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(硫30 設営隊壕群)台風一過スカッとまではなっていないが、清々しい朝である。中層雲が風に運ばれ東の方に流れ、雲間から太陽がでている。プランターが倒れ、土がはみ出した程度で殆ど実害がなかった。今日の写真は、「設営隊壕群(第204設営隊壕群)(東側窪地一帯)」です。イメージがつかみにくいと思いますが、滑走路外周道、空自エプロン(NLP格納庫)の東側にある道標です。滑走路外周道と外周道(島一周の道路をこのように記しています。)の間には大きな窪地がある。この窪地に多くの部隊が駐屯していたが、設営隊もその一つである。硫黄島にはご存じのように第1飛行場(千鳥)、第2飛行場(元山)があり、海軍は第3飛行場(北)の造成を急いでいた。当時としては珍しく土木機材を保有していた「第204設営隊」の投入が命じられ、将校の飯田大尉、猪狩大尉、本間技術大尉、木下主計大尉、国分軍医中尉、塩沢主計少尉らが着任した。しかし、船で赴任の隊員は7月初めに「大滋丸」「竜紅丸」に乗船したが、父島沖で海没し、工兵250名、虎の子の土木機械を失い、残存兵力はが硫黄島にたどり着いたのは7月半ばを過ぎてからであった。機械を失った設営隊の作業は過酷と極め、病人が続出し、軍医の国分中尉まで内地に後送された。約1,000名の将兵は、元山、屏風~玉名岩にかけて展開していたが、戦闘用の装備は小銃が少なく、数少ない手榴弾と爆雷、鉄や竹のヤリが兵器だった。なかでも多数の朝鮮人出身者と数百人の硫黄島島民は正規の軍人に負けまいと、まともな兵器もないのに勇敢に戦い、爆雷を抱いて戦車に突入して死んで行った。硫黄島で徴用軍属も設営隊には多かった。「兵隊さん達が私たちの島を護ってくれるのです。私たちがやらないでどうしますか。死ねば故郷の土になるだけです。」島民軍属はこう語って続々と斬込隊に志願し、夜の戦場に消えていったといいます。ある本にも爆雷を抱き、戦車と共に爆死する記述があるが、神風特攻隊だけでなく、地上戦においても壮絶な戦いを繰り広げたのです。 指揮官 飯田 藤郎 技術大尉 総員 1,081名 戦死 1,036名 生還 45名国のため、故郷のため、家族のため、恋人のため・・・・死ねますか?あってはならない、あってほしくない戦争ですが、何かを護るために体をはれますか・・?逃げ場のない狭い島で、必死に戦った将兵、軍属等の声が聞こえてきそうな島。それが硫黄島なのです。
2007年09月08日
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(庚申塚)昨日は多くの人が訪ねて頂きありがとうございました。ただ、この体験記に反応がないのが一寸気がかりです。申し訳ありませんが、コメントを頂いた方にだけ返信しています。昨日は蒸し暑い一日でしたね~!帰省する人も新幹線に乗るまでが大変、乗った後も大変。車も渋滞とガソリンの高騰で大変。暑さ解消に水場に出かけて水難事故。どうすればいいのでしょうかね。今日の写真は、「庚申塚」です。滑走路外周の東側を通過する。左に行くと滑走路外周。真っ直ぐ行くと天山。その岐路の右側に庚申塚はある。旧島民のひとりがここに「猿田彦命(道案内の神様)」を奉り、後に島民がお参りするようになって年一回の祭りをするようになったと言うことです。このすぐ近くに、体験記3での掲載写真の場所、硫黄島最後の二人が蒸気と廃材ドラム缶を利用して作った風呂が残っている所がある。今も水蒸気が湧き出、ドラム缶の底の部分と鉄管の一部が残っているだけだが、確かに米軍以外の生活痕を感じる。斥候に出たまま原隊に戻れず、戦死したと思われていた二人がこの付近の壕に潜み、戦後4年間生き延びた海軍軍人がいた。水兵長「山陰光福」と一等水兵「松戸利善夫」である。昼は壕に潜み、夜間は米軍施設に侵入して食料を失敬して生活をしていたが、昭和24年1月に米軍に投降し、復員をした。戦後、慰霊で硫黄島を訪れた山陰氏は、摺鉢山から投身自殺をした。上坂冬子書「硫黄島いまだ玉砕せず」 第二章 地下壕からの生還 74頁~98頁 生還した兵二人 に詳しく記述してある。同僚と山陰氏等が使っていたと言われる壕所在の地図を片手に東海岸を探した。地図と似た地形があったが、土地の隆起等があり、特定することはできなかった。機会があれば、上記本を読んで頂きたい。
2007年08月12日
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