M17星雲の光と影

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2007.12.05
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カテゴリ: 音楽
ベートーヴェンの交響曲の好みをご質問いただいたので、自分でもあらためて考えてみたのだが、どうも返事がコメント欄に収まりきれなくなる予感がするのでこちらで説明させていただくことにする。

まず、もっとも好きな曲から。これはなんといっても第7番である。これこそはどこをどう探しても、ほんのわずかのゆるみもすきまも見つからない完璧な音の結晶体である。この曲をまだ聴いたことがない方がもしおられたとしたら、「なんとうらやましい。あの曲を初めて聴くよろこびをこれからの人生に残しておられるとは」ということばを謹んで献上したい。

私はもともとクラシック音楽なんてぜんぜん「わからんちん」である。楽譜も読めず、楽器も弾けない。小学校の音楽の時間に、教師の弾くピアノの和音を「ドファラ」とか言い当てる女子を見て、なんという気高い能力の持ち主であろうかと崇高の念を抱いたものである。楽譜をぱらぱらとめくりながら、指先で拍子をとって、「ふふふんふん」とメロディーを口ずさまれたりした日には、目がふたつあって、口・鼻がひとつずつついていたら、無条件で「美女」に見えてしまうという抜きがたいコンプレックスをもった人間である。

どうもその反動で、中学一年の頃からBS&T(ブラッド・スウェット&ティアーズ)などという黒っぽいブラスロックにはまってしまったのかもしれない。そのボーカルの野卑な声に憧れ、彼のアイドルがレイ・チャールズという盲目の歌手であるということを知ったときから、なんだかわけのわからない音楽行脚が始まってしまったわけである。その頃の私の価値基準は「ブラック・イズ・ビューティフル」、まっくろくろすけ大歓迎。頭の中にはクラシックのクの字もなかった。

私の兄はいわゆる「優等生」であり、そのような偏屈な弟とは対極にいて、「やっぱ、この年齢になると、こういうものも一通りは聞いておかないとな」と考える、穏やかな教養主義者であった。彼は当時流行の千円レコードというものを買ってきて、中1の弟がブルースギターに合わせて体をのけぞらせているのを尻目に、「ちょっとプレイヤー貸して」といいながら、そのレコードをターンテーブルに載せた。

「げ、なんだ、この大仰でもって回った出だしは」私は後ずさりしながら、そう言って、走って逃げた。お兄さまが買ってきたレコードは、A面「未完成」、B面「運命」という定番中の定番の「名曲」レコードだったのである。私はさっさと戸外に出て、バットの素振りを始めた。その頃、右投げ右打ちから右投げ左打ちへと改造すべく、バッティングフォームの確立と修正に余念がなかったのである。

そのレコードは一度聴かれただけで、押し入れの隅に放置されることになった。もちろんそんなもの私は聴かない。ツェッペリンやエアロスミス、オーティス・レディングやサム・クックを聴くのに忙しかった。

高校生になって、こころが鬱屈し、思いが淀んで、どこにもはけ口が見つからないと思っていた頃、なんとなくこれまで好んで聴いていた音楽からも遠ざかってしまった。そして、ふと押し入れの隅にある「あのレコード」のことを思い出した。

私はごそごそとそのレコードを探し出し、ターンテーブルの上に置いた。そして、ヘッドフォンを取り出し、闇の中でオレンジ色に光るプレイヤーのランプを眺めながら、ボリュームのつまみを上げた。ちりちりというかすかな針の音がして、あの第5番の冒頭部が大音響で頭のなかに鳴り響いた。



最後の一音を聞き終わって、私は「ほー」とため息をつき、そっと汗ばんだヘッドフォンを耳からはずした。

そして闇の中の一点に瞳を凝らす。

音楽を聴いたという言い方では十分に言い表すことのできない思いがこころのなかにあふれていた。

その時「何かをたしかに経験した」という感触があった。

すごい音楽だなあ。そう思って、しばらく茫然としたのを覚えている。

おそらくそれが自分の意志で初めて聴いたクラシック音楽だったと思う。

しかし、それも一度きりだった。私はふたたびなじみのある音楽に戻っていった。やっぱり温かい泥の中に浸かっているほうがその頃の気分にはあっていたのである。

余談になるが、その後、30歳を過ぎてからクラシックのCDを集めはじめ、何百枚も中古CDを買い集めるようになって、ふと「あの5番はいったい誰の演奏だったんだろう」と思ったことがある。当然、あの頃は指揮者やオーケストラの名前は何も知らなかったし、いわゆるメジャーの演奏ではなかったような気もする。

千円の格安LPの演奏だったのだから、それも当然である。久しぶりに実家に帰省した折りに押し入れに潜り込んで、そのレコードを探した。あった。ジャケットのほこりを拭って指揮者の名前を見ると、そこには「サー・ジョン・バルビローリ」と書かれていた。サーの称号でわかるように、英国の高名な指揮者である。そうか、やっぱりなあ。さっぱりわからんちんの青臭い高校生の魂をあれほど揺さぶった演奏である。いくらベートーヴェンの音楽がすばらしいからといって、中途半端な演奏者ではそんなことは不可能だ。しかし、いくら探しても、その後、バルビローリの「運命」が入ったCDを探し出すことはついにできなかった。

あれ、いったい何の話をしてたんだっけ。ああ、そうそう、ベートーヴェンの交響曲か。失礼しました。コメント欄に収まらないどころの話じゃないな、これじゃ。話を元に戻します。

ということで、5番を聴き、その余韻のまま、クリュイタンス、ベルリンフィルの第7番のLPを買った。どうせなら、まったく知らない、聴いたことのない、ベートーヴェンの音楽を聴いてみたい。当時、読んでいた吉田秀和氏の本の中にも、よくこの曲のことが書かれていた。



すったかたん、すったかたん。すったかたかたか すったかたかたか すったかたかたか たっかたーん すったかたかたか すったかたかたか すったかたかたか たん

で始まる冒頭部。(といってもわからないか)これは本当に圧巻だった。そして、その直後に続く「たりらりらーん」の連呼(これもわかってもらえないだろう)。この曲に関しては、少々へぼな演奏でも音楽的な感動は十分に味わえる。とにかく曲がすばらしいのである。

また脱線しそうなので、大急ぎで締めにかかるが、ベートーヴェンの交響曲の中でも7番、そして5番は別格である。集中して聴けば聴くほど、それに応じて充実感を味あわせてくれる曲。何度聞いても「飽きる」ことのない曲。

といってもベートーヴェンならなんでもいいというわけではない。これまで一度もいいと思ったことのない曲もある。それは第6番。いわゆる「田園」である。

これはおそらく先入見が影響していると思う。学校教育の音楽鑑賞の時間を私は呪う。



第4番はなんといってもクライバーの奇跡的な名演がある。あれを一度聴いてしまうと、あそこから自由になるのはむずかしい。とにかく大変な演奏である。あのリズムの弾み、高揚感は他の演奏では味わえないものだ。

そして、第3番と第9番が残る。このふたつは私にとっては「大いなる謎」である。

以前、自分のもっている「英雄」のCDを勘定したことがあるが、たぶん軽く20枚を超えていたように思う。30枚くらいあったかもしれない。単純に、この曲が好きだからというのでもない。むしろ、これこそ決定的な名演だという一枚にいつまでたってもめぐりあえないのである。これだけCDを揃えながら、一度もこころから満足する演奏に出会ったことがない。今度こそ、今度こそ、と思いながら、いつも何か物足りなさが残る。しかし、これがとてつもないスケールをもった巨大な音楽だということは私にもわかる。今のところ、ジョージ・セルがアムステルダム・コンセルトヘボウを振ったフィリップス盤が私の理想にもっとも近い演奏である。

第9番の謎はさらに巨大だ。これについては語ることばすら容易に見つからない。私は時折、フルトヴェングラーのライブ録音を三種類くらいとっかえひっかえ聴くことがある。そして、終楽章で否定されることになる、第三楽章の「天上の調べ」を、彼はなぜかくも美しく演奏したのかを考える。ほとんど天国的ともいうべき極美の調べ。私は中古CD屋の店内の天井近くに置かれたスピーカーから、タハラの輸入盤の演奏が流れ出した時のことを思い出す。あの時、たしかに天上の分厚い雲の中から細い光の束が地上に降り注ぎ、そこからひそやかにきざはしがゆっくりと地上へと降りてくるのを見たのである。この楽章を聴くたびに、私は音楽にとって「美」とは何なのだろうということを考える。

ひょっとしたら、それはフルトヴェングラーの演奏の問題というよりも、ベートーヴェンの音楽自体に内包された問題なのかもしれない。創造者の意図を超えて、この地点で、堅固な音の構築物が、あまりにも美しい「天上の調べ」によって破壊されてしまったのかもしれない。


ということで、私のベートーヴェンの交響曲、好みの順列は、

7⇒5⇒3⇒9⇒4⇒2⇒8⇒1⇒6

ということになりました。おしまい。








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Last updated  2007.12.05 20:53:23
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和久希世@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) >「彼はこう言いました。「それもそうだ…
kuro@ Re:「チャンドラーのある」人生(08/18) 新しいお話をお待ちしております。
あああ@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光2(03/03) 非常に面白かったです。 背筋がぞわぞわし…
クロキ@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光2(03/03) 良いお話しをありがとうございます。 泣き…
М17星雲の光と影@ Re[1]:非ジャーナリスト宣言 朝日新聞(02/01) まずしい感想をありがとうございました。 …
映画見直してみると@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) 伊集院がトイレでは拳銃を腰にさして準備…
いい話ですね@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) 最近たまたま伊丹作品の「マルタイの女」…
山下陽光@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) ブログを読んで、 ワクワクがたまらなくな…
ににに@ Re:非ジャーナリスト宣言 朝日新聞(02/01) 文句を言うだけの人っているもんですね ま…
tanabotaturisan@ Re:WILL YOU STILL LOVE ME TOMORROW(07/01) キャロルキングの訳詩ありがとうございま…

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