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中央に住んでいる方には理解不能かと思いますが、当地ではYahooの光サービスが未だにありません。Bフレッツが先月中の申し込みであれば工事代金が0円ということもあり、プロバイダーを含めて変更することとなりました。将来的に光が必要になったときに工事代金約4万円を惜しんだ為です。11月6日に工事(天井配線等で大変)が終了し、先ほどヤフーの解約手続きを完了しました。ヤフーの光があれば継続できたのに・・・・!硫黄島ー体験記もあと30~40回位続けたかったのですが、又の機会にします。今まで「想い出記念」にご来訪頂いた皆さんにお礼申し上げます。ありがとうございました。さようなら・・・・!
2007年11月07日
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(硫54 独歩11-3中隊群)昨日から今朝まで13時間も寝た結果、咳は治まり、快方に向かっている。たまにひく風邪はインパクトが強すぎる。こうなってはじめて健康体の有り難さを知るのだが・・・・・!今日の写真は(正)独歩311-3中隊群「独立歩兵第311大隊大3中隊群(斜め右燃料タンク東側一帯)」です。 第3中隊長 内海 義行 中尉 独歩311大隊で記述予定(左)独歩311-2中隊壕「独立歩兵第311大隊2中隊壕(この奥200米一帯)」 第2中隊長 岩本 勝 中尉(左)独歩311-1中隊壕「独立歩兵第311大隊1中隊壕(ここより西100米一帯)」 第1中隊長 金沢 実 中尉(右)特設43機関砲隊陣地「特設第43機関砲隊陣地(この奥250米)」海軍警備隊に配属、大阪山海軍砲台の直援機関砲台として艦載機の急襲に備え、敢闘した。米軍上陸前より艦砲の攻撃を受けて殆ど陣地が破壊され、2月22日頃には残存者十数名となり、歩兵第145聯隊第1大隊(原少佐)の指揮下で斬込隊として敢闘したが3月5日頃までに玉砕した。 指揮官 田村 雄蔵 中尉 総員 75名 戦死 70名 生還 5名 出身地 関東、東北、信越、北陸この木の奥に、夏みかんの木があるのです。戦後、遺骨収集に来られた人々が将兵の為に植えたのが始まりと聞いています。ご遺族の気持ちの現れだと思います。100本程、植栽されたと言いますが、塩害等で残っているのは数カ所だけになっているようです。実のなる季節にもぎ取り、碑等にお供えしました。北の鼻近くにはバナナもありますが、一寸見つけにくいでしょう。寧ろ迷子になることを心配します。毎年、季節毎に将兵に供物する木がズ~と成長し続けて欲しいものです。全島慰霊の島。それが硫黄島なのです。
2007年11月04日
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(硫53 中迫2大隊主力陣地及び壕)2~3日最悪の状態が続いている。5年くらい風邪にはご縁がなかったが、関節痛から始まって咳がでて困っている。今朝もベッドの中でも体全体に力が入らなかったが、どうにか起きて朝飯を食べはしたが、今ひとつ気合いが入らない。妻と娘達は車で出かけたが、愛犬(?只の甘えん坊犬)と留守番です。今日の写真は、(正)中迫2大隊主力陣地及び壕群「中迫撃砲第2大隊主力陣地及び壕群(この奥300米)」です。この近くには九州各地の地名がついていますが、第145聯隊が九州で編成されたことを考えると納得できると思います。因みに「高千穂峡」、「霧島部落」、「田原坂」が当時の地図には記載されています。 指揮官 中尾 猶助 少佐 総員 508名 戦死 486名 生還 22名 出身地 九州 位置 大隊本部 大阪山西麓 第2中隊(伊東 登 中尉) 大阪山西麓 第3中隊(山口 久造 中尉) 大阪山西麓 第1中隊(大塚 厚 中尉) 摺鉢山北側大隊本部は大阪山西麓に第2及び第3中隊は西側一帯に主火力を西海岸に指向できるように配置し、千鳥飛行場及び南海岸も射撃できるように陣地を形成していた。2月19日、米軍が南海岸に上陸すると共に旅団砲兵団の統一指揮の下に一部が射撃を開始した。2月21日、敵の有力部隊が千鳥飛行場及びに西海岸に侵入するに及んで全火力でこれに集中砲火を浴びせて前進を阻止したが、艦砲、迫撃砲の目標になった。旅団砲兵第3中隊(松原 一雄 中尉)、歩兵第145連来野砲大2中隊(里中 忠吉 中尉)と共に西地区の主力火砲として大なる戦果を上げたが、2月25日頃には逐次、各砲とも全弾を撃ち尽くし、以後は、対戦車肉薄攻撃斬込隊としてこの地区を確保し、3月2日頃まで必死の防戦を続けた。しかし、既に大阪山の一角が敵に奪取されるにおよび中尾少佐以下残存者約30名は師団命令により北地区に転進しつつ斬込戦をおこない、3月20日頃には殆ど玉砕した。この碑の(右)には、独立速射砲大9大隊壕の表示がある。この奥は、台上になっており、突き当たりは屏風状の断崖が続きます。故郷の地名を名付け、この地で戦った将兵の思いが伝わってきそうです。それが硫黄島なのです。
2007年11月03日
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(硫52)午後から小雨模様です。昨日は、F-2が離陸に失敗し墜落炎上しましたが、搭乗員が助かって良かったと思います。前席、永田さんの早期回復を祈念しております。これから事故調査が行われて原因が究明されるでしょうが、一日も早い飛行訓練ができることを祈るばかりです。今日の写真は、硫警大阪山砲台群十五糎砲台の(左)「師団迫撃砲隊壕(第109師団迫撃砲隊壕(この奥100米)」です。この碑の左側にあったはずなのですが、写真を撮り忘れてきています。以前、写真を掲載した大阪山砲台の下に、大きな壕が口を開けていますが、その壕かもしれません。碑の周りは綺麗に整備されているのですが、壕への道路はなく、草木を分けて進まなければなりません。今も壕の入り口付近には当時の物が散乱状態で見つける事ができるはずです。この隊は、東海岸方面に重点を指向し、一部は元山飛行場方向に射撃ができるように独立混成第17聯隊第3大隊(下間嘉一大尉)の陣内に陣地を展開していたようですが米軍上陸直前に臨時編成されたために、詳細は不明です。 指揮官 不明 総員 不明 戦死 45名 生還 若干ある見込勉強不足で、見逃すところでした。でも、当時は敵と戦った部隊なのです。今まで半時計回りで知る限り紹介してきたつもりですが、どなたか補足説明をして頂けると幸いです。宜しくお願いします。多くの将兵が人知れず戦った島。それが硫黄島なのです。
2007年11月01日
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(歩145ー2大隊壕群)中層雲が西から東へと流れ、雲を通して太陽と僅かな雲間から青空覗いている。突然、「ゴ~!」戦闘機が離陸していく。訓練開始・・・・・!静かに明けた朝が突如騒音に変わった一瞬です。基地の街だから仕方がないか!今はないが、格納庫に「この騒音は平和を守るためのものです」と英語と日本語で書いてあったこともある。今日の写真は、(正)歩145-2大隊壕群「歩兵第145聯隊第2大隊壕群(この奥一帯)」です。昨日の碑から南西に150メートルほど進んだ北側にあります。第2大隊(安武末喜大尉)は師団の直轄として、為八海岸台上から師団司令部の間に位置し、師団司令部の直接援護に任じていた。 細部は昨日分を参考に戦史をお読み下さい。(右)歩145-2-5中隊壕「歩兵第145聯隊第2大隊第5中隊壕(東側150米)」 中隊長:成瀬 八郎 中尉 細部不明 ということは、生還者がいなかったと言うことかもしれません・・・? この位置から150メートル東側は標流木海岸の崖上になるのではないかと思います。昨日の碑から海岸崖上までは行きましたが、この位置からはジャングル状態でしたので踏破は断念しています。友人の一人が為八海岸から標流木海岸方向への踏破を試みたが、海岸線は岩場で太平洋の波が押し寄せ来る上に、上り下りをしなければならず非常に苦労したと言っていた。後ろは余り気にせずに、正面の敵と対峙すればいいと思いがちになるが、物量、兵力において大きな開きのある敵と戦う将兵の心境は如何なるものだったろう・・・!碑には将兵一人一人の思いが宿っているようにも見える。外周道路を駆け足しながら、そんな事を考えてしまう島。それが硫黄島なのです。
2007年10月30日
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(硫50 歩145連隊本部壕群)午後から雨空となっていたが、夕方になり降雨となった。午後5時なのにかなり暗くなり、車は皆前照灯をつけている。今日の写真は、歩145聯隊本部壕群「(正)歩兵愛145聯隊本部壕(この奥一隊)」です。池田増雄大佐率いるこの部隊は、九州の現役兵で編成された最強部隊です。配置 連隊本部宇関係及び第2大隊:北部落より為八海岸一帯 第1大隊:高砂台西揚陸場東西の線より不磨に第、大阪山一帯の中地区隊 第3大隊:東山より元山、玉名山一帯 野砲大隊:天山、元山付近第1大隊(原光明 少佐)は旅団長の指揮下に中地区隊として、南海岸高砂台一帯と西海岸西揚陸場以南及び舟見台の間に布陣した。第1中隊(知名定福 中尉)を西揚陸場以南の水際に、第2中隊(鹿島豊 中尉)を高砂台の第1線水際陣地に配備した。第3中隊(高山惣次郎 中尉)及び歩兵砲小隊と共に舟見第北側一帯に陣地を占領し、南及び西海岸からの敵上陸を予想し、防備陣地をしいた。2月16日以来、敵の艦砲射撃が南海岸に集中したが第2中隊は松田、村上、桑畑の各小隊を支店とし、縦深に分散配備を布いていたために損害は軽微であった。2月19日、敵戦車数両を戦闘に約1個大隊の敵が高砂台正面に上陸し、隣接の南地区水際陣地と連繋して狙撃によりこれを邀撃し、友軍砲兵の射撃と共に敵に大打撃を与えた。しかし、忽ち敵支援艦艇の集中砲撃を受け、上陸戦車及び艦載機の銃、爆撃の目標になり次々と陣地が潰され損害が続出したが、終日、狙撃により敵の前進を阻止した。2月19日夜には既に兵力は半減していたが、敵の照明弾下、敢然として白兵手榴弾を以て敵中に突入し、終夜死闘を繰り返したが、2月20日朝までには殆ど全滅し、僅かに生き残った者は船見台の本隊に合流した。大隊長 原少佐は、2月19日夜第3中隊の一部を救援に出撃させたが、既に殆ど全滅しており船見台に引き上げさせた。2月20日、敵の有力な一部は摺鉢山と千鳥飛行場の鞍部に侵攻し、引き続き西海岸に向けて進んできた。2月21日、適約1個大隊が千鳥飛行場西側から高台に沿って北上を開始したので第1中隊は側背に敵を受け、急遽背面方向に陣地を布いたが裸陣地で地形が不利と判断し、原大隊長は、知名中隊長に命じて速やかに陣地を撤収して大阪山方向に後退を命じた。この結果、米軍が2月22日頃には千鳥飛行場西側から船見台付近の線まで侵攻し、、引き続き元山飛行場西端に攻撃を加え、西地区隊の水際陣地も側背から敵を受ける形となった。ここに至って原少佐は、師団命令により各隊を大阪山に集結させ、所在の独立歩兵第31大隊(岩谷 少佐)第1中隊(坪井中尉)等を指揮下に入れ、主として挺身斬込により侵攻の敵に打撃を与えて大阪山を確保したが、我が方の被害も多くなり兵力は極度の低下した。ここにおいて栗林兵団長は2月26日、歩兵第145聯隊第1大隊を旅団の指揮下から師団の直轄とし、独立速射砲第9大隊(小久保蔵之助 少佐)独立機関銃第1大隊主力(川南洸 大尉)特設43機関砲隊(田村雄蔵 中尉)等の残存部隊も指揮下にいれて挺身斬込により大阪山の確保を命じた。原少佐は残存部隊を大阪山西側に集結して主として挺身斬込肉薄攻撃班を各隊より出撃させ、田原坂、眼鏡岩の線を死守していたが、2月28日には敵の占領するところとなった。原大隊長は2月28日夜、知名中尉に約100名の兵力を以て眼鏡岩を奪還させるために夜襲を命じた。照明弾下、知名中隊は手榴弾白兵戦で敵中に突入して終夜死闘を繰り返し、眼鏡岩を奪還して旅団との連絡確保に努めたが衆寡敵せず(人数の少ないものは、人数の多いものに勝ち目がない)殆ど全滅して奪還は不成功に終わった。原少佐も重傷を負い、3月2日には大阪山の一角が的に占領され、第1大隊は玉砕した。第145聯隊本部関係及び第2大隊(聯隊長:池田増雄大佐、第2大隊長:安武末喜 大尉)は、師団の直轄として為八海岸台上より師団司令部の愛段位置し、師団司令部の直接援護に任じていた。2月26日、独立歩兵第311大隊長 辰見 少佐が戦死し、大隊が壊滅に瀕したので師団命令により西地区隊も併せて指揮し、残存者を逐次標流木に集結させ、北地区の防備の強化を図った。3月5日頃には大阪山が敵の手に陥ち、米海兵第5師団が大阪山~西海岸からテーブル岩~北部落に対し攻撃を開始してきた。来れに対して旅団砲兵第3中隊(松原一雄 中尉)の山砲及び野砲第2中隊(里中忠吉 中尉)の残存火砲を以て反撃しつつ、夜間は切込隊を以て北複郭陣地を死守したが、兵力は漸減し3月13日頃には東、南、北の三方から北部落~為八、標流木に圧迫されて包囲されるに至った。3月14日、池田大佐は涙を呑んで連隊旗を奉焼して連隊本部を混成第1旅団工兵隊の地下壕に移し、前線から後退の残存兵を為八及び標流木に集結して斬り込みを続行し、必死に師団司令部を援護して敢闘した。3月17日夜、栗林師団長以下、市丸利之助少将等が司令部地下壕を脱出して合流し、第2大隊を基幹として連隊本部直轄各隊及び師団から合流した各部隊の残算者、海軍等約1000名を誓いを利用して、複郭陣地に配備し持久戦闘を行っていた。当時、米軍は最初に上陸した海兵師団と新たに上陸した守備部隊(陸軍1個聯隊)との交替中で積極的には攻撃しなくなり、対峙したままであった。我が方の守備隊は既に食料、水も尽き、夜間は壕を出て彷徨い、水探しに懸命であり海岸の崖上を兵が三々五々歩き回っていたと言います。聯隊手持ちの食料もそこをつき、最期が刻一刻と迫まる中、栗林師団長はついに最期の総反撃の決断をし、残存兵力約800名を数体に分け、3月25日夜、出撃を命じ、標流木沿いに出撃し、3月26日夜、敵中にと鬱入試、硫黄島における組織的戦闘が終わった。145聯隊本部も師団の出撃に参加したが、途中師団長との連絡が取れなくなり、再び引き返して為八海岸付近の地下壕を転々と変え、連隊長以下本部付きの幹部将校等約20名程は、3月31日夜も尚為八海岸の崖上を行動していたが、その後の消息は定かでない。最後まで池田大佐と行動を共にしていた野砲大2中隊長里中忠吉 中尉は、4月3日頃兵数名と為八海岸で行動中であったようですがその後の消息を伝える生還者がいない。このようにして硫黄島で唯一軍旗を持っていた現役部隊は玉砕した。 指揮官:池田増雄 大佐 総員 :2,727名 戦死 :2,565名 生還 : 162名 出身地:大部分は鹿児島県、九州各県この奥にコンモリとした緑が見えますが、月下美人の群生地の一つです。外周道は比較的広い道路ですが、移動訓練に来ていた隊員の運転する車が夜、月下美人を見に来てこの地で脱輪したことがありました。何故・・・? どうすれば脱輪するの・・・・?この下をとおり海岸近くの崖上まで行ってみましたが、厳しい状況でした。岩を利用した壕等が散在しており、米軍の不発手榴弾を見つけては白いテープでマーキングして不発弾処理班に連絡していました。ピンと握り部分の部品は腐食してなくなり、衝撃を加えると爆発しそうな状況です。今日は長くなりました。キーボードと叩きながら改めて硫黄島戦を勉強しています。英霊を月下美人が慰めているような島。それが硫黄島なのです。
2007年10月29日
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(硫49 師団通信大本営宛発信所)台風一過、風弱く、青空です。最高気温も20度の予報があり、過ごしやすい一日になる予感・・・!今日の写真は師団通信大本営宛発進所「第109師団通信隊大本営発信所(この奥70米)」です。壁画を過ぎて病院壕の南西側の出入り口に建っています。病院壕は研修者案内で何度も訪れましたが、壕へは行く機会がありませんでした。ジャングル活動は、壕が崩れて穴が開いていたり、ジャングル内で方角がわからなくなる為に単独行動は禁じられていました。GPSがあれば迷う事はなくなると思いますが、穴や枯れ枝と思っていた物が実は当時の鉄筋だったり、不発弾があったりと危険が存在するのです。米軍の手榴弾は結構見つかります。見つけた場合は、テープ等でマーキングし、常駐している不発処理班に通報するのです。大物では1トン爆弾もあります。兎に角単独行動はしないほうが良いでしょう。説明は体験記88 (左)森田部隊を参照して下さい。
2007年10月28日
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(為八海岸)今日、4枚目の写真は為八海岸です。前に紹介した、師団総出撃壕や衛生隊壕、補給中隊壕はこの台上に展開していたのです。この場所に来るためには、師団司令部前の旧コーストガード跡を北上して、左前方に見える岩の間の道路を来ます。バギーカーを借りて来るのですが、岩の間の道路が狭く、坂が急なために恐怖心が湧きます。最初に来たときには、海まで落ちるのではと思ったほどです。見てのとおりの断崖絶壁であり、南の敵とだけ対峙すればよく、天然の要塞のようです。ここで一人静かに太平洋を眺めていると、「ゴロゴロ~」という音を聞こえてきて、「やばい・・・・! 雷雨がくる~・・・!」と思いますが、空はどこまでも青空が続いています・・・・?????その音は空からではなく、海岸から聞こえてくる、太平洋の荒波に石が洗われる音なのです。ここは波の音と石が洗われる音しか聞こえない別世界です、当時、この台上では生死を賭けて壮絶な戦闘が行われていたのです。祖国を守るために戦った将兵。でも未だ1万を超える遺骨がこの島に眠っているのです。私は全島が慰霊の地であると思います。それが硫黄島なのです。
2007年10月27日
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(硫48 歩145衛生隊壕群)今日3枚目の写真は、(正)歩145衛生隊壕群「(正)歩兵第145連隊衛生隊壕群(この奥70米)」です。 衛生隊長 松崎 新一 大尉 詳細は不明です。(左)歩145補給中隊壕「歩兵第145連隊補給中隊壕群(左斜め奥100米)」ジャングル状態であり70メートル、100メートルの近場と思われるかもしれませんが、GPSでもないと迷子になってしまいます。かつて50メートルくらいの所で上司と迷子になり、漸くの思いで道路に出たら入った場所から20メートルの所でした。ということで、この付近には入りませんでした。非常に詳しい人に同行するか、道らしき所を進むしかないのです。後ろの黒い管は燃料用。更に後方に太平洋が見えますが、断崖絶壁の「為八海岸」があります。4枚目の写真に為八海岸をアップします。
2007年10月27日
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((正)歩145野砲2中隊陣地及び壕)為八海岸の写真をアップするために続けて書き入れています。今日の2枚目の写真は (正)歩145野砲2中隊壕及陣地「歩兵第145連隊野砲大隊第2中隊陣地及び壕(この台上)」この先の戦史記述に出てきます。(今回は略) 右上の島全景の矢印付近です。 (左)師団法務部壕「第109師団法務部壕(北東200米先)」 法務班長 吉岡 忠 大尉 詳細不明
2007年10月27日
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(右)師団防疫給水部壕もうすぐ8時というのに、空は低い雲や、大きな雲に覆われて薄暗い。関東地方は台風の影響をうけるとか・・・!キーボードと違う音がすると思ったら、雨が降ってきた。外での活動はできそうにない。今日の写真は昨日と一緒ですが、(右)にある師団防疫給水部壕「第109師団防疫給水部壕(右斜め下150米)」です。この隊は、雨水を唯一飲料水としていた将兵にアメーバ赤痢等の伝染病が蔓延したために軍医部より分離して防疫給水の任にあたりました。米軍上陸後は師団司令部に合流して司令部付近の配備につき、直援部隊で斬込隊として出撃し、3月15日頃までに殆ど全滅しました。師団司令部地下の天然壕に濾過装置が横たわっています。以前にも書きましたが、ドラム缶に雨水をため、水を汲むときは淵を「トントン」と叩くとボウフラが一気に潜り、その瞬間を上澄みだけをくみ取るのだが、サビのにおいがきつかったという。 指揮官 上床伝 軍医少佐 総員 64名 戦死 59名 生還 5名 出身地 全国
2007年10月27日
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(硫46 師団総出撃壕歩145兵中隊)何故か、今朝は目覚めが早い。東の空が白々と明けていく様は久しぶりに見た気がする。昨日までの隣家のシルエットと朝日が照らすキラキラ感とは異なり、本当に夜が明けるといった光景である。たまには早起きしてみるのも良いもんだ~! と思うときである。今日の写真は(正)師団総出撃壕歩145兵中隊「第109師団総出撃後歩兵第145連隊工兵中隊(この奥150米)」です。左右にも碑文があります。(左) 混一旅工兵隊壕「混成第1旅団工兵隊壕(この奥30米)」 後日紹介(右)師団防疫給水部壕「第109師団防疫給水部壕(右斜め下150米)」 後日紹介既に合流していた海軍司令部(市川利之助 海軍少将)及び師団司令部要員、各隊の残存者等約800名を従えて、22時頃壕を脱出し歩兵第145連隊本部のある混成第一旅団工兵隊壕に向かった。最初に辿り着いたの地下壕は工兵隊壕ではなく、145連隊の負傷者で充満していた天然号と付随して造られていた地下壕で、栗林中将等の同行の将校は地下壕に入った。天然壕内では若い軍医が重傷者を処置しながら「学校では命を助けることは教わったが、命を取ることは勉強しなかった・・・・・・」とつぶやいていたといいます。同行した将兵を収容仕切れずに、一部は元の師団壕や田の部隊の壕に身を寄せて3月18日の日中潜伏を続け、夜、工兵隊壕に移動して、歩兵第145連隊本部と合流した。3月18日以降、栗林師団長は師団司令部、海軍司令部、歩兵第145連隊本部及び145連隊第2大隊(安武末喜 大尉)、その他各部隊の残存者等約3000を標流木為八海岸台上の錯雑とした地形に配置し、最後の複郭陣地として持久戦態勢を布いた。この地区は地隙岩間が入り組み、地下壕も適当に散在しいる。また、背面西側の海岸は20~30mの断崖絶壁で直下まで海である。(為八海岸の写真は後日アップ予定)北側は、北の鼻まで岩山や谷が重なりあっている硫黄島唯一の防御最適地で、南面での持久戦には都合が良い地形である。(凄い深い谷間に野砲が落ちていて、車輪は半分壊れていたが砲は上空を向いていた。谷間に入ったら台地に登るまで急斜面を四苦八苦する羽目になった。カメラを持っていなかったので、後日再散策して探したが場所を特定できなかった。)この頃の米軍は、海兵隊と陸軍との交替で兵力が減少しており積極的な戦闘を仕掛けてこない状況にあった。しかし、守備隊は毎夜間挺身斬込隊を出撃させていて、兵力は漸減していた。食料、弾薬は使い果たし、水に至っては夜な夜な右往左往して遠く北の鼻、温泉浜まで出歩く状況であったといいます。米軍の積極的な攻撃がないまでもこのままでは自滅してしまう状況にあり、栗林師団長は、3月25日を期して最後の総出撃を決意するのでした。大須賀少将、市丸少将、高石参謀長、池田連隊長、中根参謀等、戦闘可能な将兵約800名を数隊に分けて、為八海岸より標流木汗顔沿いに大阪山西側から元山飛行場、千鳥飛行場の米軍主陣地に対し出撃した。幸い敵の抵抗も少なく西部落付近まで進出した。この地の米軍莫舎を奇襲攻撃し、手榴弾、白兵戦闘で米兵約170名を殺傷する戦果を上げ、余勢を以て大阪山西側を突破して一挙に元山及び千鳥両飛行場に突入した。当時、千鳥飛行場には相当数の敵機が進駐していた模様だが殆ど玉砕したために戦果はふめいである。この3月26日の総攻撃を以て硫黄島における組織的な戦闘は終わりをつけ、敵上陸以来物量を誇る圧倒的な米軍の海、空、陸からの猛攻に対し、終始敢闘し続けた栗林兵団は玉砕したのである。栗林兵団長は、この総攻撃には高石参謀長、中根参謀と共に常に先頭に立って指揮を執り、大阪山西側の敵陣地突入直前に右大腿部に重傷を負い、司令部付き曹長に背負われて指揮していたが、、既に最後のときが来たことを悟り「兵団長の屍は敵に渡してはならない」と、後の始末を頼んで高石参謀長等と共に自決し、壮絶な最期を遂げた。遺体は司令部付曹長以下が埋葬したということである。また、この出撃に参加して唯一生還された独立混成歩兵第17連隊通信隊の小田静夫曹長の証言に拠れば、市丸海軍少将の指揮する一隊は大阪山より敵の間隙を突破して元山から東海岸まで進撃し、米軍のトラック群を奇襲し、手榴弾等で約30両を破壊したが、敵機関銃の掃射を受けて殆ど戦死したといいます。3月17日兵団出撃の際、偽司令部として壕内に残留した岡少佐以下の守備隊は、壕口の監視が厳しく外界との連絡も取れず立て籠もっていたが、兵団命令により司令部に合流するために、3月24日夜半を期して重傷者を除く約80名で出撃したが米軍の一斉掃射を受けて壕を出ることができなかった。3月25日夜、再度分散して脱出したが、壕口近くで殆ど全滅し、岡少佐も壕脱出直後に戦死した。今別府少尉等30余名の負傷者は4月中旬まで踏みとどまっていたが殆ど自決した。司令部壕に入ると迷路が続き、出入り口が方々にあることがわかります。(現在は、入り口は1カ所です。)司令部壕は掘った壕と天然壕を繋いだものです。機会があれば壕内の説明をしたいと思います。壕内に入るときはいつも「合掌」してからでした。平和の有り難さを思い出させる島。それが硫黄島なのです。
2007年10月26日
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(兵団副官部及び軍医部壕)今朝も抜けるような空です。眠い・・・・・!平均時間以上は寝たと思う。昨日は自分で生活リズムを変えてしまったのだ。何とかリズムを取り戻さなければ・・・・・・・・・・・!硫黄島体験記も友好道路と外周道の西側に突入です。後日、標流木海岸を紹介します。今日は、兵団副官部及び軍医部壕「第109師団副官部及び軍医部壕(この奥30米)」です。師団司令部壕とは繋がっていますが、今は司令部壕内に「危険立ち入り禁止」の表示があります。昭和20年3月17日、兵団司令部地下壕を脱出にあたり、岡少佐と一部兵力をこの壕内に残して偽電を発進し、司令部転進の欺瞞を図ったところです。硫黄島戦の最終段階ですので、戦史の概要を書きます。連戦を続ける各部隊も兵力が減少し、北地区に合流するように命じられた戦車連隊も3月15日頃には極度に兵力が減少し、敵の包囲網を突破することができずに全滅した。日本軍は北地区の兵力を残すのみとなった。更に師団に合流して司令部の測背に布陣していた独立歩兵第314大隊も3月15日頃には壊滅状態となり、師団司令部は敵の包囲するところとなった。師団高射隊は全弾を撃ち尽くして全員敵中に斬り込み玉砕した。師団司令部に集結していた混成第1旅団工兵隊(宮崎円少尉)の残存者や前線より後退してきた兵及び師団直轄の各隊をまとめて、司令部付きの大沢金男大尉、下林知生中尉、管隆正中尉の指揮する3個中隊を臨時編成して司令部壕周辺に配置したが、3月17日頃までに斬込手榴弾戦等で殆ど全滅した。ここに至り、栗林中将は歩兵第145連隊本部及び第2大隊が確保している為八海岸台上の複郭陣地での持久戦を企図し、3月17日夜に大本営に最後の訣別電報を打電して脱出するのである。今は壕の案内碑があり、綺麗に整備されているが、壕内には当時を物語る遺品等が残っており、一歩道路を外せば当時の地形がそのままです。当時を色濃く残す島。それが硫黄島なのです。
2007年10月25日
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(17-3大隊機関銃中隊)今日は寝不足です。午前1時過ぎから階下で「ワンワン、ク~ン」の連続で、階段を下りていっては怒ったり、なだめたり・・・!怒られてシュンとして寝たふりをするのだが、しばらくすると「ワンワン、一人にするな~!」の繰り返しである。妻が起きて行って朝まで添い寝したとか・・・・!やばい・・・・! もう少しで遅刻するところだった。今日の写真は「17連隊第3大隊矢野中隊」の写真です。貨物廠壕の写真があると思っていたのですが、ありませんでした。貨物廠壕の北の鼻寄りにこの壕がありました。温泉浜から北の鼻~旧CG~付近を散策しているときに、左上の掲示物を見つけて探した壕です。以前、遺骨収集が行われた場所らしく、道路がついていました。島内は至る所を歩いたつもりでしたが、この壕は初めてであり、知らないことが多かったと思います。台風が直撃して崖崩れが生じて、その結果発見された壕もありました。知っているようで知らない島。それが硫黄島なのです。
2007年10月24日
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(硫44 混2旅司令部及び中迫3大隊全滅の地)夜が明けるのが遅くなりました今朝は目覚めが早く起きてしまいましたが、既に妻と愛犬は散歩の準備中でした。夏の時期は既に明るく、眩しい東の空も、今は太陽の気配もなく、薄暗い。日々、夜が長くなったことが実感した朝です。今日の写真は、混二旅司令部及び中迫三大隊全滅の地「混成第二旅団司令部及び中迫撃砲大三大隊全滅の地(この下一帯)」です。3月9日夜半、中迫撃砲第3大隊長 小林 孝一郎 少佐は決死救援隊を以て敵中を突破し、旅団司令部壕内に閉じこめられていた千田少将以下司令部及び安荘少佐等を救出した。その後、大隊宿営地の神山海岸台上の地下壕に移動して栗林師団長の再三の要請で北地区に合流を企図し、まず東山に向けて3月13日夜東海岸沿いに北上するが、3月15日に東海岸の天然壕で敵に発見され、千田旅団長、堀大佐、、山田少佐等司令部要員は殆ど全滅した。重傷を負った安荘少佐は3月13日夜、同行を断念して神山海岸で自決している。その他の旅団長と別行動の残存者は、東山付近に転進し、同地区の地下壕でゲリラ戦等を行い、多くは戦死した。混成第2旅団司令部 指揮官 千田 貞季 少将 総員 218名 戦死 204名 生還 14名 出身地 関東中迫撃砲第3大隊 指揮官 小林 孝一郎 少佐 総員 403名 戦死 367名 生還 27名 出身地 関東
2007年10月23日
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(硫43 師団野戦貨物廠壕)今朝は抜けるような青空です。隣家の延長線に太陽があり、家々のシルエットや朝日が当たっている家はきらきらと光って綺麗です。昨日は家の中でも寒さを感じ、書斎でもストーブをつけました。娘が妻の誕生日の前祝いをするということで、食事に行くことにした。数百メートルの距離だが、どうも風邪をひきそうな気配がしたので車で行くことにしたら、「軟弱者」扱いにされてしまった。寒さが気になる今日この頃です。今日の写真は「師団貨物廠壕」です。この碑には複数記されています。(左)師団通信隊壕「第109師団通信隊壕(この奥100米)」島内の有線通信は艦砲射撃で寸断され、小型無線は敵の電波妨害でしばしば通信不能になり、通信網の確保に奮闘した。米軍の上陸後は、第一線部隊の情報及び指令の伝令に活躍した。3月に入り米軍が北地区に接近するや挺身斬込隊にも参加し、3月9日までに大本営通信担当の土田英司少尉以下十数名が戦死し、3月15日頃までに中隊の兵力は半減し、通信機も多くは使用不能となった。3月17日、大本営に対し最後の訣別電報を送り、通信機を破壊して本土との通信を絶った。大本営はこの日を硫黄島玉砕の日とした。3月17日夜、師団の出撃に際しては、川合昌一軍曹の1個分隊5名を残して司令部の存在を誤認させるために偽電波を発信させた。森田隊長以下の残存者は師団出撃に参加し、3月25日夜半父島の派遣司令部(堀江芳孝少佐参謀)に「師団長以下敢闘中高石大佐」との最後の電報を発して斬込隊として出撃玉砕した。 指揮官 森田 広吉 中尉 総員 64名 戦史 59名 生還 5名 出身地 全国(右)独歩14大隊戦闘指揮所「独立歩兵第314大隊戦闘指揮所(この奥50米)」 後日紹介(正)師団野戦貨物廠壕「第109師団野戦貨物廠壕(右と同一壕)」 壕写真は後日紹介予定師団の貨物補給に任じ、船舶工兵と協同し、父島からの輸送に奔走した。制海、制空権を失ってからは食料の確保が困難となり、ついに12月から各部隊主食の定量を減量せざるを得ない状態となった。米軍上陸後、3月1日には書類通貨等を消却し、3月5日には地下壕を東地区より移動してきた独立歩兵第314大隊に明け渡し、師団司令部に合流した。以来、師団司令部の直援部隊に編成され、切込隊等に出撃し、3月13日までに殆ど全滅した。 指揮官 中村 初五郎 主計中尉 総員 73名 戦死 56名 生還 17名 出身地 関東、東北
2007年10月22日
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(北の鼻入り口)朝早くから階下から「クーン ~、ワンワン」と愛犬が呼んでいる。「うるさい、もう少し寝ていろ!」と一喝したが、しばらくするとまた繰り返すので、散歩に連れ出した。新聞配達のバイク音に異常に反応し、消えた街角を目指してリードをグイグイ引っ張る。そういえば、新聞配達のバイクの音やJP職員にもしっぽを振りながら興奮して近づいている。何なのだろう・・・?秋空だが空気はめっきりと冷たくなり、ストーブのスイッチを入れてしまった。スキーに没頭していた頃は、降雪が待ち遠しかったが、年齢を重ねるにつれて「寒い・・!」「雪はスキー場だけにしてくれ・・・!」と勝手なことを思ってしまう。紅葉真っ盛りだが、これを過ぎると長い冬を迎えるかと思うと気が重い。沖縄勤務時、1年目の紅白歌合戦は扇風機(クーラーは2年目以降)を使用し、2年目はこたつに入りストーブをつけていた。硫黄島勤務の時も、1年目は半袖、2年目はその上にジャンパーを着用していたことを思い出した。人は環境に慣れるのでしょうね。でも、やはり冬は嫌いで~す。(春よ来い、早~やく来い・・・の心境です。)今日の写真は、北の鼻の入り口付近です。台上は比較的平坦になっていますが、ご覧のとおり低木とトゲのある雑草に覆われ、短パンではあちこちに擦り傷を残してしまいます。壕の中は何もありませんでした。岩の上はどうなっているのだろうと言うことで、壕の横を登りました。足場が悪い。木、草等の障害物が多い。四苦八苦して登り詰めたのですが、その前方はジャングル状態で進むことを諦めて、別ルートで下りましたが、登り以上に苦労しました。諦めずに進んだ場合、混成第二旅団司令部や中迫撃第3大隊が全滅した地に至るのです。外周道路に建つ碑には、「全滅の地、この下一帯」と記されています。最後の砦、北の鼻。師団司令部に合流しようと転進してきた部隊にとって、あと数百メートルというところで全滅したのです。地熱、地形の厳しさを今も残す島。それが硫黄島なのです。
2007年10月21日
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(温泉浜~北の鼻方向)夕べ雨が降っていて道路が濡れている。先ほど犬と散歩してきたが、八甲田山方向には雨雲があり、低い雲が西から東へと流れている。やりたいことが沢山あるが、今日はOB会の理事会があるため、午後から時間拘束される。家族はハロウィン行事に参加するとかで朝から騒いでいる。もう少しするとお坊っちゃま(愛犬:Mダックスフンド)の通院の時間ですのでその合間にキーボードを打っています。早速、今日の写真は「温泉浜台上から北の鼻方向」を見たものです。この位置から北方向を望むとかなり緑が多くなっているのがわかります。一面にゴツゴツした岩で形成され、人が入らない分、道路はトゲのある低木で覆われています。当時は、遺骨収集等で木々を払いのけていたので道路とわかりますが、今はどうなっているのでしょうか?ここから少し進み、左側には岩を削った防空壕みたいなものがあります。次回はその写真を用意したいと思います。開発の手が入らず、当時の姿を残す島。それが硫黄島なのです。
2007年10月20日
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(温泉浜)午後から風が強くなってきた。夜には雨が降る予報であり、雲の色、厚みも増して来たようです。今、犬の名前を金属プレートにエッチングして、生徒さんが帰りました。我が家の愛犬も手術をしてカールを首に巻いていますが、元気いっぱいで動き回っている。Mダックスフンドを「ミニチュア」と思っていたら、ドンドン大きくなるではないか。動物病院で先生に冗談交じりでミニチュアの「M」ではなく、ミディアムのMですと言ったら、「たまにいますが、これが元々の大きさですよ。」「人間が無理に小さくしただけです。」との返答があった。中途半端な大きさになりつつある、我が家の愛犬です。今日の写真は、温泉浜の台上に降り立ち、昨日の方向を撮影したものです。右から伸びる影は、同行したI1佐の陰かもしれません。一風、賽の河原を思わせるような光景ですが、今も変わらないと思います。研修時には絶対に行けない場所であり、勤務者でも余程の事がなければ散策しないでしょう。かつては温泉でもあったのでしょうか?貴重な体験ができる島。それが硫黄島なのです。
2007年10月19日
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(温泉浜)放射冷却で朝は大分涼しくなっていた。むしろ寒い・・・!今日は市嘱託の不法投棄監視パトロールに出かけた。最初のポイントで見慣れないものがあるではないか・・・・?破れた袋からピンク色した臓器が見えている・?????????同行した課長補佐は「内蔵が見える」の言葉で近づこうとしない。結局、清掃センター経由で警察に通報して確認して貰った。結果は、頭部が発見されて土佐犬と判明したが、誰が、どうして・・・・?????少なくてもペットであれば丁重に葬るだろうに・・・!余り、気持ちの良くない一日のスタートでした。今日の写真は、「温泉浜」です。ご覧のように一面白い部分は他の所より温度が高い部分です。隆起しているようです。以前にも書きましたが、戦闘で負傷した当時の兵隊さんだった人は昼は壕に隠れ、夜海水で消毒したと言っていましたが、その壕は海面近くにあったと証言していました。正面下の方に見える壕を確認に行った人がいます。一人入れるくらいでしたが、こんな目立つ位置に壕を造った訳ではないと思います。多分隆起の仕業でしょう。次回は、この台上に下りた写真を予定しています。隆起と沈降を続ける島。それが硫黄島なのです。
2007年10月18日
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(温泉浜台上付近)午後から愛犬(Mダックスフンド)が手術をした。全身麻酔をされるときは心細さに満ちあふれた眼をしていた。麻酔を終了したのを見届けて帰宅したが、どうしているかと気にかかった。預けてから4時間後に迎えに行ったが、麻酔から覚めて元気そうだった。しかし、家に帰ってきても本来の騒がしさはない。帰宅した娘が「人間でも麻酔から覚めたと言っても半覚醒状態の人もいるよ。」との言葉に、正に言葉を発することができない愛犬にとってはその状態であったのかもしれない。妻と交互に抱いていて、少しは落ち着いたようだが、今夜は一緒に付き添って寝るという。いつもは五月蠅く感じるのだが、シュンとした態度と若干たれ眼で見上げられるとかわいそうでもある。今日の写真は、温泉浜台上付近である。外周道路の海側にこのような道路がある。前方を行く二人は、隊司令のI1佐と戦史を勉強していたK1尉です。日中は日差しが強いことから帽子と水は必需品であり、道なき道を歩くためにズボンと長袖は欠かせません。二人の鞄の中身は、水、線香、懐中電灯、長い紐、サバイバルナイフ又は雑草、低木を切り開くために鎌が入っています。この日は、藪等に入らないとの約束で歩き始めたのですが、守られた事はありません。この先は箱庭浜に出て、その先が北の鼻ですが、道路が雑草、トゲのある低木で覆われていて、四苦八苦しながらの散策となりました。当時の将兵もこのような絶壁と海まで続く崖の間に作られた細い道を使用していたのでしょう。昨日も書きましたが、このコースは歩くしかない場所です。そして、戦局が厳しくなり、米軍を避けて師団司令部に合流するにはこのような道しか残されていなかったのです。それでも、待ち伏せされて全滅の状況に置かれたのです。単に硫黄島に行ってきた、勤務したで終わらせないで、戦史を読み、自分の足で戦跡を回って如何に祖国防衛のために生死をかけて戦い抜いたのかを感じて欲しいと思います。今、海上自衛隊の給油に関し国会で論戦中ですが、テロ防止のために国際貢献することも日本を守ることになると思います。自衛隊は平時にあっては、戦争・紛争・平和を脅かす行為から事前防衛する事が重要な任務です。勿論、有事には矢面に立って戦いますが、戦争にしないためにも、国際貢献や外交が必要なのです。福田総理が野党の質問に何度も答えて曰く、「何度お答えしても結局は反対なんでしょう・・?」と・・・!祖国のために生死をかけて戦った旧軍将兵が今の世を見て、何と思うでしょう?戦績を歩いた写真を見ると、そんな事を考えてしまいました。60年余過ぎて弾痕等が残り、当時を偲ばせる島。それが硫黄島なのです。
2007年10月17日
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(箱庭浜台上 重機関銃)今日も秋空の朝を迎えた。この頃、やりたいことが多くなってきた。知り合いも若い頃から色々な分野で活躍したが、今でも新分野に興味を持って勉強している。その御仁曰く「新たに何かをやろうとするときは、両手に抱えている少なくとも一方の手にあるものを手放さないと手に入れることができない。」なるほどな~!今、4つの事を平行しながら、曜日と時間を変えて仕事をしているが、皆中途半端な気がする。従業員を雇用するまでもないしな~・・・・・・!今日の写真は、「箱庭浜台上 重機関銃」です。台上の掩体壕と思われる窪地に放置してあります。かつてはピカピカに磨かれていたであろう重機関銃も風雨に晒され、過ぎゆく年月とともにご覧のとおりになっています。米軍は1日の戦闘で数十メートルしか進軍できなかった日もあったと言います。メートル単位の土地の奪い合いに日米将兵の血が流されましたが、攻撃する側も必死、ましてや周囲を囲まれ脱出もできない日本将兵の心中は如何に・・・!この銃器を使って必死の思いで戦闘したことでしょう。この写真を見た皆さんはどのように感じたのでしょうか?60年以上が経過しても鮮明に当時を物語る島。それが硫黄島なのです。
2007年10月16日
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(箱庭台上~千鳥温泉)今日も青空の一日です。OB会々員のうち6名が防衛功労で叙位叙勲されます。 おめでとう・・!永年にわたり危険業務に従事した功績によるもので、瑞宝双光章、瑞宝単光章に叙されますのでお祝いのレタックスを出しました。始めてレタックスを使用するために、「料金はいくら・・?」で調べてからJPへ行きました。叙勲日まで時間があるので、窓口で「3日前までなら多少安くなりますよね?」と聞いたら、「その制度はなくなりました。」との回答でした。インターネット検索で調べたら確かに割り引きサービスはあったのに・・・・!郵政公社から「JP」に移行したらサービスもなくなるの・・・・・・?事務局長からの指示でJPレタックスを利用したが、なんか釈然としませんでした。調べればもっと良い方法があったのではと思っています。今日の写真は、箱庭浜の台上から千鳥温泉方向を見た写真です。前方にポヤッと白い煙が見えるのが千鳥温泉で、海上にみえるのが馬背岩です。右側(北側)に段々状の台地がわかると思いますが、それぞれの段を師団司令部に合流するための部隊が転進していたのです。写真を撮った位置に到達するには、細い道を通らなければならず、バギーカーでは一寸危険かもしれません。この先の温泉浜以北は道はあるものの雑木と雑草に覆われて歩いて進むしかない状態です。バギーカーは諦めて、一日かけて歩きましょう。当時の将兵は、敵の攻撃を避けるために、戦傷病者を抱え、夜中に粛々と進んだに違いありません。しかし、そこには米軍が待ちかまえており、殆どが戦死したのです。荒涼とした台地ですが、撮影現場までの一歩一歩が本土を護る最後の砦として戦った将兵の汗と血がしみこんでいるのです。火山活動で多少形が変わっていると思いますが、厳然として残る戦場。それが硫黄島なのです。
2007年10月15日
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(千鳥温泉台上)今日もすっきりした青空ですが、空気は冷たいです。ここから見える八甲田連邦でも初冠雪があったと放映されていました。紅葉の赤と雪の白とのコントラストが綺麗で、ロープウエイで上った環境客は寒さに震えながらも喜んでいました。今年は紅葉を見に登山しようとしていましたが、雑用が多く実現が難しそうです。暖かくなったり寒くなったりを何度か繰り返し、収穫の秋を終えると北国の厳しい冬に突入していくのです。今日の写真は、「千鳥温泉台上」です。昨日の場所を90度右に向くとこのような光景を眼にします。白い部分は周りに比べて温度が高い所です。荒涼とした景色ですが、敗戦が濃厚になり、南の部隊が師団司令部に合流するために転進する際に通った地域です。もう少し北に行くと箱庭浜に出ますが、この間で上に陣した米軍からの攻撃を受けて司令部と合流する前に全滅してしまいます。後日紹介しますが、師団司令部壕に行く前に、「混成第二旅団司令部及び中泊撃砲大三大隊全滅の地」の碑があります。この台上を散策すると当時の兵器の残骸や砲弾の痕跡を眼にします。硫黄島で勤務する人でも余り足を運ばない地域ですが、戦史を読んだ後には行ってみたら如何でしょうか?戦史に書かれている状況がそのまま手つかづで残る島。それが硫黄島なのです。
2007年10月14日
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(千鳥温泉から南方向)今日も青空が広がり気持ちいい朝を迎えています。昨日は稚内で初雪が観測され、その寒気が下りてきたのでしょうか家の中でも肌寒さを感じます。夕べは知り合いが大型のソイをつり上げたので刺身にしてご馳走してくれるというので、いそいそと出かけました。居酒屋の大将が料理してくれたのですが、コリコリとした歯触りでとってもおいしかったです。最後はみそ汁にしてくれたのですが、出汁が良い具合に出ていてこれも美味しかった~!これらの刺身等は、同席したお客さん全員に振る舞われ、皆さんも喜んでいました。「儲けよりお客さんの喜ぶ顔が見たい。」との大将のお言葉でした。今日の写真は、「千鳥温泉から南方向」を見たものです。手前のえぐれている部分から押し寄せる波が水蒸気となって吹き上げるのです。火山活動が続くこの島では、隆起と沈降が繰り返されていて、この付近は隆起している場所です。この後方に箱庭浜というところがあり、付近に展開していた当時の兵隊さんは、「10m位は隆起したな~!」と感慨深く話されていたことを思い出します。写真を見ても白く見える岩は隆起した痕なのではないでしょうか。左は外海で波を防ぐものは何もありません。この付近で釣りをする人は、両手で抱え上げるほどの魚を釣っては、男料理で晩酌をしていました。晩酌というより、各部屋(全員個室)持ち回りの宴会かな?ネオン街とは一切関係のない、仙人みたいな生活ですのでこれを楽しめない人は島の生活は苦痛かもしれません。島で勤務を希望する人は、何でも良いので絶対に趣味を持って行くことです。南の島で日本の国益を護るために黙々と勤務する防人達。そして未だ帰らぬ旧軍将兵の眠る島。それが硫黄島なのです。
2007年10月13日
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(千鳥温泉?)今日は風があるが良い天気です。先ほど犬の散歩をしてきました。散歩がいやなのか所々で立ち止まり、リードで促すと歩き出し、走り出すと追い越していく。四つんばいになったと思ったら、「黄色い奴」が出てきた。ティッシュペーパーでくるんで容器に入れたが、周りには「乾燥した奴」がゴロゴロしている。皆、「奴」の回収容器を持って散歩しているのに、この光景は何・・・・・?飼い主のモラルが問われる。今日の写真は、日迎浜にある「千鳥温泉」です。地図を見ても千鳥温泉の地名が出ていない・・・?写真の記録には確かに千鳥温泉となっている。在任中に「あそこは千鳥温泉という。」と聞いて鵜呑みにしていたのだが、本当だったのだろうか・・・?兎に角、誰が何と言おうと写真は「千鳥温泉」であるが、平成温泉のように自然の温泉を楽しむことはできません。水蒸気が吹き出ているが、淵まで行ってみると半円形で大きく剔られ、5m位垂直になっている。その下には、30~40cm位の丸い石がゴロゴロし、石の間から水蒸気が出ている。石もかなり熱くなっているらしく、押し寄せる波で写真のように水蒸気を上の方まで押し上げる。周辺の地面も熱気を感じるが、風向きを考えて接近しないと蒸し風呂に一気に入れられた状態になるので注意をした方がいいですよ。この台上は一番低いところにあるが、中段、上段と台上が形成されており、敗戦の状況が濃くなり、兵団司令部に集結する部隊が通った地域である。この台上を歩くと焼夷弾と思われる残骸や、砲弾の破片、岩に打ち込まれた砲弾の跡等を見ることができる。今も火山活動を続ける島。戦争の痕跡を残す島。それが硫黄島なのです。
2007年10月12日
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(銀明水)今朝、天気は晴れで最高気温20℃まであがる予報であったが、一寸肌寒さを感じた。昼前には暑くなり一枚脱いでしまった。寒いのか暑いのか・・・?りんご、柿が店頭に並ぶのをみると秋であり、涼しい空気が支配する時間帯が増えてきたのが実感できる。今日の写真は、「銀明水」です。間違って「銀名水」と書いた所は訂正です。この場所は、西大佐碑を背に悪路(バギー利用をお奨め)を北東に進むと左側にポッカリと口を開けて迎えてくれる。前回の焼骨した場所を東に向かい、急な崖を下るとほぼ同じ位置に来ることができますが、危険防止の為にはお奨めできません。川や井戸がない硫黄島にあって、下からの水蒸気が岩の上部で冷やされて水滴となって落ちてきて、唯一真水のとれる所です。しかし2万を超える将兵の喉を潤す量は到底作れません。落ちてくる水滴を手に受けて舐めてみましたが余りおいしいとは感じませんでしたが、何もない当時の将兵には貴重な水滴となったと思います。銀明水の横では地熱が高く、水蒸気が今も吹き出ています。時間の余裕のある島内研修時に訪れる事があります。今の硫黄島も大部分の生活水は駐機場(エプロン)に降った雨を濾過して使用しています。昔も今も水の有り難さを身にしみる島。それが硫黄島なのです。
2007年10月11日
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(遺骨収集)朝夕の空気がひやりとしてきた。八甲田連邦もそろそろ紅葉の季節を迎えようとしている。しかし、車でラジオを聞いていたら、今年の紅葉は猛暑でかなり遅れるらしい・・・?温暖化の影響だが、そのうちクリスマスと紅葉の時期が同じになるのでは・・・?との観測もある。早急に対策を講じないと海に沈む国も出てくる。今日の写真は、平成13年度に実施した遺骨収集作業です。銀名水の上段付近に舗装された地域がありますが、多分、米軍建物の土台部分ではないかと思う。遺骨収集は、年度によって異なりますが、各方面からの聞き取り調査等に基づき、収集可能性が高い地区から実施しているようです。よって、隣接する地区が継続して遺骨収集現場になるということはありません。御遺骨は、長年土に埋もれているために土色に変色し、もろくなっているので注意をしながらの作業となります。収集された御遺骨は、後日、この場で荼毘に付されます。井桁に組まれた木の上に安置され、慰霊を行った後に火が放たれて炎と共に白骨化していくのです。焼骨した次の日に収骨します。帽子をとって黙々と素手で収骨しているのは当時の硫黄島基地隊司令「I」1佐です。収骨した御遺骨は白い絹の袋と段ボール箱に収められ、遺骨収集団が宿泊しているNLP宿舎に安置されます。NLP宿舎は米海軍の夜間離着陸訓練用に建設された建物ですが、訓練のない時は、このような使い方もされているのです。遺骨収集団が離島するときは、一人一人の胸に御遺骨が抱きかかえられ、硫黄島在島の隊員が一列に整列して挙手の敬礼で見送ります。遺骨収集団が飛行機に搭乗し、離陸と共に整列している全隊員が「帽振れ~!」の号令と共に一斉に帽子を振り御遺骨と最後の別れをするのです。これらの遺骨は入間基地経由で千鳥ヶ淵に安置されます。(20代の頃、桜咲く千鳥ヶ淵で行われた慰霊祭に参加したことを思い出します。)灼熱の地で家族のため、国のために戦いを繰り広げた将兵が漸く内地に帰還できたのです。ですが、まだ1万を超える将兵が硫黄島で発見、収集されて帰還できる日を待ち続けているのです。遺骨収集団員の高齢化が進み、かなりきつい作業になっています。一日も早く、少しでも多くの将兵の遺骨が内地に帰還することを祈るばかりです。
2007年10月10日
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(これまでの紹介位置)今日、無事に書類を提出できました。長~い作業でした。今後は、今月下旬のヒヤリングに参加し、結果は11月下旬にでま~す。一段落しましたので、硫黄島紹介を再開します。黄色でマーキングしてあるところが今まで紹介した概ねの位置です。道路、建物、地形がはっきりしているところはマーキングし易いのですが、写真が不鮮明の所は記憶による位置ですので、間違っていた場合は、ご免・・・・!です。明日から戦史と共に硫黄島を紹介します。
2007年10月09日
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申し訳ありません。指定管理者に応募するためにPCと脳ミソに汗をかきながら毎日を過ごしております。書類提出が終了するまで休刊します。再会の折りに、またおいで下さい。待っていま~す。
2007年09月21日
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(硫38 硫警北地区砲台群)「クーン、クーン、キャン」今朝は階下の犬に起こされた。ミニチュア ダックスフンドのつもりで購入したが、大きさからは普通の犬ジャン・・!当初体重は4.7Kgだったのが、家族が「大きくなった」「重いよね~」の言葉に計測したら、何と5.9Kgもあった。食事は教わってきた以外には食べていない筈だが・・・・?運動量が多いし、筋肉も付いてきた。今は、妻が散歩に連れ出して静かである。今日の写真は、「硫黄島警備隊北地区砲台群(この奥一帯)」です。(右)「硫黄島警備隊北地区砲台群天山機銃砲台」硫黄島には基地を基点に反時計回りで1Km毎に標識(鉄棒)がある。かって道標の位置を確認(約何キロ、道路の左右?南北?)しながら歩いたが、その記録を失ってしまったようだ。この道標の東側は、日迎浜~双子岩で銀名水までは至って居ないと思う・・・?背後のジャングル一帯に布陣していた部隊の戦闘記録は不明である。 指揮官 板橋 音丸 大尉 天山15糎砲台 天山短12糎砲台 銀名水機銃砲台 天山機銃砲台 北地区12糎高角砲台 古山機銃砲台 北の鼻機銃砲台 射撃用電波探信儀 北地区探照隊
2007年09月19日
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(硫38 独迫1中隊壕)青森、秋田、岩手は大雨に見舞われた。岩手県 北上川の近くに住んでいたことがあるが、増水する恐ろしさは体験した者でなければわからないだろう・・!床下または床上浸水すると、水道水と違い乾きが非常に遅いと感じる。洪水注意報が出ている地方の方は注意して下さい。今日の写真は、「独立迫撃砲第1中隊壕(この奥80米)」です。滑走路の延長戦から少し北側の外周道東側にある。この部隊は、独立混成第17連隊第3大隊(下間嘉市 大尉)に協力し、師団の直轄として主力は天山付近から箱庭浜東海岸方向に布陣していた。(後日、箱庭付近の写真をアップします。)2月19日の米軍上陸に始まり、千鳥、元山飛行場から元山に侵攻すると、下間部隊が北飛行場に主陣地を変換した。それに伴い、砲陣地を南面に変換して、北飛行場に侵攻する敵に対し、下間部隊及び混成第1旅団工兵隊主力(宮崎少尉、石坂少尉)の戦闘を支援し、3月10日まで敢闘し、全弾消耗した。それ以後は斬込隊として師団の左翼、北飛行場に出撃しつつ、残存者は北地区に後退し、独立歩兵第314大隊に合流して敢闘し、運命を共にして玉砕した。 指揮官 山根 繁夫 中尉 総員 139名 戦死 129名 生還 10名 主審地 関東
2007年09月18日
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(硫22 歩145-3大隊壕群(右9・左7中隊)前線と台風の引き込みで未明より雨です。今日は、指定管理している「ミスビードル広場」でジャズコンサートが開かれる予定がある。広場活性化のための野外コンサートだが、、昨年も雨で舞台のセッテングに苦労したことを思いだした。2年連続の雨である。今年は別件で手伝わないが、中止する勇気も必要である。「行け、行け、ドンドン」が良いとは限らないぞ~!今日の写真は、「歩兵第145連隊第3大隊壕群(右第9中隊、左第7中隊)」です。日出浜から西大佐碑を経由して、また外周道路に戻りました。第145連隊第3大隊は、師団直轄旅団の予備隊として東山一帯に大気し、2月19日の敵上陸と共に、上陸地点に挺身斬込隊を出撃させて、独立歩兵第309大隊を支援した。しかし、23日には南地区隊が玉砕し、敵は海兵第3師団を中央に地熱ケ原から元山飛行場に侵攻してきた。栗林師団長は玉名山旅団司令部の支援のために元山付近に展開を命じた。第3大隊長は元山付近に布陣の独立速射第11大隊第2中隊、所在の海軍部隊を併せ指揮し、第7中隊を元山海軍砲台付近に、第8中隊を二段岩に、題意隊本部第9中隊及び歩兵砲中隊を秋葉山に配置した。元山飛行場に侵攻する敵戦車一個大隊を含む海兵約一個師団を邀撃し、同地区に支援出撃した。戦車第26連隊第1中隊及び野砲中隊主力と協力して二段岩一帯を確保して、速射砲、野砲で敵戦車に攻撃をかけ、斬込隊を出撃させて、敵に多大の損害を与えて撃退したが、敵の艦砲射撃で2月26日までに火砲陣地は破壊され、戦車中隊及び戦車の大部分を失ってしまった。二段岩守備隊の独立歩兵第310大隊第2中隊及び救援の第8虫害も大きな損害を受けた。敵は二段岩及び元山に攻撃を加え、2月末までには第3大隊の兵力は急速に低下したが、二段岩には新たに旅団予備隊が来援し3月3日ころまで確保したが、高井中尉の独立歩兵第310大隊は全滅し、救援した長瀬中尉の旅団予備隊も壊滅的打撃を受けてしまった。これより先、元山地区は圧倒的な米軍の攻撃により大隊の兵力は五分の一以下となっていた。大隊長は、戦線を整理し、残存へ威力をもって歩兵砲中隊長(益山大尉)のもとに宮脇中尉、吉田中尉、吉田少尉の小銃3個小隊を臨時に編成して元山砲台硫黄島神社付近の敵に斬込逆襲を行ったが、殆ど未帰還となった。27日に旅団長は第3大隊を旅団長の指揮下に入れたが、既に木下中尉以下80名に減少していた。第3大隊長は、元山地区を放棄し、残存兵を木下中尉に指揮させて玉名山旅団司令部に合流したが、兵力は50名程度となっていた。以後、旅団司令部の壕から斬込隊として敢闘したが、3月8日の旅団総出撃には敵砲火が激しく、出撃を断念して千田少将以下は地下壕に立て籠もった。3月9日夜、中迫撃第3大隊の救援隊が敵中を突破して旅団長以下を神山海岸に救出したのに同行したが、第3大隊長は既に重傷を負っており旅団の北地区転進に同行できず、3月13日夜、神山海岸の中迫野営地で自決し最後を遂げた。師団長は安荘大隊(第3大隊)の敢闘に対し感状を授与した。旅団長に同行し北地区に転進した残存者は、東山の宿営地に辿り着いたようだが、3月15日頃までに旅団と共に玉砕した。 第3大隊長 安荘 憲瓏 少佐 同 7中隊 柳 義明 中尉 同 8中隊 長瀬 三男 中尉 同 9中隊 木下 一雄 中尉 同 歩兵砲中隊 益山 薩雄 中尉 独立歩兵第309大隊 粟津 勝太郎 大尉 独立速射砲第11大隊 野手 保次 大尉 同 第2中隊 金井 正人 中尉 第145連隊 指揮官 池田 増雄 大佐 総員 2,727名 戦死 2,565名 生還 162名 出身地 大部分:鹿児島 外:九州各県
2007年09月17日
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(日出浜海岸2)PCの前だけだと目が疲れ、偏頭痛までしてくる。山積する問題、打ち込まなければならないデータ。昨日は、8時間のPCとの格闘戦で「目の疲れ」でリタイヤ・・!みんなで「今日は休もうね」と言ったが、別件で午前中作業をすることとなった。「疲れたー」といってゴロンとしたら、もう夕方である。時間の経つのが何と早いことか・・・・・・・!今日の写真は、「日出浜海岸2」です。この写真も沖縄出身 G さんが撮ったものです。その後に情報を得、G さんに誘われてこの木を見に行きました。この木がある崖の上からのぞき込みましたが、長く、しっかりとした木でした。硫黄島ではこのような木は存在しないし、台風等の余程高い波でないと持ち上げられそうにない代物です。岩に挟まれた正面にポツンと見えるのが金剛岩です。距離感と隆起の凄さがわかる一枚です。今も活動を続ける島。それが硫黄島なのです。
2007年09月16日
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(日出浜海岸から)今日のブログは夕方になってしまった。指定管理者への道のりは遠い。朝から作業をしているが、遅々として進まない。目の疲れからか頭まで痛くなってきた。今日も短めです。今日の写真は、「日出浜海岸」です。この写真は沖縄出身の G さんから提供されたものです。(Gさん、使わせて頂きま~す。)いつもはこの台上の黒い砂地をバギーで来ます。隆起と浸食でこのような景色になってしまっています。始めて G さんに案内されて来たときには崖の上からの高さに一寸ビビッてしまいました。正面右に柱が映って居るのですが確認できるかな~?面白いものがあるよ。との誘いで来ましたが、「何で~!」と思う程長~い、本当に長~い木が岩に斜めに寄りかかっていました。余程の高い波でなければなしえない光景でした。明日はまた別角度からの写真の予定です。
2007年09月15日
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(日出浜台上より)おはようございます。コメントなし。今日は早速写真掲載です。この写真は、金剛岩から日出浜の黒い砂の上をバギーで走っていって撮ったものです。この写真には苦い思いがあります。帰りにバギーのエンジンが始動できなくなり、歩いて帰り、救援を求めました。炎天下、歩くこと2時間。救援者と共に再度ここに来て、始動一発。 OK・・・・!実はバギー毎に微妙な特徴があったり、始動方法が異なっていたのです。その日はこの写真で終わりました。非常に疲れた思いだけです。
2007年09月14日
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(金剛岩~日出浜)今日は疲れた~!明日は、ブログと格闘している暇がないので、写真をアップしておきます。西大佐碑の海側にある金剛岩から日出浜方向を撮ったものです。金剛岩の周辺は赤茶けていて温度の高い事がわかると思います。その向こう側が日出浜で、波打ち際から5m~8m程の砂大地になっています。砂は真っ黒で徒歩で1kmも歩くとかなりのダイエットになりますが、島民は廃車バイクを器用に組み立てて使用しています。空自には4輪バギーがあり、燃料代有料で使用する事ができます。このような砂浜を徒歩で探索するのは熱中症になりたい人だけです。大半の島民はガソリンを使用する乗り物を足代わりにしています。半島のように見える先には奇岩がありますが、時間切れです。続きはまた後日。
2007年09月12日
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(金剛岩)今日は空も頭も体も曇天状態です。昨日はず~と机に座り、パソコンとの格闘戦でした。余り無理をするなとの信号か? それとも加齢によるものか?約3週間余り、無い知恵を使わなければならない状況に追いつめられた。今日の写真は、西大佐碑のある海岸線に下り、「金剛岩」です。写真は、西大佐の碑後方から撮ったものですが、この右方向は日出浜へと続きます。西大佐碑は既に掲載していますので省略しますが、その海岸線寄りに黄色い岩が金剛岩です。底辺は約40mあり、表面温度が60~70℃位あり、近づくだけで暑く感じます。昭和60年3月には最高気温125℃を記録しています。勿論、岩の周辺は地面が変色し、周りに比べると温度の高い区域です。西大佐の碑から海岸に下りる所には、人工的に作られた石の列がありますが、陣地を繋ぐ側溝だったと思われます。当時の将兵が行き来した形跡が今も残る。それが硫黄島です。
2007年09月12日
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(硫21 臼砲20大隊本部壕)上空に雲のない朝を迎えた。東の空に若干雲があり、綺麗な朝焼けを醸し出している。赤かった雲が太陽の上昇と共に白くなり、それを背景に鳥が南へと羽ばたいていった。今日は良い天気になりそうだが、プロジェクトの仕事を考えると頭の中は乱気流に巻き込まれた状態である。今日の写真は、「独立臼砲大20大隊本部壕(この上台上)」です。この上の滑走路外周道にはP-2V乗員の慰霊碑「帰心」があるが、壕は滑走路外周道と島内一周外周道間の大きな窪地がある東側台上である。 指揮官 水足 光雄 大尉 第1中隊 西山 茂雄 中尉 南部落北西側 第2中隊 古賀 正浩 中尉 西地区田原坂 第3中隊 大森 清 中尉 東山第2中隊は西地区田原坂に西海岸に向けて陣地を構築し、付近の独立機関銃第1大隊主力と協力して、独立歩兵第311大隊(辰見繁夫 少佐)を支援していた。米軍は予想していた西海岸に上陸せず、第1飛行場(千鳥)、第2飛行場(元山)方向から侵攻してきた。 このため、砲撃ができず、砲の特性上から陣地変換の時間的猶予もなく、一発の射撃できずに砲を破壊して大阪山に後退を余儀なくされた。それ以後は中迫第2大隊長 中尾 猶助 少佐の指揮下で斬込肉薄攻撃で出撃したが次第に兵力を消耗し、3月20日頃までに殆ど全滅した。大隊本部及び第3中隊は、東山に主力で東海岸。一部で元山飛行場に向けて陣地を構築した。大隊長水足大尉は、東山砲兵群を指揮し、独立歩兵第314大隊の戦闘に協力することになっていた。米軍は2月19日南海岸上陸後、第1、第2飛行場方向から侵攻したため、一部の砲で邀撃したが、主力は主として斬込隊に参加して3月5日頃まで陣地で交戦した。独立歩兵第314大隊が3月5日師団命令で北地区に移動後は、西戦車連隊の指揮下に入り、東山各隊と共に同地区を確保し、斬込肉薄攻撃で敢闘した。しかし、東山守備の各隊も兵力を消耗し、3月7日には山頂の一角を占領されて、戦車連隊に合流したが、3月13日頃までに殆ど全滅に至った。 総員 450名 戦死 425名 生還 25名第145連隊が九州で編成されたために、西海岸には、九州の地名が多いです。この碑の少し手前を右に下りると西大佐の碑や銀名水、日出浜に至る。またこの先を行くと「サウナ壕」である。
2007年09月11日
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(硫23 硫警東地区砲台群)今朝は雨の音で起こされたが、東海道新幹線も雨で止まってしまった。水が足りない・・降り出すと大雨になる・・・やはり温暖化の影響ですかね~!今日の写真は、「硫警東地区砲台群(硫黄島警備隊東地区砲台群)」です。左側には「ウ402-7」と記されています。しばらくは外周道を半時計回りに行きます。この碑は、外周道の左側(北側)に立っています。修正:ごめ~ん! 外周道右側(東方向)でした。左側に記されている数字は、部隊名を書かないでも届くように郵便番号だと聞いたことがあります。部隊戦闘の詳細は不明です。 指揮官 伊藤 志五市 中尉 日出浜12糎高角砲台 日出浜機銃砲台 神山12糎高角砲台 神山機銃砲台
2007年09月10日
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(硫20 独速11大隊壕群)昨夜は同期の退官祝いに行ってきた。同期といっても同じ年齢の同期、年齢差のある同期と時期、コースによって異なるが、どの同期も苦楽を共にしてきただけに繋がりが強い。指定管理者制度に基づき、市立図書館の運営管理が民間に委託されることとなった。私が所属するNPO法人が1事業の指定管理業務を実施している。今度もプロジェクトチームを結成して応札することとし、本格的に始動する。このブログを読んでくれている人にお願いです。民間だからできる、こんな図書館運営をしたら面白いぞ・・!とのアイデアがあったら教えて下さい。子供に対する読み聞かせの会や紙芝居等は実施しています。今日の写真は、「独速11大隊壕群(独立速射砲大11大隊壕群(この奥100m)」です。また、島内一周の外周道に戻っています。この碑は外周道の北側にありますが、滑走路外周道と島内一周外周道に間にある窪地に展開していました。大隊本部第1中隊は元山南側東西の線に布陣し、2月25日以来、元山飛行場に戦車1個大隊を先頭に侵入する米海兵第3師団を歩兵第145連隊第3大隊(安荘少佐)、戦車第26連隊第1小隊(鈴木大尉)、第3中隊(西村大尉)と戦闘を繰り広げました。特に26日、27日両日は至近距離から敵戦車に直撃弾及び肉薄攻撃等で死闘を繰り返し、数両を撃破したが、多勢に無勢、火砲の殆どを失った。安荘大隊残存者と合流、28日には旅団司令部に合流して玉名山周辺において旅団の直援として夜間斬り込みに出撃し、3月5日頃大隊長ので大尉、林原中尉以下玉砕に至った。第2中隊は元山より元山飛行場北側の線に布陣し、第1中隊と連繋して2月25日元山飛行場に侵入の米軍と戦闘し、戦車中隊及び野砲と協同して阻止し、2月27日まで秋葉山~二段岩~飛行場東側を確保し、侵入する敵戦車数両をかく座炎上させる成果を上げ一旦これを撃退したが、戦車砲と火炎放射等の反撃を受けて2月28日には殆ど玉砕した。残存者は大隊本部と共に旅団司令部に合流し、3月5日頃までに夜間斬込隊として出撃し玉砕した。第3中隊は大隊右第1線として元山飛行場西側~舟見台一帯に布陣し、2月22日以降、千鳥飛行場より侵入する敵戦車1個大隊を独立歩兵第309大隊第3中隊(佐藤敦郎中尉)、機関銃中隊主力(阿部武雄中尉)、歩兵砲(37粍速射砲)の1個小隊(松戸中尉指揮下)と協力して攻防戦を展開した。しかし、次々と艦砲射撃、戦車砲で陣地が破壊され、2月24日夜には肉薄攻撃で敵戦車軍医突入して殆ど玉砕した。残存者は、玉名山または大阪山の他部隊に合流して戦闘を継続したが、3月5日頃までに全滅した。 指揮官 野手 保次 大尉 第1中隊 林原 栄蔵 中尉 第2中隊 金井 正人 中尉 第3中隊 岡田 春人 中尉 総員 262名 戦死 246名 生還 16名
2007年09月09日
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(硫30 設営隊壕群)台風一過スカッとまではなっていないが、清々しい朝である。中層雲が風に運ばれ東の方に流れ、雲間から太陽がでている。プランターが倒れ、土がはみ出した程度で殆ど実害がなかった。今日の写真は、「設営隊壕群(第204設営隊壕群)(東側窪地一帯)」です。イメージがつかみにくいと思いますが、滑走路外周道、空自エプロン(NLP格納庫)の東側にある道標です。滑走路外周道と外周道(島一周の道路をこのように記しています。)の間には大きな窪地がある。この窪地に多くの部隊が駐屯していたが、設営隊もその一つである。硫黄島にはご存じのように第1飛行場(千鳥)、第2飛行場(元山)があり、海軍は第3飛行場(北)の造成を急いでいた。当時としては珍しく土木機材を保有していた「第204設営隊」の投入が命じられ、将校の飯田大尉、猪狩大尉、本間技術大尉、木下主計大尉、国分軍医中尉、塩沢主計少尉らが着任した。しかし、船で赴任の隊員は7月初めに「大滋丸」「竜紅丸」に乗船したが、父島沖で海没し、工兵250名、虎の子の土木機械を失い、残存兵力はが硫黄島にたどり着いたのは7月半ばを過ぎてからであった。機械を失った設営隊の作業は過酷と極め、病人が続出し、軍医の国分中尉まで内地に後送された。約1,000名の将兵は、元山、屏風~玉名岩にかけて展開していたが、戦闘用の装備は小銃が少なく、数少ない手榴弾と爆雷、鉄や竹のヤリが兵器だった。なかでも多数の朝鮮人出身者と数百人の硫黄島島民は正規の軍人に負けまいと、まともな兵器もないのに勇敢に戦い、爆雷を抱いて戦車に突入して死んで行った。硫黄島で徴用軍属も設営隊には多かった。「兵隊さん達が私たちの島を護ってくれるのです。私たちがやらないでどうしますか。死ねば故郷の土になるだけです。」島民軍属はこう語って続々と斬込隊に志願し、夜の戦場に消えていったといいます。ある本にも爆雷を抱き、戦車と共に爆死する記述があるが、神風特攻隊だけでなく、地上戦においても壮絶な戦いを繰り広げたのです。 指揮官 飯田 藤郎 技術大尉 総員 1,081名 戦死 1,036名 生還 45名国のため、故郷のため、家族のため、恋人のため・・・・死ねますか?あってはならない、あってほしくない戦争ですが、何かを護るために体をはれますか・・?逃げ場のない狭い島で、必死に戦った将兵、軍属等の声が聞こえてきそうな島。それが硫黄島なのです。
2007年09月08日
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(硫19 混成第2旅団工兵中隊第2中隊壕群)台風9号の影響で風が強く、木々や電線を大きく揺らしている。台風の上陸した関東地方の方は大丈夫ですか?当地はこれから終日影響を受けそうです。又、外周道に戻ります。今日の写真は、「混成第2旅団工兵中隊第2中隊壕群(この奥200米)」です。第15要塞工兵隊と独立工兵第9連隊第1中隊で編成されている。第2中隊(武蔵野中尉)本部:玉名山南側屏風岩東側(鹿島建設宿舎前) 第1小隊(坪井富士太郎中尉):独立歩兵第309大隊に配置 第2小隊(浅田真二中尉)独立歩兵第312大隊に配置 第3小隊(大塚大尉):中隊本部と共に玉名山に配置米軍上陸後の2月22日、南地区の残存独立歩兵第309大隊第4中隊(高城行雄中尉)と共同して旅団司令部(玉名山)南側を確保し、随時南山に侵入してきた敵に対し斬込隊を出撃させた。また、付近の独立機関銃第2大隊の残存者等の南部落に配置されていた各部隊も合流し、3月8日の旅団総攻撃に左第一戦として地熱ケ原(屏風岩の西:貯水池の隣)に夜間出撃したが、照明弾下で成功せず中隊壕に戻った。それ以後は、壕内に立て籠もり4月下旬頃までゲリラ戦を戦ったが、兵力の消耗、火炎放射器による壕攻撃を受けて全滅した。(厚生省原簿による生還者は3名であるが、その数はかなり上回っているという。実数不明)第3中隊は中部太平洋に派遣途中であった満州独立工兵第9連隊第1中隊が混成第2旅団に改編されて玉名山東側光部落に配置されたものである。混成第2旅団司令部及び独立歩兵第310大隊(岩谷為三郎少佐)の主陣地内に主として対戦車肉薄攻撃隊として戦闘した。3月8日の旅団総出撃で斬込隊となり元山飛行場に突入したが、敵の攻撃を受けて殆ど全滅した。以後は、光部落の中隊本部壕に立て籠もり旅団予備隊と共に、4月下旬頃までゲリラ戦を展開し全滅した。(第3中隊も生存者が多いが実数は不明という。) 指揮官:上記 総 員:320名 戦 死:317名 生 還: 3名 (実数は不明)生存者が居るのにどうして3名だけ?という疑問が残る。捕虜になることを恥じた軍人魂があったからだろうか?蛇足だが、遺骨収集に来られた遺族の話によると、米軍上陸前までに一個人による公言できないような私的行為があったととも言う。書くことができな~い・・・・・!立派な軍人であっても戦場心理や死生観がそうさせるのか。「人の振り見て我が身を直せ」そんなことを考えさせる島。それが硫黄島なのです。
2007年09月07日
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(南方空かまど)今朝は雨空で道路もうっすら濡れている。階下が騒がしい。愛犬(?)「チャタロー」がゲージの外で用便をし走り回っている。ミニチュア ダックスフンドとして飼ってきたのだが、一寸大きいぞ・・・?体重4.7Kg、人にすぐになつく。特に、子供と女性。愛猫は18年の天寿を全うしたが、往年は温和しかったな~! が、子供の頃は壁紙をカリカリしていた。躾がしっかりとするまでは仕方がないかな・・!今日の写真は、「南方空かまど」です。本当に南方空の人達が使っていたのかどうかわかりません。案内してくれた人がそういっていました。場所は、病院壕の近くの外周道を左折して3~400m、滑走路外周道の南側窪地です。場所の説明だけでは、単独で行き着くことは難しい。この大きなかまどと大鍋で食事を作っていたのだろう。左上は食器である。先に誰かが訪れたのだろう。食器の下に線香が置いてある。(島内散策の必需品:水、線香)かまどと大鍋が3~4個、浄水器と思われる残骸、食器が確認できた。浄水器は師団司令部壕内に説明付きのものがあるが、形状は同じと思う。この炊事場は屋外にあるが、旧コーストガード近くの壕内でも見ることができる。食器を詳しくは見ていないが、多分、錨のマークがあったはずた。ジャングル、壕内で今も静かに時を過ごす遺品。当時の将兵の生活が感じられる島。それが硫黄島なのです。
2007年09月06日
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(硫18 混成第二旅団野戦病院壕群)気温が大夫下がり、朝寝が気持ちいい。今日は終日降水確率50%だが、雨の降る気配が感じられない。朝寝を楽しみとする私と違い、自分の健康管理のために教育委員会が主催する「歩こう会」メンバーが集団で自宅前の早足で通っていく。硫黄島の体験記を書き続けて「一人相撲かな~?」と思っていたら、読んでくれ、情報を頂いたりと感謝しています。「gsiのOさん」ありがとうございます。今日の写真(道標)は、「混成第二旅団野戦病院壕群」です。この道標は外周道の左側にあり、後方は若干の窪地状になっています。北にある病院壕は海軍ですが、野戦病院でこちらは陸軍です。2月19日の米軍上陸以来、師団直轄として負傷者や赤痢、栄養失調の対応に当たった。南地区隊の負傷者収容のために、南部落北側に混成第2旅団工兵第2中隊壕に前進包帯所を開設し、外科主任の小林中尉以下17名を派遣治療に当たらせた。23日には南地区隊が玉砕し、負傷者も収容不能となったので23日夜病院に引き上げた。3月5日師団直轄から旅団に復帰したが、3月8日の旅団出撃後は各部隊の医務室が合流し、壕内は負傷者で充満した。それ以後は、軽傷者等は病院壕の直接援護に当たらせ、しばしば斬り込み隊を出撃させて4月まで自主抗戦をするが、逐次損害をだし、飲料水の補給もなく、斬り込み等防衛戦で八木徹郎見習い医務官等19名が戦死した。4月中旬、米軍は日本軍野戦病院であることをしり、投降勧告を行い始めた。しかし、投降を心よしとしない強硬派がいたが、和戦のいずれかを選ぶか多数決をもって決するに至り、結果、国際赤十字条例の精神で米側が受け入れることになり、4月17日に収容された。以後、米軍野戦病院の日本軍負傷者の治療にあたり、一部は米軍の説得で沖縄戦の日本人島民の救護のため沖縄に従軍したという。日本軍は捕虜を「恥」としたが、米軍等は一時捕虜になることは、捕虜監視のために敵に戦力分散を強いる。これも立派な戦いかたであり、負傷が癒えたあとは脱走等で戦線に復帰すれば良いとの考え方である。同じ戦場で互いに立派に戦い、負傷した将兵を赤十字精神で受け入れる。同じ精神を日本軍医持っていて、負傷兵を生かすために投降し、その後の医療活動に当たったのだと思う。総員に比べ、生存者が多いのもうなずける。 野口 巌 大尉 軍医 森本 一善 中尉 庶務主任 黒沢 中尉 内科診療主任 小林 正 中尉 外科診療主任 太田 英雄 中尉 薬剤主任 総員 86名 戦死 19名 生還 67名 生死を分ける決断。 それを教えてくれる島。 それが硫黄島なのです。
2007年09月05日
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(硫17 臼砲20大隊第1中隊壕群)昨日のニュースを見ていて「?」と思ったことがある。アメリカの「北朝鮮テロ支援国家指定解除」である。北朝鮮だけが発表しているのだが、これが本当なら日本人拉致問題の進展に問題が出るのではないかと懸念する。アメリカは自分の政権の外交成果を示すために「六カ国協議」「北朝鮮核無力化」を目標にしているために、日本の思惑など度外視している可能性もある。また外周道路に戻ります。今日の写真は、「 臼砲20大隊第1中隊壕群」(独立臼砲第20大隊第1中隊壕群)です。この碑は、外周道の左側に建ち、3m程の崖上は斜面である。第1中隊は2月26日独歩第309大隊残存者で新たに編成された旅団予備隊(阿部武雄中尉)に編成され、光部落の確保と野戦病院の援護に当たった。3月8日旅団の出撃後、光部落には玉名山方向及び神山海岸方向の二正面から戦車を伴う米軍に包囲され攻撃を受けたが、宿営地下壕から反撃して、同地域一帯を確保した。3月10日旅団予備隊出撃後は、野戦病院を含めた宿営地一帯の確保の任に当たり、陣地戦、狙撃で数回米軍を撃退したが、火炎放射等の反復攻撃をうけて3月15日頃には地上を占領されてしまう。阿部予備隊長より、各隊毎分散ゲリラ戦移行の指令を受けた。残存者20数名となり、宿営地の食料、水がなくなったので近くの海軍設営隊に合流して4月末頃までゲリラ戦を戦いながら殆ど全滅した。西山中尉も4月30日頃、壕を爆破されて重傷を負い自決した。 指揮官 西山 茂雄 中尉硫黄島には80を超える道標がある。この道標の周辺は一人一人が本土防衛のために命をかけて壮絶な戦闘を展開した地域である。狭い島内では戦闘をしなかった土地はないと思う。それが硫黄島なのです。
2007年09月03日
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(平成温泉 エンジン)昨日の天気は曇天一時雨であったが、多くに観客が航空祭に訪れた。ビッツの姿が見えなかったが、 米軍機 輸送機、空中給油機、戦闘機、ヘリ 自衛隊機 海自 P-3C 陸自 コブラ、観測機ヘリ、汎用ヘリ等 空自 所有全機種、地上機材等 が展示があった。観客は、通常は見ることがない航空機の飛行雄姿、売店での買い物を楽しんでいた。それにしても基地への交通渋滞は凄かった。娘の友人が来るはずだが、中々来ない。携帯で連絡すると渋滞に巻き込まれて動けないとのこと。裏通りを指示するが来る気配がないために再度電話したら、殆ど動いていない状態であったので、迎えに行き誘導する。通常5分ほどの場所に居たが、あのままでは1時間でも着かなかったろう!夏祭り、航空祭が終わった当地は、収穫期、演習時期を迎えるのです。今日の写真は、「神山海岸エンジン」です。平成温泉から日出浜方向に海岸線の岩場を進むと、漁網びっしりと覆われ、一見何かわからない状態で浪打際にあった。鹿島建設に友人を持ち、その人の情報を元に右下案内人とで行ったが、情報や案内がないと絶対見つからない所である。漁網を少しつつ取り除くこと約40分。エンジンが現れ、大きさから戦闘機のものらしいが、詳しくは不明である。基地に持ち帰る話も出たが、地形、重さから検討するという段階であったので、今でもそのまま残っているかもしれない。少なくとも在任中には回収しなかった。友人の顔に白い線を入れているのは冗談です。この人は硫黄島戦に造詣があり、遺族、慰霊に感謝される一人ではないかと思います。Kさんお元気ですか・・・!見えない所にも戦争跡がある。それが硫黄島なのです。
2007年09月03日
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(神山海岸台上~日出浜方向)今日は航空祭が行われますが、例年十数万人の方が訪れる。今朝の天気は、東寄りの風が吹き、低い雲が東から西に流れている。航空祭の目玉はブルーインパルスだが、この雲だと上昇するとすぐに雲中に入り、観客からは殆ど見えない状態となる。垂直機動は無理ではないかな~?今は一観客として航空祭を楽しんでいるが、現職の隊員は車の渋滞を避けるために6時半頃には出勤が完了しているはずである。でもゲートには県外ナンバーの車が入門待ちをしていて、出勤者を渋滞に巻き込む。今からでは遅いが、一般車両の基地乗り入れは出来ません。(入門出来るのは、赤や黄色で色分けされている招待客車両だけです。)小川原湖畔の臨時駐車場からシャトルバス(有料)で会場に移動する事となります。車両以外の人はメーンゲートから徒歩入門になります。(車渋滞解消にはこれが一番)ブルーインパルスが終了してから帰る人が多くなりますが、基地内で最悪1Km進むのに1時間かかった時が有ります。一時雨が降っていたが、風がやや強くなり一部青空を覗かせているものの、天候は全体的に悪化傾向です。今、天候偵察機が飛び立っていよいよ航空祭の開会です。航空祭の事を書いていて時間がなくなったので今日は風景写真です。神山海岸台上(平成温泉の上)から日出浜方向に向かって撮った写真です。海岸近くは低木が広がりますがそれ以外はジャングル状態です。写真を見ればわかりますが、結構な勾配があり、温泉に入って再び汗を流しながら岐路につくのです。台風の塩害時期を除けば、このように緑に覆われます。戦跡を緑で覆い隠し、平和の尊さを伝える島。それが硫黄島なのです。
2007年09月02日
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(平成温泉)土曜日、小雨、遮光カーテン(快眠)、救急車のサイレンも聞こえない静かな朝です。今は晴れ間が覗きだし、車の流れも出てきたみたいです。ゆっくりとして朝と時間を過ごしています。今日の写真は、「平成温泉」です。島民(自衛官等)は平成温泉と言いますが、別に温泉施設があるわけではありません。人によっては「スパリゾート」と称している人もいますが、写真のとおり、ゴツゴツした岩場があるだけです。その岩場の間から熱水、蒸気が出ていて、海水の満潮、干潮で適度な温水になったところで入浴となります。この為、平成温泉に出かける際は、干満潮時間を把握しておく必要がるのです。念のため、満潮と高波が重なると水没、又は波に呑まれ非常に危険です。逆に干潮に行くと水温が高すぎて足を入れることも出来ません。よって、岩の上でBBQや釣りを楽しみながら適温になるのを待つのです。神山海岸の台上は写真右側でわかると思いますが、10m近く上にあり、米軍が上陸地に選ばなかったのがわかると思います。上陸に適しているのは、摺鉢山から南波止場間(写真右奥)と西海岸付近にありますが、一気に上陸作戦を決行しようとすれば長い海岸線をもつ南海岸しかなかったことがわかります。この岩場の外は海底数百メートルまで一気に深くなっており大きな外洋の魚が釣れ、4~50Cmの魚は宿舎で調理し、長い夜の酒の刺身になるのです。居酒屋も何もない島ですので、自分の酒のつまみは自分で調理するしかなく、必要に迫われて料理を覚える隊員も多いのです。(私は、電子レンジでチーン!が専門です。)内地からの研修者歓迎会に出る料理は、すべて男料理でありますが、これがまたおいしいのです。(魚が釣れない場合は、乾物中心です。)男が料理を覚え、自立する島(?)。それが硫黄島なのです。
2007年09月01日
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(平成観音)暑さも和らぎ日中は過ごしやすくなった。昨夕、窓を開けていたら風が吹き込んで来たが、涼しいというより寧ろ寒かった。処暑を過ぎたら一気に秋へ突入だろうか?でもまだ暑さに耐えなければならない地方もあるが、汗をかいた後にビールを一杯・・・!フ~! 旨い!おつまみに「枝豆」・・・・!私もスーパーで中国産の枝豆を買ったことがあるが、日本で認められていない除草剤の成分が含まれているとのこと。安いといって食を海外に求めているが、生きていく上で一番大事な「食の安全」危険な状態にある。特に、中国産は生活用品(着るもの、料理するもの、食べるもの、おもちゃ等・・)全般にわたり有害物質が検出されており、危険きわまりない。何でもありの中国の意識改革・・・・・? 望めないか・・?その前に輸入業者の検査と水際検査の厳格化を望みたい。今日の写真は、「平成観音」です。ポトス園を通過し歩くこと約10分。ジャングルが切れ、眼前に太平洋の白波が見える神山海岸台上に至る。ここの凝灰岩に立派な観音像のレリーフが刻まれているが、島民(自衛官、鹿島建設関係者)はこれを平成観音(硫黄島観音)と呼ぶ。作者は、防衛施設技術協会の硫黄島統括主任工事監督官として勤務された久保田福治氏である。勤務の傍ら余暇を利用して製作し、平成4年3月に完成した。優しく英霊を見守ってくれている。俗世の娯楽から切り離されて勤務していると、平和の有り難さ、その礎になられた旧軍将兵に感謝の気持ちが湧いてくる。それが硫黄島なのです。
2007年08月31日
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