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縁あって先月の末、〈宇宙の案内人〉とも称される人気ユーチューバーの”はっしー(橋本友明)”さんとの出会いがあり、急遽の取材を受けるかたちでYouTubeデビューとなった。(動画は以下のリンク)◎【立体造形家】子供から大人まで綿棒で思考の枠組みを作る体験を通して次元転換を図ろう「山本裕一さん」のお話良い感じで編集されており、私も《 今 》の段階において、伝えるべきことを伝えられたという実感がある。ここで推奨する「綿棒工作」は、この重要な転換期において、感情の揺さぶりに左右されずに物事を俯瞰して展望し、冷静に落ち着いて対応することのできる「認知能力」を高める可能性があると考えている。※関連記事・・・”綿棒”で【正八面体】に挑戦!※関連動画・・・【綿棒工作】…No.8〔フラワーオブライフ〕の作り方※関連記事・・・「弥勒(ミロク)下生」の時代へ…(上)※関連記事・・・「弥勒(ミロク)下生」の時代へ…(下)
2026年08月10日
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いよいよ今回は、〔綿棒〕でつくる「立体工作」の案内である。冒頭の画像では、「5つの正多面体」の軸線構成を紹介したが、画像下方の「3つの立体」が基本中の基本となる。(下方の3つは、向かって右から「正4面体・正8面体・正20面体」の軸線構成であり、この3種とも「3角形」だけの面でできているところが特徴だ。そして上方の2つは、向かって右が「正12面体」、向かって左が「正6面体」の軸線構成である。)今回の工作方法を知ることで、下方の「3つの立体」をつくることができたら「 すばらしい! 」ということで、タイトルは【 立体工作のご案内 】とした。それではまず、用意する材料から説明しよう。☆[ 綿 棒 ]・・・市販の綿棒(紙軸がよい)私の場合は、「細軸」の「赤ちゃん綿棒」(スリム綿棒)を使用している。その理由は、綿棒どうしをクロスさせて構成する場合に誤差が出にくいことと、そのフォルム自体の「美しさ」にある。ただ、普通の太軸綿棒に比べて値段が高いのが難点だ。(※市販のものは、細軸綿棒の200本入りが1パックで300~500円が相場)そこで値段と質から、全国チェーンの子供用品専門店「 西 松 屋 」のベビー用品コーナーに置いてある細軸スリム綿棒がおすすめである。210本入り×2個パック(計420本)で《 399円 (税込) 》と、安心価格で入手できる。ただし、写真の「3つの立体」だけをつくるのであれば、一般に普及しているの綿棒(太軸)で十分である。また、子供と作って遊ぶ場合も、細軸でない普通軸(太軸)の綿棒で間に合う。ただ、安価すぎるものは綿棒自体の構造に問題がある場合があるので気をつけたい。(※〔太軸綿棒〕は1パック200本入りで150円前後が目安)☆[ 接着剤 ]・・・ミツワの「 ペーパーセメント(Sコート)」(福岡工業〔株〕)これは「仮止め」の接着剤である。一般的には馴染みがないと思われるが、例えばかつて印刷会社の版下制作で使用していた「貼って剥がせる接着剤」である。20cc のチューブ入りで1本200円前後。慣れてくれば、このチューブ1本で、綿棒200本をまかなうことができる。(280mlの缶入りで千円位などもある)これは、画材店等で入手可能(無ければ注文できるはず)だが、一般の文房具店では扱っているところが少ない。都会では、東急ハンズやロフトなどで扱っている。どうしても入手困難な方は、ネット通販を利用されたし。とりあえず、この2つの材料がそろえば、工作の準備は整ったことになる。その他に、2~3の材料が必要だが、それは次の工作方法のところで、順次説明していくことにしよう。・・・《 工作方法 》・・・まず、机の上に台紙(A4の紙など)を置いて、接着剤が付いても汚れないように準備する。そして「乾燥台」を用意する。この乾燥台とは、綿棒の両端に接着剤を染み込ませた後に、その両端の綿部を乾かすために軸の部分を置く台という意味で、台所で使うサランラップ等の空箱でよい。また、綿棒を乾かすことができるような寸法に紙を折って、それを乾燥台にしてもよい。次に、右手(利き手)の親指と人差し指で、綿棒の「中央部」を挟んで持ち、その先端の綿部に接着剤を染み込ませる作業をするわけだが、その作業に都合がよいと思うところ(台紙の上)に、少量の接着剤を出してみよう。その接着剤に綿棒の片方の先端を付けて、ゆっくり回転させながら接着剤を付着させていく(綿部の先端から「3分の2」位まで)。そして、その同じ綿棒の上下を持ち替えて、もう一方の先端にも同様に接着剤を付着させ、乾燥台に並べ置いていく。後は次の一本、そして次の一本と、必要な本数まで同じ作業を続けていくというわけだ。その乾燥台に何本も綿棒を置いていく際に、それぞれ平行になるように置くことが基本ではあるが、綿棒どうしを合わせて置いても、少し離して置いていってもどちらでも良い。(※合わせて置いた場合は、綿部の付着部分を、一本一本やさしく丁寧に外してから工作することを心掛けたい。)その綿棒の先端部に付着させる接着剤の量は、ほどほどの適量があるのだが、付け過ぎても効果は同じで、付けなさ過ぎては接合に問題が出てくるということで、何度か経験してコツをつかむ他はないと言っておこう。そして、接着剤を両端に付着させた綿棒を乾燥台に置いていき《 約5分 》が経過すると、それぞれの綿棒の先端をつないでいくという要領で、立体工作が楽しめるようになるわけである。そこで、さらなる接着力を期待したい場合は、既に接着剤を染み込ませ乾かした綿棒の綿部に、もう一度同じ要領で両端の綿部に接着剤を染み込ませる方法がある。つまり接着剤を綿部に2回染み込ませるわけだが、これをやると接着力が強くなり、これを束ねて密閉保存すれば、経験則から約1ヵ月は接着力を維持できるはずだ。この「仮止め」の接着剤を利用する理由は、綿棒の両端を繋いだ接合部の「付け外し」ができるということにある。工作の過程で、接合部の繋ぎ方を失敗した(間違えた)と思っても、・・・優しく丁寧に・・・という綿棒の取り扱いに留意すれば、簡単に綿部の付け外しができたり「やり直し」が可能なので、自ずとその表現に自由度が増すことになり、想像力や創造力の喚起につながるというわけである。今回の工作テーマの「3つの立体」について、すでにその形状は説明したが、ここでその構成に必要な「綿棒」の本数を紹介しよう。[ 正4面体=6本 ・ 正8面体=12本 ・ 正20面体=30本 ](繰り返しになるが、この「3つの立体」だけをつくるのであれば、細軸の赤ちゃん綿棒ではなく、普通の太さの綿棒で事足りる。その理由は、この「3つの立体」は、綿棒どうしを交差させなくても、構成することができるからだ。)この画像に映る立体的な平面図形の類推から、この「3つの立体」を構成するのは難しいかもしれないが、他の類似サイトの検索を試みるなどして、「立体パズル」の感覚で取り組んでみてはいかがだろう。この「3つの立体」こそ、〔立体〕の基本中の基本になると思われるので、これらを作ることができるようになってから、他の種類の立体にチャレンジするなど、後は自由気ままに想像の翼を広げて立体工作を楽しんでもらえたら・・・と、そのように思うのである。ただし、この接着剤は、あくまでも「仮止め」の接着剤なので、作成した立体をそのまま放置していると、その接着度にもよるが約1週間で崩れてしまう。そこで、作った形を残したい場合の対策として、「木工用ボンド(水性)」に少量の水を混ぜて筆で溶き、構成した綿棒の接合した各部分に塗布すると、なかなか壊れずに長持ちすることになる。また、色を塗りたい場合は、接着剤を染み込ませる前に、ポスターカラーなどで綿棒全体に塗り、乾かしてから上記の工作に入る方法や、完成した作品に後からカラースプレー等で吹き付けて色付けする方法など、様々な手法が考えられる。[ 注意事項 ]言うまでも無いことだが、小さい子供と一緒に遊ぶ場合は、特に「接着剤」の取り扱いには十分注意していただきたい。小学校に入るまでの子供と遊ぶ場合は、事前に上記の「仕込み」を済ませてから、工作に入るのが望ましいと考える。また接着剤は、揮発する際に毒性がある(セメダインほどではない)ので、長時間使用する場合は、空気の循環のよいところでの使用をおすすめする。(※ある程度の時間を経て完全に揮発した場合には、毒性は無くなるとのことだ。)[ 特記事項 ] 写真の上方の2つの立体は、現段階でその作り方を伝えるのは、直接の伝授以外は難しいということを、ここでお断りしておきたいと思う。ちなみに「正12面体」の全体構成に必要な綿棒の数は、「120本」(この内、外枠だけの数は30本)であり、「正6面体」の全体構成に必要な綿棒の数は「36本」(この内、外枠だけの数は12本)である。特に「正12面体」の全体構成については、その設計図が無かったために、着想を抱いてから具体化できるまで、丸10年の熟成期間を必要としたという経緯がある。★関連記事・・・「正12面体」における新たな内部の相互関係について時間の許す人は、童心にかえって、色々な形を作って遊んでみて欲しい。実際に自分の手で、様々な形を作っていく過程で、もしかすると大切な「気づき」があるかも知れない。そして懸案の造形が完成したときの、何ともいえぬ《達成感》を味わっていただけたらと思う。ご家族のお子さんや、近くに子供がいたら、上記の[ 注意事項 ]に留意して、みんなで一緒に作ってみてはいかがだろう。子供が本来持つ創造力(想像力)の素晴らしさに、大人は感動することになると思う。(子供は5歳位から)立体の究極の形は「球」である。3次元立体の究極の形は「球体」なのだ。いろいろな立体に触れて、自分の手で造形を生み出していくうちに、おのずと私たちの生活環境である球状の「地球」は「ひとつ」だということに、そして私たち「人類」は「ひとつながりのいのち」だということに気づくようになるのではないか・・・。そして、このかけがえのない地球に生かされて生きている自分を如実に自覚できるようになり、この「ひとつ」しかない地球を大切にしたいという想いが湧いてくる・・・。そんな期待を胸に抱いて、「立体(たま)」の工作方法を公開した次第である。(※以上、2005年08月02日の日記より転載&校正)
2012年09月18日
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武雄神社は「御船山」の東麓に鎮座する。その御船山は「南嶽」と「北嶽」の二つの山からなり、その山容は奈良の「二上山」を髣髴とさせる。その「御船山」の全体像を撮影できなかったので、検索して探した画像がこれ(⇒リンク)。現在は向かって右側の「北嶽」の麓に社殿があるが、元々は向かって左側の「南嶽(標高207m)」の山頂に、「住吉神」と「武内宿禰」を祀ったのが武雄神社の創始ということである。その奈良の「二上山」を思わせる武雄神社の神体山「御船山」を展望した時、私には・・・この二峰からなる「御船山」こそ、正統竹内家(関連記事⇒リンク)の伝える《竹内神道の祭祀》を斎行できる「二上山」の原郷ではないか・・・と感じられた。加えて「武内宿禰」を調べていくと、「武内」の「武」は美称であり、「内(うち)」が本来の氏族名とのことで、さらに「内族」として調べると、次(以下抜粋)のように記してあった。○ウチはウツの転訛にて、内、打は、氏、宇治、宇智、宇遅、及び渦、珍、宇豆、宇都、宇津に同じ。古事記に木国造の祖 宇豆比古(うづひこ)と見え、景行紀三年条には紀直の遠祖 菟道彦(うぢひこ)と見ゆ。○紀国造の祖 宇遅比古命の妹・宇遅比女(亦は山下影日売とも云)は、孝元天皇の皇子 彦太忍信命の児 屋主忍男武雄心命の妻となり、武内宿禰を生む。○武内宿禰は「于地能阿曽(うちのあそ)」、「于知能阿曽」、或は「宇知能阿曽」と見え、「内の朝臣」の意味なり。○また、武内宿禰の兄は山代内臣の祖で味師内宿禰は山城国綴喜郡有智郷に住居す、有智郷に内神社(八幡市内里)がある。味師(うまし)、武(たけし)は美称なり。内宿禰の兄弟は菟道(宇遅)族にて、日槍族葛城氏と同族である。さらに検索を重ねると、朝鮮半島に現存する最古の歴史書「三国史記」との比較から、武内宿禰の正体を究明する論考(⇒リンク)に遭遇し、その鮮烈な内容に圧倒されつつ、歴史の闇は深いということを再認識させられた次第である。さて、武雄神社の左側裏手に回ると「武雄の大楠」という看板があり、続く細い道を現地に向かって歩いている時に撮影したものが上の画像である。(画像の遠方に映る山上部が、上記の御船山「北嶽」となる。)なんでも樹齢約3000年とも謳われる老楠なのだそうで、私たちはワクワクしながら小路を歩んだ。その道すがら、竹内(武内・建内)氏という名称の「竹」にちなむがごとく、まさに太くて雄々しき竹が林立しており、そのよく手入れの行き届いた竹林を映したものが上の画像だ。ちなみに「たけうちのすくね」とくれば、当て字として一般に「竹内」が主流となるが、正統竹内家の口伝によると、本来は「武内」や「建内」が正式で、鎌倉時代のときより「竹内宿禰」に書き換えられたらしいとのことである。そして、その青々と輝く竹林を抜けて辿り着いた山裾に、慄然と聳え立つ「武雄の大楠」を撮った画像が上。樹高30m・幹周り20m、枝張りは東西30m・南北33mの老楠は、市内最古の神社「武雄神社」の御神木である。折しも薄霞の森に浮かぶ大楠は実に幻想的で、その悠久の歴史を纏う姿に、私たちはしばし感動の渦に包まれた。
2014年03月08日
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明けて9月16日の午前6時、阿波国一宮「大麻比古(おおあさひこ)神社」(徳島県鳴門市大麻町)を訪れた。仕事始めに鳴る太鼓の響きと神主の祝詞奏上のなか、清々しく心地の良い参拝となった。当社の主祭神は、下方の由緒を映した画像に「大麻比古大神」とあるが、古伝によると阿波国(徳島県)を開拓した阿波忌部氏の祖「天日鷲命」の大先祖となる「天太玉命」と異名同神とされる。前回の日記でも、最後の方で「忌部氏(いんべし)」について取り上げたが、その由緒に関して分かりづらいと思われるので、ここで忌部氏に纏わる基礎知識ということで、以下に簡単な解説をしておきたい。古代祭祀氏族の「忌部氏」は、古来より宮廷祭祀における祭具の製造や、神殿や宮殿の造営に関わってきた氏族で、「天太玉命(あめのふとたまのみこと)」を祖神とする。この「天太玉命」を祖神とする忌部氏族は各地に広がっており、九州・紀伊半島・四国・房総半島に勢力を持っていたようである。ちなみに、忌部氏の斎部広成が編纂した『古語拾遺』では、祖神の「天太玉命」に従った五柱の神を「忌部五部神」として各忌部の祖としている。 以下、祖神に従っていた五神の簡明な系譜を挙げると・・・〇天日鷲命(あめのひわしのみこと):阿波(徳島県)忌部氏の祖…麻・木綿(ゆう)を納める〇手置帆負命(たおきほおひのみこと):讃岐(香川県)忌部氏の祖…竹や盾を納める 〇彦狭知命(ひこさしりのみこと):紀伊(和歌山県)忌部氏の祖…宮殿の木材を貢納〇櫛明玉命(くしあかるたまのみこと):出雲(島根県)忌部氏の祖…玉を貢納する 〇天目一箇命(あめのまひとつのみこと):筑紫(福岡県)忌部氏・伊勢(三重県)忌部氏の祖…鍛冶・・・以上となる。だがしかし、隆盛を誇った忌部氏も、AD645年の「乙巳の変(大化の改新)」によって蘇我氏本宗家が衰退すると共に、蘇我氏の強力な後ろ盾を失った忌部氏の祭祀職としての評価も弱まり、時には同じ祭祀氏族の中臣氏と協調し、時には対抗しながらも、最終的には凋落へと向かっていったのではないかと考えられている。※関連記事・・・縄文の華加えて、いつも引用している古代出雲王家である「富家」の伝承(以下の書籍)を参考にすると・・・※参考書籍・・・『出雲王国とヤマト政権』富士林雅樹 著 ・忌部氏は東出雲王家の「富家」の分家であり、出雲の玉造で王家の祭祀を始めとして祭具作製・宮殿造営を担っていた。特に、古代出雲の王族の証として欠かせなかった「玉・勾玉」の制作を、一手に引き受けていた氏族が忌部氏であった。・ところが、BC219年頃から出雲に渡来した「徐福」の一派を嫌って、東出雲王家の「天日方奇日方」(あめのひかたくしひかた)が大和葛城に移住を決めた時(BC2世紀頃)、出雲王家の親戚であり忌部氏の棟梁であった「天太玉(あめのふとだま)」を、自分の片腕として大和(奈良県)に連れて行った。・その後、葛城で勢力を強めた忌部氏は、大和朝廷では中臣氏と並ぶ「中央忌部氏(現在の奈良県橿原市を拠点とした忌部氏)」として宮中祭祀を担うようになっていった。・ そして現在、古代に「天太玉」が活躍した出雲の住居跡には、「天太玉命」を主祭神として祀る「忌部神社」(島根県松江市東忌部町)が建立され、移住した大和での本拠地には「天太玉命神社」(奈良県橿原市忌部町)が建てられている。・・・という以上の「天太玉命」に関する伝承と、上記の「忌部五部神」の系譜を俯瞰することで、謎の多い氏族とされる忌部氏の、今に連綿と続く営みの全体像を垣間見ることができるのかもしれない。さらにここで、上の画像の由緒にある別の祭神「猿田彦大神」について論じておきたい。この祭神は、昔は「大麻山(標高538m・当社の神体山)」の山頂(下の画像の社殿左上に映る山影)に祀られていたと由緒にあり、古くはこの猿田彦大神が主祭神として祀られていたという伝承もあることから、古代出雲族が信奉したサイノカミの「サルタヒコ大神」が、やはり古くからの元の主祭神ではなかったかと、前日に讃岐忌部氏の祀る大麻神社の神体山で、同じ山名の「大麻山」に登拝したこともあり、如実に感じられた次第である。以下に拙い文章だが、かつて忌部氏のことについて書いた記事をリンクしておこう。☆関連記事・・・忌部氏の蘇生☆関連記事・・・「麻」のこと☆関連記事・・・忌部氏の故郷を訪ねて
2020年10月09日
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「冬至」を節目とする冬の期間の、まだ暗いうちから夜明けに向かう時間帯において、まず「おうし座」の「プレアデス」、次に「アルデバラン」、そして「オリオン座」の「三ツ星」と「小三ツ星」、最後に「大犬座」の「シリウス」と、冬の夜空を彩る目星の星々が東方の地平線(水平線)に順番に昇っていく過程に「太陽」の朝日の光芒を迎えるという天体運行が、この地球の北半球の北緯30~40度近辺の各地では毎年、古代より儀礼的に観測されてきたことであろう。そして、25日のクリスマスを前にして、本日「天皇誕生日」の23日に、改めて「23」という「シリウス・ナンバー」を強く意識する今日この頃である。とある情報によれば、この「シリウス星系」を象徴する「23」とは、地球を含む太陽系の「内宇宙」を象徴する「22」と「外宇宙」を象徴する「24」を結ぶ、双方の《境界域》を示す数ということだ。また、話をマクロ宇宙からミクロ宇宙に展開させれば、この「23」とは、人間の持つ23対=46本の染色体の数につながることから、「22」から「23」の段階に至ることにより、いわば外部との接触が可能となり、23+23で「46」の世界へと飛躍するのであるまいか・・・。そして、さらにミクロな「原子」の世界に行くと、この「46」という数は「パラジウム」という原子番号にして、自然に生成される92種類の原子の半分の数であり、まさに《境界域》に存在する原子ということになる。この「パラジウム」という原子番号「46」の原子核構造は、古代から正多面体のなかで最も重要視されてきた「正12面体」であり、この件については何度かブログで取り上げてきた。◎関連記事・・・2007年12月7日・【 十 数 界 】この23×2の「46」が中心数となる「十数界」は、12月11日の日記《「十」の話から…(2)》で紐解いた九方陣の中心となる「五」の裏に隠れた「十」に連関することになり、またこの「十」は数と形の関係性から、「正12面体」の中心を透過する「十本の対角線」にも連関すると観ている。さて今日の画像は、本日の内容の終着点となる数の「十」を暗示する形たる「正12面体」の多線体(軸線構成)を、ある角度から撮影したものである。ところで、今年の「冬至」は、瀬戸内の波打ち際にある素敵な喫茶店で、知人と共にゆったりとした時間を過ごすことができた。その場所は、これまで何度も唱えてきた「冬の南北軸」でもあり「西日本の南北軸」でもある軸線上の、山口県の最南端に位置し、晴れた日には瀬戸内海を挟んで九州方面の山並みが展望できる。私たちは、眼前に広がる大海原を展望しつつ、この時代の移り変わりゆく諸相を大いに語らった。そして、知人の夢に聴こえてきた「十の鈴音」について話していた時だったであろう・・・その知人が遠方を航行する大型船を発見した。そこで思い出したのは、吉兆の初夢を誘う「宝船」の絵に添えられる、以下の「回文歌」であった。永き世の 「十」の眠りの みな目覚め 波乗り船の 音の良きかなその「十の鈴音」は、既に先月の満月の夜に鳴り響き、そして一陽来復の「冬至日」に、『それは皆が目覚める合図だったのですよ』と再認識したということになろうか・・・などと感じ始めた今日この頃である。
2012年12月23日
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前回と今回の日記の題目にある「弥勒(ミロク)下生」とは、大乗仏教の「弥勒菩薩」に関する代表的な経典の一つである「弥勒下生経」からの引用だ。ここで、その経典内容を要約すると・・・「菩薩」の段階で修行中の「弥勒菩薩」が、「釈迦如来」が入滅した後に”兜率天(とそつてん)”で「如来」(真理を悟った者)の境地に至り、そこで究極の「弥勒如来」へ昇格した後、天界から下界(人間界)へ降りて衆生(生きとし生けるもの)を救済する・・・となるであろう。そこで、当日記のタイトル【 真理探究と歴史探訪 】にあるように、私自身これまで”真理探究”の道中に得た情報等を集約すると、上記の「弥勒下生経」の内容は〔冬の星座〕の天体運行が基盤にあり、仏典で説かれる「釈迦如来」が居住した”兜率天”という「弥勒菩薩」の修行場とは、全天で一番輝く一等星の「シリウス」が真南から東に約20度ほど振れた方位に昇った際に、天頂近くで輝く”ぎょしゃ座”と考えられる。つまり、冬期のしかるべき時節を見計らい南方に昇る「シリウス」を確認できた時、”ぎょしゃ座”の一等星「カペラ」を含む《〔冬の星座〕の全体像 》を展望できるということだ。☆関連記事・・・【真理探究】37年さて上の画像に映る造形は、前回記事の中段に掲載した造形を別の角度から撮影したものだ。前回の記事内容と同様、本日の冒頭画像に映る造形と上の造形は「相似」の関係にあることが分かるであろう。興味深いことに、上掲画像に映る造形は計36本の綿棒で構成されており、”チベット仏教”ではその「36」という数が、「菩薩」から「如来」の境地に至るまでの「36」からなる修行段階を示しており、上にリンクした記事に書いてあるように”造形の中心の位置”である「37」に到達することで、「如来」(悟りの境地)に昇格する世界と認識することができる。ここで、この”数と形の関係性”を〔冬の星座〕の星々と関連付け、語呂合わせもよろしく「弥勒(ミロク)」の「36(ミロク)」段階からなる”菩薩行”と重ね合わせ想像を巡らせるとすれば、「弥勒」の”菩薩行”とは〔冬の星座〕の最下段に輝く「シリウス」から始まり、一等星から二等星クラスの計36を数える星々への転生(36段階の修行過程)を経て、最後の「37」となる天界の中心たる”ぎょしゃ座”の「カペラ」に到達し「弥勒如来」に昇格するということになろう。※関連記事・・・666(ミロク)の考察ところで、私なりの立体作品の制作方法は、いつの頃からか…内部構成を含む複合的な全体の構造を、”同じ長さの軸線”だけを用いて構築するというスタイル…となった。そこで、何故そうなったのか・・・その背景を自分なりに俯瞰してみると、それは構成単位である「綿棒(軸線)」に対する私なりの強い思い入れがあったことが判明した。つまり、私にとって一本一本の「綿棒」は、これを指で弾けば音の鳴る”弦”のイメージがあり、例えば”一本の弦(綿棒)”を爪弾くだけで、それを支える構造の全体が同じ音で響き合うという感覚なのだ。なので、もし弦の長さが一本でも違えば、一弦の音を鳴らしたとしても不協和音となり、”音響”としては成立しないというわけだ。そこでイメージを膨らませてみよう・・・今回の記事で取り上げた造形「フラワーオブライフ(立体版)」の構成に必要とした綿棒の総数は660本であった。今の私には、この計660本で一体化した造形が、”ひとつ”の大きな〔弦楽器〕に観えていて、この楽器を構成するたった一本の「弦(軸線)」を爪弾くだけで、その〔弦楽器〕の全体が単音で共振・共鳴するというイメージである。◎関連記事・・・バランスの究極(3)ここで何を伝えたいのかといえば、例えば660本の「同じ長さの〖軸線〗」で構成された造形が、言わば「同じ長さの〖霊魂〗」を備えた660人の人間が集合した姿に観えたとしよう。その構成人数の660人の中で、もしたった一人でも「悟りの境地(如来)」に到達したとすれば、その一人の醸し出す「如来」の響きが一瞬で構造の全域に浸透し、全体を構成する660人の全員が「如来」の境地へ向かう流れとなり、自ずと感応し”目覚める”というイメージだ。今の私にはこの「フラワーオブライフ(立体版)」は、まさしく「弥勒如来」を象徴する”形代”に観えており、おそらく私たち一人ひとりの日本人は”菩薩行”における最終段階の「弥勒菩薩」であり、いよいよ「弥勒如来」という「悟りの境地」に至る時代を迎えたと感じる今日この頃である。【 追 伸 】…本日の末尾画像に映る2つの造形は、様々な経緯により左側の金色の造形「準正32面体の軸線構成」は「釈迦如来」と感得した作品、そして右側の銀色の造形「フラワーオブライフ(立体版)」は「弥勒如来」と感得した作品である。これらの作品は先月の5月中に完成したわけだが、この今様”如来像”の二体が並ぶ姿は、手前味噌ながら作り手から見ても圧巻の雰囲気を漂わせていた。
2026年06月02日
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「次元」という言葉は「方向」を意味するという捉え方もあるので、同じ長さの五本の直線(方向)が、それぞれの直線の中心を共有するとした場合に、その中心を基点に展開して調和に至る形状は、平面図形では「十角形」となる。つまり、一つの「次元」が、一つの「方向」を示す一本の直線だとすれば、中心を共有する五本の直線がバランスよく交差すると、結果的に「十角形」を形成することになる。ということは・・・「五次元」とは「十角形」と見立てられる・・・ということになるわけだ。(※もちろん、その「見立て」とは、あくまでも「方便」として・・・である。)さて今日の画像は、以上の意味合いを含めて表現した「五次元」を象徴する立体図形である。この図形では、「五角形」と「十角形」の関係性を読み取ることができ、例えば、中央部の朱色の「五角形」を形成する各辺が、外側に平行移動して「十角形」を構成していくシュミレーションなど、人それぞれのイメージングで色々と楽しめることと思う。
2009年10月20日
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それは2003年の年末だった。今から約9500年前の縄文早期の定住跡が発見されたという鹿児島の国分市にある上野原縄文遺跡に行った。今まで国内の縄文遺跡を10箇所以上巡り歩いてきたなかで、最も古い遺跡だった。定住跡には住居が復元されているところもあり、歴史の現場をゆっくりと歩き、そのたたずまいを味わうことができた。ありがたいことに、その年にできた展示館も見ることができた。そこで縄文時代の文化財を代表する土器を見たときに、私は度肝を抜かれた思いをした。(やはり、ドキだけにドギモである・・・)いままで各地で様々な縄文土器を見てきたが、私が訪れてきたなかで最も古い遺跡から出土した土器に、なぜか洗練された「新しさ」を強く感じたのである。南九州の縄文土器は、縄の紋ではなく貝殻を用いたデザインが主流のようで、貝紋土器とされている。土器の口は、丸型・四角・レモン型(菱形に丸みがついた感じ)の3種類が基本とされていて、その口の大きさは両方の手の平で囲めるくらいだった。まるで熱伝導の効率を考えたような薄手のつくりと長さ、そして全体的な大きさなのである。今まで出会った縄文土器の中で、その「美しさ」は際立っていた。特に「形」にこだわりのある私にとっては、3種類の土器の口の中で、レモン型に魅かれた。(丸と四角は、男性原理と女性原理をそれぞれ象徴的にあらわした形とされていることが多い。男性が丸で女性が四角など、その反対の解釈もある)その丸と四角の中庸のかたちとも受け止められ、菱形をアレンジしたような「レモン型」の口を持つ土器に感動、大満足のなか帰途についた。ちなみに、南九州では桜島をはじめとする火山活動が活発なため、噴火の際には大量の火山灰が降り注ぐことになる。縄文土器と弥生土器の区別が初めてつけられたのは、薩摩半島の南端、指宿にある縄文遺跡だったということである。かような強い感動と喜びがあった旅の場合、あとから相応の形が生まれてくる場合がある。その時の感動を形にした造形が「菱形30面体」であった。(写真の造形)ここで、私の造形の手法を簡単に説明すると、生活用品の「綿棒(同じ長さの軸線)」をもちい、たくさんの綿棒の両端に接着剤(ペーパーセメントなど)を染み込ませて、それぞれの両端を結び合わせつつ立体を構成していくやり方である。その際、その立体の外枠だけの構成では不安定なので、内部の構造の安定化も考えて、ひとつながりの全体構造を織り成していくわけである。実は数年前から、この「菱型30面体」の構造安定化に取り組み、何度かの試案の作成を経て、その全体構成は自分なりには完成していたと思っていた。しかし、この期におよんで、その年の大晦日に真実の立体構成にたどり着けたのであった。その構成本数は、試案の過程で次第に少なくなっていき、これしかないという骨組みしか残らない造形で、手前味噌ではあるが、それは「美しき構造」となった。菱形30面体は、黄金率の菱形の面が、全部で30面で構成されているとするのが、従来の基本的なとらえかたとなる。立体を何「面体」というように、「面」を主体に立体をとらえる発想が主流であったために、その全体を支えているはずの内部構造がどうなっているかというところまでは、一般的には考えが及ばなかったのではないか・・・。立体とは、内側の構造の安定が確実となってはじめて、外面を含む全体構成が可能となる。これが、立体構成を楽しむ者の醍醐味でもある。このことは、人間は外面よりも内面の方が重要だということと関連する気がしてくる。その内部構造を含む「菱形30面体」の立体構成は、面の構成単位である黄金率の菱形が、外側の面だけではなく、内側にもあらゆる角度から、連綿と平行移動していく感じの構成で、内外はともに同じ規格の菱形だけでできていた。縄文早期の土器にあった菱形(レモン型)の造形が、結果的に「菱形30面体」の本質的な構造を導き出してくれた。偶然がないとすれば、そう考えてみたい。日本人とは、日本文化とは何なのか・・・日本各地の歴史の現場を訪ね歩くなかで、全国一宮巡りを約9割達成した後に、日本文化の柱は縄文にあると直観した。それから、数々の縄文遺跡巡りを経て、縄文時代の最古期にあたる住居跡に立つ。自分のルーツを訪ねる旅でもあり、そのなかで立体構成の手法を授かってきた。そして、私の歴史探訪の旅は、ついに真理探究の道と融和したのである。つまり、自分探しの歴史の探訪は、究極は「宇宙の始まり」まで行き着くのであり、また真理を探究する際の手がかりとなる立体構成は、自分の手の内にありながらも、その究極は「宇宙の始まりと終わり」を含む、「宇宙の秩序」に関係するからである。そんな実感をいだきつつ、2004年の元旦を迎えたことを覚えている。
2005年06月26日
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どうも最近は「いわと」という言葉が気になっている。この言葉に当たる漢字にタイトルの「岩戸」もあるのだが、その読みに数を当てて「一八十」とするとらえかたがある。たまたまネットサーフィンしていると、ある文章に目が止まった。そこには、「岩戸(一八十)開きとは、一から八までの世界を十の世界にまで開くことである。」(「八方世界」から「十方世界」へ開くこと)と記してあった。つまり、われわれの世界は、一から八までの「一八=いわ=岩」の中の世界であり、「九」と「十」がその「岩」の外の世界ということらしい。(岩戸の中に隠れている天照大神とは、私たち一人一人のこと)そして、「岩戸開き」をするというのは、一から八までの世界と、九・十の世界をひとつにして、「一二三四五六七八九十(ひ・ふ・み・よ・い・む・な・や・ここの・たり)」の世界に結ぶこととあった。「真理探究」の手懸かりとして「数と形の関係性」に注目する私には、ここでその「いわと=岩戸=一八十」の《形》が観えてきた。その形の候補として取り上げたのが、今日の画像の「立体八角形」である。上述の「八方世界」とは、四正四隅の「東・西・南・北・東北・東南・西南・西北」の八方位のことであり、これを一から八までの世界とみることができる。つまり「八方世界」とは、四方八方の「平面の世界観」と言えよう。そして「十方世界」とは、この「八方世界(一から八までの平面世界)」に、「九・十」に相当する「天・地(上・下)」を貫く「宇宙軸(垂直軸)」をくわえた「立体の世界観」のことである。この関係を画像の「立体八角形」で説明すると、一見すると平面図形に見える八角形が「八方世界」であり、この造形の中心を垂直視する視線を「九十(天地)」を貫く宇宙軸として加えることで、これを「十方世界」と見立てることができるというわけだ。つまり「岩戸開き」の象徴的な表現である「八方世界から十方世界への開き」とは、「二次元の平面観」から「三次元の立体観」への認識の転換、すなわち物事を認識する世界観の《次元転換》を意味しているのではないか、と推測するわけである。例えば月面に立って地球を眺めるような視線、つまり物事を鳥瞰(俯瞰)して観る視線(あるいは平面図形を垂直視する視線)を、「次元の方向性」として意識的に感じてみるところから、ひとりひとりの「岩戸開き」が始まるのかも知れない・・・。《 追伸 》「平成で岩戸が成る」という観方がある。平成の「平」の漢字を、「一八十」の数字の統合と観て、今年の18年で成年を迎えるというとらえ方だ。(昔は18歳が成人の年齢だった)そして「ミロクの世へとひっくり返る」と続く。この「ミロク」の言葉は、「369」・「666」・「567」などの数に置き換えられ、どれも加えると「18」となり、これが「ミロク」をあらわす本質的な数であろう。そもそも「岩戸開き」は、日本神話の物語であり、太陽信仰にまつわる話だ。とすると、「冬至」が年始とされたのは歴史時代に入ってからとされ、歴史をさかのぼれば太古の年始は(世界レベルでみても)「春分の日」に絞られてくる。今年、平成18年3月21日(春分)をはさむ7日間(18~24日)は、「岩戸開き」を迎える転機かも・・・。いままで見えなかったものが観えてきて、ひとりひとりが「虚構」を見抜き、「真実」を洞察する視線を獲得できますように。
2006年03月18日
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昭和57年(1982年)5月17日の未明に見た「3と7」という夢の啓示から始まった私なりの「真理探究」の道は、本日の令和元年(2019年)5月17日をもって38年目を迎えた。 ☆関連記事・・・真理探究36年目の確認 ということは、これまで「数と形との関係性」を基盤とする《真理の探究》に、丸37年を費やしてきたことになり、我ながら長い道のりだったと反芻するところである。 「3と7」の啓示から「37」年を経たという、私にとって大きな節目を迎えたからであろう…早朝から様々なインスピレーションが浮かんできたが、その中で最も印象に残った「文言」は以下であった。 ・・・・・「弥勒如来(みろくにょらい)」の御正体は、ぎょしゃ座の「カペラ」である。・・・・・ この「文言」を書き記したのは、これも必然の成り行きであろう…本日5月17日の午前5時17分である。 この月日と時間の同じ「数」の連続性は、啓示のあった昭和57年の和数表記「五十七」にも繋がる感覚が沸々と湧いてきて、個人的にワクワクしてくるのであった。ちなみに「57」とは、かつて「弥勒」と共に「兜率天」に居住していたと伝わる「釈迦(しゃか)」を意味する数霊(かずたま)である。 さて、上記の「文言」についてであるが、「九州」の全体を天体の「ぎょしゃ座」を地上投影した地域と見立てた場合、ぎょしゃ座の一等星「カペラ」の投影地が大分県宇佐市に鎮座する豊前国一の宮「宇佐神宮」と想定されることは、この日記でも現地を探訪した記事として何度か取り上げてきた。 ☆関連記事・・・そして、豊前の「鹿嵐山」へ・・・(3) その全国八幡神社の総本宮「宇佐神宮」に投影された思しき《ぎょしゃ座の「カペラ」》・・・。 その「カペラ」をあらわす象徴言語たる「弥勒如来」が、当神宮に安置された分かりやすい例を挙げるとすれば、境内地にあって現在は寺跡の遺構を残すのみとなった「弥勒寺」(宇佐神宮の神宮寺)の御本尊「弥勒如来(弥勒大仏)」であろう。 ☆関連記事・・・「冬の星座」に隠された古代信仰 上記の「宇佐神宮」の鎮座する宇佐市域は、山口県の県央部から見て(瀬戸内海を挟み)ほぼ真南の方位にあり、この日記で何度も唱えてきた「山口と九州を貫く南北軸」の軸線上に位置している。 ☆関連記事・・・山口と九州を貫く南北軸 ある仏典によると、「弥勒(みろく)」が「菩薩」の修行過程にあるとされる36段階を上昇し、「釈迦」と同じ最上段「37」の「悟り(真理の会得)の境地」に立った尊称こそ「弥勒如来」であった・・・。 お陰さまで【真理探究】37年の年月を経て、暗天に燦然と輝く「カペラ」の光芒に、悟りの境地に達した「弥勒如来」の威光を垣間見る今日この頃である。
2019年05月17日
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それは偶然のようにみえて、必然の流れだったのであろう・・・昨日の夜は結果的に、三柱の女神のはたらきが、まるで三つ巴の螺旋を描くかのように離散集合を繰り返し、「ひとつ」に集約されていく気配を感じるという、私としてはかなり大きな転期だったような気がしている。実はその「きっかけ」となったのが、本日掲載した「ひもろぎ(神籬)」と「いわさか(磐境)」を映した画像だったと、今宵は昨日の出来事を反芻しているところだ。この画像は、中央に屹立する「ナギの木」(国指定天然記念物)が「ひもろぎ」、そしてその下方に位置する苔むした岩石を「いわさか」とする見立てで、その「聖なる樹木と聖なる岩石」は、双方が寄り添うというよりも、既に「ひとつ」となった風情を醸し出しており、太古日本の祭祀形態を今に伝えるような佇まいを感じる。(以下はブログ内の関連記事)2008年7月11日の日記・「イワナガヒメとコノハナサクヤヒメ」http://plaza.rakuten.co.jp/opektal/diary/200807110000/数日前にこの画像の写真を、ある感性の豊かな知人に披露したところ、「イワナガヒメ」が観えるということから、もう一度同じ写真の原版を見てみたいということで、昨日改めて現像してみたものが今日の画像である。(この写真の撮影は2002年5月初旬)上記の2008年7月11日の日記に掲載した画像と同じだが、また少し違った趣が感じられると思う。(今回の現像により、画像の下方にピンク色の光が隠れていたのを確認できた。)さて、そのような背景があって昨日の夜、ほぼ同じ時間帯に「ニシキトベ」に深い関わりのある方、そして今「ヤサカトメ」に強く惹かれている別の方から連絡が入った。この二柱の女神を簡単に紹介すると、「ニシキトベ(丹敷戸畔)」は神武軍との戦い敗れたとされる紀州熊野は先住民の女酋長で、丹生都比売(ニュウツヒメ)につながる・・・「ヤサカトメ(八坂刀売命)」は諏訪大社の下社の祭神で、建御名方命(タケミナカタ)の妻である・・・となろう。そして、この二種類の神名に共通するのは「トベ(トメ)」であり、共に古代日本の女性酋長(女酋)をあらわす言葉なのだそうだ。加えてこの二柱の女神は、共に古代の「出雲」に関係することもわかってきたのである。さらにその海人族系「出雲(いづも)」の、さらに大元となる候補地を含めて、九州北部の博多湾に浮かぶ〔志賀島〕を根拠地とする海人族系「阿曇(あづみ)」が想定されることから、近くの高祖山地(福岡県)の「くしふる山」の麓か、あるいはその近辺を拠点としていたであろう女酋「イワナガヒメ」が浮かび上がってくるのであった。奇しくも先月の4月26日の日記で紹介した書籍、『 日本神話と古代史の真実 』 松重楊江 著(たま出版2010.4.12初版)によると、そのの冒頭には・・・吉武高木に王宮のあった「磐長姫(イワナガヒメ)」は、初代の猿田彦命(サルタヒコ)が病死したのちに、女王となって王権を継ぎ、長く君臨した・・・とあり、その「サルタヒコ」の妻だった「イワナガヒメ」を、「卑弥呼(天照大神)」以前に実在した「女王の魁」としている。以上・・・どうやらこれは繋がっていて、いよいよ《「イワナガヒメ」のおでまし》ではないか・・・という直感のもとに、拙い文章を披露した次第である。ちなみに、日本の国歌『君が代』は、その「磐長姫」を讃える御歌とする説もあり、実に興味深い。〔 君が代は 千代に八千代に さざれ石の 巌(いわお)となりて 苔(こけ)のむすまで 〕
2010年05月10日
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ある書籍を読んでいると、新説として「天之御中主は志賀島の主」とあった。(忘れられた上代の都「伊都国日向の宮」 石井好 著・郁朋社 刊)この「天之御中主(アメノミナカヌシ)」とは、日本神話「古事記」の冒頭に出てくる「天地初発の神」である。「天空の星々」と「神話の神々」との間に相互関係が見出せるという観点から、このブログ上では一貫して「天之御中主」を「北極星」と見立てる解釈で論じてきた。しかし、上記の書籍によると、中国史書の「宗氏日本伝」の記録では、「天之御中主」は実在した初代の「伊都王」としており、『天之御中主から彦なぎさまで二十三世、みな筑紫の日向の宮に都した』と明記されているとのことだ。そして、ある古代の年代を算出する計算法によれば、「天之御中主」は西暦50年頃の「伊都王」と計算でき、あの志賀島で出土した「漢委奴国王」の金印は、皇室始祖たる「天之御中主」の印綬と推考できるそうである。(金印下賜は西暦57年)ちなみに、「漢委奴国王」は「かんのなのわのこくおう」と読むのが通説だが、著者は「かんのいとのこくおう」と読むのが相応しいとして、金印出土の志賀島が伊都国の国領と考えられることからも、金印に刻まれた「委奴国王」は「伊都国王」を示す可能性が高いと指摘している。ここで、かつて福岡市博物館に展示されている実物の「金印」を、長時間まじまじと見つめながら妄想に耽っていた自分を思い出したが、今ここでこの金印が皇室始祖の「天之御中主」に下賜された可能性を想う時、実に感慨深いものを覚える次第である。この書籍を読んでいて、特に強い印象として心に残ったのは、この「天之御中主」を祀る神社が、志賀島は北端の沖津島に「沖津宮」として存在することを知ったことだった。とりわけこの志賀島は、「天之御中主」を祀る祭祀の比率という観点では、その祭祀の密度を含めて日本一の数値を示すということだ。ここで思い出したのは、2007年5月3日のブログにも書いたが、かつてこの沖津島に渡ったことがあり、その島の高台にある「沖津宮」に参拝したことがあったということ。その「沖津宮」の祭神が「天之御中主」だったとは・・・。思い返せば、当時の沖津島での「調査」により採取した小石の主成分が「パラジウム」とわかり、そのパラジウムの原子核構造と「正12面体」との連関等について記したのは、2007年12月6日のブログだった。そしてこの度、「天之御中主」が「沖津宮」の祭神と知り、本日改めて「正12面体」の軸線構造を映した画像を掲載したいと思った。不思議なことに、この180本の軸線で構成した「正12面体」は、なぜか「黒」や「紫」で塗布したくなるのである。その理由はもしかすると、「天之御中主」にあったのではないか・・・と、今の私は感じている。陰陽五行説によると、方位の「北」をあらわす色は「黒(紫)」とされており、志賀島は博多湾の〔北方〕の中央にある島であり、「天之御中主」を祀る沖津宮は志賀島〔北端〕の沖津島に鎮座している。また、「天之御中主」を「北極星」と見立てる関係性からも、やはりこの「正12面体」は「黒(紫)」が相応しい色と感じたわけである。この「天之御中主」という神名は、「海の真ん中にいた王」の意味合いなので、博多湾の真ん中にある金印出土の志賀島が自ずと浮かんでくること。その「天之御中主」を祀る志賀島北端の沖津島で採取した石の成分が、「パラジウム」だったこと。この原子番号46の「パラジウム」の原子核構造は、「正12面体」が想定されるということ。その「パラジウム」は、92まである原子の丁度「中央」にある原子で、構造的にも安定していること。古代ギリシャ時代から「正12面体」は、基本立体のなかで最も重要視された造形だったこと。今これらの要素を俯瞰して眺めていると、それらが絶妙に関連して「ひとつ」に融和し、この「正12面体」の構造が「ミナカヌシ」に観えてきたから不思議である。
2008年07月09日
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さて信濃(長野県)に投影された「さそり座」の星々を、諏訪湖から尖石遺跡と縫うようにして次に訪れたのは、八ヶ岳の西南麓にある史跡「井戸尻縄文遺跡」に隣接する「井戸尻考古館」であった。現地の駐車場で車を降りると、周囲は奥深い山々の景観が広がり、中でも一際目を引く南アルプスの名峰「甲斐 駒ケ岳山(標高2,967m)」を中央にして撮影した画像が冒頭である。上の画像に映る縄文土器「水煙渦巻文深鉢」(曽利遺跡 出土・約4500年前)は、当館を代表する資料の一つとされている。この芸術性豊かな土器は、昭和38年にパリで開催された「日本古美術展」に出展され、日本の古代文化の素晴らしさを多くの人に伝えた、学術的にも非常に価値の高い資料とされている。この表現力に富んだ土器を眺めつつ・・・なんだか馴染みがあるな・・・と思っていると、画像の左側に映る解説に、昭和47年に郵便はがき(10円)の意匠として採用され、昭和51年の料金改定まで全国で使用されていたことが書かれていた。次に上の画像に映る土器は、「人体絵画土器」と称される資料で、黒色の顔料で女性が出産する様子が描かれている。この下の画像は、上の画像と同じ土器の、その下方にある人体絵画を拡大して映したもので、このように具象的な絵画が描かれた土器は、他に類例がないとのことだ。素朴な表現でありながら、その写実的な筆使いに目を見張るひとときであった。さて上の画像は、井戸尻遺跡のある地域で出土した糸魚川(姫川)産の「ヒスイ製の玉類」を映したものである。古代人の装いに「ヒスイの玉」は欠かせなかったのであろう・・・その玉類の装飾文化は、縄文時代から弥生・古墳時代と継承され、蘇我氏は5世紀後半から6世紀前半、奈良県樫原市の蘇我遺跡に大規模な勾玉の官営工房をもっていたことが分かっている。★関連記事・・・縄文の華ここで注目したいのは、上のリンクでも取り上げたように、その勾玉の官営工房は他地域のそれと同じく六世紀前半には、縄文系譜の装飾文化たる「ヒスイの玉造り」が突如廃止されたということ・・・。なぜ、そうなったのか?・・・この日記の読者には、その経緯がお分かりであろう。上の画像は、前回の日記に続いて、当館で確認できた数々の「みづち紋様」の一つを紹介しておきたい。そして下の画像は、縄文時代前期の「渦巻文朝顔形土器」を映したもので、洗練された気品さえ感じられる造形美に心を打たれた逸品である。縄文時代前期の古代人が、これほど卓越した立体的表現力を持っていたことを思うと、もはや感動を通り越して唖然としてしまうのであった。実はこの「井戸尻縄文遺跡」については、2013年の秋に新潟県の【火焔土器ミュージアム「馬高縄文館」】を見学(以下のリンク)した折に、館内の特別展示コーナーで井戸尻遺跡から出土した縄文土器の数点を見て知ることとなり、これほど素晴らしい資料が出土した遺跡には、機会があれば是非訪ねてみたいと感じたことがあった。◎関連記事・・・「秋」の旅日記(5)「井戸尻考古館」には、もちろん今回取り上げた土器類の他にも、芸術性の高い数多くの資料が展示してあるのだが、これは素晴らしい!と感じる資料の多くが残念ながら撮影禁止となっていたので、「縄文文化」に関心のある方は「土器あたり」(笑)になることを覚悟で、現地へ足を運んでみてはいかがだろう。さて本日の最後に掲載する下の画像は、当館の駐車場から「富士山」を映したものである。画像では見えにくいと思うが、前方に連なる森林の中央部遠方に、かすかに富士山のシルエットが確認できるはずだ。当地から「富士山」が見えることを知ったのは、当館の学芸員の方に遺跡周辺の環境について尋ねたときであった。その際に、冒頭画像の南アルプスの連峰や八ヶ岳をはじめ、東南方面には「富士山」が見えることを教わり、館内を出て該当方位を展望した際に視認することができ、その感動たるや・・・であった。なるほど・・・近辺の地質構造が世界に類を見ないほどに複雑に交じり合った場所にあって、その周囲は「富士山」まで展望できる抜群の環境を生活の拠点とした縄文人であったからこそ、これほど別格の芸術性に優れた意匠の土器を制作することができたのであろう・・・などと、ひとり合点がいくのであった。
2018年06月14日
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前回の日記で・・・「シリウス信仰」に纏わる祭祀線が見出せた・・・と書いたが、そのシリウスを祀る中心的な施設と思われる「志登神社」(福岡県糸島市志登)を映した画像が上、そしてその由来が記された石碑が下の画像である。この「豊玉姫(とよたまひめ)命」を主祭神とする「志登(しと)神社」は、古代の「伊都国(いとのくに)」があったとされる糸島半島の中央部に鎮座し、多くは次に紹介する記事(⇒ リンク)のように、年毎の太陽運行を観測する測量地点だったと推測されてきた。ところが今年の春分の頃に、糸島市においては当社と北方の二見ヶ浦にある「夫婦岩」(以下の二つの画像)の二箇所を、夕暮れに間に合うよう短時間で訪ねたことにより、結果的にこの「夫婦岩と志登神社を結ぶ軸線」が、冬至の頃にシリウスが昇る真南から東に約20度の方向を示すことが分かったのだった。・・・この地域では、「太陽信仰」が根付く前に、「シリウス信仰」があったのではなかろうか・・・。またそれと同時に、次に挙げる志登神社の位置を示す地図(⇒ リンク)を拡大していくと分かるように、当社の近辺とその南方に拡がる現在の区画が、まるで上記のシリウス出現の方位を示す軸線に沿うかのように重ね合わせて観えてくるのだった。◎関連記事・・・2007年12月20日 「冬至」に向けて ⇒ リンクこの上下の画像に映る「夫婦岩」は、今でこそ夏至の日の入を示す磐座として有名だが、この二つの大岩の割れた方向を方位磁石で確認してみると、私的にはシリウスに纏わる上記の方位と感じられたので、もしかすると・・・ということでその軸線を南方に伸ばしていくと、予想通りに「志登神社」が鎮座していたということである。現在この二見ヶ浦の「夫婦岩」は、近くの桜井神社の社地として崇敬されているが、この桜井神社の創建は江戸時代の寛永二年(1625年)とそれほど古くないことなどから、往古より糸島の全域を治める祭祀を司ってきた「志登神社」の管轄だったと考えられる。更に後日になって、九州北部における古代の天文・地文に詳しい『 儺の國の星(なのくにのほし)』(真鍋大覚 著)に目を通していると、この糸島地区の旧国名「伊都国」の「伊都(いと)」とは、「シリウス」を意味する旨が明確に記されていたことから、この地域に根付いたであろう「シリウス信仰」は、私の中で確信に至るのであった。前回の日記で書いたように・・・「柱島」と「雷山」を結ぶ縄文時代の南北軸・・・の軸線を踏まえて推考するに、おそらく志登神社の鎮座する場所とは、縄文時代にはシリウスや北極星などの航海の目星となる星々を、古代海人族が観測する拠点としての役割が大元であり、やがて弥生時代になると太陽運行の観測を主流とする聖地になっていったのではあるまいか・・・。ここである想いが脳裏を過ぎった。その古代「伊都国」の要を担う祭祀場たる「志登神社」の主祭神は「豊玉姫命」・・・。その「豊玉姫(とよたまひめ)」という神名が意味するところの本質とは、太古より世界各地で《豊穣の女神》と讃えられてきた天体「シリウス」に違いない・・・と、そのように感じ始めた今日この頃である。
2016年04月13日
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8月6日から二泊三日は軽井沢~北軽井沢に滞在した。先月の中旬に富士登山を果たせた私は、今回の旅路の過程に、その北方にある「浅間山」も見ておきたかったのである。まず、久しぶりに再会した知人の案内で、浅間山の南麓にある浅間神社に参拝した。興味深いことに、その社の祭神は、「オオヤマヅミ」と「イワナガヒメ」の二柱の神で、「コノハナサクヤヒメ」は入っていなかった。その理由は翌日、浅間山の北麓にある火山博物館にて知ることとなった。その館内に設置された、まるで「オオヤマヅミ」を思わせるような動く人形が語るには、・・・浅間山と富士山が同時に荒れた時、「オオヤマヅミ」は「イワナガヒメ」を浅間山に、「コノハナサクヤヒメ」を富士山に住まわせた・・・なるほど・・・となれば、イワナガヒメとコノハナサクヤヒメの姉妹神は、その父神たるオオヤマヅミの采配で、おそらくは「火伏の神」として配置された・・・。ということは、この姉妹神は共に、「水神」の性質を有していたと解釈することもできよう。加えて「アサマ」とは、古代アイヌ語で「火を噴く山」を意味するという説があり、古代において浅間山と富士山が同じ時期に噴火していたとすれば、共に「アサマ」と発音されて、現在は浅間山の方は山名として、そして富士山の方は「コノハナサクヤヒメ」を主神として祀る浅間神社として、「浅間」という名称が残ったと推考できる。しばらくすると、そうか・・・姉神のイワナガヒメが浅間山で、妹神のコノハナサクヤヒメが富士山だとすれば、その姉妹神の親神であるオオヤマヅミを象徴する山があるかもしれない・・・ということで、地図上に双方の山頂を結ぶ線を引いてみたくなった。その時、たまたま知人が地図を持参していたので、その浅間山と富士山を結ぶ線を想定して、その軸線の中央部にある山に「金峰山」を見出せたのは嬉しかった。その時の私は瞬時に、「これぞオオヤマヅミの山なり!」と直感したことを覚えている。この金峰山については、かつてこのブログでも取り上げたことがあった。(以下のURL)関連記事・・・2008年5月18日の日記『カイラスへの想い』さて今日の画像は8月8日の朝、北軽井沢(群馬県)方面から見た「浅間山」を撮影したものだ。前日までは曇ってなかなか山頂部まで拝めなかったが、上述の「親子関係」が見出せたこともあり、晴れ晴れとした心境で、美しき「イワナガヒメ」を展望することができた。
2011年08月19日
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最近、「龍神」にまつわる話を良く聞くのだが、その本質は何だろうと探りを入れたことがある。どうもその正体は、「北辰信仰」にあるらしい。その「北辰」とは、北極星と北斗七星のことで、北極星を中心に巡る北斗七星を信仰の対象とする中国思想からきている。よく神社や仏閣で見かける、「玉」を手にした「龍」の姿とは、「玉」が「北極星」であり、「龍」が「北斗七星」と解くことができる・・・という記述が何かの文献にあったと思うのだが・・・。古代中国では、「皇帝」は「北極星」と位置づけられていたので、おそらくは群臣などの取巻き(北斗七星)を含めた「龍神」の意匠は、あの権力志向が強調された威厳のある図柄となっていったことが想像できる。ところで、これまで何度か日記でも取り上げたが、今回の「媼(おうな)」という創作舞踊の公演(11月10日)にまつわる旅路の初日は、10月17日の「出雲」から始まった。その17日の当日は、世界レベルで浸透したあるイベントの日取り・・・言わば「一粒万倍日」とされた特別な日ということで、公演に深い関わりのある御一行も、そのピーク時に相当する午後5時10分頃までには、しかるべきところに到着していたいという意向があった。その「しかるべきところ」とは、島根県平田市にある「鰐淵(がくえん)寺」というお寺であり、その根本堂の左手にある鎮守の「摩多羅(またら)神社」であった。(この「鰐淵寺」は、出雲国はもとより、山陰でも屈指の天台宗の古刹である。)当日は私の車での御一行の案内だったが、何度も道を間違えつつも、懸案の時間にギリギリ間に合うかたちで現地に到着。境内には他に誰もいない夕暮れ時、ようやく辿りついた「摩多羅神社」の神前で、祝詞奏上から五十鈴の奉納など、一連の儀式がつづいた・・・。この摩多羅神社に祀られた「摩多羅神」とは、北斗七星の輔星(漢名は「ほせい」)の「アルコル」だと聞き知っていたので、私はなぜ「アルコル」たる「摩多羅神」のもとで、10月17日の午後5時10分だったのだろう・・・と、その儀式の最中も頭を離れなかった。この「アルコル」(その意味は「かすかなもの」)とは、北斗七星の柄の先から二つ目の星のミザールに寄り添っている暗い星のこと。和名は「そえぼし」が代表的で、大きな星に添えられている小さな星という意味である。ちなみに和漢三才図会には、「輔星(アルコル)明らかにして、北斗(北斗七星)明らかならざれば、すなわち君弱く臣強し。北斗明らかにして輔星明らかならざれば、即ち君強く臣弱し。輔星若し明らかに大にして北斗と合う時は、即ち兵にわかに起こる。」とあり、「輔星」の担う役割の重要性を詠っている。また日本の仏画等には、北斗七星とともにこの輔星もよく描かれており、密教や陰陽道でも「輔星」は「北斗」とともに重んじられてきたそうだ。さらに、この摩多羅神(輔星=アルコル)は、能の原点とされる「翁(おきな)」の成立に深く関わる存在とされ、さかのぼれば「両性具有神(ディオニュソス)」にまで辿りつき、その「またら」の発音はサンスクリット語では、「地母神」の意味合いを含むという研究すらある。そのあたりが、能の演目の「翁(おきな)」の舞台に立つ「翁」が、〔男神であり天照大神(女神)である〕と伝えられた由来につながるであろうし、この度の舞台公演の企画者が【「翁(おきな)」があるのなら、「媼(おうな)」があってもいいじゃないか・・・。】という発想がきっかけとなって、創作舞踊「媼(おうな)」が生まれたということからも、その企画者を含む御一行の最初の儀式の場所が摩多羅神社であり、その「とき(10月17日・午後5時10分頃)」であったことも、私なりには合点のいくところとなった。また、それが出雲にある摩多羅神社でなければならなかったのも、出雲は日本神話における母神の代表神としてのイザナミ大神がお隠れになった地域であり、また日本列島における龍神(龍蛇)信仰のメッカというところからも、「地母神の復活」を願う企画者の祈りと相通じるものがあったと思われる。(私的には、「イザナミのよみがえり」こそが、「媼(おうな)」という舞台公演の隠れたテーマではなかったかと感じている。)余談だが、創作舞踊の「媼(おうな)」では、ある場面で「北斗七星」から「北極星」に繋いでいく演舞のなかに、「輔星(摩多羅神=アルコル)」の位置付けも意識的に取り入れられる運びとなり、公演の舞台で実演されたということである。当初は「龍神信仰」の話題から、北斗の輔星「アルコル」の摩多羅神の解釈にまで飛翔したが、私自身も関わった出雲行脚における近況報告を兼ねた考察となり、出雲の「神有月」の初頭にふさわしい内容になったと感じる今日この頃である。
2006年11月22日
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1998年 制作・撮影 山本裕一 この写真は、全部で18種類ある基本の立体を、並べて映した写真です。同じ長さの軸線(素材は綿棒)だけを用いて、それぞれの内部の構造を安定化させて構成したところが特徴です。
2005年07月04日
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「春分の日」の前後から、なぜか「和」の響きが感じられるようになり、ある意味での「転機」を実感。そこで、ニックネームを【 たまのを 】に変えることにしました。この「たまのを」とは日本の古い言葉で、分かりやすく言えば「命(いのち)」という意味合いである。漢字では一般に「玉の緒」と表現され、「勾玉(まがたま)などの玉類を、紐でつらねて結んだ装身具」という解釈がある。(あの緑色に美しく輝くヒスイの「勾玉」は、祭祀を司る人の〔命〕を守る呪具だったという説もある。)「綿棒」という軸線の一本一本を結んで、ひとつの「たま」をつくるという行為を(そのつくり始めの当初から)、私なりに「玉造(たまつくり)」だと感じていた。しばらくして気がついてみると、私の生誕地の一の宮が「玉祖(たまのおや)神社」(周防国一の宮・山口県防府市)という社で、玉造連の祖神の「玉祖命(たまのおやのみこと)」が御祭神として祀られていることが分かった。この「玉祖命」は、「三種の神器」のひとつの「勾玉」を造られた神とされている。(ちなみに、周防一の宮の玉祖神社は、全国の玉祖神社のはじめの社とされており、大阪府八尾市の玉祖神社は、八世紀頃に周防の玉祖神社からの分祀とされている。)はっは~! どうりで、はじめた頃から「玉を造る」という想いで、「立体構造」の研究にかかわることのなったわけだな~・・・、これは運命だったのかも・・・などとと素直に感じたことを、今さらのように思い出した今日この頃である。この「たまのを」を、たおやかに表現する「やまとことば」がある。それは「 ゆうむすびのたまのを 」。この「ゆう」とは「木綿」の古語ということで、その漢字を交えた表現は、「 木綿結びの玉の緒 (ゆふむすびのたまのを)」となる。なんとも「雅」な感じがしてくるではないか・・・。綿棒を結んでつくった立体を「玉」と見立て、またこれを「ゆうむすびのたまのを」になぞらえて、この地球に生きとし生けるものの「命(いのち)」のつながりが、大きな玉のようにつらなって「ひとつ」に和していくことを想い描きつつ、ニックネームを【たまのを】とすることにしました。以上簡単ですが、ニックネームの変更のお知らせとします。〔 追伸 〕今日の画像は、「新たな展開をみせる立体構造」として、今までに公開したことのない構成法による表現を、ここで初めて掲載することにした。至らぬ説明は不要・・・ということで、共鳴・共振・共感する「何か」を感じていただけたらと思う。
2006年04月05日
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先月の中旬頃、久しぶりに大分県は宇佐市内の「安心院(あじむ)」に行く機会があった。これまでも九州東部への車の行き来で、この安心院を経由する機会が多かったのだが、その際に時間があれば必ず寄っていたのが、安心院盆地を一望できる展望台(最下の地図参照)である。そこで冒頭の画像は、その展望台の前方に拡がる盆地から豊後富士と謳われる「由布岳(標高 1,583m)」(画像中央に聳える独立峰)や、その左隣にある「鶴見岳(標高 1,375m)」を中心とする山々を映したものだ。☆関連記事・・・「由布岳」登山の回想おそらく今まで計5回は当展望台に訪れたと思うが、今回こそ一番の大展望に恵まれて、晴れ晴れとした心地になったことを憶えている。この展望台から一望できる景観は、小説家 司馬遼太郎氏が ” 日本一!”と絶賛したとか・・・。 次に上の画像は、宇佐市にある「和尚山(かしょうざん・標高 327m)」に二度目の登拝が許された際、当山の山頂部南端から南方面を撮影したもので、既にお分かりのように中央の御山が「由布岳」である。(最下の地図参照)※関連記事・・・宇佐祭祀の根源へ・・・☆関連記事・・・そして豊前の「鹿嵐山」へ…(1)☆関連記事・・・そして豊前の「鹿嵐山」へ…(2)☆関連記事・・・そして豊前の「鹿嵐山」へ…(3)そして上の画像は、山口県中央部の瀬戸内海湾岸域にある「ある地点」から、南方となる大分方面の山々を「由布岳」を中心に撮影したものだ。ここから展望すると、瀬戸内海を挟んで遠方に見える「由布岳」が、ほぼ真南となるのは興味深いところである。実は、このほぼ真南にある「由布岳」を構想に入れて設計したであろう建物が、現在の「山口きらら博記念公園」内にあって上の画像に映る「きららドーム」(多目的ドーム)だ。(最下の地図参照)前回の日記で取り上げた『 山口ゆめ花博 』(平成30年9月14日~11月4日)は、実はこの公園を会場として開催されたイベントであった。(明治150年プロジェクト「 やまぐち未来維新」の中核イベント) そして下の画像は、上の「きららドーム」を映した場所から、その後ろの正面を映したものである。つまり上記の「ある地点」とは、手前の海岸に続く階段を降りた場所だ。 この画像では遠方の海上に微かに見える二並びの山が、冒頭で解説した「由布岳」と「鶴見岳」である。その降る階段の向かう方向は、どちらかというと「由布岳」の方だと分かるであろう。そして下の画像は、山口市を代表する山たる「東鳳翩山(ひがしほうべんざん・標高 734m)」(最下の地図参照)の山頂から南方を撮影したものである。この画像の天と地を分ける境界域において、中央部に確認できる白い点が「きららドーム」だ。そのさらに南方に「由布岳」が控えているかと思うと、撮影当時も胸が熱くなるのであった。さて最下の画像は、冒頭より掲載してきた数々の画像を撮影した場所(地点)を示したものだ。この地図の南北を貫く赤線は、最南端の「由布岳」を基点とし「山口の県央部」を結ぶ南北軸である。今回の記事では、山口県は中央部の瀬戸内海沿岸から(天気の良い日には)南方に視認できる「由布岳」を中心に取り上げた。 本年の山口県(長州)における「明治維新150年」という節目において、この日記で何度も取り上げてきた「山口と九州を貫く南北軸」が、いよいよ燦然と力強く輝き始めたと感じる今日この頃である。※関連記事・・・由布岳(豊後富士)を展望しつつ・・・
2018年11月11日
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今日の画像は、タイトルにある2つの構造を並べて映したものだ。向かって右が、内部を含んだ等辺による軸線構成の「ねじれ12面体」、そして向かって左が30本の圧縮材(棒)と張力材(紐)の組み合わせで構成した「テンセグリティ」である。(※これらの造形を、実際に手に触れた経験のない人には、おそらく分かりづらい世界だろう。)今年9月に山口県で開催された「テンセグリティー・ワークショップ」に参加して、自分の手で制作して持ち帰った「テンセグリティ」を眺めているうちに、全体的にはこの「ねじれ12面体」と連関するものを感じ、この2つを並べて見比べてみたいと思ったのだ。※「テンセグリティー・ワークショップ」の関連記事は以下のURLhttp://plaza.rakuten.co.jp/opektal/diary/201007160000/http://plaza.rakuten.co.jp/opektal/diary/201009200000/ちなみに今日の画像の「テンセグリティ」は、今回のワークショップで制作したものではなく、今から10年以上前に「テンセグリティ」(梶川モデル)を映した写真から類推し、自分なりの手法で制作して、さらにこれを発展させたものと認識していた。ところが面白いことに、ワークショップのものと画像のものとは、それぞれの制作の手法は違うのだが、結果的には見た目に同じ構造となっていたので、自分でも驚いたところである。また実際に2つの構造を並べてみたところ、「テンセグリティ」の30本の棒の両端が形成する60個の頂点を結んで、その頂点間を「等辺(同じ長さ)」と解釈すれば、それは「ねじれ12面体」の特徴である《点=60・線=150・面=92(5角形⇒12面・3角形⇒80面)》の様相を醸し出し、私なりには双方の形態の相似性を見出すことができるのだ。また別の観方をすれば、この「ねじれ12面体」という準正多面体の軸線構成は、30本の棒で構成される「テンセグリティ」が背景にあって、その構造の安定化を約束していたと観ることもできよう。
2010年09月30日
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旧暦十月は、古代の「出雲」の地域では「神在月」とされ、全国の神々が出雲に集う月とされた。ちなみに、今年の旧暦十月の期間は、新暦では11月17日から12月15日までである。さて近世ごろから、出雲地域でのお参りの言い伝えとして、『大社(出雲大社)だけでは片詣り』と言われるようになり、「出雲大社」とともに島根半島の東端に鎮座する「美保神社」への参拝者が増えるようになったことをご存知だろうか。この「美保神社」(松江市美保関町)に祀られる「事代主(コトシロヌシ)神」しての「えびす神」は、左手に鯛を抱えて右手に釣竿を携えた、現在は全国津々浦々で見ることのできる「えびす様」の原形に近いとされている。おそらく以上のことから、オオクニヌシ(大国主命)→だいこく(大黒⇔大国)様を祀る出雲大社と対をなす意味でも、「美保神社」と「出雲大社」とあわせて「出雲のえびすだいこく」と総称されてきたのであろう。そこで面白いことに、この出雲における「えびす」と「だいこく」の抱き合わせに想いを馳せていると、私の心に観えてきた天体があった。それは、北天の「北斗七星」とその「輔星(アルコル)」をあわせた、【北斗八星】の世界・・・。(おそらくそう感じた背景には、かつて〔2008年7月26日の日記〕で、「オオクニヌシ」の本質を「北斗七星」と洞察した経緯があったからであろう。)この輔星(ほせい)の「アルコル」は、北斗七星の下から二番目(柄杓の取っ手の先の方から二つめ)の2等星は「ミザール」に、まるでくっつくようにして並んで光る4等星の星だ。このアルコルという輔星は、日本の「陰陽道」で注目されており、古代中国では「輔」は宰相(天子を輔佐して国政を総理する官)を意味し、星占いでもこの星が重要視されていたということである。・・・ということはつまり、「出雲のえびすだいこく」に限らず、今や日本全国の隅々にまでに流布した「えびす・だいこく」の民間信仰の背景に、「輔星」と「北斗七星」をあわせた【北斗八星】への思想信仰を見出すことができるということか・・・。などと、古きよき時代の素朴な「星神信仰」に想いを馳せていると、思わずニンマリと「えびす顔」となっている自分に気づくのだった。本日の画像は、 上述の「美保神社(みほじんじゃ・式内社で旧社格は国幣中社)」を鳥居前から撮影した写真である。 この「美保神社」は、《事代主神系》のえびす社(三千余社)の総本社とされ、右殿に大国主神の子の「事代主神」、左殿に大国主神の后の「三穂津姫命」を祀る。ちなみに、《蛭子神系》のえびす社の総本社は、西宮神社(兵庫県西宮市)とされている。この「えびす」は海の神として漁師の信仰の対象になっており、江戸時代には「事代主(コトシロヌシ)神」が大漁の神・エビス(えびす・夷・戎)として崇拝されてきたということだ。他にも、江戸の総鎮守とされる神田明神は、「大己貴命(オオナムチ=オオクニヌシ)」と「少彦名命(スクナヒコナ)」を祀り、「オオクニヌシ」を「だいこく」、そして「スクナヒコナ」を「えびす」として「えびすだいこく」としている。同じ「えびす」と称される「コトシロヌシ」と「スクナヒコナ」は、一方の「コトシロヌシ」はオオクニヌシの子神にして、もう一方の「スクナヒコナ」はオオクニヌシの国作りに協力した神ということで、互いに神名も役割も違う神(蛭子神を含めて)なのに、何故「えびす」と詠われるのだろうか・・・。それは、いわゆる主役の補佐を担当する役星としての「輔星(アルコル)」を「えびす」と認識したときに、おのずと観えてくるものがあるといえよう。補佐あっての主役という観点から、改めて【北斗八星】の星神信仰を考えてみると面白いかも・・・。
2009年12月08日
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昨日の日記で「37×3=111」が「冬(北)」を示すということを記した。今日は、その理合を少し紐解いてみたいと思う。まず、今日の画像をご覧いただきたい。9×9=81マスの魔方陣の、上方の中央に、「37」を中心として数の入った9マスの魔方陣を記してある。この9マスに並ぶ9つの数の、タテ・ヨコ・ナナメの3つの数の合計が「111」となる。そして、この位置付けは、他の各方位をみてわかるように、その方位は「北」にして、その季節は「冬」をあらわしているわけだ。これは、日本古来より伝わるとされる「数霊(かずたま)」の盤、すなわち「数霊盤」といわれるもので、「1」から「81」までの数を、ある法則のもとに置いていくと、タテ・ヨコ・ナナメの9マスの数の合計が「369」となる、いわば魔法陣となっている。今回は、「1」の位の9マスの数だけを取り上げた。この「1」とは、加えて単数化すると「1」になる数という意味合いで、例えば「37」は、3+7=10→「1」、あるいは「55」は、5+5=10→「1」という具合に・・・ということである。つまり、この9つの数は、すべて「1」ということで、加算して単数化すると「1」になる数が、この9マスに集合したかたちになっているわけだ。そして、「1」という数は、方位では「北」、季節では「冬」、五行では「水」等々をあらわし、天空の星々では「北辰(北極星と北斗七星)」ととらえることもできる。となると、9マスの中心の「37」とは、「北辰」のなかの「北極星」を意味する数と見立てることができる・・・ということになる。そして、「北極星」は、本質的には「天皇」を意味する星ということを念頭に置きつつ、この「数霊盤」を見ていると、何か観えてくるものがある。そう、いにしえの京都、「平安京」の碁盤の目の有り様に・・・!!!。「1」の位の9マスの全体の位置付けは「大内裏」、そして中央数の「37」の位置は「紫宸殿」と、かようなとらえかたもできるわけである。そこで何故、「冬」が「北」で「北極星」につながるかというと、これが「冬至のまつり」、すなわち「新嘗祭」(ただし歴代天皇が皇位を継承した年は「大嘗祭」となる。古くは「冬至(12月22日頃)」が祭祀日)に連関する。冬至の日は、年間で太陽の日照時間が一番短い日だが、その日から太陽の光の輝きが増してくる・・・その「一陽来復」を祝う祭りが、いわば「表」の祭りだとする。また冬至は、「北極星」が一番高い位置に輝く時でもあることから、「北極星(天皇)」を祀る日でもあるということで、これを「裏」の祭りとみることもできる。つまり「冬至祭」とは、本質的にいうと、表では「太陽」、そして裏では「北極星」と、表裏一体の節目の時を寿ぐ祭祀ということができよう。というわけで、冬→北→北極星→「37(1)」の関連がでてくるわけだ。さて、この「37」という数、×3=「111」をはじめとして、1000までの「ぞろ目」の数にすべて関連しているところが面白い。「111」・「222」・「333」・「444」・「555」・「666」・「777」・「888」・「999」と、すべて「37」の倍数となっている。そして、「37」は素数にして、他の数で割り切れない数ということからも、「北極星」を暗示するにふさわしい数と思うのである。ちなみに、この「北極星(ホッキョクセイ)」を数霊で調べると、ちょうど「100」となり、また北方を守護するために建てられたとされる出雲大社の祭神「大国主(オホクニヌシ)」を調べると、これも「100」となる。この「100」は、単数化すると「1」なので、「北極星」も「大国主」も、まさに「北」を暗示する名称ということができるのである。以上のことから、「北極星」を中心に廻る[天空の星々]は、出雲の神在祭のときに主祭神の「大国主」のもとに集う[八百万の神々]をほうふつとさせるものがあるということができよう。この「37」には、まだまだ奥深い秘密がありそうである・・・。
2005年12月03日
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古代出雲では、「父・母・子」の三柱の家族神からなる「サイノカミ 三神」を祀る信仰があった。その三柱の神々については前回の日記に書いたが、既に紹介した以下の参考書籍には、この「三神」がそれぞれ宿るとされる古代出雲地域の「三山」が記してあった。そこで上の画像は、「サイノカミ 三神(クナトノ大神・サイヒメノ命・サルタ彦大神)」が宿るとされる「三山(大山・三瓶山・鼻高山)」を三つの赤点で示し、その山々を示す三点を線で結び三角形としてあらわした出雲地域の地図である。※参考書籍・・・書名『出雲王国とヤマト政権』 富士林雅樹 著 大元出版(2019年 初版) それでは以下、上記の「三山」のうち、今回初めて登拝した「鼻高山」の山頂から視認でき撮影した「大山」と「三瓶山」の画像と共に、両山に宿るとされた夫婦神について、上記書籍に基づき記しておこう。まず上の画像は、〔父神〕の「クナトノ大神(久那斗大神)」の宿るとされた神名備山「大山」である。確認しづらいとは思うが、前方の稜線が明確な山並みの遠方(画像の中央部)に、上部の雲が少しかかるかたちで山上部に雪を被った雄々しき「大山」の姿を見ることができる。以下は、上記書籍に記された「大山」にまつわる文章の抜粋である。・・・出雲王国時代には、蛇のトグロに似た円錐形の山を「神名備山(かんなびやま)」と呼び、信仰の対象とした。大山は伯耆富士と言われるように、先の尖った円錐形の形をしており、元々は火山であったので、出雲王国時代は「火神岳(ひのかみたけ)」と呼ばれた。また「大神山(おおかみやま)」とも呼ばれ、クナトノ大神が宿る神名備山と考えられていた。(この「神名備山(かんなびやま)」の)ナビとは、古語の「隠(こも)る」の意味であったので、神名備山とは神の隠る山という意味であった。・・・興味深いことに、日本神話に登場する「オオヤマツミノ神」(『古事記』では「大山津見神」、『日本書紀』では「大山祇神」と記載)とは、この書籍によると、もとは「大山(大神山)」に宿る「クナトノ大神」のことだったとのことである。先日の日記(以下の記事)では、瀬戸内の大三島に鎮座する「大山祇神社」について書いたのだが、当社の主祭神が「大山積神(オオヤマツミノカミ)」であることを考え合わせると、今回の出雲行脚も「秋の南北軸」の北部にある「出雲」が主なので、やはり「秋の南北軸」を再確認する旅路の続きだったという解釈ができる。☆関連記事・・・「秋の南北軸」の中央部を再確認・・・大三島 編次に上の画像は、〔母神〕の「サイヒメノ命(幸姫命)」の宿るとされた神名備山「三瓶山」である。画像中央部のたおやかな円錐形の山が「三瓶山」だが、まるで妊娠した女性が仰向けに横たわった姿に見える。以下は、上記書籍に記された「三瓶山」にまつわる文章の抜粋である。・・・この丸い形の山は「女神山」とされた。古代人は丸い形を見ると、妊娠した女性の腹の形を連想したのであろう。古代人は妊娠や出産に対して神秘性を感じており、子供が生まれることに対する感謝の念も強かった。出雲の西方の三瓶山も、もともとは「佐比売山(さひめやま)」と呼ばれ、「幸姫命(さいひめのみこと)」の宿る神名備山とされた。「佐」の字は、「幸」の字から変わったものだった。この山の名前は、現在はもとの意味がわからない名前に変えられてしまっているが、出雲王国時代の由緒のある「佐比売山」に戻すべきである。のちに幸姫命は、ヤマト国の三輪山(現在の奈良県桜井市に鎮座する大和国一之宮「大神神社」の神体山)にも祀られた。三輪山も丸い形であるので、女神山とされた。三輪山の麓には狭井(さい)神社や狭井(さい)川があり、もともとは幸姫(さいひめ)ゆかりの「幸(さい)」の字が使われていたという。また、三輪山からは朝日が昇るので、幸姫命は太陽の女神でもあると考えられるようになった。そのあと、幸姫命は三輪山から伊勢神宮・内宮に移されたが、そこでは太陽の女神・天照大神として祀られた。・・・加えて、この三角錐系の山容が美しい「三輪山」に関しては、古代出雲族によって神名備山信仰がもたらされ、出雲系の「サイノカミ三神」が祀られたことから、それにちなんだ「三ツ鳥居(三輪鳥居)」が拝殿の奥に建てられているそうだ。あの有名な大神神社独特の鳥居とされる「三ツ鳥居」の背景に、古代出雲族の「サイノカミ信仰」があったかと思うと、実に感慨深いものがある。そして下の画像は、〔子神〕の「サルタ彦大神」の宿るとされた神名備山「鼻高山」を映したものだ。この御山については前回の日記で書いたので、ここでは割愛させていただくことにする。(※この画像では、山並みの中央部で一番高い頂が「鼻高山」である。)
2020年03月08日
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2026年6月21日の早朝、「夏至」の朝日が撮影できればということで早朝に車を走らせ、とある場所にて早苗田とともに撮影した画像が冒頭である。陽光が見えたのは約3分、まさしく有り難い時空であった。本日の題目は【「夏至」の”磐座”めぐり 】としたが、九州の熊本県に存在する「拝ケ石(おがみがいし)」と「押戸石(おしどいし)」の二つの磐座群をめぐることになったのは、実はこの「夏至」の”御来光”を浴びた直後であった。まず向かったのは、熊本市内にある”金峰山”の北側に存在する「拝ケ石」(西区河内町東門寺)で、当磐座群の入口付近に鎮座する〔大規模の石組み〕を撮影した画像が上である。(ちなみに左側の奥に屹立する石柱の高さは約9m)そして下の画像は、上の画像に映る祠の奥にあって中心的な祭祀場だったと思われる〔小規模の石組み〕を撮影したものだ。上の解説では”石組みの祭祀場”としたが、おそらくこの磐座群を設営した古代人にとって、精細で緻密な”天体観測”や”地文測量”をするための重要施設であり、磐座祭祀に詳しい専門家によると、例えば「夏至」の太陽の南中時に、中央部の4つの石組みの奥にある空洞の岩陰に、三角形状の陽光が射す仕組みになっているとのことだ。そして上の画像は、解説してきた磐座群の裏手から〔大規模の石組み〕の全体像を撮影したものだ。これまで全国各地に点在する磐座群を行脚してきたが、これほどの貫禄があり古代人の英知を感じる磐座群は、私的には列島中央部の岐阜県下呂市に存在する「金山巨石群」に匹敵すると感じる。(当記事の最下段で紹介)次に上の画像は、2016年4月に発生した”熊本地震”で転んでしまった「亀石」(夜空を彩る”天球図”が球状の石面に描かれているとの伝承あり)を中心に、当日の午後2:30頃の”夏至の陽光”と山頂方面に向かって並ぶ磐座群を撮影したものである。また上の画像は、この磐座群の存在する「拝ケ石山(標高448m)」の山頂部に配置された、6つからなる「頂上石」(ストーンサークル)の一つを撮影したものだ。この「拝ケ石巨石群」には何度か訪れたことがあるのだが、上の画像のように”典型的な宇宙人の両目”を象徴する形状を岩面に確認したのは今回が初めてで、とても印象的だったことを覚えている。「拝ケ石」の磐座群では上が最後の画像となるが、ある横たわった大きな磐座(約7m)の側面(部分)に、古代人によって意図的に描かれたであろう「星座図」のような「岩刻壁画(ペトログリフ)」を撮影したものだ。個人的には、今回の「拝ケ石」の散策ほど”宇宙的なメッセージ性”を感じたことはなく、夏至日の早朝に当磐座群に行くことを決め、現地を訪れることができて本当に良かったと感じたところである。☆「拝ケ石」の関連記事・・・熊本の磐座巨石群(1)☆「拝ケ石」の関連記事・・・金峰山と拝ケ石から”夏至の日の出方位”へさて次に向かったのは、上記の「拝ケ石」から〈夏至〉の”日の出”方位に存在する「押戸石」であった。(上掲地図を参照)この「拝ケ石」から「押戸石」へ同日中に移動したのは二回目となるのだが、「夏至日」とその方位線(上掲地図のオレンジの軸線)を意識して移動したのは今回が初めてだった。さて上の画像は、「拝ケ石」から「押戸石」への移動中に、ある展望台から阿蘇山方面を撮影したもので、その中央部に映る”ギザギザの山容が特徴的な御山”が、〔阿蘇五岳〕の一つである「根子岳(標高1,408m)」だ。その威厳にあふれる異様な佇まいは、いつ何処から展望しても魅力的な景観である。さて、いよいよ当日の「夏至」において、そのクライマックスたる”夏至点”の時刻(PM5:25)に間に合うよう計画したかのように「押戸石」の丘に到着、その磐座群の入口に相当する「はさみ石」を潜り抜け、西南西(”冬至の日没”方位=”夏至の日昇”方位と反転した方位)に向かって撮影した画像が上である。(下の画像を参照)そして上の画像は”押戸石の丘”の最上部にして、この丘陵地の”東北東の端”に存在する「押戸石」の全体像を撮影したものだ。そして自分でも驚いたのだが、この貫禄あふれる「押戸石」に到着したのは、”夏至点”の時刻〔午後5:25〕の直前であった。そして上の画像は、まるで「夏至点」の時刻である〔午後5時25分〕にタイミングを合わせたかのように、”押戸石の丘”に陽光が降り注いだ瞬間を、メインシンボルたる「押戸石」の隣から撮影したものだ。その雲間からほとばしる”夏至点の光芒”は実に幻想的で、画像のように素晴らしい景観を呈していた。私はここ”押戸石の丘”で、その素敵な時空を堪能しようと、思わず近場の磐座の上に寝そべった。その折に、たまたま空を見上げた時に観えた光景が、上掲画像の雲間に現れた”青空のハートマーク”であった。この現象は「夏至点」の体感を寿ぐ”天空のサイン”だと感じ、思わず笑みがこぼれたことを覚えている。☆「押戸石」の関連記事・・・熊本の磐座巨石群(2)☆「押戸石」の関連記事・・・「夏至」に動く(4)実は、上記の「拝ケ石」と「押戸石」を結ぶ”夏至の日の出の方向”を示す方位線(太陽の道)は、最下の地図に示された列島の『中央』に鎮座する太古の祭祀場たる岐阜県の「金山巨石群」につながっている。令和8年(2026年)の「夏至点」は、列島に封印されてきた大地の扉(岩戸)が、いよいよ大きく開いた”刻”と感じ、また同時に列島に住まう日本民族が大きく躍動する時節を迎えたと感じる今日この頃である。◎関連記事・・・ふたたび”列島中央部”への旅路…(7)
2026年06月24日
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つい先日となる7月8日の夕刻、たまたま通りがかった「100円ショップSeria(セリア)」に寄ってみた。すると店舗の入口で目に入ったのが、冒頭画像に映る「なぜなに科学工作チャレンジ」というカラフルな看板と、その下方の紫色の掲示板にある【 綿棒で挑戦! 正八面体 】という白抜きの文字であった。綿棒で立体を作る”綿棒工作”の言わば《創始者》を自負する者として… 只ならぬ気配 ('◇')ゞ …を感じた私は、すぐにその場でセリアのホームページをチェックすることにした次第。すると・・・100円ショップSeria(セリア)と学研キッズネットのコラボ企画「なぜなに科学工作チャレンジ」のYouTubeチャンネル。セリアの商品を使ってできる自由研究の実験動画を公開中!・・・と記されており、夏休みの子供たちが取り組む自由研究(工作部門)の4種類の提案(末尾画像)ということで、その筆頭が【 綿棒で挑戦! 正八面体 】であり、その工作に必要とされる各種商品の展示とわかった。そこで以下、参考かたがた当社の提案する”綿棒工作”の〔動画編〕と〔記事編〕を添付しておこう。(ちなみに以下2つの添付内容は、某大学に勤務する物理学系教授〇〇氏の〈監修〉とあった。)※関連動画・・・【 綿棒で挑戦! 正八面体 】(動画による工作編)※関連記事・・・【 綿棒で挑戦! 正八面体 】(記事による工作編)ただ上の添付内容を確認して、私なりに”残念”と率直に感じたところが一点ある。それは、巷にYouTube等で流布している”綿棒工作”の、そのほとんどの工作法において、例えば二本の綿棒の両端(綿部)の”先端どうし”を付着する際に、最初から「木工ボンド」を接着剤として使用している点である。それが結果的にどんな事態を招くかといえば、よほど時間をかけて”綿部の接着”に気を配ったとしても、その接着剤が乾く過程で接合部にズレが生じたり、接着剤が完全に乾いた段階で全体が微妙に歪んでしまったままになる場合が多いということだ。その対策として、以下に紹介する私(ペンネーム「たまのを」)の運営する当ブログの工作法の案内を参考にしたり、同じペンネームで運営する【 綿棒工作 】…『スケルトン立体』を作って楽しもう!…No.1のYouTube番組を視聴し、その〔コツ〕を制作に取り入れることが肝要である。その制作に取り入れるべき〔コツ〕とは、まず最初に綿棒の両端(綿部)に”仮止め”の接着剤(名称は”ペーパーボンド”や”ペーパーセメント”⇒添付した下の記事や動画で紹介)を染み込ませ、その接合部の”仮の固定化”を可能な限り正確に施したうえで、入念なバランス調整と全体的な構造の安定化を図ることだ。その接着剤は”仮止め”であるがゆえに、綿棒の両端となる各接合部の”付け外し”が(取り扱いに配慮すれば)何度かできることから、綿部の接合が最初は失敗したとしても直ぐに補正できるし、結果としてズレや歪みの少ない《美しく見栄えのする立体表現》につながるのである。そして、その”仮止め”の段階で接合部を含む立体の全体構造を、様々な方向(角度)から眺めてバランス調整した後に、「木工ボンド」等を用いて完全な固定化へ向けた接着を施せば、理想的で完璧に近い立体作品が具現化でき、しかも意外と”短かい時間”で制作できるというわけだ。◎関連記事・・・「立体工作の案内」…2005年8月2日に書いた日記◎関連動画・・・【 綿棒工作 】⇒ No.1…「 準備編 」◎関連動画・・・【 綿棒工作 】⇒ No.4…「正八面体」さて上に添付した関連記事の「立体工作の案内」は、今から約20年前に当日記で公開したもので、加えて関連のYouTube動画も約5年前に”無料公開”している。今日のタイトルを「”綿棒”で【正八面体】に挑戦!」にしたことから、「正八面体」の簡単で要領を得た工作法を含む関連記事&動画を取り上げた。今年の”夏休み”の期間に子供たちが取り組む「自由研究」の工作部門では、おそらく”綿棒工作”による奇想天外で面白い立体作品が、全国各地で生み出されることであろう。これまで自身が主催する立体作品の展示会を、例えば夏休みの期間中に山口市内で開催した場合、会場内に設けた【体験コーナー】で出会い”綿棒工作”を実体験した子供たちの中には、「自由研究」として自分なりにアレンジした作品を学校に提出し、それが評価されて受賞した等の報告を受けてきたことから、それが全国規模になることが予想され、この道を約40年歩んできた私としても喜びであり楽しみでもある。いずれにしても、この7月1日から始まった【 綿棒で挑戦!正八面体 】という当企画を契機に、長年にわたり推奨してきた”綿棒工作”が全国的に広がる予兆を、如実に感じたところである。
2026年07月10日
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前回のブログの続きとなるが、その9月8日の電話会談の流れで、後半には何故か「しほつちのかみ」の話題となった。(古事記では塩椎神、日本書紀では塩土老翁・塩筒老翁と表記される。)この日本神話で活躍する海神が、古代出雲の海神たる「クナト神」と関係があるのでは・・・などと尋ねられたが、その時の私は「おそらく関係は濃厚でしょう。」と答えるに止めた。その後、少し気になったので、かつて参拝した折に撮影した真名井神社の写真を調べてみると、おそらくは知人の友達が感応したであろうその磐座を映した写真が出てきた。(本日の画像)掲載画像の岩石は神社境内の最奥部にあり、由来書き等では「大綿津見神」の磐座とされている。その磐座の右奥の立て表示には、〔熊野大神(須佐之男神)〕と記してあったので、知人の友達が「クナト神」を感応したのは、おそらくここであろう。また、さらに右手前の立て表示には大きく〔塩土老翁〕とあり、その下には向かって右から〔亦名 住吉同体〕〔大綿津見神〕〔亦名 豊受大神〕とあったため、これは意外な関連付けとも思われたので、改めて真名井神社の祭神を調べてみると、主祭神の「豊受大神」を「天御中主神」や「国常立尊」と同一神とし、さらには「塩土老翁」のことでもあると記してあった。思い返せば、約20年以上前から、今日のタイトルの「水火土」の順序が気になってはいたのだが、この読みを「しほつち」と知ったのは約2年前のことで、これが「塩椎神」とつながるとは・・・ということで、その後に検索を続けていると、以下の文脈が出てきたのだった。(以下に転載) 終戦後の神示 われは七つの灯台に火を点ずる者である。われは白髪の老翁である。白髪とは久遠永劫よりつづく無量寿の象徴である。われは彦火火出見尊が魚釣らす釣針を失い給いて、憂い泣きたまう海辺に来りて、尊を龍宮界に導きたる塩椎神である。塩椎神とは水火土之神のいいである。霊は水火土と現れ、一切のものは水火土から生れたの である。われは霊の海、創造の神である。水即ち『おしめり』と火即ち『ぬくもり』と『土』の働きとがあって万物は生ずるのである。黙示録には『われはアルファなり、オメガなり、生と死との鍵を持てり』と記されているのがそれである。われを単に海の神だと思うな。龍宮海の神の如くあらわれているのはウミ(生み)の象徴であり、龍宮無限供給の神のシンボルである。われは一切の創造の神であるから無にして無尽蔵である。 以上の文脈が、「クナト神」と「水火土神」を繋いでいるどうかは計り知れないが、私的直感では「古代日本の縄文系海人族の祖先神」ということで、双方の海神の共通項を見出せそうだ。そして何よりも、知人の友達が「塩土老翁」を祀るこの境内地で「クナト神」を感受したことこそ、この海神二柱の深い関係を示唆しているといえよう。※関連記事2009年12月31日の日記『遠つ神 愛み賜へ』 http://plaza.rakuten.co.jp/opektal/diary/200912310000/2010年1月23日の日記『「ムスビ」の こころ 』http://plaza.rakuten.co.jp/opektal/diary/201001230000/
2010年09月09日
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ある知人と会話を楽しんでいたら、「月とククリ姫の関係を教えて!」と尋ねられた。どういう脈絡で聞かれたのかは定かではないが(笑)、今日の話題にしようと思う。まず「ククリ姫」とは、加賀国一ノ宮 白山ひめ神社(石川県白山市鶴来町)の主宰神〔菊理媛神(ククリヒメ)〕のことである。この祭神名の「ククリ」を数で読んで「99理」とする捉え方がある。これは完成数の「100」に「1」足りないという理合を示しており、この関係を漢字に置き換えると「百」から「一」を引くと「白」となり、この「百」に「一」足りない「白」を「九十九」として、「白山菊理媛」の言わんとする数が「99」と読めてくるわけである。(面白いでしょ!?)さてここで、わが国日本の国旗「日の丸」の登場。白地に赤丸の色の意味合いは、白地の白が「月」を、そして赤丸の赤が「太陽」を意味する(諸説あり)。もうお分かりのように、「月とククリ姫の関係」は、「白=九十九」が結んでいるということなのだ。そして赤丸の赤が「太陽」、これを数では「一」と解釈することができ、「九十九」で「月」を意味する「白」と、「一」で「太陽」を意味する「赤」がひとつとなって、国旗「日の丸」は完成数の「百」を象徴的にあらわすというわけである。ある時、染色を専門になさる工芸作家に、「99対1の割合で、白(99)と赤(1)を混ぜるとどうなりますか。」と尋ねてみた。答えは「美しい桃色になる」ということであった。そうか!数の「百」は、「もも」とも発音し、この「もも」は「桃色」の「桃」につながるわけだ!!!。「白(九十九)+赤(一)=桃(百)」なのだと、妙に納得したことを覚えている。今日の画像は、毎年五月の中旬頃に、京都御所で催される「葵祭り」での一コマ。「十二単」を身に纏う「斎王代」を映したものだが、唐衣の「桃色」が実にあでやかである。
2006年04月15日
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そして近年、粛々と復元事業が進行中の特別史跡「平城宮跡」を計画地とした国営の「平城宮跡歴史公園」を訪ねた。そこで冒頭を含む上から三枚の画像は、西暦724年(神亀元年)に 第45代「聖武天皇」の即位式が行われた「大極殿」(2010年に復原)を含む「第一次大極殿院」を撮影したものである。平城宮跡の北方に位置する「第一次大極殿院」は、この「大極殿」を含む南北約320m・東西約180mの区間に建造された古代の宮都における中心施設であり、天皇の即位や外国使節との謁見など国家の重要な儀式が行われた場所とされている。◎関連サイト・・・国営「平城宮跡歴史公園」そういえば、かつて「平城遷都1300年祭」ということで、復元されたばかりの「大極殿」を見学しようと、この「平城宮跡」を訪れたことがあった。その際に書いた日記が以下のリンクである。※関連記事・・・平城遷都1300年祭へ・・・さて上に並ぶ五枚の画像は、復元された「大極殿」の中央に置かれた「高御座(たかみくら)」(実物大の模型)を、様々な角度から撮影したものである。この「高御座」は、奈良時代から「天皇の即位」に関する重要な儀式などで用いられてきたとされている。場内の解説員の話によると、古式に則り復元された(画像に映る)「高御座」は、この度の「令和」の即位式で使用された「高御座」と比べると、「つくり」に多少の違いがあるということであった。その「多少の違い」を私なりに解説すると、そもそも「高御座」の構造は上から見て八角形状なので周囲に八つの側面があるわけだが、画像の「高御座」については前方と後方の二つの側面が帳(とばり…室内と室外を区切るために垂れ下げる布)で開閉でき、残りの六つの側面は面材で塞がれているのだが、この度の即位式で使用された「高御座」については八つの側面が全て帳(とばり)で開閉できるようになっているということである。加えて解説員の話で印象に残ったのは、前回の日記で取り上げた「東大寺」という名称の由来であった。その歴史に造詣の深い年配の解説員は、「大極殿」前方の回廊より実際に「東大寺」が見える東方を指さして・・・「東大寺」の寺院名は本来「金光明四天王護国之寺(きんこうみょうしてんのうごこくのてら)」と申しますが、この「大極殿」(中央)の〔東にある大きな寺〕なので、後に「東大寺」と言われるようになったのです・・・と話したのであった。まさに歴史の現場で聞いた解説だけに、単純明快にして実に説得力のある話であった。すると、夕方になるにつれ青空が広がってきたので、奈良盆地を一望できる「若草山」の山上で夕暮れを見ようと車を走らせた。そこで上の画像は、夕日が沈んだ直後に展望した「奈良」の、清々しい景観を撮影したものである。この「若草山(標高 342m)」は、面積33ヘクタールの芝生に覆われた山で、山頂には5世紀頃に築造されたといわれる史跡 鶯塚古墳(うぐいすづかこふん)がある。標高300m以上の山頂にある古墳としては、日本で最大級の「前方後円墳(全長103m)」ということだ。『枕草子』に登場する鶯陵はここともいわれ、「鶯陵」の石碑が立つ後円部を撮影した画像が上である。そして、下の画像に映る「若草山から望む奈良市街の夜景」は、「新日本三大夜景」に選定されているとのことである。
2019年11月09日
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次に向かったのは、徳島市の誇る秀麗な山の「眉山(びざん・標高277m)」山頂に鎮座する「剣山神社」(冒頭画像)であった。名峰「剣山(標高1,955m)」の拝礼所として建立された神社だということから、この四国行脚において中核となる徳島県の最高峰「剣山」への登拝を明日に控えて、事前に参拝しておきたい神社であった。加えて、かつて読んだ書籍(下に紹介)の影響で、様々な地理的条件の検討や歴史的背景の考察により、この「眉山」は「大和(奈良県)の三輪山」に匹敵する「阿波(徳島県)の三輪山」だとする、私にとっては鮮烈な記憶が残っており、今回で二度目となるこの眉山の山頂の「ひびき」を、改めて体感しておきたいという想いもあった。〇書籍紹介・・・『 鼎(かなえ)の国ー日本古代国家の実相 』/ 坂田 護 著・海鳥社(初版1998年)刊☆関連記事・・・眉山からの展望(初めての眉山)☆関連記事・・・「春」の旅日記(7)(三輪山の初登拝)そこで上の画像は、同社の鳥居にあった石製の神額を映したものだが、その社名の上の御神紋に注目していただきたい。この二本の剣が交差した「違い剣」という紋章なのだが、これを一見して思い出したのは、古代出雲王朝の東出雲王家である「富家」の紋章「銅矛交差紋」であった。(正式な紋章名は「竜鱗枠に銅矛交差紋」)この紋章は、二本の直線を交差させたX印の形状を基盤とする「直違紋(すじかいもん)」の一種である。このX印の交差紋は、荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡から出土した祭器にも刻まれており、伝承によれば古くから出雲の「サイノカミ信仰」において陰陽和合や復活再生を祈る聖なる象徴であり、後に古代出雲王家の「四隅突出古墳」の形状として表れたということだ。ちなみに、東出雲王家の「富家」と並ぶ、西出雲王家の「神門臣家」の紋章は「竜鱗紋に剣花菱」であり、やはり紋章の中央部に剣でX印が表現されている。また、上の画像の剣山山頂に鎮座する「宝蔵石神社」にて頒布(期間限定)される御朱印に代表されるように、今回の旅路で阿波忌部氏の管轄たる徳島県域で巡った数社の社殿において、この剣型の交差した上掲画像の古代出雲系と思われる「直違紋」の御神紋と確認できたことが強く印象に残っている。そして上の画像は、「阿波三山と眉山(阿波の三輪山)の位置図」で、冒頭で紹介した書籍から転写したものだ。そこで「阿波三山」とは、この図にあるように「日の峰山」・「中津峰山」・「津の峰山」の阿波国にある三山のことで、この書籍の著者の卓越した見解に基けば、この「阿波三山」が奈良県にある「大和三山(畝傍山・耳成山・天香山)」に対応するということである。さらに、この「阿波三山」を統括する「一山」として阿波の「眉山」が存在し、その関係はそのまま「大和三山」を統括する位置に存在する大和の「三輪山」に対応するということだ。(詳しくは紹介書籍を参照されたし)ちなみに、今回の旅路で阿波国(徳島県)を探訪した2泊3日という短期間に、上記の「阿波三山」とは別格扱いとなる「気延山」を除き、「眉山」をはじめとする赤丸で囲んだ六つの御山の総ての山頂に登ることになろうとは、この時点では全く想像だにできない心境であったし状況でもあった。さて、どこから見ても「眉」の形に見えることから命名された「眉山」は、その麓から山頂近くまで車道があり、大きな駐車場のある山上一帯は飲食店や展望台を備えた「眉山公園」となっている。(※山頂に至る別の交通手段として、徳島駅方面の山麓と山頂を結ぶ「眉山ロープウェイ」がある。)そこで上の画像は、冒頭に記した山頂の神社(剣山の拝礼所)に近い展望広場から、剣山方面に連なる西方の山々を撮影したものだ。当日は薄曇りの天候だったので、この画像に写り込んでいるかどうかは定かではないが、良く晴れた日にはもちろん四国を代表する名峰「剣山」を遠望できるとのことである。次に、先に訪れた「眉山」との関連で気になる神社があったことから、急遽訪れることにしたのは徳島市国府町に鎮座する「大御和(おおみわ)神社」であった。すると、当社の参拝時に調べた参道の方位が東西軸と分かり、「春分」と「秋分」に社殿の真東に存在する「眉山」の山上から昇る朝日を、拝殿から寿ぐ神社配置になっていることが確認できた。延喜式内社である当社は、大和の「三輪山」を神体山とする大和国一宮「大神(おおみわ)神社」から勧請されたという伝承があり、下の画像の由緒に主祭神が「大己貴命(大国主命)」ということからも、大和の「大神神社」や出雲の「出雲大社」との深い関係性が読み取れた。さらに興味深いことに、この「大御和神社」の御神紋は、上の画像の大きな屋根瓦や飾り金具の意匠に見られるように、二本の鍵でX印が表現された「鍵の立合」という紋章である。やはり当社の御神紋も、冒頭に掲げた剣山神社の御神紋の関連で解説したように、二本の直線が交差するX印の形状であり、自ずと古代出雲王家に由来する紋章と感じられ、実に感慨深い参拝となった。
2020年10月10日
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昨日の日記では、オリオン座の「アルニタク」を伊勢神宮の「内宮(ないくう)」とし、また大犬座の「シリウス」を伊勢神宮の別宮「伊雑宮(いざわのみや)」とする説を参考にして、これを拡大解釈していったわけである。この「アルニタク」と「シリウス」が地上の「神社」として投影された場所(聖地)は、日本列島の各地で見出されている。今日は、上述の「伊勢神宮」以外の地域で、アルニタクとシリウスが投影されたと推考される神社を紹介しよう。それは、九州北部の福岡県にある神社で、アルニタクが「香椎宮(かしいぐう・官幣大社)」(福岡市東区)、そしてシリウスが「宗像大社(むなかたたいしゃ・名神大社)」(宗像市田島)と推定される。この両社は共に格式の高い神社であり、まさに伊勢の「内宮」と「伊雑宮」の関係を髣髴とさせる配置となっている。(もちろん、私なりの感覚ではあるが・・・。)もし今まで述べてきた観点が、ある程度は的を射たことだとすると、エジプトはもとより日本でも古代から、いかに「アルニタク」と「シリウス」に対する信仰が厚かったかということを示していると言えよう。ところで、エジプト神話では、「イシス神(シリウス)」の秘術により、一度は死んだ「オシリス神(オリオン)」が復活して、この二神の聖婚によって「ホルス神(太陽)」が誕生するとされている。面白いことに、この「オシリス」・「イシス」・「ホルス」の三神の関係性を象徴的にあらわした「聖なる図形」が、ピタゴラスの「三平方の定理」の証明の際に必ず引き合いに出される〔3:4:5〕という三辺の比率をあらわす直角三角形なのだそうだ。その図形は「イシスの三角形」ともいわれ、形成される90度・37度・53度という三つの角度のなかでも、特に「イシスの角度」とされる「53度」は、エジプトのピラミッドの多くが示す傾斜角を示しているそうである。「オシリスの復活」と「ホルスの誕生」は、共に「イシスの秘儀」によってなされることから、この「53度」という角度が、魂の復活の再生装置としてのピラミッドに刻み込まれたことが考えられるそうだ。このことは、今年の1月10日の日記で取り上げた「特別な角度」にも関連し、とても興味深い。「復活」や「蘇生」を意味する「イシスの秘儀」とは、おそらく「水」や「水晶」の示す角度にも関連するのであろう。以下は、私の「六角形」にまつわる走馬灯のような連想にお付き合いいただけたら・・・。思えば「イシス」たる「シリウス」を示す形は「六芒星」とされ、これは西欧では「ダビデの星」や「ソロモンの封印」ともいわれる。「水」の字形は「六角形」の形状であり、実際の「水分子」も「六角形」を基本とした結晶構造をつくる。「水晶」の結晶の基本形は「六角柱」とされ、これまた「六角形」がベースとなっている。「シリウス」を投影した神社と想定される、神宮の別宮「伊雑宮」の御神紋は「六芒星」とされ、伊勢神宮の参道の両脇に立つ石灯籠にも刻み込んであるそうだ。同じく天空の「シリウス」を地上投影したと推考される「宗像大社」は、海上交通の安全を守る女神(宗像三女神)が祀られており、ご祭神は「海水(潮の干満)」を司る女神ともいえるので、「六角形」系の「水」に縁の深い神社と言えよう。また、歴史的にも「宗像大社」は、古くから「出雲大社」(島根県出雲市)と御神縁が深い関係にあるとされており、その「出雲大社」の御神紋も、日本的には「籠目(カゴメ)紋」とも称される「六芒星(六角形)」系の「亀甲紋」であることも象徴的である。以上のように、おそらく今の私は、「六角形」の形状を見ると、すべて「シリウス」に観えてしまうだろう。ちなみに、日本とエジプトは、「太陽祭祀」を要とする数少ない国とされており、またエジプトでは「シリウス(イシス)」を暦や信仰の中心に据えているので、かつては日本でも「シリウス」が祭祀の中心にあったことが垣間見えるのである。(それは日本神話でいうところの「出雲の国譲り」の以前かも・・・)思えば「シリウス」は、私たちの生かされている惑星「地球」の所属する太陽系の、その太陽系の中心にある恒星「太陽」の親星とする観方があった。つまり、「シリウス」の周囲を「太陽系」が巡っているという見方である。(参考文書・2007年12月20日の日記)「岩戸開き」の際に生まれる「新しい太陽(ホルス)」は、母親の星たる「シリウス(イシス)」の呪力をもって、まずは「オリオン(オシリス)」の復活(よみがえり)を経た後に授かる段取りとなるのでは・・・とそのように感じる今日この頃である。事の次第は、私たちの生活の身近にある天体の「月」(今日は満月)が、いつも見守ってくれている。
2008年01月22日
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日本の「紋章」において数の付く名称の場合、例えば「七曜紋」とは、同じ大きさの7つの○(円)を、中心とその周囲に6つ並べたものをいう。つまり、全体的には6角形の形状なのだが、「中心」を数として勘定に入れて「1(中心)」+「6(周囲)」=「七曜紋」とするわけだ。さて今日の画像は、「七角形」を立体的に表現した造形だが、中心部分が開いているところが特徴のひとつである。全体形状は「七角形」にして、中心の「八」の部分が開いていることから、この型を今日のタイトルとして「八開」と名付けた。また・・・中央部の「開き」を分かりやすく強調してみたい・・・ということで、「白ヌキ」の画像処理を試みた。今まで数々の「七角形」の立体的表現を試みてきたが、私なりの感覚では本日紹介する「立体七角形」が、最も普遍的な造形ではなかろうか・・・と、そのように今のところは観ている。(関連記事・2007年3月30日/2008年1月8日の日記)この「八開」と題した造形は、正四面体をベースにした立体構造なので、ただ平面に正三角形(青色)を7枚並べたのではなく、中心部に集う正三角形(正四面体の一面)の7つの頂点が、手前側に絶妙に浮いた形態となっている。この「白ヌキ」の部分の開き加減が(手前味噌ではあるが)、実に美しい「開き」を魅せている。ところで、前回のブログでは、「五角形」と「六角形」の共存する造形を掲載した。例えば、同じ大きさの「正三角形」を並べてそれぞれの角形を作るとすると、この「五角形」と「六角形」は共に中心が閉じた表現となる。つまり、正三角形が5枚で「五角形」を作ると、中央部は閉じて膨らむ「五角錐」となり、同様に正三角形が6枚で「六角形」を作ると、平坦な「正六角形」となってやはり中央部は閉じた状態だ。それが、7枚の正三角形で「七角形」を作るとして、その構成法に立体的条件を付加すると、「六角形」までは閉じていた形状の中心部が、「七角形」では開いた状態となるのである。コンパスと定規では描けない図形とされる「七角形」も、二次元(平面)にもう一次元を加えた「三次元(立体)」の構造表現によって、このように具体的に視覚化できるのだ。・・・現今の混迷混沌とした閉塞感を打開する「手懸かり」になれば・・・ということで、この普遍的な「開き加減」の立体七角形を、ここで初めて公開・披露することにした。その意図するココロとは、一人一人の閉じられた〔 心 〕の「岩戸開き」に繋がる布石としての・・・創造的「破壊(八開)」・・・である。(関連記事・2005年6月30日/2006年1月28日)目覚める人々が、その《想像的八開》の向うに、『 真実の光 』が見出せることを期待して・・・。
2009年03月16日
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かねてより、ここ山口市の「小郡(おごおり)」(※)で生まれ育った者として、愛着のある「小郡」という地名の由来を知りたかったのだが、昔の小郡町史などを調べても判然としなかった。(※2005年10月1日に小郡町(吉敷郡)は山口市との新設合併により山口市の区域になり消滅した。冒頭画像は山口県の地図で、現在の山口市は桃色の地域、現在の「小郡」(旧・小郡町)は緑色で囲った斜線地域となる。)ところが近年になって、私なりに合点のいく「小郡」の地名由来を知ることになり、また昨年中には、その「小郡」を謳うにふさわしい場所を特定できたので、当日記に書いておくことにした。まず「小郡」という”地名の由来”については、結論から言うと、かつて南方の夜空に輝いていた天体の「南十字星」(※)を意味することになる。(ちなみに、山口県南部の海岸域からはAD15世紀頃まで、当星座の上部までは観測できたことが、「天文ソフト」のシュミレーションで確認済みである。)(※南天の星座のひとつ。全天88星座のなかで最も小さい。現在は、南天でも”天の南極”近くにある星座のため、北半球では見ることができない地域が多い。時期によっては日本でも沖縄県、小笠原諸島などで観望が可能。)その「小郡」を「南十字星」とする根拠となった文献は、古代氏族の物部氏から続く代々「暦法」を生業とした家系の真鍋氏が著された書名『 儺の國の星 (なのくにのほし)』真鍋大覚 著作(福岡県那珂川市 発行)という本であった。驚いたことに、この書籍内容に、山口県のここ「小郡」という地名の由来が、南天の夜空に輝く「南十字星」を、古くは「日向星(かふりのほし)」と呼んだことに由来すると書いてあったのである。そして、なぜ「南十字星」を「かふり」と呼んだかについては、古代の女性が頭上に布を置き(頭巾をかぶり)、これに荷物をのせて運ぶ習慣があったことを挙げていた。この文章を目にした時、私は「これが『小郡』の語源だ!」と感じたのであった。 また書籍には…古代人は偉大なる火山群の噴煙を南方の空の下に展望し、「南十字星」の上の三角形と並べていたのかもしれない…との記述があったことから、山口市小郡を流れる椹野川(ふしのがわ)の下流域から見て、ほぼ真南に位置する「由布岳」の、その「豊後富士」とも称される活火山の秀麗な三角形に、「南十字星」の風情が「かぶる」つまり”重なるように”見えるので、この地域が「小郡」と呼ばれるようになったと類推することができよう。以上のことから、この「小郡」の語源たる「南十字星」を意味する「かふり」が、これを称える「お」を添えた「おかふり」となり、時代の流れと共にその発音が変化する過程で、漢字の「小郡」が充てられ、最終的に「おごおり」という発音が定着していったと考えられる。◎関連記事・・・〔小郡⇔南十字星〕の伝承より◎関連記事・・・「南十字星」と「小郡」の関係、そして・・・さて、ここで確認しておきたいことがある。それは先に述べた「小郡」の”地名”にしても、次回で述べる「小郡」の”場所”にしても、江戸時代の「小郡宰判(おごおりさいばん)」という行政区域(下の画像に映る絵図の地域/冒頭地図では山口市の〇で囲った南部地域)を前提としているということである。(つづく)※上の絵図は「描かれた小郡ー小郡宰判絵図にみる幕末の風景ー」山口市小郡文化資料館(編集)より
2023年02月11日
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今回は年末年始にかけて散策し、下の関連記事にある「山口と九州を貫く南北軸」の軸線に沿うかのように配置された三種類の「石造物」を紹介できればと思う。※関連記事・・・祭祀の原型『いわさか ひもろぎ』に触れて〈南北軸〉を俯瞰するそこで冒頭の画像は、上の関連記事に掲載した磐座の鎮座する神社から、車で約10分のところに存在する古代人により意図的に「円形状」(半球状)に加工されたであろう「石造物」を撮影したものである。次に上に並べた2枚の画像は、まるで”鏡”のように「円形状」にカットされた風情が確認できるよう、段階的に角度を変えて撮影したものだ。そこで興味深いことに、この「石造物」が存在する場所を紹介してくれた知人の話では、(当地域における展望の良い場所から)これまで経験したことのない明確で印象的な”UFO”(未確認飛行物体)が視認できたとのことで・・・その背景には、この「石造物」があったからではないか・・・ということである。実は、冒頭画像の加工された岩石を見て私自身が瞬時に思い出したのは、下の関連記事から抜粋した『太刀割石』を映した岩石(上の画像)であった。そのカッティングされた岩石の大きさがほぼ同じで、その全体的な傾き加減も似ていたからである。※関連記事・・・『太刀割石』の斬新な切口そして次に紹介する「石造物」は、「正方形」(正四角形)を象った石組みを垂直に立てたかのような「石門」(上下の画像)である。シンプルだが実に説得力のある幾何学的な配置である。この高さ約2mの「石門」を潜って向かう奥の高台には祠があるので、この「石門」は”神社祭祀”という観点からは、ここから御神域とする「鳥居」の意味合いが汲みとれた。そして末尾となる最下の画像は、この地域の重要地点を指し示す「石標」を撮影したものだ。この垂直に屹立する「石標」は、これまで”磐座巡り”をしてきた私的感覚からしても、確かにこの地域の”要所”に屹立していたのであった。以上、三種類の幾何学的な「石造物」を紹介したが、それぞれ500mも離れていない”特定の場所”に、おそらく意図的に設営されており、古代より当地域の人々に大切に守られてきた歴史を感じたところである。
2026年03月19日
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前回の日記で公開した「準正32面体」の軸線構成が完成した後、また直ぐに制作に取り掛かることになった造形があった。その造形とは、いわゆる”神聖幾何学”という分野で有名な「フラワー・オブ・ライフ」という〈2次元の平面図形〉を、私なりの解釈により〈3次元の立体構造〉へ”次元転換”を試みた作品である。そこで本日の日記の冒頭と末尾の画像は、それぞれ異なる角度で”ひとつ”の造形を撮影したものだ。☆関連記事 ⇒ [ 究極の構造 ](あの「フラワー・オブ・ライフ」の原型かもね)実は前回記事で取り上げた作品と同様、本日公開した作品も手元に無かったことから、近々”複製”しようと思っていた。ここで思い返すと、この「フラワーオブライフ」の”立体版”と感じた作品を初めて制作したのは、その経緯等を”2005年7月7日”が記載年月日となる上の関連記事に書いたように、〔2005年3月〕であった。これまで当日記の紹介記事や私の運営するYouTube(たまのをチャンネル)等で、この「フラワーオブライフ(立体版)」を様々な角度から撮影した画像や解説、その制作方法を紹介した動画(以下の関連動画)を配信してきたこともあり、徐々にだが巷に浸透しつつある気配を感じている。◎関連動画・・・〈 綿棒工作 〉…No.8「フラワーオブライフ」(配信…2021年1月~)手前味噌ではあるが、上にリンクした関連動画に基づく制作方法であれば、制作過程において構成した造形の「接合部」がズレたり外れたりすることもなく、完成後には”美しい”造形表現になるであろう。さて上の画像に映る造形は、計36本の”綿棒”で構成した「準正14面体」の軸線構成で、上にリンクした関連動画でも解説しているが、「フラワーオブライフ(立体版)」の構成単位となっている。また別の捉え方としては、冒頭画像の造形と上掲画像の造形を見比べると分かるように、この二つの造形は全体として「相似」(形は同じで大きさだけが違う)の関係にあることも興味深いところだ。ところで、この冒頭と末尾に映る造形の制作(複製)を後押しする”あるキッカケ”があった。それは前回日記で公開した造形が完成した頃、ある真言宗の僧侶と面会する機会があり、その会談の最中に何故か自身の脳裏に、『空海』が唐から招来した「金剛界曼荼羅」と「胎蔵界曼荼羅」という陰陽二種類の平面曼荼羅(両界曼荼羅)が、立体的かつ動態的に統合した一つの【立体曼荼羅】として視えたことである。ここで、その一つの立体的な「両界曼荼羅」の分かりやすい解説を試みるため、まずは冒頭画像に映る造形を注視してみよう。つまり「フラワーオブライフ(立体版)」を撮影した冒頭画像の角度から見て、上記の2種類の「両界曼荼羅」を“ひとつ”の立体構造として俯瞰できたわけだが、まず造形の中央部にある四角形を中心とする九マスの方陣模様が「金剛界曼荼羅」の図象に、そして造形の中心点から八方に展開し、かつ中心点へ集約する世界が「胎蔵界曼荼羅」の図象に見立てられると、真言宗の僧侶と語らう過程で会得したということだ。もちろん私的な洞察ということで、その真相云々は何とも言えないのだが、当日記には“覚書”ということで記しておきたい。そもそも一般的な解説として「曼荼羅(まんだら)」とは…「宇宙の真理」を図示したもの…ということである。自身の「真理探究」の道が深まるなかで、おそらくこの「フラワーオブライフ(立体版)」は全ての生命の内奥に遍満する『普遍的原理』に関連し、その深淵な“響き合い”は共振・共鳴現象として、この地球規模の転換期において社会全体に浸透しつつあるのではないかと感じている。
2026年06月01日
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天気の良い日には、私の故郷である山口県山口市は「小郡(おごおり)」の南方にある海岸から、瀬戸内海を挟んでほぼ真南に、〔豊後富士〕と謳われる大分県の「由布岳(標高1,583m)」(冒頭画像の中央)を遠望することができる。当日記では「山口と九州を貫く南北軸」という観点から、この山口から南方に展望する「由布岳」を何度も取り上げてきたのだが、不思議なことに今の私の心中には、南天に輝く「南十字星」を形成する4つの星のうち上方の3つの星が、まるで「由布岳」が傘を被るかのように重なり合って観えている。さて昨年7月の日記(以下の関連記事)では、山口市内の「小郡」という地名の由来に関して、古代氏族の物部氏から続く代々「暦法」を生業とする家系の真鍋氏による著作から引用させていただいた。☆関連記事・・・〔 小郡 ⇔ 南十字星 〕の伝承よりその書籍『 儺の國の星 』 真鍋 大覚 著(那珂川町 発行)によると、上記の山口県の「小郡」や福岡県小郡市の「小郡」という地名は、南天に輝く「南十字星」を古くは「日向星(かふりのほし)」と呼んだことを由来にする伝承が記されていた。おそらくは「南十字星」を意味する「かふり」に、これを称える接頭語「お」を添えて「おかふり」の発音となり、やがてこれに「小郡」という漢字が充てられ、「おごおり」という発音が定着したと考えられる。そして、つい先日のことだが・・・そういえば中世において山口を拠点とした大内氏が大きく活躍していた時代に、現在の福岡県小郡市を含む「筑前国(現在の福岡県域)」を領地としていた期間があったことから、もしかするとその大内時代に「小郡」という地名を福岡から山口に持ってきたのではあるまいか・・・という着想が生まれた。だとするなら、その大内時代に山口から「南十字星」が見えていたのでは…ということで、最近PCに搭載した天文ソフトで、その大内時代をおおよそ西暦1350年~1550年の約200年間と想定し、その間を取って西暦1450年2月の今頃に設定(場所は小郡地区のある地点)、南天の夜空をシミュレートしてみた。すると驚いたことに…午前2時頃に「南十字星」を形成する4つの星のうち、上方の三角形を形成する3つの星が南中する、つまり山口の「小郡」から見てほぼ真南の水平線上に存在していたことを確認できたのである。また、そこで同時に着眼したのは、場所として小郡地区(古くは吉敷郡の南域「小郡宰判」)に設定した海岸域から南方の海上を見るとすれば、瀬戸内海を挟んでほぼ真南に位置する「由布岳」の秀麗な三角形と、上記の3つの星が形成する三角形が、ちょうど同じような大きさで重なって見えたはずだ・・・ということであった。加えて古代において、例えば船団を組んで渡航してきた外国の使節が、南方の有明海から当時の九州を統治していた行政機関の「大宰府」に赴く場合には、福岡の古くから交通の要衝であった「小郡」で必ず下船して宿泊し身支度を整えたという伝承がある。以上のことから類推すると、時代が下って「筑前国」を領地としていた大内氏が活躍した期間に、歴代当主の本拠であった山口地区(古くは吉敷郡の北域「山口宰判」)の「大内氏館」を筑紫の「大宰府」に準えるとすれば、その南方にあって海に近い山口の「小郡」は、福岡の「小郡」と「大宰府」の関係と同様に古くから山口の外港であり、京都から繋がる日本海側の「山陰道(現在の国道9号線)」と瀬戸内海側の「山陽道(現在の国道2号線)」が交わる交通の要衝であった。さらに興味深いのは、福岡の「小郡市」には、創立年代の古い主要三社が南北に連なるように鎮座しており、その南北軸が示すほぼ真南にある高良山(標高312m)の中腹には筑後国一の宮「高良大社」が、その北方に並んで鎮座する神社群から視認できる位置に鎮座しているのである。この上記のことが確認できたとき、私には耳納連山の西端に位置し福岡の小郡からほぼ真南に見える「高良山」と、山口の小郡からほぼ真南に見える「由布岳」が重なって観えてきたので、すぐにその地域を天文ソフトでシミュレートしてみたわけだが、予想通りというか「大宰府」が設置された7世紀頃は、小郡市の南北に連なる神社群から見た場合に、2月頃の深夜に南中した「南十字星」の上三つの星は「高良山」の山容に重なるような位置になった。それまで耳納連山に隠れていた「南十字星」が、山影から突如出てきて山腹の「高良大社」を覆うように輝き、西側の山麓をなぞるように沈んでいく姿は、おそらく古代人にとって格別の風情だったに違いあるまい。以上、様々な角度から論じてきたが、山口と福岡の両地域において類似した地勢を含む「小郡」と「南十字星」の関係性が、私のなかで色濃く浮上してきたというわけである。(※ここで確認だが、地球の歳差運動(約26,000年周期)のために、現在の日本列島で「南十字星」という星座の全体が見える場所は、沖縄方面の西南諸島に限定される。ちなみに下の画像で中央部に映るクロスが、沖縄本島で海上に現れた現在の「南十字星」である。)ところで、山口市の中心を流れる椹野川(ふしのがわ)の河口域(秋穂二島)にある小山の山上に、「迦具土神(かぐつちのかみ)」を祭神とする「焼火神社(たくひじんじゃ)」が鎮座している。☆関連記事・・・「隠岐の島」の周遊記(六)これまでも当日記では、日本神話が語る「八百万の神々」を「天空に輝く星々」と捉える立場から、様々な関連書籍から引用しつつ「神々」と「星々」の密接な関係を取り上げてきた。そんな経緯もあり、かねてより「焼火神社」の祭神「カグツチ」に対応する星を、おうし座の一等星「アルデバラン(和名は「赤星」)」とする説は知り得ていた。冒頭から述べてきたように、古代の日本では南天に輝く「南十字星」が南を指標する星であったが、歳差運動のため次第に見えなくなり、その代わりに「アルデバラン」が南を示す星として「南極星」と呼ばれたという伝承がある。この期に及んで思い出したのは、この「アルデバラン」たる「カグツチ」の出生神話であった。そもそも「カグツチ」とは記紀神話における「火の神」で、『古事記』では「火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)」と表記され、神産みにおいて「イザナギ」と「イザナミ」の間に生まれた神々のなかでも、最後に生まれた神とされている。そして、この「カグツチ」が「火の神」であったために、出産時に「イザナミ」の陰部に火傷ができ、これが原因で「イザナミ」が死んでしまったとする解読が主流なのだが、私は前々からこの神話解釈には合点がいかなかった。ここで押さえておきたいのは、「イザナギ」の「キ」とは「北」であり北天の極北近くに輝く「北極星」を示し、「イザナミ」の「ミ」とは「南」であり南天の指極星たる「南十字星」を示すという捉え方があるということ・・・。そこで…「神」とは「星」なり…の観点から「カグツチの出生神話」を私なりに解釈すると・・・歳差運動のために「南十字星(イザナミ)」が「南極星」としての役割を果たせなくなった(イザナミは死んだ)ので、その代わりに「アルデバラン(カグツチ)」が「南極星」を担当することになった(カグツチが生まれた)・・・となり、(手前味噌ではあるが)かなり洗練された捉え方になると今のところは考える。当日記で呪文のように繰り返してきた・・・「八九(破竹)」の勢いで「十(自由)」の時代へ・・・飛躍するという「八九十(白兎)の道」という世界観がある。そこでこの「八九十」という3つの数に日本神話に登場する主要な三柱の神名を充てるとすれば、「八」とはこれまでの物質(もの)を主軸とした時代の「イザナギ(北極星)」、「九」とは「イザナギ」と「イザナミ」の和合を担った「ククリヒメ(菊理媛命)」、そして「十」とはこれからの自由な精神(こころ)を主軸とする時代の「イザナミ(南十字星)」を暗示している。今や日本列島の本州からは見えなくなってしまった「南十字星」は、日本神話で謳う「黄泉の国」に去ってしまった「イザナミ」と見事に重なるけれど、人の「こころ」と同じく「南十字星=イザナミ」は、〔見えないけれども…あるんだよ〕ということである。最後に2014年の2月、北九州市の八幡で開催した個展『星の立体造形展』にて、「南十字星」を模した作品について綴った記事を以下に掲載して締め括りとしたい。☆関連記事・・・個展の模様(6)☆関連記事・・・個展の模様(13)
2019年02月12日
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