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三陸町という海辺の町があった、
3階建ての中央公民館の3階から見ると、
海は手の届きそうなところにあった、
ここのホールで2001年、2002年の両年、
読み聞かせ&講演を行った、
地域の老若男女が大勢きてくれた、
特に3歳児以下の小さな子どもたちと、
65歳以上の高齢の方の姿が目立った、
漁港の町は元気にあふれた子どもが多い、
高齢の方の姿が多かったのは、
中央公民館と目と鼻の先に、
特別養護老人ホームの、
さんりくの園があるからだろう、
そこに入所している方々が、
かなりきてくれたらしい、
小学生もずいぶん聞きにきてくれた、
何年か前、大船渡市と合併し、
大船渡市三陸町になった、
中央公民館は三陸公民館になった、
3年前の夏、三陸町吉浜にある、
吉浜地区拠点センターに、
読み聞かせ&講演で訪れた、
海辺ではなく高台にあった、
また会おうね、
子どもたちと手を振って別れた、
3年後、3・11震災が起きた、
旧三陸町の海辺の集落は、
どこも壊滅状態だという、
旧中央公民館一帯は越喜来地区で、
旧町役場もここにあった、
まるで海の幸を迎え入れるように、
海に向かって正門が立つ、
越喜来小学校もここにある、
越喜来と書いてオキライと読む、
峠を越えて喜びが来るところ、
と文章に変えて記憶した、
ホールも役場も小学校も、
みんな津波に呑まれた、
2001年と2002年に、
2歳1歳0歳だった子どもたちは、
いま小学6年5年4年生、
無事だったろうか、
幸い越喜来小学校の児童たちは、
震災4か月前の2010年12月に、
完成したばかりの避難通路を通り、
全員無事だと聞いた、
知って胸ふさがる気持ちになったのは、
さんりくの園の入所者の惨状で、
約70人中、56人が犠牲になったという、
5月、釜石で2か所の慰問を終え、
夕暮れ迫る越喜来に入った、
聞きしに勝る惨状に息を呑む、
旧中央公民館もさんりくの園も、
なかを覗けば有無を言わせぬ、
大津波の略奪にあったよう、
天井さえはがされている、
涙を抑えきれず強く目を閉じる、
外郭を残す大きな建物以外は、
見渡すかぎりの瓦礫の原、
全壊の越喜来小学校へ歩く、
海の幸を呼びこむ正門は、あの日、
大津波という魔物を呼び入れてしまった、
切通しの道にかかり、
校舎と内陸側の高台をつないだ、
避難通路は真っ先に落下し、
瓦礫の下敷きの瓦礫になった、
しかし、その直前、
すべての児童を高台に送り、
無事、その使命を果たしている、
翌日午前、さしもの大津波も
かすることさえできなかった、
吉浜小学校を訪れ、
多くの児童と3年ぶりの再会を、
喜びあい、無事を祝しあい、
読み聞かせを行い、
全児童に絵本をプレゼントし、
おなじ三陸町内で甫嶺地区にある、
甫嶺小学校へ急行した、
体育館に甫嶺小学校の児童のほか、
越喜来小学校の児童も、
やはりおなじ町内の崎山地区にある、
崎山小学校の児童もきていた、
この3校は明年4月に統合になる、
越喜来小学校の子どもたちに、
「隊長は2001年と2002年に旧中央公民館で、
読み聞かせをやったんだよ。覚えている、
よい子はいますか?」
5年生6年生でも当時は2歳以下、
参加していてもまさか覚えていないだろう、
と思ったのに男の子1人女の子1人が、
さっと手をあげた、
心に熱いものが噴き上がり、
それは涙に転じて両眼から、
あふれだそうとした、
必死にこらえ息を整え、
読み聞かせに入った、
終わって、
「みんなが大人になったときは、
このうちの半分は海外で活躍している、
かもしれないよ。そういう時代になっている。
もし海外へ行ったらその地で、
伝えてほしいんだ、
大津波の怖ろしさを、
その犠牲、被害から、
どう立ち直り復興したかを、
とくに子どもたちに伝えてほしい」
読み聞かせを終えて、
子どもたちにそう頼んだ、
子どもたちは声に出さずに、
深くうなずいてくれた、
子どもたちに元気と感動を貰って、
帰途についた、
同行のスタッフに、
うれし涙を悟られまいと、
遠くの山嶺に視線をやった。
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