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※この記事は、2012年10月にアップされたものですが、今回、2018年の日本の著作権法改正を反映させて、以下の記述内容を少し修正いたしました。 私は法律の専門家でも何でもありませんが、ブログをやっていることもあり、不本意なトラブルを招かないように、著作権問題、名誉毀損問題などには普段から強い関心を持っていて、専門家(弁護士、大学の法学担当教官ら)の意見・見解も時々伺っています。 先日のことですが、ふと、素朴な疑問が浮かびました。「ミッキー・マウスって、1920年代に誕生したから、もう著作権の保護期間は終わってるんじゃないのか?」と。そこで、とりあえず、自分で調べてみることにしました(もし間違い等があったら、ご指摘ください。修正いたします)。 ◆外国の著作物は、日本国内で日本の著作権法が適用されるのか 最初に、基本的な知識や事実、データを10点ほどおさえておきたいと思います。 1.他国の著作物であっても、日本国内では、日本の現行著作権法(1971年1月1日施行、直近の改正は2018年&2019年)が適用されます。 2.日本の著作権法での保護期間は従来、「著作者の死後50年間、または法人・団体名義の著作物は公表後50年間」となっていました(ただし映画だけは2003年の法改正で「公表後70年」になりました)。しかし、「TTP協定」署名に伴う2018年12月30日成立の法改正で、保護期間は著作者の死後「70年間」に、また映画以外の著作物も「70年」に延長されました。 (※ただし、1953年以前発表の映画の保護期間は「公表後50年」のままです。また、2018年12月29日以前に、著作権が消滅しているものについては延長されていません。ちなみに旧著作権法<1899年~1970年。以下「旧法」と略>では「発表後または著作者の死後38年」でした)。 3.太平洋戦争時の旧連合国(英米仏カナダなど)の作品の著作権は、「戦時加算」としてさらに保護期間がさらに10年加算されます(第二次大戦中、日本が著作権保護に十分に取り組んでいなかったことが理由とのこと)。 4.ミッキー・マウスが初めて登場したのは、1928年製作・発表の映画「蒸気船ウィリー」です。 5.著作権の開始年の数え方は、「著作物の発表または著作者の死亡が公表された翌年を1年目する」となっています。 6.改正著作権法の規定を適用すれば、1953年以前に発表された「蒸気船」のミッキー・マウスの日本国内における著作権は、ディズニー社の作品であるという前提に立てば、発表翌年の1929年(始期)+70年(保護期間)+10年(戦時加算)で、2009年に消滅しています(法律専門家の間ではこの見解が多数派とのことです)。 一方、「蒸気船」でのミッキーがもしウォルト・ディズニー個人名義の創作物であるという前提に立てば、著作権の保護期間は、ディズニー没年の翌年1968年(始期)+70年+10年で、2048年で消滅ということになります。 7.現行法の附則には、「旧法による著作権の存続期間の満了日が、新法による著作権満了よりも後であれば、旧法の存続期間を優先する」となっていますが、旧法で計算すれば、映画が法人(ディズニー社)名義の場合、1928年(旧法では発表年が始期)+38年(旧法の保護期間)+10年(戦時加算)で、1976年に著作権は消滅しています。 もしディズニー個人名義ならば、1967年(旧法では死亡時の年が始期)+38年+10年で、2015年に著作権が消滅ということで、現行法を適用した方が保護期間が長い(2048年)ので、この規定はあまり意味を持ちません。 8.もちろん、ここでいう著作権とは「蒸気船ウィリー」に登場したミッキーに関するもので、現在よく知られているアニメのミッキーや、ディズニーランドで子どもに愛想を振りまいているミッキーは、少し顔が違うため、後年に公表されたミッキーは別の著作物という考え方が一般的です。 9.米国の著作権法は1998年に延長法が成立し、保護期間がそれまでより20年間長くなりました。原則、著作者の死後70年間に、法人の場合は発表後95年間となりました。その結果ミッキー・マウスの米国内での著作権も、最大2024年まで延長されることになりました。 10.ディズニー社は、ミッキー・マウスの国内著作権についての日本国内の専門家からの問い合わせに対して、現時点では「著作権に関しては一切お答えしない」との立場です。 ◆日本国内の著作権が切れたらどうなるのか 2009年に日本国内でのミッキー・マウスの著作権保護期間が切れたのかどうかについて、ディズニー社は今なお公式見解を出していません(出典:Wikipedia)。しかし結論として、Webで何人かの法律専門家の見解を読む限り、少なくとも1929年に公開された映画のミッキーは現時点では、保護期間は終了しているという意見が多数派です。 そして、たとえどんなに長くても、ディズニー没後60年の2027年には「蒸気船」のミッキーの著作権は消滅します。 その時には、ミニー・マウスも含めてパブリック・ドメイン(公共の物)になり、原則、誰でもブログなどで自由に使えるようになります。 ただし、気をつけないといけないのは、その後に誕生した顔が少し違うミッキー・マウスについては、まだ法人としてのディズニー社が、今なお著作権を持っていると考えられます。権利保護に関しては周到なディズニー社ですから、マイナー・チェンジを繰り返し、その都度創作の時点を延長、延長している可能性もあります。著作権が切れている初期のミッキーを真似た芸術作品をつくったつもりでも、「似ているから違法だ」と訴えられるおそれがあります。 また、いかがわしいアダルト・サイトがミッキーやミニーをキャラクターに使えば、「著作者人格権」(【注1】)の侵害として訴えられるでしょう。注意すべきことは、著作権は切れたとしても、商標権は、登録者が更新し続ければ半永久的に維持されることです。自分の会社の商品にミッキーの絵を描いて勝手に販売すれば、必ず商標権侵害で訴えられます。場合によっては巨額の賠償を請求されます。 ディズニー社は現在でも、個人がブログなどで私的に使用・利用する分についてはあまり目くじらは立てない方針のようですが、営利目的で使おうものなら、きっと厳しいクレームが来るのは間違いありません。営利目的での利用は基本NGと考えておいて方が無難です。 ◆著作権はどこまで保護されるべきか 米国では、ディズニーという巨大資本の圧力で、議会が著作権法の保護期間を二度(1976年、1998年)にわたる延長しました。いずれもミッキー・マウスの著作権が切れる直前に延命を図ったようなものだったので、“ミッキー・マウス保護法”と揶揄されました。98年の延長には、「自由な芸術活動よりも企業の利益を優先させるもの」と米国内からも大きな批判が巻き起こり、2002年には違憲訴訟も起きましたが、連邦最高裁は2003年、7対2の多数決でこの著作権延長を合憲と判断しました。 「著作権は一定期間保護されるべきだ」という考え方にほぼ全員が賛成すると思います。しかし、その期間が長すぎることについては、作家や音楽家の中からも、著作権が特定の団体、個人に独占されてしまうと、クリエイティブな創作活動にかえってマイナス面が大きいと反対する声も多いのです。 言うまでもありませんが、小説や映画、音楽などあらゆる芸術は、過去の古典や名作など蓄積の上に、新たなヒントを得ながら創作活動をしていると言っても過言ではありません。過去の創作物は一定期間が過ぎれば、人類共通の財産として、自由に活用できなければ、新たな創作物は生まれてこないでしょう。そういう意味でも、保護期間はできるだけ短い方がいいと思います。 ◆TPP参加問題を巡る米国からの圧力 新聞やテレビがあまり報じないのですが、米国は今、日本政府に対して「TTP(環太平洋戦略的経済連携協定)に参加したいのなら、著作権の保護期間を米国と同じ70年、95年にしろ!」と要求してきています。2003年の法改正で映画の保護期間が70年に延長されたのも、実は米国からの圧力があったのが背景でした。 現行の50年を70年へ延長することについては、国内には反対意見が数多くあります。「古い芸術作品の流通・販売が阻害され、ビジネスが成り立たなくなる」「新たな創作活動への障害にもなる」「インターネット時代にこれ以上の保護は必要ない」「著作権を持つ大企業、大資本が得をするだけで、一般大衆の利益にならない」等々。 しかし、すでにTTP協定に参加した国のなかには、韓国、オーストラリアなど米国の要求(圧力)に屈して70年に延長した国も少なくないということです。日本は米国の圧力に屈せず、現行の50年を死守してほしいと願うのは僕だけではないでしょう。【追記】残念ながら、前述した通り、2018年12月の著作権法改正で、保護期間は「70年」に延長されてしまいました。 ◆余談ですが… 最後に一つ、Web専門サイト「著作権講座」さんから拾った興味深い余談を紹介します――。日本で有名な人気キャラクターたちも、いつの日か著作権の保護期間が切れます(商標権は更新し続ける限り存続しますが…)。キティちゃんは2044年に(1974年に「サンリオ」名義で発表後70年)、サザエさんは2062年に(作者・長谷川町子さん没後70年)、ドラえもんは2066年(作者・藤子・F・不二雄氏没後70年)に、それぞれ著作権が消滅します(出典:著作権講座=http://www.geocities.jp/shun_disney7/club1.html)。ほかにも鉄腕アトムは2060年に著作権消滅(作者・手塚治虫氏没後70年)。 個人的には、こうした日本国民に広く愛されているキャラクターたちは、著作権が消滅したからと言っても、そのイメージが汚されることのないような何らかの仕組みができることを祈ってやみません。 【注1】著作者人格権 著作者の人格的な利益について保護しようとする権利。具体的には、公表権(著作物を公表するかしないか決定できる権利)、氏名表示権(実名かペンネームを著作物に表示するかしないか決定できる権利)、同一性維持権(無断で著作物を修正・変更されない権利)の3つがある。「一身専属性の権利」で他人には譲渡できない(著作権法18条~20条、59~60条、116条、119条第五項)。(出典:知的財産用語辞典= http://www.weblio.jp/content/ ほか) 【御礼】この稿を書くにあたって、以下の専門サイトから貴重な情報や多大な示唆を数多くいただきました。この場をかりて、著者、編者の皆様に御礼申し上げるとともに、参考にした専門サイトを紹介しておきたいと思います。 ・「著作権講座」→ http://www.geocities.jp/shun_disney7/club1.html ・「見えない道場本舗」→ http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20080509/p4 ・「米国最新IT事情」→ http://itpro.nikkeibp.co.jp/members/ITPro/USIT/20021012/1/ ・「米連邦最高裁、合憲と判断:WIRED ARCHIVES」→ http://wired.jp/archives/2003/01/17/ ・「アメリカの著作権延長法について」→ http://homepage3.nifty.com/machina/c/c0004.html ・「著作権延長法」「著作権の保護期間」→ http://ja.wikipedia.org/wiki ・「知的財産用語辞典」 → http://www.weblio.jp/content/ ・ 文化庁HP「TTP協定の締結に伴う著作権法の改正」→ https://www.bunka.go.jp/seisaku/chosakuken/hokaisei/kantaiheiyo_hokaisei/ ・「著作権が自由に使える場合」(公益社団法人・著作権情報センター)→ https://www.cric.or.jp/qa/ ・「著作物・著作権をめぐるルール改正(解説)」(GVA法律事務所HP)→ https://gvalaw.jp/6253 ・「著作権保護期間、50年から70年に延長。一部非親告罪化も」(Watch Impress)→ https://www.watch.impress.co.jp/docs/news/1152341.htmlこちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2012/10/06
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オーセンティック・バーでも提供されることの多い自家製の「漬け込み酒」。実は何でもかんでも好き勝手に造れる訳ではなく、一応、法的な規制が厳然と存在します。バー業界のプロでも意外と知らないこうした日本国内での法的ルールについて、(以前にも一度書きましたが)改めて最新情報も含めてまとめてみました。ご参考になれば幸いです。 ◆2008年に自家製造のお酒の規制が緩和 バーUKでは、4種の自家製造の酒(しょうがを漬け込んだウオッカ、7種類のスパイスを漬け込んだラム、ザクロを漬け込んだカルバドス、レモンピールを漬け込んだリモンチェロ<ベースはスピリタス>)をお客様に提供していることはご承知の通りですが、友人やお客様から「それって、法律的に問題ないの?」と聞かれることが時々あります。 日本国内では、お酒を製造・販売(提供)するには酒類製造免許が必要です。お酒のメーカーが業として行う「果実や穀物などの原料から酒類を製造する行為」だけではなく、バーや飲食店等がお酒に様々な材料や他のお酒等を混ぜ合わせる「混和」という作業も、法的にはお酒の製造(新たなお酒を造っている)と同じ扱いを受けます。そして、アルコール分1%以上のお酒はすべて課税されます。 従って、バーや飲食店が無許可で自家製のお酒を造って提供するのは、基本、違法行為です。違反した場合は、酒税法第54条《無免許製造の罪》の規定に該当し、10年以下の懲役又は100万円以下の罰金に処せられます(単なる無許可販売の場合は1年以下の懲役又は50万円以下の罰金=同法第56条)。 しかし現実には、許可を得ることなく自家製の果実酒等を提供している飲食店は、昔からありました。様々な果実やスパイス、ハーブ、コーヒー豆、茶葉等を漬け込んだ自家製のお酒を「店の名物」にしているバーも少なくありませんでした。厳密に言えば、2008年の法改正までは、こうしたバーや飲食店等での「製造・提供行為」は限りなく「違法」行為でした。 国税庁もこれ以上「違法状態」を放置できないと考えたのか、それとも実態に合わせて少し制限を緩和すべきと考えたのか、2008年<平成20年>に租税特別措置法(酒税関係)が改正され、特例措置(例外規定)が設けられました。それは「客等に提供するため酒類に他の物品を混和する場合等、一定の要件を満たせば、例外的に酒類の製造に該当しないこととし、免許や納税等が不要となる」という特例です。 この結果、例えば「焼酎で作る梅酒」「しょうがを漬け込んだウオッカ」「ウオッカにレモンを漬け込んだリモンチェッロ」等は、酒類免許がなくても、バーや飲食店は法的な裏付けを持って堂々と製造し、提供することが可能になりました。 一方、個人が自分で飲むために造る酒(例えばよくある梅酒づくり等)は、かなり昔からとくに法的な規制はなく、旧酒税法(1940年<昭和15年>施行)でも禁止する規定はありませんでした。すなわち、個人の場合は事実上「黙認」状態でしたが、1953年<昭和28年>に施行された新・酒税法で初めて、「消費者が自ら消費するために酒類(蒸留酒類)に他の物品を混和する場合は新たに酒類を製造したとは見なさない」とする特例措置(酒税法43条11項)ができ、めでたく法的にも認められることになりました。 ◆使用が禁止されている穀物や果実に注意 このバーや飲食店等を念頭に置いた租税特別措置法の特例措置についてもう少し詳しく説明しましょう。適用対象は「酒場、料理店等、酒類を専ら自己の営業場において飲用に供する業」であり、具体的には、下記のようないくつかの条件を満たす必要があります。(1)酒場、料理店等が自己の営業場内において飲用に供することが目的であること(2)飲用に供する営業場内において混和を行うこと(3)一定の蒸留酒類とその他の物品の混和であること ※酒場や料理店等が客に提供するために混和する場合だけでなく、消費者(個人)が自ら消費するため(又は他の消費者の求めに応じて)混和する場合も、この「特例措置」と同様の規制を受けます。 また、使用できる酒類と物品の範囲は、以下の通り指定されています(この規定は個人が自分で飲むために造る場合も順守する義務があります)。(1)混和後、アルコール分1度以上の発酵がないもの(2)蒸留酒類でアルコール分が20度以上のもので、かつ、酒税が課税済みのもの(具体的には連続式蒸留焼酎、単式蒸留焼酎、ウイスキー、ブランデー、スピリッツ<ウオッカ、ジン、ラム、テキーラ等>、原料用アルコール)(3)蒸留酒類に混和する際は、以下に示す禁止物品以外のものを使用すること (イ)米、麦、あわ、とうもろこし、こうりゃん、きび、ひえ若しくはでんぷん、又はこれらの麹 (ロ)ぶどう(やまぶどうを含む)=【末尾注1】ご参考 (ハ)アミノ酸若しくはその塩類、ビタミン類、核酸分解物若しくはその塩類、有機酸若しくはその塩類、無機塩類、色素、香料、又は酒類のかす (ニ)酒類(※国税当局に問い合わせたところ、「蒸留酒、醸造酒を問わず、ベースの蒸留酒と同一の酒類以外の市販の全ての酒類を指す」とのこと) ※なおこの特例措置は、前記のように店内での飲食時に提供する場合に限られ、お土産として販売するなどの客への譲り渡しは出来ません(個人が自宅で造る場合も、同居の家族や親しい友人等に無償で提供することはできますが、販売することは出来ません)。 ◆蒸留酒はOK、醸造酒はダメ 以上のように、例えばバーや飲食店等でよく見かける梅酒は、「蒸留酒である焼酎やウオッカ等(アルコール度数20度以上)に漬け込む」のはOKですが、日本酒は「醸造酒であり、通常アルコール度数も20度未満」ですから、二重の意味でNGです(まれに、度数20度以上の日本酒も存在しますが、バーや飲食店で提供する場合は「蒸留酒」しか使えないのでやはりダメです)。 また、梅酒に自然な甘さを出したいからと言って、氷砂糖の代わりに「麹」を使うのも「(3)の(イ)に抵触する」ため、当然NGです。また、ぶどう類を原料にして自家製ワインのようなものを提供すれば、ベースが醸造酒・蒸留酒等に関係なく、完全に違法行為となります。 さらに、年間に自家製造できる量の上限も、営業場ごとに1年間(4月1日から翌年3月31日の間)に1キロリットル以内と決められています(バーUKの場合は、4種類全部合わせても、たぶん月間で最大2~3リットルくらいなので、全然大丈夫です)。なお、この特例措置を受ける場合は、所管の税務署に特例適用の申告書を提出しなければならないとされています(バーUKも一応、申告書を提出しております)=【末尾注2】ご参考。 ◆「自家製サングリア」の提供は基本NG 気をつけなければいけないのが「自家製サングリア」です。サングリアとは「ワインにフルーツやスパイスを漬け込んだワインカクテル」のこと。アルコール度数も低く、フルーティで、お酒が苦手な女性にも飲みやすいので、「自家製サングリア」を食前酒やカクテルとして提供するバーや飲食店も少なくありません(私も何軒か知っています)。 しかし、ベースがワイン(醸造酒)なので前述した条件の「ベースが蒸留酒」にも「20度以上」というルールにも引っかかり、事前に漬け込むことが一般的なサングリアは、場合によっては「発酵」も起こるので、租税特別措置法の特例措置は適用されません。許可なく製造・提供すれば違法で、刑事罰(前述)が科せられます。 従って、現在の日本国内では、基本、自家製サングリアの提供はNG(違法行為)です。プロのバーテンダーの人でも、この規定を知らない人を時々見かけますので、本当に注意が必要です(ただし、自家製サングリアを公然と、あるいは内緒で提供していたというバーが国税当局に摘発されたという話は、個人的には過去聞いたことはありませんが…)。 なお、お客様が飲む直前にワインにフルーツを入れて提供するような場合については、「店舗内で消費(飲む)の直前に酒類を混和した場合(例えばカクテルのようなドリンク)は、そもそも酒類の製造に当たらない」という特例措置と同等に扱われるため、まったく問題ありません。 ◆目に余る行為でない限り、現実には「黙認」 くどいようですが、日本国内でお酒を製造するには、(そこがバーであろうとなかろうと)酒類製造免許(酒造免許)の取得が義務づけられています。なので免許を取れば、店内で自家製のビールやワイン、そしてサングリアを製造・提供することも法的には可能です=【末尾注3】ご参考。 しかし免許取得には、管轄税務署より「経営状況」「製造技術能力」「製造設備」等の審査、免許を受けた後も1年間の最低製造数量を満たしているか等の審査があります。製造しようとするお酒の種類ごと、また製造所(店舗)ごとに免許が必要です。普通のバーや飲食店等が独自で取得するのはかなり高いハードルがあり、そう簡単ではありません。 現状では、「自家製サングリア」を提供するバーや飲食店は時々見かけますが、それはかなりの部分で「グレーな行為」だと思われます。だが、国税当局は「年間通して常時、公然と一定量を提供したり、お土産で販売したりする」ような目に余る行為でもない限り、事実上「黙認」している状況です(いちいち摘発する手間も大変だからでしょう)。 個人的には、年に1~2度くらいの特別なイベント時なら、事前に申請すれば例外的に自家製サングリアの提供を認めてほしいと強く思います。しかし現状では、何かのきっかけで国税当局が厳しく規制してくることも十分考えられますので、まぁ基本的には、バーでは手を出さない方がいいと考えています。サングリアに近いアルコール・ドリンクを提供したい場合、前述したように、飲む直前にワインにオレンジやレモン、ライムなどのフルーツを加えるしかありません。 ここまで書いてきたことの要点(大事なポイント)をまとめておきますと、バーで提供できる自家製のお酒は、(1)20度以上の蒸留酒を使うこと(2)ぶどう類以外の材料を使うこと(米などの穀物類や麹もダメ)(3)店内で作り店内だけで提供すること(持ち帰り販売はダメ) ということです。この3つだけは常に頭に入れておきましょう。 ◆その場でつくるカクテルはOK では、バーの花形である「カクテル(Cocktail)」はどうでしょうか? バーでのカクテルは通常、お客様の注文を受けてその場でつくられ、飲む直前に提供されます。1953年に成立した酒税法には「消費の直前に酒類と他の物品(酒類を含む)を混和した場合は、前項の規定(新たに酒類を造ったものとみなす)は適用しない」(第43条10項)という例外規定があり、2008年の租税特別措置法の改正でも、この例外規定は受け継がれています。 従って、その場で作ったカクテルを提供することは全く問題ありません。提供の直前につくるカクテルなら、フルーツなどを混ぜても「発酵」することはあり得ないからです。また、店舗前のテラス、ベンチ等は、客がその場で短時間で消費する前提であれば、店舗内と同じ扱いとなります。ただし、店舗内・店舗前に関係なく、自家製酒や作ったカクテル等を容器に詰めたりして販売する(無償譲渡することも含む)などの行為は、「無免許製造」となるのでできません。 なお、個人が自宅においてカクテルを飲む直前につくる場合、家庭内で消費する限りは家族や来訪した友人にも自由に提供できますが、(別の場所に住む)他人の委託を受けてつくったりすると「違法」になるので注意が必要です(当然、販売行為もNGです)。 ◆「期限付酒類小売り免許」も一時制度化されたが… ちなみに、国税庁は2020年4月、コロナ禍で苦しむ飲食業を支援するため、バーや飲食店等が6カ月の期限付きで酒類の持ち帰り販売ができる「期限付酒類小売業免許」を新設しました(現在ではこの制度は終了)。昨年は、この「期限付小売業免許」を取得して、ウイスキー等を量り売りするバーもあちこちで目立っていました。 加えて、国税庁が「カクテルの材料となる複数の酒類や果実等を、それぞれ別の容器に入れて、いわゆる”カクテルセット”として販売することも、期限付酒類小売業免許を取得すれば可能」という見解を示したことを受けて、カクテルの持ち帰り販売(材料別に密閉容器等に詰めての販売)をするバーも登場しました。 ミクソロジストとしてバー業界でも著名なバーテンダー、南雲主于三(なぐも・しゅうぞう)氏は「期限付免許」を取得したうえで、自らの店舗で持ち帰り用のオリジナル・カクテルセットを販売されました。その後は、酒類製造免許を持つ会社とタイアップして、完成品の瓶詰めオリジナル・カクテルの販売(通販がメイン)も始められました。その南雲氏の体験談はとても参考になります(出典:食品産業新聞社ニュースWEB → https://www.ssnp.co.jp/news/liquor/2020/04/2020-0413-1634-14.html)。 ◆出来たこと・出来なかったこと ご参考までに、「期限付酒類小売業免許」で出来たこと・出来なかったことや許可要件等を少し紹介してみます。(1)瓶(ボトル)や缶のままでの販売は可能(※この場合の瓶や缶とはウイスキーやビール、ジン等の未開栓の商品を指す)。(2)来店時にその場で酒類を詰める量り売りも可。量り売りの場合、容器は客側が用意することが前提(店側が容器を用意する場合、容器代の伝票は別にすること)(3)来店前にウイスキー等の酒類を詰めておく「詰め替え販売」は、詰め替えをする2日前に所轄の税務署に届け出をすれば可能。(4)カクテルなどをプラカップに入れて蓋をして販売することはできない。(※ただし、事前にカクテルを材料別に密封容器に詰めておく「詰め替え販売」は、(3)と同様、事前に所轄の税務署に「詰め替え届」を出していれば可能)=【末尾注4】ご参考。(5)量り売りの場合はラベル表示は不要だが、詰め替えはラベルが必要。(6)2都道府県内にまたがる配送は不可。(7)酒税法10条(酒類製造・販売免許を得るための人的・資格要件)に違反していないこと。(8)新規取引先から購入したものは販売不可。既存の取引先からの酒類に限り、販売が可能。 ◆「期限付免許」は2021年3月末で終了 前述したように、期限付免許での「詰め替え届」が出ていれば、カクテルを材料別に密閉容器にボトリングまたは真空パックにしてセット販売することが出来ました。南雲氏は例えば、ジン、カンパリ、ベルモットを密閉容器に詰めて、オレンジピールと一緒にして「ネグローニ・セット」として販売。お客様も自宅で手軽に、プロ並み(に近い?)のカクテルが楽しめたのです。 南雲氏は当時、「小売と同じことをしても価値はない。バーにしかできない売り方が付加価値となります。例えば、ウイスキーのフライト(飲み比べ)セット、自家製燻製とウイスキーのマリアージュセット、クラフトジンとライムとトニックのジントニックセットなど、可能性は無限大です」と大きな夢を描いていました。素晴らしい取り組みだと思いました。 しかし、国税庁はこの「期限付酒類小売業免許」を2度の期限延長を経た後、今年(2021年)3月末を持って終了(廃止)してしまいました。4月以降も継続を希望する場合は、通常の「酒類小売業免許」を申請するように告知しています。コロナ禍がここまで長引くとは思わなかったということもありますが、せっかくの「期限付免許」はコロナ禍が収束するまでは存続させてほしかったし、一方的に終了してしまった同庁の姿勢はとても残念に思います。 その後も南雲氏は、日本国内のバーで、カクテルのデリバリー販売、テイクアウト販売が常時認められることを目指し、様々な団体やバーテンダーと連携して、国税庁への働きかける活動を精力的に続けられています。ぜひ応援していきたいと思っています。 ◆出張バーテンダーの扱いは? 時々見かける(そして、私自身もたまに依頼される)出張バーテンダーっていう営業は、出張先で用意された酒や材料を使ってカクテル等つくる場合においては、法律的な縛りはまったくありません(出張料理人・シェフも同じ条件ならば合法的な行為と見なされます)。厳密に言えば、食中毒を起こさないように注意する程度です。 ただし、出張先(店舗外)で提供するカクテルを、事前に作り置きして容器に詰めていくことはできません。租税特別措置法では、「当該営業場以外の場所において消費されることを予知して(事前に)混和した場合、特例措置にいう『消費の直前に混和した』こととはならず、無許可の酒類製造に相当する」とされています。 要するにバーにおいてのカクテルは原則として、「自らの店の中でつくって提供すること」「注文の都度つくること(作り置きすることはNG)」「注文した人が飲むこと」の3つの条件を満たす必要があり、出張先においても「(出張先は)自らの店と同じ扱いになる」ことも含め、この3条件を守らなければなりません。 以上、長々と書いてきました。2020年1月以降長く続くコロナ禍で、バーを含む飲食店は、非科学的なアルコール規制のために、苦境に立たされています。しかし、ピンチはチャンスでもあります。我々バーテンダーは、コロナ禍が収束した暁に、バー空間で味わうお酒の楽しさをお客様に実感してもらえるように、関係する諸法律には誠実に向き合いながら、より一層の創意と工夫を加えて新しい自家製酒やカクテルを提供していこうではありませんか。【注1】他の果物は混和してもいいのに、なぜ、ぶどう類だけは禁止になっている理由について国税庁は説明していませんが、おそらくは(正式の免許を受けて醸造している)国内のワイン農家の保護という観点があるのではないかと考えられています。【注2】特例適用申告書については、店で少量の自家製酒を不定期に提供している何人かのバーのマスターに聞いてみましたが、実際、個人営業の店で申告書を出しているところはそう多くないようです。現実には、少量で不定期ならば、国税当局も事実上「黙認」しているようですが、私は、妙な疑いをかけられるのも嫌なので、一応、法律に従って申告しています。 【注3】アルコール度数1%未満であればビールやワインを醸造するのに許可は必要はありません。市販の自家製ビール(またはワイン)製造キットがこれに当たります。なお、店内に簡易で小型の蒸留器を置いているバーを見かけることがたまにありますが、無許可でアルコール度数1%以上の蒸留酒を造る行為は「違法」になるのでご注意ください。【注4】南雲氏との2020年4月の一問一答で、国税庁酒税課は「カクテルは、仕様がグラスやカップ、プラカップ等で直後に飲むことを前提としている容器であれば(店舗内での)提供」と答える一方で、「結果として客側が持ち帰ったとしても、直ちに販売と言うのは難しい」との見解も示し、蓋のない容器での「テイクアウト」も事実上容認していました。しかし、期限付免許が終了した現在、カクテルの「テイクアウト」販売は残念ながら再びNGになっています。【2025年1月追記】コロナ禍収束後、ここ数年の間に、酒類製造免許を持つメーカーからは、ボトルに詰めたカクテル製品が続々と市場にお目見えしています(有名バーテンダーとコラボしている商品も目立ちます)。しかし消費期限等の制約もあり、現状ではマンハッタン、ネグローニ、マティーニなど度数の高いもので、劣化しやすいジュース類は使用しないカクテルに限られています。この類の「ボトル詰めカクテル」商品が今後定着していくかどうかは、現時点では未知数というしかありません。【おことわり&お願い】この記事は、バーにおける「自家製漬け込み酒」等について、現時点での酒税法、租税特別措置法上の一般的なルールや法的見解等をまとめたものですが、個別具体的な行為や問題についての適法性まで保証するものではありません。個別のケースにおける疑問や法的な問題、取扱いについては、バーや飲食店等の所在地を所管する税務署や保健所にご相談ください(※ご参考:酒税やお酒の免許についての相談窓口 → 国税庁ホームページ掲載リンク)
2021/06/04
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「モルト・ウイスキーのロールス・ロイス」の異名を持つ偉大な銘柄と言えば、マッカラン(Macallan)。そのバランスの良さはスコットランドのモルトの中でも傑出した存在。バーテンダーはもちろん、ほとんどのモルト愛好家が、おそらく好きな銘柄の上位に挙げるだろう。 創業は1824年。熟成には、シェリー樽しか使わないのが最大の特徴(とくにドライ・オロロソの樽を使う)。原料の大麦も最高級の品種を用いる。だから、シェリー樽熟成の上質のモルトと言えば、まず、マッカランを思い浮かべる人が多いだろう。ちなみにマッカランとは創業者の名前でなく、「聖コロンバの丘」を意味するゲール語(「聖コロンバの丘」って何?と聞かれても、僕は知らないので悪しからず…)。 モルト好きの人は、大きく分けてアイラ系のスモーキーで、ピーティーな銘柄が好きな人と、シェリー樽熟成系のモルトが好きな人、それ以外の人に分かれるんじゃないだろうかと思う(写真左上=マッカランの現行ボトル。最近ボトルがこの背の高い形に変わりましたが、僕は以前のボトルの形の方が好き)。 僕のモルト好きの友人にも、アイラのボウモアやラフロイグ大好き人間がいるし、マッカランやグレン・ファークラスなどのシェリー系大好き人間もいる(もちろん、あまりこだわりのない人間もいる)。 僕は、と言えば「どっちも好き人間」。でも好みは、なぜか自分でも理由はうまく言えないが、年ごとに若干変わる傾向がある。今年は、BARでシェリー系を頼むことが多いから、なんとなく、「シェリー系嗜好」な年なのかも…。 マッカラン以外にも、シェリー樽熟成のモルトを産み出す蒸留所はいろいろある。上記の2つ以外にも、エドラダワー、グレンドロナック、ハイランドパーク、バルベニー…等々。でも迷った時はやはり、マッカランを頼むことが多い。 他のモルトにも言えることだが、60~70年代のマッカランは旨かった。原材料の大麦の出来が素晴らしかったこともあるが、機械化された現在と違って、優れた職人が丁寧に造っていたせいもあるだろう(写真右=マッカラン18年のオールドボトル=この写真のものは1973年の蒸留。60年以前のものにはもっと旨いものもあるが、今や入手は困難!)。 マッカランでも、僕がとくに好きなのはオフィシャルの「18年」という銘柄。家でも、昔はよくこれを飲んでいた。シェリー樽がウリのマッカランでも、とくにシェリー香がよく残っていて、色も赤みがかった濃厚な琥珀色をしている。 「昔は」と書いたのは、ひと頃は、近所のディスカウントのお酒屋さんで、5500円~6500円くらいで買えていた「18年」が、最近はシェリー樽が品薄なのか、1万円近くまで高騰していて、普段用では気安く飲めなくなってしまったから…(まぁ、独立系業者から実にたくさんのマッカランのボトルが出ているから、美味しいのを探せばいいのだが…)。 マッカランと言えば、愛好家ならすでにご存じだが、最近オフィシャル・ボトルの形やラベルのデザインを一新した(写真左下=マッカラン蒸留所のオールドボトルの公式ガイドブックでは、1930~50年代のボトルも販売している。お値段は1本50万円(!)前後、お一つかが?)。 外見的イメージの一新には賛否が渦巻いている。「威厳がなくなって、安っぽい感じになった」「長い伝統を軽んじるものだ」という批判もある一方、「時代に合わせて変えていくのも仕方がない」「21世紀のマッカランはスタイリッシュでいい」と支持する声もある。 僕は、どちらか言うと批判的だ。ラベルのデザインのマイナーチェンジは認めるにしても、伝統のボトルの形は変えてほしくはなかった(もっとも創業当時のボトルがどうだったかのは知らないが…)。ボトルの形やデザインなんて、どうでもいいことかもしれない。上質のモルトを、これからもきちんと作り続けてくれさえすれば、それでいいのかもしれない。それでも…、と思う。 マッカラン。それはモルト・ウイスキーとオロロソ・シェリーの偉大なマリッジ(融合)。ウイスキーをシェリー樽で熟成させようと考えた人に、僕は重ねがさね感謝しなければならないと思う。
2005/06/19
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久しぶりに言葉(方言)をテーマに。「他県人を震えさせる大阪弁の”罵(ののし)り”フレーズ」14選。本当に腹の立つ相手に使ってみてください。ただし関西人以外の方は、使うときはくれぐれもよく注意して使ってください。後で、どうなっても私は一切の責任は負えませんから(笑)。 1.しばいたろか、このガキ(or オッサン)! 2.いてこましたろかー! 3.いてまうど(or いてこますぞ)、オラァ! 4.いわしたろか! 5.どついたろか、オンどれ! 6.なめとんのかー、このバッハやろう! 7.たいがいにせーや!ワレェ、血ぃ見るどー! 8.何さらしてけつかんねん(or けつかるねん)! 9.どたまかち割ったろかー、ワレェ! 10. ドラム缶にコンクリ詰めして大阪湾に沈めたろかー! 11. 何ごたごた ぬかしとんねん! 12. どたまかち割ったろかー、ワレェ! 13. どたまカチ割って脳みそチューチューしたろかー! (※吉本新喜劇・未知やすえの決めゼリフ) 14. ケツの穴から手ぇ突っ込んで奥歯ガタガタいわしたろかー! (※同じく吉本のご存知、故・岡八朗の名ゼリフ)
2021/08/30
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久々に高知でBAR巡りを楽しみました。高知は、徳島に暮らしていた頃に7、8回はお邪魔しましたが、最後に行ったのは2000年なので、10年ぶりの訪問です。 【パブ・アモンティラード】 昼間の仕事が比較的早く終わったので、一番オープンが早い店(午後5時という情報)に出かけた。しかし行ってみると、まだ開いていなかった(地方ではよくあること)。 仕方がないので、どこか時間潰しができそうな店はないかなぁ…と盛り場を歩いていたら、雰囲気の良さそうなパブを見つけた。入ってみると、失礼ながら結構本格的なアイリッシュ・パブ。ギネスやキルケニーの生まである。 とりあえずキルケニーで喉を潤す(生き返った気分!)。キャパも広くて、カウンターも15人くらい座れて、テーブル席いくつかある。時間待ちの時など、とても使い勝手がよさそう。高知に来る機会があれば、またお邪魔してみたい店だ。 【バール・バッフォーネ】とりあえずは腹ごしらえをということで、地元で評判のバールへ。ここは大阪のあるマスターのご紹介。オーナー・シェフのAさんはかつてはバーテンダーを目指し、修業していた。ところが、途中から元々興味があったイタリアンの道へ進んだ。そして10年ほど前、高知ではまだ珍しかったオープンカフェ形式のバールを開いた。 まるでイタリアの街角あるような素敵な店はその味とAさんの人柄で、今では不動の人気を得ている。僕は、Aさんの昔のバーテンダー時代の話を聞きながら、美味しいパスタと白ワインをいただく。フード・メニューがめちゃ充実しているのが嬉しい(時間があればもっとあれこれ食べたかった)。皆さんも高知に行かれたら、カツオのタタキは昼間に食べて、夜はバールでなんていかが? 【Walton Bar】 盛り場から少し離れた住宅街の中、3階建てのビルの2階にあるが、看板も出ていないので見つけるのに少々苦労。扉を開けると、そこはウッディで落ち着いた別世界だった。 ここは確か、ブログの友人のパブデ・ピカソさんから教えてもらった店。マスターのKさんに「大阪から出張でやって来ました」と挨拶。店のウリはシングルモルトとワイン。とくにバック・バーのマッカランのコレクションが素晴らしい。 常連度の高そうな店だが、マスターの接客は実に紳士的で優しい。まるで森の中のログハウスに居るように、静かに時間が流れ、ゆったりとした気分に浸れる。高知で一番のおしゃれなオーセンティックBARと言っていいかも。 【Barフランソワ】 今年で開業45年になるという高知一の老舗だ。僕はお邪魔するのは10年ぶり。今年71歳というSマスターは健在で、今も店に出ておられるが、普段はお弟子さんのMさんがカウンター内を仕切っておられる。 店の雰囲気は昔と変わらない。ここに来ると、時間が止まっているような錯覚に襲われる。昔もそうしていたように、フランソワでは、スタンダードな酒だけを頼む。この夜も、ジン・リッキー、そしてスコッチのハイボールをいただいた。 帰り際、カウンターの端に座っていたSマスターがすっと立ち上がり、「本日はどうも有難うございました」と挨拶してくれた。僕も「マスター、体に気をつけて元気でね!」と返した。フランソワのような素敵な老舗が高知にあることを、僕も幸せに思う。 【Bar千年郷】 面白い名前のBAR。一度聞いたら忘れない。BAR好きの友人や大阪のBARのマスターやいろんな人から、「高知へ行ったら、千年郷にもぜひ。カクテルもモルトも旨いよ」と勧められた。 店は清潔感にあふれて落ち着いた雰囲気。マスターのSさんはカクテルコンペで優秀な成績をおさめたこともあるほどの名手。一見とっつきにくそうにも見えるが、話してみると実に気さくな人柄で、こちらが聞かないことまであれこれ教えてくれる(土佐弁の指導までしてくれた(笑))。 「高知の景気はどうですか? 龍馬ブームでずいぶん観光客は来てるみたいですが…」と尋ねたが、Sマスターは「いやぁ、ホテル業界は潤ってるみたいだけど、BARにまでさほどいい影響は…」と。しかし、オーセンティックBARは一時のブームに左右されず、どっしり続いていくことこそが大事だと僕は思う。「千年郷」もその名のように、末永く続く店であってほしい。 【Collins Bar】ホテルに帰る前にもう1軒だけと思って、訪れた。静かで、きりっとしたオーセンティックBARの見本のような店だ(実は訪店候補の1軒だった)。夜の締めには、レッド・アイかシングルモルトかと悩んだが、結局ボウモアをストレートで頼んだ。 まだ若そうなマスターのKさん(30代半ばかな?)と、関西のBAR業界の話で盛り上がっているうちに、日付も変わっていた。長いカウンター、暗めの程よいライティング。1人で飲むのもよし、カップルで飲むのもよしのBARだ(お値段もリーズナブル)。酔いも回っていたので、1杯だけで失礼したけれど、Kさんお許しあれ。 10年ぶりの土佐の高知は、とても温かい雰囲気で僕を迎えてくれました(お天気も良くてラッキーだった)。高知のマスター、バーテンダーの皆さん、素敵なもてなしを有難うございました。 【パブ・アモンティラード】高知市帯屋町1-1-17 電話088-875-0599 午後5時~午前1時 無休 【バール・バッフォーネ】高知市帯屋町1-2-10 822-3884 午後6時~午前0時(金・土・日は正午オープン) 水休 【Walton Bar】高知市廿代町9-11 2F 873-3316 午後5時半~午前2時 月休 【Bar フランソワ】高知市追手筋1-9-4 875-1644 午後6時半~午前0時 第1・3・5日休 【Bar 千年郷】高知市追手筋1-1-9 くれ竹ビル2F 823-8678 午後7時~午前2時 日休 【Collins Bar】高知市はりまや町2-1-10 875-3777 午後7時~午前3時 日休 こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2010/10/01
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◆ジェリー・トーマス:「派手」が大好き、行動するバーテンダー ハリー・マッケルホーン、ハリー・クラドックとカクテル史に残る偉大な2人のバーテンダーの生涯を紹介してきましたが、やはり、ここまでくれば、「カクテルの創始者」とも言われるジェリー・トーマス(Jerry Thomas、1830~1885)のことにきちんと触れておくことも、私の大事な責務だと思います。 マッケルホーン、クラドックともに伝記本が存在せず、その生涯をたどるのには凄く苦労したのですが、トーマスについても伝記本はなく、さらに古い時代の人とあって文献資料も極めて少ないため、インターネット上の情報(とくに英文のサイト)から断片的な情報をかき集めるしかありませんでした。しかしようやく一編を書くに足るデータを、なんとか得ることはできました。以下は、米国では「The Pioneer Of Modern Cocktails」「The Father Of American Mixology」と称されるトーマスの生涯です。 ☆10代で「トム&ジェリー」を考案☆ ジェリー・トーマスは、1830年、米ニューヨーク州北部のカナダ国境に近い、サケッツ・ハーバー(Sackets Harbor)という町で生まれました(月日は不明)。トーマスは10代後半(何歳の時かは不明=1940年代後半)に、お隣コネチカット州ニュー・ヘイブン【注1】のバーでバーテンダーとして働き始めます。1847年には、現代でもバーでよく飲まれている有名な「トム&ジェリー」【注2】というホット・カクテルを考案したと言われています(写真左=著書に絵で描かれたジェリー・トーマス。写真はほとんど伝わっていない)。 しかし1848年、米西部で金鉱が発見され、いわゆる「ゴールドラッシュ」【注3】が始まると、トーマスも、バーテンダーとしてより大きな活躍の舞台も求め、また一攫千金も狙って、カリフォルニアへ旅立ちます。実際、カリフォルニア(のどこかは地名不明)で彼は、バーテンダーだけでなく、ある時は金鉱脈探しの開拓者として、ある時は旅芸人のショー(歌や踊り)の経営者として働きました(どれくらい儲けたのかは不明ですが…)。 1851年、トーマスはニューヨークへ戻り、「バーナム・アメリカン・ミュージアム」【注4】内に初めて自らが経営するサロン・バーを開きます(トーマスは生涯に4店のバーを開いたということです)が、残念ながら、このバーがどんな店だったのか、営業状態はどうだったのかについての資料にはまだ出合っていません。 ☆「火の弧」で魅せる「ブルー・ブレイザー」☆ トーマスはその数年後、全米各地のさまざまなホテルやサロン・バーで、チーフ・バーテンダーとして働きます。セントルイス、シカゴ、サンフランシスコ、チャールストン、ニュー・オーリンズなど当時の大都市で彼は、その稀有な才能を発揮し、自分の技術を後輩に伝えていきます。 1850年代、トーマスは、彼の名を永久不滅なものにしたカクテル「ブルー・ブレイザー(Blue Blazer)」【注5】=写真右=を考案します。このカクテルは、要はホット・ウイスキーなので、カクテルというには少し違和感があるかもしれません。しかし、そのつくる際の派手なパフォーマンスが故に、今日でもバーテンダーが誰しも一目置く存在となっています。 そのつくり方とは――。二つの金属製マグを使い、一方のマグに入れた温めたウイスキーを入れて火を付け、火が付いた状態のままのウイスキーを、熱湯の入ったもう一方のマグまで空中を飛ばして、二つのマグ間で2往復半ほど行き来させるというものです。火が弧を描くように流れ、見た目でも楽しめます。その派手で華麗な作り方は、全米各地で見る人の度肝を抜きました。 ☆米国初のカクテルブックを出版☆ 1862年以前のある時期(時期は不明です)に、トーマスは、バー・ツールが詰まったかばんを携えて、欧州にも渡りました。彼がどこの国を訪れたのかについての資料は手元にありませんが、行く先々の国で、そのカクテル・テクニック(時にはボトル・ジャグリングまで!)を披露し、喝采を浴びたとは伝わっています。また、彼が携えていったシェーカーは金製、銀製のものや、宝石がちりばめられたものもあり、欧州のバーテンダーたちはその豪華さに目を見張ったということです。 ちなみに、欧州からの帰国後(いつ帰国したのかは不明)、サンフランシスコの「オクシデンタル・ホテル」のバーで働いていたトーマスの給料は週給100ドルで、当時の米副大統領より多かったといいます。まだ30歳前半の彼の、バーテンダーとしての評価がいかに高かったかを表す事実です。この頃になるとトーマスは、周囲から敬意をこめて、“Professor(教授)”と呼ばれるようになったと伝わっています。 1862年、32歳のトーマスは全米初の体系的なカクテルブック「How To Mix Drinks or The Bon-Vivant’s Companion」=写真左=を出版します。「How To Mix…」には約240のレシピが収録されていますが、その中には、それまで口伝だけでつくられてきた「***デイジー」(***はベースとなる酒)「***スマッシュ」「***コブラー」「***サンガリー」などという初期のカクテル(ミクスド・ドリンク)のレシピを数多く収録するとともに、トーマス自身のオリジナルも何点か収録しています(1876年の再版本では、英国生まれの有名なカクテル「トム・コリンズ」のレシピを米国で初めて紹介しています)。 ☆経営不振の後、55歳の若さで急逝☆ 1866年、36歳になったトーマスはニューヨークに戻り、「メトロポリタン・ホテル」のチーフ・バーテンダーとなります。そして、まもなくマンハッタン・ブロードウェイのそばのビルの地下に、自身のサロン・バーを開きます。トーマスは、そのサロン・バーを人気の風刺画を展示するギャラリーとしても活用するなど、ニューヨークっ子の話題を集め、マスコミでもたびたび取り上げられたそうです。 しかし、順調だったバー・ビジネスに不運が襲います。晩年、トーマスはウォール街での株投資に失敗し、多額の負債を抱えてしまいます。その結果、自分の店や買い集めた美術コレクションを売却せざるを得なくなります。しばらくして店の再開にこぎつけますが、かつての賑わいは戻らなかったといいます。 1885年12月15日、トーマスは脳卒中のためニューヨーク市で亡くなります。まだ55歳の若さでした。彼は中年になるまでに結婚し、娘を二人もうけたといいますが、子孫のその後は不詳です。彼の訃報を伝えたニュー・ヨーク・タイムズは、「彼はあらゆる階級、階層の人たちに愛されたバーテンダーだった」とその死を悼みました。【注6】 ☆マティーニの発展に貢献☆ 彼の死から2年後の1887年に再版されたカクテルブックには、現代のマティーニの原型とも言える「マルチネス・カクテル」【注7】が、彼自身の「遺作」であるかのように初めて紹介されています。だから、トーマスのことを「マティーニの創始者」と言う人もいます。 「マルチネス」のレシピは現代のマティーニと似た部分もありますが、異なる部分も多いため、彼が創始者かどうかについては、今日でもなお論議があるところです。しかしこのカクテルをきっかけとして、現在のマティーニまで発展してきたことは疑う余地はありません。 彼の残したカクテルブックは、現在もなお版を重ねて、世界中のバーテンダーに読み継がれています。生涯をカクテルの発展と普及に捧げたジェリー・トーマスの功績を否定する人はいないでしょう。現代に生きるバー業界の後継者たちが、彼の生涯にもっとスポットライトをあててくれることを願ってやみません。【追記1】ジェリー・トーマスについては、彼の人柄をほうふつとさせる一風変わったエピソードがいくつか伝わっています(出典:ウィキペディア英語版)。いくつか紹介してみましょう。 (1)子供用手袋をはめるのが好きだった(2)金ピカの腕時計をいつもしていた(3)ベア・ナックル・ファイト=懸賞付の素手ボクシング試合=の愛好家であった(4)美術コレクターであった(ニューヨークの彼のバーにも収集したたくさんの絵が飾ってあったそうです)(5)「肥満者協会」(Fat Men’s Association)のメンバーだった(ちなみに彼の体重は205パウンド=約93kgだったとか)(6)1870年代からはひょうたん栽培に興味を持ち、「ひょうたんクラブ」(The Gourd Club)の会長にまでなり、品種改良して大型品種を生み出すまでになった。【追記2】本稿を書くにあたっては、「ウィキペディア」英語版の「Jerry Thomas」の記述など数多くの英文サイトのお世話になりました。この場をかりて感謝いたします。【注1】ニューヘイブン(New Haven)は、米東海岸のコネチカット州南部にある都市。名門イェール(Yale)大学があることで有名。【注2】現代の標準的なレシピは、ダークラム30ml、ブランデー15ml、全卵1個、熱湯(または牛乳)60~70ml、砂糖2tsp、ナツメグ少々【注3】1848年1月、米カリフォルニア地方の川で砂金が見つかったのをきっかけに広がった金鉱脈探しブーム。一攫千金を狙う開拓者が米東部や欧州からカリフォルニアへ続々と押し寄せた。(トーマスがおそらく訪れたであろう)サンフランシスコはそれまで人口1000人ほどの小さい村だったが、金鉱脈探しの拠点の一つとして大都市へと発展。1年後の人口は2万5千人まで急増した。カリフォルニアは翌1850年の9月、州に昇格した。【注4】「バーナム・アメリカン・ミュージアム」は1841年、PT・バーナムという興行師がニュー・ヨーク・マンハッタン島南部に設立した。「ミュージアム」とは名ばかりで、実態は「偽人魚」「珍動物」「小人」などを見せる見世物小屋だった。しかし24年後の1865年、ニューヨークの大火で焼失した。【注5】標準的なレシピは、温めたウイスキー60ml、熱湯60ml、粉糖2tsp、レモンスライス【注6】“Thomas was at one time better known to club men and men about town than any other bartender in this city, and he was very popular among all classes”(New York Times, Dec 16 1885)【注7】トーマスのオリジナル・レシピは、オールドトム・ジン30ml、スイート・ベルモット60ml、アロマチック・ビターズ1dsh、マラスキーノ2dsh、シュガー・シロップ2dshこちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2010/12/09
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その14:「いいBAR」の条件(1) さて、長々と書いてきた「BAR入門講座」も終盤に差しかかってきた。この辺りで私の考える「いいBAR」の条件というのをもう一度整理しておくと、以下の12の条件に行き着く(紹介する順序にとくに意図はなく、重要度という意味でもない。どれを重要と考えるかは人それぞれで違ってくる→※以前の日記=08年12月29日の日記「Barカドボール」=でもこのテーマに少し触れたので、少し重複する部分もあるが、お許し願いたい)。 (1)カクテル等の酒づくりの技術に優れている (2)接客・サービスのレベルが高い (3)酒の品揃えが充実し、マスターら店の方の知識も豊富 (4)マスターら店の方のトーク(話術)が長けている (5)内装や椅子、照明など店の雰囲気がいい (6)酒やサービスに見合った明朗な料金である (7)美味しいフードがそこそこある (8)商魂見え見えの経営方針ではない (9)心地よいBGMが流れている(時にはライブもある) (10)そのBARに集う客の質がいい (11)広すぎず・狭すぎず・清潔感もある (12)マスターら店の方の人柄がいい (1)カクテル等の酒づくりの技術 一般的に言って、「オーセンティックBAR」を名乗る店なら、美味しいカクテルやウイスキーは飲めるに違いない。ベテラン・バーテンダーやコンクールで優秀な成績をおさめたバーテンダーのいるオーセンティックBARなら、なおさら期待を裏切らないカクテルをつくってくれるだろう。 しかし、老舗BARと言っても、普段はビールとウイスキー(水割りかハイボール)しか出していない店の場合、カクテルを頼むと、がっかりということも珍しくない。いくら長年BAR経営に携わってきたとしても、普段シェイカーなど振っていなければ期待するのが無理であろう。 どのマスターにもバーテンダーにも得意の分野(カクテル)がある。ハイボールをつくれば絶品という方もいれば、マティーニは誰にも負けないほど素晴らしい方もいる。フルーツ・カクテルの名手がいれば、ボストン・シェイカー(片方がガラス製になったシェイカー)という扱いが少し難しいシェイカーの名人もいる。創作カクテルも日々新しいものが生まれている。だからカクテルを得意とするBARでも、その店のバーテンダーがすべてのカクテルに長(た)けている訳ではない。 もちろん、熱心なバーテンダーは、たとえコンクールで1位をとっても、さらに上を目指して生涯研鑽を積んでいる。そういう姿勢が見られるマスターやバーテンダーがいる店なら、まず間違いなく「いいBAR」だ(30~40代のオーナー・バーテンダーがいるBARにはそういう店が多い)。ただし、そのカクテルが美味しいかどうかを決めるのは、最終的には客である貴方自身。そのためにも舌も含めた五感を普段から十分養っておくことも大切だ。 (2)接客・サービスのレベル 接客・サービスなんて、飲食・サービス業であれば当然のこと。それに物足りないBARがあるから、こういう条件を挙げなければならない。基本的なことだが、言葉遣いも含めて、接客がぞんざいな店には二度と行きたいとは思わない。客のいる目の前で断りなくタバコに火を付けたり、大声で喋るグループ客や店内で携帯を平気で使う客にすぐ注意をしないマスターは論外だが、それだけではない。 私は、かつてBAR業界のコンクールで優秀な成績をおさめたバーテンダーが店長をつとめるBARに友人と一緒に訪ねた。店はほぼ満員の繁盛ぶりだった。そして僕らはマティーニを頼んだ。すると、驚いたことにそのバーテンダーは、ミキシング・グラスで材料をステアしてできたマティーニを、常温のグラスに注いだのだ。普通のオーセンティックBARでは、冷蔵庫で直前まで冷やしたグラスに注ぐか、グラスに氷を数個入れて回してグラスを冷やしてからマティーニを注ぐ。 しかし、彼はただ漫然と常温のグラスに注いだ。マティーニはみるみるうちにぬるくなり、美味しさを失ったことは言うまでもない。いくら忙しいとは言え、これは手抜き以外の何ものでもない。このバーテンダーはカクテルづくりの技術は立派でも、「本当のサービスとは何か」を知らなかったのである。 最高の接客・サービスとは、どういうものを言うのか。ただ丁寧な言葉遣いで客に話しかけることではない。会計を割り引いてくれるのがサービスでもない。客にコートを着せてくれたり、トイレから帰ってくるたびに新しいおしぼりが出すなんてどうでもいい。「当たり前のことを普通にやってくれる」のが僕は一番嬉しい(上記のマティーニづくりも然り)。そして抽象的な表現で申し訳ないけれど、「かゆいところに手の届く」「目と目でお互いの心が伝わる」ような接客・サービスが一番いい。 例えば、モルト・ウイスキーをストレートやロックで飲んでいる時、チェイサーの水がなくなったら、すぐに足してくれる。客の顔色を見て、話したがっていそうだったら、良き話し相手になってくれる(逆に放っておいてほしそうだったら、そっと独りにしておいてくれる)。お代わりを頼みたがっている客がいないかどうか、常に店全体に目配りしている。そして、他の客がいない時にはとっておきの話(情報)を聞かせてくれる。そういう接客・サービスがバーテンダー全員にきちんと躾られている店こそが、うらんかんろは最高の接客・サービスができる店だと信じている。 (3)酒類の品揃えや知識 酒の知識に関して言えば、普通、「オーセンティックBAR」と名乗るプロのマスターなら、一般的な知識は素人よりも豊富だろうから、まず心配ない。最低限の知識さえ持っていてくれればそれでいいと、うらんかんろは思っている。プロであれば、この「入門講座」の「その5:お酒の基礎知識」で書いた内容の何倍もの知識を持っている。 最近では、プロも顔負けの素人客がいる。僕も驚くような凄い「モルト・マニア」もいる。だから、プロがごく一部しか知らない、マニアックな知識を知らなかったとしても、まったく恥ずべきことではない。たとえ、私の知っているカクテルの名前やレシピを、その店のバーテンダーが知らなかったとしても、不思議ではない。以前、広島県の福山でお土産に買ってきた「保命酒」=08年4月28日の日記参照=(ペリーが飲んだ最初の日本の酒)なんて、ほとんどのマスター、バーテンダーは知らなかったが、そんな小さなことでプロを軽蔑しては絶対にいけない。 要は、そのBARやマスター、バーテンダーに、どこまで「理想」を求めるのか、だ。モルト・ウイスキーの場合、欲を言えばキリがない。強いて個人的に基準を挙げれば、シングルモルトのオフィシャル・ボトル(蒸留所販売の正規ルート品)なら少なくとも40銘柄くらいは、ボトラーズ(独立系販売業者)のボトルなら、20銘柄くらいは置いてほしい。ボトラーズのボトルの種類の多さを売りにしているBARもあるが、うらんかんろは、数(種類)よりも、どういう銘柄を置いているかや、客が飲みやすい値段設定のボトルを選んでいるか等、店主のセンスの方が大切だと思う。 四大ホワイト・スピリッツ(ジン、ウオッカ、ラム、テキーラ)やブランデーはカクテルのベースにぜひものだ。ワインは赤、白、シェリーは各数種類ずつは欲しい。他にも欲を言えば、スパークリング・ワインや日本酒、焼酎も少しは置いてほしい。カクテルも一応、スタンダードと言われるカクテルの7~8割はつくれる材料(リキュール等)は揃えておいてほしい。かつて日記=07年2月25日の日記=で書いたような、基本的なリキュールすら置いていないBARではちょっと困る。【その15へ続く】【おことわり】写真は本文内容とは直接関係ありません。・こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2009/02/05
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80.シャンハイ(上海)(Shanghai Cocktail)【現代の標準的なレシピ】(液量単位はml)ダーク・ラム(40)、アニゼット(15)、レモン・ジュース(15)、グレナディン・シロップ2dash ※アニゼットとは、アニスなどの薬草をベースにした甘苦いリキュール 【スタイル】シェイク 誕生の詳しい経緯等は不明です。従来、多くのカクテルブックでは、「1920年代、”魔都”と呼ばれた上海にあった『外国租界』のバーで生まれたカクテル」と紹介されてきました(アヘン戦争で清国が敗れた後の1842年、上海には、中国の主権が及ばない欧米各国や日本の「租界」が生まれました。その後、租界では外国人向けホテルやバーも数多く営業するようになりました)。 しかし、上海誕生説を裏付ける史料やデータは伝わっておらず、考案者が誰かももちろんよく分かりません。カクテルのレシピ(材料)には、あまり東洋的なものは見当たりませんが、ダーク・ラムとアニゼットでエキゾチックさを、グレナディン・シロップの赤で、当時の妖しげな「租界」の雰囲気を表現したのではないかと従来から言われてきました。 しかし近年になって、1920年代の上海で生まれたカクテルではなく、1915年以降の欧州で考案されたのではないかという説が提起されています。当初は様々なバリエーションがあったようですが、「サヴォイ・カクテルブック」(1930年刊)の著者であるハリー・クラドックが、自分なりにレシピを固め、同書で初めて活字にしたのではないかというのです(出典:http://shanghaidrinkersclub.blogspot.jp/2012/02/shanghai-cocktail-chinese-puzzle.html)。 その理由としてこのサイトはまず、上海で生まれたにしては、材料にまったく”オリエンタルなもの”がないことや、当時英国の植民地であったジャマイカのラムをベースにしていることなどを挙げています。 さらに、このカクテルの材料の一つ、アニゼット・リキュールが一般的になったのは、欧州の主要な国でアブサン(【注】参照)の製造・販売・流通が1915年までに禁止され、代替品としてパスティスなどと共に普及し始めてからで、20年代の上海でアニゼットが一般的だったとは思えないことも理由にしています(【注】幻覚作用を引き起こすというニガヨモギを使う旧タイプのアブサン。現在流通しているアブサンとは違う)。 私も昔は「上海誕生説」を支持していましたが、現在では、レシピからしても上海と言うより英国・ロンドンで生まれたと考える方が素直かなと思うようになりました(もちろん30年代以降、英国と上海との人やモノの行き来が頻繁になると、当然、上海の租界でも「シャンハイ・カクテル」は普通に飲まれるようになったでしょうが…)。 欧米のカクテルブックで「シャンハイ」が登場するのは、前述のように「サヴォイ・カクテルブック」が最初です。そのレシピは「ジャマイカ・ラム2分の1、レモン・ジュース8分の3、アニゼット8分の1、グレナディン・シロップ2dash(シェイク)」となっています。 ご参考までに、「サヴォイ…」以降、1930~50年代の欧米の主なカクテルブックで「シャンハイ」がどのように紹介されているのか、ざっと見ておきましょう。・「The Artstry of Mixing Drinks」(Frank Meier著、1934年刊)仏 ラム2分の1グラス、レモン・ジュース4分の1個分、ペルノー1dash、グレナディン・シロップ1tsp(シェイク)・「World Drinks and How To Mix Them」(William Boothby著、1934年刊)米 ジャマイカ・ラム2分の1ジガー、レモン・ジュース2分の1ジガー、アニゼット1tsp、グレナディン・シロップ2dash(シェイク)・「Trader Vic's Bartender's Guide」(Victor Begeron著、1947年刊)米 ジャマイカ・ラム1オンス、レモン・ジュース4分の1個分、アニゼット1tsp、グレナディン・シロップ2分の1tsp(シェイク)・「The Official Mixer's Manual」(Patrick Gavin Duffy著、1948年刊)米 ジャマイカ・ラム1ジガー、レモン・ジュース3分の2オンス、アニゼット3分の1オンス、グレナディン・シロップ2dash(ステア)・「Esquire Drink Book」(Frederic Birmingham著、1956年刊)米 ジャマイカ・ラム1ジガー、レモン・ジュース3分の2オンス、アニゼット3分の1オンス、グレナディン・シロップ2dash(ステア) 「シャンハイ・カクテル」は、日本でも比較的早く1920年代後半には伝わり、1930年代のカクテルブックですでに登場しています。個人的には、今も通用する個性的な味わいのカクテルだと思っていますが、現代の日本のバーでは、飲まれているのをあまり見たことがないのが少し残念です。 【確認できる日本初出資料】「スタンダード・カクテルブック」(村井洋著、NBA編 1936年刊)。 著者の村井氏は「ジャマイカ・ラム2分の1、レモン・ジュース8分の3、アニゼット8分の1、グレナディン・シロップ2dash(シェイク)」というサヴォイ・レシピとともに、石川欣一というロンドン特派員をしていた新聞記者が1927年の帰国時に、「ロンドンで大流行していたシャンハイ・カクテルとして、ジャマイカ・ラム3分の2、レモン・ジュース4分の1個分、グレナディン・シロップ茶さじ2(シェイク)というレシピを銀座界隈の酒場に教え、その後広まった」と紹介しています(アニゼットは抜け落ちていますが…)。 このことからも、1920年代後半のロンドンで、シャンハイ・カクテルはかなり普及していたことは間違いありません。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2018/04/07
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9.ビーズ・ニーズ(Bee's Knees) & ベボー・カクテル(Bebbo Cocktail)【現代の標準的なレシピ】 ビーズ・ニーズ=ジン(40)、ハチミツ(15)、レモン・ジュース(15) / ベボー=ジン(40)、ハチミツ(10)、レモン・ジュース(10)、オレンジ・ジュース(10) 【スタイル】いずれもシェイク 今回取り上げる2つのカクテルは、そのレシピからも分かるように“姉妹カクテル”ですが、日本ではほとんど馴染みのないクラシック・カクテルです。しかし、欧米のバー・シーンでは最近、クラシック・カクテルのリバイバル・ブームの中でしばしば取り上げられ、注目を集めているカクテルです(ロンドンのあるカクテル・バーでは人気の飲物の一つになっています)。なので、バーテンダーの方は、名前くらいはぜひお見知りおきください。 いずれも禁酒法時代(1920~1933)の米国内で考案されたと伝えられています。ハチミツがほのかに香る、優しい味わいです。ビーズ・ニーズが先に誕生し、ベボーはそのバリエーションとしてその後考案されたという説が有力です。 禁酒法時代には、ハチミツや様々なジュース類を混ぜるカクテルが他にも数多く存在しますが、闇で流通していた粗悪な密造ジン(風呂桶に水を張って手製の蒸留器を沈めて蒸留されたため、「バスタブ・ジン(Bathtub Gin)」と呼ばれた)の味をごまかすためと、ジュースのように見せかけて取り締まり当局の目をごまかそうという2つの目的があったと言われています(出典:欧米の複数の専門サイト)。 「ビーズ・ニーズ」は直訳すれば「蜂のヒザ」という意味不明の言葉ですが、禁酒法時代に生まれたスラング(俗語)で「最高のもの、うってつけのもの」という意味です(英米の辞書では、発音がよく似た「Business」が語源であるらしいとの解説もありました)。一方、「ベボー」という風変わりな名前については「語源や由来は不明」としている文献やサイトがほとんどです。「インドのある地方言語で『カエル(Frog)』を意味する」と紹介する欧米の専門サイト(出典:ourlibatiousnature.comほか)もありましたが、仮にそうであったとしても、なぜこのカクテルの名前に選んだのかはまったく分かりません。 禁酒法時代の米国では、当然ですがアルコール入りのカクテルの本をおおっぴらに出版することは出来ませんでした。欧米のカクテルブックで「ビーズ・ニーズ」が初めて紹介されたのは、ともに1934年に出版された「The Artistry of Mixing Drinks:Ritz Bar, Paris」(フランク・マイヤー著)と、「World Drinks and How To Mix Them」(ウイリアム・ブースビー著)です。前者はフランス、後者は米国での出版です。そのメニューは以下の通りです。 ・「The Artistry…」=ジンGlass半杯、レモン・ジュース4分の1個分、ハチミツ1tsp(シェイク) ・「World Drinks…」=ジン2分の1ジガー、レモン・ジュース、オレンジ・ジュース、ハチミツ各1tsp(シェイク)※オレンジ・ジュースが入るレシピからしてもほぼ「ベボー・カクテル」ですが、「ビーズ・ニーズ」の名で収録されています。 その後、40~50年代に入ると、そのレシピは少しずつ変化していきます。以下、米国内で出版された3冊から少し紹介しておきましょう。 ・「The Fine Art of Mixing Drink」(デヴィッド・エンバリー著、1948年刊) ジン、レモン・ジュース、ハチミツが各25mlずつ(シェイク) ・「The Bartender's Guide」(パトリック・G・ダフィー著、1948年刊) ジン1ジガー、レモン・ジュース4分の1個分、ハチミツ1tsp(シェイク) ・「Esquire Drink Book」(フレデリック・バーミンガム編、1956年刊) ジン11分の8、レモンジュース11分の2、ハチミツ11分の1(シェイク) 一方、「ベボー(Bebbo Cocktail)」については、禁酒法時代に誕生したと紹介している専門サイトは多いのですが、意外なことに、カクテルブックでの収録例はほとんどありません(前述の1934年刊「World Drinks…」の「Bee's Knees」のレシピがそうだと言えなくもありませんが…)。 現時点で確認している限りでは、「Bebbo Cocktail」の名で収録しているのは、不思議なことに、近年出版された「Vintage Sprilits And Forgotten Cocktails:100 Rediscovered Recipes and The Stories Behind Them」(Quarry Books編、2009年刊)くらいしかありません(このあたりの理由は今後の研究課題です)。【確認できる日本初出資料】ビーズ・ニーズ=壽屋カクテルブック(1955年刊)。レシピは、ジン2分の1、レモンジュース2分の1個分、はちみつ1tsp(シェイク)。ベボーは現時点では掲載例は見当たりません。・こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2016/11/23
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3月に入ったというのに、まだ肌寒い日が続く。そのせいか会社でも、風邪がなかなか治らない人、新たに風邪をひく人などいろいろ。 「診療所へ行ったら、インフルエンザのA香港型だと言われたよー」と自慢げに言う上司には、心の中で、「頼むから、僕に近寄らないでくれー」と叫んでいた。幸い、感染(うつ)されることはなかったが…。 近代医学が進歩しても、いまだに風邪の特効薬というのはない。ひたすら対症療法の薬と抗生物質で持ちこたえて、安静にして栄養を摂って、ウイルスの抗体ができるのを待つしかない。 今シーズンの冬(昨年11月~)、僕は奇跡的に、今のところ風邪を一度もひいていない。いつものシーズンだと、一度は風邪にかかるが、今年ひかないのがなぜかは自分でもよく分からない。 さて、風邪をひいた時、古来、日本では「玉子酒」という伝統的な飲み物がある。カクテルで言えば、風邪にひきはじめにいい飲み物は何だろうか。玉子は入らないけれど、僕は、やはり「ホット・バタード・ラム」(写真左)かなと思う。 ホット・バタード・ラムと言えば、一般的なレシピは、ダーク・ラム(またはゴールド・ラム)に、バター、角砂糖、そして熱いお湯を注ぐ。BARによっては、クローブを浮かべてくれたり、シナモン・スティックを添えてくれたりする。 比較的よく知られたホット・カクテルだから、BARで飲んだことがある人もきっといるだろう。ちなみに、お湯の代わりに、ホットミルクにすると、「ホット・バタード・ラム・カウ」というカクテルになる。 さて、僕が家で飲む時は、ある親しいバーテンダーから教えられたレシピで作る。バターはあらかじめ、三温糖とクローブ&シナモン・パウダー、ナツメグのすり下ろしとしっかり混ぜ合わせて、冷蔵庫(チルドルーム)に入れておく(写真右=自家製スパイス入りバターは小瓶に入れて保存)。 ダークラム(45ml)をホット用グラスに注ぎ、熱湯適量、クローブと自家製バターを浮かべる。マドラー代わりにシナモン・スティックはぜひもの。ラムとバター、そして3種のスパイスの香りが複雑に絡み合って、何とも言えない素敵な味わいになる。 もちろん、味わいが素晴らしいだけでなく、風邪気味の時などは、このホット・バタード・ラムを飲めば、翌朝にはケロっと治っていること間違いなし。人気ブログランキングへGO!→【人気ブログランキング】
2006/03/06
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久しぶりにミステリー小説の話題。またまた、「今さら何」と言われてしまうかも知れないが、雫井脩介(しずくい・しゅうすけ)という、いま結構人気ある作家の作品を、たて続けに2冊も読んでしまった。「火の粉」(写真左下)と、「虚貌」(写真右下)という2つ。 作品のあらすじを詳しく書くのはマナー違反だから、かいつまんで言うと、前者の「火の粉」は、殺人事件の被告に対して、確信を持って無罪判決を言い渡した元裁判官に、文字通り、予期せぬ「火の粉」が次々と降りかかってくるというストーリー。話の展開のテンポがいいので、一気に読んでしまった。家族間の人間関係の描写もなかなか秀逸だ。 ちょっとホラーっぽい怖さもあるけれど、最近では、イチ押しできるミステリー小説だ。と書いてみた後、いろいろネットで調べていたら、今年の2月にテレビドラマ化されたという話を知った。見たかったなぁ…。そんな話は知らなかったから、とても残念。再放送してくれないかなぁー。 後者の「虚貌」は、運送会社の経営者の一家が殺傷され、主犯格と見なされていた男が20年後に仮出所したところから、不可解な事件が次々と起こるというストーリー。文庫本では上下2巻の大作だが、次がどうなるのか、予想もつかない展開の内容。 ただ、トリックはそれなりに面白いけれど、本筋とあまり関係ないような話をあれこれと詰め込み過ぎて、後半はちょっとアラも目立ち、少しだれてしまうところが難点かな…(でも、そうは言ってもこの作品も、読み始めたらやめられないことは、まぁ間違いない)。 雫井脩介ってどんな人かと興味を持たれた方のために、少し経歴に触れておくと、1968年、愛知県生まれ。専修大文学部を卒業後、柔道・オリンピック代表チームのドーピング疑惑をモチーフにした作品「栄光一途」(2000年)でデビュー。この作品で、新潮ミステリー倶楽部賞を受ける。その後「火の粉」「虚貌」のほか、「犯人に告ぐ」「白銀を踏み荒らせ」など話題作を次々と発表している。 大学を卒業してから、デビューするまで10年ほどの歳月があるが、その間、どんな経歴だったのかは、僕はよく知らない。家にある本にも、この日記に書いた以上のデータは出ていなかったので、本人もあまり明かしていないのかもしれない。 僕の大好きな高村薫や横山秀夫もそうだけれど、デビュー前の経歴というか、人生経験は、作品にいやでも反映されることは言うまでもない。できれば、雫井氏のプロフィールももう少し詳しく知りたいなぁ、と思う(どなたかご存じの方いらしゃいますかー?)。 雫井作品をほとんど読んでいるという連れ合いは、「犯人に告ぐ」が一番面白かったと言う。僕はまだ読んでいないので、「これからの楽しみ」が残っている。できれば、映画化してくれれば、もっと嬉しいのだけれど…。 ※本の画像はAmazon HPから引用・転載しました。感謝いたします。
2005/06/17
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以前、この日記でも一度とりあげたあるBARの話を書きます。少し長くなりそうですが、ご容赦を(【おことわり】この日記で使用した写真と日記の内容は関係ありません)。 その店の名前をストレートに出すのは「武士の情」であえて控えますが、とある有名BAR出身のバーテンダーが独立した店のことです。ことしの春、相当の覚悟を持ってそのBARに行きました。以前から思っていたことをマスターに伝えるために…。 数年前に開業したそのBARでは、飲み代(酒代)とは別にいわゆる「チャージ」という料金を500円~700円くらいとります。チャージ自体は、日本では他のBARでもとる店がほとんどなので珍しくはないのですが、この店ではチャージとは別に、10%のサービス料がかかったり、かからなかったりします。チャージやサービス料がいくらかはその時によって微妙に違うので、どれが本当か、私にもよくわかりません。 「今宵も、BARへ--『私的』入門講座20章」でも書いたように、私は個人的には、全世界を見ても日本だけの独自のシステムである「チャージ」という曖昧な料金制度・システム(請求)には批判的で、「チャージ」については「不要論者」です。(チャージについての詳しい論考は、2006年12月2日の日記をご参照)。 客商売の世界なら、「チャージ」という曖昧な名前ではなく、本当にサービスに自信があるなら、堂々と「サービス料」と銘打って取るのが筋だと思っています。まぁそれはさておき、「チャージ」(という名の「サービス料」)を取ること自体は、その店の経営方針なので、私がとやかく言うことではありません。日本では「チャージ」をとる店が多数派なので、「チャージ徴収」を理由にBAR巡りをやめたら、BARでは飲めません。 店側は、「チャージ」をとるからにはそのチャージ料金に見合ったサービスを客に提供するのは当然のことですし、実際、「チャージ」に見合う価値のある店なら、私は「サービス料」だと思って、気持ちよく支払っています(チャージを取りながら、別に10~20%のサービス料をとる店もありますが、これは別の次元の議論なので、詳しくは上記の「06年12月2日の日記」をお読みください)。 さて、この日記の本題ですが、私の以前からの疑問は、今回の日記でとりあげたそのBARが、「チャージをとるのに、おつまみ(付き出し、チャーム)の一品すら、まったく出さない」ということでした。「チャージに見合ったサービスとは何か」は人によって見解は分かれるでしょうが、チャージをとる場合は何か一品を添えるのは、オーセンティックBARでは「最低限の客への礼儀(義務)」だと僕は考えています(私以外のBAR愛好家でも、この点に異論のある人はほとんどいないでしょうし、実際、日本国内のオーセンティックBARの99.9%では何か一品が添えられているはずです)。 このBARのマスターの師匠の店ではちゃんと「おつまみ)」が付いてきます(チャージ500円です)。彼も独立後はしばらく「おつまみ」を出していたのですが、間もなくして「チャージを取りながら、おつまみは一切なし」というスタイルに変えました。そこで、スタイルを変えた理由をマスターに尋ねたいと思ったのです。私「チャージやサービス料をとるなら、何か一品を出すべきじゃないの?」 マスター「ちゃんとした付き出しを作れるスタッフもいないんで…」(3月からはサブのスタッフが増えたので、説得力ある理由ではありません) 私「凝ったものでなくていいんだよ。かわきもの程度で十分だよ。貴方の師匠の店ではちゃんと出していたじゃないか」 マ「中途半端なものなら、出さない方がいいかと…」 私「それなら、ノーチャージ(&ノーサービス料)にすべきじゃないか。じゃぁ、貴方の店のチャージって、何に対する対価なの? ※※※(盛り場の名称)で貴方の店のように、チャージをとりながら、何も出さないというBARがあったら、教えてくれる? 私も※※※で結構いろんなBARへ行ってるけど、そんな店は見たことも、聞いたことないよ」マ「………」 私「私の友人も同じことを言っていたけど、貴方の店は、本当に酒を愛する人を、BARを愛する人を大事にしようとしているのか、それとも(彼の店に多い)金払いだけはよくて文句は言わない同伴客の方を大事にしたいのか、よく見えないよ」 マ「う~ん、僕は…どっちのお客さんも大事に思ってますが…」 私「そう思うなら、酒呑みに対する本当のサービスは何か、チャージとは何かを、もう一度考えた方がいいよ。ここまで言うからには、私も相当覚悟を決めて言ってることを分かってほしいなぁ…」 マ「はい、おつまみの件は、もう少し…考えてみたいと思いますので…」 残念ながら、マスターの口からは説得力のある理由は聞けませんでした。繰り返しになりますが、私は、銀座や北新地のチャージの高い店(たとえサービス料がさらに少し付いても)に行っても、払う値打ちのある、それに見合うお酒やサービスを提供してくれる店なら、いつも納得して払っています。しかし彼の店のような、意味不明の料金を請求する行為は、金額の多い少ないに関係なく、世間の「基準」では「ぼったくり」の範疇に入るでしょう。 彼がもし、「確かにうちはチャージをもらって何も出さない。しかし、このチャージは店の空間使用料や僕の接客料などトータルとしてのサービス料だ」とでも説明する自信があるなら、私にも聞く耳はあるのですが、現時点では、彼は口をつぐんだまま、意味不明なチャージをただとり続けているだけです。 当然、私の中での「Good Bar」の「基準」(条件)には、彼のような店は含まれないので、上記のようなやりとりがあった後は、行く気もなえて、一度も覗いていません。しかし先日、あるBARのマスターが自分の店の営業時間終了後に、その彼の店へ行ったら、「結構はやっていたよ」「おつまみはやはり出なかったなぁ…」と言ってました。 彼の店には、以前から同伴出勤のおっさんや「アフター」のおねえさんらが目立ったので、相変わらず、金の使い方を知らない客が多いということもあるのでしょう。結構なチャージやサービス料をとりながら、一品すら出さないのは、私の知る限り全国でも、最近では彼のBARくらいです(もちろんノー・チャージの店なら、何も出ないということはあります)。 マスターは、おつまみを出す件については、「そのうち考えてみます」と言っていましたが、その後実行に移していないところをみると、本気度は疑問です(さすがにおしぼりは出てきますが、おしぼりくらいはチャージ150円の北サンボアでも出てきます)。 何もとくに変えなくても店が繁盛するならば、彼はおそらく、そのおかしなやり方(営業方針)は変えないでしょう。彼のBARは、客が経営者(マスター)を甘やかして、おかしくしてしまう、典型的な例なのかもしれません。 ここまで言うのは、私が、彼が師匠の店に勤め始めた初々しい頃からよく知っているからで、彼のBARが、どんな客(バー愛好家)からも文句を言われないような、「まっとうなオーセンティックBAR」になることを、そして、彼自身がより素晴らしいバーテンダーになってくれることを心から願っているからなのです。「儲かればいい」のスタンスでは、いずれ客に見放されるでしょう。 彼が今後どうするのか、しばらくは見守るしかありません。彼が「目覚める日」は果たして来るのでしょうか。彼がポリシーを改めて、おつまみを出すようなればまた飲みにいくでしょうし、ポリシーを変えないのであれば、永遠に「別れる」しかありません(「決別宣言」をした後、ここ半年ほどは知らないので、最近は何か一品を出すようにはなったのでしょうか。もし反省して方針を改めたのなら、またお邪魔してもいいかなと考えていますが…。情報をお持ちの方は教えてくださいませ)。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2009/11/29
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モルト・ウイスキーを飲み始めた頃、アイラ系、シェリー系以外で一番飲むことの多かったのは、「プルトニー」(Pulteney、「オールド・プルトニー」とも言う)という銘柄(写真左上=プルトニー・オフィシャルボトルの12年もの)。 スコットランド本土では最北の、北海に面したウィックという港町にある蒸留所。ウィックはニシン漁で栄えた町だが、あの「宝島」を書いた作家、スチーブンソンの故郷としても有名だ。プルトニーという名前は、漁業の町としての発展に尽くした国会議員の名前にちなむという。 プルトニーの特徴は、スパイシーな潮の香りとともに、「オイリー」ともしばしば表現される、バターのような不思議な味わい。舌ざわりも、実際ねっとりとしている。それに加えて、ナッツやハチミツのような香りも感じられる複雑さが魅力だ。 複雑な味と香りの理由は、海岸のそばという地理的な条件、ひょうたん型の蒸留釜、ヤーロー湖という湖水から引いている仕込み水など、さまざまな理由があるようだが、ブレンダーではない僕には、ほとんど謎の領域である(写真右=プルトニー18年もののシェリー・カスク。昨今のシェリーカスクばやりの流行を追うことには賛否両論があるけれど…) 蒸留所が出来たのは、1826年。当初は、ブレンディド・ウイスキーの「バランタイン」や「インバーハウス」のキー・モルト用にのみ生産されていたが、オーナーが変わった1995年になってからは、モルト・ウイスキーとしても発売されるようになった。 プルトニーは、その味だけでなくボトルの形も、蒸留釜(ポットスチル)のような独特の丸み、ふくらみを帯びていてユニークだ。こんな形をしているスコッチ・モルトは、おそらくプルトニーだけだろう(写真左下=プルトニーの26年もの。飲んだことないけど、きっとまろやかで、旨いだろうなぁ…)。 ひと頃は、BARでモルトを何杯か頼むときは、必ずと言っていいほどこのプルトニーをまぜていた時期があった。あるとき、バーテンダーさんから、「百幾つも蒸留所があるのに、同じ銘柄ばかり飲まず、もっといろんなモルトを味わってみてくださいよ。人生、一度だけなんだから」とたしなめられた。 確かに、それもそうだ。一度だけしかない人生なのに、自分から「出合いのチャンス」を放棄してしまうのは、なんともったいないことだろうか。僕は、これからもプルトニーをきっと飲み続けるだろうが、それ以外のいろんなモルトも、きちんと味わってあげよう。どんなモルトだって、職人の愛情と汗が一杯こもっているのだから…。
2005/07/23
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以前の日記でも一度触れましたが、かつて大阪・ミナミで知る人ぞ知る名バーだった「MORITA BAR」が、このたび5年ぶりに天満(てんま)で復活いたしました! で、うらんかんろも早速お祝いを兼ねて、友人と一緒にお邪魔してまいりました。 オープン4日目でしたが、すでに地元の方にも愛されているようで、僕がいる間もお客さんが相次ぎ、船出は順調のようでした。 盛田マスターは「(バーテンダーの仕事は)5年ぶりなんで勘が鈍っていて…」と謙遜しておられましたが、所作は体がしっかり覚えているようでした。 今回は、おしゃべり上手で気さくな奥様もカウンターの中に立たれます。そして、「モリタ・ベジタバーファーム」での5年間の就農経験を生かした、手作りの美味しいフードも味わえます(僕らは盛田野菜いっぱいのオリジナル・ピザを頂きました!)。 アット・ホームな雰囲気にあふれた「新生MORITA BAR」、期待が膨らみます。皆さまもお近くに来られたら、ぜひどうぞ!【MORITA BAR】大阪市北区同心2丁目15-14 内海マンション101 電話06-6353-2727 月~土午後5時~午前1時、日祝は午前零時まで 第3月定休(JR環状線天満駅から徒歩5分、地下鉄堺筋線・扇町駅から徒歩7分)こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2013/04/04
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【皆さま、大阪府においては、本日5月16日以降、短縮営業要請が緩和され、オーセンティック・バーや居酒屋を含む飲食店は、午後10時まで営業できることになりました。私たちの営業許可・営業実態をより正しく知ってもらうことを願って、再度の投稿ですが、何卒ご容赦を!】 バーUKのようなオーセンティック・バーは、風俗営業のバーやパブ、キャバクラなどと一緒くたにされて、国からも大阪府からも、「バーは営業を自粛してください」と言われています。 しかし、「バー営業」という営業許可種目はありません。私たちがもらっているのは基本、食品衛生法に基づく、以下のような営業許可と届け出に基づく認可です。(1)飲食店営業許可(午前0時までの営業する場合、管轄は営業エリアの自治体=保健所)(2)飲食店営業許可+深夜酒類提供飲食店営業の届け出(午前0時以降も営業する場合、管轄は営業エリアの警察署) バーUKは、通常は午後10時半~11時の閉店なので、(1)の「飲食店営業許可」だけで営業させて頂いています(現在は通常営業を自粛中ですが…)。 そして、風営法に基づく「接待」や「遊興」という行為が発生するスナックやラウンジ、クラブ、キャバクラのような営業形態の店の場合は、「飲食店営業許可」に加えて、「風俗営業許可」というものを別途取る必要があります(管轄は営業エリアの警察署)。 ただし、「風俗営業許可と「深夜酒類提供飲食店営業」の許可を同時に取ることはできず、基本、午前0時以降の営業はできません。すなわち、もし午前0時を過ぎても「接待」行為をしているスナックなどがあれば、それは違法営業ということになります。 *********************** オーセンティック・バーのマスターである私は当然、お客様に対して「接客」はしますが、各都道府県らがしばしば口にするような「(隣に座っての)接待」はしませんし、店内では「遊興」行為も発生しません。 ちなみに風営法の解釈運用基準(警察庁策定)では、「接待」「遊興」という行為を以下のように具体的に例示(規定)しています。 「接待」=異性・同性に関係なくオーナーや従業員が客の近くで談笑の相手をしたり、お酌をしたり、カラオケをデュエットしたりするような行為 「遊興」=不特定多数の客に歌、ダンス、ショー、演芸、映画その他の興行を見せたり、カラオケを歌うことを奨励したり、ゲーム・競技等を行わせたりする行為 従って、スナックやラウンジ、キャバクラ、ショー・パブ、キャバレー、ナイトクラブなどでは「接待」「遊興」行為が発生するので、当然、風営法に基づく「風営営業許可」を、スポーツ・バー、マジック・バー、クラブ、ディスコ、ライブハウス、ジャズ・バー(常時生演奏あり)などは(風営法に基づく)「特定遊興飲食店営業許可」を取る必要があります。 以上のように、オーセンティック・バーでは、かりに従業員がいても「接待」や「遊興」行為はあり得ないので、「風俗営業許可」などを取る必要はありません *********************** 先日、私の仲の良いオーセンティック・バーのマスターが「国や自治体が休業要請するバーとは、いったいどういう営業形態の店を想定しているのだろう?」と疑問に思って、大阪府の担当部局に問い合わせました。そのマスターのバーの営業時間は午後5時~0時です(現在は、午後4時~8時に絞って短縮営業されていますが…)。 すると、以下のような回答が来たそうです。「国や各都道府県が現在休業要請しているバーとは、基本、(上記の(2)のような)飲食店営業許可と深夜酒類提供飲食店営業の届け出で午前零時以降も営む店や、風俗営業許可と深夜酒類提供飲食店営業の届け出だけで早朝まで営業しているような店を想定しています。貴店のように、飲食店営業許可だけで営業している形態のバーであれば、いわゆる飲食店、居酒屋と同等に考えて頂いて構いません」。 すなわち、(飲食店の短縮営業時間として指定されている)午前5時~午後8時の間は堂々と営業できるそうですが、いったん国や都道府県の偉い方々から、公式会見で「バー」という言葉でひとくくりにされてしまうと、言葉は独り歩きしてしまいます。「なぜ、あのバーは休業要請に逆らって営業しているのか」と誤解され、非難されてしまいます。 *********************** さて、私がこの投稿の結びとして言いたいのは、以下のようなことです。 大阪府の担当部局の見解によれば、「(オーセンティック・バーは)休業までしなくとも、少なくとも午後8時までは営業し、午後7時まではお酒を提供しても構わない」とのことです。しかし現在、日本じゅうで、「飲食店営業許可」だけのオーセンティック・バーであっても、ほとんどの店が自主的に休業したり、通常営業を自粛したりしています(お酒を提供できるのが午後7時までなら、人件費や光熱費を考えると躊躇するのは当然だと思います)。 結果として、「飲食店営業許可」を持ち、「深夜酒類提供飲食店営業」の届け出もしているオーセンティック・バーでも、午後8時までの営業なら出来るにも関わらず、断念している店がほとんどです。 でも、実のところは、ほとんどのバー・オーナーの皆さんは「収入がほとんどゼロになって本当に苦しいけれど、一日でも早くコロナウイルス感染を終息させるために、そしてコロナから多くの人の命を守るために、私たちが休業・営業自粛することで国民の外出自粛に協力できたら…」という思いから、営業を自粛しているんだと思っています。私もまったく同じ気持ちです。 もちろん一方では、時にはテイクアウトなども取り入れながら、午後8時まで営業しているバーもあります。どの店も悩みぬいた末の苦渋の判断だと思います。街には人の姿はまばらですが、それでも、短時間でも癒しの場・空間を提供してくれています。どうかそういう店を責めないで、温かい気持ちで見守ってあげてほしいというのが私の切なる願いです。 ***********************【追記】5月14日の首相会見、大阪府知事会見などで飲食店などに対する自粛要請が一部緩和されました。しかし、それでも会見では相変わらず、「飲食店営業許可」で営むオーセンティック・バーと、「風俗営業許可」で営むバーなどを一緒くたにする形での発表だったのが、とても悔しく、情けないです。 言わずもがなですが、私たちのような、いわゆるオーセンティック・バーでの通常の「接客」は、風営法に言う「接待」行為ではありません(そもそもオーセンティック・バーではお酌したり、隣席で寄り添ったり、デュエットしたりなどの「接待」行為はしません(笑))。 くどいようですが、今回のコロナ禍で行政側が休業要請をしたのは、「風俗営業許可」で営み、このような「接待」や「遊興」行為を伴う風俗営業許可のバーや、風俗営業許可&深夜営業届出の店(スナックやラウンジ、クラブ、キャバクラなど)です。オーセンティック・バーは基本、「風俗営業許可」は必要なく、ほとんどが「飲食店営業許可」(+午前0時以降営業する場合は「深夜営業届出」も)だけで営んでいるかと思います。 なので、そもそも今回のコロナ禍・緊急事態宣言下での自粛要請(4月6日)でも、オーセンティック・バーは「普通の飲食店と同等の扱い」で、休業要請ではなく、短縮営業要請だったのです(このことを知らないバーのマスターが私の周りにも結構いたのは意外で、残念な気持ちさえ起こりました。誤解したまま完全休業しているマスターもいました)。 首相や知事たちが昨日の会見で、「バーは引き続き自粛要請の対象とする」と言っているのは、当然、風俗営業許可と深夜営業届出で営み、「接待」行為が発生するバーやスナック、ラウンジ、クラブ、キャバクラなどを念頭に置いて喋っているのですが、「(接待行為はしない)普通のオーセンティック・バーは対象外です」ときちんと説明してくれないのが、実に腹立たしいです。会見では相変わらず、普通の「接客」と風営法で規定された「接待」行為が一緒くたにされていました。「接待を伴うバー」と言うべきなのに、「接客を伴うバー」と言うテレビ局が多いのも情けないです。 私は、バー業界団体のトップが、行政側に「風俗営業許可のバーと一緒くたにしないでくれ」「接客と接待を混同しないでくれ」ときちんと言わないことも、全国に誤解が広まったままである大きな原因だと思います。トップが行動して、全国のオーセンティック・バーの声を代弁してくれることを願っています。業界団体が、「いまだにバーテンダーときちんと呼ばれず、バーテンと呼ばれること」に怒り、バーの社会的地位向上を願うなら、こういうことからきちんと声を上げていくことが大事ではないでしょうか。【補足】なお、北海道(札幌市を含む石狩振興局)だけは、4月6日の緊急事態宣言後、現在でもなお、「飲食店営業許可」で営むオーセンティック・バーに対しても休業を要請しています(5月31日まで)。休業要請基準・条件にある程度の地域差が出るのは仕方ありませんが、「風俗営業許可」のバーと同列に扱うのは不愉快で、理解に苦しむところです。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2020/05/16
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61.ミスター・マンハッタン(Mr. Manhattan)【現代の標準的なレシピ】 (容量の単位はml)ジン(50)、オレンジ・ジュース(10)、レモン・ジュース(10)、シュガー・シロップ1tsp、生ミントの葉(5~6枚)=一緒にシェイクする 【スタイル】シェイク 「ミスター・マンハッタン」という名前から、有名なカクテル「マンハッタン」と何か関係があるのかと思う方も多いかもしれませんが、何の関係もありません。しかし、1920年代後半に誕生したクラシック・カクテルの一つで、あの有名な『サヴォイ・カクテルブック(The Savoy Cocktail Book)』にも収録されています。 レシピはシンプル。味わいは、柑橘系(オレンジ&レモン)ジュースと生ミントのコラボが絶妙なカクテルです。甘さと酸味のバランスも抜群で、実に爽やかな後味です。しかし残念ながら、日本での知名度はそう高くなく、バーの現場で注文されることも少ないためか、あまり知られていません。かなりベテランのバーテンダーの方でも、その存在やレシピを知らないという人に時々出会います。 欧米のカクテルブックで初めて登場するのは、現時点で確認できた限りでは、前述した『サヴォイ・カクテルブック』(1930年刊、ハリー・クラドック<Harry Craddock 1876~1963>著)です。「ミスター・マンハッタン」誕生の経緯や名前の由来については、これまでまったく謎でした。クラドック自身も同著では一切何も触れていませんでした。 しかし、2013年に出版された『The DEANS Of DRINK』(Anistatia Miller & Jared Brown共著 ※ハリー・ジョンソン、ハリー・クラドックというカクテル界の2人の巨人の伝記)が貴重な手掛かり(根拠資料)を示してくれました。 同著によれば、このカクテルの考案者は間違いなく、著者のクラドック自身であり、クラドックが働いていたロンドンのサヴォイホテル「アメリカン・バー」の顧客でもあった米国人のコラムニスト、カール・キッチン(Karl Kitchen 1885~1935)のために考案したことを裏付けるエピソードや、「ミスター・マンハッタン」とは、ニューヨーク・マンハッタンで長くバーテンダーとして脚光を浴びてきたクラドックに、キッチンが付けた「あだ名」であったことも紹介されています。 キッチンは米国の新聞での連載コラムにこう綴っています。「昨日、(アメリカン・バーで)ハリーに私のためのオリジナルカクテルをつくってほしいと頼んだ。そしてきょう、彼は3種類の『ミスター・マンハッタン』をつくってきて、どれが一番美味しいと思ったかを教えてほしいと私に言った。しかし、どれも素晴らしすぎて(私は選べなかった)。米国でも簡単に手に入る材料でつくられているのがとてもいい。新しもの好きな米国の人たちにも、このレシピをぜひ教えてあげたい」。 キッチンがコラムで紹介した「ミスター・マンハッタン」が、米国の”もぐり酒場”(米国は禁酒法時代の最中)でどの程度広まったのかは分かりませんが、ジンさえ手に入れば、後は一般家庭でも簡単につくれるレシピなので(禁酒法時代でも家庭内の飲酒は合法だった)、案外隠れた人気を得ていたのかもしれません。 ちなみに、クラドックがつくった3種類の「ミスター・マンハッタン」とは、冒頭に紹介したジン・ベースのNo.1のほか、No.2「密造(Hooch)ウイスキー3分の2、スイート・ベルモット3分の1、ラズベリー・シロップまたはグレナディン・シロップ、角砂糖」、No.3「スコッチ・ウイスキー4分の3、グレープ・ジュース4分の1、グレナディン・シロップ4dash」というものでしたが、自著のカクテルブックには結局、No.1のジン・ベースのものを収録しました。 残念ながら、クラドックがこの「ミスター・マンハッタン」を考案した時期は正確には分かりませんが、おそらくは、クラドックがアメリカン・バーのチーフ・バーテンダーに昇格した1925年以降で、1927~28年頃ではないかと推察されます。 クラドックは英国人ですが、1897年に若干22歳で米国へ渡り、1920年に禁酒法が施行されるまでは、ニューヨークなど米国内の大都市でバーテンダーの仕事をしていました。しかし、禁酒法で仕事の場を奪われ、やむなく英国へ戻ります。そして翌年、ロンドン・サヴォイホテルでバーで職を得ました。カクテルブックを著すのは帰英して10年後です。 なお、クラドックのレシピは、「ジン1Glass、オレンジ・ジュース4dash、レモン・ジュース1dash、角砂糖1個、ミントの葉数枚(シェイク)」となっています(この「1Glass」の容量は不明ですが、この当時のカクテル・レシピでの表記基準を考えると、おそらく90ml前後ではなかったかと思われます)。 参考までに、1930~50年代のカクテルブックで「ミスター・マンハッタン」がどのように紹介されていたのか、ざっと見てみましょう(不思議なことに、欧米のカクテルブックでも、「ミスター・マンハッタン」を取り上げているところはあまり多くありませんでした。私が所蔵しているこの時代の文献での掲載率は約3割でした)。・「The Official Mixer's Manual」(Patrick Gavin Duffy著、1934年刊)米 ジン2jiggers(約90ml)、オレンジ・ジュース4dash、レモン・ジュース1dash、生ミントの葉4枚、角砂糖1個(シェイク)・「The Old Mr. Boston Official Bartender's Guide」(1935年初版刊=以降現在でも不定期で発刊中)米 /「Trader Vic's Bartender's Guide」(Victor Bergeron著、1947年刊)米 ジン1.5オンス(45ml)、オレンジ・ジュース1tsp、レモン・ジュース4分の1tsp、生ミント4本、角砂糖1個(シェイク)・「Esquire Drink Book」(Frederic Birmingham編、1956年刊)米 ジン2jiggers、オレンジ・ジュース4dash、レモン・ジュース1dash、生ミントの葉4枚、角砂糖1個(シェイク) 「ミスター・マンハッタン」はその後、忘れ去られたような存在になります。欧米でも1960年代以降、近年に至るまでカクテルブックに登場することは、数えるほどでした。日本でも1950年代のカクテルブックに初めて紹介されましたが、80年代末までは、生のミントはコストがかかり過ぎることもあって、国内のオーセンティック・バーではなかなか普及しませんでした。しかし、そんな状況の中、思わぬところから、このカクテルが陽の目を見ることになります。 2003年春から全日空(ANA)の機内誌「翼の王国」で連載されていたオキ・シロー氏のカクテル・ショートストーリーで、この「ミスター・マンハッタン」が取り上げられたのです(2004年1月号誌上)。そのストーリーと言えばーー。 マンハッタンのバーのカウンターで、一人寂しく飲む男。ある時、カウンターで隣に座った女性をナンパしようと、「ミスター・マンハッタン」を1杯、ご馳走する。しかし、その女性はカクテルを飲み干すと、男の誘いを無視して一人店を後にした。男の願いは潰れてしまったかに見えたが…。物語の最後に、絶妙な”オチ”が用意されています。 このストーリーとカクテルのレシピが、口コミで日本のバー業界にも広がり、オーセンティック・バーの現場でブレイクしたのです。そしてその後、海外でも、昨今のクラシック・カクテル再評価の流れに乗って、再び注目を集めるようになりました(※このショート・ストーリーは、後に「パリの酒 モンマルトル」というタイトルの単行本=2008年、扶桑社刊=に収録されています。現在絶版ですが、アマゾンでは今でも中古で購入可能なようです)。 日本でのブレークがきっかけとなったのかどうかは定かではありませんが、海外のカクテル専門サイトでは、現在、「Cocktail Mr Manhattan」で検索すると、実にたくさんのサイトにヒットします。昨今のトレンドとしては、ただ単純に昔のレシピのままつくるのではなく、現代風にアレンジ(ツイスト)することのも、ごく普通なことです。例えば(ほぼ同じレシピで)ミントジュレップ風のスタイルで提供するのも人気だとか。 日本でも90年代以降は、生ミントも使いやすい価格となり、このカクテルの良さを再認識するバーテンダーも次々に現れてきました。そして前述の「翼の王国」の記事がきっかけとなり、国内に広く知られるようになりました。今では、おそらくプロのバーテンダーなら約8割は知っているカクテルになっているのではないでしょうか。 レシピはとてもシンプルなのに、甘味と酸味と清涼さのバランスが最高な「ミスター・マンハッタン」。個人的には、もっともっと多くの方に味わって頂きたいカクテルの一つと思っています。【確認できる日本初出資料】「世界コクテール飲物辞典」(佐藤紅霞著、1954年刊)。そのレシピは(原文通り記すと)「少量の水を加えて角砂糖1個を潰し、新鮮な薄荷(はっか)の葉芽4枚をその中で潰し、レモン・ジュース1ダッシ、オレンジ・ジュース4ダッシ、ジン1を加えて振蕩し、コクテールグラスに漉し移す」です。この「薄荷」が西洋ミントなのか国産の薄荷なのかが気になるところです。・こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2017/07/21
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関西発祥のBARグループである「サンボア・グループ」については、以前もたびたび取り上げたので、皆さんもよくご存知かと思う。だが、関西にはもう一つ、「Savoy」というBARが核となったBARグループが神戸と大阪にある。 グループの原点であるBar「Savoy」はついては、かつてこの日記でも二度ほど紹介した(05年12月28日の日記 & 06年12月27日の日記)が、1967年(昭和42年)、小林省三マスター=写真右=が創業した。関西のBAR業界の先達として、カクテル文化の定着や後進の指導に大きな功績を残されたが、残念ながら店は2006年12月、多くのSavoyファンに惜しまれつつ約40年の歴史に幕を閉じた。 しかし嬉しいことに、小林マスターの右腕として、34年間Bar「Savoy」を支えてきた木村義久さんが2002年に独立され、Bar「Savoy北野坂」=写真左=を一足早くオープンされた。店は「Savoy」本店が幕を閉じてしばらくした後、店名をBar「Savoy」に戻した。今では「Savoy」グループを支える柱となっているだけでなく、神戸を代表するオーセンティックBARの1軒でもある。 新「Savoy」では、「サン・エキスポ」=写真左下=など小林さんのオリジナル・カクテルを後世に伝えるとともに、木村マスターがサントリー・カクテルコンペで優勝したオリジナル「ソルクバーノ」ももちろん味わえる(写真右=Bar・Savoyの店内)。 小林さんや木村さんは、店で弟子を育てるだけでなく、「独り立ち」を積極的に支援してきた。その結果、Savoyグループは現在、神戸にBar「Savoy」をはじめ、Bar「Puerto」(写真右下)、Bar「Savoy Hommage」(写真左下)、Bar「Savoy Nino」、Bar「SONORA」の5店、大阪にBar「Savoy Osaka」と計6店を擁するBARグループに発展している(このうち「SONORA」と「Savoy Osaka」は、独立した営業をしている)。 SavoyグループのBARは、当然ながら、店ごとに個性的で、特徴が異なる。「Puerto」はワンコインBAR(ノーチャージで、どのお酒も嬉しい1杯500円均一!)、「Hommage」はどこかの家の応接間のように落ち着いた雰囲気で、トークが抜群のMマスターの素晴らしいとカクテルが楽しめる。 「Nino」(写真左下=通りにあるこの看板が目印)はこじんまりしたBARだが、女性店長Iさんの優しい接客にいつも癒される。路地裏の突き当たりにあるというロケーションもいい。 「SONORA」(写真右下)は「Puerto」で人気者だったKマスターが独立した店。飾らない人柄と誠実な接客・サービスが嬉しい。店の内装はSavoyグループでは一番明るく、ラテン系な雰囲気。 大阪にある「Savoy Osaka」は以前この日記でもいち早く紹介(08年8月10日の日記)したが、フードが充実し、シェリーの品揃えもよく、BARとバルの中間のような使い方ができる、嬉しい店だ。Hマスターはまだ若いのに研究熱心で、工夫を凝らしたオリジナル・カクテルも魅力的だ(僕の仕事場からも近くて、お値段もリーズナブルなのも有り難い)。 いずれも店の店主、バーテンダー、バーテンドレスにも共通して言えることは、どなたも気さくで、接客が温かいということ。これはおそらく小林さん、木村さんの後進教育のたまものだろう。 唯一、個人的に残念なことは、グループの店のほとんどが神戸の三宮、元町エリアに集中していることか。できれば、今後お弟子さんが独立される際は、ぜひ大阪や京都にももっと進出してほしい。そして、ゆくゆくは東京へも出店して、「関西にSavoyあり」の存在感を見せてあげてほしいと願う(写真右=Bar・Savoy Osaka)。 なお、小林さんは「Savoy」を閉じられた後、しばらく「Puerto」などのカウンターに週数回立たれていた。最近は少し体調を崩されてるが、現在は、調子が良い時は「Hommage」のカウンターに不定期で接客されているという(個人的にも、早くもっと元気になっていただきたい)。小林さんと再会されたい方は、Hommageに電話でご確認のうえ、お越しください。 【Bar Savoy】神戸市中央区中山手通1-7-20 第3天成ビル4F 078-331-8977 【Bar Puerto】神戸市中央区元町通2-2-7 尾上ビル2F 331-8654 【Bar Savoy Hommage】神戸市中央区下山手通5-8-14 341-1208 【Bar Savoy Nino】神戸市中央区三宮町3-9-4 331-2275 【Bar SONORA】神戸市中央区下山手通2-4-13 永都ビル3F 392-6715 【Bar Savoy Osaka】大阪市西区江戸堀1-1-9 06-6445-2077(営業時間、定休日等は各店へお尋ねください) 【追記1】20100109ネットであれこれ調べていたら、「Savoy」という名前を使ったBARは全国に他にも6カ所あることを知った。このうち秋田、新潟、四日市、福岡(博多)の4つはBARで、厚木とつくばの2軒はライブBAR(ライブハウス?)だった。いずれにしても、神戸のSavoyより歴史が古いということはなかろう。同じ名前を気軽に使うのはいかがなものかと思うけれどねぇ…(もちろん「本家のSavoyもあのSavoy Hotelの名前を勝手に使っているじゃないか」と言われたら、反論は難しいのかもしれないけれど…)。 【追記2】小林省三氏は大変残念ながら2015年10月に天上に旅立たれました。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2009/12/29
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久しぶりに言葉の話題。関西以外の方は、関西弁なんて、関西へ行けばどこでも話されているし、地域でそう大きな違いはないと思っている人も多い。 確かに、いわゆるイントネーションだけで言えば、奈良出身の明石家さんまも、兵庫・尼崎出身のダウンタウンも、大阪市出身の綾戸智絵も、三重・名張育ちの平井堅(生まれは大阪だそうです)も、みんな同じ関西弁を喋っているように聞こえる。 しかし、実はそうではない。関西弁と言っても、地域ごとに微妙に、かなり違うということを知ったのは、なかでも神戸弁というのがあることを知ったのは、大学生になってからである(写真左上=神戸は港から発展した。海から見る景色は今も魅力的だ) 生まれは京都の僕だが、高校までは大阪だったので周りの友達も、大阪弁を話すエリアに住む友人がほとんどだった。たまに東京から転校生があると、クラスは、それは凄い騒ぎだった。聞いたことのない東京弁を、面白がって真似する子も多かった(写真右下=元町の旧外国人居留地には、今ではおしゃれなブランド・ショップなどが集まる。唯一今も残る洋館は、阪神大震災で全壊したが、部材を再利用してよみがえった)。 大学には、兵庫県の高校出身の同級生がたくさんいた。とくに神戸、長田、御影という有名な3つの県立高校から進学してきた人が多かった。彼らが話す関西弁は、もちろん僕には理解できたが、ところどころに、僕がそれまで聞いたことのない言い回しや単語があり、「あれ?」と思うことが時々あった。 それが「神戸弁」という、関西のある地域でしっかりと確立している方言であることを、僕は程なく知った。神戸弁のなかでも、僕が聞いて一番驚いたのは、(典型的な神戸弁でもあったのだが)例えば、動詞の語尾変化の「~とう」。 「~とう」は、標準語では「~ている」という意味。「知っとう」「書いとう」「来(き)とう」「見とう」「取っとう」などと言う。話すとき語尾を上げれば、そのまま疑問文にもなる。この「~とう」という言葉(表現)は大阪や京都では絶対に使わない。 また、標準語で「来ない」を、大阪弁では「けーへん」、京都弁では「きやへん」と言うが、神戸弁になると「こやへん」になるということも初めて知った。あと、「べっちょない」(心配ないよ、大丈夫だよ)という言葉も、(播州方面でもよく使うようだが)最初は意味が分からなかった(写真左=神戸と言えば、異人館。その代表格とも言える「風見鶏の館」) 「アホ」「バカ」に当たる言葉にも、「ダボ」という神戸弁独特の単語があるが、「ダボ」には、相手を威圧・軽蔑するというよりは、自虐的な意味もある(だから、自分に対しても使う)。あまり食べるところは少ないけれど、すぐエサに食い付いてくれる「ハゼ」のことを、「ダボハゼ」なんて言うこともあるが、これも語源は同じかもしれない。 神戸弁には、他にも面白い言い回しや言葉がたくさんある。「どないしょ(ん)?」(=どうしたの?)は、知り合い同士なら、挨拶代わりにでも使える。よく似た言葉で、「なんどいや?」(なんですか?)というのもよく使う(写真右下=開港以来、多くの外国人が住み着いた神戸。中華街=南京町=は今や神戸観光の人気スポットだ)。 「せんどぶり」(ひさしぶり)、「なしたまぁ」(おやまぁ)、「やっと」(たくさん)、「だんない」(大丈夫だよ)なども、神戸エリアでしばしば耳にする(最後の「だんない」は、地理的に近い徳島でもよく聞かれるけれど…)。 では、大阪弁と神戸弁はどの辺りが境界線なのか。阪神間の芦屋はどちらかと言えば、神戸弁。尼崎はほぼ完全に大阪弁。芦屋と尼崎の中間の西宮市辺りになると、神戸弁と大阪弁を喋る人々が混ざり合い、コミュニティを形成し、両方の言葉を聞くことができる。だから、この辺りが神戸弁と大阪弁の境界かもしれない。 神戸弁を聞きたければ、三宮か元町辺りを歩くといい(異人館の辺りは他県からの観光客も多いので、あまりおすすめはできない)。旧居留地辺りをゆっくりと散策して、これらの「神戸・お国言葉」が聞けば、きっと「あぁ、港町・神戸に来たんだなぁ…」と実感するはずである。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2005/08/30
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サヴォイ・カクテルブックと言えば、今さら改めて説明するまでもありませんが、1930年に出版され、今では世界中のバーテンダーの、おそらく8割以上は持っている「バーテンダーにとっては最初の教科書(バイブル)」のような本です。 著者のハリー・クラドック(Harry Craddock)は、1875年、英イングランド生まれ。22歳で米国に渡り、ニューヨークなどでバーテンダーとして活躍していました。しかし1920年、禁酒法施行を嫌って米国に見切りを付けて帰英。ロンドンのサヴォイ・ホテルで職を得ます。 そして1925年には同ホテルのチーフ・バーテンダーとなり、そのさらに5年後、この歴史的な名著を出版するのです。同著には約880種類のカクテルが紹介されており、スタンダード・カクテルをつくる場合、バー業界では今日でもまず、このサヴォイのレシピが「出発点」になっています。レトロな挿し絵も楽しく、ぱらぱらとページをめくっているだけでも、時々思わぬ発見があります。2002年には待望の日本語版も出版されました。 ただ、私がずっと気になっていたことがありました。それは、初の日本語版のベース(底本)となったのは初版本なのか、それとも、その後1952年や1965年、1985年に出された改訂版なのかどうかという点でした。改訂版には初版本以降に誕生したカクテルもいくつか収録されています。「底本」の時期は本に収録されているカクテルがいつの頃から存在していたのか、その時期を推定する重要な手がかりになります。もし初版がベースであれば、収録のカクテルは少なくとも1920年代には登場していたことになります。 さて、私は先般、幸い、このカクテルブックの貴重な初版本を手に入れることができました。そして、その収録内容について、日本語版の内容と詳細に比較検討してきました。その結果ですが、日本語版は、ほぼ完全に(下の【追記1】ご参照)初版本を下敷きにして翻訳・制作されていることが分かりました。 現在も世界中のバーで愛され続けているスタンダード・カクテルのほとんどは、1930年までに誕生したものです。言い換えれば、モダン・カクテルの基礎はこの1900~1920年代につくられたと言っても過言ではありません。日本語版を持っている皆さんは、1920年代のカクテルのレシピを確実に知ることができるのです。小さなことかもしれませんが、クラドックが生きた同時代のレシピが味わえる幸せに、改めて感謝したいと思います。【追記1】「ほぼ完全に」と書いた理由は、以下の通りです。サヴォイ・カクテルブックの初版には約880種類のカクテルが収録されていますが、2002年の日本語版ではなぜか、初版の「ADIDTIONAL COCTAILS」(P282~283)という2ページにある以下の9つのカクテルが抜け落ちているのです(「うっかり」忘れたのか意図的なのかは不明ですが、とても重要なカクテルが含まれているので、改訂版ではぜひ収録して頂けるよう願っています)。 <日本語版では未収録の原本(初版)収録カクテル>バカルディ・カクテル(Bacardi Cocktail)、バンブー(Bamboo)、ブラックソーン(Blackthorn)、ブックセラーズ・スペシャルプライド(Bookseller's Special Pride)、デヴォンシャー・プライド(Devonshire Pride)、ゴールデン・ドーン(Golden Dawn)、ガン・コットン(Gun Cotton)、ジャージー・ライトニング(Jersey Lightning)、ルルズ・フェイバリット(Lulu's Favorite)【追記2】ちなみに、現代でも生き残っているスタンダードのうち、このサヴォイ・カクテルブック・初版本が「初出資料(文献)」と確認されている主なものは、以下のようなカクテルです。 アヴィエーション(Aviation)、バーバラ(Barbara)、ビトウィーン・ザ・シーツ(Between the Sheets)、ブラッド&サンド(Blood & Sand)、チェリー・ブロッサム(Cherry Blossom)、シカゴ(Chicago)、ミリオン・ダラー(Million Dollar)、ミスター・マンハッタン(Mr Manhattan)、ニューヨーク(New York)、ニコラシカ(Nicolaski)、パリジャン(Parisian)、エル・プレジデンテ(El Presidente)、シャムロック(Shamrock)、シャンハイ(Shanghai)
2016/03/17
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62.ネグローニ(Negroni)【現代の標準的なレシピ】(容量の単位はml)ジン(30)、カンパリ(30)、スイート・ベルモット(30)、オレンジ・スライス(またはツイスト)、氷 【スタイル】ビルド(※今日では、一般的にビルドかステアでつくられますが、誕生当初はシェイク・スタイルで飲まれることも珍しくなかったとも伝わっています)。 「ネグローニ」というカクテル名は、イタリア・フィレンッツェのレストラン「カソーニ(Casoni)」の常連客で、1910年代からこのカクテルをアペリティフとして愛飲していたカミーロ・ネグローニ(Camillo Negroni)伯爵にちなむという説がほぼ定着しています(出典:国内外の複数の文献やWikipedia英語版、欧米のカクテル専門サイト)。しかし誕生の時期については諸説あり、決定的なものはありません。 海外の文献や専門サイトでは、「1919年、ネグローニ伯爵がロンドンへの最後の旅の記念として、カソーニのバーテンダー、フォスコ・スカルセーリ(Fosco Scarselli)に、当時、自分が好んでいたカクテル「アメリカーノ(スイート・ベルット+カンパリ+ソーダ)」に、ソーダではなく、ジンを入れてもっと強いカクテルにしてほしいと頼んだのが始まり」という逸話がよく紹介されており、カンパリ社のHPもこの説を紹介しています(出典:Wikipedia英語版ほか)。 一方、「1929年以前に、パリのバー『チャタム』のアルベルトというバーテンダーが考案したという説もネット上では見受けられますが、裏付ける資料は明示されていません(出典:PBOのHPなど)。 なお、1929年にパリで刊行されたカクテルブックには、ネグローニとほぼ同じレシピのカクテルが「カンパリネット(Camparinete)」(「カンペリネーテ」という和名表記も)という名前で紹介(出典:欧米の専門サイト)されていて、1920年代のパリですでに同レシピのカクテルが飲まれていたことがわかります。 すなわち、1920年代後半の時点では、ネグローニに近いレシピのカクテルは存在していたけれども、まだ「ネグローニ」という名では定着しなかったことが想像されます。 ちなみに、ネグローニ伯爵の子孫は第二次大戦後、「ネグローニ・ディスティラリー」をイタリアのトレヴィーノに設立。カソーニで好評だったこのカクテルを「Antico Negroni 1919」の名で生産・販売するようになりました(出典:Wikipedia英語版。原資料は、1947年当時のローマの新聞記事。筆者の記者はあのオーソン・ウェルズだとのこと)。ネグローニの詳しいレシピは1962年、「カソーニ」のスカルセーリ自身によって公表され、60年代以降、米国内にも広まっていきました。 カクテル名の定着に時間がかかったためなのか、「ネグローニ」が欧米のカクテルブックに登場するのは誕生からかなり経ってからです。現時点で確認できた限りでは意外に遅く、「Old Mr.Boston Official Bartender's Guide」の1965年版が初出です。 レシピは、「ドライジン、カンパリ・ビターズ、スイート(またはドライ)・ベルモット、ソーダ 各4分の3オンス(ビルド)」となっており、現代の標準レシピとは、「ベルモットはスイートでもドライでも構わない」「ソーダを加える」という点が大きく違っています。従って、誕生当初は、ベルモットは必ずしもスイートでなければダメというルールはなかったのかもしれません。 参考までに、1960~90年代のカクテルブックで、ネグローニのレシピを少し見てみましょう。・「Booth's Handbook of Cocktails & Mixed Drinks」(John Doxat著、1966年刊)英 ジン2オンス、カンパリ1オンス、スイート・ベルモット1オンス、ソーダ適量、氷、飾り=オレンジ・スライス(ビルド)・「The Bartender's Standard Manual」(Fred Powell著、1979年刊)米 ジン、カンパリ、スイート・ベルモット各1ジガー、氷、レモン・ピール(ステア)・「The Vogue Cocktail Book」(Henry McNulty著、1982年刊)英&米 ジン、カンパリ、スイート・ベルモット各1.5オンス、氷、レモン・ツイスト(またはオレンジ・ピール)、ソーダ適量(ビルド) ・「Harry's ABC of Mixing Cocktails」(Harry MacElhone著、1986年刊の改訂復刻版) ジン、カンパリ、スイート・ベルモット各3分の1、アンゴスチュラ・ビターズ3dash、ソーダ適量、氷、飾り=オレンジ・スライス(ビルド) ※「伊フィレンツェのホテル・バグリオーニ(Baglioni)の1920年時のレシピ」として紹介しています。 ・「American Bar」(Charles Schumann著、1994年)独 ジン10~20ml、カンパリ20ml、スイート・ベルモット20ml、レモン・ピール、氷(ビルド) 「ネグローニ」は、戦後まもなく日本にも伝わったと思われますが、カクテルブックに登場するのは60年代に入ってからです。日本国内のバーで普通に飲まれるようになったのは、70年代以降です。【確認できる日本初出資料】カクテル小事典(今井清&福西英三著、1967年刊)。レシピは「ドライジン、カンパリ・ビター、スイート・ベルモット各25ml、氷、飾り=オレンジ・スライス(シェイク)。お好みでソーダを加えてもよい」となっています。・こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2017/08/05
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53.マルチネス・カクテル(Martinez Cocktail)【現代のレシピ】(※このカクテルに関しては現代においても「標準的」なものがなく、かなりレシピの幅が広いです) ジン(20~50ml)、スイート・ベルモット(20~50ml)、ドライ・ベルモット(0~20ml)マラスキーノ(またはオレンジ・キュラソー)1~3dash、オレンジ・ビターズ(またはアンゴスチュラ・ビターズ)1~3dash、レモン・ピール ※ただし、うらんかんろ個人として作る場合は、ジン30ml、スイート・ベルモット40ml、マラスキーノ2dash、オレンジ・ビターズ2dash、レモン・ピールというレシピでつくっています 【スタイル】ステア(またはシェイク) 「マルチネス・カクテル」は19世紀半ば~後半の米国で誕生したと伝わり、マティーニの原型とも言われる代表的な古典的カクテルです。その後に誕生したマンハッタンやマティーニへの「橋渡し的な役割」を担ったカクテルとも位置づけられています。 「マルチネス・カクテル」が初めて活字で紹介されたのは、”カクテルの父”とも言われる、かのジェリー・トーマス(Jerry Thomas 1830~1885)が著した世界初の体系的カクテルブック「How To Mix Drinks」(1862年初版刊)の改訂版(1867年刊)です。従来は以下のような、真偽不明の「誕生にまつわる逸話」が、たびたび文献や専門サイトで紹介されてきました。 「カクテル名の『マルチネス』は、米国カリフォルニア州の都市名(サンフランシスコの東約40マイル)に由来する。ゴールドラッシュ時代(1848~55年)のサンフランシスコ、同地のオクシデンタル・ホテルでバーテンダーをしていたジェリー・トーマスが、金鉱探しにやって来た男の客から『マルチネスへの旅立ちのために、元気になる一杯を』と頼まれ、つくったのがこのカクテルである」 しかし現時点で言えることは、「考案者は伝わっておらず、誕生の経緯・由来も残念ながら不明な部分が多い」ということだけです(トーマス自身もその著書では、由来については何も触れていません)。 一方で、当時よく使用されていたベルモットが、イタリアのマルティニ社製だったことから、その社名にちなんで「マルチネス」と呼ばれるようになったという説もあります。しかし、これも根拠資料やデータは伝わっていません。余談ですが、カリフォルニア州のマルチネス市には現在、「マティーニ発祥の地」を記念する石碑(いささかこじつけ気味だと思うのですが…)が建てられているといいます(出典:http://blog.livedoor.jp/bar_kimura/archives/8747718.html )。 ところで、ジェリー・トーマスが「How To Mix Drinks」(1862年初版刊)の1867年の改訂版で初めて紹介したマルチネス・カクテルのレシピは、以下の通りです。「オールドトム・ジン1pony =【注1】ご参照、スイート・ベルモット1wineglass=【注2】ご参照、マラスキーノ2dash、アロマチック・ビターズ1dash。しっかりとシェイクし、大きめのカクテルグラスに注ぐ。4分の1の大きさのスライス・レモンをグラスに入れる。もしゲストが甘口の味わいを望むのであれば、ガム・シロップ2dashを加える」。 【注1】ponyは当時の液量単位で1ponyはほぼ1mlに相当。【注2】このwineglassの容量についてトーマスは明記していませんが、同著の挿絵に描かれたwineglassの絵を見ると、約60~90mlくらいと想像できます。 さらに今回、改めて様々な情報を集めていると、とても興味ある見解に出合いました。現在では英国のドライジン・ベースが当たり前となっているマルチネス・カクテルですが、誕生当時はオランダジンである「ジュネヴァー」を使っていたというのです(出典:diffordsguide.com/encyclopedia/1066/cocktails/martinez-cocktail)。確かに、19世紀後半だと、米国においてはジンは英国産よりオランダ産の方が主流だったでしょうし、あり得ない話ではないと思います。 ちなみに紹介されていたレシピは「ジュネヴァー50ml、スイート・ベルモット30ml、ドライ・ベルモット10ml、オレンジ・キュラソー8ml、アンゴスチュラ・ビターズ1dash」となっていました。時の流れで、ジンの主流がオランダから英国へ移行する過程で、こうした「過去」も忘れさられていったのかもしれませんが、ただしこの「ベース=ジュネヴァー起源説」が正しいのかどうかも、根拠資料が示されていないので現時点では何とも言えません。 ご参考までに、トーマスの本以降に出版された主なカクテルブックで、「マルチネス・カクテル」のレシピをざっと見ておきましょう。注目すべきは、現代の標準レシピとは違って、(スイート・ベルモットではなく)ドライ・ベルモットを使うレシピが目立つことです。これはやはりマティーニへ発展していく過程で、レシピが揺れていたことの証でしょう。・「The Modern Bartender's Guide」(O.H.Byron著、1884年刊)米 Martinez Cocktail No.1=ジン0.5pony、ドライ・ベルモット1pony、アンゴスチュラ・ビターズ3~4dash、ガム・シロップ3dash Martinez Cocktail No.2=ジン0.5wineglass、ドライ・ベルモット0.5wineglass、キュラソー2dash、アンゴスチュラ・ビターズ2dash、ガム・シロップ3dash ※No.1、No.2いずれもステア なお、Byronによる以下のような別レシピも伝わっています(出典:ginfoundry.com/cocktail/martinez-cocktail/)。 オールドトム・ジン30ml、スイート・ベルモット30ml、キュラソー2dash、アンゴスチュラ・ビターズ2dash・「Cocktails:How To Mix Them」(Robert Vermier著、1922年刊 )米 オールドトム・ジン4分の1gill(=30ml)=【注3】ご参照、スイート・ベルモット4分の1gill、アンゴスチュラ・ビターズ1~2dash、ガム・シロップ(またはキュラソー)2~3dash、アブサン1dash=お好みで、レモン・ピール&チェリー(ステア)(【注3】gillは当時の液量単位。1gillは120mlに相当)・「Cocktails」(Jimmy late of the Ciro's著、1930年刊 )米 オールドトム・ジン2分の1、ドライ・ベルモット2分の1、アンゴスチュラ・ビターズ2dash、レモン・ピール&オリーブ(作り方の指定なし)・「The Savoy Cocktail Book」(Harry Craddock著、1930年刊)英 ジン0.5glass、ドライ・ベルモット0.5glass、オレンジ・ビターズ6分の1tsp、キュラソー(またはマラスキーノ)3分の1tsp、レモン・ピール&チェリー(シェイク)※本文中では6人分のレシピとして紹介していたため、1人分の分量に換算しました。・「The Official Mixer's Manual」(Patrick Gavin Duffy著、1934年刊)米 ジン45ml、ドライ・ベルモット30ml、オレンジ・ビターズ1tsp、キュラソー(またはマラスキーノ)0.51tsp、レモン・ピール(シェイク)※本文中では6人分のレシピとして紹介していたため、1人分の分量に換算しました。 最後に現代のオーセンティック・バーではどんなレシピでつくっているのか、その代表として、英国ロンドン・サヴォイホテル「アメリカン・バー」のレシピをご紹介しておきましょう。 オールドトム・ジン50ml、スイート・ベルモット20ml、ドライ・ベルモット10ml、マラスキーノ5ml、ボウカーズ・ビターズ=【注4】ご参照=1dash、オレンジ・ツイスト(シェイク)。【注4】1828年にドイツ系米国人のヨハン・ボウカーが製造・販売したビターズ。かのジェリー・トーマスもいくつかのカクテルで使用している。1920年代に一時製造中止となったが、近年、その味わいを再現した製品が再発売されている。 「マルチネス・カクテル」は、日本には1930年代には伝わり、文献でも紹介されました。しかし、その後は60年代初めまでの間、カクテルブックに何度か登場したあとは、ほとんど忘れられたカクテルになりました。再び”陽の目”をみるのは、2000年以降、欧米の大都市を発信地としてクラシック・カクテル再評価のトレンドが起きてからです。【確認できる日本初出資料】「スタンダード・カクテルブック」(村井洋著、NBA編、1937年刊)。レシピは以下の二通りが紹介されています。 英国風=プリマス・ジン2分の1、ドライ・ベルモット2分の1、アンゴスチュラ・ビターズ2dash、オレンジ・シロップ2dash、レモン・ピール、 欧州大陸風=オールドトム・ジン2分の1、ドライ・ベルモット2分の1、オレンジ・ビターズ2dash、キュラソー(またはマラスキーノ)3dash、レモン・ピール・こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2017/06/03
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バーUKは本日29日(土)、明日30日(日)の両日、お休みを頂戴いたします。何卒ご了承くださいませ。The bar UK is closed on 29th & 30th of Nov.
2025/11/29
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成田一徹切り絵原画・販売用小作品の紹介(5)です。 ※絵のタイトルは、原則「仮のもの」です。絵のサイズの単位はミリ。 「白椿」 サイズ=86×92 価格=¥15,000 =SOLD 「追及される女(挿絵)」 サイズ=144×117 価格=¥15,000 「コスモス畑」 サイズ=179×125 価格=¥20,000 「会議は続く」 サイズ=196×135 価格=¥15,000 「パリの思い出」 サイズ=110×109 価格=¥12,000 「豆まき(習作)」 サイズ=204×196 価格=¥20,000 ※最初期の作品の一つ。色部分は水彩絵具での彩色です。 「焼き鳥」 サイズ=99×99 価格=¥12,000 =SOLD 「雪見珈琲」 サイズ=195×134 価格=¥15,000 「和菓子」 サイズ=135×190 価格=¥10,000 「浅草・雷門」 サイズ=111×95 価格=¥12,000 =SOLDこちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2017/01/22
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先日のこと。ある海外のバー業界関係の方から「過去誕生したジャパニーズ・カクテルのなかで、知っておくべき重要なカクテルを教えてほしい」という依頼を受けました。 そこで、まがりなりにも長年カクテル史を研究してきた私が、独自の?視点で25のカクテルを選んで、DeepLの力を借りて(笑)英訳したうえでお伝えいたしました(うち2つは日本人の考案ではなく、滞日外国人が考案した or 関わったと伝わる日本生まれのカクテルですが…)。 以下はその日本語版です。「プロなら知っておくべきジャパニーズ・カクテル」と、その考案者(不明なものもありますが)、誕生の時期・由来等について簡単に紹介いたします(かつて私のBlog連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話」で取り上げたものについては、その該当ページへのリンクも貼っておきます)。1.横浜(Yokohama)(19世紀末から20世紀初頭、考案者は不詳) ジン30ml、ウォッカ15ml、オレンジジュース15ml、グレナデン・シロップ10ml、アニゼット0.5tsp(ティースプーン) ※横浜・外国人居留地のバーもしくは欧州航路の客船内のバーで誕生したと伝わっている。いずれにしても欧州航路の客船を通じて1920年代には英国にも伝わり、サヴォイ・カクテル・ブック(1930年刊)にも収録されることになった。【ご参考:拙Blog連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話:横浜(Yokohama)」】2.チェリー・ブロッサム(Cherry Blossom) 田尾多三郎(1923年) チェリー・ブランデー30ml、ブランデー20ml、オレンジ・キュラソー10ml、レモン果汁5ml、グレナディン・シロップ5ml ※田尾氏(故人)がオーナー・バーテンダーをつとめていた横浜・伊勢佐木町の「カフェ・ド・パリ」(現在は関内に移転し、「パリ」と改名)で誕生した伝わっている。カクテル「横浜」と同様、欧州航路の客船を通じてロンドンやパリなどの欧州の大都市にも伝わった。サヴォイ・カクテル・ブック(1930年刊)にも収録されている。【ご参考:拙Blog連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話:チェリー・ブロッサム(Cherry Blossom)」】3.マウント・フジ(Mount Fuji) 東京帝国ホテルのインペリアル・バーで誕生(1924年)、考案者は不詳 ジン45ml、パイナップルジュース15ml、レモンジュース10ml、シロップ1tsp、マラスキーノ1tsp、 生クリーム 1tsp、卵白 ※「マウント・フジ」カクテルには他に2つのバージョン(JBAバージョンと箱根富士屋ホテルバージョン)が伝わっている。詳しくは、連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話」の「マウント・フジ(Mount Fuji)」の項をお読みください。4.ライン・カクテル(Line Cocktail) 前田米吉(1924年) ジン25ml、スイート・ベルモット25ml、ベネディクティン25ml、アンゴスチュラビターズ2dash ※前田米吉氏(1897年~1939年)は大正時代のバーテンダーであり、日本初の実用カクテルブック『コクテール』(1924年刊)の著者。【ご参考:拙Blogの記事「『コクテール』の著者・前田米吉氏の素顔とは」】5.會舘フィズ(Kaikan Fizz) 東京會舘内のバー発祥(1945年)、考案者は不詳 ジン45ml、牛乳60ml、レモンジュース15ml、砂糖1tsp、ソーダ ※敗戦後(1945年9月)、東京會舘は占領軍に接収され、1952年まで将校専用の社交場(「東京アメリカンクラブ」)として使用された。「會舘フィズ」は朝から酒を飲みたい将校が、バーテンダーに「お酒に見えないアルコール・ドリンクをつくってくれ」と頼んで、考案してもらったのが起源と伝わる。【ご参考:拙Blogの記事「東京會舘メインバー:歴史の重みに酔う」】6.カミカゼ(Kamikaze) 考案者不詳(1945~46年頃) ウォッカ30ml、コアントロー30ml、ライムジュース30ml、ライム・スライス ※第二次世界大戦後(1945年~)、東京の占領軍キャンプ(米軍基地)内のバー発祥と伝わる。 7.青い珊瑚礁(Blue Coral Reef) 鹿野彦司(1950年) ジン40ml、グリーンペパーミント・リキュール20ml、マラスキーノ・チェリー、あらかじめグラスの縁をレモンで濡らしておく。 ※1950年5月、戦後初めて開催された本格的なカクテル・コンクール「オール・ジャパン・ドリンクス・コンクール」(日本バーテンダー協会=当時はJBA=主催)で1位に輝いた。考案者の鹿野氏は(当時)名古屋のバー「くらぶ鴻の巣」のオーナー・バーテンダー。【ご参考:拙Blog連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話:青い珊瑚礁(Blue Coral Reef)」】8.キッス・オブ・ファイア(Kiss of Fire) 石岡賢司(1953年) ウォッカ30ml、スロージン20ml、ドライ・ベルモット、レモンジュース5ml、砂糖でグラスをスノー・スタイルにして ※1953年に開催された「第5回「オール・ジャパン・ドリンクス・コンクール」(日本バーテンダー協会主催)でグランプリに輝いたカクテル。石岡氏は残念ながら、この受賞から数年後に他界された。【ご参考:拙Blog連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話:キッス・オブ・ファイア(Kiss of Fire)」】9.雪国(Yukiguni) 井山計一(1959年) ウォッカ45~55ml、ホワイト・キュラソー10ml、ライムジュース5ml、ミントチェリー、砂糖でグラスをスノー・スタイルに ※1958年、山形県酒田市のバー「ケルン」のオーナー・バーテンダー井山計一氏が、川端康成の小説「雪国」をモチーフに考案。翌年の1959年に開催された「第1回寿屋(後のサントリー)カクテルコンクール」で最優秀賞を受賞した。 日本人が考案したスタンダード・カクテルとしては、「雪国」は日本国内では今なお最もよく知られている(日本生まれのカクテルとしては「バンブー」が世界的に有名だが、これは残念ながら、明治期に米国から来日した外国人によって考案されたもの)。【ご参考:拙Blog連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話:雪国(Yukiguni)」】10. スカイダイビング(Sky Diving) 渡辺義之(1967年) ホワイト・ラム30ml、ブルー・キュラソー20ml、ライムジュース10ml ※1967年10月に開催された全日本バーテンダー協会主催の大会でグランプリを受賞したカクテル。海外ではあまり知られていないが、日本ではほぼ「スタンダード」になっており、国内で出版されるカクテル本にも頻繁に登場する。渡辺義之氏は大阪のバーテンダー。【ご参考:拙Blog連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話:スカイダイビング(Sky Diving)」】11. レッド・アイ(Red Eye) (1970年代後半?沖縄発祥。考案者は不詳) ビール150ml、トマトジュース150ml、スパイス(セロリソルト、ブラックペッパー...) ※トム・クルーズ(Tom Cruise)主演の映画「カクテル(Cocktail)」(1988年公開)に登場する生卵入りカクテル「レッド・アイ」に似ているが、この日本発祥の「レッド・アイ」は全く別物で、映画公開前の1970年代後半には沖縄の米軍基地周辺のバーで流行っていた。その後、80年代半ばには東京や大阪などの大都市でも広く知られるようになった。【ご参考:拙Blog連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話:レッド・アイ(Red Eye)」】12. メロンボール(Melonball) (1978年、考案者は不詳) ウオッカ20ml、ミドリ(メロン・リキュール)30ml、オレンジジュース80ml ※1978年、サントリー社がメロン・リキュール「ミドリ(MIDORI)」を米国で先行発売するに際して、提案したオリジナルカクテル(オレンジジュースの代わりにグレープフルーツジュース、パイナップルジュースを使うバージョンもある)。13. ソル・クバーノ(Sol Cubano) 木村義久(1980年) ホワイト・ラム45~80ml、グレープフルーツジュース60ml、トニックウォーター60ml、グレープフルーツ・スライス、フレッシュミント ※1980年に開催された「トロピカルカクテル・コンクール」(サントリー社主催)でグランプリを受賞。木村氏は神戸のバー「サボイ北野坂」のオーナー・バーテンダーとして今も活躍中。【ご参考:拙Blog連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話:ソル・クバーノ(Sol Cubano)」】14. 照葉樹林(Shoyo Jurin=means Shiba Forest.) (1980年頃、考案者は不詳) 緑茶リキュール 60ml、烏龍茶 120ml ※サントリー・カクテルスクール東京校発祥と伝わる。15. 吉野(Yoshino) 毛利隆雄(1983年) ウォッカ60ml、キルシュワッサー0.5tsp、緑茶リキュール0.5tsp、桜花の塩漬け ※奈良県の吉野は桜の名所として有名。毛利隆雄氏は、東京・銀座「毛利バー」のオーナー・バーテンダー。16. スプモーニ(Spumoni) (1980年代半ば、考案者は不詳) カンパリ30ml、グレープフルーツジュース30ml、トニックウォーター ※日本のバーで最も人気のあるカクテルの一つ。アルコール度数が低く飲みやすいため、とくに女性に人気がある。日本のカクテルブックでは「イタリア生まれのカクテル」と紹介されることが多く、バー関係者でもそう誤解している人が多いが、日本生まれのカクテル。 1980年代半ばに、日本のカンパリ輸入業者と、イタリア料理ブームに便乗した外食産業関係者によって考案され、広まった。「スプモーニ」の語源は、イタリア語の「泡を立てる(spumare)」から名付けられたという。【ご参考:拙Blog連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話:スプモーニ(Spumoni)」】17. キングス・バレー(King’s Valley) 上田和男(1986年) スコッチ・ウイスキー40ml、ホワイト・キュラソー10ml、ライムジュース10ml、ブルー・キュラソー1tsp ※1986年に開催された「第1回スコッチウイスキー・カクテルコンペティション」での優勝作品。作者の上田氏は、東京・銀座「Bar TENDER」のオーナー・バーテンダー。18. サケティーニ(Saketini) (1980年代半ば~後半に登場、考案者は不詳) ドライ・ジン40ml、日本酒(SAKE)30ml、オリーブ19. フォーリング・スター(Falling Star) 保志雄一(1989年) ホワイト・ラム30ml、パイナップル・リキュール15ml、オレンジジュース10ml、グレープフルーツジュース10ml、 ブルー・キュラソー 1tsp、レモンピールは星型にくり抜く。ブルー・キュラソーで銀河のようにコーラル・スタイルにしたグラスに ※1989年、日本バーテンダー協会主催の「全国バーテンダー技能競技大会」で総合優勝した際の創作カクテル。保志氏は現在、東京・銀座「バー保志」のオーナー・バーテンダー。20. チャイナ・ブルー(China Blue) 内田輝廣(1980年代後半〜1990年代前半) ライチ・リキュール30ml、ブルー・キュラソー10ml、グレープフルーツジュース45ml、トニックウォーター45ml(トニックウォーター無しのバージョンもある) ※ライチ・リキュール「ディタ(DITA)」の輸入発売スタートにあたり考案されたと伝わる。カクテル名は、中国の陶磁器「景徳鎮」の鮮やかな青色に由来するという。内田氏は富山市にある「バー白馬館」のオーナー・バーテンダー。21. ミルキーウェイ(Milky Way) 岸 久(1996年) ジン30ml、アマレット30ml、ストロベリークリーム・リキュール10ml、ストロベリー・シロップ15ml、パイナップルジュース 90ml ※1996年の「インターナショナル・カクテル・コンペティション(ICC)」ロングドリンク部門での優勝作品。岸氏は、東京・銀座「スタアバー」のオーナー・バーテンダー。ICCで優勝した日本人バーテンダーは岸氏が初めてである。22. オーガスタ・セブン(Augusta Seven) 品野清光(1997年) パッソア(パッションフルーツ・リキュール) 45ml、パイナップルジュース90m、レモンジュース15ml ※パッソア・リキュールの日本での輸入販売を開始するにあたり、オリジナルカクテル考案の依頼を受けた大阪の「バー・オーガスタ」オーナー・バーテンダー、品野清光氏が考案した。その後、人気漫画「バー・レモン・ハート」でも紹介されたことで全国的にも知られるようになった。【ご参考:拙Blog連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話:オーガスタ・セブン(Augusta Seven)」】23. スピーク・ロウ(Speak Low) 後閑信吾(2012年) ダーク・ラム50ml、ペドロヒメネス・シェリー5ml、抹茶1tsp、レモンピール ※2012年、「バカルディ・レガシー・カクテル・コンペティション」の優勝作品。後閑氏は日本人では、現在世界で最もその名が知られているバーテンダー。【番外編】・バンブー(Bamboo) 1890年、横浜外国人居留地にあった旧・横浜グランドホテルの支配人だった米国人、ルイス・エッピンガー(Louis Eppinger)氏が考案したと伝わる。 ドライ・シェリー50ml、ドライ・ベルモット20ml、オレンジビターズ(ステア)【ご参考:拙Blog連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話:バンブー(Bamboo)」】・ミリオンダラー(Million Dollar) 19世紀末または20世紀初めに、横浜グランドホテル内のバーで誕生? バンブーと同じエッピンガー氏の考案とも伝わるが、これを裏付ける文献資料は確認されていない。 ジン45ml、スイート・ベルモット15ml、パイナップルジュース15ml、グレナデン・シロップ、卵白(シェイク)【ご参考:拙Blog連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話:ミリオンダラー(Million Dollar)」】★こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2023/04/01
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かなり久しぶりに言葉(方言)の話題。和歌山と言えば、関西にあって、大阪、京都、神戸というビッグ・ネームに隠れ、全国的な知名度はいまいちだ。同じ関西人の間でも、和歌山は残念ながら存在感が薄い(和歌山出身の人、ごめんなさーい)。 僕は京都生まれの大阪育ち。そして現在は兵庫県に住んでいる。同じ関西だけれど、あまり和歌山へ出かけることは少ない。ただ、親戚筋にも会社の友人にも、和歌山出身の人はいる(写真左=和歌山は紀州徳川家55万石の城下町。八代将軍・吉宗は紀州徳川家出身です)。 関西以外の方は、和歌山と言えば、何を思う浮かべるだろうか? 黒潮、クジラ、温州みかん、南高梅、熊野古道、高野山、保守的な土地柄、それともそれ以外? ステラビアさんや、na_geanna_mさんら関東の方に一度聞いてみたいなー。 さて、本題の言葉の話。同じ関西弁でも、和歌山弁はかなり独特の色合いを持っている。和歌山と言っても広いので、一応ここでは紀ノ川筋、主に和歌山市周辺を中心とする表現について記す(写真右=温暖な気候が美味しい温州みかんを産む)。 和歌山弁の最大の特徴でもあり、しばしばギャグのネタにもされるのは、「ざ行」の発音が「だ行」になること。和歌山弁に、「ざじずぜぞ」は必要ない。ほとんどが「だぢづでど」になる(写真左=先ごろ、「世界遺産」に認定された熊野古道)。 よく典型的な和歌山弁のたとえ話で紹介される話。和歌山の子どもたちが動物園に訪れた。鼻の長い動物の前に行って、子どもたちは叫んだ。「あっ、どうさんがいる!」。かように、和歌山では、座布団は「だぶとん」、雑巾は「どうきん」、安全は「あんでん」になる。 笑い話で、和歌山出身の元阪神・プロ野球選手、藤田平氏がラジオの野球解説していたときのこと。本人は「絶対絶命のピンチですね」と言ったつもりだったのだが、僕には「でったいでつめいの…」としか聞こえなかった(写真右=美味しい梅干しでも有名。とりわけ「南高梅」は最高の品質!) もっとも、それでは若い人が「ざ行」の発音ができないのかと言えばそうではない。和歌山出身の人でも、大阪や神戸に来たら、ちゃんと「ざ行言葉」を話しているから、やはり、言葉は風土・文化が創るということなのか(写真左=江戸の頃から、「黒潮の恵み」であるクジラを食する和歌山県人)。 僕の親戚筋で和歌山出身のおじさん(和歌山弁では「おいやん」となる)は、和歌山でも南部の湯浅というところの出身(湯浅は醤油の産地で有名)。だから、結構きつい和歌山弁を喋っていた。同じ関西人の僕でも、おじさんに意味を確かめないと分からない言葉や言い回しもたくさんあった(写真右=「和歌山のシンボル」は数あれど、白浜の円月島も有名)。 和歌山弁では、自分のことをよく「あが」とか「わが」と言う。現在70代のおじさんは10代後半で大阪に出てきたので、今ではすっかり大阪弁に馴染んでいるが、酒が進むとやはり、時々「わががー」なんて口に出る。ついでに言うと、あなたのことは「おまん」と言う。「おまん、よう聞けよ」なんて…。 語尾が「です、ます」が「~じょぉ」となるのも特徴(例:「おまんの言う通りじょぉ」)だが、これは阿波(徳島)弁にも似ている。現在進行形は「~ちゃぁる」(例:車が走っちゃぁる)(写真左=真言密教の聖地「高野山」。奥の院には弘法大師・空海が眠る) 質問や疑問の「~ですか?」は「~かえ?」となることが多い(例:「この料理好きかえ?」)。接続詞も面白い。僕の「おいやん」はいつも、「ほやけど(標準語=しかし、大阪弁なら「そやけど」かな)」「ほやさけ(同=つまり)」「ほいたら(同=そしたら)」だった(写真右=日本一の大滝「那智の滝」)。 そして、とにかく和歌山弁では語尾に「~よー」をやたら付ける。「このあいだよー、あそこの店いったんよー、安くてよー、味もええんしょよー」なんて、出てくる文節ごとに語尾が「よー」のオンパレードなんてこともある。(写真左=和歌山の最高の海の幸、クエなべ。やや高価だけれど旨ーい!)。 とにかく書ききれないくらい和歌山弁は魅力的。なかでも、僕が一番好きな和歌山弁は「連れもって、いこらー」(一緒に行こうよー)。何となくとても親しみを感じる表現だと思わない? でも残念ながら、僕でもなかなか普段は聞く機会はない。今度、機会を見つけて「生の和歌山弁」を聞きに行ってみようかなー。 最後に、和歌山出身の有名人は誰だろうとちょっと調べてみた。もう亡くなった人もいるけれど、華岡青洲、南方熊楠、松下幸之助、坂本冬美、東尾修、有吉佐和子、楳図かずお、小林稔侍、デューク更家、ラル・カンシェルのhyde…。う~ん、多彩だなぁ…(写真右=アドベンチャー・ワールドのパンダも和歌山の“有名人”?!)。 和歌山出身の人って、自分のことを「和歌山出身です」とはあまり言わずに、「関西出身」と言う人が多い(コンプレックスがあるのだろうか?)。確かに、「個性に乏しい」とか「田舎で、考え方が保守的」とか、若い世代には引け目もあるようだ。 でも、これからは変わる可能性だってある。自分が保守的にならなければ確実に世の中は変わる。和歌山には何よりも、京阪神にはない、自然と温暖な気候と美味しい海・山の幸がある。そんな故郷・和歌山を、もっと自慢に思ってもいいと僕は思うのだが…。【注】タイトルの「おもしゃいじょぉー」は和歌山弁で「面白いよー」の意。人気ブログランキングへGO!→【人気ブログランキング】
2005/11/22
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「Master of Heavy Metal Funk」の異名を持つ当代きってのスーパー・ベーシスト、と言われても、正直言って、私も最初はピンと来なかった。普段よく聴く音楽ジャンルの人でもなかった。それが、ひょんなことで出逢うことに。 T.M.スティーブンス(Stevens)。ニューヨーク出身。1951年7月生まれだから、今年誕生日が来れば、54歳!になるが、(本人に会った私の印象では)、まったく、そんな歳に見えない。せいぜい40歳前後っていう感じ。 徳島で仕事をしていた頃、私が一番よく出入りしていた洋琴堂(ようきんどう)というピアノBARがあった。猫好きのオーナーのせいか、いつも店内には人なつっこい猫がいた。ピアノ好き、猫好きの私としては、好きにならないはずのない場所だった。 洋琴堂では、いろんなジャンルの音楽好き、楽器好きの人が夜な夜な集まってきた。ジャズ、ロック、ポップス、ラテン、シャンソン、歌謡曲…。店にはピアノ、ウッドベース、エレキベース、ドラム、ギターなどが常備されていたが、「マイ楽器」を持ち込む人も多かった。 毎夜のように、見知らぬもの同士のセッションが自然と始まった。私がそのうちの一人に、仲間入りさせてもらうのに、さほど時間はかからなかった。 そんなある夜、私がちょうど友人らの前で、ビリー・ジョエルの「New York State of Mind」を弾き語りしている時だった。T.M.が、突然やってきた。美しい日本人女性とともに…。 オーナーは以前から、T.M.と知り合いだったようだ。私はもちろん初対面。がっしりした体。身長約185cmの大きな黒人男性。しかも、ただものではないという雰囲気を漂わせている。 演奏を中断しようとした私に、T.M.は「Com'on, keep on playing!」と言って続けさせた。外国人の前で、英語でビリー・ジョエルを歌うなんて。なんと大胆な、恥知らずな…と思うと、私は顔が真っ赤になってきた。 そんな初めての出逢いから、私はT.M.とすぐうち解けた。とにかく彼の素晴らしさは、「フレンドリー」ということ。一緒に店を訪れた日本人女性は、実は奥さんのTaka(タカ)さんだった(写真右上は、T.M.とTakaさん。T.M.の向かって左隣に私に写っているが、お見苦しいのでカット)。 Takaさんは地元・徳島の鳴門の出身。里帰りの機会には、「(T.M.は)トクシマが好きだから、いつも付いてくる」と話していた(「阿波踊りも大好き」とか!)。 T.M.は徳島へは、毎年のように奥さんに付いて帰ってきているようで、その後も、何度か(主に洋琴堂であることが多かったが)再会した。そしてしばしば、店のエレキ・ベースを手にして、オーナーのピアノの伴奏をして遊んだり、時には、その神業のようなチョッパー・ベースを聴かせてくれたりした。 数年前には突然、僕の携帯にTakaさんから電話があった。「あすの夜、大阪でT.M.がライブするんだけど、バック・ステージに遊びに来ないか」という、とても嬉しいお誘いだった。その時は残念ながら、先約があったため行けなかったが、徳島を離れた後も、忘れないでいてくれてることに、心から感激した。 ステーブ・ヴァイ、マイルス・デイビス、ジェームス・ブラウンら、有名アーチストのバックをつとめることが多かったT.M.だが、最近は、リーダー・アーチストとしての活動もめざましい(なんと2001年には俳優として映画出演まで!)。 彼の音楽には、ジャズ、ブルース、メタル、ロック、ファンクなどすべての要素が詰まっている(アルバムでは、歌も歌ってますが、これが結構うまい!)。機会があれば、ぜひ貴方もT.M.のCDを聴いて、脳天に一撃をくらってほしい。【追記】大変残念な事実ですが、T.M.は2017年頃から認知症を患い、ナーシングホームに入院中であることが明かされました(なので現在は目立った活動はありません)。Takaさんともその後離婚したとのこと(出典:Wikipedia英語版&日本語版)。
2005/02/16
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スティーブン・スピルバーグ監督の話題作「ミュンヘン」(写真左上=映画のポスター)を観た。ご存じのように、1972年のミュンヘン五輪の際起こった、あの悲劇的なイスラエルの選手・コーチ殺害事件をテーマに作られた話題の映画。 ミュンヘン五輪と言えば、男子バレーボールの金メダル、競泳平泳ぎの田口信教とバタフライの青木まゆみの金メダルが、僕にとっての鮮烈な思い出。 もちろん、あの選手村での占拠事件やイスラエルの選手、コーチら11人が殺害されたことも記憶にあるけれど、事件の詳細やその後の報復等には今までほとんど無知だった。だから、この映画はまず史実を知るという意味でも、とてもいい材料になる。 映画の冒頭で、まず、あの選手村占拠&選手・コーチ殺害事件が事実として、伝えられる(ただし、アナウンサーやレポーターの声だけで。実際の場面再現=空港での銃撃戦=は映画の最後に、「フラッシュバック」のように描かれる)。 イスラエル政府は、モサド(機密情報機関)に命じて、事件を企てた黒幕らへの報復を決断する。秘密裏に5人からなる暗殺チームが組織され、そのリーダーに任命されたのが主人公のアヴナー(エリック・バナ)だ。 アヴナーには身重の妻がいる。しかもこれまで人を殺したことなどない。だが、愛国心はある。悩んだ末に、今回の報復には「大義」があると信じて、彼はこの難しい任務を引き受ける(写真右=映画の1シーン。右が主演のエリック・バナ)。 そして、他の4人のメンバーとともに報復のターゲットであるテロ指導部の11人を追って、ヨーロッパ各地や中東に赴く。ジュネーヴ、ロンドン、パリ、ローマ、アテネ、ベイルート…。さながらヨーロッパ旅行を体感しているような気分にもなるが、内容は重くて、暗い。 国際法すら無視した報復(他国内での違法行為)に果たして「大義」はあるのか。国の生存を守るためなら何をやっても許されるのか。任務を終えて、一日でも早く、愛する家族(妻と生まれたばかりの娘)の元へ帰りたい(写真左=アヴナーは娘が生まれ、国家より家族の大切さをより自覚していく)。 アヴナーは日々自問自答しながら、任務を遂行し続けるが、テロリスト側もその都度、報復する。果てしない報復の連鎖。やがて自身も狙われるように。そして自分の行為に疑問を感じ始めたアヴナーは…。 ユダヤ系のスピルバーグだから、おそらくはイスラエル寄りに作られている映画だろうと、観る前は想像していた。だが、「一方だけの正義なんてあり得ない。報復して抹殺しても、またそれを超えるテロリストが後釜に座るだけ」(主にアヴナーに語らせているが…)というメッセージに、僕の想像は見事に裏切られた。 米政府はもちろんのこと、イスラエル支持者の多い米国民の間でも、スピルバーグ批判が起きているという。当のイスラエル政府も「親パレスチナの映画だ」と批判しているという。批判を覚悟でこの映画をつくったスピルバーグを素直に評価したいと思う。 映画にはとくにオチも意外な結末もない。映画の演出として若干の設定変更はあったようだが、ほぼ事実に忠実につくられているという。3時間はやや長いのかもしれないが、場面転換のテンポがいいので、退屈することはない(写真右=報復には爆破という手段も用いられ、アヴナーらが望まなかった一般市民の巻き添えも出る)。 サスペンス・アクションとしても、政治・軍事ドラマとしても、家族愛をめぐる人間ドラマとしても、見事に描ききったスピルバーグの手腕は、たださすがと言うほかない。「シンドラーのリスト」「プライベート・ライアン」など歴史ドラマを作らせたら、かなう人はいないだろう。 映画は、ニューヨークに移り住んだアヴナーが、中南米での新たなミッションを打診され、任務を断るシーンで終わる。そのバックに、当時はまだあった世界貿易センタービルがそびえ立っているのが、その後の世界の現実を暗示しているかのように…。 スピルバーグが言いたかったのは、「結局のところ、復讐は復讐しか生まない」ということだろう。ユダヤ系であるスピルバーグがそんなメッセージを発信したことに、僕は大きな意味を見ている。人気ブログランキングへGO!→【人気ブログランキング】
2006/02/25
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15.ブラディー・メアリー(Bloody Mary)【現代の標準的なレシピ】ウオッカ(50)、トマト・ジュース(100~200)、氷、レモン・スライス、ウスター・ソース、タバスコ、スパイス類(セロリ・ソルト等)、飾り=セロリ・スティックまたはバジリコの葉(お好みで)、氷 【スタイル】シェイクまたはビルド 「ブラディー・メアリー」は、現代でもかなり知名度のあるカクテルです。カクテルブックで「パリのハリーズ・ニューヨーク・バー(以下「HNB」と略すことも)のバーテンダーだったフェルナンド・プティオ(Fernand Petiot 1900~1975)が1920~21年頃に考案した」と紹介されることが多いです(プティオ自身も、後年、概ねそう証言しています)が、後述するように、プティオが後の渡米後、ニューヨークのセントレジス・ホテル(「キングコール・バー」)時代の1934年に考案したという説もあります(出典:Meehan's Bartender Manual<Jim Meehan著>)。 「ブラディー」(Bloody=血まみれ、血みどろ)という名前は、16世紀半ばに、宗教弾圧で約300人ものプロテスタント教徒を処刑したという英女王メアリー1世(1516~1558)に由来し、その冷酷なイメージを表現したというのが定説となってきました(珍説としては、ベースであるウオッカの創業者「ウラジミール・スミルノフ」の名前が欧米人には発音しにくく、「ウラジミール」が転じて「ブラディー・メアリー」になったという話もあります → 出典:Wikipedia英語版)。 しかし、1999年に出版された「Vintage Cocktails」(Susan Waggoner & Robert Markel著)や、2002年に米国の著名なカクテル研究家デイル・デグロフ(Dale Degroff)が著した「The Craft of the Cocktail」などは少し違う説を紹介しています。 曰く、「(Bloody Maryは)当初、ハリーズ・バーでは『Bucket of Blood』(「バケツ一杯の血」の意)という名だった。しかし、その後常連客だったメアリーという女性の名にちなんで、『ブラディー・メアリー』に変わった。その客は相手の男性にいつも待ちぼうけを食わされ、寂しそうにプティオのつくるトマト・カクテルを飲んでいた。その様子がまるで、長期間幽閉されていた女王メアリーの孤独に相通じるものがあった」というです。えっ? 残酷な女王の「無慈悲」というイメージ由来ではなかったのか? 極めつけが、2012年に出版されたハリーズ・ニューヨーク・バーの「100周年記念本(原題:HARRY’S BAR THE ORIGINAL)」。1967年発行の雑誌「News Week」の記事を引用する形で、プティオの驚くべき証言を紹介しています。プティオはハリーズ・バーを辞めた後、ロンドン・サヴォイホテルのバーを経て、1925年に米国へ渡り、1934年以降はニューヨークの「セントレジス(St. Regis)・ホテル」のバーでチーフ・バーテンダーとして活躍しました(このインタビュー時は66歳)。 プティオはこう語っています。「(カクテル名は)ハリーズ・バーにいた若いスタッフが提案してきたんだ。(禁酒法時代、血生臭い事件が数多くあったシカゴのナイトクラブ)『Bucket of Blood Club』を思い起こさせるって。そして当時、彼にはメアリーという名前の恋人がいたんだよ」。本当なのかと思いたくなる証言の数々。今まで信じていた「メアリー1世」説は何だったのでしょうか…。 なお、考案の経緯や作者については異説もあります。代表的な説として、以下のような4つの説が伝わっています。(1)ジョージ・ジェッセル(George Jessel 1898~1981)という米国人喜劇俳優が1939年に考案し、フェルナンド・プティオに教えた(プティオ自身の後年の証言→出典:石垣憲一氏「カクテル ホントのうんちく話」=2008年刊)。ジェッセルのためにプティオが考案したという説も(出典:Wikipedia英語版)。 ※同書によれば、プティオ自身は1964年、ある雑誌のインタビューで(ブラディー・メアリーが)自身の創作であることを否定し、「ジョージ・ジェッセルなる人物からレシピを教わった」と明かしているとのこと(ただし、一方で「現代的なブラディー・メアリーをつくったのは自分だ」とも語っている)。(2)パリ・リッツホテルの「ヘミングウェイ・バー」で誕生した。考案の時期については不明(出典:Wikipedia英語版)。 ※リッツホテルのチーフ・バーテンダー、コリン・ピーター・フィールド(Colin Peter Field)はその著書「The Cocktails of The Ritz Paris」(2001年刊)の中で、同ホテル内「プティ・バー」のバーテンダー、ベルナール・ベジタンの証言を元に、1940年代後半か1950年代初めに、常連客だった文豪ヘミングウェイのために考案したという説を紹介していますが、一方で、それを証明する証拠もないとも記しています。(3)ニューヨークの社交クラブ「The 21 Club」のバーテンダーHenry Zbikiewiczというバーテンダーが1930年代に考案した(出典:同上)。※上記のジョージ・ジェッセルもこのクラブの常連客だったそうです。(4)禁酒法時代(1920~33)に米国のもぐり酒場で生まれた「ブラディー・サム」(ジン&トマト・ジュース)のバリエーションとして、考案された。考案の時期自体は不明(出典:欧米の複数のカクテル専門サイト)。 ※禁酒法時代、米国ではウオッカはほとんど流通していませんでした。もし、「ブラディー・サム」のバリエーションとして考案されたのだとしても、禁酒法廃止後の1935年以降のことでしょう(ウオッカが米国で本格的に普及するのは、第二次大戦後<1945年~>です)。 前述のように、プティオが働いていたパリのハリーズ・バーでは、当初「バケット・オブ・ブラッド」と呼ばれていました。店ではそれなりに飲まれていたはずですが、1920~30年代(米国は禁酒法時代)の欧州で幅広く普及しなかったことは、この時期、欧米で出版されたカクテルブックに「ブラッディ・メアリー」を収録している例が見当たらないことからも明らかです。 個人的にはこれが不思議でしたが、探っていくうちその理由がいくつか見えてきました。まず、20年代前半の欧州では、特定の季節しか新鮮なトマトが入らず、「トマト・ジュースを使うカクテル」をバーで年間通して提供することはとても難しいことでした。米国で(カクテルにも使える)手軽な缶入りのトマト・ジュースが誕生し、欧州に輸入されるようになったのは、1925年以降です。 また、ベースとなる酒であるウオッカも、ロシア革命(1917年)後、ソビエト連邦が生産を一時禁止したため、西欧地域では急激な供給不足に陥りました。スミルノフ家などロシアから逃れた実業家が、ポーランドやフランスでウオッカ生産を再開するのは、1920年代半ば~後半になってからで、生産量もまだ需要を満たす程ではありませんでした。なので20年代、ハリーズ・バーで「ブラディー・メアリー」が提供できたとしても、その量はおそらくは限定的だったでしょう。 プティオにはさらにもう一つ、予期せぬ出来事が起こります。1934年、渡米後迎えられたニューヨークのセントレジス・ホテルのオーナーから、「ブラディーという名は印象が良くない。カクテル名を変えるように」と強く要請されます。プティオは仕方なく、「レッド・スナッパー(Red Snapper)」という名に変更します。加えて、当時の米国ではウオッカがまだ十分出回っておらず、ベースもジンに変えざるを得ませんでした(なので、30年代の本では「レッド・スナッパー」の名で登場することはあっても、「ブラディー・メアリー」で紹介されることはなかったのです)。 「レッド・スナッパー」は当初、米国では「味が平凡だ」と不評でした。そこでプティオは、塩、胡椒、レモンジュース、ウスターソースなどを加えて、味を複雑にする工夫を加えました。これが「トレンディ好き」なニューヨーカーに受けました。1939年、スミルノフ・ウオッカの米国内での輸入がスタート。翌年1940年には、米国で出版されたカクテルブック「The Official Mixer's Manual」(パトリック・ダフィー著)の第2版で、「ブラディー・メアリー」として初めて活字で紹介されました。 そのレシピは、「ウオッカ1ジガー、トマト・ジュース2ジガー、レモン・ジュース3分の1ジガー、ウースター・ソース1dash、塩、胡椒(シェイク)」となっています。第二次大戦後には、輸入業者から「ブラッディ・メアリー」が「販促カクテル」として採用され、プティオの米国流アレンジは、まもなく欧州にも幅広く普及し、再び注目されるようになりました。 ご参考までに、1940~50年代に欧米で出版された主なカクテルブックでの「ブラディー・メアリー」を紹介しておきましょう。 ・「The Stork Club Bar Book」(ルキアス・ビーブ著、1946年刊)米 ウオッカ3オンス、トマト・ジュース6オンス、アンゴスチュラ・ビターズ2dash、レモン・ジュース2分の1個分(シェイク) ・「Trader Vic's Bartender Guide」(ヴィクター・バージェロン著、1947年刊)米 ウオッカ1オンス、トマトレ・ジュース適量、レモン・ジュース2分の1オンス、ウースター・ソース1tsp、タバスコ1drop、塩、胡椒(シェイク) ・「Old Mr. Boston Official Bartender's Guide」(1953年版)米 ウオッカ45ml、トマト・ジュース45ml、レモン・ジュース1dash(ビルド) ・「Esquire Drink Book」(フレデリック・バーミンガム編、1956年刊)米 ウオッカ1ジガー、トマト・ジュース2ジガー、レモン・ジュース3分の1ジガー、ウースター・ソース1dash、塩、胡椒(シェイク) ちなみに、「HNB」のオーナー、ハリー・マッケルホーンが著した「ABC of Mixing Cocktails」(1919年初版刊)では、初版も含め20年代に何度か重版が出た際も「ブラディー・メアリー」は収録されていません。1986年の改訂版になってようやく初めて登場しました。 なお、プロのバーテンダーなら常識でしょうが、トマト・ジュースを「クラマト・トマトジュース」(貝のエキス入り)に替えると、「ブラディー・シーザー」という名に変わります。また、ベースをテキーラに替えると「ストロー・ハット」に、ビールに替えると「レッド・アイ」に、また、ブラディー・マリーそのものをビールで割ると「レッド・バード」というカクテルになります。 日本で比較的知られるようになったのは、終戦後の1950年代からと思われますが、文献で登場するのは60年代に入ってからです。【確認できる日本初出資料】「カクテール全書」(木村与三男著、1962年刊)。レシピは「ウオッカ45ml、トマト・ジュース200ml、レモン・ジュース1tsp、ウースター・ソース、塩、胡椒各お好みで」となっています。・こちらもクリックして見てねー! → 【人気ブログランキング】
2016/12/05
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お待たせいたしました。「1日の日記」で紹介した「大阪(関西)難読地名駅名クイズ」の回答でーす(なお、1~20は大阪市、21~33は大阪府下、34~36は兵庫県です)。1.西中島南方 ( にしなかじまみなみかた=または、「みなみがた」とも)=淀川区。地下鉄御堂筋線・新大阪~梅田駅の間にある駅名です。駅をつくる際、付近にある「西中島」と「南方」という地名を合わせた安易なネーミング。「南方」の由来は「南の干潟」とか。2.十三 ( じゅうそう )=淀川区。淀川の上流から数えて13番目の渡し場であったことが由来という説が有力。阪急電車の京都線、神戸線、宝塚線が交わる大乗り換え駅にして、駅前には庶民的な大歓楽街を抱える。僕の大好きな、あのBAR「十三トリス」もあります(写真右)。3.御幣島( みてじま )=西淀川区。大阪・住吉大社に、中国・朝鮮からの貢ぎ物を運ぶために寄進された「幣島浜」の名にちなむとか。JR東西線の駅名にもなっています。4.柴島( くにじま )=東淀川区。「柴」で「くに」なんて、まず読めません。平安時代には「国島」だったらしいが、いつのまにか…。大阪市民には市営最大の浄水場のある場所としても知られる。柴とは、薪材のこと。昔は薪材に「クヌギ」がよく使われていた。「クヌギ」が転じて「クニ」になったという説も。5.河堀口( こぼれぐち )=阿倍野区。788年(延暦7年)、和気清麻呂が開削した堀の名が由来。堀自体は現存していないが、近鉄南大阪線の駅名にその名を残すほか、天王寺区には「北(南)河堀町」という地名もあるので、これも河堀口の名残かな。6.茨田大宮( まったおおみや )=鶴見区。日本書紀にも登場する古い地名という。「茨田」は「茨」の田、すなわちかつては湿地だったことを意味する。「大宮」は文字通り神社のこと。現在も残る「大宮神社」にちなむらしい。7.放出( はなてん )=鶴見区。大阪の珍地名の代表格。知らなかったら、他県の人にはまず読めない。関西人には昔、深夜時間帯のテレビで放送していた「ハナテン中古車センター」のコマーシャルでお馴染み。「あなた、車売る? 私、高く買うわ」というセリフとともに意味もなく、半裸の美女が出てきたりして、もうB級CMの横綱!だったが、同社は2015年、BIGMOTORに買収されて完全子会社となり、あのCMももう見られなくなった(写真右=ハナテン中古車センターのHPから)。8.道修町( どしょうまち )=中央区。薬といえば道修町、道修町といえば薬屋という言うくらい、昔から薬関係の会社や薬の卸問屋さんが密集しています。この界隈に本社を置く国内大手メーカーも多かったが、最近の業界再編で、本社を次々と東京へ移すところが増えて、昔の活気はなくなりました。9.丼池( どぶいけ )=中央区。船場商人の集まる街・丼池。今も繊維関係の卸問屋さんが軒を連ねています。昔は「素人さんお断り」と表に書いた店がほとんどだったが、不景気もあって、今では「素人さん歓迎」という店も増えた(写真右下=船場商人の故郷、丼池商店街の風景)。10.靫本町( うつぼほんまち )=西区。靫公園という有名な公園も近くにあります。靫とは、あのどう猛な魚。江戸時代、この地に塩干魚の商人が数多く住んでいた名残でもあるという。11.立売堀( いたちぼり )=西区。大阪夏の陣の際、伊達氏の陣所となったことから「伊達堀」と言われるようになったという説と、川を利用して木材の立ち売りが行われるようになったことからという説などいろいろありますが…。12.四貫島( しかんじま )=此花区。昔は海であった埋め立て地。江戸時代、この地を開発した人が「四貫文」で買い受けたという説が一般的だが、定かではない。13.波除( なみよけ )=港区。阪神高速道路の「波除」ランプ(入り口)でお馴染み。貞亨元年(1684)、大阪湾の河口に造られた人工の山「波除山」がその名の由来とか。14.遠里小野( おりおの )=住吉区。万葉集にも詠み込まれている古い地名。瓜の名産地で、昔は「瓜生野」(うりうの)と言っていたのが、転じて現在の地名になったという説が一般的。15.粉浜( こはま )=住吉区。この辺りはかつては海岸だった。古くは「粉洲」とも言った。きっと、粉を蒔いたように美しい砂浜だったのだろう。16.杭全( くまた )=東住吉区・平野区。中世には「杭全荘」と呼ばれていたという。「河川が杭状に分かれた地形から」とか「百済」がなまったとか、地名の由来には諸説ある。「杭全神社」というのが今もあります。17.喜連瓜破( きれうりわり )=平野区。「喜連」と「瓜破」という地名が一つになったもの。「喜連」は渡来人の「伎人(クーレン)」が住みついた、「伎人郷」がなまったものという説が一般的。「瓜破」は、当地の法師が瓜を割ってお供えしたことからとか、「瓜」の産地であったことからとか諸説あり(写真右上=「瓜破天神社」というのが今もあります)。18.野江内代( のえうちんだい )=都島区・城東区。地名ではなく、地下鉄谷町線の駅名。新駅の名を付ける際、付近の地名の「野江」するか「内代」にするかで地元で綱引きがあり、悩んだ市交通局は2つを単純にくっつけたのでした。19.蒲生( がもう )=城東区。ご想像の通り、古来この地が低湿地で、蒲穂の産地だったことが地名の由来という。ちなみに埼玉にも蒲生っていう地名がありますね。20.鴫野( しぎの )=城東区。昔はこの辺りも干潟が多く、鴫(シギ)が舞い降りてきたのだろう。ちなみに、叶姉妹は、あんなにセレブぶってるけど、意外や意外、大阪市城東区鴫野の出身という話を上沼恵美子がある番組で暴露していました(写真右=かつては、大阪城の城内に位置していた「新鴫野橋」)。21.富田林( とんだばやし )=富田林市、22.枚方( ひらかた )=枚方市、23.交野( かたの )=交野市。いずれも市名です。地名の由来は省略します。富田林市はあの夏の「PL」の大花火で有名。枚方市は、同市出身でV6の岡田准一クンが「名誉園長」をつとめる「ひらかたパーク」で知られる。24.樟葉( くずは )=枚方市。古事記には「糞袴」(くそばかま)とある。これが「久須婆」→「楠葉」→「樟葉」となったという説が信じられているが、はたして?25.私市( きさいち )=交野市。交野には「私部」(きさべ)という珍しい地名もある。私部とは皇后のために仕事をしたり、世話をしたりする役所だったという。結構由緒ある地名らしい。26.水走( みずはい )=東大阪市。阪神高速の渋滞名所、「水走」出口で有名です。僕は大人になるまで、「みずばしり」だとばっかり思ってました。豪族「水走氏」が住んでいたことが地名の由来とか。ちなみに現在、地元に「水走」姓はなく、子孫は東京在住という。27.弥刀( みと )=東大阪市。弥刀は「水戸」「水門」から転化したもので、河口の意。地元には「弥刀神社」もあります。28.布忍( ぬのせ )=松原市。地名の由来には「白い布を敷いて神を迎えた」とか、「布忍」という豪族がいたとか、様々な言い伝えがあるが…(写真右上=地元にある「布忍神社」の本殿。朱塗りが鮮やかです)。29.七道( しちどう )=堺市。天平年間の740年頃創建の、地元の寺、浄得寺に七堂伽藍があったことが地名の由来とか。南海本線に「七道」駅があります。30.淡輪( たんのわ )=岬町。日本書紀にも「田身輪巴」と見えるというから、相当古い地名のようです。昔は海もきれいで、海水浴場として賑わいましたが…。31.深日( ふけ )=岬町。漁港として、そして、淡路島とを結ぶフェリーの発着港としても有名だったが、フェリーは経営難で現在廃止になったとか。万葉集にも「吹飯」(ふけい)として登場、「吹飯」が「深日」になったのは江戸時代という(写真右下=南海電車・深日変電所。明治44年に建てられた赤レンガが綺麗な建物です)。32.箱作( はこつくり )=阪南市。古くから見える地名。かつて石棺をつくっていた職人がたくさん住んでいたことが由来という。33.堅下( かたしも )=柏原市。由来は定かでない。「続日本紀」にも「堅下郡」として登場するという。この辺りは、ブドウの産地として有名。34.売布( めふ )=兵庫県宝塚市。地元にある「売布神社」にちなむ地名。出雲風土記にも登場する「売布の社」が由来とか。阪急宝塚線には「売布神社」駅があります。35.清荒神( きよしこうじん )=同・宝塚市。これも阪急の駅名になってます。平安初めに開祖の地元のお寺「清荒神清澄寺」にちなむ。「火の神(台所の神)」として有名です。36.大物( だいもつ )=同・尼崎市。平安末期の古文書には「大物浜」として見える。地名の由来には定説はない。「大物主命」「大仏」「大きな材木」とかいろいろ。阪神電車に「大物」駅あり。【追記】この日記の執筆にあたっては、大阪難読地名がわかる本(創元社編集部編)ほか、多数の辞典、参考書、ホームページのお世話になりました。この場を借りて心から感謝いたします。
2005/07/05
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M マンハッタン・カクテル(Manhattan Cocktail) 小さい調合器に砕き氷を入れ、オレンジ・ビター二注(つぎ)、アンゴスチュラ・ビター二滴、イタリアン・ヴェルモット二分の一ジガー弱、およびブールボン・ウイスキー【注1】二分の一ジガー強を加え、充分にかき混ぜ合わせてカクテル・グラスにこしてうつし、レモン一そぎを押しつまみ、浮かしてすすめます。 マラスキノ・パンチ(Maraschino Punch) ソーダ水呑に、砂糖小匙で一杯を入れ、水二匙を加えて溶かし、次ぎにブランデー一ジガー、アラック【注2】二注、マラスキノ一ポニー、およびレモン半個分の露(つゆ)を搾りこみ、砕き氷を八分目まで入れて充分にかき混ぜ合わせ、季節の果実を浮かし、麦稈をさしてすすめます。 マーチニ・カクテル(Martini Cocktail) 小さい調合器に砕き氷を入れ、オレンジ・ビター二注、オールド・トム・ジン二分の一ジガー弱、およびイタリアン・ヴェルモット【注3】二分の一ジガー強を加え、充分にかき混ぜ合わせてカクテル・グラスに漉してうつし、糖水煮の桜桃一つと、レモンの皮一そぎを押しつまみ、浮かしてすすめます。 マッキンレイ・パンチ(McKinley Punch) 大きいゴブレットに、グルナダン・シロップ【注4】二ジガーと、レモン一個の搾り汁、ウイスキー一ジガーおよび氷の塊二つ三つを入れ、サイフォン・ソーダを九分目まで次ぎ入れ、静かにかき混ぜ合わせてオレンジの輪切一片を浮かし、麦稈をさしてすすめます。 もし、この「マッキンレイ・パンチ」からウイスキーを除けば「グルナダン・パンチ」と呼んですすめられます。 マッルーヒン・カクテル(McLoughin Cocktail) シャンパン・グラスに、クレーム・ド・コギャク【注5】一ジガーを入れ、アンゴスチュラ・ビター一注を加え、レモンの皮一そぎを押しつまんで浮かし、別の瓶のまま充分に冷やしたシャンパンをつぎ入れてすすめます。 メエレエ・ケシ【注6】(M?l? Casis) 利久酒盃に、クレーム・ド・ケシと、コギャクとを交じり合わぬよう静かに半々につぎ入れ、別に氷水をそえてすすめます。 ミカド・カクテル(Mikado Cocktail) これは「J」の項で説明しました「ジャパニーズ・カクテル」の別名です。 ミルク・パンチ(Milk Punch) 大きい調合器に砂糖小匙で一杯を入れ、水少しを加えて溶かし、砕き氷を二分の一位まで入れ、次にコギャク一ジガーと、セント・クロアクス・ラム【注7】一注、及び新しい濃い牛乳をソーダ水呑に九分目位になると思われるだけつぎ入れ、充分に振蕩(しんとう)してソーダ水呑に漉してうつし、ナッツメグ少しをおろしかけ、麦稈をさしてすすめます。 モンタナ・カクテル(Montana Cocktail) 調合器に砕き氷を入れ、アニゼット二注、オレンジ・ビター二注、およびフレンチ・ヴェルモット二分の一ジガーを加え、充分にかき混ぜ合わせてカクテル・グラスに漉してうつし、レモン一そぎを押しつまみ、浮かしてすすめます。 モーニング・カクテル(Morning Cocktail) 調合器に砕き氷を入れ、レッド・キュラサオに注、ガム・シロップ三注、ボカース【注8】またはアンゴスチュラ・ビター二注、アブサント一注、及びブランデーとウイスキー各二分の一ジガーずつを加え、充分にかき混ぜ合わせ、カクテル・グラスに漉しうつしてすすめます。 モーニング・スター(Morning Star) 大きい調合器に砕き氷を入れ、砂糖小匙で一杯、ポート・ワイン一ジガー、スコッチ・ウイスキー一ジガーおよび乳酪(クリーム)五勺(しゃく)【注9】を加え、鶏卵一個を割って落とします。充分に振蕩してソーダ水呑に漉してうつし、冷たいソーダ水を九分目までつぎ入れ、かき混ぜ合わせてすすめます。 ムーレット(ホット)【注10】(Mulled, Hot) 大きい鉢か甕(かめ)に熱湯三合を入れ、砂糖三十匁(もんめ)【注11】を加えて溶かし、レモン六個の搾り汁を加えます。次にポート・ワインまたは好みの酒一壜半をつぎ入れ、文火(とろび)にかけて静かに熱を加えて置きます。 別に鶏卵十二個を別の器に割って落とし、充分にかき立てて泡雪に仕立て、前のパンチの中へ、パンチを急いで、少しのゆるみもなくかく混ぜながら加えて、更に急にしかし静かに、充分にかき混ぜ合わせ、とろりとしたものに仕上げてすすめます。【注1】「ブールボン・ウイスキー」とはご推察の通り、「バーボン(Bourbon)・ウイスキー」のこと。【注2】「A」の項の【注9】をご参照。【注3】現代のマティーニの標準レシピはジンとドライ・ヴェルモットだが、この時代は欧米でもまだイタリアン(スイート)・ヴェルモットを使うレシピが主流で、日本でも同様だったようだ。【注4】「グルナダン・シロップ」とはご推察の通り、今で言う「グレナディン・シロップ」のこと。【注5】「クレーム・ド・コギャク」とはコニャック・ベースのリキュールのこと。現在でも何種類かが製造・販売されている。【注6】メエレエ(M?l?)とはフランス語で「混ざり合った」との意。「メエレエ・ケシ(現代の表記だと「メーレ・カシス」)はフランスの家庭では一般的に飲まれていたカシス・ブランデーのこと。【注7】「B」の項の【注4】をご参照。【注8】「ボカース」とは、1828年にドイツ系米国人のジョン(ヨハン)・ボウカーが製造・販売を始めたビターの銘柄「ボウカーズ・ビター」(Boker’s Bitter)のこと。禁酒法時代の1920年代に製造中止となったが、近年、その味わいを再現した製品が再発売されている。【注9】「一勺(しゃく)」は一合の10分の1で約18ml 従って五勺は約90ml【注10】「ムーレット」とは、ここでは「ムーレット・ワイン」のことを指す。ワインに甘味やスパイスなどを加えて温めたもの。現代では「マルド・ワイン 」という表記が一般的。【注11】「一匁(もんめ)」は3.75g 従って三十匁は約113gこちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2010/12/30
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◆あきれる交通マナー 上海に着いて早々、空港からホテルまで送ってくれたHISの担当者=現地の中国人の方=から、「車道は右側通行で、赤信号でも右折できるので、歩行者が横断歩道を渡っていても強引に右折する車がほとんど。道路を横断する時には左側から車が来ないか十分注意すること」と言われた。 まさにその通りで、上海で横断歩道を渡る時は命がけ。タクシーもマイカーも歩行者がいても強引に突っ込んでくる。ヒヤっとしたことは何度もあった。そのくせクラクションがやたら鳴らしまくる。近代化されて、少しは人間優先の社会になっていると想像した上海だが、交通ルールは車優先である。なんとかならんのかねぇ(写真左=人民広場駅そばの交差点)。 ◆一般市民のマナーは 車がそうだから、一般市民のマナーもあまりよくない。地元の方に言わせたら、「これでも北京五輪前に政府が始めたマナー向上運動で少しましになった」と言う。だが、地下鉄に乗る時の割り込みは目立ったし(しかも誰も注意しない!)、エスカレーターも「請左行右立文明乗梯」(歩く人は左側を、立つ人は右側に)という「注意書き」があるにもかかわらず、ほとんど守らない。 車内での携帯電話のマナーもないも同然。元々、中国語はなぜか大きな声に聞こえるので、実にやかましいこと。不思議なのが、地下鉄が駅間走行中でも喋っていること。日本の地下鉄なら駅間は「圏外」になって通話不能だが、中国の携帯電話は謎だ。ついでに言えば、仕事中も携帯で無駄話をしているデパートや商店の従業員を数多く見かけた(日本なら処分ものだぞ)(写真右=お世話になったホテル前のコンビニ)。 ◆観光地への案内板が少ない 観光客が数多く訪れる上海だが、結構メジャーな観光地でも最寄り駅から道順や方向を示す案内板がとても少ない。最大の観光スポット「豫園」への最寄り駅「大世界」でも、地上に出た所にある大きな交差点に、なんで案内表示がないのか。郊外の超人気スポット「周荘」に着いた駐車場にも、案内板がまったくなかった。どうなってんの?! 地下鉄・上海体育館駅でも同じだったが、周荘など郊外行きのバスが出発する「バスセンター」に行くには何番出口に出たらいいのか、まったく案内板がなかった。外貨獲得のために観光に力を入れている中国だが、まだまだ本当のサービスとは何かを知らない殿様商売をしている。観光局の役人は仕事せーよ(写真左=上海市人民政府庁舎)。 ◆治安はいいのか 大都会・上海ではそれなりに犯罪も多いと聞いた。今回は二人旅で、比較的治安のいい場所を安全な時間帯に行動していたので、犯罪に遭うことはなかった。しかし例えば、日本人相手に偽ブランド品を売っている連中に付いていけば、ぼったくりの店へ連れていかれると聞いた。地元の方からは「スリも多いから注意して! 歩いている時もかばんは体の前の方へさげること」と言われた。 いくら近代化されたと言っても、かっては「魔都」と言われた街。市内には地方から出稼ぎに来ている労働者だけでも500万人いると言われ、上海人との貧富の差もあって、トラブルを起こすケースもあると聞く。昼間はまずどこを歩いてもまず大丈夫だろうが、夜は、大通りですら街灯が日本のようには多くないので、とくに女性の一人歩きはやめた方がいい(写真右=お土産に買った京劇役者の額。結構モダン)。 ◆ニセ札に注意しろと言われても… 地元の人から「ニセ札が多いので注意するように」と言われた。誰がつくっているのか知らないが、ニセ札がたくさん流通しているらしい。両替店でニセ札をつかまされることもあるという(だから、両替はほとんど事前に日本でやっていった)。確かに、買い物や食事をしてお金を払うと紙幣を鑑定機にかけている店をよく見かけた。 しかし、我々日本人にはニセ札かどうかなんて分かるわけがない。つかまされたら運が悪かったと思ってあきらめるしかない。小さな商店や田舎の土産物屋さんに鑑定機がある訳などない。実際、僕だってニセ札と知らずに使ったかもしれない。だが、相手も何も不審がることもなく受け取り、それで世の中は回っていく。中国って、そんな国なんだと思うしかない(写真左=上海のBarはええよ…ほんまに)。 ◆ぬるくて腹が立つ飲料類 本編でも少し触れたが、レストランや食堂でもコンビニでも、とにかく飲料があまり冷えておらず、ぬるい。喫茶店で出てくる水までぬるい。中国人はこんなにぬるいのが好きなのか? 食事をする機会は計9回あったが、ビールがちょうどいい感じに冷えていたのは、3日目に食べた「上海姥姥」1軒のみ。 ついでに言えば、コンビニで売っているペットボトル入りの中国茶や紅茶類に加糖のものが多いのには参った。日本のメーカー製の「お茶」や「烏龍茶」は当然無糖だが、売っていない店も多く、本当に困った。砂糖の入った緑茶なんて飲めたものじゃないと思うが…(写真右=南京飯店前の食堂街。全店を制覇したかったなぁ)。 ◆カネをかけなくても美味しい店はある ツアー旅行をした人からよく聞くのが「食事がまずかった」という話。確かに、ツアーに付いてるお仕着せの店の料理はなぜかまずい。旅行社と契約していて、努力しなくても客が来てくれるからか。上海のような大都会なら、地元の人の舌もこえているし、中国全土から美味しい食材も集まってくるので、まずい店を探す方が難しいと思うが、残念ながらまずい店はある(僕らも今回1軒だけそういう店に出会ってしまった)。 美味しい店に出会う「打率」を高くするには、(1)特定のガイドブックだけを信用しない(2)ネットでの口コミ情報をできるだけ集める(今は実にたくさん情報がある)(3)地元の人に教えてもらう(4)地元の人でにぎわっている店を選ぶ――に限る。僕らがこのルールにもとづいて今回選んだ店は1軒を除いてすべて及第点の店だった(写真左=周荘秋景)。 ◆なんとかならんか量の多さ 食べ物は美味しいのだが、1品の量の多さにはどこの店でも閉口した(唯一、「上海姥姥」は適量だったが…)。2人で旅行する場合、これが一番困る。たくさん種類を食べたいのだが、1品の量が多いので、せいぜい3~4品しか食べられないのがいつも悔やまれてならない。 2日目に食べた「上海漁亭」という店で食べた酸辛湯(サンラータン)は、お店の人は「これは2人前だ」と言うが、どう見ても5~6人分くらいの量だった。中国のレストラン業界の方、このあたり何かいい改善策を考えていただけませんか?(コースのある店では、コースで頼んだ方が良かったのかな?)(写真右=「豫園」は必見!)。 ◆言葉はできた方が楽しいに決まってる 上海では、主に「上海語」という江南地域の言葉(方言)が話されていて、上海の方に言わせると、「北京人が上海語を話す人の輪に放りこまれたら、おそらく何を言っているのかほとんど分からないくらいの差」だと言う。しかし、今は中央政府の「普通話(標準語=北京地方の言葉)政策」のおかげで、上海でもよほどの年配の人でない限り、標準語が十分通じる。 僕がこれまで学んでいたのは当然、標準語で、そのレベルはまったく自慢できるものではない。旅行中、僕の発音やイントネーション(四声)が悪くて、一度で通じないこともあったが、旅行で訪れた日本人が一生懸命中国語でしゃべっていると、上海の人たちは好意を持って必死で理解しようとしてくれて、最終的にはなんとかコミュニケーションがとれた(写真左=魯迅ゆかりの「内山書店」跡)。 今回はせっかく上海を訪れるのだからと、僕は少しだけ上海語も覚えていった。「ノンホウ(こんにちは)」(標準語の「ニンハオ」)、「シャヤ(ありがとう)」(同「シエシエ」)、「ツェウェ(さようなら)」(同「ヅァィジェン」)の3つ。旅行中、基本は標準語で通したが、レストランの従業員らに御礼を言う際、上海語で「シャヤ」なんて言ったら、ニヤッと笑って、嬉しそうな表情を返された。 僕の持論だが、外国を旅する時には現地の言葉を少しでも喋って、現地の人とじかに話した方が旅は絶対楽しくなるに決まっている。だから、どこへ行く際でもその国の言葉を学んでいく(4年前、イタリアへ旅した時は事前に3カ月勉強した)。相手の国の言葉でコミュケーションがとることで、相手の国への理解も深まるし、相手も日本人に好印象を持ってくれると思う。これこそが「草の根の民間外交」だと僕は信じている(写真右=「新天地」内の素敵な路地)。 ◆改善の余地多い接客マナー これも本編でも少し書いたが、商店やデパートをはじめ、タクシーやバスの運転手、空港や航空会社の社員らの接客マナーはとにかく良くない。基本的に、客に対して、笑顔で接客したり、感謝の言葉を発したりすることは極めて稀だった(西洋人観光客の多い「豫園」や「新天地」ではまだましだったかも)。買った商品をバッグや袋にいれてくれたり、包んでくれたりという細やかなサービスも、デパート以外はまずなかった(日本がちょっと過剰ということもあるが…)。 いまや資本主義経済にどっぷりと組み込まれ、中国でも最も近代化が進んでいると言われる上海がこれでは…。上海万博開幕まであと8カ月。「旅行者には笑顔を、客には『謝謝!』の一言を」という運動を、政府が音頭をとって真剣に取り組む時期に来ているのではないか。そして、せめて、旅行者が買った商品くらいは袋に入れるような心配り(サービス)ができる国になってほしいというのが僕のささやかな願いだ。
2009/09/22
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すみません、東日本大震災からまだ2週間なのですが、そろそろ震災以外の話題をテーマにしても怒られないかなと信じてアップします。先月(2月)の話なので少し恐縮ですが、忘れないうちに高知でのBAR巡りについて、簡単にご報告を。 今回まわったのは4軒。まずは前回(2010年10月1日の日記)行ったのと同じ「バール・バッフォーネ」で腹ごしらえ。再会した青野マスターとあれこれとお話しながら、美味しいワインと前菜盛り合わせを堪能した(2杯目でいただいたのは、なんと人生初めてのインド産のワイン。インドでワインが造られているとは驚き)。 で、BAR巡りですが、今回は少々不作だった。3軒回ったうち、良かったと思ったのは1軒だけ。最初に行ったAというお店。老舗の一軒ということは聞いていたのだが、マスターは不在で女性が一人いただけ。カクテルを頼んだが、その出来は悲しいほど(おまけに、グラスの選択も誤った)。 都会でも地方都市でも、これまで老舗BARを数多く訪ねたが、概ね評価は大きく分かれる。「期待通りで、もの凄く良い」か「老舗という看板が泣くような味と接客にがっかり」か、だ。今回のAという店はむろん後者になる。まぁ、長い間BAR巡りをしていると、こういうこともある。 気を取り直して2軒目のBというお店に転戦する。今度は大阪のあるBARのマスターの紹介(推薦ではなく)なので、まず、大丈夫だろうと思った。しかし、その期待も裏切られた。フルーツ・カクテルがウリと聞いていたので、地元・高知の文旦のカクテルを頼んだ。 カクテル自体はまぁ平均点の味わいだったのだが、出てきたお通しを見てびっくり。「和風ポトフ」なるものが出された。ここは居酒屋か? フルーツ・カクテルに和風ポトフを合わせるセンスに唖然である。マスターは合うと思っているのか? これなら、かわきもので充分だ。 しかも、地方都市のBARにしては結構強気の値段設定とチャージだった。僕的に言えば、「少しぼられた」かなという印象。このBARはたぶん、「もう2度目はない」店に入るだろう。贅沢は言わないが、お通しを出すなら、客が頼んだ酒に合うものにしてほしい。 で、再び気を取り直して、3軒目へ。帯屋町の飲み屋街からそう遠くない追手筋という場所にある「Bar・POURER(ポアラー)」=写真左上&右=というお店。オーセンティックで、落ち着いた雰囲気はまず合格点。 店は繁盛していて、マスターは忙しそうだったが、出張で訪ねたという僕にも、気さくに話しかけて応対してくれる。ようやく心落ち着ける空間に出会えて、ひと安心。ウオッカ・トニックと余市のロックを頂いたが、お値段も普通のレベル。 聞けばオープンは1985年というから、もう開業26年。マスターはどんなに忙しくても笑顔を絶やさず、すべての客に平等に対応している。常連でも一見でも同じ接客だ。繁盛している理由がわかる。「BARの善し悪しは結局のところ、マスターの全人格の反映である」と言った人がいたが、僕も同感である。 「POURER」は最初の2軒とは違って、確実に「もう一度訪れたい店」として、僕のBARリストに入るだろう。【Bar・POURER】高知市追手筋1-8-21 プランタン・パート3・1F 電話088-822-3321 午後6時~午前1時 無休こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2011/03/26
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皆様、明けましておめでとうございます。 本年もうらんかんろのブログ「酒とピアノとエトセトラ」では、お酒やBarや音楽について、皆様のお役に立つ情報を数多く発信していきたいと思っております。何卒宜しくお願いいたします。 皆様にとって、2012年が良き年でありますように! 東北の被災地の復興が一日も早く進みますように! うらんかんろこちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2011/12/31
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16.青い珊瑚礁(Blue Coral Reef)【現代の標準的なレシピ】(単位はml)ジン(40)、クレーム・ド・マント(グリーンミント・リキュール)(20)、マラスキーノ・チェリー(飾り)、グラスの縁をレモンで濡らす(砂糖でスノー・スタイルにすることも) 【スタイル】シェイク 日本生まれ(または日本人考案の)カクテルは数多くありますが、バーの現場で、半世紀以上も忘れられずに生き残っているものはそう多くありません。現代でも毎年、千を超える創作カクテルが生み出されていますが、残念ながらそのほとんどは、数年以内に忘れ去られてしまうのが現実です(その理由については、また別の機会に書きたいと思います)。 「青い珊瑚礁」はそうした国内のカクテルの歴史の中で、長く生き残ってきたカクテルです。1950年(昭和25年)5月、戦後初めて開催された本格的なカクテル・コンクール「オール・ジャパン・ドリンクス・コンクール」(日本バーテンダー協会=当時はJBA=主催)で1位に輝きました。作者は名古屋のバーテンダー、鹿野彦司氏(後に名古屋・栄で「くらぶ鴻の巣」オーナー・バーテンダー。同協会の副会長も歴任)です。 敗戦後の1947年、日本政府はGHQ(連合国軍総司令部)の指示で「飲食営業緊急措置令」を出し、国内での酒場営業や自由な酒類販売を禁じました。この規制は1949年5月にこの「措置令」が廃止されるまで続きました。「青い珊瑚礁」は、酒場営業解禁を記念する歴史的な一杯でもあったのです。 カクテル名は、1948年に公開されたイギリス映画「ブルー・ラグーン(The Blue Lagoon)」にヒントを得たと鹿野氏自身が後に語っています(出典:「バーテンダー今昔物語」1970年刊)。その後、1955年に始まるトリス・バー開業ブームによって、日本国内に広まりました。 しかし、その後様々なカクテル・コンクールが開催され優勝カクテルが生まれたにも関わらず、昭和20年代に誕生した創作カクテルで、今なお知名度を保っているのはこの「青い珊瑚礁」と「キッス・オブ・ファイア」(1953年=昭和28年のコンクールでの1位カクテル)くらいです。 前者については、「戦後初のコンクールでの優勝作品」という大きな話題性もあって、業界でも長く記憶に残るカクテルとなりました。後者については、カクテル考案の年に歌手のペギー葉山が歌ったヒット曲「火の接吻(Kiss of Fire)」にヒントを得て考案した、言わば“タイアップの優勝作品”でした。 前述のような話題性もあって、昭和30年以降に国内で出版されたカクテルブックではこの2作品は必ずと言っていいほど取り上げられました。そうした長年の積み重ねが、現代でも知名度を保っている大きな理由の一つと考えられています。 なお、残念ながら同じような日本生まれのカクテル、「バンブー」や「ヨコハマ」、「チェリー・ブロッサム」とは違って、海外のカクテルブックでこの「青い珊瑚礁」を掲載した例は、現時点では確認されていません。【確認できる日本初出資料】「カクテール全書」(木村与三男著、1962年刊)。レシピは、ドライジン3分の2、クレーム・ド・マント・グリーン3分の1、マラスキーノ・チェリー&ミントの葉(飾り)、グラスの縁をレモンで濡らす(シェイク)。・こちらもクリックして見てねー! → 【人気ブログランキング】
2016/12/07
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久々に、(おそらく4年ぶりで)名古屋でBAR巡りをしました。懐かしい出会い、素敵な出会い…いろいろありました。今回はその報告です。 【酒肆・蘭燈(らんたん)】 名古屋では知る人ぞ知る老舗。今年で開業50年です。実は、前回名古屋へ行った際、行きたいと思って探しても探しても「錦」エリアで店が見つからず、閉店してしまったのかなぁと残念に思っていたのです。ところが調べてみると、5年ほど前に地下鉄で数駅離れた「今池」というエリアへ移転していたことが分かりました。 そして今回、念願叶って、初めてお店にお邪魔できました。錦時代のバックバーや内装・インテリアを「できる限り移築した」こともあって、歴史を感じさせる落ち着いた雰囲気はほぼ昔のまま。今は2代目の息子さんが店を仕切っていますが、御歳75歳になるというMマスターも健在で店に出ておられます。 移転の理由を聞くと、「いやぁ、最近の錦は風俗が多くなって、街の雰囲気が変わってしまったから…」と。それはともかく、名古屋一の老舗がなくならずに残ってくれていることは素晴らしいことです。老舗なのに格好をつけたところがなく、フレンドリーな接客にもとても好感が持てました。 【Bar 立礼(りゅうれい)】 ここのSマスターは、名古屋の老舗の1軒「オー・ド・ビー」の出身。7年ほど前、「オー・ド・ビー」時代に一度お邪魔して以来、毎年欠かさず挨拶状をくれる律儀な方です。 そして、5年ほど前に名古屋駅前で独立されて自分の店を構えられました。これは一度行ってみなくてはと思いつつ、いつも新幹線に乗っても名古屋は素通りしていくだけで、申し訳ないなぁと思っていました。 立礼も予想にたがわず、素晴らしい店でした。Sさんの接客&トークも相変わらず、冴えていました(トークの旨さは名古屋で一番か)。カクテルも旨くて、名古屋駅にも近いのでとても使い勝手も良く、また来たいと思わせるような店でした。 【Yoshino Bar】 4年前に訪れて、T店長の温かい接客&サービスに感動した店です。前回行った際は、帰ったらすぐ訪店御礼の手紙が来ました。そして、「次回来店の際使ってください」とワンドリンク・チケットが入っていました。Tさんはそういう心憎い気遣いをしてくださる方です。 そして、行けば分かりますが、何よりもTさんのイケメンぶりが凄いのです。映画の主役でもそのままできそうな男前です(女性の方は、一見の価値ありです)。でも、格好いいだけじゃなく、カクテルの腕も一流なんで、ご安心を。 普通のオーセンティックBARにしてはキャパは広く、ソファ席も多いので、グループで行ってもOKです。でも僕はやはり、「1人でカウンターに座って、Tさんとの会話を楽しみながら、美味しいカクテルを味わう」ことをお勧めします。 【Bar・BARNS】 ここも前回訪れた店です。名古屋ではモルトの充実度が一番のBARでしょう。とくにオールド・ボトルとかボトラーズの面白いのとかのコレクションが素晴らしいです。前回行った時は、オーナー・バーテンダーのHさんが、ブレンディドの最高峰「ロイヤル・ハウスホールド」の新旧ボトルの飲み比べなんぞを、とてもリーズナブルなお値段でさせてくれました。 今回は何が出てくるかなぁと思っていたら、サントリーの山崎です。山崎と言っても現行のボトルにはない「PURE MALT」という表記がある、発売当初の山崎です(20年くらい前?)。これを「今の山崎と飲み比べましょうという」というのがHさんからの提案です。 ホスピタリティあふれ、トークも楽しいHさん。だから、いつも賑わっているのは当然かもしれません。BARNSに行くのは3度目でしたが、いつも面白い発見があります。モルト好きの方は、名古屋へ行かれたらぜひBARNSへ。 【Bar・G(ここだけ匿名です)】 ホテルに帰る前に最後にもう1軒と思って、あるBARを探していたのですが、結局見つからず、たまたまその途中で見つけた1軒でした(ここもいちおう、僕のリストでは訪店候補の一つになっていました)。 ただし、行ってみると客層は学生っぽい若い人ばっかりだったのに加えて、スタッフの服装が皆くだけてカジュアルな格好。ネット情報では「オーセンティックBAR」というふれこみだったのに、少々がっかりしました(まぁ値段が安かったので許しましょう)。 まぁ、僕のように30年以上もBAR巡りをしていても、こんな店選びの失敗もたまにはあります(笑)。それも含めてが、BAR巡りの醍醐味であり、面白さです。久々の名古屋のBAR巡りはこうして終了しました。名古屋のマスター、バーテンダーの皆さん、いろいろとお世話になり、本当に有難うございました。近いうちの再会を楽しみしていまーす。【酒肆・蘭燈】名古屋市千種区今池5丁目8-7 電話052-733-6833 午後5時~午前1時 日休 【Bar立礼】名古屋市中村区名駅4丁目27-6 笹島YSビル7F 581-1203 午後5時~午前2時 第1・3日休 【Yoshino Bar】名古屋市中区錦2丁目10-26 水野ビル2F 220-2447 午後7時~午前2時 日祝休 【Bar・BARNS】名古屋市中区栄2丁目3-22 アマノビルB1F 203-1114 午後6時~午前3時(日祝は午後5時~午前1時) 無休こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2010/09/29
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「サンボア」と言えば、大正の初めに神戸で創業し、現在では大阪、京都、東京に計11店を構える老舗のBARチェーン(経営はそれぞれの店の独立採算。創業地の神戸店は今はない)。 なかでも有名なのは大阪の堂島サンボア(1918年創業)や京都の寺町サンボア(同)。最近では、神戸ハイボールのバック・バーを移築した北新地サンボアや、初めて東京に進出した銀座サンボアもBARファンには人気がある。 そんなサンボア・グループはどこも気さくで、くつろげる店が多いのだが、「なかでも一番くつろげる店はどこかなぁ…」と、BAR好きの友人と話してみたら、お互いやはり「北サンボアかなぁ」という結論になった。 大阪キタ・曽根崎のお初天神から東へ数分。このあたりは細い路地が入り組み、BARやスナック、居酒屋、キャバクラなどが密集する歓楽街(写真左=北サンボアの外観)。 同じキタでも梅田の阪神百貨店の裏側(南方)やマルビルの東側あたりにあった、終戦直後の闇市跡のごちゃごちゃした怪しげな飲食街は、再開発の末に15年ほど前にすっかり姿を消した。 ゆえに、この曽根崎かいわいが戦後の、昭和20~30年代の大阪の盛り場の雰囲気を残す唯一の、貴重な場所かもしれない(写真右=北サンボアの店内。映画に出てきそうな酒場です)。 だが昨今、この辺りにも再開発の波は及び、小さい店がどんどん消えてゆく。先日も老舗の鰻屋が店を閉じた。ただただ、寂しいと言うしかない。 そんな場所の一角に、「北サンボア」は在る。創業は昭和5年(1930)。大阪空襲で被害を受け、一時休業に追い込まれるも、戦後すぐの昭和21年(1946)には焼け野原に店を再建。そして今日に至るまで、味にうるさい「なにわの酒呑み」を楽しませている。 店は内装や調度品は、ほぼ再開当時のまま。丁寧に磨きぬかれたカウンターや真鍮のバーが、落ち着いた雰囲気を醸しだし、歴史と伝統を感じさせてくれる。 サンボア・グループだから、名物のハイボール(写真左)の作り方(氷は入れない)、味わいも、値段も他の店と変わらない。カウンターはスタンディング・スタイルというのも、ほとんどのサンボアと同じだ。 しかし、2代目マスターのOさんや奥さんの年季の入った優しい接客は、やはりこの北サンボアならではの味わいだ。いつ行っても笑顔で温かく迎えられ、ほっこりさせられる。 大阪出身で、東京在住のある友人は昔、「ここ(北サンボア)に来ると大阪に帰ってきたなぁという感じがする。ここでは格好をつける必要もないしね」と語っていた。 店は今3代目の息子さんも手伝う。堂島サンボア同様、店はいつも常連で溢れている。それも年輩客の比率がとても多い(写真右=店内には、今はなき神戸サンボアのマッチも飾られている。必見!)。 年輩客を大事にするということはGOOD・BARの条件である。高齢化社会が駆け足で進む日本。BARは若者や中年だけが独占する場所ではないはずだ。 BAR業界のこれからの生き残りのカギの一つは、高齢者の客をいかに大切にするかだろう。僕はそう信じて疑わない。【北サンボア】大阪市北区曽根崎2丁目2-14 電話06-6311-3654 午後5時~11時 日祝&第2土休 JR大阪駅または阪神、阪急、地下鉄梅田駅から徒歩5~10分こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2006/11/18
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カクテルというものが生まれて約200年ほど経つとも言われています。個人的な、趣味的な好奇心から、最近、カクテルがどのように発展していったのか、先人たちはどんな苦労をして今につながる近代的なカクテルを完成させていったのか、そんな歴史と背景にとても興味を持つようになりました。 そして、今から100年前、150年前にはどんな名前のカクテルがつくられ、どう飲まれていたのだろうかということを、古今東西のさまざまなカクテルブックを調べたり、カクテル関係の図書を通じて、調べているところです。 海外の古いカクテルブックは、従来から持っていた「サヴォイ・カクテルブック」(1930年刊)のほか、いくつか著名な本を探し、手に入れました。例えば復刻本ですが、世界初の体系的なカクテルブックと言われるジェリー・トーマスの「How To Mix Drink」(1862年刊)や、「カクテルの父」とも言われるハリー・マッケルホーンの「Harry's ABC of Mixing Cocktails」(1919年刊)など。 そうした本を読んでいくうちに、日本では、後に大正、昭和両天皇の料理長もつとめたことで有名な秋山徳蔵氏(1888~1974)が1924年(大正13年)10月に、日本初のカクテルブックである「カクテル(混合酒調合法」という本を著したということ、さらに少し遅れて同年11月に、現役バーテンダーであった前田米吉という方(どういう経歴かは詳細不明ですが)が「コクテール」という本を出版していることも知りました。 しかしいずれの本も現在では、古書店を探しても、古書関係のネット販売サイトで検索しても、入手がとても困難な貴重本です。「現物をぜひ見て、読んでみたいなぁ…」と願っていたところ、幸運にも、ある懇意なバーテンダーから「私はどちらも持っているからお貸ししましょう」というとても有り難い言葉を頂きました。 感謝感激です!! これらの本は、欧米でハリー・マッケルホーンやハリー・クラドック(サボイ・カクテルブックの著者)がカクテルを発展させていった1910~20年代、遠い東洋の日本でバーテンダーの先駆者たちがカクテルという新しい飲酒スタイルの分野に対して、どう向き合い、どう工夫・苦労し、どう完成させていったのかが分かる、本当に貴重な証拠資料です。 早速、少しずつですが、じっくり読んでいるところです。しかし読んでいくうちに、こうした貴重なデータは自分だけで独占していいのかと思うようになりました。プロのバーテンダーでもおそらく、名前は知っていても、現物は見たことのないという方がほとんどかと思います。以前、あるBARのマスターからも「秋山さんの本、前々からぜひ読んでみたいと思っているんですが、まだ叶いません」という声も聞いていました。 私としては、興味深いデータを自分だけで独占するのではなく、現代のバーテンダーの皆さんへ紹介したい(=貴重なデータを共有したい)と強く思いました。そこで次回から、この2冊のカクテルブックを、可能な限り忠実に紹介していきたいと思っています。 ただ、ここで問題になるのは著作権です。著作権保護の期間はご承知の通り、現在では、著作物の公表(出版)から50年、もしくは作者の死後50年です(※末尾【注】ご参考)。著作権が誰が持っている(遺族か出版社か)にもよりますが、もし著作権を出版社が持っていたとしても、2冊とも公表から50年以上経過していますので、この点はクリアできます。ちなみに2社とも、調べた限りでは現在は存在していません。 しかし著者については微妙です。前田米吉氏がいつ亡くなったのかは、現時点では情報はありませんが、秋山氏が亡くなったのは36年前の1974年です。もし、この本の著作権を秋山氏の遺族が継承していた場合、うらんかんろはあと14年間は、著作権法違反で訴えられるリスクを負います。 私としては、もしご遺族からクレームがあった場合、(1)この連載は、本が絶版になっている現状で、カクテル普及の先駆者である秋山、前田両氏の偉大な功績を後世に伝えることを願ってしていること(2)私自身は一銭の利益も得ていないこと--をお伝えしてご理解を得たいと思っていますが、万一それでも、ご遺族(あるいは出版社から著作権を継承している法人)が納得せず、法的に訴えると言われた場合はその時点で連載は中止し、過去分についても削除いたしますので、何卒ご了承ください。 連載は、なにぶん十分な時間もないので、不定期に、少しずつしかアップできないうえに、“完結”するまではかなりの長丁場になりそうです。どうかご容赦のうえ、気長にお付き合いください(また、マニアックな内容ですので、ご興味のない方はスルーしてくださいませ)。【注】著作権の保護期間は、2017~2018年の法改正で「作品公表後または作者の死後70年」に延長されました。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2010/11/17
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夏から秋にかけては、1年中で一番フルーツが美味しい季節かもしれない。果物屋さんの店先には、色とりどりのいろんなフルーツが所狭しと並べられていて、見た目も美しい。 今年の夏休み中、友人たちを我が家に招いたとき、フルーツ・カクテルをよくつくった。お酒にあまり強くない人でも、フルーツ・カクテルなら、結構喜んで飲んでくれる。 一応、パソコンを使って、カラー印刷したお客様用メニューもつくる。メニューには、「本日のフルーツ・カクテル」とだけ記して、用意したフルーツの名前だけを書く(他にも一応、注文に応えられる主なスタンダードカクテルのリストも添えた)。 先日、友人を招いた際は、ブルーベリー、ラズベリー、オレンジ、巨峰、ナシ(幸水)、桃、スイカ、グレープフルーツ、パイナップル、バナナ、スダチ…と、計11種類のフルーツを用意した。 たくさんのフルーツを用意すると、正直言って材料費も結構かかる。そして、フルーツは新鮮なうちが命。だから客人には、できるだけ多くの種類を飲んでほしい。「いや、私はウイスキーの水割りがいい」「私はビールでいい」なんて、最初から言われると、がっくりくる。 という訳で、いつも半ば強制的(笑)に、「バー・タイムは、僕のフルーツ・カクテルから始めようよ」と好きなフルーツを選んでもらって、飲んでいただく。客が迷惑がろうとも、僕はわがままを貫いて、どんどんフルーツ・カクテルを勧める。 どんなフルーツ・カクテルをつくるかは、その場で考えるが、基本的には、そのフルーツにホワイト・スピリッツ(ジン、ウオッカ、ラム、テキーラなど)と様々なリキュールとの組み合わせ(味を引き締めるために、レモンジュース少々を加えたり、甘さが足りない時はシロップも少し…)。 フローズンぽいのが好きな人には、クラッシュド・アイスも加えたりする。後はブレンダーで一気に混ぜるか、バーズ・ネストで漉すか、ペストル(すりこぎ)で潰すか、ブレンダーから直接注ぐか、シェーカーで混ぜ合わせるか…、いろいろ。どういう作り方がベストかは、まだ試行錯誤の段階だ。 今夏、客人に人気があったベスト3は、ナシとスダチのカクテル(写真左上)、ブルーベリーのマティーニ(写真右)、スイカのカクテル(写真左下)。ナシやブルーベリー、スイカにはそれぞれ、その果物のフレーバー・リキュールを少し加え、ナシはスダチの絞り汁を少し足してフローズン・スタイルに。 他には、ベリーニ(桃)、ピーニャ・コラーダ(パイナップル)も気に入ってもらった。多くの種類のフルーツ・カクテルを同時進行でつくるのは、どういう順番でつくるのかも含め、結構大変だが、客人の「美味しい!」の一言でそんな苦労も報われる。 今の季節は、本当にフルーツの種類が豊富で、値段も手頃なので嬉しい。だけど、そんな季節ももう後わずか。残り少ない「フルーツの季節」。貴方は何を楽しみますか?
2005/09/13
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ライフワークの一つとして、古い時代のカクテルのことをあれこれ調べていると、自分でも思わず、「そうだったのかぁー」「へぇー、知らなかった」と驚くことがあります。現代のBarでは「そんなの常識」と思われていることが、調べてみれば意外と(いや、まったく)違っているのです。当然、現代のバーテンダーの皆さんでも、古い時代のカクテルに格別詳しい方以外は、そんな「常識を覆す事実」を存じておられません。 先般出版された石垣憲一さんの名著「カクテル ほんとのウンチク話」(柴田書店、2008年刊)を読んで、驚かれた方(実は僕もその一人)も多いと思いますが、あのマルガリータの有名な「流れ弾伝説」に代表されるように、後世の「つくり話」を「常識」と信じ込まされていることさえあります。 今回は、連載中の「全面改訂版:カクテル――その誕生にまつわる逸話」でも取り上げたカクテルのなかから改めて、「常識のウソ」と歴史的事実のいくつかを、出来る限り詳しく紹介したいと思います(連載内容との若干の重複はご容赦あれ)。 1.マティーニは当初、ジンとドライ・ベルモットではなかった 「マティーニ」という名前が初めて本に登場したのは、石垣氏の著書によれば、1906年、ルイス・マッケンストゥラム(Louis Muckenstrum)氏が出版したカクテルブックと言われています(「パリで1904年に出版されたフランク・ニューマン(Frank Newman)氏の著書『アメリカン・バー』の方が早い」=出典:PBOのHPや欧米の複数の専門サイト=という主張もあるが、後者の本については1907年刊行説もあり、今なお決着は付いていません)。 しかし、古い時代のカクテルブックを見ていると現代とは違って、1930年以前のマティーニは、ほとんどがジンとスイート(イタリアン)・ベルモットでつくられているのです(おそらくは、マティーニがスイート・ベルモットを使ったマルチネス・カクテルにルーツを持つことがその大きな理由でしょうが…)。 1930年代になると、ジン+スイート・ベルモット+ドライ・ベルモット、あるいはジン+ドライ・ベルモットという組み合わせのマティーニ(バリエーション)も誕生していきますが、主流はまだまだジン+スイート・ベルモットでした。ちなみにサヴォイ・カクテルブック(1930年刊)では、マティーニ・ドライ、ミディアム、スイートの3種を同等に紹介していますが、マティーニ・ドライで「ジン3分の2、ドライ・ベルモット3分の1」です。 ジン+ドライ・ベルモットのマティーニが主流になるのは、1930年代後半~40年代以降です。そのきっかけは何だったのかは、僕はまだ正確には把握していませんが、今ではマティーニ材料の定番とも言えるノイリー社のドライ・ベルモットの米国への輸出が本格的に始まったことが大きいようです(このテーマについては、別の機会に改めて考察したいと思います)。 当初はジンとドライ・ベルモットの割合は1:1くらいでしたが、近年は、ますますドライ化の傾向が強まっているのは、ご承知の通りです。最近では、ベルモットは5ml程度しか入れないBarがほとんどです。氷やグラスをベルモットでリンスするだけというBarも結構あります。しかし、個人的にはベルモットの存在感があってこそのマティーニと思います。ジンばかりが自己主張しすぎる極端なドライ・マティーニは、「マティーニであってマティーニでない」と思うのは僕だけでしょうか。 2.アレクザンダーやソルティ・ドッグ、ベースの関する意外な話 これも意外と「プロ」にも知られていない事実です。アレクザンダーと言えば、「1901年に英国のエドワード7世の即位式、あるいは1902年のアレキサンドラ王妃の戴冠式の際に献上されたカクテル」というのが、近年最も信憑性ある説です(出典:上記・石垣氏の著書)で、現代では「ブランデー+クレーム・デ・カカオ+生クリーム」という組み合わせで、女性にとても人気のあるショート・カクテルです。 しかし、1940年以前の欧米のカクテルブックに「アレクザンダー」が登場していれば、ジン・ベースになっていることが意外と多いのです。なかには、「アレクザンダーNo.1、No.2」という形でブランデー・ベースと併記している文献もありますが、それでもNo.1はジン・ベースです。ブランデー・ベースが主流となるのは40年代以降です(主に欧州ではブランデー・ベースが、米国ではジン・ベースが発展していきました)。 ソルティ・ドッグも現代ではウオッカ・ベースが当然ですが、1940年代後半の誕生当初はジン・ベースでした(欧米のカクテルブックでの初出は現時点で調べた限りでは、1953年刊の「ミスター・ボストン・バーテンダーズ・ガイド」です)。 面白いことに、現代ではグラスの縁をスノー・スタイルにしますが、当時は、塩をそのまま放り込んで、グレープフルーツ・ジュースと一緒にステアしていました。 ジン・ベースのソルティ・ドッグはその後、70年代前半まで幅をきかせます。ウオッカ・ベースが登場するのは、手元にある欧米のカクテルブックでは、70年代に入ってからです(このきっかけもまだよく分かりませんが、当時、ブラディー・マリーやチチ、スクリュー・ドライバーなど、ウオッカ・ベースのトロピカルカクテル・ブームが始まっていたことにも影響されたのではないかと推察しています)。 3.ハイボールは必ずしもソーダ割りではなかった Barでハイボールと言えば、日本では通常、(ブレンディド・スコッチ)ウイスキーのソーダ割りを指します。しかし、欧米では、昔から「****・ハイボール」というカクテルは必ずしもソーダ(炭酸水)ではありませんでした。 実際、古い1890~1930年代くらいのカクテルブックでは、ベースの酒はウイスキーにこだわらず(もちろんウイスキーが一番多いですが)、また、水やジンジャー・エールなどで割っても「****・ハイボール」と呼んでいます。 しばしば「ハイボール」の語源として、「ソーダの泡がプクプクと上へ立ち上がる様から」と記しているカクテルブックがありますが、水を使ってもハイボールと呼んでいたことからも、この語源解説はまったく根拠がないことになります(ハイボールの語源については、「カクテルの逸話連載(45)」ご参照を)。 日本でも1950年代までのカクテルブックには、水で割っても、ジンジャー・エールで割っても「****・ハイボール」と呼んでいたのは、欧米の影響の名残でしょう。しかし時代が進むにつれて、「****・ハイボール」という呼称はソーダで割ったロング・カクテルに限定的に使われるようになり、今日に至っています。 4.誕生時のマイタイには、パイナップル・ジュースは入れなかった マイタイと言えば、「トロピカル・カクテルの女王」とも称され、暑い季節の人気カクテルです。1944年に、サンフランシスコのレストラン・オーナー、ビクター・J・バージェロン(Victor J. Bergeron)が考案したと伝わっています(出典:Wikipedia英語版ほか)。 現代の標準レシピは、「ラム+オレンジ・キュラソー+パイナップル・ジュース+ライム・ジュース+シロップ、最後にダーク・ラムをフロート」(出典:NBAオフィシャル・カクテルブックなど)で、シェイクしてクラッシュド・アイスを詰めたサワー・グラス等で供されることが一般的です。 しかし、当初バージェロンが考案したレシピは「ラム+オレンジ・キュラソー+オルジェート・シロップ+ライム・ジュース(シェイクしてロック・スタイル)」で、パイナップル・ジュースやダーク・ラムはありませんでした。 いつ頃、誰がパイナップル・ジュースやダーク・ラムを加えるレシピを考案したのかは、よく分かっていません(なおリサーチ中です)が、現代ではこのレシピが定着してしまいました。パイナップル・ジュースを入れるか入れないかは、好みの問題もあるのでどちらが正解とも思いませんが、バージェロンのオリジナルを味わってみたければ、やはりパイナップル・ジュース抜きで味わってみてほしいと思います。 【下】へ続く。・こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2013/05/24
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先日の日記で少し触れたマスターの海外雄飛の件、そのご本人、大阪・北新地のバー・ベッソ(BESO)の佐藤章喜さんから挨拶状が届きました。9月14日でもって大阪の店を閉めて、香港へ移転すること、そして「新たな道へ進む」ことに対して「一生懸命努力をする覚悟」が記されていました。 「挑戦するカクテル・アーチスト」として、数多くの独創的な作品を生み出してきた彼を失うことは、大阪にとって、いや日本のバー業界にとって、計り知れないな損失で、残念でなりません。 ただ、僕はこうも思いました。日本という小さな枠に彼を閉じ込めておくより、逆に、彼のような才能が世界に羽ばたき、日本のバーテンダーの高いレベルが世界に認知されることは、日本のバー業界にとっては大きな誇り・財産になるのではないかと。 香港での新たな店は、香港島のセントラル地区に誕生します。40坪の大バコだそうです。当然ですが、住まいも香港に移して、不退転の覚悟でのチャレンジです。店のスタッフも、彼の熱い気持ちを支えようと香港へ同行します。 新しい店の名前は「Dining Bar OWL by BESO, Osaka」。「OWL(アウル)」とは「ふくろう」。「新たに羽ばたくこの時には、『賢者』の別名を持つ鳥がふさわしいかなと思いました」と佐藤さん。心から、彼の成功を祈ります。落ち着いたら、ぜひ新たなステージに立った佐藤さんを香港へ訪ねてみたいと願っています。
2013/08/13
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東京出張で飲む時は、たいてい銀座、有楽町界隈が多い。たまに銀座を離れても、赤坂、麻布十番、神楽坂、浅草、あと高田馬場くらいか。渋谷や新宿、池袋などで飲むことは、最近はほとんどない。 なぜ銀座中心かと言えば、会社が近くにあることに加えて、やはり、東京でも一番のBAR激戦区で、なおかつ東京で働くバーテンダーにとっても「聖地」である銀座のBARを自分の目で見定めるのがとても興味深いからだ。 しかし、今回は東京在住の友人に誘われて、六本木まで足を延ばした。六本木交差点から歩いて数分の裏通り、この辺りは意外にも坂が多くて、階段になっているところもある。そんな階段を下りる途中に、看板らしい看板もないこの酒場があった。 その名は、少し変わった名で「ジュ・ド・ペッシュ(Jus de P?che)」。仏語で、直訳すれば、「桃のジュース」(なぜ、この名にしたのかは聞き漏らした)。扉を開けると、表の喧噪からは切り離された、まさに静かな隠れ家BAR。実は、友人から事前のこのBARへ連れていくと聞いていたので、ネットで少し調べていた。 すると、なんとマスターはあの南青山の老舗「BARラジオ」出身だという。ラジオで修業し独立した方のBARは、東京には5、6軒(そのうちの1軒「M」は残念ながら先日閉店したと聞いた)あって、僕はこれまで新宿の「ル・パラン」や神楽坂の「歯車」にお邪魔したことがあるが、どのBARも、ラジオのオーナーであるOさんの薫陶よろしく、内外装やロケーションにこだわった、おしゃれで個性的な店が多い。 「Jus de P?che」もそんな期待を裏切らない空間だった。友人は「ここはフルーツ・カクテルが旨いんだ」と言った。確かに、それは事実。しかし「旨いが当然」のフルーツ・カクテルよりも僕がもっと興味をひかれたのは、バック・バーの棚に並んだ保存瓶の数々。そのほとんどは、自家製のオリジナルな酒である。 例えば、様々なフルーツを使ったウオッカやジンとか、ハーブ入りのラムとか、梅を漬け込んだシングルモルトとか、書ききれないほど興味深い酒がずらりと並んでいる(生わさびが入っている瓶もある)。メニューにも自家製酒に1頁を割いているが、棚にはまだまだ珍品がありそうだ。こういう遊び心は酒飲みの好奇心をくすぐる。 マスターのYさんは今はなき1stラジオ、2ndラジオではなく、3rdラジオ、すなわち現在のBARラジオで修業したという。「ル・パラン」のHさんの先輩だというので、ひょっとして僕が昔、3rdラジオを訪れた際、出会っている可能性もあるが、すれ違いだったかもしれない。でも、まぁそんなことは今はどうでもいい。僕は「ジュ・ド・ペシュ」のカウンターにいるのだから。 僕は1920~30年代に生まれたという「ブラッドハウンド」というカクテルをまず頼んだ。サブのスタッフの方もラジオ出身ということで、所作はとても手際よく、美しい。2杯、3杯目はやはり、棚のオリジナルな酒に目が向かった。僕が頼んだのはゆずウオッカのソルティ・ドッグ、そしてラフロイグ梅酒。どれも唸るばかりの旨さ。 加えて、グラスも一点もののアンティークっぽいものが多く、さすがラジオ仕込みのこだわりが感じられる。ラジオやラジオ出身の方の店は、おしゃれで静かな空間の店が多いせいか、「少し気取って堅苦しい」という声もあるが、この「ジュ・ド・ペッシュ」は六本木というラテンな街の雰囲気がそうさせるのか、Yマスターはとても気さくで話好き。堅苦しさなど微塵も感じない。 客がほとんど我々だけだったこともあるが、マスターらとの会話も弾み、僕らは至福の時間を過ごした(ラッキー!)。嬉しいことに、お勘定も、若干お高めのラジオに比べると、とても良心的だ(この接客・サービスと酒、雰囲気なら納得できる)。 帰り際、僕は持参した拙著「今宵もBAR…」と秋山徳蔵さんの復刻版「カクテル(混合酒調合法)」などを、“お土産”として差し上げ、「また必ずお邪魔します!」と再訪を約束した。ご無沙汰してきた六本木に、いい“足場”が出来たのは嬉しい収穫。出没の頻度が増えそうかな…(笑)。【ジュ・ド・ペッシュ(Jus de P?che)】東京都港区六本木3丁目13-3 アネックス2F 電話03-3405-8805 午後7時~午前3時 日休こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2011/05/19
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日本のフォーク、ロック、その黎明期を振り返る ◆歌謡曲、演歌、民謡しかなかった邦楽の世界に いま振り返ると、1960年代後半から70年代後半の約10年間は、日本の音楽シーンにとっては、とても重要な時期だったように思います。 60年代後半、それまで歌謡曲、演歌、軍歌、民謡くらいしか聴かれなかった邦楽の世界に、まずフォークというジャンルの音楽が登場します。70年代に入るとフォークは、フォーク・ロックという方向へ発展し、そして初めて日本語で歌うロックが生まれ、その後「ニュー・ミュージック」という新たなジャンルが生まれていくという、まさに新感覚の邦楽の黎明期でした。 この60年代後半から70年代初めにかけては、「米国の音楽に負けるな!」と、情熱あふれる若いアーチストたちが数多くデビューし、職業作詞家・作曲家に頼らず、自分たちの感性でメロディーや詩をつくり、歌うアーチスト(シンガー・ソングライター)が輝きを持ち始めた時代でした(歌謡曲の世界でもその後、職業作曲家が洋楽のセンスを織り込んだ和風ポップスの曲を生みだしてゆきます)。 先日、ある友人から、当時の音楽シーンはどういう状況だったのかを尋ねる質問を受けました。そこで、私の記憶や印象に今も残り、多大な音楽的影響を受けた歌手、グループを、当時のレコードレーベルも含めて、そして私自身の音楽遍歴も交えて振り返ってみました(データは一応Wikipediaなどで確認しましたが、正確性の保証はありませんので、悪しからずご了承ください)。 ★1965~69 ◆まずフォークから始まった 1960年代後半、日本にフォーク・ブームが起きます。そのきっかけとなったのは、60年代半ばに米国から伝わったPPM(ピーター・ポール&マリー)やジョーン・バエズ、ブラザース・フォー、ボブ・ディラン、キングストン・トリオらのレコードでした。小学校5年生で初めてギターを買ってもらった私が、まず始めたのもPPMの曲のコピーでした。 まもなく日本ではマイク真木が歌う「バラが咲いた」(1966年)やブロードサイド・フォーの「若者たち」(同)、森山良子の「この広い野原いっぱい」(1967年)が大ヒットし、大学ではカレッジフォーク・ブームが起きて、フォーク・ソング同好会やサークルが次々と誕生していきました。 加山雄三がフォーク路線を狙って「旅人よ」を出したのもこの頃でした(ビートルズも64、65年頃には日本で人気を得ていましたが、ビートルズから直接影響を受けて誕生した、オリジナルを歌う歌手やバンドというものは、残念ながらこの頃まだ登場しなかったと記憶しています)。 一方、関西では、思わぬ形でフォークが注目を集めるようになります。1967年12月、京都の大学生3人(加藤和彦、はしだのりひこ、北山修)からなるフォーク・クルセダーズ(通称フォークル)というグループがメジャー・デビュー。デビュー曲の「帰ってきたヨッパライ」は爆発的にヒットし、オリコン初のミリオン・セラーとなりました。 このコミック・ソングのようなデビュー曲は、私はあまり好きではありませんでしたが、その後の発表された、「悲しくてやりきれない」「イムジン河」「青春は荒野をめざす」はお気に入りで、友人と一緒にやっていたフォーク・バンドでもレパートリーにしていました。当初「1年限りのプロ活動」を公言していたフォークルは、68年10月に解散しました。 (加藤は解散後、サディスティック・ミカバンドやソロ歌手としてあるいは作曲家として活躍したが、2009年に自殺。はしだの「その後」は本稿の「はしだのりひことシューベルツ」で後述。京都府立医大の学生だった北山は、解散後は芸能界とは距離を置き、九州大学医学部教授も歴任、精神科医・エッセイストとして現在も活動している) ◆反戦・平和、そしてプロテスト・ソング 1968年になると、ベトナム反戦運動や反安保闘争がさらに活発化してきます。フォーク歌手のなかにも、娯楽的な歌詞から一線を画し、社会的、政治的メッセージの色濃いプロテスト・ソングを歌う人が増えてきました。曲も自分たちでつくるシンガー・ソングライターが次々と登場してきます。 69年には、「URC(アングラ・レコード・クラブ)」という関西フォークを発信する独立系レコードレーベルが誕生します。URCは社会性の強いアーチストを発掘したのが特徴でした。この頃、活躍し始めた歌手やグループには、高石ともや、五つの赤い風船、中川五郎、岡林信康、高田渡、斎藤哲夫、遠藤賢司、加川良らがいました。このなかで、私が一番好きだったのは岡林信康です。 岡林のセカンド・アルバム「見る前に跳べ」とサード・アルバム「おいら、いち抜けた」は今でも、凄い名盤だと思います。後に“路線転向”した岡林ですが、この頃は反戦・反権力をメインテーマにしていました(「見る前に跳べ」では、後の、はっぴいえんどがバックをつとめていました)。当時、大阪の「春一番」ライブや、中津川のフォークジャンボリーは「フォークの聖地」として人気を集めていました。 ★1970~73 ◆日本語を初めてロックに載せたはっぴいえんど 70年安保の混乱と熱気が去った後、様々な音楽が生まれ、その中から大瀧詠一、細野晴臣、鈴木茂、松本隆の4人からなるバンド、はっぴいえんどがバンドとしてメジャー・デビューを果たします(70年8月、当初はURCレコードから発売、のちベルウッド)。 はっぴいえんどはご承知のように、「日本語をロック音楽に乗せて歌った初めての本格バンド」と位置づけられています。1stアルバム「はっぴいえんど」(1970年発表)と2ndアルバム「風街ろまん」(1971年発表)は不滅の名盤だと思います。私は、「風街ろまん」発売直後のライブを大阪・難波の高島屋ホールで聴く幸運な機会が持てましたが、大瀧詠一亡き今、とても貴重で少し自慢できる思い出です。(少し個人的な話で恐縮ですが、ちょうどこの頃、私の参加していた3人編成のギター&コーラス・バンド「木の葉がくれ」も結成されました。はっぴいえんどの音楽は私たちの心をとらえ、当初は、その曲のコピーに熱心に取り組みました。洋楽では、もっぱらCrosby, Stills, Nash & Youngのコピーをよくしてましたが、その後、自分たちでオリジナル曲もつくるようになり、それは2枚のアルバムに結実しました)。 一方、旧来のフォーク路線でも、第二世代の歌手たちが登場してきます。1969年、吉田拓郎、泉谷しげる、海援隊らを世に出す「エレック・レコード」という会社が設立されます(しかし、エレックは放漫経営がたたって76年に倒産します)。 ◆「学生街…」が大ヒットしたガロの悲劇 この頃デビューした歌手・グループで、前述以外では、どんな人たちが記憶に残っているかといえば、次のような面々です。ガロ、ザ・ディラン2(セカンド)、赤い鳥、六文銭、あがた森魚、はしだのりひことシューベルツ、ブレッド&バター、はちみつぱい、RCサクセッション等々(ブレッド&バターは今でもまだ現役で活動してます)。 このなかで、私がとくに好きだったのはガロとザ・ディラン2、赤い鳥、シューベルツでした。 ガロは1971年、「日本のCrosby, Stills & Nash」を目指して結成された、コーラスを重視した3人編成のバンドでしたが、72年にリリースしたシングル盤の「学生街の喫茶店」(当初「美しすぎて」というシングル盤のB面用の曲だったのがレコード会社の意向でA面に差し替えられた)が大ヒットしてしまったのが不幸の始まりでした。 ガロにはその後、歌謡曲っぽいイメージが付きまとい、テレビで歌わされるのは「学生街…」ばかり。本人たちも不本意だったのか、わずか5年で解散してしまいました(メンバーの1人日高富明は1986年に自殺。もう一人のメンバー堀内護も2014年病死、現在は大野真澄だけが健在です)。 ディラン2は、60年代末、西岡恭蔵、大塚まさじ、永井ようの3人が当初「ザ・ディラン」の名で結成し、活動していました。彼らのオリジナル、「プカプカ」「サーカスにはピエロが」は今でも凄い名曲だと思います。メンバーのうち、西岡は1971年に脱退し、「ディラン2」自体も74年に解散します。 西岡恭蔵はグループ脱退後、ソロ歌手として精力的にライブハウスなどで活動していましたが、残念ながら1999年、その2年前に先立った妻の後を追うように自殺してしまいました…(涙)。残るメンバーだった大塚まさじ、永井ようは現在もそれぞれソロで精力的に活動し、時折り一緒にステージに立っています。 ◆「翼をください」は今や教科書にも 5人グループだった赤い鳥は「竹田の子守唄」でデビューし、ヤマハの「ライトミュージック・コンテスト」で優勝します。当初はフォーク路線でしたが、その後、紙ふうせん(2人)とハイファイ・セット(3人、現在は解散)に分裂してしまいました(赤い鳥時代の「翼をください」と「忘れていた朝」は今も大好きな曲です。「翼をください」は今では教科書にも載っていますね)。 「風」が大ヒットしたシューベルツは、フォークル解散と同時に、はしだのりひこが結成したバンドでしたが、メンバーの突然死もあって解散。はしだはその後、クライマックス(「花嫁」が大ヒット)、エンドレスと次々グループを換えながら音楽活動を続けました。晩年はパーキンソン病を患い、闘病生活をしながら時折りソロ活動も続けましたが、2017年、72歳で亡くなりました。 はっぴいえんどは1972年に解散。URCからその版権を引き継いだのが「ベルウッド・レコード」(1971年設立)でした。当時の「ベルウッド」のアーチストとしては、ほかにはっぴいえんど解散後ソロになった大瀧詠一や、山下達郎、大貫妙子らが目立っていました。 ◆1974~77 ◆数多くのスターを生んだポプコン 井上陽水、吉田拓郎、泉谷しげる、小室等の4人が1975年、「フォーライフ・レコード」を設立します。ただし、経営方針をめぐるゴタゴタもあって、印象に残るような実績はあまり残せずに、2001年に会社は解散しました。 一方、ヤマハが1967年~71年に開催した「ライト・ミュージック・コンテスト」と、1969年に始まった「ポピュラー・ミュージック・コンクール」(通称「ポプコン」)からは後にメジャーになるアーチストが巣立っていきます。 ポプコン出身で目立っていたのは、中島みゆき、オフコース、チューリップ、小坂明子、八神純子らです(チャゲ&飛鳥もポプコン出身ですが、注目されるのはもう少し後です=1979年の「ひとり咲き」でメジャー・デビュー)。 中島みゆきは現在でも息長く活動中。オフコースのメンバーだった小田和正やチューリップのメンバーだった財津和夫はその後、ソロ歌手(シンガー・ソングライター)として活動し、現在でもなお名曲をリリースし続けています。 ◆ユーミンの衝撃デビュー ポプコン出身以外で衝撃的なデビューを果たしたのは、1972年に登場した荒井(現・松任谷)由実です。彼女の音楽は、コード進行やメロディーが当時としては、とてもおしゃれで、斬新でした。フォークでもロックでもない新しい感性の音楽分野は、まもなく「ニュー・ミュージック」と呼ばれるようになりました。 デビュー・アルバム「ひこうき雲」(1973年発売)と、セカンドの「ミスリム」(1974年発売)は、やはり日本の音楽史に残る名盤だと思います。昔、荒井由実時代のライブを天王寺野外音楽堂で聴けたことは、今でも私の自慢の一つです。 かぐや姫が人気を得たのもこの頃(1973~74年)ですが、個人的には、私たちのバンドの音楽的志向と少し違っていたので、「神田川」(73年発売)や「赤ちょうちん」(74年発売)はあまり好きではありませんでした(唯一、「妹」=74年発売=は好きでしたが…)。また、かぐや姫解散後、伊勢正三らがつくった「風」のシングル「22才の別れ」も結構好きで、聴いていました。 1973年にデビューした、名古屋出身の「センチメンタル・シティ・ロマンス」も都会的なセンスあふれる大人のロックを創り出すバンドで、現在でも息長く活動を続けています。 ◆ロック史上に輝く名盤「ソングス」 1975年、大瀧詠一は独自の「ナイアガラ・レーベル」を設立します。このレーベルからは、シュガー・ベイブ(山下達郎、大貫妙子らが中心となったグループ、76年に解散)やソロでの山下達郎、佐野元春、杉真理らが育ち、メジャーになっていきます。 この頃、私は邦楽では、荒井由実時代の4枚のアルバム(上記の2枚&「コバルト・アワー」=1975年発売、「14番目の月」=1976年11月発売)と、73年にデビューしたセンチメンタル・シティ・ロマンスの1stアルバム(75年発売、タイトルはバンド名と同じ)、それに75年4月に発売されたシュガー・ベイブのデビュー・アルバム「ソングス」を、レコードの針が擦り切れるほど聴いていた記憶があります。 「ソングス」は今聴いても素晴らしく、日本のロック史に輝く名盤と言っていいと思います。とくにこのアルバム1の名曲「ダウンタウン」はその後、エポら多くのアーチストによってカバーされています。 以上、駆け足でしたが、日本のフォーク&ロック黎明期の10年を振り返ってみました(でも、急いでまとめたので、誰か大事なアーチストを忘れていないかなぁ…)。 (文中敬称略)【おことわり】ロカビリーやGS(グループ・サウンズ)はなぜ“無視”したのかと言われそうですが、ロカビリーについては60年代前半までがピークだったことに加えて、米国音楽の翻訳・模倣音楽であるため、日本人によるオリジナルとは言えないというのが理由です。 また、GSは基本的に歌謡曲の延長線上に誕生し、曲も職業作詞家、作曲家に頼っていたグループが多かったので、あえて触れませんでした(ブルーコメッツは作曲も取り組んでいましたが、曲の雰囲気はフォークでもロックでもなく、歌謡曲がポップに発展したものと僕は考えています)。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2012/09/24
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黄金週間の最後の5月4~6日、親戚のご夫婦のご招待を受けて、愛知県犬山から岐阜県下呂温泉へと2泊3日の旅を楽しんでまいりました。 犬山を訪れるのは初めてですが、新幹線と名古屋鉄道を乗り継ぐと、大阪からわずか2時間ほどで到着です(名古屋までの新幹線は黄金週間のピークとあって、結構混んでいました)。 犬山へ着いた僕らは、まずは親戚のご自宅へ。親戚宅の玄関には、白と赤の美しいつるバラが2階にまで伸びて、見事なアーチをつくっています(写真左)。 40平米ほどの庭には、色とりどりの花が咲き乱れ、花のほかにも、ハーブや野菜たちが、大切に育てられています。 ガーデニングは花への愛情と体力が必要な趣味ですが、広い庭をお二人でしっかりと手入れされているのを見て、ただただ感心。個人的には、オリーブの大きな木もあったのが羨ましかったです(写真右=手入れのよく行き届いた見事な庭)。 親戚宅で昼食をいただいた僕らは、ご夫妻と一緒に犬山で最も有名な観光名所である「国宝・犬山城」へ。犬山城は、昔から一度は行ってみたいと願っていた城です。 日本では、姫路、彦根、犬山、松本という4つの城が「国宝指定」されていますが、犬山城はなかでも戦国時代の天守閣が現存している唯一の城です(写真左=親戚の奥様は「トールペインティング」の先生もしています)。 犬山城は天文6年(1537)、織田信長の叔父にあたる織田信康によって築城され、戦国時代の間は城主が何人も代わりました。その間には秀吉が一時期城主だったこともあります。 しかし、江戸時代に入って元和3年(1617)に尾張藩付きの成瀬正成が城主になってからは成瀬家が代々城主を務め、廃藩置県の後も、成瀬氏の子孫が代々個人で城を所有するという不思議な形が、2004年に財団法人となるまで続きました(写真右=犬山城天守閣)。 黄金週間とあって、全国からの観光客でごった返しているだろうなぁと覚悟していましたが、意外や意外、天守閣へは(人出はそこそこありましたが)並ばずに入れました。 ただ、3層4階の天守閣の最上階へ登るには、彦根城と同様、急で狭い階段を何回も上らなければなりません。結構汗をかきます。いい運動になりますが、高齢の方にはちょっときついかも。 犬山城を見学した後、僕らは古い家並みの残る犬山の城下町を散策。夜は泊まったホテルのレストランでライトアップされた天守閣を眺めながら、美味しいフルコースをいただきました(写真左=古い家並みが残る犬山。これは酒屋さんです)。 翌5日は、朝8時半にホテルを出発し、親戚ご夫妻と一緒に犬山のもう一つの観光名所である「明治村」へ。明治村はその名の通り、全国にある明治時代の建築物を数多く移築・保存している屋外博物館のような場所です(写真右=神戸市内にあった大井牛肉店)。 約100万平米もある広大な村内には約60の建築物や客車、鉄橋のほか、路面電車、SLも動態保存されています。 ゆっくりじっくり見学すれば丸1日かかるような規模ですが、僕らは午後から下呂温泉方面へ移動しなければならないので、午前中いっぱいをかけてお目当ての建物を中心に見て回りました(写真左=京都市内にあった聖ヨハネ教会)。 僕のお目当ては2つありました。一つは、東京の千駄木にあった夏目漱石の旧居=写真右。初めて知ったのですが、この旧居(借家だったとか)は漱石が住む前には森鴎外も住んだことがあるので、「鴎外・漱石住宅」という表示がされていました。 漱石はこの平屋の建物に、明治36年(1903)から39年まで暮らし、この家の書斎であの名作「我輩は猫である」「坊ちゃん」「草枕」を生み出しました。千駄木の旧居跡は現在、碑が立っているだけで、漱石が暮らした頃を偲ぶものは何もありません。 本来なら、千駄木の現地で保存されるべき建物だったとのですが、文化や文化財の保存についてレベルが低い日本では、このような移築保存しか道がなかった訳です。それでもこの明治村で文豪の創作空間を昔のまま見られることは嬉しいことです。 もう一つの僕のお目当ては、これも元は東京にあった旧帝国ホテル。ご存じのようにあの名建築家フランク・ロイド・ライトが設計した石造りの素晴らしい建物です(写真左=漱石執筆の間で漱石の有名なポーズを真似て…)。 移築されているのは旧ホテルのごく一部(10分の1ほど)=写真右下、本館玄関などの中央部分にすぎません。 それでも、3階まで吹き抜けの中央ロビー=写真左下=や大谷石や透かしテラコッタを使った見事なまでの内外装=写真右下=など、この部分だけでも十分にライト建築の素晴らしさにふれることができます。 ライトは建物自体の設計だけでなく、外壁装飾や家具、調度品(テーブルや椅子)に至るまで自らデザインしました。ライトがこのホテルにかけた情熱が伝わってきます。 レストランや喫茶では当時の椅子やテーブルのレプリカが使われていますが、そのデザイン(意匠)は、現代でも通用しそうなモダンな感覚に溢れています。 この旧帝国ホテルに泊まった有名人としては喜劇王チャプリンやあのマリリン・モンローらが知られていますが、二人ともこのホテルを絶賛したそうです。 このホテルも本来なら現地で保存すべき歴史的建造物でした。歴史的な文化遺産はその場所にあってこそ意味があり、その価値があるものです。 日本では、「移築すればいいじゃないか」「建て直す建物の中に一部だけ保存すれば十分」という発想が今なおまかり通っています。歴史や文化遺産を守ってゆくという意識は、残念ながら日本は欧米に大きく遅れをとっています。 イギリスやイタリア、フランス…どの国をとっても、古い歴史的遺産(建物)を大事に残し、現代の生活の中で活用しています。貧困な発想しか持ち得ない官僚や企業経営者には情けないというしかありません。 さて明治村でのお昼ご飯は、やはり「明治」にこだわって、「明治のカレー」=写真左下=をいただきました。明治中期のレシピを再現したというカレーはやや甘口でしたが、わさびくらいしか香辛料を知らなかった明治の日本人にはこれでも結構刺激的な味だったでしょう。 食事の後、明治村を後にした僕らは親戚のお父様が運転してくれる車で、一路、下呂温泉へ。途中、親戚のご両親が暮らす岐阜県・七宗町神淵というところに少し寄り道した後、渓谷沿いの国道を走り、午後5時頃、下呂に着きました。 下呂温泉は有馬、草津と並んで「日本三大名湯」と言われています(初めて知りました)が、四方を山に囲まれた盆地のようなのどかな場所にあります。温泉好きの我々としては以前から一度訪ねてみたかった場所でした。 下呂では、せっかくだから一番有名な旅館として知られる「S」に泊まりました(黄金週間なので料金もハイでしたが…)。「S」は約250室もの部屋数を誇り、皇族も泊まるという格式ある旅館と聞きました。大きな3つの建物のほか「離れ」が2カ所あります。 しかし、大きな旅館によくありがちなのは、料理は大量生産でおおざっぱで、きめ細かいサービスが不十分などという点です(写真右=下呂の温泉街)。 そんな不安は「S」にも的中しました。夕食の場所は大広間で、まるでデパートの大食堂状態です。子どもが走り回り、雰囲気はだいなしです。料理も工夫に欠けて、和洋中折衷の夕食コースは首をかしげる内容でした。 飛騨まで来てカツオのたたきやサーモン・ステーキを食べたい人はどれくらいいるのか(美味しい川魚があるというのに…)、塩胡椒だけで十分美味しい霜降りの飛騨牛になぜ、フランス料理のようなこってりしたソースをかけるのか。そもそも和洋中折衷コースのみという設定はいかがなものか。 温泉は館内に表情の違う施設が3カ所もあって、これだけは堪能できました。館内施設も充実しています。しかし、何かが足りないのです。料金に見合ったサービスを受けたという気がしません(写真左=下呂へ向かうJR高山本線は絶景の渓谷沿いを走る)。 最近、大きなホテルや旅館よりも、隠れ家のような小規模の宿に人気が集まっていますが、その理由がわかるような気がします。 若女将は帰り際もきちんと見送ってくれましたが、おそらくは規模が大きすぎて細かい部分にまで目が行き届いていないのでしょう。「S」が一流旅館であるだけに、頑張って改善していってほしいと思います。
2008/05/11
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ブログの友人の間では最近、シェリーがちょっとブレイク中。最近の静かなシェリー・ブームのきっかけは何なのかは知らないが、僕も近頃は、BARのカウンターで「マンサニーリャ」や「アモンティリヤード」を頼むことが多くなった。 以前にも書いたけれど、シェリーという酒とは、モルト・ウイスキーを通して出合った。ウイスキーの熟成樽として、シェリーは昔から重要な役割を果たしてきた。マッカラン、エドラダワー、グレンドロナック、ボウモア・ダーケスト、モートラック、オスロスクなどシェリー樽熟成で有名なモルトは、シェリーなくしてその存在は考えられない。 ブームに便乗し、最近は、熟成の最後の1~2年だけシェリー樽に移しただけで、「シェリー・カスク」と銘打って販売する蒸留所やボトラーズ(独立系の瓶詰め・販売業者)も目につくが、こんな商法にはちょっと首をかしげる。 モルト・ウイスキー好きの僕だが、なかでもアイラ系のモルト・ウイスキーと並んで、シェリー系のモルト・ウイスキーが好きだ。BARでモルトを飲むときの3回に1回は、シェリー系のものを頼んでいるような気もする。 シェリー系のモルトなかでも最近僕のお気に入りは、グレンドロナック(Glendronach=写真左)。ゲール語で「黒いちごの谷」を意味するその名は、シェリー樽熟成のモルト・ウイスキーにとてもお似合いだと思う。 赤みがかった深い琥珀色は、まさしくシェリー樽由来の証(あかし)。香りはスイートで、かすかにスモーキー。味わいはリッチで、フルーティ。ブレンディド・ウイスキー「ティーチャーズ」のキー・モルトとしても知られる(写真右=石造りの建物が美しいグレンドロナック蒸留所)。 マッカランはしばしば「モルトのロールスロイス」と形容されるが、グレンドロナックは、さしずめ伝統の名車「ベントレー」か「ジャガー」か(写真左=この夏、イタリア帰りにヒースロー空港のリカー・ショップで購入した「グレンドロナック25年(1968年蒸留)」。見るからに旨そう! 日本国内にはほとんど出回らないボトルらしく、ネット・オークションでは、5万円以上の値も。ヒースローでは3分の1くらいの値段で買えました!)。 グレンドロナック蒸留所は1826年の創業。創業主は当時の田舎の地主の息子という話だが、その後何人かの人手に渡ったあと、現在はアライド・ディステラリーという会社の所有になっている。 同蒸留所の特徴は、頑固なまでに伝統的な製法を今も守っていること。地元産の大麦を使い、フロア式の麦芽づくり、オレゴン松を使った木桶発酵、石炭による直火蒸留…。そして、もちろんオロロソ・シェリーの樽を使った丁寧な熟成。 以前は、オーク樽熟成のオフィシャルの12年物も出していたが、現在の12年物は「シェリー樽熟成&オーク樽熟成」のバッディド・モルト。シェリー樽100%のものは15年物がメインになっている。 ただし、このグレンドロナックという銘柄は、ボトラーズ物でさまざまな種類のものが商品化されており、我々にとっては嬉しい限り(写真右=これは「ノン・チルフィルター(無濾過)・ノン・カラーリング」をうたい文句にしたあるボトラーズのグレンドロナック。でもシェリー樽熟成がウリなのに、この色って何なのだろう?)。 僕は、これからもこのグレンドロナックを愛し続けていく。願わくは、18年ものとか、21年ものとか、もう少しオフィシャル・ボトルにバリエーションを持たせてほしいんだけれど…。人気ブログランキングへGO!→【人気ブログランキング】
2005/11/24
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「いま、京都で一番予約が取りにくい」と言われて久しい店。事実、今も予約は半年先まで埋まっていて、運がいいか、あるいは常連の知り合いがいないと、なかなか席には座れない。 銀閣寺近くの閑静な場所にある、そんな超人気店「草喰(そうじき)なかひがし」(写真左)に、ようやく念願叶って、お邪魔することができました! 「なかひがし」の料理の特徴の一つは、「自然の恵みを生かし、味わうこと」です。とくに野草や木の実をふんだんに使います。そして、その材料は店主自らが京都市郊外の山から、自生のものを摘んでくるというこだわりようです。 ご飯や焼き物も名物です。カウンター(12席)の目の前にある「かまど」で、丁寧に炊かれたご飯は絶品の味わいです。 別の専用のかまど=焼き場(これも客の目の前にあります)で、炭火でじっくりと焼き上げられる魚は、思わず唸る旨さです。 午後6時少し前、店に入るとカウンターの中では、店主である中東さん(一番奥)と板前さん2人が「先付」の盛り付けに忙しく動いておられます=写真右。 まず、エビスビールで喉を潤しながら、最初の一品の登場を待ちます。店はこの日も予約でいっぱいです。2階のお座敷には、すでに団体さんでいっぱいの様子です。 さて、「先付け」(写真左)。ご覧下さい。7種盛りの皿と小鉢が一つ。豪華すぎるというか、充実しすぎて、とてもすべて書き切れませんが、すべてが「発想と組み合わせの妙」です。 とうもろこし&寒天の大徳寺納豆添え、ズッキーニと鮎のテリーヌ、餅米を使ったハモずし、小イモのゴマ煮&花ジソ、アカザ(野草)のおひたし、蘇(そ)のミョウガ挟み(蘇とは飛鳥時代のチーズのような食品です)…。それぞれの味付けや調理法も工夫されてて、同じようなものは二つとありません。 2品目。白味噌仕立ての汁物(写真右)です。具には、カボチャと生麩、ワラビをつぶして混ぜものにした上品で、不思議な味わいです。 3品目。先ほどからかまどで焼かれていた鮎が出てきました=写真左。ひと皿に2尾乗っています。少し焦げ目が付くほどしっかりと焼かれています。「頭から全部お召し上がりください」とのこと。たで酢で頂きます。 4品目。「お口直しに」と旬の生じゅんさい(写真右)です。軽く白醤油が振られていて、アケモモの実と一緒に味わいます。普段、びん詰めのじゅんさいしか食べたことのない身には、生は新鮮です。 「じゅんさいは、京都(で採れたもの)ですか?」と尋ねると、「実は、あの(松坂牛の)松坂なんです。まっさーか(松坂)な~んて思われるでしょうが…」とご主人。ダジャレもお好きな方のようです。 5品目。刺身が出てきました。外見からタイかと思ったら、「コイの洗いです」(写真左)。笹の葉が添えられて、「コイ(恋)の笹(ささ)やき、なんちゃんて」とまたまたダジャレ連発です。 刺身には、皮も細かく刻んで添えられています。山椒の実と半凍りの大根おろしと一緒に頂きます。旨いったら何と。すでにビールは冷酒に変わっていますが、酒がすすむ、すすむ。 6品目。またまた汁物(若干あんかけ風かな)です=写真右。具に魚が入っています。 「ハモですか?」と聞くと、「岩魚なんですよ」。またまた裏切られました! 具はほかにアンデスイモ、クズ、カンゾウの花。こんな発想出てこないよねぇ。 7品目というか、炊きたてのご飯が供された。まだ少し芯がある状態。噛んでるうちに甘味が出てくる。お米本来の旨さを味わうには、この段階で口に含むのが一番かもしれません。 8品目。なれずしが出てきました=写真左。「なれずし」とは魚の口や腹にご飯を詰めて漬け込み、発酵させるもの。 関西だと滋賀県の「鮒(ふな)のなれずし」が有名だが、この日のなれずしは鯖(さば)。「昨年5月に漬け込んだ」という鯖のなれずしは絶品の旨さで、まるで高級チーズのような味わいでした。 9品目。鴨茄子の炊き合わせ(写真右)。細く千切りにされ、揚げた茄子の皮が添えられ、ほかにカボチャや木の芽など。 続いて出た10品目はシンプルなキュウリもみのしらす添え=写真左。しかしキュウリは「朝風キュウリ」というしっかりした食感で、しらすはシソ酢に漬け込んだもの。 11品目。いよいよ噂の名物「めざし」とご飯=写真右下。めざしは、どこ産のめざしか聞くのを忘れたけれど、普通のめざしではない。その焼きたてを頂くのだから、美味くないはずがない。 ご飯のお代わりもOKで、なおかつお釜の底に残った「おこげ」(これまた美味!)も食べさせてくれる。あぁ、おこげがこんなに美味いとは…。 12品目。お腹一杯になって満足した後は、デザート(写真左下)。これが、見かけも味わいも複雑な凝った品。基本は「ゼリー寄せ」なのだが、中にはバジルと豆腐のシャーベット、夏みかんマーマレード、生ブルーベリー、イワナシ…。もう絶句です。 13品目。デザートで終わりかと終わったら、もう一品、冷たい水出しコーヒーとお菓子が出てきた(金平糖とミモレットのような味わいのチーズ)。 水出しコーヒーというのも初めてだが、アイスコーヒーにチーズが合うというのも意外だった。どのひと品の料理も驚きの連続。客を喜ばせたい、驚かせたいという中東さんの心意気を見せられた夜だった。 以上で、「なかひがし」での楽しい、充実した晩ご飯はおしまい。これで1万円(飲み物別=飲み物のお値段も良心的です)だから、これ以上何を望むと言うのか。欲を言えば、もう少し予約が取りやすい店になってほしいなぁ…。【草喰なかひがし】京都市左京区浄土寺石橋町32-3 電話075-752-3500 12時~2時、6時~10時 月休 要予約(予約は毎月1日午前8時から翌月分を受け付け) 昼5千円~7千円、夜1万円~1万5千円こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2008/08/02
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僕が時々お邪魔するBARの1軒に、大阪キタの「アルテミス(Artemis)」という店があります。そのアルテミスの店長の萬川達也さん(写真左)が、今月20日をもってお店を辞めることになりました。 アルテミスの特徴はシェリーです。シェリーの品揃えでは関西では1、2を争うBARです。そして、萬川さんはそのシェリーを扱う日本でも数少ない公認「ヴェネンシアドール」です。 「ヴェネンシアドール」とは、ヴェネンシアという名前の1mほどもある、細長いい金属のひしゃくのような道具を巧みに使って、シェリーをグラスに注ぐテクニックを持った人のことを言います。萬川さんは、その「ヴェネンシアドール」の公認資格を本場スペインで取りました。 シェリーを入れたヴェネンシアを肩越し高く振り回し、頭上20~30cmほどの高さから自分の腰くらいの高さで手に持っているグラスに一気にシェリー(とくにオロロソやアモンティリアードが多い)を注ぐのです。注がれるシェリーは中空で空気に触れ、まろやかな味わいに変化します。 ウイスキーやカクテルも充実しているアルテミスですが、ここにに来るお客さんの約7割はシェリーを頼みます。そして、萬川さんの「ヴェネンシア」の技を見るのが楽しみで、遠くからやって来る人も多いのです(写真右=アルテミスでは極上のシェリーが味わえた)。 僕は萬川さんが10年ほど前、アルテミスに来られた頃からの馴染みです。気さくで親切な人柄も大好きですが、その落ち着いた振る舞いもあって、オーナー・バーテンダーだとずっと思っていた時期もありました。 その萬川さんがことし初め、「実は、3月で店を辞めようと思ってるんです」と打ち明けてくれました(いつもは届く年賀状が来なかったので、何かあったのかなと思っていたところでした)。 今後の展開について、萬川さんは「まぁ、10年も頑張ってきたのでそろそろ独立してもいいかなぁ…と。とりあえずスペインやフランスなどヨーロッパに1カ月ほど行って、帰ってきてから新しい自分の店を開こうと思っています」と語りました。 新しい「自分の店」について、萬川さんは「オーセンティックBARというよりスペイン・バルのような気軽な、肩の凝らない店にしたい。もちろん引き続きシェリーにも力は入れますよ」と夢を語ってくれました。フードも得意な萬川さんだから今から楽しみです(写真左=アルテミスの店内)。 萬川さんがいなくなってもアルテミスは残ります。しかし萬川さんのいなくなったアルテミスには当分、足を向ける気持ちは起こらないでしょう。それを考えると、少し寂しくなります(どういう雰囲気のBARになるんでしょうか…)。 でもここは、新しい旅立ちを祝福しましょう。アルテミスでの萬川さんのパフォーマンスを目に焼き付けたい方は、ぜひ20日までにお越しください。萬ちゃん頑張れ!【Bar Artemis】大阪市北区茶屋町1-5 茶ビン堂ビルB1F 電話06-6377-0707 午後4時~午前1時 月休※残念ながら、アルテミスは現在は閉店して、別のお店に変わっています。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2007/03/15
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「誰も飲んだことのないモルト」だと、その本(「改訂版・モルトウイスキー大全」=土屋守著、2002年春刊=写真左下)にはあった。そう言われると飲みたくなるのが酒飲みの常だ。 大手のウイリアム・グラント&サンズ社によって建てられた第5のウイスキー蒸留所という。その名は「キニンヴィ(Kininvie)」という。だが、紹介されているページには、いつ頃発売になりそうとかとかは記されておらず、「瓶詰めを待つしかないのかもしれない」と結ばれていた。 それから約4年、「キニンヴィ」のことも忘れかけていたある日、大阪キタのあるBARで、バーテンダーから「こんなん入りましたけど、どうですか?」と勧められたボトル(写真右下)。その名は「Monkey Shoulder」とあった。 「Monkey…って?」といぶかる僕に、「知りません? キニンヴィっていう、いまだオフィシャルが出荷されていなかった蒸留所のこと…」とそのバーテンダー氏。 そこで、初めてあの土屋さんの本に出ていた幻のボトルのことを思い出した。でも、ラベルには「Kininvie Distellery」の文字はない。何年物のボトリングだという表記もない。 ただ、ラベルの説明をよく読めば、スペイサイドの3つ蒸留所の27種のカスクからヴァッティドされたとあり、「From Kininvie」という文字も見えた。そして、「Willam Grant’s」の名前も。 客観的にみて、これがキニンヴィのモルトを使って生み出された初のオフィシャル・ボトルであることには間違いないだろう。だが、残念ながら、シングルモルトではなかった。 しかも3つの蒸留所というから、他の2つはおそらくはグラント社が持つグレンフィディックとバルヴェニーだろう。バーテンダー氏の見方では、「おそらくは、まだ若いモルト同士のバッティングではないか…」とも。 確かに、バニラや花のような香りが心地よく、パワフルさもあるが、まろやかさや奥行きは、まだ決して十分とは言えない。そういう意味では物足りない(ちなみに「Monkey Shoulder」とは木製スコップを使ったフロアモルティング作業で疲れて痛めたウイスキー職人たちの肩のこととか)。 1990年に創業の蒸留所。だから14~15年熟成のモルトがあってもおかしくはない。初の製品にシングル・モルトを選ばなかったのは、今の段階ではまだ自信を持って出せるカスクが見出せなかった証(あかし)かもしれない。 とは言え、ウィリアム・グラント社は、スコッチ・ウイスキーの雄。このままで終わるはずはないだろう。いずれ満を持して、「キニンヴィ」ブランドの自信のシングル・モルトが市場に出る日が来ると、僕は信じる。その日はそう遠くないだろう。人気ブログランキングへGO!→【人気ブログランキング】
2006/01/20
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9月26日(水)。スコットランド滞在5日目。いよいよ、エジンバラ観光の華、「世界遺産」のエジンバラ城見学に向かう。 エジンバラ城(写真左=城の正面です)は、エジンバラ市内のどこからも見える岩山を利用した要塞である。 7世紀の初め頃から築かれ始め、その後、ここを居城とした王たちによって、たびたび改築・増築が繰り返されてきた。 歴代の王のなかには、あのシェイクスピアの有名な戯曲「マクベス」にも登場するマルカム3世もいる。 またスキャンダラスな生涯を送った悲劇のスコットランド女王メアリーが、息子(後のイングランド国王ジェームズ6世)を生んだのもこのエジンバラ城である。 メアリーは後年、女王エリザベス1世に謀反の疑いをかけられ、処刑されてしまうが、ここエジンバラ城でも謀略や暗殺という暗い歴史が数多く伝えられている。城内には、そんな反逆者と見なされた人たちが囚われた牢屋も残っている。 エジンバラ城は何世紀にもわたって増改築が繰り返されてきたため、実に複雑な構造になっている(写真右=城内には大砲と砲台が残る)。 あちこちに時代背景の違う宮殿などの建物や門や砲台などが点在。建築様式を見ているだけでも興味深い。 城内の宮殿内には、清教徒革命時にオリバークロムウェル軍に奪われそうになったスコットランド王家の「三種の宝器」(黄金の宝冠、御剣、水晶入りの御笏)が保管され、公開されている。 余談だが、城内の建物のなかには、近現代の英国の戦争の歴史を記した国立記念館もある。管内には当時の軍服や武器が数多く展示されている(写真左=城内は複雑な構造です)。 時間があったので少し覗いたが、かつて大英帝国が世界中に繰り広げた戦争、そして各地の植民地政策を肯定的に紹介した展示のオンパレード。 帝国主義、植民地主義などの英国の「過去」は、決してほめられない「影」の部分。それへの反省が見られないような展示というのはいかがなものか。 いまだ「大英帝国意識」が抜けきれない国民性には少々がっかりする(過去への反省という点では日本も、「他山の石」として自戒しなければならない)(写真右=城から見たエジンバラ市街)。 さて、エジンバラ城観光を終えて、そろそろ昼飯タイム。城正面の門から歩いてすぐのところにある「ウイッチャリー」(写真左下)というスコットランド料理のレストランへ。 夜は高級らしいが、昼にはお手軽なランチがあるという話を聞いて、ここに決めた。僕はラムと豆のソテー。連れ合いは鶏料理。上品な味付けで満足。パブ料理とは少し趣が変わって面白い。 昼食後は、僕はロイヤル・マイルにある「スコッチ・ウイスキー・ヘリテージセンター」(写真右下=見学受け付けロビーです)にお邪魔する。連れ合いはここでちょっと別行動して、買い物へ。 同センターでは、スコットランドのウイスキーのすべてがわかる見学ツアーがあるというので参加することに。ツアーの同行者は10人ほど。ここにもドイツやカナダ、豪など英国外からの参加者が目立つ。 僕らはまず短い映画やスライドを見せられた後、案内ガイドによるお話(ウイスキーができるまで)、そして、ニューポットやシングルモルト数種を試飲した。 最後に2人乗りの電動カートに乗せられ、ウイスキーづくりの歴史を蝋人形を使って紹介する暗い展示室を回る。まぁ、ディズニー・ランドのカリブの海賊のアトラクションのようなもの。 若干子供だまし気味の展示。スコッチ・ウイスキーの入門者者には楽しいかもしれないが、僕には「一度見たら、もう二度目はもういいな」という内容。 見学ツアーはたいしたことはなかったが、センター内のショップ(写真左)はとても充実している。スコットランドのウイスキー(モルト&ブレンディド)のほぼ全銘柄がここでは買える。 お酒以外のお土産グッズも多彩だ。ただ肝心のスコッチウイスキーはと言えば、残念ながら、ここでしか買えないような珍しい品はほとんどなかった。僕はTシャツや絵葉書、ピンバッジなどを買い込む。 ヘリテージ・センターの見学を終えた後、再び連れ合いと合流。10分弱ほど歩いて、ウェーバリー駅そばにある「国立スコットランド美術館」(写真右)に立ち寄る。 美術館は石造りの立派な建物だが、展示品の方は「どうせ英国の地方都市だし、たいしたコレクションはないんだろうなぁ」と予想していたら、入ってびっくり。良い方に裏切られた。 ラファエロ、レンブラント、ベラスケス、ゴヤ、エル・グレコ、モネ、セザンヌ、ゴッホ…と教科書に載ってそうな有名どころの絵がこれでもかと展示されている(入場はなんと無料!=好きな金額を募金箱に入れるシステム=さすが太っ腹の英国)。 美術館でちょっぴり教養を深めた僕らは、夕方までは新市街のデパートなどを覗いたり、あちこちでお土産物などを探して過ごす。ただし、エジンバラのデパートの品揃えはいまいち。ロンドンへ行ってから、ハロッズなどの老舗デパートに期待することにする。 さて、エジンバラ最後の夜の晩ご飯は、麺(パスタ)が恋しくなってイタリアンに決める。新市街にトラットリア(またはリストランテ)が集まる「ハノーバー・ストリート」という通りがある。 当初考えていたお店の場所にあるは、なぜかスコットランド料理の店に代わっていた。仕方なく5、6軒あるトラットリア(同)の中から、表通りから見て一番はやっている店を選ぶ。 旅先で目的のジャンルの店を選ぶ際、地元の人(=すべてが地元の人とは限らないが)で一番にぎわっている店を選ぶというやり方は、店選び成功の秘訣の一つだと思っている。実際、今回の旅でも、事前予約をしない場合はこの方法でうまくいった。 で、選んだのは「ラ・ランテルナ」(写真左上)。今夜は何と言ってもパスタ(写真右)。久しぶりの麺類が旨い! もう1品とったけれど、それが何だったか忘れるくらいパスタが旨かった。ワインは気分を変えて赤にする。 テリー・サバラス似のマスターはイタリア系の方。客とイタリア語で話していたので、僕も「モルト ブオーノ(とっても美味しいよ)」とマスターに賛辞を伝える。マスターも「グラッチェ(ありがとう)」と応じる。こうした一期一会のふれ合いも旅の醍醐味だ。 そんなこんなで、楽しかったエジンバラ滞在も今夜でおしまい。明日はいよいよロンドン。約10年ぶりのロンドンはどう変わっているのか、あるいは変わっていないのか、いろいろと楽しみだ。 ◆英国への旅:ロンドン編(1)に続くこちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2007/10/28
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ひょんなことから結婚式の披露宴(21日)で、歌伴をすることになりました。あと1週間くらいしか準備期間はありません(汗)。 ヴォーカルをとる友人が2人(男性&女性です)いて、僕がピアノ、もう一人、昔バンドを一緒にやっていた友人がギターを弾いてくれます。ヴォーカルの友人2人はデュエットではなく、それぞれが別の歌を歌う予定です。 で、何を歌うのか。基本的にはヴォーカル担当が歌いたい曲目を決めればいいのですが、時間もないので、僕が伴奏をできないような難曲や知らない曲はNGです。 また、披露宴という目出度い場面にふさわしい曲でなければなりません。古今東西、結婚披露宴にふさわしい、よく歌われている曲は数多くあるのですが、いざ自分たちがやるとなると選ぶのはなかなか大変です。 和ものがいいか、洋ものがいいか。とりあえず、最近は披露宴でどんな曲が歌われることが多いのかネットで少し検索してみました。 あるサイトでのベスト10は、1.乾杯、2.Can You Celebrate? 3.てんとう虫のサンバ 4.ベスト・フレンド 5.世界に一つだけの花 6.Story 7.3月9日 8.ハナミズキ 9.永遠にともに 10.ハッピー・サマーウェディング、というランキングでした。 どんな世代を対象にした調査かは知りませんが、「乾杯」がいまだに1位なのはすごく意外でした。2は相当上手くないと難しいぞー。3なんて今どき歌う人っているのかなぁ…。4や6、8は確かに今風で、良い曲かもしれません。7と9、10は恥ずかしながらまったく知りませんでした。う~ん、これは難しい! 悩んだ末にとりあえず、男性の友人が選んだ歌は、エルビス・プレスリー(写真左上)の名曲で、今やスタンダードにもなっている「Can‘t Help Falling In Love」。Wise men said~♪という歌詞で、歌い出すあの甘いメロディーの曲です。 スローなバラードで、コード進行も比較的簡単です。練習時間も短いので、友人はまさに最適の選択をしたかもしれません。ギター担当の友人にはキーが決まれば楽譜をFAXで送って、家で事前に練習しておいてもらうつもりです。 しかし、女性の友人の方の歌はまだ決まっていません。近々、曲のキーを決めるための打ち合わせをBar「M」でするので、そこであれこれ歌ってみて決めてしまうつもりをしています。さて、彼女は何を歌うことになるんでしょうか。【追記】14日にヴォーカル担当の2人とリハをしました。男性の方の「プレスリー」は、原調通りのDというキーになりました。女性の方は、「パパ」「ハナミズキ」「Close To You」等々をあれこれ歌ってみた末に、最終的に今井美樹(写真右上)の「Piece of My Wish」に決めました。キーは原調(E♭)より一つ下のDでやります(奇しくも男女とも同じキーです)。本番でも、リハ通りうまくいけばいいのですが…。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2007/03/13
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【2022年4月1日改訂・追記致しました】 拙著「今宵も、BARへ--『私的』入門講座20章」へのご支援、本当に有難うございます。さて、このたび本文第19章「私の『おすすめ』BAR」を改訂いたしました。 以前からお伝えしていますように、「おすすめ」BARで名前を挙げた店は、原則として、私自身が実際に訪れた店や、個人的に人柄や接客ぶりを知っている店のなかから、あくまで「主観や好み」および、(「今宵もBARへ…」で紹介したような)私なりの「ルール」(基準)で選んでおりますが、今回は、こうした店だけではなく、親友でもあった切り絵作家の故・成田一徹氏から生前に「いい評価」をよく聞かされていたBARからも選びました。 結果として、「おすすめBAR」の数は、42都道府県の約300軒以上にもなりました。なお、過去の「おすすめBAR」リストにあったものの幾つかの理由で外した店もあります。また残念ながら、ここ数年の間に閉店した店は削除いたしました。 毎回書いていることですが、私の「大好きなBAR」「馴染みのBAR」が、他の方にとっても「いいBAR」であるとは断言できないことも、あらかじめご承知おきください。なかにはお値段が少し張るBARもありますが、私が「その対価に見合う価値のある店」と判断した場合は、掲載しています。 この「リスト」が貴方とBARとの良き出会いのための「手掛かり」になれば、これに勝る喜びはありません。連載時や本でも断りましたが、店の住所や連絡先はあえて記していません。「いいBAR」と出会うには、見つけ出すそれなりの努力も必要です。悪しからずご了解ください。【北海道】<札幌>Barやまざき、 Bar Proof、Bar Adonis、Barコオ、The Nikka Bar、ドゥ・エルミタージュ、Malt Bar Kirk Wall、<小樽>Bar HATTA【岩手】<盛岡>Bar BARON、Bar ニート、アルセーヌ・ルパン、<北上>The Slaintheva(スランジーバ)【秋田】Bar Le Verre(ル・ヴェール)、Bar Lady、The Bar 1980【山形・酒田】ケルン【宮城】<仙台>Andante、森羅万象、Bar Arcanciel、Le Bar KAWAGOE【福島・郡山】Bar WATANABE【群馬・高崎】カクテルバー・ポイント【栃木・宇都宮】バー・シャモニー、パイプのけむり本店、パイプのけむり・夢酒OGAWA【埼玉】<さいたま>Shot Bar Peace、Bar SAKAMOTO <春日部>Cooper’s <秩父>EAU DE VIE Hill's Top【千葉・船橋】Bar Cooperage【東京】 <銀座・新橋・有楽町>ルパン、 銀座サンボア、Barオーパ、JBA Bar洋酒博物館、JBA Bar SUZUKI、MORI Bar、Rock Fish、 Bar FAL、Bar Anthem、 数寄屋橋サンボア、Bar Orchard Ginza、 Bar草間ギンザ、 酒向Bar、 スタア・バー・ギンザ、Bar Four Seasons、Bar MUSASHI、酒仙堂、TOSTI、EVITA、Bar SLUGG’s、Bar R、バーBOOK、Syndycate、Bar Satin Doll、バー夕、SCAPA、アトリウム&アトリウム・エン、Bar T.O.、キャンベルタウン・ロッホ <その他のエリア>Bar Fingal、Bar Leaf、Bar 港、Bar RADIO、東京會舘・Main Bar、ガスライト、bar Salvador、Bar Sunface、Bar BenFiddich、Bar Algernon Synfonia、Bar BEE、Jus de Peche、Bar Smoke Salt、Bar Cielo、Bar dr(ディア)、Bar Somethin'、バーリィ浅草、OGURA is Bar、Barフラミンゴ、サンルカール・バー、ABE、琥珀、太陽と星のバー(現在は「あなろぐ村」と改名)、石の華、Bar Caprice、Le Zinc、カエサリオン、Speyside Way、Bar Woody、永楽倶楽部バー・コーナー、Bar Shanks、KAZZ、Bar ラ・ポポット、Bar Tenderly、Bar Heath、Mandarin Bar【神奈川】<横浜>スリー・マティーニ、 Bar Nemanja、Bar Casablanca、Sea Guarddian2、The Dufftown、Bar The Sheep、Bar Noble、Bar GLORY大倉山、Bar MATSUMOTO Bar Eau de Vie【静岡】<沼津>Bar Victory、Frank Bar <三島>Bar 奈良橋、 Bar YUMOTO【長野】メインバー・コート【富山】仏蘭西屋・洋酒肆、Barリクオル、舶来居酒屋・白馬館、Jazz&Liquor ジェリコの戦い【金沢】広坂ハイボール、エスト高橋、倫敦屋酒場、MACHRIHANISH、Bar Spoon【福井】Bar LOTUS、Bar Dufftown【岐阜】BAROSSA Cocktailier、貿易風ミグ、洋酒天国、サフラン【名古屋】<名古屋>Bar Kreis、Yoshino Bar、Bar Barns、酒肆・蘭燈(らんたん)、Bar 立礼(りゅうれい)、Bar ALBION、Bar Old Time、Barノクターン <豊田>Bar Ron Cana【三重】<津>British Pub Pige(ピゲ)、<四日市>Bar Vintage、<桑名>洋酒肆ふるかわ屋【滋賀・彦根】Salon Bar Thistle【京都】フィンランディア・バー、Bar K6、祇園サンボア、 フェロー&フェロー、Bar Rocking Chair、Bar YANAGI、The Common One Bar、K家、Bar Talisker、バードランド、Bar 玄、キャラメル・ママ【大阪】<キタ>Bar K、 Bar BESO、Bar Cluricaun(クルラホン)、北サンボア、 堂島サンボア、北新地サンボア、 Bar Arlequin(アルルカン)、スタンド・アルル、Bar TIME 天神、Bar Cadboll、Bar the Monarch、Bar Hardi、 ギルビヰ、十三トリス、ハイボール小路、Bar Savoy Osaka、Little Bar、Bar Arpeggio、Boby's Bar、Bar HIRAMATSU UMEDA、Bar AUGUSTA、MORITA BAR、天神橋サンボア、ムルソー・セカンドクラブ、オールドインペリアル・バー(帝国ホテル大阪) <ミナミ>OTIS、Just A Little Bit、EVE、 吉田バー、Bros Bar、スコッチバー・タロー、Bar Whiskey、デュエット <その他のエリア>Dramhouse the Root、バー立山、Bar 7th、Bar BABY、Rogin's Tavern、Shot Bar Keith <堺>Whisky Cat、Bar Kiln、Bar中原【兵庫】<神戸・三宮&元町>Bar Mainmalt、Bar YANAGASE、 Bar Savoy 北野坂、Sunshine Bar、Bar Sloppy Joe、Bar Savoy Hommage、Bar Moon-Lite、Bar Alco-hall、Papa Hemingway、Bar Logensitz、Bar Charlie Brown、AZABU Bar、The Avery's、Slice Bar、Bar SONORA、Bar Andante、Bar le Bateau、神戸ロバアタ商会 <その他のエリア>Bar THE TIME(西宮)、Bar Camphorwood(尼崎)、Bar TRIBECA(加古川)【奈良】Bar Cotton Club、Bar Dalwhinnie、Lamp Bar、The Sailing Bar(会員制)【和歌山】Bar Tender、Bar The BARMAN、Bar Roge【広島】<広島>Bar Slaintheva(スランジーバ)、Bar Oldies、Bar Fouque、Bar Brown、Bar Usquebaugh(ウスケボ)、<福山>ROHTA's Bar、暁(福山店)※尾道の本店は現在休止中【岡山&倉敷】Utena Bar、SAMSARA、Bar 北田、Onoda Bar(倉敷)【鳥取】Bar Style、Misty Bar【松江】Bar山小舎、Bar Loch Side、中村Bar【山口・岩国】Bar Prelude【徳島】Bar鴻(こうの)、Long Bar、Bar Glen K、JAZZ BAR SWING、Bar ARCHE(アルシェ)、KOZO's Bar【高松】Bar le Camarade(ル・カマラード)、Barダンク、Barふくろう【松山】Bar 露口、Bar JuJu、Bar 独奏【高知】Bar フランソワ、Walton Bar、Bar Pourer【福岡】<中州>Bar 七島、Bar HIGUCHI、Bar Heart Strings、Bar GITA、Bar倉吉、スタンドバーいしばし、<大名>Bar オスカー、Barセブン・シーズ、Barパルム・ドール、Bar粋七(いきしち)、MOMOTA BAR【長崎】Bar Waverly、Bar Strand【熊本】Bar States、Bar Village【大分・佐伯】カクテルバー玉井【鹿児島】Shot House ハイブリッジ、Bar宮元、池田バー【沖縄(本島/宮古島、石垣島)】バー・ラヂオ、Shot Bar Fox Hole、ハッチャーマン・クラブ、エレファントカフェ(2021年2月1日改訂)【追記(2021.2.1.)】今後も「今宵も、BARへ…」WEB版では、「おすすめ」BARを随時追加していく予定です(製本版は現在絶版です。再版予定は現時点ではございません。悪しからずご了承くださいませ)。 なお、上記に紹介したBarには、その後閉店・移転した可能性のあるBARもございます。ご訪問の際は、事前に現在の営業状態をご確認ください。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2016/02/11
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