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今から三年以上前となる 2015年3月14日の夕刻、前回の日記でリンクしたように、かつて一度だけ野崎島に存在する巨石「王位石(おえいし)」を訪れたことがあった。その際に島の八合目に鎮座する「沖ノ神島神社(おきのこうじまじんじゃ)」の社殿左横から、背後に屹立する御神体「王位石」を撮影したものが冒頭画像である。実は現地を訪れた当時、この高さ約24mもある「王位石」の背後に回り込んで、縦長に開いた岩の間から西方の小値賀島方面を映した数枚の画像があった。それらの画像の中で、縦長の空間を真っ直ぐ覗いて前方を映した画像が下である。すると驚いたことに、その岩間の前方に浮かぶ島こそ「納島」であり、この納島にある標高約63mの山頂が、「王位石」が形成する岩間のほぼ中心にあることが分かった。つまり「王位石」は、「納島の山頂(祭祀場)」を意識して、古代人によって意図的に設営された石組みと推測できるのだ。加えて、上の地図において「王位石」と小値賀島の「愛宕岳(標高85m)」を結ぶ青色の軸線が、現在の東西線として緑色で引いた軸線より、「王位石」を要として時計回りに約一度の傾きがあることから、この青線は今から約1,350年前の東西軸だということがわかる。ちなみに、この「王位石」の真下にある「沖ノ神島神社」の社殿が向けられた方位は、この岩間から下方を覗くと少し左に振れていたことから、約1,350年前の東西軸において真西であり、その指標とされた「愛宕岳」であったと思われる。その1,350年前の東西軸たる青線を基準線とすれば、「王位石」と「納島の山頂」を結ぶ赤線が、青線と形成する角度が約14度となり、また「王位石」と小値賀島に鎮座する「地ノ神島神社」を結ぶ黒線が、青線と形成する角度が上と同じく約14度になることが新たに確認できたので、おそらく精確な実地の測量に基づく位置設定であったと推測できる。上の画像は、小値賀島に鎮座する「地ノ神島神社」の東方の海岸に建てられた鳥居から、野崎島の「沖ノ神島神社(御神体 王位石 )」の方面を展望したものだ。(2015年3月15日 撮影)ちなみに、小値賀島の「地ノ神島神社」から対岸の野崎島に「沖ノ神島神社」が分祀されたのは慶雲元年(704年・飛鳥時代)という歴史書の記載があり、それが今から約1,300年前だったことを考慮すれば、社殿が創建されて現在までに、緯度経度が時計回りに約一度の傾きになったという根拠にも成り得るというわけである。 さて、ここからは「宇久島」に舞い戻ることとし、今月は10月21日の朝日を宇久島に鎮座する山本神社の参道から映した画像が上である。20日の朝日も良かったが、有り難いことに21日は早朝から晴れ渡り、素晴らしい曙と眼前に拡がる稀有な展望を体感することができた。まさしく「三度目の正直」とは、このことであろう。そこで下の画像は、前回(9月28~30日の日記)と今回の「宇久島シリーズ」にて何度か取り上げた、「冬の始まり」を告げる「10月23日頃」と「冬の終り」を告げる「2月20日頃」の日昇方位を示す赤線を印した地図だ。この季節の「冬」の期間に纏わる赤色の軸線が、下の地図に示したように宇久島の山本神社を基点とする赤線と、納島の山頂を基点とする赤線と、確実に二本見出せたということは、いかにこの地域において四季の中でも「冬期」を大切にしてきたかを物語る証拠だということがいえよう。そして、この冬期を象徴する赤色の軸線が見出せたことから推理すると、この地域で古代より盛んであった西海地方における「捕鯨の漁期」と重なることから、この(冬の始まりと終わりを示す)赤線は五島列島はもちろんのこと、各地の捕鯨船を束ねていた漁港に近い高台を基点に見出せるのではあるまいか・・・。ちなみに、江戸時代の捕鯨における西海漁場については、東は山口県北西部の見島、北は対馬、西は五島列島の福江島、南は長崎県西彼杵半島の西岸部を範囲とする広大な海域で、多くの捕鯨漁場が点在していたということである。ここで興味深いのは、「宇久町観光協会」の話によると、「野崎参り」と称して毎年の大祭事には、宇久島の港(特定は難しい)から野崎島の「沖ノ神島神社」に渡航し参拝していたという伝承があり、小値賀島から野崎島への祭事のための渡航は無かったということだ。以上の伝承からも、(平 家盛に纏わる伝承も含めて)五島列島の北端となる「宇久島」が、五島全体を治める筆頭の島として、太古から重要視されてきたことがうかがえるというわけである。そして、宇久島関連のもので最後に掲載した上の画像は、そのさらに上の掲載画像(10月21日 撮影)と同じ撮影地から、日の出前の遠方の景色を拡大したものである。この画像の中央部をよく見ると分かるのだが、まるでピラミッドのように尖った山が確認できると思う。ちなみに、その尖った山の左側は平戸島の「屏風岳(394m)」で右側は「浜岳(235m)」だ。「この山は、もしかすると・・・」と思い当たる節があったので調べてみると、この尖った山とは長崎県佐世保にある「赤崎岳(240m)」であった。やはり「赤崎岳」であったか・・・というのも、一つには佐世保港からフェリーで宇久島方面に向かって出港する際に、いつも意識していた特異な山容の山だったからである。☆関連記事・・・五島・中通島に渡る(1)しかし、以下の関連記事に書いたように、天体の地上投影という観点から「ぎょしゃ座」の投影地が「九州島」の全域と想定され、その「ぎょしゃ座」を構成する「五つ星」の一角を担う「θ星」の投影地を「赤崎岳」とする捉え方があり、その「ぎょしゃ座 θ星」の投影地を現地で体感したいとの思いから、2014年11月29日に「赤崎岳」に登拝した経緯があったので、この尖った山を特定できた時の感動はなおさらであった。・・・「宇久島」を筆頭とする五島列島は、「冬の星座」の筆頭を司る「ぎょしゃ座」の、その地上投影地の一角たる「赤崎岳」と繋がっていたとは・・・などと、計三度となった宇久島への渡航の末に、かように強烈な印象を胸中に抱くことになろうとは感慨無量である。☆関連記事・・・秋の周遊 写真集(赤崎岳編)ところで実は現在、福岡市博多区にある「キャナルシティー博多」内の〔無印良品〕の店舗「MUJIキャナルシティ博多」(ノースビル4F)にて、『 宇 久 島 展 』(下の画像・11月4日まで)を開催中だ。そこでは、ウキウキ・ワクワク~!の大自然を直に体感できる宇久島を紹介する新しいパンフをはじめ、同島の観光名所や名産品等を紹介しているので、博多近辺に最寄りの際は訪ねてみてはいかがだろう。
2018年10月30日
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いよいよ当美術展における私の展示スペース(冒頭画像)の紹介となる。展示場所を会場の隅に確保できたことで、数々の造形作品を、より立体的に展示できたと思う。この美術展の告知では、小物を入れて約30点の作品展示と詠ったが、実際に数えてみると計48点で、予想以上の作品数の展示となり自分でも驚いている。今回の美術展のために制作した最新作も数点あり、私の「今」の造形表現が此処にあると言えよう。以下、展示した数々の作品について、焦点を絞り込んで披露・解説していく。まずは冒頭画像の中央手前に並ぶ3つの大きな作品について取り上げてみたい。最初に取り上げるのは、上の画像に映る『金剛(こんごう)』と名付けた作品だ。この同じ長さの軸線(綿棒)だけを用いて、内部構造の安定化に留意し具現化した複合立体は、既に今から10年以上前に完成していたのだが、今回再度の化粧直しをして出品すべく調整している過程で、自身の脳裏に何故か「金剛」という言葉(発音)が聴こえてきた思い入れの深い作品である。次に上の画像は、密教世界において「金胎 曼荼羅(こんたい まんだら)」とあるように、陰陽関係で「金剛」とくれば「胎蔵」が自ずと付随するとの感覚が湧き、上の造形は胎蔵界を象徴する「立体曼荼羅」と感得して『胎蔵(たいぞう)』と名付けた。この『胎蔵』と名付けた造形に関しては、かつて当日記に掲載した「フラワー・オブ・ライフの立体版 !?」の構造に、いわば「不動の中心軸」を加えたものである。そして、上に掲げた「金胎曼荼羅」を象徴するとした2つの立体表現は、「諸刃の剣」とも捉えることができ、その二律背反的な「諸刃の剣」の段階を越えて、陰と陽に分かれる前の「太極」、あるいは陰と陽が融和した「統合」の象徴として、『剣菱(けんびし)』と名付けた作品だ。その名称に「菱」が入っているように、全体として「菱形12面体」の軸線構成となっており、この造形も今回の展示会に向けて制作した新作である。次に冒頭画像にある壁面の向かって右側に展示した作品群が『五星(いつつぼし)』と名付けたものだ。中央の複合立体と、それを取り巻く周囲5つの造形で、計6つからなる作品である。周囲5つの作品一個一個が、補色の抱き合わせとなる2つの正四面体の結合体(星形八面体)であり、それら5つの陰陽和合の星形八面体を統合して「ひとつ」となった形が中央の複合立体であり、全体を構成する軸線は計60本で計10色の色構成による「正12面体」の構造となっている。そして下の画像は、冒頭画像の向かって左側の壁面に展示した『七星(ななつぼし)』と名付けた作品群で、中央の虹色の「立体的七角形」と、これを取り巻く七色を配した七つの正八面体の、計8つの作品で構成されている。ある構成条件のもとに、七つの正八面体を組み合わせると、中央部に集う七つの三角形が絶妙な開き加減の形状として、「ひとつ」になることが分かった造形表現である。平面図形の「正七角形」は、コンパスと定規だけでは描けないとされているが、三次元の立体的発想で七角形の表現に取り組むと、この作品『七星』の中心にある「立体七角形」は、意外に簡単に具現化できることに気付いたのであった。※私の展示スペースを撮影した動画⇒《燦然たるオブジェたち》
2018年04月14日
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つい先日の6月1日、縁あって国東半島(大分県国東町)にある神代文字が刻まれた磐座(ペトログラフ岩)を訪ねた。そこで上の画像は、そのペトログラフ岩の南面に描かれた「岩刻文字(ペトログラフ)」を拡大したものである。この神代文字は、研究者のあいだで「豊国文字」とか「山窩文字」と言われており、縄文系のサンカが使用していた文字ではないかとされている。以下に、各種の関連サイトを参照して、典型的な各行の読み方とその解読を記しておこう。(上の画像の岩面に描かれた縦書きの文字を、向かって右から左へ読んでいく)一行目 ソ コヲヤキ 二行目 ヨ キチホレ 三行目 シ モワトク 四行目 ヒワノカミノリヨ 五行目 シ フキアヱス 六行目 ネ ツキヨタイ七行目 テムダ 全体としての解読は、『この場所を焼き、大地を耕せ。霜害に遭わぬよう太陽神を祀れ。これは不合25代天皇の言葉である。』という意味合いで、「焼き畑農業のすすめ」を記したものとされていた。次の画像は、この同じ磐座の上面(北面)に、南から北に向かって刻まれた神代文字を撮影したものである。現地にて方位磁石で確認してみたが、この15文字が並ぶ方向は正確な南北軸を示しており、その南北の方位を意識して磐座に文字が刻まれたか、あるいはその方位を意識して(既に文字が刻まれた)磐座を据えたことが推察できる。そして、この岩に刻まれた15文字の読み方は「トミアキタラシナカオキテンノウ」とされ、記紀以前の古文書『竹内文書』によれば、神武天皇以前の古代王朝とされる「ウガヤ朝(72代)」における、不合25代の「富秋足中置天皇」の御名に相当するということである。また別の記紀以前の古文書『上記(うえつふみ)』によると、「鵜茅葺不合(ウガヤフキアエズ)の第25代・26代天皇は、皇子たちを世界に派遣し、文字を伝えた。そのおかげで各国に文字が生まれた。」と記してあるそうだ。ここまでの記事だけでも、「古事記」・「日本書紀」のみが日本の歴史書だと信じてきた人にとっては・・・こんな世界があったのか!・・・などと驚天動地の心境になるかもしれないが、これも隠されてきた歴史が表に出てきた一例であり、これからは堰を切ったように「秘められた歴史の真実」が表面化してくることであろう。(※以下の画像は、この日本最大と謳われるペトログラフ岩の全体像を撮影したものである。)
2014年06月06日
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今年の「節分」から「立春」にかけて〔日本列島”岩戸開き”の様相〕と題し、以下にリンクした二編の関連記事を書いた。その後も連関する”気づき”なり展開があったので、(後日談)を書くことにした次第である。まず冒頭画像で取り上げた地図は、以下の関連記事(下)の冒頭画像の地図に、”ある調整”を加えたものだ。その”調整”とは、地図上の〔青の舞扇〕は「禄剛崎(ろっこうざき)」(能登半島の東北端)を便宜上の「日本の重心」として線を引いたわけだが(この件は以下の関連記事(上)でも少し解説を加えた)、その後になって〔国土地理院〕が認定した《正確な日本の重心点(富山県沖の日本海の海底)》を”扇の要”とする〔青の舞扇〕を描いてみたということである。そこで自身の脳裏に閃いたビジョンは、その本来の「日本の重心」を”扇の要”とする〔青の舞扇〕と、「富士山」を”扇の要”とする〔赤の舞扇〕との、言わば〈陰陽の関係〉が形成する【統合の中心】が見出せるはずだという着想であった。※関連記事⇒令和6年2月3日の日記…日本列島”岩戸開き”の様相(上)※関連記事⇒令和6年2月4日の日記…日本列島”岩戸開き”の様相(下)そんな着想から【統合の中心】として見出せた場所が、あの日本神話の”岩戸伝説”で有名な【 戸隠山 (とがくしやま)】だったことに気づいたとき、当日記のタイトルを〔日本列島”岩戸開き”の様相〕と決めた私自身が驚嘆したと同時に、腑に落ちたことでもあった。この信濃国(長野県長野市)にある【 戸隠山 (標高 1904m)】の麓には「戸隠神社」が鎮座しており、当社の主祭神は「天八意思兼命(あめのやごころ おもいかねのみこと)」(以降は「思兼命」と表記)である。以下の関連記事では、”八百万の神々”とは”天空に輝く星々”を意味するとの観点から、「天の岩戸神話」における智慧の神「思兼命」の姿を、天体「おうし座」にある一等星「アルデバラン」を含む「ヒアデス星団」と見立て、神話世界の”岩戸閉め”から”岩戸開き”への展開を〔冬の星座〕を舞台として解説している。☆関連記事・・・星神「アメノオモイカネ」に想いを馳せて・・・☆関連記事・・・3と7だ。それだけ覚えておけ!(2-C)上の関連記事における「思兼命」を”天空の星”に見立てた解説も奥が深いのだが、ここでさらに興味深い伝承として、豊前国一宮の「宇佐神宮」(大分県宇佐市に鎮座する全国八幡社の総本宮)の祭祀を斎行する大宮司家「宇佐氏」の初代「宇佐津彦(ウサツヒコ)」が「思兼命」とされていることを取り上げておこう。◎関連記事・・・「三種の御紋」の統合体!!!◎関連記事・・・〔三部神道〕と「三層構造」の関係性より詳しくは上の関連記事に書いてあるのだが、ここで重要なことは、今年の元旦に起きた「能登半島地震」という現象を深読みすると、これまで閉じていた「岩戸」が開いたことを暗示しており、その「手力男命」の剛力により岩戸が飛ばされて落ちた場所が【戸隠山】であったということ・・・。その【戸隠山】を神体山として祭祀する麓の「戸隠神社」の主祭神が「思兼命」であったことの意味するところは大きいのではないかと思うのである。今、その意味の大きさを私なりに感じるのは、ごく最近の情報によると、”日本神話に登場する智慧の神「思兼命」”は”エジプト神話に登場する智慧の神「トート神」”と、”同じ神”だとする認識が共有されつつあることだ。さらにその「トート神(思兼命)」は、エジプトの三大ピラミッドの建設に関わった”アトランティス人”であり、もっとさかのぼれば「アンドロメダ銀河」から太古の地球に飛来した思慮深い”鳥型宇宙人”という情報さえあり、まさにこれまで”岩戸閉め”により隠されてきた情報が、この度の「地震」という”岩戸開き”により、もの凄い勢いで開示される運びになったと、そのように感じる今日この頃である。☆関連記事・・・新年「開けまして」おめでとう!
2024年05月06日
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先月の末は、縁あって「備前」(岡山県東部)を行脚してきた。山陽自動車道の岡山インターから降りて、まず最初に訪れた場所は、備前国一の宮「石上布都魂神社」(いそのかみふつみたまじんじゃ・岡山県赤磐市石上)であった。※実は備前国には、「一の宮」と伝わる神社が上記の神社を含めて三社ある。他の二社とは、「吉備津彦神社」(岡山市一宮)と「安仁神社」(岡山市西大寺)である。以上の三社のなかで、一般的には「吉備津彦神社」が備前国一の宮とされている。最近のブログにおいて、「剣」にまつわる濃い内容をシリーズで綴ったこともあったのであろう・・・、いかにも迷ってしまいそうな山奥の細い道に内心たじろぎつつも、まるで導かれるようにして上述の式内社「石上布都魂神社」に辿り着くことができた。神社近くの駐車場に停車して、フト時間を見てみると、時計は何と!ジャスト「午前10時」を示していた。この「十」という数は、特に意識してきた数でもあり、またこの神社の祭神が「十拳剣」の御稜威と知っていただけに、これはまさしく「神様のお導き」と実感した次第。麓の駐車場から蛇行した坂道を上り、御神前にて拝礼を済ませた。そして、かつては神殿があったとされる山頂へ向かった。その「大松山」という山頂部に、現在は本宮と呼ばれる小祠があり、これを映した写真が今日の画像である。写真に映った小祠の背後には岩場地帯があり、古代より磐座(いわくら)信仰の遺跡として禁足地とされている。なるほどその山頂部の岩場を見渡せば、おそらくは縄文時代あたりから連綿と、この地域における信仰の聖地として祭祀されてきたのでは・・・と、そんな想いが自ずと浮かぶような、古式ゆかしき佇まいを醸し出していた。さて、この「石上布都魂神社」の御祭神は、現在は「素盞鳴尊(スサノオ)」とされているが、明治まではスサノオが八岐大蛇を斬った「布都御魂(フツノミタマ)」という神剣であったと伝わる。つまり、明治まで祀られていた御祭神の「布都御魂大神」とは、御神体である「布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)」に宿る神霊ということであり、明治以降(明治6年頃)になってから御祭神が「素盞鳴尊」に変更されたようだ。この「剣」は、古事記では「十拳剣(とつかのつるぎ)」と記され、そして日本書紀には「十握剣(とつかのつるぎ)」・「蛇の鹿正(おろちのあらまさ)」・「韓鋤の剣(からすきのつるぎ)」等と記されている。このうち「十拳剣」と「十握剣」は、その剣の長さをあらわす表現とされ、長剣であったことをうかがわせ、また「蛇の鹿正」や「韓鋤の剣」は、朝鮮半島からもたらされた剣ということを意味しているとのことだ。実はこの神社をはじめて知った時にまず驚いたのは、この備前国の「石上布都魂神社」は、大和国の名神大社「石上神宮(別名・石上布都御魂神社)」(奈良県天理市)の元宮とされているということだった。日本書紀によると崇神天皇の時代に、備前国「石上布都魂神社」の御神体の霊剣は、大和国「石上神宮」へ遷されたという記述があり、このことは石上神宮の社伝にも記されているということである。この歴史的経緯を知って、私の心に込み上げてくるものがあった。それは、石見国一の宮「物部神社」(島根県太田市)が、古代氏族「物部氏」の大元とされる根拠地のひとつであり、その後に大和国への氏族の移動があり、現在の天理市にある「石上神宮」を創建することになった・・・。上述した歴史の流れを読み取ると、石見の「物部神社」から大和の「石上神宮」へと物部の氏族が移住していく過程において、その中間拠点に設営した「心の礎」として、備前の「石上布都魂神社」を見出すことができるということだ。(※備前国一の宮「石上布都魂神社」の宮司家は、代々「物部」の姓ということである。)ここでさらに思い出したのは、秋田県大仙市の「唐松神社」である。6世紀の中ごろ、いわゆる蘇我氏の仏教勢力と物部氏の神道勢力との宗教的対立によって、結果的に物部氏の本家は、大和の「石上神宮」から遠く秋田方面まで移動することとなり、居住地を定めて祭祀の場としたのが「唐松神社」ということであった。今から2年前の今頃、数名の知人と共に東北地域を巡った時の最後の訪問地が、その物部氏ゆかりの「唐松神社」であった。幸いにも参拝時には、物部本家の宮司にもお会いすることができ、親しくお話をさせていただいたことを思い出しつつ、日本列島を股に駆けた命懸けの氏族の移動を垣間見る思いがした。ところで「刀剣」と言えば、「備前物」が有名である。往時の備前は全国の約半数近い刀工をもち、平安時代から幕末に及ぶまで多くの名工を輩出しており、その鍛え抜かれた「刀剣」の質の高さは言うまでもない。その全国に名を馳せた刀工たちの心の拠り所が、おそらく備前国一の宮「石上布都魂神社」だったのではあるまいか・・・。歴史を調べると、天武天皇の治世の頃に、それまでの「吉備国」は、「備前」・「備中」・「備後」の三国に分かれたということだ。興味深いことに、この備前の「石上布都魂神社」は、「吉備国(備前・備中・備後)」のほぼ中央に位置する。またここで、大きく吉備国の地域一帯のの特産物を、素材として挙げるとすると「鉄」である。その原料たる「砂鉄」を精錬して「玉鋼(たまはがね)」とし、これを鍛え上げ磨き抜いて、「鉄」の持つ美的な要素を最大限に引き出した「道具(工芸品)」が、日本を代表し世界に誇る備前物の「刀剣(日本刀)」だといえよう。もしかすると、吉備国が三国に分かれる以前は、この「石上布都魂神社」こそ、古代の「吉備」の国域における総鎮守だったのではあるまいか・・・などと、そんな想いがフツフツと湧き出づる今日この頃である。
2008年11月01日
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大本系の神示として著名なものに、岡本天明の記した「日月神示」がある。ところが、最近知り得た情報によって、「大本の正系神示」として『龍宮神示』という書物があることを知った。その情報によれば、この『龍宮神示』とは、大本教の出口王仁三郎より正式に裏神業を継承したとされる「辻天水(つじてんすい)」が、丹後国一宮の籠神社は奥宮「真名井神社」の眷属神たる〔真名井龍神〕より降された神示ということであった。王仁三郎より託された「一厘の仕組み」とは、どうやらこの『龍宮神示』のことらしいのだ。私は未だ『龍宮神示』という書物に触れたことはないが、紹介されたその格調の高い五七調の文体の片鱗を読んだときに、「これだ!」という直観があった。ある意味では、一般に大本の神示を継承するといわれる「日月神示」が、その後の「九分九厘の仕組み」を担ってきたとするなら、『龍宮神示』は最後の「一厘の仕組み」といえるのかもしれない。・・・もし、その「一厘」が動かなければ、それまでの「九分九厘」の段取りは、意味が無くなってしまうということか・・・。さて、そのような感覚で、私は昨年の中盤あたりから、この辻天水の『龍宮神示』を意識してきた、あるいは強く意識させられてきたと言ってもよい。そして今年になってから、さらに驚くべきことを知った。それは・・・その神示を降ろした〔真名井龍神〕とは、〔クナト大神〕だったらしいということ・・・。この〔クナト大神〕とは、古代出雲からの口伝によれば、出雲国一宮の「熊野大社」の真祭神とされ、その神名の「クナト」が訛って社名の「クマノ(熊野)」になったという伝承がある。一般に熊野大社の主祭神は「スサノオ大神」とされている。日本神話では、出雲国において「須佐之男(スサノオ)尊」が「八岐大蛇(ヤマタノオロチ)」を退治する場面がある。その「大蛇」の名前である「八岐」の「岐」は、「クナト」とも読めることから、(この熊野大社における)「クナト」から「スサノオ」への祭神名の変更は、実際にあったであろうスサノオ勢力(天津神系の牛族)によるオロチ(国津神系の龍蛇族)退治という、その歴史的反映と読み取ることもできよう。つまり、古代出雲は龍蛇族の伝える〔クナト大神〕とは、日本神話では〔ヤマタノオロチ〕のことであり、「一厘の仕組み」たる『龍宮神示』を伝えた丹後国一宮の〔真名井龍神〕のことでもあった・・・。日本列島に伝承される思想信仰の根幹に「蛇(龍蛇)」信仰がある。特に漆黒にして光輝を放つ蛇の「眼(マナコ)」が、縄文系譜の「蛇信仰」の対象とされてきたことが伺える。それは、「三種の神器」の一つである『勾玉』の、その穿たれた「眼」と認識することもできる。またそれは、丹後の真名井神社の真祭神たる「真名井(マナイ)龍神」の、その物事の本質を見通す「眼(マナコ)」こそ、龍神の龍体たる「九分九厘」を支えてきた、時代(次代)の方向性を示す最期の「一厘」なのかもしれない。もしかすると、これまでの〔表の仕組み〕の「九分九厘」はとしての「スサノオ大神」が担い、そして最終章の〔裏の仕組み〕たる「一厘」は、秘められしとしての「クナト大神」が担う・・・という采配が、「裏が表になる仕組み」において、それぞれの役割分担としての配役だったのではあるまいか・・・。夜明け前の世界は、漆黒の闇に包まれたかのような、まさに「今」の雰囲気である・・・。しかし、その眼に映りはじめた「一条の光」は、やがて希望の「虹の七色」を放つであろう。☆今日の画像は、「光」という漢字を象徴的にあらわした造形で、七色に塗り分けた「正八面体」の七つの軸線構成を、円環状に組み合わせて表現した「立体七角形」である。興味深いことに、科学的見地からも、実際の「光」の振舞いは、様々な「七芒星」を描くことが観測されている。
2009年01月13日
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昨年の末、私は縁あって、エジプトに行った。10人位のメンバーで約10日間の旅だった。3大ピラミッドをはじめ、屈折ピラミッドなど、カイロ博物館の見学を含めて、古代エジプト時代から現在までの、様々なたたずまいを満喫することができた。そのなかで、とりわけ印象に残った遺跡が、アビドスのオシレイオン宮殿である。実は現場に行くまで知らなかったのだが、その水に浸かった神殿の柱に、かつて見たことのある図形があった。古代神聖幾何学の図形として、スピリチュアルの分野で注目されている「フラワー・オブ・ライフ」の模様である。こんなところにあるわけだ・・・とビデオカメラで撮影し続けたことを思い出す。ここで、この「フラワー・オブ・ライフ」の模様に関して、その同名の書籍である「フラワー・オブ・ライフ」の著者、ドランバロ氏の言葉を引用してみよう。*「フラワー・オブ・ライフ」は、地球の子宮深くに存在し、人類の意識レベルが、まさにそれ自体に、完全に存在を依存している、純粋な意識の枠組みである。*すべての知識が、男性面と女性面の両方で、しかも例外なく包含されている模様。*その一枚の図形の大きさの中に、存在する生命のすべての側面を内包しきっている。*すべての数学的方程式、すべての物理法則、すべての音楽のハーモニクス、あなたのその肉体におよぶまでの全生命についてもです。*あらゆる原子、あらゆる次元レベルで、波動体系宇宙のなかに存在するものすべてが、残らずここに内包されている。以上、書籍「フラワー・オブ・ライフ」・Drunvalo・Melchizedek 著 より。と書籍には、この平面図形に関して、”すごすぎる”ことが書いてあった。このエジプト旅行から帰ってきて、共時性なのであろうか、この図形に強い興味を持つ人との出会いがあり、「この図形は3次元の立体にできるはずだ」という話になった。そして、その人が持っていた葉書サイズのその図形を見ているうちに、「これはできる」という確信がわいてきたのは不思議だった。そして、その翌日には、その図形のそれらしき立体構成の具体化が実現していた。(2005年3月)出来上がったときの率直な感想は、この構造は「音」に関係しており、素材の綿棒の一本一本が、音を出す「弦」ではないかという感じがした。例えば、一本の弦を爪弾くと、それが一瞬にして、その構造全体に響きわたっていくという感じである。そして、さらに時を経た同年の6月に、これと同じ構造を複製する過程で気付いたことがある。それは、この構造は、ドーム型建築やフラーレンで有名な、バックミンスター・フラー氏の研究成果に関連する、という直観だった。フラー氏は、「準正14面体」に関する研究のなかで(この写真の構造も全体として「準正14面体」である)、いわばこの立体構成の一番外枠の結び目の数が、全部で「92」になることに注目していた。(当時のフラー氏が使用したモデルは、球の集合体だったが、写真の軸線構成の構造ともリンクさせることができる。)この「92」とは、天然に存在する元素のなかで、最も大きい元素の「ウラン」の原子番号である。つまり、この写真の構造を、自然に生成する原子をすべて包括する枠組みだと、とらえることができそうなのだ。(あくまでも想定だが・・・)このことは、先に紹介した、ドランバロ氏の言葉にも通じるところがある。私にとっても、久しぶりに「手ごたえ」のある構造表現となった。掲載の写真は平面だが、これを観る人の、それぞれの意識と共振する何かがあると思う。ご照覧ください。
2005年07月07日
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2月25日(2018年)の朝は、松山市高浜の岬にある「白石ノ鼻」の巨石群を訪ねた。その際に映した巨石群のうち、岬の海上に浮かぶ最もシンボリックな磐座で通称「三ツ石(白龍石)」(画像中央の石組み)を映した画像が上である。そして下の画像は、その「三ツ石」を上の画像と同じ角度で拡大したもので、さらに下に続く2枚の画像は、同じ磐座を別の角度から映したものである。そこですぐ下の画像に映る磐座の中央部に、縦に細長い逆三角形の空間が確認できると思うが、この撮影地点から磐座のある方位が真東となっていて、このカメラ目線より少し低い位置にあると思われる「観測台(※)」から上記の逆三角形の空間を見れば、対岸の丘陵から昇る春分と秋分の日の出が観測できるということだ。(※)この「三ツ石」という岩組みを設計する時点で、あらかじめ設定されたであろう天体観測や地文測量をするための特別な場所で、この巨石群のある一帯を調査した研究家が見出したとする観測地点のこと。一見するとこの「三ツ石」は通称通り三つの石組みのようだが、それぞれ別の角度から映した上3枚の画像を見比べればおよそ分かるように、実際には五つの巨石で構成されているそうだ。当日は曇り空だったので見えづらかったのだが、この「三ツ石」近辺からは前日に登った新城山の山頂を視認できるし、逆に新城山山頂からも磐座を確認できるので、おそらく縄文時代より「海と山を結ぶ巨石ネットワーク」が形成されていたものと推測でき、その松山市域における一例を紹介できたものと思う。そして上の画像は「亀石」という磐座で、冒頭の画像の向かって左端にその一部が映り込んでいるのだが、地元の研究家による調査では、上記の「観測台」から見て磐座の下方にある小さな隙間を太陽光が透過する時間があるとのことで、それは夏至頃の日の出約1時間後となるそうだ。その「亀岩」を反対方向から映した画像が下で、ユーモラスな海亀の雰囲気がよく出ている。残念ながら画像では、背景にある山並みが霞んで見えないのだが、肉眼では前日に取り上げた三山の「新城山(標高 161m)」・「腰折山(標高214m)」・「恵良山(標高302m) 」が、およそ等間隔にて左から小・中・大と美しく並んで見えたのは印象的であった。この「白石ノ鼻」の海岸から見て上記の三山の方位は北北東になるので、例えば日暮れの頃に当地の「観測台」から見て、北北東の方位にあって指標となったであろう連なる三山近辺より、北斗七星やカシオペア等の北天を代表する星々が昇っていくことが窺えた。以上のことから、この「白石ノ鼻」に存在する巨石群は、おそらく松山市の湾岸域を含めて、かなり広範囲な磐座ネットワークによる古代人の天体観測や海上交通における重要拠点ではなかったかと、そのように感じたところである。今回の「四国行き」について、当初は高知県の土佐市まで足を延ばす予定であったが、天候や限られた時間ということもあり、結果的ではあるが愛媛県内の古代遺跡を行脚する旅路となった。面白いことに、今回の旅路が「愛媛県」に限定されたことで観えてきたビジョンがあった。それを大局的に県単位で比喩するとすれば、「山口県」と「大分県」と「愛媛県」の三県で【渦巻く三つ巴】の紋様である。次の日記では、上記の【渦巻く三つ巴】から見出せた核心部分を解説できればと考えている。・・・大自然の営みと歩調を合わせつつ、人として如何に安寧な生活を維持していくか・・・かつて古代人が実際に生活の場とした遺跡等の「歴史の現場」を訪ねることで、もしかすると相変わらず自然破壊に突き進む現今の社会生活を、根底から顧みる大切な機会を得ているのではなかろうかと、改めてそのように感じている。
2018年03月08日
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実はこれまでの人生の中で、昨年から今年にかけての「冬」という期間を、これほどまでに意識したことはなかったと思う。思い返せば、昨年の「冬の始まり」の月日と知っていた〔10月23日〕は、まるで導かれるかのように岐阜県下呂市の「金山巨石群」を再度訪れる運びとなり(以下三篇の関連記事)、それ以降は「冬至」を挟んで2月中旬まで自分にとっては濃厚で充実した時間を過ごしていた。そして…このまま春を迎えるのかな…と思っていたところに、「冬の終わり」であり「春の始まり」の節目となる〔2月20日〕を意識しつつ、またまた忽然と「出雲」へ旅立つことになったのであった。☆関連記事・・・【中央】を担う祭祀場を巡る(1)☆関連記事・・・【中央】を担う祭祀場を巡る(2)☆関連記事・・・【中央】を担う祭祀場を巡る(3)そこで冒頭画像は、出雲に向かう道中にて、この冬はじめて積った雪を見たのが嬉しくて、持参した自作の造形(年初よりマイブームとなっている「正12面体」の軸線構成)を雪上に置いて撮影したものだ。最近入手した古代出雲に詳しい書籍(以下に紹介)を参考にしつつ、「出雲」に入って最初に訪れたのは風土記や延喜式に記載の古社「佐為神社」(松江市宍道町白石)であった。(上の画像は当社の入口の風景)社名の「佐為」とは「狭井」とも書き、発音は同じく「サイ」にして、サイノカミの「サイ」であり、現在は「サルタヒコ」を祀っている。下記の書籍によれば、この神社は出雲で最も古くから「サイノカミ」を祀った重要な神社の一つだったということである。※参考書籍・・・書名『出雲王国とヤマト政権』 富士林雅樹 著 大元出版(2019年 初版)この長い参道を含めた古式ゆかしき神社の佇まいに、古代出雲族の息吹きのようなものを感じたので、鳥居から神殿に向かう景色を映した画像を、以下に連続して掲載してみることにした。ちなみに、私が「サイノカミ」の主神たる「クナト大神」を知る契機となり、出雲行脚の際には何度も参拝してきた「出雲井神社」(出雲市大社町修理免)の元宮は、上記の「佐為神社」となるそうである。※関連記事・・・出雲行脚の総集編(6)ここで上記の「サイノカミ」について解説しておきたい。神仏習合の過程で「道祖神」の読みともされてきた「サイノカミ」は、一般に厄災の侵入防止や子孫繁栄等を祈願するために、村の守り神として主に道の辻に祀られている民間信仰の石仏であると考えられている。そこで古代出雲では、前記の解説の原型であろう「サイノカミ信仰」があったことが、上に紹介した参考書籍に記されていたので、ここで以下に抜粋しておこう。・・・出雲王国の国教は、インドから持ってきた信仰が基になった。民族の先祖の霊を守護神として、サイノカミ(幸の神)と呼んだ。サイノカミは、子孫繁栄の神であった。子孫繁栄には、結婚と出産が必要となる。それでサイノカミは、「縁結びと子宝の神」とも言われていた。サイノカミは、三人の家族神として構成された。父神はクナト王の名前を使い、「クナト(久那斗)ノ大神」とされた。母神は「サイヒメ(幸姫)ノ命」と言われた。息子神は、インドの象神(ガネーシャ)の「サルタ彦大神」が当てられた。この三柱の神が、子孫の日本人を守る仕事をすべて分担しているので、出雲族は三柱にちなんで三の数を聖数として尊重した。「三拍子そろって芽出たい」という言葉は、このことから来ている。・・・次に上の画像は、当社本殿の向かって右奥にあった「斎(さい)の木(または、ハバキ)」と呼ばれる神木を撮影したもので、下の画像はその神木にワラで作った龍神が巻き付けられた部分を拡大したものだ。これは「サイノカミ」が宿る聖木信仰であり、この「龍神信仰」についても上の書籍から以下に抜粋しておく。・・・出雲族は、インドのガンジス川にワニがいたことを覚えていた。ワニは怖がられて、川の神に祭り上げられた。同じようにコブラも怖がられて、森の神に祭り上げられた。コブラは尾を切られても再生できる。その再生力も尊敬の対象とされた。その二つの神が合体されて、龍神信仰が生まれた。その信仰を、出雲族が日本に持ってきた。その龍神が、サイノカミの人格神の次に重要な従属伸とされた。出雲族は龍神をワラで作り、木に巻きつけて拝むようになった。そのサイノカミが宿る聖なる木は、「禁樹」とも書かれ、伐るのは禁じられていた。・・・この画像のような、ワラ作りの龍神が巻かれた「斎の木」の信仰形態は、現在でも出雲を含む山陰地方に鎮座する多くの神社境内で見ることができる。今回の出雲行脚において、初めてこの佐為神社(狭井社)を参拝したわけだが、それは上掲画像の長い参道の延長線上に「女夫岩(めおといわ)」という二つの巨石からなる磐座があり、その御神体と思われる磐座を遥拝するように当社が建造されたと推考できることから、その「女夫岩」を訪れる前に当社を参拝したということである。そこで上の画像は、上記の「佐為神社(狭井社)」と「女夫岩」の位置関係を示すために掲載した周辺地図の画像だ。この地図には佐為神社の参道は描かれていないが、その参道まで描かれた地図アプリを参照すると、興味深いことに入口の鳥居から佐為神社までの長い参道を示す線と、佐為神社から女夫岩を結ぶ線が一直線に重なるのであった。ここで注目したのは、双方を結ぶ軸線が形成する方位である。つまり、佐為神社から見た女夫岩の方位線は「冬至の日の入」を示す軸線であり、反対に女夫岩から見た佐為神社の方位線は「夏至の日の出」を示す軸線と読み取れるので、この御神体(磐座)と遥拝地(神社)の位置関係は、縄文系譜の太陽信仰に基づくものと判断できるというわけだ。この現在は「女夫岩遺跡」と称される二つの巨石(上の画像)からなる磐座は、古くから「女夫岩(めおといわ)」または「宍岩(ししいわ)」とも呼ばれ、近くにある「シジミ」で有名な汽水湖の「宍道湖」の名称「宍道(しんじ)」は、この岩神の名前にちなんでいるということだ。さらに参考書籍によれば、この岩神は現在は「女夫岩」と呼ばれているが、元はこの二つの岩を合わせて「女神岩」として崇拝されていたとのことである。またこの女性性を象徴する女神岩は、足が二本伸びているような形状からなる丘の、股に相当する位置に置かれているそうだ。そこで、この「女夫岩(女神岩)」の全体像が分かるよう、上の画像は磐座の正面、そして下の画像からは磐座の斜め前・真横・最上部から下方に向けてと、計四枚の画像を掲載した。ちなみに、この「女夫岩」の南には、この「女夫岩」に向いた「矢」の形状の丘があったそうで、その「矢」は男神を表していたそうである。そして現在は、その「矢」の形状はわからなくなり、「矢頭」という地名だけが残っているということだ。余談ではあるが、ここで思い出したのは、地元は山口市内の山深い丘陵地において、上記の佇まいよりは小さい規模だが、北には同様に二つの岩を合わせ全体として丸く加工したような女性性を象った岩と、その少し離れた南には、まさしく矢のような男性性を象った岩が、まるで陰と陽の相補い合う関係を示すかのように置かれた風情であった。驚いたことに、その南方の男岩と北方の女岩の配置を方位磁石で調べてみると、かなり正確に南北に置かれていたので、その二つの岩が重なって見える更に南方に観測地点があったとすれば、南にある尖った男岩と北にある凹んだ女岩は、古代において精確な南北の照準を定めるための装置としての役割を担っていたと感じられた。おそらくその凹型と凸型の二種類の岩を利用し、「北極星」を視認する照準器としてだけでなく、天の北極たる「北極点」を見定めるための装置として活用していたのではあるまいか・・・。古代の交通は「船」が主流だったことから、とりわけ夜の航海については精確な天体観測が欠かせなかったことであろう。上記の〔出雲〕における「女夫岩」と「矢頭」の関係、地元の〔山口〕における「女岩」と「男岩」の関係は、双方の所在地が海に近い場所ということもあり、上述した内容の可能性が見出せたことは今の私にとって実に意義深い。加えて下記の参考書籍によると(以下に抜粋)・・・後にこの佐為神社の神は、登美家によってヤマトの三輪山に移された。そして、山を拝む正面に大神神社をつくり、その入口に今は「夫婦岩」と呼ばれる女神岩を祀った。それは、出雲国宍道の女神岩と同じ形であった。三輪山の登り口には、狭井神社(奈良県桜井市)が建てられた。狭井神社の近くを流れる川は、狭井川の名がつけられた。・・・かつて一度だけ、奈良県の三輪山に登ったことがあるのだが、確かにその登り口に狭井神社が鎮座し、当社の社務所で許可をいただき登拝した覚えがある。その奈良県の大和は三輪山の麓にある狭井神社の元宮が、島根県の出雲は宍道湖の畔にある佐為神社(狭井社)だったとは・・・歴史の奥深さを改めてしみじみと感じたところである。※参考書籍・・・書名『出雲王国とヤマト政権』 富士林雅樹 著 大元出版(2019年 初版)
2020年03月05日
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翌9月18日、剣山山頂の宿泊施設で迎えた朝は、時折雨戸に豪雨が吹き付ける荒れ模様の天気だった。当初の計画では、一泊した翌日(18日)の早朝に施設を出発、「太郎笈(剣山)」から「次郎笈」へ縦走して「鏡岩」に向かうルートを考えていたのだが、この雨模様では断念せざるをえなかったであろう。登山リフトは9時が始発だったので、ゆっくりと出発の準備を整え、美味しい朝食をいただいた後、雨脚が弱まるのを待って下山を開始した。青天井のリフト経由で駐車場まで、小雨を浴びた程度で済んだのは有難かった。そして身支度を整えて車を運転し始めると、次第に雨模様から曇りとなり、麓に向かって10Kmも走らないうちに晴れ模様になったのは不思議であった。「山の天気は変わりやすい」というが、これほど分かりやすい例を体験したのは初めてである。そこで冒頭の画像は、剣山から北方に降る道沿いの、貞光川上流にある「一宇峡」にて、ヒスイ色に輝く美しい清流を撮影したものだ。さて当日の朝、最初に訪れたのは、古代より阿波忌部氏の根拠地とされ風光明媚な山上集落に鎮座する「御所神社(ごしょじんじゃ)」(主祭神 天日鷲命 / つるぎ町貞光吉良)であった。この「御所神社」は、今でこそ「眉山」の中腹に鎮座する「忌部神社」(徳島市二軒屋町)の”境外摂社”という格式だが、当社の古文献によると、西国随一の格式の大社として「四国一之宮」と称されていたとの伝承が記されている。そこで、かつて名神大社「忌部大神宮」とまで称され、阿波国で最も格式の高かった当社が、なぜ境外摂社「御所神社」とされてしまったのか・・・その簡明な経緯については、以下のリンクに委ねるとして、その原点に関する見解は次項で述べることにしたい。※関連記事・・・忌部神社(Wikipediaより)そういえば・・・ご存知の方もいると思うのだが、四国の山岳地帯を抜ける道路を車で走っていると、本当に今こんな高地に居住しているのかと、思わず疑ってしまいたくなるような山上集落を、「ところどころ」というよりも「ここかしこ」で見かけることになる。昨今の社会生活に慣れた現代人の感覚では、何故そんな不便なところに住むのだろうと理解に苦しむところだが、車の無い昔の主要な交通路は山の尾根筋であり、その幹線路に近い場所に住んでいた方が便利だったということだ。ちなみに昔は、山の斜面の上に住んでいる人ほど裕福だったとのことである。ここで歴史を振り返るとすれば、日本・百済連合軍と唐・新羅連合軍との戦いで日本側が敗れた「白村江の戦い(663年)」の後、国内では「壬申の乱(672年)」を経て皇位を継承したのは、第40代の「天武天皇」であった(673年)。しかし、当時の中国を治めていた唐(618年~907年)が、いつ日本に攻めて来てもおかしくない言わば国家存亡の危機的状況の中で、天武天皇の勅命により編纂された『古事記』や『日本書紀』は、その中国の唐王朝に当時の日本を国として認めさせるための「外交文書」としての性格が強かったのではないかとは、既に多くの思慮深い歴史研究家が指摘するところである。つまり、当時の日本を国家として成立させ、その安寧を維持するために、『古事記』や『日本書紀』という対外政策としての側面の強い歴史書が編纂されたとするなら、やはり当時の日本にとって外国に知られたくない国家機密とすべき重要な内容は書けないので、意図的に封印する必要があったと思われる。おそらく、そのために天武天皇を中心とした皇族たちにより秘密裏に会談された「吉野宮の会盟(679年)」の誓約によって、阿波国にある二社の名神大社のうち、現在の「徳島県名西郡神山町神領」に鎮座する名神大社「天石門別 八倉比賣神社」(現在の「上一宮 大粟神社」)が封印され、また本日の日記で取り上げた、もう一社の名神大社「忌部神社」については、本来の鎮座地である「阿波国麻植郡忌部郷吉良御所平(現在の徳島県美馬郡つるぎ町貞光吉良)」とともに封印されたと考えられるのだ。もちろん他にも、この阿波国に鎮座していた名神大社二社の、本来の鎮座地が不明になった数々の理由が推考されてきたが、今回この二社双方の鎮座地を実際に巡った感想としては、やはりその「封印」の原点は、上記の「吉野宮の会盟」にあったのではないかと感じたところである。※関連記事・・・四国行脚の巻(4)… 式内社「 天石門別 八倉比賣神社 」※関連記事・・・四国行脚の巻(6)… 式内社「上一宮 大粟神社」~「天岩戸 立岩神社」さて、当社を訪れるのは四回目を数えたが、特に今回はこの「忌部 御所神社」の奥宮とされ、阿波忌部氏の古代祭祀場と伝わる「清頭岡(きよずがおか)の磐座遺跡」を探訪してみたいと考えていた。ちなみにこの磐座遺跡は、この度の四国行脚が山岳を含む「磐座巡り」になったことから、事前のネット検索がキッカケで見出すことができ、今回初めて訪れることになった次第。そこで上の画像は、当社の奥宮とされる遺跡の、おそらくは主要となる磐座群を撮影したものである。次に上に並べた三枚の画像は、先に掲げた画像の磐座群の中でも、奥宮の御神体とされる高さ約5mの磐座を、別々の角度と高さで三つの方向から撮影したものである。この磐座の石組み(巨石遺構)は一見して分かるように、巨大な支柱石の上に巨大な天井石を載せた「ドルメン (巨大支石墓)」であり、その下方に映る石組みの佇まいは、二日前に美馬市穴吹町の「神明神社」で見た〔石積み遺構〕と同様であった。※関連記事・・・四国行脚の巻(7)… 「神明神社」~「白人神社」さらに興味深いことに、この支柱石の前面(祠のある面)と天井石が向く方位は、この地域に多く見出される縄文系譜の「夏至の日の出」を示す方位に近いと思われ、実はその方位線上に現在の「忌部 御所神社」は鎮座しており、さらにその夏至方位線を延長した麓に「五所神社」(つるぎ町貞光端山)が鎮座しているのであった。以上のことから、この磐座と二社を結ぶ三点一直線が「夏至の方位線」を示すものと認識でき、この奥宮の御神体である磐座が、太古より毎年訪れる夏至の日に、さらに麓の吉野川方面から昇り来る朝日を浴びて、その威厳を示すかの如く輝き続けてきたことを思うと、この高原地帯に古代より生活を営んできた古代祭祀一族である阿波忌部氏の、卓越した祭祀空間の設営能力を垣間見た気がするのであった。そして上に並ぶ二枚の画像は、前掲の御神体の磐座を中心とする磐座群から、ほぼ真東に向かう長い尾根に沿うように、人為的に配置された磐座群(その長さは優に100mを超えていた)を撮影したものだ。また、この東西に細長い磐座群に寄り添う木々の間から北方を見遣ると、下の画像のように剣山山系の山並みが展望できた。この画像中央部にある双耳峰の凹みの遠方に、阿波忌部氏の心の拠りどころである名峰「剣山」の山頂が存在する。
2020年10月29日
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前回の日記で・・・「シリウス信仰」に纏わる祭祀線が見出せた・・・と書いたが、そのシリウスを祀る中心的な施設と思われる「志登神社」(福岡県糸島市志登)を映した画像が上、そしてその由来が記された石碑が下の画像である。この「豊玉姫(とよたまひめ)命」を主祭神とする「志登(しと)神社」は、古代の「伊都国(いとのくに)」があったとされる糸島半島の中央部に鎮座し、多くは次に紹介する記事(⇒ リンク)のように、年毎の太陽運行を観測する測量地点だったと推測されてきた。ところが今年の春分の頃に、糸島市においては当社と北方の二見ヶ浦にある「夫婦岩」(以下の二つの画像)の二箇所を、夕暮れに間に合うよう短時間で訪ねたことにより、結果的にこの「夫婦岩と志登神社を結ぶ軸線」が、冬至の頃にシリウスが昇る真南から東に約20度の方向を示すことが分かったのだった。・・・この地域では、「太陽信仰」が根付く前に、「シリウス信仰」があったのではなかろうか・・・。またそれと同時に、次に挙げる志登神社の位置を示す地図(⇒ リンク)を拡大していくと分かるように、当社の近辺とその南方に拡がる現在の区画が、まるで上記のシリウス出現の方位を示す軸線に沿うかのように重ね合わせて観えてくるのだった。◎関連記事・・・2007年12月20日 「冬至」に向けて ⇒ リンクこの上下の画像に映る「夫婦岩」は、今でこそ夏至の日の入を示す磐座として有名だが、この二つの大岩の割れた方向を方位磁石で確認してみると、私的にはシリウスに纏わる上記の方位と感じられたので、もしかすると・・・ということでその軸線を南方に伸ばしていくと、予想通りに「志登神社」が鎮座していたということである。現在この二見ヶ浦の「夫婦岩」は、近くの桜井神社の社地として崇敬されているが、この桜井神社の創建は江戸時代の寛永二年(1625年)とそれほど古くないことなどから、往古より糸島の全域を治める祭祀を司ってきた「志登神社」の管轄だったと考えられる。更に後日になって、九州北部における古代の天文・地文に詳しい『 儺の國の星(なのくにのほし)』(真鍋大覚 著)に目を通していると、この糸島地区の旧国名「伊都国」の「伊都(いと)」とは、「シリウス」を意味する旨が明確に記されていたことから、この地域に根付いたであろう「シリウス信仰」は、私の中で確信に至るのであった。前回の日記で書いたように・・・「柱島」と「雷山」を結ぶ縄文時代の南北軸・・・の軸線を踏まえて推考するに、おそらく志登神社の鎮座する場所とは、縄文時代にはシリウスや北極星などの航海の目星となる星々を、古代海人族が観測する拠点としての役割が大元であり、やがて弥生時代になると太陽運行の観測を主流とする聖地になっていったのではあるまいか・・・。ここである想いが脳裏を過ぎった。その古代「伊都国」の要を担う祭祀場たる「志登神社」の主祭神は「豊玉姫命」・・・。その「豊玉姫(とよたまひめ)」という神名が意味するところの本質とは、太古より世界各地で《豊穣の女神》と讃えられてきた天体「シリウス」に違いない・・・と、そのように感じ始めた今日この頃である。
2016年04月13日
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日本の「紋章」において数の付く名称の場合、例えば「七曜紋」とは、同じ大きさの7つの○(円)を、中心とその周囲に6つ並べたものをいう。つまり、全体的には6角形の形状なのだが、「中心」を数として勘定に入れて「1(中心)」+「6(周囲)」=「七曜紋」とするわけだ。さて今日の画像は、「七角形」を立体的に表現した造形だが、中心部分が開いているところが特徴のひとつである。全体形状は「七角形」にして、中心の「八」の部分が開いていることから、この型を今日のタイトルとして「八開」と名付けた。また・・・中央部の「開き」を分かりやすく強調してみたい・・・ということで、「白ヌキ」の画像処理を試みた。今まで数々の「七角形」の立体的表現を試みてきたが、私なりの感覚では本日紹介する「立体七角形」が、最も普遍的な造形ではなかろうか・・・と、そのように今のところは観ている。(関連記事・2007年3月30日/2008年1月8日の日記)この「八開」と題した造形は、正四面体をベースにした立体構造なので、ただ平面に正三角形(青色)を7枚並べたのではなく、中心部に集う正三角形(正四面体の一面)の7つの頂点が、手前側に絶妙に浮いた形態となっている。この「白ヌキ」の部分の開き加減が(手前味噌ではあるが)、実に美しい「開き」を魅せている。ところで、前回のブログでは、「五角形」と「六角形」の共存する造形を掲載した。例えば、同じ大きさの「正三角形」を並べてそれぞれの角形を作るとすると、この「五角形」と「六角形」は共に中心が閉じた表現となる。つまり、正三角形が5枚で「五角形」を作ると、中央部は閉じて膨らむ「五角錐」となり、同様に正三角形が6枚で「六角形」を作ると、平坦な「正六角形」となってやはり中央部は閉じた状態だ。それが、7枚の正三角形で「七角形」を作るとして、その構成法に立体的条件を付加すると、「六角形」までは閉じていた形状の中心部が、「七角形」では開いた状態となるのである。コンパスと定規では描けない図形とされる「七角形」も、二次元(平面)にもう一次元を加えた「三次元(立体)」の構造表現によって、このように具体的に視覚化できるのだ。・・・現今の混迷混沌とした閉塞感を打開する「手懸かり」になれば・・・ということで、この普遍的な「開き加減」の立体七角形を、ここで初めて公開・披露することにした。その意図するココロとは、一人一人の閉じられた〔 心 〕の「岩戸開き」に繋がる布石としての・・・創造的「破壊(八開)」・・・である。(関連記事・2005年6月30日/2006年1月28日)目覚める人々が、その《想像的八開》の向うに、『 真実の光 』が見出せることを期待して・・・。
2009年03月16日
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先月の三月初旬、初めて「奄美大島」に渡る機会を得た。そこで冒頭画像は、福岡空港から奄美空港に向け渡航する際、飛行機の窓越しから撮影した”雲海”である。久しぶりに搭乗した機中で、期せずして遭遇した一面の雲海に、感慨一入だったことを憶えている。さて、本日のタイトル冒頭に「平家の落人伝説」と書いた。実はこの度の奄美訪問については”別の目的”があったのだが、自ら名乗ることは無いにしても「平家の末裔」を自覚する私としては、今回の旅路で奄美群島に色濃く残る「平家の落人伝説」を如実に体感したことから、後日談を含めて当タイトルで綴ることにした次第である。ここで「平家の落人伝説」とは、源平合戦で敗れた平家の将兵が落ち延びて土着した、あるいは追討軍と戦って悲運の最期を遂げたといった内容だ。(※しかし驚くことなかれ…その平家落人伝説が今に残る地所は、全国に200以上あるとされる。)一般に学校で習う歴史教科書によると、第81代「安徳天皇」は1185年の「壇ノ浦の戦い」(山口県下関市)で崩御されたことになっているのだが、興味深いことに”奄美大島の伝承”によると、「安徳天皇」は平家の船団に擁されて南海の「硫黄島」(薩南諸島の北部に位置する島)に生き延びたとされている。その後、「喜界島」(奄美群島の東北部に位置し、奄美大島の東方沖の約20㎞にある島)に集結した軍団は、三年間にわたり「奄美大島」の様子をうかがった後、「壇ノ浦の戦い」から約17年後の1202年、平 資盛(すけもり)・有盛(ありもり)・行盛(ゆきもり)の三卿は「奄美大島」を三方から一挙に攻め、完全に平定したとのことである。その後、三卿は奄美大島を三分して統治し、資盛は「加計呂麻(カケロマ)島」(奄美大島から大島海峡を隔ててすぐの、南隣にある島)の諸鈍に居城を構えて全軍を総管し、有盛は浦上に居城を構えて北部を警備し、行盛は戸口に居城を構えて東南を警備した。その居城のあった三つの地域には、資盛を祀った「大屯(オーチョン)神社」・「有盛神社」・「行盛神社」がそれぞれ鎮座し、現在も各地域の村人達により祭られている。そこで上の画像は、奄美空港に近い上空の機内から西側方面を撮影したもので、左側から画像中央に向かう半島の先端に見える山の「御嶽(オダキ/標高194m)」が、伝承によれば古代より奄美大島における「ユタ」(奄美群島や沖縄諸島を含む西南諸島における民間の霊能力者のこと)の聖地であり、「安徳天皇」にまつわる”平家伝説”が色濃く残る聖地でもある。(※当山に伝承される”平家伝説”は後段にて解説。)今回の旅路では、奄美空港に到着後にレンタカーを借り、最初に向かったのは「加計呂麻島」であった。冒頭の記述では、「加計呂麻島」に平資盛を祀る大屯神社が鎮座すると記した。当社が島内の何処に鎮座するかについては事前に確認していたのではあるが、当日は加計呂麻島に渡る船が大島西南の「古仁屋港」から出航する直前に到着し、急いで切符を購入したものの、同島に二つある…どちらの港…に到着するかを確認せずに乗船したのであった。(※反芻すると、ここまで行き当たりバッタリの旅程は、今までの経験では有り得ない所業であった。)そして図らずも到着した港は、加計呂麻島の東南部にある「生間港」だったのだが、あろうことか当港への着岸直後に、少し離れた切符発券所の窓口で訪ねた際、もう一方の港へ向かう陸上の交通手段が無いことや、そもそも別の目的で渡海した奄美大島における”ある会合”の集合時間(午後7時)に間に合わせるには、帰りの船で約90分後のチャーター便を利用すれば大丈夫だと解り、結果としてこの「生間港」から限定された時間内に行ける場所は、平資盛を祀った「大屯(オーチョン)神社」しかないことを思い知らされたのであった。・・・これはやはり、完全に導かれている・・・と観念した私は、切符販売の窓口で聞いた「ここから当社まで歩いて約10~15分」との文言を頼りに、小雨の舞い散る道中をテクテクと歩くのであった。(つづく)
2024年04月24日
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一昨日の14日は、北九州は「小倉」を守護するシンボルの山とも言える「足立山」に登った。私も以前から気になっていた山であり、共に登拝した知人も一度は登りたかった山ということで、互いに意気投合し同行することになった。その前日から雨で、当日も朝から小雨模様ではあったが、昼までには晴れるという予報だったので、まずは山の麓に行ってみようということで、登山口に鎮座する「妙見神社(足立山妙見宮)」に向かった。さてここで、御祖(みおや)神社とも称される妙見神社について、簡単に紹介しておこう。主祭神は、「天之御中主神」をはじめとする造化三神と他二柱の併せて五柱の神々である。創建は宝亀元年(770年)、国体擁護の大忠臣として伝えられる「和気清麻呂公」が創祀した全国唯一の神社。(山名の「足立」は、この地に湧き出る霊泉によって、清麻呂公の傷ついていた足が治り、「足が立つ」ようになった霊験から命名されたと伝わる。)「神仏習合」のなごりを今に伝える数少ない神社のひとつで、妙見さま(造化三神)は、北極星・北斗七星が神格化した星霊信仰の御本尊である。その神様である「妙見神」の本地仏は「虚空蔵(こくうぞう)菩薩」とされ、その「虚空蔵」の往時の読みであろう「こくうくら」が訛って「こくら」、そしてその音韻に漢字が充てられて現在の「小倉」の地名になったということだ。私見だが、この「妙見信仰」と「虚空蔵信仰」は、神仏習合という観点からも表裏一体であり、共に金属精錬・加工を得意とする技術者集団に特有の信仰だったことが伺える。加えて「虚空蔵菩薩」の本質は、天体の「金星」とする観方もあり、弘法大師「空海」が室戸岬で「金星」との感応で悟りの境地に達した際に修したとされる「虚空蔵求聞持法」は、その大いなる霊験を発したのであろう。ちなみに「虚空蔵」とは、サンスクリット語の「アーカーシャ・ガルバ」のことで、「宇宙の虚空に存在する叡智」という意味合いであり、また西洋の「アカシック・レコード」に繋がる言葉とされている。折りしも本年は、京都(平安京)の北西を鎮護する空海ゆかりの高尾山神護寺にて、『弘法大師 空海入山千二百年紀』(期間・2009年10月1日~2009年12月6日)が開催されている。「高雄の紅葉狩り」といわれ、京都でも屈指の紅葉の名所とされる神護寺は、和気清麻呂公の開基とされる真言宗のお寺で、境内にある清麻呂公の墓所には、かつて私も参詣した経緯がある。そのことからも、この秋色の美しく映える季節に、「足立山」への登拝という流れをいただいたことに、「浅からぬご縁」を感じたところである。その清麻呂公について歴史は、称徳天皇が崩御して道鏡の失脚後、桓武朝で実務官僚として重用されて高官になった・・・そして平安遷都の建設を進言し、延暦13年(794)「平安京」に遷都。自ら造営大夫として新都の建設に尽力した・・・と、その治績を今に伝えている。つづく
2009年11月16日
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昨日の日記では、オリオン座の「アルニタク」を伊勢神宮の「内宮(ないくう)」とし、また大犬座の「シリウス」を伊勢神宮の別宮「伊雑宮(いざわのみや)」とする説を参考にして、これを拡大解釈していったわけである。この「アルニタク」と「シリウス」が地上の「神社」として投影された場所(聖地)は、日本列島の各地で見出されている。今日は、上述の「伊勢神宮」以外の地域で、アルニタクとシリウスが投影されたと推考される神社を紹介しよう。それは、九州北部の福岡県にある神社で、アルニタクが「香椎宮(かしいぐう・官幣大社)」(福岡市東区)、そしてシリウスが「宗像大社(むなかたたいしゃ・名神大社)」(宗像市田島)と推定される。この両社は共に格式の高い神社であり、まさに伊勢の「内宮」と「伊雑宮」の関係を髣髴とさせる配置となっている。(もちろん、私なりの感覚ではあるが・・・。)もし今まで述べてきた観点が、ある程度は的を射たことだとすると、エジプトはもとより日本でも古代から、いかに「アルニタク」と「シリウス」に対する信仰が厚かったかということを示していると言えよう。ところで、エジプト神話では、「イシス神(シリウス)」の秘術により、一度は死んだ「オシリス神(オリオン)」が復活して、この二神の聖婚によって「ホルス神(太陽)」が誕生するとされている。面白いことに、この「オシリス」・「イシス」・「ホルス」の三神の関係性を象徴的にあらわした「聖なる図形」が、ピタゴラスの「三平方の定理」の証明の際に必ず引き合いに出される〔3:4:5〕という三辺の比率をあらわす直角三角形なのだそうだ。その図形は「イシスの三角形」ともいわれ、形成される90度・37度・53度という三つの角度のなかでも、特に「イシスの角度」とされる「53度」は、エジプトのピラミッドの多くが示す傾斜角を示しているそうである。「オシリスの復活」と「ホルスの誕生」は、共に「イシスの秘儀」によってなされることから、この「53度」という角度が、魂の復活の再生装置としてのピラミッドに刻み込まれたことが考えられるそうだ。このことは、今年の1月10日の日記で取り上げた「特別な角度」にも関連し、とても興味深い。「復活」や「蘇生」を意味する「イシスの秘儀」とは、おそらく「水」や「水晶」の示す角度にも関連するのであろう。以下は、私の「六角形」にまつわる走馬灯のような連想にお付き合いいただけたら・・・。思えば「イシス」たる「シリウス」を示す形は「六芒星」とされ、これは西欧では「ダビデの星」や「ソロモンの封印」ともいわれる。「水」の字形は「六角形」の形状であり、実際の「水分子」も「六角形」を基本とした結晶構造をつくる。「水晶」の結晶の基本形は「六角柱」とされ、これまた「六角形」がベースとなっている。「シリウス」を投影した神社と想定される、神宮の別宮「伊雑宮」の御神紋は「六芒星」とされ、伊勢神宮の参道の両脇に立つ石灯籠にも刻み込んであるそうだ。同じく天空の「シリウス」を地上投影したと推考される「宗像大社」は、海上交通の安全を守る女神(宗像三女神)が祀られており、ご祭神は「海水(潮の干満)」を司る女神ともいえるので、「六角形」系の「水」に縁の深い神社と言えよう。また、歴史的にも「宗像大社」は、古くから「出雲大社」(島根県出雲市)と御神縁が深い関係にあるとされており、その「出雲大社」の御神紋も、日本的には「籠目(カゴメ)紋」とも称される「六芒星(六角形)」系の「亀甲紋」であることも象徴的である。以上のように、おそらく今の私は、「六角形」の形状を見ると、すべて「シリウス」に観えてしまうだろう。ちなみに、日本とエジプトは、「太陽祭祀」を要とする数少ない国とされており、またエジプトでは「シリウス(イシス)」を暦や信仰の中心に据えているので、かつては日本でも「シリウス」が祭祀の中心にあったことが垣間見えるのである。(それは日本神話でいうところの「出雲の国譲り」の以前かも・・・)思えば「シリウス」は、私たちの生かされている惑星「地球」の所属する太陽系の、その太陽系の中心にある恒星「太陽」の親星とする観方があった。つまり、「シリウス」の周囲を「太陽系」が巡っているという見方である。(参考文書・2007年12月20日の日記)「岩戸開き」の際に生まれる「新しい太陽(ホルス)」は、母親の星たる「シリウス(イシス)」の呪力をもって、まずは「オリオン(オシリス)」の復活(よみがえり)を経た後に授かる段取りとなるのでは・・・とそのように感じる今日この頃である。事の次第は、私たちの生活の身近にある天体の「月」(今日は満月)が、いつも見守ってくれている。
2008年01月22日
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前回のブログの続きとなるが、その9月8日の電話会談の流れで、後半には何故か「しほつちのかみ」の話題となった。(古事記では塩椎神、日本書紀では塩土老翁・塩筒老翁と表記される。)この日本神話で活躍する海神が、古代出雲の海神たる「クナト神」と関係があるのでは・・・などと尋ねられたが、その時の私は「おそらく関係は濃厚でしょう。」と答えるに止めた。その後、少し気になったので、かつて参拝した折に撮影した真名井神社の写真を調べてみると、おそらくは知人の友達が感応したであろうその磐座を映した写真が出てきた。(本日の画像)掲載画像の岩石は神社境内の最奥部にあり、由来書き等では「大綿津見神」の磐座とされている。その磐座の右奥の立て表示には、〔熊野大神(須佐之男神)〕と記してあったので、知人の友達が「クナト神」を感応したのは、おそらくここであろう。また、さらに右手前の立て表示には大きく〔塩土老翁〕とあり、その下には向かって右から〔亦名 住吉同体〕〔大綿津見神〕〔亦名 豊受大神〕とあったため、これは意外な関連付けとも思われたので、改めて真名井神社の祭神を調べてみると、主祭神の「豊受大神」を「天御中主神」や「国常立尊」と同一神とし、さらには「塩土老翁」のことでもあると記してあった。思い返せば、約20年以上前から、今日のタイトルの「水火土」の順序が気になってはいたのだが、この読みを「しほつち」と知ったのは約2年前のことで、これが「塩椎神」とつながるとは・・・ということで、その後に検索を続けていると、以下の文脈が出てきたのだった。(以下に転載) 終戦後の神示 われは七つの灯台に火を点ずる者である。われは白髪の老翁である。白髪とは久遠永劫よりつづく無量寿の象徴である。われは彦火火出見尊が魚釣らす釣針を失い給いて、憂い泣きたまう海辺に来りて、尊を龍宮界に導きたる塩椎神である。塩椎神とは水火土之神のいいである。霊は水火土と現れ、一切のものは水火土から生れたの である。われは霊の海、創造の神である。水即ち『おしめり』と火即ち『ぬくもり』と『土』の働きとがあって万物は生ずるのである。黙示録には『われはアルファなり、オメガなり、生と死との鍵を持てり』と記されているのがそれである。われを単に海の神だと思うな。龍宮海の神の如くあらわれているのはウミ(生み)の象徴であり、龍宮無限供給の神のシンボルである。われは一切の創造の神であるから無にして無尽蔵である。 以上の文脈が、「クナト神」と「水火土神」を繋いでいるどうかは計り知れないが、私的直感では「古代日本の縄文系海人族の祖先神」ということで、双方の海神の共通項を見出せそうだ。そして何よりも、知人の友達が「塩土老翁」を祀るこの境内地で「クナト神」を感受したことこそ、この海神二柱の深い関係を示唆しているといえよう。※関連記事2009年12月31日の日記『遠つ神 愛み賜へ』 http://plaza.rakuten.co.jp/opektal/diary/200912310000/2010年1月23日の日記『「ムスビ」の こころ 』http://plaza.rakuten.co.jp/opektal/diary/201001230000/
2010年09月09日
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阿波国たる徳島県域には、「阿波三峰(あわさんぽう)」 と称して、「日の峰(小松島市) 標高191m」・「津の峰(阿南市) 標高284m」・「中津峰(徳島市) 標高773m」と、古くから阿波を代表する三峰がある。かねてより、この「阿波三峰」は知ってはいたのだが、今回の「四国行脚」に出かける直前になって、これら三山の位置を地図上で確認しつつ、それぞれの山頂に向かって車でどこまで登れるかを調べることに・・・。この「阿波三峰」・・・まさかこの三つの峰を当日中に巡ることになろうとは、当初から考えてもいなかったことなのだが、それが不思議にも様々な好条件が重なり実現したのであった。そこで冒頭の画像は、徳島県域の簡易な地図に、その三つの山名を青色でマーキングした「阿波三峰」の位置や、これまで巡ってきた主要な山々を明示したものだ。そして、下に続く画像の数々は、この「阿波三峰」を巡る過程で撮影したもので、それぞれの山の現地散策における解説や感想に添えるものである。※関連記事・・・四国行脚の巻(3)まずは「日の峰」である。この上の画像は、当山の山頂部から西方に広がる山々を展望したものだ。この「日の峰」は、「日峰神社」の鎮座する山頂部まで車で登ることができ、当社の鳥居を撮影した画像が上である。上の画像は、当社の駐車場から、社殿を含む西南方位を撮影したものだ。社殿のすぐ左側に映る山並みのピークが「中津峰(標高773m)」である。「日の峰」での最後の画像は、同じく駐車場から、東南方面となる海側の平野部を撮影したものだ。この「日峰神社」を含む山上一帯は、憩いの場として整備された人気の展望スポットであり、上に掲げた景観以外にも、北は紀伊水道から鳴門・淡路方面、天気の良い日は和歌山地方も遠望することができる。次に「津の峰」である。山麓からは〔津峯スカイライン〕で八合目まで登ることができ、それから山頂部に鎮座する「津峯神社」へは、〔参詣リフト〕を利用して登った。そこで上の画像は、「阿波の松島」と謳われる橘湾に浮かぶ島々を、当社の境内から撮影したものである。眼下に広がる風光明媚な景観に、しばし見惚れるのであった。上に掲げた二枚の画像は、式内社「津峯神社」の本殿と由緒が書かれた看板を撮影したものである。この「津峯神社」の境内は、桜の名所としても知られており、時期になると多くの人出で賑わうそうだ。当日は良く晴れていたので、上の画像では紀伊水道を挟んだ遠方に(画像中央部から左側)、かすかにではあるが紀伊半島を確認することができた。この画像に映る景観の方位は東南なので、この水平線から昇る「初日の出」は、さぞかし幻想的であろう。そして最後に、「阿波三峰」では最高峰となる「中津峰(標高773m)」である。限られた時間だったこともあり、山頂近くまで車を利用した最短ルートを選んだ。標高約670mにある「中津峰森林公園」の駐車場 に車を停め、なだらかな山道を登り片道約40分で山頂に到着した。そこで上の画像は、当山の山頂から西方に広がる剣山山系を撮影したものである。「剣山」が見えるとすれば、この山並み中央部の遠方となるが、ここから視認できるかどうかは定かではないとしておこう。次に上の画像は、「中津峰山」と書かれた山頂を示す表示板を撮影したものだ。駐車場と山頂の標高差は約100mだったが、なかなかの道のりだったことを憶えている。この山頂から少し回り込んで降りていくと、上の画像のように風防のために造られたと伝わる石垣があった。さらに近づいていくと(上の画像)、しっかりと組まれた石垣の中央部に、山上方面へ向かって石垣をくぐる出入口があり、そこを通り抜けた上の広場には、山頂部を背にした「天津神社」の社殿(下の画像)が鎮座していた。古文献によると・・・この「中津峰」の山上に鎮座する「天津神社」には、天上・地下の神としてニ柱、常世の八方の神として八柱、季節を示すニ十四節気の神としてニ十四柱、および鍛治の神より生ずる鏡神、兵器を司る主神のニ柱、さらに酒造神の合計三十七神に加え、「日の峰」の奇魂・「津の峰」の幸魂を持つ「大己貴神」を併せ持った「大物主神」を祭ることで、「三十八神」を祭祀している。(意訳あり)・・・と記されているそうだ。思い返せば今年の7月下旬に、郷土の山口市内のギャラリーで、《「37」を超えて 》と題する「立体造形」の展示会を開催し、その余韻冷めやらぬなかで、この山上の「天津神社」に祀られた神々の合計「38」という数に遭遇したものだから、私としては心中穏やかならぬものがあった。しかも祭神の「38」番目となる「大物主神」とは、国津神系の代表たる「出雲の神」であり、上記の《「37」を超えて 》と題して、言わば次なる数の「38」を指標する個展の開催期間中に、図らずもその「展示会場」の全体が、「大社造」という出雲地方に特有の神社建築様式に観えてきて、不思議な感覚に包まれたことを思い出すのであった。☆関連記事・・・展示会の様子(5)
2020年11月02日
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前回の日記では…《龍の目》を訪ねて…と題して、古来より伝承されてきた「日本列島龍体説」に基づき、”裏”(〈龍頭〉を〈九州〉とする見立て)が”表”となって躍動する「金龍」のイメージを掲載した。そこで本日の冒頭画像は、その「金龍(日本列島)」の頭部から胴体へかけた”繋がり(関係性)”を、これまでの歴史探訪の中で見出せた《三本の南北軸》を基盤に、山名や地名を加えて描いたものである。前回の日記は主に【金龍の目(雲仙)】(上の画像では右側の「雲仙岳」を中心とする島原半島を囲んだ地域)に関してであったが、本日の日記では冒頭画像の中央部に位置する【松果体(耶馬渓…楕円で囲んだ地域)】と思われる聖地を紹介することにした。そもそも日本列島の形状は、陰陽和合の”双龍”を象ったものとされ、その「陰」に該当する龍体の頭部を「九州」とした場合に、その龍頭(九州)の”松果体”の位置に当たる場所が「耶馬渓」に相当することを聞き知ったのは、今から四半世紀以上前のことであった。そして、大いなる導きのなかで2016年の秋に耶馬渓の「鹿嵐山(かならせやま)」に登拝する運びとなり、宇佐神宮の神宮寺(弥勒寺)の初代別当「法蓮(ほうれん)」和尚と深い所縁の御山ということも含めて、当山が”松果体”に相応しい聖地と私なりに感じてきた経緯があった。〔※以下の関連記事(1)~(5)〕☆関連記事・・・そして、豊前の「鹿嵐山」へ・・・(1)そして前々回の日記で書いたように、耶馬渓の「中摩殿畑山」の山頂より「英彦山(三峰)」の秀麗な景観を展望した際、久しぶりに「松果体」≒「耶馬渓」の関係を思い出し、当山(中摩殿畑山)の山頂こそ「松果体」の位置付けに相応しいと感じたところである。参考かたがた以下のリンクは、冒頭に書いた《三本の南北軸》等に関する関連記事である。これまでの長年にわたる山口~九州域における歴史探訪において、何故この”山口と九州を貫く《三本の南北軸》”の焙り出しに尽力してきたかという答えが、結果として「金龍」と見立てられる日本列島の「龍頭」を「九州」に見据えることにあったのだと、この期に及んで身に染みてきたところである。☆関連記事・・・山口と九州を結ぶ南北軸☆関連記事・・・「湯玉」の地勢と歴史について(中)☆関連記事・・・観えてきた「夏の大三角」の地上投影図☆関連記事・・・浮上してきたクロスポイントの「磐座」ところで、以下に掲載する5枚の画像は、一昨日の5月11日に耶馬渓の「中摩殿畑山」の麓にあって”耶馬六十六景”の中でも秘境中の秘境とされる「天の岩戸(あまのいわと)の景」(中津市山国町/冒頭地図に図示)を訪れた際のものだ。滞在は短い時間ではあったが、その類まれな絶景に心を奪われ、しばし感動の渦に包まれるのであった。まず上の画像は、前方奥の岩窟(豊前坊)に向かう出入口と感じられた景観を撮影したものだ。この「西京橋」と称される自然の岩でできた架け橋を潜り、「豊前坊」と称する岩窟に向かった。その「西京橋」を潜る前に、上方を見上げて「仙人梁」とも称する”天然橋”を撮影した画像が上である。そして洞窟「豊前坊」の入口の全体像を撮影した画像が上。画像は無いのだが、窟内に「豊前坊」を祀る祠があったことから当窟の名称になった模様である。この岩窟に至る鎖場が、なかなかの難所であった。さて、ふところが深くて大きな岩窟内から、前方の「西京橋(仙人梁)」を撮影した画像が上である。実はこの岩窟に到着した時に、ぜひ確認したいことがあったのだが、それはこの岩窟の開口部が示す方位であった。早速持参した方位磁石で確認すると、上の画像のように洞内から見て最も良い景観が見える方位が、自分なりに予想していた「シリウス方位」(真南から東へ約20度の方角)と分かり、すこぶる嬉しかったことを憶えている。・・・というのは、”英彦山修験道”の基盤とされた全部で「四十九窟」あったとされる行場(岩窟)にて、連綿と「弥勒(ミロク)信仰」が行われてきたことの証が、この岩窟「豊前坊」が示す「シリウス方位」にもあったと自分なりに納得できたからである。※関連記事・・・「金龍」に導かれ・・・・※関連記事・・・シリウス信仰の痕跡ここで興味深いことは、上の画像の前方に直立する杉が「シリウス方位」の指標となっているところだ。そこで下の画像は、この岩窟の前方に屹立する杉を下方から撮影したもので、画像の右側が行場の岩窟「豊前坊」の方面、そして左側が天然橋の「西京橋」の方面が映っている。この風情を存分に味わうなかで、”女性性”を象徴する”聖なる「岩窟」”と”男性性”を象徴する”聖なる「樹木」”の、陰陽抱き合わせの「ひもろぎ・いわさか」たる日本古来の”弥栄(いやさか)”なる祭祀の原点を、現地の大自然が具現しているのであろうと感じたところである。
2025年05月13日
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昨日の2025年10月10日より始まった展示会【 燦然たるオブジェたち Vol.4 in 筥崎 】の模様を、自作の立体作品を中心に撮影した画像が上である。◎作者である私(山本裕一)の紹介文…数と形に興味を抱き1982年より立体造形に取り組む。綿棒を用いて同じ長さの軸線で組み立てられたスケルトン作品は現在に至るまで数百点にも及び、独自のテーマのもとに多種多様な形態を現している…(山口市在)Instagram・Tamanowo初日の”立体造形”ワークショップでは、お二方の体験希望者があり、存分に工作を楽しまれた様子で、共に制作した作品を大切そうにお持ち帰りになる風情が嬉しかった。また、誘っていた友人も来てくれて、他にも会場に集われた皆さんと四方山話に花が咲き、閉場時間まで私も大いに楽しむことができた。さて、下のリンク記事に書いたように、先日訪れた「後鳥羽神社」において・・・来る展示会では「菱型30面体」(菊花紋章の原型)を基盤とする造形を中心に披露するように・・・と脳裏に浮かんだことで展示することになった、冒頭画像に映る3つの造形を簡単に解説すると、向かって左側の大きな白い作品は計33個の「菱形30面体」が結合した複合立体、次に右側の金色の作品は「菱形30面体」を拡大解釈した構造、そして手前の青と赤の二つの「菱形30面体」が合体した作品は〔陰陽和合〕を象徴した形象となる。☆関連記事・・・「菊花紋章」の原型を「菱形30面体」と洞察、そして…実は展示会の直前に、会場からほど近い場所に鎮座する”日本三大八幡宮”の一社「筥崎(はこざき)宮」(福岡市東区筥崎)に参拝した折、当社境内のここかしこに点在する石灯籠(下の画像)に「菊花紋章」を見出すこととなり、改めて〈大いなるもの〉の導きを強く感じたところである。次に上の画像は、当社の由来書を撮影したものだ。そこで当社に祀られる三柱の祭神の神名から、今朝になって確認できた重要事項があった。それは「筥崎宮」の鎮座地に関するものである。既にお察しのように、私の運営するブログタイトルにある「歴史探訪」は、その時々の自分にとって関心のある歴史にまつわる神社や山岳等を選び、地図上でそれらの地点をつなぐ”線”を引き、相互の関係性を見出していくという現地探訪のスタイルがあった。そこで今回見出せたのは、「筥崎宮」を中心とした「祭祀線」であった。それは「冬至」の日の出を重要視した祭祀線で、「筥崎宮」ー「宇美八幡宮」ー「宝満山(標高829m)」と、2つの社の鎮座地と太宰府地域の艮(東北)を守護する「宝満山」山頂を直線で結ぶ『三点一直線』であった。つまり、「筥崎宮」の祭神は由来書にある「応神天皇・神功皇后・玉依姫命」の《三柱の神々》であり、「宇美八幡宮」(福岡県粕屋郡宇美町)の鎮座する地所は「応神天皇」(母親は「神功皇后」)の生誕地、そして「玉依姫命」(神武天皇の母親)を主祭神として祀る「竈門(かまど)神社」(福岡県太宰府市内山)の神体山が「宝満山」となり、まさに「筥崎宮」に祀られる《三柱の神々》が上記の『三点一直線』に関連付けて俯瞰できたということになるのだ。毎年「筥崎宮」にて、「宝満山」の山頂より昇り来る”一陽来復”の「冬至」の朝日を拝受することは、当社の祭神である《三柱の神々》の神々しい光を浴びる神事であり、おそらく古来より年間でも恒例の重要祭祀として斎行されてきたことであろう。次に上の画像は、当社の由来書に記してある「敵国降伏」の扁額が高々と掲げられた楼門を撮影したものだ。加えて下の画像はその扁額を拡大したもので、さらに下に続く画像はこの「敵国降伏」の”いわれ”が書かれたものである。そして下の画像は、日本最大の国難と伝わる「蒙古襲来」(元寇)に際し、亀山上皇(第90代天皇)は国家安泰を祈念し自筆による「敵国降伏」を下賜されたという当時の経緯が、詳しく記された掲示板を撮影したものだ。上掲画像の掲示板の内容については、まさに多くの難しい課題を抱えた今の日本の国状と相通じるものがあり、現今の日本人ひとりひとりが様々な問題の解決に向けて、それこそ真剣に取り組んでいくべき一大転機と感じる今日この頃である。さあ、当展示会の期間は明後日の13日(月/祝)PM5:00までだ。最終日はAM11:00から在廊予定である。
2025年10月11日
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前回のブログで・・・6月5日の未明には、「シリウス次元」に続く「アルクトゥルス次元」が、それを象徴する「形」として観えてきた・・・と記したが、その後この2つの次元を象徴する「形」を作り、そして双方を抱き合わせた統合体の構成が実現できたのは6月9日であった。そこで今日の画像は、今の段階で私なりに感じる「アルクトゥルス(7次元)」と「シリウス(6次元)」の2つの象徴を統合し、その具現化を成し遂げた作品である。この画像は、「アルクトゥルス」を「金色」に、「シリウス」を「銀色」に塗り分けて構成した造形を、「紫色の軸」を中心に軸回転させながら撮影したもので、その周囲は動的に揺らぎつつも「不動の軸」を明確に映し出せたところに醍醐味がある。実際の制作において、この「中心軸」が無ければ、この2つの造形の「統合」は成り立たなかったため、それゆえ必然的に撮れたであろう画像の「ブレの無い不動の中心軸」は、強いメッセージを放っているのである。どうやらこの6月中は、一人一人の「意識の軸」を、少々のことでは揺らがない「不動の軸」となるよう、各自が意識的に取り組む期間のようである。この初公開の「アルクトゥルス&シリウスの統合」の象徴が、その不動の「軸立て」を心がける際の、何らかの手懸かりになれば喜びである。この直観的に辿り着いた象徴的「統合」の作品を映した画像について、これを公開するかどうか思案していた時、ある書籍の文章が目に飛び込んできた。その文章は『プリズム・オブ・リラ』(星雲社)という書籍の巻末の用語解説にあったもので、この文章に後押しされるかのように公開に踏み切ることになったことから、以下に引用しておきたい。◎アルクトゥルスとシリウスの複合エネルギー体系・・・これは、肉体・感情・霊(スピリット)の各レベルをバランスよく癒す、複合的なエネルギーの体系である。この複合的なエネルギーの体系は、私たちの祖先が、原初よりアクセスしてきたもので、様々な元型(アーキタイプ)的な概念として認識されてきた。・・・また同じ書籍の第7章「アルクトゥルスの扉」には、アルクトゥルスとシリウスの関係について興味深いことが記してあったので、加えて引用しておこう。・この地球上において、私たちはアルクトゥルスのエネルギーの多様な姿を見出すことができる。まず言えることは、アルクトゥルスとシリウスが常に連携関係にあるということである。・アルクトゥルスが感情を癒す一方、シリウスは肉体を癒す。古代エジプト人は、こうしたアルクトゥルスとシリウスの関係を理解しており、これらのエネルギーを呼んで儀式に参加させていた。・アヌビスと呼ばれた古代エジプトの神は、シリウスの直接的元型(アーキタイプ)であるが、これはアルクトゥルスのエネルギーを用いていた。・アヌビスは意識を冥界(アストラル・レベル)へ、すなわち肉体的な死の過程を導く神だった。この「冥界」において、シリウスとアルクトゥルスのエネルギーが魂を癒す。・アヌビスがジャッカル(あるいはシリウスを表す犬の場合もある)の姿に描かれていることは、古代エジプト人がシリウスとアルクトゥルスの関係を理解していたことを明らかに示すものである。シリウスの元型であるアヌビスは、肉体を離れた魂を、癒しの領域であるアルクトゥルスへと導いた。
2014年06月11日
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前回の記事を掲載後、脳裏に何度も浮上してきたビジョンがあり、ここに覚書として記すことにした。そのビジョンを簡略し「日本列島」を「金龍」に見立てた日本地図(イラスト)の画像が上である。実は古代より「日本列島」を”陰と陽の龍(昇龍と降龍)”を「注連縄」のように重ねた”黄金の〔双龍〕”に見立てる《日本列島龍体説》があるようで、この説を基盤とする冒頭画像の(南北を反転した)列島イラストは〈龍頭〉を〈九州〉に、〈龍体(龍の胴体)〉を〈本州〉に、そして〈龍尾〉を〈北海道〉に対応させた絵図となっている。上記の《日本列島龍体説》では、列島は”黄金の〔双龍〕”からなり、その解説等では列島に”陰陽二体の龍”を、一方は〈龍頭〉を〈九州〉に対応させ、もう一方の〈龍頭〉は〈北海道〉に対応させて描くのが主流なのだが、今回は〈龍頭〉を〈九州〉に対応させた言わば〈陰の金龍〉の一体のみを描くことにした。その背景には、本日の日記タイトルにある《 龍の目 》を訪ねるかのように、九州は長崎県島原半島の「雲仙」を探訪し、そこで「金龍の目」と直感した”巨大磐座”(以下の掲載画像)へ、まるで導かれるようにして遭遇した経緯があった。加えて昨日のことだが、この記事を書くための客観情報を検索するなかで、上記の《日本列島龍体説》に関して・・・昔は〈九州〉が〈龍頭〉だったのだが、いつの頃からか〈北海道〉を〈龍頭〉にしてしまったので、「日本列島」が弱くなっていった。これから迎える新時代の「日本列島」は、〈九州〉を〈龍頭〉に戻さねば・・・という文章が目に留まったことも含めて、冒頭画像の絵図になったというわけだ。さらに興味深いことに、〈九州〉を〈龍頭〉とする「金龍(日本列島)」は、その手に「玉(如意宝珠)」を持つのだが、〈北海道〉を〈龍頭〉とする場合は、その手に「玉」を持たないとのことだ。ちなみに、〈龍頭〉が〈九州〉の「金龍」が手に持つ「玉」とは、〈四国〉だということである。また冒頭画像の〈龍体(本州)〉に何本かの線を引いているのだが、これについては以下の記事に詳しい。※関連記事・・・日本列島”岩戸開き”の様相(後日談)※関連記事・・・「富士山」から「戸隠山」へ…そして(1)そして以下に続く画像は、主に今年(2025年)の3月16日に、《金龍の目》(冒頭画像の右上)に相当すると感じた長崎県の「雲仙」にある〔大黒天摩崖仏〕の彫られた巨大磐座を撮影したものだ。この直下の画像に映る磐座全体が、今の私には《龍の目》に観えており、また磐座の中央部に彫られた〔大黒天〕の笑顔が確認できると思うが、その〔大黒天〕の姿が《龍の目》の”瞳孔”に視えるのだった。次に直下の画像に続く二枚の画像は、その中央部に彫られた〔大黒天〕の姿を、それぞれ近場で撮影したものである。この巨大磐座の中心部に彫られた「大黒天摩崖仏」は、雲仙地獄から噴き上がる白い水蒸気や雲仙温泉のホテル街が見える通称「おしどりの池」の湖畔に存在し、かつての「雲仙」は山岳信仰と結びついた修験道の霊山として栄え、最盛期には約3,000人の僧がこの地に滞在したという。九州で最も聞こえた修験道の霊山といえば、前回の日記でも取り上げた「英彦山(ひこさん)」である。そこで下の画像は、”耶馬渓(やばけい)”における修験の山々の中でも重要視されていたであろう「中摩殿畑山(なかまとのはたやま)」の山頂より、「英彦山」の山並みを撮影したものだ。実はこの”耶馬渓”のどこかに、「金龍(日本列島)」の〈龍頭〉を〈九州〉とした場合の「松果体」に相当する場所があるとの伝承から、今の私にはその中心となる霊山として「中摩殿畑山」が浮かんでいる。
2025年05月05日
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宇宙の構造と「正12面体」は、何らかの関連性があるらしい・・・。この情報にについて、「形」に携わる人間として、数年前から意識してきた。もっともこの情報は、文献上では、ピタゴラスやプラトンの古代ギリシャの時代から取り沙汰されてきたテーマでもあった。ところが最近になって、「ビッツグバン宇宙論」を覆す可能性のある「新たな宇宙論」として、イギリスの科学雑誌「ネイチャー」(2003年9月号)に「正12面体の宇宙論」として掲載された論文がある。それによると、《宇宙は「正12面体」の姿をしている》というのである。「正12面体」に特別の思い入れがある私としては、かなりドキドキしたわけだ。(昨年の9月16日の日記など)以下、先述の科学誌の掲載論文から抜粋すると、「2003年2月に発表されたウィルキンソン・マイクロ波異方性探査機(WMAP)からの最初の年のデータは、これまでの宇宙論の「標準モデル」を良い精度で確認したが、60度より広い角度スケールでは、マイクロ波の温度相関が消失するという予想外の結果もあった。 パリ天文台・理論宇宙研究所のジャン・ピエール・ルミネらは「ポアンカレ12面体」(正12面体の関連形態)より成る有限宇宙の単純な幾何学モデルを考えることにより、すべての微調整を必要とすることなく、自然に説明できることを提案した。」ちょっと難しい内容だが、このWMAPという探査機の観測データの解析によって、この宇宙は誕生から137億年が経過していることや、私たち宇宙の観測は全体のわずか4%であり、残りの96%は観測不能だということなど、最新の宇宙像が観えてきたとされている。そこで前述のパリ天文台のルミネらが、そのデータ解釈に問題点を見つけ、さらに掘り下げていく過程で、「正12面体の宇宙論」に辿り着いたということである。さらに分かったことは、この宇宙は従来の宇宙論が説いてきたような「無限」ではなく、その広がりは「有限」であるということ。さらにその大きさは、今までの天体観測により把握されてきた範囲よりも、かなり小さいということである。(その詳しい内容については、前述の科学雑誌「ネイチャー」を参考にしていただきたい。)いずれにしても、この「正12面体の宇宙論」が正しいということが確認されると、宇宙の性質についての歴史的大発見になるということである。そして、「ビッグバン宇宙論」をはじめとする様々な既存の宇宙論は、ことごとく幻想だったということになるらしいのだ・・・。ところで今日の画像は、「正12面体」の等辺による軸線構造を映した写真を少しアレンジしたものだ。ブログでは、何度も説明しているが、私の「立体」を表現する際のスタイルは、「面」ではなく「線(軸線=素材は綿棒)」により、全体の構造を安定化させて構成することを基本としている。つまり、この「正12面体」の軸線による構成は、同じ長さ(等辺)の綿棒が120本で、「ひとつ」の立体構造を成しているわけである。私なりの感覚では、「立体」は「多面体」とも言うけれども、軸線構成による安定化した構造がまず前提としてあり、これにまつわる「面」は結果的にでてくる側面に過ぎないというとらえ方である。もしかすると、私なりに模索して辿り着いたこの「正12面体」の立体構造は、上述の「正12面体の宇宙論」という新たな宇宙論と、何か密接なかかわりがあるかもしれない・・・などと妄想を逞しくしつつ、ワクワク・ドキドキ・ソワソワしている今日この頃である。先日このワクワク感を、分かり合える知人(かつてこの造形を進呈したことのある工学博士)に告白すると、興味深い言葉が返ってきた。それは《「正12面体」の軸線構造の立体は、「宇宙の真理」を示しているのでは・・・と思うと、ワクワクします。》という嬉しい言葉であった。そういえば思い出した・・・。この構造表現に辿り着いたころ、「あなたは何の研究をしているのですか?」と誰かに聞かれたときに、すかさず私は《「宇宙の真理」を研究しています。》と答えていたことを・・・。この「正12面体」の軸線構造が完成したとき、これは宇宙の「いつ」(過去・現在・未来)でも、「どこ」(マクロ・メゾ・ミクロ)でも、時間と空間を貫いて浸透する普遍的原理のような構造だという直感があった。もしこの新たな宇宙論の「正12面体宇宙」が事実ならば、「宇宙」にはその初めから、幾何学的な秩序と調和がそなわっていたことになり、自分の直感が的を射ていたことが証明されるわけで、仮にそういう想像をめぐらせるだけでも感慨深いものを感じるのである。
2006年02月18日
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今日の画像は、山口県立博物館で開催されていた「考古蔵出し展(未公開の縄文コレクション)」において、展示されたていた「石棒(せきぼう)」を撮影したもの。この「石棒」は、秋田県の小坂遺跡から出土した実物で、縄文中期頃(今から約5000~4000年前)のものとされている。一般に「石棒」といえば、古代人の「祭祀用の道具」の一種として解説される。この洗練されたフォルムに見とれつつ解説の文章を読むと、全長70センチにして重さが4.8キロもあると知り、「本当は何の目的で使われていたのだろう・・・」としばらく考えていた。すると、この石棒は「測量の道具」だろうという直感を得た。一般に「縄文尺」は、35センチとされ、石棒の70センチはその倍であること、そしてその大きさに見合わぬ重さから、大地を計測する道具ではないかという推測ができるのだ。つまり、この石棒を大地に垂直に立てれば、その重さでおのずと跡が地面に付くので、測量をしていきたい方向に何度も石棒を立てては倒していく方法で、その居住地域(狭い範囲であろうが)を計測できたのではなかろうか・・・。ちなみに、この石棒の両端の形状の違いが明瞭で、例えば片方が「縦型」だとすると、もう片方は「横型」となるので、70センチの陰陽の換算から、140センチを単位として計測できただろうことが予測できる。会場には他にも、様々な縄文時代の出土物が展示されていたが、私の心はこの言わば「縄文尺(石棒)」に釘付けとなってしまい、しばし古代人が居住空間を測量している現場を空想していた。日本文化の御柱ともいえる「縄文」の息吹に触れた思いで、実に感慨深いひとときであった。そして、「等辺の軸線による立体構成(同じ長さの「綿棒」による立体構成)」に、特に強いこだわりを持つ私には、この文章を綴っていくうちに、この縄文尺と想定した「石棒」が、立体構成の単位としての「綿棒(軸線)」に観えてきたのは不思議だが、ある意味で自然な成り行きとも言えよう。どうも私の中の「縄文遺伝子」が、なかなかに活性してきたことを実感する今日この頃である。
2006年07月10日
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それも必然の流れだろう・・・この年末年始は、「竹」を素材に造形制作に取り組むことになった。そこで今日の画像は、全部で60本の「竹」の軸を組み上げた造形を映したものである。私なりの造形表現における基本スタイルは、同じ長さの「軸線」を用いて立体を構成すること。その「軸線」に使う素材は何でも良いのだが、主に手短な生活用品の「綿棒」を利用してきた。かねてより自然素材の「竹」に注目してきたのだが、この平成22年から23年に年度が変わるその節目に、立体構成に用いる「軸線」の素材が、これまでの「綿棒」から「竹棒(竹ひご)」に変える転機が訪れたのかもしれない。そして、いよいよ世の中の集合意識も、「22」は開いて次なる「23」に変容したのであろうか・・・。※関連記事 2009年12月27日の日記 『22から23へ・・・』http://plaza.rakuten.co.jp/opektal/diary/200912270000/この「竹棒」で構成した造形からは、(鈍感な私でも)かなり強い「氣」が感じられ、その凛とした「ひびき」は心身を調整・浄化してくれる可能性、あるいはその期待感を抱かせてくれる。・・・形態波動共鳴による心身への共振・活性の効果やいかに・・・これは面白くなってきたぞ!
2011年01月06日
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冒頭の画像は、1990年に制作した”軸線構成”による複合立体を、その後になって色付け等を工夫し撮影したものだ。これまで約40年の制作活動において、この『みすまるのたま(御統玉)』と名付けた立体作品に関しては、特別に深い思い入れがあった。それは以下の関連記事に書いたように、この大きく”三層構造”から成る複合立体では表層の「表…第三層」となる「菱形30面体」(上の画像では”暖色系”)が、〔伊勢神宮〕の御神紋である「菊花紋(十六葉八重表菊)」に、そして「裏…第二層」となる「菱形12面体」(上の画像では”寒色系”)が、〔出雲大社〕の御神紋である「亀甲紋(二重亀甲剣花菱)」に、それぞれ私の脳裏に強く焼き付いたからである。※関連記事・・・みすまるのたま(御統玉)そして極め付きは、2011年の秋頃に「隠岐の島(島前の中ノ島)」に存在する「第82代 後鳥羽天皇の御火葬塚」を訪れた際に感受した内容(以下の関連記事)であった。※関連記事・・・「隠岐の島」周遊の思い出(6)さて、前回の《「宇佐」と「伊勢」における《冬至の日の出線》の再認識》の日記シリーズでは、「宇佐神宮」と「伊勢神宮」の二社を中心に取り上げたわけだが、もしここで日本を代表する神社の”主要三社”を挙げるとすれば、自ずと前記の二社に加えて冒頭でも書いた「出雲大社」が挙げられよう。実は次に記すことは、数年前から自身の心中には確たるものがあったわけだが、つまり冒頭画像に映る『みすまるのたま(御統玉)』の最奥部たる「奥…第一層」には、基本立体の根元である「正4面体」が存在し、これが〔宇佐神宮〕の御神紋である「三巴紋(左三巴紋)」を象徴しているということだ。そして「宇佐神宮」・「出雲大社」・「伊勢神宮」と、日本を代表する主要三社の「三種類の御神紋」が、それぞれ”立体の御紋”として見事に統合した複合立体を、本日の日記で改めて公開する運びとなった次第。この「三種の御紋」の”統合体”が、いよいよ根元から律動共振し、燦然と輝く季節を迎えたと視ている。
2023年08月07日
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いよいよ今回は、〔綿棒〕でつくる「立体工作」の案内である。冒頭の画像では、「5つの正多面体」の軸線構成を紹介したが、画像下方の「3つの立体」が基本中の基本となる。(下方の3つは、向かって右から「正4面体・正8面体・正20面体」の軸線構成であり、この3種とも「3角形」だけの面でできているところが特徴だ。そして上方の2つは、向かって右が「正12面体」、向かって左が「正6面体」の軸線構成である。)今回の工作方法を知ることで、下方の「3つの立体」をつくることができたら「 すばらしい! 」ということで、タイトルは【 立体工作のご案内 】とした。それではまず、用意する材料から説明しよう。☆[ 綿 棒 ]・・・市販の綿棒(紙軸がよい)私の場合は、「細軸」の「赤ちゃん綿棒」(スリム綿棒)を使用している。その理由は、綿棒どうしをクロスさせて構成する場合に誤差が出にくいことと、そのフォルム自体の「美しさ」にある。ただ、普通の太軸綿棒に比べて値段が高いのが難点だ。(※市販のものは、細軸綿棒の200本入りが1パックで300~500円が相場)そこで値段と質から、全国チェーンの子供用品専門店「 西 松 屋 」のベビー用品コーナーに置いてある細軸スリム綿棒がおすすめである。210本入り×2個パック(計420本)で《 399円 (税込) 》と、安心価格で入手できる。ただし、写真の「3つの立体」だけをつくるのであれば、一般に普及しているの綿棒(太軸)で十分である。また、子供と作って遊ぶ場合も、細軸でない普通軸(太軸)の綿棒で間に合う。ただ、安価すぎるものは綿棒自体の構造に問題がある場合があるので気をつけたい。(※〔太軸綿棒〕は1パック200本入りで150円前後が目安)☆[ 接着剤 ]・・・ミツワの「 ペーパーセメント(Sコート)」(福岡工業〔株〕)これは「仮止め」の接着剤である。一般的には馴染みがないと思われるが、例えばかつて印刷会社の版下制作で使用していた「貼って剥がせる接着剤」である。20cc のチューブ入りで1本200円前後。慣れてくれば、このチューブ1本で、綿棒200本をまかなうことができる。(280mlの缶入りで千円位などもある)これは、画材店等で入手可能(無ければ注文できるはず)だが、一般の文房具店では扱っているところが少ない。都会では、東急ハンズやロフトなどで扱っている。どうしても入手困難な方は、ネット通販を利用されたし。とりあえず、この2つの材料がそろえば、工作の準備は整ったことになる。その他に、2~3の材料が必要だが、それは次の工作方法のところで、順次説明していくことにしよう。・・・《 工作方法 》・・・まず、机の上に台紙(A4の紙など)を置いて、接着剤が付いても汚れないように準備する。そして「乾燥台」を用意する。この乾燥台とは、綿棒の両端に接着剤を染み込ませた後に、その両端の綿部を乾かすために軸の部分を置く台という意味で、台所で使うサランラップ等の空箱でよい。また、綿棒を乾かすことができるような寸法に紙を折って、それを乾燥台にしてもよい。次に、右手(利き手)の親指と人差し指で、綿棒の「中央部」を挟んで持ち、その先端の綿部に接着剤を染み込ませる作業をするわけだが、その作業に都合がよいと思うところ(台紙の上)に、少量の接着剤を出してみよう。その接着剤に綿棒の片方の先端を付けて、ゆっくり回転させながら接着剤を付着させていく(綿部の先端から「3分の2」位まで)。そして、その同じ綿棒の上下を持ち替えて、もう一方の先端にも同様に接着剤を付着させ、乾燥台に並べ置いていく。後は次の一本、そして次の一本と、必要な本数まで同じ作業を続けていくというわけだ。その乾燥台に何本も綿棒を置いていく際に、それぞれ平行になるように置くことが基本ではあるが、綿棒どうしを合わせて置いても、少し離して置いていってもどちらでも良い。(※合わせて置いた場合は、綿部の付着部分を、一本一本やさしく丁寧に外してから工作することを心掛けたい。)その綿棒の先端部に付着させる接着剤の量は、ほどほどの適量があるのだが、付け過ぎても効果は同じで、付けなさ過ぎては接合に問題が出てくるということで、何度か経験してコツをつかむ他はないと言っておこう。そして、接着剤を両端に付着させた綿棒を乾燥台に置いていき《 約5分 》が経過すると、それぞれの綿棒の先端をつないでいくという要領で、立体工作が楽しめるようになるわけである。そこで、さらなる接着力を期待したい場合は、既に接着剤を染み込ませ乾かした綿棒の綿部に、もう一度同じ要領で両端の綿部に接着剤を染み込ませる方法がある。つまり接着剤を綿部に2回染み込ませるわけだが、これをやると接着力が強くなり、これを束ねて密閉保存すれば、経験則から約1ヵ月は接着力を維持できるはずだ。この「仮止め」の接着剤を利用する理由は、綿棒の両端を繋いだ接合部の「付け外し」ができるということにある。工作の過程で、接合部の繋ぎ方を失敗した(間違えた)と思っても、・・・優しく丁寧に・・・という綿棒の取り扱いに留意すれば、簡単に綿部の付け外しができたり「やり直し」が可能なので、自ずとその表現に自由度が増すことになり、想像力や創造力の喚起につながるというわけである。今回の工作テーマの「3つの立体」について、すでにその形状は説明したが、ここでその構成に必要な「綿棒」の本数を紹介しよう。[ 正4面体=6本 ・ 正8面体=12本 ・ 正20面体=30本 ](繰り返しになるが、この「3つの立体」だけをつくるのであれば、細軸の赤ちゃん綿棒ではなく、普通の太さの綿棒で事足りる。その理由は、この「3つの立体」は、綿棒どうしを交差させなくても、構成することができるからだ。)この画像に映る立体的な平面図形の類推から、この「3つの立体」を構成するのは難しいかもしれないが、他の類似サイトの検索を試みるなどして、「立体パズル」の感覚で取り組んでみてはいかがだろう。この「3つの立体」こそ、〔立体〕の基本中の基本になると思われるので、これらを作ることができるようになってから、他の種類の立体にチャレンジするなど、後は自由気ままに想像の翼を広げて立体工作を楽しんでもらえたら・・・と、そのように思うのである。ただし、この接着剤は、あくまでも「仮止め」の接着剤なので、作成した立体をそのまま放置していると、その接着度にもよるが約1週間で崩れてしまう。そこで、作った形を残したい場合の対策として、「木工用ボンド(水性)」に少量の水を混ぜて筆で溶き、構成した綿棒の接合した各部分に塗布すると、なかなか壊れずに長持ちすることになる。また、色を塗りたい場合は、接着剤を染み込ませる前に、ポスターカラーなどで綿棒全体に塗り、乾かしてから上記の工作に入る方法や、完成した作品に後からカラースプレー等で吹き付けて色付けする方法など、様々な手法が考えられる。[ 注意事項 ]言うまでも無いことだが、小さい子供と一緒に遊ぶ場合は、特に「接着剤」の取り扱いには十分注意していただきたい。小学校に入るまでの子供と遊ぶ場合は、事前に上記の「仕込み」を済ませてから、工作に入るのが望ましいと考える。また接着剤は、揮発する際に毒性がある(セメダインほどではない)ので、長時間使用する場合は、空気の循環のよいところでの使用をおすすめする。(※ある程度の時間を経て完全に揮発した場合には、毒性は無くなるとのことだ。)[ 特記事項 ] 写真の上方の2つの立体は、現段階でその作り方を伝えるのは、直接の伝授以外は難しいということを、ここでお断りしておきたいと思う。ちなみに「正12面体」の全体構成に必要な綿棒の数は、「120本」(この内、外枠だけの数は30本)であり、「正6面体」の全体構成に必要な綿棒の数は「36本」(この内、外枠だけの数は12本)である。特に「正12面体」の全体構成については、その設計図が無かったために、着想を抱いてから具体化できるまで、丸10年の熟成期間を必要としたという経緯がある。★関連記事・・・「正12面体」における新たな内部の相互関係について時間の許す人は、童心にかえって、色々な形を作って遊んでみて欲しい。実際に自分の手で、様々な形を作っていく過程で、もしかすると大切な「気づき」があるかも知れない。そして懸案の造形が完成したときの、何ともいえぬ《達成感》を味わっていただけたらと思う。ご家族のお子さんや、近くに子供がいたら、上記の[ 注意事項 ]に留意して、みんなで一緒に作ってみてはいかがだろう。子供が本来持つ創造力(想像力)の素晴らしさに、大人は感動することになると思う。(子供は5歳位から)立体の究極の形は「球」である。3次元立体の究極の形は「球体」なのだ。いろいろな立体に触れて、自分の手で造形を生み出していくうちに、おのずと私たちの生活環境である球状の「地球」は「ひとつ」だということに、そして私たち「人類」は「ひとつながりのいのち」だということに気づくようになるのではないか・・・。そして、このかけがえのない地球に生かされて生きている自分を如実に自覚できるようになり、この「ひとつ」しかない地球を大切にしたいという想いが湧いてくる・・・。そんな期待を胸に抱いて、「立体(たま)」の工作方法を公開した次第である。(※以上、2005年08月02日の日記より転載&校正)
2012年09月18日
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今月初旬の11月3日から三泊四日で、北海道へ旅行する機会があった。大手旅行会社の企画による充実した内容だったので、各地で撮影した画像を主体に、これから数回に分けて記していこうと思う。まず冒頭の画像は、「日本平」~「三保の松原」あたりより「富士山」の方面を、機内より展望したものである。次の画像は、北海道は千歳空港のラウンジで見かけた、ダビンチが考案したヘリコプターの祖先となるスケッチを、模型として具体化した作品を映したものだ。この頃は何故か「らせん」が気になっていたので、思わずシャッターを押していた。この画像は、旭川の「雪の結晶美術館」にて、雪の結晶「六角形」の形状に模したであろう、これまた「らせん」の階段を撮影したものだ。ここまでくると、冒頭画像の富士山の円錐形や、三保の松原のある半島が描く形状まで、「らせん」に見えてしまうのであった。当日は午後七時頃に、北海道中央部の大雪山系は「黒岳(1,984m)」の麓にあるホテルに到着。フロントでは、雄々しく吼える熊の剥製の出迎えがあった。ツアーガイドの話では、この「大雪山(だいせつさん)」という山名にある「大」は、鳥取県の「大山(だいせん)」の「大」からいただいたとのことだ。・・・ということから考えると、先月末の伯耆富士「大山」への登拝直後に、北海道の「大雪山」に行くことになろうとは・・・と、その一連の流れに奇しき縁を感じた次第である。そしてこの画像は、ホテルの一際大きい空間の壁に、中央上部に立派な角の蝦夷鹿(エゾシカ)の剥製頭部、またその下方の左右に木彫りの熊の頭部が飾ってある風情を写したものである。この一対の熊の彫り物は、ご神前の一対の狛犬の如く、阿吽の口の形状に象られていたのが印象的だった。夕食後は、アイヌ民族ショーの特別公演があり、上の画像は公演中の寸劇の一コマである。ショーが始まる直前に購入していた「ムックリ(アイヌの楽器)」を自分でも奏でられたらと、その繊細で絶妙な奏法を最前列に陣取って、食い入るように見ていたことを憶えている。北海道は今回で二度目だが、その「アイヌ文様」という独特のデザインが描かれた衣装を纏う人を見るのは初めてで、その演舞を含む公演はインパクトの強い内容であった。下の画像にも見られるように、アイヌ文様の基本的形状の筆頭は「渦巻き」で、それは立体的な「らせん」にも繋がる。なるほど、それで腑に落ちた。アイヌの「渦巻き」に誘われての、北海道の初日であったと・・・。
2015年11月27日
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今から約1300年前に歴史書を編纂する際、意図的に”封印”された『最重要』となる歴史が、以下の動画内容(YouTube)の公開をキッカケとして、飛鳥時代における〈歴史の真実〉が浮かび上がり、次々と解明されていくであろう。※関連動画・・・日本に隠された究極最大の”秘密”が明かされましたこの動画内容の要点を記せば、第33代「推古天皇」と晩年の「蘇我馬子」は夫婦関係にあり、その間に産まれた御子が「聖徳太子(蘇我入鹿)」だったということである。つまり、あの西暦645年に起きた「乙巳の変(大化の改新)」において、「中大兄皇子」と「中臣鎌足」が討った「蘇我入鹿」とは、飛鳥時代を代表する聖人と称えられた「聖徳太子」のことだった・・・。さらには、上記の《「推古天皇」と「蘇我馬子」の関係 》は、”記紀”の編者が意図的に時代を遡らせて、分かる人には類推できるよう《「神功皇后」と「武内宿禰」の関係 》として描かれているということだ。冒頭に紹介した動画の人気YouTuberの取材に応じるかたちで、その封印された”真実の歴史”の伝承を赤裸々に語っておられるのは、「子之(ねの)神社」(神奈川県湯河原町)の穂積宮司である。実は当社には昨年11月に参拝させていただいた経緯(以下の関連記事)があり、あいにく宮司との面会は叶わなかったが実に感慨深いものがある。◎関連記事・・・「富士山」近辺の歴史探訪(5)そこで冒頭の画像は、動画内の宮司の話に登場し、当社の創建にも深く関わる”真鶴半島”先端の「三ツ石」(画像中央の海上に並ぶ三つの岩塊)を撮影したものだ。(撮影年月日…2025年11月20日・午後1時頃)加えて参考になる書籍に、歴史作家の関 裕二氏の処女作で『 聖徳太子は蘇我入鹿である 』(初版1991年)という考察がある。関氏の考察によると、「大海皇子(第40代 天武天皇)」は「蘇我入鹿」の子を身籠った第37代「斉明天皇」の皇子で、「中大兄皇子(第38代 天智天皇)」の異父兄であるとしている。かねてより私も、関氏の各著作には触発されてきたが、以下の関連動画が参考になるであろう。※関連動画・・・関 裕二氏の《聖徳太子=蘇我入鹿》同一人物説ここで上記の「蘇我入鹿」と「斉明天皇」の間に産まれた皇子が、後に「天武天皇」に即位したことを前提とし、今から約10年前に刊行された山口市在住の歴史作家の書籍を以下に紹介しておきたい。◎参考書籍・・・『 山口に残る古代地上絵 北斗図の謎 』 池端孝次郎 著 東洋出版(2016初版)◎参考記事・・・『 北 斗 図 』の 謎 ……山口市観光情報サイト「西の京 やまぐち」著者である池端氏の考察によると、古代の山口(現在の山口市から防府市にかけて)には”壮大な地上絵”が描かれ、それは「北極星と北斗七星」を主体とする「北斗図」であり、「天武天皇」の勅により同天皇10年(681年)に描かれたということだ。(以下のリンクは今から約9年前に当書籍を参考に各地を探訪した記事)※関連記事・・・「北斗図」の投影地を訪ねてさてここで、上記の書き連ねてきた記述を要約するとすれば・・・「推古天皇」と「蘇我馬子」の夫婦に産まれた「蘇我入鹿(聖徳太子)」は成人して「斉明天皇」と結ばれ、やがて身籠った皇子は後に「天武天皇」となり、国家の安寧のために山口の県央部に広大な「北斗図」を描いた・・・ということになる。(この「北斗図」は有名な「ナスカの地上絵」の約40倍の規模になるそうだ。)約40年に及ぶ私的な「歴史の探訪」は、興味を抱けばまず「歴史の現場」を訪ねる姿勢を貫いてきた。かような自身の経験知から言わせていただくと、瀬戸内海を挟んだ山口県と大分県の湾岸域に鎮座する社寺には、「聖徳太子」をはじめとする上記記載の御方々の伝承が意外と多く残っている。今回の事例(冒頭の関連動画)のように、おそらく最も開示され難かった”秘匿の歴史情報”が明らかになることにより、【 目覚める日本人 】が増加していくことを切に期待したいところである。
2026年09月14日
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先日の日記では、龍宮城の「宮」とは「お母さんのお腹(子宮)」ではないかと、私なりに感じたことを記した。するとなぜか今度は龍宮の中の城、つまり「龍宮城」は何処だろう・・・という流れとなり、それは「宮島」と浮かんだ。そこで観えてきたのは、「瀬戸内海」が「子宮」で、「宮島」は「卵巣」、さらには「関門海峡」が「子宮口」と・・・ここで背筋がゾクッとした・・・これは的を射た観方だということか・・・。「参道」は「産道」である・・・などと、よく神社の構造を「子宮」に例えることがあるが、これを参考に見立てていくと、関門海峡は「鳥居(子宮口)」、瀬戸内海は「神社境内(子宮)」、そして宮島は「本殿(卵巣)」となってくる。ところで、なぜ今「宮島」が浮かんできたのかを自問すると、意外に早く答えが出た。それは、今月の中旬に奈良の天河神社(弁財天社)に初めて参拝させていただくからだ・・・と。そして調べてみると、宮島にある安芸国一の宮 厳島神社の御祭神と、奈良の天河神社の御祭神は、同じ「イチキシマヒメ命」であり、それぞれの神社の神体山の名前も同じ「弥山(みせん)」だということが分かった。さらには、その宮島の「弥山」と奈良の「弥山」は、ほぼ東西軸で結ばれていることも分かってきた。このことは、いわゆる「日本五大弁財天」のなかでも、特に「厳島」と「天河」は深い関わりがあることを示しており、「この度の天河神社の初参りは、その関係性を把握してお参りされたし・・・。」ということなのであろう。さて、この宮島には、厳島神社よりも前に創建されたという伝承のある「大元神社」がある。厳島神社の近くの海沿いにある社なのだが、主祭神は「国常立尊」とあった。加えて、天河神社の創建にまつわる修験道の開祖「役の行者」は、大峰山系の山上ケ岳にて「金剛蔵王権現」を感得したとされており、その蔵王権現を「国常立尊」とする観方もある。ちなみに、この仏教に存在しない仏の「金剛蔵王権現」とは、「埋蔵する金属を支配する王」という意味らしい。鉱山師としての役割を担っていたとされる修験者の守り本尊にふさわしい名称と言えよう。この度の新潟県中越沖地震や石川県能登沖地震などの、日本海側を震源地とする一連の地震には、どこかにその律動の要の山があるはずと薄々感じていたが、それは今(もちろん私見だが・・・)、「日本三名山」の筆頭たる越国の霊峰「立山」とわかる。(この日本三名山の、立山・富士山・白山は、修験道の三名山でもある。)この越の国に屹立する「立山」を、地元の古老は「タツヤマ」と発音するそうだ。つまり「立山」とは、「辰山」や「龍山」と解釈でき、列島の環日本海沿岸域における古代出雲系(越国を含む)海人族の主峰ととらえることができる。その越国の立山の神こそ「国常立尊」であり、別名「黒龍大明神」と仰がれた倭国(邪馬台国)の初代大王であり、海人族や龍蛇信仰族の主神ということができよう。(ここで「越」とは、古くは「ヲ」と発音し、「倭」の古音も「ヲ」であることから、「越」を「倭」とする見方もあることを紹介しておこう。また「黒龍」とは、「背黒海蛇(セグロウミヘビ)」のことで、出雲大社の大祭「神在祭」の期間中に奉納される「龍蛇さま」である。)倭の国主・国常立尊の「よみがえり」の雄叫び・・・、その余韻の冷めやらぬなか、いよいよ七夕伝説ゆかりの天河神社へ・・・いざ参ろうぞ・・・。
2007年08月01日
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「出雲」にはもう十回は足を運んだであろうか・・・、訪れる度にまさに「出雲八重垣」の垣根を一重づつ潜らせていただき、毎回その懐の深さを感じさせられてきた。そして何度か出雲訪問を重ねるうちに、「出雲神族」の祖神とされる「クナト」という神の名前を知ることになった。この「クナトの大神」は、「日本書紀」では「岐神」として登場し、「古事記」では「衝立船戸神」と呼ばれている。現在は、出雲大社の東方にある「出雲井神社」に、「久那戸(くなと)大神」として祀られており、まるで導かれるようにして何度か参拝させていただく機会があった。さて、上述した「出雲神族」の末裔で、一子相伝の「口伝」により古代の歴史を伝えてきた「富(とみ)氏」の伝承がある。(参考文献・・・「謎の出雲帝国」吉田大洋 著・徳間書店 ほか)その伝承によると、その「出雲神族」は、東北方面から出雲に移住してきたということである。なかでも注目すべき口伝に、『我々の大祖先は、「クナト(岐神)」の大首長だが、もうひとつの隠された女首長に「アラハバキ(荒吐神)」があり、体制側によってこれらが抹殺されようとしたとき、「クナト」は「地蔵」に、「アラハバキ」は「弁才天」へと変身した。』とあるそうだ。実は私は、この「クナト」と「アラハバキ」が深い関係にあり、しかも男神と女神のペアだと知ったのは昨日のことである。この東北の神として聞こえた「アラハバキ」は、先日のブログでも取り上げた「遮光器土偶」がその神を象ったものとされ、その土偶が女性の特徴を強調していることからも女神と認識されている。(参考記事・2008年6月12日の日記)ちなみに、北海道は倶知安のアイヌ酋長の話によると、アイヌの古語で「クナト」は「男根」、「アラハバキ」は「女陰」の意味で、本来は一対のものだったということである。先日のブログのも書いたが、先の東北地域で起きた地震は、縄文勢力の「よみがえり」を暗示するのでは・・・と推理したが、もしかするとその流れのなかで、この「縄文」を象徴する男女一対の大神たる「クナト」と「アラハバキ」が浮上してきたのではあるまいか・・・。(参考記事・2008年6月16日の日記・同年6月21日の日記)そしてこの記事を、本日『七夕』の月日に公開できたことを、とても喜ばしく思う今日この頃である。◎【 追 伸 】 上記の「クナト大神」に関して、上掲の参考文献よりも詳しい書籍を知り得たので、以下その関連記事と共に紹介しておこう。(2020.4.12 記)※参考書籍・・・書名『出雲王国とヤマト政権』 富士林雅樹 著 大元出版(2019年 初版) ※関連記事・・ 令和二年【春】出雲行脚の巻
2008年07月07日
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「水」の分子(H2O)は、1個の酸素原子Oと2個の水素原子Hが共有結合で結ばれているのだが、そのH─O─Hの作る角度が、なぜ約104.5度で安定しているのだろうか・・・。これも「水」を司る女神「瀬織津姫(セオリツヒメ)」のお導きだろうか・・・、ここ数日はこのことで頭がいっぱいであった。その水分子の構造の安定化を約束するような、意外と単純なメカニズムがあるのではないかと思いを巡らせていると、かつてこの件を自分なりに追求していたことを思い出した。そして昨日の夜、ふと引き出しを開けてみると、ポロッと出てきた造形が今日の画像である。ここで、簡単に説明を試みてみよう。造形は「緑」の軸線(12本)と「赤」の軸線(7本)の合計19本で構成されている。12本の緑の軸線は、正6面体(サイコロ型)が少しつぶれたような扁平形の6面体を構成しており、7本の赤の軸線で構造の安定化を図った形状となっている。画像で見ると、造形の内側に2つの頂角が確認できると思うのだが、その(造形の中心を透過して)2つの頂角を結ぶ「赤の軸線の長さ」が、この造形表現のポイントである。その言わば「中心線」の長さを調節することで、画像の「扁平形の6面体」や「正6面体」、また長くすれば「細長い6面体」、あるいは中心線を無くすと「正6角形」となる。この画像の造形は、その「6面体」の6面を支える6本の対角線の長さと、「中心線」の長さの、合計7本の軸線の長さが全て「等辺(同じ長さ)」というところが特徴で、結果的にその配置で構成される6面の四辺形(菱形)の鈍角が、約104.5度となるところが実に興味深い。タイトルにも「〔水〕の立体構造?!」としたように、これを証明する方法を知らないので、もちろんこの構造が「水分子の結合角」を具体的に示す造形とは言い難い。しかし、私自身の「手探り」の感覚からすれば、意外に「自然の仕組み」は〔単純〕にして〔明快〕だという観点を含めて・・・もしかすると地球上で最も不思議な物質とされる「水」を解読する、ひとつの叩き台に成り得る構造かもしれない・・・と直観する今日この頃である。
2008年08月17日
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先のブログで、おそらくは6月1日を境に、これまでの「プレアデス次元」から「シリウス次元」に入ったことを伝えた。すると6月5日の未明には、「シリウス次元」に続く「アルクトゥルス次元」が、それを象徴する「形」として観えてきたのであった。ところで、既存のスピ系情報によれば、「プレアデス」≒「5次元」・「シリウス」≒「6次元」・「アルクトゥルス」≒「7次元」とする捉え方がある。この「星」と「次元」を関連付けた解釈は、聖書の一説から援用されているという見方もあり、その意味でこの捉え方は世界的に浸透していると言ってよいのかもしれない。以前より「シリウス」を象徴する「数」は認識しており、何故かこの5月頃からは次の段階を象徴する「数」が頻繁に脳裏に浮かんでいた。そして6月を迎えて、「シリウス次元」の強い影響を受けたこともあってであろう・・・その次の段階の「アルクトゥルス次元」を象徴する「数」と「形」の関係性が、明確に把握できたのであった。するとどうだろう・・・「シリウス次元」を象徴する「形」と「プレアデス次元」を象徴する「形」も、その互換性を鳥瞰するかのように確認でき、以上の「3つの星」を象徴する次元が、連続して相互転換する階層構造として観えてきたから不思議である。そこで今日の画像は、上記の「3つの星」の相互関係を含む「次元転換」の様相を、おそらく階層構造として象徴的に表現することに成功した造形である。(※ちなみに「3つの星」を象徴する次元の互換性は、この全体構造の内部に存在する。)ところが、不思議なことに今の私には、この階層構造の内部に存在するはずの「プレアデス次元」を象徴する「形」が見出せなくなっている。もしかすると、その「プレアデス次元」が見出せなくなった意味とは、既に「5次元」に昇格した「地球」が、同じ「5次元」とされる「プレアデス」と交替することになり、これまでの地球を管理していた「プレアデス次元」が、その任務を6月1日を以って解任されたということなのかもしれない。以上のことから、この6月以降は3次元から次元転換した「地球(5次元)」を「シリウス(6次元)」が直接管理する体制になったと推測できるが、その双方の次元世界を言わば俯瞰して見守る立場にあると思しき「アルクトゥルス(7次元)」に纏わる『仕組み』を、この期に及んで見出せたことは望外の喜びである。《 追 伸 》以上の地球を含む3つの星の次元解釈は、今現在における私の心中に輝く星々の宇宙観であることを、ここで誤解の無いように表明しておきたい。また、今日の画像の造形に関して、上記の3つの次元がこの造形の内部に存在するとしたが、その3つの次元以外の低次元も高次元も読み取れる可能性を秘めている。ちなみに「アルクトゥルス次元」とも隣接し、次の段階と思われる「アンタレス次元」も、この造形内に見出せると考えられ、さらには「アンドロメダ次元」との連関もうかがえるのではないかと感じている。
2014年06月07日
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前回の日記で書いた熊本の磐座巨石群「押戸石」では、気付いてみると午後5時半頃から約2時間をそこで過ごしていた。なんとも贅沢な時間を過ごせた私は、帰宅の道中で夕食を済ませ道草をしつつドライブを楽しんでいると、近場の繁華街だった日田市に到着したのは午後10時を過ぎていた。今から山口に帰ったとしても、途中で仮眠が必要だろうし、かかる高速代と宿泊代がほぼ同じということから日田市内に宿泊することにして、翌7月29日は、かねてより念願だった大分県安心院町の「米神山(こめかみやま・475m)」に登ることにした。これもやはり、たまたまというよりも必然的な流れだったのであろう。そして翌朝、その巨石信仰の山としても聞こえた「米神山」を、麓の田んぼから展望した写真が冒頭の画像だ。この画像の下方の田んぼの中に石柱が見えると思うが、これは地元で「こしき石」と呼ばれる高さ約2.5mの立石で、米神山の山頂方向に約45度の傾きで立っている。撮影時の光の加減か、天空から薄紫色の光が石柱に降り注いでいるように見えて神々しい。この「こしき石」を調べた天文に詳しい研究家の話では、夏至の朝に、この立石の位置から見て、日の出直前に昇る東天の星があるはずなので、米神山の山頂で観測できる星を調べてみると、ペルセウス座のアルゴルとなるそうだ。さらに、この石柱を立てた年代をコンピューター・ソフトで検索すると、何と紀元前2300年となったそうである。さらに調査を進めると、この米神山の西麓にある「こしき石」は、宇佐地方の測量標準基点となっていることが明らかになったそうで、今から約4300年前に、この立石が設置されたと思うと、もうそれだけで感慨無量である。◎参考書籍「 縄文の星と祭り 」 堀田総八郎 著 中央アート出版社(1997)刊まず初めてとなる「こしき石」を、じっくりと観察した後、そこから約1キロの距離となる米神山登山を兼ねた駐車場に移動、すぐ近くの登山口にある「佐田京石」という高さ2~3mの立柱からなる環状列石を撮影したものが上の画像である。連日のハードスケジュールにも拘らず体調は良かったが、猛暑が予想されるため気を引き締めて午前9:30に入山。ところがどっこい、入山まもなく道に迷ってしまい、もう少しで下山を決意するところまで追い込まれた。その後、何とか登山道を確認でき、ロープを頼りに登る急な坂道にフラフラになりながら高台に到着すると、そこで待ち受けていた特異な形状の岩組みがあった。その「月の神岩」といわれる磐座を、下方から撮影したものが上の画像である。その斬新な切り口の一枚の大岩は、水平より少し斜め上に意図的に突き出すように組まれており、その全体を支える下方の岩組みに、構造安定化の仕組みが隠されているように感じて、私の心身は疲れを忘れて、大いにときめくのだった。つづく
2014年08月07日
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天気の良い日には、私の故郷である山口県山口市は「小郡(おごおり)」の南方にある海岸から、瀬戸内海を挟んでほぼ真南に、〔豊後富士〕と謳われる大分県の「由布岳(標高1,583m)」(冒頭画像の中央)を遠望することができる。当日記では「山口と九州を貫く南北軸」という観点から、この山口から南方に展望する「由布岳」を何度も取り上げてきたのだが、不思議なことに今の私の心中には、南天に輝く「南十字星」を形成する4つの星のうち上方の3つの星が、まるで「由布岳」が傘を被るかのように重なり合って観えている。さて昨年7月の日記(以下の関連記事)では、山口市内の「小郡」という地名の由来に関して、古代氏族の物部氏から続く代々「暦法」を生業とする家系の真鍋氏による著作から引用させていただいた。☆関連記事・・・〔 小郡 ⇔ 南十字星 〕の伝承よりその書籍『 儺の國の星 』 真鍋 大覚 著(那珂川町 発行)によると、上記の山口県の「小郡」や福岡県小郡市の「小郡」という地名は、南天に輝く「南十字星」を古くは「日向星(かふりのほし)」と呼んだことを由来にする伝承が記されていた。おそらくは「南十字星」を意味する「かふり」に、これを称える接頭語「お」を添えて「おかふり」の発音となり、やがてこれに「小郡」という漢字が充てられ、「おごおり」という発音が定着したと考えられる。そして、つい先日のことだが・・・そういえば中世において山口を拠点とした大内氏が大きく活躍していた時代に、現在の福岡県小郡市を含む「筑前国(現在の福岡県域)」を領地としていた期間があったことから、もしかするとその大内時代に「小郡」という地名を福岡から山口に持ってきたのではあるまいか・・・という着想が生まれた。だとするなら、その大内時代に山口から「南十字星」が見えていたのでは…ということで、最近PCに搭載した天文ソフトで、その大内時代をおおよそ西暦1350年~1550年の約200年間と想定し、その間を取って西暦1450年2月の今頃に設定(場所は小郡地区のある地点)、南天の夜空をシミュレートしてみた。すると驚いたことに…午前2時頃に「南十字星」を形成する4つの星のうち、上方の三角形を形成する3つの星が南中する、つまり山口の「小郡」から見てほぼ真南の水平線上に存在していたことを確認できたのである。また、そこで同時に着眼したのは、場所として小郡地区(古くは吉敷郡の南域「小郡宰判」)に設定した海岸域から南方の海上を見るとすれば、瀬戸内海を挟んでほぼ真南に位置する「由布岳」の秀麗な三角形と、上記の3つの星が形成する三角形が、ちょうど同じような大きさで重なって見えたはずだ・・・ということであった。加えて古代において、例えば船団を組んで渡航してきた外国の使節が、南方の有明海から当時の九州を統治していた行政機関の「大宰府」に赴く場合には、福岡の古くから交通の要衝であった「小郡」で必ず下船して宿泊し身支度を整えたという伝承がある。以上のことから類推すると、時代が下って「筑前国」を領地としていた大内氏が活躍した期間に、歴代当主の本拠であった山口地区(古くは吉敷郡の北域「山口宰判」)の「大内氏館」を筑紫の「大宰府」に準えるとすれば、その南方にあって海に近い山口の「小郡」は、福岡の「小郡」と「大宰府」の関係と同様に古くから山口の外港であり、京都から繋がる日本海側の「山陰道(現在の国道9号線)」と瀬戸内海側の「山陽道(現在の国道2号線)」が交わる交通の要衝であった。さらに興味深いのは、福岡の「小郡市」には、創立年代の古い主要三社が南北に連なるように鎮座しており、その南北軸が示すほぼ真南にある高良山(標高312m)の中腹には筑後国一の宮「高良大社」が、その北方に並んで鎮座する神社群から視認できる位置に鎮座しているのである。この上記のことが確認できたとき、私には耳納連山の西端に位置し福岡の小郡からほぼ真南に見える「高良山」と、山口の小郡からほぼ真南に見える「由布岳」が重なって観えてきたので、すぐにその地域を天文ソフトでシミュレートしてみたわけだが、予想通りというか「大宰府」が設置された7世紀頃は、小郡市の南北に連なる神社群から見た場合に、2月頃の深夜に南中した「南十字星」の上三つの星は「高良山」の山容に重なるような位置になった。それまで耳納連山に隠れていた「南十字星」が、山影から突如出てきて山腹の「高良大社」を覆うように輝き、西側の山麓をなぞるように沈んでいく姿は、おそらく古代人にとって格別の風情だったに違いあるまい。以上、様々な角度から論じてきたが、山口と福岡の両地域において類似した地勢を含む「小郡」と「南十字星」の関係性が、私のなかで色濃く浮上してきたというわけである。(※ここで確認だが、地球の歳差運動(約26,000年周期)のために、現在の日本列島で「南十字星」という星座の全体が見える場所は、沖縄方面の西南諸島に限定される。ちなみに下の画像で中央部に映るクロスが、沖縄本島で海上に現れた現在の「南十字星」である。)ところで、山口市の中心を流れる椹野川(ふしのがわ)の河口域(秋穂二島)にある小山の山上に、「迦具土神(かぐつちのかみ)」を祭神とする「焼火神社(たくひじんじゃ)」が鎮座している。☆関連記事・・・「隠岐の島」の周遊記(六)これまでも当日記では、日本神話が語る「八百万の神々」を「天空に輝く星々」と捉える立場から、様々な関連書籍から引用しつつ「神々」と「星々」の密接な関係を取り上げてきた。そんな経緯もあり、かねてより「焼火神社」の祭神「カグツチ」に対応する星を、おうし座の一等星「アルデバラン(和名は「赤星」)」とする説は知り得ていた。冒頭から述べてきたように、古代の日本では南天に輝く「南十字星」が南を指標する星であったが、歳差運動のため次第に見えなくなり、その代わりに「アルデバラン」が南を示す星として「南極星」と呼ばれたという伝承がある。この期に及んで思い出したのは、この「アルデバラン」たる「カグツチ」の出生神話であった。そもそも「カグツチ」とは記紀神話における「火の神」で、『古事記』では「火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)」と表記され、神産みにおいて「イザナギ」と「イザナミ」の間に生まれた神々のなかでも、最後に生まれた神とされている。そして、この「カグツチ」が「火の神」であったために、出産時に「イザナミ」の陰部に火傷ができ、これが原因で「イザナミ」が死んでしまったとする解読が主流なのだが、私は前々からこの神話解釈には合点がいかなかった。ここで押さえておきたいのは、「イザナギ」の「キ」とは「北」であり北天の極北近くに輝く「北極星」を示し、「イザナミ」の「ミ」とは「南」であり南天の指極星たる「南十字星」を示すという捉え方があるということ・・・。そこで…「神」とは「星」なり…の観点から「カグツチの出生神話」を私なりに解釈すると・・・歳差運動のために「南十字星(イザナミ)」が「南極星」としての役割を果たせなくなった(イザナミは死んだ)ので、その代わりに「アルデバラン(カグツチ)」が「南極星」を担当することになった(カグツチが生まれた)・・・となり、(手前味噌ではあるが)かなり洗練された捉え方になると今のところは考える。当日記で呪文のように繰り返してきた・・・「八九(破竹)」の勢いで「十(自由)」の時代へ・・・飛躍するという「八九十(白兎)の道」という世界観がある。そこでこの「八九十」という3つの数に日本神話に登場する主要な三柱の神名を充てるとすれば、「八」とはこれまでの物質(もの)を主軸とした時代の「イザナギ(北極星)」、「九」とは「イザナギ」と「イザナミ」の和合を担った「ククリヒメ(菊理媛命)」、そして「十」とはこれからの自由な精神(こころ)を主軸とする時代の「イザナミ(南十字星)」を暗示している。今や日本列島の本州からは見えなくなってしまった「南十字星」は、日本神話で謳う「黄泉の国」に去ってしまった「イザナミ」と見事に重なるけれど、人の「こころ」と同じく「南十字星=イザナミ」は、〔見えないけれども…あるんだよ〕ということである。最後に2014年の2月、北九州市の八幡で開催した個展『星の立体造形展』にて、「南十字星」を模した作品について綴った記事を以下に掲載して締め括りとしたい。☆関連記事・・・個展の模様(6)☆関連記事・・・個展の模様(13)
2019年02月12日
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日本最古の神社建築様式の一つ「大社造(たいしゃづくり)」の代表例は「出雲大社」であるが、本日の冒頭画像は、現存する「大社造」の最古の遺構として、国宝に指定されている「神魂(かもす)神社」(松江市大庭町)の本殿を撮影したものだ。その「大社造」の特徴は、切り妻・妻入りの構造で、平面では九本の柱が、田の字型に配置された正方形の間取りとなっている。今回の約20名からなる出雲ツアーには、とある神社の神主が案内人として付き添ってくださり、巡拝するここかしこの神社境内にて、地元ならではのエピソードを交えた奥深い解説を聞くことができた。なかでも印象に残ったのは、冒頭画像に映る神魂神社での「大社造」にまつわる解説であった。その解説を要約すると・・・「よく御神座の向きが取り沙汰されますが、出雲では九本柱の中心にある「心御柱(しんのみはしら)」が御神体であり、これに向かって神主は祈っているのです。」・・・という話であった。その話を聞いて私は・・・そうだったのか…深い話だな・・・と思ったと同時に、上の画像に映る造形が心中に浮かんだのであった。後日、昼食後の休憩時に、いま一度この「心御柱」が神主を囲んで話題になったとき、私は胸ポケットに携帯していた自作の「綿棒工作キット」を取り出し、神主の目前でこの上の画像の造形を作ってみせた。☆関連記事・・・根源的構造『軸立て』の公開その出来上がった造形を披露しつつ、「大社造」の田の字型に配置された九本柱との関連性を語り、この造形を支える中心の軸(画像では赤色で強調)が「心御柱」に見立てられるとの解説を試みた。すると宮司は・・・そのように立体的に説明できると分かりやすいね・・・と言われ、またその場で作った造形を通して共感することができ、とても嬉しかったことを憶えている。さて上述の「大社造」にも関連するのだが、この上の画像は出雲大社の千家国造家に伝わる「金輪御造営差図」という古代御本殿の平面図を撮影したものである。(島根県立「古代出雲博物館」にて撮影)参拝する人誰もが目を見張る出雲大社の御本殿だが、現在の御本殿は江戸時代の延享元年(1744年)に立て替えられたものを基盤とし、高さ八丈(約24m)ある。しかし、古伝によると昔は高さ十六丈(約48m)、さらに上古は高さ三十二丈(約96m)もあったとされてきた。上載の図面に加え解説にもあるように、高い御本殿を支える柱は、三本の巨木を鉄輪で束ねて一本の柱としたという伝承があるのだが、実はこれを証明する驚きの発見こそ、平成12年に出雲大社境内で発掘された「三本の柱」であった。※関連記事・・・三本一組の「御柱」ちなみに、その後の科学的な調査の結果、この発掘された「三本の柱」は、鎌倉時代の宝治二年(1248年)に再建された際の御柱であろうということになっている。そこで上掲画像の「古代本殿の設計図」に触発され、出雲の神主の前で作った造形に、「三本の柱」を三本の綿棒を束ねて一柱に見立て、本殿を支える九本の柱として構成したものが、角度を変えて一つの作品を撮影した上下二枚の画像に映る造形だ。なお、全部で九本の柱のうち、中心の「心御柱」を見立てた軸が区別できるよう、造形の中心軸を金色に着色した。手前味噌だが、なかなか醍醐味のある出来栄えである。ここで思い出したのは、冒頭でも記した「大社造」の特徴とされる「九本柱」に関して・・・《この「九本柱」という建築様式の原点は「田和山遺跡」です。》・・・という出雲の神主の解説であった。この弥生時代前期末から中期後半にかけて(紀元前2~1世紀)の遺跡とされる「田和山(たわやま)遺跡」(松江市乃白町)では、その遺跡の山頂部において九本柱の遺構等が発見されており、おそらくこの「九本柱遺構」が「大社造」の原点と考えられるということだ。実は私自身、この「田和山遺跡」には深い思い入れがある。というのも、長年にわたって何度も「出雲行脚」を続けてきたことで、私の心中に浮き彫りになってきた古代出雲国における【東・西・南・北】の四つの聖地があった。そしてある時、その【東】と【西】を結ぶ東西線に【南】と【北】を結ぶ南北線を交差することで、【中央】としての「田和山遺跡」が見出せたことから、その計五ヵ所(下に記載)となる聖地を改めて現地探訪すべく、2016年8月中に一泊二日の出雲行脚を敢行したのであった。【東】… 揖夜神社(松江市出雲町)・【西】… 日御碕神社(出雲市大社町)・【南】… 八雲山(松江市八雲町/須我神社の神体山)・【北】… 加賀の潜戸(松江市島根町/島根半島の景勝地)・【中央】… 田和山遺跡(松江市乃白町)以下にリンクした八編の記事は、古代出雲国における上記【東・西・南・北・中央】の、五つの聖地を巡った軌跡を連載したものである。☆関連記事・・・出雲行脚の総集編(1)☆関連記事・・・出雲行脚の総集編(2)☆関連記事・・・出雲行脚の総集編(3)☆関連記事・・・出雲行脚の総集編(4)☆関連記事・・・出雲行脚の総集編(5)☆関連記事・・・出雲行脚の総集編(6)☆関連記事・・・出雲行脚の総集編(7)☆関連記事・・・出雲行脚の総集編(8)
2019年10月17日
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かねてより、ここ山口市の「小郡(おごおり)」(※)で生まれ育った者として、愛着のある「小郡」という地名の由来を知りたかったのだが、昔の小郡町史などを調べても判然としなかった。(※2005年10月1日に小郡町(吉敷郡)は山口市との新設合併により山口市の区域になり消滅した。冒頭画像は山口県の地図で、現在の山口市は桃色の地域、現在の「小郡」(旧・小郡町)は緑色で囲った斜線地域となる。)ところが近年になって、私なりに合点のいく「小郡」の地名由来を知ることになり、また昨年中には、その「小郡」を謳うにふさわしい場所を特定できたので、当日記に書いておくことにした。まず「小郡」という”地名の由来”については、結論から言うと、かつて南方の夜空に輝いていた天体の「南十字星」(※)を意味することになる。(ちなみに、山口県南部の海岸域からはAD15世紀頃まで、当星座の上部までは観測できたことが、「天文ソフト」のシュミレーションで確認済みである。)(※南天の星座のひとつ。全天88星座のなかで最も小さい。現在は、南天でも”天の南極”近くにある星座のため、北半球では見ることができない地域が多い。時期によっては日本でも沖縄県、小笠原諸島などで観望が可能。)その「小郡」を「南十字星」とする根拠となった文献は、古代氏族の物部氏から続く代々「暦法」を生業とした家系の真鍋氏が著された書名『 儺の國の星 (なのくにのほし)』真鍋大覚 著作(福岡県那珂川市 発行)という本であった。驚いたことに、この書籍内容に、山口県のここ「小郡」という地名の由来が、南天の夜空に輝く「南十字星」を、古くは「日向星(かふりのほし)」と呼んだことに由来すると書いてあったのである。そして、なぜ「南十字星」を「かふり」と呼んだかについては、古代の女性が頭上に布を置き(頭巾をかぶり)、これに荷物をのせて運ぶ習慣があったことを挙げていた。この文章を目にした時、私は「これが『小郡』の語源だ!」と感じたのであった。 また書籍には…古代人は偉大なる火山群の噴煙を南方の空の下に展望し、「南十字星」の上の三角形と並べていたのかもしれない…との記述があったことから、山口市小郡を流れる椹野川(ふしのがわ)の下流域から見て、ほぼ真南に位置する「由布岳」の、その「豊後富士」とも称される活火山の秀麗な三角形に、「南十字星」の風情が「かぶる」つまり”重なるように”見えるので、この地域が「小郡」と呼ばれるようになったと類推することができよう。以上のことから、この「小郡」の語源たる「南十字星」を意味する「かふり」が、これを称える「お」を添えた「おかふり」となり、時代の流れと共にその発音が変化する過程で、漢字の「小郡」が充てられ、最終的に「おごおり」という発音が定着していったと考えられる。◎関連記事・・・〔小郡⇔南十字星〕の伝承より◎関連記事・・・「南十字星」と「小郡」の関係、そして・・・さて、ここで確認しておきたいことがある。それは先に述べた「小郡」の”地名”にしても、次回で述べる「小郡」の”場所”にしても、江戸時代の「小郡宰判(おごおりさいばん)」という行政区域(下の画像に映る絵図の地域/冒頭地図では山口市の〇で囲った南部地域)を前提としているということである。(つづく)※上の絵図は「描かれた小郡ー小郡宰判絵図にみる幕末の風景ー」山口市小郡文化資料館(編集)より
2023年02月11日
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今年(2025年)の9月初旬、地元は山口県の「岩屋山(標高101m)」山系の丘陵地(山口市秋穂二島)に存在する大きな磐座の岩面に、「ペトログリフ(岩面彫刻)」を確認することができた。ここで簡単に「ペトログリフ」とは、古代人によって岩に刻まれた図形や文字のことである。そこで冒頭画像は、その「ペトログリフ」を確認できた岩面の全体像を撮影したもので、特に岩面の上部に刻まれた意図的な形象や古代文字のような多様な線刻に注目していただきたい。これまで全国各地で数々の磐座群を見てきた経験から、おそらく正真正銘の「ペトログリフ」である。◎関連記事・・・ペトログラフ岩◎関連記事・・・国東のペトログラフ岩の解説と…所感…この岩面に「ペトログリフ」を確認した大岩を含む磐座群を訪れたのは、これまで約10回を数えるのだが、その磐座群を「岩屋山」の山上より遠望した画像が上である。ちなみに、磐座群の遠方に見える山並は、防府市南部の瀬戸内海上に浮かぶ「向島(むこうしま)」だ。さて高台に鎮座する磐座群に近づくと、最初に目を引く磐座は、(上の画像のように)一見すると浮いているかのように見える”宝珠”のような美しい岩である。この画像でも分かるように、この”宝珠”の岩は二つの大岩に支えられており、その下方は大人一人がひざまづきながら、やっと向こうに通れるくらいの空洞になっている。次に、この”宝珠”の下を潜り抜けた左側の垂直に近い岩面(上の画像)が、冒頭画像で掲載した今回初めて確認することのできた多種多様の「ペトログリフ(岩面彫刻)」が刻まれた部分となる。そして下の画像は、その「ペトログリフ」が刻まれた部分を拡大して、画像の調整によってシャドーを強調することにより、岩面に刻まれた形象や文字類を読み取りやすくしたものである。おそらく感性の豊かな方の中には、この古代人の刻んだメッセージが読み取れる人もいるであろう。風の噂によると、この磐座群の南方に浮かぶ「竹島」(下の画像の中央に浮かぶ小島)との深い関係により、この「ペトログリフ(岩面彫刻)」のある磐座群が形成されたということである。その後、この「竹島」の位置が気になり地図上で調べてみると、この磐座群から見た「竹島」の方位は、真南から東へ約20度ほど振れた「シリウスの聖方位」と分かり、満面の笑みで大きく頷く自分がいた・・・。ちなみに、この「竹島」に祀られた祭神は地元では「イチキシマヒメ」と伝わるのだが、その元の祭神は〔大化の改新(AD645年)〕以降に”封印”された女神「セオリツヒメ」であり、さらにこの神名「セオリツ」の本質は、その語源にまつわる天体「シリウス」に繋がるということだ。・・・いよいよ今年の9月より、『 ミロクの世 』の時代の到来である・・・☆関連記事・・・「冬至」に向けて☆関連記事・・・常に輝く星「シリウス」、そして「太陽」☆関連記事・・・天地をつなぐ『虹』の出現、その背景には…
2025年09月20日
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日時が少し経過してしまったが本日の題目にある「展示会」とは、今年の10月中旬に福岡市に鎮座する「筥崎八幡宮」の御神前で開催された合同展示会のことであり、今回の記事はその展示期間中に訪れた場所に関してのものである。さて、その期間中に訪れたのは、かつて以下の関連記事に記した「金峰山(標高665m)」と、かつて当地を訪れ記事にしたことのある「拝ヶ石(おがみがいし)巨石群」、そして以下の画像地図にある「金峰山」と「拝ヶ石」を九州の西端とし、そこから”夏至の日の出方位”に向かう軸線に、なぜか再び沿うかたちでの行脚となった。※関連記事・・・「夏至」に動く(2)そこで冒頭の画像は、今回の金峰山登拝により山頂から展望した、雲海に浮かぶ「雲仙普賢岳(標高 1,483m)」を中心とする島原半島の景観である。前回は展望できなかっただけに感慨一入であった。次に上の画像は、「拝ヶ石」に向かう道中に”金峰三山”を撮影したパノラマ写真で、左側の「金峰山(一ノ岳…標高665m)」とその右側遠方に薄く見える山岳が「雲仙岳」、その右側の双耳峰が「二ノ岳(標高685m)」、そして右端の山が「三ノ岳(標高681m)」を撮影したものである。「拝ヶ石」の登り口にある駐車場に車を停め、緩やかな階段を含む山道を約200m登ると、上の画像に映る林立した「巨石群」が現れた。ここが、この山頂部の各所に点在する数々の巨石のメインとなる「拝ヶ石巨石群」で、以下はその解説文である。「 拝ケ石巨石群 」この巨石群は、金峰三山の「二ノ岳」に向かって”コ”の字型に立ち並び、最も大きな石は約9mの高さがあり、地元では昔から「拝ケ石」と呼び信仰の場とされてきた。近年、「ペトログリフ(岩面刻画)」の研究家により、この巨石群から岩に刻まれた古代文字と思われるものや方位計が回転するなどの磁気異常が確認され、古代の謎とロマンを秘めた「拝ケ石」に注目が集まっている。※下に並べた三枚の画像は、”コ”の字型に並ぶ巨石群のなかで、印象的な磐座を撮影したものである。上の画像は、当巨石群の前方に立てられた解説版を撮影したもので、上の絵図に振られた番号順に、それぞれの磐座を撮影した画像と解説文を以下に掲載した。1)方位石:この石は、頂上や拝殿(拝ヶ石巨石群)と「三ノ岳」を結ぶ”方位石”の役目をなしているといわれ、旅人に謎を問いかけるスフィンクスにも似ている。表面にはレリーフ状の模様と星座を思わせるベッキング穴があり、また強烈な磁気異常も感じられる。2)メンヒル(立石・鏡石):この石は、金峰山に向かい立つ高さ6m程度の立石で、綺麗な面を持つことから別名を鏡石ともいわれている。石の頭は3人ほどが乗れる広さで、そこに刻まれた十字線はちょうど東西南北を示している。また表面1mの範囲で方位計が2回転(720度)もする磁気異常を見ることができる。3)頂上石:この列石群は、6個の石が環状型にならびストーンサークルを形成している。最北の石が拝ヶ石山の山頂になる。東側の石の上面に古代ケルト系、また西側の石の上面にはシュメール系の文字が刻まれているといわれ、磁気異常も見られる。4)亀石:この石には、中央部北寄りに約60cmの円形の深い刻線があり、これから広がる線がちょうど亀の甲羅のような形状をしているため亀石と呼ばれている。この刻線には外に広がるような磁気異常が見られる。当巨石群を訪れたのは今回で五度目となろうが、実は2016年に起きた「熊本地震」の発生により、この「亀石」の様相が変化したという話を聞いていた。そこで、かつて地震以前に当地を訪れた際に「亀石」を撮影した画像と、今回訪れた際に撮影した画像の二枚を並べたものが上である。(※地震発生の”前”が左側・地震発生”の後”が右側)天空の星々の配置が描かれた”天球儀”と考察されている上掲画像に映る左右の「亀石」に彫られた線刻等を注意深く観察すると、熊本地震により「亀石」が見事にひっくり返った形跡を確認することができた。さて、「拝ヶ石」を後にして”夏至の日の出方位”、つまり上の地図に示した軸線に添うよう車を走らせ、”阿蘇山(阿蘇五岳)”の全体が見渡せる場所で撮影した画像が上だ。その”阿蘇五岳”とは、画像の左から「根子岳(標高1,443m)」・「高岳(標高1,592m)」・「中岳(標高1,506m)」・「烏帽子岳(標高1,337m)」・「杵島岳(標高1,326m)」の東西に延びる連山である。前回当地を訪れた際は、曇り空で展望できず仕舞いであったが、今回は阿蘇連山を俯瞰でき嬉しかった。次に上の画像は、”阿蘇五岳”の中で、一番のお気に入りの「根子岳(ねこだけ)」を撮影したものである。その威厳ただよう山容は、いつ噴火してもおかしくないような躍動感にあふれる佇まいであった。そして当日の最後に訪れたのは、豊後国一之宮「柚原(ゆすはら)八幡宮」(大分県大分市)であった。もう午後6時を過ぎた夕闇迫る時分に到着したので、社殿に向かう参道脇にあった当社の由来が書かれた看板を撮影した画像が上である。上の画像に映る由来書に境内の配置図があるのだが、当社本来の参道の方向が「シリウス方位(真南から東へ約20度の方角)」と読み取ることができた。また下の関連記事で取り上げたように、10月の合同展示会が開催された場所が”日本三大八幡宮”に数えられる「筥崎八幡宮」の御神前であり、当宮に関連する〈祭祀線〉から鎮座地を模索するなかで、参道の背後にある山上より「シリウス」が昇る方位が確認できた。※関連記事・・・展示会の後日談(筥崎宮編…上)加えて、「柚原八幡宮」の参道が示す「シリウス方位」は、全国八幡社の総本宮である豊前国一之宮「宇佐神宮」の上宮「二之御殿」から神体山「御許山」を指し示す方位と同じであることや、かつて神宮境内に鎮座していた神宮寺「弥勒(ミロク)寺」(御本尊…弥勒如来)を考え合わせると、そもそも《八幡信仰》の背景に「シリウス方位」を主軸とする《弥勒(ミロク)信仰》があったことを認識することができる。☆関連記事・・・「冬至」に向けて思い返せば西暦725年に「宇佐神宮」が創建されてから、今年は”御鎮座1300年”となる節目の年であった。というこで、この2025年の「冬至」である〔12月22日〕こそ、世にいう『弥勒の世(※)』の始まりを謳うに相応しい転機になったのではないかと、改めて感じる年の瀬である。(※ここで『弥勒の世』とは、物質的な豊かさと精神的な成長が調和した理想的社会のことを意味する。)
2025年12月30日
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今回の剣山登拝において、そのメインとなる場所とは、先ほど登頂した「次郎笈」から少し降ったところにあった。その場所には、とある界隈で噂の「鏡岩」があった。これまでも、私なりに列島各地の磐座を巡ってきたなかで、いわゆる「鏡岩」と称される岩石を何度か見てきたわけだが、剣山の「鏡岩」は別格で、その磨かれた岩面の反射率も凄いという噂を耳にしていた。ゆえに今回の剣山登拝において「次郎笈」まで足を運んだのは、その「鏡岩」を見るためだけであった。しかし、その目的の「鏡岩」が存在する場所を、事前に特定することができないまま…おそらくココだろう…くらいのアバウトな感覚で、現地に乗り込んだのであった。それほど情報が少なかったのである。濃霧で前方が見えづらいなか降る道中では、果たして「鏡岩」に辿り着けるかどうか不安になりつつも、それらしき大きな岩塊が眼前に現れてきたのは嬉しかった。(冒頭画像に映る岩塊が「鏡岩」の本体)その岩塊に近づきつつ、かつてネット画像で何度も見た、特徴のある「鏡岩」の”カット面”を確認することができ、とても安堵したことを憶えている。(画像に映る岩塊の左下が、カットされた鏡面の部分)この上の連続する二枚の画像は、この岩塊の下方部分の左上から右下にかけて、まるで一気に断裁したかのような見事な”カット面”を、少し角度を変えて撮影したものである。次に上の画像は、その岩塊の断面を鏡のように磨いたと思われる艶やかな岩面を、この「鏡岩」の正面に回り込み、上方から下方に向かって撮影したものである。そして上に並べた二枚の画像は、まるで鏡のように反射する様子がわかる証拠写真として、よく反射する部分の岩面に手指を当てて撮影したものだ。この場所に滞在した時間帯が、たまたま濃霧(霧雨)の天候だったこともあり、その岩面に当てた手指が、まるで鏡のように反射して石面に映り込んでいる様子が良く分かる。もちろん私なりの妄想ではあるが、やはりこの「鏡岩」における、この角度による岩塊の断裁や岩面の研磨等については、明らかに「人為的」だと思うのだが、それでは何時・誰が・何のために、この鏡のように光る岩を成形したのであろうか・・・。興味深いことに、現地でこの「鏡岩」の岩面が向かう方位を調べると、ほぼ真西であったことから、おそらく春分や秋分をはじめとする四季折々の節目となる日を選択し、西方に沈みゆく太陽光の反射を利用できる時間帯に、その「反射光」を活用した(例えばモールス信号などの)通信技術を用いて、この鏡岩が反射する光が届く山麓の住民と、この地域の生活に欠かせない情報を交換していたのではないか・・・。つまり、古代人が活用した「光通信ネットワーク」の受発信装置としての役割を、この「鏡岩」は担っていたと考えられるのである。それが「いつ」からかと問われれば、とりあえず「縄文時代」からと答えておこう。この上に並べた三枚の画像は、冒頭に掲げた角度の違う二枚の画像とは、ちょうど反対となる岩塊の側面から、その鏡面たる鋭いカット面と反射する姿を見てもらおうと、それぞれ角度を変えて掲載した。この現在の「鏡岩」の鏡面については、長年の浸食のために、良く反射する場所は限定されているのだが、その全体としての反射率は、今でも驚嘆に値するものがあると思われた。それにしても、この上下の画像に映る岩塊を古代人が加工し、おそらく「光通信」のための「鏡岩」を成形したと思われる場所では、それこそ古代文明の片鱗が今に伝わる「大いなるもの」を体感させられた、実に濃厚で充実した一時であった。さあこれから、いよいよ剣山山頂と宿泊施設に向かって、折り返し約2kmの縦走となる。この「鏡岩」での感動を胸に、現地到着までの道のりも存分に楽しもう!
2020年10月24日
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