、それによるトラブルが結構起きていると聞きます。昼寝の邪魔をしない方がいい。宮島は島全体が神、観光の中心は厳島神社になりますが、弥山を含め奥宮や奥之院、さらに海岸に点在する神社「宮島七浦巡り」などがあり、とても一日で巡ることは出来ません。今回は厳島神社とその周辺の寺社を中心に巡る事にしましたが、機会があればテントを張ってのんびり巡りたいもの。厳島神社が鎮座する宮島は日本三景の一つで、世界遺産にも指定される景勝地です。島全体が崇敬対象で往古は禁足地とされていた。御神体の宮島は、島の北東に聳える弥山を含め15%ほどが世界遺産に指定されていますが、海を含むその他は緩衝地帯として管理されています。宮島には厳島神社以外に、弘法大師が護摩修業した1200年前から「消えずの火」として受け継がれて来た不消霊火堂など多くの寺社が鎮座し、神仏習合の名残を留めています。フェリー乗船中の観光ガイドでこの島にないものとして三つ紹介されていました。一つは島内に一基も墓は建てられていません、同じ理由から出産も本土ですることが受け継がれています。二つ目は島内に信号がない。三つ目に島内にはコンビニがない。今回は厳島神社周辺を歩いただけで、宮島ロープウエイ方向まで廻れませんでしたが、確かに上の三つは目にしなかった。一ノ鳥居と狛犬。波打ち際の松並木が続く参道にある石造の明神鳥居で、一対の大きな狛犬が出迎えます。青銅狛犬。大正8年(1919)の寄進で、角付きの吽形と阿形は笑っているような。厳島神社の象徴といっても過言ではない海に浮かぶ大鳥居、2019年から修復が始まり、昨年修復が終了しましたばかりで現在のもので9代目と云われます。鮮やかな朱色の両部鳥居は干潮時には間近で見ることができ多くの人で賑わいます。やはり海に浮かぶ姿が一番。干潮を迎える厳島神社社殿。大半の建造物は国宝または重要文化財に指定されています。青銅狛犬の次がこの石造狛犬。主な伽藍は、入口側から客神社本殿、東廻廊、本社社殿、祓殿、高舞台、左右の客神社、西廻廊を経て天神社、大國神社、能舞台と続き、一番人が集中する場所でもあります。国宝厳島神社東廻廊入口。どこでもそうだろうが、陽も高々とあがってからでは人の映り込みは避けられません。拝観は6時30から出来るのでその時間なら本来の姿が見られるだろう。東廻廊から見る客(まろうど)神社。東廻廊。人波が途切れる事はありません。廻廊右の飛び出した部分は客神社の祓殿。客神社拝殿から見る幣殿、本殿。厳島神社最大の摂社で本殿、幣殿、拝殿、祓殿とあり、祭神は天忍穂耳命、活津彦根命、天穂日命、天津彦根命、熊野櫞樟日命の五男神が祀られています。本社拝殿から見る客神社と東廻廊。平清盛の厚い庇護を受け建てられ、鎌倉時代の仁治2年(1241)に再建されもので、本殿は前後に長い庇を持つ両流造で檜皮葺き。手前の祓殿の廻廊に付けられた白い波よけ板、正面の二間だけが付けられていないのは、往古の儀式などでここから海側へ昇降できるように配慮したものと言う。厳島神社には地御前社で少し記載した管弦祭や舟で海に団子を供えた藁船を浮かべ、烏がそれを食べに来れば吉兆と占う伝統神事「御島巡り」など舟を用いた祭礼が幾つもあり、そうした事もあるのかも知れない。後方に聳えるのは厳島神社・五重塔と左は豊国神社千畳閣。高舞台の左右を守護する青銅製の狛犬。寄進年は未確認ですが、個性的な尾と鬣を持つ風格のあるもの。高舞台から本社祓殿。厳島神社の創建は伝承では推古天皇元年(593)とされますが、定かではないようです。現在の海に浮かぶ社殿の原形は平清盛により築かれたとされます。祓殿の前に一段高い高舞台が設けられています、黒漆塗りの基壇に朱塗りの高欄を廻らし前後に階段がつけられた舞台で、平清盛が大阪・四天王寺から移したという舞楽が演じられ、現在の舞台は、天文15年(1546)棚守房顕によりつくられたもので、国宝に指定されています。この日は挙式も行われ、居合わせた国内・海外から訪れた観光客からも祝福を受けていました。その光景を見てカナダバンフの片田舎にある教会で、二人だけで挙げた結婚式の様子が蘇ってきた。あの時も現地の人から祝福を受けたものだ。右門客神社と鳥居。高舞台から見て右の神社で切妻檜皮葺の覆屋内に流造の社殿がある。祭神は櫛磐窓神を祀る。両部鳥居。平舞台の沖に建てられた鳥居で、補修を受け色鮮やかに海に聳えている。鳥居の島木と笠木の内部は空洞で、内部に石が詰め込まれ、その自重で自立し、風や波の影響から耐えるようになっている。往古の鳥居は両部鳥居ではなく明神鳥居だったようで、両部鳥居に変えられたのは天文16年(1547)に再建された際からだといわれます。左門客神社と青銅製の灯籠。高舞台から見て左の神社で右門客神社同様の造り。祭神は豊磐窓神を祀る。客神社の脇に高舞台で舞が行われる時に使用される楽房がありますが、人の映り込みも多く掲載は見送りましたが、これも国宝です。高舞台から海に伸びる火焼前先端は、燈籠と鳥居を入れ撮影する映えスポットのようで、長い列は途切れない。三つの燈籠は寄進年がそれぞれ違いますが、いずれも細かな意匠が施されています。ここは左門客神社の青銅製の灯籠と鳥居を入れて一枚。祓殿、拝殿、幣殿の全景。平舞台から能舞台(左)と楽屋が見える。楽屋右奥の山の上に足場が聳えているのが多宝塔で現在修復作業中でした。本社拝殿から幣殿、本殿方向の眺め。神紋は三つ盛り二重亀甲に剣花菱。なにを買って帰ろうかねぇ。大国神社。鎮座年代は不明、天文6年(1537)の記録に記述があるようで、祭神は大国主命で相殿神に保食神をお祀りする。由緒によれば本社にお供えする前に、ここに一旦安置した後に本社にお供えされたという。檜皮葺き両流造の本社。西廻廊から見る天神社と反橋。西廻廊から能舞台の眺め。慶長10年(1605)の建立とされ、延宝8年(1680)にも再建され、現在のものは1991年の台風19号で倒壊、平成9年(1944)に再建された切妻檜皮葺のもので、鏡板に描かれている松もその際に描かれたもの。全長24㍍、幅4㍍の反橋で、こうして見ると緩やかな曲線を描いています。橋脚部分は黒漆、高欄は丹塗りのコントラストの効いた橋ですが干潮時は今一つ趣がないか。往古は天皇の勅使しか渡る事が許されなかった事から勅使橋と呼ばれたそうです。廻廊から入口を見ると壁のように見え、とても渡れたものではない。高欄の擬宝珠には銘が残され、現存する橋は弘治3年(1557)に毛利隆元、元就父子により再建されたもの。潮もすっかり引いて地上に現れた社殿全景。潮が引いても燈籠の前の順番を待つ長い列は途切れることはないようです。上豊国神社千畳閣。名の通り、豊臣秀吉が千部経を読誦するために天正15年(1587)に発願、建立した入母屋瓦葺の大経堂で未完成のまま現在に至っています。廃仏毀釈により明治5年(1872)、神となった豊臣秀吉、加藤清正を祀る厳島神社の末社豊国神社に改められ現在に至るようです。堂内には大きなしゃもじが安置されていますが、しゃもじは御飯をすくい取る事から勝利をすくいとる縁起物として奉納されるようになったとか。下五重塔。室町時代の応永14年(1407)の創建で、千畳閣の境内に聳えています。もとは大聖院の子院(金剛院)の五重塔でしたが、廃仏毀釈にともない、厳島神社に附属する塔となりました。厳島神社のシンボル朱の大鳥居。平安時代から数えて9代目の現在の鳥居は、明治8年(1875)に再建され、修復を終えたばかり。鳥居の額は海側は「厳島神社」、本社側は「伊都岐嶋神社」と書かれています。間近に見るより海に浮かぶ姿が一番趣がある。鳥居は人が取り囲んでいますが、意外にこうして社殿を眺める人は少ないようです。こうして見ると客神社の脇の楽房や三つの燈籠も一望する事が出来る。「あのおやじ邪魔」なんて声が聞こえてきそうだ。次回訪れる際は腰を据えて海岸線に鎮座する宮島七浦巡りだけを訪ねたいものです、そこならさすがに人は少ない気もする。安芸国一之宮 厳島神社創建 / 推古天皇元年(593)祭神 / 市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命境内社 / 客神社、右門客神社、左門客神社、大国神社、天神社所在地 / 広島県廿日市市宮島町1-1参拝日 / 2023/03/03関連記事 / ・地御前神社・地御前・大蔵神社・智秀山西向寺・金光(きんこう)稲荷神社・広島東照宮・安芸国一宮厳島神社とB級グルメ巡り 広島Day2
2023.05.10
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長い参道を持つ武蔵一宮氷川神社、先に掲載した一ノ鳥居から三ノ鳥居の続きとなる今回は、神池畔に鎮座する氷川稲荷神社から氷川神社社殿を掲載します。まずは、神橋の手前から左に伸びる参道の先に鎮座する氷川稲荷神社に向かいます。新池南側の緑濃い杜のなかに、鮮やかな朱の奉納鳥居と幟が連なる稲荷神社が見えてきます。石の明神鳥居をくぐると奉納鳥居が連なる朱のトンネル。拝殿全景。銅葺屋根の切妻平入で千鳥破風、唐破風向拝が付く。いかにもいなりらしい佇まいの拝殿、その前には倉稲魂命の使い狐の姿がある。拝殿から先の本殿には「右廻り一つ稲の丸」の紋幕と両脇にも稲を護る狐の姿が見える。拝殿右脇の稲荷社。脇参道から社殿眺める社殿全景。拝殿から本殿を覆う覆屋は一体となり、本殿上の屋根には千木と3本の鰹木が施されており、覆屋の下には本殿以外に両脇に額が付けられた鳥居が見え、それらも含めて覆っているように見えます。本殿正面の写真から両脇の鳥居を拡大すると右が「苑宮」、左が「震宮」と書かれているように見えますが、本殿の造りや覆屋の構造、由緒等の詳細は良く分からない。氷川稲荷神社創建 / 不明祭神 / 倉稲魂命氷川稲荷神社の向かい、神池に浮かぶ小島に鎮座する社が宗像神社。まだ訪れた事はありませんが、福岡県の宗像市に鎮座する宗像大社を本宮とする宗像神社の一つで、三柱の女神を祀る神社。木造の明神鳥居を構え、赤い神橋の先に本殿が祀られています。神池の中ほどに建てられた本殿は一間社流造で、棟には5本の鰹木と外削ぎの千木が施されています。祭神は宗像三女神の多起理比売命、市寸島比売命、田寸津比売命をお祀りします。新池左側から眺める宗像神社全景、左の赤い橋が三ノ鳥居から楼門に続く神橋。新池の水面に写り込む社の姿、紅葉や雪の時期には趣のある姿を見せてくれれるだろう。この光景は江戸名所図会にも描かれています。宗像神社創建 / 不明祭神 / 宗像三女神写真は西駐車場から楼門へ続く参道に架けられた神橋。その下を流れる細い流れは蛇の池から神池に注がれている。神橋を渡り楼門に向かう参道沿いに龍が描かれた水盤。楼門前の手水舎。荘厳な佇まいの楼門、左右の廻廊は社殿域を囲い楼門に繋がる。江戸名所図会が描かれた当時にはこの廻廊や楼門は描かれておらず、HPの年表によれば現在の本殿・拝殿・舞殿・幣殿・楼門は昭和15年(1940)の竣工とされ、過去に遡ると徳川幕府、源頼朝などから庇護されてきた。古めかしい社殿を求め氷川神社を訪れるとものたりないかも知れない。氷川神社は埼玉県・東京・神奈川県下だけでも280社を数え、当社はその本社で祭神は須佐之男命、稲田姫命、大己貴命の三柱をお祀りする。楼門から境内。正面に見えるのは舞殿。境内全景。右から舞殿、拝殿、本殿。入母屋銅葺屋根の妻入りの舞殿。舞殿右から拝殿、本殿の眺め、ここの右には東門があり門客人神社に繋がります。舞殿から拝殿の眺め。入母屋銅葺屋根の拝殿。氷川神社の創建は伝承によれば孝昭天皇の御代3年(BC472)の創立と云われ、2500年近い歴史を誇る。社名の由来は二つの説があるとされます。一つは、出雲の国の杵築大社(出雲大社)を遷して氷川神社の神号を賜ったことから、出雲の大河である斐伊川からちなんだ。もう一つは、鎮座地の「高鼻」が、見沼の低地に突き出た大宮台地上にあり、古代からの湧水地で、清冽な泉は原始の氷川祭祀の対象で、古語で霊験あらたかな泉を表す氷川が社名となったとも云われます。往古の当地は見沼と呼ばれた大きな沼があり、その畔に現在の氷川神社、中山神社(中氷川神社)、氷川女体神社が祀られ、その三社を合わせて氷川神社と捉え、氷川神社を男体社、氷川女体神社を女体社として称したとも云われる。また、氷川神社と氷川女体神社の双方が武蔵国一宮を称しているのは、三社一体の捉え方によるものかもしれない。いずれにしても二つの一之宮は、全国一之宮マップ塗り潰しを目論むかみさんにすれば、御朱印の懐具合と旅行の行程を作る上で悩ましいようだ。こうした例は他でもあることですが「一つじゃいけないの」と以前も言っていた気がする。江戸名所図会の挿絵には読みにくいが男体社・女体社・簸王子社と記されているが、これと先の三社は別物だとも云う、ならば挿絵の三社のその後はどうなったのかは良く分からない。拝殿右の神輿舎と後方の本殿。神厩舎横の力石(上)と歯固め石。神厩舎から拝殿側面。本殿左の神饌所。舞殿から楼門の眺め。参拝に訪れる人波は途切れることがない。舞殿左から見る楼門と廻廊の眺め、昭和の竣工とはいえ、荘厳で美しい姿であることに違いはない。東門から境内を出た左に鎮座する二社は摂社の門客人神社(左)と御嶽神社。氷川神社本殿が現在の形となるまで御祭神の男体社、女体社、簸王子社には其々本殿があったが、女体社の本殿は右の御嶽神社に、簸王子社の本殿は天津神社の社殿となったようで、何れも旧本殿と云われ、寛文7年(1667)に造営されたもので市の文化財に指定されているそうだ。御嶽神社から門客人神社の眺め。銅瓦葺の三間社流造で旧本殿と云われれば、前回記載した天津神社に通じるものがある。門客人神社創建 / 不明祭神 / 足摩乳命、手摩乳命御嶽神社創建 / 不明祭神 / 大己貴命、少彦名命御嶽神社から更に右に進めば瓢箪池を経て大宮公園に至ります。「大いなる宮居」として大宮の地名の由来になった氷川神社は規模・歴史ともに埼玉を代表する古社だった。武蔵一宮 氷川神社創建 / 第5代孝昭天皇3年祭神 / 素佐之男命・大己貴命境内社 / 稲荷社、宗像社、門客人神社、松尾神社、御嶽神社など所在地 / 埼玉県さいたま市大宮区高鼻町 1-407大宮駅から徒歩 / 約1時間参拝日 / 2023/09/26関連記事 /・一泊二日武藏國一之宮巡り 二日目「大宮・浦和」・鐘塚稲荷神社(さいたま市大宮区)・武蔵一宮 氷川神社(一ノ鳥居から三ノ鳥居まで)
2023.12.17
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牧野ヶ池緑地から今回の目的地野方神明社へは、車で南東に15分かからない距離に鎮座します。日進市役所の西方に位置し、天白川左岸に広がる田園地帯の、こんもりとした森の中に社殿があります。野方神明社の社地全景。見通しのいい田園地帯にあって、この森の存在は、日本の原風景を感じさせる佇まいです。手前の田んぼは神社の御神田のようです。上は明治と現在の地図の比較で、赤枠が鎮座地になります。当時の地図では、鎮座地南は飯田街道が東西に延びており、街道沿いに野方東、街道北側に野方西集落が点在しています。現在の鎮座地も当時と大きく変わる事はなく、天白川沿いに田畑が多く残っています。野方神明社は当時の地図にも記されており、新田開発に伴い鎮守として祀られた神社と思われます。社地は南の道路側に社頭を構えており、参道の奥に鳥居が建てられています。駐車場は社頭から参道を少し進んだ右側に駐車場がありますが、社頭入口は間口が狭く、小回りの利かない自分の車は一発で入れないので、東側の田んぼ脇の路肩に車を停め社頭へ向かいました。社頭から参道の眺め。道路を沿いに神明社の燈籠が目印で、右側が駐車場です。普通の車なら何ら問題なく入れるでしょう。参道から鳥居方向の眺め。年明け間もないこともあり、野方神明社の神社幟が立てられています。鳥居前から境内の眺め。左に社務所があり、正面の社殿とその右側に境内社が祀られています。境内右手の手水舎。手水鉢には龍のシルエットが浮かんでいます。シルエットの主はこの方。手水鉢の背面には寄進年の元文5年(1741)と刻まれていました。鎮座地の野方の名の由来は「野を起こして畑に開拓」したことから付けられたようで、この辺りの新田開発の歴史は調べていませんが、岩崎城近隣の新田開発が慶安元年(1648)に始まっていたようなので、同時期には人の手が入り、元文5年には集落は作られ、村中安全のために神社が必要とされたようです。手水舎から社殿全景。拝殿・幣殿・覆屋と右手に境内社が祀られています。愛知県神社庁に登録があり、野方神明社の内容は以下のようなものでした。「神明社祭神 天照大御神氏子地域 日進市野方町、浅田町、岩崎町、梅森町、香久山、野方町、藤塚。例祭日 10月第2日曜日。」とだけ書かれていました。当神社は神職はおらず、普段は氏子の手により維持管理され、東郷町春木狐塚に鎮座する富士浅間神社が祭祀を兼務するようです。富士浅間神社のHPには、兼務神社の詳細が記されており、野方神明社の内容は以下のようなものでした。「野方神明社御祭神 天照大御神、豊受大神、菅原道真。創建は明らかではないが、寛文覚書に「神明」と記されている事より江戸時代初期には既に祭られていたと考えられる。社蔵の棟札には元文5年(1741)、天照大御神、八幡大菩薩、春日大明神と記され、尾張誌、徇行記にも同様に記されている。この点現在と異なっている。恐らくは明治後年の強引な合祀令によるものと思われる。近年神明社では隣の田んぼにもち米を育て「御神田」として、秋には其れで餅つきをしている。野方町氏神 香具山氏神。」元文5年(1741)の棟札が残り、手水鉢にもその年号が見られるため、それが創建時期とはいえないまでも、江戸時代初期にはこの地の守り神として崇敬され、代々受け継がれて来たものと思えます。境内東側には石碑が建てられています。拝殿は瓦葺の妻入りで四方吹き抜けのもの。神社幕の神紋は五七の桐。拝殿から本殿方向の眺め。本殿域の前を守護する狛犬。台座に文字が刻まれていたが判読できなかったが、昭和・大正時代のものではなさそうです。拝殿右から本殿の眺め。覆屋の中に祀られている本殿は千木が内削ぎなのは分かりますが、造りや鰹木などは分からなかった。本殿右の境内社。6社祀られており、右から津島社、山神社、知立社、洲原社、天神社と並び、大きい板宮造りの社の社名は分からなかった。ひょっとして火伏の神だろうか。境内東の石碑。右から日清日露戦役記念碑、殉国の碑、招魂社が祀られています。社務所横の遥拝所、向きは遥か先の伊勢神宮方向を向いています。境内から社頭の眺め。鳥居は昭和59年(1984)に寄進されたものでした。野方神明社創建 / 不明、元文5年(1741)の棟札、手水鉢に同年の寄進年があり。祭神 / 天照大御神、豊受大神、菅原道真境内社 / 津島社、山神社、知立社、洲原社、天神社、不明社、招魂社所在地 / 愛知県日進市野方町清水566牧野ヶ池緑地 西口南側駐車場から野方神明社 / 車移動、 距離5km、12分ほど参拝日 / 2025/01/09関連記事・白美龍神社・梅森坂神社・光風園神社
2025.01.23
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日進市本郷町宮下鎮座「白山宮」野方神明社から車で北東へ5分ほど、田畑の広がる天白川右岸に、島のようにこんもりと盛り上がった森が見えてきます。今回の目的地「白山宮」はこの森のなかに鎮座します。鎮座地を南側から眺めた風景。森の入口には大きな神社幟が風に揺れています。社頭南側には広い臨時駐車場が設けられ、現在造成が進む中で、この景色もいずれ見通せなくなるのでしょう。写真は臨時駐車場から社頭の眺めです。緑豊濃い森の入口には「白山宮 初詣」と書かれた神社幟がはためき、静かな田舎の雰囲気が漂っています。社頭から参道の眺め。右手に、金色に輝く十六葉菊紋の入った白山宮の社標があり、鳥居の先から拝殿に向けて緩やかな上りのスロープが続いて行きます。鳥居は石造の明神鳥居。鳥居右の祭神記。「白山宮 御鎮座年不詳菊理媛命、伊弉冉命、大巳貴命。明治40年藤枝村より合祀。大山祇命、稲田姫命、木花開耶姫命。猿投社 天保11年勧請。大臼命。明治42年藤島より合祀。天照皇大神、大山祇命、大物主命、稲倉魂命、恩兼命、市杵島姫命、木花開耶姫命。」鳥居扁額は白山宮、右の柱に彫られているのは大巳貴命だろうか。柱の後方に白山古墳の石標が立てられています。玉垣の入口から白山古墳へ続く道の眺め。古墳はこの坂を少し上ったところにあります。白山古墳正面の眺め。正式には白山第一号墳と呼ばれるようです。鎖が張られ、これ以上は入れませんが、こうして見ると小さな円墳が二つ並んでいる様に見えます。これは一つの大きな円墳で、掘削され、石室の入口を隔てて二つの墳丘に見えているだけの様です。見えている石室入口は、周辺地域古墳を参考に復元されたようです。解説の内容は以下。「白山古墳 (白山第一号墳) 日進市指定文化財 (昭和56年)。直径約14㍍の円墳で、石組みの横穴式石室(全長7㍍、幅約2㍍)。石材は市内岩崎町の御嶽山の変成岩に似ている。副葬品は金環、鉄刀、装飾須恵器。築造は6世紀代と推定される。昭和55年に発掘調査。殆ど崩壊していた石室は、周辺地域の群集墳を参考に横穴式石室の一部を復元してある。遺物は岩崎城歴史記念館に展示。」面白いのは使用されている石は、ここから2㌔ほど北の御嶽山のものと似ているという事。手前の大岩など見ていると、御嶽山に鎮座する岩崎白山神社境内の穴不動周辺で見かけるものと確かに似ています。そうまでして誰を埋葬したのか興味が湧いてきます。岩崎城の歴史記念館付近には岩崎城古墳もあり、あそこの横穴式石室も群集墳を参考に復元されたものでした。機会をみていってみるかな。白山古墳から参道に戻り少し進むと右側に祓戸大神が祀られています。祓戸社や祓戸大神が祀られている神社では、自身の穢れを祓い清めるため最初に参拝する神様。ここから少し先で石段の参道にかわります。参道先の神馬像。参道左の境内社。右から、えびす社(北側島守護神):事代主命、神明社(丹波島守護神)、秋葉社(西側島守護神)、御嶽社:(石根島守護神)。その左の蓮理木と縁むすび社。個別の二つの株が成長と共に癒着してできるものを蓮理木と呼び、癒着の仕方も様々で特に珍しいものでもありません。こうして根元付近でひとつになり、それぞれが成長するものもあれば、途中から一つに結びつくものや、他の種類の樹と結びつくものなど多々あります。そうしたことから「縁結び」「夫婦和合」の象徴として信仰の対象とされます、信じるか信じないかは貴方次第です。この石段を上れば、趣きのある檜皮葺の手水舎と正面に風格漂う拝殿が間近になる。最後の石段の手前に百度石と一千日参拝と刻まれた石標が立っています。その奥に朱の鳥居があり、その先は龍谷寺になります。鳥居の手前から足王社の裏に続くスロープがあり、上に向かうと、白山宮の東の鳥居に続いています。そのスロープを進み境内に向かいます。すぐに白山宮東鳥居、社殿側面が現れ、左が足王社になります。このまま境内へ。社殿右側には幾つか境内社が祀られています。赤い社は稲荷社のようだ、だとすると先程の朱の鳥居はこの稲荷社のものか?、鳥居を見ておくべきだったか。右手に二社祀られています。右手の流造の社は秋葉神社、左の板宮造の社が山神社。赤い社は白山宮稲荷社。本殿域右の香良洲神社。白山宮「香良洲神社」略記。「御祭神 稚日女命(婦人の守護神)。由緒明治20年頃、近隣氏子の中に婦人病で悩む人々が多くあり、快癒を祈るため三重県津市の香良洲神社から御分霊を勧請し、覆屋を造営、祭礼を斎行。その結果、婦人病が和らいだと伝えられる。大正7年には香良洲社崇敬講社が誕生。祭礼には何万人もの参詣者があったと大正風土記に記載されています。今日では出産の母子安全や婦人病快癒を願う人々に広く崇敬されている。」立派な覆屋の中に祀られている社殿は、暗くて造りまでは分からなかった。足王社。別名サッカー神社とも呼ばれるようで、屋根の滑らかな曲線が美しいモダンな社殿。「足王社略記 祭神 足名椎神昔、藤島町には飯田街道裏街道と呼ばれた街道があり、商人や旅人達が道中の足の安全を祈願する足名椎神をお祀りする祠があった。時代の流れと共に街道を行き交う人々も少なくなり、街道隣接(藤島町大根)の個人宅に祀られていたが、終戦前後に当宮に勧請したのが起源とされる。平成13年(2001)の境内整備事業に併せ社殿も新しくなり、なでると痛みがとれるという信仰を持つ「痛みとり石」も祀られ多くの参拝者が訪れるようになった。足腰の神様から「サッカー神社」とも呼ばれるようになり、日本代表のエンブレムがはいった御守、絵馬 も授与され全国のサポーターも参拝。平成28年(2016)に、足王社新設並に境内地東面整備事業として新社殿が造営された。」その名の通り、足の神様。誰しも老いと共に直面する、足の衰えを良い方向に導いてくれる。まずはここで鏡に向かい参拝し、撫で布料500円と賽銭を納め、左から中に入り安置されている「痛みとり石」を撫で布で撫で、持ち帰って撫で布で患部を撫でると傷みが改善される御利益がある。こちらが「痛みとり石」、多くの願いを受け、石の表面はピカピカで滑らかなものです。こちらがその撫で布。拝殿正面全景。主祭神は菊理姫命で、多様な結びを授けてくれる神として知られる。拝殿前を守護する狛犬。趣きのある手水舎。軒唐破風が施され、鬼板に菊の紋も入れられ、日進総鎮護の格式の高さが窺われる。大きな自然石からくり抜いた手水鉢と龍口、龍は柄杓を近づけると清水を注いでくれる。「白山宮記一 祭神:菊理姫命、伊井冊命、大巳貴命、大山祗神、木花開耶姫命、稻田姫命。一 祭典神事:例祭十月十日、小猿投祭十月十一日、茅の輪祭七月二十八日(疫病除け輪くぐり神事)一 境内神社:猿投社、外十社一 境内地:参千九百六拾七坪(13114㎡)一 由緒:創立年代は不詳だが、縁起以前に加賀(石川県)白山の御分霊を勧請。延長5年(927)に本部岩崎の本居神に海部郡藤島神社を合祀し、5ヶ村の総氏神として崇敬される。大永3年(1523)、城主丹羽若狭守氏清が祭祀を奉修、湯立・笠おどり・棒の手・馬の塔(敵馬)の神事が氏子によって伝承され「白山の馬まつり」として親しまれるが現在は中絶している。天保12年(1842)、小塚甚太夫知隆が猿投社を建立し、三州猿投神社の御分霊を勧請し小猿投祭が始まる。明治5年(1872)に郷社。同40年(1965)に常錦供進神社。戦後宗教法人となり、昭和42年(1967)から大造営開始、社殿・境内を改築整備し「白山宮」と改称。昭和44年(1969)に5級社(旧県社)に昇格。」拝殿額。拝殿左の猿投社。流造の社殿の前に陶製の小さな狛犬の姿がある、祭神は大碓命が祀られています。大碓命は日本武尊の兄にあたり、命の墓所は豊田市の猿投神社の北に聳える猿投山の奥深く、西の宮から少し上がった高みにあります。日進の総鎮守白山宮、規模のみならず、古墳も残る長い歴史を有する神社でした。白山宮創建 / 不詳祭神 / 菊理姫命、伊井冊命、大巳貴命、大山祗神、木花開耶姫命、稻田姫命境内社 / 祓戸大神、えびす社、神明社、秋葉社、御嶽社、縁むすび社、秋葉神社、山神社、足王社、白山宮稲荷社、香良洲神社、猿投社境外社 / 高帝龍王龍神所在地 / 愛知県日進市本郷町宮下519野方神明社から白山宮 / 車移動、 距離2km、5分ほど参拝日 / 2025/01/09関連記事・白美龍神社・梅森坂神社・光風園神社・野方神明社過去記事・駅ちかウォーキング2017SPRING「竹の小径から岩崎城」を歩く・『高帝龍王龍神』名古屋市名東区高針2丁目・三河国三之宮 猿投神社 5「西の宮」
2025.01.24
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八幡神社。延命寺から県道57号線を西に向かい、この日のゴール6番札所常福寺に向かう途中、月見町地内にある大目寺西交差点北側で八幡神社を見かけ、ゴールを目指す妻には先に行ってもらい、一人立ち寄ってみました。県道57号線沿いに社頭を構える八幡神社。右手に「正八幡神社」社標、そこから境内までは緩やかな石段が続く。石段途中に建てられた明神鳥居。石段を上りきった先の境内全景。左から手水舎・社務所・社殿・境内社が主な建物になります。拝殿全景、大きな向拝を持つ入母屋造で、社殿は全体的に新しい印象を受けます。後に調べたところ、当社には寛文10年(1670)の棟札が残っており、歴史はかなり古いものです。拝殿額は「江端八幡社」拝殿から本殿方向の眺め。左巴紋が神紋のようですが、本殿の造りは分かりませんが、金色の御幣と鏡が祀られ、脇障子には彫が施されているように見えます。拝殿右側の境内社と堂。境内社は左から金毘羅宮、津島神社、大山祇社、若宮神社、秋葉神社の五社相殿。右手は左が猿田彦大神と富士山淺間神社。方形屋根の堂には一体の石像が安置されていました。遠目にしか見ていませんが、像容から役行者に見えました。境内右から社殿側面の全景。平入の拝殿と幣殿・本殿が一体となったもので、玉垣はありません。境内に由緒はなく、現地で詳細は分からず、後日調べてみました。現在の大府市誌・神社から鎮座地の月見町で調べてみたが該当がなく、月見町の地名沿革を調べてみると月見町の町名は近年の事で、以前は土前と呼ばれ、明治期の地図では江端と書かれているのが分かりました。市史を土前で見直すと八幡神社の記述が見つかりました。以下は大府市誌からの引用です。「八幡社 大府町土前五番地に所在し、仁徳天皇を祀る。創建は不詳であるが所蔵する寛文10年(1670)8月3日の棟札に「奉上背弓箭八幡宮一宇守護所」とあり、すでに屋根のふき替えが行われていることは、それ以前に祠のあったことを意味する。天文年間(1532-55)に加藤孫八という人がこの地に移住した。加藤家の所蔵する棟札によると、代々当社の神主を世襲しているところから、天文年間の創建ではないかと思われる。社伝によれば、創建当初は現在地より東へ200㍍鞍流瀬川畔の上清蔵に一社を設けていたが、たびたび洪水にあった。安政3年(1856)の大洪水を機に、北にあたる大峯山の頂に社を移したが、後年再び現在地に移したと伝えられる。この間(寛文10年-明治2年)の10枚の棟札によると、すべて宝竜山延命寺住職が遷宮導師をつとめているところから、当寺の支配下に置かれていたことがわかる。今も上清蔵の元宮の地には、人家の軒先に3.3平方ほどをブロックで囲った「八幡神社本宮」の碑が建っている。「寛文覚書」にも「一社七ヶ所内」に八幡の名がすでにみえ、弓箭八幡宮あるいは若宮八幡社と称されていたが明治11年に八幡社と改称された。現在の本殿は間口1.6㍍・奥行90㌢ の流れ造りで、向拝から虹梁、上長押、両側見付の脇障子に至るまで 無数の精彩な彫刻がほどこされ、棟札から推定して、寛政2年(1790)の建造と思われ、雨覆殿によって風雨をしのぎ、江戸中期の建築様式を今に伝えている。境内社に若宮神社(祭神 誉田別尊)・津島神社(祭神 素盞鳴尊)・大山祇社(祭神 大山祇命)・秋葉神社(祭神 迦具土神)・金比羅社(祭神 大物主神)の五社があり、境内東北隅に役行者を祀る堂がある。」これだけ分かれば他を調べる事もなさそうです。見た目の印象とは違い、現在の月見町以前の集落の発展と共に歴史を重ねてきた神社である。江端 八幡神社祭神 / 仁徳天皇創建 / 不明、寛文10年(1670)の棟札が残る境内社 / 金毘羅宮、津島神社、大山祇社、若宮神社、秋葉神社、猿田彦大神、富士山淺間神社氏子域 / 江端町、大府町、月見町、長草町祭例 / 10月第2日曜日所在地 / 大府市月見町5-248参拝日 / 2025/01/25延命寺から江端八幡神社 / 県道57号線を西に、大目寺西交差点北側の江端八幡神社まで1.6km・約25分関連記事・知多四国巡礼 一番札所 清涼山 曹源寺・近崎 神明社・北嶌山賢聖院・知多四国巡礼 二番札所 法蔵山 極楽寺・知多四国巡礼 三番札所 海雲山 普門寺・藤井の里 藤井神社・知多四国巡礼 四番札所 寶龍山延命寺
2025.03.15
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今回の第一回歩いて巡拝知多四国も、ここ六番札所萬年山常福寺でゴールを迎えます。江端八幡神社を後にして、県道57号線の半月町1丁目交差点で左に進み、国道23号線を南下、健康の森北交差点を右に進めば六番札所曹洞宗常福寺到着です。江端八幡神社から約2㌔・30分ほどの場所になります。一・二・三・四番…ときて六に飛ぶのね、地図から五番札所地蔵寺を見れば頷けます。都合のいいように順番通り並ばないのが知多四国巡礼。萬年山常福寺山門の全景。 10.5キロのコースのゴール、寄り道しながらだったので、恐らくこの距離は軽く上回っているのは間違いなく、薬井門を前にして多少足が重く感じられる。山門左の小さな社が祀られていましたが、詳細は不明です。薬井門から境内の眺め。正面に見えるのは観音堂、弘法大師の像はこちらに安置されています。参道から境内正面の眺め。左に手水舎があり、正面の観音堂、右手に鐘楼があります。澄んだ清水を湛える手水鉢、清水を注ぐ龍は今日ばかりは大忙しだ。境内左側は美しい白砂の庭園とその先の寄棟の建物が本堂で納経所はこの左になります。曹洞宗萬年山常福寺の歴史について「大府市誌」に補足を加えて見ていきます。「万年山 吉田町北向52番地に所在する。乾坤院(知多郡東浦町)の末寺。所蔵する過去帳によると、建久年間(1190~99)に、壇ノ浦の戦いで敗れた平景清が開創したとある。景清はこの地にきて、つねに観世音菩薩を念じ、自ら観音の木像を彫刻し草庵を結んで安置したといわれる。この観音堂が前身となり、満念山常福寺となった。満念とは観音菩薩の徳に報いる念願満足の意味、常に景清の冥福を祈るところから、常福寺の寺号となり、後に、萬年山と改称した。天文15年(1546)に火災にあい、慶長14年(1609)9月、浅羽八太夫が敷地を寄進、村民と協力し、観音堂と別に客殿・ 庫裡などを建立し、乾坤院三世芝岡宗伝の法孫、 養泉元育を請じて開山となした。宝永5年(1708)には、諸堂を20間余り東に移して法堂を建立したが、安政4年 (1857)11月に、二世大賢泰道が再び本堂建立を発願して以来、明治7年12月に法地再興され、同9年2月に完成しその棟札が残る。他に黄檗宗開祖の隠元隆琦の墨趾も所蔵する。寺宝 木像地蔵菩薩立像1躯 藤原時代」全国には様々な伝承が伝わります、上にもあるように平景清が当地へ逃げ延びたという記述は尾張名所図会にも「景清宅趾」として半月村の記述が残る。曹洞宗常福寺の本尊は釈迦牟尼仏。本堂右には黄金色に輝く厨子に地蔵菩薩像が安置されている。観音堂正面の眺め。こちらには弘法大師像の他、平景清の作とされる千手観世音菩薩などが安置されています。景清の没年や場所は各地に伝えられ、実際の所確定するものは乏しい中、景清の作とされる千手観世音菩薩や、景清の法名「水鑑景清大居士」の位牌も残る事から単に口伝えだけではないようです。一説には景清は建保2年(1214)この地で没したとも云われるようです。観音堂右側からの全景。入母屋瓦葺で一間向拝を持つもので、明治以降の伽藍の修復時期は定かではない。右手の参道の先が最寄り駅まで繋ぐ臨時バス乗り場となっていました。観音堂右の鐘楼。長い歴史を持つだけに、この梵鐘がいつのものか、再鋳されたものか興味があったが、食事の為に1㌔先のげんきの郷に急いでいたので見送りました。はんつきの ほうのひかりの かがやきて まよひのくもも はれてあとなし知多四国巡礼 六番札所 萬年山 常福寺宗派 / 曹洞宗創建 / 建久年間(1190~99)開創 / 平景清開山 / 養泉元育本尊 / 釈迦牟尼仏、千手観世音菩薩札所 / 知多四国六番札所参拝日 / 2025/01/25所在地 / 大府市半月町3-151江端八幡神社から常福寺 / 県道57号線を西に、大目寺西交差点北側の江端八幡神社まで1.6km・約25分関連記事・知多四国巡礼 一番札所 清涼山 曹源寺・近崎 神明社・北嶌山賢聖院・知多四国巡礼 二番札所 法蔵山 極楽寺・知多四国巡礼 三番札所 海雲山 普門寺・藤井の里 藤井神社・知多四国巡礼 四番札所 寶龍山延命寺・江端 八幡神社一㌔歩いて、げんきの郷の魚太郎でこの日の昼食とお清め。家に帰れば粗食の日々が続く、せめてこんな時ぐらい・・・帰りはここから3㌔先のJR大府駅から家路につく。
2025.03.16
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前回掲載した千秋町加納馬場郷内鎮座の日吉神社、今回はそこから車で2分程北東に位置する熱田神社を掲載します。鎮座地を明治初期の地図を見ると、加納馬場村の西外れの田畑の先に小さな集落があり、そこが現在の加納馬場字西切にあたります。写真は加納馬場大山地内の熱田神社社頭。右手に大正8年(1919)に寄進された「熱田神社」社標が建てられ、道路を跨ぐように石造の明神鳥居が立っています。熱田神社鳥居から参道の先の社殿方向の眺め。鳥居の前後左右に4本の樹(桜かな)が聳えており、枝葉は鳥居のように剪定されているのが印象的です。現在は生活道路となっている参道はかつては桜並木だったのかもしれません。玉垣で囲われた社地はここから約200mほど先にあります。こうした長い参道は郊外ならでは光景かもしれません。突き当りの熱田神社社地全景。注連縄柱の先の境内左に馬場公民館が併設されており、車はそちらに駐車させて頂きました。境内全景。建物は境内左に手水舎、右手に神楽殿、正面の社殿と社殿左に境内社が祀られています。手水舎と龍口。張られた清水は、鉢の底まで見通せるほど澄み切っていました。神楽殿。入母屋瓦葺の平入で、正面以外は腰壁が施された四方吹き抜けのものです。神楽殿内部全景。氏子達の手によるものだろうか、格子天井には書や絵が描かれています。拝殿正面全景。木造入母屋造で千鳥破風と大きな向拝を持つ風化のある佇まいで、手前で一対の狛犬が守護しています。寄進年を見忘れましたが、顔の表情が個性的な狛犬です。熱田神社社殿全景、由緒が見当たらず、愛知県神社名鑑(1992)から調べてみました。『七等級 熱田社 旧村社鎮座地 一宮市千秋町加納馬場字西切2167番祭神 日本武尊由緒 創建は明らかでない。貞和4年(1348)8月22日再建の棟札がある。「尾張志」に「山王権現社、天王社、熱田大明神社、神明社加納馬場村にあり」とある。明治5年村社に列格さる。昭和15年より同21年にかけて社殿、その他の改膳整備が行なわれた。同26年10月22日昇級及び整備完了報告祭を挙行した。例祭日 10月第3日曜日社殿 本殿流造3.3坪、幣殿5.5坪、拝殿24坪、社務所19坪、境内坪数409坪。氏子数 600戸』貞和4年(1348)再建とあることから、南北朝時代の尾張守護斯波氏の庇護を受けていたのだろう。西側から社殿の眺め。拝殿・幣殿がその先の流造の本殿につながり、周囲を透塀が取り囲んでいます。社殿左の境内の片隅に境内社が一社祀られており、社名を確かめに向かいます。板宮造りの本殿や献灯台には社名に結びつく手掛かりはありません、不明社です。拝殿前から神楽殿と長い参道の眺め、氏子達がつないできた神社の長い歴史そのものかもしれない。加納馬場 熱田神社創建 / 貞和4年(1348)再建の棟札祭神 / 日本武尊境内社 / 不明社氏子域 / 千秋町加納馬場例祭日 / 10月第3日曜日所在地 / 一宮市千秋町加納馬場字西切2167千秋町日吉神社から熱田神社・車ルート / 日吉神社から北東に約1km、2分程参拝日 2025/8/21関連記事・水神社・八大龍王社・曽本町 神明社・嫩桂山久昌寺跡と郷中神明社・千秋町日吉神社
2025.09.08
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前回掲載した千秋町佐野の龍光寺から、車で東へ1~2分程の千秋町佐野字弁財天浦に鎮座する「厳島社」、今回はこちらを掲載します。鎮座地は青木川右岸の千秋中学校北側にあたり、すぐ脇を青木川が流れています。社頭は、車道から少し奥に入った場所になり、分かりにくいかもしれませんが、小さな森と朱の鳥居が目印として分かりやすい。実は、8月に加納馬場の熱田神社を訪れた際に立ち寄る予定でいましたが、尋常じゃない暑さにスマホやナビがご機嫌斜めで場所もよく分からず諦めた神社です。因みに熱田神社は、この道路を東に進み、交差点を越えた左側に社頭を構えています。上の地図、左は明治時代で、佐野集落の東、青木川右岸のマーカーが鎮座地になります。地図上では周囲に住居はみられず、鳥居の印は描かれていませんが、青木川沿いの田畑の中に位置します。車道から社頭の眺め。小さな杜の入口に朱も鮮やかな両部鳥居を構えています。車止めはなく、普通車ならなんとか通れる道幅です。社頭の眺め。鳥居左側を進むと右側に駐車余地がありました。両部鳥居。小型ながら、島木と笠木の反りが綺麗な均整のとれたものです。鳥居は大きく神明鳥居と明神鳥居の2種類に分けられます。最上部の笠木や島木とその下の貫、それを支える本柱で構成されます。貫が本柱を貫通しているものが明神鳥居、貫通していないものを神明鳥居と覚えていればいいでしょう。神社など格式(個人的に嫌いな識別基準)をうたうことはあっても、鳥居の形をもって格式が高い・低いをうたうことはないと思います。両部鳥居は、本柱の前後に控え柱を設け、本柱につなげた構造で、安定感があり、優雅な立ち姿が、個人的にとても気に入っています。愛知県神社名鑑(1992)「厳島社 15等級 旧無各社鎮座地 一宮市千秋町佐野字弁財天浦3308 祭神 市杵島姫命由緒創建は元禄2年(1689)2月5日という。明治5年5月据置公許となる。例祭日 4月15日社殿 本殿 神明造崇敬者数235人 」額は厳島社。鳥居を過ぎ、神橋を渡るとやや鬱蒼とした参道の先に社殿が姿を現します。社殿正面全景。正面に石造の蕃塀も構えています。社殿は蕃塀と祭文殿と思われる建物と、その先の本殿で境内社は見当たらなかった。蕃塀は昭和61年(1986)に寄進されたもの。祭文殿から本殿の眺め。妻壁に掛けられた「厳島神社」の額。祭神の市杵島姫命は、本地垂迹では弁才天と同一神とされ、佐野字弁財天浦の地名もここからきているのかも。本殿。青木川が流れ、周囲を田んぼに囲まれたこの地に、水を司る弁天を祀るのは、自然な選択と言えるだろう。三本の鰹木と外削ぎの置き千木を施した板宮造で、彫飾りの施された脇障子が付く。社叢左側からみた社殿全景。参道から受ける印象は鬱蒼としたものでしたが、田畑に面した西側は意外にスッキリとしています。参道に戻り社頭南側の眺め。明治頃の地図では田畑だけだったこのあたり、景観はすっかり様変わりした。変わらないのは青木川の流れと厳島社だけだろうか。厳島社(千秋町佐野)創建 / 寛永13年(1636)祭神 / 市杵島姫命祭礼 / 4月15日氏子域 / 千秋町佐野所在地 / 一宮市千秋町佐野字弁財天浦3308参拝日 / 2025/10/13龍光寺・髙須社から厳島社 / 龍光寺から南に向かい突き当りを左折、青木川に架かる橋の左手前の森。龍光寺から約400m、移動時間1~2分。関連記事・秋葉神社(河内屋新田)・不明社(河内屋新田)・入鹿宗雲 熊野社・入鹿伝右 八王子社・替地 天神社・稲荷神社(入鹿出新田)・津島社(加納馬場)・神明社(加納馬場)・龍光寺・髙須社(千秋町佐野)過去記事・加納馬場 熱田神社
2025.11.08
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港区正徳町2の神明社を後に、350mほど西に向かい、正徳四・五・六丁目集会所を目指します。写真は正徳五丁目の交差点角にある集会所で、時間にして5分ほどで到着できる距離にあります。 集会所の入口には「正徳町四・五・六丁目町内会集会所」とあります。この集会所の左に目指す正徳町5の神明社が鎮座します。赤のマーカーが鎮座地で、明治時代からほぼ現在までの地図を見てみましたが、ここに鳥居の印が記されることはありませんでした。 正徳町四・五・六丁目は、荒子川を挟んだ両岸と、東岸では正保公園あたりから百曲街道までが大まかな範囲となります。 集会所敷地の左側が神明社の社地として設けられており、右側に幟立て、左側に社標が立てられています。 正面には銀色に輝く金属製の蕃塀が建てられており、道路から境内の様子を見ることはできない。神明社の社標後方から境内に入ってみます。 社標右手の幟立てに目をやると、側面に「平成6年改修」と刻まれていました。更に背面には「昭和31年明徳温泉」の銘が刻まれていました。 二つの年代にわたる記録が残る寄進物は、あまり見かけないものかもしれない。これだけ見ても、この神明社の歴史を感じ取ることができます。 この正徳町5の神明社について調べてみました。 愛知県神社庁には登録されておらず、名古屋市史にも記載がないため、詳細はつかめませんでした。蕃塀の先の境内には、「遷宮記念」と刻まれた二本の石柱が立ち、その先には角の取れた石を高く積み上げ、その上に社殿が祀られています。 遷宮記念の石柱には「昭和50年」と「平成6年」の年が刻まれており、正徳町の変貌にともない、地内で二度遷座した可能性があります。幟立てに「平成七年修復」とあるので、この頃に現在の神社の形が整えられたのだろう。 過去の地図を見ると、このあたりに住宅が現れるようになるのは昭和に入ってから。昭和22年頃の航空写真で見ると、田畑が広がる環境の中、この一帯だけ規則正しく複数の建物が見られます。 現在の正保公園北側まで建物が続き、それより南側には、まだ田畑が広がっています。これが社宅なのか、団地なのか分かりませんが、その頃から一帯の宅地化が進んでいるようです。 住民が増えると、集会所や公民館が建てられていきます。人が寄り合う地域の施設に神社を祀る例は珍しくなく、遷座の歴史は分からないものの、周辺の宅地化が進んだ昭和期になって祀られたものではないかと推測します。本殿は神明造で6本の鰹木と内削ぎの千木が付くもので、供えられた榊も新しく、町内でお世話する仕組みがあるのだろう。 祭神は天照皇大神と思われ、正徳町四・五・六丁目に住む人々を見守っているのでしょう。境内社は見られません。神明社 (港区正徳町5)創建 / 不明祭神 / 天照皇大神氏子域 / 不明祭礼 / 不明境内社 / なし所在地 / 名古屋市港区正徳町5-100参拝日 / 2026/08/21正徳町2神明社から正徳町5神明社への徒歩アクセス / 正徳町2神明社から西に350m、徒歩5分ほど。関連記事・龍神社 (港区川間町)・神明社 (港区正徳町2)
2026.09.05
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前回掲載した大手神社から中之島川緑地を越え、県道227号線を東へ進み、築三町交差点を右折すると、港区築三町2の築地神社に到着します。大手神社から350m、徒歩5分ほどに位置します。 写真は築三町交差点の南東角から北方向を撮影したもの。道路の向こうの緑の並木が中之島川緑地になります。この交差点は県道から築地の物流施設に出入りする大型トラックが頻繁に往来する地域で、一歩路地に入ると幅員の狭い生活道路が続き、駐車スペースは皆無なので車で訪れるのは避けた方が賢明です。築地神社は右手の建物の敷地内にある築三町2・3丁目児童遊園地内に鎮座します。港区築三町2の築三神社全景。 港区の地名由来によれば築三町の由来は「名古屋港築港第三号地ということで名付けられた。」とあります。写真左の建物は当地の集会所と思われ、右側には遊具もあり、築三町2のコミュニティーの場になっているようです。 本殿は正面の基壇の上の覆屋の下に祀られています。 神社には築三神社を裏付ける社標や寄進物はなく、境内に鳥居や狛犬といった施設は見られない。 Gマップでは築三神社と表示されるものの、登録時の写真や場所が異なっている場合もあり、一概に鵜呑みにはできない。事実、築三町1には「築三神社」と刻まれた社標を持つ神社がある。 愛知県神社庁や港区HPからも情報が得られず、築三神社としてよいのか確証がない。不明社として書き進めればいいのだろうが、ここは便宜上『築三町2の築三神社』として表記します。 上の地図は明治24年(1891)と現在の地図の比較です。 明治の地図の当地は、埋立造成前でまだ海の中。現在の地図(右)では、築港第三号地の中央赤枠部分が築三町2で、東が築三町1、西が築三町3と別れています。 この地域は農地拡充を目的とした新田ではなく、港湾整備を目的とした埋立造成地です。築港第三号地の南側に広がる築港第四号地(築地町)も同様で、物流施設や工場が多く、民家は築三町に集まっています。 そうした土地柄から、入口となる築三町交差点から南に曲がるとトラックの往来が多くなり、マイカーは場違いな印象すら感じる地域です。 築三町交差点の南東角に鎮座する築三町2の築三神社社殿。 高い基壇上の本殿域を大きな覆屋で覆い、その下に三社が祀られています。階段左の手水鉢、寄進年は確認できなかった。 造成時期が明治34年(1901)~昭和26年(1951)なので、創建時期もある程度は絞られてくるのかもしれない。築三町2 築三神社本殿は社名同様に祭神は不明。 神明造で棟に6本の鰹木と内削ぎの千木がのる、俗説に従えば女神を祀る形式とされますが、詳細は不明です。本殿の両サイドの社も社名はわかりません。 大手神社の本殿域に祀られている社の数と同じで、意外に共通した神社を祀っているのかもしれない。詳細はわからないが、ここまでこれたことにお礼の参拝。 覆屋の下に大切に祀られている社の姿は、築三町2の住民には大切な存在として崇敬されているのが伝わってきます。 築三町2 築三神社創建 / 不明祭神 / 不明氏子域 / 不明 祭礼 / 不明境内社 / 二社所在地 / 名古屋市港区築三町2-83参拝日 / 2026/08/21 大手神社 (港区築三町2)から徒歩アクセス / 中之島川緑地を越え、県道227号線を東に進み、第三町交差点で右に進む。距離350m・約5分。関連記事・龍神社 (港区川間町)・神明社 (港区正徳町2)・神明社 (港区正徳町5)・弘法堂 (港区土古町3)・八釼社 (土古町)・正徳神明社(正徳町1)・熱田新田二十番割観音堂・神明社 (港区小碓1)・神明社 (善進町4)・稲荷社 (港区十一屋)・遠若社 (港区遠若町1)・大手神社 (港区大手町5)
2026.09.23
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この日は愛知・名古屋アジア大会のボランティア研修で三好公園総合体育館を訪れ、カヌー会場の様子見に堤体まで登ってみた。堤体上から眺める三好公園総合体育館と三好町の眺め。 明治期の地図と比較すると農地は宅地化され、ベッドタウンに移り変わったが、広々とした視界が広がる緑豊かで住みやすそうな環境だ。 ここから少し外れると三好池の恵みを受けた農地が広がっています。見方を変えると、三好池の堤体が三好町の平穏な日常を護っているともいえます。 三好池は、愛知用水事業の一環として1957~1959年にかけて建設されたもので、木曽川から取水した水を幹線水路から分岐する三好支線水路を通じて取り入れています。 このため池より農地へ水を配り、農産物の生産を支えています。池の周囲は2000 本の桜が植えられており花見の名所となっており、池を利用してカヌー施設が常設されており、全国レベルのカヌー競技会や地元学校の部活練習場として活用され、みよしはカヌー競技の町としても知られています。 お隣の愛知池(東郷調整池)のある東郷町はレガッタ競技の町で、カヌー・カヤック、レガッタとは何ぞや。簡単に言えば進行方向を向いて漕ぐのがカヌー・カヤックで背中を向けて漕ぐのがレガッタ。 止水のスプリント競技となり、川などの流水で行う競技がカヌースラロームで、近くでは矢作川にコースがあります。自分ごとになりますが、競技ではないけれどカヌー・カヤックで単純に川を下るものもあり、40年ほど前には折畳のカヤックを車に積み、愛犬と共に中部の川を下った時期もあります。 当時は池で漕ぐという選択肢はなく、ここを訪れるのは今回が初めて。ボランティア応募もスラロームを希望していましたが止水のここに振り分けられました。 カヤックは今も物置で眠っており、かみさんからは断捨離を勧められていますが、怖くて開けた事がない。前置きが長くなったが、今回掲載する三好池神社は三好池の北側の赤マーカーの位置になり、取水塔近くの池畔沿いに鎮座します。 上は明治24年、三好池誕生前の当地の地図(左)と現在の地図の比較になります。当時は新池・曲り池・中池・下池などの灌漑用ため池が集中する地域で、一際大きな曲り池を起点にして山側の池を統合して現在の三好池の姿になっており、谷川の池は埋め立てられ三好公園総合体育館や陸上競技場・野球場として整備されています。 建設にあたっては、ため池から農地へ水を給水する機能を維持しつつ、岩盤のない地盤に堤体の核となるコアを造り、新たに土を盛って堤体(アースダム)を建設する制約をクリアして実現したという。完成した堤体は長さ430m、堤高は約20mで、貯水量はバンテリンドーム1.3杯に相当するという。三好池神社の全景。 三好池神社奉賛会が組織されているようです。 「三好池神社」は昭和63年4月、三好町土地改良区、同利水委員会が発起者となり、町民並びに関係者の寄付金を浄財として建立されたもの。 世紀の大事業である愛知用水の恩恵に感謝し、三好池の御守護を祈願し、悠久に枯れることのない守り神として建立された。奈良県吉野村 丹生川上神社 中社の水の神、上社の雨の神、滋賀県新旭町 波爾布神社の土の神を祀る。」愛知用水の溜池のひとつ、知多市にある佐布里池にも水の恩恵と池の守護を目的とした神社が祀られています。 当地のすぐ北にも東郷調整池があります、恐らく鎮護の社があるものと思われますが、地図上に現れず、一度一周してくる必要がありそうです。三好池を見下ろす様に鎮座する神社全景。 社地は緑の絨毯の上に、玉垣で囲われた低めの本殿域が作られ、流造の本殿が祀られるもので、境内社はありません。いかめしい顔つきで、分厚い胸を張りだした狛犬は護国神社などで見かける勇ましい姿をしています。祭神は水の神 罔象女神、雨の神 高龗大神、土の神 波邇夜須毘売神を祀るものと思われます。本殿から三好池の眺め。 三好池では地場産業の発展と水の恵みに感謝して、山型の提灯を飾った提灯舟を浮かべる大御饌調進祭が平成元年8月5日に行われました。翌年から花火を打ち上げるようになり、平成3年からは水中スターマインも行われるという。 提灯舟も年々増えていき、現在は7隻に増え、「三好池まつり」として年々盛大になっているようです。普段は静かな三好池ですが、まもなく各国を代表する選手達がこの水面でしのぎを競い合う。 三好池の鎮守の三好池神社、その神々に見て頂くためにも、社頭から先は視界を遮ってはいけないだろうね。神社後方から社殿の全景。 愛知・名古屋アジア大会については、開幕前から組織委員会のさまざまな不手際が指摘されている。 そんな大会を下で支える各国・全国から集結したボランティアの意欲は、三好池を支える堤体同様に強靭なものです。三好池神社創建 / 昭和63年(1988)祭神 / 罔象女神、高龗大神、波邇夜須毘売神氏子域 / 不明 祭礼 / 不明境内社 / なし所在地 / 愛知県みよし市三好町仲ヶ山43-43車アクセス / 名古屋城から1:10ほど公共交通機関 / 地下鉄鶴舞線「赤池駅」から名鉄バスで「三好上バス停」降車、三好公園まで徒歩30分。参拝日 / 2026/09/12 関連記事過去記事・知多市「愛知用水神社、愛知用水水利観音」
2026.09.28
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前回は港区築三町2の築三神社を掲載しましたが、今回はそこから350mほど東へ向かい、築三町1に鎮座する築三神社を紹介します。上の地図は明治24年(1891)と現在の地図の比較です。 明治の地図では、鎮座地はまだ埋立造成前で海の中。現在の地図(右)では、築港第三号地の東に位置する築三町1にあり、これより南には民家がほとんどなく、工場が建ち並んでいます。 更に南の築港第四号地(築地町)は物流施設や工場が多く、集落に鎮座する神社としては、築三町1の当神社が南端といってもよさそうです。当神社の創建時期は定かではありません。鎮座地は明治末期から昭和中期にかけて造成された埋立地なので、神社も比較的新しいものと思われます。 現地に解説板はなく由緒や祭神は不明です。築三町2の築三神社から南に向かい、3本目の通りを東に突き当たった先が築三町1 築三神社になります。 工場に囲まれたその一画に観音堂のような佇まいの神社が鎮座します。ここから東は中川運河の堤防があり、右手方向の対岸には、シートレインランドの大観覧車がよく見える。築三神社全景。 玉垣で囲われた神域に鳥居があり、右手には「築三神社」と刻まれた社標(昭和33年寄進)と常夜灯が立っています。よく見れば右側の玉垣の親柱に小さな狛犬が置かれています。 その先の社殿は入母屋瓦葺きで向拝の付いた造りです。親柱の狛犬に相棒はいないようだ。境内左の手水鉢。「築三神社」と刻まれた額も掛けられており、築三神社に訪れた実感がある。 Googleマップには、築三町1と築三町2に、それぞれ町名を冠した「築三神社」が表示されている。そこに居住し、その神を崇敬する住民が分かっていれば、どちらが先で、祭神は何かなど、外に向かって発信する必要はないのかもしれない。 目的地を目指して歩いたはずが、いつの間にか寄り道と発見の連続となった今回の神社巡りも、これで一区切りとします。築三町1 築三神社創建 / 不明祭神 / 不明氏子域 / 不明 祭礼 / 不明境内社 / 不明所在地 / 名古屋市港区築三町1参拝日 / 2026/08/21 築三神社 (港区築三町2)から徒歩アクセス / 南に向かい3本目の通りを東進、突き当り。距離350m・約5分。関連記事・龍神社 (港区川間町)・神明社 (港区正徳町2)・神明社 (港区正徳町5)・弘法堂 (港区土古町3)・八釼社 (土古町)・正徳神明社(正徳町1)・熱田新田二十番割観音堂・神明社 (港区小碓1)・神明社 (善進町4)・稲荷社 (港区十一屋)・遠若社 (港区遠若町1)・大手神社 (港区大手町5)・築三町2 築三神社
2026.09.27
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前回は三好池の鎮守「三好池神社」を掲載しました。 引き続き今回は、三好池北岸に鎮座する「八龍神社」を掲載します。上の地図は明治(左)の頃と現在の移り変わりを地図で見ています。 上の地図は、明治期(左)と現在の当地の様子を比較したものです。当時のこの辺りは、西側を細い流れの砂後川が流れ、境川にかけて田園地帯が広がり、三好村の出郷三好新屋の集落が見られる程度でした。現在みよし市役所のある、当時の三好村の集落は、さらに南西に離れた場所になります。水量の豊かな大きな河川がない当地で農作を行うには、水の確保が欠かせません。 三好村から東側の丘陵地にかけて、いたるところに灌漑用の溜池が築かれたのも、農業用水を確保するために必要に迫られてのことだったのでしょう。各地の歴史を遡ると、旱魃に悩まされた農村で雨乞いが行われてきたことが分かります。 当地でも、こうした水不足への願いから龍神を祀り、雨を乞う信仰が生まれました。現在では愛知用水や三好池などの整備によって水事情も大きく改善され、農地には安定して水が供給されています。 その一方で、かつてこの地で水を求め、雨を願った人々の信仰を今に伝えているのが、今回訪ねる八龍神社です。三好池の鎮守、三好池神社から三好池第6駐車場に向けて西へ100mほど進むと、三好の水の守護神ともいえる八龍神社が鎮座しています。道路沿いに西を向いて鎮座する「八龍神社」社殿全景。 少し先を右に入ると社頭への入口があります。「八龍神社」入口。 道路沿いに東西に細長い社地を持ち、北側には濃い緑の社叢が広がっています。一方、南側は開けているため、明るい印象の境内です。社頭から境内を眺める。 左には平成8年に寄進された「八龍神社」の社標と、石造の明神鳥居があります。鳥居の寄進年については確認していません。石の額には「八龍神社」と刻まれています。参道から眺める社殿は比較的新しい印象を受けます。 三好池の開発に伴って祀られた神社なのだろうかと思っていましたが、境内の由緒碑を読んで、その考えは改めざるを得ませんでした。八龍神社の由緒碑には、次のように記されています。「八龍神社鎮座地 愛知県西加茂郡三好町大字三好字仲ヶ山四十二番地の一 境内地 六二七平方米祭神 豊玉毘売命 豊玉毘売命は海神の御女に生まれ、海・水・安産・子孫繁栄を司る神で雨乞いの神でも有る。みよし野を切り開き、田とした先人達は、その用水の源を東の谷に求め、幾多の池を築いた。 その池の鎮めと、より豊かな恵みの雨を乞い願って慶長十一年(1606)、池を見下ろす此の地に勧請されれた。以来近郷の雨乞いの神として信仰を集めてきたが、特に徳川吉宗の世となり、大岡越前守忠相が西大平に其の在所を構えてより、西五千石の雨宮として奉斎され、旱魃時には領民等はこぞって八龍大明神に祈願をし、その際には大岡越前守は代参を差し向け、時には宮口の篠田代官が代参をつとめることもあった。 神前に集い火を焚き、龍神の神力を賜るように乞い願った。当社殿はその為、西の天空より雨雲を迎えるように西向きに造営されている。 旧三好村の高台に龍神を奉斎し、初祈願をした三百数十年前より悠久に続けてきた、先人達の祈る誠の心を知るところで有る。折しも、若鯱国体開催の平成六年は大渇水で、曲り池を基として造られた三好池の貯水量も激減し、生活不安に陥りました。 これを機に天王神社奉賛会の諸人で、八龍神社社殿の御造営の運びとなった。新屋の里 八龍神社造営委員会 平成八年四月吉日竣工」由緒碑によれば、現在の社殿が建てられたのは平成8年ですが、八龍神社そのものの起源は慶長11年(1606)まで遡ります。 つまり、現在の社殿だけを見ると比較的新しい神社に見えますが、その信仰の歴史は三好池が造られた時代よりもはるかに古いことになります。当地を開墾し田畑を広げた先人にとって、水は生活そのもの。 幾つもの溜池を築き、その池を鎮めるとともに、雨の恵みを願って龍神を祀ったという由緒は、この地域の農業と水との関わりをよく伝えています。また由緒碑では、大岡越前守忠相が西大平に知行所を構えた後には「西五千石の雨宮」として奉斎され、旱魃の際には領民が八龍大明神に祈願したことも記されています。 さらに興味深いのが、社殿が西向きに造営されている理由です。由緒碑では「西の天空より雨雲を迎えるように」と説明されており、現在も道路側から西を向いて社殿を拝する形になっています。ただし、当社については資料が少なく、愛知県神社名鑑にも掲載されていないため、由緒碑以上の詳しい祭祀の変遷などは分かりません。 三好町史には第7編があり、そこに神社関係の記述があると思われますが、現在Webでは公開されていないため、詳細を確認するには図書館などで調べる必要がありそうです。一方、Web公開されている『三好町神社棟札調査報告書』(1985)も確認しましたが、八龍神社についての記述は見つけられませんでした。また『西加茂郡誌』(1916)にも八龍神社そのものについての記述は見当たりませんでしたが、現在の「みよし」という地名の由来について興味深い話が掲載されていました。 それによれば、花山朝の寛和年間(985~987)のころ、三河国鳳来寺付近の「三吉」の僧、行観自達がこの地にやって来て、柴で庵を結び、托鉢をして暮らしていたといいます。人々がその僧に住んでいる場所を尋ねると、「私は三吉です」と答えた。 そのため当時の人々は、この僧を見かけると「また三吉が来た」と言っていたという話です。これがやがて「三吉」という地名となり、いつのころからか「三好」と書くようになった、と『西加茂郡誌』では説明しています。この説によれば、「三吉」から始まった当地の地名は、江戸時代には「三好」となり、さらに平成22年(2010)には愛知県西加茂郡三好町から「みよし市」へと変わってきました。地名は変わっても、この土地で暮らしてきた人々が水を求め、雨を願ってきた歴史は、八龍神社の由緒の中に残されています。平成8年に造営された社殿は、切妻平入の拝殿に幣殿・鞘殿が続く造りになっています。 本殿については外からは見ることができず、詳細な造りは分かりません。拝殿前の薄化粧した狛犬は新しいものです。拝殿に掲げられている額には八龍神社と刻まれている。三好池の北岸に西を向いてひっそりと鎮座する八龍神社。 三好池の堤体から西側のみよしの街を見下ろすと、現在の豊かな水環境の背後に、かつて溜池を築き、田畑を耕し、八龍神社に雨を願った農村の人々に思いを馳せることができます。八龍神社創建 / 慶長十一年(1606)祭神 / 豊玉毘売命氏子域 / 不明 祭礼 / 不明境内社 / なし所在地 / みよし市三好町仲ヶ山42-1三好池神社から徒歩アクセス / 三好池神社から三好池第6駐車場に向けて西へ100mほど先参拝日 / 2026/09/12 関連記事・三好池神社
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