M17星雲の光と影

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2007.11.16
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カテゴリ: 文章論
「この本読んだら元気が出るよ」

そう言われて一冊の本を借りた。自宅でその本に白い紙のカバーをかけ、机の隅に置く。そして、白いカバーをじっとみつめる。冒頭部は先日、書店で立ち読みした。いい文章だった。細かなところまで注意深く神経の通った、むだのない、自然な息づかいの文章だ。

しかし、と私は思う。この人の文章を読むことからずいぶんと遠ざかっていた。なんとなくではなく、意識的に彼の文章を「断って」いた。今年の初めに短編集を読んで以来、10ヶ月近く経つだろうか。

朝、出勤時にちらっとその本に視線を送る。だが、結局、別の本をカバンにしまいこみ、玄関のドアを開ける。そういう日々が一週間近くつづいた。まだその時期ではない。そういう感じがしたのだ。

彼の文章を毎日のように読んでいた時期があった。その文章に何が書いてあるかということよりも、「その文章がどのように書かれているか」ということに関心があった。その文章の運び、文章を書くという行為そのもののもつ意味、そういうことを考えながら彼の文章を読みつづけた。

そこで何を感じたか。一言でいえば、文章を書くことは、持続であり、継続であり、限りない修正である。そのことを私は学んだ。

持続と継続はどうちがうか。継続とは文章を書く行為そのものを「つづける」ことである。持続とは「文章を書こう」という意思を保ちつづけることである。行為の継続と、意思の持続。このふたつが文章を書くために欠かすことのできない条件だということを私は学んだ。

文章を書くためには、とにかく文章を書き続けなければならない、そして文章を書くという明確な意思を保ちつづけなければならない、そして、それは具体的には、一度書いた文章をなんどもなんども飽くことなく修正しつづけることを意味する。彼の文章はそう語っていた。

彼の文章を読むことで、私の貧弱なことばの起動装置にかすかな電流が流れた。自分の書いた文章に何度も何度も手を入れることで、自分が何を書こうとしているのか、少しずつそれがわかるようになってきた。頭のなかの靄が徐々に晴れてきた。そして、そこに自分なりの息づかいや呼吸のリズムが浮かび上がってきた。そうか、文章を書くということは呼吸をすることなんだ。「すう、すう、はっは、すう、はっは」。これがなければ文章にはならないんだ。私はそのことを知った。



自分は自転車の乗り方を覚えたばかりの小学生だ。サドルにまたがり、いつもとは違う高さから世界を見、いつもとは違うスピードでまわりを流れる景色を見る。そして夢中でペダルをこぎつづける。それはある種の快感を伴う。しかし、振り返って自転車の後輪を見ると、そこには小さな「補助輪」がつけられている。

自分に文章を書かせた「促し」、文章の起動装置に火花を飛ばせたプラグ。彼の文章を読みつづけながら文章を書くことはこれからも可能だろう。補助輪をつけていても、自転車に乗る快感をある程度は味わうことができる。でもそれはしょせん真似事にすぎないのではないか。いつまでも補助輪をつけて走るつづけるわけにはいかないのだ。

その補助輪をはずそうとして、私は彼の文章を「断った」。

その結果、どういう事態が訪れたか。うまく文章を書くことができなくなった。十分予想された展開である。

その時、何を思ったか。「ざまあみろ」、あるいは「ざまあねえな」、正直、そう思った。

でもしかたがない。補助輪をはずしてしまった以上、自分の脚とバランス感覚でなんとかするしかない。

それでなんとかなったのか、ならなかったのか。それはよくわからない。なんとかならなかったような気がしないでもないが、補助輪をはずそうとした判断自体は今でもまちがっていなかったと思っている。

以上が私の「断ち物」にまつわるお話である。

でも、もうそろそろその「断ち物」をやめる頃合いが近づいた。そう思っていた矢先、彼の新刊を借りたのである。やっと「その時」がきたようだ。私は意を決して、ある儀式をすませた後、おもむろにその本のページを繰り始めた。

その冒頭にこういう一節がある。

「ラヴィン・スプーンフルの音楽はいつ聴いても素敵だ。必要以上に自分を大きく見せようとしない音楽だ。」(p17)



だからといって、これは「謙虚」であれということではない。それは自分を必要以上に小さく見せることだからだ。必要以上に大きくもなく、小さくもなく、必要なだけの大きさで自分自身を表現すること、それがどれほどの難事であるか。自分で文章を書いてみればそのことがよくわかる。

この文章にはこういう一節もある。

「僕は走りながら、ただ走っている。僕は原則的には空白の中を走っている。逆の言い方をすれば、空白を獲得するために走っている、ということかもしれない。そのような空白の中にも、その時々の考えが自然に潜り込んでくる。当然のことだ。人間の心の中には真の空白など存在し得ないのだから。人間の精神は真空を抱え込めるほど強くないし、また一貫してもいない。とはいえ、走っている僕の精神の中に入り込んでくるそのような考え(想念)は、あくまで空白の従属物に過ぎない。それは内容ではなく、空白性を軸として成り立っている考えなのだ。」(p32)

このフレーズにふるわれた鑿の仕事の量に私は圧倒される。空白、ないしは無を文章化することのむずかしさ。これもまた文章を書いたことのある人間には痛切に自覚されていることだ。しかし、彼は自分の内面にある空白にぎりぎりの地点まで肉迫している。それを可能にしたのは、やはり彼の持続であり、継続であり、粘り強い修正を加える強い意志である。

その白いカバーに包まれた本、村上春樹「走ることについて語るときに僕の語ること」を先ほど読み終えた。



「学校で僕らが学ぶもっとも重要なことは、『もっとも重要なことは学校では学べない』という真理である。」(p67)

私は深くうなづき、この本を静かに閉じる。

えっ、ところで、さっき書いた「断ち物」をやめるための「ある儀式」っていったい何かって。

わかるかなあ。わかんねえだろうなあ。

さて、その儀式にでかけるとするか。え、「だから、その儀式って、なんなんだよ」って。

わかるかなあ。わかんねえだろうなあ。

私はタンスからウインドブレーカーを取り出し、それを身につける。

わっかるかなあー、わっかんねえだろうなあー。







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Last updated  2007.11.16 21:14:10
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和久希世@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) >「彼はこう言いました。「それもそうだ…
kuro@ Re:「チャンドラーのある」人生(08/18) 新しいお話をお待ちしております。
あああ@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光2(03/03) 非常に面白かったです。 背筋がぞわぞわし…
クロキ@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光2(03/03) 良いお話しをありがとうございます。 泣き…
М17星雲の光と影@ Re[1]:非ジャーナリスト宣言 朝日新聞(02/01) まずしい感想をありがとうございました。 …
映画見直してみると@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) 伊集院がトイレでは拳銃を腰にさして準備…
いい話ですね@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) 最近たまたま伊丹作品の「マルタイの女」…
山下陽光@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) ブログを読んで、 ワクワクがたまらなくな…
ににに@ Re:非ジャーナリスト宣言 朝日新聞(02/01) 文句を言うだけの人っているもんですね ま…
tanabotaturisan@ Re:WILL YOU STILL LOVE ME TOMORROW(07/01) キャロルキングの訳詩ありがとうございま…

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