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長福寺の後は、最後の目的地「⑦ 牡丹餅立場跡碑」へ南下。5月24日(金) 12:00馬頭観世音、庚申塔群所在地:神奈川県茅ヶ崎市松林3丁目12-29庚申塔3基、馬頭観音と地蔵菩薩各1基、古い墓石2基が立っていたが移設して集められたのか。左後方は長福寺の墓地。向かい側の民家の敷地の一角には道祖神が1基。天明二年(1782)と刻まれた ”双体道祖神” 。 いつも道祖神の前にはお供え物があるのだがこの時期は。今日の散策コース(小和田・菱沼コース)① 上正寺 → ② 広徳寺 → ③ 千手院 → ④ 小和田熊野神社 → ⑤ 菱沼八王子神社 → ⑥ 長福寺→ ⑦ 牡丹餅立場跡碑東海道分間延絵図江戸幕府が文化三年(1806)に完成させた絵地図。絵が小さく拡大図が欲しいが。下図は「五海道其外分間延絵図並見取絵図」の一部。菱沼村 長福寺 (ちょうふくじ)最後の「⑦ 牡丹餅立場跡碑」への途中駐車場の一角に道祖神。仲睦まじい ”双体道祖神” 。12:10茅ヶ崎市特有のクネクネした住宅街を歩き旧東海道(国道1号)の最終目的へ到着。事前に歩いておられたのか間違うこともなく到着した。予定時間より30分以上遅れたか。これも各お寺の住職さんの熱心さか。牡丹餅立場 (牡丹餅茶屋) の跡。所在地:神奈川県茅ヶ崎市松林1丁目16京都の公卿近衛某が東下りの途中牡丹餅立場の茶屋で休憩、この辺りは東海道の高みの頂上にあり大変見晴らしが良く、茶屋から海まで見通せ茶屋のばあやに島の名を尋ね、「相模なる 小和田が浦の 姥島は 誰をまつやら ひとり寝をする」を詠み、短冊を残した。ここで今日の ”東海道まち歩き” は終了し解散して各自家路へ。牡丹餅立場 (牡丹餅茶屋) の跡徳川家康は、慶長六年(1601)、東海道に宿場を設けて伝馬の制度を定めました。その後、宿場と宿場の間にも旅人などが休んだりする立場という施設ができてきました。藤沢宿と平塚宿の間には、四谷、牡丹餅、南湖、八幡の四つの立場ができました。立場には飲食ができる茶屋がありました。「牡丹餅立場」は牡丹餅が名物なのでそのように呼ばれていました。また、牡丹餅立場には、紀州の徳川家が江戸屋敷と国元を結んだ専用の飛脚中継所である七里役所も設けられていました。 平成十九年一月吉日 茅ヶ崎市教育委員会 菱沼茶屋町稲荷講中 国土交通省 茅ヶ崎郷土会長 三橋伊勢松 書"七里役所" とは、紀州徳川頼宣が、江戸と紀州の間146里に沿って、七里ごとに合計23の紀州藩独自の連絡機関を設置した。七里役所には5人一組の飛脚を配置し、通常は8日、緊急時は4日で江戸 ~ 紀州間の連絡便を実現した。東海道細目分間之図 (東京国立博物館所蔵)東海道細目分間之図 (上図の文字を変換)元禄三年 (1690) に浮世絵師菱川師宣が描いた東海道図のうち当市域の一部、小和田村から浜之郷村の間です。東海道沿いに、牡丹餅茶屋、一里塚、南湖立場の茶屋、鶴嶺八幡社などが描かれています。海には姥島が見えます。元禄時代には、牡丹餅、南湖の両立場が成立していることがわかります。12:20神奈中バス停「菱沼」の藤沢方面。駐輪場のイオンスタイル湘南茅ヶ崎までは約2キロのため歩いていくことに。旧東海道(国道1号)の松林中学校入口交差点。ここから海岸までの道がほぼ直線で ”ラチエン通り” と命名されている。この先の東海道本線の踏切は ”異人館踏切” 。 今までルドルフラチエン氏を想像していたが、この異人はラチエン氏ではなく、昔イギリス人のボールデンという人が住んでいたからこの名前が付いたと知る。この辺りは松並木が多く残っており癒しを感じる。排気ガスが原因か枯れたクロマツの切り株が残り、次世代のために新しい松も植栽されている。TOTO茅ヶ崎工場正門12:28道路脇にキロポスト「日本橋まで 57km」。神奈中バス停「茅ヶ崎高校前」の藤沢方面。樹齢数百年のクロマツは枯れ新しいクロマツが植栽されている。東海道の松並木茅ヶ崎市内の国道一号線沿いの黒松は幹回り(地上より一・二メートルの高さで測定) 二・二メートル (推定樹齢四百年)の大きな松が育っております。遠い昔より、地域の人達に親しまれ江戸時代の松並木は旅人にやすらぎをあたえ、この風景はその時代の画家、安藤広重の東海道五十三次にも描かれております。長い間風雪に耐え今日では茅ヶ崎の貴重な文化財です。みんなで大切にしましょう。 茅ヶ崎市教育委員会 茅ヶ崎の文化財を守る会 建 設 省 昭和六十二年九月安藤広重画「南湖の左富士」。旧東海道沿いに建つ海前寺の門柱「曹洞宗 海前寺」。海前寺の山門次回の東海道まち歩き 「(2) 本村・茅ヶ崎コース」で参拝するのであろう。旧東海道(国道1号)の本村交差点。左側(北)からは県道404号線が合流、左側(南)は海岸までの ”一中通り” になっている。本村交差点の北西方向に聳える ”本村のタブノキ” 。本村のタブノキ指定理由 市内の自然植生の代表的な樹種であるタブノキの巨木。市街地では珍しく自然の形で 大きく育っており、変わりゆく周囲の景観とは対照的に変わらない姿で在り続け、緑 のある沿道の景観を創り出している。指定番号 茅ヶ崎市景観重要樹木第4号 平成23年8月22日 茅ヶ崎市指定菱沼八王子神社のタブノキは、市景観重要樹木第2号で平成22年3月26日に指定されている。本村交差点から更に西へ歩き、茅ヶ崎市本村一丁目交差点。茅ヶ崎市本村一丁目歩道橋。本村一丁目交差点から北側を見下ろす。例祭日、浜降祭等には提灯が参道の坂道を飾る。ここも次回訪れるのであろう「八王子神社」をズームアップ。国道沿いの歩道はかつては砂丘で柵で安全対策を行っている。この辺りの国道沿いの集合住宅からは、西には富士、南には相模湾が眺望でき最高では。イオンスタイル湘南茅ヶ崎沿いの松並木。数年前に枝先が伐採され心配していたが新芽が伸び旺盛に成長しているクロマツ。このクロマツも100年以上経っているのであろうがいつまでも保存して欲しいものです。今朝この右側へ駐輪した。12:46道路脇にキロポスト「日本橋まで 58km」。茅ヶ崎高校前のバス停から1キロを18分要した。昼時を過ぎていたので、イオンスタイル湘南で軽食をとる。ここまでの歩行数は、11,300歩であった。13:30我が家のガレージ下で開花しているブドウ。今年は50房位付いているか、袋かけの袋も今年は購入予定。種なしのための ”ジベレリン処理” もそろそろ。ズームアップ。ブドウは一房に手を掛けるのが何回あるか。8月末から9月の収穫が楽しみだ。キューリの花も開花、既にキューリの形が。今年は苗を3本×80円で購入したが何本収穫できるかこれも楽しみである。次回の「東海道まち歩き (2) 本村・茅ヶ崎コース」が、6月4日(火) 9:00~12:00 に開催されるので申し込んでいるがその結果はどうか。その後5月26日(日)に茅ヶ崎市博物館の渡部氏から抽選に当たったとメールを受けた。 END
2024.06.09
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菱沼八王子神社から西へ進み ”小和田・菱沼コース” の散策を続ける。5月24日(金) 11:25高野山真言宗 長福寺 (ちょうふくじ)所在地:神奈川県茅ヶ崎市松林3丁目11−52今日の散策コース(小和田・菱沼コース)① 上正寺 → ② 広徳寺 → ③ 千手院 → ④ 小和田熊野神社 → ⑤ 菱沼八王子神社 → ⑥ 長福寺→ ⑦ 牡丹餅立場跡碑菱沼村 長福寺 (ちょうふくじ)古義(こぎ)真言宗の寺院。本尊は薬師如来である。創建は、境内墓地等から出土している板碑の年号から、鎌倉時代の中~後期といわれている。境内には、紀州藩役人の墓石四基もあり「七里様の墓」と呼ばれている。村内で東海道沿いの牡丹餅茶屋のあたりには、七里継宿という紀州藩が江戸屋敷と領国との連絡のために設けた七里飛脚の役所 (七里役所) があり、「七里様の墓」はその役人たちの墓標である。昭和初期に当寺に移されたとされる。寺号標石には「高野山真言宗 菱沼山長福寺」と。境内に入ると右側に「護摩堂」が建ち、四阿の下に休憩用のベンチがあった。一願不動昭和五十九年弘法大師御入定千百年御遠忌大法会を記念して建立されました。伊豆の願成就院の本尊不動明王(國宝)を勧請しました。護摩堂は太田政光氏の特別志納により建築されました。四阿の先に「一願不動」、中央に「大聖不動明王像」。一願不動に一つだけの願いごとを一心に祈願すれば必ず叶えてくれるといわれている。境内に駐車場があり、その傍らに「六地蔵」「宝篋印塔」等が並ぶ。覆い屋の下に「六地蔵」が納められている。境内の北側に修業弘法大師像が立っていた。お濠の前に「修行弘法大師像」が立つ。石柱をズームアップ。中央の歌碑には、「結願の 寺にわが杖 おさめきて 寂しくあれど 心やすらぐ」と。水鉢に咲く花。スイレンが一輪綺麗に咲いていた。この花は?。住職に聞きたかったが。旅友から「浮草のアサザ」と。アサザはミツガシワ科アサザ属の多年草。ユーラシア大陸の温帯地域に分布し、日本では本州や九州などに生育する。ウイキペディアより。 我が家のメダカの水鉢にも欲しいのだが。アサザは全国の湖沼、池などの浅いところに群生する浮葉性の多年草で、浅沙(アサザ)と呼ぶ。根茎は水底上を横走し、節からヒゲ根を出し、そこに定着して広がる。葉は濃緑色で光沢あり。2週間くらいで生え換わる。ヨトウガやマダラミズメイガの幼虫の好物で1~2日で葉が穴だらけになる。 このことを利用して水中の窒素やリンの除去に役立て、環境保全への取り組みが行われている。住職からの説明を受ける。宝篋印塔の座には「寛延三年(1750)・・・」と。紀州藩役人の「七里様の墓」と呼ばれている墓石四基。墓石の側面には「文政十三(1830)・・・」と。住職の案内で本堂へ。本堂前左側に建つ大師堂の中には「子育地蔵尊」と「大師像」。大師堂の左側の墓地入口に「水子地蔵尊」。本堂の扁額「長福寺」。内陣前で住職から説明。先程訪れた ”菱沼八王子神社” は明治まで長福寺の別当であった。明治の廃仏毀釈で政府から「寺 or 神社どちらを選ぶ」と言われ、当時の住職が長福寺を選んだと。本堂下の温古室に案内される。温古室のケースの中には「地元の檀家さんから寄贈された」という弥生時代、縄文時代の土器類が保管されていた。ちがさき丸ごとの方が「博物館より良いものがある」と。右側には、境内墓地から出土したという「永仁三年(1295)銘の板碑」。11:55約30分の滞在で長福寺を後にし、最後の目的地へ。この日は4寺に参拝したが、その内3寺が高野山真言宗であった。 ー 続く ー
2024.06.08
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小和田熊野神社から更に北へ進み ”小和田・菱沼コース” の北側を散策。5月24日(金) 11:10菱沼八王子神社前から富士を望む。電線の上に富士の頂上が顔を見せていたので露出をダウンして撮影。今日の散策コース(小和田・菱沼コース)① 上正寺 → ② 広徳寺 → ③ 千手院 → ④ 小和田熊野神社 → ⑤ 菱沼八王子神社 → ⑥ 長福寺→ ⑦ 牡丹餅立場跡碑菱沼八王子神社所在地:神奈川県茅ヶ崎市菱沼1丁目11−64菱沼地区の鎮守で、浜降祭の時には御神輿がでる。創建時期は定かではないが、江戸時代の中期に再建の記録があるため、それ以前からあったようだ。境内には市の景観重要樹木に指定されているタブノキの巨木があり、社殿の前には力石も安置されている。5月26日(日)に「ふるさとふれあい祭」が開催されるので関係者が集まり準備されていた。社号標石「菱沼鎮守 八王子神社」。石鳥居の扁額「八王子神社」。ここでも宮司からの説明がないので担当者が概要等を説明。鳥居を潜ると正面に社殿、右側に菱沼自治会館(神楽殿)。左奥に神輿殿が建つ。昭和10年(1935)頃まで行われていた祭礼では7月24日に宵宮で芝居をし、翌25日には神楽が行われました。そして、25日の朝は暗いうちに神輿が出て、当番の家が作った赤飯のムスビをヒツに入れて神輿とともに浜に行き、浜でムスビを食べるという独自の浜降りも別途行われていたとされます。その後の祭りでは神輿を外に出して飾るだけになりました。古くから浜降祭に参加していた神社の1つである。手水鉢(ちょうずばち)この手水鉢の正面に「漱盤 (そうばん)」と刻まれている。手水鉢(ちょうずばち)この手水鉢の正面に「漱盤(そうばん)」と刻まれております。この二文字は、神社にお参りをする前に、手を洗い、口をすすいで、身を清めるためのきれいな水の入った大きな器を意味します。この手水鉢は、文政十三年(1830)の四月吉日に当地、菱沼村の大黒屋儀兵衛並びに酒名屋増五郎の両名により、奉納されました(このことが手水鉢の右側面に記されています)。この度、地元青年有志によりこの場所に移設・修復されました。 平成十一年十二月吉日 菱沼八王子神社菱沼八王子神社のタブノキ境内には巨大なタブノキが聳え、幹には洞がある。菱沼八王子神社のタブノキ指定理由 市内の代表的な植生であるタブノキが大木となり、地域の鎮守の目印となっている。指定番号 茅ヶ崎市景観重要樹木第2号 平成22年3月26日 茅ヶ崎市指定タブノキの葉と実。タブノキとはクスノキ科タブノキ属の常緑高木である。社殿前には芽吹いたイチョウの木、ケヤキが聳える。右側の狛犬、阿形像。ひょうきんな狛犬で茅ヶ崎で一番古いとか。台座には、「元治元甲子年六月吉日 江戸小石川 長堀検校 美弥 願主 當村 大八木喜右ェ門」と刻まれている。 左側の狛犬、吽形像。菱沼八王子神社拝殿拝殿の手前には「力石」(左)と「蛇石」(右)。八王子神社八王子神社は、スサノオの八柱の御子神を祀る神社である。元々は、神仏習合下の両部神道に由来するものである。913年(延喜13年)に華厳菩薩妙行(みょうこう)が、東京都八王子市の深沢山(現在の城山)山頂で修行中に牛頭天王と八人の王子が現れた。その因縁で916年(延喜16年)深沢山に八王子権現を祀ったと言われている。仏教の守護神である牛頭天王には頗梨采女との間に8人の子 (八王子) がいるとされており、これを祀ったのが八王子神社である。八王子は八方位の暦神に比定され、八将神ともいう。 ◆ 視覚太歳神(木曜星・総光天王) ◆ 大将軍(金曜星・魔王天王) ◆ 太陰神(土曜星・俱魔羅天王) ◆ 歳刑神(水曜星・得達神天王) ◆ 歳破神(土曜星・良侍天王) ◆ 歳殺神(火曜星・侍神相天王) ◆ 黄幡神(羅光星・宅神相天王) ◆ 豹尾神(計斗星・蛇毒気神天王)明治の神仏分離の際、これが牛頭天王と習合していたスサノオと天照大神との誓約(うけい)で化生した五男三女神に変えられた。五男三女神とは以下の神である。 ◆ 正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミ) ◆ 天之菩卑能命(アメノホヒ) ◆ 天津日子根命(アマツヒコネ) ◆ 活津日子根命(イクツヒコネ) ◆ 熊野久須毘命(クマノクスビ) ◆ 多紀理毘売命(タキリビメ) ◆ 市寸島比売命(イチキシマヒメ) ◆ 多岐都比売命(タキツヒメ) ① 両部神道(りょうぶしんとう)とは、仏教の真言宗(密教)の立場からなされた神道解釈に 基づく。神仏習合思想である両部習合神道ともいう。 ② 牛頭天王=スサノオノミコトとされる。拝殿前から境内のタブノキを見下ろす。拝殿の彫刻が素晴らしい社殿の左側から。社殿の左側に並ぶ石碑群左から先代の石鳥居の扁額「八王子神社」、「神輿修復 神輿殿鳥居建立記念碑」、「神輿修復手洗舎屋根建設記念碑」、「菱沼祭囃子 復興五十周年記念」と並ぶ。その奥にも。誰もいなくなった境内を振り返る。二日後の26日(日)には「ふるさとふれあい祭」が開催されるので境内には多くの人が集まるのであろう。11:20予定時間を過ぎていたので約10分ほどの滞在であった。次の目的地「⑥ 長福寺」へ向かう。松林小学校東門。茅ヶ崎市立 松林小学校所在地:神奈川県茅ヶ崎市菱沼1丁目1−1松林小学校の設立は明治27年(1894)11月3日で、市内では小出小学校、茅ヶ崎小学校に次いで古い小学校である。正門の門柱に「茅ヶ崎市立 松林小学校」と。11:25松林小学校西門次に訪れる ”高野山真言宗 長福寺” の前にある。 ー 続く ー
2024.06.07
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千手院から再度旧東海道(国道1号)を渡り ”小和田・菱沼コース” の北側の散策へ。5月24日(金) 10:45千手院から再度旧東海道(国道1号)を渡り、広徳寺の東側を北上。今日の散策コース(小和田・菱沼コース)① 上正寺 → ② 広徳寺 → ③ 千手院 → ④ 小和田熊野神社 → ⑤ 菱沼八王子神社 → ⑥ 長福寺→ ⑦ 牡丹餅立場跡碑小和田熊野神社所在地:神奈川県茅ヶ崎市小和田2丁目3-66熊野神社は『新編相模国風土記稿』によると村の鎮守であり、千手院・広徳寺の2寺に管理されていました。境内に、弁天社、豊受稲荷社、姥母神社があります。社号標石には「小和田 総鎮守 熊野神社」と。右手に朱に塗られた「鐘楼」が建っている。神社では宮司からの説明がないので担当者が概要等を説明。拝殿に向かって右側の社に祀られている姥神は、長い髪が石に彫刻されており、明治時代に現在地に移されるまでは現在の菱沼三丁目のあたりに位置していました。かつては、お茶をお供えし、子どもの風邪が治るように祈ったとされます。また、江戸時代の漁場争いにおいて姥島が小和田の領地であることを証明したと伝わる歌の歌碑もあります。8月2日の祭礼では、1日に歌舞伎、2日に神楽が行われました。大正12年(1923)に発生した関東大震災の前までは屋台(山車)があったとされていますと。堀に囲まれた「厳島神社」。太鼓橋の先に「厳島神社」の社殿。手前の石碑は判読できなかった。鳥居手前左側に「文字道祖神と双体道祖神」。左側の新しい双体道祖神の裏面には「平成七年建立」と。参道入口に建つ石鳥居。鳥居の扁額「熊野神社」。左側の建物には「熊野神社社務所」の表札 。境内の東側に建つ「神楽殿」。玉垣に囲まれて社殿が建つ。西側には「神輿殿」、7月の浜降祭に参加する一社である。ケヤキの左側には「手水舎」。右側の口の中が真っ赤な狛犬(阿形像)。左側の狛犬(吽形像)。御祭神:熊野久須毘命 ( くまのくすびのみこと ) 熊野夫須美命 ( くまのふすみのみこと ) 速玉男命( はやたまおのみこと ) 家津御子命( けつみこのみこと )。拝殿は朱色部分が新しく塗り替えられていた。拝殿の扁額、「熊野神社」。拝殿に向かって右側にある「姥母(うば)神社」。姥母神社は、安産の神、病気平癒の神である。ちがさき丸ごとの方が社の扉を開け、”長い髪が石に彫刻されている石” を覗く。社には「奉納 姥母神社」と。姥母神社の左側の石碑には、「姥母神社」「八雲神社」「八大龍王」と彫られている。裏面には「明治二十二年七?再建 松林村小和田 氏子中」と。歌碑、句碑、五輪塔が建つ。歌碑「相模なる 小和田が浦の 姥島は 誰をまつやら ひとり寝をする」。京都の公卿近衛某が東下りの途中に詠んだ歌で、因みに姥島とは烏帽子(えぼし)岩のことで、茅ヶ崎海岸の沖合約1.4kmにあり、高さは約14.6mの島である。この歌碑が、江戸時代の漁場争いにおいて姥島が小和田の領地であることを証明したと伝わる。句碑「姥ヶ島 尉の姿 耀くはかり 春の潮」。尉は能楽の翁のこと。郷土の俳人、新田濤哉は姥ヶ島を見て高砂の翁の姿を想い、この句を詠んだのだと。東側から社殿を望む。朱色部分のみが新しく塗られていた。拝殿前を望む。社殿からの出入口に朱色の「青龍神門」。東方を守護する青龍。境内西側に建つ ”神輿殿” 。社殿の左側に建つ「豊受稲荷社」。右側の玉垣の間に「白虎神門」がある。西方を守護する白虎である。奥には「木曽御嶽信仰の三神」の石碑が建っているが、今回は時間の関係上スルーした。次の目的地「⑤ 菱沼八王子神社」へ向かうため西門を出る。道路標識には、熊野神社通り← コミセン通り 国道1号 →11:00ちがさき丸ごとの方が「ここがコミセン通り」と。 ー 続く ー
2024.06.06
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上正寺から旧東海道を西へ進み次の目的地へ。曇り空であったが雨の心配もなく、暑くもなくウォーキングには最適であった。5月24日(金) 9:45 旧東海道(国道1号)から幅一間強の参道を北へ入る。”ちがさき丸ごと” のメンバーの方はお揃いのジャンバー。会員に入会するともらえるのか。今日の散策コース(小和田・菱沼コース)① 上正寺 → ② 広徳寺 → ③ 千手院 → ④ 小和田熊野神社 → ⑤ 菱沼八王子神社 → ⑥ 長福寺→ ⑦ 牡丹餅立場跡碑菱沼村 小和田村 入会 (いりあい)「入会 (いりあい)」『新編相模国風土記稿』に、菱沼村と小和田村の境界は、「犬牙(けんが)して分ち難し」(犬の歯のように入り組んでいる)とある。小和田村 千手院 (せんじゅいん)小和田村 広徳寺 (こうとくじ)高野山真言宗 廣徳寺 (こうとくじ)所在地:神奈川県茅ヶ崎市小和田1丁目17-5古義(こぎ)真言宗の寺院。本尊は千手観音である。近傍の千手院とともに、江戸時代初めの元和・寛永頃(1615~1644)の創建とされる。同じ頃、将軍家譜代の家臣である杉浦氏の二つの家が相次いで小和田村の領主となっている。東海道が整備されて間もない江戸初期、小和田村には、政治的にも信仰の面でも、大きな変化がもたされたと考えられる。山門の表札には「高野山真言宗 廣徳寺」と。”古義真言宗” とは、新義真言宗に対して、高野山を中心に伝わった大日如来の本地身説をとる真言宗諸派の総称で古義派。本堂前に赤松が聳え、本堂裏に墓地がある。本堂左側に寺務所が建っておりアジサイが綺麗に咲いていた。境内東側の覆い屋の下に ”六地蔵” が並ぶ。弘法大師像?であったか。右側の石碑には「陸軍歩兵 新倉八五郎碑」と刻まれていた。広徳寺本堂東側にある脇門で境内の駐車場へ入れる。山王山 観音院 廣徳寺御本尊 千手千眼観世音菩薩宗 派 高野山真言宗 立教開宗は大同二年(八〇七)総本山 高野山金剛峯寺 和歌山県伊都郡高野町宗 祖 弘法大師(空海) 宝亀五年(七七四)六月十五日 香川県善通寺市で御誕生 承和二年(八三五)三月二十一日 高野山奥之院に御入定御宝号 南無大師遍照金剛教義と信仰 宇宙のすべてのものは、大日如来のいのちの顕われであり、このいのちの世界をあらわし ているのが曼荼羅です。 高野山真言宗の教えは、いのちの平等と尊厳をさとり、大日如来の智慧をこの世に実現す るために、生かせいのちを実践し、共存共生の世界をめざすことにあります。 本宗の御宝号念誦運動は、弘法大師の共利衆生の精神に立って、すべてがいのちを共にし ている社会の福祉をめざす具体的な活動です。 弘法大師は未来永劫にわたって衆生を救済すると御誓願され、高野山奥の院に入定留身さ れています。 同行二人の信仰のもと、大師の御教えをこの世に生かし実現することが、私たちの努めで あり喜びです。本堂裏の墓地の一角に ”四国八十八霊場のお寺の砂” が置かれていると。住職の説明があるとのことで本堂へ。本堂の扁額「山王山 観音院 廣徳寺」。本堂内に置かれていた写真(昭和21年2月15日撮影)山王山 廣徳寺 周辺全景左右に走るのは東海道本線、左側から右上がりは旧東海道(国道1号)で田畑が広がる。この辺りは空襲は受けていないようだ。本堂での説明を聴き終え境内へ降りる。茅ヶ崎ブルーであろうか。山門の脇にもこれから開花するアジサイ。山門から南側の旧東海道への参道は石畳。広徳寺を後にし、旧東海道の南側にある「千手院」へ向かうことに。高野山真言宗 千手院(せんじゅいん)所在地:神奈川県茅ヶ崎市代官町1-4古義真言宗の寺院。近傍の広徳寺とはともに千手観音を本尊としており、古くからの深い繋がりを窺い知ることができる。境内の北側に旧東海道に沿って広い駐車場がある。本堂では住職が扉を開け待っておられたので急いで本堂へと向かう。本 堂大正十二年の関東大震災で伽藍は全壊し、平成二十一年までは仮本堂のまま過ごしたが、再建計画が軌道に乗り、平成二十三年(2011)には、現在の本堂が落慶した。ご本尊は、千手観世音菩薩坐像。元和元年(1622)の頃より開山して以来、約400年の法燈を受け継いでいる。本堂の扁額「千手院」。本堂の内陣本堂に上がり住職から真言宗、本堂再建等の説明を受ける。本堂再建の設計:伊藤平左衛門建築事務所 13代目(初代名古屋城建築) 〃 の施工:番匠井上(文化財修復宮大工) 本堂再建に辺り予算がなかかったが、宮大工の配慮により正面の座は漆塗りに施工。また、本堂の周りの障子を外すと柱だけが残り能舞台のようになっていると。右側の外陣には ”弘法大師(空海)坐像” 。ご本尊は、千手観世音菩薩坐像。説明後は本堂内の内陣、外陣を見学、住職の許可を得て撮影。外陣の右側の祭壇の上には高野山で綺麗に修復された ”弘法大師(空海)坐像” を安置。周りには新旧の位牌が並んでいた。位牌の中には、ラチエン通りで名の残るドイツ人貿易商のルドルフ・ラチエン氏の位牌があると。住職から「これです」との説明はなかったが、ちがさき丸ごとの方が説明。その位牌(黄色丸内)には「昭和二十二年六月十五日 羅智院浄翁・・・」と。外陣の左側に新しく修復された ”閻魔縦横立像” 。大山登山者の安全祈願のため街道沿いまで出向く都合上、立ち姿で建立されましたが、地元の漁師がお賽銭で酒を買って飲んでしまったため、お怒りに成り立ち上がったとの言い伝えあり。本来は境内に建つ ”閻魔十王堂” に安置されているが保安上ここに置いていると。”東海道まち歩き” に参加すると住職からの説明が受けられるので参考になる。住職から約25分ほどの説明を受け境内へ降りる。住職の説明が上手であった。境内に建つ宝篋印塔。境内入り口の塀脇に並んでいた石仏群。石仏には「貞亮…年」「享保二十・・・」と。境内の右側に建つ、稲荷明神堂と閻魔十王堂。右側に ”閻魔十王堂” 。大山詣での登山安全を祈願するために街道沿いまで出開帳していた歴史の有る、閻魔十王(立像10体と脱衣婆)像を安置している。しかし像は本堂に安置されており中は物置になっている。稲荷明神堂お堂の扁額は「稲荷堂」と。住職の熱弁で予定時間を過ぎ急ぎ足で次の目的地「④ 小和田熊野神社」へ向かうことに。10:45再度旧東海道を渡り北側へ。この辺りの寺社史蹟巡りは令和4年(2022)8月29日(月)に行っており、その時のブログ「茅ヶ崎市東地区」👈 をクリック願います。 ー 続く ー
2024.06.05
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茅ヶ崎市博物館で ”春の特別展 東海道中お寺めぐり” が4月27日(土)から7月7日(日)まで開催されており、市内のお寺にある市指定重要文化財が展示されている。その一環として、特別展で紹介する寺社を中心に江戸時代の絵図を参照しながら、地域の文化財をたずね歩く「東海道まち歩き」ツアーが茅ヶ崎市博物館主催で企画された。日 時 (1) 小和田・菱沼コース 5月24日(金) 9:00~12:00 ※予備日5/30(木) (2) 本村・茅ヶ崎コース 6月 4日(火) 9:00~12:00 ※予備日6/21(金) (3) 今宿・萩園 コース 6月19日(水) 9:00~12:00 ※予備日6/27(木)定 員:各日 20名(抽選)費 用:100円(特別展の展示ガイドブック代) 茅ヶ崎市内の寺社は既に全て参拝しているが、今回は住職・学芸員からの説明があるとのことで全てに応募した。 この日は、その1回目の5月24日(金)が抽選に当たり参加した。(1) 小和田・菱沼コース 5月24日(金) 9:00~12:005月24日(金) 8:05茅ヶ崎駅改札正面に8時半集合のため愛車のリンちゃんで早めに出発した。イオンスタイル湘南茅ヶ崎駐輪場駐輪場は3時間まで無料で以降は100円、ここから駅まで歩いて。イオンスタイル湘南前の旧東海道(国道1号)の松並木。かつての旧東海道沿いの茅ヶ崎市内には約1,000本の松があったが現在は約300本だと。道路脇にキロポスト「日本橋まで 58km」。茅ヶ崎で人気のラーメン屋「大分ラーメン ヌードルワークス」。茅ヶ崎駅北口のペデストリアンデッキ。8:10集合場所の茅ヶ崎駅改札正面。既に数人の方が来ておられた。8:20市関係の方が来られ手には「文化財めぐり 茅ヶ崎市教育委員会」の旗。茅ヶ崎市博物館の担当者が来られ、参加者は20名であると。上正寺に近い人が数名現地集合。今回の「東海道分間延絵図」を各自100円で購入。私は既に入手していたので購入せず。東海道分間延絵図江戸幕府が文化三年(1806)に完成させた絵地図。「五海道其外分間延絵図並見取絵図」の一部。東海道とは慶長九年(1604)、江戸幕府は、街道の整備と一里塚の築造を命じた。茅ヶ崎には宿場は設けられなかったが、藤沢宿と平塚宿の「間の宿」として栄え始める。市域における当時の東海道は、現在の国道一号である。小和田村 上正寺 (じょうしょうじ)菱沼村 小和田村 入会 (いりあい)「入会 (いりあい)」『新編相模国風土記稿』に、菱沼村と小和田村の境界は、「犬牙(けんが)して分ち難し」(犬の歯のように入り組んでいる)とある。小和田村 千手院 (せんじゅいん)小和田村 広徳寺 (こうとくじ)今日の散策コース(小和田・菱沼コース) 距離:2.82km① 上正寺 → ② 広徳寺 → ③ 千手院 → ④ 小和田熊野神社 → ⑤ 菱沼八王子神社 → ⑥ 長福寺→ ⑦ 牡丹餅立場跡碑■ JR線近距離きっぷ運賃表 ■運賃は、東京 990円、新宿 1,170円辻堂駅北口行8時45分のバスに乗車。スイカを使用したが、久しぶりのバス乗車で乗車時にタッチするのを忘れ降車時にエラー。このため運転手から「乗車時にタッチしてください」と注意された。神奈中バス停「小和田」。茅ヶ崎駅から6番目であったか、茅ヶ崎駅から2.8km。小和田バス停から歩いて上正寺へ。旧東海道(国道1号)の ”上正寺前交差点” 。”ちがさき丸ごとふるさと発見博物館” (以降、ちがさき丸ごと)のメンバーの方も3 ~ 4名参加されていた。先日の5/17(金)に南下した浜道入口である。9:05旧東海道(国道1号)の北側にあるお寺で道路沿いに広い駐車場がある。ここへは令和4年(2022)8月29日(月)に既に参拝しており詳細は「寺社史蹟巡り(東地区)」👈 をクリック願います。浄土真宗 上正寺 (じょうしょうじ)所在地:神奈川県茅ヶ崎市小和田2丁目12-73浄土真宗の寺院。本尊は阿弥陀如来である。寺伝では、前身は平安時代に下寺尾に所在した海円院(七堂伽藍)であり、鎌倉時代の初め頃に小和田へ移ったと伝えられている。小和田村領主の杉浦氏や茅ヶ崎村領主のうち丸毛氏の墓所もある。聖徳太子二歳像などが伝存。山門前に立つ「親鸞聖人御像」。山門に掛けられた表札には「浄土真宗本願寺派 上正寺」。境内に入り現地集合の方も点呼。参加者全員がそろったところで茅ヶ崎市博物館の渡部氏から今日のルートの説明。約3キロ歩き、11時35分過ぎに菱沼のバス停で解散予定と。山門から南側を走る旧東海道(国道1号)を振り返る。上正寺の聖徳太子立像 昭和四十九年一月二十三日 茅ヶ崎市指定重要文化財 木造聖徳太子立像 一躯寄木造り、玉眼嵌入。上半身の肌部は素朴に古色仕上げし、袴は朱彩が施されています。この姿は、聖徳太子が二歳のとき、東方に向かって「南無仏」ととなえ合掌すると、手の中から舎利が出たという伝えを表し、「南無仏大師」とよばれます。太子が自ら彫刻したという言い伝えを有していますが、室町時代の作と考えられています。上正寺の旧寛永寺石灯籠 一基 昭和四十九年一月二十三日 茅ヶ崎市指定重要文化財東京都台東区上野公園内にある寛永寺に納められていた灯籠が本市にもたらされたものです。寛永寺は徳川将軍家の菩提所で、竿石にある銘から、延宝九年(1681)、前年に亡くなった四代将軍徳川家綱の墓前に、対馬守安藤重治(重博)が奉納したものであることが分かります。 茅ヶ崎市教育委員会聖徳太子立像この日は ”春の特別展 東海道中お寺めぐり” で茅ヶ崎市博物館に展示されている。鐘楼は平成27年(2015)12月に建立され、梵鐘は昭和42年(1967)10月に再鋳された。参道左に『正覚廟』。本 堂平成十五年(2003) 四月に落成した新しい本堂である。住職からの説明があるとのことで待つ。綺麗に整備された境内を振り返る。本堂に入り住職から説明を受ける。茅ヶ崎市内には浄土真宗のお寺は少ないと。祭壇の両側に襖絵があった。左側は「江の島方面」。右側は「烏帽子岩」であったが。本堂の畳の敷き方は西本願寺と東本願寺では違うと。当寺は西本願寺で祭壇に向かって横に。東本願寺は縦に敷かれていると。また、東本願寺は徳川家で、西本願寺は豊臣家であると。そのため築地本願寺は西本願寺のため土地を海の上に提供されたと。本堂は能登の宮大工が建てたと。この後、この後訪れる「千住院」も再建したと。参拝を終え ”上正寺” を後にした。境内の樹々も芽生え国道に近いが静寂さを感じさせた。9:40山門前のサツキが綺麗に咲いていた。住職からの話が長く予定時間を過ぎたようであった。9:45上正寺から歩いて西方向へ歩き次の「② 広徳寺」へ向かう。旧東海道(国道1号)の南側にはこの後訪れる「③ 千手院」。ズームアップ。”ちがさき丸ごと” のメンバーの方からここの住職も話好きで話が長くなると。 ー 続く ー
2024.06.04
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松尾川を辿った後、近くの寺院、史跡を訪ねた。5月3日(金) 16:10浄土宗 西運寺(さいうんじ)所在地:神奈川県茅ヶ崎市南湖2丁目9-34金剛院の南西、東海道線の南側にあり、「南湖のお十夜の寺」として知られています。昔は、10月7~9日の3日間、サーカス・芝居・露店が出て、大勢の人出でにぎわいました。また南郷力丸の供養碑といわれる石塔がありますと。山門の扁額「御霊山」。山門前の寺号標石には「浄土宗御霊山 西運寺」。西運寺の本堂本堂前には整姿された樹齢百年以上の松の木。本堂の扁額「西運寺」。本堂入口の木鼻(右側)。龍の彫り物。本堂入口の木鼻(左側)。本堂前左側に二社。左側に「南無妙法蓮華経 南湖力丸霊」碑、右側に「地蔵菩薩」。国道沿いの案内板からこの左側の碑を見たかったのだが、説明板がなく旅友のブログから確認。碑には「南無妙法蓮華経 南湖力丸霊」と。南湖力丸(なんごりきまる)は、有名な歌舞伎演題「白浪五人男」の一人・茅ヶ崎南湖の出身の泥棒で、江戸時代では、石川五右衛門・鼠小僧と並ぶ3大義賊なのだとか。処刑されたのち、地元の人が供養のため供養塔を建てたと伝わっているのだと。現在も毎年お彼岸とお盆に碑の前で力丸の供養をつづけていると。松の下の石碑には「南無阿弥陀仏 西運寺旅行会」と。下の段に、昭和二十八年度 善光寺戸倉温泉方面昭和二十九年度 中尊寺松島作並温泉方面昭和三十年度 奥日光塩原温泉方面昭和三十一年度 飯坂裏磐梯東山温泉方面昭和三十二年度 善光寺上諏訪○○方面昭和三十三年度 伊勢奈良高野山方面昭和三十四年度 ○○水上温泉方面昭和三十五年度 京都比叡山方面 本堂左手前に建つ ”観音堂” 。観音堂の扁額「観音堂」。観音堂の左側に無縁仏の墓石が並ぶ。後方をJR東海道本線が走る。 無縁仏の前に ”六地蔵” が並ぶ。無縁仏の後方から南方向の境内を見る。古い墓石が並んでいた。本堂北側に広がる墓地。笠付き墓石が多く建っていた。墓地の北側を走る東海道本線。西運寺から北側へ進み「鳥井戸踏切 60K030M 茅ヶ崎市南湖1-3」と。上下線の列車が来る。上り電車が高速で通過。国道1号(旧東海道)沿いの路地に掲示された「南湖鳥井戸歴史街道」。今年4月6日(土)の「春の東海道を行くツアー」に参加した時に説明を受けた。1, 鳥井戸 御霊神社 鎌倉権五郎景正公、源義経公を祀る2, 浄土宗 御霊山西運寺 「白浪五人男」のひとり南郷力丸の供養碑があり、相模三大十夜の「お十夜寺」としても 賑わった。3, 浜降祭 神輿渡御コース 昭和期浜降祭へ渡御する各神社の神輿は、鳥井戸中央通りを通過して南湖浜へと進んで 行った。4, 寒川神社の神輿救った石井家 茅ヶ崎海岸へ流れ着いた寒川神社の神輿を仲町の孫七等と引上げ、寒川神社より感謝を 授かる。5, JR 臨時停車駅 関東大震災で東海道線が壊され、南湖院への通院の為、鳥井戸踏切に臨時停車場が仮設 された。6, 茅ヶ崎八景 鳥井戸 茅ヶ崎八景 (南湖青風・鳥居戸夕陽・松原夜雨・高砂秋月・鶴嶺暮雪・大六天晩鐘・柳 島落雁・姥島帰帆) 茅ヶ崎が誇る景観である。まだ行っていない「南湖中町の庚申塔」をスマホにセットして走る。国道1号の南湖入口交差点を南湖通りへ入り、直ぐに右折。金剛院裏の墓地の間の路地に石碑群。地蔵、庚申塔の前にはお供え物があった。信仰心の篤い方がおられるようで地蔵には織物の衣装、帽子。南湖共同墓地の馬頭観音所在地:神奈川県茅ヶ崎市南湖1丁目2-27東側に金剛院の本堂。茅ヶ崎の裏道は昔のままで区画整理されていない。中央の石碑には「青黒 馬頭観世音 明治四拾年八月弐拾九日 亀井要助建之」。右側の石碑には「馬頭観世音 昭和七年九月 鈴木テル建之」。左側には小さな「馬頭観世音菩薩」と。墓地の一角にあったのは廃寺であろうか。スマホの案内で再度踏切を渡り南側へ。踏切脇には「南湖踏切 59K836M 茅ヶ崎市南湖1-2」と。明治時代に東海道に茅ヶ崎駅を建設する時、当時賑わっていた南湖を考えたが直線でないため現在の地に決めたと。南湖中町の庚申塔所在地:神奈川県茅ヶ崎市南湖2丁目6-15スマホの案内で進み「目的地に到着」と。民家の一角にあった庚申塔。フェンスが取り付けられているが庚申塔の前だけはオープンに。左側の帝釈天像は愛嬌たっぷり。うっかりすると見落とすことに。市内の ”庚申塔” に対する説明板がないのが残念。帰宅途中、いつもの居酒屋に立ち寄り一杯やることに。やきとり 炭火焼 よしこ所在地:神奈川県茅ヶ崎市元町4丁目昨年から諸事情で名物の ”焼き鳥” をやめたため、炭火焼の ”豚の焼き・・・” を食した。骨付きだが厚肉で炭火焼のため美味しかった。値段も380円とリーズナブル。18:45夕焼けが綺麗で富士が見えていたので市立病院の駐車場へ。ズームアップするが高層マンションが景観を損なっていた。 END
2024.05.31
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ハマヒルガをを見た後、まだ訪れていない茅ヶ崎の史跡が近くにあったので訪ねることに。5月3日(金) 15:30松尾川排水樋菅 (はいすいひかん)所在地:神奈川県平塚市須賀かつては相模川が湾曲していたので相模川の東側にも平塚市がある。上流の橋は ”トラスコ湘南大橋” 。手前は ”湘南シーサイドゴルフ練習場” 。松尾川の河口は湘南シーサイドゴルフ練習場の南側で相模川と合流している。相模川の堤に取り付けられている銘板。許可番号 京占許第285号 平成8年5月20日占有目的 松尾川付替水路樋門用電源 引込み用電柱及び架線存置専有面積 3㎡ 占用機関 自 平成8年4月1日 至 平成18年3月31日許可を受け 茅ヶ崎市長 根本康明た者の氏名 河川管理者 建設省 京浜工事事務所 既に期間を過ぎているので撤去が必要ではと。施設の上から西を望む。相模川の河口には大きな砂州がある。ここも平塚市の花火大会の撮影ポイントである。湘南シーサイドゴルフ練習場の南側の松尾川河口。樋菅(ひかん)とは、堤内地の雨水や水田の水などが川や水路を流れ、より大きな川に合流する場合、合流する川の水位が洪水などで高くなった時に、その水が堤内地側に逆流しないように設ける施設である。このような施設のなかで、堤防の中にコンクリートの水路を通し、そこにゲート設置する場合、樋門または樋管と呼ぶ。銘板2枚には、松尾川排水樋菅1989年7月管理者 茅ヶ崎市幅 4.5m 高 4.5m 長 28.7m施工 亀井工業K.K.松尾川排水樋菅門扉形 式 鋼製ローラーゲート純径間×扉高 4.50m × 4.62m門 数 1門 扉体重量 9.48 ton設置年月 平成元年7月製 作 若島工業株式会社扉の大きさは、純径間×扉高 4.50m × 4.62m。この先東には柳島水再生センターがあるので迂回しているのでろう。松尾川排水樋菅から東側にある ”柳島水再生センター” を望む。松尾川はフェンス手前を左(北)方向へ曲がっているのであろうか。国道134号に架かる柳島歩道橋上から東を見る。来年7月には、鉄砲道(左直進)と国道134号に挟まれて道の駅「湘南ちがさき」が開業する。北側の柳島スポーツ公園。国道134号沿いにある「ちがさき俱楽部」の前には人の列。ちがさき俱楽部所在地:神奈川県茅ヶ崎市柳島1877-3茅ヶ崎で海鮮BBQが食べ放題で楽しめる!。80分 3,850円で種類豊富に取りそろえています!単品メニューもあり、浜焼きコンロで出来たての美味しさを味わえると。駐車場もある。ホタテ、カキも食べれるようでいつか訪れたい。ちがさき俱楽部の先の信号を左折し柳島通りにある「網元料理 あさまる」。網元料理 あさまる所在地:神奈川県茅ヶ崎市柳島海岸18-31人気の海鮮料理店。刺身の盛り合わせ、鯛料理などを提供。店内は飾らない素朴な雰囲気である。何度も訪れているが美味しくリーズナブルで安価である。お薦めはランチ定食。柳島ポンプ場所在地:神奈川県茅ヶ崎市柳島1282-1ここ柳島地区は西に相模川を臨み、北及び北西に沿って小出川が流れ、海岸寄りには松尾川を抱える地勢である。標高も低いことから大雨の際にはいち早く流域の雨水を排出することが求められる。 「柳島ポンプ場」はそのような大雨の災害を未然に防ぐ施設として昭和41年に稼働し、平成19年(2007)の増設を経て、現在排水ポンプ 5台、1,200t/分の能力を持ち、市内では今宿ポンプ場と並ぶ大きさである。柳島通りから ”柳島ポンプ場” 内を望む。柳島ポンプ場内に「柳島閘門 (こうもん)」と刻まれた石碑。閘門は、昭和50年に近代設備のポンプ場が完成して廃止されたため、有志の手によってポンプ場の道路沿いにこの記念碑が建てられた。柳島閘門(こうもん)と柳橋柳島は、相模川・小出川・千ノ川の最下流に位置し、昔から水害と塩害を受けてきました。水害を防ぐために、昭和二年(1927)、湘東耕地整理組合は堤防と同時に柳島閘門という施設を造りました。平時には扉を開き川水を流し、相模川の増水時には自動的に扉を閉じて逆流を防ぎました。これにより、柳島の田畑への被害は少なくなり、人々は安心して暮らすことができるようになりました。昭和五十年(1975)三月、柳島ポンプ場が完成し、柳島閘門は不用になりました。「柳島閘門」の文字は、大正時代の萩園出身で衆議院議員山宮藤吉氏の書です。柳橋は、松尾川に架けられていた橋で今はありません。この場所から東へ百メートルの位置にあり、柳島本村と海岸を結ぶ唯一の大切な橋でした。「柳橋」の文字は柳島の青木林蔵氏(明治十九年生まれ)の書です。柳島閘門と柳橋を後世に伝えようと、有志がそれらの一部をここに残すことにしました。昭和五十四年十一月吉日 柳島自治会 茅ヶ崎郷土会 茅ヶ崎市教育委員会 ちがさき丸ごとふるさと発見博物館願わくばこの説明版をフェンス手前に設置してほしいものだ。敷地内には雨水除塵機が建つ。柳島ポンプ場から東へ進み、突き当りに石柱と説明板。柳橋跡所在地:神奈川県茅ヶ崎市柳島海岸11石柱の裏面には「コンクリート柱○○○○○」と。柳 橋「柳橋」は松尾川に架けられた橋で柳島本村(ほんむら)と海岸を結ぶ唯一の大切な橋でした。「柳橋」の文字は柳島の青木林蔵氏(明治19年生まれ)の書です。柳橋を後世に伝えようと一部をここに残して有ります。 令和四年五月吉日 柳島自治会浜見平団地の南側を流れる松尾川に沿って北東方向へ進む。松尾川は暗渠になっていて流れがわからないが、フェンスに沿って流れているのであろう。鉄砲道と左富士通りが交差する ”浜見平交番前交差点” を振り返る。この水場は松尾川の一部で、南西方向に流れている。右側に「松尾川」と。松尾川沿いに建つ制御盤には「循環設備制御盤」と。上流側の吐き出し部。この辺りは浜見平団地の東側で上流は北に向かっている。制御盤設置辺りからポンプで上流側へ循環しているのであろうか。浜見平団地の東側を流れる松尾川に沿って北方向へ進む。橋の先はオープンになっている。ここまでは暗渠になっていて川の流れがわからない。北側をJR東海道本線が走る ”鳥井戸ガード” 。松尾川はここが最上流部であろうか。鳥井戸ガードの先は千ノ川が流れている。東海道本線 (72) 鳥井戸ガード鳥井戸ガードの北側から振り返る。ガード下には松尾川の暗渠はなかった。右下は ”左富士通り” 。橋りょう名 鳥井戸架道橋位 置 茅ヶ崎 ~ 平塚間 60K297M支 間 12M90塗装年月 2015年8月塗装回数 4回塗塗装種別 下、下、中塗 厚膜型変性エポキシ樹脂系塗料及塗料名 上塗 厚膜型ポリウレタン樹脂塗料塗料メーカ 大日本塗料株式会社施 工 者 建設塗装工業株式会社 16:00鳥井戸架道橋を潜り南側へ。青いフェンス内が松尾川の最上流部であろう。 ー 続く ー
2024.05.30
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昨年は今回の東側で、令和4年8月22日から令和5年2月28日まで発掘調査が行われた。その時の工事名称は「令和4年年度新国道線街路事業に伴う埋蔵文化財発掘調査」。前方は西方向で、一里塚北通り、JR相模線が走り将来は地下道で潜る新国道計画路線。現場事務所前方は東方向で前回の”第8次調査”現場がある。工事現場のフェンスには、いろんなパネルが貼られていた。新国道路線のトンネル工事を行う前に発掘調査をしているようだ。今回の工事名称は、「令和5年年度新国道線街路事業に伴う埋蔵文化財発掘調査」。調査期間は、令和8年3月31日まで。現在、鎌倉時代 ~ 昭和を発掘調査中です。本地点は、平安時代頃から断続的に田んぼとして活用された場所であり、田んぼに関する遺構・遺物が発見されています。また、多量の土器類のほか豊富な湧水により本来は分解されて残らない木製品なども出土しています。 昭和期の遺構:畔(水田)、暗渠(s16年頃か)など 江戸時代以降の遺構:畔(水田)など 江戸時代よりも前の遺構:畔(水田)か(現在、調査中) 遺物:煙管、陶器、磁器、土師器(はじき)、須恵器など現在、戦国時代 ~ 平安時代を発掘調査中です。中世 (鎌倉 ~ 戦国時代) では遺構が確認できませんでしたが、かわらけや陶器などの遺物が少量出土しました。平安時代では南北方向の畔畔、東西・南北方向の溝、土手・畔畔に区画された水田が発見されました。畔畔は白色粒子が多く含まれる粘質土で造られており、溝は両側に土手を有し黄色い砂丘砂で埋まっていました。炭化したもみ殻も出土しました。 平安時代の遺構:畔畔、溝・土手、水田 平安時代の遺物:土師器、須恵器、灰釉陶器、板状木製品 中世 (鎌倉 ~ 戦国時代) の遺物:陶器、木器など 右上は「2023年グーグルマップ」。写真は「1961 ~ 69年 航空写真 (地理院地図)」。◆ 写真1~5は 1959年ごろの写真で地元にお住いの方よりご提供いただきました。 記して御礼申し上げます。1959 (昭和34) 年頃の本村居村の水田我が嫁さんはこの風景に見覚えがあるのではと。1959 (昭和34) 年頃の本村居村の水田新国道線街路事業に伴う埋蔵文化財発掘調査現地説明会開催のお知らせ本村四丁目地内において実施しております居村B遺跡第9次調査の成果や発見された出土品を紹介・解説をします。日 時:令和5年11月11日(土)【小雨決行 荒天の場合は中止】 ① 午前の部 10時30分 ~ 11時30分 ② 午後の部 13時30分 ~ 14時30分場 所:茅ケ崎市本村四丁目地内(詳しくは裏面の地図をご覧ください)内 容:発掘現場の解説、出土品の展示(①と②は同様)申 込:不要問合せ:茅ヶ崎市教育委員会社会教育課 電話 0467-81-7226 (直通)主 催:茅ヶ崎市教育委員会会場位置図(地図上が北)11月11日(土) 10:20上記案内を見て、ようやく本来の気候になった寒い中訪れた。タウンニュース茅ヶ崎版 11月10日(金) に記載された。居村B遺跡で現地説明会 第9次調査の成果開設新国道路線の西方向。今日は富士は見えなかった。フェンス内は発掘現場。現地説明会会場の入り口が一番西側であったので廻り込む。道路脇の畑には大きなザボン。そろそろ収穫期になるので盗難に!。西側の入口。入口を入り東に向かって折り返すが百メートル程あったか。通路は養生鉄板が敷かれていた。受付で、名簿に氏名・住所を記入。頂いた資料から。左写真「江戸時代以降の水田跡全景写真(西から)」右 上「宝永火山灰の堆積状況」右中央「江戸時代の足跡・工具痕検出状況(南から)」右 下「左:宝永火山灰(スコリア)除去前、右:除去後」本村 居村B遺跡は、今までに第1次から第8次まで発掘調査が行われている。9次調査この後、教育委員会関係者の挨拶の後人数が多いので3班に分かれて説明会開始。私は2班で、学芸員からまず「出土品の紹介」から。この辺りは水分が多く保存状態が良かったと。このため「松かさ (まつぼっくり)」「梅」「スモモ」等が多く出土した。近くのスモモの畑があったのか。水に漬けられた出土品の「木製品」。今回は板状のものが多く出土していると。出土した「鉄製品」小銭、鉄砕も出ており小さな鍛冶屋があったか。鉄製品の「キセル (雁首)」「キセル (吸口)」。後で紹介される水田の畦畔で見つかった。現代と同じように畦畔で休憩時に失くしたのではと。緑泥片岩(板碑)。陶器の中には伊万里焼の破片も出土している。かつて相模川の下流柳島に港があり、東西の交流地点で各地のものが陸揚げされたようだと。陶器の破片。発掘現場の説明に移動。この日の説明会のために数日前にこの通路が設置されていた。手前が「江戸時代の水田」、一段下り「平安時代の水田」と。手前には多くの足跡の跡?タウンニュースによると、今回の注目ポイントについて、茅ヶ崎市の担当者から「江戸時代の足跡です。1707(宝永4)年、富士山が大噴火を起こし、茅ヶ崎にも大量の火山灰が降り注ぎました。今回の発掘調査ではその際に踏み込まれた足跡が発見されました。大きさは約23cm。足の指や土踏まず、かかとのくぼみもはっきりとわかります」と。何故このように足跡が残っているかの質問に、学芸員から「火山灰が降り、その後休耕田として利用されなかったのでは」と。足跡から火山灰を回収し足跡を残したと、またこの一角だけでバケツ3杯分?が集まったと。この火山灰をお土産で頂いた。写真による説明「足跡等検出状況」。お土産で頂いた「水田に堆積した富士山の火山灰(宝永火山灰)」今から300年ほど前の1707(宝永四)年に噴火した富士山の火山灰。本村居村B遺跡第9次調査では、水田が火山灰で埋まった状態で発見され火山灰を丁寧に取り除くと足跡や工具痕と思われる窪みが検出された。受付時に「先着の方に」と言われていたので瓶から見て”ジャム”と思ったが火山灰であった。発掘調査内の通路に下り。9次調査の写真。東西に走る陶管列の写真(1号溝、西から)南側の地表面には第3班。畦の断層。土層の時代を確認していると。手前は「平安時代の水田」、後方に足跡の残る「江戸時代の水田」。畔には「土層観察用畔(通称:ベルト)」の説明板。昭和初期の暗渠跡。暗渠跡に掘り出したものをこの日のために再現。畔があり近くから「土師器 (はじき)」が出土したと。今回の一番東側の現場。フェンスの向こう側が前回の8次調査現場になる。前回の8次調査の写真。平安時代の溝(水路)の土層堆積状況。昭和初期の暗渠菅。これから土層堆積を確認すると。ズームアップ。11:30この辺りは南側と北側に一段高い砂丘があり窪地になり水田が広がっていたと。近くに湧水地があり水を引いたと。この後、2メートルほど掘り下げ、縄文時代の物を掘り出すと。約1時間の説明会を終え帰路に。東方向を望むが、何年後に国道1号に平行する新国道が開通するのか。11:40発掘現場ではまだ3班の説明が行われていた。 END
2023.11.19
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かねてからタウンニュースで茅ヶ崎ゆかりの人物館で ”加山雄三展” が開催されると知っていたので愛車のリンちゃんで訪れた。庭先に育っていたゴーヤが色ずく。ゴーヤの実が枯れると緑色 → 黄色 → 赤色と変色する。8月27日(日) 14:40ラチエン通りを南下、鉄砲道の松が丘交差点を南下。交差点を過ぎるとすぐ左側に”松が丘緑地”があり、開高健記念館の掲示板。500M先右側。松が丘緑地から更に南下。ラチエン通りは狭く車の制限速度は30キロ。道路の右側の木柱には「開高健記念館 茅ヶ崎ゆかりの人物館」。入口にはコミュニティバス停があり「18」と。14:45開高健記念館 茅ヶ崎ゆかりの人物館所在地:神奈川県茅ヶ崎市東海岸南6丁目6-64開高健記念館の前には見学者用の無料駐車場(8台)がある。茅ヶ崎市開高健記念館茅ヶ崎市 開高健記念館夫人の牧羊子さんが亡くなられて、遺産継承者である夫人の妹の馬越君子さんが、土地建物を茅ヶ崎市に寄贈されたことから、開高健記念館の管理を茅ヶ崎市が、また、展示および運営については開高健記念会が茅ヶ崎市から受託している。⇐ 開高健記念館、「開高健 ロッド片手に世界を駆ける」、釣りの人生を・・・。⇒ ゆかりの人物館、「加山雄三展」ゆかりの人物館入口。今日の目的は、ゆかりの人物館で開催されている、「加山雄三展」へ。ゆかりの人物館へはバリアフリー対策が行われている。ゆかりの人物館の入口へ。ラチエン通り沿いの海を望む小さな丘に「ひと」と「まち」をつなぐ新しい文化交流の拠点として、平成27年(2015)2月11日(水・祝)に開館しました。茅ヶ崎の新しいまちづくりに貢献するために、ひとを結び、賑わいを創る次世代型のミュージアムとして市民と共に成長していきます。入口から振り返る。ゆかりの人物館は木に囲まれ海から数百メートルに位置している。入口に掲げられていた「加山雄三展」のポスター。2023年4月29日(土) ~ 9月24日(日)開 館 日 :毎週金・土・日及び祝日開館時間:10:00 ~ 17:00 (入館は閉館30分前まで)観 覧 料 :200円 (18歳未満及び高校生以下無料) ※ 多目的館の観覧料は無料裏面には、2022年末、惜しまれつつもコンサート活動に終止符を打った茅ヶ崎ゆかりの人物である加山雄三。1937年(昭和12年)4月11日横浜市生まれ。’39年に茅ヶ崎市東海岸に転居。その後約30年間を茅ヶ崎で過ごす。茅ヶ崎小学校、茅ヶ崎市立第一中学校、慶應高校、慶應義塾大学法学部を卒業。’60年東宝入社『男対男』で映画デビューした。茅ヶ崎ゆかりの人物館へようこそゆかりでひと涼みしませんか? COOL SHARE今年も猛暑がやってきましたね。皆さまお気をつけて!ゆかりの人物館では展示館で『加山雄三展』、多目的館で『茅ヶ崎の関東大震災』を開催中です。室内で展示をご覧になりながら、また涼しい風が通るウッドデッキで、ひと涼みしてください。多目的館と庭は無料で利用いただけます。館内に入り観覧券200円を購入。撮影の確認をする。3ヵ所が撮影可で、他は撮影禁止になっていると。エントランスホールにあった「自作のカヌー 2号艇」。自作のカヌーの前で。烏帽子岩を目指した少年時代であろうか。後方には江の島。加山雄三のサイン入りで、茅ヶ崎は僕にたくさんの影響を与えてくれました。今の自分があるのは茅ヶ崎のおかげです。そんな茅ヶ崎と僕との繋がりは、多くの方々に観てもらえる場を作っていただき本当に嬉しいです。ありがとうございます。故郷・茅ヶ崎はこれからもかけがえのない場所です。生い立ち 両親祖母は映画スター、岩倉具視は高祖父父は俳優・上原謙 (池端清亮)、母は女優・小桜葉子 (岩倉具子)。松竹のスターを両親にもつ加山雄三 (池端直亮) だが、その血筋をさかのぼると歴史上の人物が並ぶ。謙の父は日露戦争頃の陸軍軍人・池端清武で、謙が20歳前に戦死。遺された妻・キヨ (祖母)は謙ら3人の子どもを育て上げ、加山が生まれてからも同居していた。母・葉子は、岩倉具顕と江間光括の長女で、曾祖父は、明治の元勲・岩倉具視である。加山雄三 略歴1937年 4月11日 神奈川県生まれ1960年 映画「男対男」にてデビュー1961年 レコード「大学の若大将/夜の太陽」で東芝レコードよりデビュー1964年 「光進丸」進水1965年 「君といつまでも/夜空の星」でレコード大賞特別賞受賞1970年 女優/松本めぐみと結婚1996年 新宿三越にて初の個展「すべて愛なんだ」開催 以降毎年絵画展を各地で開催1998年 西伊豆堂ヶ島に「加山雄三ミュージアム」をオープン1999年 「NHKハート展」に出品2000年 静岡県の切手デザイン「熱海の海」「伊豆の踊り子像」を制作2005年 芸能生活45周年 アメリカニューヨーク「カーネギーホール」にてコンサート開催2007年 神奈川県文化賞受賞2010年 芸能生活50周年 岩谷時子賞「特別賞」受賞 日本レコード大賞「音楽文化賞」受賞2011年 毎日芸能賞「特別賞」受賞 日本芸術選奨受賞2012年 NHK「放送文化賞」受賞2014年 旭日小綬章受章2016年 画業20周年記念絵画展2017年 生誕80周年 浅草芸能大賞「大賞」受賞 岩谷時子賞「岩谷時子賞」受賞光進丸と加山雄三光進丸 (こうしんまる)人生の相棒ともいえる光進丸。船名は祖母が占い師に見てもらい命名。初代光進丸の進水は、1964年(昭和39年) 8月。オリンピック東京大会開催の年の夏。二代目光進丸の進水は、1969年(昭和44年) 5月。初航海は国体の開催地である長崎へ。港には観衆が押し寄せ、新しい船のお披露目を大歓迎してくれた。1978年(昭和53年)に「光進丸」をリリース、海の男・加山雄三の魅力を改めて世に知らしめた。三代目光進丸の進水は、1982年(昭和57年) 4月。航続距離を重視した大型船で、一度の燃料充てんでグアムまでの往復運航が可能。細部にわたり加山のこだわりが施された。光進丸の模型、備品が並んでいた。SAURA. COMPASS PILOT光進丸の模型。縮尺は?。愛用した椅子であろうか。かつての国道134号の江の島方面。右側に茅ヶ崎海岸(現サザンビーチ海岸)、奥にパシフィックパーク茅ヶ崎が建つ。この国道は、昭和42~45年ごろ独身寮があった大船から平塚まで時々通った道である。パシフィックパーク茅ヶ崎の模型。上側が国道134号で、左側がラチエン通り。パシフィックパーク茅ヶ崎地元では「パーク」と耳にすることが多かった。1965年(昭和40年)に開業し、役員には上原謙、小桜葉子の弟、加山雄三らが名前を連ねている。真っ白な円柱形の建物で、ドライブイン、プール、ボウリング場、ビリヤード場、ジェットスキー、サーフボードなどを備えた複合の娯楽施設として、ひときわ聳え立つ茅ヶ崎のランドマークとして注目を浴びた。絵画や写真作品の対象として人々の関心も高かった。しかし1970年(昭和45年)に売却され、その後は、1988年(昭和63年)まで営業は続くものの、1998年(平成10年)には取り壊され、翌年に高級リゾートマンション「パシフィックガーデン茅ヶ崎」が建った。かつてのパシフィックの面影を知る世代には好評である。1966年に若大将シリーズの『歌う若大将』で、パークのプールサイドが登場する。1981年(昭和56年)には、ブレッド&バターの『ホテルパシフィック』が話題となった。右側は光進丸乗船時の制服であろうか。レコード盤が展示されていたが撮影禁止エリアになっていた。銅像建つ加山雄三さんの銅像は、茅ヶ崎商工会議所が中心となって進めている。茅ヶ崎を発祥とした「湘南サウンド」を後世に伝え残そうとするプロジェクトの一環である。「湘南サウンド」の原点ともいえる加山雄三さんを顕彰することで、茅ヶ崎を「音楽のまち」として発展させ、次世代の音楽の才能発掘にもつなげるために、銅像の制作が企画され、クラウドファンディングに全国から500名余りの寄付が集まり、支援者は銅像に設置される「芳名板」に氏名が記される。以前タウンニュースに寄附を集め7月始めに建つとあったので、係員の方に「銅像はどこに建っていますか」と聞くが「遅れています」との返答。展示館では、第一部 茅ヶ崎が育んだ若大将 幼少期から青年期まで過ごした茅ヶ崎時代のエピソードを中心に、加山雄三の人物像に迫 ります。歌手として、俳優として、その活動を支えた衣装ケースなどの愛用品から、愛船・ 光進丸の備品などを展示します。第二部 加山雄三が培った茅ヶ崎 様々な形で地元・茅ヶ崎に貢献してきた加山雄三。その中でも東海岸小学校の校歌作曲は、 依頼を受けてから完成に至るまで、人を大切にし、地元を愛する心温まるエピソードに溢 れています。校歌作曲を中心に、雄三通りやパシフィック・ホテルなど、茅ヶ崎に残る加 山雄三の足跡を辿っていきます。展示館から出て中庭にあるウッドデッキ。左側が多目的館で『茅ヶ崎の関東大震災』が展示されていたが撮影禁止になっていた。ウッドデッキの奥が展示館になっている。茅ヶ崎ゆかりの人物館の南側に「開高健記念館」が建っている。開高健記念館入口。以前訪れているので今回はスルーした。その時のブログは「茅ヶ崎市開高健記念館」👈 をクリック願います。茅ヶ崎市開高健記念館作家開高健は1974(昭和49)年に、茅ヶ崎市東海岸南のこの地に移り住み、亡くなるまでここを拠点に活動を展開しました。その業績や人となりに触れていただくことを目的に邸宅を開高健記念館として開設。書斎は往時のままに、展示コーナーでは期間を定めてテーマを設定し、原稿や愛用の品々を展示してまいります。これらを通じて、たぐい稀なその足跡を多くの方々にたどっていただけるならば幸いです。 ● 開 館 日 :毎週、金・土・日曜日の3日間と祝祭日。 年末年始 (12/29 ~ 1/3) は休館とさせていただきます。 展示替え等のため、臨時に休館することがあります。 ● 開館時間:4月 ~ 10月 午前10時 ~ 午後6時 (入館は午後5時30分まで) 11月 ~ 3月 午前10時 ~ 午後5時 (入館は午後4時30分まで) ● 観 覧 料 :200円 (茅ヶ崎ゆかりの人物館との共通観覧料 300円)館内での飲食・喫煙はご遠慮ください。門扉を入ると記念館入り口に文学碑。文学碑には、『入ってきて人生と叫び、出ていって死と叫ぶ 開高健』小さな丘の上に森に囲まれた「茅ヶ崎ゆかりの人物館」が建つ。15:15駐輪場から開高健記念館・茅ヶ崎ゆかりの人物館を振り返る。この後、海岸へ行き帰ることに。15:20開高健記念館から南下、国道134号の菱沼海岸交差点を横切りサイクリングロードへ。砂防網の合間から沖に烏帽子岩を望む。菱沼海岸交差点を横切りサイクリングロードへ。ここは「ゴルフ場入口」で、東側には辻堂海岸、片瀬海岸へと。ゴルフ場入口から烏帽子岩をズームアップ。釣り客の迎えボートであろうか2隻停泊していた。サイクリングロード脇の砂浜に、『砂浜を回復するために、養浜を行っています!』茅ヶ崎海岸 菱沼海岸地区は、浸食が進んでおり、令和元年10月の台風10号ではサイクリングロードが崩落しました。この対策として、土砂を運搬して砂浜に盛る養浜工事を実施し、盛土から海岸に土砂が供給されることで砂浜の回復を図ります。高波後は、養浜した盛土が崩れたり、崖になっている場合がありますので、盛った砂には近づかないようにしてください。盛土の上から茅ヶ崎海岸 菱沼海岸地区を見下ろす。江の島をズームアップ。東側の突堤は茅ヶ崎海岸 菱沼海岸地区の4号水路。15:25江の島の片瀬海岸をズームアップ。自宅へ帰ることにし、一中通りを走り北上。15:40海岸から北上し国道1号の本村交差点を右折し次の交差点を左折。左の庭先に石灯籠があり駐輪、南方向を振り返る。国道1号をズームアップすると市立病院入口交差点。古民家の中庭に高さ2メートル以上の石燈籠が立っていた。新しい石碑が建っており、この石燈篭は、文昭院殿徳川第六代将軍家宣菩提の為め正徳二年(1712)壬辰十月十四日従五位下松平信濃守源直之の奉献したものである。この場所の裏にある海前寺にもこのような石燈籠が数基建っていた。15:40国道1号の市立病院入口交差点へ戻ると角地に「ドミノ・ピザ茅ヶ崎高校前店」。所在地:神奈川県茅ヶ崎市本村3丁目1-2幟旗には「持ち帰り 半額」と。自宅帰宅時の愛車のリンちゃんは「バッテリー残量 70%、走行可能距離 58km」と標示。出発時のメーターはバッテリー残量 70%、走行可能距離 65kmであったので、今日の走行距離は7キロであった。 END
2023.08.30
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浜降祭参加の寒川地区の神社の帰路に、茅ヶ崎の史蹟を巡った。8月12日(土) 16:50プレンティーズ ミルク&チーズファクトリー所在地:神奈川県茅ヶ崎市みずき3丁目1-62023年8月8日オープンの湘南茅ヶ崎にある牛乳製造所である。すぐ近くにある茅ヶ崎の牧場からしぼりたての生乳を直送して、新鮮な乳製品を製造・販売している。茅ヶ崎のローカルアイスと言えば、Plenty’s(プレゼンティーズ)!。そのPlenty’sは、茅ヶ崎駅南口 (鉄砲道の雄三通り中央交差点) とテラスモールにありますが、今回3号店目を茅ヶ崎市みずきで新しいお店をオープンした。営業時間:9:30 〜 19:00(不定休)PLENTY'S Milk & Cheese Factory店内、テラス席で食べれる。湘南ちがさき牛乳 \200/200ml、\490/750ml市内の契約牧場から毎朝直送だから鮮度と味わいが違います!プレンティーズの商品全ての原点がこの乳です。今までにちがさき産だけの牛乳は存在しませんでした。歴史的な1杯をどうぞ!モッツアレラ \580/100g新鮮な牛乳だからこそ味わえるチーズがあります。しぼりたて、ちがさき産生乳100%のフレッシュモッツアレラをご賞味ください。TODAY'S MENU ♡♡● しぼりたてソフトクリーム \400● 季節のホェトドリンク(パイナップル) ¥400茅ヶ崎駅南口 (鉄砲道の雄三通り中央交差点) にある店もいつも混んでいるがここでも!。Plenty’s(プレゼンティーズ)からスリーハンドレッドクラブのコース沿いを走り帰路につく。草を刈りこんだ先に石碑を見つける。スリーハンドレッドクラブのコースの手前に石碑。上諏訪神社舊跡所在地:神奈川県茅ヶ崎市松風台附近紙垂で飾られていたが説明板がなく詳細は不明。石碑には「上諏訪神社舊跡」と刻まれていた。石碑の後方にはスリーハンドレッドクラブのコース。相模川左岸用水路。自転車は進入禁止になっていたので押して進んだ。サルスベリも満開に。相模川左岸用水路脇に建つ「水と花と緑のこみち整備事業」。この辺りは松風台団地。相模川左岸用水路相模川左岸用水は、昭和5年(1930)から昭和15年の歳月をかけて灌漑用水を完成させた。相模原市、座間市、海老名市、寒川町、茅ヶ崎市の703ヘクタールに今も供給されている。相模川左岸用水路の標準断面図この辺りは県有地の幅が約8Mあり、開放水路、ボックスカルバートになっている。相模川左岸用水路の開放水路。右側が松風台団地、左側はスリーハンドレッドクラブの敷地になっている。◎ 相模川左岸用水路とは この水路は、相模川左岸用水路といいます。この用水は相模川から取水しています。 遠く相模原市磯部(磯部頭首工)から茅ヶ崎市室田まで全長約21kmにもなります。 本水路は、農業用水路として水田を灌漑するために、昭和6年~昭和15年に築造さ れ、先人が極めて多くの努力を払い何度かの工事を経て今日の姿になりました。◎ 農業空間について この水路により育まれている水田を中心とした農業空間は、何世紀にも渡る農業 の営みの中で培われ保全されてきたものです。今後とも、水と緑あふれる農業空 間を保全し、創造することが必要とされています。茅ヶ崎配水池所在地:神奈川県茅ヶ崎市甘沼相模川左岸用水路から急な坂を上り、スリーハンドレッドクラブ前を通り抜けゴルフ場に隣接してこの配水池がある。茅ヶ崎配水池〔災害用指定配水池〕概 要 構 造 鉄筋コンクリート造 大きさ 12m☓12m☓1池 48m☓48m☓1池 有効水深 4.0m 満水時水位 標高 50.0m 容 量 5,184m3この配水池は、寒川浄水場から送られてきた水を貯えて、茅ヶ崎市の皆様に供給するために築造されたものです。また、この配水池は、地震など災害が発生した場合に応急給水に必要な飲料水を確保する配水池に指定されています。 神奈川県企業庁水道局茅ヶ崎営業所Googleマップにこの辺りに「甘沼水道山横穴墓」が載っていたので訪れ探す。道路はスリーハンドレッドクラブへの道路。ここから下る階段があった。スマホのGoogleマップでは「目的地に到着しました」と。急な階段を見下ろす。階段の中間部で下を見下ろす。甘沼水道山横穴墓所在地:神奈川県茅ヶ崎市甘沼下ってきた階段を振り返る、スマホでは左前方だが。階段を降り途中で探すが説明板がなく、それらしきものが発見できなかった。階段の西側には民家があった。スマホではもう少し上に目的地。階段を上ると右側に「水道境界」の石柱。水道境界の石柱から右側に入ると、「甘沼 八幡大神」の境内へ。この花の実はヤブミョウガであろうか。甘沼 八幡大神社殿。拝殿の扁額「八幡大神」。甘沼八幡大神から西側の階段へ戻る。蚊が多く半ズボンの私は蚊に刺される。階段の途中から左側(西方向)を覗くが・・・。階段を上り終え小出県道へ進むと右側に展望台。広場にあった「土砂災害防止法に基づく土砂災害警戒区域等を明示した現地表示板」。広場から茅ヶ崎市街地の南東方向を見下ろす。新湘南バイパスの高架橋が東西に走り、天気が良ければ江の島が見えるのだが。茅ヶ崎駅方向を望む。我が家がある南方向をズームアップするが山に隠れているようだ。広場にはフジ棚もあった。千ノ川の南側にある茅ヶ崎市立病院。17:30茅ヶ崎市立病院所在地:神奈川県茅ヶ崎市本村5丁目15-1新型コロナも第5類になり面会できるようになり、面会時間は15時から19時までで15~30分。病院の前には新型コロナ対策の臨時応対テント。病院に隣接してコンビニがある。千ノ川沿いにススキに似た「パンパスグラス」。パンパスグラスは、南アメリカとニュージーランド、ニューギニアに分布するススキに似た多年草で、約20種が知られています。栽培されるのは、明治中ごろに渡来したセロアナ種(Cortaderia selloana)です。雌雄異株で、雌株の花穂には長い毛があり、観賞価値が高くなります。自宅到着時の愛車のリンちゃんのメーターは、「走行可能距離:71km、バッテリー残量:80%」と標示。出発時のメーターは、91km、100%であったので今日の走行距離は20キロメートルであった。 END
2023.08.20
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海の日の7月17日(月)に4年ぶりに「茅ヶ崎海岸浜降祭」が開催されたが、まだ参拝していない神社が寒川地区にあったので訪れることに。併せて史跡等も訪れた。毎日真夏日が続く中、14時に自宅を愛車のリンちゃんで出発した。なお、浜降祭に参加する寒川地区の神社は6社で、 ① NO.5 宮山 寒川神社 高座郡寒川町宮山 ② NO.6 岡田 菅谷神社 高座郡寒川町岡田 ③ NO.7 倉見 倉見神社 高座郡寒川町倉見 ④ NO.8 一之宮 八幡大神 高座郡寒川町一之宮 ⑤ NO.13 芹沢 腰掛神社 茅ヶ崎市芹沢 ⑥ NO.14 堤 八坂神社 茅ヶ崎市堤8月12日(土) 14:20県道404号線(小出県道)を北上すると丘の上に高層ビルが建っている。小出県道の左奥にある「甘沼 八幡大神」。甘沼 八幡大神(あまぬま はちまんおおかみ)所在地:神奈川県茅ケ崎市甘沼292浜降祭に参加する松林・小出地区9社のひとつで22番目の神社である。ここの神社には浜降祭の前日に訪れた。県道404号線(小出県道)から東側に入り「Persimmon ペルシモン」所在地:神奈川県茅ヶ崎市甘沼245かきざわ牧場の生乳を使ったアイスクリームを販売している。鉄砲道の東海岸北のPlenty'sで製造されたアイスクリームをカップに詰めて販売しており何度か購入した。営業日・時間(夏季) 火・木 14:30 ~ 18:00 土・日・祝祭日 10:30 ~ 18:00かきざわ牧場かきざわ牧場(柿澤牧場)は「教育ファーム認定牧場」として、子どもたちの食育に積極的に取り組んでいます。乳しぼり(搾乳)体験では一度に20~30人の子供達を受け入れることが可能です。こちらの生乳は学校給食にも使われているので、地域の子供達はすごく喜んでくれます。なお搾乳が実施できる季節は秋冬ですと。かきざわ牧場から住宅地の坂を上り小出県道のスリーハンドレッドクラブ入口交差点。丘の上には茅ヶ崎市街地が一望できる15階建ての集合住宅が2棟。交差点の一角に古い「小出へ通じる道の竣工記念碑」。石碑正面に「大正十年三月二十六日改修工事竣工」と刻まれてる。何か由来の説明板が欲しいものだが。オクトス湘南 茅ヶ崎ヴィスタヒル所在地:神奈川県茅ヶ崎市甘沼200-1JR茅ヶ崎駅からバス10分、殿山公園前で下車徒歩1分。築年月は1999年10月で15階建て、総戸数148戸。県道404号線(小出県道)沿いのガソリンスタンド。レギュラーガソリンも高騰し、182円/ℓに。ガソリンスタンドの先の道路脇に石像。石像には「庚申供養」と。神奈中「長谷戸 (ながやと)」バス停。双体道祖神・文字道祖神・地蔵尊所在地:神奈川県茅ヶ崎市堤2507-6付近スマホの案内で、長谷戸バス停から北方向へ約百メートルほど進み左に入ると直ぐにあった。個人宅の入口にある「双体道祖神・文字道祖神・地蔵尊」。左側に、双体道祖神・文字道祖神。舎の中には「地蔵尊、供養塔」。右側奥は個人宅になっている。県道404号線(小出県道)に戻り、Googleマップに載っていた「長谷戸橋」。川幅は2メートル程で矢板で護岸、欄干だけは立派であった。欄干に「長谷戸橋」と。県道404号線(小出県道)と「大岡越前通り」が交差する堤坂下交差点。ここを左折、大岡越前通りを西へ向かい目的地の「堤八坂神社」へ。ここが私の行きつけのガソリンスタンドだが182円/ℓに。道路標識の「大岡越前通り」。堤 仲谷の石仏群所在地:神奈川県茅ヶ崎市堤3412-3大岡越前通りを右折(北側)路地を入ると旧道沿いにある石仏群。左から「角柱文字道祖神」「庚申塔」「馬頭観世音」。馬頭観世音には「馬持中」の銘があり「馬を所持している人々の集まり」であると。石仏群の右側の急な坂を上ると正面に社が建っていた。電動アシスト自転車では登れなく道路脇に駐輪。八坂神社所在地:神奈川県茅ヶ崎市堤3655-1浜降祭に参加する寒川地区6社のひとつで14番目の神社である。神社の所在地は茅ヶ崎市だが、芹沢の腰掛神社とともに何故か寒川地区に入っている。神輿殿の前にある白い箱は?建物の扁額は「神輿殿」。書き込みによると「小さな神社だが江戸時代に建造された立派な神輿である」と。今年7月17日の浜降祭に参加した時の「堤 八坂神社」の神輿。坂を上る「堤 八坂神社」と、砂浜に向かう茅ヶ崎地区6社の「本村 八坂神社」の神輿。神輿殿の隣に小さな社殿。八坂神社前から南東方向の長谷戸を見下ろす。ズームアップ、山の上には湘南カントリークラブのネットが見える。登って来た坂道を見下ろす。曹洞宗 堤源山 正覚院 (しょうがくいん)所在地:神奈川県茅ケ崎市堤3681相州小出七福神の「布袋尊」が祀られている。山門右前に大きな布袋尊。大岡越前通りを西へ進むと正面にメタセコイアが聳え、天気が良ければ富士が見える。以下2枚の写真は台風7号後の8月15日に撮影したので曇り空、左側にはレンタルの重機が並ぶ。茅ヶ崎市博物館の東側に無料駐車場が完成。茅ヶ崎市博物館所在地:神奈川県茅ヶ崎市堤3786-1昨年7月30日(土)に中海岸の茅ヶ崎市文化資料館から移設されオープンした。入館料は無料だが、維持費等を考えるとワンコイン位の有料or年間パス券にしたらと思うが。オープン当時は、レンタル自転車はなかったが。近く(南側)には「大岡越前守 菩提所」「民俗資料館」がある。茅ヶ崎市博物館の南側には駒寄川があり川沿いにいろんな色のサルスベリが咲いていた。駒寄川はまだ立ち入り禁止に。夏の花、サルスベリを追う。サルスベリといえば鎌倉の極楽寺に古木がある。青空に映えるサルスベリ。茅ヶ崎市博物館から北上し、県道47号線(小出中央通り)を西へ向かう。茅ヶ崎市の北部にはまだこのような原生林?がある。後方に浜降祭に参加する寒川地区6社のひとつ「芹沢 腰掛神社」があるがこの日はスルーした。県道47号線(小出中央通り)の坂を下ると右側に次に訪れる諏訪神社がある。隣接してペットを葬る寺として知られる「白峰寺」があり、「愛ペット火葬」の幟旗が並ぶ。曹洞宗 白峰寺 (はくほうじ)所在地:神奈川県茅ヶ崎市下寺尾1551この寺は、現在犬猫などのペットを葬る寺として知られ、動物愛護協会による動物慰霊祭も行われておりいつも参拝者が多い。また、相州小出七福神の「寿老人」が祀られている。茅ヶ崎公園墓地 新規墓所案内所。下寺尾諏訪神社所在地:神奈川県茅ヶ崎市下寺尾1546-11浜降祭に参加する松林・小出地区9社のひとつで15番目の神社である。社殿に並んで神輿殿があり扁額は「神輿殿」。今年7月17日の浜降祭に参加した時の「下寺尾 諏訪神社」の神輿。手前は坂を上る15番目の松林・小出地区9社のひとつである「下寺尾 諏訪神社」。小さな社殿である。社殿の扁額「諏訪神社」。15:05諏訪神社から更に県道47号線(小出中央通り)を西へ進み茅ヶ崎市から寒川町へ。左側には「湘南公園墓地 茅ヶ崎第二霊園 正面入口」と。 ー 続く ー
2023.08.16
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浜降祭の帰路、時間が早かったので先日16日(日)に行けなかった住吉神社等へ立ち寄ることに。7月17日(月) 8:25サザンビーチちがさきからサザン通りを北上.右前方は鉄砲道と交差する中海岸二丁目交差点、ここを左折して西へ進む。左は旧道路であろうか。鉄砲道沿いの中海岸神社前を更に進み、南湖通りの南湖中央交差点。南湖通り(神輿道)を直進すると会場の茅ヶ崎西浜海岸へ。鉄砲道の住吉神社前交差点を左折すると直ぐにあった「避難所・避難場所案内」。8:30住吉神社所在地:神奈川県茅ヶ崎市南湖5丁目5-1住吉神社前交差点から南下、神社の東側から社殿を見る、神輿殿も解放。住𠮷神社は南湖地区5社のひとつで神輿は海岸まで担いでいく「渡御」である。浜降祭に参加する34社の内で式典会場に一番近い神社で、大人御輿、子供御輿が参加する。拝殿下には「下町自治会」のテントが建ち祭りの受付を行っていた。拝殿の扁額「住𠮷神社」。住𠮷神社 由緒御祭神 底筒男命 ( そこづつおのみこと ) 中筒男命 ( なかづつおのみこと ) 表筒男命 ( うわづつおのみこと ) 言伝えによれば、大永年間(1525年頃)村人は疫病や災難から子供を守るため鬼子母神を祀り 十羅刹女堂と称し無病息災・安全祈念をしていた。 明治初年に信徒総代の石黒政五郎氏等が相計り摂津国官幣大社住吉大社より御分霊を奉載し て齋祀したのが当社の起源。 当社は漁業地である旧茅ヶ崎村西南湖下の鎮守として崇拝が厚かったと伝えられていた。 現在の社殿は、昭和三年に改築され今日に至っている。御祭儀 一月一日 元旦祭(初詣) 一月第二日曜日 道祖神祭・済度(だんご焼) 三月三日 例大祭 七月海の日 浜降祭 十一月 七五三詣 十二月大晦日 除夜祭 毎月一日・十五日 月次祭鎮座地 神奈川県茅ケ崎市南湖5丁目4186の1番地浜降祭に対する奉賛者の芳名が貼りだされていた。その前には式典会場から戻った子供御輿が置かれていた。拝殿前から南方向の境内を望む。境内は提灯で飾られ、木々は桜の木が植えられている。境内を振り返る。右側(東)には下町自治会館があり役員の方が昼食の準備をされていた。朝から立ちっ放しで暑かったのでしばしフジ棚の下で休憩。浜降祭から帰って来られた親子連れ。ここまでは海岸から500メートル程。南側の鳥居下には海から帰ってきた担ぎ手が集まる。神輿は鳥居を潜りこの参道を戻るのであろう。鳥居の右側に茅ヶ崎市漁業協同組合が管理する「八大龍王神の石祠」があり朱色の鳥居が建つ。神輿が返ってきたが境内には入らずそのまま地域の巡行に。浜降祭に参加した子供御輿。9:50第六天神社 (だいろくてんじんしゃ)所在地:神奈川県茅ヶ崎市十間坂3丁目17-18当社は国道1号(旧東海道)沿いに位置する神社で浜降祭に参加する茅ヶ崎地区6社のひとつ。また神輿は海岸まで担いでいく「渡御」である。鳥居の前には「第六天神社」と書かれた提灯、階段下には「祝 浜降祭 十間坂第六天神社」と。境内にはテントが張られていた。神輿はまだ戻ってきていなかった。第六天神社 御由緒御祭神 淤母陀琉命(オモダルノミコト) 妹阿夜訶志古泥命(イモアヤカシコネノミコト) ご祭神は、神仏混淆時代の仏教で信奉する欲界天の第六、欲界天の最高所に客殿を構える 天魔、他外自在天に由来し、明治維新後政府の神仏分離の布告により、ご神徳に因み、国 生み神話天神七代の神々の内の、第六代の男女二柱の天津神様であります。 分布の傾向に特徴があり、西日本は皆無に近く、東京都と千葉県境に多く所在し神奈川県 では宗教法人格を持つのは二神社、全国で「祠」ようの社も含め三百有余社が数えられます。 神々の中では、初めて人間のような容姿と賢い知恵を持ち合わせた大神様です。御神徳御由緒 身の丈は二里(八キロ・昔は大きいということは健康であることの象徴でした)寿命は人間 の千六百歳を一年として、一万六千歳の長寿であられ、それに因み、身体壮健、不老長寿、 社前の東海道を上下する覊旅の人々の道中安全の守護神として又、世の楽しみを自在に自 己の楽しみに替える霊力に因み、満願成就への導きの神として信仰されております。 古くは、第六天神社は多く祀られており、織田信長の信奉は特に篤く、後の豊臣秀吉は信 長が天下を執るほどの強大な力を持ったことは、第六天の強靭な神威を戴いたことによる ものと、恐れて廃寺を行ったと伝承されております。 その中で郷民により神社名を変更したり、合祀、相殿、末社として秘かに守り信仰されて きた第六天神社です。 「第六天様という強靭なご利益を持たれる神様を氏神様としている氏子さんは幸せですね」 と参拝に訪れる方もおり、天魔とも恐れられる強い力を戴きたいと、近県よりも参拝祈祷 を受けにこられる方もおられます。 創立年代、創立者等不詳。文献では、江戸幕府編集の新編相模風土記(十二代将軍家慶の時 代・天保十二年)に初見されます。御 末 社 八坂神社御 案 内 初宮詣 七五三詣 厄祓い 交通安全 渡航安全 家内安全 事業安全 商売繁昌等の御 祈祷 地鎮祭 竣工祭 新築家祓等の出張諸祭のご奉仕も承ります。鎮 座 地 神奈川県茅ケ崎市十間坂三丁目十七番十八号 電話番号 〇四六七ー八二ーニ三八四境内にはテントが二張り。拝殿前には背の高いテントが張られ子供たちが描いた提灯が飾られていた。神輿殿を探すが境内には見つからなかった。拝殿の扁額は、山岡鉄舟(山岡鉄太郎)書の「第六天神社」山岡鉄舟は幕末から明治時代に活躍した幕末の三舟(勝海舟、高橋泥舟)の一人で、単身にて敵陣に向かい西郷隆盛と面談して交渉し、江戸無血開城への道が開かれた。拝殿の彫刻。右側の木鼻。左側の木鼻。以前来た時は拝殿前に茅ヶ崎地区6社のひとつである「十間坂 神明宮」の神輿が置かれていた。拝殿前右側に末社の「八坂神社」、階段を降りると右側に手水舎。国道1号沿いに鎮座する神社で駐車場は路地を入り北側にある。神明宮(しんめいぐう)所在地:神奈川県茅ヶ崎市十間坂3丁目9-47第六天神社の東側にあり浜降祭に参加する茅ヶ崎地区6社のひとつであろうか。後日訪れたので飾り付け等は外されていた。社 殿社殿に貼りだされていたポスター、出演者募集神明宮例大祭で実施する素人演芸大会の出演者を募集します。・日 時 9月16日(土) 午後五時半開演 ◆荒天時、17日(日)以後中止・場 所 神明宮、特設舞台・演 目 カラオケ、ダンス、楽器演奏など・ご応募締切 8月25日(金)・出演お礼 粗品・お申し込み 第六天神社 社務所・その他 演目やチーム(団体)、個人など基本自由 神明宮例大祭 祭典委員会神明宮の社殿の西側(左)は広場になっており桜の木が植えられている。境内に神輿殿を探すが見当たらなかった。10:05中華 のんち所在地:神奈川県茅ヶ崎市茅ヶ崎844 小川アパート以前から茅ヶ崎の中華店で2番目に人気があり昼時にはいつも十人ほどが列をなしていた。また、2023年6月6日(火)にはテレビで放映されてそれ以来、客が増加している。いつもは店頭に列をなしているのだがこの日は「休日」の貼り紙。営業時間は、昼の部と夜の部があったが、放送以来客筋が増え「夜の部は中止」に。店主は、茅ヶ崎の有名店『横濱飯店』から6年前に独立して、毎朝5時30分から仕込みに入り、ラーメン200杯分相当のメンマ約4kgを40分以上も刻んでいると。入口の扉に貼り紙。毎週火曜日19時日本テレビ系全国ネットで放送の『ヒューマングルメンタリー オモウマい店』。2023年6月6日の放送分は、超アツアツの料理が自慢の中華料理店が登場!お客さんたちが、フーフーしながら激アツ中華に立ち向かっていた。この番組を見ていた岡崎の旅友から「行ったことがあるか」とライン。タウンニュース茅ヶ崎版(2023年7月21日号より)勇壮39基 圧巻の競演茅ヶ崎に夏の到来を告げる暁の祭典「茅ヶ崎海岸浜降祭」(県無形民俗文化財)が7月17日、茅ヶ崎西海岸で4年ぶりに開催された。市内、寒川町の34の神社から子ども神輿を含む39基が参加し、延べ9万5,000人の大観衆を前に担ぎ手たちが躍動したと。担ぎ手躍動の浜降祭 (写真はタウンニュースより)蒼天のもと、終結した神輿が荘厳な雰囲気を創出した4年ぶりの浜降祭。矢張り式典の最前列へ行くべきであった。明け方の宮出から34の神社の神輿が集結した (右側2枚の写真は松村史さん提供)。次は茅ヶ崎4大イベントのひとつ「サザンビーチ花火大会」が開催される。第49回サザンビーチちがさき花火大会日 時:8月5日(土) 午後7時30分から8時10分まで場 所:サザンビーチ海岸例年、約3000発を打上げてきた同花火大会。2019年は荒天で、20年、21年は新型コロナの影響で中止となったが、昨年は規模を縮小して9月4日(日)に開催され、約500発の花火が15分間打上げられた。その時のブログは「第48回花火大会」👈 をクリック願います。当日は撮影に行くので、天気が良いことを祈る。 END
2023.08.11
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各社のお発ち(発輿)の後半を追う。7月17日(月) 8:30ステージの上から海岸線を見下ろす。海の中には神輿が4基。右から「中海岸 中海岸神社」、「十間坂 第六天神社」、「中海岸 八大龍王神」、左端には「新町 巖島神社」の神輿。禊を終え陸に上がった「中海岸 中海岸神社」、「十間坂 第六天神社」の神輿。浜降祭 ⑥ 海に入る神輿(写真は博物館のパネルから)。このような写真を撮りたいが式典の7時前に気温が上がる前に撮影する必要があるか。御輿をズームアップ、右から「中海岸 中海岸神社」、「中海岸 八大龍王神」、「本村 八坂神社」。禊を終え坂を上る、茅ヶ崎地区6社の「中海岸 中海岸神社」。担ぎ手の下半身は濡れていた。黒い法被には「中海岸神社」と。続いて来たのは「中海岸 八大龍王神」の神輿。八大龍王神の神輿は茅ヶ崎地区6社のひとつで29番目である。赤いハチマキの「南湖上町 金刀比羅神社」で南湖地区5社のひとつで31番目である。茅ヶ崎地区6社の「本村 八坂神社」で24番目である。本村八坂神社の神輿をズームアップ。禊を終えた神輿が続いて坂を上る、右に27番目の「十間坂 第六天神社」と「鳥井戸 御霊神社」。南湖地区5社のひとつ「鳥井戸 御霊神社」の神輿で30番目である。8:40海の中にはまだ禊をする神輿が1基。次の神輿が来ないので海へ行くことに。右足が痛いので砂浜が心配であったが。海の中には「南湖下町 住吉神社」の神輿。担ぎ手は腰以上につかり禊をする御輿をズームアップ。神輿が海に入ると金具が腐食するので後のメンテが大変であると。住吉神社は海に一番近く、式典前にも禊を行ったと。禊を終え陸へ上がる。最後(34番目)を飾る神社の神輿で盛り上がっていた。御輿をズームアップ。禊をする近くで撮影。茅ヶ崎西浜海岸は遠浅で禊には最適なのであろう。この日は波が穏やかでよかった。8:46最後の住吉神社の神輿が浜から上がる。式典会場の本部席。各社の神輿はここで最後のお披露目をして帰路に。最初はこのサンドバックの上で撮影した。先程まで各社の幟が立っていたが。仮設トイレも用意されていた。8月5日(土)の「第49回サザンビーチちがさき花火大会」もここが有料席になるのであろう。国道134号の西浜小学校入口交差点へ上る神輿を撮影。J:COMチャンネル 地デジ11chで放送生放送 7月17日(月) 7:00~9:00坂の上の信号は国道134号の西浜小学校入口交差点。4基の神輿が坂を上っていた。国道134号の西浜小学校入口交差点を直進すると南湖通り(神輿道)。3基の神輿をズームアップ。最後部は「住吉神社」の神輿。トラックで神社へ戻る神輿はこの先の広場で積まれる。8:57いつもは釣り客が来ているのだが今日は休日。サザン通りを北上する神輿。国道134号のサザンビーチ交差点を横切り北上。片側は交通規制で通行止め。浜降祭 ①発輿祭 (はつよさい)(写真は博物館のパネルから)。この光景は今回残念ながら撮影できなかった。9:152社の神輿は地元神社まで担いでいく「渡御」である。 ー 続く ー
2023.08.10
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砂浜へ行き禊(みそぎ)を見たかったが引き続き同じ場所で各社のお発ち(発輿)を追う。7月17日(月) 8:16次に寒川地区6社のひとつ「芹沢 腰掛神社」の神輿が上がって来る。後方には16番目の松林・小出地区9社のひとつ「上赤羽根 八雲神社」の神輿が続く。 腰掛神社の神輿が鳥居を潜ったのは6番目で8時8分であったが、それから8分経過しており禊を行ったのであろう。リストでは13番目で順番どおりに上って来た。担ぎ手の中には年配者の姿も。砂浜には2基の神輿。手前はわが村の「室田 八王子神社」の神輿でズームアップ。後方は黄色のハチマキの「下赤 神明大神」の神輿。鳥居を潜るのは、20番目の松林・小出地区9社のひとつ「小和田 熊野神社」。堤 八坂神社この神輿も腰掛神社の次の7番目に鳥居を潜っており(8時9分頃)、それから8分経過しており禊を行ったのであろう。リストでは14番目のため腰掛神社と同様に予定の順番で上って来た。手前に「堤 八坂神社」と、右は「菱沼 八王子神社」の神輿。鳥居に向かう21番目の松林・小出地区9社のひとつ「菱沼 八王子神社」の神輿。鳥居を潜る「菱沼 八王子神社」と、「堤八坂」の法被を着た「堤 八坂神社」の神輿。松林・小出地区9社の「下寺尾 諏訪神社」と「菱沼 八王子神社」2基の神輿。松林・小出地区9社のひとつ「下寺尾 諏訪神社」の神輿。担ぎ手のタオルは色が決まっているようだ。坂を上る「堤 八坂神社」と、砂浜に向かう茅ヶ崎地区6社の「本村 八坂神社」の神輿。本村の「 八坂神社」の神輿をズームアップ。茅ヶ崎地区6社の「本村 八坂神社」と「中海岸 八大龍王神」の2基の神輿。坂を上る15番目の松林・小出地区9社のひとつ「下寺尾 諏訪神社」の神輿。次に上って来たのは松林・小出地区9社のひとつ「下赤 神明大神」の神輿。3基の神輿が並ぶ。手前から「上赤羽根 八雲大神」「下赤羽根 神明大神」、鳥居へ向かう「中海岸 八大龍王神」。後方に鳥居に向かうのは茅ヶ崎地区6社のひとつ「新町 巖島神社」の神輿。坂を上る松林・小出地区9社のひとつ「上赤羽根 八雲大神」の神輿。続いて来たのは松林・小出地区9社のひとつ「高田 熊野神社」の神輿。担ぎ手の法被は黒で背中には「高田」と、18番目の神輿である。左後方は鳥居へ向かう「中海岸神社」の神輿。次に上って来たのは我が地域の「室田 八王子神社」の神輿。後方には海へ向かう2基の神輿。神輿には「室田 八王子神社」の札。我が地域の「室田 八王子神社」の神輿を追う。後方から追うが担ぎ手が少ないようだ。神輿の金具を叩くのは女性。次に上って来たのは松林・小出地区9社のひとつ「小和田 熊野神社」の神輿。小和田 熊野神社の神輿をズームアップ。ここの神輿も金具を叩くのは女性。熊野神社は「高田」「小和田」地域の2社が参加している。後方には鳥居を潜った南湖地区5社の「南湖中町 八雲神社」右に「南湖上町 金刀比羅神社」。小和田 熊野神社の後方には、南湖地区5社の内の4社の神輿、左から、「南湖中町 八雲神社」、「南湖上町 金刀比羅神社」、「茶屋町 大神宮」34番目の「南湖下町 住吉神社」の神輿が連なる。坂を上る「小和田 熊野神社」の神輿。左側に大きく傾く御輿。鳥居の前後に南湖地区5社の神輿が2基、左に「南湖上町 金刀比羅神社」、「茶屋町 大神宮」。次いで上って来たのは松林・小出地区9社のひとつ「甘沼 八幡大神」の神輿。続いて松林・小出地区9社のひとつ「香川 諏訪神社」の神輿。香川諏訪神社の神輿も担ぎ手が少ない。坂を上る23番目の「香川 諏訪神社」の神輿。砂浜には最後34番目の神輿「住吉神社」。神輿の後方には禊をする2社の神輿の鳳凰が見えた。禊を終えた「菱沼 八王子神社」の神輿が上って来た。8:30海には禊をする神輿が4基見えた。 ー 続く ー
2023.08.09
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西浜海岸の式典会場を各社の神輿がお発ち(発輿)。7月17日(月) 8:055番目に鳥居を潜るのは、寒川地区6社の「宮山 寒川神社」の神輿。提灯を掲げた寒川神社の神輿。目の前に、鶴嶺八幡社4社のひとつ「西久保 日吉神社」の新しい神輿。緩い砂浜の坂を上る「西久保 日吉神社」、前方には「矢畑 本社宮」の神輿。次に引返してきたのは鶴嶺八幡社4社のひとつ「円蔵 神明大神」の神輿。神輿の横の金具を叩き掛け声。坂を上ると式典会場で担ぎ、本部席から「ご苦労様でした、来年またお会いしましょう」と。砂浜には3基の神輿。神輿の廻りには多くの観光客が囲む。担ぎ手も足元が砂浜のため不安定では。砂浜の神輿をズームアップするが、寒川地区6社の3社の神輿であろうか。引き返してきたのは「宮山 寒川神社」の神輿。神輿の提灯には「相模一之宮」「寒川神社」と。多くの担ぎ手がいるが、寒川神社へは往復共に「車輌」で移動。神輿の金具を叩き掛け声。坂道を登る寒川神社の神輿。次に引返してきたのは6番目の神輿で寒川地区6社のひとつ「岡田 菅谷神社」。鳥居を潜ったのは、リストでは13番目の寒川地区6社のひとつ「芹沢 腰掛神社」の神輿。出番が早いので禊をするのであろうか。目の前に「岡田 菅谷神社」の神輿。寒川町にあるこの神社はまだ訪れていないのでこの秋に参拝予定。次に鳥居を潜るのは、14番目の寒川地区6社のひとつ「堤 八坂神社」の神輿。坂を上るのは6番目の「岡田 菅谷神社」の神輿。多くの人が砂浜に、神輿は寒川地区6社のひとつ「堤 八坂神社」で14番目だが。鳥居を潜るのは鶴嶺地区4社のひとつ「今宿 松尾大神」の神輿で10番目。海岸へ向かう神輿が競演。海岸へ向かう鶴嶺地区4社のひとつ「萩園 三島大神」で9番目の神輿。三島大神の神輿をズームアップ。鳥居を潜るのは鶴嶺地区4社のひとつ11番目の「中島 日枝神社」の神輿。鶴嶺地区4社の2社「松尾大神」、後方に「三島大神」の神輿が続いてくる。鳥居を潜ってからここまで時間が早く禊はしなかったようだ。丘の上には順番を待つ神輿が乱舞。禊に参加されたのか2名の神職さんが戻ってこられた。寒川地区6社のひとつ「倉見 倉見神社」の神輿。倉見神社は7番目の神輿である。寒川町にあるこの神社もまだ訪れていないのでこの秋に参拝予定。鶴嶺地区4社のひとつで10番目の「今宿 松尾神社」の神輿。松尾神社の神輿には女性の担ぎ手も多く参加していた。鶴嶺地区4社のひとつで9番目の「萩園 三島神社」の神輿。先導者に引かれる「三島神社」の神輿。鶴嶺地区4社のひとつ11番目の「中島 日枝神社」の神輿。まだ半数以上の神輿が丘の上に待機。次に来たのは寒川地区6社のひとつ「一之宮 八幡大神」で8番目だが遅れて来る。前方の坂を上るのは鶴嶺地区4社の「中島 日枝神社」の神輿。日枝神社の神輿の金具を叩くのは女性(右下)。丘の上では松林・小出地区9社のひとつ「菱沼 八王子神社」の神輿。出番は21番目である。砂浜から上って来るのは鶴嶺地区4社のひとつ「柳島 八幡宮」の神輿。八幡宮は12番目で子供御輿(手前)、大人御輿が参加している。鳥居の手前には松林・小出地区9社のひとつ「上赤羽根 八雲神社」の神輿で16番目。柳島 八幡宮の大人御輿が上って来る。8:15左側には八幡宮の子供御輿で子供達も担いでいた。 ー 続く ー
2023.08.08
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「浜降祭」主なスケジュール宮 出:神社毎に異なる (午前0時 ~ 3時30分)一之鳥居:午前4時30分 ~ 6時 (会場到着)駐 輿:午前6時50分 (整列)合同祭典:午前7時 ~ 7時50分発 輿:午前7時50分 ~ (各神社へ戻る)7月17日(月) 7:00場内のスピーカーから「祭典が始まりますのでロープ外へ出て下さい」と。西浜海岸の西側に寒川神社の神職が整列。ズームアップするが多くの人が、神職も十数人。神職参進 (写真は博物館のパネルから)。赤い傘が会場の中央に移動。右側に宮司が拝礼。式典が始まり神職が神輿の前に。紙垂で飾られた榊を持ちお祓い。神職をズームアップ。赤い傘の下には宮司。式典にはVIPが参列しているので警備体制も!白装束の神職が神輿の前に。もう少し高い場所or前から撮影したかったが。ズームアップすると神職が寒川神社の神輿に奉納。寒川神社の神輿に神饌の品。この神饌はお餅であろうか。寒川神社の神輿に奉納。これは野菜であろうか。いろんなものが供えられ、これはスイカ、りんご。寒川神社の神輿への最後の神饌。放送局か?上空にはヘリコプターも。神饌(しんせん)が各社に渡される (写真は博物館のパネルから)。神饌とは、御饌(みけ)とも言って、お祭りなどで神様に献上するお食事のことです。神様にお食事を差し上げておもてなしをして、そのお下がりを参列した人たちでいただく行為・「神人共食(しんじんきょうしょく)」が、日本の祭りの特徴であるとも言われています。7:12各社への神饌(しんせん)がはじまる。神職同士で引き渡し各社の神輿へ奉納。浜辺への竹の鳥居。7:18スピーカーから「参列者が玉串を奉納、奉納者の名前を読み上げる」。この先にVIPがおられるのか厳重な警護。7:25延々と玉串を奉納する人の名が読み上げられていた。群衆の中に暑い中マスクを着けた見かけた人が、何故か廻りを警備されていた。7:58玉串奉納もようやく終わり、警備員が動き出す。しかし、玉串奉納が30~40分と長かった。暑い中での式典の為一考を要するのでは。警備員の中に浜降祭の法被を着た河野太郎氏の顔が。ズームアップ。7:58式典も終わり、予定の時間に神輿のお発ち(発輿)がはじまる。既に知り合いは移動し他の場所へ。河野太郎氏も引き上げたので警備員もこの後引き上げる。数基の神輿が発輿し砂が舞い上がる。御輿近くの前に行けたようだが1時間以上立っていたので少々疲れる。各社の神輿が次から次とお発ち(発輿)。8:00各社の幟旗、神輿を見上げる。宮出・復路予定順番表に従ってまず鶴嶺八幡社4社の神輿が浜辺へ向かう。最初に「鶴嶺八幡宮」の神輿。浜辺への鳥居を潜る「鶴嶺八幡宮」の神輿。神輿はこの鳥居を潜って海岸へ進む。鶴嶺八幡社4社のひとつ「西久保 日吉神社」の神輿。2番目に潜るのは「矢畑 本社宮」の神輿で鶴嶺八幡社4社のひとつである。3番目に潜るのは「西久保 日吉神社」の神輿。富士が見えると最高だが。鶴嶺八幡社4社の「西久保 日吉神社」と4番目に潜る「円蔵 神明大神」の神輿。禊をせずに折り返してきた「鶴嶺八幡宮」の神輿。8:05鶴嶺八幡社4社の「鶴嶺八幡宮」の神輿の後方には、左から「日吉神社」「本社宮」「神明大神」。鶴嶺八幡社4社の神輿は神社から海岸まで担いで来る「渡御」である。禊は早朝に行ったようだ。 ー 続く ー
2023.08.07
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茅ヶ崎市の4大イベントの一つである「浜降祭」が海の日(7月17日)に開催された。昭和53年に神奈川県の無形民俗文化財に指定され、57年には『かながわのまつり50選』にも選ばれています。浜降祭のはじまり今から170年ほど前の天保9年(1838)、寒川神社の神輿が例年春に行われる国府祭(こうのまち)(大磯町国府本郷)に渡御した帰途、相模川の渡し場で寒川の氏子が争いを起こし、川に落ちて行方不明になってしまいました。その数日後、南湖の網元である孫七さんが漁の最中にこのご神体を発見し、寒川神社に届けたことを契機に、毎年同神社の神輿が、そのお礼のため南湖の浜に赴き、「禊(みそぎ)」をするようになったと言い伝えられています。一方、江戸時代後期に幕府がまとめた『新編相模国風土記稿』によると、鶴嶺八幡宮では、寒川神社のお礼参りよりずっと古い時代から、心身の罪や穢れを清める「みそぎ」の神事を行うため毎年、浜辺への渡御が行われていたとあります。このように両神社の伝承は、古くから語り継がれ、それが後世になって合体して定着し、その後明治9年(1876)にこれまで旧暦の6月29日に行われていた「みそぎ」神事を新暦の7月15日と定め、名称も”浜降祭”と呼ばれるようになりました。また、平成9年(1997)には、例祭日を7月20日に変更しましたが、祝日の改正に伴い平成16年からは7月海の日(第3月曜日)に例祭日が再度変更となりました。過日、茅ヶ崎市博物館へ出向き、「浜降祭」に関する資料を。以下は、博物館内のパネルから。海へのいのり多くの生命を育む海は、我々に限りない恩恵を与えてくれます。相模湾に面する茅ヶ崎の自然環境やくらしは、いつの時代も海と深くかかわってきました。人が活動を始めた頃から行われている漁は、大切なくらしの糧の一つでした。しかしながら、漁は不安定で、時に生命の危険を伴うものでもありました。茅ヶ崎では、人びとは海の恵みに感謝しつつ、時として脅威となる海に抗うのではなく、畏敬の念を抱き、共生する知恵や文化を培ってきました。写真は「浜降祭 ⑤神饌が各社に渡される」。浜降祭 南湖の浜に入場した神輿 (大正時代)。浜降祭 大正時代浜降祭 昭和50年代頃禊をする神輿。浜降祭 神輿道を練り歩く南湖三社の神輿(昭和30年代)。10基近い神輿が神輿道を練り歩いている。南湖 八雲神社の蛇飾り (じゃかざり)。茅ヶ崎の神輿道 (実線)。この地図はかつての神輿道で現在は違うようだ。海岸まで担がれる「渡御」の神社は34社の半数17社で、後1社が行き「渡御」復路「車輌」。御幣参り (ごへいまいり) ~ 南湖だけの浜降祭 ~地図には、(4)大神宮、(5)御霊神社、(2)金毘羅神社、(1)(9)八雲神社、(7)住吉神社。御幣参り ~ 南湖だけの浜降祭 ~金刀比羅神社を出る御幣参りの御幣宮(ごへいぐう)。早朝、海岸での浜降祭から戻り、八雲神社に納められている白木のお宮の形をした御幣宮(重さ約50㎏)を担いで、決められたルートを巡り祭事を行います。5つの町内から総勢20名ほどが八雲神社に集合し、烏帽子、水干(すいかん)の白装束を着て、御幣宮、太鼓、長持などを担ぎ、南湖を一巡します。御幣参り ~ 南湖だけの浜降祭 ~御幣参り ~ 南湖だけの浜降祭 ~御幣参り ~ 南湖だけの浜降祭 ~7月17日(月) 6:10昨夜は旅友の誕生日会で遅くまで飲んだが6時過ぎに起床。右足の状態が心配であったが朝から暑い中愛車のリンちゃんで海岸へ。波が穏やかな茅ヶ崎ヘッドランド。沖には烏帽子岩。サザンビーチの海の家「夏俱楽部」ここの経営者はサザンの桑田佳祐と小中学の同級生であると。サザンが7月に発表した『盆ギリ恋歌』に、「サザンビーチでナンパするならヨシオんとこ(夏俱楽部)でshow!!」と歌われているのが、海の家「夏俱楽部」だ (タウンニュース) から。海の家の前には「菱沼 八王子神社」の看板。日陰で休む担ぎ手。サザンビーチちがさき入口の右側のテントには「本村氏子 八坂会」と。歩くのが辛いのでできるだけ会場近くへ自転車で移動。茅ヶ崎漁港駐車場には「浜降祭広報車」が駐車。駐車場へは交通規制がされているので浜降祭関係者の車であろう。浜降祭参加神社名。茅ヶ崎海岸浜降祭 宮出・復路予定順番神輿が神社を出発する「宮出」は市内では早ければ午前1時から始まり、合同式典は茅ヶ崎西浜海岸で7時から実施される。式典終了後の8時ごろから御輿が一斉に海へと向かう「お発ち」(初輿)が行われ、9時に終了。神輿がみそぎをするのは入場時と式典後の帰路につく前の2回行われる。茅ヶ崎西浜海岸には各神社の幟旗が立っていた。多くの露天商も出店。坂の上は国道134号の西浜小学校入口交差点。同交差点から北側が神輿道の南湖通り。神輿には「下町 住吉神社」の札。住吉神社は海岸から一番近い神社で最後に入ったようだ。茅ヶ崎西浜海岸に作られた竹の鳥居。茅ヶ崎西浜海岸には多くの露天商が出店いい匂いが漂っていた。既にそれぞれの幟旗の前に神輿は鎮座していた。各神輿の前には自由に行けたようだが、足が不自由なため撮影ポイントを探す。6:35警備員が通路を確保していたらその後を国会議員の河野太郎氏がいつものスタイルで登場。少し高い場所を探し、西浜海岸にはまだ数基の神輿が担がれていた。右側の神輿札には「柳島 八幡宮」。多くの人が神輿の傍に。既に鎮座している神輿が並ぶ。柳島 八幡宮の神輿をズームアップ。この日の為に神輿の担ぎ方を練習しているようだ。まだ数台の神輿が担がれ西浜海岸の広場を乱舞。天気が良いとこの方向に富士が見えるのだが、この日は気温が高く霞がかかる。左に「柳島 八幡宮」右側に「下町 住吉神社」の神輿。二社の神輿をズームアップ。担がれて左右に移動。34社の神輿が並ぶ。幟旗が竹に絡みつき見えないのが残念である。右側に「柳島 八幡宮」の神輿も鎮座。6:55各社の神輿が所定の場所に鎮座、いよいよ式典に。 ー 続く ー
2023.08.06
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約束の18時近くになり旅友の誕生日会がある会場へ向かう。7月16日(日) 17:40鉄砲道を走り東方向へ進む。道路上には「祝 浜降祭 中海岸神社」の横断幕。中海岸神社所在地:神奈川県茅ヶ崎市中海岸4丁目1鉄砲道を進むと道路脇に「奉納 中海岸神社」と書かれた2本の幟が立っていた。ここの神社は「茅ヶ崎地区6社」のうちのひとつで、神輿は海岸まで担いでいく「渡御」である。幟の下には「中海岸神社」に社号標石。狭い境内に大人御輿と子供御輿。由 緒御祭神 天照皇太神 寒川大明神天照皇太神 明治四十年南湖松田好生氏別荘飛地に鎮座 昭和二十五年小島栄三郎氏が継承昭和三十四年中海岸自治会の願いによりこの地に変遷寒川大明神 初代自治会長望月菊太郎らによる勧請昭和三十七年十月二十ニ日御神殿に合妃奉る。 以上行 事一、元旦祭 元旦一、氏子祭 六月一、濱降祭 七月一、例大祭 十月一、七五三 十一月 平成十六年十月 中海岸神社 総代狭い境内には地域の人が集まり賑わっていた。ここの神輿の宮出は海岸に近いので4時で、大人御輿、子供御輿ともに担いで浜降祭へ参加する。八大龍王神所在地:神奈川県茅ヶ崎市中海岸2丁目8-30中海岸神社から鉄砲道を進み中海岸二丁目交差点からサザン通りを南下。ここの神社はどこにあるのか「茅ヶ崎地区6社」のうちのひとつである。奥の倉庫に神輿が置かれているのだがこの日はどこへ?。17:50八大龍王神からサザン通りを北上、サザン通り商店街を左折すると「茅ヶ崎サザン神社」へ。茅ヶ崎サザン神社所在地:神奈川県茅ヶ崎市共恵1丁目11-14商店街の事務所だった場所を、平成20年(2008)茅ヶ崎サザンビーチで結成30周年を記念したサザンオールスターズのライブにあわせ、神社へと姿を変えました。今では茅ヶ崎を代表する観光名所のひとつになっていると。入口には「サザン神社」と書かれた扁額もある。タウンニュース茅ヶ崎版(2023年6月30日(金)号より。サザンオールスターズ10年ぶり茅ヶ崎ライブサザンオールスターズのリーダー桑田佳祐さんが6月24日深夜、ラジオで茅ヶ崎でのライブ開催を発表した。桑田さんが自らのラジオで9月27日(水)、28日(木)、30日(土)、10月1日(日)の4日間、茅ヶ崎公園野球場でライブを開催することを発表。中に入ると壁面に神社の写真。この神社のパネルは、JR東海道本線の北側にある厳島神社である。様々な「御祈祷メニュー」があるがどこの神社で祈祷するのか?。茅ヶ崎といえばサザンオールスターズ。桑田さんの生まれ育った地でもあります。そのため、サザン通り商店街の中にあるこの神社は、全国各地からサザンファンが訪れる聖地となっており、寄せ書きなども出来る。右側の壁面には「サザンオールスターズ 感謝!」。左側には「桑田さん ありがとね ❤ 」。茶商 小林園所在地:神奈川県茅ヶ崎市共恵2丁目1-40茅ヶ崎サザン神社前からサザン商店街の東方向を望む。小林園でサザン神社の御朱印がもらえる。小林園では店主がいろいろと説明してくれるようだ。ライブ発表のあった翌日(25日)には多くの人の来場があったと。17:55嚴島神社 (いつくしまじんじゃ)所在地:神奈川県茅ヶ崎市新栄町2-14サザン通りからJR東海道本線を茅ヶ崎ツインウェイヴを潜り抜け出ると正面に鳥居。ここも「茅ヶ崎地区6社」の神社のうちのひとつである。また神輿は海岸まで担いでいく「渡御」である。由 緒御祭神 市杵島姫命 ( いちきしまひめのみこと ) 田心姫命 ( たごりひめのみこと ) 湍津姫命 ( たぎつひめのみこと ) 記紀に示すが如く天照大神の御子神にましまし、天孫降臨に先立ち「天孫を助け奉りて天孫 にいつかれよ」との神勅を奉じて 北九州と朝鮮半島を結ぶ海上要路の福岡県宗像に奉鎮さ れ 別の名を「道主貴」(ミチヌシノムチ)「宗像三柱神」と称し、皇室守護・国家鎮護・国 民道の祖神として朝野を上げて厚い尊崇を受けました。 安芸の宮島嚴島神社を始めとして 全国六千余の神社にて奉斎されております。御神徳 皇室守護・国家鎮護はもとより海外国内の交通安全守護 家運隆昌 商売繁盛 音楽芸能の 神として 神威が迎がれております。御祭儀 一月一日 歳旦祭 七月海の日 浜降祭 十四日 どんど祭 十一月 七五三詣 五月五日 例大祭 十二月大晦日 大 祓 六月晦日 大 祓 除夜祭 毎月五日 月次祭諸祭儀 初宮詣を始め商売繁盛 諸祈願の社頭祈願祭、地鎮祭を始め出張諸祭については、ご予約下 さればご奉仕致します。 お問い合わせは 0467-82-2384(宮司本務社)まで 嚴島神社社務所 鳥居の扁額には「嚴島神社 宗像大社 宮司神島定数 書」と。社号標石には「嚴島神社」。鳥居を潜ると右側に社務所、神楽殿があり神輿が置かれていた。台車に置かれた神輿。神輿の札には「新町 嚴島神社」と。神輿殿の中には子供御輿。社務所前から手水舎、奥に嚴島神社の拝殿。嚴島神社の拝殿。この光景は先程のサザン神社のパネル写真である。拝殿の扁額「嚴島神社」。拝殿前から狛犬、社務所、神楽殿。大人御輿をズームアップ。この後、約束の時間になり会場がある円蔵へ急いで茅ヶ崎駅の北方向へ向かう。18:05焼肉 あっこちゃんち所在地:神奈川県茅ヶ崎市円蔵2437-14旅友のマドンナが経営している焼肉屋さんで店名は旦那さんの名前からだと。故旦那さんは桑田佳祐さんと親戚関係とのことで、「ライブのチケットは入手可能?」と聞くが「無理です」と。誕生日会は東京からの旅友とあわせ3人で。湘南ゴールドの酎ハイを4、5杯頂く、飲み過ぎたか!。最後の仕上げは冷麵をシェアー。21:40最後にケーキを頂く。ローソクは大?本、小?本と本数が多い。東京からの旅友は0時半に無事着いたと。右ふくらはぎの状態もあるが明朝は茅ヶ崎の西浜海岸へ浜降祭を見に行くことに。旅友は6時前から電車で来ると。 END
2023.08.04
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夕刻18時からの旅友の誕生日会も押し迫り茅ヶ崎の西地区から東へ進み、南湖地区の神社へ。猛暑の中愛車のリンちゃんで移動、途中コンビニで糖分(アイスクリーム)を補給。7月16日(日) 17:20御霊神社 (ごりょうじんじゃ)所在地:神奈川県茅ヶ崎市南湖2丁目9-10ここの神社は南湖地区5社のひとつで神輿は海岸まで担いでいく「渡御」である。南湖地区5社は他に南湖上町の「金刀比羅神社」、南湖中町の「八雲神社」、茶屋町の「茶屋町大神宮」、南湖下町の「住吉神社」があり海岸に近いので全ての神輿が「渡御」である。参道はいつものように提灯で飾られていた。御霊神社の前には、子供御輿と大人御輿。神輿殿はどこにあるのか?。御霊神社の由緒御祭神 鎌倉権五郎平景政御祭神 九郎半官 源義経御霊信仰とは、厄災の発生や非業の死を遂げた人の怨霊を鎮めて、人々の平穏と繁栄を実現しようとする信仰である。御霊神社の創建年代は不詳であるが、古くより御霊山西運寺の領有地に毘沙門堂があったが、その後幾多の変遷を経て現御霊神社になったものである。言い伝えによれば、治承年間(1177~1182年)にこの地方一帯を治めていた懐島権守平景能が此の毘沙門堂に鎌倉権五郎景政の霊を祀った。建久九年(1198)鎌倉幕府初代将軍源頼朝一行が、相模川の橋供養の帰路、非業の死を遂げた弟の源義経の亡霊が現れ、驚きの余り落馬しそれが原因で翌年死去したとされている。里人たちはその怨霊を鎮めるため、源義経の霊を此の毘沙門堂に合祀したとも伝えられている。後年永く信仰の場になっていた当神社も、明治初年の神仏分離に際し御霊山西運寺より独立し現在に至っている。現社屋は昭和四年再建したものである。御霊神社の子供御輿は海岸へは行かない。社殿の東側(右)に社務所があり「祭事務所」の看板。神輿の札には「鳥井戸 御霊神社」と。社殿前から境内を見る。拝殿の扁額「御霊神社」。内陣を見る。神輿の宮出は早朝3時半でこの参道を進む。金刀比羅神社所在地:神奈川県茅ヶ崎市南湖3丁目4-40御霊神社の東側にある南湖通り沿いにある南湖地区5社の神社である。境内には「祝 浜降祭 金刀比羅神社」の横断幕。鳥居には「蛇飾り (じゃかざり、龍飾門)」。当社の神輿は明治四十四年(1911)、芹沢腰掛神社から譲り受けたもので、南湖地区で初めて浜降祭に神輿を担いで参加したという。その後御輿は新調されている。境内には、茅ヶ崎市消防団第4分団、上町自治会館が建っておりこの日は1階が解放されていた。ここの神輿は海岸まで担いでいく「渡御」である。茅ヶ崎市消防団第4分団の中には子供御輿が飾られていた。ここの神輿は海岸まで担がられ浜降祭に参加する。壁には消防団員用の衣類が掛けられていた。拝殿の扁額「金刀比羅社」。拝殿の前には背の高いテントが建てられていた。暑い中での作業になるので日除けなのであろうか。神輿の横のトラックには「上町祭囃子保存会」と書かれた提灯。トラックの荷台には太鼓が置かれていた。神輿が地域を巡行する際、子供達が祭囃子で盛り上げる。神輿の札には「南湖上町 金刀比羅神社」と。金刀比羅神社から南湖通りを南下。頭上に「祝 浜降祭 八雲神社」の横断幕。横断幕をズームアップ。南湖通りを振り返える(北方向)。この先数百メートルに、金刀比羅神社がある。参道入口左側に「八雲神社参道」と刻まれた社号標石が建つ。南湖通りから東方向に八雲神社参道。参道には足長爺さんの影が伸びる。八雲神社所在地:神奈川県茅ヶ崎市南湖4丁目4-29ここの神輿は、寒川町の大曲神社(十二神社)が、明治末年の神社合祀の際、単独で神社を存続させる財源確保のため、180円で茅ヶ崎の八雲神社へ売却したといわれている。鳥居に蛇飾り (じゃかざり、龍飾門)浜降祭の折、南湖の特定の場所に青竹の鳥居(地元では門という)をたて、神輿は必ずこの鳥居をくぐって入退場しています。この青竹の門には藁でつくった蛇(龍ともいう)を這わせます。 神輿がこの門をくぐる時、海の神様「八大龍王」の御神霊が乗りうつり、浜で禊(みそぎ)をするときに荒波から守るとされている。鳥居を潜ると社殿前に神輿が鎮座していた。右側の神輿殿も解放。大人御輿はテントの下に鎮座、照明灯も。担ぎ棒は漆塗り。神輿の札は「中町 八雲神社」と。大人御輿の右側に子供御輿。子供御輿の右側には「御幣参り(ごへいまいり)の神輿」。拝殿前に3基の神輿。この神輿は「御幣参り(ごへいまいり)」で使用される御輿。西浜海岸に集った各地区の神輿は浜降祭を終えた後、それぞれの地区に戻り、町内渡御などが行われますが、南湖地区には旧くから受け継がれた南湖だけの浜降祭「御幣参り」があります。江戸時代中期元禄の頃から始まったと伝えられています。早朝、海岸での浜降祭から戻り、八雲神社に納められている白木のお宮の形をした御幣宮(ごへいぐう、重さ約50㎏)を担いで、決められたルートを巡り祭事を行います。5つの町内から総勢20名ほどが八雲神社に集合し、烏帽子、水干(すいかん)の白装束を着て、御幣宮、太鼓、長持などを担ぎ、南湖を一巡します。渡御のルートは御幣参りの由来に関係した場所をもとに決められているといわれている。御幣参り神輿の手前には長持。拝殿には鈴、祭りの提灯。拝殿の扁額「八雲大神」。時間も遅くなり日影が伸びる。17:35この後、西浜海岸にある浜降祭の会場へ行く予定であったが、誕生日会の18時近くなったのでここで引き返すことに。 ー 続く ー
2023.08.03
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三島大神から萩園通りを南下して「松尾大神」へ。7月16日(日) 16:40松尾大神(まつおおおかみ)所在地:神奈川県茅ヶ崎市今宿586国道1号の今宿交差点から萩園通りを北上して直ぐにある神社である。ここの神社は鶴嶺地区4社のひとつで神輿は海岸まで担いでいく「渡御」である。ご祭神は、大山咋命(おおやまくいのみこと)、総本社は松尾大社(京都市西京区)である。境内は祭りの提灯で飾られていた。鳥居の扁額「松尾大神」。参道左側に、手水舎、鐘楼があるのだがその前に奉賛者の芳名板。社殿前には幟旗が立つ。拝殿の扁額「松尾社」。拝殿前にはテントが建ち神輿が置かれていた。明日の浜降祭の為の「神輿担ぎ練習会」が行われているようだ。大人御輿の右側に子供御輿も飾られていた。ここの子供御輿も地域内巡行のみ。拝殿前に3基の神輿が並んでいた。この神輿は「御幣参り(ごへいまいり)」で使用される御輿。西浜海岸に集った各地区の神輿は浜降祭を終えた後、それぞれの地区に戻り、町内渡御などが行われますが、南湖地区には旧くから受け継がれた南湖だけの浜降祭「御幣参り」があります。江戸時代中期元禄の頃から始まったと伝えられています。早朝、海岸での浜降祭から戻り、八雲神社に納められている白木のお宮の形をした御幣宮(ごへいぐう、重さ約50㎏)を担いで、決められたルートを巡り祭事を行います。5つの町内から総勢20名ほどが八雲神社に集合し、烏帽子、水干(すいかん)の白装束を着て、御幣宮、太鼓、長持などを担ぎ、南湖を一巡します。渡御のルートは御幣参りの由来に関係した場所をもとに決められているといわれています。 ここ松尾神社は鶴嶺地区だが・・・。拝殿前に鎮座している神輿。社殿の裏に建つ神輿殿。社殿前から南方向を見る。ここの神輿はこの鳥居を潜り海岸まで担いでいく「渡御」である。萩園通りからの松尾神社。この後茅ヶ崎の南地区へ移動、海岸へ行きたかったが。16:50下町屋 神明神社所在地:神奈川県茅ヶ崎市下町屋1丁目6-19国道1号(旧東海道)沿いにある神明神社。境内には奉賛者の芳名板が立っていた。神明大神祭 神 天照大神 大山咋命例祭日 十月一日由緒沿革往古、相模国高座郡は十三郷一駅からなりたつ、その内茅ヶ崎地域は、大庭 渭堤 河會の三郷なり、当下町屋は河會郷に属す。当地の古老が伝えるところによると、神明大神の境内には平安時代の陰陽師、安部晴明 (921〜1005) が東国へ下行のおり喉の渇きを癒した清水が湧き出ていた、名付けて「清明井戸」と称す。亦、当境内より西約二百米には、国指定史跡相模川橋脚あり、これは鎌倉幕府の有力御家人、稲毛三郎重成が亡妻供養の為相模川に建久九年(1198)架橋したもので大正十二年(1923)九月一日関東大震災のおり出土したものである。さらに、同時代鎌倉権五郎景政の曾孫、大庭平太景能この地に住み懐嶋権守景能と号す。この頃より開発が進み小集落が形成され、順次村落が形づくられたと推測される。景能の死後息子の景廉は、和田の乱 建保元年(1213)和田方に味方し討死、戦い後 新規の地頭に山城四朗兵衛尉(二階堂元行)が所領す。康正年間(1455)は建長寺、西来庵領たりこの頃 大神宮を勧請したものと考えられる。大神宮は寛正年間(1460~1466)創立と伝えられるが 詳らかでない。北条氏分国の頃は伊勢八郎知行す役帳曰く八郎殿百貫文徳川家康 江戸入城後、当地は幕領と旗本領となり、馬場儀兵衛が采地なり。亦、加々爪氏知行目録によれば、古彼家の知行なり、土佐守直清の時天和元年(1681)家絶たり、寛文六年(1666)成瀬五左衛門重治検地す、村高一四八石八斗二升四合、戸数三十八戸。東海道往還の人々は当地に宿泊し、当地も繁栄を極めていた、当大神に対する崇拝の念を抱いたと伝えられている。「風土記」には、神明宮、山王社、以上二社共村の鎮守、柳島善福寺持。「高座郡神社界誌」には天照大神、大山咋命、由緒不詳 明治元年(1868)村社に列す。境内坪数 一一七坪 氏子四七戸神明大神 山王大神 明治四十五年 合併合祀。 氏子中この神社は浜降祭へは参加していない。境内入口に「清明井戸」と刻まれた石碑がある。裏面には、当地の古老が伝えるところによると、神明大神の境内には平安時代の陰陽師、安部晴明(921〜1005) が東国へ下行のおり喉の渇きを癒した清水が湧き出ていた、名付けて「清明井戸」と称す。 平成二十三年十月吉日石碑には由来が刻まれているが塀際に建てられているので折角の説明も見ずらい。17:00柳島八幡宮所在地:神奈川県茅ケ崎市柳島2丁目3-10国道1号沿いの下町屋神明神社から南下、JR東海道本線を渡り柳島地区へ。ここの神社も鶴嶺地区4社のひとつで神輿は海岸まで担いでいく「渡御」である。鳥居の前にはいろんな絵が飾られていた。石鳥居の扁額「八幡宮」。鳥居の西側も夜を彩る角提灯で飾られていた。ズームアップ。柳島八幡宮の境内には、関東大震災で「折れた鳥居」。左側の石柱には「文政五年」と刻まれている。文政五年は、今から200年前の1822年である。折れた鳥居この折れた鳥居は、大正十二年九月一日(1923年)の関東大震災の被害の状況を示すものです。当時の柳島地区は世帯数161戸、ほとんどの家が倒壊し、残ったのは3戸だけでした。地震の大きさを後世の人々に伝えようと残してあります。折れてはいますが、江戸時代の年号が刻まれている茅ヶ崎市内では数少ない貴重なものの一つです。 平成三十年三月吉日 柳島八幡宮境内には大人御輿と子供御輿が鎮座していたが、子供御輿も海岸へと担がれる。左奥には「神輿殿」が建っている。近所の方も記念撮影に。拝殿前から、左に鐘楼。神輿の札にはそれぞれ「柳島 八幡宮」と。柳島八幡宮現在の祭神は誉田別尊(ほんだわけのみこと)(応神天王)である。● 文政五年(1822) 鳥居が造られる。(鳥居の年銘による)● 天保十二年(1841年) 『新編相模国風土記稿』に「十羅刹女社(じゅうらせつにょしゃ) 鎮守なり」とある。 (十羅刹女社とは、鬼子母神と共に法華経の信仰者を擁護する十人の鬼神女のこと)● 嘉永元年(1848年) 柳島の鎮守の社殿建築を、鎌倉郡村岡郷高谷村(現在の藤沢市内)の大工文蔵が総工費29両 で受け、同年十一月十五日に竣工する。(藤間家資料による)● 大正十二年(1923年)九月一日 関東大震災のため鳥居を含め全壊する。● 大正十五年(1926年) 当時の区長の片野荘太郎は神社総代と図り、村民の総意を得て全社殿と鳥居の再建を決め る。大工は地元の石井金寿、宮大工は愛甲郡愛川町半原の矢内匠家に依頼し、倒壊前の姿 に竣工する。● 昭和二十年(1945年)七月十六日 太平洋戦争の平塚空襲の際に、全焼する。● 昭和二十四年(1949年) 千葉県行徳(現在の市川市内)の神輿・堂宮師の後藤直光により、神輿を新調する。● 昭和三十二年(1957年)十一月二十三日 氏子をはじめ多くの方々から寄付を得て、社殿を建立する。 大工は石井幸三郎・府川篤、木彫師は江口裕康。● 昭和五十年(1975年)五月四日 本殿を再建する。大工は石井幸三郎・府川篤、鳶職は山口道雄。現在に至る。 平成三十年三月吉日 柳島八幡宮拝殿の扁額「八幡宮」。開放されていた内陣を見る。拝殿前から2基の神輿を。右奥には多くの名が書かれた奉賛者の芳名が貼りだされていた。17:05鶴嶺地区4社にはもう一つ中島地区に「日枝神社」があるが茅ヶ崎の最西部のため今回スルー。時間がないので急いで参拝を終え、次の南湖地区の神社へと向かった。 ー 続く ー
2023.08.02
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本社宮から鶴嶺八幡社4社のひとつである「鶴嶺八幡社」へ向かう。7月16日(日) 16:05高野山真言宗 長善寺所在地:神奈川県茅ヶ崎市矢畑150本社宮の南側にあるお寺である。境内では暑い中庭師が刈込を行っていた。山門には「隣海山 長善寺」。16:10鶴嶺通り沿いにある鶴嶺八幡宮の太鼓橋。参道入口には「祝 浜降祭 鶴嶺八幡宮」の横断幕。鶴嶺八幡宮所在地:神奈川県茅ケ崎市浜之郷462神社名は「鶴嶺八幡社」で鶴嶺八幡社4社のうちの神輿で海岸まで担いでいく「渡御」である。境内には「淡嶋神社」「鉾宮神社」がある。境内には樹高29メートルのイチョウが聳える。石碑には「神奈川県指定 天然記念物 鶴嶺八幡宮大銀杏」鶴嶺八幡のイチョウ 和名:イチョウ(イチョウ科) 県指定天然記念物 昭和37年10月2日指定多数の側枝が叢成し、その数本がゆ着して成長し幹を形づくっていると言われ、ゆ着したと思われる部分が縦の線となって認められる珍しい巨木である。昭和59年12月には「かながわの名木100選」に選定されている。樹高:29メートル、胸高周囲:9.0メートル、樹齢:約1000年(伝承)境内の東側にある神楽殿。神楽殿は開放され、右側には奉賛者芳名の掲示板が準備されていた。神楽殿にあった、葛飾北斎の富嶽三十六景の「神奈川沖波裏」の模写。手水舎の後方に聳えるイチョウの木。一段高いところにある社殿の前にテントが張られその下に神輿が置かれていた。担ぎ棒は漆塗り。まだ榊は供えられていなかった。拝殿前から見下ろす。神輿にはまだ神社名の名札がなかった。神輿には「鶴嶺八幡宮」の提灯。社殿左側より。鶴嶺八幡宮御祭神 應神天皇・仁徳天皇・佐塚大神・菅原道真(鶴嶺天満宮合祀)鎮座地 神奈川県茅ケ崎市浜之郷462番地 (電話0467-82-6725)例祭日 九月一五日御由緒相模国茅ヶ崎の総社として往古より八幡信仰の本地として名高い。康平年間(1058~1065)源頼義が東征の際、石清水八幡宮にならい、本郡懐島郷矢畑村本社に一社を創立し、後に源家が現地に奉還したと云う。更に治承年間(1177~1181)に源頼朝が鎌倉由比郷に遷したが、その旧社は存続し本社八幡と称したものと伝えられている。源氏代々が篤く崇敬し、源頼朝は治承年間に懐島の地若干を寄進し、また建久年間(1190~1199)に肥後国有為の庄七百貫を寄せ、懐島権守平景能をして社殿の修復を命じた。弘安四年(1281)には蒙古軍退散を祈り、その後、永禄・元亀年間(1558~1573)に兵火に罹り堂宇・古記録等を焼失した。古くは、本社の別当に十二坊があったが各々村々に離散し廃坊となった。正保年間(1644~1648)別当常光院の住僧朝恵は山岡氏と相計り社殿を再建した。また参道を整備し松を植えた。慶安二年(1649)八月には徳川家光が本村の地七石の朱印地を寄進した。明治維新の神仏分離に際し、別当常光院が復飾して祠掌となる。明治六年村社に、昭和九年九月六日に郷社に列格。 相模川の舟渡し行けば大いなる原あり、砥上ケ原とぞ。 この原のあたりに見えたる神社あり、問えば八幡勧請の一とぞ。 「花の梢一木一木に神さびたり をる人や砥上ケ原の八幡山神のもるてふ花の盛りは。」 東国紀行(天文十三年・一五四四)室町時代より鶴嶺八幡宮前から南方向の参道を見る。境内出口には竹で作られた鳥居が建っていた。神輿は担がれて浜へ向かうが・・・。16:25鶴嶺八幡宮から西へ向かい、萩園通り沿いにある「三島大神」へ。萩園通りの三島大神前交差点。道路標識には「萩園通り」。玉垣の上には祭の提灯が飾られていた。萩園通り沿いには「欅」が聳える。三島大神の北側に駐車場があり駐輪。手前の白い建物は「神輿殿」。境内には多くの人がおられた。萩園通りの北方向を見る。寒川神社への道であるが、寒川地区6社の神輿は「車輌」で浜へ。三島大神所在地:神奈川県茅ヶ崎市萩園1719萩園通りから境内へ入る。鳥居は補強されているのか。朱色の鳥居の扁額は「三島宮」。鳥居を潜ると右から鐘楼、神輿殿、社殿、神楽殿。神楽殿が解放され子供神輿と大人御輿が鎮座していた。既に準備万端の大人御輿。神輿の札には「萩園 三島大神」。白帯、紙垂、榊、提灯「三島大神」で飾り付け。こちらは子供御輿。ここの子供御輿も海岸へは行かない。三島大神も飾られ提灯は点灯。再度神楽殿の大人御輿を。明日の出番は地域内巡行の子供御輿。ここの神社は鶴嶺地区4社のひとつの神輿で海岸までは「車輌」で運ばれる。三島大神の社殿東側に建つ神輿殿。16:30三島大神を後にし萩園通りを南下、次の「松尾大神」へ向かう。 ー 続く ー
2023.08.01
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西久保日吉神社から同じ「鶴嶺八幡社4社」の円蔵神明大神宮へ向かう。7月16日(日) 15:45茅ヶ崎中央通り(県道45号線)を南下、神明大神宮入口交差点。この交差点を左折して神社へ。神明大神宮参道入口。参道入り口には「祝 浜降祭 懐嶋郷圓蔵鎮座神明大神宮」の横断幕。 紙垂で飾られた石碑には、「懐嶋平権守景能入道創建 神明大神宮道」と。円蔵神明大神宮所在地:神奈川県茅ヶ崎市円蔵2290当神社の詳細はアップ済のブログ「茅ヶ崎の寺社史蹟巡り」👈 をクリック願います。境内には関係者が多数集まっていた。社殿前には飾り付けられた神輿。ズームアップ。境内には円蔵自治会館。神輿は社殿に向かって置かれていた。神輿殿の中には子供御輿が置かれていた。ここの子供御輿も海岸へは行かない。ここの神輿も鶴嶺八幡社4社のひとつで海岸まで担いでいく「渡御」である。紙垂で飾られた榊。夜の式典を待つだけに。ここも嵩上げられた石鳥居。圓蔵祭囃子の車両には子供達が乗り笛太鼓で地域内を巡行する。境内に聳える三本のイチョウの樹である。圓蔵祭囃子の車両には「圓蔵祭囃子保存會」と。了覚院所在地:神奈川県茅ヶ崎市円蔵2170神明大神宮の東に位置する了覚院へ立ち寄る。了覚院の右後方の赤い屋根は「円蔵祇園社」。太田氏一族及歴代僧侶之墓と小さな了覚院。社殿の扁額「了覚院」。墓石、石塔が並ぶ。石碑には、高野山真言宗 輪光寺末寺 了覚院 御本尊 阿弥陀如来 江戸時代の円蔵村地頭知行高二百三十石 (総知行高は二千二百六十石) 太田善太夫 吉次が菩提の為に元和五年(1619)に創建。 吉次は法名を了覚院と云。延宝八年(1680)没。太田氏一族及歴代僧侶之墓右側が「太田善太夫吉次之墓」。新しい説明板が設置されていた。円蔵の伝承話 (通称) (オチョ・バンバの石碑) オチョ・バンバ(お千代・婆ば)又は、オコリ・バンバ(虎狼痢・阿波)辻町の大橋精機製作所の裏に小さな無縁供養塔があります。江戸時代、関東に虎狼痢(コロリ、現コレラ)と言う疫病が流行りました。1824年(文化7年)参勤交代で江戸に来ていた、松平隠岐守が役目を終えて江戸から帰路の道中、東海道の小田原宿に差し掛かる頃から次々とお供の侍達がこの病に罹り、吐瀉する者や十数人が死亡する大事件が起きました。渦中、苦悩している重臣にお供の一人から、道中の噂話で聞いた相模国円蔵村に住むお婆(老婆)が、信仰している奈良の三輪大明神の神札、阿波(アンバ)さまにお願いして、この虎狼痢(コロリ)に罹った者を治したそうだと聞き、早速お婆が小田原陣屋に呼ばれて数日間祈祷した結果、病も薄れそして全快したので、喜んだ殿様から大層なるお褒めの言葉と、ご褒美を頂いたそうです。その後、一行は無事道中下りをしたと伝えられています。そのお婆は亡くなり家督も没落したので、土地に縁の合った屋号麹屋の六代目 高橋文右衛門が不憫に思い秀信女菩薩(すぐれた仏のような女性)として、お墓を建てたと言われています。※先に祀られてあった場所 円蔵278番地が造成の為、2019年5月24日了覚院に移す。石碑は確認できなかった。Googleマップに載っている「無縁塔(オチョバンバの慰霊碑)」。以前から訪れているが新興住宅地になっており案内板もなくその所在が分からなかったのだ。了覚院の近くの真言宗輪光寺境内にハスを植えた水鉢があったので立ち寄る。残念ながらハスの花は見頃を過ぎていた。境内には二宮金次郎像。茅ヶ崎中央通り(県道45号線)に戻り、今夜18時からの誕生日会会場。茅ヶ崎中央通り(県道45号線)の円蔵交差点から梅田通りを南下、矢畑交差点。この交差点を右折して住宅街を抜ける。本社宮(懐島八幡宮)所在地:神奈川県茅ヶ崎市矢畑142本社宮は、1030年(長元6年)、平忠常の乱を鎮圧するため東征した源頼義が懐島郷矢畑村に京都の石清水八幡宮を勧請して懐島八幡宮を創建し、戦勝祈願を行ったことに始まる。石鳥居の扁額「本社宮」。境内には「矢畑 太鼓保存会」のトラック。右側には浜降祭の奉賛金者の御芳名が貼りだされていた。社殿の左側に神輿殿があり神輿が出されていた。本社宮の由緒由来長元三年(1030)源頼義は勅命により東征(下総の乱)の途次、当村の南、鎌倉街道に接した佐塚大明神の丘に、源家の守護神石清水八幡宮(誉田別命)を勧請、関東での守護神として懐島八幡宮を創建、戦勝を祈願した。天喜三年(1055)鎮守府将軍頼義は、長子八幡太郎義家(十三才)と安部一族の乱(前九年の役)に向かう途次、再度懐島八幡宮に戦勝を祈願し、乱を平定したのを機会に神恩に報いて康平六年(1063)懐島八幡宮を鎌倉に勧請、鶴岡八幡宮を創建した(乱橋の元八幡)。応徳三年(1085) 鎮守府将軍義家は、清原一族の乱(後三年の役)に懐島八幡宮に重ねて戦勝を祈願し、寛治元年(1087)平定した。寛治三年(1089) 義家は度重なる神恩に感謝の意をこめて、広大なる神域を隣村浜之郷に設け、鶴嶺八幡宮を創建し、以来太子免の懐島八幡宮は、本社宮と改称され、当村の鎮守となり、霊験灼(あらた)かなる神として崇敬されて来た。殊に享保二年(1717)よりの祭典は氏子総出で、超大幟を立てるなど盛大に行なわれて来たが、天保年間に現在地の南隣りに遷座して参拝と管理を便にし、昭和二年(1927)現在地に再遷座したものである。 昭和五十三年三月 本社宮 神社総代社殿を見る。本社宮の内陣を見る。内陣に扁額「本社宮」。神輿殿の前には仮設のテントが張られていた。神輿には「矢畑 本社宮」。神輿の前にはお供え物。矢畑 太鼓保存会のトラックには子供達が乗っていた。地域内を巡行するのであろう。16:05ここの神輿も鶴嶺八幡社4社のひとつで海岸まで担いでいく「渡御」である。右側には矢畑自治会館が建つ。 ー 続く ー
2023.07.31
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今夕18時から旅友の誕生日会があるのでそれまで茅ヶ崎の西地区の神社を訪れることに。猛暑の中、再度愛車のリンちゃんで出かけた。7月16日(日) 15:10高田ニュータウン入口交差点。自宅を15時に出発、国道1号の本村交差点から北上。途中サルスベリが綺麗に咲いていた。JR相模線の香川駅へ向かい「諏訪神社」の案内板。諏訪神社の下へ到着。香川 諏訪神社所在地:神奈川県茅ヶ崎市香川2丁目24-54ここの神社は松林・小出地区9社のひとつで神輿は海岸まで「車輌」で移動。由 緒一 創 建 推定 平安朝時代一 社 號 相模國大庭庄香河村総鎮守 諏訪大明神(後神社)一 祭 神 建御名方神(大國主神) 八坂刀女神(○○○○〇)一 例祭日 一月一日 元旦祭 二月十七日 祈年祭 七月二十七日 大 祭 八月十四日 夏越祭 十一月十五日 七五三祝 十ー月二十三日 勤労感謝祭 十二月三十日 大 祓階段を上り鳥居を潜ると境内に大人御輿と子供御輿が並んで鎮座していた。準備を終え関係者は引き上げていた。ズームアップ。大人御輿。白い帯で固定。子供御輿も鎮座していたが浜までは行かないようだ。地域を巡行するのであろう。神輿の右後方に「諏訪稲荷神社」。香川諏訪神社御祭神 建御名方之神(タケミナカタノカミ) 八坂刀賣之神(ヤサカトメノカミ) 例祭神 一月一日 元旦祭 二月十七日 祈年祭 六月第一日曜日 例大祭 七月 (海の日) 浜降祭 八月十四日 夏越祭 戦没者慰霊祭 九月三日 諏訪稲荷神社例祭 十一月十五日 七五三祝式 十ー月二十三日 勤労感謝祭 十二月三十日 大 祓神輿は社殿に向かって鎮座していた。拝殿の扁額「諏訪大神」。内陣をズームアップ。本殿の扉は閉められていた。拝殿前から境内を見る。天気が良ければ富士が眺望できるのだがこの日は曇り空で見えず。境内は高台にあり神輿をどのように道路へ下すのか気になる。ここの神輿は海岸まではトラックで輸送。15:30香川諏訪神社から南下、西久保にある日吉神社へ向かう。この日は真夏日で店先ではミストを散布していた。15:35日吉神社(西久保日吉神社)所在地:神奈川県茅ヶ崎市西久保466創建年代や由緒は不詳。御祭神には、山王様といわれる大山咋命が祀られている。約1メートル嵩上げされた鳥居。境内は提灯等で飾られていた。奉賛者の掲示板も。社殿前にはテントが張られ大人御輿と子供御輿が鎮座していた。テントの横には、昨年(令和4年)7月17日(日)に納入された湘南では珍しいタイプの真新しい台車が置かれていた。この台車は「茅ヶ崎神輿康(ちがさきみこしやす)」製である。拝殿の扁額「日吉神社」。拝殿に上がり本殿を覗き見る。神輿の重量は 500キロから1トンあるようだが。日吉神社の神輿は、浜降祭に参加する神輿の中でも最重量級であると。社殿の左奥に神輿殿があり、開放されていた。トラックには「西久保祭囃子保存会」と書かれた提灯。荷台には太鼓が積まれており地域内を巡行するのであろう。以前来た時、神楽殿で子供たちが太鼓を練習していた。神輿の飾り付けが真夏の作業になるのでこのような仮設テントを用意されたようだ。テントには「神輿30周年記念 平成18年5月吉日」と。漆塗りの担ぎ棒。テント下には大人御輿と子供御輿が並んでいたが、浜降祭には大人御輿だけが参加する。15:40ここの神輿は鶴嶺八幡社4社のひとつで海岸まで担いでいく「渡御」である。 ー 続く ー
2023.07.30
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高田熊野神社の帰りに地元本村にある「八坂神社」に立ち寄ることに。7月16日(日) 11:45柵の中は「茅ヶ崎市本村 居村B遺跡」発掘調査現場。発掘調査時のブログは「茅ヶ崎市本村 居村B遺跡」👈 をクリック願います。発掘調査現場は現在埋め戻され水が溜まっていた。この地は将来国道1号の北を走る道路になる。本村 八王子神社に立っていた立札には、浜降祭本村 八坂神社令和5年 7月17日宮立ち 午前1時15分八王子神社からの参道に飾られた提灯。八王子神社からは坂になっている。ここを御輿は担がれて上る。国道1号(旧東海道)の茅ヶ崎市本村一丁目交差点をズームアップ。国道沿いには「祝 浜降祭」の横断幕。本村八王子神社所在地:神奈川県茅ヶ崎市本村4丁目13-40国道1号の交差点からの参道に並ぶ多くの提灯。当社は鎌倉期より崇敬、新田義貞が社参、境内の八坂神社が浜降祭に参加している。八王子神社、八坂神社ののぼり旗が立つ。八王子神社の玉垣に、子ども会作成の「とうろう」が並ぶ。11:50八王子神社の西側に駐車場があり駐輪して境内へ。境内には「八坂神社」「護国社」「天満宮」の境内社がある。八坂神社浜降祭に参加の境内社八坂神社。神社の横に修復された神輿が置かれていた。鳥居に掲げられた扁額には「八坂神社」。八坂神社の横に神輿。社殿の扁額「八坂神社」。本村八坂神社御由緒 御祭神 須佐之男命 御神徳 五穀豊穣 招福 疫病除く 創立年月不祥 須佐之男命、人間の罪戯れや悲しみ喜び自然界・人間界の避け難い運命を一身に負いながら、 それを良い方向に導くため苦労をなさった弟神様で、祇園さま・氷川さま・熊野さま・天王 さまとも呼ばれました。 宮司 桜井明彦 神社役員一同 八坂神社の隣に、八王子神社の社殿が建つ。神輿は既に飾り付けられ準備万端に。神輿の札は「本村 八坂神社」と。タウンニュース茅ヶ崎版(2023年5月19日)より、ここの神輿も浜降祭を前に、昨夏から進めてきた境内社「八坂神社」の神輿の修復がこのほど完了した。八坂神社の神輿は134年前に二宮町で制作されたもの。漆のひび割れや金属部分にサビが出るなど傷みが目立ってきたため、37年ぶりに修復することになり、千葉県の神輿専門の工房で作業が進められてきた。神輿は5月21日に同神社に戻り「修復記念渡御」が6月3日(土)と4日(日)に行われた。両日とも午前10時から午後6時頃まで地域内を巡行したと。八坂神社の裏に神輿蔵が建っていた(後日撮影)。八坂神社の左側に「正一位 稲荷大明神」が鎮座。本村稲荷大明神由緒稲荷信仰は和銅四年(1711)二月壬午の日に京都の伏見の稲荷山に祀られたのにはじまり、その年は五穀が大いに実り、蚕織なって天下万民は豊かな福を得たと伝えられております。御祭神の宇迦之御魂神(倉稲魂神)は須佐之男命と大市比売命との間に生まれ、五穀豊穣・招福・財福の神として人々の間に広まりました。当本村稲荷大明神は、平成二年に御社殿修復の際に、殿内より講中十八名が記され、弘化五申年二月二十六日と記された木板が発見されております。この木板より起算しても百五十年余の歳月を重ねております。代々里人の信仰篤く受け継がれ、稲荷講中は九名となりましたが、講中では毎年二月初午日には、昔ながらに幟を立て広く里人の除災招福をも祈念しご祭儀をご奉仕しております。 平成十八年二月吉日イチョウの木も青々と。公孫樹 (いちょう)別名「垂乳根の大銀杏」と呼ばれ子孫繁栄を願う神木としても崇拝されています。八王子神社創建年代並びに創立者は不明であるが、敷地内に古代墳墓が所在し、かつ神社一帯を本村と称することから茅ヶ崎本源発祥の地とされる。古くから武運長久の祈願をする社であったことが知られ、鎌倉幕府倒幕の兵を挙げた新田義貞公が執権北条氏との決戦に臨む前に当神社に祈願し、神火を掲げて幕府との戦いに挑んで勝利を得たことから、義貞公は1335年(建武2年)に感謝の意を込めて当神社の社殿改修を施し、奉斎の誠を捧げたと伝わる。石鳥居の扁額「八王子神社」。八王子神社拝殿。八王子神社 由緒沿革祭神 天照大神と須佐之男命の誓約の基に生まれた五柱の男神と三柱の女神 天之忍穂耳命(あめのおしほみみ) 天之菩卑能命(あめのほひのみこと) 活津日子根命( いくつひこねのみこと ) 天津日子根命(あまつひこねのみこと) 熊野久須毘命(くまのくすびのみこと) 田心姫命(たきりびめのみこと) 市杵島比売命 ( いちきしまひめのみこと ) 湍津姫命(たきつひめのみこと)神徳 家内安全 身體壮健 交通安全 武運長久等の郷土開拓の守護神で、往古は郷民の崇拝 の外、旅人の道中安全祈願のため賑わったと傳えられている。沿革 創立年代は不詳なれど、社領民に郷民が祖先の墳墓を築き、その霊を社に記して八王子 権現として敬神榮祖の誠を表したものと思われます。 当神社を中心とする一帯を本村と称するは茅ヶ崎發祥の本源を立証するものであります。 鎌倉幕府開府後は、武士の武運長久を祈る者多く、元弘参年(1333)五月拾八日、新田義 貞鎌倉討入の際、当神社に祈請し、神火を拝げて兵勢を挙げ北条氏を滅し、依って建武 貳年(1335)上洛の途次社参し、社殿を改修し、奉齋の誠を捧げております。 慶安貳年(1649)徳川将軍家より社領の寄進も有り、延享参年(1746)拾壹月には社殿を 大きく再興されております。 天保拾壹年(1840)子歳秋八月、拝殿幣殿が再興されております。 明治維新の際は、八王子権現を八王子神社と改稱し、圓蔵寺の別当を務め、明治四拾年 (1907)四月指定村社に列格されました。 現在の社殿は関東大震災後、氏子の方々の浄財奉納に依って、昭和貳年(1927)四月、再 建されたものであります。 平成貳拾年正月八王子神社拝殿の前に掲示された「令和五年八坂神社 神輿修復奉賛者御芳名」。多くの人の芳名が書かれていた。令和五年八坂神社 神輿修復奉賛者御芳名。ちょうど「浜降祭広報部」の車が到着。浜降祭参加34神社の名が書かれていた。参道を飾る提灯、竹の飾り。これもやり方があるのであろう。八王子神社境内の東に建つ社務所。右側の木陰には氏子さんが座り込み休憩。社務所前に、「浜降祭に参加しよう」初心者応援企画 7・17 海の日 監修:茅ヶ崎御輿康 中里康則新たにこの地域に住み始めた人はみなさんそう思っているのでしょうか。「御御輿って前から住んでいる人しか担げないのでしょう?」この一言がきっかけで、今号では〈参加のきっかけになる手引書〉を目指しました。いざ取り組んでみると神輿に関しては、資料が少なくまとまったものはほとんどありませんでした。調べるうちにその理由も分かり、へこたれそうになりましたが、だからこそチーガがやるべきことなのかもと思い直し、各所に協力いただきながらなんとか形にしてみました。7月17日の海の日に浜降祭が4年ぶりに開催されます。ひとりでも多く浜降祭に参加する人が増えて、地域の財産である浜降祭がいつまでも続いていきますように・・・・・。担ぎ手が年々減っているのでどこの神社でも担ぎ手を募集している!浜降祭開催日 7月17日 海の日・式典 1:00 ・発輿 1:15 2:30 茅ヶ崎駅北口 ロータリー ツインウエーブ サザン通り長谷川書店右折 南湖中央交差点 6:00 西浜海岸 6:30 式典会場鎮座 式典終了後町内巡幸 19:00 宮入(予定)八坂神社の神輿は往復共にトラックは使用せず担いで移動する。其の一 観て参加しよう浜降祭の見どころを場所と時間帯でみてみよう「暁の祭典」浜降祭。暁までに南湖の浜に辿りつくための移動は深夜から始まります。迫力に加えて「どっこい、どっこい!」や「よい、よいと!」などの掛け声、タンスや鈴の音に心が踊る神輿は各所で見どころがいっぱいあります。自分の地域の神輿について歩くのもよし、見所に行くのもよし、思い思いに楽しんでください。(時間はあくまでも参考になります)。2:30頃 寒川4社のお発ち @寒川神社 寒川地域から参加の4社の神輿4基が寒川神社で揃い踏み、寒川神社を先頭に参 道を担ぎ賑やかに太鼓橋を渡ります。2:30頃 茅ヶ崎駅 北口ロータリー 駅付近の3基が集結。賑やかにロータリーを練り歩きます。見慣れた景色との違 いを体感してください。3:00頃 鶴嶺4社のお発ち @鶴嶺八幡宮 鶴嶺地区から参加の4社の神輿4基が鶴嶺八幡宮で乱舞。 淨闇(じょうあん)の表参道の並木を渡る神輿は幽玄の世界です。4:30頃より 浜での禊 4:30頃になると西浜海岸に神輿が徐々に集まってきます。神輿は竹でしつらえ た鳥居をくぐり (「浜の渡御経路図」参照) 浜でそれぞれ思い思いに禊を行います。5:00頃 鉄砲道 @南湖中央交差点付近 鉄砲道の西から東から20基の神輿が南湖中央交差点から浜に向かう。御御輿のす れ違う様が盛り上がり、大いに見所となります。7:00より 浜降祭 「浜降」は「禊」を意味しており、浜で禊を終えた神輿が駐輿し、厳かに祭典が 執り行われます。8:00頃より 浜からのお発ち 祭典後、鶴嶺八幡宮神輿を筆頭にお発ちがはじまる。もういちど浜に向かう神輿 や、帰路に向かう神輿、それぞれの経路で神社に帰っていきます。浜降祭参加の34神社。神社名・地域名・タオルの色が記されている。八王子神社本殿の横に神楽殿があり作業をした氏子の人達が昼食中であった。社務所の北側に建つ「本村護国社」「本村天満宮」の二社。本村護国社護國社八王子神社氏子内より日清、日露、大東亞戰争にあたり、護國のために導き人命を捧げられた方々の御尊名は、護國の神として八王子神社に相殿として祀られ、九月一日の例大祭には、合わせて感謝と慰霊の祭儀をご奉仕してまいりましたがここに、「本村護國社」を創建し、相殿として祀られている方々の御霊をお還しいただき、より一層丁重に祭儀を嚴修し、感謝と慰靈の誠を捧げることと致しました。 平成二十九年九月 責任役員 世話人一同 奉斎 御尊名が記されている。本村天満宮本村天満宮由緒御祭神 菅原道真公菅原道真は(845~903)平安初期の公卿、文人。文章家としての基礎を築いた祖父以来の菅家を名實ともに建立した人物。東風吹かば 匂ひいおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ八七四年 従五位下となり、文人としては異例の榮達をした。八七七年文章博士となり、八八六年には国守として讃岐に赴任し、八九〇年平安京に歸任した。宇多天皇の命により六國史を編集し、八九九年には右大臣になり、九〇一年従二位に昇進直後太宰権帥に就任、九〇三年太宰府で薨去す。菅原の祖神をたどると、天之菩卑能命にたどりつく。又、命は武蔵國造り祖とも傳えられる。八王子神社境内に、南湖分校(茅ヶ崎小學校)を設立し(明治十三年から明治ニ十五年)本村地区児童の初等科の教育にあてた。 平成貳拾九年拾月吉日境内に造られた竹の鳥居。12:35ここ八坂神社の神輿は海岸まで担いでいく「渡御」である。氏子の方から夜半から御輿について歩いたらと。境内の西側に鐘楼が建つ。鎮守 八王子神社 鋳師 京都 岩澤徹誠黨八王子神社には、元禄拾五年(1702)壬午八月、伊藤奥左ェ門外七拾一名奉献の名鐘が在し、その名音は日々の生活に活気を與え勇気を鼓舞し、朝夕氏子に親しまれしも、大東亜戦争中供出の犠牲となり、貴き姿を消す。爾来、名鐘の音を慕う聲絶えず、遂に神社役員及び志を同じくする氏子等相謀り、浄財の奉賽を得て之を再興す。鐘音永久に氏子の幸福と平和を護るものなり。 昭和参拾五年(1960)九月 八王子神社 宮司 櫻井正明境内に聳える楠。八王子神社の西側にある広場。かつては幼稚園になっており我が息子も通った。 ー 続く ー
2023.07.29
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茅ヶ崎の東地区から新湘南バイパスの高架下を西へ戻る。11:05神明大神 (しんめいおおかみ)所在地:神奈川県茅ヶ崎市赤羽根468赤羽根神明大神社ともいわれ、現在は鶴嶺八幡宮の兼務社である。御朱印の有無は不明。二之鳥居横に立つ石碑には「相○赤羽根鎮座 神明大神」。神明大神由緒 祭 神 大日孁貴命 (おおひるめのむちのみこと) 合祀神 素戔嗚尊・菅原道真公・福都日神 (ふくつびのかみ)大日孁貴命は天照大神の別称、大日孁貴ともいい日神とある。合祀の三神は、八雲神社、天満宮、荒魂神社等の神であったが、明治四十三年十月の一村一社制度の施工に伴い、上赤(羽根)中赤(羽根)の二社は、下赤羽根の神明大神に合祀された。新編相模風土記稿によれば、神明宮は十一世紀後期に陸奥守源義家(八幡太郎義家)の建立と云う、とある。慶安二年(1649)には、大猷院三代将軍家光公より社領六石の御朱印を賜う。往古は神仏混淆であったと思われる。その満蔵寺も明治四年の廃仏毀釈で廃絶し姿を消した。千古の歳月を村民の崇拝によって、幾度も再建が繰り返され、元和七年(1621)や、宝永二年(1705)等の棟札が今尚残存する。明治一七年(1884)九月に再建された、社壇奥には間口四尺八寸、奥行四尺の僅か六合の神殿が安置された。昭和五十七年新湘南道路計画に当たり、新しく移築された敷内千三百余坪、総てが社領であり、平坦な境内には数百年の樹木が並び、供鐘燈籠が今も神社の荘重な姿を映す。七月には歴史ある浜降祭と九月の例大祭と神輿渡御で賑わい、日々常々は地区民が平穏を願う鎮守神である。 平成十九年七月吉日 赤羽根神明大神氏子総代社殿と右側には神輿殿。拝殿の扁額「神明大神」。内陣をズームアップ。開放された神輿殿。神輿殿の中には炊き出し用の大きな釜・鍋があった。神楽殿も解放され神輿が置かれていた。神輿は既に神楽殿の中で飾られ置かれていた。ズームアップ。鳳凰をズームアップ。重たい神輿を移動するための台車。11:10拝殿前から神楽殿を見る。ここの神輿も海岸近くまでトラックで輸送。11:15次に訪れた神社は赤羽根神明大神から北方向へ進みスリーハンドレッドクラブの南に鎮座する「甘沼八幡大神」へ。鬱蒼とした森の中に鎮座している神社である。社号標石には「甘沼八幡大神」と。所在地:神奈川県茅ヶ崎市甘沼292階段を上った境内から人声が聞こえてきた。階段の横には古木。浜降祭で紙垂で飾られた鳥居。甘沼八幡大神と甘沼村の由来八幡大神社 格 相模国高座郡甘沼村明治六年十二月披列村社候事祭 神 八幡大神は誉田別命(注応神天皇)軍の神様境内に末社あり殿山稲荷と云う祭神に倉魂神 農業の神様創 立 明暦二年丙甲(西暦1656年)今から参百弐拾六年前である。現建物 奥殿は昭和二十六年十月に再建された。本殿は昭和四十八年九月に村有志により再建さ れたものである。甘沼村の由来由 来 昔より高座郡に属す起源詳ならず口碑に今の本村の田地震にて概て一円沼地にして其辺 甘草の生茂せしを漸々開墾したるを以って甘沼村と云い懐島郷(旧大庭の庄)の一つであ ったが冠稱を廃して現今は単に村名のみを用う。沿 革 往古詳ならず永禄年間北条氏の臣近藤孫三郎来地たり天正十八年庚寅徳川氏に代り承応 三年甲午旗下堀順三郎の知行所となり明治元年戊辰八月韮山県に属し同年九月に神奈川 の所轄となる。 昭和五十七年三月吉日建之甘沼八幡大神の石鳥居ここへの参拝は二度目になる。鳥居の右側に鐘楼。社殿前には国旗が飾られていた。社殿への階段下右側にある「庚申塔」。八幡神社の庚申塔 平成十八年二月十四日 神奈川県指定有形民俗文化財庚申塔は、庚申信仰に基づいて江戸時代に盛んに造られるようになったもので、人の延命招福 を願ったものである。この塔は青面金剛像を彫った庚申塔の出現期のもので、承応三年(1654)の年号が見える。基部には造立者十人の名が刻まれている。四臂(ヨンビ)(うで)で二猿を従えるこの形式の塔はこれまで七基が見つかっており、いずれも相模川下流域(茅ヶ崎 三、平塚 二、寒川 一、藤沢 一)に分布している。初期の青面金剛像の庚申塔として貴重なものである。 茅ヶ崎市教育委員会飾り付けられた拝殿。拝殿の扁額「八幡大神」。神輿殿も解放され神輿も出されていた。中には子供御輿が置かれていた。また壁面には奉納者の芳名が書かれていた。出された神輿は神楽殿の前の木陰に置かれていた。飾り付けを見守る高齢者。若者が担ぎ棒の上で作業。拝殿前では式典の準備中。11:25神輿は境内からこの鳥居を潜り階段下の広場へ。ここの神輿も海岸近くまでトラックで輸送。甘沼八幡大神から小出街道を南下、新湘南バイパス下の赤羽根交差点。次に訪れる神社は「高田 熊野神社」。赤羽根交差点から小出街道を更に南下。この先の高田交差点を左折して田村通り大山道(伊勢原藤沢線)へ。11:30高田 熊野神社所在地:神奈川県茅ヶ崎市高田1丁目10-44当神社は田村通り大山道(伊勢原藤沢線)の南側に鎮座している。鳥居には「祝 浜降祭」。社殿の右手前に神輿殿があり開放されていた。高田総鎮守 熊野神社高田の鎮守熊野神社は、万治元年(西暦一六五八年)に高田村の領主大岡氏が紀伊国熊野本宮より遷祀された神社で、熊野大神が奉祀されております。慶長八年(西暦一六〇三年)に大岡兵蔵(忠吉公)が、高田村のうちで百六十余石を徳川将軍より賜わり、爾後、明治維新に到るまでその子孫の釆地であったのです。熊野神社を創建されたのは大岡隼人(忠高公)で、越前守忠相公の父君にあたる方です。現在の社殿は、勿論当時の建物ではなく、昭和二年に高田総氏子によって新築されたものです。日枝神社(山王社)当社は、享保五年(西暦一七二〇年)に大岡氏が、近江国東坂本の山王大権現を分祀された神社で、祭神は大山昨命であります。昔の社殿は、山王山と稱する丘陵上に建てられていて、そこには青々と松が茂り、高田耕地を眼下に見下す景勝の地でありましたが、後に、熊野神社境内に移されたものです。現在の社殿は、昭和四十七年に新築された建物です。神楽殿の中では神輿の飾り付け中、右側に日枝神社(山王社)。境内に貼られていた貼り紙。祝 浜降祭高田熊野神社高田熊野神社神社・周辺準備7月9日(日) 8:00 ~ 神社にて神輿飾り付け準備7月15日(土) 8:00 ~ 神社にて7月16日(日) 前夜祭 19:00より 御霊遷し 19:30 ~7月17日(月) 浜降祭 集合時間 保存会員 午前1:00 一般参加者 午前2:00 宮出し 午前3:00 発 宮入り予定時刻 午前10:00ごろ昨年7月28日(木)に訪れた時には、「高田熊野神社社殿・神輿の修復事業 奉賛金ご支援のお願い」平素より高田熊野神社の神威高揚、保持発展のため、皆様方におかれましてご支援ご協力を賜り厚く御礼申し上げます。高田熊野神社は、万治元年(西暦1658年)に高田村の領主で大岡隼人(忠高公)が紀伊国熊野本宮より分祀された神社で、熊野大神が奉祀されております。忠高公は越前守忠相公の父君にあたる方で、由緒ある神社です。現在の社殿は、昭和二年に高田総氏子により創建されたものです。風雨に耐えた九五年の歳月により、社殿の回廊と雨戸の傷み、雨漏り、柱の沈み等々損傷が激しい状況です。また、神輿は昭和五十二年に建設され経年劣化により、歪み、金具の損傷、漆の剝離等により修復が急務となっています。今般氏子総代と協議の結果、各位の協賛を仰ぎ、神社社殿と神輿の修復を行うことに決定致しました。歴史的、文化的、地域の財産を次世代に継承し末永く地域の皆様と共に保存してまいりたいと考えております。誠に恐縮と存じますが、氏子、崇敬者、事業者、地域の全ての皆様方のご理解とご支援を賜りますように切にお願い申し上げます。 令和四年五月吉日 熊野神社 宮司 杉﨑直人 熊野神社 総代役員一同 神楽殿の中に飾り付けられた御輿。境内には神輿修復の奉賛金者の芳名が掲示されていた。修復された神輿。タウンニュース茅ヶ崎版(2023年6月16日)より、高田熊野神社の神輿がこのほど大規模修復を終え、6月10日に収められた。11日には記念渡行が行われ、来月4年ぶりに開催される浜降祭を前に地域にお披露目された。屋根部分の漆が経年劣化でひび割れ、剥げてきたことなどから修復が決まり、手がけたのは市内今宿の神輿工房「神輿康」とのこと。11:40ここの神輿も海岸までトラック輸送する。 ー 続く ー
2023.07.28
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茅ヶ崎海岸浜降祭前日の神社を巡るため市内の一番東に位置する神社へ。菱沼八王子神社から新湘南バイパス下を東へ進み、宝積寺南側交差点を左折。7月16日(日) 10:20宝積寺南側交差点から赤羽根通りを北上。前方にいつも閉ざされている神輿殿。赤羽根八雲大神所在地:神奈川県茅ヶ崎市赤羽根赤羽根通り沿いに建つ神輿殿が開かれ神輿が出されていた。赤羽根八雲大神の手前に小さな社と石祠。そばに赤羽根八雲大神はなく、神輿殿のみが建つ。神輿殿から出されたばかりの神輿。まだ鳳凰も取り付け前。石碑には「上赤羽根八雲大神神輿由緒沿革」。御祭神八雲大神の御祭神は神仏混淆(しんぶつこんこう)時代は『牛頭天王』と呼称され明治政府の神仏分離令施行の際に『スサノオノミコト』となられました。又、天王社という呼称も八坂神社・八雲神社・氷川神社等と改称されました。神 輿明治二十九年愛甲郡愛川村半原の木匠 矢内右兵衛藤原高光は、江戸城将軍作事方及び小田原城主大久保佐渡守に仕え、宮大工として名主を申し付けられ帯刀御免を許された名工である。市内では鶴嶺八幡宮『文化三年制作』とは、兄弟神輿です。明治三十四年八月、寒川町一之宮八幡大神の氏子西町地区より譲受される。神輿の屋根に取り付けられている神紋は『木瓜』(八雲神社の神紋)。子供神輿昭和二十五年七月吉日 茅ヶ崎市菱沼 太田松太郎作赤羽根八雲大神から赤羽根生産緑地へ。西の空には富士が見えるのだが。ヒマワリが綺麗に咲いていた。宝積寺前の駐車場。駐車場には赤羽根八雲大神の神輿を運ぶトラックが準備。赤羽根通りの赤羽根南中学校交差点から南を望む。後方は新湘南バイパスの高架橋。赤羽根八雲大神には神輿殿はあるが近くに神社がない。知り合いに聞くと赤羽根中学のそばにあるとのことであったが。浜降祭に参加する茅ヶ崎市内で一番東側にある神輿である。テントの下に神輿が置かれ作業。熊野神社 (小和田)所在地:神奈川県茅ヶ崎市小和田2丁目3-66次に訪れたのは国道1号の小和田交差点から北方向へ100メートル程入ったところにある。朱色の鐘楼が建ち左側には、「小和田 総鎮守 熊野神社」の石柱が建つ。嵩上げされた鳥居が建つ。鳥居の扁額は「熊野神社」。社務所前には奉納された多くの提灯が吊るされていた。境内の奥に社殿。社殿をズームアップ。社殿の左奥に神輿殿が建つ。神輿殿は開放され神輿が出されていた。神輿には鳳凰が取り付けられ帯も。若者たちが高齢者の指導で伝統を引き継ぐ。社殿前では式典の準備。神輿殿の中でも作業。神輿製作時の奉納者の芳名が書かれていた。ここの神輿も海岸近くまではトラックで輸送。飾り付けは終了?熊野神社西門。11:00室田八王子神社小和田の熊野神社からの帰りに再度立寄る。神輿の飾り付けもほぼ終了。先程より多くの若者達が集まっていた。 ー 続く ー
2023.07.27
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茅ヶ崎市の4大イベントの一つで、県の無形文化財にも指定されている夏の風物詩「茅ヶ崎海岸浜降祭」が7月17日(月・祝)の海の日に開催された。市内、寒川町の34の神社から子供御輿5基を含む39基が参加する浜降祭。茅ヶ崎海岸浜降祭 宮出・復路予定順番。このリストを見て、右足の状態もだいぶ良くなり久しぶりに愛車のリンちゃんで浜降祭前日の神社の様子を見に行くことに。7月16日(日) 9:45猛暑の中、自宅を出発して最初に地元の神社へ向かう。オニユリが満開に。地元に貼られていた「暁の祭典 浜降祭 室田八王子神社」。神輿発輿 七月十七日午前3時20分神輿着輿 七月十七日午前10時30分千ノ川沿いの遊歩道にはアメリカフヨウが満開に。かつてはこの辺りは田園地帯であったが今では新興住宅地に。遊歩道沿いに花壇があり、各組の花壇となっており各組で花を植えている。アメリカフヨウ別 名:クサフヨウ科 名:アオイ科分 類:多年草(冬落葉)原産地:北アメリカ(園芸品種)大きさ:背丈50~120cm、横幅35~100cm主な見所:花(7~9月)アメリカフヨウの特徴大きな目立つ花を咲かせるハイビスカスの仲間。原種は大きくて立派だが、園芸では主に矮性の改良・交雑品種がよく出回っている。花は一重の丸型で15cm以上になり、花色は赤からピンク、白がある。一日花でひとつの花はすぐしぼんでしまうが、夏から秋にかけて次々に花を咲かせてくれる。葉は花に比べるとやや小さめの卵形で、株は自然と分枝してこんもりそだつ。熱帯の花のような印象だが北アメリカ原産なので耐寒性があり、葉や枝は枯れるが平暖地では屋外でも冬を越す宿根草である。アメリカフヨウの育て方日当たりと水はけのよい、あまり乾燥しない場所に植えつける。丈夫な花なので適地に植えればあとは特別な管理はいらない。水切れに弱いので地植えの方が楽に育つ。鮮やかな赤のアメリカフヨウ。室田八王子神社所在地:神奈川県茅ヶ崎市室田1丁目13-35鳥居の扁額「八王子神社」。四角提灯に「相州茅ヶ崎浜降祭」と。社殿前では、氏子さん達が浄財箱を開放。下にシートを敷き浄財箱を逆さまにしていたが中からは小銭ばかり。社殿を左側から。社殿の左側に神輿殿があり神輿が出されていた。浜降祭の神輿の担ぎ棒は二本の棒で担ぐ二天棒の神輿である。浅草三社祭、神田祭の神輿の担ぎ棒は4本や6本を井桁に組んで担ぐことが多い。担ぎ棒は漆塗りであろうか?。御輿に白の帯(たすき?)をつけるのだが手順は?。鳳凰をズームアップ。神輿殿の中に「昭和五十三年五月吉日」の額。額には当時の御輿新調委員の懐かしいメンバー名が書かれていた。御輿製作者 :長野県木曽郡楢川村平沢 荻村漆工株式会社神輿殿建設者:横浜市戸塚区笠間町六九八番地 小国工務店昭和53年(1978)に新調してから既に45年を経ているが修復したか?。担ぎ手の関係から海岸へはトラックで輸送。室田八王子神社から次に訪れたのは室田の東に鎮座する菱沼八王子神社へ。道路の前方に幟が建っていた。菱沼八王子神社所在地:神奈川県茅ヶ崎市菱沼1丁目11-64八王子と名のつく「八王子神社」は私が知っているだけでも茅ヶ崎市内には4つある。神社前の駐車場には軽四トラック、自転車が多く留まっていた。鳥居の扁額は石板で「八王子神社」。玉垣には提灯を準備。イチョウの木が聳える境内の先に社殿、左に神輿殿。右側には神楽殿があり多くの年輩の氏子さん達が指導していたのか。奉賛金の貼り出し板も準備中。令和五年度 浜降祭 菱沼八王子神社 七月十七日(月)海の日 神社集合 午前二時半 御輿宮立ち 午前三時例大祭 宵 宮 七月二十二日(土) 素人演芸大会 午後六時 本祭り 七月二十三日(日) 神社集合 午前六時半 御輿宮立ち 午前七時 演 芸 午後六時青空の中に幟も立ち祭り気分も最高に!明日(17日)の御輿宮立ちは午前三時で神輿はこの鳥居を潜って茅ヶ崎海岸へ。大きな灯ろうを吊り下げるのであろう。社殿前では神輿の飾り付け。提灯には「菱沼八王子神社」。社殿前から境内を見下ろすが気温も上がり作業も大変。開放された神輿殿。壁には修復年度が書かれていた。壁面には「御輿各部名称図」が貼られていた。10:10境内には子供御輿もあったが茅ヶ崎海岸へは行かないようだ。夜の式典のためのテントも張られていた。ここの神輿も担ぎ手の関係から海岸へはトラックで輸送。 ー 続く ー
2023.07.26
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茅ヶ崎市の4大イベントの一つで、県の無形文化財にも指定されている夏の風物詩「茅ヶ崎海岸浜降祭」が7月17日(月・祝)の海の日に開催された。市内、寒川町の34の神社から子供御輿5基を含む39基が参加。茅ヶ崎市の4大イベントとは、 ① 大岡越前祭:江戸時代の名奉行大岡越前守忠相公の遺徳を偲んで行われる春祭り。 ・4月29日(土)、30日(日) 4年ぶりに開催された。 ② 湘 南 祭:スポーツ・飲食等の様々な催しが行われる。 ・5月27日(土)と28日(日)の2日間された。 ③ 浜 降 祭:神輿が砂浜を乱舞し、茅ヶ崎に夏を告げる。 ・7月17日(月) 海の日に開催。 ④ サザンビーチちがさき花火大会:茅ヶ崎海岸の夜空を彩る。 ・8月5日(土) サザンビーチで開催予定。いつものようにタウンニュースの情報から。タウンニュース 茅ヶ崎版 2023年(令和5年)7月14日(金)号「暁の祭典」39基参加 ・市内神社の早い宮出は午前1時。 ・市内、寒川町の34の神社から子供御輿5基を含む39基が参加。「どっこい、どっこい」と いう相州御輿独特の掛け声が勇ましく響き渡り、早朝に行われることから「暁の祭典」と も呼ばれる。茅ヶ崎海岸浜降祭 宮出・復路予定順番神輿が神社を出発する「宮出」は市内では早ければ午前1時から始まり、合同式典は茅ヶ崎西浜海岸で7時から実施される。式典終了後の8時ごろから御輿が一斉に海へと向かう「お発ち」(初輿)が行われ、9時に終了。神輿がみそぎをするのは入場時と式典後の帰路につく前の2回行われる。茅ヶ崎海岸浜降祭 交通規制のお知らせ現地には駐車場がないので、自転車、徒歩になる。「浜降祭」主なスケジュール宮 出:神社毎に異なる (午前0時 ~ 3時30分)一之鳥居:午前4時30分 ~ 6時 (会場到着)駐 輿:午前6時50分 (整列)合同祭典:午前7時 ~ 7時50分発 輿:午前7時50分 ~ (各神社へ戻る)日の出を背に西浜を目指して行われる渡御。この光景を見たかったが。7月14日(金)茅ヶ崎中央通り沿いの市役所東側に建つ完成まじかの「東横INN」。浜降祭を前に市役所に神輿が鎮座しているとのことで市役所へ。市役所前から東横INNを見る。東横INNは国道1号沿いにもあるが増築している。市役所前の広場には定期的にキッチンカーが出ている。この日は2台のキッチンカーが営業していた。ラーメン、チャーハン、餃子、冷し担々麺、かき氷・・・を販売していた。丼物を販売。本庁舎1階ふれあいプラザに神輿が鎮座していた。7月17日(月・祝)の海の日に開催される浜降祭を前に、茅ヶ崎市役所本庁舎1階ふれあいプラザに7月3日から、神輿が展示されている。子供御輿もペアで。神輿は、市内今宿で御輿の製造や修復を行っている神輿康の中里康則代表個人所有のもの。6月30日に搬入し、中里代表と市職員らで組み立てた。廻り込み。ズームアップ。茅ヶ崎市役所本庁舎1階。地元には「暁の祭典 浜降祭 室田八王子神社」のポスター。神輿発輿 七月十七日午前3時20分神輿着輿 七月十七日午前10時30分 千ノ川沿いの遊歩道にはオニユリが満開に。40年前の左側は田園風景が広がっていたのだが。 ー 続く ー
2023.07.25
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タイミングよく御霊神社が例大祭を行っており、この後神輿を追う。2月5日(日) 14:10御霊神社社殿現社殿は昭和四年 (1929) に再建したものであると。小さな社殿で、また境内には神輿殿がなかったが何処にあったのか。境内には「例大祭の御奉賛者名」が半紙に書かれて貼りだされていた。多くの御奉賛者名。奉納 金弐萬円也、金壱萬円也、金五千円也、金参千円也 と順不同で貼られていた。NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」での神奈川ゆかりの地めぐりで紹介されました。昨年よく見たNHKのポスターだ。奉納「寺町 眞(画伯)」と。上手く描かれた「鎌倉殿13人+α」 の似顔絵。上 段:源頼朝役の大泉 洋、北条義時役の小栗 旬、北条宗時役の片岡 愛之助下 段:三善康信役の小林 隆、和田義盛役の横田 栄司、八田知家役の市原 隼人、 大江広元役の栗原 英雄上 段:足立達元役の大野 康広、二階堂行政役の野仲 イサオ、中原親能役の河島 潤哉、 北条時政役の坂東 彌十郎下 段:安立盛長役の野添 義弘、大庭景親役の國村 隼、梶原景時役の中村 獅童、 三浦義澄役の佐藤 B作比企能員役の佐藤 二朗社殿前から参道の先に鳥居。この鳥居を潜り神輿は帰るのであろうが狭く低い。狭い住宅街の道を巡回する神輿を発見。神輿は台車には載せず担ぎ手の手で巡行していた。女性の神輿甚句に合わせて担いでいた。担ぎ手はマスクを装着。例大祭の御奉賛者名の中に「他地区の神輿保存会」もあり、担ぎ手として参加しているようだ。いろんな法被を着た人が担ぎ手として参加していた。車が一台通れる狭い道を進む。神輿は大きい部類ではなかろうか。神輿の鳳凰をズームアップ。まだ真新しい御輿では。新型コロナの関係で久しぶりの町内会お披露目か。14:20夏の浜降祭も3年間中止になっているので今年は開催されるのであろうか?。茅ヶ崎の四大祭りの一つである「大岡越前祭」は4月末に開催予定になっている。因みに茅ヶ崎市の四大祭りは、 ① 大岡越前祭、② 湘南祭、③ 浜降祭、④ 花火大会14:25金刀比羅神社所在地:神奈川県茅ヶ崎市南湖3丁目4-40御霊神社から狭い迷路のような道を走り南湖通りへ出て南下。金刀比羅神社の社殿ここにも神輿があり、右奥に神輿殿があった。既に参拝しているのでスルー。欣ずし (きんずし)所在地:神奈川県茅ヶ崎市南湖2丁目3-12千ノ川の「とはま人道橋」でコイを釣っていた若者はここへ持ち込みさばいてもらうと。店先に、このような貼紙、「かながわSDGsパートナー登録証」 「欣ずし 殿 えぼしの雫 2022年5月26日 神奈川県知事 黒岩 祐治」2006年に国連が責任投資原則を提唱して以降、持続可能性を重視するESG投資は急速な拡大をみせている。そのような中、2015年の国連サミットにおいて、グ ローバルな社会課題を解決し持続可能な世界を実現するための国際目標である SDGs(持続可能な開発目標:Sustainable Development Goals)が採択された。 今や世界中の企業がSDGsを経営の中に取り込もうと力を注いでおり、日本においても、SDGsを経営に組み込むべく様々な取組が進められている。具体的に何をやっているのか聞いてみたいが。えぼしの雫の製造であろうか?店先の看板には「えぼしの雫 製造販売所 欣ずし」と。「えぼしの雫」は、ここ寿司店「欣ずし」の店主・小又学さんが開発した魚醤です。 茅ヶ崎の風物詩・地引網でとれた小魚を中心に、相模湾の魚と塩だけで作られています。 お醤油代わりに、お出汁代わりに、隠し味として。和・洋・中どんなお料理も美味しくさせる万能調味料です。完全無添加で安心・安全。 サバ、イワシ、コハダ、カマスなど、原料にする魚により、風味が変化します。旬の2種をお届け致しますので、味わいの違いをお楽しみくださいと。私も茅ヶ崎市観光案内所で一本 (しらす) 購入したが味は?提灯には「魚醤ラーメン」本日販売の魚醤 (えぼしの雫) :しらす、さば、いわし茅ヶ崎獲れた魚を当店で製造しているメイドイン茅ヶ崎の魚醤 (ナンプラー) です!テークアウトにも対応しているようだ。海鮮ちらし:600円、サーモンいくら丼:600円、まぐろ丼:600円 税込み価格魚醤ラーメンも 800円。どれもリーズナブルな価格であるのでいつか食べてみたい!14:30八雲神社所在地:神奈川県茅ヶ崎市南湖4丁目4-29鳥居の扁額「八雲神社」。八雲神社の社殿ここも既に参拝しているのでスルー。右側に神輿殿がある。南湖通りの道路標識。14:35南湖通りを南下、国道134号の西浜小学校入口交差点。西浜小学校入口交差点を通り抜け、茅ヶ崎漁港西側広場へ下りる。同広場から伊豆大島を望む。釣り人がいる平島をズームアップ。平島は陸続きになっていないので迎えの船が行くのであろうが高波があると危険では!サザンビーチから烏帽子岩を望む。烏帽子岩をズームアップするが、後方は三浦半島の城ヶ島であろう。15時前になり多くの釣り船が戻って来た。この時間になると釣り客を乗せた船が帰港する。朝7時前?に出港して8時間後の今頃帰港するのか。釣りの成果はどうであったのか。14:40サザンビーチのモニュメント「茅ヶ崎サザンC」。Cの中に江の島を望む、観光客の記念写真をされる合間にパチリ。サザンビーチからサイクリングロードを走り、茅ヶ崎ヘッドランドへ。この日は穏やかな天気で波も静かであった。よって砂の飛散も少なく走りやすかった。昨年12月23日(金) 16:00 強風の日の茅ヶ崎ヘッドランド。この時は砂が飛び散りサイクリングロードは走れなかった。14:55茅ヶ崎ヘッドランドの東側の菱沼海岸。この辺りは浸食が激しく土盛りをしていた。江の島を望む。穏やかな茅ヶ崎ヘッドランドを振り返る。サイクリングロードの「ゴルフ場入口 (菱沼海岸)」。この先のサイクリングロードは綺麗に整備された。15:10鉄砲道と雄三通りが交差する、雄三通り中央交差点。交差点角にアイスクリームの「プレンティーズ」があるが今の時期でも多くのお客さんがいた。この日の走行距離は17キロであった。 END
2023.02.22
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立春を過ぎ、気温も上がり天気が良かったので昼食後愛車のリンちゃんで出かけた。今まで茅ヶ崎市内の寺社史蹟を巡りブログアップしているが、Googleマップで見落としていた「登象の堰」、「二十三夜堂跡」を今回訪れたブログです。2月5日(日) 13:00北茅ヶ崎駅東側の中華料理店。最近店さきを通るといつもお客さんが行列している人気の店であるようだ。中華「のんち」所在地:神奈川県茅ヶ崎市茅ヶ崎844 小川アパートネットで調べると、茅ヶ崎駅前の横浜飯店から修行して独立した店主。修行された横浜飯店も食事時にはいつもお客さんが行列している中華料理店。グルメの雑誌に載り人気になっているようだが、私もいつか食べてみたい。茅ヶ崎の西方向へ進み千ノ川に架かる飯島橋。目的地の「登象の堰」「二十三夜堂跡」は下流の千ノ川沿いにあるのでここを左方向へ。河川敷は枯草等を除去し綺麗に管理。川面には多くのカモが餌を求めて。1メートル近いコイも泳いでいたが、カモのエサは小魚であろうか。13:15千ノ川を下ると珍しい名の「とはま (十・浜) 人道橋」。とはま人道橋から上流側を望む。とはま (十・浜) 人道橋十間坂と浜之郷を結ぶ橋。元々この地に堰があり、その上を人々が通行していたものを、堰撤去後に橋として整備したことに由来していると。歩行者(自転車も)通れるので通行量が多い。ちがさき丸ごとふるさと発見博物館『とはま (十・浜) 人道橋 際の取水堰跡 (登象の堰)』所在地:神奈川県茅ヶ崎市茅ヶ崎3丁目昔、この地域には千ノ川の水を利用した水田が広がっていました。その水を田に引くために、この場所に堰が設けられていました。ここでせき止められていた水は、取水口から用水路を流れ、鶴岡八幡あたりまで広がる水田を潤しました。余った水は、現在の富士見橋脇で、再び千ノ川に流れる仕組みでした。水田が広がる昔の浜之郷地区の原風景と歴史への入口となるこの取水堰跡をここに記し、茅ヶ崎市の都市資源のひとつとして後世に伝えていくことにしました。 (企画協力 亀山政博氏) 平成二十二年三月 茅ヶ崎市教育委員会 ちがさき丸ごとふるさと発見博物館千ノ川の水問題と登象の堰● 湘南砂丘と高座丘陵に降った雨を水源とする千ノ川は昔から水量の少ない小川で、稲作農家 は長年水不足に悩まされてきました。● 昭和5年、農家の人々は「千ノ川へ相模川の水を導入して水不足を解決」することを話し合 い、青木雄司茅ヶ崎町長を代表に「相模川左岸水利組合」を設立。千ノ川の堰・水門・用水 路等を整備し、昭和15年3月に相模川左岸農業用水を千ノ川の室田へ導入、長年の水量不足 を解決しました。● この千ノ川に相模川の水を補充した「ブレンド水」を浜之郷、矢畑、十間坂、南湖の水田に 供給したのが、この「登象の堰」でした。供給したこの豊かなブレンド水は豊かな水田をつ くり、豊かな稲を実らせ、豊かな千ノ川の水田時代の最後を担いました。昭和のはじめに造られたこの堰は、がっちりしたコンクリート製で、約八十センチメートルほどの幅をもっていましたので、橋の役目も果たしました。また、相模川左岸農業用水導入後の堰はいつも豊富な水量をたたえていたので、子供たちにとっては自然のプールでもあり、魚とりを楽しむ集いの場でもありました。写真は「堰で遊ぶ子供たち (昭和21年頃)」。橋の役割は、十間坂と浜之郷をつなぐ「とはま人道橋」として現在に残されましたが、かろうじて原形を留めていた堰跡と取水口は、平成十九年の護岸工事の際に、県の協力を得、その位置を護岸に刻み込むことにしました。新しい護岸に付設された四角い囲みがその原位置で、上端の高さが本来の土手の高さを示しています。この土手と堰は多くの人々が行き交う場であり、鶴嶺神社参道を前景にした富士山、箱根、丹沢の眺望は人々の目を楽しませました。護岸の「口」の位置が旧取水口。若者が、とはま (十・浜) 人道橋の上から釣り。話をすると、コイを釣っており、南湖通りの某寿司屋へ持ち込みさばいてもらうと。そこの料理も美味しいと!橋の下には多くの1メートル近いコイが泳いでいた。エサはパンくずで釣っていたが。とはま人道橋から更に、千の川沿いを下り、「富士見橋」上から。天気が良ければ前方に富士が見れるのだが、気温が上がりうっすら見えていた。上流側を振り返る。上流の高層マンション手前に、とはま人道橋が架かる。南側に国道1号の南湖入口交差点。左右に国道が走る。二十三夜堂跡は右側の敷地にある。13:30二十三夜堂跡・大勢至菩薩所在地:神奈川県茅ヶ崎市南湖1丁目9-24国道1号の南湖入口交差点を山側に入ったところにある堂跡。ある方の書き込みから、子供の頃(昭和50年代)には富士見橋の袂に古いお堂が建っていた。床は抜け、壁は朽ちて柱と屋根くらいしか残っていなかったがいつしかそれも取り壊され、代わりにこのような小さい社が建った。二十三夜講の風習がこの地にもあったとの証であると。社の横には「二十三夜御本尊大勢至菩薩」と。二十三夜講の風習旧暦23日の夜,いわるゆ二十三夜に講員が宿に集まって飲食をともにしながら月の出を待つこと。三夜様とも三夜供養ともいい、月待行事のなかでも最も盛んに行われ、月待のマチは,神のかたわらに待座する意味らしく、この夜には神の示現があると信じられていたと。社の中には「二十三夜御本尊大勢至菩薩」と刻まれた石碑と御本尊。御本尊である大勢至菩薩。御本尊は風化していた。2023年3月10日(金) タウンニュース茅ヶ崎版に記載された「二十三夜堂」【茅ヶ崎の昔話】 昔々、南湖の村に力のない男がいて ”俺はどうして、こうもたくましさがないのか、カミナ リはこわいし、夜は外もあるけない” と一人ごとを言いながら、二十三夜堂のほこらのそば を歩いておりました。すると近くに大きな米俵がありましたので、男は持ちあげてみようと 思いました。そこで、ホコラにむかって、「どうか、私に力をさずけてください」とお祈り し俵を持ちあげてみました。すると、どうでしょう。今まで力のなかった男にもりもりエネ ルギーがわき、軽々俵を持ちあげてしまいました。この話が ・・・中略・・・ それからはこのお堂で二十三日夜、南湖の人たちで、お念仏が行われていましたが、今は 老人たちが亡くなったりしてとだえてしまいました。二十三夜堂跡からスマホの案内で住宅街を進み、道路脇に道祖神。この道祖神もGoogleマップで知り訪れた。浜之郷石原の道祖神所在地:神奈川県茅ヶ崎市浜之郷816-2住宅街の迷路のような片隅に建っていたが、北側には鶴嶺八幡宮がある。廻りは新興住宅街になっており「文字道祖神」は市有地に建てられているようだ。茅ヶ崎は先の大戦による空襲が無かったのでこのような路地が多い。国道1号沿いに建つ鶴嶺八幡宮大鳥居。弁慶塚所在地:神奈川県茅ヶ崎市浜之郷845国道1号沿いに建つ鶴嶺八幡宮大鳥居から松並木を入り40,50メートル先を右に入る。かつては木が聳えていたようだが今は枯れ、砂利が敷き詰められている。石碑には「弁慶塚」。詳細は「源頼朝とゆかりの地」👈 をクリック願います。13:55国道1号(旧東海道)の鳥井戸橋右側の石碑には「南湖の左富士之碑」と。この日は富士は雲に覆われ見えなかった。14:00御霊神社 (ごりょうじんじゃ)所在地:神奈川県茅ヶ崎市南湖2丁目9-10鳥井戸橋から左富士通りを南下、途中左折して住宅街を進み御輿に出会い鳥居前へ。詳細は前回訪れた「源頼朝とゆかりの地」👈 をクリック願います。参道の両側にはいろんな絵が描かれた提灯が飾られていた。氏子さんに「今日は何事ですか」と聞くと「例大祭です」との返事。今回この「鳥井戸御霊神社の地神塔(じじんとう)」の確認に訪れたのだが運良く例大祭に遭遇。鳥井戸御霊神社の地神塔 (じじんとう)昔、村人が鳥井戸御霊神社の参道に、この地神塔を据えたものと思われる。地神塔とは、死者の供養や自分の極楽往生を願って建てられた石塔である。作成は室町時代末期に造られた供養塔と思われる。神仏習合の時代の時である。その時は西運寺が御霊神社の別当寺であった時代でありました。我々、後世の人々がすべての人が幸に暮らせる様に、この地神塔を管理して参ります。 令和三年六月 鳥井戸御霊神社 総代 加藤秀美地神塔は参道沿いに据えられており紙垂で飾られていた。境内には「例大祭の御奉賛者名」が半紙に書かれて貼りだされていた。社務所の前に貼られていた「鳥井戸 御霊神社 例大祭」■ 日 時 2月5日(日) 〈雨天決行〉 ● 神事式典 午前10時00分 ● 神輿渡御 午前10時30分 ~ 午後3時御霊神社社殿狛犬(右側)狛犬(左側)拝殿前には、御霊神社の提灯拝殿の扁額には「御霊神社」。拝殿には例大祭の神事式典の椅子が並べられていた。本殿が開かれていたのでズームアップ。拝殿の壁面には「御祭神 九郎半官 源義経」。ズームアップ。14:10拝殿入口に掲げられていた、御祭神 鎌倉権五郎平景政 であろうか。 ー 続く ー
2023.02.21
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茅ヶ崎市博物館の駐輪場に自転車を預け、「正覚院」「妙伝寺」を目指す。1月7日(土) 14:10大岡越前通り沿いにある建彦神社の案内板。案内板は建彦神社境内を歩くことを推奨している。大岡越前通りを東へ進むと「布袋尊 相州小出七福神 正覚院」の旗が立つ。門前に寺号標石「堤源山 正覚院」。14:12曹洞宗 正覚院(しょうがくいん)所在地:神奈川県茅ケ崎市堤3681山門手前両側に大きな石像、七福神の旗が立つ。山門の扁額「堤源山」。山門の右側に、「布袋尊」。布袋さまは不老長寿と無病息災の神様である。山門の左側に、「延命地蔵尊」。山門を入ると右側に、六地蔵が並んでいた。左から、地持地蔵、雛兜地蔵、寶印地蔵、賢陵地蔵、陀羅尼地蔵、法性地蔵。本堂の扁額「正覚院」。本堂前に、スタンプと共に置かれていた七福神の布袋尊。ズームアップ、一刀彫りであろうか。スタンプ布袋尊【福寿財宝】容貌は福々しく肥大、満面の笑みを浮かべ、半裸身に粗末な衣装の神様です。七福神で唯一実在した中国後梁の禅僧で布袋和尚と呼ばれ、寺を持たず悠々自適に過ごしていたと言われています。 ※ 本堂の内部に祀られています。本堂前から山門を見下ろす。山門を入ると左側に、稲荷神社。稲荷神社の右側に「嗚呼九月一日」の石碑と石仏。大正十二年九月一日 11時58分。 相模湾沖を震源として、大きな地震があった。ここ茅ヶ崎も、関東大震災で大変大きな被害を受けた。この石碑は、ここ堤の「正覚院」にある十三回忌の供養碑。正覚院の裏にあった石碑の前には注連縄と紙垂。石碑には「八坂神社」と刻まれていた、石碑にも注連縄。かつてここに社があったのか、説明板が無く詳細は不詳である。正覚院から大岡越前通りの北側の旧道を歩く。道路脇に石塔群が立ち、「健康長寿 相州小出七福神 小出地区まちぢから協議会」の旗も。石祠の右側には、左から「文字道祖神」「庚申塔地」「馬頭観世音」。隅には「八幡神社舊趾」ここにもかつて神社があったようだが説明板が無かった。旧道を歩くと道路脇に旧家の立派な門が建っていた。正覚院から妙伝寺までの距離は1.0キロ。分岐点に七福神の旗、道案内板。右前方百メートル程で県道404号線(小出県道)に突き当たる。7番目の妙伝寺への案内。堤坂下バス停 (茅ヶ崎駅行) の案内も。南の方向に県道404号線(小出県道)の堤坂下交差点。交差点手前に茅ヶ崎駅行の堤坂下バス停があり、七福神巡りを終えた人が多く待っていた。スタッフの方の交通整理で県道404号線(小出県道)を横切り、東へ進む。前回はこの辺りでは風が強く帽子を飛ばされなくした。大岡越前通りの向こうに、ゴールの7番目の妙伝寺が見えてきた。道路脇には小さな庚申塔が鉄パイプで囲われていた。最後の案内板。近くにある「市民の森」への案内も。14:35日蓮宗 妙伝寺(みょうでんじ) 所在地:神奈川県茅ヶ崎市堤1032山門前には「毘沙門天 相州小出七福神 妙伝寺」の旗が立つ。本堂と日蓮聖人像。妙伝寺は文禄元年 (1592)に、日安を開山として草創されたと伝えられています。本堂の扁額「歓照山」。スタンプは本堂に上がり頂いた。祭壇の左側に「毘沙門天」が祀られていた。七福神の「毘沙門天」スタンプ毘沙門天【勇気授福】左手に宝塔、右手に宝棒を持ち、甲胃に身を包んだ勇ましい姿の神様です。もとはインドの財宝福徳を司る神だったと言われています。 ※ 本堂の内部に祀られています。山門横に鐘楼が建つ。この日は妙伝寺の駐車場にキッチンカーが出て食事ができると聞いていたが既に閉店準備中。キッチンカーが3台、左側では焼き芋を販売 (200円/本) していた。14:45キッチンカーは閉店で食べれず、仕方がなく焼き芋をお土産に2本購入した。お客さんが少なかったのか閉店が少々早いのではと思いながら七福神巡りを終了した。この後、自転車を置いている茅ヶ崎市博物館へユーターン。14:55県道404号線(小出県道)の堤坂下交差点妙伝寺からもと来た道を戻り、七福神巡りを終えた人はここのバス停から茅ヶ崎駅へ。この交差点を右折、大岡越前通りを歩いて茅ヶ崎市博物館へ。右手に、曹洞宗 正覚院前を通り西方向へ。メタセコイアの先に茅ヶ崎市博物館が建つ。好きな撮影ポイントだが東側からも西側からと同様電線が邪魔だ!富士山が見えるのだがこの時間は見えず。新設なった茅ヶ崎市博物館の駐車場。15:07茅ヶ崎市博物館南側エントランス。南側を駒寄川が流れるが立入禁止になっている。今年1月から展示内容を変更したとのことで立ち寄る。基本展示室 展示テーマサマリー展示のエントランス側から。今年1月5日(木)から基本展示室の4つの展示テーマを入れ替えたと。展示室内に入るが、歩き疲れたので後日来ることにして早々に引き上げることに。西側の駐輪場へ。15:25ここから自宅へ愛車のリンちゃんで帰り、16時前に到着した。今日は久しぶりによく歩き、体調も異状なく一日の歩行数は18,000歩でした。ここにもレンタルの自転車が置かれていたが電動アシストである。相州小出七福神巡り全てのスタンプをゲット。利用対象店舗 1、下記対象店舗で税込500円以上利用する。 2、完成したスタンプ台帳とレシートをもって茅ヶ崎市観光案内所へ行く。 ⇓ 鈴つき干支のお守りプレゼント! ※ 先着 400名様 無くなり次第、配布終了です上記パンフレットでこの最中が気になり「湘南冨士見」へ行くことに。湘南冨士見 香川駅前店所在地:神奈川県茅ヶ崎市香川5丁目2-35店内に入り、撮影許可を得てパチリ!奉行最中(こし餡、つぶ餡、ゆず餡)つぶ餡を一個購入店内で食べさせていただく。願わくばお茶が欲しかった!中には餅が入っており美味しかった!!ので箱入りをオーダー知人へ送った。JR相模線香川駅 END
2023.02.02
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宝蔵寺から1.2キロ先にある5番目の「白峰寺」を目指し南下。1月7日(土) 13:15県道47号線(小出中央通り)沿いの左上に鳥居。西方向の寒川を望む。この辺りは下寺尾で村社であろうか。地元の氏子さん達により整備されていた。正月で榊、鳥居には紙垂(しで)も。邪気を払う縁起の良い形をした紙垂は、昔から注連縄と紙垂は神社などでも使われています。紙垂も切り方・折り方でいろいろと流派があるようです。社の扁額は「十二尊天神社」と。社の下に空間があり石が置かれ、浄財が置かれていたが?十二尊天神社を下り、振り返る。小出中央通りを東へ進むと、道路沿いに木に囲まれた小さな堂があった。この先のバス停は白峰寺の南にある「北方」。地蔵尊所在地:神奈川県茅ヶ崎市下寺尾1559間口一間もない小さな地蔵尊堂である。堂内には花が供えられていた、また地蔵も新しい衣装をまとっていた。石塔があり側面に「天明・・・」と。石碑には、「里まもる観音様も 江戸そだち 包む白衣も 子等安かれと」 昭和五十三年十月吉日 地蔵尊並観音碑再建 白峰寺檀徒一同堂の外に建つ石碑、「朝霧に深き緑の白峰の 後世守り給いし地蔵尊 佐藤セ○」 昭和六十年三月吉日建立地蔵尊の北側方向の丘に白峰寺。海仙茶屋武さし野所在地:神奈川県茅ヶ崎市下寺尾1553-2小出中央通りを進み白峰寺入口から振り返る。入口にはレストランがあり、道路沿いには、「営業中 うなぎ とんかつ かきフライ 天丼 日帰りランチ」等の旗が立ち並んでいた。13:20曹洞宗 白峰寺(はくほうじ)所在地:神奈川県茅ヶ崎市下寺尾1551天文十三年 (1544) ごろの創建といわれ、本堂は大正十四年 (1925) 火災で焼失、昭和二年に復興され、以後増改築が行われ寺要が整いました。天明元年 (1781) に江戸から白衣観音が移され、子育て観音として信仰されてきました。今ではこの寺は、犬猫などのペットを葬る寺として知られ、動物愛護協会による動物慰霊祭も行われている。入口に立つ大きな寺号標石「景徳山 白峰寺」。犬猫などのペットを葬る人の出入りが多く、左側に受付、休憩所がある。本堂前に「寿老人 相州小出七福神 白峰寺」の旗が立つ。七福神の「寿老人」。お堂の内部に鎮座している「寿老人」。スタンプ寿老人【延命長寿】巻物を付けた杖を携えた長頭の老人で中国道教の神様です。中国では「カノープス」という星が「寿星」と呼ばれ、その星が人格したものと言われています。この星を一度見た者は長生きするという言い伝えがあります。 ※ 本堂の内部に祀られています。白峰寺本堂本堂前に七福神のスタンプが置かれていた。境内の南側から本堂を望む。スタンプを捺印後お茶を頂く。本堂前でしばし休憩、次の目的地へ出発。13:32次の目的地「正覚院」へ向けて県道47号線(小出中央通り)を東へ進む。道路脇には「自然あふれる 小出小」と。まだこの辺りは未開発区域で夏には鬱蒼としているが。白峰寺から正覚院までは 1.4キロ。緩い坂道を登り信号脇にスタッフが立っておられた。13:40本来ならここを右へ曲がり、建彦神社方向へ向かうのだが。自転車を茅ヶ崎里山公園へ置いているので取りに行くため直進するが、再度ここへ戻る予定。角地に建てられていた旗には「健康長寿 相州小出七福神 小出地区まちぢから協議会」道路沿いの旗には「健康長寿」、寺の境内では「七福神の名」と使い分け。相州小出七福神の道案内正覚院 800m → 妙伝寺 1700m →文教大学 湘南キャンパス前に建つ「文教大学」石碑。道路標識県道47号線 (小出中央通り) を進み、「茅ヶ崎里山公園 ⇐ 300m」。茅ヶ崎里山公園入口交差点を左折。ケヤキ並木は落葉。前方に県立茅ヶ崎里山公園に立つ七福神巡りの旗が立つ。13:52里山公園パークセンターの前には小出地区まちぢから協議会のスタッフが待機。七福神巡りの受付は12時までであったが。愛車のリンちゃんに乗り、建彦神社経由茅ヶ崎市博物館まで移動した。14:00県道47号線を西へ戻り、先程のポイントを右折、薄暗い坂道を下り、建彦神社入口へ。この辺りには、廃棄物リサイクル業者が多い。建彦神社入口に「七福神巡りの道案内図」。西側から入り石鳥居が建つ。建彦神社所在地:神奈川県茅ケ崎市堤3580明治四十三年(1910)に諏訪神社(堤)、金山神社(行谷)、下寺尾諏訪神社が合祀され、健彦神社となった。建彦の由来は、諏訪神社の御祭神、建御名方命(たけみなかたのみこと)から「建」を、金山神社の金山彦命(かなやまひこのみこと)から「彦」をとり、命名されたという。社殿は南を向いており、社殿の前には2本のいちょうの木が聳える。境内には「健康長寿 相州小出七福神 小出地区まちぢから協議会」の赤い旗が立っていた。南口への参道。参道の左側には神楽殿、鐘楼。境内から階段を上がり、左側からの拝殿、本殿。拝殿の扁額「健彦神社」。扁額の下には正月飾りが飾られていた。社殿の右側(東)に建つ社務所。社殿前から南方向を見下ろす。南側にも鳥居があり階段があるので自転車では通れない。玉石の石垣の上に石祠。こちらの石碑には、「明治十年西征○亡軍○出碑」 三月○日熊本縣肥後國玉名郡於○○戦死 小宮○○ とあり、西南戦争関係の 碑であろうか建彦神社から西側の道を下り、大岡越前通りへ。前方に、茅ヶ崎市博物館。ここの駐輪場に自転車を預け、残りの「正覚院」「妙伝寺」を巡る。往復約3キロを歩くことに。昨年12月に完成した駐車場である(無料)。大岡越前通りに聳えるメタセコイアが一本。ズームアップするが邪魔なアンテナである。14:10大岡越前通りを振り返る。 ー 続く ー
2023.02.01
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来迎寺の後は、1.3キロ先にある「宝蔵寺」を目指す。1月7日(土) 12:32赤旗が立つ農道を進む。天気が穏やかで気温も高くウオーキングには絶好の気候であった。来た道を振り返る。道路脇で地元野菜 (100円 ~) を販売していたが荷物になるので諦める。正面には大山が見える。富士山は左方向に見えるのだが。道路脇の幟には「健康長寿 相州小出七福神 小出地区まちぢから協議会」と。健康体で長寿でありたいものです・・・。田んぼの枯草には多くのすずめが「すずめの学校」の如く。12:37追出地蔵所在地:神奈川県茅ヶ崎市芹沢4238-1正月に新しい衣装に着せ替えてもらったようだ。左の庚申塔の座には「西三谷講中」、像の右側は首がない。追出地蔵から南に歩き、前方に道案内のスタッフ。10人ぐらいのグループで巡っておられたが「シニアグループ」だと。皆さんリュックを背負い談笑しながら歩いておられた。前方には母娘づれで。宝蔵寺の駐車場が見えてくる。12:47曹洞宗 宝蔵寺(ほうぞうじ)所在地:神奈川県茅ヶ崎市行谷318山門前には「大黒天 相州小出七福神 宝蔵寺」の旗が多く立っていた。道路沿いに建つ寺号標石「宝蔵寺」。山門手前右側に、石に彫られた六地蔵右から、延命地蔵、宝手地蔵、宝処地蔵、宝印地蔵、持地地蔵、堅固意地蔵。山門と左下に石像。山門前に立つ「聖観音菩薩像」であろうか。山門の扁額「金峰山」。本 堂天正八年 (1539) ごろの創建といわれ、本堂は昭和四十五年 (1970) 再建。明治六年この寺に「時習学舎」という学校が設けられました。学校制度を整えるという明治政府の指針により、建てられた公立学校で、現在の小出小学校のルーツとなったと。本堂の扁額「宝蔵寺」境内には新しい像が飾られていたが、若い子のためのSNS映え用であろうか。右側の石碑には「當寺開山 傳室宗馨大和尚禅師」と刻まれていた。本堂の左側にある七福神のお堂。七福神の「大黒天」。スタンプ大黒天【有福蓄財】頭巾を被り、打出の小槌と大きな袋を担いだ容貌が福々しい神様です。インドでは戦いの神でしたが、日本に渡り「大国主命」と習合され豊穣の神様になりました。 ※ 本堂左側、外のお堂に祀られています。南無水子供養地蔵尊南無水子供養地蔵尊水子とは、不幸にしてこの世に生命を授かる事の出来なかった胎児の事を言います。悲しき水子の霊魂を供養し、更には子育子安地蔵尊として奉安されました。何卒万人の回向により無辺の功徳を得られん事を祈念致します。尚、特別回向御希望の方は寺の方に御申し出下さい。本堂左側に並ぶ、「十二支地蔵尊」。境内の右隅に稲荷社。東側からの境内、本堂。本堂左側のスタンプ置き場にはマスクをつけて巡る人。金山神社への参道入口に並ぶ「金山神社の庚申塔」。金山神社の庚申塔 平成十八年ニ月十四日 神奈川県指定有形民俗文化財庚申塔は、庚申信仰に基づいて江戸時代に盛んに造られるようになったもので、人の延命招福を願ったものである。この塔は青面金剛像を彫った庚申塔の出現期のもので、承応四年(一六五五)の年号が見える。元はここから東の芹沢境にあったと伝える。四臂(うで)でニ猿を従えるこの形式の塔はこれまで七基が見つかっており、いずれも相模川下流域 (茅ヶ崎三、平塚ニ、寒川一、藤沢一) に分布している。初期の青面金剛像の庚申塔として貴重なものである。 茅ヶ崎市教育委員会左二つ「庚申塔」中央に「庚申塔(四臂青面金剛庚申塔)承応4年:1655年銘」右から2番目「庚申塔(六臂青面金剛庚申塔) 」金山神社所在地:神奈川県茅ヶ崎市行谷317宝蔵寺の東側山斜面にある神社である。右上には「身代延命地蔵堂」があったようだが、私のスマホのGoogleマップでは出てこない。身代延命地蔵堂をズームアップ。参道の石段を上って行くと正面に「金山神社」の小さな社殿が現れた。社殿の後方の山には竹林が広がる。社殿の扁額は「金山大権現」。石碑には「金山大権現堂再建成就之碑 宝蔵寺二十六世大○明芳建立」と。社殿の左奥に「金山神社紀会碑」と刻まれた石碑。金山神社の南側にも竹林。13:00金山神社から下り、宝蔵寺入口東側の民家の庭先に面を被った奇怪な2体。13:05宝蔵寺から戻り、この相模川左岸用水路に沿って下流方向へ歩く。相模川左岸用水路に沿って更に進む。西側を流れる小出川との間が造成されているのか。川向うの住宅地は寒川町で手前は茅ヶ崎市区域であるようだが。その手前の草むらに不法投棄されたゴミの山。来た道を振り返る。右側に相模川左岸用水路。相模川左岸用水路はこの先から隧道になり県道47号線(小出中央通り)を抜ける。13:12県道47号線(小出中央通り)に立つ、七福神の幟。白峰寺への道案内。 ー 続く ー
2023.01.31
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腰掛神社から北上し、西方向の蓮妙寺へ向かう。1月7日(土) 11:50県立茅ヶ崎里山公園の北駐車場。今まで有料と思っていたが「この駐車場は終日無料です。9:00 ~ 18:00」の立札。北駐車場の丘から西方向を見る。畑には収穫を終えた枯れた棚があったが。樹々も葉が散って。駐車場出口に、新しい文字道祖神。新しい文字道祖神の側面には建立者の名が4名刻まれていた。七福神巡りの「蓮妙寺」の道案内板。右側の施設は「住宅地での浸水を軽減しています!!」。田んぼの北側を小出川が流れる。稲刈り後の田んぼ。稲の株は枯れていたが、何時頃耕すのか。西方向を望む。一昨年は風が強くて大変であったが、今日は風もなく穏やかであった。ズームアップすると富士山が顔を出していた。道端には枯れた草に種子が付いていた。種子が我がズボンにつかないように注意。分岐点にはスタッフの方が二人座っておられた。分岐点で「頑張ってください」と励まされ南方向へ進む。道案内板には「蓮妙寺」「来迎寺」。前方はお孫さん (小1の6歳) と巡っているおばあちゃん。蓮妙寺の近くにある「タコ公園」の滑り台。西側に廻り込み蓮妙寺の入口に建つ「芹澤久組自治会館」。門前には正月飾りが掛けられていた。12:00日蓮宗 蓮妙寺(れんみょうじ)所在地:神奈川県茅ヶ崎市芹沢2472-1腰掛神社の西方約400mにあるお寺で、元亀三年 (1572) 小田原にあった蓮成寺を当地に移して、現在の名称に改めたという。山門前左に建つ寺号標石の裏面には、「宗祖日蓮大聖人七百遠忌記念 千時昭和五十六年十月十三日建之 為大乗院法楽日運居士菩薩 施主 塩川 孝 辨財山蓮妙寺 第三十八世随祥代」と。山門前右に建つ「蓮妙寺縁起」。山門を入ると右側に、「辨財天」。いつもは門扉が閉まっているのだがこの日は開けられていた、ラッキー!。正面に本堂七福神のスタンプは本堂前で頂いた。本堂の扁額「○○山」他の参拝者の方にも聴いたが解らなかった。スタンプ弁財天【芸能財福】七福神唯一の女性です。「弁天さん」の呼称で人々に親しまれ、白色の美顔で頭に宝冠、琵琶を弾いている神様です。もとはインドの水の神様で、水の流れる音から音楽の神としても信仰されました。 ※ 山門右側、池のお堂に祀られています。ここも弁財天の右側に捺す小さな補助の印鑑2個がありませんでした。本堂右側に建つ「鬼子母神堂」。堂の扁額「鬼子母神」。池に囲まれた「辨財天」のお堂。お堂前に立つ赤い幟には「弁財天 相州小出七福神 蓮妙寺」と。いつもは門扉、お堂の扉も閉められている。ズームアップお堂の扁額「辨財天」昭和四十己巳十月八日落慶 當山第三十八世随祥12:10門前に建つ寺号標石、蓮妙寺を後にし次の来迎寺へ向かう。途中道路脇に、蓮妙寺の石碑「南無妙法蓮華経」と刻まれていた。その石碑前から東方向に建つ蓮妙寺を振り返る。脇道から農道に出、前方から高齢者グループが、私もだが。富士山が見えるのだがピンボケ。リュックを背に手にはスタンプ台帳、みなさん足取りが健脚だ!農道の分岐点だが目的方向には幟が立つ。左方向へ進む。前方左側に目的地の来迎寺がある。12:20浄土宗 来迎寺(らいこうじ)所在地:神奈川県茅ヶ崎市芹沢3291左側に駐車場があり、参道の両側にはアジサイが植えられている。階段下の寺号標石に「浄土宗 芹澤山 耒迎寺」赤い幟には「恵比寿神 相州小出七福神 来迎寺」と。山門奥の境内にも「恵比寿神」の赤い幟が林立。参道を進み本堂本堂前には大きな太い石灯籠が対で建っている。本堂の扁額「芹澤山」。本堂の中に置かれていた七福神の「恵比寿神」。スタンプ恵比寿神【福富繁栄】風折烏帽子をかぶり、鯛を釣り上げる姿で七福神唯一の日本の神様です。「エビス顔」といわれるように、笑顔愛嬌、和顔愛語の福徳を人々に授けてきました。 ※ 本堂の内部に祀られています。本堂前から境内を見る。参道左側に建つ石碑には、「芹澤山 来迎寺 本堂新築落慶記念碑」と。参道右側には新しい「延命地蔵尊」。参道の右側には社におさめられた六地蔵。六地蔵能化縁起供養誌六道の衛、五濁悪世の闇を輝らし衆々の厄難を済い訶伊の種子は醍醐を証らしめん。六道に輪廻する衆生を救済する菩薩にして本願圣に・・・諸々の厄難を取り除いて地道を司祭し道をあやまらないよう見守る菩薩であります。 六地蔵尊の名称と持物と役割 一、大定智悲地蔵菩薩 香炉 地獄道教主 一、大徳清浄地蔵菩薩 宝珠 餓鬼道教主 一、大光明地蔵菩薩 合掌 畜生道教主 一、大清浄無垢地蔵菩薩 〇旗 修羅道教主 一、大清浄地蔵菩薩 錫杖 人間道教主 一、大堅固地蔵菩薩 念珠 天上道教主六地蔵尊は今から255年前、寛延3年(1746)に建立されました。今回柏木明氏の浄財喜捨によって修復再建がなされました。 平成十三年五月吉日 當山二十三世 宝譽昇道 代参道右側の一番西側にあった、光照山 普門寺「普門寺供養塔」。右側の墓碑には「普門寺歴代上人誌」と刻まれていた。普門寺に関しては「令和3年相州小出七福神巡り」👈 をクリック願います。12:30来迎寺を後にし「宝蔵寺」へ向かう。 ー 続く ー
2023.01.30
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相州小出七福神めぐりの東側にある、芹沢石仏石像群へ立ち寄った。1月7日(土)芹沢石仏石像群への途中にあった、文字道祖神。ゴミ収集場横であったか移設されていた文字道祖神。「文化・・・・・正月吉日」と刻まれていた。浄財も置かれていた。文字道祖神の横の斜面に石碑を見つける。石碑には、「昭和二年三月建之 南無 三月吹雪 馬頭観世音菩薩 祭主 秋津孫八」と刻まれていた。芹沢石仏石像群所在地:神奈川県茅ヶ崎市芹沢ここは小出川彼岸花まつりの会場南側にある石像群である。旅友の情報から昨年夏場に訪れたが、草に覆われ石像群が隠れていたのでこの時期に再度訪れた。石像群の北側には小出川が流れ、秋には「彼岸花まつり」の会場になる。夏場には草が生い茂り中へ入るのが嫌だったが、昨年暮れに氏子さん達により清掃されたのか綺麗に整備されていた。また、石像の前には新しい竹製の生け花挿しも。しかし花はなかったが。いろんな種類の石像が並ぶ。後方に廻り込み。右側の石塔には「天明五己○六月二日 覚○良円信士」左側の石塔には「享和○○、、、、、」と、風化して読みずらいが墓石か?綺麗に整備されていたが、説明板等は無かったがGoogleマップには登場。11:35七福神巡りのルートに戻る。前回は直進して左折したが、今回はここを左折して坂道へと案内される。尋ねると「腰掛神社への道が整備されたので」と。この後お世話になる案内図。坂道を上ると赤い幟が立つ、「健康長寿 相州小出七福神 小出地区まちぢから協議会」と。我々夫婦も健康長寿でありたいものだが!上って来た道を振り返る。このルートは100メートル程が整備されておらず一車線であった。坂を上り終えるとT字路に。相州小出七福神巡りの案内と「腰掛神社 → 」 の案内板。赤い幟が多く立っていた。旗の傍には「早朝・夜間の虫取りの声、近隣住民に迷惑です 茅ヶ崎里山公園」夏場のカブトムシ、クワガタ採取に対する苦情か?県立茅ヶ崎里山公園の中を抜ける道路を北側へ向かうと、右側に腰掛神社。正月明けでまだ多くの提灯が飾られていた。腰掛神社所在地:神奈川県茅ヶ崎市芹沢2169腰掛神社は境内に、日本武尊が御東征の際に腰掛けたと伝わる石がある。一の鳥居、二の鳥居が連続して建つ。当神社は既にブログアップしております「日本武尊ゆかりの腰掛神社」👈 をクリック願います。参道の右側には提灯と鉄製ポールが立っていたが。参道の左側に手水舎。右側の社務所、芹澤公民館にも提灯。右側の狛犬(阿形像)左側の狛犬(吽形像)正面奥に社殿が建つ。境内左側には神楽殿。神楽殿横には御神木のいちょうの木が聳える。いちょうの葉も散り、春の芽吹きを待つ。警 告このいちょうの木は御神木のため絶対に登らないこと。 腰掛神社正面に拝殿、右奥に神輿殿。拝殿前右に歴史を感じさせる古い狛犬(阿形像)左側にも狛犬(吽形像)拝殿の扁額「腰掛神社」。拝殿左側にある「腰掛玉石」。腰掛玉石の大きさは、凡長さ 二尺九寸(約88センチ)、幅二尺五寸(約76センチ) 。社殿の右側奥に神輿殿。社殿の右側から望み、中央奥に本殿。拝殿前から広い境内を望む。石畳の参道。腰掛神社前の「関東の富士見100景」。同場所からうっすらと富士山が見えた。関東の富士見100景 富士山の見えるまちづくり 地点名 茅ヶ崎市からの富士 平成16年11月 国土交通省関東地方整備局 寄贈(社)関東建設弘済会11:50腰掛神社から北方向に坂を下り、県立茅ヶ崎里山公園の北駐車場。 ー 続く ー
2023.01.29
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昨年12月16日(金)のタウンニュース茅ヶ崎版で下記の記事を読み、一昨年の令和3年に続いて2度目の挑戦をすることに。記事によると1月4日(水)から31日(火)までスタンプラリーを実施。7日(土)は道中にスタッフが立ち道案内をするとのことで、受付がある県立茅ヶ崎里山公園まで愛車のリンちゃんで行き、そこから歩くことを計画した。相州小出 七福神巡り茅ケ崎市の北部、懐かしい里山の風景が残る小出一帯に、相州小出七福神が祀られています。全行程は約10km、所要時間3時間程の手頃なコースです。楽しく歩けば、気持ちがUP!、体力もUP!しますよ!期間:令和4年12月18日 ~ 令和5年2月3日 ★ 期間中は、約100本の「のぼり旗」をルートに立て、ご案内します。 ★ 1月7日を除き、道案内スタッフは立ちません。ご自身のスケジュールと体力に 配慮してお楽しみください。 ★ 交通ルール、マナーを守りましょう。 ★ スタンプ押印に便利なパンフレットを各お寺や市内主要施設に用意しております。 お問い合わせください。令和5年1月7日(土) ☆ 当日は道案内のスタッフが各要所に立ち、皆さまをご案内いたします。 ☆ 当日の七福神巡りに参加される方は 9:30~12:00 の間に県立茅ヶ崎里山公園パ ークセンターで受付を済ませ、順次出発してください。主催:小出地区まちぢから協議会[ お問い合わせ ] 小出地区コミュニティセンター 茅ヶ崎市堤1948-1相州小出七福神 周辺マップ 令和4 (2022) 年12月現在今回も、受付後反時計回りに巡ることに。相州小出七福神紹介妙伝寺 (みょうでんじ) :日蓮宗・歓照山 毘沙門天【勇気授福】宝蔵寺 (ほうぞうじ) :曹洞宗・金峰山 大黒天 【有福蓄財】来迎寺 (らいこうじ) :浄土宗・芹沢山 恵比寿神【福富繁栄】白峰寺 (はくほうじ) :曹洞宗・景徳山 寿老人 【延命長寿】正覚院 (しょうがくいん) :曹洞宗・堤源山 布袋尊 【福寿財宝】蓮妙寺 (れんみょうじ) :日蓮宗・弁財山 弁財天 【芸能財福】善谷寺 (ぜんこくじ) :曹洞宗・恵日山 福禄寿 【知恵財運】相州小出七福神巡りスタンプ台紙相州小出 七福神スタンプラリー 2023 令和5年1月4日から31日まで◉ 相州小出七福神のスタンプを集めよう! ◉ 1、スタンプ台帳を手に入れる(観光案内所/各寺院で配布) 2、相州小出七福神の7つのスタンプを集める 3、対象店舗で税込500円以上利用する 4、完成したスタンプ台帳とレシートをもって茅ヶ崎市観光案内所へ行く ⇓ 鈴つき干支のお守りプレゼント! ※ 先着 400名様 無くなり次第、配布終了です1月7日(土) 10:55自宅を10時半過ぎに出発、県道404号線(小出県道)沿いの畑から富士山を望む。前回は天気が良かったが風が強かった。この日は気温も高く穏やかな天気であった。植えられている野菜はチンゲンサイか、富士山も綺麗に見えていた。前方に県道404号線(小出県道)の堤坂下交差点。県立茅ヶ崎里山公園の北側を歩き、後半の2寺 (正覚院、妙伝寺) はこの辺りを歩く。堤坂下交差点から旧道の細い急坂道を登り、県道47号線(小出中央通り)の交差点へ。11:05県立茅ヶ崎里山公園所在地:神奈川県茅ケ崎市芹沢1030県道47号線(小出中央通り)の茅ヶ崎里山公園入口交差点を右折して里山公園へ。受付がある辺りには赤い旗が立っていた。県立茅ヶ崎里山公園受付は、9:30から12:00まで。前回のブログは「令和3年度 相州小出七福神巡り」👈 をクリック願います。里山公園パークセンターの前には小出地区まちぢから協議会のスタッフ。上空にはどこへ行くのかLCC社の機体。受付を済ませてパンフレットを頂き、愛車のリンちゃんを駐輪場に預けスタート。歩くと暑くなるので余計な衣類は自転車へ。里山公園内の花壇に咲く菜の花。温暖な正月で春はもうそこに!タイムズ茅ヶ崎里山公園東駐車場。所在地:神奈川県茅ヶ崎市芹沢1030入出庫可能時間:8:30~18:00 入出庫時間にご注意くださいと!里山公園東駐車場から北上すると直ぐに道案内のスタッフ。コミュニティバス 「49 芹沢中部 (善谷寺前)」。11:20曹洞宗 善谷寺 (ぜんこくじ)所在地:神奈川県茅ヶ崎市芹沢1137参道の階段右下に建つ寺号標石「曹洞宗 善谷禅寺」。左に建つ石碑には、正面に「石段改修 晋山結制記念碑」側面に「善谷寺 二十三世 大観英世代」参道の両側に立つ多くの赤い幟には「奉納 南無観世音菩薩」と。参道を登ると左側の社の中に六地蔵。正月を迎え花も供えられ衣装も新しくなっていた。右側には、寛文十年の庚申塔と地蔵。正面に銅板葺きの本堂。恵日山善谷寺、曹洞宗の寺院。『新編相摸国風土記稿』には「恵日山と号す、曹洞宗獺郷村東陽院末、本尊釈迦」と記載されています。開山は藤沢市獺郷東陽院の三世、茅ヶ崎市行谷宝蔵寺の二世を務めた心翁宗伝和尚。寺伝では天正六年(1578年)の創建と伝えられている。本堂の扁額「善谷寺」。御朱印を頂きました。本堂手前左側に七福神のお堂と、延命地蔵尊像。お堂の中に福禄寿ズームアップ。スタンプ福禄寿【知恵財運】杖を持ち短身で頭が長く豊かな髭をたくわえた姿で、中国では仙人と称され日本に迎えられた神様です。寿老人とともに中国道教で祀る星「カノープス」の化身とされています。 ※ 本堂左側、外のお堂に祀られています。福禄寿の右側に捺す小さな補助の印鑑2個がありませんでした。延命地蔵尊像本堂前には平成2年 (1990) の春に建立された金銅の「恵日観音」が建つ。手前には常香炉があり、着火器が置かれていた。本堂右側に建つ客殿であろうか。客殿の扁額「恵照閣」。客殿前から南側の境内を見る。天気が良いので七福神巡りの方が次から次と参拝して来られた。ズームアップ。スタッフの方の背には「七福神」と。境内の北側に建つ「正一位 稲荷大明神」。11:30善谷寺を後にし次の七福神「蓮妙寺」へ向かう。稲荷大明神の後方には枝垂れ桜。11:35中部の文字道祖神所在地:神奈川県茅ヶ崎市芹沢1141道路脇の駐車場隅に建っていた道祖神だがいつまでこの状態で継承されるのか。道祖神の前には正月で注連縄が供えられていた。 ー 続く ー
2023.01.28
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発掘現場に掲示されていた下記案内板を見て訪れた。現在、鎌倉時代 ~ 平安時代を発掘調査中です。本地点は、平安時代頃から断続的に田んぼとして活用された場所です。戦国時代 ~ 鎌倉時代に造られたと考えられる水田の畔は黄色い砂で構築されていました。出土する遺物は多くありませんが、青磁片やかわらけなどが発見されています。有機物資料としては畔に近接する範囲から板状の木製品や桃 (または梅) と考えられる種子も出土しています。 戦国 ~ 鎌倉時代:畔(水田) 遺物:漆器、青磁、土師器(はじき)、須恵器など 新国道線街路事業に伴う埋蔵文化財発掘調査現地説明会開催のお知らせ当地区で実施しております居村B遺跡の発掘調査で発見された平安時代以降の水田址や出土品などの紹介・解説をします。日 時:令和4年12月3日(土)【小雨決行 荒天の場合は中止】 ① 10時30分 ~ 11時30分 ② 13時30分 ~ 14時30分場 所:茅ケ崎市本村四丁目地内(詳しくは裏面の地図をご覧ください) (駐車場・駐輪場はありません。自動車でのご来場はご遠慮ください。)内 容:発掘現場の解説、出土品の展示(①と②は同様)申 込:不要問合せ:茅ケ崎市教育委員会社会教育課 電話 0467-82-1111主 催:茅ケ崎市教育委員12月3日(土) 現地説明会の会場は、県道404号線(遠藤茅ヶ崎線)本村四丁目交差点の西側。将来この道はこの交差点から国道1号の北側を並行して西へ走りJR相模線の地下を潜る。その入口に発掘現場の現場事務所が建っている(発掘現場の東側)。発掘現場の西側のフェンスに工事看板。ご協力をお願いします『遺跡の発掘調査をしています』。調査期間 令和5年2月28日まで令和4年度新国道線街路事業に伴う埋蔵文化財発掘調査発注者 茅ヶ崎市役所 教育推進部社会教育課施行者 株式会社カナコー開始日 令和4年8月22日から終了日 令和5年2月28日まで県道404号線(遠藤茅ヶ崎線)本村四丁目交差点の西側に建つ案内板。茅ヶ崎市本村 居村B遺跡この関連は「開発に伴う遺跡の発掘調査」👈 をクリック願います。・・・ 茅ヶ崎市指定重要文化財 ・・・「本村居村遺跡出土木簡」 平成27(2015)年6月1日指定出土した木簡は6点で、短冊形のほか桶底や折敷を二次利用したものもあります。仏教行事に関連する「放生」が記されている文書木簡や、行事に伴い作成された帳簿木簡、文字の練習に使用された習書木簡などがみられ、古代の地域における実態を知ることができ、茅ヶ崎市の歴史を語る上で欠くことのできない資料として市の重要文化財に指定されています。なお、表示は実物大の赤外線写真です。 茅ヶ崎市教育委員会本村 居村遺跡と古代の木簡現地説明会会場10:30予定時間前に訪れ記帳、多くの近隣の方が訪れていた。時間になり担当者、責任者から挨拶。コロナ禍の中皆さんマスクをつけて参加。頂いた資料から「遺跡の分布と過去の調査地点」右側に:前ノ田遺跡 (高位砂丘)左側に:居村A遺跡 (低位砂丘)中央に:居村B遺跡 (砂丘間凹地)、東に、第1次調査、第4次調査今回の発掘調査「室町時代 ~ 鎌倉時代と考えられる水田跡」黄色の枠内は「砂で構築された畔」。参加者が約100人近くおられ三班に別れて発掘現場へ。茅ヶ崎市本村地区に所在する居村B遺跡は、新国道線街路事業に伴い発掘調査を実施している。その大きさは、380m×180m。居村B遺跡は過去に7度の調査が実施されており、第1・4次調査などの成果から平安時代以降、近現代に至るまで水田跡であることがわかっています。今回は第8次調査にあたり、昭和期 ~ 江戸時代 (近世~近現代) 、室町時代 ~ 平安時代 (中世 ~ 古代) の水田跡が発見されています。現在は平安時代 (古代) と考えられる水田跡を調査しており、現地説明会の際は調査区の東半分が室町時代 ~ 鎌倉時代 (中世) 、西半分が平安時代 (古代) の水田跡となっています。この日のために通路、ステージが設置されており、反時計回りに通路を進んだ。手前側が東半分、奥が西半分エリア。発掘状況は現在の地表から約1.5メートル程発掘されていた。手前が、東半分の室町時代 ~ 鎌倉時代 (中世) 。中世にはこの辺りは茜(あかね)の生産地で茜船で京へ送った。茜は顔料、草木染めの原料である。地表には説明用の紙が貼られていた。一番目の通路上で説明を受ける。一部丸く掘られた穴をズームアップ。白丸の中には杭、紙には「水田」。南北に走る畦道上の紙に説明、上:土層観察用 畔 (ベルト) 下:ここから中世 (手前) 、右側には古代と。畦道、掘り出された木片が残されていた。掘りだされたものがそのままの状態で置かれていた。ズームアップすると「木製品(杓子か)」我々二班は、二番目 (西側) の通路上で説明を受ける。一班は下へ、三班は左側の通路上に。左側の「平安時代 (古代) 」畔と畔の間には丸く掘られた「溝」。右側のエリアは「昭和期 ~ 江戸時代 (近世 ~ 近現代)」当該期では、畔や暗渠、杭列が検出されました。杭列は現在の土地区画の延長に位置しており、土地境を示していると考えられます。暗渠は松葉を敷きつめ常滑産陶管が据えられていました。北側の暗渠は第4次調査で発見された暗渠と同一の可能性があります。畔には上面に宝永の火山灰が集中して堆積していました。この日の説明会のために貼りだされた。畦道の断層茅ヶ崎市役所 教育推進部社会教育課の3名の担当者が説明。掘りだされた木杭紙には「土師器 (はじき)」と。土師器とは、弥生土器の流れを汲み、古墳時代から奈良・平安時代まで生産され、中世・近世のかわらけ・焙烙に取って代わられるまで生産された素焼きの土器である。 須恵器と同じ時代に並行して作られたが、実用品としてみた場合、一般的に土師器の方がより日常的で格下の存在とみなされていたと考えられてきた(ウィキペディアより)。下に下り、三番目の通路上で説明を受ける。以前発掘現場 (南側) を見たとき、暗渠の陶管が並んでいた。こちらも土師器であろうか。ズームアアップ。水田の痕跡は粘土質の土が確認されたと。中世のエリアで「キセル」が出土した。この穴は何であったか資料には「スコリア集積」。担当者が噴霧器を持ち。掘りだされたものは乾燥するので、保存状態を保つために定期的に噴霧していると。写真をズームアップすると「木製品(田下駄)」と。発掘現場の地表には、砂利が敷かれていたと。三ヶ所で説明を受けた後は掘りだされたものを説明受け。磁器、キセル、ハシ長さ5センチほどのキセルであった。暗渠から掘り出された「常滑産の陶管」。水の中に保存されている「木製品」。有機物資料として畔に近接する範囲から桃 (または梅) と考えられる種子も出土した。11:40見学後西側へ回り込む。三班の方が三番目の場所で説明受け。発掘調査現場から西方向を望む。茅ヶ崎駅前の国道1号が渋滞のネックになっているので北側に平行して走る新国道線を計画。この先でJR相模線の地下を潜るがいつになったら完成するのか。発掘現場の東側は県道404号線(遠藤茅ヶ崎線)本村四丁目交差点。交差点を右折すると国道1号と合流。直進はマンションがあり延伸計画はなさそうだ。11:40約1時間の現地説明会で帰宅。午後は、13時30分 ~ 14時30分 に、二回目の説明会があった。 END
2022.12.27
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日の入りまで1時間あるので「柳島記念館」へ向かう。9月14日(水) 16:25途中にあった「柳島しおさい公園」。所在地:神奈川県茅ヶ崎市柳島1900開園時間 午前 6:00 ~ 午後 6:45しおさい公園に入ると入口に工事用看板が並んでいた。こちらの看板は「用水機械設備工事を行っています」。令和5年3月15日まで時間帯 8:30 ~ 17:00駐車場へはスロープを上り、柳島水再生センターの上が人工土地になっている。茅ヶ崎市柳島しおさい公園ウォーキングやお散歩に最適なコースのご紹介各コース(1周)の距離を確認してGO!公園外周コース 1,100mA コース ・・・ 625mB コース ・・・ 415mC コース ・・・ 360mネット内には、少年蹴球場(人工芝グラウンド)・多目的広場(土グラウンド)。日の入りの時間等もあり今回はスルーして、柳島記念館へ向かう。国道134号沿いに、「小さい手 大きい手 地球をむすぶ 平和の輪 平和宣言都市、核兵器廃絶平和宣言都市、茅ヶ崎市」。 国道脇に建つ看板、神奈川県 流域下水道整備事務所公益財団法人神奈川県下水道公社(柳島水再生センター)柳島記念館所 在 地 :神奈川県茅ヶ崎市柳島1879営業時間:9:00 ~ 21:00下水関係の記念館かと思い訪れたが、ネットでは技術博物館とあったが。柳島記念館前に『建設記念』の碑が建つ。建設記念県央を洋々と流れる相模川は有史以来その豊かな流れと美しい姿で県民に安らぎを与えてきました。この清流をとこしえに守り続けていくことが今に生きる我々の務めであります。神奈川県をはじめ流域八市四町の緊密な連繁のもとに着手された相模川流域下水道事業の拠点となる本処理場は地元柳島の方々の生活の基準である用地の提供など絶大なる協力により本日ここに施設も整い無事処理開始を迎えたことを記念しこの碑を建立するものであります。 昭和五十二年十二月吉日 神奈川流域下水道事業連絡協議会 神奈川県知事 長洲一二 海老名市長 佐藤 究 茅ヶ崎市長 征木一策 座間市長 本多愛男 平塚市長 加藤積吉 寒川町長 高橋 誠 藤沢市長 葉山 峻 綾瀬町長 鈴木 進 相模原市長 館盛靜光 愛川町長 相馬晴義 厚木市長 石井忠重 城山町長 中島秀昭 伊勢原市長 中村周二入口の壁面には、『相模川流域下水道事業記念館 下水道研修センター』この表札を見ると誰もが下水道関係の記念館と思うが。館内に入り受付の女性にで聞くと2階に博物館的な昔の農機具等を展示していると。靴を履き替え2階のフロアーに上がり。柳島のうつりかわり春:農家の春は忙しい。田園や畑を耕し種を蒔く、芽が出た苗を育てて、田園や畑に植える。夏:夏になると春に植えた野菜も稲もぐんぐんと伸びるが雑草ものびるので草取りをする。秋:5~60年前は小出川も松尾川も魚が沢山居て泳げるきれいな川でした。取り戻したいね。冬:木は秋に・・・・加工をします。・・・・・。海濵眺望図(江戸時代の終わり頃)2階の展示スペースは準備中とのことであったが、砲術場略図 天保頃図の中央に、茅ヶ崎/小和田の村境、小和田/辻堂の村境がひかれている。左下、「鉄砲場 鉄砲道」徳川幕府は享保13年(1728)片瀬村から柳島村にいたるまで、海岸一帯を海陸両用の砲術調練場として設置した。鉄砲道は伊豆韮山で造った鉄砲を柳島湊に回溝陸上げして運んだ道である。ここから東方百米程の所に「相州砲術並柳島湊跡之碑」がある。右下、「佐々木卯之助 供養碑(本村海前寺)」鉄砲場を管理した大筒役の佐々木卯之助は、付近の農民が鉄砲場を開墾したのを黙認したため処罰された。今でも地域の人たちは卯之助の恩を忘れず供養している。柳島のうつりかわり明治15年 陸軍参謀本部 測量文永八年(1272)柳島の地名が始めて記録に見られる。文政七年(1824)「地誌御調付書上」「新編相模国風土記稿」編算の資料として柳島から幕府の役人に提出したものに詳細な記録がある。次にその一部を記す。田、六町一反九畝一四歩二厘(6ヘクタール余)畑、二十二町五反十一歩(23ヘクタール余)村名の起開発の年月は不明、家数 75軒用水は無く、潮の満干によって田を仕付ける。土地の産物は申し上げるほどのものはなく、農間の嫁は川縁の芦・茅を取り簾・葦簾或は〇・苫をあみ、近郷又は街場へ持運んで売る。柳島湊は相模川と相模湾をひかえた物資流通の要所として江戸時代に栄え、四百石船三艘、小舟四艘を有し、近在、村々の年貢米やその他の物資の回漕が盛んに行われた。当時は汽車も自動車もなく大量の物の輸送は船にたよるしかなかった。東海道線の開通は明治20年(1887)である。湊の位置はほぼこのあたり(柳島記念館)で昭和43年に地下7米(m)より大錨二つが掘り出された。絵は「藤間柳庵の持船・観音丸」。藤間柳庵は幕末から明治維新のさなか、柳島村の名主役として又相模湾の要港柳島湊の船主として地域社会に多大な貢献、神奈川の100人に選ばれる。関東大震災前は現在の柳島小学校のところは相模川が流れており、その南150米のところに渡し場がありました。向河原の畑を耕作するにはこの渡し船に頼っていた。大正十二年(1923)の大地震により土地が二米程隆起し渡し場のところに河原橋をかけ大変便利になった。又大正十三年に今のポンプ場のところから新川を掘り二十ヘクタール程開墾し専用〇と称し耕作した。震災前の田植えは潮の満干による水の増減が著しいので潮時を見はからい昼夜の別なく行なわれた。それでも潮が満ちてくると苗がもぐってしまうので大変苦労した。そのうえ塩水の害により収穫皆無のこともあった。その頃、時化どきの満潮時には浜道も水についてしまった。海岸の火災の時は他部落の者が帰りに道がなくなって驚いたという話もある。このあたりは江戸時代柳島湊が栄え、その後大正十一年頃(1922)柳島湊の計画、昭和二年(1927)飛行場、昭和四十年頃(1965)湘南港や観光施設の計画もあったが、昭和五十二年(1977)水質管理センターが建設された。昭和三十年頃まで漁業も栄え新造船の船おろしや大漁の時に船上で歌われたのが大漁木〇歌である。現在の大漁船上げ唄である。エンコロ節も航海の無事を祈り(祝)って歌われたものである。 茅ヶ崎市の無形文化財に指定(昭和五十一年) 神奈川の歌五十選に入選(昭和五十三年)右上の地図明治15年の地図に現在の道路(赤線)を入れた。相模川の下流に島があった。藤間柳庵(1801~1883)柳島村の名主で廻漕業を営み、多くの記録や書を遺したことは知られているが、神奈川史上に名を残したのは著書「太平年表録」である。嘉永6年(1853)記し始めた表録は小田原大地震の記事で始まり、明治5年(1872)の第七編で了となる。激動の幕末から明治維新の波乱の中で、柳庵の深い教養と時代の推移を見つめる観察力、洞察力、又庶民ならではの描写は生き生きしている。ペリー来航、江戸大地震、長州藩征討、幕府軍進発明治維新前後等々、当地域や幕末明治維新の歴史々料を伝える。江戸時代、海上交通の拠点として栄えた柳島湊も明治に入り、陸上交通の発達とともにその機能は終息し、農業と漁業を生活の中心とする苦しい村であった。柳島の生活を一変させた出来事が起る。大正12年(1923)の関東大震災であった。柳島でも大きな被害にあったが、地震による海岸部の隆起と、その後の県の復興事業とともに新川の築堤、小出川の改修、水門の整備などにより、柳島の人々を悩ましてきた水害が解消され安定した生活が送れるようになった。隆起した河川敷の内16町1反を専用耕作地として申請、昭和2年に許可がおりた。16町1反は当時の村の戸数161戸を意味している。昭和35年には開墾した土地の払い下げが実現した。東海道と大山道茅ヶ崎の偉人 藤間柳庵かつての柳島湊関東大震災で土地が隆起して河道が変るまで柳島と須賀は良港で船舶にぎわった。昨年10月23日(土)に訪れた時のブログ「旧藤間家住宅」👈 をクリック願います。かつての柳島村二階には畳敷きの小会議室があり、いろんな練習等が行えるようであった。障子張りの部屋。営業時間が21時までと遅かったので夜はいろんな活動に使用されているのか。床の間付きの部屋も。昔の農機具が展示されていた。受付の女性からは「柳島の博物館」と。アマビエの「疫病退散」。一階にはカラオケ大会が開催できるような大ホール。16:45神奈川県 流域下水道整備事務所所在地:神奈川県茅ヶ崎市柳島1899柳島水再生センターは相模川河口の茅ヶ崎市側に位置し、昭和52年12月に処理を開始しました。現在は、一日に531,700m3/日最大の下水を処理する水処理施設(9系列)や、汚泥処理施設が稼働しています。※ 事業計画上、水処理施設は9系列で531,700m3/日最大です。神奈川県 流域下水道整備事務所公益財団法人 神奈川県下水道公社柳島水再生センター藤沢の鵠沼海岸までのサイクリングロードの起点「柳島」が近くにある。そのサイクリングロード脇にカンゾウが咲く。彼岸花も満開近くに、いつの間にか彼岸花が咲く時期に。まだ満開ではなさそうだが。ズームアップ。テトラポットの間にはオシロイバナが咲いていた。何処からか飛び散って来たのであろうが生命力が旺盛である。相模川左岸への途中振り返り江の島を望む。子供たちがテトラポットの中で泳いでいたが。茅ヶ崎漁港沖の平島。烏帽子岩をズームアップ。17:00日の入り前30分になり撮影ポイントを探す。天気も悪く撮影者は一人であったが、昨夜の9月13日(火)が良かったと。この後、カメラを三脚にセットして日の入りを待つ。右側の湘南平後方に富士山があるのだが。西の空は雲が多かったが、江の島方向は青い空も見える。この後、夕陽撮影に挑戦するが。 END
2022.09.27
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この日は相模川左岸河口でダイヤモンド富士を見るために鉄砲道を西へ進み柳島へ。9月14日(水) 15:40鉄砲道と南湖通りが交差する南湖中央交差点。交差点左角に朱色の鳥居を発見、右に北上すると国道1号へ。川端稲荷神社所在地:神奈川県茅ヶ崎市南湖5丁目2鳥居の扁額には「正一位 川端稲荷神社」と。一の鳥居を潜り二の鳥居へ、扁額は朽ちていたが。境内は草が生い茂り蜘蛛の巣も。社殿前から二の鳥居を振り返る。氏子による境内の管理は今一であったが。川端稲荷神社前の南湖中央交差点から鉄砲道の東方向を望む。この先は緩い坂道になっており、鉄砲道唯一の峠である。15:50川端稲荷神社から鉄砲道を西へ進み、左富士通りと交差する浜見平交番前交差点。浜見平団地も老朽化し新しく開発されている。交差点には新しくオープンした商業施設。浜見平交番前交差点を更に西へ向かい新しく建替えられた「コンフォール茅ヶ崎浜見平」。浜見平団地は、JR 東海道線「茅ヶ崎」駅から南西方向へバスで約10分に位置する団地です。平成17年から建替事業に着手し、第Ⅰ期 521 戸が「コンフォール茅ヶ崎浜見平」として生まれ変わりました。建替後の住宅は、ウッドデッキテラスを設置するなど、「海」を感じるデザインとし、湘南・茅ヶ崎らしさを演出しましたと。コンフォール茅ヶ崎浜見平現在は第Ⅱ期の建替事業中で、賃貸住宅の建設工事や大規模なインフラ整備工事を行っています。「生活拠点ゾーン」と称される団地中心部では、茅ヶ崎市南西部の生活・防災拠点の形成を目指していると。神奈中バス停「浜見平団地」。朝の通勤時には多くの通勤客で混雑、JR 東海道線「茅ヶ崎」駅まで約10分。バス停そばに、浜見平 UR賃貸住宅「礼金ナシ・仲介手数料ナシ・更新料ナシ・保証人ナシ」の看板。鉄砲道の浜見平南口交差点。夕陽を見に来たのだが西の空は雲がたちこめていた。15:55国道134号と交差する鉄砲道起点。鉄砲道起点の北側に「柳島スポーツ公園」がある。所在地:神奈川県茅ヶ崎市柳島1300ネットから『柳島スポーツ公園』の航空写真(令和4年1月21日)。施設案内総合競技場 400メートルトラック(8レーン・全天候型・日本陸上競技連盟公認第4種) 人工芝グランド、夜間照明あり メインスタンド棟 1,800平方メートル(観覧席約1,300席)テニスコート 砂入り人工芝コート 4面、夜間照明あり、階段スタンド(約500人収容)クラブハウス 公園管理室、救護室、更衣室、シャワー室、レストラン など広場等 多目的広場、コミュニティ広場、ジョギングコース その他。駐車場(台数)南側駐車場:30台(障害者用3台含む)、北側駐車場:81台(障害者用5台含む)、大型自動車7台<いずれも有料>(注)駐車場が満車になった場合、多目的広場を駐車場(135台)とし開放します。テニスコート:砂入り人工芝コート 4面、夜間照明あり、階段スタンド(約500人収容)。国道134号の柳島交差点から北上する産業道路(県道46号線 相模原茅ヶ崎線)。左側は新湘南バイパス、圏央道入口。柳島歩道橋上から四方を見る。東方向の茅ヶ崎市街地。かつて関東大震災以前は柳島湊になっていたと。数年後には、鉄砲道と国道134号の角地に「道の駅」が開業するので賑わうのではと。南東方向には柳島水再生センター、屋上には「柳島しおさい広場」があるが自転車は進入禁止。西方向には国道134号のトラスコ湘南大橋。天気が良ければ富士山が見えるのだが。左には柳島水再生センター。南方向には柳島水再生センター。北東方向に、柳島スポーツ公園。柳島歩道橋から下り、湘南シーサイドゴルフ練習場へ。所在地:神奈川県茅ヶ崎市中島1567住所は茅ヶ崎市になっていたが、打ちっ放しの練習場は平塚市須賀か?16:05相模川左岸の堤に建つ水門、「松尾川排水樋菅」。所在地:神奈川県平塚市須賀かつては相模川が湾曲していたのでこの辺りも平塚市であったようだ。相模川の主流は西側を流れる。松尾川排水樋菅(まつおがわはいすいひかん)銘板には、1989年7月管理者 茅ヶ崎市幅 4.5m 高 4.5m 長 28.7m施工 亀井工業K.K.所在地は平塚市だが管理者は茅ヶ崎市と複雑。こちらの銘板には、松尾川排水樋菅門扉形 式 鋼製ローラーゲート純径間×扉高 4.50m × 4.62m門 数 1門 扉体重量 9.48 ton設置年月 平成元年7月製 作 若島工業株式会社扉の大きさは、純径間×扉高 4.50m × 4.62mこの先には、柳島水再生センターがあるが迂回しているのか敷地内を流れているのか。樋菅とは、堤内地の雨水や水田の水などが川や水路を流れ、より大きな川に合流する場合、合流する川の水位が洪水などで高くなった時に、その水が堤内地側に逆流しないように設ける施設です。このような施設のなかで、堤防の中にコンクリートの水路を通し、そこにゲート設置する場合、樋門または樋管と呼びます。施設の上から西を望む。相模川の河口には大きな砂州がある。右側に湘南シーサイドゴルフ練習場のネット。ローラーゲート越しに湘南シーサイドゴルフ練習場。湘南シーサイドゴルフ練習場の後方にトラスコ湘南大橋。松尾川排水樋菅を見上げる。太陽は高いのだが太陽光は見えず。湘南平の後方に富士山があるのだがこちらも見えず。相模川左岸の河口へ数百メートル。サイクリングロード最西部の砂防林は「S-59 茅ヶ崎市柳島」。柳島水再生センターの汚泥焼却炉。左側の設備はスクラップか。16:20日の入りまでまだ1時間近くあるので、近くの「柳島記念館」へ行くことに。国道134号に戻り西へ進むと「道の駅 予定地」の看板。神奈川県で5番目の道の駅だと。当初道の駅は令和4年3月オープンに向けて事業に取り組んでまいりましたが、全世界的に新型コロナウイルス感染症が猛威を振るい、本市においても市民生活や市内経済へ多大なる影響を与えていることから、あらためて道の駅の整備工程を精査した結果、令和7年7月へとオープン時期を見直すこととなりましたと。16:25柳島記念館へ進む。 ー 続く ー
2022.09.26
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諏訪神社を後にし香川の北方向へ進む。9月8日(木) 13:55諏訪神社下に綺麗に整備され石碑が建っていた。石碑には「表徳碑」と書かれているのであろうか。三𫞏大五郎氏ハ安政四年十一月五日三𫞏清兵衛氏二男二生ニ十七歳ノ時横濱ニ志ヲ立出郷明治二十三年四月一日獨立シテ銅鐵商ヲ開業累年盛大〇〇◯常ニ敬神ノ念厚く大正四年天水桶大正十丑年火見櫓大正十年鳥居奉献大正十二年震災に倒潰スルヤ再建維持費奉納セラル昭和三年社殿改築ニ當リ銅板ヲ寄進昭和十三年敷石奉献ト共ニ石段ノ修理ヲ寄進セラレ之レガ為ノ境内ノ荘嚴ヲ加ヘタリト謂ウベシ其ノ篤行常ニ郷党ノ渇仰スル所謙譲ノ徳ヤ世ニ範ク此処ニ建碑シテ永ク徳行ヲ表スルモノナリ裏面には「昭和十三年三月吉日建設 香川区氏子一同」。諏訪神社の西斜面。擁壁工事も施行され柵も設置されている。スマホを「勘重郎堀跡」にセットして進む。区画整理されていない狭い道路を進み東方向に、玄珊寺入口。勘重郎堀跡はこの道路を南北に横切っている。通路脇にひっそりと掲げられた「勘重郎堀跡地散策路」。木柱に「勘重郎堀跡地散策路」と。この案内板は茅ヶ崎市博物館近くにあるものだが、ここにもほしいものです。勘重郎堀発端の地昔安永年間、香川村名主三橋勘重郎は天水場で川の無い香川村の田地二十五町歩に灌漑の水を引く為苦労した。隣村下寺尾は水は豊富だ。併し殿様も違い村も違う下寺尾の水を貰うのは至難の業だ。漸くにして下寺尾の了解を得て難工事に着手した。下寺尾の村民は快く之を受け入れ共に工事を手伝った。足掛け三年、水路四尺、両側通路六尺宛の堀は出来た。満々たる水は遥か香川村まで流れて行った。今は埋まって通路となっているが、此処が堰をして水を揚げた処である。 茅ヶ崎ロータリークラブ勘重郎堀跡の北側はオープン状態になっており川底には木が生える。勘重郎堀跡を北側へ進み。同場所で振り返り南方向の下流側。南側は暗渠になっているようで、上は散策路になっている。勘重郎堀跡を南に進み香川小学校通りへ。香川小学校通りもこの辺りから東側は二車線になっているが、西側はまだ未整備になっている。香川小学校通りから北側へ進む。14:10曹洞宗玄珊寺(げんさんじ)所在地:神奈川県茅ケ崎市香川2丁目27-24昨年5月22日に参拝しており詳細はその時のブログ「曹洞宗玄珊寺」👈 をクリック願います。玄珊寺は曹洞宗のお寺で、天正12年(1584)この地の地頭であった、本間氏が長久手の戦いで戦死し、その菩提を弔うため伽藍が建てられた。玄珊寺本堂宗 派:曹洞宗開 基:開山宗賢院四世の長厳創 建:天正九年(1581)本 尊:釈迦牟尼仏(お釈迦様)本堂は珍しく西向きになっている、戦死した長久手の方向をのぞんでいるのだと。まだピンクのサルスベリが咲いていた。今年はいろんなところでサルスベリを撮影した。本堂裏の墓地の高台に「本間氏の墓石」。その中央に新しい墓石があり、「當寺 開基 金剛院殿樹心玄珊居士位 天正十二年四月廿七日没」と刻まれている。赤のサルスベリも咲く。玄珊寺からスマホを「香川の道祖神」にセットして進む。香川の道祖神所在地:神奈川県茅ヶ崎市香川7丁目2-1曲がりくねった道の道路脇にある道祖神。香川はいろんなところに道祖神が建っている。銅葺き屋根の凝った造りの祠で、左側に五輪塔の残欠が多数ある。内陣には、「双体神祇道祖神」が鎮座していた。香川諏訪神社の上社跡を探すが見つけることができなかった。みずき地区の新道から南を望む。道路脇に新しい観光案内板JR相模線の香川駅から茅ヶ崎市博物館へ道案内。旧和田家住宅・旧三橋家住宅市指定重要文化財である旧和田家住宅と旧三橋家住宅は、ともに江戸時代の末期に建てられた民家です。当時の生活様式を知ることができます(写真は旧和田家住宅)。茅ヶ崎市博物館茅ヶ崎市博物館は、茅ヶ崎の自然や歴史・文化を知ることができる博物館です。さまざまな展覧会やイベントが開催されています。下寺尾遺跡群国指定史跡である下寺尾西方遺跡では弥生時代の環濠集落が、下寺尾官衙遺跡群では奈良・平安時代の寺院や役所の跡が見つかっています。茅ヶ崎市の史跡が点在している。観光案内板のそばを流れている「相模川左岸用水路」の下流側。同用水路はこの先からスリーハンドレッドクラブの敷地内を流れる。相模川左岸用水路の下流側を探しに再度みずき地区の新道に戻り南下。途中から左折して住宅街を進み、相模川左岸用水路脇に建つ「水と花と緑のこみち整備事業」。相模川左岸用水路相模川左岸用水は、昭和5年(1930)から昭和15年の歳月をかけて灌漑用水を完成させた。相模原市、座間市、海老名市、寒川町、茅ヶ崎市の703ヘクタールに今も供給されている。スリーハンドレッドクラブのコース内を用水路が流れている。散策路は自転車進入禁止になっている。この道は初めて走る道である。相模川左岸用水路の下流側。右側は松風台団地の住宅。散策路には安全柵が設置されており、左側はスリーハンドレッドクラブコース下の農家。この先からはボックスカルバートになっている。相模川左岸用水路の標準断面図。ボックスカルバートの上は散策路になっており松風台団地が建つ。水と花と緑のこみち◎この施設の整備目的 築造から50年以上経過し、老朽化が進んだため改修を行いました。併せて、皆さんに花や 緑のある空間を楽しんでもらい、そして、水と親しんでもらおうと思い、遊歩道を整備し て植栽を行いました。◎水環境整備事業 この事業は、農林水産省補助(県営)水環境整備事業です。縦軸:花の種類、横軸:開花時期が記載されている。◎ 相模川左岸用水路とは この水路は、相模川左岸用水路といいます。この用水は相模川から取水しています。 遠く相模原市磯部(磯部頭首工)から茅ヶ崎市室田まで全長約21kmにもなります。 本水路は、農業用水路として水田を灌漑するために、昭和6年~昭和15年に築造さ れ、先人が極めて多くの努力を払い何度かの工事を経て今日の姿になりました。◎ 農業空間について この水路により育まれている水田を中心とした農業空間は、何世紀にも渡る農業 の営みの中で培われ保全されてきたものです。今後とも、水と緑あふれる農業空 間を保全し、創造することが必要とされています。この辺りから道路下はボックスカルバートになっており、南方向に真っ直ぐに伸びる。スリーハンドレッドクラブコース下の道路に戻る。ゴルフ場下は昔のままの大きな樹が聳える。左折するとゴルフ場内を通る小出みちになり茅ヶ崎市博物館へ。直進すると急な坂を上りスリーハンドレッドクラブのクラブハウスへ。右折すると坂を下り「花の成就院」へ。スリーハンドレッドクラブ。クラブハウスを望む。14:55かきざわ牧場所在地:神奈川県茅ヶ崎市甘沼245前回休みで買えなかったので今回は営業の確認をし保冷バックを用意して立寄る。鉄砲通りにある「プレンティーズ茅ヶ崎本店」では行列を成しているがここではスムーズに購入できる。営業は年中やっており、冬場は暗くなるので17時ごろまでの営業になると。また、牛は子牛も合わせて約30頭飼育しているとのこと。 END
2022.09.20
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この日は「ちがさき村ごと歴史散歩」を参考に愛車のリンちゃんで出かけた。今回は事前にスマホのMAPで史蹟をチェック。9月8日(木) 13:10新湘南バイパス下の松風台入口交差点。この西側約数百メートルで田村通り大山道が交差する。この本は新装なった茅ヶ崎市博物館で購入(100円)した。文化資料館ブックレッド 2 『ちがさき村ごと歴史散歩』 平成22年8月1日 第1版第1刷編 集:茅ヶ崎市文化資料館発 行:茅ヶ崎市教育委員会昔の茅ヶ崎の村を紹介している。今回はその中の「香川村」をチャリ散歩。松風台入口交差点。スマホの案内で最初の目的地「香川の道祖神(石祠)」へとうちゃこ。所在地:神奈川県茅ヶ崎市香川6-3だが目的地は集合住宅になっており植込みを探すが「石祠」は見つからず。スマホの写真をみながら庭先を動き回るが。不審者と思われないよう10数年来住んでいるという住民の方に聞くが存在を知らないと。諦めて次の目的地「香川原町の道祖神」をスマホにセットして西へ進む。前方の道路脇に小さな祠を発見。この辺りの道は昔のままで曲がりくねっている。香川原町の道祖神所在地:神奈川県茅ヶ崎市香川3丁目9-17狭い路地に建つので衝突除けのポールが立つ。道祖神前にも五輪塔の欠片に赤い帽子、前掛け。祠の中には「双体道祖神」。道祖神は町内の原・中尾・間門で祭っていると。民家の庭先にも朱色の鳥居。次の目的地「香川村の鎮守 諏訪神社」をスマホにセット。香川の道も昔のままでくねくねと、間違えると行き止まりになる。香川小学校通りにある「香川自治会館」。所在地:神奈川県茅ヶ崎市香川3丁目20-1このまま西へ進むとJR相模線香川駅へ。道路脇に目的地の「諏訪神社」の案内板。敷地内の石碑には、この敷地は亀井精一さんが亡父繁蔵さんの遺志を受けつがれ、地域住民福祉のために寄贈されました。又この会館は香川自治会館員の芳志によって完成したものです。ここにその功績を永く称えるために記念の碑とします。 昭和五十一年十一月吉日 香川自治会正面の香川自治会館からはカラオケの声が聴こえてきた。左側は香川自治会防災倉庫になっている。神奈中タクシー 茅ヶ崎営業所の東側の路地を入り振り返る、香川殿内の新旧道祖神所在地:神奈川県茅ヶ崎市香川1少し高い所に道祖神。新しい道祖神の内面には「殿内道祖神」と。前(右)に新しい道祖神、側面に「奉納 殿内氏子中 弐百年祭 昭和四拾六年五月」と。後方(左)に古い道祖神が並ぶ。道祖神から住宅街を抜けると丘の上に杜。香川諏訪神社所在地:神奈川県茅ヶ崎市香川2丁目24-54境内への階段下右側に石碑が建つ。石碑には「東雲庵(しののめあん)一奇 住居跡 二代一奇書」。諏訪神社の斜面に、社号標石、由緒案内板。社号標石には「指定村社 諏訪神社」。由 緒一 創 建 推定 平安朝時代一 社 號 相模國大庭庄香河村総鎮守 諏訪大明神(後神社)一 祭 神 建御名方神(大國主神) 八坂刀女神(○○○○〇)一 例祭日 一月一日 元旦祭 二月十七日 祈年祭 七月二十七日 大 祭 八月十四日 夏越祭 十一月十五日 七五三祝 十ー月二十三日 勤労感謝祭 十二月三十日 大 祓階段下から鳥居の両サイドに木が聳える。正面に「拝殿」が建つ。香川諏訪神社香川の地名の由来は皇国地誌に「遠い昔、隣の下寺尾村に咲く梅の香が、小出川の流れに乗って漂ってきたことによる」と記載されている。同誌に、信濃国の一之宮で元官幣大社であった諏訪大社の御分社として1589年(天正17年)に勧請したといわれている。1842年(天保12年)相模国の地誌新編相模国風土記稿によると、高座郡大庭庄香川村の項目には、当山修験普賢寺(現在の香川五丁目付近にあった寺院)の別当寺と名を記載されている。明治維新の神仏分離令により寺を分離する。信濃の諏訪大社に上社下社があるように、香川字篠谷(現在のスリーハンドレッドクラブ付近)に上諏訪神社、香川字東(現在の香川二丁目)にも下諏訪神社があったが、1875年(明治8年)7月に上社を下社に合祀されたのが現在の諏訪神社である。合祀前は、上諏訪神社と下諏訪神社が1年交代で例大祭を執り行っていた。祭神は上社が建御名方神、下社が八坂刀売神で古来旧香川村の総鎮守として農耕生産、開運招福、交通安全の守護神として崇敬され、氏子の信仰が篤く住民のより所となっている。ちなみに上諏訪神社跡には1935年(昭和10年)に建てられた旧跡碑がある。今なお「上の諏訪」といって住民に親しまれている。戦前までは、神仏習合の名残で釣鐘があったが、戦時中、鉄が不足したため撤去されたこともあった。とネットから。この後、上諏訪神社跡に建てられた旧跡碑を探すが見つからず。マスクを装着していない狛犬(阿形像)。狛犬(吽形像)。拝 殿拝殿の扁額「諏訪大神」。拝殿の龍の彫刻が見事。香川諏訪神社御祭神 建御名方之神(タケミナカタノカミ) 八坂刀賣之神(ヤサカトメノカミ) 例祭神 一月一日 元旦祭 二月十七日 祈年祭 六月第一日曜日 例大祭 七月 (海の日) 浜降祭 八月十四日 夏越祭 戦没者慰霊祭 九月三日 諏訪稲荷神社例祭 十一月十五日 七五三祝式 十ー月 二十三日 勤労感謝祭 十二月三十日 大 祓境内の南側に「神楽殿」が建つ。社殿右側には閉ざされた境内社。社殿の左側に「神輿舎」。神輿舎の左側に、三猿像を彫った庚申塔。社の中には「庚申塔」碑。境内から下りる道は鳥居からは階段、神楽殿の右からはスロープになっている。浜降祭のとき神輿はどちらを下りるのか。境内の北側に「諏訪稲荷神社」。諏訪稲荷神社と並んで西側に社務所。いつもは子どもたちが遊んでいるのだが。社殿の裏側に、香川自治会、第三町内会 防災第三倉庫。境内の奥から社殿。今年はセミの鳴き声が少なかったがセミの抜け殻を発見。社殿の軒下に大きな釜が2個。昔は祭りなどで炊き出しに使用していたのであろう。富士山は雲に覆われていた。13:55諏訪神社近くの民家の庭にフヨウが咲いていた。 ー 続く ー
2022.09.19
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小和田の鎮守「小和田熊野神社」に参拝。昨年も来ており二度目の参拝である。8月29日(月) 13:10熊野神社(小和田)境内。広い境内の正面に社殿、左側に神輿殿が建つ。昨年9月8日(水)に訪れた「茅ヶ崎の八大龍王神ー熊野神社」👈 をクリック願います。境内右側に建つ「神楽殿」。神輿殿と手水舎。今年も浜降祭は中止になったがお披露目をしたのか。熊野神社拝殿熊野神社の創立は不明ですが熊野信仰が広まった平安末期と伝われています。元禄元年(1688)再建の古棟札があり、ご利益は海上守護・漁業・殖産・厄払い・交通安全・家内安全等とされています。安産祈願の幟も立つ。御祭神 熊野久須毘命 ( くまのくすびのみこと ) 熊野夫須美命 ( くまのふすみのみこと ) 速玉男命 ( はやたまおのみこと ) 家津御子命 ( けつみこのみこと )祭 礼:1月2日 歳旦祭(さいたんさい)年賀祭 (ねんがさい) 1月15日 豊漁祭(ほうりょうさい) 7月海の日 浜降祭(はまおりさい) 8月1日 例祭(れいさい)神幸祭 (しんこうさい) 8月1日 例祭(れいさい)宵宮祭 (よいみやさい) 8月2日 例祭(れいさい)例大祭 (れいたいさい) 12月30日 大祓(おおはらえ)拝殿の扁額「熊野神社」。右側の狛犬(阿形像)昨年はコロナ禍でマスクをつけていたが。左側の狛犬(吽形像)。狛犬の口が赤いのは特徴の一つですとあったが。社殿左手前に神輿殿。神輿殿の扁額「神輿殿」。拝殿前から境内、右側に社務所、参道の先に鳥居。社殿の右側に廻る。姥母(うば)神社姥母神社のご利益は、安産・病気平癒の神と尊ばれてきた。扁額「奉納 姥母神社」。姥母神社に社殿に貼られていた「茅ヶ崎の轍(わだち)」。第18回「小和田」 協力/茅ヶ崎市文化資料館江戸時代、小和田村と菱沼村は入り組んでいました。大山道に近いあたりが菱沼村、東海道(国道1号)の両側から海までが小和田村だったようです。鎮守の熊野神社の境内に祀られている姥神社と尾根明神社は、市内の他の地域では見られない祭神です。拝殿右側に、石に彫刻された髪の長い姥神が祀られています。子どもが風邪をひいたとき、お茶を供えて治してくれるよう祈ったといいます。尾根明神は、拝殿左側の石碑にその名があります。『皇国地誌』に元は姥島にあったが風波で何度も壊されるので、元禄の頃(1688~1703)「ツト田」(菱沼3丁目の辺り)に移したとあります。また、『風土記稿』に「海浜に砲術場あり」とあります。江戸幕府が鉄砲の演習をした場所です。その範囲は現在の藤沢市片瀬、鵠沼、辻堂の各村と市内小和田村から茅ヶ崎村の海岸砂丘にまたがる広いものでした。『茅ヶ崎市史』には設立の享保13年(1728)以後21年間は毎年、江戸後期は不規則に演習が続けられたとあります。明治になると鉄砲場に代わり、辻堂、小和田の海岸が横須賀海浜団演習地となり、終戦までは頻繁に訓練が行われ、戦後は米軍の演習が行われました。【参考文献/茅ヶ崎市史・・】社の扉を開け中を見る。姥母神社の左側に歌碑、句碑、石碑が並ぶ。碑には「姥母神社」「八雲神社」「八大龍王」と刻まれている。中央の歌碑は、京都の公卿近衛某が東下りの途中に詠んだ歌で、歌碑には「相模なる 小和田が浦の 姥島は 誰をまつやら ひとり寝をする」。因みに姥島とは烏帽子(えぼし)岩のことで、茅ヶ崎海岸の沖合約1.4kmにあり、高さは約14.6mの島である。江戸時代には伊豆の漁師と地元小和田の漁師との間で漁場争いが起こり、その際に小和田の名主はこの歌があったことを思い出し、その短冊を証拠に姥島が小和田の領地であることを主張し、紛争に勝ったという言い伝えがあるそうです。左の句碑は「姥ヶ島 尉の姿 耀くはかり 春の潮」。尉は能楽の翁のこと。郷土の俳人、新田濤哉は姥ヶ島を見て高砂の翁の姿を想い、この句を詠んだのだと。社殿の裏を廻り西側へ。境内は清掃されていて歩きやすかった。社殿の左側にも多くの石碑が建っていた。社殿左奥に建つ、「木曽御嶽信仰の三神」。御嶽大神・八海山大頭羅神王(八海山大神)・三笠山刀利天。御嶽大神は長野県と岐阜県にまたがる御嶽山の神様です。八海山大頭羅神王は越後の八海山の神様です。三笠山刀利天は群馬県上野にある「三笠山」の神様です。平安 ~ 鎌倉 ~ 室町時代を経て山岳信仰と民間信仰が結びつき、江戸時代に全国に広まっていったそうです。辨才天・堅牢地神(けんろうじしん)碑。農村では「地神信仰」がありました。名称を「地神講(じしんこう)」といいます。春分と秋分に最も近い戊(つちのえ)の日を社日(しゃにち)といい、この日に大地を守護する土地の神様を祭る地神講が行われます。春の地神講は作物の育成を祈り、秋の地神講は収穫のお礼詣りをするものです。地神講は、床の間に堅牢地神(地天)と弁財天(弁天)の掛け軸をかけ、煮しめと白飯を供えてお祭りをしました。この日は、土地を掘り起こしてはいけないとされているため、農家にとっては休日となりました。台座には「小和田村、菱沼村 氏子中」と。<堅牢地神(けんろうじしん)>仏教における天部の神の1柱で大地を司る、大地を擬人化した神様です。通常は女神ですが密教では男神と一対とされています。十二天の一である地天と同一視する考え方もあります。尚、地天は元はバラモン教の女神プリティヴィーでしたが、後に仏教に取り入れられました。以上、ネットより。境内社・豊受稲荷社左下に石祠。社の中にはキツネ。豊受稲荷社の手前に石碑が三基。右:「日〇神社」、「天照皇大神」、「〇〇神社」中央:「不◯大明王」、「富士淺間神社」、「石尊大權現」左:「國狭土尊」、「國常立尊」、「豊斟淳尊」。社殿左前に「靖國之碑」が建つ。靖國之碑同地区における明治28年から昭和21年にかけての戦没者130柱を合祀した慰霊碑。地元有志によって、昭和25年8月15日に建立された。碑高255㎝、幅119㎝、厚さ17㎝、台石60㎝。碑正面:「靖國之碑 靖國神社宮司筑波藤麿」碑裏面:「戰歿合祀者(篆額) ・・・数多くの戦没者の命日と名前が刻まれていた・・・ 昭和廿五年八月十五日戦没者記念碑建立発起人一同。熊野神社の北側から。13:20熊野神社西門にある鳥居。国道1号に戻り家路につく。バス停近くの花壇に花が綺麗に植えられていた。この道は旧東海道を歩いたとき通った道である。想えばあれから4年、平成30(2018)年11月20日(火)に小田急藤沢本町から旅友と歩いた。日本橋まで「56km」と。国道1号の北側に朱色の鳥居、「坂下稲荷」。駐車場の一角にある、坂下稲荷。坂下稲荷新築記念碑講中氏名 宿順 数十名の氏名が彫られていた。平成十年五月吉日 建之稲荷社前から国道1号を望む。13:40国道1号に戻り西へ進むと「丸亀製麺」。所在地:神奈川県茅ヶ崎市小和田1丁目1-70昼時も過ぎ食して帰ることにし立ち寄ることに。14時近くになっていたが駐車場には多くの車が駐車していたのでテイクアウトすることに。テイクアウト売り場から店内を覗く。えび天うどんをオーダー、帰宅して食べる。駐車場脇に大きな看板「うどん・天ぷら お持ち帰り」。前方に「菱沼歩道橋」。茅ヶ崎市内の旧東海道には、藤沢寄りの赤松歩道橋から駅前の一里塚間に5個の歩道橋がある。ここはその2番目である。13:45牡丹餅立場(牡丹餅茶屋)の跡。京都の公卿近衛某が東下りの途中牡丹餅立場の茶屋で休憩、この辺りは東海道の高みの頂上にあり大変見晴らしが良く、茶屋から海まで見通せ茶屋のばあやに島の名を尋ね、「相模なる 小和田が浦の 姥島は 誰をまつやら ひとり寝をする」を詠み、短冊を残した。 ー 続く ー
2022.09.15
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本行寺から国道1号(旧東海道)の北側へ移動。8月29日(月) 12:45国道1号の小和田交差点。信号下の白い参道は廣徳寺。高野山真言宗 廣徳寺(こうとくじ)所在地:神奈川県茅ヶ崎市小和田1丁目17-5本山は和歌山県の高野山・金剛峯寺(こんごうぶじ)です。山号の「山王山」は以前本堂裏に山王山(さんのうやま)という山があった事から、院号は御本尊様の千手観音様からこの名が付いたといわれております。創建は諸説ございますが初代慶海が元和五年(1619)に現在の地、茅ヶ崎市小和田に開いたと伝えられております。現住職で十八代目、約400年続く寺院ですと。脇門横に建つ、寺標石。「高野山真言宗 山王山 廣徳寺」。山王山 観音院 廣徳寺御本尊 千手千眼観世音菩薩宗 派 高野山真言宗 立教開宗は大同二年(八〇七)総本山 高野山金剛峯寺 和歌山県伊都郡高野町宗 祖 弘法大師(空海) 宝亀五年(七七四)六月十五日 香川県善通寺市で御誕生 承和二年(八三五)三月二十一日 高野山奥之院に御入定御宝号 南無大師遍照金剛教義と信仰 宇宙のすべてのものは、大日如来のいのちの顕われであり、このいのちの世界をあらわし ているのが曼荼羅です。 高野山真言宗の教えは、いのちの平等と尊厳をさとり、大日如来の智慧をこの世に実現す るために、生かせいのちを実践し、共存共生の世界をめざすことにあります。 本宗の御宝号念誦運動は、弘法大師の共利衆生の精神に立って、すべてがいのちを共にし ている社会の福祉をめざす具体的な活動です。 弘法大師は未来永劫にわたって衆生を救済すると御誓願され、高野山奥の院に入定留身さ れています。 同行二人の信仰のもと、大師の御教えをこの世に生かし実現することが、私たちの努めで あり喜びです。脇門を入ると塀際に六地蔵が並ぶ。社の中に石仏。弘法大師像?墓碑には「陸軍歩兵 新倉八五郎碑」と刻まれていたがどの戦争か?。本堂前に赤松が聳える。山門から国道1号の入口へ。小和田交差点から南は学園通り。国道1号からの参道。廣徳寺の山門。山門前には両側に石像。山門には「高野山 真言宗 廣徳寺」。山門の右側に「掃除小僧」。台座には「寄贈 程嶋島吉殿 平成九年三月」と。反対側には「居眠り小僧」。こちらの台座にも「寄贈 程嶋島吉殿 平成九年三月」と刻まれている。本 堂御本尊は「千手千眼観世音菩薩」、一般的に「千手観音」と呼ばれる仏様。本堂が鉄筋コンクリート製のため木鼻等の彫り物はシンプルな構造に。本堂の扁額は「山王山 観音院 廣徳寺」。本堂前の石仏。本堂前から山門を見下ろす。本堂前の左側に石仏。石仏の後に「南無大師遍照金剛」の旗が二本。慈悲のあるお顔をズームアップ。本堂の左側に寺務所があり入口に「微笑」の像。四国八十八ヶ所お砂踏み弘法大師とゆかりの深い四国八十八ヶ所霊場は、その巡礼をとくに遍路と呼んでいる。八十八ヶ所の札所は四国四県をグルッと巡るように配置されていて第一番から二十三番までの徳島県(阿波)の霊場を、「発心の道場」第二十四番から三十九番の高知県(土佐)の霊場を「修行の道場」第四十番から六十五番の愛媛県(伊予)の霊場を「菩提の道場」第六十六番から八十八番の香川県(讃岐)の霊場を「涅槃の道場」といい仏道修行の段階をたどるようになっている。この札所を第一番から、八十八番まで順に巡るのを「順打ち」といい反対に八十八番から一番まで逆に巡るのを「逆打ち」という。逆打ちをするのはほとんどが深刻な人生問題抱える逆境に喘ぐ人々だといわれるが、これをなしとげた(結願)ときの御利益はひときわ大きいと信じられている。四国遍路では同行二人が強くとなえられている。弘法大師は入定したのであった普通の人間のように死んだのではない。だからいつまでも四国遍路を修行のために巡りつづけているのである。いつどこで大師に会えるかもしれない。またたとえ一人で遍路をしていてもいつも大師はその人と一緒に遍路をしている。大師と同行二人なのである。遍路は大師と同じ時空に住んでいるのである。 各国の下に四国のお砂が収められています。順に巡ってお参り下さい。本堂裏(北側)に墓地が広がる。新築された共同墓地。駐車場は脇門を入って本堂前にある。この後、廣徳寺の裏にある小和田村の鎮守「熊野神社」へ参拝。13:00熊野神社(小和田)所在地:神奈川県茅ヶ崎市小和田2丁目3-66昨年9月8日(水)に訪れた「茅ヶ崎の八大龍王神ー熊野神社」👈 をクリック願います。一般道路脇にある鐘楼。新しく塗られたのか朱色がめだつ。鐘楼の左側に、「小和田 総鎮守 熊野神社」の社号標石が建つ。梵鐘には「平和の鐘」の文字。左側には「大震災碑」が建つ。大震災碑には、元代議士 勲四等 山宮藤吉篆額神奈川縣町村長会長、新田信撰文大正十二年ノ秋九月朔日午前十一時五十八分倏惚トシテ関東ノ野ヲ襲ヒタル大地震ハ無數ノ屋舎ヲ倒シ多大ノ人命ヲ毀傷シタルノミナラズ之ニ次グニ劫火ヲ以テシ猛火ノ凶焔天ヲ焦シ燎原ノ火勢ハニ日ニ夜ニシテ殆ンド帝都ヲ廢墟トナシ帝國ノ関門タル横濱ヲ挙ゲテ灰燼ト化シ其ノ災害ノ及ブ所東京神奈川千葉埼玉静岡山梨茨城一府六縣ノ廣キニ亘リ許多ノ財寶ト生霊トハ須臾ニシテ鳥有ニ歸セリ加之此間交通機関杜絶シタルガ為メニ流言蜚語盛ンニ傅ハリ人心洶洶トシテ倍々其惨害ヲ大ナラシム殊ニ湘南ノ地ハ震源地帯ナリシヲ以テ淒愴ノ状最モ甚シク全地域ニ亘ル焼失並ニ倒潰家屋六十九萬四千餘戸ノ内本縣内ノ被害數實ニニ十三萬七千餘戸本町三千三百八十四戸本區熊野神社外三百戸内金潰百ニ十五戸半潰百七十五戸ニシテ其惨憺タル筆舌ノ能ク盡スベキニアラズ又死傷者ノ総数十五萬七千餘人ノ内本縣ニ於ケル死傷者五萬千餘人本町二百七十三人本區十四人内死者七人傷者七人ニシテ酸鼻ノ極人ヲシテ面ヲ背ケシムルノミ是レ蓋シ有史以来ノ大禍難ニシテ國運ノ伸暢ハ為ニー頓挫ヲ来シタルノ観アリ然レドモ災民ハ當時全國ヲ始メ遠ク欧米各国ヨリ寄セラレタル同情裡ニアリテ復興ノ志燃ユルガ如ク翌十三年一月十五日ニ於ケル再度ノ強震ニモ屈スル處ナク奮励努カ遂ニ帝都ヲ始メトシ震災前ニ數倍スル美観ト設備トヲ施シテ復興ノ計漸ク就ナル固ヨリ不測ノ天變地妖ハ人力ノ如何トモスルベキ所ニ非ズト雖モ災禍ノ範囲ヲ縮挟シ救済ノ道ヲシテ遺算ナカラシムルハ人事ノ敢テ能クスル所ナリ茲ニ本区復興ノ計全ク就ルニ際シ即千鑑戎ヲ末代ニ胎シ遺範ヲ後毘ニ垂レ以テ来者ノ指針ニ供セン為メ區民相圖リテ碑ヲ建ツ云爾 昭和五年八月一日 室政吉書 辻堂 高野宏哉刻大震災碑の裏に「新宿自治会防災倉庫」「小和田道祖神斎灯保存会」の倉庫が2棟。ここは小和田だが、ここにも「新宿自治会防災倉庫」が建つ。境内の西側に「文字道祖神」、左側は「双体道祖神」。小和田道祖神を裏側から。右側の双体道祖神の裏には「奉納 斉火主 日比盛次・隆子 平成七年一月十四日」と。ご夫妻で双体道祖神を奉納されたようだ。鳥居手前の右側の池の中にあったのが「厳島神社」。廻り込み。太鼓橋の先に「厳島神社」の社殿。厳島神社の池の廻りは柵で囲まれておりその中に歌碑が建つ。その一角に古い扁額が地上に置かれていた。厳島神社の裏側に傾いた石祠。鳥居の右側には「庚申塔」群。庚申塔には「奉納庚申供養」とあるが風化が激しい。一の鳥居もう「お宮参り」の幟が立つ時期に。鳥居の扁額「熊野神社」。鳥居を潜り社殿を望む。左側に社務所。境内から南方向を振り返る。左側には長い旗の竿。神社によっては水の中に保存すると。13:10熊野神社社務所。 ー 続く ー
2022.09.14
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金森稲荷神社から国道1号の南側にある古道を西側へ進む。8月29日(月) 12:25古道沿いに古い墓地が並ぶ。近くには新興住宅が建つ。国道1号へ出るためにくねくねと曲がった古道を走ると社を発見。地蔵堂が大小2社。また後方には墓地があり墓石、石塔が並んでいた。地蔵堂いずれも説明等が無かったので詳細は不詳。左側の地蔵堂の中には、左から『念佛講中供養塔』『地蔵像』『奉納 南無地蔵大菩薩』後方に『百万遍供養塔』と刻まれた石碑が並んでいた。右側の社の中の石仏。地蔵堂の前の角には『庚申塔』。歴史を感じさせ風化等で破損したのか補修されていた。路地を北へ進み国道1号から振り返る。 国道1号へ戻り西へ進む。この辺りの国道沿いはモール化されていない。12:30国道沿いの南側にある、高野山真言宗 千手院(せんじゅいん)所在地:神奈川県茅ヶ崎市代官町1-4国道沿いに駐車場があり、境界に「千手院の紹介」。高野山開創1200年記念建立マスコット人形の「こうやくん」。本 堂大正十二年の関東大震災で伽藍は全壊し、平成二十一年までは仮本堂のまま過ごしたが、再建計画が軌道に乗り、平成二十三年(2011)には、現在の本堂が落慶した。ご本尊は、千手観世音菩薩坐像。元和元年(1622)の頃より開山して以来、約400年の法燈を受け継いでいる。本堂の扁額「千手院」。境内の右側に、稲荷明神と閻魔十王堂が建つ。左側:稲荷明神、右側:閻魔十王堂。稲荷明神の前には奉納者が刻まれた新しいタイプの石燈籠。閻魔十王堂大山詣での登山安全を祈願するために街道沿いまで出開帳していた歴史の有る、閻魔十王(立像10体と脱衣婆)像を安置している。稲荷堂厄難消除のご利益の有る稲荷明神さま。小田原城主の眼病治癒で知られる、木食観正さまの石碑も建立されている。扁額の「稲荷堂」。銅板葺きの屋根にサルスベリ。稲荷堂前から本堂。石碑には「南無大師遍照金剛 木食観正」と刻まれている。本堂前から北側を望む。2本のイチョウの木は整姿されていた。秋には黄葉?。駐車場との境に移設された庚申塔、石仏が並ぶ。境内に見事な石塔が建つ。本堂の左側から裏の墓地へ。本堂裏に墓地が広がる。墓地への入口に「弘法大師」と書かれた社。社の中には「頭巾を被った弘法大師像」。こうやまきが飾られていた。本堂の飾り。本堂前左側に新しいタイプの墓地。墓地は一区画1メートル四方で、塀際には既に納骨された墓地が並んでいた。右側は国道1号で、駐車場の塀際に石灯籠が並ぶ、「高野山真言宗 千手院」「奉納 菱沼山 長福寺」「奉納 懐島山 宝生寺」「奉納 甘沼山 成就院」。千手院の後は、ここ小和田交差点を南下して「本行寺」へ。途中、千手院裏の片隅にあった石塔。石塔には「奉賀馬大明神」と刻まれ、狛狐の台座には新田家と。JR東海道本線沿いに、「新宿自治会防災倉庫」が2庫建てられていた。この場所は代官町だが何故「新宿自治会」の倉庫が設置されているのか?。12:40太い枯樹が立っており「本行寺」と。日蓮宗 本行寺(ほんぎょうじ)所在地:神奈川県茅ヶ崎市代官町3-29鉄筋コンクリート製の本堂開基金子妙松法尼が日蓮聖人滝口法難の膝元、腰越の地に、昭和十三年、本行結社を創立したことに始まる。その後、法尼の教化によって信徒の数多くを数えるに至り、昭和二十七年宗教法人法に基づき、法尼の師 日華上人を開山に仰ぎ、本行教会を設立した。昭和三十二年、法尼の後継者として 智穏上人が第二世を承継、布教の実を上げた。昭和三十八年に腰越の現本堂建設に着工、翌三十九年十一月本堂落慶とともに「本行寺」と寺号を公称するに至る。昭和四十二年茅ヶ崎市小和田伍仁原の地に、藤原氏五武将の供養塚を再興するとともに霊園を開設、昭和四十六年に拡張、昭和五十一年には、五仁原守護神八大竜王を勧請した。昭和五十六年日蓮聖人七百遠忌報恩事業として、霊園の再拡張と会館を設置、同六十三年十月伍仁原新本堂建築に着工、平成元年七月上棟式、同二年四月新本堂落慶を迎えるに至る。本堂は階段を上り二階にある。境内入口に咲くフヨウ。白のサルスベリも咲く。本堂裏に墓地があり手前には「慈母観世音菩薩」像が建つ。奥に「八大龍王」碑。裏側には、「昭和五十一年三月十三日大祭 本行寺 檀信徒一同 第三世 日光代」と。墓地から本堂の裏を望む。昭和五十一年で住職が第三世のため新しいお寺である。再度綺麗に咲いていたフヨウを追う。12:45本行寺前をJR東海道本線が走る。 ー 続く ー
2022.09.13
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杜に囲まれた広い上正寺の境内を散策。8月29日(月) 12:05山門を入ると左側に鐘楼、石灯籠が建つ。石灯籠は幕府の要職を務めた安藤重博が、第4代将軍徳川家綱の墓所(寛永寺厳有院)に奉献したもので、のちに此処に移されたのだと。さすが将軍の墓所に建てられただけあり、立派な石灯籠。厳有院は東京大空襲で焼失したが、この石灯籠はここ上正寺に移されたことで難を逃れたのだと。茅ヶ崎市内には他にも数ヶ所に石燈籠がある。石燈籠の高さは大人の背丈ほどもあり江戸からもらい下げにも移送が大変であったのではと思うが。竿石には「奉献 石燈篭兩基 東叡山 厳有院殿 尊前 延寶九○○三月八日」と刻まれていた。上正寺の聖徳太子立像 昭和四十九年一月二十三日 茅ヶ崎市指定重要文化財 木造聖徳太子立像 一躯寄木造り、玉眼嵌入。上半身の肌部は素朴に古色仕上げし、袴は朱彩が施されています。この姿は、聖徳太子が二歳のとき、東方に向かって「南無仏」ととなえ合掌すると、手の中から舎利が出たという伝えを表し、「南無仏大師」とよばれます。太子が自ら彫刻したという言い伝えを有していますが、室町時代の作と考えられています。上正寺の旧寛永寺石灯籠 一基 昭和四十九年一月二十三日 茅ヶ崎市指定重要文化財東京都台東区上野公園内にある寛永寺に納められていた灯籠が本市にもたらされたものです。寛永寺は徳川将軍家の菩提所で、竿石にある銘から、延宝九年(1681)、前年に亡くなった四代将軍徳川家綱の墓前に、対馬守安藤重治(重博)が奉納したものであることが分かります。 茅ヶ崎市教育委員会聖徳太子立像(写真はネットから)。一段高い所にある鐘楼。平成27年12月 鐘楼建立昭和42年10月 梵鐘再鋳 戦時中に供出したのであろう。梵鐘には「南無阿弥陀佛」と大きく鋳込まれている。反対側には「正覚大音響流十方」と。この意味をネットで調べると「讃仏偈」には「正覚の大音は、十方に響流す」とある。「正覚の大音」とは、「真実の声」ということである。「十方」とは、東、西、南、北、東南、東北、西南、西北、上、下をいい、すべての世界ということである。「響流」とは「ひびき流布する」ことであると。鐘楼下から、石灯籠・境内を見下ろす。参道には大きな樹が聳える。参道左に『正覚廟』。正覚廟は、個人(家ごと)の墓地ではなく、上正寺有縁の方々の合葬の廟所(墓地)。正覚廟の名称は、当上正寺が平安時代、下寺尾(市内)海円院に始まり、鎌倉初期、当地へ移り(龍沢山龍徳院)無上正覚寺と改められた歴史に則ると。現在の寺名は、本願寺第三代覚如上人下向の折 改められたものであると。正覚廟碑の裏には「平成七年建立 令和三年改修」と。正覚廟の中央に観音像が立つ。墓碑には、法名・お名前が彫刻されますが、ご夫婦の場合、お申し込みが別になりますと彫刻の位置が離れることになります。同時に、お申し込みされることをお勧めしますと。本堂右側にはまだ新しい「門徒会館」が建つ。本堂左側には「手水舎」。手水鉢には「龍澤山」と彫られている。本堂平成十五年(2003) 四月に落成した新しい本堂である。かつては本堂でジャズコンサートが行われていたようだが、ポスターがなかった。本堂の東側には立派な「門徒会館」が建っていた。その前にはサルスベリが咲く。本堂への門をバックにサルスベリ。本堂前から「門徒会館入口」。御朱印もこちらの受付でもらえるようだ。門徒会館前からの本堂。重層な本堂の屋根瓦。墓地は本堂の北側、西側に広がる。墓地は広く旧家の檀家がおられるのであろう。新しい宝篋印塔も建つ。墓地も整備され、古い石碑が建ち並ぶ。聖観世音菩薩 昭和廿六年三月 施主○○○○。徳川家康は家臣に村を所領として与えました。茅ヶ崎村は旗本の興津氏と丸毛氏が得た。境内にはその丸毛家のお墓があると。上正寺の西門から向かい側のマイキャッスル湘南辻堂の角に社が建つ。社の中には石祠。綺麗に整備されていたが説明文はなかった。上正寺の銅板葺きの西門。上正寺の西側に建つ「マイキャッスル湘南辻堂」一段高い所に由緒ある?「日比家之墓」。墓地の片隅に「こうやまき すぎ科 高さ 二六・五米、太さ 二・八四米」と。こうやまきを見上げる。大きな墓石には「慰霊」。綺麗な花が供えられていたが、参拝されたばかりのようであった。墓石側面には「昭和丗二年四月 建 廿三世 釋孝之」多くの名前が刻まれていたが由緒は?であった。本堂前からの参道、山門を望む、南側を国道1号が走るが静かな佇まいである。枯れた古木も。山門前から本堂を振り返る。12:20山門前にも広い駐車場があったが境内の東側にも。上正寺を後にしたが、建物は建替えられ整備されていたので数十年はこの佇まいで。国道1号の西側から上正寺の杜を望む。国道1号の上正寺前交差点から南側に入り金森稲荷神社へ。この道は古来「小和田の浜道」と呼ばれており漁師たちが浜との往復に使った道である。JR東海道本線の踏切を渡り浜竹通りを抜け漁場へ、終点がそれぞれの村の漁場になっていることから、その付近には八大龍王が祀られている。大漁の時には感謝のために捕れた魚をお供えし、正月と9月11日には今でも例祭が行われている。浜道の南側から北側の国道1号側を望む。右側の一角に金森稲荷神社。金森稲荷神社所在地:神奈川県茅ヶ崎市本宿町4本宿町と代官町の境目付近に佇む小さくて可愛い、お稲荷さんである。石碑には「金森神社」「昭和五年十月吉日 青柳三吉建」と刻まれている。こちらの石碑には「明治丗一年十二月」「東京市神田 清水惣吉 建之」と刻まれている。金森稲荷神社の社殿。社殿の中には二つの鳥居が建っていた。境内に咲くサルスベリ。境内に聳える ”こうやまき” であろうか。社殿前には歴史を感じさせる狛犬が一対。社殿の後方から、朱色の鳥居の前は浜道。 ー 続く ー
2022.09.12
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旧東海道の松並木を西へ進む。8月29日(月) 11:45国道1号(旧東海道)を西へ進み前方に、赤松歩道橋(小和田小学校前)。数年前にここで悲惨な交通事故があり小学生が亡くなった。小和田小学校はここから北側へ百メートルほど入ったところにある。赤松歩道橋上から茅ヶ崎方面。電線はモール化され旧東海道はスッキリしている。ズームアップ。天気が良ければ富士が見えそうだ同歩道橋上から藤沢方面を振り返る。赤松歩道橋の西、百メートル程のところの民家の庭先に石柱が建つ。道路を横切り北側へ移動。藤沢方面を振り返るが歩道には枯れた松の幹が残る。明治天皇御小休所阯民家の駐車場の前に明治天皇御小休所阯の丸い石柱が建っていたが説明文は無かった。石柱には「明治元年十月十日 十二月九日」と刻まれていた。明治天皇が京都から東京への行幸のため利用された日であろう。石柱の裏に何か刻まれていたが判読できず。近くに神奈中バス停「東小和田」。バス停脇にキロポスト「日本橋まで55km」。道路脇の花壇にキバナコスモスが綺麗に咲いていた。ズームアップ。前方の交差点は東小和田交差点。ここを左折すると辻堂駅へ達する道で、鎌倉街道(京鎌倉往還)、その先の東海道本線の南側に「源頼朝落馬地」がある。国道1号の東小和田交差点。鎌倉街道(京鎌倉往還)はこの交差点を南北に横切っている。赤松稲荷神社所在地:神奈川県茅ヶ崎市赤松町3-1東小和田交差点を左折して赤松通りを進むと直ぐにある神社である。幟には「豊川○○尼眞天」と書かれている。社の前に狐の狛犬。左側にも狐の狛犬。社の右手前には「小和田東部稲荷神社」のおさいせん。社を覗くと石祠。社の廻りには由緒等の説明はなかった。赤松稲荷神社前の赤松通り。東小和田交差点の南側を赤松通り、北側を小和田通りと呼ばれている。鎌倉街道(京鎌倉往還)は正面の狭い道。北側の東小和田交差点。この後北上。東小和田交差点から小和田通りを数十メートル進みここを左折して鎌倉街道(京鎌倉往還)へ。一方通行の狭い道の傍に「東小和田の道祖神」。所在地:神奈川県茅ヶ崎市菱沼3丁目2鎌倉街道(京鎌倉往還)はこの先を左折するが、私も時々利用する道である。角には安い八百屋さんもありかつてはよく利用した。手をつないだ双体道祖神の前にはワンカップと水が供えられていた。昭和36年に設置された比較的新しい道祖神であると。台座には「特志寄進台石 茅ヶ崎市本村 夏目五郎蔵 菱沼 石忠」と刻まれていたが?。道路脇に無造作に置かれているように見える道祖神である。松林通りは西方向へまっすぐと伸びる。鎌倉街道(京鎌倉往還)はここを左斜めへ進む。左へ進むと直ぐに畑の中に社を発見。裏側に鎌倉街道(京鎌倉往還)。私有地の中にあったので外から撮影。上正寺の墓地裏を進み、ここを左折して国道1号へ。12:00国道1号沿いにある上正寺駐車場へ。国道1号の「上正寺前交差点」。龍徳院 上正寺(じょうしょうじ)所在地:神奈川県茅ヶ崎市小和田2丁目12-73龍澤山龍徳院と号す。浄土真宗西本願寺末。本尊 阿弥陀如来。元禄十五年(1702) 僧 圓春 の記せし 境内太子堂縁起 によるに、圓融院 第四皇子 尊勝法親王郡中寺尾郷(市内小出町)に一宇を建て、海圓院と号し、顕密兼学の道場とす。 文治年中(1185 ~ 1189)当村に移れり。 後、嘉禄年中(1225)住僧 了智坊道圓(佐々木四郎高綱公) 親鸞聖人(浄土真宗の開祖 1173 ~ 1262)に国府津に謁し、其の宗法に帰依し今の宗派に改む。 因りて 了智坊 を宗の開祖とす。其の頃 親鸞聖人 寺号を 無上正覚寺 と名づく。後、寺務を 智圓に譲り、信州松本に正行寺を建て、仁治二年(1241)二月二十九日其の地にて寂す。 齢 七十二才。後、本山覚如上人 巡国の折り、当寺により、寺号を略して「上正寺」とよびしより今の称となれりという。相模風土記より抜粋駐車場の掲示板に「別離の年のできごと 2022年(令和4年)年回表ご法事は、亡くなった方の命日に勤めるものです。亡くなってから1年目の法要は1周忌、2年目は3回忌、6年目が7回忌、12年目は13回忌となっていきます。日ごろ忘れかけている生命のつながりの深さを想い、仏縁に遭うというのが法事を勤める本来の意味です。また地域や他宗派によっては23回忌や27回忌、37回忌をお勤めすることもあります。上正寺山門山門横に「親鸞聖人御像」。此処と名付けて「浄土庭園」という。(回遊式)日頃の雑踏から逃れて、先祖のおわす此の境内に佇み乍ら、阿弥陀如来の慈光の下、宗祖親鸞聖人の温容に抱かれて、心の安らぎを覚える事は、永生への一途に通ずると信ずるが故である。扨、造園に際し、設計施工は勿論終始綿密な計画を以て、自己の利益を度外視して尽力された大八木信昭氏に対し檀信徒一同と共に心からの敬意を表するものである。・・・後略。山門には「浄土真宗 本願寺派 上正寺」。山門から本堂を望む。山門を入ると右側に四阿。山門から国道1号側を望む。 ー 続く ー
2022.09.11
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8月のこの日は久しぶりに爽やかな気温になったので愛車のリンちゃんで出かけた。市内の西側の寺社史蹟はほぼ後略したので、東地区の藤沢との境界「四ツ谷不動尊」へ。途中以前から見落としていた「上赤羽根の石祠道祖神(地蔵堂脇)」をスマホの案内で進む。8月29日(月) 10:40田村通り大山道に建つ「松林村役場跡」。室田通りを北上、ここT字路を右折して東へ進む。T字路脇に立つ石碑。田村通り大山道を東へ進む。かつてはこの辺りから湘南海岸の烏帽子岩が見えたと。木立の上を新湘南バイパスが走る。新湘南バイパスは耐震工事中。スマホの案内で進むとバイパス下から山側の道を案内。墓地の片隅には庚申塔が立ち道はくねくねと。赤羽根通りへ出る。旧家が壊されていたが、奥の丘には市立赤羽根中学校。道路脇には「赤羽根八雲大神」「小さな社」が立つ。来た道を振り返る。地蔵像と石祠。瓶にはサルスベリの花が供えられていた。赤羽根通りを南下、宝積寺南交差点の上を新湘南バイパス。左上に料金所がある。スマホの案内は宝積寺南交差点を左折新湘南バイパスを東へ。左側の新住宅の脇に石祠を発見。スマホでは「赤羽根2565路傍の新旧道祖神」と。元々は湘南バイパスの場所に二体あり、昔はどんど焼き、道祖神火祭りが行われていましたが、湘南バイパス施工時に今の場所へ移設しました。移設した際に新たに二体建立、計四体の道祖神と五輪塔部位積立二体があります。更に東へ進み本来の目的地「上赤羽根の石祠道祖神(地蔵堂脇)」を探す。この辺りは昔のままの丘が広がる。目的地より東へ進み過ぎ振り返る。この後西方向へ戻る。この先の上は新湘南バイパスの料金所。防音対策をして耐震工事中。神奈中バス停「六図(ろくず)」。スマホの案内はここを左折。明治時代初期に赤羽根村は15に区分され、それぞれに「一図」~「十五図」と名付けられた。「六図」はそのなかの一つである。一般には「小字」であると。上赤羽根の石祠道祖神(地蔵堂脇)所在地:神奈川県茅ヶ崎市赤羽根2637-3古道の中に「赤羽根の地蔵堂と石祠道祖神」が立つ。由来等の説明はなく詳細は不詳。スマホの案内では「地蔵堂脇の石祠道祖神」とあったのでこちらがメインであろうか。地蔵堂内をズームアップ。まだこの辺りには畑が広がっているがあと数年もすると住宅地になっているのでは。後方は新湘南バイパスの料金所。大山道へ戻り西方向を振り返る。この辺りは旧家が多い。大山道の路面には茅ヶ崎市の雨水マンホール。真っ直ぐな大山街道を東へ進むと左側に「辻堂変電所」。所在地:神奈川県茅ヶ崎市赤羽根2669-1この先が茅ヶ崎市と藤沢市との市境になる。表札は「東京電力パワーグリッド株式会社 辻堂変電所」。所在地住所が茅ヶ崎市になっているので「辻堂変電所」はおかしいのでは?。大山道の五差路「餅塚の辻」かつてこの辺りは舟で田植えをするほどの低湿地帯で収穫も芳しくなく年貢に苦しんでいた。ところが隣の辻堂村がこの土地を引き取ってくれたので餅をついて喜んだという。田村道はこの辻を左へ曲がって行く。五差路の「餅塚の辻」を振り返る。撮影場所は藤沢市城南1丁目で市境になっているようだ。大山道には市境の標識がない。路面には見慣れた藤沢市の汚水マンホール。五差路の辻から明治57号線、63号線と進み「折戸町内会掲示板」。ピンクのサルスベリが綺麗に咲いていた。明治63号線をくねくねと進むと前方に新湘南バイパスの高架。道路脇には地蔵が立っていた。頭巾を被った地蔵さま。台座には「明和三丙戌十月二日」と刻まれている。地蔵像の向かい側の駐車場脇には社が建っていた。社の中には「観音菩薩像?」綺麗な花、お酒の供え物があった。台座には「龍天」と。11:10社の裏側(北側)を新湘南バイパスが走る。新湘南バイパスの料金所があるので従業員のための廻り階段か。新湘南バイパス下を走り坂を上ってくる。坂を上ると途中に地蔵堂。急な坂であったが電動アシスト自転車は余裕をもって上れた。スマホで見るとこの道は「明治59号線」。地蔵堂内を覗き込む。案山子さんのように古着(失礼)で作っておられるのかおしゃれな地蔵さま。地蔵堂の横には五輪塔、庚申塔が並ぶ。庚申塔には「折戸村 寛政九己正月○○○」。更に坂を上ると、「宗賢院 藤沢霊園」。所在地:神奈川県藤沢市城南1丁目17丘の上には墓地があり、折戸公園と隣接している。上って来た明治59号線を振り返る。宗賢院 藤沢霊園入口にも地蔵堂が建っていた。古い墓石も並ぶ。地蔵像をズームアップ。11:15明治59号線沿いにある「藤沢霊園」。田村通り大山道の北側を走り折戸地蔵へ向かう(黄色の線)。黄色の線は、明治63号線、59号線を走り折戸地蔵へ。大山道は、明治57号線を走り折戸地蔵へ。辻堂内の古道は「明治○○号線」表示になっている。 ー 続く ー
2022.09.05
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高田熊野神社の参拝を続ける。7月28日(木) 10:32高田熊野神社の左側に日枝神社(山王社)が建つ。熊野神社の拝殿の「頭貫」の上の彫刻。浜降祭の後で注連縄(しめなわ)も新しいものになっていた。注連縄(しめなわ)は、お正月のお飾りとして、藁打ちする前の生の藁で作り、神棚やカマドなどに飾りました。木鼻(右)。木鼻(左)。熊野神社の社殿右側に境内社が2社。境内社の扁額「正一位 森家稲荷大神 白笹稲荷大神」。由 緒元和三年森武右エ門が一族狼徒を連高田に土着をし屋敷内に京都伏見稲荷大神系の秦野大泉に鎮座する白笹稲荷神社の分霊を勧進建立をしたのが始です。その後同屋敷内に紀州熊野本宮を分霊し熊野神社を建立をしてその機会に同屋敷を分割をして熊野神社境内社として現在に至っている。当然今の社殿は当時の物とはちがいます。森家を始め高田人々の篤い信仰を受けて大切に保存をされています。 令和三年初午 森 久雄 謹書森家稲荷大神、白笹稲荷大神。社殿北側の大山道沿いに建つ石碑群。右の石碑には「元禄十四年○己七月吉日」、二番目には「願主 森當○ 総氏子」。柵があって中に入れなかったが奥にも石碑が建っていた。ズームアップすると「庚申塔」、「地神塔」、「太白金星大金神」。枯れたタブノキの根元から新しい芽が育っていた。狭い境内に、境内社、熊野神社社殿、左側には神輿殿が建つ。社殿前の旗には、「お伊勢さま 天照皇大神宮と氏神さまの神札(おふだ)をおまつりしましょう 神奈川県神社庁」高田熊野神社から田村通り大山道に戻り西へ向かう。交差点は県道404号線(小出県道)の高田交差点。田村通り大山道はこのまま直進。この先に「稲荷社」があるので交差点を直進することに。道路が狭く一方通行に、但し自転車は除くと。高田交差点から西へ進むと左前方に鳥居が見える。稲荷社所在地:神奈川県茅ヶ崎市円蔵1291-5田村通り大山道の南側にある。ここの南側には茅ヶ崎市立鶴が台中学校がある。左手前には道祖神も。道を挟んだ東側には墓地があり、切り倒された古株が2本。墓地の片隅には古い墓碑が建つ。右の墓碑には「妙法 守法院常信忌 寛延三 庚午 六月上五日」と確認できた。廻りが開発され稲荷社の敷地も狭くなっているのでは。稲荷社の前には集合された鉄製の鳥居がまとめられて。稲荷社は石祠に。氏子等の信仰心のある方もおられるようでお酒が供えられていた。石祠には「両社宮」の名も。稲荷社から大山道を戻り高田交差点を右折して県道404号線(小出県道)を南下、途中左折して東へ進むと道路脇に「高田鎮守 熊野神社 大岡家創建」の看板。旅友が訪れた「鶴田栄太郎氏頌徳碑」へ行くことにし探す。この辺りの北側にあるはずなのだ案内板もなく、ブログの写真からこころあたりを探す。右側の建物は「高田自治会館」でこの前の路地を北側へ進む。路地を入ると数十メートルで正面に墓地があり、その後方が開発中であった。旅友のブログでは墓地の後方に小高い丘があったが。旅友が今年4月28日(木)に訪れた時の写真。現在は開発中で新興住宅地に、この丘辺りに「鶴田栄太郎氏頌徳碑」があったようだ。工事中の方に聞くと「その碑はこれです」と傍(左側)の石材を指さされる。碑は無残にも仮り置かれており「工事が完了後他の場所へ据え付けられるのでは」と。鶴田栄太郎氏頌徳碑鶴田栄太郎は明治廿一年三月隣邑に生る 資性・・・常に名利を棄て清貧に甘んずるの風あり専ら郷土史研究に身を捧ぐること丗餘年相武の山野君の足跡至らざるなく以って地方文化の向上に寄与するところ大なり君偶と大山街道沿線を踏査するや守谷氏の祖に歌人仁兵衛兼布のあるを見出し之を世に紹介す君のこの譽れは守谷氏の深く感動するところとなりついに守谷氏は君の為に建碑の全をなす蓋君が芳志の現なり而て建碑の地をこの山王に相したる所以はこの地の・・・」下部の黒い部分が読めずに残念と。(旅友のブログから)。茅ヶ崎市内の土地価格は高騰しているようでいたるところで住宅地化しているようだ。自転車でチャリ散歩をしていると、このような史跡が失われていくことを残念に思うが私には。旅友が訪れた時の「鶴田栄太郎氏頌徳碑」。昭和32年(1957)の七堂伽藍跡碑の建碑に尽力したのは、鶴田栄太郎であった。鶴田は明治21(1888)年に茅ヶ崎市円蔵に生まれ、1968年に80歳でなくなっている。詳しい経歴は不明だが、戦前期には横浜に出て事業を起こしていたようである。前述した『相武研究』や『郷土神奈川』の編集に携わっており、神奈川県郷土研究連盟では副会長の要職にあった と。開発後にどこへ建てられるのか確認したいものです。室田一丁目交差点茅ヶ崎駅北口から神奈中バスが3路線運航している。前方の杜は「室田八王子」。神奈中のバス停「室田小学校入口」行き先は、「藤沢駅北口」「高山車庫」「室田二丁目」ゆきの3路線。バス通りにある道祖神。道祖神には「昭和三十三年正月十四日 室田部落講中」と。バス通りを整備した時移設されたのであろう。室田八王子神社所在地:神奈川県茅ヶ崎市室田1丁目13-35鳥居の扁額「八王子神社」。正面の小高い所に社殿が建つ。八王子神社は、スサノオの八柱の御子神を祀る神社である。八王子宮、八柱神社(やはしらじんじゃ)などとも言い、日本全国にある。八王子神社の境内にある「室田自治会館」。以前はこの会館で月一回の組長会議を行っていたが、最近は室田住民も多くなり全員が入れないので、松林公民館で開かれているが新型コロナの関係で書類だけをここで受け取っている。神社の北側から境内へ入れる。社殿の西側に神輿殿が建つ。社殿の「頭貫」の上の彫刻。ここの注連縄も真新しい。龍をズームアップ。このような匠の技の継承はどうなっているのか。北側からの入口丘を掘削して入口にしたのか。その丘の上には「奉祝 天皇陛下御即位 御大典記念樹」 QRコードがあったが。社殿の左手(西側)に神輿殿が建つ。ここの神輿も私が室田町民になったころの昭和50年(1975)頃に新しく造ったがそろそろ修復?7月30日には神輿渡御などが行われるが神輿のお披露目があったか?社殿前から鳥居を見下ろす。八王子神社からバス通りを南下、千ノ川沿いの遊歩道脇に立つ道祖神。道祖神横から西へ進む。ここでも開発「マストタウン茅ヶ崎市室田」【建築条件付き宅地分譲】 全9区画 邸別自由設計No.1 ~ No.6 は 約34.1㎡で東向き、既に一区画が契約済になっている。No.7 ~ No.9 は 42.2~62㎡で少し広めになっている。 敷地は千ノ川から南北になっており、右側が宅地で、東側の道路が工事中であった。千ノ川沿いはこの春先まで貸農園であったが。工事現場に建つ看板「特定開発事業の概要のお知らせ」「都市計画法による開発許可済の標識」。住宅地の間の農地に咲くヒマワリ。背丈 1.8メートル以上のヒマワリ。千ノ川沿いの遊歩道に戻り、オニユリが咲く。7月21日(木)、28日(木)の移動は茅ヶ崎市の東地区。今回は国道1号(旧東海道)の北側エリア。 END
2022.08.03
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田村通り大山道(伊勢原藤沢線)を西に進む。7月28日(木) 10:05大山道の左側に本在寺の駐車場。日蓮宗 本在寺(ほんざいじ)所在地:神奈川県茅ヶ崎市高田1丁目7-38駐車場の正面に山門が建つ。山門の左側に建つ題目碑「南無妙法蓮華経」。掲示板には、「今月の聖語 父母の恩の おもき事は 大海のごとし」と。山門右側に広い駐車場がある。山門の正面に「本堂」。山門の右側に「日蓮聖人之像」。北向の本堂。本堂の扁額は山号の「村澤山」。本堂の「天水桶」にも日蓮宗宗紋「井桁に橘紋」。山門を入ると右側に庫裡。本堂前から山門を振り返る。左側に「日蓮聖人之像」が建つ。本堂の引戸を開け内陣を見る。祭壇をズームアップ。本堂手前左に「日蓮大菩薩」碑。掲示板内に宗旨名 稱 日蓮宗宗 祖 日蓮大聖人開 宗 建長五年四月二十八日(鎌倉時代 西暦一ニ五三年)本 尊 久遠の本師 釋迦牟尼佛題 目 南無妙法蓮華経教 義 日蓮宗はお釈迦さまの説かれた最高の教えある法華経をよりどころとする宗団です。 この法華経を身をもって読まれ布教をせられた日蓮大聖人を宗祖と仰いでおります。 本宗の教義は法華経の魂をお題目にこめられた宗祖の教えに導かれて私たちが信行 に励みこの教えを弘めることによってやがて世界の平和と人類の幸福ひいては個人 のしあわせにつながる事を確信できる教えであります。経 典 妙法蓮華経(法華経) 本堂のご本尊さまに先ず合掌本堂の左側から南に進むと墓地。墓地に入るとすぐ右側にある古い二つの墓碑。説明用の立札があるが解読できなかった。本堂東側の駐車場脇に無縁墓碑がならぶ。墓地から本堂の裏側(北方向)を望む。一段高い場所に立派な墓碑が建ち「村澤山 歴代之覚位」と刻まれている。歴代和尚の石碑開 祖 蓮成院 日尊上人 慶長八年三月十六日 二 世 妙光院 日覚上人 慶長八年八月三日三 世 玄立院 日念上人 寛永八年八月八日 ・ ・丗一世中興一誠院 日辰上人 平成二十四年十一月十七日歴代住職の向かい側に五輪塔の「霊山之塔」。霊山之塔をズームアップ。霊山之塔建立の辞現今の核家族化に依って変化を表し遂に無縁化するが如き兆あり。我等同信、その帰寂の時と処を異にすると○も滅後の安心を一会に求め無縁として処することなく然るべき納骨処として之を永遠に安置することを願い霊山之塔を建立するに至れり、その所以たるや往古釈尊の法華経を講述せられし霊地は霊鷲山頂と伝えられし因縁に準○し我等法華経の信仰に生き日蓮聖人の教導に従う者にとりて霊山往詣こそ○生の悲願にして没後の後生安穏を祈念し霊山の域とす。時に香川熊沢ハル氏の発願もあり遺骨収納の方式を勘案これを霊山之塔と名づけ永くこれを後世に留めんと欲す。 平成六年八月吉祥 当山丗一世 一誠院日辰 代墓地入口に休憩所。駐車場へ戻り、次に西側にある「熊野神社」へ向かう。高田 熊野神社所在地:神奈川県茅ヶ崎市高田1丁目10-44当神社は田村通り大山道(伊勢原藤沢線)の南側に鎮座している。鳥居の横に社号標石「熊野神社」。マスクを外された狛犬(阿形像)。マスクを外された狛犬(吽形像)。鳥居を潜ると直ぐに拝殿。拝殿の扁額「㷱㙒(熊野)社」。拝殿右側に神輿殿。今年の浜降祭は中止になったが神輿のお披露目はしたのか。神輿殿の扁額「神輿殿」。拝殿前の水鉢「熊野権現 寛延四○○年六月 ○○吉次郎忠」と。 高田総鎮守 熊野神社高田の鎮守熊野神社は、万治元年(西暦一六五八年)に高田村の領主大岡氏が紀伊国熊野本宮より遷祀された神社で、熊野大神が奉祀されております。慶長八年(西暦一六〇三年)に大岡兵蔵(忠吉公)が、高田村のうちで百六十余石を徳川将軍より賜わり、爾後、明治維新に到るまでその子孫の釆地であったのです。熊野神社を創建されたのは大岡隼人(忠高公)で、越前守忠相公の父君にあたる方です。現在の社殿は、勿論当時の建物ではなく、昭和二年に高田総氏子によって新築されたものです。日枝神社(山王社)当社は、享保五年(西暦一七二〇年)に大岡氏が、近江国東坂本の山王大権現を分祀された神社で、祭神は大山昨命であります。昔の社殿は、山王山と稱する丘陵上に建てられていて、そこには青々と松が茂り、高田耕地を眼下に見下す景勝の地でありましたが、後に、熊野神社境内に移されたものです。現在の社殿は、昭和四十七年に新築された建物です。社殿南側に大きな奉納板。高田熊野神社社殿・神輿の修復事業 奉賛金ご支援のお願い平素より高田熊野神社の神威高揚、保持発展のため、皆様方におかれましてご支援ご協力を賜り厚く御礼申し上げます。高田熊野神社は、万治元年(西暦1658年)に高田村の領主で大岡隼人(忠高公)が紀伊国熊野本宮より分祀された神社で、熊野大神が奉祀されております。忠高公は越前守忠相公の父君にあたる方で、由緒ある神社です。現在の社殿は、昭和二年に高田総氏子により創建されたものです。風雨に耐えた九五年の歳月により、社殿の回廊と雨戸の傷み、雨漏り、柱の沈み等々損傷が激しい状況です。また、神輿は昭和五十二年に建設され経年劣化により、歪み、金具の損傷、漆の剝離等により修復が急務となっています。今般氏子総代と協議の結果、各位の協賛を仰ぎ、神社社殿と神輿の修復を行うことに決定致しました。歴史的、文化的、地域の財産を次世代に継承し末永く地域の皆様と共に保存してまいりたいと考えております。誠に恐縮と存じますが、氏子、崇敬者、事業者、地域の全ての皆様方のご理解とご支援を賜りますように切にお願い申し上げます。 令和四年五月吉日 熊野神社 宮司 杉﨑直人 熊野神社 総代役員一同 【 奉賛金受付の日程について 】 令和4年5月吉日1, 場 所 高田熊野神社境内にて受付2, 日 時 6月19日(日)、6月26日(日)、7月3日(日) 午前10時00分 ~ 午後3時00分奉納板には「高田熊野神社社殿・神輿修復奉賛金寄贈者 御芳名」。高田熊野神社社殿・神輿修復奉賛金寄贈者 御芳名一金 六拾萬円 杉﨑直人様一金 参拾萬円 浅岡 肇様 小池重郎様 伊藤宏文様 水越勝彦様 森 久雄様 久保田芳弘様 福岡貴久様 伊藤幸博様一金 弐拾萬円 上村純夫様 森 俊彦様 奥津光彦様 川本 章様一金 参萬円 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一金 壱萬円 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一金 五千円 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一金 参千円 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一金 弐千円 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一金 壱千円 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 顧問・役員・委員の方々の奉賛金は、一金 弐拾萬円以上になっている。 事業者からの奉賛金一金 五拾萬円 中華のんち 小野一彦様一金 弐拾萬円 株式会社寺田酒店様一金 壱拾萬円 本在寺小川浩正様 有限会社サクマ土建様 有限会社太平商事様 高田祭囃子保存会様一金 五萬円 つるや食堂 中田米穀店 すみれ幼稚園 他高田熊野神社の南側に隣接して日枝神社、神楽殿であろうか。日枝神社(山王社)の社殿。以前は他の場所にあったがここへ移設されたと。日枝神社の扁額「山王社」。水鉢の正面に「山王社」。 ー 続く ー
2022.08.02
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