JINさんの陽蜂農遠日記

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2025.12.02
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カテゴリ: JINさんの農園
引地川方向に向かう。
鵠沼神明2丁目3の民家の石塀の途中ににあった「 地蔵堂 」。



三叉路の角にあった立派な門のある民家。



その先にあった「 宮ノ前の道陸神・道祖神 」。
藤沢市鵠沼神明2丁目4−18。



そして次の目的地の「 空乗寺
真宗高田派 延宝5年(1677年)に入滅した僧了受が江戸初期に
開山・創建した と伝えられる寺院である。 正式名は金堀山 空乘寺
藤沢市鵠沼神明3丁目3−21。





[空乗寺
金堀山空乗寺(浄土真宗高田派)。本尊 阿弥陀如来。
専修寺末寺となったのは元文三年(1738 )のことで、それ以前の浄土真宗本願寺派でした。
七世慶心の時、鵠沼の地頭大橋長左衛門重政が自分の采地鵠沼の五百石の内、九石(石上の辺
り)を空乗寺に寄進し、慶安ニ年(1649)幕府に請うて将軍家光より朱印状賜りました。江戸期は
檀家も少なく、寺領の朱印地九石といくらかの寄進地、境川の石上の渡船料、水車の権利等で
寺を運営していたと云われます。明治になり、老朽した堂社は明治3年の暴風て倒壊し、
明治42年ニ十ニ世慶心が厚木の中古本堂を移築したのが現在の本堂です。

【大橋重政の墓碑】(市指定文化財)
空乗寺の境内墓地には、江戸前期の領主だった大橋重政の墓碑があります。
大橋家が領主となったのは大橋重政の父重保が、元和三年(1617)に将軍秀忠の右筆となり
500石の知行地(鵠沼村と大庭村折戸)を賜ったのが始まりdeす。重保は能書家て知られ、
秀忠家光ニ代にわたり右筆を務めます。右筆とは、幕府の事務官僚として文書・記録を
つかさどる職です。
寬永十一年(1634)に重保が病て職を辞すると、嫡子重政が家督を継ぎ、右筆の職にも
就きます。重政もまた能書家て、はじめは父重保に書を学び、後に松花堂流の租となる
瀧本坊昭乗に学びました。重政の書は、御家流の一派をなす"大橋流書道"と呼ばれました。
寛文十ニ年(1672)に、重政が亡くなると嫡子重好が家督を継ぎますが、知行地は上地(暮府
に返す)となり、大橋家はこの地の領主ではなくなります。
境内にある大橋重政の墓碑は、息子重好と重尚の兄弟が、重政の三十三回遠忌となる宝永元年
(1704)に建立したものです。墓碑の前の一対の常夜灯もその時に建立されたとみられます。
墓碑と常夜灯には、重政の名「龍性院殿釋道樹居士」とともに、重政妻の名「上春院殿釋妙慶
禅尼」も彫られている。また、空乗寺には文政四年(1842)の銘がある重政夫妻の位牌も納め
られている。位牌の背面には「大橋先生末門 筆官 濱田三之丞源恒久再造之」とあリ、没後
100年を過ぎても大橋重政を書道の師と慕うものが再造立したことがわかります。
                               参考:『藤沢市文化財調査報告書第3集』「三.大橋重政の墓」より





市指定史跡 大橋重政の墓 」案内柱。



山門。



慰霊碑
同寺ゆかりの戦没者22柱を合祀した慰霊碑。平成12年10月建立。
碑誌:
「この慰霊碑は支那事変並びに大東亜戦争 に於て祖国の為に戦死をされた当時ゆかりの
英霊に対し心からご供養を申し上げると共に 永久にこの事を子孫に伝え二度と悲惨な
戦争を起さぬ事を祈念して造立した 次第です
終戦後五十五年の歳月が流れ日本は世界 第二位の経済大国になりましたがその反面戦争の

一枚の召集令状により妻や子を又親を残して 戦地に赴き祖国の繁栄を願って散華された
英霊の心を想う時万感胸にせまるものが ありますそのご供養を続けることが残された
私達の務であると思います   合掌
平成十二年十月吉日
空乗寺第二十六世 信明代


基壇前面:
「空乗寺ゆかりの22名の英霊の氏名
 羽鳥 故宗野忠男殿
 藤沢 故江成實殿 仝 故江成四郎殿 仝 越川常吉殿
 東京都 故赤羽正己殿
 鵠沼 故荒木与四郎殿 仝 故宮崎留吉殿
 片瀬 故名和藤雄殿
 大船 故船引竹三殿
 鵠沼 故角田隆吉殿 仝 故角田春太郎殿
 茅ヶ崎 故加藤重信殿 仝 故加藤元重殿
 鵠沼 故大橋實殿 仝 故大橋正栄殿 仝 故大橋源蔵殿
 横浜 故秦野實殿
 藤沢 故田村四郎殿
 鵠沼 故小島清殿
 横浜 故當摩俊衛殿
 鵠沼 故山口佐四郎殿
 横浜 故山口春殿」



空乗寺 本堂



扁額「 金掘山 」。



本堂前の石灯籠。



寺紋「 亀甲に三階松 」。



市指定史跡 大橋重政の墓 」に向かって進む。



引地川沿いにある大きな墓地。



大橋重政の墓。



大橋重政年譜
西暦 和暦     月                      事項
1617元和 3鵠沼村(300石)・大庭折戸村他の幕領分500石、旗本大橋長左衛門
                                        重保知行地となる
1618元和 4大橋重政、大橋重保の長男として生まれる。
                                        幼名小三郎 通称長左衛門
1627寛永 4重政、はじめて将軍家光に目見え。10歳
1631寛永 8重政、家光の右筆となる。14歳
1633寛永10重保、病により右筆を辞す。剃髪して龍慶と号す
1634寛永11重政、家を継ぐ。鵠沼等の采地500石
1639寛永16918 重政の書道の師松花堂昭乗、没。56歳
1640寛永17大橋重好、重政の長男として誕生
1641寛永1812大橋龍慶(重保)豊島郡放生会寺の縁起2巻を撰し子重政これを書く
1642寛永19重政、牛込の神木の榎が大風で倒れ、同木で龍慶寿像製作を発願→
                                        彫刻:藤原真信
1642寛永195龍慶像完成→誉田八幡宮の大橋龍慶堂に安置
1649慶安 2828   大橋重政、采地(石上付近)のうち9石余を空乗寺に寄進し、
                                        将軍家光より御朱印を賜る
1657明暦 37大橋重政の長男重好、はじめて将軍家綱に拝顔。18歳、幼名を重吉。
                                        新五左衛門と称す
1665寛文 5923重政、寺社領御朱印の労により賞を受く
1667寛文 7516   重政、日光山における家光の法会にあずかって褒賜に浴す
1667寛文 77重好、幕府の大番となる
1669寛文 912重好、廩米200俵を給されたが、間もなく小普請になる
1672寛文12630大橋重政、病により没す。寿55、龍性院殿道樹居士と謚して
                                        空乗寺に葬る
1672寛文12重好、家督を嗣いだが、幕府の不評をかったらしい
1672寛文12大橋氏知行分が重政死亡により上知、幕領
                                         (代官成瀬五左衛門重治)となる
1704宝永元630大橋重政33回忌。重好、空乗寺の霊前に父母の墓碑を建て、
                                        常夜灯一対をささげる
1755宝暦 5大橋流を継承した篠田行休が「大橋流初学当用集」を日本橋
                                        宗文堂から上梓
1871明治 46大橋重政200回忌、空乗寺にて供養。多くの門人が集う
1965昭和40531空乗寺大橋重政夫妻の墓を藤沢市の文化財として「史跡」に指定
1966昭和4112『藤沢市文化財調査報告第3集』藤沢市教育委員会編、空乗寺に
                                        関する事項を掲載
1971昭和4611大橋重政300回忌、空乗寺にて供養
                                  鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

墓石に近づいて。



「市指定史跡
大橋重政の墓 ​👈️リンク
大橋重政は重保の子で、元和四年(一六一八)に生まれ、通称を長左衛門という。
寛永八年(一六三一)父重保とともに幕府に見出されて右筆となった。
重政の書法は父重保の書法を受け愛瀧本坊昭乗(御家流書道家)に学んで一家を成し
大橋流と称せられた。
又、青蓮院法親王について御家流書道の奥旨を極めたとも伝えられる。
この重政が空乘寺に葬られていることは、右筆として五〇〇石を受けると鵠沼に
采地を有し、大檀越として同寺の外護に尽したからである。
昭和四十年五月三十一日指定
藤沢市教育委員会」 



龍性院殿釈道樹居士
 上春院殿釈妙慶神尼 」 



左面に
承雁ニ癸巳年二月一一十九日
一色式部少輔源範勝娘 」と。 



背面に
龍性院殿第三十三回遠忌為追福修善造於石塔回向事菩提 」、
寳永元甲申稔六月晦日
旋主 孝子 大橋新五左衛門源重好
         仝  小兵衛尉源重尚」


大橋重政の墓 から引き帰して本堂方向に進む。



無縁供養塔 であったか?



再び本堂を。



そして次に訪ねたのが、 宮前公民館前にあった「首塚」碑



宮の前首塚
宮の前公民館の脇に、新しい石碑と庚申塔を納めたお堂があります。この場所には、首塚、金掘塚、
庚申塚と称された小塚がありました。塚のいわれが不明だったため、明治12年の鵠沼村の戸長
関根伝左右衛門の発起により発掘調査されました。塚の下からは頭骨や脚骨発見され、それを甕に
入れ弔い、供養のために石碑を建てました。その経緯が示された石碑の篆額“首塚”の文字は、
時の縣令野村靖による揮毫てした。
明治期に建てられ古くなったため、平成23年3月に現在の石碑に建て替えられました。
塚のいわれは現在も判明していません。この辺りが戦いの場になったのは、康正元年(1455 )の
鎌倉公方成氏が今川範忠に鎌倉を追われた戦い、永正年間(1504~21)山え内上杉と
扇ガ谷上杉の戦い、永正九年(1512)伊勢宗瑞(北条早雲)の相模国東部への進出などが考えられます。



首塚 野村靖
許はふるくよリある塚にしあれど、何の塚てふことを知れる人なく、ただ里人の金掘塚或は
首塚あるいは庚申塚などとりどりに呼び、きたかならぬを、今や文明の御代にあひ、千世の古道
あきらけくなりゆくときにありて、かかることゆゑよしのしられぬこそ本意なれど、里長関根主
はじめ里人のなげけるなんなめるこどなりける。さるほど人々あいかたらい塚をあばきみるに、
とくろふたもとも、脚骨四つ出でければ、そをひどつかめに納め、懇に葬りのわざいとなみて、
かくなん碑をたてたりける。なれどいつの頃、身うせたりし武部たちのかばねなるか知るよしの
なきは、いとも口惜しかりけり。
案ふに、このわたりは康生、永正の頃、ことに国の内みだれて、たゝかいのちまたなりしかば、
其の頃のものとも思はるれど、證しにすべきものなれば、其姓さへ名さへ知るよしのなきに
つけても、其の世のさまのおしはかられて、このわたりに住みけん人の、如何に世を憂しく
なげきつらんとおもふにも、我も人もなみ風たつぬ御代にうまれて、おのがみのやすくたのしき
月日をおくるは、仰くもたかき御恵ならずやといへば、人々も、実にさるこどなり、いそいで
そのよしをこゑるまゝに、かいしるしぬ。神忝川県の里の古きあとの記しかきつくることを
うけたまはりてつかうまつる。
                            星野輝茂
剣太刀人刀とがみのにみ(身)をつくしけるむかしをもへば袖ぞぬれぬる。
くちはてしうもれかばねもあきらけき みよのひかりにおうはれにけり、
明治十ニ年歳次巳卯ニ月改坐
相模国高座郡土甘郷鵠沼
平成ニ十三年三月ニ十一日
首塚碑寄進者 藤沢市本鵠沼三丁目一蕃十四号 林石材産業株式会社 
                      代表取締役 林 一郎」 

現代語訳(首塚 野村靖)
この塚は昔からありましたが、何の塚であるのか知っている人はおらず、里の人々は
「金掘塚(かねほりづか)」「首塚」「庚申塚」など、それぞれ勝手に呼び、はっきりしない
ままにされていました。
しかし今は文明開化の時代となり、世の中の古い道理さえ明らかになっていこうという時代に、
このように由来の分からないままでは本意ではありません。
里長の関根氏をはじめ、村の人々が嘆き、心を痛めていました。そこで人々が相談して塚を
掘り返してみると、頭蓋骨が二つと、脚の骨が四つ出てきました。
それらを一つの大きな甕(かめ)に納め、丁寧に葬ったうえで、このように碑(石碑)を
建てたのです。
けれども、いつの頃に亡くなった武士たちの遺骸なのか、確かめるすべはなく、それが何とも
残念なことでした。考えるに、このあたりは康生・永正の頃(室町末期)、とくに国の内が乱れ、
合戦がたびたびあった土地でしたから、その頃のものだとも思われます。
証拠となるものはなく、名も姓も知ることはできませんが、その時代の有様は推し量ることが
できます。
このあたりに住んだ人々が、どれほど世を嘆き、つらい思いをしたことでしょう。
それを思うにつけても、今の世の中は波ひとつ立たない御代であり、私たちが安全で楽しく
暮らしているのは、まことに尊い御恵みではないかと申すと、人々も「まったくその通りだ」と
深く感じ入りました。
そこで急ぎ、このことを後世に残すための記録を書き記すよう、この神奈川県の里の古跡に
ついて記す役目を拝命したのであります。
              星野輝茂(署名)

添えられた和歌(現代語訳)
●剣・太刀・刀で身を尽くして戦った昔を思えば、袖が涙で濡れるばかりです。
●朽ち果て、土に埋もれた遺骸も、今は明るい御代の光に照らされ、名誉を回復したのです。】





次の目的地の「鵠沼共同墓地」に向かって進む。 
右手には、この後に訪ねた万福寺の墓地。



記念碑
虐けの跡は毒よりはけしけり 馬にくわする民草もなく
この歌は、田中正造翁が、公害の恐ろしさを警告したものである。
昭和34年4月、日本電気硝子が、藤沢市に誘致されて引地川畔に進出し、操業するや、騒音・
悪臭・粉塵等の公害を排出し、人体・家屋・農作物に甚大な被害を与えた。又、煙に含まれる
亜硫酸ガスのため、樹木の枯死するもの多く、緑の絶滅寸前の状態であった。藤沢市長は
公害の防止を怠り、放置したが、県の勧告により煙突の傘上げ、捨塵装置が設けられ、高い塀も
造られて、公害は少しく緩和された。
昭和46年3月、工場の内外に鉛中毒患者が多く発生し、住民に一大恐怖を与えた。住民は、公害
対策委員会を強化し、公害追放運動を展開し、会社側と交渉すること十年に及んだ。
一方、新藤沢市長葉山峻は、深くこの問題を愁い、吏員を督励し早期解決を図らしめ、斡旋に
努めた。かくて、炉の移転、規模の縮小、酸化鉛の不使用となり、又、鉛中毒患者の治療も進んだ。
遂に昭和57年3月、被害を受けた社寺・町内会に補償金を支払い、公害問題の局を結んだ。
これより、再び大気は浄化され、青空が仰がれ、樹木は生い茂り、花は咲き、鳥はさえずる平和な
郷土に蘇った。     昭和63年5月  鵠沼山主 識」 



その先にはいずれも江戸時代の庚申塔が左側2基と大乗妙典六十六部供養塔が。



「大乗妙典六十六部」とはなんぞやと調べてみると、壱岐国、対馬国を除く全国六十六の
国の寺社に納経する修行だそうで、その修行を遂げた人の供養塔のようであった



中央の石碑。
相州鵠沼村願主
造立石塔一基



庚申塔。



鵠沼共同墓地 準四63番霊場
万福寺の西側にある共同墓地は、昭和18年、日本精工の軍需工場拡大に伴い、その用地に
あった墓地を軍の命で現在地に移しました。各家の墓地は点在していたものを、日本精工の
斡旋によりまとめて、現在の共同墓地にになりました。そのため、旧家の墓が多く、宗派も
異なる家が集まっています。
この共同基地の中ほど、高松本家の墓所内のお堂に準四国八十八箇所第6 3番の弘法大師像
があります。この大師像は、もとは仲東集落の毘沙門堂にて祀られていました。毘沙門堂は、
教寶院という本山修験寺院(本尊 毘沙門天)であったが、明治に廃寺となりその場所は定か
ではありません。その位置を示す手がかりは、江戸期の新四国八十八箇所案内に“東観音堂”→
“東毘沙門堂”→”原 地蔵堂”の順路が示されている程度です。
御詠歌:つとにおき夜半につとめて生れ得し 道を守ればまもるこのかみ
高松家の屋号は「毘沙門堂」てす。明治12年に書かれた『皇国地誌』によると、毘沙門堂が
廃堂になる時の僧が高松家の人であり、廃堂後は「本尊も同人に帰す」とあります。おそらく、
高松家の墓所が日本精工拡張地にあり、その墓所とともにこの場所に移されたものでしよう。
参考:鵠沼を巡る千一話 「第0033話 旧家 高松家」

御詠歌の意味
【朝早く起き、夜ふけにもおつとめをして、生まれたこの世で授かった大切な信仰の道を
きちんと守って歩んでいけば、ここにまつられている神仏が、必ずあなたをお守りくださる。】と。



高松家累代之墓碑 の先にあったのが 相模準四国八十八箇所63番霊場 があった。



弘法大師像
四国八十八ヶ所
つとにおき 夜半につとめて 生れ得し 道を守れば まもるこのかみ



その隣には、歴史を感じさせる墓石・石碑が並ぶ。



移動して。



別の場所にも小さな堂宇が見えた。



内陣の石造。



ここにも「記念碑」が。



記念碑
当墓地は大東亜戦争の為、日本精工藤沢工場敷地拡張と工場建設に伴ない下記名前の方々と
日本精工株式会社の御協力により、昭和十八年二月二十七日付神奈川県知事より当地区に
新設の許可が有りました。
鵠沼の台地に眠る我々の先祖が今後共永遠に安眠できる様御祈りすると共に
子孫の繁栄を祈り続けて下さい。
昭和六十一年十一月二十一日建立之
鵠沼墓地管理委員会
(以下、寄進者名)省略」




                              ・・・もどる・・・



                ・・・つづく・・・




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Last updated  2025.12.02 00:00:15
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