手に職がないと生活していくのが難しい世の中とはいえ、かつては安定の代名詞だった「国家資格」保持者の私の知り合いの建築設計士は、「こんなギャラじゃ、とてもじゃないけれども生活できない。工務店の依頼を受けて戸建住宅の設計図面を作っているのだが、10年前では売出し価格の10%が取り分だったのに、今ではたったの3%になってしまっている。1000万円の戸建てならギャラが100万円から30万円に減ったってことになる。生活苦で辞めていった同業者もたくさん見てきたよ。俺たちの技術を安く見ている証拠なのだ」と憤っていたのだ。少なくとも現在は「手に職」があっても安心できる時代ではないようだ。
この建築士も「仕事が減って競争がきつくなったからたいへんなのか。いや、違うな。俺たちが苦しんでいる分、間違いなく誰かが甘い汁吸っているのだろう」といっているように、技術職の仕事単価が減少した理由はさまざまな背景があるようだが、同じ建設業関係に従事している職人や技術職と言っても様々で、設計図に従って忠実に製作するのも職人だし、設計図の誤りを訂正した上で製作できる程の職人も多く存在しているのだ。しかし手に職があって実力本位の職人と言っても基本的には「発注者ありき」の職業だということは絶対に認識しておく必要があるのだ。不景気になれば不景気の度合いに応じて仕事は減少するものなのだ。
大工などの手に職のある職人と言われる職種に人気が集まっているのだが、技術屋や職人と言っても本来は数式などで表現できるものを体感的に会得した人を指すことだといわれているのだが、従来のような体で覚えられる程度の難易度の作業は、色んな技術が発展している現在や将来において、生き残るのはかなり厳しいと私は思っているのだ。実際に建設業でも一般的にホワイトカラー層の方が断然にお給料が良いため、手工業を志す若者はどんどん減っているのも現実で、特に建設関係の修業は3Kといわれているとおり体力的にかなりキツイというイメージが、若者を建設業の技術屋や職人という選択肢から遠ざけているようなで、実際にはイメージだけでなく現実もそうなのだ。
それでも手仕事によって丁寧に作られたモノには、ひとつひとつ固有の物語があるもので、モノの背後には技を守り受け継いできた歴史があり、それを作った職人の人生があるといわれているのだ。丁寧に作られたモノはなかなか手荒には扱えないのも事実で、大切に味わったり使ったりしていくうちに、モノはちょっとずつ風合いを増していくものなのだ。たくさんの人の手を通して技が形を結びいまここに存在しており、豊かな物語を秘めたモノは作り手から使い手の手に渡ってまた新たな物語を紡いでいくと考えられているのだ。職人たちの言葉には長い時間をかけて培ってきた重みがあって、使い込んでいくうちに味わい深くなるようにそれらはまるで職人たちが作り出すモノに似ているのだ。
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