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2019.02.03
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カテゴリ: ブログ村
​​ 「お父様、有原罪(堕落圏から)」は原理講論と矛盾しないについて​​


「篤実なクリスチャンの家系でもなかったお父様が無原罪のメシヤ・再臨主?」
堕落圏からメシヤ・再臨主は、原理講論と矛盾するような内容だ。

クリスチャンでもなかったお父様がキリスト教に改宗したなり、どうして「独生子」「再臨主」になることができるのか? 
私たちはこれまでの「因習的な信仰観念と旧態を脱けでられないかたくなな信仰態度」があったればこそ「無原罪のお父様」と信じ、なにも矛盾を感じてこなかったということか。

​予定論P.246~からは、
​ つぎに、神の予定において、 復帰摂理の中心人物となり得る条件はいかなるものであるかということについて調べてみることにしよう。 神の救いの摂理の目的は、堕落した被造世界を、創造本然の世界へと完全に復帰することにある。ゆえに、その時機の差はあっても、堕落人間はだれでもみな、救いを受けるように予定されているのである(ペテロⅡ三・9)。ところが、神の創造がそうであるように、神の再創造摂理である救いの摂理も、一時に成し遂げるわけにはいかない。一つから始まって、次第に、全体的に広められていくのである。神の摂理が、すべてこのようになっているので、救いの摂理のための予定においても、まず、その中心人物を予定して召命されるのである。
 それでは、このように、召命を受けた中心人物は、いかなる条件を備えるべきであろうか。 ​彼はまず、復帰摂理を担当した選民の一人として生まれなければならない。同じ選民の中でも、善なる功績が多い祖先の子孫でなければならない。同じ程度に善の功績が多い祖先の子孫であっても、その個体がみ旨を成就するのに必要な天稟を先天的にもつべきであり、また、同じく天稟をもった人間であっても、このための後天的な条件がみな具備されていなければならない。さらに、後天的な条件までが同じく具備された人物の中でも、より天が必要とする時機と場所に適合する個体を先に選ばれるのである。​​
韓国にキリスト教が入ってきて200年にもならない。その韓国に再臨主が来られる、ということ自体も奇跡であり、お父様の家族がキリスト教に改宗した後の「16歳の復活節に」は奇跡の中の奇跡として選ばれたに違いない。

ヨハネ福音書1章を見ても、
44 ピリポは、アンデレとペテロとの町ベツサイダの人であった。
45 このピリポがナタナエルに出会って言った、「わたしたちは、モーセが律法の中にしるしており、預言者たちがしるしていた人、ヨセフの子、ナザレのイエスにいま出会った」。
46 ナタナエルは彼に言った、「ナザレから、なんのよいものが出ようか」。ピリポは彼に言った、「きて見なさい」。
と書かれていた。イザヤ書には「 ヨルダンの向こうの地、異邦人の ガリラヤ に光栄を与えられる。 」との預言がされていて、イエス様はガリラヤ(ナザレの町)から出てこられた。
余談だが、 ナザレから、なんのよいものが出ようか 」と言ったナタナエルもガリラヤ生まれの人であったが、熱心にそのことを信じていた一人でありイエス様が「「 見よ、あの人こそ、ほんとうのイスラエル人である。その心には偽りがない 」」と、彼について言及されたのを聞いて弟子のひとりとなった。

小さな「韓国から、なんのよいものが出ようか」と、日本・世界も思っていたことだ。ところが、その韓国の地からお父様が現われたのは、神様がそのように予定されたということだ。
一旦失敗したユダヤ民族を神様は選択することができない。アブラハムの信仰を継承したキリスト教徒たちであった。黙示録からは「東方の国」、それが韓国ということだ。ではなぜ、韓国なのか。その詳細については​ 「再臨論」 ​で記載されていた。
(1) この国は蕩減復帰の民族的な基台を立てなければならない
(2) この国は神の一線であると同時にサタンの一線でなければならない
(3) この国は神の心情の対象とならなければならない
(4) この国には預言者の証拠がなければならない
(5) この国であらゆる文明が結実されなければならない
「予定論」からは神様はかくのごとくイスラエル選民の中から先天的天稟をもった人間、また、後天的に条件が具備された中でも、さらに天が必要とする時と場所に適合した個体が「お父様」ということだった。

ここまでの流れからは「原理講論」と矛盾するところは感じられない。
原理講論は、「独生子」「独生女」が出会っての「小羊の婚宴」が成された後の「善の父母」「真の父、真の母」について書かれたものだからである。「イエス様」という記述があっても、その行間には「聖霊」が常について回っていることは間違いのないことである。

<続く>


一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

奇知=人とは異なる知恵
すなわち神様の知恵

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Last updated  2019.02.03 17:41:03
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