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52.マルガリータ(Margarita)【現代の標準的なレシピ】(容量はml)テキーラ(30~40)、ホワイト・キュラソー(またはコアントロー、トリプルセック)(15)、ライム・ジュース(15) ※グラスを塩でスノースタイルに 【スタイル】シェイク マルガリータは現代においても、とても有名で重要なカクテルですが、残念ながら誕生の経緯・由来について、確かな説や裏付け資料は現時点では確認されていません。 にも関わらず、日本ではいまだに、「1949年、ジャン・デュレッサー(以下の【注】ご参照)というバーテンダーが、全米カクテルコンテストで3位になった自分のカクテルに、かつてハンティング中の流れ弾に当たって亡くなった悲運の恋人の名をつけた」という説が、定説のように信じられています。 【注】John Durlesserは、日本ではこれまで「ジャン・デュレッサー」と表記されることが多かったのですが、本稿では以下、より原音に近い「ジョン・ダーレッサー」と表記します。ダーレッサーは実在の人物で、カリフォルニア州ロサンゼルスの有名レストランのチーフ・バーテンダーでした。 なぜかよく分からないのですが、日本国内で発行されるほとんどのカクテルブックでは、この根拠不確かな「流れ弾説」がよく紹介されています。非常に残念ながら、最も権威と信頼性があるはずの「NBAバーテンダーズ・マニュアル」の最新改訂版(2016年、あの「食の専門出版社」・柴田書店が刊行)を始め、Wikipedia日本語版、大手ウイスキー会社のHPでさえも!。 Wikipedia英語版では「流れ弾説」はまったく見向きもされていないのに、同じWikipediaの日本語版ではこの「流れ弾説」を定説として紹介しているのを見ると、もう笑うしかありません。結果として、日本のバーの現場では、ほとんどのバーテンダーがこの根拠のない「流れ弾説」を信じ、拡散し続けています。 確かなことは、この「ダーレッサー=流れ弾説」は欧米の専門サイトや文献ではほとんど取り上げられていないということです(Wikipedia英語版の掲示板では、「このフィクションは日本人のほとんどに信じられている。バーテンダーを主人公にしたドラマがさらに、そのフィクションを事実のように取り上げた」という批判的な書き込みもありました)。 2008年、この「流れ弾説」が幅を利かせる日本のバー業界の現状に一石を投じたのが石垣憲一氏でした。石垣氏は『カクテル ホントのうんちく話』(柴田書店刊)を著し、その地道な調査の結果、(日本人による)後世の作り話である可能性がきわめて強いことをほぼ証明しました。 石垣氏によれば、1949年当時、全米カクテルコンクールが開かれたという記録はなく、ダーレッサー考案説は、その前提自体が疑わしいということです。国際バーテンダー協会北米支部の公式見解によると、マルガリータの原型となるカクテルは、1930~40年代にメキシコ・アカプルコのバーで生まれたといいます。ただし当時はどういう名前が付いていたのかは定かではありません。 同支部は1940~50年代に、アカプルコに別荘を持っていたマーガレット・セイムズなる米国人女性がこのカクテルをいたく好んで、米国内に広めたといい、カクテル名も彼女の名前マーガレットにちなんで「マルガリータ」となったと説明しています(ただし、このセイムズ説について、同支部は裏付け資料を示しておらず、「考案者」とは言っていません)。ちなみに、このセイムズなる女性は2000年代前半、日本のテレビ番組にも登場し、「私がマルガリータの生みの親」と語っていたそうです。 しかし、石垣氏によれば、彼とマルガリータの創作を結びつける根拠ある証拠資料や証言は見当たらず、ダーレッサー自身のコメントもまったく伝わっていません(もしそれほど有名な考案者であれば、普通当事者の何らかのコメントが伝わっているはずです)。第二次大戦後に、日本人の誰がこのような、手の込んだ「作り話」を考えつき、拡散させたのか…。本当に罪作りと言うしかありません。 マルガリータの起源については、今なお諸説入り乱れて、真実は不明です。しかし、専門家による最新の研究によれば、おそらく、禁酒法時代(1920~33)以前から存在していた「デイジー(Daisy)」というドリンクが原型だろうということではほぼ一致しています。「デイジー」はスピリッツをベースに、柑橘系のジュースやシロップを加えシェイクした後、氷を入れたコブレットで味わう古典的なカクテルです。 テキーラが米国中西部やメキシコ側の国境地域で普及するにつれて、「テキーラ・デイジー」というカクテルへ発展し、それが「デイジー」の原意(「ひな菊」)を意味するスペイン語の「マルガリータ」と呼ばれるようになったと考えるのが現時点では一番信憑性があり、説得力があるでしょう(出典:2021年刊の「The Cocktail Workshop」=Steven Grasse & Adam Erace共著ほか米国の専門サイト)。 ご参考までに紹介すると、欧米では以下のような諸説が伝わっています(出典:WiKIpedia英語版や米国の複数の専門サイト<drinkmagazine、thewinetimes、vinepairほか>)。当然ながら、「ダーレッサー=流れ弾説」を紹介しているサイトはまったくありません。(1)=石垣氏が紹介した国際バーテンダー協会北米支部の説 元々は1930~40年代にメキシコ・アカプルコのバーで誕生した。その後1940~50年代(1948年頃?)に、アカプルコに別荘を持っていた米テキサス州在住のマーガレット・セイムズ(Margaret Sames)なる女性が、別荘で開いたパーティーなどを通じて米国内に広めたといい、カクテル名は自分の名前をスペイン語風に変えて『マルガリータ』と呼んだ」という。 ※セイムズのパーティーでこのカクテルを飲んで気に入った友人のトミー・ヒルトンは、自らが経営するヒルトン・ホテルのバー・メニューに早速、マルガリータを加えたという。(2)1936年、メキシコ南部、プエルバ(Puebla)のホテルの支配人、ダニー・ネグレーテ(Danny Negrete)がマルガリータという名の彼のガールフレンドのために考案した。(3)1930年代後半(1938~39年頃?)、メキシコ国境に近いカリフォルニア州ロサリート(Rosarito)にあるバー「ランチョ・ラ・グロリア」のバーテンダー、カルロス・エラーラ(Carlos Herrara)がマリオーリ・キングという名の女優のために考案した。(4)1940年代、ハリウッド在住のバーテンダー、エンリケ・グティエーレス(Enrique Gutierrez)が顧客の一人であった、女優リタ・ヘイワーズ(Rita Hayworth)のために考案した。ヘイワーズの本名「マルガリータ・カンシーノ」にちなんでマルガリータと名付けたという。(5)1941年、メキシコ・エンセナーダのバーテンダー、ドン・カルロス・オロスコ(Don Carlos Orozco)がドイツ大使の娘、マルガリータ・ヘンケルのために考案した。(6)1948年、テキサス州ガルベストンに住むバーテンダー、サントス・クルーズ(Santos Cruz)がマーガレットのミドルネームをもつ歌手のペギー・リーのために考案した。(7)テキーラ・メーカーの「ホセ・クエルボ社(Jose Cuervo)」が1945年に自社のテキーラの販促キャンペーンのために考案した。(8)1910年代に生まれた「サイドカー」というカクテルのベースをブランデーからテキーラに替えたものが、1930~40年代に何かのきっかけで「マルガリータ」と呼ばれるようになった 欧米のカクテルブックで、「マルガリータ」の名前で初めて登場するのは、現時点で確認できた限りでは、1947年に出版された「Trader Vic's Bartender's Guide」(Victor Bergeron著)です。レシピは「テキーラ1oz、トリプルセック(オレンジ・キュラソー)0.5oz、ライム・ジュース半個分、シェイクして縁を塩でリムしたグラスに注ぐ」(1oz=ounce=は約30ml)となっていて、現代のレシピとそう大きく変わりません。少なくとも1940年代半ばの米国では、マルガリータはある程度認知されていたことを裏付ける文献です。 ご参考までに、1950~80年代の欧米のカクテルブックから、「マルガリータ」のレシピを少し紹介しておきましょう(塩でグラスをスノースタイルにするのは共通なので省略します)。・「Esquire Drink Book」(Frederic Birmingham著、1956年刊)米 テキーラ1oz、トリプルセック1dash、ライム(またはレモン)・ジュース半個分(ステア)・「Mr Boston Bartender's Guide」(1960年版)米 テキーラ1.5oz、トリプルセック0.5oz、ライム(またはレモン)・ジュース0.5oz(ステア)・「Booth's Handbook of Cocktails & Mixed Drinks」(John Doxat著、1966年刊)英 テキーラ1oz、コアントロー0.5oz、ライム(またはレモン)・ジュース0.5oz(シェイク)・「The Bartender's Standard Manual」(Fred Powell著、1979年刊)米 テキーラ1jigger、トリプルセック(またはコアントロー)0.5jigger、ライム(またはレモン)・ジュース0.5jigger(シェイク)※1jiggerは45ml・「Harry's ABC of Mixing Cocktails」(Harry MacElhone著、1986年刊の復刻版)英 テキーラ3分の1、コアントロー3分の1、レモン・ジュース3分の1(シェイク) なお、1937年に英国で出版された「Café Royal Cocktail Book」(J.W.Tarling著)には「ピカドール(Picador)」、1939年に米国で出版された「The World Famous Cotton Club:1939 Book of Mixed Drinks」(Charlie Conolly著)には「テキーラ・サワー(Tequila Sour)」という、それぞれ「マルガリータ」とほとんど同じレシピのカクテル(テキーラ、コアントロー、ライム・ジュース)が収録されていますが、これを「マルガリータ」のルーツとするかどうかは、残念ながら、私には判断できる材料がありません。 マルガリータは、日本にもおそらくは1950年代後半には伝わっていたのでしょうが、文献に登場するのは60年代になってからで、街場のバーで一般的に知られるようになったのは70年代以降です。その後は、トロピカルカクテル・ブームなどの効果もあって、幅広く浸透するようになりました。 くどいようですが、最新の「NBAオフィシャル・カクテルブック」(柴田書店刊、2016年改訂版刊)を始めとして、日本のほとんどのカクテルブックはいまだに、冒頭に紹介した「流れ弾 ・悲運の恋人説」にこだわり、根拠のない説を取り上げて続けています。結果として、多くのバーテンダーがこの作り話を歴史的事実と誤解して、お客様に広めています。 いい加減、日本のバー業界団体や日本人バーテンダー、出版業界も、この根拠なき「後世の作り話」を忘れるべき時期ではないでしょうか。少なくとも業界最大の団体としてNBAカクテルブックを監修している日本バーテンダー協会とその出版元(柴田書店)は、その責任を考えるべきでしょう。 【確認できる日本初出資料】「カクテル小事典」(今井清&福西英三著、1967年刊)。レシピは「テキーラ40ml、トリプルセック15ml、レモン・ジュース15ml、シェイクして、塩でスノースタイルにしたシャンパン・グラスに注ぎ、氷1個を加える(氷を加えないこともある)」となっています。冒頭の現代レシピとほぼ同じです。 ※なお、1962年刊の「カクテール全書」(木村与三男著)には、冒頭のレシピにアンゴスチュラ・ビタースを少し加えた「テキーラ・マルガリート」というカクテルが紹介されていますが、これを日本初出とするかは少し意見が分かれるところでしょう。 ※この稿の執筆にあたっては、石垣憲一氏とその著書「カクテル ホントのうんちく話」(柴田書店刊)に非常にお世話になりました。この場をかりて改めて厚く御礼を申し上げます。・こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2017/05/28
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日本にカクテルというものが初めて伝わったのは、約150年前、明治の開国直後です。1860年(万延元年)、横浜の外国人居留地に開業した「横浜ホテル」に我が国初のバーが誕生し、その半世紀後の1910年(明治43年)には、銀座に日本で初めての街場のバー「カフエ・プランタン」が生まれました。 大正時代(1912~1926)に入ると、大正デモクラシーの雰囲気も相まって、大都市では相次いでカフエやバーが開店。そして、日本人の手によって初めて体系的な、本格的なカクテルブックが生まれます。今から93年前、1924年(大正13年)のことです。この年、2冊のカクテルブックが誕生しました。秋山徳蔵氏著の「カクテル(混合酒調合法)」、そして、秋山の本から1カ月遅れて出版された前田米吉氏=写真左=著の「コクテール」です。 著者の前田米吉氏は当時、東京・四谷の「カフエライン」という店に勤めるバーテンダーでした。ハードカバー260頁の「コクテール」には、287種のカクテルのレシピが紹介されていますが、その内容(書き方)は実用に徹したものになっています。秋山氏の本が個々のカクテルの作り方をすべて文章だけで表現しているのに対して、前田氏の「コクテール」は「***2分の1、***3分の1」というように、今風の分量表記で作り方を説明しています。 なので、当時のプロのバーテンダーにとっては、前田氏の本の方がより実用的で、仕事に役立つカクテルブックだったに違いありません。洋酒に関する情報や材料が乏しい時代に、このような完成度の高い本を書き上げる苦労は並大抵のものではなかったと思います。本書は、「バー業界の先駆者の汗と涙の結晶」とも言えます。 不思議なことに「コクテール」には、この6年後に出版される歴史的名著「サヴォイ・カクテルブック(The Savoy Cocktail Book)」=1930年刊=で、欧米で初めて紹介されたカクテルがいち早く、30数種類も!登場しているのです。なかには、明らかに著者ハリー・クラドック(Harry Craddock)のオリジナルと思われるカクテルも含まれているのが、大きな謎です。出版6年も前に、遠い東洋の日本でどのようにレシピを知り得たのか、非常に興味をそそられるところです。 著者・前田氏は経歴等がほとんど分からない謎の人物でした。私は、復刻版「コクテール」の編者として、「前田氏はおそらく、『カフエライン』に勤める以前に、外国航路の客船でバーテンダーとして働いていて、同僚だった外国人バーテンダーや外国人乗客から直接、サヴォイ・ホテルのバーで1920年代につくられていた(印刷物として紹介される前の)カクテルについて細かな情報を得ていたのではないか」などと記し、想像をかき立てました。 定価は「金五円」と、当時としては決して安くはなかった(【注】)本にも関わらず、数多くの飲食業界(とくにカフエやバー関係)の人たちに支持されたのか、発売後にすぐ再版されています(【注】大正13年当時の「金五円」はどれくらいの価値だったのか。「値段史年表」=朝日新聞社刊=という本によれば、都内・板橋の4部屋の家の家賃が5円20銭、小学校教員の初任給(月給)は12~20円。この本の値段は相当高価なものだったことがわかります)。 しかし残念ながら、「コクテール」は戦前の段階で絶版となり、現在では古書市場でも手に入れることは極めて困難です。私は「貴重な内容がこのまま陽の目を見ないのはもったいない。現在のバーテンダーにもその内容をぜひ紹介したい」と願っていましたが、先般、幸運にも「コクテール」の原本をお持ちのバーテンダーから貸してもらえたのを機会に、その内容をBlogで完全復刻する形で、解説付きで連載することができました(2011年2月~5月)。そしてその際、以下のような「おことわり」を記しました。 「出版から70年以上が経過しているため、出版元の著作権は切れています(一般的には、出版社に帰属する場合がほとんどです)。ただし、前田氏のご遺族がもし著作権を継承していた場合は微妙です。死後まだ70年が経過していなかった場合は、著作権侵害になる恐れがあります。前田米吉氏本人は生年没年不詳で、現在ではご遺族や関係者等まったく消息不明です。出版元で勤務先でもあった『カフェライン』も現在はありません。私自身は前田氏のご遺族と連絡をとりたいと願っていますが、未だ叶っていません。 万一、前田氏のご遺族からクレームがあった場合は、『前田氏の偉大で貴重な功績を後世に伝えるための連載で、私自身、一切の利益は得ていないこと』を伝えて理解していただくつもりですが、ご理解を得られない場合は、その時点で連載は中止し、過去分についてもすべて消去しますので、あらかじめご了解ください。」 幸い、連載中、ご遺族からのクレームはありませんでしたが、残念ながら、連載終了時までにご遺族の消息は不明なままでした。その後、2016年6月に出版された本「進化するBar」(柴田書店刊)の中で、私は、カクテルの歴史を紹介するページを担当させて頂きましたが、その際にも、前田米吉氏については、以下のように書かざるを得ませんでした。 「前田米吉:出身地、生没年ともに不明。1924年、日本初の実用的カクテルブック『コクテール』の著者。出版当時、東京・四谷の「カフェライン」に勤務するバーテンダーという以外、経歴はほとんど伝わっていない。秋山の『カクテル』1カ月遅れで出版された同著には、287のカクテルが紹介されているが、なかには1930年刊の『サヴォイ・カクテルブック』のレシピを先取りしているものもあり、前田氏がロンドンの最新情報に接していたことに驚かされる。」(写真左は、昭和初期の撮影と思われますが、詳しい年月日は不明。) そして、それから約1年経ったある日、(先般もこのBlogでも紹介しましたが)予期せぬ、大変な幸運が巡ってきたのです。Blogを見た前田米吉氏のご子孫が、私に直接ご連絡をくださったのです。直系のご遺族ではありませんが、米吉氏の姪に当たる加代子さん(76)と、そのご長男英樹さん(46)が、それぞれ東京と栃木からわざわざバーUKまでお越しくださいさました(インターネットという発明がなければ、こうした嬉しい出会いもなかった訳です。本当に有難いことです)。 繰り返しになりますが、前田氏は、この歴史的名著の著者としてバー業界ではそれなりに名は知られていますが、これまでは「(出版当時)『カフェライン』でバーテンダーをしていた」ということ以外は、経歴等がまったく不明で、謎の人物でした。今回、そんな故・前田氏の経歴や親族に伝わっている人柄について、貴重で、興味深いお話(情報・データも含め)がたくさん聞けました。嬉しいことに、前田氏に関する貴重な未公開の写真も何枚か頂けました。 とりあえず、今回正確に判明したのが前田氏の生没年です(戸籍謄本や死亡届の写しまでご持参くださいました!)。明治30年(1897年)4月8日生まれで、「コクテール」刊行時はまだ27歳の若さだったことになります。そして、亡くなられたのは昭和14年(1939年)11月27日。42歳という夭折でした。 そして、前田氏の経歴・横顔について、以下のような興味深い貴重なお話が伺えました(カクテル史の空白が、少しは埋められたような気もしています)。 ・鹿児島県吉野町(現・鹿児島市吉野町)の出身。四男三女の三男として生まれた。実家は造園会社を営んでいた。 ・1920年(大正9年)、23歳の時、2歳年上のユワという名の女性と結婚。戸籍をみると子供が一人いたことが分かるが、すぐに亡くなっている。妻も翌年、亡くなっている(その後、再婚したかどうかは不明)。少なくとも直系の子孫はいないという。 ・上京した時期は不明だが、「コクテール」の前書きにも、(出版時点で前田氏は)「多年コクテールの研究者」だったと記されていることからも、結婚後まもない時期(少なくとも1921年までには)には東京でバーテンダーとして働いていたことは間違いない。 ・上京後、前田氏は「カフェライン」でバーテンダーの職を得た(前田氏はなぜバーテンダーの職を志したのか、その理由は不明)が、同時に洋酒の販売も手がけていた。 ・前田氏は「コクテール」出版後に「カフェライン」を退職し、昭和の初め、銀座に自らの酒類販売店「前田米吉本店」を興した。 ・「前田米吉本店」は洋酒だけでなく、瓶詰めのカクテルも販売し、三越百貨店とも取引があったという(当時、新聞広告を出すほど羽振りが良かったらしい。パトロンには李香蘭<山口淑子>もいて、ニッカの竹鶴政孝とも交流があったという)。 ・前田氏は、昭和14年、42歳の若さで亡くなったが、死因は急性アルコール中毒だったという。 私は「前田氏がなぜ、1924年の時点で海外のカクテルについて、あれほど詳しい情報(レシピなど)を入手できたのでしょうか?」「海外に行かれたとか外国航路の客船で働いていたとか聞かれていませんか?」と加代子さん、英樹さんに尋ねました。しかし残念ながら、お二人ともその答えは「現時点ではまったく手がかりはなく、分からないんです」ということでした。 もちろん、1921年頃には東京で飲食の仕事をしていた前田氏が、東京を訪れていた外国人から直接、あれこれ情報を仕入れたという可能性もあります。サヴォイ・ホテルのドリンク・メニューやレシピを何らかの方法で入手できたのかもしれません。しかしそれにしても、サヴォイ・カクテルブックの出版よりも6年も早く、そのカクテル・レシピを紹介できたのは凄いことです。 しかし、お二人が私にお持ちくださったこれまで未公開だった写真の一つ=写真右=に、その答えにつながるかもしれない驚きのヒントがありました。おしゃれな白っぽいスーツを着た前田氏が、なにやら額入りの感謝状のようなものを手にした記念写真ですが、その写真には旧海軍の軍艦が映っています。大正末期か昭和初期か時期は不明ですが、この頃、海軍は欧州に「親善訪問」という名目で艦隊をたびたび派遣しています。 このような感謝状をもらうということは、前田氏はひょっとしてこの艦に乗船して、料理や酒を振る舞う仕事をしたのではないか。そして欧州訪問にまで同行したのではないか。そんな秘話があったとしても決しておかしくないと思っています。 前田米吉氏を巡る謎は、まだ解明された訳ではありません。何よりも「サヴォイホテル(サヴォイ・カクテルブック)」との関係で謎は多く残っています。しかし今回ご子孫のご協力で、少なくとも前田氏の出生地や生没年、そしてバーテンダー、ビジネスマンとしての姿も少しは明らかになりました。加代子さん、英樹さんの温かいお申し出、ご協力に心から感謝したいと思います(将来、ひょっとして前田氏の貴重なカクテルノート等が発見されることを、今は心から願っています)。 以下に、今回初めてご提供頂いた前田氏の他の写真も、紹介しておきます。(昭和初期、「前田米吉本店」開業の頃。前田氏は盛装しています。)(鹿児島の実家前での前田氏。隣で椅子に座っているのは新婚早々の妻ユワさんではないかと考えられています)。***********************************【ご参考】最後に、この歴史的名著「コクテール」の冒頭部分を紹介しておきたいと思います(なお、私の解説を加えた復刻版「コクテール」は現在絶版となっていますが、本文は、拙Blogのリンク「カクテルブック」からお読み頂けます)。 「コクテール」發行に就いて コクテールは欧州戦後【注1】間もなく東京に芽生えまして、お客様の御愛用になる医薬上・衛生上・嗜好上乃至(ないし)交際上快く可からざる新しい飲み物で御座いましたが、震災【注2】の為め生活必需品にあらざるコクテールは一時その影を潜めました。が、段々東京の復興に連れまして、此頃又コクテールの御愛用が多くなりました事は誠に結構な事と存じます。 奢侈(しゃし)を戒め、勤倹を勤むるは勿論の事で御座いますけれども、徒(いたずら)に思想や生活問題の悲観にのみ沈んで向上を唱えないのは、個人としても発展の途ではありません。東京としても復興の意氣ではありません。又國家としても新興の策ではないと存じます。 この意味に於きまして寧(むし)ろ恐ろしき震災の記憶を新たにするよりも、過ぎ去ったことは忘れて仕舞い、希望ある将来を追求して大いに働き、大いに食ふと云うことが、今日の東京のお方に尤(もっと)も必要な事ではないかと存じます。 コクテールには医薬・衛生・嗜好或いは交際場に於きまして、必ずしも奢侈品とは申されません。一日の労務に依って得た一部を以(もっ)て、此の無量の快感を与える一盃のコクテールを傾けるのは同時に翌日の為に無限のお活動力を貯えるので御座いまして、如斯くにして個人も社会も國家も向上発展して行くのではないかと存じます。 閑話休題。コクテールは其の配合すべき各種飲料並びに香料等に一定の分量が極まって居りまして、此の分量が違っては医薬にもならず嗜好にも適しませんのみならず、却って身体に害があります。又、各種分量をコクテールセーカに入れてセーク(攪拌)するにも、一つの技術を要します。 そこで優秀なバーテンダーが居ない処のコクテールは多くお客様の嗜好に適しません。是はコクテールの流行が最近でありまして、其の知識が普及されて居りませんのと、研究すべき何等の材料も御座いませんので止むを得ない次第で御座います。 其の為め、多くのカフエー業者並びに一般の御家庭でも何かコクテールに関する著述を渇望して御出でになる矢先に、多年コクテールの研究者前田米吉さん【注3】が此の大方の御希望を満たす為め、其の蘊蓄(うんちく)を極めたバーテンダーの「六韜三略(りくとうさんりゃく)」【注4】とも申すべき所謂(いわゆる)「虎の巻」を開放して、茲(ここ)に此の処方を發刊する事になりましたのは勿論、一般御家庭に取っても天来の福音でありまして、同時に日本コクテール界の為め祝ばしき事で御座います。 因みに著者は当分、弊店のバーテンダーとして働かれますから本書に就き御氣付きの点は御遠慮なく御叱正賜り度く御願ひ致します。 大正十三年十月【注5】 カフエライン【注6】 主人 天草 よし 識(しる)す【注1】「欧州戦後」の「欧州戦」とは第一次世界大戦(1914~1918)のことを指す。【注2】この「震災」とはもちろん、この「コクテール」発刊の前年の1923年に発生し、首都圏を中心に死者・行方不明者約10万5千人余という惨事となった関東大震災のこと。【注3】本書の著者である前田米吉氏については、その写真は本書に掲載されているものの、「当時、カフエラインに勤めていたバーテンダー」ということ以外、生年没年、経歴などはまったく不明の謎だらけの人物である。【注4】「六韜三略」とは、中国古代の代表的な兵法書である「武経七書」のうちの「六韜」と「三略」を指す。紀元前11世紀、周の軍師・呂尚が編んだとされるが、著者については他にも諸説あるという。ちなみに呂尚は別名を「太公望」とも言い、釣り好きの代名詞として今日でもその名を残している。また「六韜」の中の「虎韜」は、今日で言う「虎の巻」の語源(由来)であるとされる(出典:Wikipedia)。【注5】この前書きが書かれた日付は「大正十三年十月」だが、本書が実際に発刊されたのは翌「十一月五日」だった。このため、「日本初のカクテルブック」の称号は、同年十月にいち早く出版された秋山徳蔵氏の「カクテル(混合酒調合法)」に譲ることとなった。【注6】本書の出版元でもある「カフエライン」は大正期に東京に数多く開店したカフエの一つだが、現在は存在していない。本の奥付によれば、住所は「東京市四谷区鹽(しお)町2丁目1番地」とある。「鹽町」は東京の旧町名専門サイトによれば、1947年まで存在した町名で、現在の地下鉄・丸の内線「四谷三丁目駅」付近だという。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2017/12/30
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オーセンティック・バーでも提供されることの多い自家製の「漬け込み酒」。実は何でもかんでも好き勝手に造れる訳ではなく、一応、法的な規制が厳然と存在します。バー業界のプロでも意外と知らないこうした日本国内での法的ルールについて、(以前にも一度書きましたが)改めて最新情報も含めてまとめてみました。ご参考になれば幸いです。 ◆2008年に自家製造のお酒の規制が緩和 バーUKでは、4種の自家製造の酒(しょうがを漬け込んだウオッカ、7種類のスパイスを漬け込んだラム、ザクロを漬け込んだカルバドス、レモンピールを漬け込んだリモンチェロ<ベースはスピリタス>)をお客様に提供していることはご承知の通りですが、友人やお客様から「それって、法律的に問題ないの?」と聞かれることが時々あります。 日本国内では、お酒を製造・販売(提供)するには酒類製造免許が必要です。お酒のメーカーが業として行う「果実や穀物などの原料から酒類を製造する行為」だけではなく、バーや飲食店等がお酒に様々な材料や他のお酒等を混ぜ合わせる「混和」という作業も、法的にはお酒の製造(新たなお酒を造っている)と同じ扱いを受けます。そして、アルコール分1%以上のお酒はすべて課税されます。 従って、バーや飲食店が無許可で自家製のお酒を造って提供するのは、基本、違法行為です。違反した場合は、酒税法第54条《無免許製造の罪》の規定に該当し、10年以下の懲役又は100万円以下の罰金に処せられます(単なる無許可販売の場合は1年以下の懲役又は50万円以下の罰金=同法第56条)。 しかし現実には、許可を得ることなく自家製の果実酒等を提供している飲食店は、昔からありました。様々な果実やスパイス、ハーブ、コーヒー豆、茶葉等を漬け込んだ自家製のお酒を「店の名物」にしているバーも少なくありませんでした。厳密に言えば、2008年の法改正までは、こうしたバーや飲食店等での「製造・提供行為」は限りなく「違法」行為でした。 国税庁もこれ以上「違法状態」を放置できないと考えたのか、それとも実態に合わせて少し制限を緩和すべきと考えたのか、2008年<平成20年>に租税特別措置法(酒税関係)が改正され、特例措置(例外規定)が設けられました。それは「客等に提供するため酒類に他の物品を混和する場合等、一定の要件を満たせば、例外的に酒類の製造に該当しないこととし、免許や納税等が不要となる」という特例です。 この結果、例えば「焼酎で作る梅酒」「しょうがを漬け込んだウオッカ」「ウオッカにレモンを漬け込んだリモンチェッロ」等は、酒類免許がなくても、バーや飲食店は法的な裏付けを持って堂々と製造し、提供することが可能になりました。 一方、個人が自分で飲むために造る酒(例えばよくある梅酒づくり等)は、かなり昔からとくに法的な規制はなく、旧酒税法(1940年<昭和15年>施行)でも禁止する規定はありませんでした。すなわち、個人の場合は事実上「黙認」状態でしたが、1953年<昭和28年>に施行された新・酒税法で初めて、「消費者が自ら消費するために酒類(蒸留酒類)に他の物品を混和する場合は新たに酒類を製造したとは見なさない」とする特例措置(酒税法43条11項)ができ、めでたく法的にも認められることになりました。 ◆使用が禁止されている穀物や果実に注意 このバーや飲食店等を念頭に置いた租税特別措置法の特例措置についてもう少し詳しく説明しましょう。適用対象は「酒場、料理店等、酒類を専ら自己の営業場において飲用に供する業」であり、具体的には、下記のようないくつかの条件を満たす必要があります。(1)酒場、料理店等が自己の営業場内において飲用に供することが目的であること(2)飲用に供する営業場内において混和を行うこと(3)一定の蒸留酒類とその他の物品の混和であること ※酒場や料理店等が客に提供するために混和する場合だけでなく、消費者(個人)が自ら消費するため(又は他の消費者の求めに応じて)混和する場合も、この「特例措置」と同様の規制を受けます。 また、使用できる酒類と物品の範囲は、以下の通り指定されています(この規定は個人が自分で飲むために造る場合も順守する義務があります)。(1)混和後、アルコール分1度以上の発酵がないもの(2)蒸留酒類でアルコール分が20度以上のもので、かつ、酒税が課税済みのもの(具体的には連続式蒸留焼酎、単式蒸留焼酎、ウイスキー、ブランデー、スピリッツ<ウオッカ、ジン、ラム、テキーラ等>、原料用アルコール)(3)蒸留酒類に混和する際は、以下に示す禁止物品以外のものを使用すること (イ)米、麦、あわ、とうもろこし、こうりゃん、きび、ひえ若しくはでんぷん、又はこれらの麹 (ロ)ぶどう(やまぶどうを含む)=【末尾注1】ご参考 (ハ)アミノ酸若しくはその塩類、ビタミン類、核酸分解物若しくはその塩類、有機酸若しくはその塩類、無機塩類、色素、香料、又は酒類のかす (ニ)酒類(※国税当局に問い合わせたところ、「蒸留酒、醸造酒を問わず、ベースの蒸留酒と同一の酒類以外の市販の全ての酒類を指す」とのこと) ※なおこの特例措置は、前記のように店内での飲食時に提供する場合に限られ、お土産として販売するなどの客への譲り渡しは出来ません(個人が自宅で造る場合も、同居の家族や親しい友人等に無償で提供することはできますが、販売することは出来ません)。 ◆蒸留酒はOK、醸造酒はダメ 以上のように、例えばバーや飲食店等でよく見かける梅酒は、「蒸留酒である焼酎やウオッカ等(アルコール度数20度以上)に漬け込む」のはOKですが、日本酒は「醸造酒であり、通常アルコール度数も20度未満」ですから、二重の意味でNGです(まれに、度数20度以上の日本酒も存在しますが、バーや飲食店で提供する場合は「蒸留酒」しか使えないのでやはりダメです)。 また、梅酒に自然な甘さを出したいからと言って、氷砂糖の代わりに「麹」を使うのも「(3)の(イ)に抵触する」ため、当然NGです。また、ぶどう類を原料にして自家製ワインのようなものを提供すれば、ベースが醸造酒・蒸留酒等に関係なく、完全に違法行為となります。 さらに、年間に自家製造できる量の上限も、営業場ごとに1年間(4月1日から翌年3月31日の間)に1キロリットル以内と決められています(バーUKの場合は、4種類全部合わせても、たぶん月間で最大2~3リットルくらいなので、全然大丈夫です)。なお、この特例措置を受ける場合は、所管の税務署に特例適用の申告書を提出しなければならないとされています(バーUKも一応、申告書を提出しております)=【末尾注2】ご参考。 ◆「自家製サングリア」の提供は基本NG 気をつけなければいけないのが「自家製サングリア」です。サングリアとは「ワインにフルーツやスパイスを漬け込んだワインカクテル」のこと。アルコール度数も低く、フルーティで、お酒が苦手な女性にも飲みやすいので、「自家製サングリア」を食前酒やカクテルとして提供するバーや飲食店も少なくありません(私も何軒か知っています)。 しかし、ベースがワイン(醸造酒)なので前述した条件の「ベースが蒸留酒」にも「20度以上」というルールにも引っかかり、事前に漬け込むことが一般的なサングリアは、場合によっては「発酵」も起こるので、租税特別措置法の特例措置は適用されません。許可なく製造・提供すれば違法で、刑事罰(前述)が科せられます。 従って、現在の日本国内では、基本、サングリアの提供はNG(違法行為)です。プロのバーテンダーの人でも、この規定を知らない人を時々見かけますので、本当に注意が必要です(ただし、サングリアを公然と、あるいは内緒で提供していたというバーが国税当局に摘発されたという話は、個人的には過去聞いたことはありませんが…)。 なお、お客様が飲む直前にワインにフルーツを入れて提供するような場合については、「店舗内で消費(飲む)の直前に酒類を混和した場合(例えばカクテルのようなドリンク)は、そもそも酒類の製造に当たらない」という特例措置と同等に扱われるため、まったく問題ありません。 ◆目に余る行為でない限り、現実には「黙認」 くどいようですが、日本国内でお酒を製造するには、(そこがバーであろうとなかろうと)酒類製造免許(酒造免許)の取得が義務づけられています。なので免許を取れば、店内で自家製のビールやワイン、そしてサングリアを製造・提供することも法的には可能です=【末尾注3】ご参考。 しかし免許取得には、管轄税務署より「経営状況」「製造技術能力」「製造設備」等の審査、免許を受けた後も1年間の最低製造数量を満たしているか等の審査があります。製造しようとするお酒の種類ごと、また製造所(店舗)ごとに免許が必要です。普通のバーや飲食店等が独自で取得するのはかなり高いハードルがあり、そう簡単ではありません。 現状では、「自家製サングリア」を提供するバーや飲食店は時々見かけますが、それはかなりの部分で「グレーな行為」だと思われます。だが、国税当局は「年間通して常時、公然と一定量を提供したり、お土産で販売したりする」ような目に余る行為でもない限り、事実上「黙認」している状況です(いちいち摘発する手間も大変だからでしょう)。 個人的には、年に1~2度くらいの特別なイベント時なら、事前に申請すれば例外的に自家製サングリアの提供を認めてほしいと強く思います。しかし現状では、何かのきっかけで国税当局が厳しく規制してくることも十分考えられますので、まぁ基本的には、バーでは手を出さない方がいいと考えています。サングリアに近いアルコール・ドリンクを提供したい場合、前述したように、飲む直前にワインにオレンジやレモン、ライムなどのフルーツを加えるしかありません。 ここまで書いてきたことの要点(大事なポイント)をまとめておきますと、バーで提供できる自家製のお酒は、(1)20度以上の蒸留酒を使うこと(2)ぶどう類以外の材料を使うこと(米などの穀物類や麹もダメ)(3)店内で作り店内だけで提供すること(持ち帰り販売はダメ) ということです。この3つだけは常に頭に入れておきましょう。 ◆その場でつくるカクテルはOK では、バーの花形である「カクテル(Cocktail)」はどうでしょうか? バーでのカクテルは通常、お客様の注文を受けてその場でつくられ、飲む直前に提供されます。1953年に成立した酒税法には「消費の直前に酒類と他の物品(酒類を含む)を混和した場合は、前項の規定(新たに酒類を造ったものとみなす)は適用しない」(第43条10項)という例外規定があり、2008年の租税特別措置法の改正でも、この例外規定は受け継がれています。 従って、その場で作ったカクテルを提供することは全く問題ありません。提供の直前につくるカクテルなら、フルーツなどを混ぜても「発酵」することはあり得ないからです。また、店舗前のテラス、ベンチ等は、客がその場で短時間で消費する前提であれば、店舗内と同じ扱いとなります。ただし、店舗内・店舗前に関係なく、自家製酒や作ったカクテル等を容器に詰めたりして販売する(無償譲渡することも含む)などの行為は、「無免許製造」となるのでできません。 なお、個人が自宅においてカクテルを飲む直前につくる場合、家庭内で消費する限りは家族や来訪した友人にも自由に提供できますが、(別の場所に住む)他人の委託を受けてつくったりすると「違法」になるので注意が必要です(当然、販売行為もNGです)。 ◆「期限付酒類小売り免許」も一時制度化されたが… ちなみに、国税庁は2020年4月、コロナ禍で苦しむ飲食業を支援するため、バーや飲食店等が6カ月の期限付きで酒類の持ち帰り販売ができる「期限付酒類小売業免許」を新設しました(現在ではこの制度は終了)。昨年は、この「期限付小売業免許」を取得して、ウイスキー等を量り売りするバーもあちこちで目立っていました。 加えて、国税庁が「カクテルの材料となる複数の酒類や果実等を、それぞれ別の容器に入れて、いわゆる”カクテルセット”として販売することも、期限付酒類小売業免許を取得すれば可能」という見解を示したことを受けて、カクテルの持ち帰り販売(材料別に密閉容器等に詰めての販売)をするバーも登場しました。 ミクソロジストとしてバー業界でも著名なバーテンダー、南雲主于三(なぐも・しゅうぞう)氏は「期限付免許」を取得したうえで、自らの店舗で持ち帰り用のオリジナル・カクテルセットを販売されました。その後は、酒類製造免許を持つ会社とタイアップして、完成品の瓶詰めオリジナル・カクテルの販売(通販がメイン)も始められました。その南雲氏の体験談はとても参考になります(出典:食品産業新聞社ニュースWEB → https://www.ssnp.co.jp/news/liquor/2020/04/2020-0413-1634-14.html)。 ◆出来たこと・出来なかったこと ご参考までに、「期限付酒類小売業免許」で出来たこと・出来なかったことや許可要件等を少し紹介してみます。(1)瓶(ボトル)や缶のままでの販売は可能(※この場合の瓶や缶とはウイスキーやビール、ジン等の未開栓の商品を指す)。(2)来店時にその場で酒類を詰める量り売りも可。量り売りの場合、容器は客側が用意することが前提(店側が容器を用意する場合、容器代の伝票は別にすること)(3)来店前にウイスキー等の酒類を詰めておく「詰め替え販売」は、詰め替えをする2日前に所轄の税務署に届け出をすれば可能。(4)カクテルなどをプラカップに入れて蓋をして販売することはできない。(※ただし、事前にカクテルを材料別に密封容器に詰めておく「詰め替え販売」は、(3)と同様、事前に所轄の税務署に「詰め替え届」を出していれば可能)=【末尾注4】ご参考。(5)量り売りの場合はラベル表示は不要だが、詰め替えはラベルが必要。(6)2都道府県内にまたがる配送は不可。(7)酒税法10条(酒類製造・販売免許を得るための人的・資格要件)に違反していないこと。(8)新規取引先から購入したものは販売不可。既存の取引先からの酒類に限り、販売が可能。 ◆「期限付免許」は2021年3月末で終了 前述したように、期限付免許での「詰め替え届」が出ていれば、カクテルを材料別に密閉容器にボトリングまたは真空パックにしてセット販売することが出来ました。南雲氏は例えば、ジン、カンパリ、ベルモットを密閉容器に詰めて、オレンジピールと一緒にして「ネグローニ・セット」として販売。お客様も自宅で手軽に、プロ並み(に近い?)のカクテルが楽しめたのです。 南雲氏は当時、「小売と同じことをしても価値はない。バーにしかできない売り方が付加価値となります。例えば、ウイスキーのフライト(飲み比べ)セット、自家製燻製とウイスキーのマリアージュセット、クラフトジンとライムとトニックのジントニックセットなど、可能性は無限大です」と大きな夢を描いていました。素晴らしい取り組みだと思いました。 しかし、国税庁はこの「期限付酒類小売業免許」を2度の期限延長を経た後、今年(2021年)3月末を持って終了(廃止)してしまいました。4月以降も継続を希望する場合は、通常の「酒類小売業免許」を申請するように告知しています。コロナ禍がここまで長引くとは思わなかったということもありますが、せっかくの「期限付免許」はコロナ禍が収束するまでは存続させてほしかったし、一方的に終了してしまった同庁の姿勢はとても残念に思います。 その後も南雲氏は、日本国内のバーで、カクテルのデリバリー販売、テイクアウト販売が常時認められることを目指し、様々な団体やバーテンダーと連携して、国税庁への働きかける活動を精力的に続けられています。ぜひ応援していきたいと思っています。 ◆出張バーテンダーの扱いは? 時々見かける(そして、私自身もたまに依頼される)出張バーテンダーっていう営業は、出張先で用意された酒や材料を使ってカクテル等つくる場合においては、法律的な縛りはまったくありません(出張料理人・シェフも同じ条件ならば合法的な行為と見なされます)。厳密に言えば、食中毒を起こさないように注意する程度です。 ただし、出張先(店舗外)で提供するカクテルを、事前に作り置きして容器に詰めていくことはできません。租税特別措置法では、「当該営業場以外の場所において消費されることを予知して(事前に)混和した場合、特例措置にいう『消費の直前に混和した』こととはならず、無許可の酒類製造に相当する」とされています。 要するにバーにおいてのカクテルは原則として、「自らの店の中でつくって提供すること」「注文の都度つくること(作り置きすることはNG)」「注文した人が飲むこと」の3つの条件を満たす必要があり、出張先においても「(出張先は)自らの店と同じ扱いになる」ことも含め、この3条件を守らなければなりません。 以上、長々と書いてきました。2020年1月以降長く続くコロナ禍で、バーを含む飲食店は、非科学的なアルコール規制のために、苦境に立たされています。しかし、ピンチはチャンスでもあります。我々バーテンダーは、コロナ禍が収束した暁に、バー空間で味わうお酒の楽しさをお客様に実感してもらえるように、関係する諸法律には誠実に向き合いながら、より一層の創意と工夫を加えて新しい自家製酒やカクテルを提供していこうではありませんか。【注1】他の果物は混和してもいいのに、なぜ、ぶどう類だけは禁止になっている理由について国税庁は説明していませんが、おそらくは(正式の免許を受けて醸造している)国内のワイン農家の保護という観点があるのではないかと考えられています。【注2】特例適用申告書については、店で少量の自家製酒を不定期に提供している何人かのバーのマスターに聞いてみましたが、実際、個人営業の店で申告書を出しているところはそう多くないようです。現実には、少量で不定期ならば、国税当局も事実上「黙認」しているようですが、私は、妙な疑いをかけられるのも嫌なので、一応、法律に従って申告しています。 【注3】アルコール度数1%未満であればビールやワインを醸造するのに許可は必要はありません。市販の自家製ビール(またはワイン)製造キットがこれに当たります。なお、店内に簡易で小型の蒸留器を置いているバーを見かけることがたまにありますが、無許可でアルコール度数1%以上の蒸留酒を造る行為は「違法」になるのでご注意ください。【注4】南雲氏との2020年4月の一問一答で、国税庁酒税課は「カクテルは、仕様がグラスやカップ、プラカップ等で直後に飲むことを前提としている容器であれば(店舗内での)提供」と答える一方で、「結果として客側が持ち帰ったとしても、直ちに販売と言うのは難しい」との見解も示し、蓋のない容器での「テイクアウト」も事実上容認していました。しかし、期限付免許が終了した現在、カクテルの「テイクアウト」販売は残念ながら再びNGになっています。【おことわり&お願い】この記事は、バーにおける「自家製漬け込み酒」等について、現時点での酒税法、租税特別措置法上の一般的なルールや法的見解等をまとめたものですが、個別具体的な行為や問題についての適法性まで保証するものではありません。個別のケースにおける疑問や法的な問題、取扱いについては、バーや飲食店等の所在地を所管する税務署や保健所にご相談ください(※ご参考:酒税やお酒の免許についての相談窓口 → 国税庁ホームページ掲載リンク)
2021/06/04
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東京出張へ行っても、渋谷で飲むことはほとんどない。会社が銀座・新橋に近いので、「わざわざ渋谷まで」という感覚がある。加えて、最近の渋谷が、あまりにもガキがあふれる、大人が遊びにくい街になってしまったこともある。 しかし、今回は東京在住の友人から渋谷で飲みましょうと誘われた。渋谷には馴染みのBARもいくつかある。しばらくお邪魔していないから、丁度いい機会でもあると思い、二つ返事で誘いに乗った。 事前に友人にメールで「どこで待ち合わせしようか?」と尋ねたら、「そりゃぁ、渋谷と言えば待ち合わせの王道、ハチ公前でしょう!」とのご返答。そりゃそうだよね。聞くまでもなかった。久しぶりのハチ公前は相変わらずの混雑ぶり。訳の分からん奇抜なファッションの若者だらけだし、目の据わったおかしな外国人も多い。中国人、韓国人の観光客も目立つ。それが今の渋谷の現実。そんなことを考えていると、友人がどこからともなく現れた。 まず、1軒目はお目当ての店に行く前に、「軽くビールでもひっかけていきましょうか?」という提案で、センター街方面へ歩き出す。5分ほど歩いて連れて行ってくれたのが「TASUICHI(たすいち)」=写真右上=という変わった名前の立ち呑みBAR。 この界隈では激安ランチでも有名な店らしいが、もう一つ、いまはやりの氷温ビールが名物なんだとか。早速、それを注文。空きっ腹に染み渡る旨さだ。店内には大型テレビもあって、W杯サッカーの時などは朝まで賑わうという。 で、少しエンジンがかかったところで、2軒目は「TASUICHI」から歩いて数分、友人が最近一番気に入ってる店という「Bar 公界(くかい)」へ=写真左。引き戸を開けると、まだ開店したばかりで僕らは一番乗りだった。カウンターだけ10席ほどのこじんまりとした店で、Barという名が付いていて内装もBarっぽいが、中身はどちらかと言えば、おしゃれな居酒屋という雰囲気だ。 「公界」は2005年にオープン。宮城県の日本酒と宮城県産の食材を使った料理にとことんこだわった店だという。日本酒は「味の奥行きと香りをしっかり楽しんでほしいから」というマスターKさんの意向で、すべてワイングラスでいただく。もちろん日本酒は丁度良い飲み頃の温度に管理されている。最近、震災復興支援で日本酒と言えば東北の酒ばかり飲んでいるうらんかんろとしては、まさにうってつけの店だ。 宮城の酒にこだわっているだけあって、「一ノ蔵」「浦霞」「日高見」「勝山」などの有名どころだけでなく珍しい銘柄もたくさん揃っている。マスターは当然、今回の震災復興では支援活動もあれこれされているが、「うちは震災の前から宮城の酒を売ってきたので、(支援も)自然体でやってます」と。 フードも日本酒に合いそうな絶妙なメニューが並んでいて嬉しい。石巻のクジラ料理も名物だが、他にも酒粕と仙台味噌の炙り=写真右上、ホヤのミソ焼き、カキのアヒージョ、サメのタタキゆずポン酢、自家製ソーセージ=写真左、鹿肉の味噌カレーとか宮城の食材を使った美味しそうなメニューが目に入ってくる(これは一度の訪問では全部は食べられない。また来なくては…)。ちなみに料理は、マスターの奥様が主に担当しているとか。 店はセンター街の少しはずれにあるので、あの耳障りな喧噪はここまでは聞こえない。心地よい空間で、カウンターに座って美味しいアテをいただきながら、呑む幸せを改めてかみしめた。マスターも気さくで親切だし、最近はあまり渋谷には足を向けようとは思わなかったが、これはまた来なければならない理由が出来てしまった(笑)。「公界」で味わった日本酒は、7月2日の日記ご参照。 「公界」で美味しい料理と酒を堪能した僕ら。「**さん、近くにもう1軒だけお連れしたいおもろい店があるんですよ」と友人が言う。ここも歩いて5分もかからない距離。看板には「丸木屋商店」=写真右=とある。なんだこれは? のれんをくぐって中へ入ると、そこはよく酒屋さんが店内でやっているような立ち呑みの光景。しかし、アテのメニューは信じられないほど充実している。おまけに「早い・安い」の缶詰メニューなんかもあったりして、まるで、大阪・天満か京橋のノリだ。 平日(月曜)の夜だというのに、店内は20人ほどの客で満杯。そこへまた新たな客が来れば、ダーク・スタイルになって、すき間をつくってあげる行儀の良さ(これも大阪スタイルだね)。常連のマナーが良い店は概して、居心地が良くて味も確かな店が多いが、ここもそうなのだろう。 渋谷に千円札1枚で楽しめる、こんな大衆的な店があるとは知らなかった。センター街周辺は、居酒屋のサービス競争が激しいエリアとしても知られるが、少し歩いているだけでも、面白い、そそられそうな大衆的な店がいっぱいあることが分かる。 友人は渋谷で働いているので、通勤の行き帰りにいつもこの界隈を通るという。そして、「安くて美味しい、新しい店を1軒、1軒開拓しております」とのたまわる。あぁ、羨ましい! さて、ようやく3軒のハシゴを終えた僕らは、気分を変えて、オーセンティックなBARで飲もうと決めた。今度は僕が案内人。で、連れて行ったのは老舗の「Bar コレオス」。ご存じ東京のバーテンダーでも最長老格の、大泉洋さん=写真左=が営む店だ(進駐軍のBARで働いた経験もある数少ない現役!)。今年御歳77歳というが、まだまだお元気だ。「大変ご無沙汰しております」とお詫びのご挨拶してまずは一杯、ジン・リッキーを頼む。 大泉マスターは貫禄と威厳たっぷりな雰囲気なので、「話しかけにくい」と誤解されがちだが、実はまったく逆のキャラクラーの持ち主。よく喋る、喋る。ジョークも連発する。時には下ネタも口にするというとても気さくな人柄だ。この日は、僕ら以外に客は一人だけだったので、大泉さんを“独占する”ような状態。おかげで久しぶりにたっぷり、あれこれと積もる話をすることができた。 2杯目は、やはり大泉さん得意のマティーニ=写真右=を久しぶりにお願いする。コレオスのマティーニはご存じの方もいるだろうが、ステアした後、カクテルグラスではなく、大ぶりのショット・グラスに注ぐ。「なぜ、このグラスなのか」。ずっと尋ねてみたかったこの質問を初めてマスターにぶつけた。 すると、「マティーニってカクテルは、まぁ、基本的には男が飲むもんでしょう? だからこうなんですよ」と答えながら、大泉さんは肘を曲げ、拳を握った片腕を上へ突き上げて、ニヤリと笑った。下ネタ好きのマスターに一本とられた感じ。まぁ…こういう理由があってもいい(笑)。 70歳を過ぎても現役でカウンターに立ち、お客を笑わせ、楽しませ、そして美味しい酒を飲ませることに徹する大泉さんに、僕は感銘を受ける。貴方は「日本のBAR業界の宝」です。どうか、一日でも長くコレオスで僕らを楽しませ続けてください。皆さんも、機会があれば、いや、ぜひ機会をつくって渋谷のコレオスにお越しください。そして、ホスピタリティあふれる大泉マスターの話術に酔いしれてください。【TASUICHI(たすいち)】東京都渋谷区宇田川町33-14 電話03-3463-0077 正午~午後2時、同3時~午前2時(日祝午後4時~午前零時) 無休 【Bar 公界(くかい)】渋谷区宇田川町41-26 パピエビル1F 3780-6773 午後6時~午前4時(土日祝前日~5時) 不定休 チャージ¥300 【丸木屋商店】渋谷区神山町7-5 1F 3467-7668 午後6時~11時 土日祝休 【Bar コレオス】渋谷区宇田川町28-1 高山ランド第15ビル8F 5459-1757 午後5時~午前2時 無休 ノー・チャージ サービス料10%・こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2011/07/20
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◆ジェリー・トーマス:「派手」が大好き、行動するバーテンダー ハリー・マッケルホーン、ハリー・クラドックとカクテル史に残る偉大な2人のバーテンダーの生涯を紹介してきましたが、やはり、ここまでくれば、「カクテルの創始者」とも言われるジェリー・トーマス(Jerry Thomas、1830~1885)のことにきちんと触れておくことも、私の大事な責務だと思います。 マッケルホーン、クラドックともに伝記本が存在せず、その生涯をたどるのには凄く苦労したのですが、トーマスについても伝記本はなく、さらに古い時代の人とあって文献資料も極めて少ないため、インターネット上の情報(とくに英文のサイト)から断片的な情報をかき集めるしかありませんでした。しかしようやく一編を書くに足るデータを、なんとか得ることはできました。以下は、米国では「The Pioneer Of Modern Cocktails」「The Father Of American Mixology」と称されるトーマスの生涯です。 ☆10代で「トム&ジェリー」を考案☆ ジェリー・トーマスは、1830年、米ニューヨーク州北部のカナダ国境に近い、サケッツ・ハーバー(Sackets Harbor)という町で生まれました(月日は不明)。トーマスは10代後半(何歳の時かは不明=1940年代後半)に、お隣コネチカット州ニュー・ヘイブン【注1】のバーでバーテンダーとして働き始めます。1847年には、現代でもバーでよく飲まれている有名な「トム&ジェリー」【注2】というホット・カクテルを考案したと言われています(写真左=著書に絵で描かれたジェリー・トーマス。写真はほとんど伝わっていない)。 しかし1848年、米西部で金鉱が発見され、いわゆる「ゴールドラッシュ」【注3】が始まると、トーマスも、バーテンダーとしてより大きな活躍の舞台も求め、また一攫千金も狙って、カリフォルニアへ旅立ちます。実際、カリフォルニア(のどこかは地名不明)で彼は、バーテンダーだけでなく、ある時は金鉱脈探しの開拓者として、ある時は旅芸人のショー(歌や踊り)の経営者として働きました(どれくらい儲けたのかは不明ですが…)。 1851年、トーマスはニューヨークへ戻り、「バーナム・アメリカン・ミュージアム」【注4】内に初めて自らが経営するサロン・バーを開きます(トーマスは生涯に4店のバーを開いたということです)が、残念ながら、このバーがどんな店だったのか、営業状態はどうだったのかについての資料にはまだ出合っていません。 ☆「火の弧」で魅せる「ブルー・ブレイザー」☆ トーマスはその数年後、全米各地のさまざまなホテルやサロン・バーで、チーフ・バーテンダーとして働きます。セントルイス、シカゴ、サンフランシスコ、チャールストン、ニュー・オーリンズなど当時の大都市で彼は、その稀有な才能を発揮し、自分の技術を後輩に伝えていきます。 1850年代、トーマスは、彼の名を永久不滅なものにしたカクテル「ブルー・ブレイザー(Blue Blazer)」【注5】=写真右=を考案します。このカクテルは、要はホット・ウイスキーなので、カクテルというには少し違和感があるかもしれません。しかし、そのつくる際の派手なパフォーマンスが故に、今日でもバーテンダーが誰しも一目置く存在となっています。 そのつくり方とは――。二つの金属製マグを使い、一方のマグに入れた温めたウイスキーを入れて火を付け、火が付いた状態のままのウイスキーを、熱湯の入ったもう一方のマグまで空中を飛ばして、二つのマグ間で2往復半ほど行き来させるというものです。火が弧を描くように流れ、見た目でも楽しめます。その派手で華麗な作り方は、全米各地で見る人の度肝を抜きました。 ☆米国初のカクテルブックを出版☆ 1862年以前のある時期(時期は不明です)に、トーマスは、バー・ツールが詰まったかばんを携えて、欧州にも渡りました。彼がどこの国を訪れたのかについての資料は手元にありませんが、行く先々の国で、そのカクテル・テクニック(時にはボトル・ジャグリングまで!)を披露し、喝采を浴びたとは伝わっています。また、彼が携えていったシェーカーは金製、銀製のものや、宝石がちりばめられたものもあり、欧州のバーテンダーたちはその豪華さに目を見張ったということです。 ちなみに、欧州からの帰国後(いつ帰国したのかは不明)、サンフランシスコの「オクシデンタル・ホテル」のバーで働いていたトーマスの給料は週給100ドルで、当時の米副大統領より多かったといいます。まだ30歳前半の彼の、バーテンダーとしての評価がいかに高かったかを表す事実です。この頃になるとトーマスは、周囲から敬意をこめて、“Professor(教授)”と呼ばれるようになったと伝わっています。 1862年、32歳のトーマスは全米初の体系的なカクテルブック「How To Mix Drinks or The Bon-Vivant’s Companion」=写真左=を出版します。「How To Mix…」には約240のレシピが収録されていますが、その中には、それまで口伝だけでつくられてきた「***デイジー」(***はベースとなる酒)「***スマッシュ」「***コブラー」「***サンガリー」などという初期のカクテル(ミクスド・ドリンク)のレシピを数多く収録するとともに、トーマス自身のオリジナルも何点か収録しています(1876年の再版本では、英国生まれの有名なカクテル「トム・コリンズ」のレシピを米国で初めて紹介しています)。 ☆経営不振の後、55歳の若さで急逝☆ 1866年、36歳になったトーマスはニューヨークに戻り、「メトロポリタン・ホテル」のチーフ・バーテンダーとなります。そして、まもなくマンハッタン・ブロードウェイのそばのビルの地下に、自身のサロン・バーを開きます。トーマスは、そのサロン・バーを人気の風刺画を展示するギャラリーとしても活用するなど、ニューヨークっ子の話題を集め、マスコミでもたびたび取り上げられたそうです。 しかし、順調だったバー・ビジネスに不運が襲います。晩年、トーマスはウォール街での株投資に失敗し、多額の負債を抱えてしまいます。その結果、自分の店や買い集めた美術コレクションを売却せざるを得なくなります。しばらくして店の再開にこぎつけますが、かつての賑わいは戻らなかったといいます。 1885年12月15日、トーマスは脳卒中のためニューヨーク市で亡くなります。まだ55歳の若さでした。彼は中年になるまでに結婚し、娘を二人もうけたといいますが、子孫のその後は不詳です。彼の訃報を伝えたニュー・ヨーク・タイムズは、「彼はあらゆる階級、階層の人たちに愛されたバーテンダーだった」とその死を悼みました。【注6】 ☆マティーニの発展に貢献☆ 彼の死から2年後の1887年に再版されたカクテルブックには、現代のマティーニの原型とも言える「マルチネス・カクテル」【注7】が、彼自身の「遺作」であるかのように初めて紹介されています。だから、トーマスのことを「マティーニの創始者」と言う人もいます。 「マルチネス」のレシピは現代のマティーニと似た部分もありますが、異なる部分も多いため、彼が創始者かどうかについては、今日でもなお論議があるところです。しかしこのカクテルをきっかけとして、現在のマティーニまで発展してきたことは疑う余地はありません。 彼の残したカクテルブックは、現在もなお版を重ねて、世界中のバーテンダーに読み継がれています。生涯をカクテルの発展と普及に捧げたジェリー・トーマスの功績を否定する人はいないでしょう。現代に生きるバー業界の後継者たちが、彼の生涯にもっとスポットライトをあててくれることを願ってやみません。【追記1】ジェリー・トーマスについては、彼の人柄をほうふつとさせる一風変わったエピソードがいくつか伝わっています(出典:ウィキペディア英語版)。いくつか紹介してみましょう。 (1)子供用手袋をはめるのが好きだった(2)金ピカの腕時計をいつもしていた(3)ベア・ナックル・ファイト=懸賞付の素手ボクシング試合=の愛好家であった(4)美術コレクターであった(ニューヨークの彼のバーにも収集したたくさんの絵が飾ってあったそうです)(5)「肥満者協会」(Fat Men’s Association)のメンバーだった(ちなみに彼の体重は205パウンド=約93kgだったとか)(6)1870年代からはひょうたん栽培に興味を持ち、「ひょうたんクラブ」(The Gourd Club)の会長にまでなり、品種改良して大型品種を生み出すまでになった。【追記2】本稿を書くにあたっては、「ウィキペディア」英語版の「Jerry Thomas」の記述など数多くの英文サイトのお世話になりました。この場をかりて感謝いたします。【注1】ニューヘイブン(New Haven)は、米東海岸のコネチカット州南部にある都市。名門イェール(Yale)大学があることで有名。【注2】現代の標準的なレシピは、ダークラム30ml、ブランデー15ml、全卵1個、熱湯(または牛乳)60~70ml、砂糖2tsp、ナツメグ少々【注3】1848年1月、米カリフォルニア地方の川で砂金が見つかったのをきっかけに広がった金鉱脈探しブーム。一攫千金を狙う開拓者が米東部や欧州からカリフォルニアへ続々と押し寄せた。(トーマスがおそらく訪れたであろう)サンフランシスコはそれまで人口1000人ほどの小さい村だったが、金鉱脈探しの拠点の一つとして大都市へと発展。1年後の人口は2万5千人まで急増した。カリフォルニアは翌1850年の9月、州に昇格した。【注4】「バーナム・アメリカン・ミュージアム」は1841年、PT・バーナムという興行師がニュー・ヨーク・マンハッタン島南部に設立した。「ミュージアム」とは名ばかりで、実態は「偽人魚」「珍動物」「小人」などを見せる見世物小屋だった。しかし24年後の1865年、ニューヨークの大火で焼失した。【注5】標準的なレシピは、温めたウイスキー60ml、熱湯60ml、粉糖2tsp、レモンスライス【注6】“Thomas was at one time better known to club men and men about town than any other bartender in this city, and he was very popular among all classes”(New York Times, Dec 16 1885)【注7】トーマスのオリジナル・レシピは、オールドトム・ジン30ml、スイート・ベルモット60ml、アロマチック・ビターズ1dsh、マラスキーノ2dsh、シュガー・シロップ2dshこちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2010/12/09
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以前の日記でも一度触れましたが、かつて大阪・ミナミで知る人ぞ知る名バーだった「MORITA BAR」が、このたび5年ぶりに天満(てんま)で復活いたしました! で、うらんかんろも早速お祝いを兼ねて、友人と一緒にお邪魔してまいりました。 オープン4日目でしたが、すでに地元の方にも愛されているようで、僕がいる間もお客さんが相次ぎ、船出は順調のようでした。 盛田マスターは「(バーテンダーの仕事は)5年ぶりなんで勘が鈍っていて…」と謙遜しておられましたが、所作は体がしっかり覚えているようでした。 今回は、おしゃべり上手で気さくな奥様もカウンターの中に立たれます。そして、「モリタ・ベジタバーファーム」での5年間の就農経験を生かした、手作りの美味しいフードも味わえます(僕らは盛田野菜いっぱいのオリジナル・ピザを頂きました!)。 アット・ホームな雰囲気にあふれた「新生MORITA BAR」、期待が膨らみます。皆さまもお近くに来られたら、ぜひどうぞ!【MORITA BAR】大阪市北区同心2丁目15-14 内海マンション101 電話06-6353-2727 月~土午後5時~午前1時、日祝は午前零時まで 第3月定休(JR環状線天満駅から徒歩5分、地下鉄堺筋線・扇町駅から徒歩7分)こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2013/04/04
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お盆の最中、訪ねたけれどお休みだったBAR(8月28日の日記参照)へ、リベンジ(再訪)。会社からは、歩くと7、8分。そう遠くはないが、そう近くもない。そんな「微妙な距離」にあるそのBarの名は、オーナーの名を取ってBar「立山」(写真左)という。 オープンしたのは一昨年の春だったろうか。四つ橋筋・本町の近くにある、その「立山」を初めて訪ねたのは、ある雑誌で見たそのBARの紹介記事に心がひかれたから。「曽根崎の名店の新展開」とあったが、不覚にも曽根崎時代のBar「立山」は知らなかった。 昭和20~30年代の築と思われる角地の民家を改造し、レトロなBAR空間を創造した。しかも、お値段も定番のハイボール(2種)が、600円(角)と800円(ホワイトホース)というのが酒呑みには嬉しい。バックバーには、それぞれ「ハイボール・並」「ハイボール・上」と書かれているのがおかしい。 会社帰り、「ちょっと一杯ひっかけて帰りたいなぁ…」という気分の時。僕はあえて、ターミナルとは反対方向の、このBARを目指す。ここまでくれば、会社の(仕事の話しかしないような)連中には会わなくて済む。 何よりも一番気に入っているところは、気どらない、気さくなその雰囲気だ。マスター(バーテンダーさん)は、客につかず離れず、とてもいい距離の取り方をしてくれる。一人静かに、落ち着いて飲みたいときなど、申し分ない(写真右=「立山」のハイボール。和服の生地で作られたコースターが粋だ)。 内装も、原形のまま残した民家の柱が漆喰(しっくい)の壁と程良く調和し、とても味わいがある。BARの洗い場は昔、どこの家庭にでもあったタイル貼り。聞けば、やはりこの民家にあった洗い場をそのまま活用しているという。使い勝手はやや悪いかもしれないが、見ているだけでどこか懐かしい。 入り口は角地なので2方向にある。店内の様子はガラスの引き戸越しに通りからも見え、BARというより、オープン・カフェのような雰囲気も。しかし、店内にやかましく騒ぐ客はほとんどいない。マスターこだわりのJBLのスピーカーから、ジャズなどが流れ、心地よい。 テーブル席もあるが、僕はいつもカウンターに座り、「ハイボール・並」を頼む。ハイボールは基本的にサンボア・スタイルに近いが、ここでは小さな氷を1個入れてくれる。この氷のおかげで、ハイボールはなかなかぬるくならない。 酒の肴も、「米麹大豆の醤油漬け」「宇和島じゃこ天」「三陸麦イカの素干し」等々いろいろと充実している。小腹がすいた人のためには、名物の特製「ドライカレー」もある(写真左=バックバー横の壁に、いろんな酒の肴を紹介)。 炒めた鉄皿にそのまま乗せられたドライカレーは、ジュウジュウと旨そうな音を立てている。トッピングされた生タマゴを混ぜ込みながら、食べる味わいは絶品である。500円という値段を聞くと、涙が出る。 久しぶりに訪ねた「立山」。しかし、マスターの立山さんの姿はなかった。聞けば、福島というエリア(梅田から北西へ車で5分ほどの場所)に、「カモメ」という新しいBARを先頃オープンしたばかりで、そちらの方で忙しいという。 もらった案内葉書のモデルはマスター自身の後ろ姿。後頭部(誰でもわかる!その特徴ある頭=マスターはスキンヘッドです)に「カモメ」と書かれたシールを貼っている。キャッチ・コピーは「とまり木、あります」とだけ。とても意味ありげ。BARフリークの一人としては、これはぜひ、近々行ってみなくては…(後日またご報告いたします)。【Bar立山】大阪市西区靱(うつぼ)本町1-7-28 電話06-6444-2848 午後5時~11時半 日祝休 ノー・チャージ!こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2006/09/03
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51.マンハッタン(Manhattan)【現代の標準的なレシピ】ライ・ウイスキー(40)、スイート・ベルモット(20)、アンゴスチュラ・ビタース1dash、マラスキーノ・チェリー 【スタイル】ステア カクテルの女王」の異名をもつマンハッタン(Manhattan)。考案者が誰かは分かっておらず、誕生の由来にも諸説があります。しかしながら、1870年代半ばから1884年までの間にニューヨークの社交クラブ「マンハッタン・クラブ」で考案され、マンハッタン島もしくはそのクラブ名にちなみ「マンハッタン」と名付けられ、世界中へ広まっていったのは間違いないということでは、専門家の意見はほぼ一致しています。 諸説の中で、現代のカクテルブックなどで一番よく紹介されるのが、「ニューヨークの銀行家令嬢だったジェニー・ジェローム(Jennie Jerome)=後の英国首相ウィンストン・チャーチル(Winston Churchill)の母=が、1876年の大統領選の時、マンハッタン・クラブで候補者支援パーティーを開き、そのとき考案された」という説ですが、それを裏付ける資料は伝わっていません(※考案者はジェローム自身、あるいはイアイン・マーシャルという医師だったとも伝わっていますが、いずれも確かな根拠は示されていません)。 なによりも、チャーチル自身が後年の自伝で、「母はその当時フランスにいて、妊娠もしていたので、その支援パーティーの場にはいなかった」と記しており(出典:Wikipedia英語版)、ジェローム自身も生前、このカクテルの誕生に自分が関わったという発言を一切残していないことから、「ジェローム考案説」は後世のつくり話の可能性が高いことはほぼ間違いありません。 他にも、西部開拓時代の1846年、メリーランド州のとあるバーで、負傷したガンマンのためにバーテンダーが気付け薬として作ったという説(欧米の専門サイト情報)もありますが、根拠資料は見つかっていません(※ちなみにチャーチルはその後、マンハッタンよりもマティーニを愛したことでよく知られているます)。 ところで、欧米のカクテルブックでマンハッタンが初めて活字になったのは、従来は1887年に米国で出版されたカクテルブック「How To Mix Drinks」の改訂版(※著者は「カクテルの父」の異名を持つジェリー・トーマス<Jerry Thomas 1830~1885>で、死去の2年後に発刊)であると言われてきました。 だが近年の研究で、1884年に同じ米国で出版された2冊のカクテルブック、「The Modern Bartenders' guide」(バイロン<O. H. Byron>名義=末尾【注】ご参照)、「How To Mix Drinks:Bar Keepers’Guide」(ジョージ・ウインター<George Winter>著)が初出資料であることが有力になってきました。 バイロンやウインターの本はその存在は知られていましたが、近年まで絶版になっており、研究の対象として人目に触れる機会はほとんどありませんでした。しかし2000年以降に復刻版が刊行され、米国の著名なバーテンダー&カクテル研究者のデイル・デグロフ氏や、「The Manhattan:The Story of the First Modern Cocktail」(2016年刊)の著者フィリップ・グリーン氏によって、「トーマスの著書よりも3年早く」マンハッタンが紹介されていることが確認されました。 バイロンの本では、以下の2種類のレシピのマンハッタン(いずれもステア・スタイル)が収録されています(ウインターの本では1種類で、レシピはバイロンとほぼ同じですが、ベルモットの種類についての言及はありません)。・マンハッタンNo1(Manhattan Cocktail No.1) ウイスキー2分の1Pony(約30ml。19世紀によく使われた容量単位で、1ponyは1オンス<onz>にほぼ同じ)、フレンチ(ドライ)ベルモット1pony、アンゴスチュラ・ビターズ3~4dash、ガムシロップ3dash・マンハッタンNo2(Manhattan Cocktail No.2) ウイスキー2分の1Wineglass(グラスの容量は不明)、イタリアン(スイート)ベルモット2分の1Wineglass、アンゴスチュラ・ビターズ2dash、キュラソー2dash 興味深いのは、ドライ・ベルモットを使うマンハッタンの方が、現代標準レシピのスイート・ベルモットを使うものより先に掲載されていることです。マンハッタン成立の過程がうかがえる貴重なレシピとも言えます。米国内で欧州産のドライ・ベルモットが普及し始めたのは、スイート・ベルモットよりも後なので、なぜドライの方が「No.1」の位置づけなのか、これは少し謎です。 その後、米国内で出版されたカクテルブックで「マンハッタン」のレシピがどのように変化していったのかを、少し見ていくとーー。・「How to mix drinks」(ジェリー・トーマス著、1887年改訂版)米 ライ・ウイスキー1pony、スイート・ベルモット1Glass(分量についてトーマス自身が言及していないので正確には不明だが、ウイスキーとの比率を考えると30~60mlくらいか?)、キュラソー(またはマラスキーノ)2dash、ビターズ3dash、飾り=レモンスライス(シェイクして小さい角氷2個を入れたクラレット(ワイン)グラスに注ぐ)・「American Bartender」(ウィリアム・T・ブースビー著、1891年刊)米 ウイスキー2分の1、スイート・ベルモット2分の1、アンゴスチュラ・ビターズ1dash(ステア)・「Modern American Drinks」(ジョージ・J ・カペラー著、1895年刊)米 ウイスキー2分の1、スイート・ベルモット2分の1、ペイショーズ(またはアンゴスチュラ)・ビターズ2dash、レモン・ピール、飾り=チェリー(ステア)・「Dary's Bartenders' Encyclopedia」(ティム・ダリー著、1903年刊)米 ウイスキー2分の1、スイート・ベルモット2分の1、ペイショーズ(またはアンゴスチュラ)・ビターズ2dash、レモン・ピール、飾り=チェリー・「Bartenders Guide: How To Mix Drinks」(ウェーマン・ブラザース編、1912年刊)米 ウイスキー2分の1、スイート・ベルモット2分の1、キュラソー1dash、アンゴスチュラ・ビターズ1~2dash、ガム・シロップ2~3dash・「173 Pre-Prohibition Cocktails)」 & 「The Ideal Bartender」(トム・ブロック著、1917年刊)米 なぜか掲載なし・「ABC of Mixing Cocktails」(ハリー・マッケルホーン著、1919年刊)英 ライ・ウイスキー3分の2、スイート・ベルモット3分の1、アンゴスチュラ・ビターズ1dash(シェイクしてカクテルグラスに注ぎ、チェリーを飾る) ※ベルモットの銘柄は、原著内に「チンザノ・ベルモット」の広告が出ていることから、マッケルホーンはおそらく、チンザノを使っていたものと想像されます(なお、マッケルホーン自身は、レシピに「カクテル名は、ニューヨーク・シティのマンハッタン島に由来する」と添え書きしています)。・「The Savoy Cocktail Book」(ハリー・クラドック著、1930年刊)英 ※4種の「マンハッタン」のバリエーションを収録。ワイングラスで提供する「マンハッタン」(シェイク・スタイル)と、カクテルグラスで提供する3種(内訳は、スタンダードなものとスイート、ドライ)の計4種を紹介しています。レシピは以下の通りです。 クラレット・スタイル=ライ・ウイスキー30ml、ベルモット(スイートとドライをミックス)1glass、キュラソー(またはマラスキーノ)2dash、アンゴスチュラ・ビターズ3dash、レモン・スライスと角氷2個を入れてサーブする(シェイク・スタイル)※ジェリー・トーマスのレシピをベースにしたバリエーションとも言えます スタンダード=カナディアン・ウイスキー3分の2、スイート・ベルモット3分の1、アンゴスチュラ・ビターズ1dash(シェイク・スタイル) スイート=ライ(またはカナディアン)・ウイスキー2分の1、スイート・ベルモット2分の1(ステア・スタイル) ドライ=ライ(またはカナディアン)・ウイスキー2分の1、ドライ・ベルモット4分の1、スイート・ベルモット4分の1(ステア・スタイル) ※なお、「The Savoy…」もカクテル名については、「マンハッタン島にちなんで名付けられた」と紹介しています。・「Cocktails by “Jimmy” late of Ciro's」(1930年刊)米 ライ・ウイスキー2分の1、スイート・ベルモット2分の1、アンゴスチュラ・ビターズ2dash、レモン・ピール ※「Ciro's」とは、ハリー・マッケルホーンもパリで「Harry's New York Bar」を開業・独立するまで働いていたロンドンの高級クラブ「The Ciro's Club」のことです。・「The Artistry Of Mixing Drinks」(フランク・マイアー著 1934年刊)仏 ライ・ウイスキー2分の1、スイート・ベルモット4分の1、ドライ・ベルモット4分の1、・「World Drinks and How To Mix Them」(ウィリアム・T・ブースビー著、1934年刊)米 ウイスキー3分の2、スイート・ベルモット3分の1、オレンジ・ビターズ1dash、アンゴスチュラ・ビターズ1drop、飾り=マラスキーノ・チェリー・「The Official Mixer's Manual」(パトリック・ギャヴィン・ダフィー著、1934年刊)米 ウイスキー3分の2、スイート・ベルモット6分の1、ドライ・ベルモット6分の1、ビターズ1dash、飾り=マラスキーノ・チェリー・「The Old Waldorf-Astoria Bar Book」(A.S.クロケット著 1935年刊)米 ライ・ウイスキー2分の1、スイート・ベルモット2分の1、オレンジ・ビターズ1dash・「Mr Boston Bartender’s Guide」(1935年初版刊)米 ライ(またはバーボン)・ウイスキー1.5onz(約45ml)、スイート・ベルモット4分の3onz(約22~23ml)、アンゴスチュラ・ビターズ1dash、飾り=チェリー・「Café Royal Cocktail Book」(W.J.ターリング著 1937年刊)英 ライ(またはバーボン)・ウイスキー2分の1、スイート・ベルモット2分の1、アンゴスチュラ・オレンジ・ビターズ1dash、飾り=マラスキーノ・チェリー・「Trader Vic’s Book of Food and Drink」(ビクター・バージェロン著 1946年刊)米 バーボン(またはライ)・ウイスキー3分の2、スイート・ベルモット3分の2、アンゴスチュラ・ビターズ1dash、マラスキーノ1dash、飾り=マラスキーノ・チェリー・「Esquire Drink Book」(フレデリック・バーミンガム著 1956年刊)米 ライ・ウイスキー2分の1、スイート・ベルモット2分の1、オレンジ・ビターズ1dash、飾り=マラスキーノ・チェリー 上記のように、ウイスキーの割合が多くなる、すなわち辛口のマンハッタンが登場するのは、ハリー・マッケルホーンの名著「ABC of Mixing Cocktails」(1919年刊)が初めてです(レシピは、「ライ・ウイスキー3分の2、スイート・ベルモット3分の1、アンゴスチュラ・ビターズ1dash)。そして1930年代以降は、徐々にウイスキーの割合が多くなる「ドライ化」が進んでいきます。 日本では、1907年(明治40年)出版の文献に初めて「マンハッタン」の名が見られます。遅くとも1890年代末までには、横浜や神戸の外国人居留地のホテルのバー等では普通に提供されていたことでしょう。 なお、1957年(昭和32年)に出版されたカクテルブック「洋酒」(佐藤紅霞著)では、「マンハッタン・コクテール」として「ライ・ウイスキー2分の1、ドライ・ベルモット2分の1、アンゴスチュラ・ビターズ、クレーム・ド・ノワヨー(アーモンド風味のリキュール)各2dash」とあり、なぜかドライ・ベルモットを指定しています。スイート・ベルモットを使うのは「スイート・マンハッタン」とわざわざ区別していることから、日本では1950年代でもなお「マンハッタン」のレシピ(定義)は揺れていたようです。 マンハッタンはマティーニ同様、レシピはシンプルですが、「バー(バーテンダー)の数だけバリエーションがある」というカクテルです。酒呑みたちもしばしば、ドライかスイートか、割合はどうか等をめぐってカウンターで議論を交わします。 有名なカクテルですが、アルコール度数が高いこともあって、日本のバーで頼む人は実際にはそう多くありません。辛口志向、ライト志向の昨今、少し敬遠されているのかもしれませんが、難しいことはあまり考えず、貴方もたまには「マンハッタン」を味わってみませんか? ちなみにベースのライ・ウイスキーの代わりに、バーボン・ウイスキー、カナディアン・ウイスキーを使うこともあります。スコッチ・ウイスキーを使う場合は、「ロブ・ロイ」という名前のカクテルに変わります。また、スイート・ベルモットをドライ・ベルモットに、チェリーをオリーブに替えると、「ドライ・マンハッタン」というカクテルになります。【確認できる日本初出資料】「洋酒調合法」(高野新太郎編、1907年刊) ※欧米料理法全書附録という文献。そのレシピは、「ウイスキーWineglass2分の1、スイート・ベルモット2分の1、オレンジ・ビターズ1~2dash、アブサン1dash、ガム・シロップ1dash」となっています。【注】著者である「O.H.Byron」について、復刻版の編者であるブライアン・レア(Brian F Rea)氏は復刻版の前書きで「バイロン氏は作家、研究者、バーテンダーとして同時代に存在した歴史的資料がなく、おそらくはこの本(原著)を出版した出版社の編集者自身のペンネームか、あるいは(出版社が考えた)架空の人物ではないか」と記しています。しかし、だからと言って、この本の歴史的価値が下がることは一切ありません。・こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2017/05/21
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先日のこと。ある海外のバー業界関係の方から「過去誕生したジャパニーズ・カクテルのなかで、知っておくべき重要なカクテルを教えてほしい」という依頼を受けました。 そこで、まがりなりにも長年カクテル史を研究してきた私が、独自の?視点で25のカクテルを選んで、DeepLの力を借りて(笑)英訳したうえでお伝えいたしました(うち2つは日本人の考案ではなく、滞日外国人が考案した or 関わったと伝わる日本生まれのカクテルですが…)。 以下はその日本語版です。「プロなら知っておくべきジャパニーズ・カクテル」と、その考案者(不明なものもありますが)、誕生の時期・由来等について簡単に紹介いたします(かつて私のBlog連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話」で取り上げたものについては、その該当ページへのリンクも貼っておきます)。1.横浜(Yokohama)(19世紀末から20世紀初頭、考案者は不詳) ジン30ml、ウォッカ15ml、オレンジジュース15ml、グレナデン・シロップ10ml、アニゼット0.5tsp(ティースプーン) ※横浜・外国人居留地のバーもしくは欧州航路の客船内のバーで誕生したと伝わっている。いずれにしても欧州航路の客船を通じて1920年代には英国にも伝わり、サヴォイ・カクテル・ブック(1930年刊)にも収録されることになった。【ご参考:拙Blog連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話:横浜(Yokohama)」】2.チェリー・ブロッサム(Cherry Blossom) 田尾多三郎(1923年) チェリー・ブランデー30ml、ブランデー20ml、オレンジ・キュラソー10ml、レモン果汁5ml、グレナディン・シロップ5ml ※田尾氏(故人)がオーナー・バーテンダーをつとめていた横浜・伊勢佐木町の「カフェ・ド・パリ」(現在は関内に移転し、「パリ」と改名)で誕生した伝わっている。カクテル「横浜」と同様、欧州航路の客船を通じてロンドンやパリなどの欧州の大都市にも伝わった。サヴォイ・カクテル・ブック(1930年刊)にも収録されている。【ご参考:拙Blog連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話:チェリー・ブロッサム(Cherry Blossom)」】3.マウント・フジ(Mount Fuji) 東京帝国ホテルのインペリアル・バーで誕生(1924年)、考案者は不詳 ジン45ml、パイナップルジュース15ml、レモンジュース10ml、シロップ1tsp、マラスキーノ1tsp、 生クリーム 1tsp、卵白 ※「マウント・フジ」カクテルには他に2つのバージョン(JBAバージョンと箱根富士屋ホテルバージョン)が伝わっている。詳しくは、連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話」の「マウント・フジ(Mount Fuji)」の項をお読みください。4.ライン・カクテル(Line Cocktail) 前田米吉(1924年) ジン25ml、スイート・ベルモット25ml、ベネディクティン25ml、アンゴスチュラビターズ2dash ※前田米吉氏(1897年~1939年)は大正時代のバーテンダーであり、日本初の実用カクテルブック『コクテール』(1924年刊)の著者。【ご参考:拙Blogの記事「『コクテール』の著者・前田米吉氏の素顔とは」】5.會舘フィズ(Kaikan Fizz) 東京會舘内のバー発祥(1945年)、考案者は不詳 ジン45ml、牛乳60ml、レモンジュース15ml、砂糖1tsp、ソーダ ※敗戦後(1945年9月)、東京會舘は占領軍に接収され、1952年まで将校専用の社交場(「東京アメリカンクラブ」)として使用された。「會舘フィズ」は朝から酒を飲みたい将校が、バーテンダーに「お酒に見えないアルコール・ドリンクをつくってくれ」と頼んで、考案してもらったのが起源と伝わる。【ご参考:拙Blogの記事「東京會舘メインバー:歴史の重みに酔う」】6.カミカゼ(Kamikaze) 考案者不詳(1945~46年頃) ウォッカ30ml、コアントロー30ml、ライムジュース30ml、ライム・スライス ※第二次世界大戦後(1945年~)、東京の占領軍キャンプ(米軍基地)内のバー発祥と伝わる。 7.青い珊瑚礁(Blue Coral Reef) 鹿野彦司(1950年) ジン40ml、グリーンペパーミント・リキュール20ml、マラスキーノ・チェリー、あらかじめグラスの縁をレモンで濡らしておく。 ※1950年5月、戦後初めて開催された本格的なカクテル・コンクール「オール・ジャパン・ドリンクス・コンクール」(日本バーテンダー協会=当時はJBA=主催)で1位に輝いた。考案者の鹿野氏は(当時)名古屋のバー「くらぶ鴻の巣」のオーナー・バーテンダー。【ご参考:拙Blog連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話:青い珊瑚礁(Blue Coral Reef)」】8.キッス・オブ・ファイア(Kiss of Fire) 石岡賢司(1953年) ウォッカ30ml、スロージン20ml、ドライ・ベルモット、レモンジュース5ml、砂糖でグラスをスノー・スタイルにして ※1953年に開催された「第5回「オール・ジャパン・ドリンクス・コンクール」(日本バーテンダー協会主催)でグランプリに輝いたカクテル。石岡氏は残念ながら、この受賞から数年後に他界された。【ご参考:拙Blog連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話:キッス・オブ・ファイア(Kiss of Fire)」】9.雪国(Yukiguni) 井山計一(1959年) ウォッカ45~55ml、ホワイト・キュラソー10ml、ライムジュース5ml、ミントチェリー、砂糖でグラスをスノー・スタイルに ※1958年、山形県酒田市のバー「ケルン」のオーナー・バーテンダー井山計一氏が、川端康成の小説「雪国」をモチーフに考案。翌年の1959年に開催された「第1回寿屋(後のサントリー)カクテルコンクール」で最優秀賞を受賞した。 日本人が考案したスタンダード・カクテルとしては、「雪国」は日本国内では今なお最もよく知られている(日本生まれのカクテルとしては「バンブー」が世界的に有名だが、これは残念ながら、明治期に米国から来日した外国人によって考案されたもの)。【ご参考:拙Blog連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話:雪国(Yukiguni)」】10. スカイダイビング(Sky Diving) 渡辺義之(1967年) ホワイト・ラム30ml、ブルー・キュラソー20ml、ライムジュース10ml ※1967年10月に開催された全日本バーテンダー協会主催の大会でグランプリを受賞したカクテル。海外ではあまり知られていないが、日本ではほぼ「スタンダード」になっており、国内で出版されるカクテル本にも頻繁に登場する。渡辺義之氏は大阪のバーテンダー。【ご参考:拙Blog連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話:スカイダイビング(Sky Diving)」】11. レッド・アイ(Red Eye) (1970年代後半?沖縄発祥。考案者は不詳) ビール150ml、トマトジュース150ml、スパイス(セロリソルト、ブラックペッパー...) ※トム・クルーズ(Tom Cruise)主演の映画「カクテル(Cocktail)」(1988年公開)に登場する生卵入りカクテル「レッド・アイ」に似ているが、この日本発祥の「レッド・アイ」は全く別物で、映画公開前の1970年代後半には沖縄の米軍基地周辺のバーで流行っていた。その後、80年代半ばには東京や大阪などの大都市でも広く知られるようになった。【ご参考:拙Blog連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話:レッド・アイ(Red Eye)」】12. メロンボール(Melonball) (1978年、考案者は不詳) ウオッカ20ml、ミドリ(メロン・リキュール)30ml、オレンジジュース80ml ※1978年、サントリー社がメロン・リキュール「ミドリ(MIDORI)」を米国で先行発売するに際して、提案したオリジナルカクテル(オレンジジュースの代わりにグレープフルーツジュース、パイナップルジュースを使うバージョンもある)。13. ソル・クバーノ(Sol Cubano) 木村義久(1980年) ホワイト・ラム45~80ml、グレープフルーツジュース60ml、トニックウォーター60ml、グレープフルーツ・スライス、フレッシュミント ※1980年に開催された「トロピカルカクテル・コンクール」(サントリー社主催)でグランプリを受賞。木村氏は神戸のバー「サボイ北野坂」のオーナー・バーテンダーとして今も活躍中。【ご参考:拙Blog連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話:ソル・クバーノ(Sol Cubano)」】14. 照葉樹林(Shoyo Jurin=means Shiba Forest.) (1980年頃、考案者は不詳) 緑茶リキュール 60ml、烏龍茶 120ml ※サントリー・カクテルスクール東京校発祥と伝わる。15. 吉野(Yoshino) 毛利隆雄(1983年) ウォッカ60ml、キルシュワッサー0.5tsp、緑茶リキュール0.5tsp、桜花の塩漬け ※奈良県の吉野は桜の名所として有名。毛利隆雄氏は、東京・銀座「毛利バー」のオーナー・バーテンダー。16. スプモーニ(Spumoni) (1980年代半ば、考案者は不詳) カンパリ30ml、グレープフルーツジュース30ml、トニックウォーター ※日本のバーで最も人気のあるカクテルの一つ。アルコール度数が低く飲みやすいため、とくに女性に人気がある。日本のカクテルブックでは「イタリア生まれのカクテル」と紹介されることが多く、バー関係者でもそう誤解している人が多いが、日本生まれのカクテル。 1980年代半ばに、日本のカンパリ輸入業者と、イタリア料理ブームに便乗した外食産業関係者によって考案され、広まった。「スプモーニ」の語源は、イタリア語の「泡を立てる(spumare)」から名付けられたという。【ご参考:拙Blog連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話:スプモーニ(Spumoni)」】17. キングス・バレー(King’s Valley) 上田和男(1986年) スコッチ・ウイスキー40ml、ホワイト・キュラソー10ml、ライムジュース10ml、ブルー・キュラソー1tsp ※1986年に開催された「第1回スコッチウイスキー・カクテルコンペティション」での優勝作品。作者の上田氏は、東京・銀座「Bar TENDER」のオーナー・バーテンダー。18. サケティーニ(Saketini) (1980年代半ば~後半に登場、考案者は不詳) ドライ・ジン40ml、日本酒(SAKE)30ml、オリーブ19. フォーリング・スター(Falling Star) 保志雄一(1989年) ホワイト・ラム30ml、パイナップル・リキュール15ml、オレンジジュース10ml、グレープフルーツジュース10ml、 ブルー・キュラソー 1tsp、レモンピールは星型にくり抜く。ブルー・キュラソーで銀河のようにコーラル・スタイルにしたグラスに ※1989年、日本バーテンダー協会主催の「全国バーテンダー技能競技大会」で総合優勝した際の創作カクテル。保志氏は現在、東京・銀座「バー保志」のオーナー・バーテンダー。20. チャイナ・ブルー(China Blue) 内田輝廣(1980年代後半〜1990年代前半) ライチ・リキュール30ml、ブルー・キュラソー10ml、グレープフルーツジュース45ml、トニックウォーター45ml(トニックウォーター無しのバージョンもある) ※ライチ・リキュール「ディタ(DITA)」の輸入発売スタートにあたり考案されたと伝わる。カクテル名は、中国の陶磁器「景徳鎮」の鮮やかな青色に由来するという。内田氏は富山市にある「バー白馬館」のオーナー・バーテンダー。21. ミルキーウェイ(Milky Way) 岸 久(1996年) ジン30ml、アマレット30ml、ストロベリークリーム・リキュール10ml、ストロベリー・シロップ15ml、パイナップルジュース 90ml ※1996年の「インターナショナル・カクテル・コンペティション(ICC)」ロングドリンク部門での優勝作品。岸氏は、東京・銀座「スタアバー」のオーナー・バーテンダー。ICCで優勝した日本人バーテンダーは岸氏が初めてである。22. オーガスタ・セブン(Augusta Seven) 品野清光(1997年) パッソア(パッションフルーツ・リキュール) 45ml、パイナップルジュース90m、レモンジュース15ml ※パッソア・リキュールの日本での輸入販売を開始するにあたり、オリジナルカクテル考案の依頼を受けた大阪の「バー・オーガスタ」オーナー・バーテンダー、品野清光氏が考案した。その後、人気漫画「バー・レモン・ハート」でも紹介されたことで全国的にも知られるようになった。【ご参考:拙Blog連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話:オーガスタ・セブン(Augusta Seven)」】23. スピーク・ロウ(Speak Low) 後閑信吾(2012年) ダーク・ラム50ml、ペドロヒメネス・シェリー5ml、抹茶1tsp、レモンピール ※2012年、「バカルディ・レガシー・カクテル・コンペティション」の優勝作品。後閑氏は日本人では、現在世界で最もその名が知られているバーテンダー。【番外編】・バンブー(Bamboo) 1890年、横浜外国人居留地にあった旧・横浜グランドホテルの支配人だった米国人、ルイス・エッピンガー(Louis Eppinger)氏が考案したと伝わる。 ドライ・シェリー50ml、ドライ・ベルモット20ml、オレンジビターズ(ステア)【ご参考:拙Blog連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話:バンブー(Bamboo)」】・ミリオンダラー(Million Dollar) 19世紀末または20世紀初めに、横浜グランドホテル内のバーで誕生? バンブーと同じエッピンガー氏の考案とも伝わるが、これを裏付ける文献資料は確認されていない。 ジン45ml、スイート・ベルモット15ml、パイナップルジュース15ml、グレナデン・シロップ、卵白(シェイク)【ご参考:拙Blog連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話:ミリオンダラー(Million Dollar)」】★こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2023/04/01
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オランダの街角、とくにアムステルダムを歩いていると、独特のイスラム的服装をしたインドネシア人やインドネシア料理店をあちこちで見かけます。中学や高校の歴史の授業で習ったので、ご存知の方も多いかもしれませんが、オランダはかつてインドネシアを約350年に渡り、海外植民地として支配してきました。なので、現在でもインドネシア(人)との繋がりは深く、オランダでの永住者、在留者が数多くいます。 それでは、オランダの植民地支配(政策)の歴史を簡単におさらいしておきましょう。英仏やスペイン、ポルトガルなど他の列強と同様、オランダも16世紀から、海外での領土・資源獲得を目指して、遠くアジアまでたびたび外洋船を派遣し、拠点を築いていきました。オランダ「東インド会社」が交易で求めたのは、砂糖やコーヒー豆、茶葉、タバコ、胡椒、陶磁器など様々なものでした(写真は、アムステルダム・ダム広場での光景)。 ちなみに「東インド会社」の「東インド」とは現在の「インド」でも「インドの東部地域」でもなく、大航海時代以前からヨーロッパ人が憧れた、アフリカ大陸東海岸やアジア全域のことを指しました。15世紀末にコロンブスが新大陸に到達した時、そこを「インド」の一部と勘違いし、西のインドと名付けました。カリブ海に浮かぶ島々が現在でも「西インド諸島」と呼ばれているのはその名残です。 オランダの海外進出範囲は、インドネシア、台湾、スリランカ、西アフリカ・ギニア、南アフリカ、カリブ海、北米やブラジルの一部…と世界中に及びました。現在はその多くを失っていますが、カリブ海のキュラソー島(ヤクルトのヴァレンティン選手はこの島の出身で、オランダ国籍ですね)などは、今もそのまま海外領土として維持しています。 なかでも、インドネシアは最も長く植民地支配を続けた地域で、その支配期間は、1598年から約350年間にも及びました。しかしこの間、領土獲得のために要した莫大な戦費が負担となり、オランダ「東インド会社」の経営も悪化しました。その後19世紀に入って、フランス革命以降のヨーロッパ政局の混乱で、オランダは海外領土の多くをイギリスに奪われることになります(写真は、ダム広場近くのトラムの停留所)。 一方、オランダが支配を維持したインドネシアでは、20世紀以降、植民地支配に利用することを目的に初等、中等学校、医師学校、官吏養成学校なども設けられ、オランダの大学に留学する者も増えてきました。こうした流れの中てインドネシアに知識層が生れ、民族自立の意識も生まれてきます。 1939年に第二次世界大戦が勃発。1940年5月にはドイツの侵攻をうけてオランダ本国は降伏し、大戦終結までドイツの占領下におかれます。一方、 オランダ領東インドには、1942年2月末に日本軍が侵攻。植民地軍は全面降伏し、オランダによる約350年の東インド支配は終焉することになりました。列強の植民地支配自体を肯定することは出来ませんが、良くも悪くもオランダとインドネシアは現在でも深い関係が続いています。 という訳で、3日目の夜の食事は、アムステルダムでインドネシア料理を食べようということになりました。お邪魔したのはアムスでも一番の老舗で、人気店の一つ「サマ・セボ」(写真。下の写真も同じく「サマ・セボ」)です。2日目に行った「シーフード・バー」からも、歩いてすぐの距離にあります。 インドネシア料理は、日本でも最近はそこそこ知られるようになりましたが、タイ料理やベトナム料理に比べるとまだまだ専門レストランは少なく、知名度はまだまだです。皆さんは、インドネシア料理と言われたら、何を連想されるでしょうか? ナシゴレン(インドネシア風焼き飯)? それともサテ(肉の串焼き)ですか? 僕らも正直言って、日本でインドネシア料理を味わった回数は数えるほどです。なので、ほとんど初心者みたいなもの。そこで、一皿で10種類くらいの代表的料理が味わえるという、お得なワンプレート・ディナーを選びました。 飲物はやはり、辛くてスパイシーな料理に一番合うビールも一緒に!(なぜかこの店、メニューにインドネシアのビールがなかったので、オランダのビールを頂きましたが)(ワンプレート料理の下にはナシゴレンがあるのですが、隠れて見えないので、拝借した画像で「ナシゴレン」をご紹介(C)https://bali.navi.com )。 せっかくなので、ついでにもう一皿、代表的な料理の「ミーゴレン」(インドネシア風焼きそば)の写真もご紹介(画像提供元は同じ、bali.navi.com)。インドネシア料理は、アジアの色んな国の料理の美味しいエッセンスが凝縮されたような印象です。 さて、晩ご飯の後は、恒例のバーでの呑み直し。きょうは日本のバーテンダー仲間から教えてもらったアムステルダムを代表するカクテル・バー「テイルズ&スピリッツ(Tales & Spirits)」へ。僕らの泊まっているホテルからも近い距離です。 明るくフレンドリーな若いバーテンダーがたくさんいます。店内は意外とカジュアル。メニューにはオリジナル・カクテルが豊富です。 バックバーはこんな感じ。日本のバーのボトルの品揃えとは少し違いますね。見たこともないリキュールのボトルもいっぱい。カクテルに使うスパイス類が入ったガラス瓶も並んでいます。 こちらが日本のバーテンダーとも親しいAirto Cramerさん。共通の友人がいることもあって、初対面なのにすぐ打ち解けられました。聞けば、「実は明後日から日本に行って、*****にも行くんだよー」と。このタイミングにも驚きでした。 せっかくなので、最初の写真のバーテンダー氏ともども、店のオリジナル・カクテルを3杯つくってもらいました。驚くのは、提供するまでの早さ。鼻歌をうたいながら、そして少しオーバーなパフォーマンスも見せながら、あっと言う間でした(以下の写真3枚。レシピは聞き忘れました(笑)。色から想像してくださ~い)。 彼らのバーテンディングを見ていて思う、「日本人バーテンダーのバーテンディングとの違い」は、使う道具はほとんどがステンレス2ピースのボストン・シェーカー、材料の分量を測り方は結構アバウト、そして、とにかく仕事が早いということです。日本人バーテンダーみたいに、ゆっくり丁寧につくりませんが、クオリティは遜色ありません。 何よりも、スタッフはみんな、とことんフレンドリーなのが嬉しいです。バー業界にとって、「フレンドリーであること」ってとても大事ですね(Airtoと僕の2ショット写真は、Instagramにアップしています)。という訳で、美味しいカクテルを堪能して、アムステルダム3日目の夜も更けていくのでした。 <9回目に続く>※過去の「旅報告」連載は、トップページ中ほどのリンク「旅は楽しい」からお読みになれます。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2018/07/22
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46.キール(Kir)【現代の標準的なレシピ】(容量の単位はml) 辛口白ワイン(適量)、カシス・リキュール(10) ※国際バーテンダー協会(IBF)の標準レシピでは、辛口白ワイン10分の9、カシス・リキュール10分の1 【スタイル】ビルド 今日でも代表的な食前酒の一つです。第二次大戦終結後の1945年頃、仏ブルゴーニュ地方・ディジョン(Dijon)市の市長、フェリックス・キール(Felix Kir 1876~1968)が考案したと伝わります(この定説には異論は出ていません)。カクテル名は彼の名に由来します。考案にあたっては、いくつかの理由があったと伝わっています。 第二次大戦中、ブルゴーニュ地方の赤ワイン畑は、占領ドイツ軍に没収されていました。戦後、ディジョンでは地元の農業振興のため、赤ワイン畑の復興とともに、まだ出来が悪かった特産・アリゴテ種の白ワインの在庫を減らし、カシス・リキュールの消費を拡大させる必要がありました。このため白ワインとカシス・リキュールを使った食前酒をつくり、市の公式晩餐会では必ず出してPRしようということになったそうです。 もう一つの理由としては、大戦直後の国内の物不足でシャンパンが足りず、代わりに白ワインを消費する必要があったということです。すなわち「キール」にはシャンパンの代用品という役割もあったようです(出典:Wikipedia英語版ほか国内外の専門サイト)。 元々「ワインは酒場(バー)の酒ではない」という保守的な考えから、「キール」は主にレストランでの食前酒として発展してきたカクテルでした。仏の作家、フランソワーズ・サガン(Françoise Sagan 1935~2004)の小説「一年ののち(Dans un mois, dans un an)」(1957年発表)には「キール」が登場していることからも、1950年代にはフランス国内ではその名が知られるドリンクだったこと(出典:Wikipedia日本語版)は間違いありませんが、欧米のカクテルブックで紹介されることは、60年代後半まではほとんどありませんでした。 しかし、1965年11月に出版された米国の有名な写真雑誌「LIFE」に、90歳でもなお元気で市長職を務めているキール氏の姿が紹介されたのがきっかけに、カクテル「キール」のことも世界的に広く知られるようになりました(出典:今井清&福西英三著「カクテル小辞典」)。ホテルや街場のバーでよく飲まれるようになったのは、欧米では1960年代の後半以降、日本では70年代後半以降と言われています。 欧米のカクテルブックで「キール」が初めて登場するのは、現時点で確認した限りでは、1966年に英国で出版された「Booth's Handbook of Cocktails and Mixed Drinks」(John Doxat著)です。そのレシピは「ブルゴーニュの白ワイン(シャルドネ)4オンス、カシス・リキュール1tsp、お好みで氷を」(French Bartender's Associationのレシピによる)となっています。 なお現代のフランスでは、カシス・リキュール以外、ブラックベリー・リキュール、ピーチ・リキュールを使った場合でもキールと呼ぶため、注文の際、どれを選ぶか問われる店もあるといいます。 「キール」の白ワインをシャンパンに替えると「キール・ロワイヤル」となる(考案者はオーストリアのフーベルト・ドヴォルシャック氏)ことはよく知られています。「キール・ロワイヤル」のカシス・リキュールをラズベリー・リキュールに替えると「キール・インペリアル」と呼ばれます。また、白ワインを赤ワインに替えると、「キール・カージナル(またはカルディナール)」と呼ばれるます(出典:Wikipedia日本語版)。 【確認できる日本初出資料】「カクテル小事典」(今井清&福西栄三著、1967年刊)。レシピは「冷やした辛口白ワイン60ml、クレーム・ド・カシス10ml」となっています。・こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2017/04/23
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クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング(Crosby, Stills, Nash & Young 以下、CSN&Y)って言っても、洋楽では、少しマニアックな世界に入るかもしれない。1960年代後半に結成され、メンバーの平均年齢が61.2歳になった今も活動をし続ける、息の長いユニット。 でも、僕にとっては青春そのもの。14年前、クロスビー、スティルス&ナッシュの3人での来日ツアーがあったが、僕は、自分の青春時代がプレイバックするような感動に震えた。(3人とも結構太めになって、いいおっさんになっていたのは、少々哀しかったが…)。 米ウェスト・コーストのロック・バンド、「Byrds」のデビッド・クロスビー<David Crosby>、同じく「Baffalo Springfield」のスティーヴン・スティルス<Steven Stills>、そして英国のバンド、「Hollies」のグラハム・ナッシュ<Graham Nash>という、当時それぞれ、一応名をなしていた英米の3人が集まって、1968年、鮮烈にデビューした。 ファースト・アルバム(写真左)を発売した直後の69年の夏には、あの伝説のコンサート、「ウッドストック(Woodstock)」にも出演した(同名の映画では、ステージで歌う彼らの姿が見られる)。そして、その後間もなく、スティルスと同じバンドにいたニール・ヤング<Neil Young>が加わり、4人でのユニットとなった。 彼らの音楽の特徴は、やはり美しいハーモニー。それまでのロック・バンドと言えば、メーン・ボーカリストが歌って、それ以外メンバーは曲のサビあたりで、少しコーラスを付ける、という程度のことが多かった。 しかしCSN&Yは、4人がそれぞれ対等の立場でボーカルをとり、曲のほとんどの部分で、3部のハーモニーを聴かせるという、凝ったことに挑んだ最初のバンドだったかもしれない。時々エレクトリック・ギターも使うが、基本はアコースティック・ギターを生かしたアレンジ。それが、当時はとても新鮮だった。 2人の友人と僕が学生時代につくっていた「木の葉がくれ」という名前のバンドも、男声3人のトリプル・ボーカル。だから、CSN&Yはとてもいいお手本で、彼らの曲のコピーはとても勉強になった。バンドメンバーのAがレコードを聴いて採譜し、3部のハーモニーを五線譜におこした(僕にはそういう才能はなかったので、Aにお任せだった)。苦手なおたまじゃくしを追いながら、よくコーラスの練習をした。 「青い眼のジュディ<Judy; Blue Eyes>」「Helplessly Hoping」「Teach Your Children」「Carry On」等々。僕は当時、一番上のパートを担当することが多かったが、今では残念ながら、あまり高い声は出せなくなった。 CSN&Yの曲のなかでも、僕は、ナッシュがピアノを弾きながらメーンボーカルをとる、「Our House」という曲が、大好き(写真右の、「Deja Vu」というヤングが初めて加わった1970年のアルバムに収録されている)。 この曲は、コロンビア大学の学園紛争を描いた映画、「いちご白書」の中の挿入歌でもある。主人公のカップルのラブ・シーンのバックで使われていたが、うっとりするくらい美しいメロディー。僕も、BARでの弾き語りでときどき歌う(ばんばんの「いちご白書をもう一度」という曲のおかげで、映画は有名になったが、実際に映画を観たという人は、意外に少ない…)。 最近、1960~80年代の名曲がCMで使われてブレークし、昔のアルバムが再発されたり、なんてことがよくある。アル・クーパーの「Jolie」やホール&オーツの「Private Eyes」や、先日も触れたが、キャロル・キングの「Home Again」なんかがそう。 「Our House」も上の3曲に負けないくらいの美しいメロディー。僕はそのうち、どっかのCMで、この曲がバックで使われるんじゃないかと、睨んでいるんだけれど。
2005/01/27
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すみません、東日本大震災からまだ2週間なのですが、そろそろ震災以外の話題をテーマにしても怒られないかなと信じてアップします。先月(2月)の話なので少し恐縮ですが、忘れないうちに高知でのBAR巡りについて、簡単にご報告を。 今回まわったのは4軒。まずは前回(2010年10月1日の日記)行ったのと同じ「バール・バッフォーネ」で腹ごしらえ。再会した青野マスターとあれこれとお話しながら、美味しいワインと前菜盛り合わせを堪能した(2杯目でいただいたのは、なんと人生初めてのインド産のワイン。インドでワインが造られているとは驚き)。 で、BAR巡りですが、今回は少々不作だった。3軒回ったうち、良かったと思ったのは1軒だけ。最初に行ったAというお店。老舗の一軒ということは聞いていたのだが、マスターは不在で女性が一人いただけ。カクテルを頼んだが、その出来は悲しいほど(おまけに、グラスの選択も誤った)。 都会でも地方都市でも、これまで老舗BARを数多く訪ねたが、概ね評価は大きく分かれる。「期待通りで、もの凄く良い」か「老舗という看板が泣くような味と接客にがっかり」か、だ。今回のAという店はむろん後者になる。まぁ、長い間BAR巡りをしていると、こういうこともある。 気を取り直して2軒目のBというお店に転戦する。今度は大阪のあるBARのマスターの紹介(推薦ではなく)なので、まず、大丈夫だろうと思った。しかし、その期待も裏切られた。フルーツ・カクテルがウリと聞いていたので、地元・高知の文旦のカクテルを頼んだ。 カクテル自体はまぁ平均点の味わいだったのだが、出てきたお通しを見てびっくり。「和風ポトフ」なるものが出された。ここは居酒屋か? フルーツ・カクテルに和風ポトフを合わせるセンスに唖然である。マスターは合うと思っているのか? これなら、かわきもので充分だ。 しかも、地方都市のBARにしては結構強気の値段設定とチャージだった。僕的に言えば、「少しぼられた」かなという印象。このBARはたぶん、「もう2度目はない」店に入るだろう。贅沢は言わないが、お通しを出すなら、客が頼んだ酒に合うものにしてほしい。 で、再び気を取り直して、3軒目へ。帯屋町の飲み屋街からそう遠くない追手筋という場所にある「Bar・POURER(ポアラー)」=写真左上&右=というお店。オーセンティックで、落ち着いた雰囲気はまず合格点。 店は繁盛していて、マスターは忙しそうだったが、出張で訪ねたという僕にも、気さくに話しかけて応対してくれる。ようやく心落ち着ける空間に出会えて、ひと安心。ウオッカ・トニックと余市のロックを頂いたが、お値段も普通のレベル。 聞けばオープンは1985年というから、もう開業26年。マスターはどんなに忙しくても笑顔を絶やさず、すべての客に平等に対応している。常連でも一見でも同じ接客だ。繁盛している理由がわかる。「BARの善し悪しは結局のところ、マスターの全人格の反映である」と言った人がいたが、僕も同感である。 「POURER」は最初の2軒とは違って、確実に「もう一度訪れたい店」として、僕のBARリストに入るだろう。【Bar・POURER】高知市追手筋1-8-21 プランタン・パート3・1F 電話088-822-3321 午後6時~午前1時 無休こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2011/03/26
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「モルト・ウイスキーのロールス・ロイス」の異名を持つ偉大な銘柄と言えば、マッカラン(Macallan)。そのバランスの良さはスコットランドのモルトの中でも傑出した存在。バーテンダーはもちろん、ほとんどのモルト愛好家が、おそらく好きな銘柄の上位に挙げるだろう。 創業は1824年。熟成には、シェリー樽しか使わないのが最大の特徴(とくにドライ・オロロソの樽を使う)。原料の大麦も最高級の品種を用いる。だから、シェリー樽熟成の上質のモルトと言えば、まず、マッカランを思い浮かべる人が多いだろう。ちなみにマッカランとは創業者の名前でなく、「聖コロンバの丘」を意味するゲール語(「聖コロンバの丘」って何?と聞かれても、僕は知らないので悪しからず…)。 モルト好きの人は、大きく分けてアイラ系のスモーキーで、ピーティーな銘柄が好きな人と、シェリー樽熟成系のモルトが好きな人、それ以外の人に分かれるんじゃないだろうかと思う(写真左上=マッカランの現行ボトル。最近ボトルがこの背の高い形に変わりましたが、僕は以前のボトルの形の方が好き)。 僕のモルト好きの友人にも、アイラのボウモアやラフロイグ大好き人間がいるし、マッカランやグレン・ファークラスなどのシェリー系大好き人間もいる(もちろん、あまりこだわりのない人間もいる)。 僕は、と言えば「どっちも好き人間」。でも好みは、なぜか自分でも理由はうまく言えないが、年ごとに若干変わる傾向がある。今年は、BARでシェリー系を頼むことが多いから、なんとなく、「シェリー系嗜好」な年なのかも…。 マッカラン以外にも、シェリー樽熟成のモルトを産み出す蒸留所はいろいろある。上記の2つ以外にも、エドラダワー、グレンドロナック、ハイランドパーク、バルベニー…等々。でも迷った時はやはり、マッカランを頼むことが多い。 他のモルトにも言えることだが、60~70年代のマッカランは旨かった。原材料の大麦の出来が素晴らしかったこともあるが、機械化された現在と違って、優れた職人が丁寧に造っていたせいもあるだろう(写真右=マッカラン18年のオールドボトル=この写真のものは1973年の蒸留。60年以前のものにはもっと旨いものもあるが、今や入手は困難!)。 マッカランでも、僕がとくに好きなのはオフィシャルの「18年」という銘柄。家でも、昔はよくこれを飲んでいた。シェリー樽がウリのマッカランでも、とくにシェリー香がよく残っていて、色も赤みがかった濃厚な琥珀色をしている。 「昔は」と書いたのは、ひと頃は、近所のディスカウントのお酒屋さんで、5500円~6500円くらいで買えていた「18年」が、最近はシェリー樽が品薄なのか、1万円近くまで高騰していて、普段用では気安く飲めなくなってしまったから…(まぁ、独立系業者から実にたくさんのマッカランのボトルが出ているから、美味しいのを探せばいいのだが…)。 マッカランと言えば、愛好家ならすでにご存じだが、最近オフィシャル・ボトルの形やラベルのデザインを一新した(写真左下=マッカラン蒸留所のオールドボトルの公式ガイドブックでは、1930~50年代のボトルも販売している。お値段は1本50万円(!)前後、お一つかが?)。 外見的イメージの一新には賛否が渦巻いている。「威厳がなくなって、安っぽい感じになった」「長い伝統を軽んじるものだ」という批判もある一方、「時代に合わせて変えていくのも仕方がない」「21世紀のマッカランはスタイリッシュでいい」と支持する声もある。 僕は、どちらか言うと批判的だ。ラベルのデザインのマイナーチェンジは認めるにしても、伝統のボトルの形は変えてほしくはなかった(もっとも創業当時のボトルがどうだったかのは知らないが…)。ボトルの形やデザインなんて、どうでもいいことかもしれない。上質のモルトを、これからもきちんと作り続けてくれさえすれば、それでいいのかもしれない。それでも…、と思う。 マッカラン。それはモルト・ウイスキーとオロロソ・シェリーの偉大なマリッジ(融合)。ウイスキーをシェリー樽で熟成させようと考えた人に、僕は重ねがさね感謝しなければならないと思う。
2005/06/19
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私は2012年9月26日付の記事(リンクはこちら)で、SNS上の画像・写真の引用問題について記しました。その後、2018年と2019年に著作権法の改正がありました(2018年の改正は、主に環太平洋11カ国との「TTP協定」締結に伴うものです)。 今回遅まきながらですが、主な改正点を紹介するとともに、改正内容に合わせて前回の記事内容を追記・修正し、私たちがSNS上で「画像・写真を引用する場合」の注意点を、改めて紹介してみたいと思います(今回の追記・修正部分については、赤字で記しました)。【おことわり】前回同様の言い訳ですが、この記事は、あくまでSNS上での「画像の引用」ルールについて、現時点での著作権法上の一般的なルールや法的見解、マナー等をまとめたものです。しかし、私は法律の専門家ではありません。個別具体的問題についての対応・見解まで保証するものではありません。具体的なトラブルについては、私は一切の責任を負えませんので、疑問点等は文化庁や法律専門家にお尋ねください。なお、用語や解釈の間違い等のご指摘は歓迎いたします。→ arkwez@gmail.com まで宜しくお願いいたします)。 ◆改正・著作権法などの概要 改正著作権法は、2018年5月18日に成立し、2019年1月1日から施行されました。今回の改正は「デジタル・ネットワーク技術の進展により、新たに生まれる著作物の利用ニーズに的確に対応するため、著作権者の許諾を受ける必要がある行為の範囲を見直し、IT・情報関連産業、教育、障がい者、美術館等におけるアーカイブの利活用に関わる著作物の利用をより円滑に行えるようにする」のが狙いです。 具体的には、(1)一定の条件をクリアすれば、著作権者の許諾を得ないでも自由に利用できる範囲が広がった(2)IT技術開発・情報処理目的や検索エンジン(GoogleやYahoo等)のための著作物の利用は許諾がなくても可能に(3)授業などで教師が他人の著作物を用いて作成した教材を生徒に随時送信する行為も、公衆送信補償金の支払いで著作権者の許諾なく可能に(4)美術館などが収蔵・展示作品をデジタル化し、ネットワーク上で閲覧させる場合、許諾なく行えるようになりました。 また、ほぼ同時に、(5)TTP整備法を反映した改正(2018年6月9日成立、12月30日施行)も行われ、従来、作者の死後50年だった著作権保護期間は、米国の要請によって70年に延長され(末尾【注1】ご参照)、(6)海賊版の販売・送信行為への非親告罪化(著作権者の告訴がなくても起訴可能に)も導入されました。 ※(3)の補償金については、2020年4月からは年間1回のみの支払いで済む「ワンストップ補償金」制度が創設されました。この改正によって、オンライン授業における教材作成での規制や負担が大きく軽減されました(2020年度に関しては無料でしたが、2021年度から支払いが義務化されました)。「補償金」の料金体系や金額は以下の通りです。 ・学校種別の年間包括料金(公衆送信回数は無制限) 公衆送信を受ける園児・児童・生徒・学生1人当たりの額=大学720円/ 高校420円/ 中学校180円/小学校120円/ 幼稚園60円(※社会教育施設、公開講座等については、30人を定員とする1講座・講習を1回の授業として、授業ごとに300円) ・公衆送信の都度支払う場合の料金=1回・1人当たり10円(対象となる著作物、実演、レコード、放送、有線放送ごとに)。 ※「補償金」の支払い窓口・管理・著作権者への分配等は文科省から指定を受けた「一般社団法人:授業目的公衆送信補償金等管理協会(SARTRAS)」が担当します。料金等については3年ごとに見直しを行い、必要な措置を講じるとのことです。 ◆画像引用も基本は文章と同じだが… まず、基本的なことですが、写真やイラスト、絵画なども含むSNS上の画像についても、前回も紹介した「公正な引用のための要件」が適用されます。著作権法32条の「公正な慣行に合致し、報道・批評・研究など目的上、正当な範囲内で、定められ要件を満たしていれば、著作権者の了解なしに引用して利用できる」というのが前提です。 では、画像の合法的な引用・利用の基本要件はどうなるかですが、画像・写真の引用についても基本的に、「文章の引用」の場合と同じルールです。 (1)引用先は既に公表された画像であること (2)「公正な慣行」に合致すること =「公正な慣行」の定義は示されていませんが、判例等では、以下の(3)(4)(5)の要件がこれに当たるとしているケースが多いそうです。 (3)自分の著作物と、引用する画像との「主従関係」が明確であること =あくまで自分の文章が「主」で、引用された画像は「従」でなければなりません。「主」か「従」かは、著作物の目的・趣旨や引用した画像の大きさ、補足的なものとして使っているか等がポイントです。従って、小さな画像でもそれが「主」であれば違法となることもあります。 (4)引用する画像が、自分の著作物と明確に区別されていること(明瞭区別性) (5)引用する必然性があること(その引用が著作物の目的や構成上、必要・不可欠である) (6)出典・出所が明示されていること(著作権法48条) (7)画像に勝手な変更を加えないこと(加工したりしない) (8)引用しすぎないこと(過剰な枚数を引用したり、引用した画像のスペースが本文よりも大きいのは違法とみなされるおそれがあります) (9)報道・批評・研究などのための「正当な範囲内」であること(著作権法32条) ※(2)と(9)については、今回の法改正で追加された概念ではなく、旧法から存在した基準ですが、基本要件に含めている法律専門サイトが多いので、今回私も追加しました。 なお、「報道・批評・研究などのための『正当な範囲内』」という要件については、改正著作権法でも明確な定義は示されていません。唯一、判例で「社会通念に照らして合理的な範囲内のものであることが必要であり、具体的には、他人の著作物を利用する側の利用の目的のほか、その方法や態様、利用される著作物の種類や性質、当該著作物の著作権者に及ぼす影響の有無・程度などが総合的に考慮されなければならない」と示されている程度です(大阪地裁・2013年7月16日判決)。 すなわち、「引用に必然性・必要性があって、引用の分量や引用個所が適切であり、引用部分が明確に区別されている」などの条件を満たす必要があるのは当然だと思われます。 ◆出版社等の「禁止規定」は合法か、違法か 私たち個人がネット上で一番よく画像を「引用・利用」するケースとしては、(1)本や雑誌の表紙(2)CDやレコードのジャケット(3)映画のポスターや1シーン(4)市販商品の外観(5)ネット・オークションでの商品――などが代表的なものではないかと思います。このうち(5)については現在は原則、無条件の引用・利用が合法化されています。 (1)~(4)については、著作権法32条を守り、9要件をクリアすれば、誰でも合法的に引用・利用できるはずです。ところが、例えば出版社のHPにはよく、画像に関して以下のような禁止事項が列挙されています。表向きは、著作権者の許諾なしに一切の画像の使用はまかりならんという姿勢です。 ・出版物の装丁の画像の全体または一部を掲載することはできません ・キャラクターの画像および写真等の全体または一部を掲載することはできません ・ホームページの画像の全体または一部を転載することはできません ・法人企業のHPであっても、許可なく転載することはできません ・非営利であっても、個人サイトでの転載は「私的利用」にはなりません ・著作権侵害が行われた場合には法的手段をとることもありますので、ご注意ください 私も、Blogで時々、本の批評やCD、映画の感想など紹介しているので、本やCDジャケットや映画の1シーンの画像を借りることはあります。出典・引用元は可能な限り明示するようにしています。こうした利用は、著作権法32条に言う「公正な慣行に合致し、報道、批評、研究など目的上、正当な」という要件に当てはまり、合法的な利用です。 ここで疑問がわきます。「著作権法では正当な目的であって、主従関係を明確にして、引用元もきっちり明示すれば、画像の『引用』はできると認めている。こんな禁止規定自体が著作権法違反じゃないのか」という疑問です。そこで、法律専門サイト等でさらに調べたうえで、専門家の意見も少し聞いてみました。 ◆現実的には、出版社等は「黙認」姿勢 結論から言うと、文章の引用についてはこれまで判例がいくつもあって、様々な具体的ルールや指針がかなり周知されているのですが、画像については、争われた裁判(判例)がまだ少なく、違法か違法でないのかの基準が曖昧なままになっています。 知的財産や著作権法に詳しい杉浦健二弁護士は「一般的には、引用要件には法文上の明確な基準があった方がいいという意見もあるが、過度に明確化すると、インターネット等を中心とした利用形態の多様化に法律が付いていけず、弾力的な運用がしづらくなるため、引用要件にはある程度の“あそび”がある、現在の程度が望ましいと考えている」と記しています(出典:STORIA法律事務所Blog) 近年唯一、画像の無断使用で争われたとも言える有名な裁判に「脱ゴーマニズム宣言事件」(小林よしのり氏vs上杉聡氏)というのがあります。この裁判では漫画の引用問題が争点でしたが、1999年8月に東京地裁が出した判決「批評の対象を明確にするためには、絵も引用する必要があることを認める」「引用の要件を満たす限りは、引用が必要最小限であることまでは要求されない」(1999年8月31日)が現時点では数少ない判例です(参考:Wikipedia「脱ゴーマニズム宣言事件」)。 しかしながら、出版社はこうした判決が出た後も、禁止規定は撤回・変更していません。禁止規定は「任意規定であるから合法」という学説がある一方で、「このような規定自体が著作権法違反だ」という法律家もいます。法的見解が分かれる中、現実には、日本だけでも個人のHPやBlogで膨大な数の画像が引用・利用されています。 出版社やレコード会社等はいちいち告発したりせず、黙認しているのが現状です(おそらく、訴えたあげく不利な判例が出て、自分で自分の首を絞めるのが怖いというのもあるのでしょう)。現実には、個人やNPOのHP、Blogのように非営利目的であればあまり目くじらは立てないという姿勢だと思いますが、私たちはやはり、節度ある引用・利用に徹したいと思います(ちなみに、著作権侵害した場合の刑罰は、10年以下の懲役もしくは1000万円以下の罰金という結構重いものなので、くれぐれも安易な画像利用・引用には十分気を付けたいところです)。 ◆1、2枚の画像引用なら、まず問題なし 今回、法律関係者に直接尋ねたり、著作権問題を取り上げた法律事務所のWEBページの解説を調べたりしたところ、結論として、少なくとも以下のようなことは言えるかと思います。 ・SNS上の画像引用についても、冒頭にも挙げた、正当な引用のための「9つの要件」は最低限満たさなければならない。報道、批評、研究その他引用の目的上正当な範囲内であれば、原則として問題はないが、「正当な目的」と「正当な範囲内であること」が大事(単なる日常雑記のような文章に、権利者が存在する必然性もない画像を勝手にアップするのは避けるべきである)。 ・静止画については、「要件を満たしていれば、引用が正当な範囲内に収まる可能性が高い」(斉藤博『著作権法』236頁、2000年、有斐閣刊)というのが学界の多数説。音楽評論や映画評論で1、2枚の画像をコピーして載せるのはセーフ。しかし、「必然性もないのに、例えば、自分のブログのトップにミッキー・マウスの画像をコピーして載せるというのは危ない」とのこと(とくに、ディズニー社は著作権、商標権にうるさいことで有名なので要注意)。 ・引用する画像の色合い等を、画像ソフトを用いて改変してはならない(唯一、画像のサイズ拡大、縮小は認められている)。 ・「出所の明示は合理的な態様で」というのが法の規定。著作権者名があればベストだが、不詳であれば、出典WEBサイトのURLを明記することが望ましい。いずれにしろ、企業の公式HPならともかく、個人の私的なBlogに静止画を少し載せるくらいなら訴えられることはまずないだろう。 ・ただし、この問題に関しての最高裁判決はなく、下級審判決例も、上記の要件のそれぞれに対するウエイトのかけ方が異なるので、難しい面がある。そもそも、「公正」とか「正当」とか、必ずしも利用者にわかりにくい基準で、裁判になってみなければ、それに反しているかどうか結論は出せない。おそらくそのような現状からして、新聞社、出版社などの権利者側からは、原則に戻って、許諾がいるというように警告を発しているのだと思う。 ・著作権法の引用要件を明らかに満たしている場合は、利用者は権利者に事前に許諾をとる必要はない。権利者が「利用を認めます」と回答してくれる可能性は低く、かさねて許諾まで取りにいくメリットは皆無で、かえってリスクが高い行為になる(「ダメ」と言われた場合、身動きがとれなくなる)=上記STORIA法律事務所Blogより。 ◆画像転載が合法化されているもの なお、SNS上での画像の引用・利用が(条件付で)自由に認められているものもあります。例えば、以下のようなものです。 ・ネット・オークションに添える商品説明の写真掲載=インターネット・オークション等で売買する際、商品を確認するという必要性から、2009年の著作権法改正で、条件付き(著作権法施行令等で定めた大きさや精度等を遵守)でその画像を著作権者の許諾なく掲載することが合法化されました。今回の法改正ではさらに、美術品や写真の販売の際にも、カタログ等の図面として許諾なく掲載することが同様に可能となりました。 ・情報検索サービスを実施するために著作物の複製すること ・障がい者の教育・福祉活動等ために著作物を複製すること ・画素数を落とした画像、サムネイル(縮小)画像の利用 ※Amazonなどは「アフィリエイト」(【注2】)契約をすれば、画像を無料で利用できるというサービスをしていますが、私は利用していません。 ◆引用・掲載してはいけない画像とは 自分が撮った画像でもSNS上に掲載できないものもあります。例えば以下のようなもの――。 ・被写体から許可を得ていない画像(知らない人の顔がはっきりわかる状態で写り込んでいたら、肖像権の侵害だと言われるおそれがあります。モザイクをかけるなど個人を特定できないようにしてください。 ただし、友人らとの飲み会での写真なら許容範囲でしょう。いまどき、あなたがSNSをしていることを参加者が知っていて、携帯やデジカメで写真をとれば、参加者も「彼(彼女)のページに載るんだな」と了承したものとみなされるでしょうから)。 ・タレントなど著名人が写った画像(街でたまたま有名人を見かけて撮った写真を掲載すれば、場合によっては、「パブリシティ権」(【注3】)を侵害したと言われる可能性があります。店で女性と一緒のところを盗み撮りなどした画像なら、プライバシー侵害と言われる可能性もあります。 ・他人の著作物を撮った画像(滅多にないとは思いますが、著作権のある創作物を直接写真に撮ってSNS上に掲載すれば、著作権侵害と言われる可能性があるそうです)。 ・公序良俗に反する画像(これは当然ですね) ◆基本は自分の撮影にこだわりたい 私は基本的に、可能な限り、自分のSNS上では自分のカメラで撮影した画像を使うことにしています。自分の撮影を原則にしているのは、オリジナリティにこだわりたいことに加えて、リスク(転載を巡るトラブル)を減らしたいからです。 SNS上で無用なトラブルを招かないためには、安易に他のサイトから画像をコピーしてこないこと、そして引用・転載する場合でも、ルールやマナーをきちんと守ることが何よりも大切だと思います。私自身も現在、自戒の気持ちを込めて過去のBlogのページなどで使った画像について、順次、著作権法違反がないか再点検しています。必要な場合は、少なくとも「引用元」をきっちり明示したいと思っています。 【注1】1967年以前に著作者が死亡している場合: 著作者が亡くなったのが1967年以前であれば、2018年12月30日の改正著作権法施行以前に50年の保護期間(1968年1月から起算)が終了しているため、70年には延長されません(1967年に亡くなった芸術家で言えば、例えば、山本周五郎<作家>、壷井栄<作家>ら)。 なお、著作者が亡くなった後、著作権継承者がいなければ、原則として著作者死亡時点で著作権は消滅します。 【注2】アフィリエイト(Affiliate) 「成功報酬型広告」とも言われ、例えばHPやBlogである企業の商品の広告スペースを提供し、その広告を通じて商品が購入されたら、その企業や販売する店舗からHPやBlogの管理者(運営者)に成功報酬が支払われるという広告またはその形態を指す用語(出典:Wikipedia、All About「アフィリエイトとは?」 → http://allabout.co.jp/gm/gc/22964 ) 【注3】パブリシティ権 人に備わっている「顧客吸引力を中核とする経済的な価値」を保護する権利のこと(出典:Wikipedia、はてなキーワード → http://d.hatena.ne.jp/keyword/ ) 【御礼】この一文を書くにあたって、主に下記のWeb ページ上の解説やデータ、Q&Aから貴重な情報や示唆をいただきました。この場を借りて関係の皆様には心から御礼申し上げるとともに、そのページ(出典元)を紹介しておきます。 ・文化庁HP(著作権問題Q&A)→ https://chosakuken.bunka.go.jp/naruhodo/ ・「画像や情報の引用について 専門家Q&A」→ https://profile.allabout.co.jp/ask/q-46093 ・「画像の引用・転載に関する著作権について(Yahoo知恵袋)」→ https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/ ・「ネット時代の著作権(大塚商会)」→ https://qqweb.jp/QQW/STATICS/it/pc_howto/200911.html ・「HPやサイトで著作権違反にならない方法」→ https://nanapi.jp/15604 ・「著作権法上合法な引用の条件」→ https://puple.noblog.net/blog/a/10056206.html ・「ネット・Webサイトでの著作権」 → https://uguisu.skr.jp/html/kenri1.html ・「画像の著作権侵害を回避するために最低限理解しておくポイント」(東京スタートアップ法律事務所HP)→ https://tsl-magazine.com/category05/image-copyright-infringement ・「著作権が自由に使える場合」(公益社団法人・著作権情報センター)→ https://www.cric.or.jp/qa/ ・「著作権法の引用要件を満たしているのに、かさねて許諾を得る必要があるのか」(STORIA法律事務所Blog)→ https://storialaw.jp/blog/6114 ・「著作物・著作権をめぐるルール改正(解説)」(GVA法律事務所HP)→ https://gvalaw.jp/6253 ・「著作権を侵害せずに文章や画像を引用・転載する方法」(ベリーベスト法律事務所HP)→ https://best-legal.jp/copyright-quotation-4942 ・「著作権保護期間、50年から70年に延長。一部非親告罪化も」(Watch Impress)→ https://www.watch.impress.co.jp/docs/news/1152341.html【おことわり】この日記は、画像「引用」のルールについて、現時点での著作権法上の一般的なルールや法的見解、マナー等をまとめたものですが、個別具体的問題についての対応・見解まで保証するものではありません。具体的な疑問やトラブルについては文化庁や法律専門家にお尋ねください。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2020/06/20
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久々に高知でBAR巡りを楽しみました。高知は、徳島に暮らしていた頃に7、8回はお邪魔しましたが、最後に行ったのは2000年なので、10年ぶりの訪問です。 【パブ・アモンティラード】 昼間の仕事が比較的早く終わったので、一番オープンが早い店(午後5時という情報)に出かけた。しかし行ってみると、まだ開いていなかった(地方ではよくあること)。 仕方がないので、どこか時間潰しができそうな店はないかなぁ…と盛り場を歩いていたら、雰囲気の良さそうなパブを見つけた。入ってみると、失礼ながら結構本格的なアイリッシュ・パブ。ギネスやキルケニーの生まである。 とりあえずキルケニーで喉を潤す(生き返った気分!)。キャパも広くて、カウンターも15人くらい座れて、テーブル席いくつかある。時間待ちの時など、とても使い勝手がよさそう。高知に来る機会があれば、またお邪魔してみたい店だ。 【バール・バッフォーネ】とりあえずは腹ごしらえをということで、地元で評判のバールへ。ここは大阪のあるマスターのご紹介。オーナー・シェフのAさんはかつてはバーテンダーを目指し、修業していた。ところが、途中から元々興味があったイタリアンの道へ進んだ。そして10年ほど前、高知ではまだ珍しかったオープンカフェ形式のバールを開いた。 まるでイタリアの街角あるような素敵な店はその味とAさんの人柄で、今では不動の人気を得ている。僕は、Aさんの昔のバーテンダー時代の話を聞きながら、美味しいパスタと白ワインをいただく。フード・メニューがめちゃ充実しているのが嬉しい(時間があればもっとあれこれ食べたかった)。皆さんも高知に行かれたら、カツオのタタキは昼間に食べて、夜はバールでなんていかが? 【Walton Bar】 盛り場から少し離れた住宅街の中、3階建てのビルの2階にあるが、看板も出ていないので見つけるのに少々苦労。扉を開けると、そこはウッディで落ち着いた別世界だった。 ここは確か、ブログの友人のパブデ・ピカソさんから教えてもらった店。マスターのKさんに「大阪から出張でやって来ました」と挨拶。店のウリはシングルモルトとワイン。とくにバック・バーのマッカランのコレクションが素晴らしい。 常連度の高そうな店だが、マスターの接客は実に紳士的で優しい。まるで森の中のログハウスに居るように、静かに時間が流れ、ゆったりとした気分に浸れる。高知で一番のおしゃれなオーセンティックBARと言っていいかも。 【Barフランソワ】 今年で開業45年になるという高知一の老舗だ。僕はお邪魔するのは10年ぶり。今年71歳というSマスターは健在で、今も店に出ておられるが、普段はお弟子さんのMさんがカウンター内を仕切っておられる。 店の雰囲気は昔と変わらない。ここに来ると、時間が止まっているような錯覚に襲われる。昔もそうしていたように、フランソワでは、スタンダードな酒だけを頼む。この夜も、ジン・リッキー、そしてスコッチのハイボールをいただいた。 帰り際、カウンターの端に座っていたSマスターがすっと立ち上がり、「本日はどうも有難うございました」と挨拶してくれた。僕も「マスター、体に気をつけて元気でね!」と返した。フランソワのような素敵な老舗が高知にあることを、僕も幸せに思う。 【Bar千年郷】 面白い名前のBAR。一度聞いたら忘れない。BAR好きの友人や大阪のBARのマスターやいろんな人から、「高知へ行ったら、千年郷にもぜひ。カクテルもモルトも旨いよ」と勧められた。 店は清潔感にあふれて落ち着いた雰囲気。マスターのSさんはカクテルコンペで優秀な成績をおさめたこともあるほどの名手。一見とっつきにくそうにも見えるが、話してみると実に気さくな人柄で、こちらが聞かないことまであれこれ教えてくれる(土佐弁の指導までしてくれた(笑))。 「高知の景気はどうですか? 龍馬ブームでずいぶん観光客は来てるみたいですが…」と尋ねたが、Sマスターは「いやぁ、ホテル業界は潤ってるみたいだけど、BARにまでさほどいい影響は…」と。しかし、オーセンティックBARは一時のブームに左右されず、どっしり続いていくことこそが大事だと僕は思う。「千年郷」もその名のように、末永く続く店であってほしい。 【Collins Bar】ホテルに帰る前にもう1軒だけと思って、訪れた。静かで、きりっとしたオーセンティックBARの見本のような店だ(実は訪店候補の1軒だった)。夜の締めには、レッド・アイかシングルモルトかと悩んだが、結局ボウモアをストレートで頼んだ。 まだ若そうなマスターのKさん(30代半ばかな?)と、関西のBAR業界の話で盛り上がっているうちに、日付も変わっていた。長いカウンター、暗めの程よいライティング。1人で飲むのもよし、カップルで飲むのもよしのBARだ(お値段もリーズナブル)。酔いも回っていたので、1杯だけで失礼したけれど、Kさんお許しあれ。 10年ぶりの土佐の高知は、とても温かい雰囲気で僕を迎えてくれました(お天気も良くてラッキーだった)。高知のマスター、バーテンダーの皆さん、素敵なもてなしを有難うございました。 【パブ・アモンティラード】高知市帯屋町1-1-17 電話088-875-0599 午後5時~午前1時 無休 【バール・バッフォーネ】高知市帯屋町1-2-10 822-3884 午後6時~午前0時(金・土・日は正午オープン) 水休 【Walton Bar】高知市廿代町9-11 2F 873-3316 午後5時半~午前2時 月休 【Bar フランソワ】高知市追手筋1-9-4 875-1644 午後6時半~午前0時 第1・3・5日休 【Bar 千年郷】高知市追手筋1-1-9 くれ竹ビル2F 823-8678 午後7時~午前2時 日休 【Collins Bar】高知市はりまや町2-1-10 875-3777 午後7時~午前3時 日休 こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2010/10/01
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拙著「今宵もBARへ…」の販売箇所として、先日、大阪キタの「Cluricaun(クルラホン)」というBARにも新たに置いてもらえる事いなった、と記しました。 読者の皆さんの中には、私がこれまで日記で一度も紹介しなかったBARだったので、不思議に思われた方もいるかもしれません。その通りで、私はこれまでこの「Cliricaun」のことは、匿名では触れたことはあっても、実名は一度も出しませんでした。 酒呑みというのは案外自分勝手な存在で、本当に心地のいい、心から落ち着けるBAR、そして、一人で行っても気兼ねなくくつろげるBARというのは、他人にはあまり教えたくないという傾向があります。私もその例外ではありません。 そんな訳で、私のBAR紹介ではずっと後回しになってきました。でも、この度拙著を置いてもらったことで、もはや隠す意味もあまりなくなりました。そして今回初めて「Cluricaun」を紹介します(「他人に教えたくない…」なんてタイトルを付けながら、紹介するなんてヘンかもしれないけれど…)。 Cluricaunとの出逢いは2002年の秋。たまたま見た雑誌に紹介されていたのがきっかけです。だから、20年、30年付き合うBARが多い私にとっては、意外と付き合いの歴史は新しいのです。しかし今では、わずか7年の付き合いとは自分でも思えないほど濃密な付き合いになり、最近の僕の出没頻度ではベスト3に入っています(ちなみに「Cluricaun」とはゲール語で「天使」の意味だとか)。 雑誌に出ていたCluricaunの写真を見て、私は直感で、「きっと素晴らしい何かがあるBARに違いない」と思いましたが、その予感通りの店でした。店は当初は、双子のマスター羽鳥さん兄弟で始められ、現在では兄の方の羽鳥滋順さんがマスターとして営んでおられます(優秀なバーテンドレスで、サブのHさんと絶妙のコンビで切り盛りしています【追記】Hさんはその後、退店しています)。 Cluricaunの凄さ、素晴らしさは、マスターがダイニングBARでのシェフ経験もあるので、料理の腕が一流であること(だからフードメニューが充実!)、そしてお酒はウイスキー、ワイン、リキュール、日本酒、焼酎など品揃えが半端じゃなく幅広いこと、さらにアーティスティックな感覚に溢れた空間(内装)です。ライティングは普通のオーセンティックBARにしてはやや暗めですが、温もりのある色合いです。 日本酒は、専用のセラーに常時40本ほどベスト・コンディションで用意されています。ワインも専用のセラーがあり、大きさからみると100本くらいは入っていそうです。おまけに羽鳥さんはソムリエの資格も持っているので、選ぶワインの質は確かです。 私が何よりも気に入っていて、高く評価しているのは、リーズナブルな料金設定だけではなく、付き出しを客がその夜何を飲むかによって、洋風または和風とアレンジしてくれるような細やかな心遣いです(しかもその付き出しもとても手の込んだ品!)。ここまで気遣いをしてくれるBARなんて、そうはありません。こういう店を「本物のBAR」と言うのでしょう。 接客もとても洗練されています。プロなら当たり前と言われそうですが、マスターは、話好きな客にはきちんと相手をして、そうでない客には適度な距離を保ってくれます。だから、ここのカウンターで呑む時間は、限りなく心癒されるひとときです。自然とCluricaunを訪れるのは独りであることが多くなります。 私は、Cluricaunではその夜の気分で、お酒を飲み分けます。モルトウイスキーだったり、焼酎や泡盛だったり、時にはシェリーやマール、グラッパだったり。Cluricaunには銘柄では置いていない酒も当然ありますが、(マスターに確認した訳ではありませんが)お酒の種類で置いていないものはないかも…。 こんなに好きなのは一言で言えば、マスターとも、店とも、そこに置いているお酒とも、私との相性が抜群に良かったからでしょう。まだ7年しかない付き合いなのに、私はもうどっぷりとCluricaunに浸かっています。 返す返すも、こんな居心地が良いBARは教えたくなかったのですが、Cluricaunの発展のためには、この店の素晴らしさをもっとたくさんの人に知ってほしいという気持ちもあります。難しいところですね(笑)。皆さんも、大阪キタにお出かけの際は、ぜひこの素晴らしい「Cluricaun World」に包まれて、美酒の数々を味わってみてください。【Bar・Cluricaun】大阪市北区曽根崎新地2丁目2-5 第3シンコービル4F 電話06-6344-8879 午後7時~午前2時 日休 地下鉄四ツ橋線・西梅田駅&JR東西線・北新地駅から徒歩数分(カウンター8席、テーブル席が4人用2つ、2人用1つ、3人用の半個室が1つと使い勝手のいい店でもあります)・こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2009/06/14
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先日の日記で少し触れたマスターの海外雄飛の件、そのご本人、大阪・北新地のバー・ベッソ(BESO)の佐藤章喜さんから挨拶状が届きました。9月14日でもって大阪の店を閉めて、香港へ移転すること、そして「新たな道へ進む」ことに対して「一生懸命努力をする覚悟」が記されていました。 「挑戦するカクテル・アーチスト」として、数多くの独創的な作品を生み出してきた彼を失うことは、大阪にとって、いや日本のバー業界にとって、計り知れないな損失で、残念でなりません。 ただ、僕はこうも思いました。日本という小さな枠に彼を閉じ込めておくより、逆に、彼のような才能が世界に羽ばたき、日本のバーテンダーの高いレベルが世界に認知されることは、日本のバー業界にとっては大きな誇り・財産になるのではないかと。 香港での新たな店は、香港島のセントラル地区に誕生します。40坪の大バコだそうです。当然ですが、住まいも香港に移して、不退転の覚悟でのチャレンジです。店のスタッフも、彼の熱い気持ちを支えようと香港へ同行します。 新しい店の名前は「Dining Bar OWL by BESO, Osaka」。「OWL(アウル)」とは「ふくろう」。「新たに羽ばたくこの時には、『賢者』の別名を持つ鳥がふさわしいかなと思いました」と佐藤さん。心から、彼の成功を祈ります。落ち着いたら、ぜひ新たなステージに立った佐藤さんを香港へ訪ねてみたいと願っています。
2013/08/13
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久しぶりに言葉の話題。関西以外の方は、関西弁なんて、関西へ行けばどこでも話されているし、地域でそう大きな違いはないと思っている人も多い。 確かに、いわゆるイントネーションだけで言えば、奈良出身の明石家さんまも、兵庫・尼崎出身のダウンタウンも、大阪市出身の綾戸智絵も、三重・名張育ちの平井堅(生まれは大阪だそうです)も、みんな同じ関西弁を喋っているように聞こえる。 しかし、実はそうではない。関西弁と言っても、地域ごとに微妙に、かなり違うということを知ったのは、なかでも神戸弁というのがあることを知ったのは、大学生になってからである(写真左上=神戸は港から発展した。海から見る景色は今も魅力的だ) 生まれは京都の僕だが、高校までは大阪だったので周りの友達も、大阪弁を話すエリアに住む友人がほとんどだった。たまに東京から転校生があると、クラスは、それは凄い騒ぎだった。聞いたことのない東京弁を、面白がって真似する子も多かった(写真右下=元町の旧外国人居留地には、今ではおしゃれなブランド・ショップなどが集まる。唯一今も残る洋館は、阪神大震災で全壊したが、部材を再利用してよみがえった)。 大学には、兵庫県の高校出身の同級生がたくさんいた。とくに神戸、長田、御影という有名な3つの県立高校から進学してきた人が多かった。彼らが話す関西弁は、もちろん僕には理解できたが、ところどころに、僕がそれまで聞いたことのない言い回しや単語があり、「あれ?」と思うことが時々あった。 それが「神戸弁」という、関西のある地域でしっかりと確立している方言であることを、僕は程なく知った。神戸弁のなかでも、僕が聞いて一番驚いたのは、(典型的な神戸弁でもあったのだが)例えば、動詞の語尾変化の「~とう」。 「~とう」は、標準語では「~ている」という意味。「知っとう」「書いとう」「来(き)とう」「見とう」「取っとう」などと言う。話すとき語尾を上げれば、そのまま疑問文にもなる。この「~とう」という言葉(表現)は大阪や京都では絶対に使わない。 また、標準語で「来ない」を、大阪弁では「けーへん」、京都弁では「きやへん」と言うが、神戸弁になると「こやへん」になるということも初めて知った。あと、「べっちょない」(心配ないよ、大丈夫だよ)という言葉も、(播州方面でもよく使うようだが)最初は意味が分からなかった(写真左=神戸と言えば、異人館。その代表格とも言える「風見鶏の館」) 「アホ」「バカ」に当たる言葉にも、「ダボ」という神戸弁独特の単語があるが、「ダボ」には、相手を威圧・軽蔑するというよりは、自虐的な意味もある(だから、自分に対しても使う)。あまり食べるところは少ないけれど、すぐエサに食い付いてくれる「ハゼ」のことを、「ダボハゼ」なんて言うこともあるが、これも語源は同じかもしれない。 神戸弁には、他にも面白い言い回しや言葉がたくさんある。「どないしょ(ん)?」(=どうしたの?)は、知り合い同士なら、挨拶代わりにでも使える。よく似た言葉で、「なんどいや?」(なんですか?)というのもよく使う(写真右下=開港以来、多くの外国人が住み着いた神戸。中華街=南京町=は今や神戸観光の人気スポットだ)。 「せんどぶり」(ひさしぶり)、「なしたまぁ」(おやまぁ)、「やっと」(たくさん)、「だんない」(大丈夫だよ)なども、神戸エリアでしばしば耳にする(最後の「だんない」は、地理的に近い徳島でもよく聞かれるけれど…)。 では、大阪弁と神戸弁はどの辺りが境界線なのか。阪神間の芦屋はどちらかと言えば、神戸弁。尼崎はほぼ完全に大阪弁。芦屋と尼崎の中間の西宮市辺りになると、神戸弁と大阪弁を喋る人々が混ざり合い、コミュニティを形成し、両方の言葉を聞くことができる。だから、この辺りが神戸弁と大阪弁の境界かもしれない。 神戸弁を聞きたければ、三宮か元町辺りを歩くといい(異人館の辺りは他県からの観光客も多いので、あまりおすすめはできない)。旧居留地辺りをゆっくりと散策して、これらの「神戸・お国言葉」が聞けば、きっと「あぁ、港町・神戸に来たんだなぁ…」と実感するはずである。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2005/08/30
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皆さまお待たせいたしました。「関西弁(大阪弁?)クイズ」(23日の日記)の正答です。正答に異論のある方、突っ込みを入れたい方のお返事をお待ちしております(※印は、前回も触れたように、いまや標準語化したとも言える関西弁かもしれませんが…)。1.あんばい※(加減、程あい、都合) 文例:.お風呂の湯加減、ええあんばいになっとったわー (料理の味や果物の熟れ具合などにも使います)2.行きしなに※(行く途中に) 文例:行きしなに、駅前のコンビニ寄って行くわ3.いっちょかみ(すぐ話に首を突っ込みたがる人) 文例:.あいつ、ほんまに、いっちょかみなんやから…(いい意味でも悪い意味でも使います)。4.いらち※(いらつく人、せっかちな人) 文例:あんた、ものすごー、いらちやなぁ5.うっとおしい※(わずらわしい、うるさい) 文例:うっとおしい やっちゃ(人)なぁ…(人のほかモノや事象にも使います)6.〈ご飯を〉うます(蒸らす) 文例:ご飯、炊けたとこで、まだ、うましてる途中やでー。7.ええしのぼん(良家の子息、「金持ちの子」という意味でも使う) 文例:**君は、ええしのぼんやさかい、育ちがええわー8.おあいこ(引き分け、同じ同士) 文例:これで、おあいこやねー9.おいど(おしり)→今の若い人はまず使いません。ほとんど死語。 文例:道でしりもちついて、おいど痛―い!10.おこうこ(たくあん)→これも、ほとんど聞かれなくなりました。11.かいもく※(さっぱり) 文例:英語は、かいもくわかりまへーん12.(机などを)かく(持って運ぶ) 文例:ちょっと、僕こっち側かくさかい、机のそっち側、かいてぇなぁ(こう言われて、ほんまに机の上を爪で掻いた人がいます)。13.かさ高い(大きくて場所を占領して邪魔な様子) 文例: 父ちゃん、かさ高いから、掃除の邪魔になって困るわぁ14.きばる※(精を出す、頑張る) 文例:今度の期末試験、きばりやー!15.きょうび(近ごろ、最近の) 文例:きょうびの若いもんは、挨拶も満足によーせんわ16.ぐるり(周囲)→これもあまり聞かれなくなった言葉。 文例:ちょっと家の、ぐるりの様子見てくるわー17.ごんた(いたずらっ子、わんぱくな子、わがままな様子) 文例:**ちゃんは、小さい頃からごんたやったなぁ…18.さらっぴん(真新しいこと、新品) 文例:さらっぴんの背広やでー、なかなか似おてるやろ。19.すか(はずれ、当てはずれ、空っぽ) 文例:今度の彼女は、すかやったわー(人のほか、モノにも使います)20.せく(急ぐ) 文例:ちょっとせかな、電車に乗り遅れるでー (「せいては事をし損じる」なんてことわざもありますね)21.ちちくま(肩ぐるま)→これも今では、死語かも。 文例:小さい頃、オヤジによくちちくましてもおたなぁ…22.〈鉛筆などが〉ちびる(摩耗する) 文例:筆圧強いさかい、鉛筆の先、すぐちびってしまうわぁ23.てれこ※(行き違い=てれこてれこと繰り返して言うことも多いです) 文例:待ち合わせの場所、お互い勘違いしてもおて、てれこてれこになってしもたわー24.でんぼ(おでき、できもの)→お年寄りは今でも使います25.どつぼ(決定的な打撃) 文例:当てが外れて、どつぼにはまってもうた、あぁどないしょう!26.とれとれ(とれたばかりの、とれたて) 文例:とれとれの鯛やでー、美味しいでー (関西人なら、かに道楽チェーンの「とーれとれ、ぴーちぴち、かに料理」というテレビCMがあるのでお馴染みの言葉です)。27.〈元の場所に〉なおす(元通りにする、片づける)→関東人に分からない代表的な言葉。 文例:お父ちゃん、掃除機、押入れになおしといてー (関西人の妻から「なおしといて」と言われ、修理に出した関東人の夫がいるとか)28.ぬくめる(温める) 文例:ご飯、(電子レンジで)チンして、ぬくめといてなー 29.ねき(そば)→上方落語にはよく出てきます。 文例:そのねきに、置いてるさかいに。持って帰っておくれやす30.のっけから※(最初から) 文例:のっけから、何言うとんねん31.はんなりした(上品で華やかなこと)→ニュアンスをうまく説明しにくい言葉ですね。ちなみに広辞苑でも、「はんなり=落ち着いた、はなやかさを持つさま。視覚、聴覚、味覚にも使う」と紹介されているので、今では標準語として認知されているのかな。 文例:はんなりしたお方やなぁ…、 はんなりした味の一品やなぁ…32.びびる※(ためらう、気遅れする) 文例:相手が偉すぎて、会うのもびびってしまうわー33.べった(びり、最終) 文例:数学のテストの成績、クラスでべったやったー34.ほかす(捨てる)→これも関東人には?な言葉かな。 文例:父ちゃん、ゴミはゴミ箱にちゃんとほかしといてーなー35.ほたえる(戯れる、ふざけて騒ぐ)→あまり聞かれなくなりましたが…。 文例:(子どもに対して)お坊さん来てお経あげたはるから、ほたえるのやめなさい36.まがいもん※(にせもの、模造品) 文例:しもたー! まがいもん、買わされてもーた! (ぱちもん=ニセ物、ばったもん=安い物、なんて言い方もあります)37.まっかいけ(真っ赤) 文例:連日の徹夜で、目ぇー(充血して)まっかいけや38.めばちこ(ものもらい)→関西でも、「ものもらい」と言う若者が増えてきましたが…。39.もっさり(やぼったい) 文例:あの娘、もっさりした格好してんなぁ…40.もみくちゃ※(ひどく揉まれること、ぎゅうぎゅう詰め) 文例:今朝の電車、めちゃめちゃ混んでて、もみくちゃやったわー41.やいのやいの(しつこく求めること) 文例:まだ時間あるさかい、やいのやいの言うたらあかん42.やんぺ(終わり、止め) 文例:もう、時間遅いから残業は、やんぺにしょー43.やきをいれる※(鍛え上げる→転じて「しごく、説教する」) 文例:あいつ、最近よう怠けとるみたいやから、ちょっとやきをいれたろかー44.ゆびづめ(指を〈ドアなどに〉はさむこと) 文例:大阪の地下鉄には、ドアのところに「ゆびづめ注意」なんてシールが張っています。 (くれぐれも、ヤクザが小指つめることとは違いまーす)。45.ようけ(たくさん) 文例:福引きの景品、よーけ、当ててきてやー!46.よそいき※(上等の) 文例:きょうはお呼ばれに行くんやから、よそいきの服着ていきやー47.らちがあかん(さっぱりうまくいかない) 文例:話の通じん相手やから、ほんま、らちがあかんわー48.冷コー(アイスコーヒーのこと)→最近の若い人は使わないようですが…。49.ろくすっぽ※(満足に、十分に、真面目に) 文例:あれだけ言うたのに、ろくすっぽ聞いとらんかったなぁ50.わや(駄目、失敗、無茶苦茶) 文例:「さっぱりわややー」なんてフレーズで使うことが多いです。 以上、長々とお疲れ様でした。関西圏の皆さんには、さらに関西弁の奥深さが伝わったでしょうか? 関西圏以外の皆はん、関西へよーおこし! そして、このオモロい関西弁をぜひつこーて、関西人と仲よーしてくんなはれ。
2005/04/27
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20年ぶりくらいの訪問だったから、そこへ行き着くまで、だいぶ迷ってしまった。「何度も上京しているのに、いつも通り過ぎるばかりでごめんなさい」とつぶやきながら…、ようやく目指すBarの入り口に来た。 午後4時半という嬉しい開店時刻と同時に、店にお邪魔した。Bar「Camellia(カメリア)」(写真左)。東京駅の建物の中にあるホテル、「東京ステーションホテル」の2階にある、歴史を感じさせる素敵な酒場だ。 クラシックな赤レンガが美しい東京駅のなかに、ホテルがあること自体あまり知られていない。1914年(大正3年)開業というから90年余の歴史を刻む、由緒あるホテル。 丸の内側のほぼ中央にホテルの入り口があるが、玄関をくぐると、レトロな雰囲気を漂わせたロビーの素晴らしさに、ため息が出る。 カメリアはそのロビーを抜けて、2階に上がり、細く長い、曲がりくねった廊下を5、6分ほど歩いたところにある(写真右=カメリアのバック・バー。壁のロゴにもレトロな趣が…) 「こんなところにバーがあるなんて…!」というロケーション。カメリア自体は、1951年(昭和26年)のオープン。バー入り口のすぐ側の窓からは、八角形をした1階の改札口前広場の風景が見下ろせる(写真左)。何千、何万という出会いと別れの舞台だったに違いない場所が…。 そして、バーの窓からは駅のホームや、到着・出発する列車も見える。駅というドラマの舞台がこんな近く、肌で感じられる酒場を、作家が小説の材料として見逃す訳がない。 川端康成、内田百聞、江戸川乱歩、松本清張…と、Barカメリアは、数多くの作家に愛されてきた。このホテルに泊まり、カメリアの居心地のいいカウンターでウイスキーを飲むのを愛したという。とくに松本清張は、この酒場で、あの名作「点と線」のアイデアをひらめいたとか。 カメリアは文字通り、隠れ家的なバーであり、バー愛好家にも意外と知られていない名バー。ここにはいつもと変わらぬ、ゆっくりとした素敵な時間が流れている(写真右=絵入りのコースターも素敵だ)。【カメリア】東京都千代田区丸の内1丁目9-1、東京ステーションホテル2階 電話03-3231-2511 午後4時半~11時(平日)、午後4時~9時(日祝日) 土曜のみ休業【追記】東京駅ビルの全面改造に伴い、東京ステーションホテルも改装されることになり、カメリアも建物内で移転・改装されるというニュースを、その後聞きました。現在の装いのカメリアが楽しめるのは2月末とのこと。カメリア自体は残るにしても、あのレトロな旧カメリアがなくなるとはさびしい限りです。
2005/10/17
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吉田バーと言えば、誰もが認める大阪屈指の老舗BAR。大阪の旅行ガイドブックなら、まず例外なく紹介されるBARだろう。昭和6年(1931)の創業。ことし75年目を迎える。 創業当時は現在地(道頓堀川の南側、御堂筋から西へすぐ)より少し東方の、千日前という処にあったが、戦後、今の場所に移った。チーク材をふんだんに使った落ち着いた内装。長年集められたミニチュア・ボトルが棚狭しと並べられ、座れば少しきしむカウンターの椅子も歴史を感じさせる(写真左下は、店内カウンター席の様子)。 初代オーナーの吉田寿二さんは、もともと繊維関係の仕事をしていた。ところが、第一次世界大戦後の不況の余波で、経営していたメリヤス問屋を閉めざるを得なくなった。舶来のものに関心が強かった吉田さんは、当時まったく新しい業種であった、バー経営で再出発しようと心機一転、決意する。それが「吉田バー」の始まりである。 昭和初期、洋酒を仕入れるのは大変な苦労だったに違いない。だが研究熱心で、努力家の吉田さんを、常連客は海外出張の折などに珍しい洋酒を買ってきたりして支え、店は順調に発展してきた。 2代目オーナーとなった息子の芳二郎さんは、昭和26年(1951)、24歳から父親と一緒にカウンターに立ち始めた。芳二郎さんも、父親以上に研究熱心だった。その成果は、「洋酒入門」「洋酒入門2」(1968年、保育社刊)という2冊の著書に結実している。 実は意外と知られていないのだが、芳二郎さんは下戸で、お酒がほとんど飲めなかった。にもかかわらず、今も版を重ねる歴史的な本を著したのは、立派と言うしかない。本が出版された昭和40年代前半は、おそらく日本にはまともなカクテル・ブックなどなかった時代。年配のバーテンダーやBAR好きの方で、この芳二郎さんの本にお世話になった人も多いだろう。 残念ながら、芳二郎さんは2001年5月に78歳で亡くなられた。僕は初代の寿二さんは存知あげないが、芳二郎さんの仕事ぶりは、僕がBARで酒を飲み始めてからはずっと見続けてきた。いつも背筋をぴんと伸ばし、カウンターに立っていた芳二郎さん。無駄口はほとんど言わず、真面目で実直な人柄は、誰からも愛された。 店はいま、芳二郎さんの長女の啓子さんが3代目を継ぎ、カウンターを守る。長い歴史を持つが故、当たり前だが、常連客の年齢層は高い(50歳以上の比率がとても高い)。3世代で通うというファンも少なくない。店は一応午後4時開店だが、3時半くらいから常連客が集まり始める。そんなせっかちな客たちを、店は嫌な顔一つせず迎え入れるから、不思議なBARだ。 客たちは、BGMのない静かな店内で、新聞を読みながらウイスキー・グラスを揺らし、琥珀色の美酒を口に運ぶ。ミナミの繁華街の喧噪(けんそう)は、店の中までは聞こえない。吉田バーには今日も、昔と変わらぬ、ゆったりとした時間が流れている。【吉田バー】大阪市中央区難波2-4-6 電話06-6213-1385 午後4時~10時 第2・4土曜と日祝休
2005/03/28
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約1カ月ぶりのご無沙汰でしたが、Bar UK写真日記です(By うらんかんろ)。 マスターはこの日、お客様から誘われて、シンガー・ソングライターのRay Yamadaさんのライブにお邪魔しました。ライブの後は、お客様3人と一緒に居酒屋へ。その店のメニューに「たこ焼きセット」なるものがあり、もちろん注文しました。関西人にはやはり、たまらない味です! バーUKのお酒のラインナップに初めて梅酒が仲間入りしました。しかし、そこは普通の梅酒ではありません。ウイスキー樽で熟成させた梅酒(95%)と梅酒樽熟成のグレーン・ウイスキー(5%)とをブレンドしたという「山崎・焙煎樽梅酒」です。甘さ控えめの上品な味わいです。ぜひ一度ご賞味を! 「初めて来られたお客様にバーUKのことをもっと知ってもらいたい」というマスターの願いを生かした小冊子(A6判、4頁)ができました。バーUKのコンセプトや特徴、主なドリンク&フードメニュー、そして営業日・営業時間等のデータも紹介しています。もちろん、口コミの大切さを重んじるマスターは、常連のお客様にもお渡しして、まだバーUKのことを知らない方にも宣伝してもらえればと願っています。 常連のお客様のご協力もあって、上記の小冊子の英語版もできました。これは訪日&在日の外国人(とくに欧米から来られた皆様)のために作成したものです。来阪する欧米系の外国人の方がよく利用するホテルでもバー案内の際、役立ててもらえると思っています。 マスターは、きょうは閉店後にモルトのお勉強です。スコットランド・セントアンドリュースにできた新しい蒸留所「Eden Mill」。まだ日が浅いのでウイスキーは販売できず、蒸留前のニューメイクスですが、なかなか良い味に仕上がっていたとのことです。 マスターの趣味の一つは、バラ栽培。ことしもお気に入りのチャールストンが咲きました。 きょうは開店前に、ウイスキーのお勉強。台湾のモルトウイスキー「カヴァラン(Kavalan)」のセミナーです。「美味しいし、クオリティも高いんだけど、値段がねぇ」とマスター。購入先として、中国本土の金持ちがターゲットになっているので、高級路線の経営戦略です(ほとんどが1本1万5000円以上)。バーUKでは一番低価格(8000円台)の「コンサートマスター(ポートワイン樽熟成)」という銘柄を置いていますが、マスター曰く「これでも十分美味しい」とか。 きょうはマスターの休日。去年秋に旅したチェコの郷土料理「クバ(Kuba)」に挑戦しました。大麦とドライマッシュルーム、玉ネギを使ったリゾットのような料理です。大麦はこういう形で食べるのは初めてだそうですが、「プリプリした食感が美味しい、不思議な味わい」なんだとか。皆さまも機会があればいかがですか?【Bar UK】 大阪市北区曽根崎新地1-5-20 大川ビルB1F 電話06-6342-0035 営業時間 → 平日=午後4時~10時半(金曜のみ11時まで)、土曜=午後2時~8時半、定休日=日曜・祝日、別途土曜に月2回、水曜に月1回不定休(月によっては変更されることも有り)。店内の基本キャパは、カウンター7席、テーブルが一つ(4~5席)。オープン~午後7時まではノーチャージ、午後7時以降はサービス料300円こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2016/05/07
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【2005年7月17日の記事の再投稿です。原則として、当時書いたままの文章を再録しています】 キリンのお茶「茶来」のCMに、芸能界に復帰した中山美穂が登場している。ミポリンには特別興味はない私だが、バックに流れている曲を聴いて、思わず「あぁ、懐かしいなぁ…。いい曲だなぁ…。でも、40歳以下の人はこの曲、誰の曲か分からないだろうなぁ…」と独りつぶやいていた。 曲名はCM画面の片隅にも出ている通り、「地球はメリー・ゴーランド」。1972年、GARO(ガロ)という3人組のグループが出した2枚目のシングル曲(デビューアルバム=写真左=にも入っている)である。GAROと言ってもすぐピンと来ない人でも、「『学生街の喫茶店』を歌っていたグループ…」と言えば、思い出されるかもしれない。 GAROは、1971年にデビューした。堀内護(愛称「マーク」、当時22歳)、日高富明(同「トミー」、同21歳)、大野真澄(同「ボーカル」、同22歳)の3人からなるグループ。当時は「フォーク・ロック」というジャンルに入っていたかと思う。アコースティック・ギターによるコーラス・バンドで、カバー曲以外の、オリジナル曲づくりも自分たちでこなした。 当時、同じくギター・バンドをやっていた私にとっても、GAROはお手本でもあり、目標でもあった。彼らの曲もよくコピーし、歌った(写真右=GAROが残した唯一のライブ・アルバム。CS&Nなどの洋楽を演奏したライブ音源も、ぜひCD化してほしいが…)。 当時GAROは、単に「フォーク・グループ」と呼ばれることが多かったが、私は今でもこの言い方には馴染めない。高いコーラス・ワークとギター・テクニックを誇った彼らは、メジャー・デビュー前から、「和製CS&N(クロスビー、スティルス&ナッシュ)」とも言われ、注目されていた。実際、彼らが目指していたのも、フォークとかいう狭いジャンルにとらわれない音楽だった。 デビュー・アルバムでは、曲づくりやコーラスで、その素晴らしい才能があちこちに垣間見れる。初期の頃は、冒頭で触れた「地球は…」のほかにも「1人で行くさ」「涙はいらない」など、音楽的にもレベルの高い、クオリティの高い曲が多かった。しかし、大ヒットという訳にはいかず、GAROは一部の熱狂的なファンの間での存在だった。 それが一転したのが1973年、3枚目(4枚目説も)のシングルとして発売された「学生街の喫茶店」の大ヒットだった。実は当初、この曲は「美しすぎて」というシングル曲のB面だった。それが、GAROの「大衆化路線」を目論むレコード会社やプロデューサーの方針で、発売直前、B面の「学生街…」がA面に差し替えられたという(このためジャケットの裏面の歌詞では、A面は元の「美しすぎて」のままだった)。 この曲をつくったのは、すぎやまこういちという当時の売れっ子作曲家・編曲家だった(代表曲にタイガースの「花の首飾り」、ヴィレッジ・シンガースの「亜麻色の髪の乙女」などGS<グループサウンズ>に数多くの曲を提供していた)。GAROのメンバーは、この「歌謡ポップス」のような曲を、最初あまり歌いたくなかったと聞く。しかし、デビュー間もない3人に大レコード会社、大作曲家に抵抗できるはずもなく、言われるがまま「学生街…」がA面として売り出された。 それが幸か不幸か、それがオリコン・チャートで1位になり、70万枚を超える大ヒットになってしまった。その年のNHK紅白歌合戦にも出場し、この曲を歌わされることになる。そしてそれ以後、GAROと言えば、「学生街…」というレッテルが付いて回った。もともと洋楽志向だった3人にとって、「歌謡ポップス」のグループのように見られるのは、辛い現実だったに違いない(写真左=GAROのアルバムはほとんどが廃盤になっていて、現在はこのベスト盤のみが発売されている)。 GAROはライブなどでは、思い切り、洋楽のカバーや洋楽をルーツにしたオリジナル曲を歌っていたが、テレビではやはり、「『学生街…』を歌ってください」ということになる。しばらくは我慢していた3人だが、結局は、「これは僕らの求めていた音楽ではない」と気づく。そして、12枚のシングルと8枚のオリジナル・アルバムを残して、3年後の1976年に解散。3人はそれぞれの道を歩むことになる。 マークは、その後3枚ほどソロ・アルバムを出したが、その後は芸能界から姿を消した。しかし、90年代半ばからは再び音楽活動も再開し、様々なユニットでアルバムも出した。だが、残念ながら2014年12月、病気(胃がん)のため65歳で亡くなった(この箇所は2015年に追記)。 トミーは解散後、ロック・バンドを結成し、ライブ活動をしていたが、皆さんもご存じのように、1986年、飛び降り自殺をして、36年の短い生涯を終えた。音楽的な行き詰まりが原因とも聞くが、本当のところは分からない(私も詳しいことは知らない)。 ボーカルは、レコード・プロデューサー、ディレクターに転じて、現在も音楽業界にいる。7、8年前にはテレビに出て、「学生街…」を1人で歌っていたのを見たことがあるが、私は切なくて、悲しくて、途中でチャンネルを変えてしまった(自分たちの音楽の原点を壊してしまった曲を歌うことに、心に抵抗はないのだろうか)。 実質5年余の活動で音楽界から消えた伝説のバンド、GARO。その解散も、トミーの死も、私は今でも残念でならない。もし彼らが「望む道」を歩んでいたら、きっと、60代の今も現役で活躍しているCS&Nのように、息の長いバンドになっていたにかもしれない。彼らを間違った運命へ導いたレコード会社の幹部やプロデューサー、そしてGAROのために「学生街…」をつくったすぎやまこういちなる作曲家を、私は今も恨む。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2020/05/23
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ボストン・シェーカー(写真、以下「ボストン」と略)という名前のシェーカーがある。BAR好きの人なら、一度くらいは見たことがあるだろうが、金属部分とガラス部分の2つのパーツに分かれた、個性的なシェーカーだ。 バーテンダーは、このボストンを生フルーツのカクテルづくりでよく使う。ガラス製の大型グラスのような部分に果物を入れ、木製のすりこぎ棒で押しつぶす。そしてベースの酒やリキュールを加え、金属部分と合体させてシェークする。 ガラスが透明なので、果物がつぶされ、酒類と混ぜ合わされて行く過程が、つぶさに観察できるため、客はカウンターに座ったまま目でも楽しめる。 ただ難しいのは、金属製シェーカーは各パーツがきっちり合体できるのに、ボストンはただ「圧力だけで絞める」という感じ。慣れないと、この「絞め具合」の加減がなかなか難しい。 締め方が緩いとシェークの際、中身が漏れ出すし、きつく絞め過ぎると、シェークした後、ガラスの部分が外れにくくなる。僕も家で時々、ボストンを使ってスイカや巨峰などのカクテルをつくるが、よく中身を飛ばして、つれ合いに笑われてしまう。 昔、あるカクテルコンペでボストンを使用したバーテンダーが、勢い余って、シェーカーごと飛ばしてしまったという話を聞いたことがあるが、それくらい、プロでも扱いは難しいようだ。 ただ、バーテンダーでも好みがあるようで、ボストンをよく使う人もいれば、「僕は、ボストンは使いません」という人もいる。ボストンでなければ生フルーツカクテルができない訳でもないから、まぁ、僕は別にどちらでも構わない。 5、6年前、東京在住の友人に、横浜の「C」というBARへ連れて行ってもらった。Yさんという方がオーナー・バーテンダー。とても気さくで、親切な人だった。僕は当時のクセで、ジン・リッキーとスコッチを頼んだ。 そのYさんが日本でもトップクラスのボストンの使い手であることを、後に知った。「なんであの時、ボストンを使ったカクテルを頼まんかったのかー!」と、帰ってからしばらく悔やんだ。 Yさんのつくる素晴らしい生フルーツカクテルの数々は、02年秋、「カクテル・フレッシュフルーツ・テクニック」(柴田書店)という本になった。本を見たら、ますますもう一度「C」を訪ねてみたいと思うようになった。次回は、Yさんに「ぜひボストンで何か」と頼んでみたい。
2004/12/24
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バーの切り絵をライフワークとした切り絵作家の故・成田一徹さん(1949~2012)の芸術と、ウイスキーと、音楽にこだわったBar・UKが、このほど(7月1日)大阪・北新地にオープンしました。 ◆バーUK “名付け親”は一徹さん バーUKという店名の名付け親は、マスターの長年の親友でもあった成田一徹さんです。生前、「いつかバーを開きたい」というマスターの夢を知っていた一徹さんは、約7年前、店の門燈とコースターのためのデザイン案をつくり、贈りました。なぜ「UK」と名付けたかについては、「(マスターが当時飼っていた)ペットの猫、うらんと、かんろの名前と、ウイスキーの故郷でもある大英帝国『United Kingdom』の両方からひらめいた」と語っていたそうです。 それ故、バーUKは、一徹さんなくして誕生し得ませんでした。当然、店の内外装は、あらゆる面で成田一徹とその切り絵ワールド(芸術)をかなり意識したものとなっています。一徹さんデザインの「UK」の門燈や店のコースターも、今回実際につくられましたし、店内は、一徹さんが遺した切り絵原画を飾るギャラリーのような雰囲気の、落ち着いた空間にもなっています。 オープン当初の店内には、約10点の原画が展示されています。展示(作品貸与)には、一徹さんの奥様も全面的に協力してくださっています。今後も原画は不定期で入れ替えて、未公開作品や初公開作品もできるだけ紹介していく計画だそうです(すなわち、バーUKを訪れれば、一年じゅういつでも一徹さんの個展が開催されているようなイメージです)。 店内では、好評の一徹さんの「公認複製画」も全種類を販売するのに加えて、著作や「オフィス一徹」オリジナルのポストカードやコースターも常時販売しています(ご遺族を支援するのが一番の目的なので、マスターは販売手数料等は一切とらず、売上はすべて、奥様が代表をつとめる「オフィス一徹」に入ります)。 ◆ウイスキーにこだわるバーに さて、バーUKのお酒について記します。基本はウイスキー・バーですが、ワインは6種類やシェリーもなんと4種類をいつも置いているそうです(スパークリング・ワインもあります)。カクテルもマスターができるものについては対応するそうです。 バーUKは、「様々なウイスキーの魅力を、最適なグラスで気軽に、じっくりと、ゆったりと味わってもらいたい」というのがコンセプトです。ハイボールや水割りはもちろん提供します。値段も1ショット500円からと、懐をあまり心配せずに飲める価格設定となっています。 オールド・ボトルやヴィンテージ・ボトルも、マスターが20年間近く買い集めた品々をすべて店で提供し、「お客様にウイスキー本来が持っている魅力を再発見してもらえるよう提案したい」とのことです。もちろんオールド・ボトルやヴィンテージ・ボトルには、それなりに高価なものもありますが、それでも、マスターは「できる限り、リーズナブルなお値段で提供したい」と話しています。 ショート・カクテルは当分の間は、提供できるのはかなり限られた種類になるでしょうが、長年のクラシック・カクテルの研究を続けてきたマスターは、店が落ち着いたら、「今では忘れられてしまった1890年代~1930年代のカクテルを、実際につくってぜひ味わってもらい」と意欲的です。 ◆平日は午後4時オープン、10時半クローズ 店は、平日午後4時にオープンして、午後10時半(午後10時ラスト・オーダー)です。土曜日は午後2時オープン、8時半クローズです。マスター自身が「(サラリーマン時代)早い時間から飲みたい人間だった」(笑)こともあり、こんな早いスタートな営業時間となりました。 定休日は、現時点では日曜・祝日です。「あまりあくせく働きたくない」マスターは、水曜と土曜は、8月から不定休、つまり時々休むようにすることを密かに目論んでいます。8月以降、水曜と土曜に訪店される方は、事前に電話でご確認いただいた方がいいかと思います。 なお、UKでは午後4時~7時の間はノー・チャージです。7時以降はお一人様300円の「サービス料」が発生しますが、「チャージ」というマスターの嫌いな言葉は使わず、「サービス料」とはっきり明示しています。もちろん、どこかのバーのように、チャージとは別にサービス料まで取っておいて一品の付き出しも出さないなんてことは、UKでは絶対ありません。マスターは「サービス料をとる以上、一品は必ず出します」と宣言しています。 ◆音にこだわり、時々ライブも 最後に、音環境について――。マスターは「音にはこだわるバーでありたい」と言っています。スピーカーはBOSE。店では、いつもインターネット・ラジオ局の素敵な音楽が流れています。流す音楽のジャンルはジャズやロック、ソウル、R&B、ボサノバ、J-Popやフォークが中心です。 ライブも、具体的にはまだ決まっていませんが、マスターは「落ち着いたら、できれば月1回程度はライブをやりたい」と目論んでいます。幸い、テーブル席を片付ければ、電子ピアノ、ベース、ヴォーカル(またはキーボード、ギター、ベース)くらいのトリオなら、ライブができるスペースが確保できます(キーボードとギターは店に常備しています)。ピアニストでもあるマスターも「ほんとは自分でも弾き語りをしたいけれど、そうすると酒はつくれない(笑)。誰かピンチヒッターでカウンターの中に入ってくれる人(バーテンダー)が来たら、考えようかな」なんて言っております。 マスターは「とにかく、居心地のいいなぁと思ってもらえる空間が願い。逆に、酒グセの悪い人や酒場のマナーを守らない人には厳しく接すると思います」と話しています。「店はお客様によって育てられるが、店側が良いマナーの客を育てることも大事だ」というのが、バー巡り歴35年余の経験を持つマスターの信条です。 全国の成田一徹ファンの皆さま、マスターこだわりのウイスキーを味わってみたいと思う皆さま、大阪に来られる機会がございましたら、ぜひ一度バーUKに足を運んでみてくださいませ! 【Bar UK】 大阪市北区曽根崎新地1-5-20 大川ビルB1F 電話06-6342-0035 営業時間 → 平日=午後4時~10時半(金曜のみ11時まで)、土曜=午後2時~8時半、定休日=当面は日曜・祝日(8月以降は水曜と土曜を月に1回程度休むとのこと)。店内の基本キャパは、カウンター7席、テーブルが一つ(4~5席)。 ※次回の日記では、Bar UKの外観や店内の写真をご紹介いたします。どうぞご期待ください。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2014/07/04
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あさって6月25日、秋田で日本バーテンダー協会(NBA)主催の全国バーテンダー技能コンクールが開かれる。5月の連休に秋田に旅した僕には、一つ心残りがあった。それは、この全国コンクールの秋田開催に尽力した地元のバーテンダー、黒坂明氏に会えなかったこと。 彼の評判は、秋田に行く前からよく聞いていた。男気がある、素晴らしい人柄であること、もちろん技術も知識も、秋田では彼の右に出る者はないほど優れたバーテンダーであること、秋田の繁華街の名にちなんで「川反(かわばた)の星」と言われたこと…等々。 しかし秋田に行って、黒坂氏の店に行っても彼の姿はなかった。彼は2005年10月、がんとの闘病の末、49歳の若さで亡くなっていた。葬儀には、彼を慕うバー業界の関係者らが東北6県などから約800人も参列。ジャズに送られ、彼は天上に旅立ったという。 生前の黒坂氏は知らない。しかし、彼を慕う数多くのバーテンダーが語る彼の「人となり」を聞いていると、彼がどれほどホスピタリティに富んだ、素敵な人物だったかが、改めて感じ取れた。 闘病中も黒坂氏は、抗がん剤を使わなかった。「バーテンダーは美しい姿でカウンターの中に立たねばならない」と、脱毛などの副作用がある抗がん剤を拒否したという。そして、最後までカウンターに立ち続け、全国コンクール開催準備のために努力し続けた。 秋田を訪れ、彼の残したBARを引き継いだ後輩たちの接客を見ていると、そのホスピタリティのDNAは、確実に受け継がれていることを実感した。 黒坂氏が夢見た全国コンクールが、いよいよ秋田で実現する。黒坂氏がその場にいないのはとても切なく悲しいけれど、彼はきっと、天上で後輩達の活躍を温かく見守ってくれるだろう。 数日前、大阪キタのあるBARで、「スペース・ファンタジー(Space Fantasy)」というカクテル(写真)を頼んだ。1994年、S社のカクテルコンペで準優勝に輝いた、黒坂明氏のオリジナル。 ウオッカ、バイオレット・リキュール、グレープフルーツ・ジュースがそれぞれ3分の1ずつ。そして、レモン・ジュース、カンパリが各1tsp。シェークして、シャンパン・グラスに注ぐ。甘口のなかにも、爽やかさを感じさせる味わい。 黒坂氏が考案した当時のキャッチ・フレーズは、「神秘的で幻想的な宇宙、そして壮大な地球。夜空にきらめく星を眺めながらの1杯はいかが?」。僕も今夜は、夜空の星を眺めながら、天上の黒坂氏へ一献を捧げよう。こちらもぜひ見てねー!→【人気ブログランキング】
2006/06/23
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東京でBAR巡りをし始めた20数年前には、まともな東京の「BARガイド」など、まだ1冊もなかった。 だから、BAR好きの友人やカウンターで出会ったBAR好きの酔客に教えを乞うたり、バーテンダーさんから老舗を1軒ずつ教えてもらったりしながら、「マイ手帳」に店のリストを増やしていった。 手帳は用紙が差し替え式(今どき「化石」の「8穴タイプのシステム手帳」!)になっていたので、ホルダーを更新しながら、用紙を追加しながら、現在でも(20年以上も!)大切に使っている。 その手帳の最初の方のページには、当時、銀座で回り始めた店の名前が並ぶ。「クール」「サン・スー・シー」「スミノフ」「うさぎ」「蘭」「あんて」「ルパン」「モンド」「カーネル」「よ志だ」「ダンボ」「ダルトン」「JBA・BAR」…。 名を挙げたBARのいくつかは、今はもうその姿がない。バブル期の地上げで店を追われたところ、後継者難で店を閉じたところも、そして「クール」のように一代限りで見事に幕を引いたところもある。それぞれである。 そんな銀座のBAR巡りのきわめて初期に出合った一つに、「いそむら」(写真左上)という店があった。これぞ銀座という格調高い老舗の1軒だった。そう頻繁にお邪魔したわけではないが、印象深いBARの1軒だった。 BARというよりも、英国の伝統的なパブのような、落ち着いた雰囲気。とくに「日本で初めてギネスを扱った酒場」というのが「いそむら」の自慢の一つだった。 そんな「いそむら」が半世紀近い歴史(1954年開店だったという)を閉じたという話を伝え聞いたのは3年ほど前(写真右=昔もらった「いそむら」のマッチ。他の老舗のマッチとともに額に入れて飾っている)。 「あぁ、また老舗が消えるのか…」と残念がっていた昨年末、ある雑誌で、マスター「磯村さん」のお弟子さんの藤本さんが、店の内装などをほとんどそのまま引き継ぎ、店名だけを「舶来居酒屋・ふじもと」と変え、再出発したという嬉しい記事を読んだ。 店の名前は変わっても、「いそむら」のスピリットは「ふじもと」に受け継がれた。なによりも老舗の店そのもの(内装)が残ったことが嬉しい。新装のBARでは、どんなに素晴らしくても老舗の味わいは望むべくもない。 「いそむら」時代から、名物のカツサンドも健在という。「舶来居酒屋」という冠を付けたのは、若い世代にも、老舗の良さを感じて、味わってほしいというマスターの心意気の表れだろう(写真左=看板は「ふじもと」と変わっても…)。 今度出張の機会には、生まれ変わった老舗BAR「ふじもと」にぜひお邪魔して、あの「いそむらスピリット」を肌で感じてみたい。【舶来居酒屋・ふじもと(旧Barいそむら)】東京都中央区銀座8丁目5-15 SVAXビルB1F 電話03-3571-6957 午後5時~午前2時(土曜は午後10時半まで) 日祝休(お値段は“銀座料金”。予算は2杯で5千円くらいは覚悟を)。【追記】理由はよく分かりませんが、残念ながら2007年2月末で閉店されたとのことです。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2006/10/25
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僕が時々お邪魔するBARの1軒に、大阪キタの「アルテミス(Artemis)」という店があります。そのアルテミスの店長の萬川達也さん(写真左)が、今月20日をもってお店を辞めることになりました。 アルテミスの特徴はシェリーです。シェリーの品揃えでは関西では1、2を争うBARです。そして、萬川さんはそのシェリーを扱う日本でも数少ない公認「ヴェネンシアドール」です。 「ヴェネンシアドール」とは、ヴェネンシアという名前の1mほどもある、細長いい金属のひしゃくのような道具を巧みに使って、シェリーをグラスに注ぐテクニックを持った人のことを言います。萬川さんは、その「ヴェネンシアドール」の公認資格を本場スペインで取りました。 シェリーを入れたヴェネンシアを肩越し高く振り回し、頭上20~30cmほどの高さから自分の腰くらいの高さで手に持っているグラスに一気にシェリー(とくにオロロソやアモンティリアードが多い)を注ぐのです。注がれるシェリーは中空で空気に触れ、まろやかな味わいに変化します。 ウイスキーやカクテルも充実しているアルテミスですが、ここにに来るお客さんの約7割はシェリーを頼みます。そして、萬川さんの「ヴェネンシア」の技を見るのが楽しみで、遠くからやって来る人も多いのです(写真右=アルテミスでは極上のシェリーが味わえた)。 僕は萬川さんが10年ほど前、アルテミスに来られた頃からの馴染みです。気さくで親切な人柄も大好きですが、その落ち着いた振る舞いもあって、オーナー・バーテンダーだとずっと思っていた時期もありました。 その萬川さんがことし初め、「実は、3月で店を辞めようと思ってるんです」と打ち明けてくれました(いつもは届く年賀状が来なかったので、何かあったのかなと思っていたところでした)。 今後の展開について、萬川さんは「まぁ、10年も頑張ってきたのでそろそろ独立してもいいかなぁ…と。とりあえずスペインやフランスなどヨーロッパに1カ月ほど行って、帰ってきてから新しい自分の店を開こうと思っています」と語りました。 新しい「自分の店」について、萬川さんは「オーセンティックBARというよりスペイン・バルのような気軽な、肩の凝らない店にしたい。もちろん引き続きシェリーにも力は入れますよ」と夢を語ってくれました。フードも得意な萬川さんだから今から楽しみです(写真左=アルテミスの店内)。 萬川さんがいなくなってもアルテミスは残ります。しかし萬川さんのいなくなったアルテミスには当分、足を向ける気持ちは起こらないでしょう。それを考えると、少し寂しくなります(どういう雰囲気のBARになるんでしょうか…)。 でもここは、新しい旅立ちを祝福しましょう。アルテミスでの萬川さんのパフォーマンスを目に焼き付けたい方は、ぜひ20日までにお越しください。萬ちゃん頑張れ!【Bar Artemis】大阪市北区茶屋町1-5 茶ビン堂ビルB1F 電話06-6377-0707 午後4時~午前1時 月休※残念ながら、アルテミスは現在は閉店して、別のお店に変わっています。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2007/03/15
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27.ダイキリ(Daiquiri)【現代の標準的なレシピ】(単位ml) ホワイト・ラム(45)、ライム・ジュース(15)、シュガー・シロップ(またはガム・シロップ)1tsp 【スタイル】シェイク ダイキリは現代、日本も含めて世界中のバーでとても人気のあるショート・カクテルです。「1898年(1896年説もあり)頃、キューバのダイキリ鉱山で働いていた米国人技師のジェニングス・コックス(Jennings Cox)が考案し、鉱山の名前にちなんで名づけた」という説があまりにも有名です(考案場所については、「キューバ・サンチアゴのヴィーナス・ホテル」としている欧米の専門サイトもあります)。国内外のカクテルブックや専門サイトのほとんどは、このコックス考案説を紹介しています)。 近年まで、このジェニングス・コックス考案説を裏付ける資料はあまりオープンになっていませんでしたが、「The Cocktails of The Ritz Paris」(Colin Peter Field著、2001年刊)は、1946年に出版された「The Gentleman's Companion」(Charles Baker Jr著)の内容を引用する形で、「ダイキリを考案したのは鉱山技師のジェニングス・コックスとその友人のハリー・スタウトである(二人とも著者のBaker氏自身の個人的友人だったとか)。カクテル名は、当時バカルディ・ラムの工場があった、キューバのサンチアゴ・デ・クーバ近くのダイキリ村に由来する」と紹介しています。 一方で、カクテル研究家の石垣憲一氏は、その著書「カクテル ホントのうんちく話」(2008年刊)で、「なるほどコックスなる人物はいたかもしれないし、当時現地(ダイキリ鉱山)では当たり前のように飲まれていたドリンクかもしれない。しかし、(ラムのライム・ジュース割りは)少なくとも18世紀末には、英海軍では普通に飲まれるドリンクだったし、キューバでも(コックスがいた頃より)100年も前から普通に飲まれていたドリンクだった」という見解を述べています。 石垣氏の見解を裏付けるかのように、Wikipedia英語版では、「ダイキリのレシピは、少なくとも1740年代から英海軍で飲まれていたドリンクとよく似ている。このドリンクは1795年までに英海軍水兵への一般的な配給酒となっていた」と記しています(言わずもがなですが、当時このカクテルにはまだ「ダイキリ」という名はありませんでした)。 従って、「ダイキリ」に関して現時点で確実に言えることは、「1898年前後に、キューバで現地産のラムを使ったライム・ジュース割りに、ダイキリ鉱山にちなんで『ダイキリ』と名付けられた」ということだけです。 ちなみに1898年と言えば、米西戦争(1898年4月~8月)が起きた年。フィリピンとカリブ海という2つの地域で米国とスペインが交戦しましたが、米国の勝利に終わり、キューバは米国の保護領となりました。コックスなる人物は軍人ではありませんでしたが、おそらくはキューバから権益を吸い取ろうと目論む米国資本のために派遣された一人だったと想像されます。 ダイキリは当初はキューバのローカルな飲み物でしたが、1909年キューバを訪れた米海軍提督ルシアス・ジョンソンがとても気に入り、帰国後、ワシントンの将校クラブに紹介したことから米国内でも飛躍的に知名度が増していったと言われています(出典:Wikipedia英語版)。 「ダイキリ」が欧米の文献で初めて登場するのは、1913年に出版された「The Cocktail Book:A Sideboard Manual For Gentlemen」(Martino Publishing編)と「Straub's Manual of Mixed Drinks」(Jacques Straub著)という2冊のカクテルブックです。そのレシピは、前者は「ラム4分の3、グレナディン・シロップ4分の1、ライム・ジュース(シェイク)」、後者は「ラム3分の1、ライム・ジュース3分の2、パウダー・シュガー1tsp(シェイク)」となっています。 「えっ! グレナディン・シロップ?!」と多くの方が驚かれると思いますが、これには訳があります。「ダイキリ」はもともと、バカルディ社のラムを使って一世を風靡した「バカルディ・カクテル」(ラム、ライム・ジュース、グレナディン・シロップ)のバリエーションとして生まれたといわれます(当初は、ライム・ジュースは入っていなかったようですが)。1910年代では、「ダイキリ」と言えども、グレナディン・シロップを入れるレシピも珍しくなかったようです。 例えば、1919年に出版されたハリー・マッケルホーン(Harry MacElhone)の「ABC Of Mixing Cocktails」(1919年)。そのレシピは、「ラム3分の2、ライム・ジュース6分の1、グレナディン・シロップ6分の1」、また1922年、ロンドンのエンバシー・クラブ(The Embassy Club)に勤めていたロバート・ヴァーマイヤー(Robert Vermeire)が著した「Cocktails: How To Mix Them」でも、ダイキリにはグレナディン・シロップが使われています。 それがその後、シュガー・シロップやガム・シロップなど、白や透明なシュガー(またはシロップ)を使うレシピへと変化していきます。マッケルホーンが「ABC Of …」を編んでいた1910年代とその後の20年代は、そういう過渡期だったと言えます。ちなみにマッケルホーン自身も、その後の改訂版では、グレナディン・シロップとは書かず、単にシュガーと記すだけにとどめています。 ちなみに、1910~30年代の欧米の主なカクテルブックでの「ダイキリ」の登場状況をいちおう見ておきましょう。 ・「173 Pre-Prohibition Cocktails」(トム・ブロック著 1917年刊)米 → 収録なし(バカルディ・カクテルは登場するが) ・「Cocktails: How To Mix Them」(ロバート・ヴァーマイヤー著 1922年刊)英 ラム3分の2、ライム・ジュース3分の1、グレナディン・シロップ少々 ※「キューバと米国南部の州ではとても有名なカクテルである」とのコメントが添えられている。 ・「The Savoy Cocktail Book」(ハリー・クラドック著 1930年刊)英 ラム1グラス、ライム・ジュース2分の1個分(またはレモン・ジュース4分の1個分)、パウダー・シュガー1tsp(ティー・スプーン) ・「The Artistry Of Mixing Drinks」(フランク・マイヤー著 1934年刊)仏 ラム2分の1、ライム・ジュース2分の1個分、シュガー2分の1tsp ・「The Old Waldolf-Astoria Bar Book」(A.S.クロケット著 1935年刊)米 ラム1グラス、ライム・ジュース2分の1個分、パウダー・シュガー1tsp ・「Mr Boston Bartender’s Guide」(1935年刊)米 ラム45ml、ライム・ジュース1個分、パウダー・シュガー1tsp ・「Bar la Floridita Cocktails」(1935年刊)キューバ ダイキリNo1=ラム2オンス、シュガー1tsp、レモン・ジュース2分の1個分 ダイキリNo2=ラム2オンス、キュラソー数dash、オレンジ・ジュース1tsp、シュガー1tsp、レモン・ジュース2分の1個分 ダイキリNo3=ラム2オンス、シュガー1tsp、グレープフルーツ・ジュース1tsp、マラスキーノ1tsp、レモン・ジュース2分の1個分、クラッシュド・アイス(シェイクして、氷と一緒にグラスに注ぐ) ダイキリNo4(Floridita Style)=ラム2オンス、シュガー1tsp、マラスキーノ1tsp、レモン・ジュース2分の1個分(クラッシュド・アイスと一緒に電動ミキサーに入れてフローズン・スタイルで供す) ・「Café Royal Cocktail Book」(W.J.ターリング著 1937年刊)英 ラム4分の3、ライム(またはレモン)・ジュース4分の1、ガム・シロップ3dash キューバに伝わった当初のダイキリは、クラッシュド・アイスを詰めたトール・グラスに入れて飲むスタイルでしたが、1930年代後半にシェイクして冷やしたフルート・グラスに入れて飲む、現代に近いスタイルに変わったということです(出典:Wikipedia英語版 → 原資料はマイアミ・ヘラルド(The Miami Herald)の1937年の記事)。 欧米ではその後は、シュガー・シロップ(またはパウダー・シュガー)を使ったサヴォイホテルのレシピがメジャーになるに至り、国際バーテンダー協会(IBA)もそれを標準レシピに採用(出典:Wikipedia英語版ほか)、現在では欧米も日本も、冒頭のようなレシピが標準的なものになっています(現在市販されているマッケルホーンのカクテルブック改訂版もIBAレシピに従っています)。 「ダイキリ」は、日本には1920年代前半までには伝わり、1924年刊の文献に初めて登場していますが、50~60年代くらいまでは、やはりグレナディン・シロップを使うレシピが一般的でした(村井洋著・JBA編「スタンダード・カクテルブック」=1936年刊=ほか多数)。調べた限りでは、日本のカクテルブックでシュガー・シロップを使うダイキリが登場するのは、1954年刊の「世界コクテール飲物辞典」(佐藤紅霞著)が最初です。 しかし、その後も日本では60年代に入ってもグレナディン・シロップ派が優勢で、シュガー・シロップ(またはパウダー・シュガー)を使うレシピが一般的になるのは70年代になってからです。この理由としては、日本にはマッケルホーンやエンバシー・クラブのレシピ(グレナディン・シロップ使用)が最初に伝わった影響が大きかったのではないかと推察しています。 なおダイキリと言えば、フローズン・スタイルの「フローズン・ダイキリ」も有名です。文豪ヘミングウェイが愛したことでも知られ、これがとてもお気に入りの彼は、キューバ・ハバナに居を構えていた頃(1939~41年、48~60年)(出典:ヘミングウェイ年譜 → http://www.casa-de-cuba.com/hemingway/nenpu.html )、住まい近くのバー「エル・フロリディータ(El Floridita)」で愛飲したと伝わっています。 ヘミングウェイのフローズン・ダイキリは、ラムをダブル(倍量)にし、グレープフルーツ・ジュースを加え、シロップは抜いたもので、「パパ・ダイキリ」または「パパ・ヘミングウェイ」とも呼ばれました。「(店では)1日12杯も飲んだ」とか「水筒に入れて釣りに持ち歩いた」という伝説も残っています。 フローズン・ダイキリが最初に考案されたのは1920年代後半で、同じくハバナの「スロッピー・ジョー」というバーだったという説(出典:サントリー社HP)もありますが、裏付ける文献にはまだ出合っていません。ちなみに、欧米のバーで「ダイキリ」と言って頼んでもまず通じません。英語では「デクゥレ」あるいは「デクゥィリ」と発音します(最後の「レ」や「リ」は聞こえないことが多い)。【確認できる日本初出資料】「コクテール」(前田米吉著、1924年刊)。レシピは、「バカルディ・ラム3分の2オンス、ライム・ジュース3分の1オンス、グレナディン・シロップ若干」となっています。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2016/12/31
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成田一徹・バー切り絵作品集 『NARITA ITTETSU to the BAR』 完全改訂増補版 発刊記念! ITTETSU Gallery:もう一つの成田一徹(248) 白いハト 1995年頃 ※一徹氏が遺した作品の数々には、制作時期や意図はもちろん、どの媒体のために制作したのかが不明なものが多い。一徹氏が遺した作品整理の作業には、そうした不明なデータの特定も含めて「謎解き」の楽しみもある。 この「白いハト」は96年に著した「切り絵12カ月1000カット」という自著に収録されている。しかし必ずしも「お手本として」を目的として制作したのではなく、何かの媒体で使用した後、「お手本」として再録するケースもある。まぁ、見る人にとっては、作品が素晴らしければそんなことはどうでもいいのかもしれないが…。◆故・成田一徹氏の切り絵など作品の著作権は、「Office Ittetsu」が所有しております。許可のない転載・複製や二次利用は著作権法違反であり、固くお断りいたします(著作権侵害に対する刑罰は、10年以下の懲役又は1000万円以下の罰金という結構重いものです)。※「ITTETSU GALLERY:もうひとつの成田一徹」過去分は、こちらへ★こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2021/06/16
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◆プロなら知っておきたい「知られざるカクテル」<下> ※原則、年代順に紹介しています。レシピは標準的なものです。★印は近年においても欧米のバー・シーンでは頻繁に登場する、とくに重要なカクテルです。★エスプレッソ・マティーニ(Espresso Martini) (1983年、考案者=ディック・ブラッドセル<Dick Bradsell>) ウオッカ40ml、エスプレッソ・コーヒー20ml、コーヒー・リキュール10ml、シロップ1tsp。シェイクしてカクテルグラスに注いだ後、表面にコーヒー豆2~3粒を浮かべる ※1983年、当時ロンドン「ソーホー・ブラッセリ―(Soho Brasserie)」に勤めていたディック・ブラッドセル氏(1959~2016)が考案した。当初は、裏メニューとして「ウオッカ・エスプレッソ」の名前で提供されていたが、90年代末、ブラッドセル氏が移籍した「マッチ(Match)」というバーで初めて「エスプレッソ・マティーニ」の名でオン・メニューとなり、幅広く知られるようになった。その後米国の大都市のバーにも伝わり人気が定着した。近年、欧米の人気カクテル・ランキングでは常に上位にランクされている。 ブラッドセル氏は、1980~90年代に活躍し、数多くの「モダン・クラシック」カクテルを遺したことで知られる。ロシアン・スプリング・パンチ(Russian Spring Punch) (1986~87年頃、考案者=ディック・ブラッドセル) ウオッカ45ml、クレーム・ド・フランボワーズ7.5ml、カシス・リキュール7.5ml、レモンジュース23ml、シロップ7.5ml、生ラズベリー6~7個。シェイクした後、氷を入れたタンブラーに注ぎ、シャンパンで満たす ※ディック・ブラッドセル氏(上記45の説明ご参考)が、1986~87年頃、当時バーテンダーとして働いていたロンドンの「ザンジバー(Zanzibar)」で友人のために考案したと伝わる。★トミーズ・マルガリータ(Tommy’s Margarita) (1987~88年頃、考案者=フリオ・ベルメイヨ<Julio Bermejp>) テキーラ40ml、アガヴェ・ネクター(シロップ)15ml、ライム・ジュース15ml(シェイク)、塩でスノースタイルしたロック・グラスに注ぐ ※サンフランシスコのメキシカン・レストラン「トミーズ(Tommy's)」のオーナーで、“テキーラ・マスター”の異名を持つフリオ・ベルメイヨが、1987~88年頃考案したと伝わる。「マルガリータ(Margarita)」のバリエーションだが、マルガリータがホワイト・キュラソー(コアントロー、トリプルセック)を使うのに対して、このカクテルではアガベ・ネクターを使う。ロック・スタイルで味わうことも多いが、ショート・カクテルでも提供される。「アガベ・ネクター」はアガベ・シロップとも呼ばれるフレンチ・マティーニ(French Martini) (1980後半~90年代前半、考案者は不詳、ディック・ブラッドセル考案説も) ウオッカ60ml、ラズベリー・リキュール15ml、パイナップルジュース45ml(シェイク) ※ロンドンもしくはニューヨーク発祥。1997年の「Class Magazine」誌によれば、Chambord社のキャンペーンのために考案されたという(「Keith London」発祥説も)。セレンディピティ(Serendipity) (1994年、考案者=コリン・ピーター・フィールド<Colin Peter Field>) カルバドス45ml、アップル・ジュース45ml、シュガー・シロップ7.5ml、生ミントの葉5~6枚、シェイクした後、氷を入れたタンブラーに入れ、シャンパンで満たす ※パリのリッツホテル(The Ritz Hotel)内「ヘミングウェイ・バー(Hemingway Bar)」のチーフ・バーテンダー、コリン・ピーター・フィールド氏(1961~)が、常連客のためにオリジナル・カクテルをつくったところ、予想を超える美味しさに感激したその客が「Serendipity!」(直接の意味は「素敵な偶然に出会うこと」)と叫んだことから、その言葉がそのままカクテル名になったという。★ジン・ジン・ミュール(Gin Gin Mule) (2000年、考案者=オードリー・サンダース<Audray Sannders>) ジン(タンカレー)50ml、ジンジャー・ビア30ml、ライムジュース20ml、シロップ15ml(シェイク)、フレッシュミントの小枝=飾り ※ウオッカ・ベースの「モスコー・ミュール」のジン・バージョン。サンダース氏は当時ニューヨークの「Beacon Bar」のバーテンダー。オリジナルレシピではホームメイドのジンジャービアが使われているが、通常の缶入りジンジャービアでも構わない。このカクテルは、後にサンダース氏が独立・創業したバー「ペグー・クラブ(Pegu Club)」の看板カクテルにもなった★ポーン・スター・マティーニ(Porn Star Martini) (2002年、考案者=ダグラス・アンクラーー<Douglas Ankrah>) ウオッカ40ml、パッションフルーツ・リキュール15ml、ライムジュース20ml、ヴァニラ・シロップ15ml、パッションフルーツ・ピューレ30ml(シェイク)※小ぶりのタンブラーに入れたシャンパンを別にサーブ ※アンクラー氏は当時ロンドン・ナイトブリッジ「タウンハウス・バー」のバーテンダー。その奇抜な名前もあって、英国内のカクテル・バーで人気を集めるようになり、現在では「モダン・クラシック」の一つとして定着している。ちなみに、2019年には英国内最も飲まれたカクテルだったという。 アンクラー氏がなぜこんな名前(Porn Star=ポルノスター)を付けたのかはよく分からないが、生前(同氏は2021年に死去)のインタビューで「だって、パーティーのスターターとしては、とてもセクシーで、楽しい、気取らない究極のドリンクだろう?」と語っていたと伝わる。リボルバー(Revolver) (2004年、考案者=ヤン・サンター<Jon Santer>) バーボン(銘柄は「Bulleit」を指定)60ml、コーヒー・リキュール15ml、オレンジ・ビターズ2dash、オレンジ・ピール(シェイク) ※サンター氏は当時サンフランシスコ在住のバーテンダー。有名なカクテル「マンハッタン」のバリエーションとして考案したという。その後、ニューヨークの有名カクテルバーのメニューにも取り入れられ、幅広く普及するようになった。 「ブレイト(Bulleit)・バーボン」は1997年に復活したブランド。「リボルバー」とは回転式拳銃のことだが、ベースのバーボンの銘柄「Bulleit」と音の響きが似ている「ブレット(Bullet=銃弾)」からの連想で、この名を付けたのかどうかは、調べて限りでは分からなかった。オールド・キューバン(Old Cuban) (2004年、考案者=オードリー・サンダース<Audrey Sanders>) ラム45ml、ライムジュース23ml、シロップ15ml、ビターズ2dash、生ミント(シェイク)、シャンパンで満たす ※オードリー・サンダース氏は、米国の伝説的バーテンダーで著述家のデイル・デグロフ氏の弟子にあたる。サンダース氏自身も、現在ではニューヨークを中心に活躍する著名な女性バーテンダーで、数多くの「モダン・クラシック」を考案している。スパイシー・フィフティ(Spicy Fifty) (2004~05年頃、考案者=サルバトーレ・カラブレース<Salvatore Calabrese>) ヴァニラ・ウオッカ50ml、エルダーフラワー・コーディアル15ml、ライムジュース20ml、ハニー・ジンジャー・シロップ10ml(シェイク) ※あらかじめ底に唐辛子1個置いたグラスに注ぎ、最後にレッドホット・チリペッパーを少し振る。 ※カラブレース氏は当時ロンドンのバー「フィフティ」のバーテンダー。★ペニシリン(Penicillin) (2005年、考案者=サム・ロス<Sam Roth>) ウイスキー60ml、レモンジュース15ml、ジンジャー・ハニーシロップ15ml、1tsp、アイラ・シングルモルト(できれば「ラフロイグ=Laphroaig」で)1.5tsp(シェイク) ※「ペニシリン」は2000年以降に誕生した「モダン・クラシック」の中でも、群を抜いて知名度を獲得し、人気カクテルとなった。ロス氏は、当時ニューヨーク・マンハッタンの人気カクテルバー「ミルク&ハニー(Milk & Honey)」のバーテンダー。現在はブルックリンでバー「ダイアモンド・リーフ(Diamond Reef)」を営み、フローズン・バージョンも提供しているという。 ジンジャー・ハニーシロップは、サントリー社のプレミアム・シロップ「和 tsunagi 生姜」で代用することも可能。ペーパー・プレーン(Paper Plane) (2008年、考案者=サム・ロス) バーボン、アペロール、ビタースイート、レモンジュースを各4分の1ずつ(シェイク) ※サム・ロス氏が2008年、「店のオリジナル・カクテルをつくってほしい」と依頼してきたシカゴの友人、トビー・マロニー氏(バー「ヴァイオレット・アワー(The Violet Hour)」オーナー)のために考案した。カクテル名は、英国の世界的ラッパーM.I.A.の曲名から名付けたという。ちなみに、当初はアペロールではなく、カンパリを使っていたが、その後「甘さと苦さのバランスがよくない」と感じたロス自身がアペロールに変えたという。★メスカル・ミュール(Mescal Mule) (2008年、考案者=ジム・ミーハン<Jim Meehan>) メスカル45ml、ジンジャー・ウォート【注参照】30ml、ライムジュース23ml、パッションフルーツ・ピュレ23ml、アガヴェ・シロップ15ml(シェイク)。飾り=キュウリのスライス3片、砂糖漬けの生姜 ※ジム・ミーハン氏は当時ニューヨークの超人気バー「PDT(Please Don't Tell )」のオーナー・バーテンダー。「メスカル・ミュール」は数多くの「モダン・クラシック」を考案してきたミーハン氏の代表作の一つ。「ソンブラ・メスカル」の創業者のために捧げられたという。 ミーハン氏はクラシック・カクテルへの造詣が深いことでも知られ、彼が近年に出版した「PDTカクテルブック」と「バーテンダーズ・マニュアル」は「21世紀のサヴォイ・カクテルブック」とも称されている。現在はオレゴン州ポートランドのジャパニーズ・レストランバー「TAKIBI」で、バー部門の責任者として活躍している。 【注】ジンジャー・ウォートは、水、生姜のみじん切り、キビ砂糖、ライムジュースを煮詰めて漉し、つくる。難しければジンジャー・ビアで代用することも可。トリニダード・サワー(Trinidard Sour) (2009年、考案者=ジョセッペ・ゴンザレス<Giuseppe Gonzalez>) アンゴスチュラ・ビターズ30ml、オルゲート・シロップ20ml、レモンジュース15ml、ライ・ウイスキー10ml(シェイク)、「サワー」と言う名が付くがカクテルグラスで提供されるのが普通 ※カクテルでは普通は数滴しか使わないビターズをこんなに多く使ったら、とんでもないカクテルになりそうだが、予想は裏切られ、甘酸っぱさと苦さと複雑な香りが”同居”する不思議な味わいに変身する。現在ではIBA公認カクテルにも認定されている。ゴンザレス氏は当時ニューヨーク・ブルックリンの「クローバークラブ・バー」のバーテンダー (なお、オリジナル・レシピではビターズは「45ml」も使うが、それは150~200mlも入りそうな容量の大ぶりのカクテルグラスで提供することの多い欧米での話。総量70ml前後で提供することの多い日本のバーでは冒頭の分量比で適切と信じる)。ネイキド&フェイマス(Naked & Famous) (2011年、考案者=ホアキン・シモ<Joaquin Simo>) メスカル、ビタースイート・オレンジレッド・アペリティーボ、イエロー・シャルトリューズ、ライムジュース各4分の1ずつ(シェイク) ※シモ氏はニューヨークのバー「Death and Co」のバーテンダー。ビタースイート・オレンジレッド・アペリティーボはアペロールで代用できる。Ve. n. to(ヴェネト) (2021年、考案者=サムネーレ・アンブローシ<Samnele Ambrosi>) グラッパ45ml、レモンジュース23ml、ハニー・ミックス15ml、カモミール・コーディアル15ml、卵白(シェイク) ※カクテル名はイタリアの「ヴェネト(Veneto)州」に由来。アンブローシ氏は「Riva Bar」(所在地不詳)勤務のバーテンダー。同氏曰く「グラッパをベースにした過去にもない、初めてのカクテル」。【以下のカクテルについては、まだ情報は不足していますが、近年、欧米のバーの現場ではしばしば目にするものです。詳しいい情報を入手でき次第、改めて追記いたしますのでご了承ください】イリーガル(Illegal) (2000年代、考案者は不詳) メスカル30ml、ホワイト・ラム15ml、ファレナム(【注】ご参照)15ml、マラスキーノ1tsp、ライムジュース20ml、シロップ10ml(シェイク) ※【注】「ファレナム」はライム、ジンジャー、アーモンド・リキュールでできたトロピカル・シロップ。オルゲート・シロップで代用できる。イエロー・スコーピオン(Yellow Scopion) (2000年以降、考案者は不詳) ウオッカ45ml、パイナップルジュース45ml、ライムジュース0.5tsp、シロップ0.5tsp、アニスシード1tsp(シェイク)ホアン・コリンズ(Juan Collins)(2000年以降、考案者は不詳) テキーラ45ml、レモンジュース30ml、アガヴェ・シロップ15ml、シェイクしてソーダで満たす。レモン・スライス=飾りブレイブ・ブル(Brave Bull) (2000年以降、考案者は不詳) テキーラ40ml、カルーア20ml、氷、ロック・スタイルで(ビルド)エンヴィ・カクテル(Envy Cocktail) (2000年以降、考案者は不詳) テキーラ45ml、ブルー・キュラソー30ml、パイナップルジュース15ml(シェイク)、マラスキーノ・チェリー=飾りブラッディ・マリア(Bloody Maria) (2000年以降、考案者は不詳) テキーラ60ml、トマト・ジュース120~180ml、スパイス類(シェイク)、レモン・スライス=飾り※レシピから分かるように、ブラッディ・メアリーのテキーラ版。【謝意】この回の執筆にあたっては、Robert Simonson氏の著書「Modern Classic Cocktail」(2022年刊)から多くの参考情報を得ることができました。この場を借りて厚く御礼申し上げます。
2023/04/19
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