M17星雲の光と影

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2008.01.09
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カテゴリ: その他
夕暮れのプラットフォームで帰りの電車を待つ。反対側のホームに電車が入ってくる。外は既に暗く、電車に乗った乗客の姿が夜の闇のなかに浮かび上がる。

一人の若い女性がこちらの方を向いて、両手で熱心に髪を整えている。ちょうど私の真向かいの位置だ。

こちらからは彼女の姿しか見えない。だから、あたかも彼女は向かいにいる人間を意識して自分の髪を直しているように見える。いや、そうとしか見えない。

だが、事実は違う。電車に乗っている彼女は、夜の闇を背にした電車の窓を姿見にして、自分の姿を見ているのである。

なんということもない日常の風景である。だが、私はその光景を見て、何か不思議な感覚にとらえられる。

自分を映し出す鏡がなければ、人は自らを認識することができない。

しかし、それは厳密には「鏡」ではない。自分の姿だけを忠実に映し出す鏡を人間は内面に備えることはできないのだ。

それは「鏡」というよりも、むしろ「ガラス窓」である。外の世界が光に包まれている時、その窓は外界を映す素通しのガラスになる。

しかし、いったん外が闇に包まれると、その闇を背にして自分自身の姿を映し出す「鏡」へと変貌する。



窓に焦点を合わせると自分の姿。その外のなにものかに焦点を合わせると外界が見えてくる。そして、その二つの像は重なり合っている。

人間が自分を知り、他者を知るというのは、こういうことではないだろうか。

漆黒の闇の中では自己も他者も見えない。

燦々たる光の中では他者だけしか見えない。

自己と他者の間に隔てを置き、自己を明瞭に意識した時、暗い外界を背景として他者の中にある自己の姿が浮かび上がる。

その自分の姿を意識し、それを自分にとってより望ましい方向へと改変、修正しようとする行為は、そのまま、外界から自分を見つめる他者へのメッセージとなる。

しかし、それがメッセージとして届いていることを彼は知らない。彼の目の前にあるのは、夜の窓ガラスに映った自分の姿だけである。

その向こうに広がる世界に焦点を合わせない限り、そこには自分の姿しか存在しない。

焦点を外界へと移動させ、自分の姿をぼんやりとにじませた時、はじめて他者の世界が見えてくる。それも自分の像のなかに、二重映しになったものとして。

子どもは光の世界の住人だ。そこには輝かしい外界がある。しかし、明確な自己像は存在しない。

子どもの意識世界が成熟していくにつれ、外界は暗い影を帯びてくる。



青年の自意識は、深いインフェリオリティ・コンプレックスにとらえられる。

青年は自意識を獲得した代わりに、あれほど輝かしい光に包まれていた外界を喪失してしまう。

暗い闇の中に浮かび上がるひきつった自分自身の顔。彼の意識はそこから逃れることができない。

そして青年の意識は長い時間の波にさらされる。

そこで何が起こるか。外面的には何も起こらない。光も影も総量としては変化しない。



だが、彼の目は徐々に外の闇に慣れてくる。

目の前に立ちはだかっていた自分自身の等身大の像の向こうに、ぼんやりと外の景色が見えてくる。

私は額にかかった自分の前髪を撫で上げようとして手を頭のほうへともってくる。

それに連動するように、向こう側のホームにいる小さな人影が小さく手を振るのに、青年は気づく。

自分のための所作が他者へのメッセージと受けとめられ、返事が戻ってきたのだ。

その時、彼は自分の像の向こうに、いや自分の像を通して、外の世界の広がりを知る。

青年の焦点は外の世界へと伸びていく。

こんどは錯覚ではなく、はっきりと意識して彼は他者に向かって明確なメッセージを送る。

それに対してふたたびメッセージが返ってくる。

そして、彼は気づく。向かいにいる誰かはホームに立っているのではない。彼もまた電車に乗っているのだ。

彼は反対方向に向かう電車のなかから、こちらの車両に向かって手を振っているのである。

夜の闇の中を擦れ違う二つの列車。その二枚のガラス窓に映る二つの自己像と、その向こうにある二つの他者像。その間に交わされる信号。

その存在に気づいた時、青年は既に自分が青年ではなくなっていることを知る。


会社の帰り、駅のプラットフォームで、私はひととき、幻視の中にいた。







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Last updated  2008.01.09 20:40:03
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和久希世@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) >「彼はこう言いました。「それもそうだ…
kuro@ Re:「チャンドラーのある」人生(08/18) 新しいお話をお待ちしております。
あああ@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光2(03/03) 非常に面白かったです。 背筋がぞわぞわし…
クロキ@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光2(03/03) 良いお話しをありがとうございます。 泣き…
М17星雲の光と影@ Re[1]:非ジャーナリスト宣言 朝日新聞(02/01) まずしい感想をありがとうございました。 …
映画見直してみると@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) 伊集院がトイレでは拳銃を腰にさして準備…
いい話ですね@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) 最近たまたま伊丹作品の「マルタイの女」…
山下陽光@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) ブログを読んで、 ワクワクがたまらなくな…
ににに@ Re:非ジャーナリスト宣言 朝日新聞(02/01) 文句を言うだけの人っているもんですね ま…
tanabotaturisan@ Re:WILL YOU STILL LOVE ME TOMORROW(07/01) キャロルキングの訳詩ありがとうございま…

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