M17星雲の光と影

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2008.01.07
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カテゴリ: その他
年末、福岡に帰省し、正月3日に帰ってきた。

一年の変わり目に、毎年、変わらないことをする。いや、変わらないことができるということは考えようによっては幸せなことである。たとえこちらの胸のうちにさまざまな変化が生じていたにせよ、同じことを同じ時期に行うことで、どこかこころの落ち着きどころを得られるように感じる。

その「変わらないこと」の手はじめとして、行き帰りの新幹線の車中で何を読むかを考える。たしか一昨年は「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」、去年はカズオ・イシグロ「わたしを離さないで」だった。やはり一年の終わりから始まりにかけての本は、なんとなくではなく、意識的に「この一冊」を選びたいという気持ちが働く。

頭のなかに、いくつかの候補が浮かぶ。ざっとリストアップすると、次のようなものだ。

多田富雄「免疫の意味論」(いつか読まねばと思っていた本、新幹線の中ではちょっとカタすぎるか)、サリンジャー・村上春樹訳「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(これもいつかはと思っていた本)、藤沢周平「蝉しぐれ」(実は藤沢周平は一冊も読んだことがない。最初の一冊として手許にキープしていた本)、内田樹「私の体は頭がいい」(先生のネコマンガ、直筆サイン入り!)、「ロング・グッドバイ」(って、これは明らかに重量オーバー)。

あらためて考えてみると、これまで年頭の一冊に「物語」を選んできたことに気づく。短めの文章を集めたものよりも、ゆったりとした物語世界に浸りたいという気持ちが強く働く。なぜかはわからないが、結果的にはそうなっている。

そう思いながら、「キャッチャー」のハードカバーと「蝉しぐれ」の文庫本をカバンの中にごそごそと詰め込む。どちらか一冊で十分なのだが、本を読む習慣を持つ者にとっては、「もし早めに読み終えてしまったら」という杞憂から解放されることはないのである。

子供のわめき声やら、くしゃみやら咳やら哄笑やら、もろもろの騒音に包まれた新幹線の車中で「キャッチャー」のページをめくる。読み始めてまもなくヴォイス(声)が生き生きとページから立ち上がってくる。実に見事な翻訳である。時折、若い頃のろくでもない記憶が頭をかすめたりもする。そして「庄司薫」という懐かしい名前を唐突に思い出す。兄の本棚に並んでいた彼の四部作を鼻で笑いながら読み飛ばしたことがあったっけ。ひょっとすると、彼の作品は、このヴォイスを日本語で再現しようとして書かれたものだったのかもしれない。文章の手ざわりが不思議なくらい似ている。いずれにしても、この作品をヴォイス抜きに語ることはできない。どのような声で、どのような口調で語られるか。そのことが作品の核と深くつながっている。これはそういう小説である。

新幹線が博多駅に到着する。地下鉄とタクシーを乗り継いで、実家にたどりつく。挨拶を交わし、夕飯に鍋をつつき、酒を呑み、四方山話をする。夜もふけて寝床につくと、顔のまわりを冷たいすきま風が吹き抜けていく。これも毎年同じことの繰り返しだ。



一通り年末の仕事も終わり、さて一息つくかというところで、ふと軽く走ってみようかと思い立つ。

ふた月ほど前から、三日に二日くらいのペースで近所をジョギングしている。まだ歩いて1キロ、走って2キロ程度という「おこちゃま」メニューにすぎないが、1周1225メートルの周回コースを走りながら、「福岡に帰ったら通っていた小学校まで走ってみようか」と考えたことを思い出したのである。

私の実家は福岡の西部に位置する新興住宅地ともいうべきところにある。最初はまばらだった家々の間に徐々に民家が立っていき、それにつれて小学校や分校が次々に作られていくという形で、アメーバ状に増殖していった地域である。だが私はその学校増設には間に合わず、6年間、家からかなり離れた小学校に通い続けた。

子供の足では、歩いて30分以上は軽くかかったと思う。しかし、小学生がそれに合わせて早起きをするなどという芸当ができるはずもない。いきおい、近所の友だちとランドセルをごとごと鳴らしながら毎朝、走ることになる。常連は棒高跳びが得意ないがぐり頭の山本君、顔がネズミ男に似ている瓜頭の小谷君、それに私の三人である。タテ一列に並んで毎朝、物も言わずに疾走していた。まるでエチオピアの通学風景である(見たことないけど)。

そのおかげで子供の頃は足が速かった。中学に入る時には、陸上部から勧誘されたくらいである。ついでに合唱部からも勧誘された。もうひとつついでに高校では文芸部から勧誘された。いずれの場合も、声をかけられた瞬間、脱兎のごとく逃げ去ったことは言うまでもない。「足が速い」というのはこういう時にこそ役立つのである。

話が逸れたが、昔、通った小学校まで走るというアイデアはなかなか捨てがたいと感じた。

大晦日の福岡は時折、小雪が舞っていた。道端もぬかるんでいて、けっしていいコンディションではなかったが、私はスニーカーにジーンズ、それにフリースを羽織って、かつての通学コースを歩きはじめた。

寒いのでとりあえずはウォーキングで体を温めようと思って5分間歩いたら、あっけなく最初の山を登り切ってしまった。小学校の頃とは全然距離感が違う。この山越えに5分しかかからないとは。そこから軽いジョグペースで走り始める。周囲の街並みはずいぶん変わってしまった。昔なじみの曲がりくねった近道を探そうとしても、道そのものがもはや存在していない。のっぺらぼうの敷地になって、その上に巨大なマンションがでんと建ってしまっている。やむなく幹線道路沿いを走ることにした。

狭い通りをとことこと走っていると、急に視界が開け、目の前に小学校の校舎が広がる。時計を見ると走り始めてわずか6分。歩いて30分以上、小走りでも20分以上は軽くかかったはるかかなたの小学校まで、わずか11分でたどりついてしまった。なんだか「ミニ巨人」にでもなった気分である。

鉄筋3階建てのぴかぴかの校舎に、昔の木造建築の面影はまったくない。学校の回りをめぐっていたうら寂しい小川もなくなっている。しばらく茫然と校舎を見上げた後で、きびすを返し、ふたたび自宅に向かって走りはじめる。

小学校低学年の頃には、この道をなんと馬が荷車を引いて走っているのを見たこともある。正門の前にあった薄暗い文房具屋も、学校の周辺に広がる田んぼも、その中にいたカエルくんも、小川のフナくんもドジョウくんも、すべて消えてしまった。その後にはただ所狭しと一軒家とアパートとマンションが建ち並んでいるだけである。



昔と同じなのは、ほとんど坂道の勾配と道の曲がり具合だけである。

私は三分の二に縮小してしまった街並みを走る、二分の三に体を肥大させ、五倍の年齢を重ねた小さな巨人だ。

私はいつか走るのをやめて、とぼとぼと歩きはじめた。

「淋しいのはお前だけじゃない」

昔のテレビドラマのタイトルがこころをよぎる。







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Last updated  2008.01.08 06:30:43
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和久希世@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) >「彼はこう言いました。「それもそうだ…
kuro@ Re:「チャンドラーのある」人生(08/18) 新しいお話をお待ちしております。
あああ@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光2(03/03) 非常に面白かったです。 背筋がぞわぞわし…
クロキ@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光2(03/03) 良いお話しをありがとうございます。 泣き…
М17星雲の光と影@ Re[1]:非ジャーナリスト宣言 朝日新聞(02/01) まずしい感想をありがとうございました。 …
映画見直してみると@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) 伊集院がトイレでは拳銃を腰にさして準備…
いい話ですね@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) 最近たまたま伊丹作品の「マルタイの女」…
山下陽光@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) ブログを読んで、 ワクワクがたまらなくな…
ににに@ Re:非ジャーナリスト宣言 朝日新聞(02/01) 文句を言うだけの人っているもんですね ま…
tanabotaturisan@ Re:WILL YOU STILL LOVE ME TOMORROW(07/01) キャロルキングの訳詩ありがとうございま…

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