おじん0523のヒロ散歩

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オジン0523 @ Re:茅ヶ崎交響楽団 第39回第九演奏会へ(12/15) 抗議の内容は知っておりましたが、敢えて…

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2024.04.26
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カテゴリ: 東海道53次


お土産の ”でかまん” を頂き、百メートル程戻り「旧相模川橋脚」へ。

4月6日(土) 10:45
前方は新湘南バイパスの高架橋で茅ヶ崎西インタ出口がある。


国道1号(旧東海道)の下町屋橋の東京側に建っている標柱。
標柱には「国指定史跡 旧相模川橋脚」と。


史跡 旧相模川橋脚
所在地:神奈川県茅ヶ崎市下町屋1丁目
もう何度も訪れている史跡で、ちょうどソメイヨシノが満開であった。


国指定史跡 旧相模川橋脚
旧相模川橋脚は、大正12(1923)年9月1日の関東大震災と翌年1月の余震によって、水田に橋杭
が出現した全国的にもまれな遺跡です。当時の歴史学者沼田頼輔によって、鎌倉時代の建久9

(1926)年に国の史跡に指定された。


写真は 「出現時の様子」
仮指定段階の橋脚    整備前の様子
保存池精査の様子    保存方法の概念図


床面に「写真と説明が書かれたタイル」がはめ込まれていた。
□ 橋脚出現状態の再現
  本史跡は、1923(大正12)年に発生した関東大震災によって、地中より出現した鎌倉時代の
  橋遺跡です。ご覧になっている橋脚は精巧な複製品で、実物は腐朽が進まないように地下
  3m65cmのところで保存されています。橋脚は複製品ですが、地震によって発生した液状
  化現象で橋脚が出現した状態は忠実に再現されており、地震のすごさを物語っています。
□ 大正期保存池の復元
  本史跡は、1926(大正15)年10月20日に国の指定史跡となりました。橋脚(複製品)10本を

  ています。池は木柵を作りその外側には土盛りした周堤が築かれていたことが発掘調査な
  どから明らかになっており、当時の人々が保存に向けて努力をされていたことが感じられ
  ます。


池上に出ているのはレプリカで旧橋脚は保護ピットで覆われ地下に保存されている。


保存池の周りのサクラは満開。



認され、2m間隔で3本からなる1列の橋脚が、10m間隔4列に配置されていた。橋杭について
は年輪年代測定により西暦1126年から1260年に伐採されたことが判明したと。


満開のソメイヨシノを見上げる。


後方の建物は 「神奈川県衛生研究所」
当研究所は、さまざまな健康危機の懸念や発生に対して、関連の行政機関や試験研究機関など
と連携して、県民の皆さんの健康の保持増進、健康被害の発生予防・拡大防止など、健康危機
管理に係る業務の充実に積極的に取り組んでいますと。


耕地整理記念碑
小出川と千の川の流域一帯を美田化する目的で行われた耕地整理を記念する碑。

(1940)に竣工したと記されていた。
現在の小出川は、この耕地整理により今の流れとなったものであると。


古木の幹から芽が出てサクラが開花していた。


この頃には気温も上がり出発前に上着を一枚脱ぐ。
しばし休憩後、集合時間になる。


昼時になると弁当を持ち癒しの空間になる。この日は土曜日で家族連れが訪れていた。
旧相模川橋脚を後にし「茅ヶ崎一里塚」へ向けて出発。


11:10
国道1号(旧東海道)沿いを歩き約2.5km先にある終点「茅ヶ崎一里塚」へ。
ツアーガイドから右側に「神明神社」と言われたがスルーして先へ。


神明神社
所在地:神奈川県茅ヶ崎市下町屋1丁目6-19
ツアーの説明が欲しかったが。


境内への入口にある石碑には 「清明井戸」 と。
石碑の裏面には、
「当地の古老が伝えるところによると、神明大神の境内には平安時代の陰陽師、安部晴明(921
 〜1005) が東国へ下行のおり喉の渇きを癒した清水が湧き出ていた、名付けて『清明井戸』
 と称す。   平成二十三年十月吉日」と刻まれている。


道路脇には下り線側を歩いているので「日本橋から 60km」と書かれたキロ標柱。
近くに ”明治乳業神奈川工場” がありツアーガイドから「ここでもブルガリアヨーグルトを製造
しておりここで製造したものにはパックに『Kナ』が印字されている」と。


その事実を後日確認したのである(黄色内標示)。
余談だが、他のヨーグルトがフードロス対策から「半値」と標示、皆さん物価高の中複数購入
しておられた。最近の値下げ表示は「10% ~ 半値」とあるがその基準が気になる。
会社勤務時代は「半値の60%引きでも原価はキープしている」と言っていたものだが。


鳥井戸橋交差点に建つ ”鶴嶺八幡宮大鳥居”
鳥居の右側には社号標石「鶴嶺八幡宮」が建っている。
ツアーは交差点を渡り国道の北側へ移動さてどこへ?。


弁慶塚
所在地:神奈川県茅ヶ崎市浜之郷843-1
訪れたのは民家の敷地に隣接?、案内板がないので入口がわかりづらい。


石碑だけが置かれた ”弁慶塚”。


弁慶塚の由来
武蔵国稲毛(川崎市)の領主、稲毛三郎重成が亡妻の冥福を願い相模川に橋を架け、建久九年十
二月二十八日その落成供養を行った。源頼朝は多数の家臣を引きつれてこの式に参列、盛大な
落成式が行われた。頼朝はその帰途鶴嶺八幡宮附近にさしかかったとき、義経・行家ら一族の
亡霊があらわれ、乗馬が棒立ちになり、頼朝は落馬して重傷を負い、翌正治元年一月死去した。
後年里人たち相計り義経一族の霊を慰めるため、ここに弁慶塚を造ったと伝えている。
   昭和五十七年十一月一日
            茅ヶ崎ロータリークラブ
            茅ヶ崎郷土会
説明板もそろそろ新しいものに。


鶴嶺八幡宮大鳥居
ここから北側に800メートルの参道が続き両側は松並木になっている。


鳥居下の路面に埋められたタイルには「大正初年頃の鳥居付近」。
鳥居は石製であろうか、関東大震災で倒壊したのでは。


鳥井戸橋交差点を再度下り線側へ横切り、鶴嶺八幡宮大鳥居を振り返る。


南湖の左富士之碑
交差点を渡った千の川に架かる鳥井戸橋と石原橋の頂点にあるスペースに石碑が建っている。


南湖の左富士の由来
浮世絵師安藤広重は天保三年(1832)に東海道を旅し、後続々と東海道五十三次の風景版画を発
表した。その中の一枚に南湖の松原左富士がある。東海道の鳥井戸橋を渡って、下町屋の家並
の見える場所の街道風景を写し、絵の左には富士山を描いている。
東海道のうちで左手に富士山を見る場所は、ここと吉原(静岡県)の二か所が有名。
昔から茅ヶ崎名所の一つとして南湖の左富士が巷間に知られている。

この場所は「関東の富士見100景」に指定されている。
鳥井戸橋の欄干に取り付けられているネームプレート。


千の川の下流側。橋は石原橋。
この方向に左富士が見えるのだがこの日は一日富士は見えなかった。


”南湖の左富士之碑” から更に東へ進む。
旧東海道沿いの ”ふれあい医療福祉研修センター” のフェンスに掛けられていた道案内板。
今まで何度もこの辺りを走っているがこの案内板には気が付かなかった。
南湖鳥井戸歴史街道
1, 鳥井戸 御霊神社
   鎌倉権五郎景正公、源義経公を祀る
2, 浄土宗 御霊山西運寺
   「白浪五人男」のひとり南郷力丸の供養碑があり、相模三大十夜の「お十夜寺」としても
   賑わった。
3, 浜降祭 神輿渡御コース
   昭和期浜降祭へ渡御する各神社の神輿は、鳥井戸中央通りを通過して南湖浜へと進んで
   行った。
4, 寒川神社の神輿救った石井家
   茅ヶ崎海岸へ流れ着いた寒川神社の神輿を仲町の孫七等と引上げ、寒川神社より感謝を
   授かる。
5, JR 臨時停車駅
   関東大震災で東海道線が壊され、南湖院への通院の為、鳥井戸踏切に臨時停車場が仮設
   された。
6, 茅ヶ崎八景 鳥井戸
   茅ヶ崎八景 (南湖青風・鳥居戸夕陽・松原夜雨・高砂秋月・鶴嶺暮雪・大六天晩鐘・柳
   島落雁・姥島帰帆) 茅ヶ崎が誇る景観である。


更に進むと 「亀井工業ホールディングス㈱」
所在地:神奈川県茅ヶ崎市南湖1丁目4-25
ツアーガイドから、東海道の立場であった「南湖の茶屋町」には、茶屋だけでなく旅籠もあっ
た。「萩藩」や「加賀藩」などの大名行列も南湖の「松屋」という茶屋で休憩したという記録が
残る。ほかにも「橘屋」「藤屋」「江戸屋」「布袋屋」といった茶屋があった。
今でも茶屋町の地名が残っており ”茶屋町自治会館” もある。
また、かつてこの辺りには ”湯屋” があった、この関係からか亀井工業はJR北茅ヶ崎に「野天
湯元 愉快爽快」を経営していると。

亀井工業は2020年に創業130年を迎えた茅ヶ崎の地元企業である。
この木も樹齢が100年以上なのであろう。


更に国道1号(旧東海道)を進む。
お気に入りに登録している 「だるま食堂」


一度立寄ったがリーズナブルな価格で美味しかった。
次回は「チャーハン」を食べたいと思っているが。


茅ヶ崎には旧家の脇本陣があった。 
江戸時代の茅ヶ崎は、藤沢宿と平塚宿の間にあり、間の宿と言われた。文化3年(1806)に江戸
幕府が作成した『東海道分限延絵図』を見ると、沿線に菱沼村、小和田村、茅ヶ崎村、浜之郷
村、下町谷(屋)、今宿村、中島村があり、牡丹餅立場、一里塚、南湖立場、姥ヶ島(姥島)、な
どが描かれている。
そのころの東海道の道幅は、旧小和田村付近で約11m、南湖立場付近で約7m、馬入川付近が
一番狭く約6mであったという。また、南湖立場は、市内の東海道筋では最も賑わっていた。
そこには本陣(松屋)と脇本陣(江戸屋)があり、松屋は間口20間(約36m)ほどの構えであったと
いいますが痕跡を留めていませんと。
松屋は別の場所で「和風レストラン」を営業していると(以上ガイドの説明から)。

このお宅も南湖茶屋町の旧家で ”脇本陣” であったと。


向かい側に「茶屋町バス停」。
この辺りの南湖立場は、市内の東海道筋では最も賑わっていた。この為、東海道本線の茅ヶ崎
駅もこの辺りに計画したが路線がカーブしていたので東寄りの現在地に変更されたと。


茅ヶ崎市内の旧東海道は現在国道1号になっていると。
この辺りは道幅も広く電線もモール化され自転車優先道路がある。


11:40
歩道橋を渡り北側へある 「第六天神社」 へ。



                                     ー 続く ー





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最終更新日  2024.04.26 03:00:10
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