M17星雲の光と影

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2008.02.14
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カテゴリ: その他
最近「らしい」人が減ってきたように思う。

そもそも「らしい」ということばが肯定的に用いられることが少なくなってきた。現在ではむしろ「らしくない」というほうがほめ言葉に近い。

「老人らしくない老人」、「役人らしくない役人」、「教師らしくない教師」、「上司らしくない上司」、「四十代らしくない四十代」、一部微妙な用例もあるが、そのほとんどは相手をほめている(ように聞こえる)。

もちろん「らしくない」の上にネガティブなものがある場合には、その否定形は当然、反転してポジティブな意味になる。老人、役人、教師、上司、四十代。まあ、一般的にいってあまり肯定的にとらえられることの少ない方々ではある。

一方で、「ガイジンらしくないガイジン」、「モデルらしくないモデル」、「東大生らしくない東大生」、「格闘家らしくない格闘家」――テレビその他のマスメディアにはこういう「らしくない」人たちが氾濫している。「新聞記者らしくない新聞記者」、「役者らしくない役者」、「アナウンサーらしくないアナウンサー」、「CMらしくないCM」。挙げていくときりがない。

なぜこれほど「らしくない」ことが価値をもつようになったのか。

常識的に考えれば、「型の喪失」という社会的な背景が関係しているのだろう。さらに、「型」に縛られないことを「自由」ととらえる意識がある。これまで挙げてきた用例はどこかでその職業や役割の「型」に束縛されていないという意味において肯定的なのである。

しかし、「らしくない」をその後につけるとけっして肯定的な意味にならないことばもある。

それは「自分」である。



要するに、「自分」は「型」ではないという意識がそこにはあるのだろう。職業や役割のもたらす「型」よりも、「自分」は上位に属している。上位概念である「自分」が、下位概念である「型」に縛られている状態は息苦しく、はた目にも自由でないように見える。だから、それらの「型」から解放される「らしくない」が珍重されるのだ。

しかし、「自分」は例外である。これを失うことは自己の喪失につながるわけだから、「自分らしくない」生き方などけっしてしてはならない。それは最上位概念である「自分」の価値をおとしめるものである。

そういうことになるのだろう。

しかし、この考えの前提にある「自分は型ではない」という意識ははたして正当なものなのだろうか。むしろ自分とは「型」そのものではないだろうか。

「型」とは要するにパターンのことである。発話のパターン、行動のパターン、思考のパターン、表現のパターン。少なくとも外からその人をとらえる時に、何を手がかりにするかといえば、それはパターンしかない。外部からとらえられた個々の人間は、要するにさまざまなパターンを積み重ねた束のようなものなのだ。

だから個性とはパターンであり、型なのである。少なくとも外から見た場合には。

われわれが芋虫を見るときには、その芋のような外殻を見ている。芋虫に出会って、そのぐにょぐにょした内臓部をただちに意識する人はいないだろう。蟹とは、蟹の外形であり、鳥は鳥の外形であり、蝉は蝉の外形なのである。

当然、人も人の外形だ。そして、その外形によって個体を識別する時には、さまざまなレベルのパターンを意識し、そのパターンの偏差や変異に着目する。そのパターン認識が裏切られた時、人は「あの人らしくないなあ」とつぶやく。こちらがあらかじめ用意していたパターンから逸脱した場合には、「らしくない」ということになる。

つまり「らしさ」とは型のことなのである。当然「自分らしさ」も型であり、パターンであり、外殻なのである。

最近、ずいぶんフットワークが軽くなり、あちらこちらと遊び回っていた芋虫さんが、「オレも最近、ちょっと自分を見失ってるなあ。もう少し昔に戻って、自分らしく、芋虫らしく生きていかねばならんなあ」と反省したとする。さて彼はどのようにして芋虫に回帰するであろうか。

当然、どてっと腹這いになって、動いてるんだか動いてないんだかわからないくらいの低速で、もぞもぞぐずぐずと匍匐前進するだろう。これはすべて外から見た芋虫のパターンである。



「自分」も同じことである。

「自分らしい生き方」とは、他人が自分をどう見ているか、それをよく観察し、外形をそれに合わせることである。自分を他人の目に応じて固定することである。けっして自分を形のないものに向かって解放することではない。芋虫が芋虫から解放されてしまうと、芋虫ではなくなってしまう。それと同じである。

「自分らしい生き方をしたい」と人が言うとき、その時の「自分」はひょっとして外殻を失ってしまっているのではないだろうか。

芋虫であることをやめた芋虫は、自分の外殻をべりべりと引き破り、からだの内容物を地上にどさりと横たえる。そして、今や自分は何ものにも縛られない完全な自由を手に入れたと考え、そういう「自分自身」に陶酔する。だが、その姿ははたから見ると、ほとんど「死体」と変わることがないのである。

だから「自分らしい生き方」をどこまでも追い求める人の姿は、私の目には路上に放置された内臓の集積物に見える。



それが不思議に思われてならない。






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Last updated  2008.02.14 21:43:57
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和久希世@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) >「彼はこう言いました。「それもそうだ…
kuro@ Re:「チャンドラーのある」人生(08/18) 新しいお話をお待ちしております。
あああ@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光2(03/03) 非常に面白かったです。 背筋がぞわぞわし…
クロキ@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光2(03/03) 良いお話しをありがとうございます。 泣き…
М17星雲の光と影@ Re[1]:非ジャーナリスト宣言 朝日新聞(02/01) まずしい感想をありがとうございました。 …
映画見直してみると@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) 伊集院がトイレでは拳銃を腰にさして準備…
いい話ですね@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) 最近たまたま伊丹作品の「マルタイの女」…
山下陽光@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) ブログを読んで、 ワクワクがたまらなくな…
ににに@ Re:非ジャーナリスト宣言 朝日新聞(02/01) 文句を言うだけの人っているもんですね ま…
tanabotaturisan@ Re:WILL YOU STILL LOVE ME TOMORROW(07/01) キャロルキングの訳詩ありがとうございま…

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