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前回は三好池の鎮守「三好池神社」を掲載しました。 引き続き今回は、三好池北岸に鎮座する「八龍神社」を掲載します。上の地図は明治(左)の頃と現在の移り変わりを地図で見ています。 上の地図は、明治期(左)と現在の当地の様子を比較したものです。当時のこの辺りは、西側を細い流れの砂後川が流れ、境川にかけて田園地帯が広がり、三好村の出郷三好新屋の集落が見られる程度でした。現在みよし市役所のある、当時の三好村の集落は、さらに南西に離れた場所になります。水量の豊かな大きな河川がない当地で農作を行うには、水の確保が欠かせません。 三好村から東側の丘陵地にかけて、いたるところに灌漑用の溜池が築かれたのも、農業用水を確保するために必要に迫られてのことだったのでしょう。各地の歴史を遡ると、旱魃に悩まされた農村で雨乞いが行われてきたことが分かります。 当地でも、こうした水不足への願いから龍神を祀り、雨を乞う信仰が生まれました。現在では愛知用水や三好池などの整備によって水事情も大きく改善され、農地には安定して水が供給されています。 その一方で、かつてこの地で水を求め、雨を願った人々の信仰を今に伝えているのが、今回訪ねる八龍神社です。三好池の鎮守、三好池神社から三好池第6駐車場に向けて西へ100mほど進むと、三好の水の守護神ともいえる八龍神社が鎮座しています。道路沿いに西を向いて鎮座する「八龍神社」社殿全景。 少し先を右に入ると社頭への入口があります。「八龍神社」入口。 道路沿いに東西に細長い社地を持ち、北側には濃い緑の社叢が広がっています。一方、南側は開けているため、明るい印象の境内です。社頭から境内を眺める。 左には平成8年に寄進された「八龍神社」の社標と、石造の明神鳥居があります。鳥居の寄進年については確認していません。石の額には「八龍神社」と刻まれています。参道から眺める社殿は比較的新しい印象を受けます。 三好池の開発に伴って祀られた神社なのだろうかと思っていましたが、境内の由緒碑を読んで、その考えは改めざるを得ませんでした。八龍神社の由緒碑には、次のように記されています。「八龍神社鎮座地 愛知県西加茂郡三好町大字三好字仲ヶ山四十二番地の一 境内地 六二七平方米祭神 豊玉毘売命 豊玉毘売命は海神の御女に生まれ、海・水・安産・子孫繁栄を司る神で雨乞いの神でも有る。みよし野を切り開き、田とした先人達は、その用水の源を東の谷に求め、幾多の池を築いた。 その池の鎮めと、より豊かな恵みの雨を乞い願って慶長十一年(1606)、池を見下ろす此の地に勧請されれた。以来近郷の雨乞いの神として信仰を集めてきたが、特に徳川吉宗の世となり、大岡越前守忠相が西大平に其の在所を構えてより、西五千石の雨宮として奉斎され、旱魃時には領民等はこぞって八龍大明神に祈願をし、その際には大岡越前守は代参を差し向け、時には宮口の篠田代官が代参をつとめることもあった。 神前に集い火を焚き、龍神の神力を賜るように乞い願った。当社殿はその為、西の天空より雨雲を迎えるように西向きに造営されている。 旧三好村の高台に龍神を奉斎し、初祈願をした三百数十年前より悠久に続けてきた、先人達の祈る誠の心を知るところで有る。折しも、若鯱国体開催の平成六年は大渇水で、曲り池を基として造られた三好池の貯水量も激減し、生活不安に陥りました。 これを機に天王神社奉賛会の諸人で、八龍神社社殿の御造営の運びとなった。新屋の里 八龍神社造営委員会 平成八年四月吉日竣工」由緒碑によれば、現在の社殿が建てられたのは平成8年ですが、八龍神社そのものの起源は慶長11年(1606)まで遡ります。 つまり、現在の社殿だけを見ると比較的新しい神社に見えますが、その信仰の歴史は三好池が造られた時代よりもはるかに古いことになります。当地を開墾し田畑を広げた先人にとって、水は生活そのもの。 幾つもの溜池を築き、その池を鎮めるとともに、雨の恵みを願って龍神を祀ったという由緒は、この地域の農業と水との関わりをよく伝えています。また由緒碑では、大岡越前守忠相が西大平に知行所を構えた後には「西五千石の雨宮」として奉斎され、旱魃の際には領民が八龍大明神に祈願したことも記されています。 さらに興味深いのが、社殿が西向きに造営されている理由です。由緒碑では「西の天空より雨雲を迎えるように」と説明されており、現在も道路側から西を向いて社殿を拝する形になっています。ただし、当社については資料が少なく、愛知県神社名鑑にも掲載されていないため、由緒碑以上の詳しい祭祀の変遷などは分かりません。 三好町史には第7編があり、そこに神社関係の記述があると思われますが、現在Webでは公開されていないため、詳細を確認するには図書館などで調べる必要がありそうです。一方、Web公開されている『三好町神社棟札調査報告書』(1985)も確認しましたが、八龍神社についての記述は見つけられませんでした。また『西加茂郡誌』(1916)にも八龍神社そのものについての記述は見当たりませんでしたが、現在の「みよし」という地名の由来について興味深い話が掲載されていました。 それによれば、花山朝の寛和年間(985~987)のころ、三河国鳳来寺付近の「三吉」の僧、行観自達がこの地にやって来て、柴で庵を結び、托鉢をして暮らしていたといいます。人々がその僧に住んでいる場所を尋ねると、「私は三吉です」と答えた。 そのため当時の人々は、この僧を見かけると「また三吉が来た」と言っていたという話です。これがやがて「三吉」という地名となり、いつのころからか「三好」と書くようになった、と『西加茂郡誌』では説明しています。この説によれば、「三吉」から始まった当地の地名は、江戸時代には「三好」となり、さらに平成22年(2010)には愛知県西加茂郡三好町から「みよし市」へと変わってきました。地名は変わっても、この土地で暮らしてきた人々が水を求め、雨を願ってきた歴史は、八龍神社の由緒の中に残されています。平成8年に造営された社殿は、切妻平入の拝殿に幣殿・鞘殿が続く造りになっています。 本殿については外からは見ることができず、詳細な造りは分かりません。拝殿前の薄化粧した狛犬は新しいものです。拝殿に掲げられている額には八龍神社と刻まれている。三好池の北岸に西を向いてひっそりと鎮座する八龍神社。 三好池の堤体から西側のみよしの街を見下ろすと、現在の豊かな水環境の背後に、かつて溜池を築き、田畑を耕し、八龍神社に雨を願った農村の人々に思いを馳せることができます。八龍神社創建 / 慶長十一年(1606)祭神 / 豊玉毘売命氏子域 / 不明 祭礼 / 不明境内社 / なし所在地 / みよし市三好町仲ヶ山42-1三好池神社から徒歩アクセス / 三好池神社から三好池第6駐車場に向けて西へ100mほど先参拝日 / 2026/09/12 関連記事・三好池神社
2026.09.29
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この日は愛知・名古屋アジア大会のボランティア研修で三好公園総合体育館を訪れ、カヌー会場の様子見に堤体まで登ってみた。堤体上から眺める三好公園総合体育館と三好町の眺め。 明治期の地図と比較すると農地は宅地化され、ベッドタウンに移り変わったが、広々とした視界が広がる緑豊かで住みやすそうな環境だ。 ここから少し外れると三好池の恵みを受けた農地が広がっています。見方を変えると、三好池の堤体が三好町の平穏な日常を護っているともいえます。 三好池は、愛知用水事業の一環として1957~1959年にかけて建設されたもので、木曽川から取水した水を幹線水路から分岐する三好支線水路を通じて取り入れています。 このため池より農地へ水を配り、農産物の生産を支えています。池の周囲は2000 本の桜が植えられており花見の名所となっており、池を利用してカヌー施設が常設されており、全国レベルのカヌー競技会や地元学校の部活練習場として活用され、みよしはカヌー競技の町としても知られています。 お隣の愛知池(東郷調整池)のある東郷町はレガッタ競技の町で、カヌー・カヤック、レガッタとは何ぞや。簡単に言えば進行方向を向いて漕ぐのがカヌー・カヤックで背中を向けて漕ぐのがレガッタ。 止水のスプリント競技となり、川などの流水で行う競技がカヌースラロームで、近くでは矢作川にコースがあります。自分ごとになりますが、競技ではないけれどカヌー・カヤックで単純に川を下るものもあり、40年ほど前には折畳のカヤックを車に積み、愛犬と共に中部の川を下った時期もあります。 当時は池で漕ぐという選択肢はなく、ここを訪れるのは今回が初めて。ボランティア応募もスラロームを希望していましたが止水のここに振り分けられました。 カヤックは今も物置で眠っており、かみさんからは断捨離を勧められていますが、怖くて開けた事がない。前置きが長くなったが、今回掲載する三好池神社は三好池の北側の赤マーカーの位置になり、取水塔近くの池畔沿いに鎮座します。 上は明治24年、三好池誕生前の当地の地図(左)と現在の地図の比較になります。当時は新池・曲り池・中池・下池などの灌漑用ため池が集中する地域で、一際大きな曲り池を起点にして山側の池を統合して現在の三好池の姿になっており、谷川の池は埋め立てられ三好公園総合体育館や陸上競技場・野球場として整備されています。 建設にあたっては、ため池から農地へ水を給水する機能を維持しつつ、岩盤のない地盤に堤体の核となるコアを造り、新たに土を盛って堤体(アースダム)を建設する制約をクリアして実現したという。完成した堤体は長さ430m、堤高は約20mで、貯水量はバンテリンドーム1.3杯に相当するという。三好池神社の全景。 三好池神社奉賛会が組織されているようです。 「三好池神社」は昭和63年4月、三好町土地改良区、同利水委員会が発起者となり、町民並びに関係者の寄付金を浄財として建立されたもの。 世紀の大事業である愛知用水の恩恵に感謝し、三好池の御守護を祈願し、悠久に枯れることのない守り神として建立された。奈良県吉野村 丹生川上神社 中社の水の神、上社の雨の神、滋賀県新旭町 波爾布神社の土の神を祀る。」愛知用水の溜池のひとつ、知多市にある佐布里池にも水の恩恵と池の守護を目的とした神社が祀られています。 当地のすぐ北にも東郷調整池があります、恐らく鎮護の社があるものと思われますが、地図上に現れず、一度一周してくる必要がありそうです。三好池を見下ろす様に鎮座する神社全景。 社地は緑の絨毯の上に、玉垣で囲われた低めの本殿域が作られ、流造の本殿が祀られるもので、境内社はありません。いかめしい顔つきで、分厚い胸を張りだした狛犬は護国神社などで見かける勇ましい姿をしています。祭神は水の神 罔象女神、雨の神 高龗大神、土の神 波邇夜須毘売神を祀るものと思われます。本殿から三好池の眺め。 三好池では地場産業の発展と水の恵みに感謝して、山型の提灯を飾った提灯舟を浮かべる大御饌調進祭が平成元年8月5日に行われました。翌年から花火を打ち上げるようになり、平成3年からは水中スターマインも行われるという。 提灯舟も年々増えていき、現在は7隻に増え、「三好池まつり」として年々盛大になっているようです。普段は静かな三好池ですが、まもなく各国を代表する選手達がこの水面でしのぎを競い合う。 三好池の鎮守の三好池神社、その神々に見て頂くためにも、社頭から先は視界を遮ってはいけないだろうね。神社後方から社殿の全景。 愛知・名古屋アジア大会については、開幕前から組織委員会のさまざまな不手際が指摘されている。 そんな大会を下で支える各国・全国から集結したボランティアの意欲は、三好池を支える堤体同様に強靭なものです。三好池神社創建 / 昭和63年(1988)祭神 / 罔象女神、高龗大神、波邇夜須毘売神氏子域 / 不明 祭礼 / 不明境内社 / なし所在地 / 愛知県みよし市三好町仲ヶ山43-43車アクセス / 名古屋城から1:10ほど公共交通機関 / 地下鉄鶴舞線「赤池駅」から名鉄バスで「三好上バス停」降車、三好公園まで徒歩30分。参拝日 / 2026/09/12 関連記事過去記事・知多市「愛知用水神社、愛知用水水利観音」
2026.09.28
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前回は港区築三町2の築三神社を掲載しましたが、今回はそこから350mほど東へ向かい、築三町1に鎮座する築三神社を紹介します。上の地図は明治24年(1891)と現在の地図の比較です。 明治の地図では、鎮座地はまだ埋立造成前で海の中。現在の地図(右)では、築港第三号地の東に位置する築三町1にあり、これより南には民家がほとんどなく、工場が建ち並んでいます。 更に南の築港第四号地(築地町)は物流施設や工場が多く、集落に鎮座する神社としては、築三町1の当神社が南端といってもよさそうです。当神社の創建時期は定かではありません。鎮座地は明治末期から昭和中期にかけて造成された埋立地なので、神社も比較的新しいものと思われます。 現地に解説板はなく由緒や祭神は不明です。築三町2の築三神社から南に向かい、3本目の通りを東に突き当たった先が築三町1 築三神社になります。 工場に囲まれたその一画に観音堂のような佇まいの神社が鎮座します。ここから東は中川運河の堤防があり、右手方向の対岸には、シートレインランドの大観覧車がよく見える。築三神社全景。 玉垣で囲われた神域に鳥居があり、右手には「築三神社」と刻まれた社標(昭和33年寄進)と常夜灯が立っています。よく見れば右側の玉垣の親柱に小さな狛犬が置かれています。 その先の社殿は入母屋瓦葺きで向拝の付いた造りです。親柱の狛犬に相棒はいないようだ。境内左の手水鉢。「築三神社」と刻まれた額も掛けられており、築三神社に訪れた実感がある。 Googleマップには、築三町1と築三町2に、それぞれ町名を冠した「築三神社」が表示されている。そこに居住し、その神を崇敬する住民が分かっていれば、どちらが先で、祭神は何かなど、外に向かって発信する必要はないのかもしれない。 目的地を目指して歩いたはずが、いつの間にか寄り道と発見の連続となった今回の神社巡りも、これで一区切りとします。築三町1 築三神社創建 / 不明祭神 / 不明氏子域 / 不明 祭礼 / 不明境内社 / 不明所在地 / 名古屋市港区築三町1参拝日 / 2026/08/21 築三神社 (港区築三町2)から徒歩アクセス / 南に向かい3本目の通りを東進、突き当り。距離350m・約5分。関連記事・龍神社 (港区川間町)・神明社 (港区正徳町2)・神明社 (港区正徳町5)・弘法堂 (港区土古町3)・八釼社 (土古町)・正徳神明社(正徳町1)・熱田新田二十番割観音堂・神明社 (港区小碓1)・神明社 (善進町4)・稲荷社 (港区十一屋)・遠若社 (港区遠若町1)・大手神社 (港区大手町5)・築三町2 築三神社
2026.09.27
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前回掲載した大手神社から中之島川緑地を越え、県道227号線を東へ進み、築三町交差点を右折すると、港区築三町2の築地神社に到着します。大手神社から350m、徒歩5分ほどに位置します。 写真は築三町交差点の南東角から北方向を撮影したもの。道路の向こうの緑の並木が中之島川緑地になります。この交差点は県道から築地の物流施設に出入りする大型トラックが頻繁に往来する地域で、一歩路地に入ると幅員の狭い生活道路が続き、駐車スペースは皆無なので車で訪れるのは避けた方が賢明です。築地神社は右手の建物の敷地内にある築三町2・3丁目児童遊園地内に鎮座します。港区築三町2の築三神社全景。 港区の地名由来によれば築三町の由来は「名古屋港築港第三号地ということで名付けられた。」とあります。写真左の建物は当地の集会所と思われ、右側には遊具もあり、築三町2のコミュニティーの場になっているようです。 本殿は正面の基壇の上の覆屋の下に祀られています。 神社には築三神社を裏付ける社標や寄進物はなく、境内に鳥居や狛犬といった施設は見られない。 Gマップでは築三神社と表示されるものの、登録時の写真や場所が異なっている場合もあり、一概に鵜呑みにはできない。事実、築三町1には「築三神社」と刻まれた社標を持つ神社がある。 愛知県神社庁や港区HPからも情報が得られず、築三神社としてよいのか確証がない。不明社として書き進めればいいのだろうが、ここは便宜上『築三町2の築三神社』として表記します。 上の地図は明治24年(1891)と現在の地図の比較です。 明治の地図の当地は、埋立造成前でまだ海の中。現在の地図(右)では、築港第三号地の中央赤枠部分が築三町2で、東が築三町1、西が築三町3と別れています。 この地域は農地拡充を目的とした新田ではなく、港湾整備を目的とした埋立造成地です。築港第三号地の南側に広がる築港第四号地(築地町)も同様で、物流施設や工場が多く、民家は築三町に集まっています。 そうした土地柄から、入口となる築三町交差点から南に曲がるとトラックの往来が多くなり、マイカーは場違いな印象すら感じる地域です。 築三町交差点の南東角に鎮座する築三町2の築三神社社殿。 高い基壇上の本殿域を大きな覆屋で覆い、その下に三社が祀られています。階段左の手水鉢、寄進年は確認できなかった。 造成時期が明治34年(1901)~昭和26年(1951)なので、創建時期もある程度は絞られてくるのかもしれない。築三町2 築三神社本殿は社名同様に祭神は不明。 神明造で棟に6本の鰹木と内削ぎの千木がのる、俗説に従えば女神を祀る形式とされますが、詳細は不明です。本殿の両サイドの社も社名はわかりません。 大手神社の本殿域に祀られている社の数と同じで、意外に共通した神社を祀っているのかもしれない。詳細はわからないが、ここまでこれたことにお礼の参拝。 覆屋の下に大切に祀られている社の姿は、築三町2の住民には大切な存在として崇敬されているのが伝わってきます。 築三町2 築三神社創建 / 不明祭神 / 不明氏子域 / 不明 祭礼 / 不明境内社 / 二社所在地 / 名古屋市港区築三町2-83参拝日 / 2026/08/21 大手神社 (港区築三町2)から徒歩アクセス / 中之島川緑地を越え、県道227号線を東に進み、第三町交差点で右に進む。距離350m・約5分。関連記事・龍神社 (港区川間町)・神明社 (港区正徳町2)・神明社 (港区正徳町5)・弘法堂 (港区土古町3)・八釼社 (土古町)・正徳神明社(正徳町1)・熱田新田二十番割観音堂・神明社 (港区小碓1)・神明社 (善進町4)・稲荷社 (港区十一屋)・遠若社 (港区遠若町1)・大手神社 (港区大手町5)
2026.09.23
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遠若社から南へ700mほど進むと、今回掲載する港区大手町5に鎮座する大手神社の社頭全景が見えてくる。南向きに社頭を構え、道路を隔てた向かい側は中之島川緑地に面している。 港区webページでは、鎮座地である大手町の町名由来を次のように紹介しています。「熱田奉行・津金文左衛門胤臣が開発した熱田前新田のうちで、大堤防があったことから、「大堤(おおて)」といわれるようになり「大手」の字が使われるようになった。小碓村当時の字名には「大手堤」とある。」と紹介されています。大正時代の地図ではこの場所に神社の印はなく、神社が地図上に現れるのは昭和13年からである。 現在の中之島川緑地は、かつて中川運河と荒子川を東西に結ぶように作られた「中之島川」で、新田の南側に護岸堤防を築いて海水の侵入を防ぐ汐除として造られたものだった。さらに、新田の農業用水や末端排水を杁を介して流すなど、地域の排水路としての役割も担っていた。 その後、稲永新田が南へ広がっていき、時代とともに作付面積は減少し、下水道整備が進むにつれて中之島川はその役割を終えていった。 昭和51年から昭和61年にかけて川を埋め立て、小河川が流れる緑地帯として再整備されたのが、現在の中之島川緑地である。上は熱田前新田絵図に中之島川と大手神社の鎮座位置を赤丸で示したもの。 鎮座地は当時の海岸堤防の内側だったことがわかります。大手神社の創建年代や祭神について調べてみましたが、情報が乏しく、よくわかりません。 愛知県神社庁に登録されておらず、当然ながら愛知県神社名鑑にも掲載されていない。港区webサイトによる大手神社の紹介は「民間信仰の一つとして、干拓の護神が祀られた」と簡潔な内容で祭神や創建時期についての記述はなく、「干拓の護神が祀られた」とあるものの創建年代がそこまで遡るのかは疑問かもしれない。 意外に港区史(2009)あたりに紹介されているかもしれないが、国立国会図書館のweb閲覧ができず図書館に行かないとスッキリしないかもしれない。鳥居前から眺める境内。 社地は玉垣で囲われ、手前の常夜灯に鳥居、参道の先の社殿が主なもの。境内は遠若社同様に手入れの行き届いた印象を受けます。社殿は赤く塗られた拝所とその先の本殿が主なもの。社殿全景。 拝所の手前に一対の常夜灯と本殿域の前に狛犬が安置されています。石垣を高く積み上げた本殿域は玉垣で囲われ、赤く塗られた社が三社祀られています。古びた春日燈籠は昭和15年(1940)、紀元2600年を記念して寄進されたもの。オーソドックスな外観の狛犬も昭和15年(1940)に寄進されたものです。左は狛犬の台座と右は石灯籠の竿に刻まれた銘。本殿域の三社、中央が大手神社の本殿と思われ、左右に末社が祀られているが、いずれも社名札はなく社名はわからない状態。 「干拓の護神」を祀ると言われても…、赤い社といえば…。玉垣やその扉に、紐解く鍵は見当たらない。想像するしかないのか。拝所から正面の中之島川緑地の眺め。 緑地と並行して伸びる県道227号線のわずかな高低差に、かつての大堤の名残を感じさせる。鳥居は昭和63年(1988)、常夜灯は昭和12年(1937)に寄進されたものです。 さて、創建時期や社名、祭神も分からずじまいの大手神社ですが、寄進物の年代や過去の地図を見る限り、創建時期が新田開発時まで遡るとは考えにくいようです。図書館で何か得るものがあれば後日加筆させて頂きます。大手神社 (港区大手町5)創建 / 不明祭神 / 不明氏子域 / 不明祭礼 / 不明境内社 / 二社所在地 / 名古屋市港区大手町5-59参拝日 / 2026/08/21 遠若社 (港区遠若町1)から徒歩アクセス / 中の島川緑地に向け700mほど南に向かう、約7分ほど。関連記事・龍神社 (港区川間町)・神明社 (港区正徳町2)・神明社 (港区正徳町5)・弘法堂 (港区土古町3)・八釼社 (土古町)・正徳神明社(正徳町1)・熱田新田二十番割観音堂・神明社 (港区小碓1)・神明社 (善進町4)・稲荷社 (港区十一屋)・遠若社 (港区遠若町1)
2026.09.22
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前回は港区十一屋の稲荷社を掲載しました。今回はそこから東へ向かい、荒子川のフェニックス橋を渡った先、遠若町1に鎮座する遠若社を訪ねます。十一屋バス停から市バス名港13系統で大手橋バス停まで移動すれば、徒歩10分弱で現地にアクセスできます。 しかし生憎バスの時間に合わず、約1kmを15分ほど歩いて移動しました。日陰は期待できませんが、平坦な道ばかりで足への負担は少なく済みました。 フェニックスブリッジ周辺はワシントンヤシが立ち並び、それまでの街の雰囲気が一変し、異国ムードが漂う。対岸のロータリーは、ロータリー内を走る車が優先で、流入する車は一時停止する。 一方通行の右回りなので、車で訪れると戸惑うかもしれない。鎮座地はロータリーから右に進んだすぐ先になります。上は大正初期と現在の地図の比較。 赤色のマーカーが鎮座地で、大正時代には集落もなく、神社を示す鳥居の印もみられない。鎮座地の遠若(えんじゃく)町は、港区寛政町の一部が昭和36年(1961)3月28日に同区遠若町として成立した、比較的新しい町です。 地名「遠若」の由来は、熱田前新田の「ヲの割」「ワの割」「カの割」に由来して名付けられたとされます。「遠」は「ヲ」のもとの字、「若」は「ワ」と「カ」を合わせたものとされます。大正時代の地図では、大きな集落は見られなかった当地。 集落ができ始めたのは昭和初期頃からで昭和25年以降住宅が整然と立ち並ぶようになります。写真は遠若町公民館の東側の遠若社の社地全景。生活道路と一般道が交わる角地の東側に鳥居を構えており、境内のイチョウと松がシンボルツリーです。 境内の樹々が少ないことから、陽射しが良く入り、陽の印象を受ける神社で、鳥居から先の境内はフェンスで囲われています。鳥居から先の境内の眺めです。 寄進年不明の鳥居には扁額がなく、境内入口の扉に書かれた「遠若」の文字以外に社名を想像させるものはありません。そもそも「遠若の神社」ということで、町名から遠若社と呼ばれているとも考えられる。 なぜそう感じるかというと、社号標がなく、区や神社庁などの情報源にも遠若社の名が見られないからです。 WEB上には「遠若社」あるいは「遠若神社」と出てくるものの、その呼称の引用元までは分かりません。遠若町の氏神なので遠若社或いは遠若神社と呼ばれているのかもしれない。 創建時期や祭神などは、地元の方に尋ねるのが一番早い解決策なのかもしれません。門から境内の眺め。 中央の本殿と右手に耐火煉瓦が積まれたサークルはどんど焼きの際に使われるものだろうか。社地南側から望む本殿。 本殿前には可愛い狛犬が安置されていました。境内は定期的に清掃されているようで、明るい印象と共に人の気配を感じる神社です。 神社が祀られるには、それなりの理由があったはずです。しかし数十年もすれば世代交代が進みます。 その思いが継承されなければ、やがて維持すること自体が負担となり、手入れもされず荒れるに任せる神社もある。時代は巡るというが、昨今の若者が求めているものを見ていると、自分の年代が「時代遅れ」としていたものに、新たな価値を見出しているように感じます。 町角の神社についても、そうした見直しが起こるやもしれない。手書きでもいいので、由緒書きがあるといいと思うのだが。遠若社 (港区遠若町1)創建 / 不明祭神 / 不明氏子域 / 不明祭礼 / 不明境内社 / なし所在地 / 名古屋市港区遠若町1参拝日 / 2026/08/21 稲荷社 (港区十一屋)から徒歩アクセス / 東に向かい、フェニックスブリッジで荒子川東岸に渡り、右折し遠若町公民館の先に鎮座する遠若神社まで約1km・15分ほど。関連記事・龍神社 (港区川間町)・神明社 (港区正徳町2)・神明社 (港区正徳町5)・弘法堂 (港区土古町3)・八釼社 (土古町)・正徳神明社(正徳町1)・熱田新田二十番割観音堂・神明社 (港区小碓1)・神明社 (善進町4)・稲荷社 (港区十一屋)
2026.09.21
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前回掲載した神明社 (善進町4)から県道に出て、油屋町二丁目バス停前を通りかかると、名港13系統・多加良浦行(十一屋経由)のバスが停車した。 これに乗り3駅先の十一屋停まで約10分で一気に移動。十一屋停から北西に徒歩5分ほどの港区十一屋3に鎮座する十一屋稲荷社を目指す。稲荷社社地全景。「南無地蔵大菩薩」と書かれた白い幟がはためく大きな楠の左手から境内に入ると、社号標と鳥居が現れる。鎮座地の十一屋の町名は、大阪府茨木市出身で名古屋の呉服商「十一屋」(丸栄創業者)である小出庄兵衛の所有地であったことに由来するという。楠の奥には地蔵堂が建てられています。堂内には一体の地蔵が安置されていますが、銘などは見られなかった。境内全景の眺め。 稲荷ということで赤い鳥居を想像していたが、石造の神明鳥居が南向きに立てられています。参道の突き当たりから、「村社 稲荷社」と刻まれた社号標と社殿を望む。昭和四十年に寄進された神明鳥居の前に、一対の常夜灯と手水舎があり参道は拝殿に伸びていく。社殿は正面の拝殿と後方で接続する幣殿、流造の本殿が主なもので、社殿左に境内社と平和の礎碑が建てられています。 拝殿は切妻瓦葺き妻入の三方吹き抜けで、手前には一対の狛犬が鎮座する。カチッとした外観の狛犬は、目や口周りなど上品に彩色されたもの。拝殿妻壁に扁額は付かないが、虹梁の上で、大棟を肩で支える力神と、龍の彫り飾りが視線を引きます。拝殿内から幣殿・本殿の眺め。 格子天井の木目がとても美しく、壁に掛けられた大きな額には龍が描かれている。…ここは稲荷のはずだが、狛犬と龍の姿は見かけるも、狛狐の気配はみられない。 実に稲荷らしくない稲荷かもしれない。境内に由緒はなく、愛知県神社庁の登録内容と愛知県神社名鑑から以下情報が得られた。「愛知県神社名鑑 十二等級 稲荷社 旧村社鎮座地 名古屋市港区十一屋三丁目一四八番地 祭神 宇賀乃御魂命、猿田彦命、大宮女命由緒 創建は明らかでない。稲永新田の一部落で村内の安全と五穀豊穣を祈って奉斎した産土神で氏子の崇敬あつく、明治五年七月、村社に列格した。 昭和二十年五月空襲により社殿被害あり、同二十二年本殿再建社殿を改修した。同三十四年九月、伊勢湾台風による水害をうけ、同四十年社殿、社務所を改修した。 例祭日 十月十日社殿 本殿、幣殿、拝殿、社務所」 短期間に二度も大きな被害を受けながら、氏子達の支えがあって現在の姿を留めている。愛知県神社庁の「氏神様を探そう」のサイトでは、氏子地域が「名古屋市港区十一屋、十一屋町」となっており、愛知県神社名鑑の「稲永新田の一部落で村内の安全と五穀豊穣を祈って奉斎した産土神」の記述と矛盾を感じた。ここで上の大正時代の地図(左)をみてもらうと、赤のマーカーが稲荷社鎮座地です。 愛知県神社名鑑では「稲永新田の一部落の産土神」とあるが、稲永新田は文政3年(1820)、熱田の粟田兵部らが開発した「稲富新田(赤線)」と、同9年に大喜下総らが開発した「永徳新田(青線)」が、明治9年(1876)に合併して稲永新田となったもの。 …稲永新田という記述には違和感がある。港区HPの内容は上記と違い「熱田前新田の西端に接し、文化十四年(1817)に開発された「山藤新田」のうちで、戸田村(中川区)の山田弾六と宮町(中区)の藤川屋伊藤九郎助らによって開発された。 山藤新田の名の由来は開発者の頭文字をとって名付けられたという。」とあり稲永新田には言及していない。上の絵図は弘化4年(1847)に描かれた「熱田前新田絵図」。 荒子川左岸の赤星印は拡大すると鳥居と「イナリ」と書かれていますが、ここは善進神明社の遷座前の鎮座地と思われ、善進神明社由緒碑文の「享和二年(1802)九月二日土古山新田南堤の西詰、荒子川左岸に鎮座されました」と符合するので、この「イナリ」表記は誤記の可能性があります。大正時代の地図に打った稲荷社の鎮座地マーカーの位置と熱田前新田絵図を見比べてみると、荒子川右岸の破線で囲った部分に鳥居と「宮」の文字が描かれている。 その南の集落の先は後の十一屋川にあたる。熱田前新田の西端に文化十四年(1817)に開発された「山藤新田」の絵図や地誌の記述があればいいが、現時点で見つからない。 熱田前新田絵図(1847)の荒子川の位置からみて、文化十四年(1817)に開発された「山藤新田」が描かれていないのは、この時点で前之割に組み入れられたとみる。やがて明治九年に神宮寺新田、宝来新田と共に合併され、宝神新田となり、明治二十二年に、甚兵衛後新田、熱田前新田、稲永新田が合併し寛政村となっていったと考察する。 愛知県神社名鑑と港区HP、どちらも文章のみで引用元を明示していないので悩ましい限りだ。少なくとも「稲永新田の一部落の安全と五穀豊穣」の記述は疑問が残る。 ここから先は、図書館で資料を当たらないとスッキリしないのだろう。 ちなみにGoogleマップで周辺の神社を確認しても、現在の稲荷社以外に該当しそうな神社は見当たらない。社殿左から平和之礎碑と境内社、本殿を望む。左の板宮造の境内社は社名が分からなかった。 右の本殿域には本殿以外に社の姿はなく、流造の本殿に宇賀乃御魂命、猿田彦命、大宮女命の三柱が祀られているのだろう。境内から鳥居方向を望むと三階建の建物がそびえ、巨大な蕃塀のように見える。稲荷社 (港区十一屋)創建 / 不明祭神 / 宇賀乃御魂命、猿田彦命、大宮女命氏子域 / 十一屋、十一屋町祭礼 / 10月第二日曜日境内社 / 不明社一社所在地 / 名古屋市港区十一屋3-148参拝日 / 2026/08/21 神明社 (善進町4)から市バスアクセス / 西に向かい県道59号線の市バス油屋町二丁目停から十一屋停で降車、稲荷社まで徒歩5分ほど。関連記事・龍神社 (港区川間町)・神明社 (港区正徳町2)・神明社 (港区正徳町5)・弘法堂 (港区土古町3)・八釼社 (土古町)・正徳神明社(正徳町1)・熱田新田二十番割観音堂・神明社 (港区小碓1)・神明社 (善進町4)
2026.09.17
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スマホが動いてくれず小碓神明社に行き忘れ遠回りしています。 どうせ遠回り、八月七日に荒子川公園付近を巡った際、飛ばしてしまった神社も立ち寄っていくことにします。目的地へは小碓神明社から西に出て、県道59号線を南下、油屋町1交差点を左に進み、善北公園方向の港区善進町4神明社です。 移動距離は約1.7km、徒歩で25分ほどかかりました。因みに、小碓中橋からバス(高畑12)で善北町バス停に通じていますが、毎時一本のため、タイミングが合えばバス移動もありだろう。上が大正時代と現在の地図。 目的地は赤のマーカーで、荒子川公園の西岸に位置します。大正時代の地図には鳥居の印はなく、昭和初期の地図で鳥居の印が描かれていました。 マーカーの右上の荒子川左岸の星印は、後述する由緒のところで意味を持ってきます。当神社は熱田新田の南側に寛政十二年(1800)に開発された熱田前新田に鎮座します。 上は熱田前新田の地図で、荒子川を挟んで西岸が西之割と東岸を中之割、中川の東岸を東之割、南部の南之割と区割りされた。現在の鎮座地は荒子川右岸の西之割北端に位置し、当神社は西之割の氏神です。当神社は南北に長い社地を持ち、南側に二つの鳥居を構えています。 右側に「村社 神明社」の社号標が立てられています。常夜灯は大正十四年、一ノ鳥居は昭和四十八年に寄進されたものです。境内由緒。「善進神明社の変遷寛政十二年(1800)七月、尾張藩主徳川宗睦公は工事責任者に熱田奉行兼船奉行津金文左衛門胤臣氏に命じ熱田前新田干拓は行われました。 寛政十三年正月八日、面積三百四十九町歩余の新田が造成、東之割、中之割、西之割、南之割の四つに区割されました。当神社は西之割の鎮守の神として、享和二年(1802)九月二日土古山新田南堤の西詰、荒子川左岸に鎮座されました。 以来百二十三年小磯村熱田前新田西之割の氏神様として村民より崇敬されてきましたが、大正時代の中頃、氏神様の年間祭事、日常のお参りにも不便を感じ現在地に遷すことになりました。町民はもとより他町村の親戚縁者、多数の奉賛者の協力により神明社の移転工事は竣工、大正十四年十月御遷座祭が執り行われました。 その後七十五年の間に東南海地震の被害、第二次世界大戦鉄柵の軍事供出、伊勢湾台風の風水害、その都度修復されてきましたが、建物の傷みもひどく御鎮座二百年を迎えるに当たり御本殿、祭文殿、拝殿、社務所、倉庫の建て直しについて、平成八年六月準備委員会で検討、翌年九月再建委員会が発足、善進北部、中部、南部の五町内七百十四名余の奉賛者、皆さんの熱意により平成十三年十月(2001)ここに六年間にわたる再建工事を達成することができました。」とあり、熱田前新田の地図の星印が遷座する前の鎮座地です。ニノ鳥居前から社殿の眺め。この鳥居は大正十四年寄進のもので、鳥居の前に一対の狛犬が安置されています。昭和六十年に寄進された狛犬。社殿は正面の切妻瓦葺の妻入りで、吹き放ちの拝殿と後方で幣殿が接続し、本殿域に繋がるもの。 社殿向かって左側に忠魂碑と陸軍歩兵一等卒 西川兼松碑が建立されています。拝殿右側から本殿方向の眺め。当神社について愛知県神社名鑑では以下のように記されています。「十三等級 神明社 旧村社鎮座地 名古屋市港区善進町四丁目二五番地 祭神 天照皇大神由緒 創建は享和二戌年(1802)九月五日という。明治五年、村社に列格する。 昭和三十四年九月伊勢湾台風により被災するも氏子の熱意により復興した。例祭日 十月十五日 社殿 本殿 神明造、幣殿、拝殿、社務所、神庫特殊神事 神楽車巡行、棒の手」港区HPでは「祭神は天照大神。 熱田前新田が完成した翌年の享和2年(1802)9月2日、村の氏神として勧請した。例年、秋の大祭には善進町真影流棒の手が奉納される。」この棒の手は市の無形民俗文化財に指定されるもので、現在も受け継がれている。拝殿妻壁の扁額には「神明社」と記されています。 現社殿は2001年に再建されたこともあり綺麗な外観を保っています。拝殿から幣殿・本殿方向を眺める。一段高く設けられた本殿域。玉垣の門に五三桐の紋があしらわれています。 左に鵜草葺不合命を祀る池鯉鮒社、中央の神明造の社が天照皇大神を祀る神明社、右に軻遇突智命を祀る秋葉社の三社が祀られています。末社の二社については沿革が良く分からないが、神明社同様に西之割の五穀豊穣と集落の火伏を祈願して祀られたのだろう。拝殿前から社頭の眺め。 右手は、明治三十七年に海津市から移転した真宗大谷派の寺院、正端寺と隣り合っています。荒子川左岸から現在地へと場所を移した神明社は、二百年以上の時を経た今も、善進の地に鎮座しています。神明社 (善進町4)創建 / 享和二年(1802)祭神 / 天照皇大神氏子域 / 善進町祭礼 / 10月第二日曜日 境内社 / 秋葉社・池鯉鮒社所在地 / 名古屋市港区善進町4-25参拝日 / 2026/08/21 小碓神明社から徒歩アクセス / 県道59号線を南下、油屋町1交差点を左に進み善北公園方向へ。1.7km、25分ほど。関連記事・龍神社 (港区川間町)・神明社 (港区正徳町2)・神明社 (港区正徳町5)・弘法堂 (港区土古町3)・八釼社 (土古町)・正徳神明社(正徳町1)・熱田新田二十番割観音堂・神明社 (港区小碓1)
2026.09.16
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前回掲載した正徳1神明社でこの日の徘徊は終わる予定でいました。 熱中症から復活したスマホの画面を見ると、何社か飛ばしていたことに気づきました。そこで荒子川を越え、約20分ほど先の小碓1の神明社に向かうことにしました。 一筆書きで回る計画でいたものの、この時期は携帯が役に立たなくなることがある。写真は大正9年の地図とほぼ現在の地図で当地の変貌ぶりを比較したもの。 鎮座地の小碓(おうす)は赤マーカーの位置で、明治・大正時代の地図にも鳥居の印が描かれていました。鎮座地の小碓(おうす)町は明治9年(1876)に愛知郡熱田新田村が東西に分割され、熱田新田西組が成立した際の地域が小碓町の起源とされます。 明治22年(1889)には、熱田新田西組が明徳村に編入され「大字熱田新田西組」となり、明治39年(1906)には小碓村の大字となりました。その後、大正10年(1921)に「大字小碓」と改称され、現在の小碓町へとつながります。 小碓(おうす)の由来は熱田神宮と所縁のある日本武尊の「小碓命(おうすのみこと)」から付けられたとされる。社地東側から小碓神明社の全景。 小碓第三公園の南角に鎮座し、西側と北側は公園と接しています。右側の神明社社標は明治四十三年寄進のもので、傍らに小碓神明社の解説板が立てられています。社頭正面から境内を眺める。 金属板が巻かれた神明鳥居の先に蕃塀が建てられ、本殿方向の眺めを遮っている。参道左の岩。 個性的な形そのものに興味が湧き写真に収めたが、今こうしてみると「百度石」と刻まれていた。境内右側の手水舎。 特徴のある外観ですが、ここから少し西の東起町白山神社でも見た記憶があり、このあたりではよくあるものかもしれない。鳥居正面の木造蕃塀越しに、手入れされた境内全景を眺める。写真は蕃塀の裏に貼られていた由緒です。 冒頭の小碓神明社の概説に、「祭神は天照大神であり、村の氏神として、寛文9年(1669)に設立」、祭礼は「元旦祭 1月1日、五穀祭 5月7日、秋季大祭 10月10日(年度により変動)、新嘗祭 12月7日」とある。港区史跡散策路の「小碓 神明社」の解説でも、引用先は定かではないが勧請年月日に触れていた。内容は以下。 「祭神は天照大神。村の氏神として、寛文9年(1669)8月16日勧請した。寛政年間(1789〜1800)に作られた神楽は、毎年名古屋まつりに参加している。」愛知県神社名鑑の記載内容は以下で創建時期には触れていなかった。 「十一等級 神明社 旧指定村社鎮座地 名古屋市港区小碓町二十八番割五一三番地 祭神 天照大御神由緒 尾張藩祖徳川義直の命により熱田新田を開発。二十七番二十八番割の氏神なり「尾張志」にも記るす。 明治五年七月、村社に列格。昭和十一年四月二十一日、供進指定社となる。 例祭日 十月五日社殿 本殿 神明造、幣殿、拝殿、社務所。」神社の由緒や港区の案内では寛文9年(1669)設立や勧請とある。 一方で「尾張徇行記 第2巻 (愛知郡之部)」には「一 中郷村柘官高羽氏書上帳ニ、十八番割神明社、二十二番割神明社、二十八番割神明社、此三社ハ慶安二丑年(1649)氏子共造立スル也」の記述が見られたことを記しておきます。 当ブログでは神社由緒を尊重し寛文9年(1669)を創建と記します。上は寛政時代(1789~1801)に描かれた熱田新田村の絵図。 荒子川右岸の二十八番割あたりに神明の文字(赤丸)が見え、星印のあたりに「◯◯観音」の文字もある。現在の地図を見ると、神明社のすぐ北側には「二十六・二十七・二十八番割観音堂」、少し離れて二十五番割観音堂、二十四番割観音堂と横並びに鎮座しています。 星印が「◯◯観音」が何番を示すのか、絵図からの推測は難しい。少なくとも「神明」と記された場所は、現在の小碓神明社にあたるものと思われます。こちらは蕃塀の裏に貼られていた社殿の配置図。 社殿は南向きに、切妻妻入の拝殿・切妻平入の幣殿・神明造の本殿が並び、各々を渡殿で結ばれている。社殿全体を一期・二期と分け修繕計画を立て、計画的に維持管理されているようです。正面から狛犬と拝殿の眺め。 右手に聳える二本のクロマツは伊勢湾台風で先端が折れたらしいが、いまも樹勢は衰えていない。境内左から三方が吹き抜けの拝殿と社殿の眺め。 拝殿額は「神明社」。社殿左に大きな楠木が聳え、その左右に境内社が祀られている。楠木の左には白龍神社、秋葉神社、楠木の正面に忠魂碑が祀られています。白龍神社(左)と秋葉神社の本殿。右手に御嶽大神の木造鳥居が立てられ奥へと続いています。参道の先の御嶽大神。 玉垣の先は小碓第三公園に接しています。御嶽大神参道から眺める小碓神明社本殿。 反対側から見た本殿の棟には六本の鰹木と内削ぎの千木が見られたが、こちら側から見ると千木は付けられていないようです。本殿前にも狛犬の姿がありますが、小碓神明社の狛犬達は悉く撮り忘れてしまった。神明社 (港区小碓1)創建 / 寛文9年(1669)祭神 / 天照大御神氏子域 / 小碓祭礼 / 10月第二日曜日 境内社 / 白龍神社・秋葉神社・忠魂碑・御嶽大神所在地 / 名古屋市港区小碓1-440参拝日 / 2026/08/21正徳1神明社から小碓神明社アクセス / 南西に1.4kmほど約20分。関連記事・龍神社 (港区川間町)・神明社 (港区正徳町2)・神明社 (港区正徳町5)・弘法堂 (港区土古町3)・八釼社 (土古町)・正徳神明社(正徳町1)・熱田新田二十番割観音堂
2026.09.15
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前回は土古町の八釼社を訪れました。 そこから東に10分ほど歩き、あおなみ線港北駅に戻り、あおなみ線で中島駅に降り立つ。今回の目的地正徳町1丁目の正徳神明社と熱田新田二十番割観音堂を訪れます。中島駅から南に向かい、国道1号線を越え、正徳公園西に位置する正德1の神明社まで10分もかからない距離にあります。 社頭は生活道路に面し南向きに鳥居を構え、社地の右手に番割観音堂が建てられています。番割観音堂二十番札所。 このあたりを神社巡りしていると、こうした番割観音堂に出会うことがある。入母屋瓦葺妻入の堂で、正面に一間向拝が付き、柱には番割観音二十番札所の札が掛けられている。西国三十三所巡りに倣い、熱田新田を三十三に区切り「番割観音堂」が祀られたが、現在に至る過程で災害などで堂を失い、他の観音堂に本尊を集約して現在に至っている。 個性的なコンクリート像なども安置されていたりするので巡拝に訪れる人もいるという。解説に単独の番割観音堂は他に5箇所あると書かれていたが、それらは以下の場所にあります。・一番割観音堂 熱田区一番・十七番割観音 中川区昭明町三・二十四番割観音堂 港区小碓四丁目・二十五番割観音堂 港区小碓一丁目・三十三番割観音堂 港区下之一色町中ノ切堂の引き戸は閉じられ、堂内には、右手に弘法像、中央に観音像、左手に秋葉神社の社と秋葉山の御札が祀られていました。 二十番割の観音講に関わる住民の、地域のコミュニティーの場にもなっているのでしょう。社頭全景。右の社標や鳥居は昭和に入って寄進されたもの。 社標の後方に解説板があり、その内容は以下。「正徳町一丁目神明社・二十番割観音堂。 神明社の祭神は、天照大神。二十二番から分身を迎え、五穀(米・麦・栗・豆・キビ又はヒエ)豊穣を願って勧請した。二十番割観音は、熱田新田干拓後、土地の守護仏として祭った。 一体のみを祭っている所は他に5箇所ある。年中行事は、元日祭、五穀祭(五月五日)、秋祭り(十月十日)、感謝祭(十二月二十三日)である」というもの。愛知県神社名鑑には、次のように記されています。『十四等級 旧村社 神明社鎮座地 名古屋市港区正徳町一丁目一六番地祭神 天照皇大神由緒 創建は明らかでない。明治十二年七月九日、村社に列格する。 昭和三十四年九月二十六日、伊勢湾台風により被災、同三十六年十月、社殿を復旧遷座する。例祭日 十月十日(第一日曜日)社殿 本殿 神明造、拝殿、祭器庫』港区HPの正徳町1の神明社紹介は以下のような簡潔なものでした。「祭神は天照大神。二十二番割観音から分身を迎え、五穀豊穣を願って勧請した。」天保十四年(1843)に編纂された尾張志 上巻には「廿番割の氏神也 宝歴年中(1751-1764)に勧請す」と記されている。熱田新田は、正保三年(1646)から慶安二年(1649)にかけて開発され、熱田区の白鳥橋付近の一番割から庄内川にかけて三十三に区切られ、番割観音や氏神が祀られた。 上の絵図は前回の神明社(正徳1)で引用した、寛政年間(1789-1801)頃描かれた熱田新田村全図。それを見ると、荒子川左岸にかけて「神明」の文字が三つ記されています。 現在の地図でも正徳町地内には、三つの神明社が確認できる。先に掲載した赤枠の神明が二十二番割の氏神、正徳2の神明社と見られます。 しかし位置から見ると正徳5の神明社ではないか?そうした疑念も湧きますが、番割の記載からすると正徳2の神明社と見るべきだろう。 そして絵図の下の赤丸が今回掲載する二十番割の氏神正徳1の神明社とみてとれます。境内から参道左の手水舎と手水鉢。正面から社殿を望む。 一対の狛犬の先に切妻瓦葺き妻入の拝殿と本殿が主なもの。拝殿右から本殿方向の眺め。 棟の鬼瓦には「神明社」の銘も入れられている。石の白さが鮮やかな狛犬は昭和三十六年に寄進されたもの。拝殿の妻壁に掲げられた額は「神明社」幣殿も兼ねた拝殿から本殿方向の眺め。 一対の狛犬が本殿前を守護しています。本殿前の巻き尾の狛犬も昭和三十六年に寄進されたもの。 本殿は5本の鰹木と内削ぎの千木が付く神明造。 扉に付けられた金属板は、神明社と切り抜かれており一目瞭然。拝殿前から社頭の眺め。 観音堂と神社の間に仕切りがなく、神仏習合の佇まいが漂います。正徳神明社(正徳町1)・熱田新田二十番割観音堂創建 / 不明祭神 / 天照大神 氏子域 / 正徳町祭礼 / 10月第一日曜日 境内社 / なし所在地 / 名古屋市港区正徳町1-16参拝日 / 2026/08/21あおなみ線中島駅から正徳神明社アクセス / 駅からあおなみ線沿いを南へ、国道1号線を超え約400m、徒歩6分ほど。関連記事・龍神社 (港区川間町)・神明社 (港区正徳町2)・神明社 (港区正徳町5)・弘法堂 (港区土古町3)・八釼社(土古町)
2026.09.11
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前回掲載した弘法堂から、直線距離で50mほど西に今回掲載する八釼社が鎮座します。上は「八釼社」の鎮座地で、弘法堂から西へ50mほどの位置になります。 荒子川に架かる柳瀬橋の手前から南に続く道路は、不自然な曲がり方をしている印象を受けます。弘法堂から西に直線距離で50m先の「八釼社」社頭。手水鉢の寄進年は昭和31年、「八釼社」の社標と鳥居は大正5年に寄進されたもの。右手に御神事の説明板には、一月一日 元始祭、五月五日 五穀祭、10月第一日曜日 秋季大祭、12月6日 秋葉神社祭とあり、境内には秋葉社が祀られているようです。 右手に撫で牛もあることから、菅原道真も祀られているようです。社殿は正面の拝殿と、玉垣で囲われた先の本殿からなり、境内右奥の大きなムクノキの傍らには境内社が祀られています。 愛知県神社名鑑(1992)では以下のように記されていた。 「十五等級 八釼社 旧村社鎮座地 名古屋市港区土古町字屋敷一番地 祭神 天照皇大神、日本武尊由緒 創建は明らかでない。 「尾張志」に"八釼ノ社土古山新田にあり"。土古の産土神として崇敬あつく、明治十二年七月九日村社に列格した。 例祭日 十月五日社殿 本殿 流造、拝殿、神楽殿」というもの。 引用されている「尾張志」にも目を通したが書かれている以上の情報は得られなかった。とはいえ、「尾張志」が編纂された天保14年(1843)時点で既に八釼ノ社として鎮座していたのは間違いない。更に寛政期(1789-1801)に纏められた「愛知郡村邑全図」から土古山新田の絵図をみる。 右の地図は名古屋市史から引用した明治44年に纏められた土古山新田の地図。赤枠が土古山新田で丸部分が鎮座地になります。絵図には勘定小屋も記され、「寛保戌年築立 人家なし」と記されている。 寛保戌年は1742年にあたります。興味深いのは八剣社鎮座地付近に「熱田宮」と記されており、仮にそれが八剣社の前身であるとすると、創建は尾張志編纂(1843)以前に遡る可能性も浮かんでくる。 熱田前新田の南、当知新田の東に位置する土古山新田が開発されたのは元文五年(1740)とされる。創建もその時代まで遡り、何らかの理由で八剣社に変わった可能性もある。 因みに現在この場所に「熱田宮」またはそれに類する神社は見られない。いずれにせよ、土古山新田の発展の歴史を見届けてきた氏神様で、代々氏子たちにより護り継がれてきた神社だ。拝殿前の狛犬は昭和4年の銘が刻まれたもの。拝殿額は「八釼社」。 新田開発で出来た土地の神社は開発と共に歴史が刻まれる事になります。個人的に海の近くの地域に足が向かないのはそうした理由もある。 旧東海道以南のこの辺りでも多くの神社が祀られていますが、八釼社は珍しい存在かもしれない。境内から社殿全景。 切妻瓦葺の妻入りの木造拝殿は、梁間・桁行ともに三間の四方吹き抜けのもので、そこから先は玉垣で囲われ流造の本殿に繋がっています。八釼社本殿。 本殿域には本殿一社のみで、秋葉社や天満宮らしき社の姿は見られない。写真に写り込む燈籠は、境内の寄進物では一番古そうな佇まいですが、銘を見るのを忘れました。境内右の境内社。 8本の鰹木と内削ぎの千木が付く神明造で、木札は見られないがこちらに秋葉社と天満宮が祀られているのかもしれませんね。社地西側から望む境内の全景。 社地西側に道路が南に一本伸びていますが、その道路は緩やかに曲がっており、道路の向かいは民家が連なり、その先は荒子川の護岸が迫っています。荒子川に沿って緩やかな曲がり方を見せる道路は、かつての堤防のように見えなくもない。社地南側から八剣社と東の弘法堂の眺め。八釼社(土古町)創建 / 不明祭神 / 天照皇大神、日本武尊氏子域 / 川西通、土古町祭礼 / 10月第一日曜日 境内社 / 不明社一社所在地 / 名古屋市港区土古町字屋敷地1参拝日 / 2026/08/21土古町3弘法堂から八釼社徒歩アクセス / 西に50m、徒歩1分ほど。関連記事・龍神社 (港区川間町)・神明社 (港区正徳町2)・神明社 (港区正徳町5)・弘法堂 (港区土古町3)
2026.09.10
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前回掲載した港区正徳町5の神明社から、荒子川沿いを南へ向かう。 目指すのは土古町の八剣社。神明社から約1km、歩いて15分ほどの道のりです。 今回は土古町の八剣社の社頭付近で見かけた弘法堂を掲載します。その途中、旧東海道を越えたあたりで「八剣どんぐりひろば」という小さな広場を見つけました。 この広場の一角に何やら堂らしき建物がある。八剣社へ向かう途中でもあり、ちょっと寄り道してみることにしました。旧東海道から南に一本入った交差点の角が弘法堂です。 当初は番割観音堂かと思っていたが、どうやら違ったようです。この交差点から西を眺めると八剣社の鳥居が見える距離にあります。「八剣どんぐりひろば」全景。 町中でよく見かけるどんぐりひろば、地域の幼児の健全育成を目的として、地域の安全な遊び場として作られるもので、条件を満たせば土地所有者の税金軽減にもなる名古屋市独自の取り組み。最初に見たときは、以前訪ねたことのある番割観音堂の一つかと思いました。 ところが、堂には名称を示す木札などはなく、由緒を記した案内板もありません。何という堂なのか、これだけでは分かりません。 小さな祠の鬼瓦には火災除けに「水」の文字を入れるほど、地域にとって大切な存在なのかもしれない。この堂について港区の情報を調べてみたが名称も分からず、地図を遡っても祠や寺の存在は記されていなかった。 ただ、由緒が分からないからといって、そこに何もないわけではありません。住宅地の小さな広場、その一角に堂と祠が残されている。 そして今も地域の人たちが利用する場所として存在している。こうした光景は、これまで神社や寺院を巡っている中でも何度か目にしてきました。 正式な寺院や神社として記録されていなくても、地域の人々によって守られてきた小さな堂や祠は、町の歴史を知るうえで意外に興味深い存在です。 そこで堂内を覗いてみると、須弥壇には弘法大師像のほか、阿弥陀如来像、観音像が安置されていました。 弘法大師像があることから、少なくとも弘法大師を祀る堂であることは間違いなさそうです。堂内には地域の祭りなどで使われるものと思われる神輿のようなものも置かれていました。隣の小さな祠にも石仏が一体。 ただ、大きな前掛けに覆われているため、像容や銘文までは確認できませんでした。「八剣どんぐりひろば」のこの堂は、結局正式な名称は分かりませんでした。このブログでは便宜上「弘法堂」と呼ぶことにします。 正しい名称ではないかもしれません。もしこの堂についてご存じの方がいれば、ぜひ教えていただきたいところです。さて、ここでいつまでも考えていても仕方がありません。 目の前には、今回の本来の目的地である八剱社があります。それでは、八剱社へ向かうことにしましょう。弘法堂 (港区土古町3)創建 / 不明本尊 / 弘法大師氏子域 / 不明祭礼 / 不明 境内社 / なし所在地 / 名古屋市港区土古町3-4-1参拝日 / 2026/08/21正徳町5神明社から土古町3弘法堂への徒歩アクセス / 正徳町5神明社から荒子川沿いに南下、約1km・徒歩15分ほど。関連記事・龍神社 (港区川間町)・神明社 (港区正徳町2)・神明社 (港区正徳町5)
2026.09.09
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港区正徳町2の神明社を後に、350mほど西に向かい、正徳四・五・六丁目集会所を目指します。写真は正徳五丁目の交差点角にある集会所で、時間にして5分ほどで到着できる距離にあります。 集会所の入口には「正徳町四・五・六丁目町内会集会所」とあります。この集会所の左に目指す正徳町5の神明社が鎮座します。赤のマーカーが鎮座地で、明治時代からほぼ現在までの地図を見てみましたが、ここに鳥居の印が記されることはありませんでした。 正徳町四・五・六丁目は、荒子川を挟んだ両岸と、東岸では正保公園あたりから百曲街道までが大まかな範囲となります。 集会所敷地の左側が神明社の社地として設けられており、右側に幟立て、左側に社標が立てられています。 正面には銀色に輝く金属製の蕃塀が建てられており、道路から境内の様子を見ることはできない。神明社の社標後方から境内に入ってみます。 社標右手の幟立てに目をやると、側面に「平成6年改修」と刻まれていました。更に背面には「昭和31年明徳温泉」の銘が刻まれていました。 二つの年代にわたる記録が残る寄進物は、あまり見かけないものかもしれない。これだけ見ても、この神明社の歴史を感じ取ることができます。 この正徳町5の神明社について調べてみました。 愛知県神社庁には登録されておらず、名古屋市史にも記載がないため、詳細はつかめませんでした。蕃塀の先の境内には、「遷宮記念」と刻まれた二本の石柱が立ち、その先には角の取れた石を高く積み上げ、その上に社殿が祀られています。 遷宮記念の石柱には「昭和50年」と「平成6年」の年が刻まれており、正徳町の変貌にともない、地内で二度遷座した可能性があります。幟立てに「平成七年修復」とあるので、この頃に現在の神社の形が整えられたのだろう。 過去の地図を見ると、このあたりに住宅が現れるようになるのは昭和に入ってから。昭和22年頃の航空写真で見ると、田畑が広がる環境の中、この一帯だけ規則正しく複数の建物が見られます。 現在の正保公園北側まで建物が続き、それより南側には、まだ田畑が広がっています。これが社宅なのか、団地なのか分かりませんが、その頃から一帯の宅地化が進んでいるようです。 住民が増えると、集会所や公民館が建てられていきます。人が寄り合う地域の施設に神社を祀る例は珍しくなく、遷座の歴史は分からないものの、周辺の宅地化が進んだ昭和期になって祀られたものではないかと推測します。本殿は神明造で6本の鰹木と内削ぎの千木が付くもので、供えられた榊も新しく、町内でお世話する仕組みがあるのだろう。 祭神は天照皇大神と思われ、正徳町四・五・六丁目に住む人々を見守っているのでしょう。境内社は見られません。神明社 (港区正徳町5)創建 / 不明祭神 / 天照皇大神氏子域 / 不明祭礼 / 不明境内社 / なし所在地 / 名古屋市港区正徳町5-100参拝日 / 2026/08/21正徳町2神明社から正徳町5神明社への徒歩アクセス / 正徳町2神明社から西に350m、徒歩5分ほど。関連記事・龍神社 (港区川間町)・神明社 (港区正徳町2)
2026.09.05
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前回掲載した川間町龍神社から、あおなみ線を越えて高架沿いに少し北上すると港区正徳町2に鎮座する神明社を訪れた。正徳町2の神明社全景。 あおなみ線西側に位置し、龍神社から徒歩15分ほど、港北駅から直接向かっても10分ほどで辿り着ける。港区の町名の由来によれば、町名の正徳町は、昭和36年に南に隣接する正保町と東の明徳町の頭文字を取って正徳町となったという。 正保町は熱田新田が開発された年代の「正保」からきているとされます。そのため正徳町も開発時の元号から付けられたと思いがちですが、そうではないようです。大正時代の地図(左)にも当時すでに鳥居の印が描かれており、明治まで遡ってもこの辺りに鳥居らしき印が見られます。 当神社の由緒については後ほど記載するとして、愛知県神社名鑑によれば創建時期は不明で、「尾張志」にも記述が残るとしています。神明社の記録を留めた尾張志は天保14年(1843)に編纂されたとされます。 上の絵図は、更に遡った寛政年間(1789-1801)頃描かれた熱田新田村全図です。地図と同じ向きになるよう天地を反転したもので、左隅が庄内川、中央に荒子川、右が中川運河が描かれています。 荒子川左岸の四角の赤枠部分の廿一・廿二あたりに神明の文字が見えます。絵図の番割と位置にズレは否めないが、二十二番割の氏神、正徳町2の神明社を指していると見えます。中央の二つの赤丸で、上の赤丸は天年寺と神明の文字が見られ、これが恐らく中川区昭明町2の神明社ではないかと思われます。 下の赤丸の神明は、十八 九と読め、番割からすると、20番割りの氏神・正徳町1の神明社を指しているように見えます。位置はしっくりこないが、絵図が書かれた寛政年間以前に創建という可能性もある。境内全景の眺め。 南北に長い社地の南側に鳥居を構え、北側に社殿を構えており、ゆとりを感じさせる。社頭正面からの眺め。 白い神明鳥居と石灯籠を包み込む柵、神木を支える金属製の柱が印象に残る。境内中ほどの狛犬と左側の社務所、正面の社殿の眺め。 社殿左には境内社が祀られている。 くろずんだ外観の狛犬はベルトまで付けられている。 大正十三年(1924)に寄進されたものでした。先ほどの神木、灯籠、この狛犬、拝殿など、地震に対して相当意識しているのがうかがわれる。拝殿は切妻妻入りの瓦葺でモダンな拝殿額が掛けられている。 愛知県神社名鑑には正徳町2の神明社について、以下のように記載されています。『十五等級 神明社 旧村社鎮座地 名古屋市港区正徳町二丁目五三番地祭神 天照皇大神由緒この地は熱田二十二番割で神明ノ社は氏神なりと「尾張志」にみえ、村内の安全と五穀豊穣を祈り尊崇する。明治五年七月、村社に列格した。神徳 火伏せ、厄除け例祭日 十月五日(第一日曜日)社殿 本殿 神明造、幣殿、拝殿、社務所』本殿左の覆屋にはこの地域の火伏の神、秋葉神社を祀る。 拝殿から幣殿、鞘殿の眺め、天照大神を祀る本殿は到底垣間見ることは出来なかった。 神明社 (港区正徳町2)創建 / 尾張志に神明の名が残る祭神 / 天照皇大神氏子域 / 正徳町祭礼 / 10月第一日曜日境内社 / 秋葉神社所在地 / 名古屋市港区正徳町2参拝日 / 2026/08/21龍神社から神明社徒歩アクセス / 龍神社からあおなみ線を北上、約1km・15分。関連記事・龍神社 (港区川間町)
2026.09.04
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八月に入り二回目の港区徘徊。 前回はあおなみ線稲永駅周辺の神社を巡りましたが、今回は一駅手前の港北駅で降車し、駅周辺から南にかけて神社巡りをしてきました。このあたりも新田開発で生まれた土地で、開拓の歴史を感じさせる地名が残る。 龍神社が鎮座する川間町は、昭和三十六年に制定された比較的新しい町。港区の町名の由来によれば、「明徳土地区画整理事業の完成に伴い、当時、現・西名古屋港線(あおなみ線)から東海橋まで流れるオタラク川と、中部鋼板(株)の工場の南側にあった川の間にはさまれた土地であるところから名付けられた。」 上は大正時代と現在の地図に青色マーカーで龍神社の位置を示しています。地図では切れていますが、中川運河と荒子川などを結ぶ運河網の一環として計画された小碓運河や、マーカーの上方には昭和32年(1957)になると中部鋼鈑の中川工場が現れます。 物流が水運から陸運に移り変わるとともに、運河の利用価値は低下し、小碓運河も平成8年(1996)から埋め立てが始まり、平成10年(1998)には大部分が南郊公園となりました。また、公園沿いには鉄道貨物輸送の増加を見込み、名古屋貨物ターミナルと笠寺・大府方面を結ぶ南方貨物線が計画され、昭和42年(1967)に建設が始まりました。 しかし工事は途中で中断され、国鉄の財政難や鉄道貨物輸送需要の減少などから昭和58年(1983)に建設が凍結され、現在もその高架の一部が残されています。龍神社は港北駅から東に750m、10分ほど歩いた川間公園内の北西角に鎮座します。写真は、平成三年(1991)に整備された川間公園の東側から眺める龍神社の全景。玉垣で区切られた神域には鬱蒼と木々が生い茂り、杜を形作っています。玉垣の外側に幟立てと鳥居が立てられ、公園そのものが神域といってもいいのかもしれない。 この龍神社の由緒や創建時期について、愛知県神社庁の資料から調べてみましたが登録されておらず、『名古屋市史 社寺編』(1968)にも記載がなく、残念ながら詳細は全く掴めませんでした。社頭全景。 詳細が分からないとなると、寄進物から推測するしかありません。右手の幟立ての寄進年は平成八年(1996)、鳥居の寄進年は確認し忘れました。龍神社参道から社殿を望む。 切妻の拝所とその先の本殿が主なもので、狛犬の姿はみられなかった。参道左の手水鉢と、その先の常夜灯は昭和36年(1961)に寄進されたものです。拝所に掲げられている額は「龍神社」。 現在の川間町からは、ここに龍神が祀られた動機を察することはできないかもしれません。一帯は海抜も低く、立地は西に荒子川、東は中川運河、北には小碓運河、南にはオタラク川の名残もみられ、四方を川に挟まれた場所にあります。 そうした立地ゆえに、水を鎮めるために龍神が祀られたのかもしれません。龍神を祀る本殿は神明造で、5本の鰹木に内削ぎの千木が施されています。昭和36年(1961)に制定された川間町であること、そして灯籠も同年に寄進されていることから推測すると、町の誕生とともに町の安寧を願って祀られたのかもしれない。龍神社 (港区川間町)創建 / 不明祭神 / 不明氏子域 / 不明祭礼 / 不明所在地 / 名古屋市港区川間町2-134参拝日 / 2026/08/21公共交通機関アクセス / あおなみ線港北駅から東に750m、川間公園内
2026.09.03
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