1

オーセンティック・バーでも提供されることの多い自家製の「漬け込み酒」。実は何でもかんでも好き勝手に造れる訳ではなく、一応、法的な規制が厳然と存在します。バー業界のプロでも意外と知らないこうした日本国内での法的ルールについて、(以前にも一度書きましたが)改めて最新情報も含めてまとめてみました。ご参考になれば幸いです。 ◆2008年に自家製造のお酒の規制が緩和 バーUKでは、4種の自家製造の酒(しょうがを漬け込んだウオッカ、7種類のスパイスを漬け込んだラム、ザクロを漬け込んだカルバドス、レモンピールを漬け込んだリモンチェロ<ベースはスピリタス>)をお客様に提供していることはご承知の通りですが、友人やお客様から「それって、法律的に問題ないの?」と聞かれることが時々あります。 日本国内では、お酒を製造・販売(提供)するには酒類製造免許が必要です。お酒のメーカーが業として行う「果実や穀物などの原料から酒類を製造する行為」だけではなく、バーや飲食店等がお酒に様々な材料や他のお酒等を混ぜ合わせる「混和」という作業も、法的にはお酒の製造(新たなお酒を造っている)と同じ扱いを受けます。そして、アルコール分1%以上のお酒はすべて課税されます。 従って、バーや飲食店が無許可で自家製のお酒を造って提供するのは、基本、違法行為です。違反した場合は、酒税法第54条《無免許製造の罪》の規定に該当し、10年以下の懲役又は100万円以下の罰金に処せられます(単なる無許可販売の場合は1年以下の懲役又は50万円以下の罰金=同法第56条)。 しかし現実には、許可を得ることなく自家製の果実酒等を提供している飲食店は、昔からありました。様々な果実やスパイス、ハーブ、コーヒー豆、茶葉等を漬け込んだ自家製のお酒を「店の名物」にしているバーも少なくありません。厳密に言えば、2008年の法改正までは、こうしたバーや飲食店等での「製造・提供行為」は限りなく「違法」行為でした。 国税庁もこれ以上「違法状態」を放置できないと考えたのか、それとも実態に合わせて少し制限を緩和すべきと考えたのか、2008年<平成20年>に租税特別措置法(酒税関係)が改正され、特例措置(例外規定)が設けられました。それは「客等に提供するため酒類に他の物品を混和する場合等、一定の要件を満たせば、例外的に酒類の製造に該当しないこととし、免許や納税等が不要となる」という特例です。 この結果、例えば「焼酎で作る梅酒」「しょうがを漬け込んだウオッカ」「ウオッカにレモンを漬け込んだリモンチェッロ」等は、酒類免許がなくても、バーや飲食店は法的な裏付けを持って堂々と製造し、提供することが可能になりました。 一方、個人が自分で飲むために造る酒(例えばよくある梅酒づくり等)は、かなり昔からとくに法的な規制はなく、旧酒税法(1940年<昭和15年>施行)でも禁止する規定はありませんでした。すなわち、個人の場合は事実上「黙認」状態でしたが、1953年<昭和28年>に施行された新・酒税法で初めて、「消費者が自ら消費するために酒類(蒸留酒類)に他の物品を混和する場合は新たに酒類を製造したとは見なさない」とする特例措置(酒税法43条11項)ができ、めでたく法的にも認められることになりました。 ◆使用が禁止されている穀物や果実に注意 このバーや飲食店等を念頭に置いた租税特別措置法の特例措置についてもう少し詳しく説明しましょう。適用対象は「酒場、料理店等、酒類を専ら自己の営業場において飲用に供する業」であり、具体的には、下記のようないくつかの条件を満たす必要があります。(1)酒場、料理店等が自己の営業場内において飲用に供することが目的であること(2)飲用に供する営業場内において混和を行うこと(3)一定の蒸留酒類とその他の物品の混和であること ※酒場や料理店等が客に提供するために混和する場合だけでなく、消費者(個人)が自ら消費するため(又は他の消費者の求めに応じて)混和する場合も、この「特例措置」と同様の規制を受けます。 また、使用できる酒類と物品の範囲は、以下の通り指定されています(この規定は個人が自分で飲むために造る場合も順守する義務があります)。(1)混和後、アルコール分1度以上の発酵がないもの(2)蒸留酒類でアルコール分が20度以上のもので、かつ、酒税が課税済みのもの(具体的には連続式蒸留焼酎、単式蒸留焼酎、ウイスキー、ブランデー、スピリッツ<ウオッカ、ジン、ラム、テキーラ等>、飲料用アルコール)(3)蒸留酒類に混和する際は、以下に示す禁止物品以外のものを使用すること (イ)米、麦、あわ、とうもろこし、こうりゃん、きび、ひえ若しくはでんぷん、又はこれらの麹 (ロ)ぶどう(やまぶどうを含む)=【末尾注1】ご参考 (ハ)アミノ酸若しくはその塩類、ビタミン類、核酸分解物若しくはその塩類、有機酸若しくはその塩類、無機塩類、色素、香料、又は酒類のかす (ニ)酒類(※国税当局に問い合わせたところ、「蒸留酒、醸造酒を問わず、ベースの蒸留酒と同一の酒類以外の市販の全ての酒類を指す」とのこと) ※なおこの特例措置は、前記のように店内での飲食時に提供する場合に限られ、お土産として販売するなどの客への譲り渡しは出来ません(個人が自宅で造る場合も、同居の家族や親しい友人等に無償で提供することはできますが、販売することは出来ません)。 ◆蒸留酒はOK、醸造酒はダメ 以上のように、例えばバーや飲食店等でよく見かける梅酒は、「蒸留酒である焼酎やウオッカ等(アルコール度数20度以上)に漬け込む」のはOKですが、日本酒は「醸造酒であり、通常アルコール度数も20度未満」ですから、二重の意味でNGです(まれに、度数20度以上の日本酒も存在しますが、バーや飲食店で提供する場合は「蒸留酒」しか使えないのでやはりダメです)。 また、梅酒に自然な甘さを出したいからと言って、氷砂糖の代わりに「麹」を使うのも「(3)の(イ)に抵触する」ため、当然NGです。また、ぶどう類を原料にして自家製ワインのようなものを提供すれば、ベースが醸造酒・蒸留酒等に関係なく、完全に違法行為となります。 さらに、年間に自家製造できる量の上限も、営業場ごとに1年間(4月1日から翌年3月31日の間)に1キロリットル以内と決められています(バーUKの場合は、4種類全部合わせても、たぶん月間で最大2~3リットルくらいなので、全然大丈夫です)。なお、この特例措置を受ける場合は、所管の税務署に特例適用の申告書を提出しなければならないとされています(バーUKも一応、申告書を提出しております)=【末尾注2】ご参考。 ◆「自家製サングリア」の提供は基本NG 気をつけなければいけないのが「自家製サングリア」です。サングリアとは「ワインにフルーツやスパイスを漬け込んだワインカクテル」のこと。アルコール度数も低く、フルーティで、お酒が苦手な女性にも飲みやすいので、「自家製サングリア」を食前酒やカクテルとして提供するバーや飲食店も少なくありません(私も何軒か知っています)。 しかし、ベースがワイン(醸造酒)なので前述した条件の「ベースが蒸留酒」にも「20度以上」というルールにも引っかかり、事前に漬け込むことが一般的なサングリアは、場合によっては「発酵」も起こるので、租税特別措置法の特例措置は適用されません。許可なく製造・提供すれば違法で、刑事罰(前述)が科せられます。 従って、現在の日本国内では、基本、自家製サングリアの提供はNG(違法行為)です。プロのバーテンダーの人でも、この規定を知らない人を時々見かけますので、本当に注意が必要です(ただし、自家製サングリアを公然と、あるいは内緒で提供していたというバーが国税当局に摘発されたという話は、個人的には過去聞いたことはありませんが…)。 なお、お客様が飲む直前にワインにフルーツを入れて提供するような場合については、「店舗内で消費(飲む)の直前に酒類を混和した場合(例えばカクテルのようなドリンク)は、そもそも酒類の製造に当たらない」という特例措置と同等に扱われるため、まったく問題ありません。 ◆目に余る行為でない限り、現実には「黙認」 くどいようですが、日本国内でお酒を製造するには、(そこがバーであろうとなかろうと)酒類製造免許(酒造免許)の取得が義務づけられています。なので免許を取れば、店内で自家製のビールやワイン、そしてサングリアを製造・提供することも法的には可能です=【末尾注3】ご参考。 しかし免許取得には、管轄税務署より「経営状況」「製造技術能力」「製造設備」等の審査、免許を受けた後も1年間の最低製造数量を満たしているか等の審査があります。製造しようとするお酒の種類ごと、また製造所(店舗)ごとに免許が必要です。普通のバーや飲食店等が独自で取得するのはかなり高いハードルがあり、そう簡単ではありません。 現状では、「自家製サングリア」を提供するバーや飲食店は時々見かけますが、それはかなりの部分で「グレーな行為」だと思われます。だが、国税当局は「年間通して常時、公然と一定量を提供したり、お土産で販売したりする」ような目に余る行為でもない限り、事実上「黙認」している状況です(いちいち摘発する手間も大変だからでしょう)。 個人的には、年に1~2度くらいの特別なイベント時なら、事前に申請すれば例外的に自家製サングリアの提供を認めてほしいと強く思います。しかし現状では、何かのきっかけで国税当局が厳しく規制してくることも十分考えられますので、まぁ基本的には、バーでは手を出さない方がいいと考えています。サングリアに近いアルコール・ドリンクを提供したい場合、前述したように、飲む直前にワインにオレンジやレモン、ライムなどのフルーツを加えるしかありません。 ここまで書いてきたことの要点(大事なポイント)をまとめておきますと、バーで提供できる自家製のお酒は、(1)20度以上の蒸留酒を使うこと(2)ぶどう類以外の材料を使うこと(米などの穀物類や麹もダメ)(3)店内で作り店内だけで提供すること(持ち帰り販売はダメ) ということです。この3つだけは常に頭に入れておきましょう。 ◆その場でつくるカクテルはOK では、バーの花形である「カクテル(Cocktail)」はどうでしょうか? バーでのカクテルは通常、お客様の注文を受けてその場でつくられ、飲む直前に提供されます。1953年に成立した酒税法には「消費の直前に酒類と他の物品(酒類を含む)を混和した場合は、前項の規定(新たに酒類を造ったものとみなす)は適用しない」(第43条10項)という例外規定があり、2008年の租税特別措置法の改正でも、この例外規定は受け継がれています。 従って、その場で作ったカクテルを提供することは全く問題ありません。提供の直前につくるカクテルなら、フルーツなどを混ぜても「発酵」することはあり得ないからです。また、店舗前のテラス、ベンチ等は、客がその場で短時間で消費する前提であれば、店舗内と同じ扱いとなります。ただし、店舗内・店舗前に関係なく、自家製酒や作ったカクテル等を容器に詰めたりして販売する(無償譲渡することも含む)などの行為は、「無免許製造」となるのでできません。 なお、個人が自宅においてカクテルを飲む直前につくる場合、家庭内で消費する限りは家族や来訪した友人にも自由に提供できますが、(別の場所に住む)他人の委託を受けてつくったりすると「違法」になるので注意が必要です(当然、販売行為もNGです)。 ◆「期限付酒類小売り免許」も一時制度化されたが… ちなみに、国税庁は2020年4月、コロナ禍で苦しむ飲食業を支援するため、バーや飲食店等が6カ月の期限付きで酒類の持ち帰り販売ができる「期限付酒類小売業免許」を新設しました(現在ではこの制度は終了)。昨年は、この「期限付小売業免許」を取得して、ウイスキー等を量り売りするバーもあちこちで目立っていました。 加えて、国税庁が「カクテルの材料となる複数の酒類や果実等を、それぞれ別の容器に入れて、いわゆる”カクテルセット”として販売することも、期限付酒類小売業免許を取得すれば可能」という見解を示したことを受けて、カクテルの持ち帰り販売(材料別に密閉容器等に詰めての販売)をするバーも登場しました。 ミクソロジストとしてバー業界でも著名なバーテンダー、南雲主于三(なぐも・しゅうぞう)氏は「期限付免許」を取得したうえで、自らの店舗で持ち帰り用のオリジナル・カクテルセットを販売されました。その後は、酒類製造免許を持つ会社とタイアップして、完成品の瓶詰めオリジナル・カクテルの販売(通販がメイン)も始められました。その南雲氏の体験談はとても参考になります(出典:食品産業新聞社ニュースWEB → https://www.ssnp.co.jp/news/liquor/2020/04/2020-0413-1634-14.html)。 ◆出来たこと・出来なかったこと ご参考までに、「期限付酒類小売業免許」で出来たこと・出来なかったことや許可要件等を少し紹介してみます。(1)瓶(ボトル)や缶のままでの販売は可能(※この場合の瓶や缶とはウイスキーやビール、ジン等の未開栓の商品を指す)。(2)来店時にその場で酒類を詰める量り売りも可。量り売りの場合、容器は客側が用意することが前提(店側が容器を用意する場合、容器代の伝票は別にすること)(3)来店前にウイスキー等の酒類を詰めておく「詰め替え販売」は、詰め替えをする2日前に所轄の税務署に届け出をすれば可能。(4)カクテルなどをプラカップに入れて蓋をして販売することはできない。(※ただし、事前にカクテルを材料別に密封容器に詰めておく「詰め替え販売」は、(3)と同様、事前に所轄の税務署に「詰め替え届」を出していれば可能)=【末尾注4】ご参考。(5)量り売りの場合はラベル表示は不要だが、詰め替えはラベルが必要。(6)2都道府県内にまたがる配送は不可。(7)酒税法10条(酒類製造・販売免許を得るための人的・資格要件)に違反していないこと。(8)新規取引先から購入したものは販売不可。既存の取引先からの酒類に限り、販売が可能。 ◆「期限付免許」は2021年3月末で終了 前述したように、期限付免許での「詰め替え届」が出ていれば、カクテルを材料別に密閉容器にボトリングまたは真空パックにしてセット販売することが出来ました。南雲氏は例えば、ジン、カンパリ、ベルモットを密閉容器に詰めて、オレンジピールと一緒にして「ネグローニ・セット」として販売。お客様も自宅で手軽に、プロ並み(に近い?)のカクテルが楽しめたのです。 南雲氏は当時、「小売と同じことをしても価値はない。バーにしかできない売り方が付加価値となります。例えば、ウイスキーのフライト(飲み比べ)セット、自家製燻製とウイスキーのマリアージュセット、クラフトジンとライムとトニックのジントニックセットなど、可能性は無限大です」と大きな夢を描いていました。素晴らしい取り組みだと思いました。 しかし、国税庁はこの「期限付酒類小売業免許」を2度の期限延長を経た後、今年(2021年)3月末を持って終了(廃止)してしまいました。4月以降も継続を希望する場合は、通常の「酒類小売業免許」を申請するように告知しています。コロナ禍がここまで長引くとは思わなかったということもありますが、せっかくの「期限付免許」はコロナ禍が収束するまでは存続させてほしかったし、一方的に終了してしまった同庁の姿勢はとても残念に思います。 その後も南雲氏は、日本国内のバーで、カクテルのデリバリー販売、テイクアウト販売が常時認められることを目指し、様々な団体やバーテンダーと連携して、国税庁への働きかける活動を精力的に続けられています。ぜひ応援していきたいと思っています。 ◆出張バーテンダーの扱いは? 時々見かける(そして、私自身もたまに依頼される)出張バーテンダーっていう営業は、出張先で用意された酒や材料を使ってカクテル等つくる場合においては、法律的な縛りはまったくありません(出張料理人・シェフも同じ条件ならば合法的な行為と見なされます)。厳密に言えば、食中毒を起こさないように注意する程度です。 ただし、出張先(店舗外)で提供するカクテルを、事前に作り置きして容器に詰めていくことはできません。租税特別措置法では、「当該営業場以外の場所において消費されることを予知して(事前に)混和した場合、特例措置にいう『消費の直前に混和した』こととはならず、無許可の酒類製造に相当する」とされています。 要するにバーにおいてのカクテルは原則として、「自らの店の中でつくって提供すること」「注文の都度つくること(作り置きすることはNG)」「注文した人が飲むこと」の3つの条件を満たす必要があり、出張先においても「(出張先は)自らの店と同じ扱いになる」ことも含め、この3条件を守らなければなりません。 以上、長々と書いてきました。2020年1月以降長く続くコロナ禍で、バーを含む飲食店は、非科学的なアルコール規制のために、苦境に立たされています。しかし、ピンチはチャンスでもあります。我々バーテンダーは、コロナ禍が収束した暁に、バー空間で味わうお酒の楽しさをお客様に実感してもらえるように、関係する諸法律には誠実に向き合いながら、より一層の創意と工夫を加えて新しい自家製酒やカクテルを提供していこうではありませんか。【注1】他の果物は混和してもいいのに、なぜ、ぶどう類だけは禁止になっている理由について国税庁は説明していませんが、おそらくは(正式の免許を受けて醸造している)国内のワイン用ぶどう栽培農家=製造業者の保護という観点があるのではないかと考えられています。【注2】特例適用申告書については、店で少量の自家製酒を不定期に提供している何人かのバーのマスターに聞いてみましたが、実際、個人営業の店で申告書を出しているところはそう多くないようです。現実には、少量で不定期ならば、国税当局も事実上「黙認」しているようですが、私は、妙な疑いをかけられるのも嫌なので、一応、法律に従って申告しています。 【注3】アルコール度数1%未満であればビールやワインを醸造するのに許可は必要はありません。市販の自家製ビール(またはワイン)製造キットがこれに当たります。なお、店内に小型の簡易な蒸留器を置いているバーを見かけることがたまにありますが、無許可でアルコール度数1%以上の蒸留酒を造る行為は「違法」になるのでご注意ください。【注4】南雲氏との2020年4月の一問一答で、国税庁酒税課は「カクテルは、仕様がグラスやカップ、プラカップ等で直後に飲むことを前提としている容器であれば(店舗内での)提供」と答える一方で、「結果として客側が持ち帰ったとしても、直ちに販売と言うのは難しい」との見解も示し、蓋のない容器での「テイクアウト」も事実上容認していました。しかし、期限付免許が終了した現在、カクテルの「テイクアウト」販売は残念ながら再びNGになっています。【2025年1月追記】コロナ禍収束後、ここ数年の間に、酒類製造免許を持つメーカーからは、ボトルに詰めたカクテル製品が続々と市場にお目見えしています(有名バーテンダーとコラボしている商品も目立ちます)。しかし消費期限等の制約もあり、現状ではマンハッタン、ネグローニ、マティーニなど度数の高いもので、劣化しやすいジュース類は使用しないカクテルに限られています。この類の「ボトル詰めカクテル」商品が今後定着していくかどうかは、現時点では未知数というしかありません。【おことわり&お願い】この記事は、バーにおける「自家製漬け込み酒」等について、現時点での酒税法、租税特別措置法上の一般的なルールや法的見解等をまとめたものですが、個別具体的な行為や問題についての適法性まで保証するものではありません。個別のケースにおける疑問や法的な問題、取扱いについては、バーや飲食店等の所在地を所管する税務署や保健所にご相談ください(※ご参考:酒税やお酒の免許についての相談窓口 → 国税庁ホームページ掲載リンク)
2021/06/04
閲覧総数 32161
2

滋賀県というのは、京都に近いせいかどうかは知らないが、「オーセンティックBARの不毛地帯」という評判をよく聞く(滋賀県のBAR経営者の方、ごめんなさい)。実際、洋酒メーカーのHPでのBARガイドを見ても、まず滋賀県の県都・大津には1軒くらいしか出てこない。同県内の他の地域にしてもBARは数えるほどしかない。 大津や草津辺りに住んでいる人に聞くと、「たいてい京都まで飲みに出てしまう。だって、選択肢が多いし、JRで15分ほどで行けるんだもん」との答えが返ってくる。でも、滋賀県にも素晴らしいオーセンティックBARはある。少なくとも僕はその店を知っている。場所は県北西部の彦根。ご存じ国宝・彦根城のある井伊家の城下町である(今じゃ、「ひこにゃん」の方が有名かな?)。 今回おすすめするのは、いずれも同じオーナーが経営する2軒。一つはお城に近いエリアにある「Bar Thistle(シスル)」=写真右=と、JR彦根駅からすぐのところにある「Salon Bar Thistle」=写真左下。Thistleとはスコットランドの国花「アザミ」のこと。この名前からもオーナーのBARに対する愛と意気込みが感じられる。 先般、私は久しぶりにお邪魔した。オーナー・バーテンダーのMマスターは、コンクールでも優秀な成績をおさめた経験もある凄腕の方だが、それよりもホテル出身のバーテンダーらしい、柔らかく温かい接客が大好きだ。 今回まず、Bar Thistleにお邪魔すると、Mマスターはおらず、気さくなお弟子さん・Kさんが出迎えてくれた。Bar Thistleはウッディで、オーセンティックな空間だが、決して堅苦しい雰囲気はなく、これほどクオリティの高い酒場は銀座や北新地にも数少ないと言ってもいい。滋賀県人のBAR愛好家は、彦根にThistleがあることをもっと自慢していいと思う。 Kさんも師匠に劣らず、素晴らしい丁寧な接客をしてくれる(Mマスターの教育が行き届いているからだろう)。早速、K君のつくってくれた美味しいジン・リッキーをいただき、のどを潤す。 聞けば、半年ほど前に彦根駅前近くのホテルの1階に、2軒目をオープンし、Mマスターは現在はそちらに出ているという。「それなら、せっかくだから帰りに寄っていくから」と、2杯目の酒をいただいた後、Kさんに歓待の礼を言って、急ぎ足で駅方面へ向かう。 「Salon Bar Thistle」は駅前のビジネスホテルの1階にあるが、店に一歩足を踏み入れると、そこには程よい照明に包まれた、静かで落ち着いた空間が広がっていた。まずは「予約席」という札が置かれたカウンターの席に腰を落ち着ける。 そして、Mマスターに「ご無沙汰しております。お久しぶりです」と挨拶。「本日はわざわざ有難うございます。**さんがまもなく着かれるとThistleから連絡がありました」とMさん。Kさんが僕が店を出た後、すぐに電話しておいてくれたのだろう。「予約席」の札の意味が分かった(Kさんの心配りはさすが)。 Mさんとお会いするのは、恥ずかしながら約5年ぶり。でも、前回、「Thistle」でお会いした際の温かい接客・サービスは今もよく覚えている。Mさんとは、積もる話をたくさんして、私は持参した秋山徳蔵さんの復刻本「カクテル(混合酒調合法)」を一冊差し上げた。 Salon Bar Thistleはまだ新しい店だが、座り心地のいいカウンターの席でMさんの美味しいオリジナル・カクテルを味わっていると、実に心地よく、リラックスした気持ちになれる。たまたま、この夜はカウンターに大阪のBARにも詳しい地元のお客さんがいらして、うらんかんろも意気投合。おやおや、楽しく過ごしていると、そろそろ電車の時間が近づいてきた。僕はMに再会を約して店を後にした。 彦根は大阪から1時間半ほどかかり、なかなか行く機会がないが、この2軒のThistleは何度でも行きたい店だ。今度は、北陸からの帰りにでも、途中下車してでも寄ろうかな。Mさん、心温まるもてなしを本当に有難うございました!【Bar Thistle】滋賀県彦根市本町1-12-12 ファーストハウス1F 電話0749-22-1230 平日午後6時~午前1時(土日=午後2時~)月・火・木・金はランチタイム(午前11時半~午後2時)も営業 水休 【Salon Bar Thistle】彦根市旭町9-14 ホテル・サンルート彦根1F 0749-22-7071 午後6時~午前1時 日休こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2011/03/05
閲覧総数 1493
3

かなり久しぶりに言葉(方言)の話題。和歌山と言えば、関西にあって、大阪、京都、神戸というビッグ・ネームに隠れ、全国的な知名度はいまいちだ。同じ関西人の間でも、和歌山は残念ながら存在感が薄い(和歌山出身の人、ごめんなさーい)。 僕は京都生まれの大阪育ち。そして現在は兵庫県に住んでいる。同じ関西だけれど、あまり和歌山へ出かけることは少ない。ただ、親戚筋にも会社の友人にも、和歌山出身の人はいる(写真左=和歌山は紀州徳川家55万石の城下町。八代将軍・吉宗は紀州徳川家出身です)。 関西以外の方は、和歌山と言えば、何を思う浮かべるだろうか? 黒潮、クジラ、温州みかん、南高梅、熊野古道、高野山、保守的な土地柄、それともそれ以外? ステラビアさんや、na_geanna_mさんら関東の方に一度聞いてみたいなー。 さて、本題の言葉の話。同じ関西弁でも、和歌山弁はかなり独特の色合いを持っている。和歌山と言っても広いので、一応ここでは紀ノ川筋、主に和歌山市周辺を中心とする表現について記す(写真右=温暖な気候が美味しい温州みかんを産む)。 和歌山弁の最大の特徴でもあり、しばしばギャグのネタにもされるのは、「ざ行」の発音が「だ行」になること。和歌山弁に、「ざじずぜぞ」は必要ない。ほとんどが「だぢづでど」になる(写真左=先ごろ、「世界遺産」に認定された熊野古道)。 よく典型的な和歌山弁のたとえ話で紹介される話。和歌山の子どもたちが動物園に訪れた。鼻の長い動物の前に行って、子どもたちは叫んだ。「あっ、どうさんがいる!」。かように、和歌山では、座布団は「だぶとん」、雑巾は「どうきん」、安全は「あんでん」になる。 笑い話で、和歌山出身の元阪神・プロ野球選手、藤田平氏がラジオの野球解説していたときのこと。本人は「絶対絶命のピンチですね」と言ったつもりだったのだが、僕には「でったいでつめいの…」としか聞こえなかった(写真右=美味しい梅干しでも有名。とりわけ「南高梅」は最高の品質!) もっとも、それでは若い人が「ざ行」の発音ができないのかと言えばそうではない。和歌山出身の人でも、大阪や神戸に来たら、ちゃんと「ざ行言葉」を話しているから、やはり、言葉は風土・文化が創るということなのか(写真左=江戸の頃から、「黒潮の恵み」であるクジラを食する和歌山県人)。 僕の親戚筋で和歌山出身のおじさん(和歌山弁では「おいやん」となる)は、和歌山でも南部の湯浅というところの出身(湯浅は醤油の産地で有名)。だから、結構きつい和歌山弁を喋っていた。同じ関西人の僕でも、おじさんに意味を確かめないと分からない言葉や言い回しもたくさんあった(写真右=「和歌山のシンボル」は数あれど、白浜の円月島も有名)。 和歌山弁では、自分のことをよく「あが」とか「わが」と言う。現在70代のおじさんは10代後半で大阪に出てきたので、今ではすっかり大阪弁に馴染んでいるが、酒が進むとやはり、時々「わががー」なんて口に出る。ついでに言うと、あなたのことは「おまん」と言う。「おまん、よう聞けよ」なんて…。 語尾が「です、ます」が「~じょぉ」となるのも特徴(例:「おまんの言う通りじょぉ」)だが、これは阿波(徳島)弁にも似ている。現在進行形は「~ちゃぁる」(例:車が走っちゃぁる)(写真左=真言密教の聖地「高野山」。奥の院には弘法大師・空海が眠る) 質問や疑問の「~ですか?」は「~かえ?」となることが多い(例:「この料理好きかえ?」)。接続詞も面白い。僕の「おいやん」はいつも、「ほやけど(標準語=しかし、大阪弁なら「そやけど」かな)」「ほやさけ(同=つまり)」「ほいたら(同=そしたら)」だった(写真右=日本一の大滝「那智の滝」)。 そして、とにかく和歌山弁では語尾に「~よー」をやたら付ける。「このあいだよー、あそこの店いったんよー、安くてよー、味もええんしょよー」なんて、出てくる文節ごとに語尾が「よー」のオンパレードなんてこともある。(写真左=和歌山の最高の海の幸、クエなべ。やや高価だけれど旨ーい!)。 とにかく書ききれないくらい和歌山弁は魅力的。なかでも、僕が一番好きな和歌山弁は「連れもって、いこらー」(一緒に行こうよー)。何となくとても親しみを感じる表現だと思わない? でも残念ながら、僕でもなかなか普段は聞く機会はない。今度、機会を見つけて「生の和歌山弁」を聞きに行ってみようかなー。 最後に、和歌山出身の有名人は誰だろうとちょっと調べてみた。もう亡くなった人もいるけれど、華岡青洲、南方熊楠、松下幸之助、坂本冬美、東尾修、有吉佐和子、楳図かずお、小林稔侍、デューク更家、ラル・カンシェルのhyde…。う~ん、多彩だなぁ…(写真右=アドベンチャー・ワールドのパンダも和歌山の“有名人”?!)。 和歌山出身の人って、自分のことを「和歌山出身です」とはあまり言わずに、「関西出身」と言う人が多い(コンプレックスがあるのだろうか?)。確かに、「個性に乏しい」とか「田舎で、考え方が保守的」とか、若い世代には引け目もあるようだ。 でも、これからは変わる可能性だってある。自分が保守的にならなければ確実に世の中は変わる。和歌山には何よりも、京阪神にはない、自然と温暖な気候と美味しい海・山の幸がある。そんな故郷・和歌山を、もっと自慢に思ってもいいと僕は思うのだが…。【注】タイトルの「おもしゃいじょぉー」は和歌山弁で「面白いよー」の意。人気ブログランキングへGO!→【人気ブログランキング】
2005/11/22
閲覧総数 2009
4

バーUK、本日8月5日(水)は店休日となっております。何卒ご了承くださいませ。Today ( August 5th )the bar UK is closed. Thank you for your understanding.
2026/08/05
閲覧総数 43
5

先日、社内の後輩から「ハイ・ボールって、なんでハイ・ボールって言うんですか?」と質問された。うらんかんろ自身、何度か本では読んである程度知ってはいるが、いい加減な返答をするのも嫌なので、「ごめん、正確に答えたいから、また改めて返答するよ」と少し時間をもらった。 そして、この歳になって(笑)、改めて「ハイ・ボール」の語源・由来を調べてみた。その結果は以下の通り(様々なガイドブックや酒造メーカーのHP等を参考にさせて頂いた。この場を借りて厚く御礼申し上げる)。 まず、一番有名なのはアメリカの鉄道の信号機起源説。19世紀初め、開拓時代のアメリカ南部の鉄道では、長い棒の先にボールをつけた「ボール信号機」が使われていた。ボールが上がっていれば「進行(go)」、上がっていなければ「停止(don't go)」という訳。「進行(go)」状態は従って、「ハイ・ボール」と呼ばれていた。 当時、セントルイスの駅の信号係に、ウイスキーのソーダ割りが大好きな人がいて、列車に出発進行の合図を送るたびに、「ハイ・ボール!」と叫んでいた。そこでその飲み物も「ハイ・ボール」と呼ばれるようになったとか。「ボール信号がハイの状態」(=出発進行)は、このソーダ割りのように「早く飲み干し、すぐ出掛けられる」飲み物にぴったりのイメージだったのかもしれない。 この信号機説にはバリエーションもある。信号機は列車だけでなく工事労働者への休憩の合図にも使われていた。労働者たちは休憩時間に好んでウイスキーのソーダ割りを飲んでいた。そこで、その飲み物も当然、信号機の呼び名から「ハイ・ボール」と呼ばれるようになって、さらに定着していったという。 次に、本などでよく紹介されているのが、英国のゴルフ場起源説。ある時、ゴルフ場のクラブハウスでウイスキーのソーダ割りを飲んでいた英国紳士が「これは何という飲み物か?」とマスターに聞いた。 するとちょうどその時、打ち損じのゴルフ・ボールがクラブハウス飛び込んで来て、思わずマスターが 「High ball!!」(高い球) と叫んだのが、由来となってしまったという説。 他にも、炭酸の泡(玉=ボール)が上に揚がっていく様から、ハイ・ボールと呼んだという説や、「高めの直球(HIGH BALL)」は、打ちごろ(=飲みごろで、美味しい)の絶好球という説、「気分がHIGHになる弾丸(BALL)」という説、「丈の高い(HIGH)容器(BOWL)」にウイスキーを注いだ飲みものだからという説など様々な説があるが、米国のバーテンダー養成学校では、「ボール信号機」が語源と教えているという。 なお今日、「ハイ・ボール」と言えば、一般的にはウイスキー&ソーダを意味することが多いが、昔はそうではなかった。例えば、有名な「サヴォイ・カクテルブック」(1930年刊)では、ハイ・ボールについて、「ミディアムサイズのグラスを使い、角氷1個、好みの蒸留酒、リキュールまたはワインをソーダ水で割る。ジンジャー・エールを使ってもよい」と紹介されている。 欧米では、トニック・ウォーター割りもハイ・ボール、水割りはウォーター・ハイボールとも呼んでいた。アメリカで出版された古いカクテルブックでは、ジン・トニックもハイ・ボールとして紹介されている。1930年代頃からは、ウイスキーにレモンやグレナデンシロップ、ビターを加えることが流行し、ソーダだけではなく、ジンジャー・エールやコーラなどに代えたハイ・ボールも飲まれていたという。 日本でもこうした欧米での流れを受けて、昔はウイスキー&ソーダ以外でもハイ・ボールと呼んでいた。サントリーの前身、壽屋時代(1962年以前)の昭和30年代の販促資料を見ると、ベースの酒はウイスキーを指定しているが、「ハイ・ボールはウイスキーをソーダまたは水で割ったもの」とあり、水割りでもハイ・ボールと呼んでいたようだ。 また、うらんかんろが持っている参考文献の中で一番古い「洋酒――ストレートからコクテエルまで」(1957年、佐藤紅霞著、ダヴィッド社刊)では、「ハイ・ボール」について、「普通、ジン、ウイスキー、ラム、ベルモット、シェリー、デュボーネ等を適量のソーダ水で割ったものを言う」と記されている。 ウイスキー&ソーダが「ハイ・ボール」と呼ばれるようになったのは、僕自身の記憶でも、おそらくは1970年代以降のことだと考えている。サントリーも昭和40年以降の広告では、「ウイスキーをソーダで割った『ハイ・ボール』という飲み方がおすすめ」としてPRしている。 ともあれ、今日の日本では「ハイ・ボール=ウイスキー&ソーダ」が定着し、欧米では今日でもウイスキー&ソーダ以外もハイ・ボールと呼んでいるが、ともに、多くの洋酒愛好家に愛されていることには変わりはない。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2010/06/04
閲覧総数 10462
6

素人が遊びでピアノを弾いていると、いろんな出会いがあり、得難い体験をする。「一期一会」とよく言うけれど、本当にそうなってしまった、忘れ得ぬ思い出…。 10年ほど前の11月の話。僕は、友人が自宅マンションで開いたパーティーに招かれた。参加者は30人余り。友人が当時一緒に暮らしていたパートナーの女性は、プロのクラシックのピアニストだった関係で、参加者もクラシック畑の人が結構多かった。 歌の方(二期会の方なんかもいた!)やバイオリンや管楽器の奏者の方とか、いろんな人が集ったが、人柄も素晴らしい人たちばかりだった。友人のマンションには当然、グランド・ピアノがあった。プロだから、スタンウェイかなと思ったけれど、ベーゼンドルファーというメーカー(これはこれでプロの間では、結構有名なメーカーらしい)のピアノだった。 僕は、パーティー当日早めに行って、お客さんがそこそこ集まるまで、好き勝手にそのピアノで練習させてもらい、素晴らしい音色を十分に堪能させてもらった。 そして、パーティー本番。当然のように、次々と独奏や、あるいは二重奏、三重奏が入れ替わり立ち替わりが始まった。友人も、パートナーに感化されて、この日のために練習してきたオペラのアリアなんかを歌って、客を楽しませた。 僕も、プロの歌い手の方の伴奏をする幸運に少し恵まれた。クラシックの曲はほとんど弾けない僕のために、彼らはポップス(たとえばビートルズやビリー・ジョエルなど)やシャンソンの曲を、歌ってくれた。Iさんという女性バイオリニストは、「愛の讃歌」を弾いて、一緒にセッションしてくれた。 Iさんは、ほかにもバイオリンの名曲として有名なクライスラーの「愛の悲しみ」という曲を、別の方の伴奏で聴かせてくれた。その哀愁を帯びた、美しいメロディーに魅せられた僕は、パーティーの後、次の機会に一緒に演奏(伴奏)できることを願って、楽譜を買ってきて練習をし始めた。 ところが、パーティーからわずか2カ月後の翌年1月、そのIさんが、自宅近くの坂道で自転車に乗っていて転倒し、頭を打って亡くなったという、まったく信じられない知らせが届いた。新婚間もない、まだ27歳の若さだった。若手の有望バイオリニストだったIさん=稲岡和(いなおか・ゆたか)さん死去の記事は、新聞にも載った。 彼女があの日弾いたエルガーの「愛の挨拶」など素晴らしい演奏の数々は、今も心に残り、忘れることはない。上品で、気さくで、一緒にいると、その場の雰囲気がなごむような方だった。クラシック畑の人には、一見とっつきにくい印象があるけど、その日僕が出会った人はみんな素敵な方ばかりだった。「(人に会う前から)先入観を持ってはいけない」とよく言うけれど、僕はその通りだと思う。 あの日、一緒にセッションした写真(上)を見るたびに、いまだに「夢まぼろし」を見たかのような、信じられない気持ちになる。そして、人生の無常を感じてしまう。素晴らしい才能を持った彼女を、こんなにも早く天上に召してしまった神を僕は恨む。
2005/03/14
閲覧総数 1389
7

遅ればせながら、ようやく、レイ・チャールズを描いた映画「Ray」をレンタルDVDで借りて、観た。na_geanna_mさんや、きんちゃん1690さんがこの映画のレビューを日記に書いていたのに、触発されたことが大きい。2時間半という長い映画だったが、テンポが良くて長さは感じなかった。 映画は、音楽家レイの単なるサクセス・ストーリーではなく、薬漬けだった前半生など、彼の人生の恥ずべき部分もきちんと描いている(生前のレイも、映画でありのまま描くことを了解していたという)。見終わって、レイ・チャールズの生涯について、あまりにも無知だった自分が恥ずかしくなるような映画だった。 レイ・チャールズは僕が子どもの頃すでに、日本にもその名が轟く米国の一流ミュージシャンだった。「ホワッド・アイ・セイ」「愛さずにはいられない」「我が心のジョージア」などのヒット曲で、確固たる地位を築いていた。だから、彼の幼少の頃や青年時代の苦労などは、残念ながら知る機会はなかった(写真右=映画「Ray」のポスター&サウンドトラック盤の表紙)。 黒人に対する偏見と差別がまかり通っていた1940年代。南部フロリダの貧しい小作農の家庭で育ったレイにとって、生きるということは、差別とのたたかいでもあった。7歳で失明し、15歳で母を亡くしたレイが、音楽で身を立てようと17歳で単身、フロリダから西海岸のシアトルまで、長距離バスで旅立つシーンが印象的だ。 「目の見えない乗客の世話などできない」と乗車拒否をしようとする運転手に、「ノルマンディー(上陸作戦)で視力を失ったんだ」という機転を効かせるレイ。とたんに運転手は尊敬の態度に変わる。そこまで芝居もしないと、弱い立場の黒人は生きられない時代だった。 取り巻きの黒人プロモーターでさえ彼のギャラをごまかすという、安心できない環境の中、レイは持ち前の「生きる智恵」を生かしながら、ゴスペルとブルースを合体させた、独自のR&B、ソウル・ミュージックを創りあげていく(写真左=「Ray」の1シーン。ジェイミー・フォックスはレイそのもの)。 やがて音楽的にも成功し、素敵な妻と子どもに恵まれる。だが、幸せな結婚生活を送れたはずのレイは、人生の古傷を癒すためにドラッグ(ヘロイン)と縁が切れず、体はどんどんむしばまれていく。結婚生活も、愛人との浮気などで崩壊寸前。音楽的な成功はつかんでも、人生は波乱の連続だった。 レイを演じるジェイミー・フォックスが文句の付けようのないくらい、素晴らしい。ピアノを弾くときの体の傾け具合といい、細かい仕草まで徹底的に研究し、ピアノや歌も厳しいトレーニングを積んだというが、モノマネの域を超えて、まるで本物のレイが乗り移ったかのような演技。アカデミー主演男優賞をもらったのは、当然すぎるほど当然かもしれない。 映画は、矯正施設での薬物治療に耐え抜き、かつてコンサートをキャンセルしたレイを永久追放したジョージア州が1979年、「我が心のジョージア」を州歌に制定する際、レイを招いて公式に謝罪するシーンで終わる(写真右下=レイ・チャールズ本人。誰にでも愛されたレイ…、素晴らしい音楽を有難う、レイ!)。 その後もレイは25年、73歳まで生きた(クスリをあれだけやったのに長命だったのは神のご加護か?)。映画では、80年代以降の、彼の反アパルトヘイト運動や、「We Are The World」などの難民支援、ジャズやロックの大物ミュージシャンとのデュエットなど、後半生の幅広い活動にも少し触れてほしかった気もするが、その部分を省いても2時間半だから無理は言えまい。 レイが世を去って(昨年6月10日)、はや1年余。昨今のレイ・チャールズ再評価の動きを、天国の彼はどう思っているだろうか。「僕は、好きな歌を歌ってきただけだよ。これからもそうするさ」って言うのかな。サザンの「いとしのエリー」の英語バージョンでしかレイを知らない若い世代に、僕はこれから機会あるごとに「Ray」を観てごらんと勧めていこう。
2005/07/19
閲覧総数 427
8

麻生首相が、高級料理店で食事をした後、連日のように一流(高級)ホテルのBarで飲んでいることに対して、野党やマスコミから批判する意見が出ています(僕のブログでは、政治と宗教と営利を目的とした勧誘などのテーマは原則としてNGにしているので、ここでは首相の政治的信条については触れません)。 ホテルのBarで飲むことについて、首相は「ホテルのBarは別に高くない」「(首相が)居酒屋で飲んだら営業妨害って言われるだろ?」「聞いてんだよ、答えろよ!」と記者にムキになって反論しました。いささか大人げない物の言い方は好きではない僕ですが、この件に関しては首相を弁護したいと思います。 一流ホテルのBarは、例えばスタンダードクラスのウイスキーなら、街場のBarで1杯700~900円くらいで飲めるところが、少なくとも1杯1000円~1300円くらいはするでしょう。カクテルも一般論として街場のBarよりは割高です(おそらく200円~500円くらいはアップ)。 1杯いくらか分からないと不安でしょうが、街場のBarとは違って、ほとんどのホテルBarでは、1杯の料金を記したメニューを用意しているので、明朗会計です。また、「本日のおすすめウイスキー、カクテル」などと銘打ってリーズナブルな料金で提供してくれたり、軽い付き出しが最初からサービスで付いてたりするところもあります。さらに、ホテルBarでは生演奏を聴かせてくれるところも多いのですが、ジャズのライブハウスなどとは違って、ミュージック・チャージを別にとるところはまずありません。 なお、世界中でも日本だけに見られる「チャージ」という不可解な料金ですが、ほとんどのホテルで500円~1000円くらいはとられます。しかし、今朝の某新聞に載っていた「記者の体験ルポ」によれば、首相が愛用するホテル・オークラのBar「ハイランダーイン」では、なんとチャージ料はなかったとのこと! これには僕も少々驚きました。 もっとも、この「チャージ」については、街場のBARでもとるところがほとんどなので、ホテルのBarだけを非難することはできません(銀座や北新地のBARでは、1500円~2000円!もの法外なチャージ料をとる店だってあります→そういう店に限ってロクなサービスしかありません)。 ただし、一流ホテルのBarでは「チャージ」以外に、消費税とは別に必ず10~15%くらいの「サービス料」がかかってきます(この「サービス料」は街場のBarでは、「チャージの二重取りだ」と客に嫌われるのであまり見られませんが、銀座や北新地の「勘違い高級Bar」では堂々とこの「二重取りシステム」を導入している店も目立ちます。情けないことです)。 従って、「チャージ(+サービス料)」のトータルについては、街場のBarより高いホテルもありますが、街場のBarとほとんど変わらない良心的なホテルも少なくありません。店の雰囲気は、高級ホテルだから当然とても落ち着いた、ゆったりした空間のところが多く、大声で騒ぐ柄の悪い客もまずいません(素晴らしい夜景というおまけが付いているBarもあります!)。 結論としてトータルで考えた料金(お値打ち)では、一流ホテルのBarは街場のBarと比べて、決してそう高くなく、場合によっては街場のBarと同じか、よりリーズナブルなところもあると言うことです(上記のホテル・オークラのほか、僕の経験だと、大阪のロイヤルホテルのリーチ・バーや、リッツカールトンのザ・バー=僕のベスト1=などは考えようによっては、街場のバーよりリーズナブルかもしれません)。 一流ホテルのBarは、決して一般人が飲めないような特別な場所ではありません。だから、この飲む場所だけで首相を批判するのは、ちょっと可哀想だと同情します(もちろん首相がどんな銘柄を飲んでいるのかは別にして、ですが…)。 ただし、本当に庶民の声を肌で感じたいと思ったら、時には街場のBarに予告なく訪れて飲むなんて冒険も(もちろんSPの同伴は必要でしょうが)してみてはいかがでしょうか、麻生さん。「営業妨害と言われる」とのご心配ですが、僕は、「首相が訪れてくれるなんて名誉なことだ」と喜ぶ店主も多いと思いますよ。 【おことわり】写真は日記内容とは直接関係ありません。悪しからず。 【追記】ちなみに、僕はホテルのBarで飲む頻度は少ないです。その理由は料金の問題(本文でも書いたように、街場のBarではホテルより高い店だってあります)ではなく、僕が街場のBarのマスターやバーテンダーとの、ざっくばらんな会話が好きだからです。 当然ですが、ホテルのBarにはマスター(店主)はいません。チーフ・バーテンダーはいても、従業員であることには変わりありません。次の時に訪れても、持ち場が代わっていることもあります。だから会話を交わしても、どうしても当たり障りのない内容が中心になってしまい、残念ながら「ざっくばらん」とはいきません。それが僕が街場のBarの方が好きな最大の理由かもしれません。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2008/10/26
閲覧総数 4248
9

青年雑誌のあるページに、いくつかのトレンディなBARが紹介されていた。30年ほど前のこと。なかでも「いま一番おしゃれで、注目のBAR」として、誉められていたのが、東京の神宮前にあるBAR「R」だった。 「いつか行ってみたいな」と思い続けていたら、その「R」がカクテルブック(写真左)を出版した。さまざまなカクテルが、素敵なグラスを使って美しい写真で紹介され、各界の著名人が味わい深い文章を寄せていた。 僕の念願は、その1年後くらいに叶った。原宿駅で降り、地図を片手にたどり着いた「R」は、意外にもこじんまりしたBARだった。カウンターに座って、ふと天井を見上げると、そこには夜空に光り輝く「天の川」が…。 「何という、おしゃれな空間!」。僕は、店主であるバーテンダーOさんの、カクテルだけでないこだわりに、素直に感動した(写真右=Bar「R」のマッチ。マッチ一つとっても素晴らしいデザイン・センス!) それから10年余、Bar「R」が南青山に支店をオープンしたというニュースを聞いた。たまたま連れ合いと東京へ行く機会があった際、せっかくだからと、一緒にその南青山の2号店を訪ねた。本店ではなく2号店に足を向けたのは、Oさんが本店ではなく、2号店の方にいるという話を聞いたから。開店まもない時間で、店内はすいていた。 僕らがカウンターに座ると、Oさんが近寄ってきた。前回「R」に行った際は、Oさんは不在だったので、初めて出会うOさん。僕が、「大阪からお邪魔しています。神宮前の本店には、随分前ですが、一度…」と言うと、寡黙なOさんも、少し嬉しそうな顔をしたように見えた。 2号店のこだわりは、Oさんが長年集めた素晴らしいアンティーク・グラスの数々を、バック・バーに飾り、お客さんに見てもらうこと(見せるだけなく、実際に使う!)。そして、店内に飾る生け花(Oさんは「小原流」の師範でもある)も、ひと味違う凝ったものにすること。かな?、と僕は思った。 オリジナル・カクテルを頼むと、Oさんは、バック・バーからグラスを選び、それを使って作ってくれた。他に客がほとんどいなかったこともあって、Oさんは、「これは30年代のグラス。戦後のものは良くないんです。やはり職人の腕は、戦前の方が上ですね」などと、丁寧にグラスの解説をしてくれた。 Oさんは、今も年に2回ほど、グラスを探しにヨーロッパの蚤の市を歩き回るという話などを、熱く語った。お値段は少しお高めだったけれど、僕らは満足感に浸ることができた。 しばらくして、青山に3号店もできた。そこではHさんというバーテンダーと知り合った。Hさんは今は新宿で自分のBARを持つが、とても気さくで、いつも律儀に案内状をくれる。東京へ出張しても、なかなか新宿まで行けない僕は、申し訳ない気持ちでいっぱい。 その後、時は流れて、仕事で徳島に住んでいたときのこと。行きつけのジャズBARで、お客さんも少ない時間帯、僕はいつものようにピアノを弾いて遊んでいた(写真左=グラスのデザイン一つとっても、「こだわり」が感じられるBar「R」)。 そこに年配の男女4人連れの客がやって来た。僕は演奏をやめようとしたが、マスターが「いいから、いいからそのまま弾いといて」と言うので、適当に弾き続けた。 30分くらいして、僕は演奏を休んで、その年配のお客さんたちに挨拶に行った。「下手な演奏で、すみません」と会釈した僕に、うち1人の女性が、「いいえ、楽しませてもらってますよ」と嬉しい言葉をかけてくれた。 するとマスターが、「**さん、この方、弟さんが東京で『R』っていうBARやってるんよ、知ってる?」と聞く。「えーっ!」と、僕は絶句した。あのOさんの実のお姉さんが徳島にいたとは! そう言えば、Oさんが徳島県出身という話は、以前に雑誌かなにかで読んだことがあった。僕は、「弟さんのBARへは、何度かお邪魔しています」と伝えた。世の中は狭いと改めて思う。神宮前の「R」から始まった縁が、思いがけない出会いを生む。だから、BAR通いはやめられない。
2005/01/15
閲覧総数 270
10

先日、南極の氷(写真下)でウイスキーのオン・ザ・ロックを飲んだ際、その氷が奏でた「神秘的な音楽」の話(1月23日の日記ご参照)を書いた。 コメントを寄せてくれた方の中にも、「私も一度経験してみたい」という人がいた。僕も、できればもう一度あの電子音楽のような不思議な調べを聴いてみたいが、あの氷は「大陸の奥地の地中深くから切り出したもの」という話だったので、南極観測隊員に個人的な友だちでもいない限り、無理だろうなぁとあきらめていた。 ところが、先日何の気なしに、Yahooで「南極の氷」と打ち込んで検索したら、なんと「南極の氷を通信販売しています」という業者のサイトがあるではないか! 通販しているところは複数あった。一つは「やまね」(東京都品川区)という会社。ここでは、「1kgの袋詰めの南極の砕氷」を、1350円で売っていた。 普通のパック入りのロック・アイスは、1kg200~250円くらいだから、1350円は結構いいお値段には違いない。でも、何万キロも離れた南極から運ばれてきたことを考えると、僕は、あながち高いとも言えないと考えるけれど、これは味わった人の価値判断だろう。 「やまね」のサイトの説明によると、この氷は、南極大陸上から押し出されて海を漂っている氷(小さな氷山みたいなものか?)を、遠洋のオキアミ漁船が採取し、日本まで運んだもので、証明書付きとのこと。もちろん、「飲食のための検査をし、飲食に適していると許可を受けた製品」とまで、銘打っているので、まず安心か。 探してみるとほかにも、「弥生産業」(三重県四日市市)という会社のサイトでも、南極の氷の通販をしていた。ここでは、200g単位(420円=1kgなら2100円!)から、販売しているけれど、当然割高になる。 このサイトでは、「アラスカ氷河の氷」とか「海洋深層水の氷」なんてものも売っていた。飲み比べてみるのも、面白いだろう。普段はもちろん、こんな高い氷では、もったいなくて飲めないが、パーティーか何かの話題づくりにはいいのかもしれない。 ただ、「南極大陸上の氷が海に押し出された」結果、得られたという話を聞くと、南極の氷が味わえることを、果たして素直に喜んでいいものかどうか。地球温暖化の進行で、南極大陸や北極辺りの氷河の氷がどんどん溶け出し、面積が小さくなっているという話を最近、新聞やテレビでよく見たりする。 それは、僕たち人類の将来への不安材料だ。どうせそんな遠い将来、自分は生きていないからどうでもいいと考えるのは、無責任な考えだ。海水面の上昇で沈むモルジブのような国もあるのに、京都議定書への参加も拒否し、欲望のまま、エネルギーを浪費し続けるアメリカのような国もある。 僕は、無駄なエネルギーの排出はしないライフ・スタイルを貫き、温暖化進行にささやかでも抵抗していきたいと思う。神よ、罰を与えるならアメリカのような国に対してだけ与えてください。
2005/02/12
閲覧総数 1637
11

日本のフォーク、ロック、その黎明期を振り返る ◆歌謡曲、演歌、民謡しかなかった邦楽の世界に いま振り返ると、1960年代後半から70年代後半の約10年間は、日本の音楽シーンにとっては、とても重要な時期だったように思います。 60年代後半、それまで歌謡曲、演歌、軍歌、民謡くらいしか聴かれなかった邦楽の世界に、まずフォークというジャンルの音楽が登場します。70年代に入るとフォークは、フォーク・ロックという方向へ発展し、そして初めて日本語で歌うロックが生まれ、その後「ニュー・ミュージック」という新たなジャンルが生まれていくという、まさに新感覚の邦楽の黎明期でした。 この60年代後半から70年代初めにかけては、「米国の音楽に負けるな!」と、情熱あふれる若いアーチストたちが数多くデビューし、職業作詞家・作曲家に頼らず、自分たちの感性でメロディーや詩をつくり、歌うアーチスト(シンガー・ソングライター)が輝きを持ち始めた時代でした(歌謡曲の世界でもその後、職業作曲家が洋楽のセンスを織り込んだ和風ポップスの曲を生みだしてゆきます)。 先日、ある友人から、当時の音楽シーンはどういう状況だったのかを尋ねる質問を受けました。そこで、私の記憶や印象に今も残り、多大な音楽的影響を受けた歌手、グループを、当時のレコードレーベルも含めて、そして私自身の音楽遍歴も交えて振り返ってみました(データは一応Wikipediaなどで確認しましたが、正確性の保証はありませんので、悪しからずご了承ください)。 ★1965~69 ◆まずフォークから始まった 1960年代後半、日本にフォーク・ブームが起きます。そのきっかけとなったのは、60年代半ばに米国から伝わったPPM(ピーター・ポール&マリー)やジョーン・バエズ、ブラザース・フォー、ボブ・ディラン、キングストン・トリオらのレコードでした。小学校5年生で初めてギターを買ってもらった私が、まず始めたのもPPMの曲のコピーでした。 まもなく日本ではマイク真木が歌う「バラが咲いた」(1966年)やブロードサイド・フォーの「若者たち」(同)、森山良子の「この広い野原いっぱい」(1967年)が大ヒットし、大学ではカレッジフォーク・ブームが起きて、フォーク・ソング同好会やサークルが次々と誕生していきました。 加山雄三がフォーク路線を狙って「旅人よ」を出したのもこの頃でした(ビートルズも64、65年頃には日本で人気を得ていましたが、ビートルズから直接影響を受けて誕生した、オリジナルを歌う歌手やバンドというものは、残念ながらこの頃まだ登場しなかったと記憶しています)。 一方、関西では、思わぬ形でフォークが注目を集めるようになります。1967年12月、京都の大学生3人(加藤和彦、はしだのりひこ、北山修)からなるフォーク・クルセダーズ(通称フォークル)というグループがメジャー・デビュー。デビュー曲の「帰ってきたヨッパライ」は爆発的にヒットし、オリコン初のミリオン・セラーとなりました。 このコミック・ソングのようなデビュー曲は、私はあまり好きではありませんでしたが、その後の発表された、「悲しくてやりきれない」「イムジン河」「青春は荒野をめざす」はお気に入りで、友人と一緒にやっていたフォーク・バンドでもレパートリーにしていました。当初「1年限りのプロ活動」を公言していたフォークルは、68年10月に解散しました。 (加藤は解散後、サディスティック・ミカバンドやソロ歌手としてあるいは作曲家として活躍したが、2009年に自殺。はしだの「その後」は本稿の「はしだのりひことシューベルツ」で後述。京都府立医大の学生だった北山は、解散後は芸能界とは距離を置き、九州大学医学部教授も歴任、精神科医・エッセイストとして現在も活動している) ◆反戦・平和、そしてプロテスト・ソング 1968年になると、ベトナム反戦運動や反安保闘争がさらに活発化してきます。フォーク歌手のなかにも、娯楽的な歌詞から一線を画し、社会的、政治的メッセージの色濃いプロテスト・ソングを歌う人が増えてきました。曲も自分たちでつくるシンガー・ソングライターが次々と登場してきます。 69年には、「URC(アングラ・レコード・クラブ)」という関西フォークを発信する独立系レコードレーベルが誕生します。URCは社会性の強いアーチストを発掘したのが特徴でした。この頃、活躍し始めた歌手やグループには、高石ともや、五つの赤い風船、中川五郎、岡林信康、高田渡、斎藤哲夫、遠藤賢司、加川良らがいました。このなかで、私が一番好きだったのは岡林信康です。 岡林のセカンド・アルバム「見る前に跳べ」とサード・アルバム「おいら、いち抜けた」は今でも、凄い名盤だと思います。後に“路線転向”した岡林ですが、この頃は反戦・反権力をメインテーマにしていました(「見る前に跳べ」では、後の、はっぴいえんどがバックをつとめていました)。当時、大阪の「春一番」ライブや、中津川のフォークジャンボリーは「フォークの聖地」として人気を集めていました。 ★1970~73 ◆日本語を初めてロックに載せたはっぴいえんど 70年安保の混乱と熱気が去った後、様々な音楽が生まれ、その中から大瀧詠一、細野晴臣、鈴木茂、松本隆の4人からなるバンド、はっぴいえんどがバンドとしてメジャー・デビューを果たします(70年8月、当初はURCレコードから発売、のちベルウッド)。 はっぴいえんどはご承知のように、「日本語をロック音楽に乗せて歌った初めての本格バンド」と位置づけられています。1stアルバム「はっぴいえんど」(1970年発表)と2ndアルバム「風街ろまん」(1971年発表)は不滅の名盤だと思います。私は、「風街ろまん」発売直後のライブを大阪・難波の高島屋ホールで聴く幸運な機会が持てましたが、大瀧詠一亡き今、とても貴重で少し自慢できる思い出です。(少し個人的な話で恐縮ですが、ちょうどこの頃、私の参加していた3人編成のギター&コーラス・バンド「木の葉がくれ」も結成されました。はっぴいえんどの音楽は私たちの心をとらえ、当初は、その曲のコピーに熱心に取り組みました。洋楽では、もっぱらCrosby, Stills, Nash & Youngのコピーをよくしてましたが、その後、自分たちでオリジナル曲もつくるようになり、それは2枚のアルバムに結実しました)。 一方、旧来のフォーク路線でも、第二世代の歌手たちが登場してきます。1969年、吉田拓郎、泉谷しげる、海援隊らを世に出す「エレック・レコード」という会社が設立されます(しかし、エレックは放漫経営がたたって76年に倒産します)。 ◆「学生街…」が大ヒットしたガロの悲劇 この頃デビューした歌手・グループで、前述以外では、どんな人たちが記憶に残っているかといえば、次のような面々です。ガロ、ザ・ディラン2(セカンド)、赤い鳥、六文銭、あがた森魚、はしだのりひことシューベルツ、ブレッド&バター、はちみつぱい、RCサクセッション等々(ブレッド&バターは今でもまだ現役で活動してます)。 このなかで、私がとくに好きだったのはガロとザ・ディラン2、赤い鳥、シューベルツでした。 ガロは1971年、「日本のCrosby, Stills & Nash」を目指して結成された、コーラスを重視した3人編成のバンドでしたが、72年にリリースしたシングル盤の「学生街の喫茶店」(当初「美しすぎて」というシングル盤のB面用の曲だったのがレコード会社の意向でA面に差し替えられた)が大ヒットしてしまったのが不幸の始まりでした。 ガロにはその後、歌謡曲っぽいイメージが付きまとい、テレビで歌わされるのは「学生街…」ばかり。本人たちも不本意だったのか、わずか5年で解散してしまいました(メンバーの1人日高富明は1986年に自殺。もう一人のメンバー堀内護も2014年病死、現在は大野真澄だけが健在です)。 ディラン2は、60年代末、西岡恭蔵、大塚まさじ、永井ようの3人が当初「ザ・ディラン」の名で結成し、活動していました。彼らのオリジナル、「プカプカ」「サーカスにはピエロが」は今でも凄い名曲だと思います。メンバーのうち、西岡は1971年に脱退し、「ディラン2」自体も74年に解散します。 西岡恭蔵はグループ脱退後、ソロ歌手として精力的にライブハウスなどで活動していましたが、残念ながら1999年、その2年前に先立った妻の後を追うように自殺してしまいました…(涙)。残るメンバーだった大塚まさじ、永井ようは現在もそれぞれソロで精力的に活動し、時折り一緒にステージに立っています。 ◆「翼をください」は今や教科書にも 5人グループだった赤い鳥は「竹田の子守唄」でデビューし、ヤマハの「ライトミュージック・コンテスト」で優勝します。当初はフォーク路線でしたが、その後、紙ふうせん(2人)とハイファイ・セット(3人、現在は解散)に分裂してしまいました(赤い鳥時代の「翼をください」と「忘れていた朝」は今も大好きな曲です。「翼をください」は今では教科書にも載っていますね)。 「風」が大ヒットしたシューベルツは、フォークル解散と同時に、はしだのりひこが結成したバンドでしたが、メンバーの突然死もあって解散。はしだはその後、クライマックス(「花嫁」が大ヒット)、エンドレスと次々グループを換えながら音楽活動を続けました。晩年はパーキンソン病を患い、闘病生活をしながら時折りソロ活動も続けましたが、2017年、72歳で亡くなりました。 はっぴいえんどは1972年に解散。URCからその版権を引き継いだのが「ベルウッド・レコード」(1971年設立)でした。当時の「ベルウッド」のアーチストとしては、ほかにはっぴいえんど解散後ソロになった大瀧詠一や、山下達郎、大貫妙子らが目立っていました。 ◆1974~77 ◆数多くのスターを生んだポプコン 井上陽水、吉田拓郎、泉谷しげる、小室等の4人が1975年、「フォーライフ・レコード」を設立します。ただし、経営方針をめぐるゴタゴタもあって、印象に残るような実績はあまり残せずに、2001年に会社は解散しました。 一方、ヤマハが1967年~71年に開催した「ライト・ミュージック・コンテスト」と、1969年に始まった「ポピュラー・ミュージック・コンクール」(通称「ポプコン」)からは後にメジャーになるアーチストが巣立っていきます。 ポプコン出身で目立っていたのは、中島みゆき、オフコース、チューリップ、小坂明子、八神純子らです(チャゲ&飛鳥もポプコン出身ですが、注目されるのはもう少し後です=1979年の「ひとり咲き」でメジャー・デビュー)。 中島みゆきは現在でも息長く活動中。オフコースのメンバーだった小田和正やチューリップのメンバーだった財津和夫はその後、ソロ歌手(シンガー・ソングライター)として活動し、現在でもなお名曲をリリースし続けています。 ◆ユーミンの衝撃デビュー ポプコン出身以外で衝撃的なデビューを果たしたのは、1972年に登場した荒井(現・松任谷)由実です。彼女の音楽は、コード進行やメロディーが当時としては、とてもおしゃれで、斬新でした。フォークでもロックでもない新しい感性の音楽分野は、まもなく「ニュー・ミュージック」と呼ばれるようになりました。 デビュー・アルバム「ひこうき雲」(1973年発売)と、セカンドの「ミスリム」(1974年発売)は、やはり日本の音楽史に残る名盤だと思います。昔、荒井由実時代のライブを天王寺野外音楽堂で聴けたことは、今でも私の自慢の一つです。 かぐや姫が人気を得たのもこの頃(1973~74年)ですが、個人的には、私たちのバンドの音楽的志向と少し違っていたので、「神田川」(73年発売)や「赤ちょうちん」(74年発売)はあまり好きではありませんでした(唯一、「妹」=74年発売=は好きでしたが…)。また、かぐや姫解散後、伊勢正三らがつくった「風」のシングル「22才の別れ」も結構好きで、聴いていました。 1973年にデビューした、名古屋出身の「センチメンタル・シティ・ロマンス」も都会的なセンスあふれる大人のロックを創り出すバンドで、現在でも息長く活動を続けています。 ◆ロック史上に輝く名盤「ソングス」 1975年、大瀧詠一は独自の「ナイアガラ・レーベル」を設立します。このレーベルからは、シュガー・ベイブ(山下達郎、大貫妙子らが中心となったグループ、76年に解散)やソロでの山下達郎、佐野元春、杉真理らが育ち、メジャーになっていきます。 この頃、私は邦楽では、荒井由実時代の4枚のアルバム(上記の2枚&「コバルト・アワー」=1975年発売、「14番目の月」=1976年11月発売)と、73年にデビューしたセンチメンタル・シティ・ロマンスの1stアルバム(75年発売、タイトルはバンド名と同じ)、それに75年4月に発売されたシュガー・ベイブのデビュー・アルバム「ソングス」を、レコードの針が擦り切れるほど聴いていた記憶があります。 「ソングス」は今聴いても素晴らしく、日本のロック史に輝く名盤と言っていいと思います。とくにこのアルバム1の名曲「ダウンタウン」はその後、エポら多くのアーチストによってカバーされています。 以上、駆け足でしたが、日本のフォーク&ロック黎明期の10年を振り返ってみました(でも、急いでまとめたので、誰か大事なアーチストを忘れていないかなぁ…)。 (文中敬称略)【おことわり】ロカビリーやGS(グループ・サウンズ)はなぜ“無視”したのかと言われそうですが、ロカビリーについては60年代前半までがピークだったことに加えて、米国音楽の翻訳・模倣音楽であるため、日本人によるオリジナルとは言えないというのが理由です。 また、GSは基本的に歌謡曲の延長線上に誕生し、曲も職業作詞家、作曲家に頼っていたグループが多かったので、あえて触れませんでした(ブルーコメッツは作曲も取り組んでいましたが、曲の雰囲気はフォークでもロックでもなく、歌謡曲がポップに発展したものと僕は考えています)。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2012/09/24
閲覧総数 21974
12

「(イタリアから)日本に帰ったら、必ず観てね」と言われた映画があった。それを先日ようやく、DVDを借りてきて観た。すでにご覧の方には、「何を今さら」という映画。「冷静と情熱のあいだ」。 主演は竹之内豊。その相手役に香港スターのケリー・チャン。ラブ・ストーリーで、舞台はフィレンツェ、ミラノ、そして東京。東京はまぁ、添え物のような感じで、物語のほとんどは、最初の2つの街で進行する。 順正(竹之内)とあおい(チャン)の二人は、かつては恋人同士。あおいは香港人と日本人のハーフ。留学していた東京の大学で知り合い、愛し合うようになる。だが、あることがきっかけで別れ、その8年後(?)くらいに、イタリアで再会する。 順正は古絵画の修復士としてフィレンツェで修業中だった。あおいはミラノで、アメリカ人実業家と一緒に暮らし、不自由のない生活をしていた。順正は今も、別れたあおいが心の片隅から消えない。 二人にはある約束があった。「10年後、二人の愛が変わってなければ、フィレンツェのドゥオーモ(フィレンツェ名物の聖堂=下の写真の右奥に見える大きな聖堂)の上で会おう」という約束が。あおいは再び現れた順正を見て、心が揺れる。順正は、あおいが昔、順正の元を去った本当の理由を、まだ知らない。 これ以上は、映画のネタに関わるので、あまり詳しくは書けないけれど、とにかく、外国を舞台にした日本映画のラブ・ストーリーとしては、よく出来ていて、興行的にも成功した部類に入るんだろうと思う。 竹之内のイタリア語や英語のセリフも、ケリー・チャンの日本語もそう不自然ではない。チャンはそれもそのはず、神戸のカナディアン・アカデミーに3年間通っていたんだとか(Madokaさんと、ひょっとして同級生?)。 アッシジを案内してくれたガイドさん(フィレンツェ在住の日本人女性、30代後半?)は、「とにかくフィレンツェの街の映像がめちゃきれい。きっと訪れた所がいっぱい出てくるから、見てるだけでも楽しいよ」と太鼓判。 確かに、この映画中のフィレンツェやミラノの街の映像は、筆舌に尽くしがたいほど美しい。とくに、竹之内が自転車で駆け抜けるフィレンツェの細い街路がとても素敵だ。「こんな街で1カ月でもいいから暮らしてみたい」と思うのは僕だけではないだろう。 かのガイドさんは、この映画の撮影中の竹之内君をフィレンツェで見て、すっかりファンになってしまったとか。「かっこいいったらなかった」と言う。確かに、この映画の順正はかっこいい。僕が女でも惚れてしまうだろう。それに比べて、常磐貴子似のケリー・チャンは、ちょっと、あおいのイメージとは違うなぁ…。 映画では、ドゥオーモが「愛を語り合う場所」という設定になっていたが、ガイドさんは「フィレンツェの地元の人に何人も聞いたけれど、そんな話は聞いたことがない」という話。「愛」どころか、どちらかと言えば血なまぐさい歴史もあるという。 まぁ、「高い場所での再会」という設定は、きっと、あのケリー・グラントとデボラ・カーの名作「めぐり逢い」からヒントを得たんだろうなぁ…、とは思うけれど、まぁ映像が美しすぎるから許してしまう僕。ハッピー・エンドで終わるのも、僕好みだから…。 フィレンツェもいいけど、ミラノも実に美しい。路面電車がとても街に似合う街だ。次回はぜひミラノを訪ねたいという気持ちが、ますます強くなってきた。人気ブログランキングへGO!→【人気ブログランキング】
2005/10/25
閲覧総数 553
13

その5:注文の仕方(2) ◆飲む順番は「ある」とも「ない」とも BARで飲むお酒の「飲む順番」に、とくに決まりがある訳ではない。一般的には「飲み口の軽いものから重いものへ」「あっさりしたものからしっかりした味わいのものへ」「アルコール度数の低いものから高いものへ」と流れていくのがいいと言われる(うらんかんろの場合、1杯目はスコッチウイスキーのハイボールかジン・リッキー、ジン・トニックというのが多いかな…)。 だがそれは、あくまで一般論。要は、貴方の好きなものを好きな順番で飲めばいい。何度も言うが、お金を払うのは貴方だから。実際、いろんなBARのマスターやバーテンダーに聞いてみても、「好きな順番で飲んで、全く構いませんよ」と言う人が多い。 ただ、もし貴方がお酒は飲めるけどそんなに(アルコールには)強くないという場合は、やはり「弱いものから強いものへ」が無難だ。1杯目にマティーニ(「カクテルの王様」と言われるが、度数でも王様だ=とても強い)などは頼まない方がいい。 うらんかんろからのお願いはただ一つ。BARは居酒屋ではない。居酒屋での第一声の如く、「とりあえずビール!」と言う芸のないことだけはやめたい。せっかくだから、BARではプロのバーテンダーしか作れない素晴らしいカクテルや、BARでしか飲めない極上のウイスキー等を1杯は味わってほしい。 ◆うんちくは垂れない・しったかぶりはやめる 貴方がもしBARに通い慣れて、お酒に相当詳しい方であったとしても、お酒のプロであるマスターやバーテンダーの前で、うんちくを垂れるのはほどほどにしよう。知ったかぶりをして、さぞ通い馴れているような振りをして、一緒に行った友人や後輩の前で見栄を張るのもやめよう。プロはすぐに貴方の「化けの皮」をはがしてしまう。とどのつまり、貴方は恥をかくだけだ。 カウンターでうんちくを自慢げに垂れる他人を見ることほど、醜い、つまらぬ絵はない。うんちくを長々としゃべっても、相手はうんざりするだけだし、感心する周りの客も少ないだろう(時に、それは「勘違いの知識」だったということもある)。 唯一、プロがまだ知らない知識や情報(データ)を、謙虚な気持ちで教えてあげることはいい。マスターやバーテンダーがまだ訪れていないBARや蒸留所について、貴方が訪れた際の感想を話してあげたり、写真を見せてあげたりするのはいい。仕入れたばかりの業界情報をそっと教えてあげるも喜ばれることが多い。 ◆他のバーテンダーの創作カクテルを頼んでもいいか 何人かのバーテンダーに聞いたが、ほとんどの方は「正確なレシピがわかっていれば、基本的には構いません。もちろん、まったく同じものはつくれませんがと念は押しますが…」と答えた。うらんかんろも、ガイドブックやパンフレットに載っている別の方の創作カクテルをつくってもらうことがあるが、断られたことは数えるほどもない。 これまでに「それはちょっと…」と断られたおそらく1、2回だけだ。「レシピ通りにつくっても、その方とまったく同じものはできませんし、失礼な気がしますので…」「****さんの『*****』が飲みたければ、ご本人につくってもらった方がいいです」などと言われた。オリジナルの作者と同じ味を求めるつもりなど毛頭なかったのだが、頼まれた方としても、プロとして、あまり心地よいものではないのだろう。 だから、別の方の創作を頼むことはバーテンダーが「構わないですよ」と言っても、頻繁に頼むのもどうかと思う。それなら、そのバーテンダーのオリジナルを頼んであげよう。もちろん、古今東西の長い歴史に生き残ってきた素晴らしいカクテルで、貴方がまだ味わっていないものもまだ数多くあるはずだ。そういうものに目を向けて再発見する方がより面白いかもしれない。 ◆プロに対しては謙虚でありたい お酒の種類やカクテルの数なんて星の数ほどある。毎日のように世界中で新しいカクテルが生まれている。プロのバーテンダーであっても、古今東西すべての酒やカクテルの名前やレシピを把握している人なんて、絶対にいない。知らない酒やカクテルはある。すべての蒸留所の成り立ちを把握している訳ではない。 だから間違っても、「こんなカクテルくらい知らないんですかー?」とか、「****のマスターは知っていたんだけどなぁ…」などというような言葉は、口にすべきではない。貴方の人間としての値打ちが下がるだけ。そのBARでは、もう二度と歓迎されない客になるだろう。 素人である貴方は、かりに知っていたとしても、知らない振りをして教えを乞うぐらいでちょうどいい。もし、本当に貴方がある種のお酒のエキスパートであったとしても、バーテンダーからもし何か聞かれたら答えるという程度でいい。そんな謙虚な姿勢が、貴方を大人の酒飲みにする。 ◆BARでボトル・キープはできるのか オーセンティックBARでは基本的に、スナックやラウンジのようなボトル・キープという制度はない。しかし、時たま「ボトル・キープをやっています」という店も見かけるし、「キープしませんか」というDM葉書も受ける。だが裏話を聞いてみると、お酒のメーカーから抱き合わせで大量に買わされて、やむを得ず「ボトル・キープでもやってさばかないと」というケースがほとんどだ。 しかもキープのお値段は、その銘柄の市販価格の3~5倍。それだけのカネを払っても、次回行って飲むときは、やはり最低1000~2000円くらいのセット料金(水や氷代など)はとられる。貴方はボトルが空になるまでは同じ銘柄のウイスキーを飲み続けないといけない。いろんな種類のお酒を楽しめるのがオーセンティックBARの良さなのに、これでは本末転倒だ。トータルとしてお得なのかどうかもよく分からない。 ボトル・キープができるBARがあったとしても、うらんかんろは決してキープはお勧めしない。勧められても断るのが一番。そんなおカネがあるなら、いろんな酒やカクテルを飲んで勉強するがよし。キープをして飲みたければ、スナックやラウンジに行けばいい。【その6へ続く】【おことわり】写真は本文内容とは直接関係ありません。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2009/01/19
閲覧総数 2896
14

3月の話で恐縮ですが、久々に徳島でBAR巡りをしました。徳島でのBAR巡り&ピアノBARツアーの際には、いつも必ずお邪魔している秋田町のJazz Bar SWINGへは当然立ち寄りましたが、それ以外の4軒について、を簡単にご報告を--。 【Bar PRACEBO(プラシーボ)】 初めてお邪魔したお店です。徳島の飲み屋街、富田町のエリアにあって、以前、僕が馴染みだったお店(今はもうありませんが)のすぐ斜め向かいにあります。 なぜここを選んだかというと、旅先、出張先ではできるだけ早くBAR巡りを始めたいうらんかろは、いつもそのエリアで一番早いオープンの店を選ぶことが多いのです。このPRACEBOも「午後6時オープン」という点に惹かれました。 行ってみると、オーナーは女性(Nさん)で、とても気さくでフレンドリーな方でした。オープンしてまだ1年ほどということですが、店は落ち着いた雰囲気で、内装のデザインもところどころに、おしゃれなこだわりが溢れています。加えて、Nさんは結構実力あるバーテンドレスでもあります。 ちなみに店名の「プラシーボ」は、医療で使われる「偽薬」のことで、「貴方を喜ばせる」という意味のラテン語だそうです。後で知ったのですが、Nさんは実際、医療系の大学を出て修士号まで持っているとか(す、すごい!)。気さくで居心地の良い店なので、徳島に来たら、また来てみようと思います。【薔薇亭(BARATEI)】言わずと知れた、徳島随一の老舗BARです。うらんかんろがかつて10数年前、徳島で単身赴任していた際は、一番お世話になった店です。赤い煉瓦に包まれた重厚感あふれる内装は一見の価値があり、とても居心地の良い空間でした。 しかし残念ながら、Hマスターは先年に他界され、しばらくは奥様が店を守っていました。その後少しご無沙汰していたのですが、最近、マスターの弟子で、徳島で別のBARのオーナーもされているMさんが引き継がれたという話を聞いて、それは久しぶりに訪店しなくては、と今回立ち寄りました。 すると行ってみると、店には奥様が1人カウンターに。ご無沙汰のお詫びの挨拶をした後、「Mさんに店を引き継がれたという話を聞いたのですが…」と尋ねると、「ええ、M君は8時半くらいから午前零時くらいまでこちらに来て、それ以外は(もう一軒の)Lにいるんですよ」とのお答え。 さらに、奥様は「私は、(亡くなったマスターの間には)子どももいなかったので、この店が子どもみたいなものだから、体が元気なうちはカウンターに立とうと思って、いちおう早い時間は店に出てるの」と言う。僕も「ええ、ぜひ体の続く限り店に出てくださいね。家に1人でいるより絶対にいいですから」と応えた。僕はその後、「じゃぁ、これからLへ行って、Mさんの顔を見てきます。薔薇亭にもまた来ますから、お体に気を付けてくださいね」と、奥様にお別れした。【Long Bar】薔薇亭から歩くこと数分。地方都市でも、徳島はとくに飲み屋街のBARの近接度が高く、歩いてのBARホッピングには最高の街だ。今や薔薇亭のオーナーにもなったMさんのホームグラウンドが、この「Long Bar」である。 ここも僕が単身赴任時代からお世話になったBARだ。当時のMさんはまだ若手のバリバリだったが、今や押しも押されぬ徳島BAR業界のリーダーの一人だ。 久しぶりにお会いしたが、昔と同じように、気さくさや温かさは変わらない(雰囲気は、ちょっと神戸メインモルトのGさんに似てきたかな? ごめんなさーい)。 店は2フロアに分かれ、1人でもグループでも対応できる有り難い店だ。スタッフも優秀で、接客・サービスも申し分ない。お値段もリーズナブル。僕はご無沙汰のお詫びに、秋山徳蔵さんのカクテルブックの復刻本等をプレゼントした。 店は、今年5月3日で14周年を迎える。Mマスターは先日、僕にもわざわざ14周年の案内を送ってきてくれたが、一緒に「阿波三盆糖」が入っていた。こういう細やかな心遣いが嬉しい。Mさん、有難う。徳島は僕にとっては「第二の故郷」だから、またちょくちょくお邪魔します。これからも宜しくね。【Bar Glen K】徳島を離れて、僕ももう11年になるので、BAR業界も結構、世代交代というか変化があります。僕の知らない新しいBARも随分と増えて来ました。このBARも比較的最近、お邪魔するようになった店です。きっかけは大阪・天満橋で馴染みのBar・CのHマスターからのご紹介です。 マスターのIさんは、Hマスター同様、とても気さくで、話好きで面白い方です。ニコニコとした笑顔も素敵です。初めて訪問したのはもう3、4年前だったかと思いますが、第一印象からして最高だった人です。今回は2年ぶりくらいの訪問でしたが、僕のことを「ええ、もちろん覚えてますよ」と歓待してくださいました。 Glen Kは、僕が徳島を離れた後にオープンしたので、今年でまだ7、8年という若い店ですが、重いドアを開けて階段を上がり、2階の店内に入ると、老舗のような風格ある、落ち着いた空間が広がります。秋田町の喧騒はここまでは届かず、とても静かです。 シングルモルトの品ぞろえも豊富で、もちろん美味しいカクテルも味わえて、フードも充実。いわゆるオールラウンドな、オーセンティックBARとして、使い勝手の良い一軒だと思います。皆さまも、徳島に来られた際は、ぜひ一度お越しください。【Jazz Bar SWING】徳島市秋田町2-36 木村ビル2F 088-622-9669 午後6時~午前4時 不定休 【Bar PRACEBO(プラシーボ)】徳島市富田町2-38 西山ビル2F 623-7353 午後6時~午前2時 不定休 【薔薇亭(BARATEI)】徳島市栄町1丁目34-1 ビアンカビル1F 655-5165 午後7時~午前1時 日祝休 【Long Bar】徳島市栄町1丁目7-3 源ビル4&5F 656-3747 午後7時~午前2時 無休 【Bar Glen K】徳島市秋田町1丁目29 パパガーロビル2F 623-5180 午後8時~午前5時 第1&3日休、第3月休こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2011/05/01
閲覧総数 1662
15

モニカ・セッテルンド(Monica Zetterlund)という1人のスウェーデン人女性の死が、5月15日(日)の朝刊各紙でひっそりと報じられていた。67歳とまだ若い。死因は何かと読めば、「自宅マンションで起きた火災で」とある。共同通信による記事は、火事の原因について「ベッドでの喫煙が原因とみられる」とも伝えている。 日本では、彼女の名はほとんど知られていない。だが私にとっては、大好きなジャズ・ピアニスト、ビル・エバンス(Bill Evans)と共演し、デュオ・アルバムを残した唯一の女性ヴォーカリストとして記憶に刻まれている。 1964年に発表したアルバム(写真左=日本国内での発売は74年)は、エバンスのあの名曲「Waltz For Debby」をスウェーデン語で歌った「Monica's Vals」(モニカのワルツ)をおさめ、話題となった。 アルバムは、エバンスの欧州ツアー中に、ストックホルムで録音された。モニカはこの時27歳。本国ではすでに「歌姫」として有名だったが、エバンスにとっては、きっと未知の女性だったに違いない。 モニカの歌はお世辞にも上手いとは言えない。ストレートに歌っているが、ハスキーで、ややけだるく、冷たい感じにも聴こえる。しかし、ヴォーカルと対等に語り合うように奏でたエバンスのピアノは、彼女の歌をリリカルに引き立て、実に自然で、温かい雰囲気すら感じられるアルバムに仕上がっている。 エバンスの演奏のノリも、とてもいい。よく聴いていると、あのヴィレッジ・バンガードのライブの時のような、複雑かつリズミカルなコード弾きも、随所に見せている。女性とのヴォーカル・アルバムをこの1枚しか残さなかったのが、返すがえすも悔やまれる(写真右=モニカの初期の代表作「Make Mine Swedish Style」。北欧ではヒットしたが、米国内や日本ではあまり話題にならなかった)。 モニカは90年代前半まで現役で活躍した。新聞では、モニカの肩書きを「ジャズ歌手」と紹介していたが、スウェーデンでは舞台や映画で活躍する女優としても有名だったという(と言っても、私は出演作のタイトルを一つも知らなかった。今回WEB上でいろいろ検索して、初めて知った)。 生涯に、ヴォーカル・アルバムを10枚以上も発表したモニカ。しかし、結果的に「Waltz For Debby」を超える評価を勝ち得た作品はなかった(そういう意味でも、伴奏したエバンスの存在は大きかったのかも…)。このアルバムは、今も彼女のヴォーカル。アルバムの中でも最高傑作と位置付けられているが、後年、ジャズの歴史に残るレコードの一つになってしまうなんて、二人とも思ってもみなかっただろう。 今なお、ジャズ・ヴォーカルの名盤として衰えぬ人気を持つ「Waltz For Debby」。そして、このアルバムの存在で、日本のジャズ・ファンにも忘れられない名前になってしまったモニカ・セッテルンド(写真左=22、23歳頃の初々しいモニカ。デビューは19歳だったという。(C)Sveriges-Radio.se )。 そんなモニカが、寝タバコによる火事で死ぬなんて、なんと悲しい、情けないニュースだろうか。久しぶりにモニカのCDをかけ、その歌声を聴いている。喪失の悲しみを、私はウイスキーで紛らわすしかない。 PS.スウェーデンから、いつもこの日記を読んでくださるYSOさん、スウェーデン本国では、モニカの死はどう報じられたのでしょうか。新聞やテレビでも、やはり破格の大きな扱いだったのでしょうか?
2005/05/18
閲覧総数 4300
16

47.キッス・オブ・ファイア(Kiss of Fire)【現代の標準的なレシピ】(容量はml) ウオッカ(25~20)、ドライベルモット(15~20)、スロージン(20)、レモンJ2dash ※砂糖でグラスをスノースタイルに 【スタイル】シェイク 終戦後、飲食店やバーの営業は占領軍最高司令部(GHQ)によって禁止されました。その再開が許可されるようになったのは1949年(昭和24年)5月です。バー営業が解禁されると、業界団体やメーカー主催のカクテルコンクールも徐々に開催されるようになりました。 「コンクール」開催には、バーテンダーの技量向上とバー業界全体の盛り上げという2つの目的がありました。こうしたコンクールの上位入賞者のなかから後に、業界の指導的役割を担う方々が輩出していきます。 残念ながら、こうした昭和20年代のコンクールで優勝したカクテルのなかで、現代までスタンダードとして生き残っているのは数えるほどしかありませんが、この「キッス・オブ・ファイア」はその「数えるほど」の一つとして現代でも受け継がれているカクテルです。 「キッス・オブ・ファイア」は1953年(昭和28年)6月、名古屋・御園座で開催された第5回「オール・ジャパン・ドリンクス・コンクール」(日本バーテンダー協会主催)でグランプリに輝いたカクテルです。6千もの応募作品があり、最終審査に残った8点の中から栄冠に輝きました。作者は、東京(銀座)のバーテンダー・石岡賢司氏です(出典:「日本バーテンダー協会五十年史」1980年刊。※コンクールの開催年を1954年とか1955年とか紹介しているカクテルブックやサイトが目立ちますが、正しくは1953年です)。 ちなみに、ほぼ業界人だけで審査する近年のカクテル・コンクールとは違って、この「オール・ジャパン…」の審査員には作家・永井龍男、漫画家・横山隆一、女優・丹下キヨ子ら業界人以外の方も加わっているのが目を引きます。やはり飲み手である一般人を審査員に加えるのが本来の姿でしょうね。 「キッス・オブ・ファイア」は前年の1952年に米国でヒットしたルイ・アームストロング(Loius Armstrong)の同名曲、ならびに同じ年の日本で、ペギー葉山が歌ったカバー曲「火の接吻(Kiss Of Fire)」にヒントを得て考案され、カクテル名も曲名がそのまま付けられたと伝わっています(出典:Wikipedia日本語版ほか)。 「Kiss Of Fire」という曲はもともと、アルゼンチン・タンゴの名曲「エル・チョクロ(El Choclo)」を英訳詞にしたカバー曲で、1903年、アンヘル・ビジョルド(Angel Villoldo)という人が作詞・作曲したものです(「El Choclo」自体は「とうもろこし」という意味)。日本には1937年にレコードで初めて紹介されました(出典:souldiva.tripod.com)。 石岡氏は残念ながら、この受賞の数年後に早世されたといいます。その経歴も詳しいことはほとんど伝わっていませんが、最近ネットを検索していて、面白い情報を目にしました。石岡氏の孫にあたる宇山祐二さんという方が、2015年に東京・学芸大学前でバー(店名は「Tricky's」)を開き、「キッス・オブ・ファイア」を看板カクテルにしているそうです(出典:Wikipedia日本語版)。 さらに、宇山さん自身が、Mixiの「Kiss of Fire」というコミュニティ・ページでおじいさんのことに触れている一文にも出合いました。「祖父は高校卒業後、歌舞伎の世界に入りました。そこで認められ、師匠に『養子になれ』と言われたのですが、父親に反対されて歌舞伎の世界をあきらめ、バーテンダーの世界へ転じました。すぐに力を発揮し、(カクテルコンペに出した)キッス・オブ・ファイアは日本で1位となりました。その後すぐ、医療ミスで20代で亡くなったと聞いています、短くて太い人生でした」と。機会があれば、宇山さんに一度会ってみたいですね。 なお、日本国内ではそこそこ知名度があるカクテルですが、欧米のカクテルブックで収録している例は、現時点では確認されていません。 【確認できる日本初出資料】「カクテル小事典」(今井清&福西英三著、1967年刊)。レシピは「ウオッカ、スロー・ジン、ドライ・ベルモット各3分の1ずつ、レモン・ジュース2dash。砂糖でスノー・スタイルにしたカクテルグラスに」となっています(これが、おそらく石岡氏のオリジナル・レシピでしょう)。・こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2017/04/29
閲覧総数 891
17

古いカクテルブックの復刻作業に、立て続けに3冊も取り組んだこともあって、最近、BARでは古い時代のカクテルをよく頼みます。「古い時代」と言っても若干幅がありますが、主に1900年代から50年代頃までに生まれたカクテルです。 そうしたカクテルは現代のBARでは、客が頼むことはほとんどありませんし、注文が出ないこともあって、バーテンダーもあまり知らない・つくった経験がないというものが少なくありません。しかし、あえてそんな古い時代の「クラシック・カクテル」を飲んでみると、予期せぬ再発見があります。 例えば、現代のカクテルほど複雑な材料はつかっていないのに、思わぬ不思議な味わいが創り出されているものや、卵白や卵黄を使う(1930年以前は意外と使うことが多いのです)のでとてもまろやかな味わいに仕上がるものもあります。 皆さんも一度、「古典的なカクテルを何か」または「クラッシックなスタンダード・カクテルを」とバーテンダーに頼んで、味わってみてはいかがでしょうか? とりあえず、最近飲んだクラシック・カクテルのなかからいくつかを紹介します。 カクテル名は上段から下段へ左から右へ、Gin Alexander、Bosom Caresser、Presidente、Bronx Silver、Bronx Golden、Adios Amigos、Prohibition、Morning Glory Fizz、Cafe de Paris、Parisian、Mount Fuji、Martinez Cocktail ※うらんかんろんのわがままな注文に気持ち良く応じて、素晴らしいカクテルをつくってくださり、写真撮影にご協力頂いたお店は、以下の通りです。この場をかりて心から厚く御礼を申し上げます。 Bar K、Bar Beso、Bar Cluricaun、Bar Hardi、Bar Cadboll(以上、大阪)、Bar Savoy(神戸)、Bar Rocking Chair(京都)こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2011/07/22
閲覧総数 400
18

「この世に、永遠というものはない」。そんな言葉を以前、ある本で読んだ。確かに、人は貴賤を問わず、必ず死ぬ。形のあるものも、いつか不幸にして壊れることがある。その業界では老舗といわれる大会社だって、昨今は、瞬く間に姿を消してしまう。 BARも然り。銀座の名BAR「クール」は2003年11月、55年の歴史に幕を閉じた。オーナーの古川録郎さんは、後継者を作らず、自ら幕を引いた。「それが古川さんの美学だったのでしょう」と、ある銀座のバーテンダーは語った(そう言えば、神戸の名BARとして知られた「神戸ハイボール」の河村さんも、後継者を作らず、自分一代で店を閉じてしまった) 「クール」に先立つこと数年前、銀座6丁目で1軒の老舗BARが店を閉じた。「サン・スーシー(Sans Souci)」(写真右は、店の正面)。フランス語で「憂いなし」という意味の店名は、文豪・谷崎潤一郎の命名という(谷崎は「サンボア」の名付け親でもある。よほどBAR好きの酒飲みだったんだろうなぁ…)。 「サン・スーシー」は交詢社ビル(写真左)という銀座のランドマークとして有名な建物の1階に、昭和4年(1929)、開店した。初代オーナーは西川千代さんという女性だった。「舶来物に関心が強く、ハイカラな女性だった」西川さんは、当時は珍しかった、洋酒を飲ませるBARを開く。そして、店は新しもの好きの作家や、会社経営者、船会社の関係者らに長く愛されてきた。 それが、交詢社ビルの建て替えに伴って、2000年に店を閉じることになってしまった(実際はもう少し早く閉店したのかも)。僕が、「サン・スーシー」に初めてお邪魔したのは、もう20年以上前だろうか。 店のオーナーは、千代さんの娘である、と志さんに代変わりしていたが、店の内装やステンドグラスの窓など、レトロな雰囲気は(たぶん)昔のままだった。と志さんやカウンターのバーテンダーの方は、関西から来た若造を実に温かく迎えてくれた。 カウンターの後ろには、ゆったりとしたスペースに広いソファ席もあって、BARというより、サロンかラウンジのようで、家庭的な感じの店だった。音楽はない、静かな空間。本でも読みながら飲むと、とても似合いそうな雰囲気だった。 その「サン・スーシー」も、今はない。なぜ建て替え後の交詢社ビルにテナントとして入らなかったのか、不思議で仕方がない。最後は、と志さんの娘の富美子さんが3代目を継いでいたが、その後の消息は知らない(移転したという噂も聞いたが本当なのだろうか?)。 大阪でも「仏蘭西屋」「Be-in」、神戸でも「神戸ハイボール」「ルル」「ギルビー」などという素敵なBARが、今はもう、なくなってしまった。店を閉じた理由(事情)は、さまざまだ。「この世に、永遠というものはない」と分かってはいても、通いつめたBAR好きの人間にとっては、やはり寂しさだけが残る。
2005/04/05
閲覧総数 3960
19

◆大名エリア 【Bar セブン・シーズ】中洲と並ぶ博多の歓楽街・大名は、中洲から地下鉄で2駅、大阪だと梅田から本町くらいの距離。中洲との違いは、地元のマスターに尋ねると、「ホステスがいるスナック、ラウンジが少なく、客層も中洲より10~20歳くらい若い」とのこと。 そんな中洲に、「セブン・シーズ」は昨年の1月にオープンした。遠藤マスターは系列店のBar「オスカー」の出身。うらんかんろは実は、前回4年半前の博多訪問の際、オスカーで遠藤さんとお会いしている。その話をまず披露して、「お久しぶりです。ご無沙汰しています」と挨拶。 「セブン・シーズ」は午後5時オープンなのが嬉しい。遠藤さんはさまざまなカクテル・コンクールで上位入賞を果たされている凄腕のバーテンダーでもある。せっかくなので、S社のカクテルコンペで優勝した作品「ミラノ・ルネサンス」をいただく。そして、優勝のご褒美として欧州旅行をした際、訪れたというパリの「ハリーズ・ニューヨーク・バー」の様子などを聞く。 開店間もない時間だったので客は僕一人。前回オスカーにお邪魔した際はあまりお話できなかったので、この日は気さくな遠藤さんと、ゆったりとした時間が過ごせた。まだ30代前半。将来楽しみなバーテンダーと出会えたことがなによりも嬉しい。【Bar オスカー】「オスカー」は1996年、中洲で誕生した。マスターの長友さんは、銀座の有名BARだった「ロオジエ」(現「テンダー」)の出身。うらんかんろは、「ロオジエ」時代に一度お会いして、博多へ帰られ、「オスカー」開業されてからも一度(前回訪問の際)お邪魔した。以来、毎年挨拶状をくださるが、ずいぶん久しぶりの訪問なので僕のことを覚えていてくれてるか少し不安だったが、そんな心配は杞憂だった。すぐに久しぶりの再会を喜んでくださった。 オスカーでは、もちろん長友さんの美味しいカクテルをいただいた。オリジナル・カクテルも考えたが、シンプルなカクテルにこそプロの技が光るとの思いもあって、まずジン・リッキーをお願いする。真っ二つに切った上質のライムを、切断面を上に向けてロンググラスの底に入れ、上から氷を詰める。そしてクラッッシャー用のマドラーを添える。 好みでライムをさらに潰せばさらに果汁が湧き上がる。実にしっかりしたジン・リッキーだ。大ぶりのグラスが嬉しい。2杯目は「レオナルド」(イチゴのシャンパンカクテル)。優しいステアで、旬のあまおうのジュースとシャンパンをしっかりとなじませていく。濃厚な味わいだ。 「14周年なので、オールドボトル、レアボトルをいくつか、1400円ぽっきりで飲んでいただけるキャンペーンもやっています」という長友さんの話に少し心が動いたが、まだまだ夜は長いので、ここは我慢でお別れする。次も系列店で、まだお邪魔したことのない、「パルム・ドール」へ移動しようと考えていたところ、長友マスター自ら「それならお送りしますよ」とわざわざエスコートしてくださった。感謝感激です!【Bar パルムドール】さて、わざわざ博多の大名エリアまで来たからには、やはり、「パルム・ドール」を外しては帰れない。最初は、5軒目くらいに予定していたのだが、オスカーの長友マスターがわざわざ連れて来てくださったので、急きょ3軒目に入れた。新谷マスターとは初対面(のはず)だが、「オスカー」系列店をはしごしてきたせいか、初対面なのになぜか、もう友人のような気がする。 店内は僕の大好きな暖色系の温かい感じのライティング。ブビンガの一枚板のカウンターが実にすばらしい。カウンターに座ると、実に和(なご)むというか、幸せな気分に浸れる。「パルム・ドール」でももちろん美味しいカクテルが味わえるが、いちおう一番の“売り”はモルト・ウイスキーということだったので、おすすめのシングルモルトをストレートでいただく。 会話の流れで、僕が「お土産に明太子の薫製を探してるんですが、製造販売してあるメーカーが今は中止しているらしいので、弱ってるんです」と話すと、新谷マスターは早速、「調べてみましょう」とインターネットであちこち検索し、ついに一軒、薫製を扱っている別のメーカーを見つけてくれた。旅人に優しかった店(マスター)は一生忘れないし、思い出に残る。パルム・ドールもまたぜひ来たいと思える店になること間違いない。【Bar 粋七(いきしち)】半年ほど前に博多でBAR巡りをした大阪のある懇意なBARのマスターから、「大名に行ったら、ぜひ粋七へ。**さんはきっと気に入ると思う」と言われた。行ってみて、そのマスターは僕の好みをよく知っていると思った。和洋折衷のコンセプトを持つ酒場は、僕の好きなジャンルの一つ。 しかし粋七は、西洋風のBARに「和」を乗っけただけの単純な酒場ではない。言葉ではうまく説明できないけれど、インテリアやメニューへのこだわりが面白く、かつ楽しいのだ。和紙風の立体的なライト、バックバーの階段状の和風引き出し。そして、オリジナル・カクテルも異彩を放つものが目立つ(例えば、シトラス・ヴェルモットとオレンジ・ヴェルモットのカクテル「ブランニュー・ハーフ&ハーフ」など)。 一見「いま風」の新しい店かと思ったが、聞けばオープンしてもう12年という。この手の店は流行り廃(すた)れが激しいが、それだけ続いているということは博多っ子の心をしっかりつかんでいるのだろう。「オスカー」の長友マスターと同級生と言う河野マスターは一見、無口でつっけんどんな第一印象だったが、話してみると拍子抜けするほど気さく。時間があればじっくり攻めてみたい店だ。皆さんも博多に来る機会があれば、粋七の不思議な世界をぜひ体感してみてほしい。【MOMOTA Bar】さて、大名でもう1軒、覗いてみたい店があった。我がBAR好きの友人からも勧められた「MOMOTA Bar」。百田マスターは東京・銀座の毛利BARを営む名バーテンダー毛利隆雄さんのお弟子さん筋にあたる。今でも毎年、一週間ほど休みをとって、師匠の店を手伝い、初心に帰ってカクテルを学ぶという。 「毛利さんの店が私の原点です」。近々店内に毛利さんの店の切り絵(成田一徹氏作)を飾るのは、そうした気持ちの表れなのだろう。僕がなによりも感心したのは、腰の低い、謙虚で丁寧な接客・サービスだ。こちらが恐縮するくらい。 さて、そろそろ中洲へ戻る時間が迫ってきたので、ここでは残念だけれど1杯だけと思い、クール・ダウンも兼ねて、ブラッディー・マリーをお願いした。そして出てきたのは、写真にもあるような見事な、マスターのこだわりを感じさせる一杯。遠来のの客をもてなすにはどうすればいいのか、百田マスターさんはしっかりと熟知している。【Bar セブン・シーズ】福岡市中央区大名1-6-11 KNOT HOUSE5F 電話092-771-7117 午後5時~午前2時 日休 【Bar オスカー】同市中央区大名1-10-29 ステージ1ビル6F 721-5352 午後6時~午前4時 日休 【Bar パルム・ドール】同市中央区大名1-14-18 2F 716-7110 午後7時~午前5時 火休 【Bar粋七】同市中央区大名1-13-16 TENJINアーク弐番館4F 716-8271 午後6時~午前3時 水休 【MOMOTA Bar】同市中央区大名1-10-14 MATCHビル5F 714-6077 午後6時~午前4時 月休・こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2010/12/10
閲覧総数 2718
20

「Master of Heavy Metal Funk」の異名を持つ当代きってのスーパー・ベーシスト、と言われても、正直言って、私も最初はピンと来なかった。普段よく聴く音楽ジャンルの人でもなかった。それが、ひょんなことで出逢うことに。 T.M.スティーブンス(Stevens)。ニューヨーク出身。1951年7月生まれだから、今年誕生日が来れば、54歳!になるが、(本人に会った私の印象では)、まったく、そんな歳に見えない。せいぜい40歳前後っていう感じ。 徳島で仕事をしていた頃、私が一番よく出入りしていた洋琴堂(ようきんどう)というピアノBARがあった。猫好きのオーナーのせいか、いつも店内には人なつっこい猫がいた。ピアノ好き、猫好きの私としては、好きにならないはずのない場所だった。 洋琴堂では、いろんなジャンルの音楽好き、楽器好きの人が夜な夜な集まってきた。ジャズ、ロック、ポップス、ラテン、シャンソン、歌謡曲…。店にはピアノ、ウッドベース、エレキベース、ドラム、ギターなどが常備されていたが、「マイ楽器」を持ち込む人も多かった。 毎夜のように、見知らぬもの同士のセッションが自然と始まった。私がそのうちの一人に、仲間入りさせてもらうのに、さほど時間はかからなかった。 そんなある夜、私がちょうど友人らの前で、ビリー・ジョエルの「New York State of Mind」を弾き語りしている時だった。T.M.が、突然やってきた。美しい日本人女性とともに…。 オーナーは以前から、T.M.と知り合いだったようだ。私はもちろん初対面。がっしりした体。身長約185cmの大きな黒人男性。しかも、ただものではないという雰囲気を漂わせている。 演奏を中断しようとした私に、T.M.は「Com'on, keep on playing!」と言って続けさせた。外国人の前で、英語でビリー・ジョエルを歌うなんて。なんと大胆な、恥知らずな…と思うと、私は顔が真っ赤になってきた。 そんな初めての出逢いから、私はT.M.とすぐうち解けた。とにかく彼の素晴らしさは、「フレンドリー」ということ。一緒に店を訪れた日本人女性は、実は奥さんのTaka(タカ)さんだった(写真右上は、T.M.とTakaさん。T.M.の向かって左隣に私に写っているが、お見苦しいのでカット)。 Takaさんは地元・徳島の鳴門の出身。里帰りの機会には、「(T.M.は)トクシマが好きだから、いつも付いてくる」と話していた(「阿波踊りも大好き」とか!)。 T.M.は徳島へは、毎年のように奥さんに付いて帰ってきているようで、その後も、何度か(主に洋琴堂であることが多かったが)再会した。そしてしばしば、店のエレキ・ベースを手にして、オーナーのピアノの伴奏をして遊んだり、時には、その神業のようなチョッパー・ベースを聴かせてくれたりした。 数年前には突然、僕の携帯にTakaさんから電話があった。「あすの夜、大阪でT.M.がライブするんだけど、バック・ステージに遊びに来ないか」という、とても嬉しいお誘いだった。その時は残念ながら、先約があったため行けなかったが、徳島を離れた後も、忘れないでいてくれてることに、心から感激した。 ステーブ・ヴァイ、マイルス・デイビス、ジェームス・ブラウンら、有名アーチストのバックをつとめることが多かったT.M.だが、最近は、リーダー・アーチストとしての活動もめざましい(なんと2001年には俳優として映画出演まで!)。 彼の音楽には、ジャズ、ブルース、メタル、ロック、ファンクなどすべての要素が詰まっている(アルバムでは、歌も歌ってますが、これが結構うまい!)。機会があれば、ぜひ貴方もT.M.のCDを聴いて、脳天に一撃をくらってほしい。【追記】大変残念な事実ですが、T.M.は2017年頃から認知症を患い、ナーシングホームに入院中であることが明かされました(なので現在は目立った活動はありません)。Takaさんともその後離婚したとのこと(出典:Wikipedia英語版&日本語版)。
2005/02/16
閲覧総数 2500
21

57.ミント・ジュレップ(Mint Julep)【現代の標準的なレシピ】 (容量単位はml)バーボン・ウイスキー(45~60)、ミントの葉(適量)、ミネラル・ウォーター(またはソーダ)(20~30)、シュガー・シロップ(またはパウダー・シュガー)2tsp、クラッシュド・アイス 【スタイル】ビルド 「ミント・ジュレップ」は、現代のバーでよく飲まれる人気カクテルのなかでも、最初期に誕生したことが確実な、古典的カクテルの一つです。ただし、その誕生の詳しい経緯や由来について伝える史料は、ほとんど伝わっていません。 「ジュレップ」というスタイルのドリンクは、古代ペルシャの「Gulab(グルアーブ)」(「バラの水」の意味)にルーツを持ち、ペルシャからフランスへ伝わり、さらに米南部へ移民したフランス人たちによって持ち込まれ、改良されていったと伝わります(出典:欧米のWeb専門サイト=複数)。「ジュレップ」とはアラビア語源の言葉で、「薬を飲みやすくするための甘い飲み物」のことですが、おそらくは移民フランス人たちが、自分たちが発音しやすい言葉として選び、定着させたのではないかと想像できます。 1800年頃には、米国内、とくにヴァージニア州北部のプランテーションでミント・ジュレップは広まっていて、1815年、英国海軍の艦長だったフレデリック・マリアット(Frederic Marryat)は「米南部の農園ではマデラワイン・ベースのミントの葉入りのドリンクが飲まれている」という記録を残しており(出典:欧米のWeb専門サイト)、この頃すでに「ミント・ジュレップ」の原型とも言えるドリンクが飲まれていたことは間違いありません。 現代では、通常バーボン・ウイスキーをベースにつくられるミント・ジュレップですが、誕生当初はポートワイン・ベースで飲まれることが多かったとも伝わります(出典:同)。その後、時代が進むとともに、ブランデー・ベース、ウイスキー・ベース、ラム・ベース、ジン・ベースなど様々なバリエーションが生まれていったようです。 「ミント・ジュレップ」が欧米のカクテルブックで初めて紹介されたのは、「カクテルの父」と言われる米国人バーテンダー、ジェリー・トーマス(Jerry Thomas)の「How To Mix Drinks」(1862年刊)です。このため、少なくとも19世紀前半頃には、酒場や一般家庭でのドリンクとしてある程度は普及していたと考えられています。トーマスのレシピは、「ブランデー1.5Wineglass、ミントの枝3~4本、シュガー(分量の言及なし)ミネラルウォーター(同)、クラッシュド・アイス、ジャマイカ・ラム1dash(最後に振る)、パウダー・シュガー(同)、飾り=ベリー類、オレンジ・スライス、生ミントの葉」となっています。 なお、上記トーマスのカクテルブックには、ミント・ジュレップのほかにも、その原型とも言われる「ジョージアン・ジュレップ(Goergian Julep)」(ジョージアン・ミント・ジュレップとも言う)というカクテルも収録されています。ベースはブランデー(コニャック)で、ピーチ・ブランデーも使いますが、基本的なコンセプトは同じです(※同書では、ほかにもジン・ジュレップ、ウイスキー・ジュレップ、パイナップル・ジュレップが収録されています)。 現代のバー業界でも意外と知られていないことですが、以下に紹介するように、19世紀~20世紀初頭までは、欧米ではミント・ジュレップと言えば、ブランデー(コニャック)・ベースが一般的でした。ウイスキー・ベースのミント・ジュレップがお目見えするようになるのは、1910年代以降です。では、1880~1950年代の主なカクテルブックは「ミント・ジュレップ」をどう取り扱っていたのか、ざっとみておきましょう。・「Bartender’s Manual」(ハリー・ジョンソン著、1882年刊)米 コニャック2分の1Wineglass、ミントの枝3~4本、水またはソーダ2分の1Wineglass、シュガー1tsp クラッシュド・アイス (※「このドリンクは米国以外の地域でも知られている」との記述あり)・「American Bartender」(ウィリアム・T・ブースビー著、1891年刊)米 コニャック1jigger(45ml)、ミント(分量の言及なし)、シュガー(同)、ミネラルウォーター(同)、クラッシュド・アイス、ジャマイカ・ラム1dash(最後に振る)、シュガーにディップしたミントを飾る。(※「Brandy Julep」の名で登場。「Mint Julep」については「Brandy Julepと同じもの」と紹介)・「Modern American Drinks」(ジョージ・J ・カペラー著、1895年刊)米 ブランデー2分の1jigger、ラム2分の1jigger、シュガー1.5tsp、ミントの枝数本、ミネラルウォーター少々、クラッシュド・アイス、フルーツやミントを飾る。(「Mint Julep Southern Style」との名で収録)。・「Dary's Bartenders' Encyclopedia」(ティム・ダリー著、1903年刊)米 ブランデー1.5Glass、シュガー1tsp、ソーダ2分の1Wineglass、ミントの枝4~5本、クラッシュド・アイス、ジャマイカ・ラム1dash(最後に振る)、パウダー・シュガー(同)・「Bartenders Guide: How To Mix Drinks」(ウェーマン・ブラザース編、1912年刊)米 ブランデー1.5Glass、パウダー・シュガー3tsp、ミネラルウォーター1.5tsp、ミントの枝3~4本、クラッシュド・アイス、ジャマイカ・ラム1dash(最後に振る)、飾り=ベリー類、オレンジ・スライス、生ミントの葉・「173 Pre-Prohibition Cocktails)」 & 「The Ideal Bartender」(トム・ブロック著、1917年刊、2001年&2006年再刊)米 ブランデー1jigger、シュガー1tsp、ミネラルウォーター4分の3Wineglass、生ミントの枝3~4本、クラッシュド・アイス、飾り=フルーツ、ミントの枝 (※「Brandy Julep」の名で収録。「Mint Julep Kentucky Style」という名のカクテルも収録しているが、バーボン・ウイスキー2jigger、角砂糖1個、ミネラルウォーター15ml、クラッシュド・アイス、生ミントというレシピ。ミントは潰さないと言及している)。・「ABC of Mixing Cocktails」(ハリー・マッケルホーン著、1919年刊)英(バーボンウイスキー・ベースのミント・ジュレップが活字になった初めての例か?)。 レシピは文章スタイルで紹介されています。原著の通り記せば、「シュガー2tsp、ミネラル・ウォーターまたはソーダ2分の1Wineglass、生ミントの小枝3~4本を(タンブラーの底で)香りが十分出るまでつぶし、ミントは取り出す。次にバーボン・ウイスキーGlass2杯分を加える(※Glassのサイズについての言及はありません)。そこに、細かく削った氷(原文では「fine shaved ice」)をタンブラーいっぱいに入れて、グラスに霜が付くまでよくステアする。最後にミントの小枝を刺し、オレンジやレモン、パイナップルのスライスとチェリーをトップに飾る」(※1986年刊の復刻改訂版では、飾りは生ミントだけになっています)。・「The Savoy Cocktail Book」(ハリー・クラドック著、1930年刊)英 ブランデー2分の1、ピーチ・ブランデー2分の1、シュガー1tsp、ミントの葉約10枚、クラッシュド・アイス (※バーボンまたはライ、カナディアン・ウイスキー・ベースのミント・ジュレップも収録されているが、名前は「Southern Mint Julep」)・「The Artistry Of Mixing Drinks」(フランク・マイアー著 1934年刊)仏 バーボン・ウイスキー1Glass、シュガー1tsp、ミントの枝5~6本、クラッシュド・アイス、飾り=スライス・レモン、生ミント・「The Official Mixer's Manual」(パトリック・ギャヴィン・ダフィー著、1934年刊行)米 バーボン2igger、パウダー・シュガー1tsp、生ミント、ソーダ、クラッシュド・アイス・「The Old Waldorf-Astoria Bar Book」(A.S.クロケット著 1935年刊)米 ウイスキー(バーボンかどうかの言及なし)1jigger、シュガー0.5tsp、ミネラルウォーター1pony(30ml)、ミントの枝3本、クラッシュド・アイス、飾り=生ミント・「Mr Boston Bartender’s Guide」(1935年初版刊)米 バーボン・ウイスキー2.5onz(75ml)、パウダー・シュガー1tsp、ミントの枝4本、ミネラルウォーター2tsp、クラッシュド・アイス、飾り=オレンジ・スライス、レモン・スライス、パイナップル・スライス、チェリー、生ミント・「Café Royal Cocktail Book」(W.J.ターリング著 1937年刊)英 バーボン・ウイスキー1Glass、パウダー・シュガー1.5tsp、ミントの枝4本、クラッシュド・アイス、飾り=生ミント・「Trader Vic’s Book of Food and Drink」(ビクター・バージェロン著 1946年刊)米 バーボン・ウイスキー(分量の言及なし)、パウダー・シュガー1.5tsp、ミントの枝6~7本、クラッシュド・アイス、飾り=シュガー・コーティングした生ミント・「Esquire Drink Book」(フレデリック・バーミンガム著、1956年刊)米 バーボン・ウイスキー1measure、ミネラルウォーター2tsp、角砂糖1個、ミント数本(あらかじめグラス内でつぶしておく)、クラッシュド・アイス、飾り=生ミント ミント・ジュレップは1875年から続く伝統あるケンタッキー・ダービーで、公式ドリンクに認定されています。今日でも、会場であるチャーチルダウンズ競馬場や前夜祭では、このカクテルがこぞって飲まれているそうです。なお、このミント・ジュレップに使われるダービー公認バーボンには「アーリー・タイムズ」または「ウッドフォード・リザーブ」が指定されているそうです(出典: 欧米の専門サイト他)。 「ミント・ジュレップ」は日本にも1900年代後半に伝わりましたが、(理由ははっきりしませんが)当初はほとんど普及しませんでした。これには氷が貴重なのに加えて、生ミントも手に入りにくかったことが背景にあったと思われます(国産の生ハッカの葉で代用したレシピもあったそうですが…)。1900年代の文献で一度紹介された後は、確認できた限りでは、1950年代まで活字になることはありませんでした。 日本国内のバーで本格的に認知されるようになったのは、1960年代以降です。ただし、この当時でも生ミントが稀少で高価だったためか、当初はミント・リキュールで代用することも目立ちました。昨今のように、生ミントを使ったミント・ジュレップがバーで普通に飲めるようになったのは、うらんかんろの個人的な記憶からしても、1980年代になってからです。現代では、日本でもほぼ年間を通じて生ミントが手に入り、バーでもさほど苦労なく頼めるようになりました。私たちは本当に幸せな時代に生きていると思います。 【確認できる日本初出資料】「洋酒調合法」(高野新太郎編、1907年刊)。レシピは、「ブランデー1.5Glass、シュガー1tsp、生ミント3本、ミント3~4本、クラッシュド・アイス、オレンジの皮、ジャマイカ・ラム少々(最後にフロート)」。欧米での初期のレシピ同様、ラムを少し加えるつくり方になっています。・こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2017/06/30
閲覧総数 1233
22

いささか旧聞になって恐縮だが、尾崎浩司さんのBar、「Second Radio(セカンド・ラジオ)」が6月末で、店を閉じたのだという。閉店の事実は一般紙に載るはずもなく、Bar業界と常連客だけが知り、僕の耳にはしばらく入ってこなかった。 尾崎さんが1972年、初めて世に送り出したBar「Radio」、そして「Second Radio」、さらに「Third Radio」については、以前、僕のブログ(05年1月15日の日記)でも触れた(写真左=Bar「Second Radio」の入り口のサイン=看板)。 神宮前にあったBar「Radio」は、僕が20代後半にお邪魔した伝説的なBar。おそらく、僕の東京BAR巡りの歴史でも、きわめて初期に出合った酒場だ。JR原宿駅で降りて、地図を頼りにたどり着くのに非常に苦労した思い出が、今もよみがえる。 そして、南青山の「Second Radio」もオープン当初に、連れ合いとともにお邪魔して、たまたま店がすいていたため、尾崎さん本人からアンティ-ク・グラスにまつわる様々なお話をじっくり聞けるという幸運に恵まれた。 「Radio」も「Second Radio」もどちらかと言えば、1杯のお値段が張るBARだった。チャージも確か前者が1500円、後者は2000円と、普通のBARに比べて格段に高かった(チャージを1500円以上取るようなBARには、僕は基本的には、店やマスターがどんなに有名でもまず行かない)。 だが、お通しで出される料理(3種盛り)の芸術性の高さ、見事なアンティークグラスを使ってつくられるオリジナル・カクテルの完成度、そして店内のライティング、生け花などの雰囲気など、高いチャージに見合うだけのものを客に提供してくれていると、僕は感じた(写真右=「Second Radio」の店内)。 僕はその後徳島へ転勤した。そして、徳島で尾崎さんのお姉さんと、あるジャズBARで出逢うという奇遇を得た。尾崎さんが徳島出身という話は知っていたが、まさかお姉さんと出逢うとは思わず、何か不思議な縁を感じた。 素晴らしいカクテル・アーチストでもある尾崎さんだが、Bar業界ではどちらかと言えば、あまり群れない「孤高の人」というイメージだ。そして、酒好きの友人の間でも、「尾崎評」や「Radio」系列のBarに対する評価は人さまざまだ。 僕も最初は、「寡黙で、とっつきにくい人」という先入観を持っていた。だが、「Second Radio」で会ってから、尾崎さんに対する印象は変わった。 BARで大人の振るまいができ、酒を愛する人間に対しては、きちんと接してくれて、結構おしゃべり好きな人なんだと分かった(写真左=伝説のBar「Radio」の店内。光ファイバーを使った天井の美しさは絶品だった (C) 「バー・ラジオのカクテルブック」から)。 そんな「Second Radio」閉店のニュースは、ショック以外の何ものでもない。店を閉じた理由について、尾崎さんは「粋なお客さんが少なくなったから…」とあまり多くを語らない(尾崎さんは現在、「Third Radio」のカウンターに立っているという)。 でも、嬉しいニュースも一つ。02年に閉店したままだった「Radio」が8月21日にリニューアル・オープンするという話を、あるサイトで知った。本当なのだろうか? あの伝説のBARがよみがえるとしたら、小躍りしてしまうようなニュースだ。 尾崎さんは「Third Radio」から「Radio」に戻るのだろうか? いずれにしても再開「Radio」にぜひお邪魔して、新たな「尾崎ワールド」の展開を見てみたい。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2006/08/12
閲覧総数 2269
23

※この記事は、2012年10月にアップされたものですが、今回、2018年の日本の著作権法改正を反映させて、以下の記述内容を少し修正いたしました。 私は法律の専門家でも何でもありませんが、ブログをやっていることもあり、不本意なトラブルを招かないように、著作権問題、名誉毀損問題などには普段から強い関心を持っていて、専門家(弁護士、大学の法学担当教官ら)の意見・見解も時々伺っています。 先日のことですが、ふと、素朴な疑問が浮かびました。「ミッキー・マウスって、1920年代に誕生したから、もう著作権の保護期間は終わってるんじゃないのか?」と。そこで、とりあえず、自分で調べてみることにしました(もし間違い等があったら、ご指摘ください。修正いたします)。 ◆外国の著作物は、日本国内で日本の著作権法が適用されるのか 最初に、基本的な知識や事実、データを10点ほどおさえておきたいと思います。 1.他国の著作物であっても、日本国内では、日本の現行著作権法(1971年1月1日施行、直近の改正は2018年&2019年)が適用されます。 2.日本の著作権法での保護期間は従来、「著作者の死後50年間、または法人・団体名義の著作物は公表後50年間」となっていました(ただし映画だけは2003年の法改正で「公表後70年」になりました)。しかし、「TTP協定」署名に伴う2018年12月30日成立の法改正で、保護期間は著作者の死後「70年間」に、また映画以外の著作物も「70年」に延長されました。 (※ただし、1953年以前発表の映画の保護期間は「公表後50年」のままです。また、2018年12月29日以前に、著作権が消滅しているものについては延長されていません。ちなみに旧著作権法<1899年~1970年。以下「旧法」と略>では「発表後または著作者の死後38年」でした)。 3.太平洋戦争時の旧連合国(英米仏カナダなど)の作品の著作権は、「戦時加算」としてさらに保護期間がさらに10年加算されます(第二次大戦中、日本が著作権保護に十分に取り組んでいなかったことが理由とのこと)。 4.ミッキー・マウスが初めて登場したのは、1928年製作・発表の映画「蒸気船ウィリー」です。 5.著作権の開始年の数え方は、「著作物の発表または著作者の死亡が公表された翌年を1年目する」となっています。 6.改正著作権法の規定を適用すれば、1953年以前に発表された「蒸気船」のミッキー・マウスの日本国内における著作権は、ディズニー社の作品であるという前提に立てば、発表翌年の1929年(始期)+70年(保護期間)+10年(戦時加算)で、2009年に消滅しています(法律専門家の間ではこの見解が多数派とのことです)。 一方、「蒸気船」でのミッキーがもしウォルト・ディズニー個人名義の創作物であるという前提に立てば、著作権の保護期間は、ディズニー没年の翌年1968年(始期)+70年+10年で、2048年で消滅ということになります。 7.現行法の附則には、「旧法による著作権の存続期間の満了日が、新法による著作権満了よりも後であれば、旧法の存続期間を優先する」となっていますが、旧法で計算すれば、映画が法人(ディズニー社)名義の場合、1928年(旧法では発表年が始期)+38年(旧法の保護期間)+10年(戦時加算)で、1976年に著作権は消滅しています。 もしディズニー個人名義ならば、1967年(旧法では死亡時の年が始期)+38年+10年で、2015年に著作権が消滅ということで、現行法を適用した方が保護期間が長い(2048年)ので、この規定はあまり意味を持ちません。 8.もちろん、ここでいう著作権とは「蒸気船ウィリー」に登場したミッキーに関するもので、現在よく知られているアニメのミッキーや、ディズニーランドで子どもに愛想を振りまいているミッキーは、少し顔が違うため、後年に公表されたミッキーは別の著作物という考え方が一般的です。 9.米国の著作権法は1998年に延長法が成立し、保護期間がそれまでより20年間長くなりました。原則、著作者の死後70年間に、法人の場合は発表後95年間となりました。その結果ミッキー・マウスの米国内での著作権も、最大2024年まで延長されることになりました。 10.ディズニー社は、ミッキー・マウスの国内著作権についての日本国内の専門家からの問い合わせに対して、現時点では「著作権に関しては一切お答えしない」との立場です。 ◆日本国内の著作権が切れたらどうなるのか 2009年に日本国内でのミッキー・マウスの著作権保護期間が切れたのかどうかについて、ディズニー社は今なお公式見解を出していません(出典:Wikipedia)。しかし結論として、Webで何人かの法律専門家の見解を読む限り、少なくとも1929年に公開された映画のミッキーは現時点では、保護期間は終了しているという意見が多数派です。 そして、たとえどんなに長くても、ディズニー没後60年の2027年には「蒸気船」のミッキーの著作権は消滅します。 その時には、ミニー・マウスも含めてパブリック・ドメイン(公共の物)になり、原則、誰でもブログなどで自由に使えるようになります。 ただし、気をつけないといけないのは、その後に誕生した顔が少し違うミッキー・マウスについては、まだ法人としてのディズニー社が、今なお著作権を持っていると考えられます。権利保護に関しては周到なディズニー社ですから、マイナー・チェンジを繰り返し、その都度創作の時点を延長、延長している可能性もあります。著作権が切れている初期のミッキーを真似た芸術作品をつくったつもりでも、「似ているから違法だ」と訴えられるおそれがあります。 また、いかがわしいアダルト・サイトがミッキーやミニーをキャラクターに使えば、「著作者人格権」(【注1】)の侵害として訴えられるでしょう。注意すべきことは、著作権は切れたとしても、商標権は、登録者が更新し続ければ半永久的に維持されることです。自分の会社の商品にミッキーの絵を描いて勝手に販売すれば、必ず商標権侵害で訴えられます。場合によっては巨額の賠償を請求されます。 ディズニー社は現在でも、個人がブログなどで私的に使用・利用する分についてはあまり目くじらは立てない方針のようですが、営利目的で使おうものなら、きっと厳しいクレームが来るのは間違いありません。営利目的での利用は基本NGと考えておいて方が無難です。 ◆著作権はどこまで保護されるべきか 米国では、ディズニーという巨大資本の圧力で、議会が著作権法の保護期間を二度(1976年、1998年)にわたる延長しました。いずれもミッキー・マウスの著作権が切れる直前に延命を図ったようなものだったので、“ミッキー・マウス保護法”と揶揄されました。98年の延長には、「自由な芸術活動よりも企業の利益を優先させるもの」と米国内からも大きな批判が巻き起こり、2002年には違憲訴訟も起きましたが、連邦最高裁は2003年、7対2の多数決でこの著作権延長を合憲と判断しました。 「著作権は一定期間保護されるべきだ」という考え方にほぼ全員が賛成すると思います。しかし、その期間が長すぎることについては、作家や音楽家の中からも、著作権が特定の団体、個人に独占されてしまうと、クリエイティブな創作活動にかえってマイナス面が大きいと反対する声も多いのです。 言うまでもありませんが、小説や映画、音楽などあらゆる芸術は、過去の古典や名作など蓄積の上に、新たなヒントを得ながら創作活動をしていると言っても過言ではありません。過去の創作物は一定期間が過ぎれば、人類共通の財産として、自由に活用できなければ、新たな創作物は生まれてこないでしょう。そういう意味でも、保護期間はできるだけ短い方がいいと思います。 ◆TPP参加問題を巡る米国からの圧力 新聞やテレビがあまり報じないのですが、米国は今、日本政府に対して「TTP(環太平洋戦略的経済連携協定)に参加したいのなら、著作権の保護期間を米国と同じ70年、95年にしろ!」と要求してきています。2003年の法改正で映画の保護期間が70年に延長されたのも、実は米国からの圧力があったのが背景でした。 現行の50年を70年へ延長することについては、国内には反対意見が数多くあります。「古い芸術作品の流通・販売が阻害され、ビジネスが成り立たなくなる」「新たな創作活動への障害にもなる」「インターネット時代にこれ以上の保護は必要ない」「著作権を持つ大企業、大資本が得をするだけで、一般大衆の利益にならない」等々。 しかし、すでにTTP協定に参加した国のなかには、韓国、オーストラリアなど米国の要求(圧力)に屈して70年に延長した国も少なくないということです。日本は米国の圧力に屈せず、現行の50年を死守してほしいと願うのは僕だけではないでしょう。【追記】残念ながら、前述した通り、2018年12月の著作権法改正で、保護期間は「70年」に延長されてしまいました。 ◆余談ですが… 最後に一つ、Web専門サイト「著作権講座」さんから拾った興味深い余談を紹介します――。日本で有名な人気キャラクターたちも、いつの日か著作権の保護期間が切れます(商標権は更新し続ける限り存続しますが…)。キティちゃんは2044年に(1974年に「サンリオ」名義で発表後70年)、サザエさんは2062年に(作者・長谷川町子さん没後70年)、ドラえもんは2066年(作者・藤子・F・不二雄氏没後70年)に、それぞれ著作権が消滅します(出典:著作権講座=http://www.geocities.jp/shun_disney7/club1.html)。ほかにも鉄腕アトムは2060年に著作権消滅(作者・手塚治虫氏没後70年)。 個人的には、こうした日本国民に広く愛されているキャラクターたちは、著作権が消滅したからと言っても、そのイメージが汚されることのないような何らかの仕組みができることを祈ってやみません。 【注1】著作者人格権 著作者の人格的な利益について保護しようとする権利。具体的には、公表権(著作物を公表するかしないか決定できる権利)、氏名表示権(実名かペンネームを著作物に表示するかしないか決定できる権利)、同一性維持権(無断で著作物を修正・変更されない権利)の3つがある。「一身専属性の権利」で他人には譲渡できない(著作権法18条~20条、59~60条、116条、119条第五項)。(出典:知的財産用語辞典= http://www.weblio.jp/content/ ほか) 【御礼】この稿を書くにあたって、以下の専門サイトから貴重な情報や多大な示唆を数多くいただきました。この場をかりて、著者、編者の皆様に御礼申し上げるとともに、参考にした専門サイトを紹介しておきたいと思います。 ・「著作権講座」→ http://www.geocities.jp/shun_disney7/club1.html ・「見えない道場本舗」→ http://d.hatena.ne.jp/gryphon/20080509/p4 ・「米国最新IT事情」→ http://itpro.nikkeibp.co.jp/members/ITPro/USIT/20021012/1/ ・「米連邦最高裁、合憲と判断:WIRED ARCHIVES」→ http://wired.jp/archives/2003/01/17/ ・「アメリカの著作権延長法について」→ http://homepage3.nifty.com/machina/c/c0004.html ・「著作権延長法」「著作権の保護期間」→ http://ja.wikipedia.org/wiki ・「知的財産用語辞典」 → http://www.weblio.jp/content/ ・ 文化庁HP「TTP協定の締結に伴う著作権法の改正」→ https://www.bunka.go.jp/seisaku/chosakuken/hokaisei/kantaiheiyo_hokaisei/ ・「著作権が自由に使える場合」(公益社団法人・著作権情報センター)→ https://www.cric.or.jp/qa/ ・「著作物・著作権をめぐるルール改正(解説)」(GVA法律事務所HP)→ https://gvalaw.jp/6253 ・「著作権保護期間、50年から70年に延長。一部非親告罪化も」(Watch Impress)→ https://www.watch.impress.co.jp/docs/news/1152341.htmlこちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2012/10/06
閲覧総数 14738
24

東京出張で飲む時は、たいてい銀座、有楽町界隈が多い。たまに銀座を離れても、赤坂、麻布十番、神楽坂、浅草、あと高田馬場くらいか。渋谷や新宿、池袋などで飲むことは、最近はほとんどない。 なぜ銀座中心かと言えば、会社が近くにあることに加えて、やはり、東京でも一番のBAR激戦区で、なおかつ東京で働くバーテンダーにとっても「聖地」である銀座のBARを自分の目で見定めるのがとても興味深いからだ。 しかし、今回は東京在住の友人に誘われて、六本木まで足を延ばした。六本木交差点から歩いて数分の裏通り、この辺りは意外にも坂が多くて、階段になっているところもある。そんな階段を下りる途中に、看板らしい看板もないこの酒場があった。 その名は、少し変わった名で「ジュ・ド・ペッシュ(Jus de P?che)」。仏語で、直訳すれば、「桃のジュース」(なぜ、この名にしたのかは聞き漏らした)。扉を開けると、表の喧噪からは切り離された、まさに静かな隠れ家BAR。実は、友人から事前のこのBARへ連れていくと聞いていたので、ネットで少し調べていた。 すると、なんとマスターはあの南青山の老舗「BARラジオ」出身だという。ラジオで修業し独立した方のBARは、東京には5、6軒(そのうちの1軒「M」は残念ながら先日閉店したと聞いた)あって、僕はこれまで新宿の「ル・パラン」や神楽坂の「歯車」にお邪魔したことがあるが、どのBARも、ラジオのオーナーであるOさんの薫陶よろしく、内外装やロケーションにこだわった、おしゃれで個性的な店が多い。 「Jus de P?che」もそんな期待を裏切らない空間だった。友人は「ここはフルーツ・カクテルが旨いんだ」と言った。確かに、それは事実。しかし「旨いが当然」のフルーツ・カクテルよりも僕がもっと興味をひかれたのは、バック・バーの棚に並んだ保存瓶の数々。そのほとんどは、自家製のオリジナルな酒である。 例えば、様々なフルーツを使ったウオッカやジンとか、ハーブ入りのラムとか、梅を漬け込んだシングルモルトとか、書ききれないほど興味深い酒がずらりと並んでいる(生わさびが入っている瓶もある)。メニューにも自家製酒に1頁を割いているが、棚にはまだまだ珍品がありそうだ。こういう遊び心は酒飲みの好奇心をくすぐる。 マスターのYさんは今はなき1stラジオ、2ndラジオではなく、3rdラジオ、すなわち現在のBARラジオで修業したという。「ル・パラン」のHさんの先輩だというので、ひょっとして僕が昔、3rdラジオを訪れた際、出会っている可能性もあるが、すれ違いだったかもしれない。でも、まぁそんなことは今はどうでもいい。僕は「ジュ・ド・ペシュ」のカウンターにいるのだから。 僕は1920~30年代に生まれたという「ブラッドハウンド」というカクテルをまず頼んだ。サブのスタッフの方もラジオ出身ということで、所作はとても手際よく、美しい。2杯、3杯目はやはり、棚のオリジナルな酒に目が向かった。僕が頼んだのはゆずウオッカのソルティ・ドッグ、そしてラフロイグ梅酒。どれも唸るばかりの旨さ。 加えて、グラスも一点もののアンティークっぽいものが多く、さすがラジオ仕込みのこだわりが感じられる。ラジオやラジオ出身の方の店は、おしゃれで静かな空間の店が多いせいか、「少し気取って堅苦しい」という声もあるが、この「ジュ・ド・ペッシュ」は六本木というラテンな街の雰囲気がそうさせるのか、Yマスターはとても気さくで話好き。堅苦しさなど微塵も感じない。 客がほとんど我々だけだったこともあるが、マスターらとの会話も弾み、僕らは至福の時間を過ごした(ラッキー!)。嬉しいことに、お勘定も、若干お高めのラジオに比べると、とても良心的だ(この接客・サービスと酒、雰囲気なら納得できる)。 帰り際、僕は持参した拙著「今宵もBAR…」と秋山徳蔵さんの復刻版「カクテル(混合酒調合法)」などを、“お土産”として差し上げ、「また必ずお邪魔します!」と再訪を約束した。ご無沙汰してきた六本木に、いい“足場”が出来たのは嬉しい収穫。出没の頻度が増えそうかな…(笑)。【ジュ・ド・ペッシュ(Jus de P?che)】東京都港区六本木3丁目13-3 アネックス2F 電話03-3405-8805 午後7時~午前3時 日休こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2011/05/19
閲覧総数 1454
25

大阪ミナミの鰻谷エリアは、BAR業界において常に先進的で、革新的であったと僕は思っている。かつて、全国のおしゃれで、スノブ系のBARの先駆けとなった「Be-in」(あの空間デザイナー・杉本貴志氏の出世作)が生まれた場所でもある。 おしゃれなBAR(当時は、「Cafe Bar」という呼び方が一般的だった)が、街のあちこちに登場し始めた1970年代後半から80年代前半の頃。 ミナミの鰻谷界隈では、先に挙げた「Be-in」のほか、K2、Marble、Just a Little Bit、Dada、Emma、Luccino、Encore、Vulva…と、次々とオープンした。それまでになかった雰囲気にあこがれて、僕も友人らと次々と訪れた。だがその中で、今も名前も場所も変わらずに残っている店は、数少ない。 今回紹介する「Rue du Bar」はそんな1軒。コンクリートの打ちっぱなしのビル。1階はブティック。そのビルの中に入り、店の脇の細い階段を下りる。地下1階にもブティック。さらにその店の脇の細い階段を下りる。すると、突然とてつもなく高い(2.5mほどある!)鉄の扉が現れる。 その扉を開けると、天井の高い、広くゆったりとした店内。カウンター席は少なく、どちらかと言えば2~4人掛けのテーブル席がメインの酒場。ライティングは程良い暗さ。恋人たちにとっては、これほど和(なご)める空間はないだろう。だから当時も今も、2人連れの客が多い(僕は、今は独りで行くとちょっと恥ずかしい)。 歳月を経た僕にとっては、今は、単なる懐かしい空間(酒場)かもしれないけれど、この店が残っていることがただ嬉しい。いわゆるオーセンティックBARではないけれど、僕はこの心地よい酒場のカウンターに座り、感じる空気や時間が今も大好きだ。 大阪ミナミへ訪れる機会があれば、ぜひ「Rue du Bar」の謎めいたエントランスと店内の空間を堪能してみてほしい(ビルの前に置かれた「立て看板」=サイン=が目印です)。【Rue du Bar】大阪市中央区東心斎橋1-19-6 B2F 電話06-6251-6661 午後6時~午前2時 無休こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2007/06/01
閲覧総数 1989
26

このところ、推理作家・東野圭吾の作品で、加賀恭一郎(かが・きょういちろう)という刑事が出てくる一連のシリーズ(計8作品あるそうです)を、むさぼるように読んでいます。 昨年発表され、ベストセラーになった最新作「新参者」から、発表年をさかのぼって読んでいるので、まだ全作品制覇に至っていませんが(現時点では5作品=「新参者」「赤い指」「嘘をもうひとつだけ」「私が彼を殺した」「悪意」です)、どの作品も睡眠不足になるほど、ハマッてしまいます。 加賀恭一郎が初めて登場したのは1986年、東野のデビュー第2作「卒業」です(これは未読です)、加賀は国立T大学に通う大学生で、在学中に巻き込まれた連続殺人事件の探偵役として登場します。その3年後の1989年の「眠りの森」(これも未読)では、警視庁捜査一課の刑事として再登場します。 さらに、1990年代中盤から後半にかけては主に警視庁捜査一課や練馬警察署に勤めているという設定で、「悪意」や「どちらかが彼女を殺した」「私が彼を殺した」「嘘をもうひとつだけ」という作品で登場しています。 2002年発表の「私が彼を殺した」は、(ネタばらしになるので詳しくは書けませんが)容疑者たちの中から、加賀刑事(すなわち作者)が犯人を明確に提示しないで終わるという“掟破り”の書き方で読者に論争を巻き起こしました(袋とじの「推理のヒント」が付いているという凝りよう)。 2006年に刊行された「赤い指」では住宅街の公園で起きた少女の死体遺棄事件から、どこの家族にでもあるかもしれない「闇」の部分に迫りました。そして2009年、あの書評家としても有名な俳優・児玉清氏をして「今年出版された本の中で文句なしに最も面白い!」と言わしめた話題の「新参者」へと続きます。 「新参者」では、加賀刑事は前作の練馬警察署から日本橋警察署へ転勤したという設定ですが、日本橋界隈という下町を舞台にした9つの短編がそれぞれ、「完結した人情推理もの」になっていながら、すべてが結末編へつながってゆくという構成が、実に見事というしかありません。 加賀刑事は独身で、30代半ばから30代後半という設定。初登場時は大学生でしたが、東野作品のプロフィール設定では卒業後に教師になったものの、ある出来事から「教師としては失格」と思って教師を辞め、父親と同じ警察官になりました。母親は蒸発しており、その原因が父親の多忙さにあると思っていて、父親とは仲はあまり良くありません。 警視庁では本庁捜査一課と練馬署(捜査一係)を往復した後、最新作の日本橋署へ異動します。国立大の社会学部の出身ですが、在学中は剣道部の部長(段位は六段)を務め全日本選手権で優勝したこともあるので、どちらかと言えば体育会系でしょうか。 警察官になってからは、どちらかと言えば協調性の少ない人間として描かれています。先輩や同僚と協力しながら事件を解決するというよりも、単独行動して事件解決の糸口をつかむのが加賀のやり方です。しかし、冷静沈着で、事件全体を見通せる能力はピカ一です。まぁ推理小説の主人公の刑事としてはよくあるパターンでしょう。 加賀は口数は少ないけれど、人情に厚い刑事です。犯罪者に対しても、優しさや思いやりを失いません。「新参者」では、ある事件の裁判で弁護側の情状証人として出廷したことが記され、そのせいで所轄の日本橋署に異動(左遷か?)となったとのことです。ちなみに加賀の趣味は、「新参者」の中では茶道とクラシックバレエ鑑賞となっていますが、小説の中では趣味に打ち込んでいる場面は出てきません(笑)。 残る「加賀シリーズ」は3作(「卒業」「眠りの森「どちらかが彼女を殺した」)ですが、全部すぐ読み終えてしまったらつまらないので、あわてずに挑もうと思います。現実の警察の世界では、加賀のようなキャラの刑事はなかなかいないでしょうが、そこはまぁ小説の世界だから許しましょう。東野さん、加賀刑事が日本橋界隈で活躍する「下町人情もの」の続編をぜひ書いてくださいなー。 ※本の表紙画像は基本的にAmazon上のものを引用しています。Amazon.Japanに感謝します。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2010/01/31
閲覧総数 1698
27

久しぶりに言葉の話題。関西以外の方は、関西弁なんて、関西へ行けばどこでも話されているし、地域でそう大きな違いはないと思っている人も多い。 確かに、いわゆるイントネーションだけで言えば、奈良出身の明石家さんまも、兵庫・尼崎出身のダウンタウンも、大阪市出身の綾戸智絵も、三重・名張育ちの平井堅(生まれは大阪だそうです)も、みんな同じ関西弁を喋っているように聞こえる。 しかし、実はそうではない。関西弁と言っても、地域ごとに微妙に、かなり違うということを知ったのは、なかでも神戸弁というのがあることを知ったのは、大学生になってからである(写真左上=神戸は港から発展した。海から見る景色は今も魅力的だ) 生まれは京都の僕だが、高校までは大阪だったので周りの友達も、大阪弁を話すエリアに住む友人がほとんどだった。たまに東京から転校生があると、クラスは、それは凄い騒ぎだった。聞いたことのない東京弁を、面白がって真似する子も多かった(写真右下=元町の旧外国人居留地には、今ではおしゃれなブランド・ショップなどが集まる。唯一今も残る洋館は、阪神大震災で全壊したが、部材を再利用してよみがえった)。 大学には、兵庫県の高校出身の同級生がたくさんいた。とくに神戸、長田、御影という有名な3つの県立高校から進学してきた人が多かった。彼らが話す関西弁は、もちろん僕には理解できたが、ところどころに、僕がそれまで聞いたことのない言い回しや単語があり、「あれ?」と思うことが時々あった。 それが「神戸弁」という、関西のある地域でしっかりと確立している方言であることを、僕は程なく知った。神戸弁のなかでも、僕が聞いて一番驚いたのは、(典型的な神戸弁でもあったのだが)例えば、動詞の語尾変化の「~とう」。 「~とう」は、標準語では「~ている」という意味。「知っとう」「書いとう」「来(き)とう」「見とう」「取っとう」などと言う。話すとき語尾を上げれば、そのまま疑問文にもなる。この「~とう」という言葉(表現)は大阪や京都では絶対に使わない。 また、標準語で「来ない」を、大阪弁では「けーへん」、京都弁では「きやへん」と言うが、神戸弁になると「こやへん」になるということも初めて知った。あと、「べっちょない」(心配ないよ、大丈夫だよ)という言葉も、(播州方面でもよく使うようだが)最初は意味が分からなかった(写真左=神戸と言えば、異人館。その代表格とも言える「風見鶏の館」) 「アホ」「バカ」に当たる言葉にも、「ダボ」という神戸弁独特の単語があるが、「ダボ」には、相手を威圧・軽蔑するというよりは、自虐的な意味もある(だから、自分に対しても使う)。あまり食べるところは少ないけれど、すぐエサに食い付いてくれる「ハゼ」のことを、「ダボハゼ」なんて言うこともあるが、これも語源は同じかもしれない。 神戸弁には、他にも面白い言い回しや言葉がたくさんある。「どないしょ(ん)?」(=どうしたの?)は、知り合い同士なら、挨拶代わりにでも使える。よく似た言葉で、「なんどいや?」(なんですか?)というのもよく使う(写真右下=開港以来、多くの外国人が住み着いた神戸。中華街=南京町=は今や神戸観光の人気スポットだ)。 「せんどぶり」(ひさしぶり)、「なしたまぁ」(おやまぁ)、「やっと」(たくさん)、「だんない」(大丈夫だよ)なども、神戸エリアでしばしば耳にする(最後の「だんない」は、地理的に近い徳島でもよく聞かれるけれど…)。 では、大阪弁と神戸弁はどの辺りが境界線なのか。阪神間の芦屋はどちらかと言えば、神戸弁。尼崎はほぼ完全に大阪弁。芦屋と尼崎の中間の西宮市辺りになると、神戸弁と大阪弁を喋る人々が混ざり合い、コミュニティを形成し、両方の言葉を聞くことができる。だから、この辺りが神戸弁と大阪弁の境界かもしれない。 神戸弁を聞きたければ、三宮か元町辺りを歩くといい(異人館の辺りは他県からの観光客も多いので、あまりおすすめはできない)。旧居留地辺りをゆっくりと散策して、これらの「神戸・お国言葉」が聞けば、きっと「あぁ、港町・神戸に来たんだなぁ…」と実感するはずである。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2005/08/30
閲覧総数 23531
28

すみません、こちらも東日本大震災発生前の話です。久々に富山への出張(3月8日~9日)がありました。で、仕事の後、BAR巡りを楽しんでまいりました(富山のBARにお邪魔するのは本当に久しぶりで、たぶん15年ぶりくらい)。 BAR巡りの前には、空きっ腹はよくない。まず神戸の懇意なBARのマスター(富山出身)から教えてもらった富山駅構内の「立山そば」の「かき揚げそば」。名産の白エビも使ったぜいたくな「かき揚げ」は実に美味(これで390円!)皆さんにもおすすめです。 以下、お邪魔した4軒のご報告ですが、今回の4軒はすべて居心地の良い「グッドBAR」でした。私の「おすすめBAR」リストにもすぐに加えたいと思います(写真右=富山と言えば、「薬売り」が有名。JR富山駅前にもモニュメントが)。【仏蘭西屋・洋酒肆】駅前から路面電車に乗って5分ほど、荒町という電停で降りる。そこから徒歩数分。総曲輪(そうがわ)というエリアにある。仏蘭西屋は、1961年創業。ことしで半世紀を迎える富山一の老舗BARである。しっとりと落ち着いた店内は、老舗の風格に溢れている。バックバーに並ぶオールド・ボトルは見事というほかない。 聞けば、仏蘭西屋という名はかつて大阪ミナミの道頓堀にあった老舗BAR「仏蘭西屋」からもらったものという。Nマスターは現在79歳。現在、早い時間は他のスタッフ3人に任せておられる。マスターは店に出られるのは通常午後8時半頃といい、今回は残念ながらお会いできなかったが、スタッフの温かい接客に僕は十分満足して、「体に気を付けてお元気で」との伝言を託し、お別れした。【Bar・リクオル(Liquor)】仏蘭西屋から歩いて数分、同じ総曲輪エリアにある。Sマスターは、東京の有名なBAR「コレヒオ(現コレオス)」の出身。コレヒオで、名バーテンダー・大泉マスターについて修業した後、地元・富山へ帰り、さらに仏蘭西屋で修業。12年前に独立した。 大泉マスターは、私が先頃ブログで取り上げた「秋山徳蔵氏のカクテルブック」をお持ちの方としても知られる。僕が復刻版連載を思い立つきっかけをつくった1人でもある。そういう意味でも、Sマスターの店を訪れることには何かの縁を感じる。もちろん、僕はを「復刻版」を一冊プレゼントした。 Sマスターは現在47歳。富山でも一番脂の乗った、実力あるバーテンダーとして有名だ。頼んだギムレットはキリッとした味わいで申し分なかった。これからますます楽しみなBARである。【舶来居酒屋・白馬館】3軒目にお邪魔したこの店も、今年で創業50年近くになる老舗の一軒である。以前は総曲輪エリアにあったというが、25年ほど前、現在地の富山駅前に移ったという。移転後の店はビルの2階だが、店内に入ると老舗の雰囲気がしみ込んだ、しっとりした内装。 店は現在は、Uマスターと息子さんのお二人で店を切り盛りされている。今年77歳になるというUマスターだが、大阪の昔の盛り場や店のことも実に鮮やかに覚えておられておられる。「あのMというクラブはどうなったかなぁ…。(大阪で)誰かに聞いて教えてください」という宿題もいただいた。 話好きのUさんは、他にも忘れられないお客さんと出会いをあれこれと話してくれた。僕は時間を忘れてただ聞き入った。年季の入ったマスターの話には、教えられることが多い。Uさん、味わい深い話の数々、本当に有難うございました。【Jazz&Liquor ジェリコの戦い】ジャズの曲名「ジェリコの戦い」を店の名前にしていることを考えただけでも、きっとこだわりあるマスターなんだろうなと思っていた。実際お邪魔してみると、やはり、酒や音(真空管アンプとフィンランド製のスピーカー)にこだわった酒場だった。 長髪を後ろでくくった独特のヘアスタイルのマスターは一見、近づき難い雰囲気もあったが、会ってみると、実に気さくで話好き。「こだわりのスピーカーに興味があって」と、大阪で僕がよくお邪魔するBar・Cに突然現れたりする、神出鬼没ぶりも面白い。 居心地が良くて、お値段も実にリーズナブル。富山駅からも徒歩数分という最高のロケーション。確実に、富山での行き付けの一軒になること間違いなし。【おまけ】富山ではいまご当地ラーメン「富山ブラック」がブーム。濃いくち醤油を使い、粗引きの黒胡椒加えた独特の塩辛いスープ。ネギは多めで、チャーシューは細切れで入れるのが主流とか。 私は「富山ブラック」の中でも一番人気のある老舗の「大喜」にお邪魔した。麺はやや太めで、少し固め。スープはやや辛い印象だったが、食べ慣れると病みつきになる可能性を秘めたラーメンだろう。皆さんも富山へ行かれたら、話のタネにぜひ一度お試しを(土産物としてもあれこれ売っています)。【仏蘭西屋・洋酒肆】富山市総曲輪1-9-15 電話076-431-1012 午後6時~午前1時 日祝休 【Bar リクオル】富山市総曲輪1-1-12 桜木町リンカーンホール1F 442-6020 午後5時~午前0時 日休&月曜の祝日休 【舶来居酒屋・白馬館】富山市桜町1-3-9 ビル2F 432-0208 午後6時~11時半 日祝休 【Jazz&Liqour ジェリコの戦い】富山市桜町2-3-24 ビル2F 441-5261 午後7時~午前3時 無休 こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2011/03/27
閲覧総数 3249
29

【番外編<上>】から続く5.ギムレットは当初、超甘口カクテルだった ギムレットは現代においては、辛口ショート・カクテルの代表格と思われています。しかし、英国で誕生した当初(1900~1910年代頃)のギムレットは、「プリマス・ジン(若干甘口のジン)+ライム・コーディアル(甘口のライム・ジュース=ローズ社製が一般的だった)」という材料でつくられていました。 ライム・コーディアルはかなり甘口なので、生のライム・ジュースとは似て非なるものです。以前、僕はとあるBarで、実際にこの材料を使って“元祖”ギムレットを再現してもらったことがありますが、現代のギムレットのイメージとはかけ離れた味わいでした。 しかし時代が進み、Barで生ライムが手に入りやすくなると、ギムレットは辛口傾向になります。ジンも、プリマス以外の様々なジンが使われるようになりました。結果、生き残ったのは辛口のギムレット。甘口の“元祖”ギムレットはいつしか忘れ去られていきました。 欧米でも今ではギムレットといえば、辛口です。日本にギムレットが伝わったのは第二次大戦後と言われています(戦前は、味わえたとしても海外駐在の邦人、すなわち商社マンや外交官くらいだったでしょう)。 戦後も長い間、生ライムがとても高価で希少だったため、普通のBarでは生のライム・ジュースを使うことなどはとても望めず、もっぱら合成ライム・ジュースが使われていました。僕自身も、Barで初めてギムレットを飲んだ時は、明治屋かサントリーの合成ライムだったと記憶しています。 今日のように、ほぼどこのBarでも生ライムが扱え、きりっと辛口で爽やかなギムレットが楽しめるようになったのは、1980年代後半からです。かつては1個500円前後もした生ライムは現在では、スーパーでも一年中安定供給され、100円台で買えるようになりました。カクテル好きには、ほんとに良い時代になりました。 6.レッド・アイはほぼ間違いなく日本発のカクテル レッド・アイは、ご存知トム・クルーズ主演の映画「カクテル」(1988年公開=日本では89年公開)でブレイクしたカクテルです。しかし、映画でのレッド・アイは今日の日本で飲まれている標準的なレッド・アイ(ビール&トマト・ジュース)とは違い、生卵も加えるという驚くべきカクテルとして描かれていました(出典:Wikipediaほか多数)。 実は、日本では、映画公開以前からBarで「レッド・アイ(生卵はなし)」というカクテルが飲まれていたという事実はあまり知られていません。この映画が発信源だと思っているBar業界の方も意外と多いのです。 映画の原作はヘイウッド・グールド(Heywood Gould)という方の同名の小説ですが、これが発表されたのは1984年です。しかし日本では、1982年に出版されたカクテルブック(福西英三著「カクテル入門」)にすでにレッド・アイは登場しています。 僕自身の記憶でも、日本のBarでは、70年代後半にはレッド・アイの名は結構知られ始めていたと思います。少なくとも、本土返還前の沖縄では「トマト・ビール」という名前でこのカクテルは飲まれてたという証言もあります(出典:http://webcache.googleusercontent.com/ )。 映画や原作では、トム演じる主人公フラナガンの友人で、バー・マスターのダグが、フラナガンのために生卵入りのレッド・アイをつくる有名なシーンがあります。 ダグがこう言います。「卵を入れずにこれ(レッド・アイ)をつくるアホが世間にはごまんといる。アホどもは、このドリンクの名前の由来は、赤い眼をしている時に飲むことが多いからだという。が、真相はつねに単純で、名は体を表すのだ。こいつ、赤い眼に見えるだろ」。(出典:文春文庫「カクテル」53頁=芝山幹郎訳 ※生卵を落とし込んだトマト・ジュースのビアカクテルを底から見れば、確かに赤い眼ぽく見えます)。 しかし、上記の時期的な理由からしても、これは映画&小説のために考案された「オリジナルなレッド・アイ」であって、今日私たちが味わっているレッド・アイとは基本的に別物であると考えるべきでしょう(WEB情報では、「原作者のヘイウッドが東京のBarで飲んだレッド・アイが忘れられなくて、小説のなかの小道具として使ったらしい」との話もありましたが、真偽のほどは未確認です)。映画は、専門家から酷評されたこともあって、この生卵入りのレッド・アイも、その後米国内でもほとんど忘れ去られてしまいました。 実際、欧米のBarやPubで「レッド・アイをください」と言っても、まず99%通じないそうです。「ロンドンのPubでレッド・アイを頼んだら、『何ソレ?聞いたことないよ』と言われ、『ビールとトマト・ジュースのカクテルだ』と説明したら、ラガー・ビールとトマト・ジュースと空グラスを出され、仕方なく自分でつくった。店員さんは不思議そうな顔をしていた」というエピソードを掲示板で紹介する人もいました(出典:http://www.misichan.com/cocktail/d/cocktail134.html )。 米国でもレッド・アイがさほど知名度がないことの裏付けとしては、ヤフー米国版のQ&Aのページ「Is there a name for tomato juice with beer? 」(http://answers.yahoo.com/question/index?qid=20080905163600AA3Wwim )が面白いです。ほとんど誰も名前を知りません(写真右=映画「カクテル」(C)ワーナー・ブラザーズ)。 日本のカクテルブック等では、レッド・アイを欧米発のカクテルと紹介しているケースが目立ちますが、僕がリサーチした結論としては、レッド・アイはほぼ間違いなく日本生まれのカクテルで、「二日酔いの血走った目」というイメージから名付けられたのが正解ではないでしょうか。それが何らかのルートで「カクテル」の原作者グールドに伝わり、アレンジされて映画にも登場したのではないかと僕は想像しています。 こうした見解を裏付けるかのように、70年代以降の欧米のカクテルブックで、この「レッド・アイ」というカクテルを紹介している文献は調べた限りでは、まったくありません。「Red Eye Cocktail」と打ってグーグルで検索しても、欧米のサイトではほとんどヒットしません。英国の専門サイトが唯一、日本とほぼ同じレシピのレッド・アイを紹介していましたが、面白いのは、そのページの掲示板に、「生卵を入れないとレッド・アイにはならないよ!」というユーザーのコメントがあったことです(出典:http://www.cocktail.uk.com/Cocktail-Recipe/Red-eye.htm )。 欧米のWEBサイトでは、映画の「レッド・アイ」をそのまま紹介していたり、生卵入りレッド・アイを「レッド・アイ・ア・ラ・カクテル(Red Eye a la Cocktail)」という別名で紹介したり、日本版レッド・アイのレシピにさらにウオッカを加えたレシピ(日本では「レッド・バード」という名のカクテル)にしたり、日本でレッド・アイを飲んだ外国人が母国でその驚きを紹介していたり、アサヒビールが2012年6月に売り出した缶入りのレッド・アイを話題にしていたりと様々ですが、まぁその程度のレベルです(出典:Google「Red Eye Cocktail」)。 ちなみにWeb上でみる限り、欧米でのビールとトマト・ジュースだけのカクテルの呼び方は「レッド・ビア(Red Beer)」「トマト・ビア(Tomato Beer)」「レッド・ルースター(Red Rooster)」「ブラッディ・ビア(Bloody Beer)」など様々です(「レッド・ビア」が多数派という)が、どれをとってもさほど有名ではありません(出典:Yahoo! Answers英語版、Wikipedia英語版)。 7.昔のカクテルはぬるいのが普通だった Barにも製氷機が当たり前にある今日、私たちはどこのBarへ行っても冷たいカクテルが楽しめますが、1920年代以前は、カクテルといえばそう冷たい飲物ではありませんでした(欧米では今も、英国のPubのように、氷を少ししか入れないぬるいカクテルを出すところもありますが…)。 近代カクテルが誕生したと言われる1850~60年代、欧米では簡単な仕組みの製氷機が登場したばかりで、高価なこともあって小さなBarやPubで備えているところはほとんどありませんでした。ドイツのカール・リンデ(Carl von Linde)=写真左((C)The Linde Group)=が初めて本格的な業務用製氷機を発売したのが1879年で、欧米の飲食業の現場で製氷機が普及したのは1910~20年代以降と言われています。 それまでは、冬場に凍結した川や湖から切り出した氷を氷室(ひむろ)で保管し、BarやPubでは木製の冷蔵庫を使って保管していたようで、もちろん量も限られ高価なため、カクテルに好きなだけ使うなどはとてもできませんでした。したがって、マティーニやマンハッタン、ロブロイ、ギムレットなど、現代でも人気の古典的カクテルと言えども、誕生当初は、かなりぬるい状態で味わっていたのが実態だったと思われます。 1920年以前のカクテルに生卵(卵白や卵黄)を使うカクテルが多かったのは、キリっと冷えたカクテルを楽しむなど簡単には叶わなかった時代に、カクテルを飲みやすくするために、まろやかな味わいを演出しようとしたバーテンダーならでは工夫だったのでしょう。 ちなみに、1860年(万延元年)、日本で始めて誕生した横浜ホテルのBarでは当然、天然氷を使っていて、木製の保冷箱のようなもので保管していたようですが、どのくらいの時間溶けずにもったかは想像に難くありません。街場にBarができた明治末期~大正時代でも事情はそう変わりませんでした。大きな氷を入れて冷やす木製冷蔵庫は登場していましたが、氷が貴重品であったことには変わりはありません。 日本に米国製製氷機が初めて輸入されたのは1920年代末ですが、家が一軒買えるほどの値段だったため、当初は一流ホテルか一部の金持ちしか持つことができませんでした。国産の業務用製氷機が普及し始めるのは1950年代後半です。現代では「ぬるいカクテルなんてカクテルじゃない」と思いがちですが、1920~30年代に生きていた人たちがもし現代のBarにタイムスリップしたら、「カクテルが冷たすぎる!」と驚くに違いありません。 <完>【御礼】昨年6月以来続けてきた「【全面改訂版】カクテル--その誕生にまつわる逸話」は今回で終わります。成田一徹さんの急逝や偲ぶ会開催に伴う繁忙のため、途中中断を余儀なくさせられましたが、バー関係も含む友人の励ましもあって、ゴールにたどり着くことができました。この場を借りて厚く御礼を申し上げます。この連載がバー業界に働く皆さんのお役に立てば、これに勝る幸せはありません。
2013/05/28
閲覧総数 924
30

私は2012年9月26日付の記事(リンクはこちら)で、SNS上の画像・写真の引用問題について記しました。その後、2018年と2019年に著作権法の改正がありました(2018年の改正は、主に環太平洋11カ国との「TTP協定」締結に伴うものです)。 今回遅まきながらですが、主な改正点を紹介するとともに、改正内容に合わせて前回の記事内容を追記・修正し、私たちがSNS上で「画像・写真を引用する場合」の注意点を、改めて紹介してみたいと思います(今回の追記・修正部分については、赤字で記しました)。【おことわり】前回同様の言い訳ですが、この記事は、あくまでSNS上での「画像の引用」ルールについて、現時点での著作権法上の一般的なルールや法的見解、マナー等をまとめたものです。しかし、私は法律の専門家ではありません。個別具体的問題についての対応・見解まで保証するものではありません。具体的なトラブルについては、私は一切の責任を負えませんので、疑問点等は文化庁や法律専門家にお尋ねください。なお、用語や解釈の間違い等のご指摘は歓迎いたします。→ arkwez@gmail.com まで宜しくお願いいたします)。 ◆改正・著作権法などの概要 改正著作権法は、2018年5月18日に成立し、2019年1月1日から施行されました。今回の改正は「デジタル・ネットワーク技術の進展により、新たに生まれる著作物の利用ニーズに的確に対応するため、著作権者の許諾を受ける必要がある行為の範囲を見直し、IT・情報関連産業、教育、障がい者、美術館等におけるアーカイブの利活用に関わる著作物の利用をより円滑に行えるようにする」のが狙いです。 具体的には、(1)一定の条件をクリアすれば、著作権者の許諾を得ないでも自由に利用できる範囲が広がった(2)IT技術開発・情報処理目的や検索エンジン(GoogleやYahoo等)のための著作物の利用は許諾がなくても可能に(3)授業などで教師が他人の著作物を用いて作成した教材を生徒に随時送信する行為も、公衆送信補償金の支払いで著作権者の許諾なく可能に(4)美術館などが収蔵・展示作品をデジタル化し、ネットワーク上で閲覧させる場合、許諾なく行えるようになりました。 また、ほぼ同時に、(5)TTP整備法を反映した改正(2018年6月9日成立、12月30日施行)も行われ、従来、作者の死後50年だった著作権保護期間は、米国の要請によって70年に延長され(末尾【注1】ご参照)、(6)海賊版の販売・送信行為への非親告罪化(著作権者の告訴がなくても起訴可能に)も導入されました。 ※(3)の補償金については、2020年4月からは年間1回のみの支払いで済む「ワンストップ補償金」制度が創設されました。この改正によって、オンライン授業における教材作成での規制や負担が大きく軽減されました(2020年度に関しては無料でしたが、2021年度から支払いが義務化されました)。「補償金」の料金体系や金額は以下の通りです。 ・学校種別の年間包括料金(公衆送信回数は無制限) 公衆送信を受ける園児・児童・生徒・学生1人当たりの額=大学720円/ 高校420円/ 中学校180円/小学校120円/ 幼稚園60円(※社会教育施設、公開講座等については、30人を定員とする1講座・講習を1回の授業として、授業ごとに300円) ・公衆送信の都度支払う場合の料金=1回・1人当たり10円(対象となる著作物、実演、レコード、放送、有線放送ごとに)。 ※「補償金」の支払い窓口・管理・著作権者への分配等は文科省から指定を受けた「一般社団法人:授業目的公衆送信補償金等管理協会(SARTRAS)」が担当します。料金等については3年ごとに見直しを行い、必要な措置を講じるとのことです。 ◆画像引用も基本は文章と同じだが… まず、基本的なことですが、写真やイラスト、絵画なども含むSNS上の画像についても、前回も紹介した「公正な引用のための要件」が適用されます。著作権法32条の「公正な慣行に合致し、報道・批評・研究など目的上、正当な範囲内で、定められ要件を満たしていれば、著作権者の了解なしに引用して利用できる」というのが前提です。 では、画像の合法的な引用・利用の基本要件はどうなるかですが、画像・写真の引用についても基本的に、「文章の引用」の場合と同じルールです。 (1)引用先は既に公表された画像であること (2)「公正な慣行」に合致すること =「公正な慣行」の定義は示されていませんが、判例等では、以下の(3)(4)(5)の要件がこれに当たるとしているケースが多いそうです。 (3)自分の著作物と、引用する画像との「主従関係」が明確であること =あくまで自分の文章が「主」で、引用された画像は「従」でなければなりません。「主」か「従」かは、著作物の目的・趣旨や引用した画像の大きさ、補足的なものとして使っているか等がポイントです。従って、小さな画像でもそれが「主」であれば違法となることもあります。 (4)引用する画像が、自分の著作物と明確に区別されていること(明瞭区別性) (5)引用する必然性があること(その引用が著作物の目的や構成上、必要・不可欠である) (6)出典・出所が明示されていること(著作権法48条) (7)画像に勝手な変更を加えないこと(加工したりしない) (8)引用しすぎないこと(過剰な枚数を引用したり、引用した画像のスペースが本文よりも大きいのは違法とみなされるおそれがあります) (9)報道・批評・研究などのための「正当な範囲内」であること(著作権法32条) ※(2)と(9)については、今回の法改正で追加された概念ではなく、旧法から存在した基準ですが、基本要件に含めている法律専門サイトが多いので、今回私も追加しました。 なお、「報道・批評・研究などのための『正当な範囲内』」という要件については、改正著作権法でも明確な定義は示されていません。唯一、判例で「社会通念に照らして合理的な範囲内のものであることが必要であり、具体的には、他人の著作物を利用する側の利用の目的のほか、その方法や態様、利用される著作物の種類や性質、当該著作物の著作権者に及ぼす影響の有無・程度などが総合的に考慮されなければならない」と示されている程度です(大阪地裁・2013年7月16日判決)。 すなわち、「引用に必然性・必要性があって、引用の分量や引用個所が適切であり、引用部分が明確に区別されている」などの条件を満たす必要があるのは当然だと思われます。 ◆出版社等の「禁止規定」は合法か、違法か 私たち個人がネット上で一番よく画像を「引用・利用」するケースとしては、(1)本や雑誌の表紙(2)CDやレコードのジャケット(3)映画のポスターや1シーン(4)市販商品の外観(5)ネット・オークションでの商品――などが代表的なものではないかと思います。このうち(5)については現在は原則、無条件の引用・利用が合法化されています。 (1)~(4)については、著作権法32条を守り、9要件をクリアすれば、誰でも合法的に引用・利用できるはずです。ところが、例えば出版社のHPにはよく、画像に関して以下のような禁止事項が列挙されています。表向きは、著作権者の許諾なしに一切の画像の使用はまかりならんという姿勢です。 ・出版物の装丁の画像の全体または一部を掲載することはできません ・キャラクターの画像および写真等の全体または一部を掲載することはできません ・ホームページの画像の全体または一部を転載することはできません ・法人企業のHPであっても、許可なく転載することはできません ・非営利であっても、個人サイトでの転載は「私的利用」にはなりません ・著作権侵害が行われた場合には法的手段をとることもありますので、ご注意ください 私も、Blogで時々、本の批評やCD、映画の感想など紹介しているので、本やCDジャケットや映画の1シーンの画像を借りることはあります。出典・引用元は可能な限り明示するようにしています。こうした利用は、著作権法32条に言う「公正な慣行に合致し、報道、批評、研究など目的上、正当な」という要件に当てはまり、合法的な利用です。 ここで疑問がわきます。「著作権法では正当な目的であって、主従関係を明確にして、引用元もきっちり明示すれば、画像の『引用』はできると認めている。こんな禁止規定自体が著作権法違反じゃないのか」という疑問です。そこで、法律専門サイト等でさらに調べたうえで、専門家の意見も少し聞いてみました。 ◆現実的には、出版社等は「黙認」姿勢 結論から言うと、文章の引用についてはこれまで判例がいくつもあって、様々な具体的ルールや指針がかなり周知されているのですが、画像については、争われた裁判(判例)がまだ少なく、違法か違法でないのかの基準が曖昧なままになっています。 知的財産や著作権法に詳しい杉浦健二弁護士は「一般的には、引用要件には法文上の明確な基準があった方がいいという意見もあるが、過度に明確化すると、インターネット等を中心とした利用形態の多様化に法律が付いていけず、弾力的な運用がしづらくなるため、引用要件にはある程度の“あそび”がある、現在の程度が望ましいと考えている」と記しています(出典:STORIA法律事務所Blog) 近年唯一、画像の無断使用で争われたとも言える有名な裁判に「脱ゴーマニズム宣言事件」(小林よしのり氏vs上杉聡氏)というのがあります。この裁判では漫画の引用問題が争点でしたが、1999年8月に東京地裁が出した判決「批評の対象を明確にするためには、絵も引用する必要があることを認める」「引用の要件を満たす限りは、引用が必要最小限であることまでは要求されない」(1999年8月31日)が現時点では数少ない判例です(参考:Wikipedia「脱ゴーマニズム宣言事件」)。 しかしながら、出版社はこうした判決が出た後も、禁止規定は撤回・変更していません。禁止規定は「任意規定であるから合法」という学説がある一方で、「このような規定自体が著作権法違反だ」という法律家もいます。法的見解が分かれる中、現実には、日本だけでも個人のHPやBlogで膨大な数の画像が引用・利用されています。 出版社やレコード会社等はいちいち告発したりせず、黙認しているのが現状です(おそらく、訴えたあげく不利な判例が出て、自分で自分の首を絞めるのが怖いというのもあるのでしょう)。現実には、個人やNPOのHP、Blogのように非営利目的であればあまり目くじらは立てないという姿勢だと思いますが、私たちはやはり、節度ある引用・利用に徹したいと思います(ちなみに、著作権侵害した場合の刑罰は、10年以下の懲役もしくは1000万円以下の罰金という結構重いものなので、くれぐれも安易な画像利用・引用には十分気を付けたいところです)。 ◆1、2枚の画像引用なら、まず問題なし 今回、法律関係者に直接尋ねたり、著作権問題を取り上げた法律事務所のWEBページの解説を調べたりしたところ、結論として、少なくとも以下のようなことは言えるかと思います。 ・SNS上の画像引用についても、冒頭にも挙げた、正当な引用のための「9つの要件」は最低限満たさなければならない。報道、批評、研究その他引用の目的上正当な範囲内であれば、原則として問題はないが、「正当な目的」と「正当な範囲内であること」が大事(単なる日常雑記のような文章に、権利者が存在する必然性もない画像を勝手にアップするのは避けるべきである)。 ・静止画については、「要件を満たしていれば、引用が正当な範囲内に収まる可能性が高い」(斉藤博『著作権法』236頁、2000年、有斐閣刊)というのが学界の多数説。音楽評論や映画評論で1、2枚の画像をコピーして載せるのはセーフ。しかし、「必然性もないのに、例えば、自分のブログのトップにミッキー・マウスの画像をコピーして載せるというのは危ない」とのこと(とくに、ディズニー社は著作権、商標権にうるさいことで有名なので要注意)。 ・引用する画像の色合い等を、画像ソフトを用いて改変してはならない(唯一、画像のサイズ拡大、縮小は認められている)。 ・「出所の明示は合理的な態様で」というのが法の規定。著作権者名があればベストだが、不詳であれば、出典WEBサイトのURLを明記することが望ましい。いずれにしろ、企業の公式HPならともかく、個人の私的なBlogに静止画を少し載せるくらいなら訴えられることはまずないだろう。 ・ただし、この問題に関しての最高裁判決はなく、下級審判決例も、上記の要件のそれぞれに対するウエイトのかけ方が異なるので、難しい面がある。そもそも、「公正」とか「正当」とか、必ずしも利用者にわかりにくい基準で、裁判になってみなければ、それに反しているかどうか結論は出せない。おそらくそのような現状からして、新聞社、出版社などの権利者側からは、原則に戻って、許諾がいるというように警告を発しているのだと思う。 ・著作権法の引用要件を明らかに満たしている場合は、利用者は権利者に事前に許諾をとる必要はない。権利者が「利用を認めます」と回答してくれる可能性は低く、かさねて許諾まで取りにいくメリットは皆無で、かえってリスクが高い行為になる(「ダメ」と言われた場合、身動きがとれなくなる)=上記STORIA法律事務所Blogより。 ◆画像転載が合法化されているもの なお、SNS上での画像の引用・利用が(条件付で)自由に認められているものもあります。例えば、以下のようなものです。 ・ネット・オークションに添える商品説明の写真掲載=インターネット・オークション等で売買する際、商品を確認するという必要性から、2009年の著作権法改正で、条件付き(著作権法施行令等で定めた大きさや精度等を遵守)でその画像を著作権者の許諾なく掲載することが合法化されました。今回の法改正ではさらに、美術品や写真の販売の際にも、カタログ等の図面として許諾なく掲載することが同様に可能となりました。 ・情報検索サービスを実施するために著作物の複製すること ・障がい者の教育・福祉活動等ために著作物を複製すること ・画素数を落とした画像、サムネイル(縮小)画像の利用 ※Amazonなどは「アフィリエイト」(【注2】)契約をすれば、画像を無料で利用できるというサービスをしていますが、私は利用していません。 ◆引用・掲載してはいけない画像とは 自分が撮った画像でもSNS上に掲載できないものもあります。例えば以下のようなもの――。 ・被写体から許可を得ていない画像(知らない人の顔がはっきりわかる状態で写り込んでいたら、肖像権の侵害だと言われるおそれがあります。モザイクをかけるなど個人を特定できないようにしてください。 ただし、友人らとの飲み会での写真なら許容範囲でしょう。いまどき、あなたがSNSをしていることを参加者が知っていて、携帯やデジカメで写真をとれば、参加者も「彼(彼女)のページに載るんだな」と了承したものとみなされるでしょうから)。 ・タレントなど著名人が写った画像(街でたまたま有名人を見かけて撮った写真を掲載すれば、場合によっては、「パブリシティ権」(【注3】)を侵害したと言われる可能性があります。店で女性と一緒のところを盗み撮りなどした画像なら、プライバシー侵害と言われる可能性もあります。 ・他人の著作物を撮った画像(滅多にないとは思いますが、著作権のある創作物を直接写真に撮ってSNS上に掲載すれば、著作権侵害と言われる可能性があるそうです)。 ・公序良俗に反する画像(これは当然ですね) ◆基本は自分の撮影にこだわりたい 私は基本的に、可能な限り、自分のSNS上では自分のカメラで撮影した画像を使うことにしています。自分の撮影を原則にしているのは、オリジナリティにこだわりたいことに加えて、リスク(転載を巡るトラブル)を減らしたいからです。 SNS上で無用なトラブルを招かないためには、安易に他のサイトから画像をコピーしてこないこと、そして引用・転載する場合でも、ルールやマナーをきちんと守ることが何よりも大切だと思います。私自身も現在、自戒の気持ちを込めて過去のBlogのページなどで使った画像について、順次、著作権法違反がないか再点検しています。必要な場合は、少なくとも「引用元」をきっちり明示したいと思っています。 【注1】1967年以前に著作者が死亡している場合: 著作者が亡くなったのが1967年以前であれば、2018年12月30日の改正著作権法施行以前に50年の保護期間(1968年1月から起算)が終了しているため、70年には延長されません(1967年に亡くなった芸術家で言えば、例えば、山本周五郎<作家>、壷井栄<作家>ら)。 なお、著作者が亡くなった後、著作権継承者がいなければ、原則として著作者死亡時点で著作権は消滅します。 【注2】アフィリエイト(Affiliate) 「成功報酬型広告」とも言われ、例えばHPやBlogである企業の商品の広告スペースを提供し、その広告を通じて商品が購入されたら、その企業や販売する店舗からHPやBlogの管理者(運営者)に成功報酬が支払われるという広告またはその形態を指す用語(出典:Wikipedia、All About「アフィリエイトとは?」 → http://allabout.co.jp/gm/gc/22964 ) 【注3】パブリシティ権 人に備わっている「顧客吸引力を中核とする経済的な価値」を保護する権利のこと(出典:Wikipedia、はてなキーワード → http://d.hatena.ne.jp/keyword/ ) 【御礼】この一文を書くにあたって、主に下記のWeb ページ上の解説やデータ、Q&Aから貴重な情報や示唆をいただきました。この場を借りて関係の皆様には心から御礼申し上げるとともに、そのページ(出典元)を紹介しておきます。 ・文化庁HP(著作権問題Q&A)→ https://chosakuken.bunka.go.jp/naruhodo/ ・「画像や情報の引用について 専門家Q&A」→ https://profile.allabout.co.jp/ask/q-46093 ・「画像の引用・転載に関する著作権について(Yahoo知恵袋)」→ https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/ ・「ネット時代の著作権(大塚商会)」→ https://qqweb.jp/QQW/STATICS/it/pc_howto/200911.html ・「HPやサイトで著作権違反にならない方法」→ https://nanapi.jp/15604 ・「著作権法上合法な引用の条件」→ https://puple.noblog.net/blog/a/10056206.html ・「ネット・Webサイトでの著作権」 → https://uguisu.skr.jp/html/kenri1.html ・「画像の著作権侵害を回避するために最低限理解しておくポイント」(東京スタートアップ法律事務所HP)→ https://tsl-magazine.com/category05/image-copyright-infringement ・「著作権が自由に使える場合」(公益社団法人・著作権情報センター)→ https://www.cric.or.jp/qa/ ・「著作権法の引用要件を満たしているのに、かさねて許諾を得る必要があるのか」(STORIA法律事務所Blog)→ https://storialaw.jp/blog/6114 ・「著作物・著作権をめぐるルール改正(解説)」(GVA法律事務所HP)→ https://gvalaw.jp/6253 ・「著作権を侵害せずに文章や画像を引用・転載する方法」(ベリーベスト法律事務所HP)→ https://best-legal.jp/copyright-quotation-4942 ・「著作権保護期間、50年から70年に延長。一部非親告罪化も」(Watch Impress)→ https://www.watch.impress.co.jp/docs/news/1152341.html【おことわり】この日記は、画像「引用」のルールについて、現時点での著作権法上の一般的なルールや法的見解、マナー等をまとめたものですが、個別具体的問題についての対応・見解まで保証するものではありません。具体的な疑問やトラブルについては文化庁や法律専門家にお尋ねください。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2020/06/20
閲覧総数 25145
31

先日のこと。ある海外のバー業界関係の方から「過去誕生したジャパニーズ・カクテルのなかで、知っておくべき重要なカクテルを教えてほしい」という依頼を受けました。 そこで、まがりなりにも長年カクテル史を研究してきた私が、独自の?視点で25のカクテルを選んで、DeepLの力を借りて(笑)英訳したうえでお伝えいたしました(うち2つは日本人の考案ではなく、滞日外国人が考案した or 関わったと伝わる日本生まれのカクテルですが…)。 以下はその日本語版です。「プロなら知っておくべきジャパニーズ・カクテル」と、その考案者(不明なものもありますが)、誕生の時期・由来等について簡単に紹介いたします(かつて私のBlog連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話」で取り上げたものについては、その該当ページへのリンクも貼っておきます)。1.横浜(Yokohama)(19世紀末から20世紀初頭、考案者は不詳) ジン30ml、ウォッカ15ml、オレンジジュース15ml、グレナデン・シロップ10ml、アニゼット0.5tsp(ティースプーン) ※横浜・外国人居留地のバーもしくは欧州航路の客船内のバーで誕生したと伝わっている。いずれにしても欧州航路の客船を通じて1920年代には英国にも伝わり、サヴォイ・カクテル・ブック(1930年刊)にも収録されることになった。【ご参考:拙Blog連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話:横浜(Yokohama)」】2.チェリー・ブロッサム(Cherry Blossom) 田尾多三郎(1923年) カナディアン・ウイスキー(カナディアン・クラブ)、チェリー・リキュール(ピーター・ヒーリング)、スイート・ベルモット(チンザノ・ロッソ)各3分の1、マラスキーノ1dash ※このレシピは、国内外で一般的に知られる「チェリー・ブロッサム」のレシピ(チェリー・ブランデー、ブランデー、オレンジ・キュラソー、レモンジュース、グレナディン・シロップ=1900年頃誕生。考案者は不明。かの『サボイ・カクテルブック<1930年刊>』にも収録)とは大きく違っている。 田尾氏(故人)は自らがオーナー・バーテンダーをつとめていた横浜・伊勢佐木町の「カフェ・ド・パリ」(現在は関内に移転し、バー「パリ」と改名)で冒頭の「チェリー・ブロッサム」を考案したが、そのレシピを公開してこなかったために、欧州発祥のチェリー・ブランデーベースのレシピが日本に伝わるにつれて、レシピが取り違えられてしまい、日本国内では田尾氏が考案者であるという「誤解」が定着してしまった。 近年の研究で、田尾氏による冒頭のオリジナル・レシピが徐々に明らかになってきた。従って、一般的に知られるレシピの「チェリー・ブロッサム」は日本発祥とは言えないが、偶然にもほぼ同じ時期に、田尾氏が同名のカクテルを考案し、普及に貢献した事実が消えることはない。 【ご参考:拙Blog連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話:チェリー・ブロッサム(Cherry Blossom)」】3.マウント・フジ(Mount Fuji) 東京帝国ホテルのインペリアル・バーで誕生(1924年)、考案者は不詳 ジン45ml、パイナップルジュース15ml、レモンジュース10ml、シロップ1tsp、マラスキーノ1tsp、 生クリーム 1tsp、卵白 ※「マウント・フジ」カクテルには他に2つのバージョン(JBAバージョンと箱根富士屋ホテルバージョン)が伝わっている。詳しくは、連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話」の「マウント・フジ(Mount Fuji)」の項をお読みください。4.ライン・カクテル(Line Cocktail) 前田米吉(1924年) ジン25ml、スイート・ベルモット25ml、ベネディクティン25ml、アンゴスチュラビターズ2dash ※前田米吉氏(1897年~1939年)は大正時代のバーテンダーであり、日本初の実用カクテルブック『コクテール』(1924年刊)の著者。【ご参考:拙Blogの記事「『コクテール』の著者・前田米吉氏の素顔とは」】5.會舘フィズ(Kaikan Fizz) 東京會舘内のバー発祥(1945年)、考案者は不詳 ジン45ml、牛乳60ml、レモンジュース15ml、砂糖1tsp、ソーダ ※敗戦後(1945年9月)、東京會舘は占領軍に接収され、1952年まで将校専用の社交場(「東京アメリカンクラブ」)として使用された。「會舘フィズ」は朝から酒を飲みたい将校が、バーテンダーに「お酒に見えないアルコール・ドリンクをつくってくれ」と頼んで、考案してもらったのが起源と伝わる。【ご参考:拙Blogの記事「東京會舘メインバー:歴史の重みに酔う」】6.カミカゼ(Kamikaze) 考案者不詳(1945~46年頃) ウォッカ30ml、コアントロー30ml、ライムジュース30ml、ライム・スライス ※第二次世界大戦後(1945年~)、東京の占領軍キャンプ(米軍基地)内のバー発祥と伝わる。 7.青い珊瑚礁(Blue Coral Reef) 鹿野彦司(1950年) ジン40ml、グリーンペパーミント・リキュール20ml、マラスキーノ・チェリー、あらかじめグラスの縁をレモンで濡らしておく。 ※1950年5月、戦後初めて開催された本格的なカクテル・コンクール「オール・ジャパン・ドリンクス・コンクール」(日本バーテンダー協会=当時はJBA=主催)で1位に輝いた。考案者の鹿野氏は(当時)名古屋のバー「くらぶ鴻の巣」のオーナー・バーテンダー。【ご参考:拙Blog連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話:青い珊瑚礁(Blue Coral Reef)」】8.キッス・オブ・ファイア(Kiss of Fire) 石岡賢司(1953年) ウォッカ30ml、スロージン20ml、ドライ・ベルモット、レモンジュース5ml、砂糖でグラスをスノー・スタイルにして ※1953年に開催された「第5回「オール・ジャパン・ドリンクス・コンクール」(日本バーテンダー協会主催)でグランプリに輝いたカクテル。石岡氏は残念ながら、この受賞から数年後に他界された。【ご参考:拙Blog連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話:キッス・オブ・ファイア(Kiss of Fire)」】9.雪国(Yukiguni) 井山計一(1959年) ウォッカ45~55ml、ホワイト・キュラソー10ml、ライムジュース5ml、ミントチェリー、砂糖でグラスをスノー・スタイルに ※1958年、山形県酒田市のバー「ケルン」のオーナー・バーテンダー井山計一氏が、川端康成の小説「雪国」をモチーフに考案。翌年の1959年に開催された「第1回寿屋(後のサントリー)カクテルコンクール」で最優秀賞を受賞した。 日本人が考案したスタンダード・カクテルとしては、「雪国」は日本国内では今なお最もよく知られている(日本生まれのカクテルとしては「バンブー」が世界的に有名だが、これは残念ながら、明治期に米国から来日した外国人によって考案されたもの)。【ご参考:拙Blog連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話:雪国(Yukiguni)」】10. スカイダイビング(Sky Diving) 渡辺義之(1967年) ホワイト・ラム30ml、ブルー・キュラソー20ml、ライムジュース10ml ※1967年10月に開催された全日本バーテンダー協会主催の大会でグランプリを受賞したカクテル。海外ではあまり知られていないが、日本ではほぼ「スタンダード」になっており、国内で出版されるカクテル本にも頻繁に登場する。渡辺義之氏は大阪のバーテンダー。【ご参考:拙Blog連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話:スカイダイビング(Sky Diving)」】11. レッド・アイ(Red Eye) (1970年代後半?沖縄発祥。考案者は不詳) ビール150ml、トマトジュース150ml、スパイス(セロリソルト、ブラックペッパー...) ※トム・クルーズ(Tom Cruise)主演の映画「カクテル(Cocktail)」(1988年公開)に登場する生卵入りカクテル「レッド・アイ」に似ているが、この日本発祥の「レッド・アイ」は全く別物で、映画公開前の1970年代後半には沖縄の米軍基地周辺のバーで流行っていた。その後、80年代半ばには東京や大阪などの大都市でも広く知られるようになった。【ご参考:拙Blog連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話:レッド・アイ(Red Eye)」】12. メロンボール(Melonball) (1978年、考案者は不詳) ウオッカ20ml、ミドリ(メロン・リキュール)30ml、オレンジジュース80ml ※1978年、サントリー社がメロン・リキュール「ミドリ(MIDORI)」を米国で先行発売するに際して、提案したオリジナルカクテル(オレンジジュースの代わりにグレープフルーツジュース、パイナップルジュースを使うバージョンもある)。13. ソル・クバーノ(Sol Cubano) 木村義久(1980年) ホワイト・ラム45~80ml、グレープフルーツジュース60ml、トニックウォーター60ml、グレープフルーツ・スライス、フレッシュミント ※1980年に開催された「トロピカルカクテル・コンクール」(サントリー社主催)でグランプリを受賞。木村氏は神戸のバー「サボイ北野坂」のオーナー・バーテンダーとして今も活躍中。【ご参考:拙Blog連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話:ソル・クバーノ(Sol Cubano)」】14. 照葉樹林(Shoyo Jurin=means Shiba Forest.) (1980年頃、考案者は不詳) 緑茶リキュール 60ml、烏龍茶 120ml ※サントリー・カクテルスクール東京校発祥と伝わる。15. 吉野(Yoshino) 毛利隆雄(1983年) ウォッカ60ml、キルシュワッサー0.5tsp、緑茶リキュール0.5tsp、桜花の塩漬け ※奈良県の吉野は桜の名所として有名。毛利隆雄氏は、東京・銀座「毛利バー」のオーナー・バーテンダー。16. スプモーニ(Spumoni) (1980年代半ば、考案者は不詳) カンパリ30ml、グレープフルーツジュース30ml、トニックウォーター ※日本のバーで最も人気のあるカクテルの一つ。アルコール度数が低く飲みやすいため、とくに女性に人気がある。日本のカクテルブックでは「イタリア生まれのカクテル」と紹介されることが多く、バー関係者でもそう誤解している人が多いが、日本生まれのカクテル。 1980年代半ばに、日本のカンパリ輸入業者と、イタリア料理ブームに便乗した外食産業関係者によって考案され、広まった。「スプモーニ」の語源は、イタリア語の「泡を立てる(spumare)」から名付けられたという。【ご参考:拙Blog連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話:スプモーニ(Spumoni)」】17. キングス・バレー(King’s Valley) 上田和男(1986年) スコッチ・ウイスキー40ml、ホワイト・キュラソー10ml、ライムジュース10ml、ブルー・キュラソー1tsp ※1986年に開催された「第1回スコッチウイスキー・カクテルコンペティション」での優勝作品。作者の上田氏は、東京・銀座「Bar TENDER」のオーナー・バーテンダー。18. サケティーニ(Saketini) (1980年代半ば~後半に登場、考案者は不詳) ドライ・ジン40ml、日本酒(SAKE)30ml、オリーブ19. フォーリング・スター(Falling Star) 保志雄一(1989年) ホワイト・ラム30ml、パイナップル・リキュール15ml、オレンジジュース10ml、グレープフルーツジュース10ml、 ブルー・キュラソー 1tsp、レモンピールは星型にくり抜く。ブルー・キュラソーで銀河のようにコーラル・スタイルにしたグラスに ※1989年、日本バーテンダー協会主催の「全国バーテンダー技能競技大会」で総合優勝した際の創作カクテル。保志氏は現在、東京・銀座「バー保志」のオーナー・バーテンダー。20. チャイナ・ブルー(China Blue) 内田輝廣(1980年代後半〜1990年代前半) ライチ・リキュール30ml、ブルー・キュラソー10ml、グレープフルーツジュース45ml、トニックウォーター45ml(トニックウォーター無しのバージョンもある) ※ライチ・リキュール「ディタ(DITA)」の輸入発売スタートにあたり考案されたと伝わる。カクテル名は、中国の陶磁器「景徳鎮」の鮮やかな青色に由来するという。内田氏は富山市にある「バー白馬館」のオーナー・バーテンダー。21. ミルキーウェイ(Milky Way) 岸 久(1996年) ジン30ml、アマレット30ml、ストロベリークリーム・リキュール10ml、ストロベリー・シロップ15ml、パイナップルジュース 90ml ※1996年の「インターナショナル・カクテル・コンペティション(ICC)」ロングドリンク部門での優勝作品。岸氏は、東京・銀座「スタアバー」のオーナー・バーテンダー。ICCで優勝した日本人バーテンダーは岸氏が初めてである。22. オーガスタ・セブン(Augusta Seven) 品野清光(1997年) パッソア(パッションフルーツ・リキュール) 45ml、パイナップルジュース90m、レモンジュース15ml ※パッソア・リキュールの日本での輸入販売を開始するにあたり、オリジナルカクテル考案の依頼を受けた大阪の「バー・オーガスタ」オーナー・バーテンダー、品野清光氏が考案した。その後、人気漫画「バー・レモン・ハート」でも紹介されたことで全国的にも知られるようになった。【ご参考:拙Blog連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話:オーガスタ・セブン(Augusta Seven)」】23. スピーク・ロウ(Speak Low) 後閑信吾(2012年) ダーク・ラム50ml、ペドロヒメネス・シェリー5ml、抹茶1tsp、レモンピール ※2012年、「バカルディ・レガシー・カクテル・コンペティション」の優勝作品。後閑氏は日本人では、現在世界で最もその名が知られているバーテンダー。【番外編】・バンブー(Bamboo) 1890年、横浜外国人居留地にあった旧・横浜グランドホテルの支配人だった米国人、ルイス・エッピンガー(Louis Eppinger)氏が考案したと伝わる。 ドライ・シェリー50ml、ドライ・ベルモット20ml、オレンジビターズ(ステア)【ご参考:拙Blog連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話:バンブー(Bamboo)」】・ミリオンダラー(Million Dollar) 19世紀末または20世紀初めに、横浜グランドホテル内のバーで誕生? バンブーと同じエッピンガー氏の考案とも伝わるが、これを裏付ける文献資料は確認されていない。 ジン45ml、スイート・ベルモット15ml、パイナップルジュース15ml、グレナデン・シロップ、卵白(シェイク)【ご参考:拙Blog連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話:ミリオンダラー(Million Dollar)」】★こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2023/04/01
閲覧総数 6006
32

初めてお邪魔したのは、20年ほど前だったろうか…。一見すると、これと言って、店のウリや特徴があるような、ないような店だった。いわゆる普通のオーセンティック・バー。その店の名前は「蘭」と言った。 1958年オープンの老舗。そして銀座のど真ん中にあるのに、銀座のバーにありがちな気取ったところを、微塵も感じさせない店だった。それはおそらくは、マスター・田中達也さんのキャラクターに負うところが大きかった。 優しく、親しみやすく、気さくなマスターは、まだ銀座の敷居が少々高かった僕の緊張を、そのソフトで温かい接客で解きほぐしてくれた。以来、上京する機会があるたびに、時々お邪魔してきた(写真左=「蘭」のドアとサイン。昔と変わらないままだ)。 お値段も良心的で、僕にとっては銀座で安心して飲めるBARの1軒だった。10人も入ればいっぱいになるこじんまりした店。だが、居心地の良さは銀座でも群を抜いていた。 その田中さんが亡くなったというニュースを聞いたのは、6年前だったろうか。闘病生活を送りながらも、最後までカウンターに立ち続けたという。僕は、あのカウンターの中でよく客と一緒にグラスを傾けた田中さんの笑顔を思い浮かべた。 田中さんが亡くなってからしばらく、「蘭」からは足が遠のいた。マスターのいなくなった老舗バーは、いずれ消えゆく運命になるのでは…という先入観もあった(写真右=Bar「蘭」の店内。先日お邪魔した時は、奥さんのほか若いバーテンダーさんもいらした)。 しかし、数年前のある日、出張した東京で友人とBAR巡りをしていたら、何軒目かで友人が「蘭へ行きませんか?」と誘った。「えっ? もうお店なくなったって聞いたけど…」と僕。「いえいえ、奥さんと娘さんがしっかり店を守って、再開されてますよ」と友人。 そして、久しぶりに訪れた「蘭」。奥さんはもちろん僕の顔を覚えてはいなかったが、亡きご主人との話をすると、嬉しそうに顔を見せ、歓待してくれた。温かい家庭の応接間にいるような雰囲気は、変わっていなかった。 帰り際、奥さんは「08年にはお店の50周年ですから、必ず来てくださいね」と話した。「はい、必ず! でも、それまで待たなくてもまた来ますよ」と僕は応じた。愛されるBARには理由がある。「蘭」がある限り、僕はこれからも時々、この温かい空間に浸りたい。【Bar蘭】中央区銀座6丁目3-6 栄ビル2F 電話03-3571-3415 午後6時~11時 土日祝休 ノー・チャージが嬉しい!こちらもぜひ見てねー!→【人気ブログランキング】
2006/06/29
閲覧総数 645
33

神戸のオフィスに先日仕事で立ち寄った後、同僚らと中華街(南京町)で軽めの夕食。その後、1軒BARをはしごした後、僕は同僚らと別れて、ひとり南京町からさらに南の「海岸通」方面を目指した。 「あのBARは今どうなっているだろうか?」とふと、思い出したから…。「店じまいした」という噂あるが、それが本当かを確かめたかったこともある(写真左=こんな暗い路地の奥に素敵なBARがあるなんて…)。 神戸に行っても、この港に近いエリアまで来ることは今では少ない。オフィスや小さなブティックやカフェばかりで、夜は人通りの少ない、静かなエリアになる。 だが、昔、20数年前、神戸で仕事していた頃は、夜は結構華やかだった。外国人船員相手の酒場、いわゆる「外人バー」が数多く集まる歓楽街としても知られていた。 海外からコンテナ貨物船が着くたびに、陸(おか)に上がった船員たちが集い、店内からは賑やかな声が、さまざまな国の言葉で、表通りまで漏れ聞こえてきた。国籍はデンマーク、ノルウェー、スウェーデン、ギリシァ、イギリス、タイ、フィリピンが多かった。 表のドアに「日本人お断り」と掲げた店が多かった。日本人は船会社の関係者くらいしか出入りできなかった(店が、外国人船員と日本人客とのトラブルをおそれたためらしい。)。そんな「外人バー」の名残りを伝える酒場は、今では数えるほど。朝着いたコンテナ船が夕刻にはもう出港してしまう現在、船員たちは陸に上がって酒場に癒しを乞うこともできない(さびしい時代になった…)。 いま、元町界隈の酒場には外国人船員の姿はほとんどなく、BARで目立つのは日本の若者ばかり。かつての「外人バー」はさびれ廃れ、今残る店はほとんどが「日本人もウエルカム」だ(写真右=怪しげな灯りがいいなぁ、このエントランス)。 僕がこの夜思い立ち、向かったのは、そんな昔の「外人バー」の1軒、「チャーリー・ブラウン(Charlie BRown)」という店。通い始めたのは20数年前。マスターは、「キディ」という愛称のデンマーク人(男性)だった(本名は「キディ・プリスコフ(Kidde Priskov)」と言った)。 彼自身、デンマークの船会社の船員だったが、縁合って訪れた神戸を気に入り、そのまま居ついてしまったらしい(そういう外国人・元船乗りは神戸に実に多かった)(写真左=とりあえず通りに面した青いネオンが目印)。 中華街から南へ歩いて数分。一見さんは絶対に見逃しそうなビルとビルの間の実に細い、暗い路地の奥に、その酒場はあった。紹介者と一緒でなければ、勇気が出ず、とても入れないようなロケーションにある。 まさに「究極の隠れ家BAR」と出合い、僕は一目惚れした。キディは日本語は少しは話せるのに、無駄口も愛想もほとんどなしという静かな男だった。僕には、そんなキディの所作がとても格好よく映った。神戸を離れた後も、年に数回は、キディの顔を見に訪れた。決して珍しい酒があるわけでもない。ただその怪しげな空間が何よりも好きだった。だから、一緒に連れて来る人は、大切な人に限った。 そんな「チャーリー・ブラウン」だったが、突然の病(後に知ったが、白血病だったという)がキディを襲う。闘病中も時々店に出ていたが、少しつらそうな姿で接客していた。そして1994年、別れを言う間もなく天国へ旅立ってしまった。まだ50歳の若さだった。キディの早すぎる死は、この酒場を愛する人間に取って、むごすぎる現実だった。彼が入院中、そして亡くなった後もしばらくの間、彼の妹と言う女性がカウンターを守った。 さらにその後も、関係がよく分からない外国人男性が店を仕切っていたが、キディのいない「チャーリー…」には、しばらくは近づく気が起きなかった(写真右=ドアを入ってすぐ右にはキディが愛したジュークボックスが…今も)。 しかし、僕の若き日の思い出が染みついた「チャーリー…」。この夜に躊躇はなかった。随分と久しぶりなので、店への道順も若干忘れ気味だったが、何とかたどり着けた。 店には常連らしい年配の女性客が1人。カウンター内には、初めて見る高齢の女性が1人いた。頼んだウイスキー味わいながら、僕が昔、この「チャーリー…」によく通ったことやキディという名のマスターがいた思い出などを話した。 すると、その女性が僕に近づいてきて、「私、キディの妻だった人間です。律子と言います」と話した。生前、キディは家族などプライベートなことは一切口にしなかった。長く日本に定住していたので、考えてみれば何ら不思議ではないのだが、彼に日本人の奥さんがいたことは少々驚きだった。 聞けば、キディさんよりは9つ歳上で現在71歳という。シャイだったキディの思い出や近所の外人バーの「その後」などを語り合いながら、僕は律子さんと素敵なひとときを過ごした(写真左=上等な高い酒は置いてないけれど、実にあったかい雰囲気)。 「キディ、素敵な店を残してくれて有難う。貴方の残した財産は貴方の愛した人にしっかり守られ、今も輝いているよ」。帰り道、僕は天上のキディにそうつぶやいた。【Bar Charlie Brown】神戸市中央区海岸通1丁目2-15 電話なし 午後7時くらい~11時半 不定休
2006/10/19
閲覧総数 1685
34

バーUKにお越しになる若い世代のお客様から時々、「オーセンティック・バーのマナーとして絶対に知っておいた方がいいルールとかマナーはありますか?」という質問を受けることがあります。バーでのルールやマナーは、永遠に変わらないものもありますが、その時代に応じて変わるものもあります。 最近、SNS上でいろんな方々(オーセンティック・バーのマスターや通い慣れている年配のお客様など)から、ルールやマナーについて様々な投稿がありました。そこで、そうした投稿も参考にしながら私自身も、2022年の現在、世代に関係なく覚えておいた方がよいと考える20のルールとマナーを挙げてみました(他の方の提案で私も同意できるルールについては、ほぼそのまま採用させてもらっているものもあります)。 おそらく、これだけを覚えて実践すれば、貴方はきっとオーセンティック・バーで「大人」として丁重な扱いを受け、楽しく充実した時間が過ごせるはずだと信じています。 <知っておきたいバーでの大人のマナー20カ条>1.酒場に相応しい服装で出かけ、いつもより「ちょっとカッコいい大人」であろうと努力する。2.店に入った時、または席に着くまでに店主やスタッフと挨拶を交す。3.言葉遣い・会話は人格、品格を映す。丁寧な言葉遣いをし、場に相応しい会話内容に注意する。4.お酒は大切に、美味しい状態のうちに飲む。ショート・カクテルはだらだらと飲まず、1杯20分を目安に味わう。バーは無料の休息空間ではない。概ね30分に1杯は何か注文する。お酒を残すときはひとこと言い添える。5.バーテンダーの方を「バーテン」と呼ばない。「バーテンダーさん」と呼んであげよう(「バーテン」とは、80年代以前に客が使っていた「蔑称」であり、現代の仕事に誇りを持つバーテンダーは嫌がる呼び方である)。6. お酒の話で知ったかぶりをしない。知らないことは店主に聞く。7.マスター(バーテンダー)を一人で独占しない。お酒をつくっている時はできるだけ話しかけない。8.カウンターや棚のボトルは、勝手に手に取ってはいけない。手に取って見たいときは店主の許可を得る。9.カウンターには鞄などの物は置かない。また、できるだけ肘はつかないで飲む。10.店内で男女でベタベタしない(同行した人の身体には触らない。キスは店外でする)。11.会話の声の大きさに注意する。大声で喋らず、騒がず、静かに飲む。12.むやみに他の客に話しかけたり、他人の話に絡んだりしない、話題に入る場合も批判はしない。また、他の客をじーっと見ないこと(感じが悪いし、喧嘩の原因になることもある)。13.バーで異性を口説くのはご法度。バーはナンパの場ではない。14. 飲んでも飲まれるな。カウンターで眠らない、泣かない、吐かない。自分の適量を知り、ペース配分に気を付け、限度を守る。飲み過ぎたと思う時は、店に迷惑をかける前に素直に帰宅する。15.トイレの利用は短時間できれいに(次に待っている人がいます)。16.長居は無用。混んできて、満席になったら、新しく来た人に席を譲る。17. 喫煙はその店のルールを守り、許されている場合でも隣客に気遣い、煙の行き先を注意しながら嗜むこと(葉巻やパイプ煙草は臭いがキツいので店主の許可を取る。バーUKのように、店によってはNGである場合も)。18.携帯電話は基本、店内ではNG。店の外で使うこと。19.店内風景やボトル、カクテルなどを写真に撮る時は店主の許可をとること。フラッシュはたかない。20. できるだけ現金ですっきり払う(十分な現金の用意をし、割り勘でぐずぐずしない)。
2022/04/24
閲覧総数 1687
35

バーUKは本日7月19日(土)、通常通り(午後2時~7時半、ご入店は7時まで。午後7時でノーゲストの場合は、閉店します)営業致します。皆さまのお越しを、心よりお待ちしております。Today( July 19th )the bar UK is open from 2:00 to 7:30 pm( Your entry is until 7:00 pm ).#rokuなにわアンバサダー
2025/07/19
閲覧総数 52
36

75.ラスティ・ネイル(Rusty Nail)【現代の標準的なレシピ】(容量単位はml)スコッチ・ウイスキー(45)、ドランブイ(25)、氷 【スタイル】ビルド 「ラスティ・ネイル」は、1960年代初めに米国で誕生したと伝わるウイスキー・ベースのカクテルです。現代のバーでも、「ゴッドファーザー(Godfather)」(ウイスキー&アマレット)、「オールド・パル(Old Pal)」(ウイスキー&ドライ・ベルモット、カンパリ)とともに、ロック・スタイルのウイスキー・カクテルとして不動の人気を誇っています。 さて、ラスティ・ネイルの歴史を紹介する前に、このカクテルに欠かせない副材料、ウイスキー・リキュールの「ドライブイ(Drambuie)」について少し触れておきましょう。 「ドランブイ」は、このカクテル誕生よりも約200年以上前に生まれたとても古い歴史持つリキュールです。1745年に、スコットランド、ステュアート王家のチャールズ・エドワード・ステュアートは、フランスから支援の約束を取り付け、「英ブリテン王国軍」に対して王位継承権を争う戦を起こしました。しかしチャールズは、1746年にカロデンの戦いで大敗。スコットランドのスカイ島へ落ちのびました。 チャールズの首には多額の賞金がかけられましたが、チャールズはなんとかフランスへの亡命に成功します。その際、彼を護衛していた兵士に、褒美として王家秘伝の酒の製法が授けられました。この酒がドランブイだと伝わっています。もっとも、ドランブイが市販されるようになったのは1906年のことですが、この逸話にちなみ、今日でもドランブイのラベルには、"Prince Charles Edward's Liqueur"と印字されています(上記2段落の出典:Wikipedia日本語版)。 さて、現代では「ラスティ・ネイル」と呼ばれるスコッチ・ウイスキーとドライブイのカクテル自体は、1937年の英国産業博覧会(British Industrial Fair)のために、F.ベニマン(Benniman)というバーテンダーが考案したと伝えられています。当初は博覧会の頭文字から「BIF」と呼ばれていたそうです(出典:Wikipedia英語版)。 しかし、その後は米国内や世界各地の米軍基地内のクラブで普及し、その過程では、「D&S」とか「Mig-21」、「Knucklehead」など様々な名前で呼ばれてきました。「Rusty Nail」という名前で定着するまでには、さらに約25年かかりました。 著名なカクテル研究家・David Wondrich氏によれば、「ラスティ・ネイル」と名付けたのは、1960年代初めにニューヨークの社交クラブ「21 Club」で働いていたバーテンダーだということです。その名は、錆びた(ラスティ)釘(ネイル)のような赤茶色したカクテルのイメージから来たという説と、英国のスラングで「古めかしい物」という意味から来ているという説の2つがあります。 「ラスティ・ネイル」の名は、少なくとも1963年には定着していたことが、ドライブイの製造メーカーが当時、ニューヨーク・タイムズに出した広告からも確認できるとのこと(出典:同)。「ラスティ・ネイル」はその後、フランク・シナトラ、ディーン・マーチン、サミー・デイビス・ジュニアらが愛飲したことで全米で知名度を増していきました。 現代でもとても知名度があるカクテルですが、意外なことに、欧米のカクテルブックで紹介している例はそう多くありません。現時点で確認した限りでは、「Mr Boston Official Bartender's Guide(ミスターボストン・バーテンダーズ・ガイド)」(1935年初版刊)の1966年改訂版が欧米での初出例です。そのレシピは「スコッチ・ウイスキー4分の3オンス、ドランブイ4分の3オンス(ビルド)」となっています。 その後も、欧米のカクテルブックで「ラスティ・ネイル」を収録している本はそう多くないのですが、いくつか紹介しておきますとーー。・「Complete World Bartender Guide」(Bob Sennett編、1977年初版刊、1993年、2007年再版)米 スコッチ・ウイスキー1オンス、ドランブイ1オンス(ビルド)・「The Larousse Book of Cocktails」(1983年刊)仏 スコッチ・ウイスキー45ml、ドランブイ45ml(ビルド)・「Cocktails」(Hilary Walden著、1983年刊)英 スコッチ・ウイスキー3分の2、ドランブイ3分の1(ビルド)・「The Book of Cocktails」(Jenny Ridgwell著、1986年刊)英 スコッチ・ウイスキー45ml、ドランブイ45ml、レモンピール(ビルド)・「American Bar(シューマンズ・バーブック)」(Charles Schumann著、1991年)独 スコッチ・ウイスキー40ml、ドランブイ20ml(ビルド) ※2002年刊の日本語版あり ちなみに、氷なしでつくった場合は「ストレート・アップ・ネイル(Straight Up Nail)」と呼ぶそうです。また、ベースのスコッチ・ウイスキーをバーボンに代えると「ラスティ・ボブ(Rusty Bob)」、ライ・ウイスキーなら「ドナルド・サザーランド(Donald Sutherland)」、アイラ・ウイスキーなら「スモーキー・ネイル(Smoky Nail)」というカクテルになるとのことです(出典:Wikipedia英語版)。 「ラスティ・ネイル」は日本にも比較的早く、1960年代の半ばには伝わっています。67年刊行のカクテルブックに早くも登場しています(1964年開催の東京オリンピックの効果も大きかったのでしょうね)。【確認できる日本初出資料】「カクテル小事典」(今井清&福西英三著、1967年刊)。冒頭に掲げた標準的なレシピと同じ(ただし、作り方はステアのショート・カクテルスタイルと、ビルドでのオンザ・ロックスタイルの両方を紹介しています)。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2017/11/20
閲覧総数 1733
37

皆さま、お蔭様で、楽天Blog「酒とピアノとエトセトラ(Bar UK公式HP&Blog)」は本日(2017.10.29.)、トータル・アクセス数が200万件を突破いたしました。皆さまの長年に渡るご愛顧に、心より感謝を申し上げます。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2017/10/29
閲覧総数 106
38

転勤族にとって、その土地土地で暮らす楽しさはいろいろあるが、「食」の探求に加えて、僕は、方言とふれ合い、自分でも喋る面白さが好きだった。 かつて住んでいた徳島市では、阿波弁(徳島弁とも言う)が話されている。阿波弁と言っても、県内の地域によって、若干違いはあるのだが、有名なところでは、「~けんど」「~けん」に代表される語尾だ。(そう言えば、「けんど茶屋」という名前の居酒屋もあった)。 語尾の言葉も特徴的だが、接続詞の「ほなけん」(だから、だけど)、「ほなけんど」(しかし)なんて言葉も、頻繁に耳にする。女性は「です」の意味で、「~じょ」という言葉をよく使うが、これがすごく色っぽい。「ほうなんじょー」(そうなんですよ)と耳元で言われるととても艶っぽく、ゾクゾクっとする(と感じているのは僕だけかもしれないが)。 阿波弁は、関西弁とイントネーションはやや似ている。四国の他の3県と違って、関西の民放テレビすべての電波が届くという地理的な条件も影響したのかもしれない。だから徳島県人は、みんな小さい頃から「吉本新喜劇」を見て育っている(写真=徳島と言えば、やはり「阿波踊り」。老いも若きもお盆の4日間、踊って燃える)。 語彙にも関西弁と共通のものもたくさんある。例えば、「かく」(運ぶ)、「こすい」(ずるい)、「食べさし」(食べかけ)、「ちびる」(摩耗する)、「ちょける」(ふざける)、「なんぼ」(いくら)、「のーなる」(なくなる)、「見てくれ」(外見)、「よーけ」(たくさん)、「わや」(駄目、めちゃくちゃ)なんて言葉は、徳島の人は、阿波弁だと思っている人が意外に多いが、実は関西弁とほぼ同じ意味で、共に使う。 だから関西方面から転勤してきた場合、言葉の上では馴染みやすい土地とも言えるが、阿波弁でしか使われない意味で、使う言葉があるので要注意。 徳島へ転勤した僕が一番戸惑ったのは、ある病院に初めて行った際、看護師さんからいきなり、「せこいですか?」と聞かれた時。関西弁でも「せこい」という形容詞は使うが、「ケチ」とか「(お金に)きたない」「ずるがしこい」なんて意味でしか使われない。 しかし、徳島では(関西弁での意味で使うこともあるが)その「せこい」を、「苦しい」「しんどい」なんて意味で、かなり一般的に(!)使う。だから徳島でビジネスの相手から、「あんたの仕事もせこい仕事やねー」なんて言われても、決して怒ってはいけない。同情されているのだから…。 もう一つ忘れられない言葉。ある時、年配の男性2人連れAさん、Bさんと同席した。Aさんは「Bと僕はちんちんの仲ですけん」と僕に紹介した。僕の頭の中は混乱する。「えー! ちんちん??」。「この2人は、ひょっとしてゲイ友?」。 もちろん、そんな意味であるはずはない。答えを先に言うと、「ちんちん」とは阿波弁で「仲良し」という意味。ただし、このエピソードを徳島の30~40代の友人に話したら、「えー、そんな言葉、僕らの世代ではもう使いませんよー」と反応した。だから、阿波弁の「ちんちん」ももう死語になりつつあるようだ。
2004/12/20
閲覧総数 1948
39

先日、新聞を読んでいて、「方言の良さを見直そう」という特集に目が止まった。「お国言葉を守ろう」という運動も、各地で芽生え始めているらしい。そんな記事を読んでいたら、ふと脳裏に、かつて住んだ金沢で聞いた、 懐かしい言葉がよみがえってきた。「食べまっし(食べなさいね)」「あんやとね(ありがとうね)」「ゆーたがいや(言ったじゃないか)」……。 最近は、メジャーな映画でもセリフを方言にこだわった映画が増えてきているが、私は大賛成だ。コミュニケーションには共通語は大事だが、ふだん話言葉まで、標準語である必要はない。言葉はその地方の文化だ。その地域で、長年育ってきた人々の歴史であり、命のようなものだ。どこへ行っても標準語だったら、まったく味気ないではないか。 私は社会人になって初めて地元(実家)を離れ、北陸の金沢(写真左は、金沢のシンボル、兼六園)で一人暮らしを始めた。金沢は、ご存じのように加賀藩前田家・百万石の素敵な城下町だ。戦災(空襲)に遭わなかったおかげで、藩政時代の面影をよくとどめている。 前田の殿様は文化・工芸の振興に熱心で、このため、加賀宝生流の能楽が生まれ、友禅、金箔、蒔絵、九谷焼、輪島塗などという全国に名だたる工芸品も発展した。 金沢弁(加賀弁とも言うが、厳密には違う)が、どういう発展の経過をたどったのかは、言語学者でないので詳しくは知らない。お隣の富山や福井ともちょっと違う。同じ石川県でも、金沢地方と、加賀地方、それに能登地方ではまたかなり違う。能登は海を通じた交流のせいだろうが、山陰地方の方言とかなり似ている部分もある。 イントネーションは関西弁に近い部分もあるが、表現や単語(語彙)に共通するものは、数えるほど。思いつく言葉では「なんなん?」(何なの?)、「~ねんて」(~ですよ)、「いきしな」(行く途中)くらいか(これらは、なぜか関西弁でもまったく同じだ)。 イントネーションが近いのは、おそらくは航空機による行き来がまだ盛んでなかった頃、JR特急「雷鳥」(今は特急「サンダーバード」)による関西圏との経済的な結びつきが強くて、人の行き来が関東圏より関西圏が多かった影響もあるのかもしれない。 金沢弁と言えば、まず「~まっし」(~なさい)という接尾語が有名。「来まっし」「見まっし」「食べまっし」と、日常的に頻繁に耳にする。「~がや(なのです)」「~やぞ、~ぞいや(なのだよ)」「~うまいじ(うまいね)」「~ねーじ?(ないね?)」など語尾に濁音も多いのも特徴。 少し間延びした喋り方も独特だ。例えば、「あのぉ~ん、野村せ~んせ~い、きのお~う、会えんかった~からぁ~」なんて、いらちの大阪人が聞いたら「はよ言わんか」と怒りそう。僕は、若い女性に優しい声で耳元で、こんなしゃべり方されたらもうメロメロだったが…。 日常の単語でも、標準語とは少し違うものがあった。例えば、「きのどくな」=ありがとう、「あたる(あたった」=もらう(もらった)、「がんこな!」=すごいことだね!、「曲がらん」=曲がるよ、「こけ」=きのこ……。 またまったく独特な言い方をするものも。例えば、「な~ん」=いいえ、「あおくさ屋」=八百屋さん、「おかべ」=豆腐、「かいぶし」=煮干し、「おあんさん」=ご主人、「かーか」=お母さん、「にゃーにゃ」=娘さん、「おゆるっしゅ」=じゃぁね、よろしくね、「いじるかしい、いじくるしい」=面倒な、「かたがる」=傾いている、「1題目」=1番目……(もっとも、テレビや学校で標準語に慣れ親しんだ今の若い世代ではあまり使わないかもしれないが…)。 とくに同じ単語でも、使い分けが難しいものがあった。「おいでる」という動詞。とくに電話でのやりとりだと要注意だ。「**さん、おいでるか?」という電話があると、それは、「いらっしゃるか?(在席ですか?)」という意味。しかし、「これからおいでるか?」となると、「(こちらに)お越しになるか?」と聞かれている意味。稀に、「**さん、そちらへおいでるよー」と使う人もいる。こうなると、「(そちらへ)行くよー」という意味。 英語でいう「Be動詞」と「COME」の両方の意味で使い、前後関係で意味が変わる「おいでる」。今となっては懐かしい思い出だが、最初はよく間違って、行き違いの原因にもなった。 笑い話では、僕の経験談ではないが、酒席で相手から「はよ、しねま!」と言われて、険悪な雰囲気になったなんて話も聞いた。これは、金沢弁ではなく、石川県でも加賀地方の言葉らしいが、「早く、しなさいよ」という意味。突然言われた方は、そりゃ怒っただろうなぁ…。 金沢には5年暮らした。僕には第二の故郷…。あの冬の陰鬱な空もよく知っている。「雪国暮らしで、あれだけが、どうしても嫌」と言う人もいたけれど、僕はそれでも、金沢と同じくらい、金沢弁を愛している。
2005/02/14
閲覧総数 2094
40

20.カイピリーニャ(Caipirinha)【現代の標準的レシピ】カシャーサ(ピンガ、アグエルデンテ、カニーニャなど他に様々な呼び方もある)(45~50)、ライム(1個分)=8等分にカット、シュガー・シロップ1tsp、クラッシュド・アイス 【スタイル】ビルドまたはシェイク カイピリーニャは、ブラジルを代表する国民的なドリンクですが、近年は欧米のみならず日本でのバーでもかなり知名度の出てきた、爽やかな柑橘系の味わいのラテン・カクテルです。 発祥は、ポルトガルの植民地だった16世紀と言われています(出典:Wikipedia英語版ほか)。現代に近い形のカイピリーニャは19世紀半ばに遡り、カクテル史に詳しい米国のバーテンダー、ジム・ミーハン氏によれば、「(ベースの酒である)カシャーサの産地のパラチーで見つかった1856年の文書にカイピリーニャのレシピが確認されている」とのことです(出典:Meehan's Bartender Manual)。また、(裏付け資料は明示されていませんが)1910年代、サンパウロ州ピラシカーバという町で風邪薬代わりに生まれたドリンクが起源だと伝わっています(出典:http://blog.goo.ne.jp/catmananfa/e/ほか)。 「カイピリーニャ」は、かつては「カイポーラ(Caipora)」(ポルトガル語で「田舎者」「田舎に住む人」の意)、または「カイピーラ(Caipira)」と呼ばれていました(※「カイピーラ」はインディオの言葉<トゥピ語>のクルピーラ<Curupira>に由来し、元々は「森の守護神」の意。現代では、「内陸部に住む人のこと」を差す言葉として使われていたと言います)(出典:http://tabatashingo.com/top/caipirinha/ほか)。 しかし、若い女性がつくることが多かったため、その後、「カイピリーニャ」(「田舎娘」「田舎のお嬢さん」の意)と呼ばれるようになり、この名で定着したようです(出典:Wikipedia日本語版のほか、 http://blog.goo.ne.jp/catmananfa/e/ にも)。なお現代のブラジルでは、「田舎者」という意味で使うことはほとんどなく、このカクテルそのものを指すということです(出典:Wikipedia英語版)。 ベースのお酒「カシャーサ」はサトウキビから造られたブラジル特産の蒸留酒で、ラムに近いスピリッツです。ラムはモラセス(廃糖蜜)から造られるのに対して、こちらは生のサトウキビの絞り汁を加水せずに直接発酵させ、蒸留して造ります。ラムよりも濃厚で風味豊かなホワイト・スピリッツです(出典:「Cachasa」のWikipedia英語版)。 このカクテルが世界的にブレイクしたのは、カシャーサがブラジル国外へ広く輸出されるようになった90年代に入ってからです。それゆえ、欧米のカクテルブックで紹介している本は、近年までほとんどありませんでした。現時点で確認した限りでは、「ニューヨーク・バーテンダーズ・ガイド」(Sally Ann Berk著、1995年刊)が欧米での初出文献で、他に掲載例が確認できたのは「クラフト・オブ・ザ・カクテルズ(The Craft Of The Cocktails)」(Dale DeGroff著、2002年刊)、「カクテルズ(Cocktails)」(James Butler & Vicki Liley著、2007年刊)等です。 プロのバーテンダーなら、ベースをカシャーサの代わりにウオッカを使えば、「カイピロスカ」という名のカクテルになることは常識かもしれませんが、ラムをベースにすれば、「カイピリッシマ」というカクテルになります。また、近年ではライムに加えて(あるいはライムの代わりに)、様々なフルーツ(パッション・フルーツ、キーウィ、イチゴなど)を使う様々なバリエーションが登場しています。 日本には、1970年代以降に伝わったと思われますが、街場のバーで認知され始めたのは90年代以降です。ブラジル生まれということもあって知名度はいまいちだったのですが、ラテン・アメリカ圏のカクテルがポピュラーになってきた近年、日本のカクテルブックでも掲載される機会は多くなっています。 【確認できる日本初出資料】HBAバーテンダーズ・オフィシャル・ブック(HBA編、2006年刊)(※もし、1970~90年代の日本のカクテルブックで紹介している例をご存知の方があればぜひご教示ください → arkwez@gmail.com までお願いします)。・こちらもクリックして見てねー! → 【人気ブログランキング】
2016/12/15
閲覧総数 695
41

写真で振り返る成田一徹さんを偲ぶ会(2013.1.27.@神戸市東灘区・甲南大学平生記念セミナーハウス)の最終回です。引き続き、公式記録カメラマンをつとめてくれたSさんの写真で振り返ります。 ※なお、この写真には著作権((C)成田一徹作品保存委員会)があります。無断転載・利用は固くお断りいたします。
2013/02/05
閲覧総数 86
42

サントリーの角瓶の復刻版ボトルが最近また発売されたので、早速少し買ってみました。この復刻版ボトルは5年ほど前にも一度限定発売されたことがあり、その時も購入しましたが、いまだにもったいなくて飲めていません(笑) さて、今回の復刻版を買って、改めてボトルを見て、驚きを通り越して、少し悲しくなったことがあります。ボトルの裏側のラベルの表示です。 製造者と住所の表示ですが、5年前の復刻版(写真の右)にはちゃんと「製造者・サントリー株式会社 大阪市北区堂島浜2丁目」となっていたのに、今回の復刻版(写真の左)では「製造者・サントリー酒類(株) 東京都港区台場2丁目」と記されているではありませんか! 大阪発祥のサントリー。現在でも商法上の本社(登記)は、大阪本社に置いていると聞きます(東京の台場は社内では「ワールド・ヘッドクォーター」という位置付けだそうです)。大阪で生まれた角瓶の「復刻版」ということであれば、やはりラベルの製造者や住所表記は、5年前と同じにしておくべきだったでしょう。 サントリーもご多分にもれず、会社の主要機能は事実上、東京へシフトしてますが、「創業の地(原点)」とか「大阪で創業した誇り」を忘れる姿勢が情けないです。このラベル表示に、社内で異議を唱える人は誰もいなかったのでしょうか? Barのマスターの皆様、もしサントリーの営業の方が店に立ち寄られたら、貴社と貴社のウイスキーを愛し、こういう思いを持っている人間もいることをぜひお伝えください。 PS1.最近購入した通常の角瓶の裏側を見たら、すでに表記は「サントリー酒類(株) 東京都港区台場2丁目」でした。いつから表記変わったんでしょうかねぇ…。 PS2.詳しい友人に聞いたところ、2009年に持ち株会社と子会社に分離して以来、持ち株会社のサントリー・ホールディングスのみ大阪に本社を置き、それ以外はすべて東京へ登記も移したそうです。従って、ラベルの表記も2010年くらいには変わっていたのか。気が付きませんでした。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2012/05/02
閲覧総数 1786
43

北海道・札幌市。日本有数の大都市であり、「ススキノ」という大歓楽街を抱え、歴史と伝統のあるBARも多い。 日本全国のBAR巡りを続けている私だが、大都市の中でも、まだほとんど足を踏み入れてなかった街だった(写真左=札幌最大の歓楽街「ススキノ」のシンボル、ニッカのヒゲのおじさんのネオンサイン)。 そんな札幌に、先週末お邪魔してきた。札幌を訪れるのは3度目だが、過去の2回はBARを巡る余裕がなかった。「この地のBARを訪れずしてはBARフリークとしての名がすたる」。そんな思いを長年ずっと抱いてきた。 で、満を持しての札幌のBAR巡りである。1軒目として選んだのは泊まったホテルからも程近い、Bar・Adonis(アドニス)=写真左下。 マスターのTさんは、同じススキノの「ラルセン」という老舗BARで修業された後、1991年に独立された(写真右=BAR巡りの前にはまず腹ごしらえ。豪華な海鮮丼で腹一杯!)。 聞けば、僕同様、全国のBAR巡りが好きな友人とも顔見知りで、僕が大阪でよくお邪魔するBARのマスターとも親しいということで、親近感がぐっと沸く。 BAR巡りのスターターの一杯はいつものように、ジン・リッキー。旨いジン・リッキーは気持ちを爽やかに、そして気分を高揚させてくれる。 「今夜は何軒回るの?」と聞かれて、「少なくとも5軒が目標です」と言うと、「頑張ってね。札幌の夜を楽しんでよ」との優しいお言葉。迷わないようにと、行く予定の店々の地図まで書いてくれた。 店内の「音(音楽)」が温かい感じだなぁと思っていたら、真空管アンプだという。「お客さんが作ってくれたんですよ。その棚の上の樽のスピーカー(写真右)も」とマスター。 なるほど道理で、普通のアンプの音ではないと思った。「いいBARにはいいお客さんが集う」ってことの証かも。 2軒目。Adonisからそう遠くないビルの5階。迷わずにたどり着けた(Adonisのマスターの地図に感謝!)、目指すBARの名は「PROOF」=写真左。 優しい笑顔が自慢のマスターのNさんは、札幌の老舗中の老舗BARである「やまざき」のご出身。大阪からBAR巡りに訪れた旨を告げ、きょう訪れる5軒のBARの名を口にすると、「5軒の中に選んでもらって光栄ですよ」との嬉しいお言葉。 Nさんも独立されたのが90年で、Adonisとは1年違い。しかし、わずか17年で風格ある本格BARに育てあげられた(写真右=Bar PROOFの壁に掛かる油絵はなんとBarやまざきの山崎さん作)。 時間が早く、客は僕一人だったこともあって、Nさんはずっと僕の相手をしてくれたが、とにかくよく喋る、喋る。客をとことん歓待しようというホスピタリティにあふれた人だ。 「Nさんはどちらかと言えば、大阪のバーテンダーっぽいですよね」と言うと、嬉しそうに笑った。気さくな人柄に馴染んで、時間を忘れそうになったが、まだ予定があるので、後ろ髪を引かれる思いで、店を後にする。 さて、3軒目。そろそろ8時過ぎ。先ほど少し触れた札幌を代表する老舗BAR「やまざき」(写真左)にお邪魔する。 1958年(昭和33年)の開業。マスターの山崎達郎さん(写真右)は御歳、87歳だが、とてもそんな歳には見えない。耳は少し遠いけれど足腰は丈夫で、歩くスピードは40代の男性と変わらない! 「やまざき」の名物は、山崎さんの特技でもある「顔のシルエットの紙切り絵」。白い画用紙をはさみ1本で巧みに切り抜き、客の横顔の造っていく。 シルエット絵は2枚重ねの紙で切り抜かれ、1枚は黒い画用紙の台紙に張って客にプレゼントしてくれる。 そして、もう1枚はお店のアルバムに保存される。アルバムに張る1枚には「名前を書いといてね」とペンを渡された。僕の横顔(写真左)が「やまざき」の歴史の1ページに残されると思うと嬉しい限り。 最近はほとんどシェーカーを振らないと聞いた山崎さん。だが、この夜は、「オリジナル・カクテルを何かお願いします」と頼むと、「インバネス」という名のカクテルをシェークで作ってくれた。 スコッチウイスキー・ベースにドライ・ベルモット、アクアヴィット、ブルー・キュラソーを加え、ボディのしっかりした爽やかな味わい。滅多に振らない山崎さんのシェークを間近で見られた僕は幸せ者かも。 山崎さんはこの夜、すこぶる機嫌が良かったのか、カウンターの上で、もう一つの特技(僕は知らなかったが)であるトランプ手品まで披露してくれた。札幌のバーテンダーはとにかく客を喜ばせる術を知っている。 幸せな気分に包まれながら、次なる酒場に移動へ。4軒目は、ススキノのメインの交差点角のビル8階にある、Bar・コオ(KOH)=写真左。ここも老舗BARの1軒と聞いていた。 扉を開けると、週末の夜9時半すぎとあって、超満員の賑わい。従業員の皆さんも大忙し。幸い、カウンターに1席空いたとのことで、腰を落ち着けることができた。きょうはどこを回ってもツイている。 73年のオープンで、ススキノの盛衰をずっと見てきたマスターOさんは、白いバーコートがよく似合う、柔和な感じのベテラン・バーテンダー。店も明るい雰囲気で、ノーチャージというから嬉しい。 この夜は超満員とあってかマスターのOさんは接客で忙しく、あまりお話はできなかった。帰り際、「お構いできなくてすみません」と見送ってくれた。まぁ、BAR巡りをしているとこういうこともある。「コオ」の雰囲気を味わえただけでも良かった。 さて、札幌の第一夜の締めのBARは、「やまざき」出身で、バーテンドレスでもあるNさんが開く「ドゥ・エルミタージュ」へ(写真右)。 82年に独立されたNさんは、おそらくは、札幌のバーテンドレスのなかでも先駆者だと思うが、身のこなしでも、風格があふれる。もう夜の11時近くだが、ここもほぼ満員(写真左=Nさんと記念のツー・ショット)。 「タクシーで帰っても千円くらいのところにみんな住んでいるから、安心して飲めるんですよ」と、あるマスターが言っていた。地方都市なら分かるが、札幌は大都市なのに、羨ましい限りだ。 店は「コオ」とは逆に、ライティングは極力抑えた、大人のムード。カウンター席にはだから、カップルも多い。そんな中で、僕はこの夜の締めの1杯目にまず、モスコー・ミュールを頼む。 Nさんに「大阪から来て、BAR巡りをしてまーす。5軒目です」と言うと、「5軒も!凄いですね。お酒強いですね」と笑って一言。自分では、顔にも出るし、決して「強い」とは思わないが、結構長くしぶとく飲めることは飲める。 2杯目にはアイラのヴァッディド・モルト(写真右=モルトも充実!)を飲みながら、Nさんと、お師匠である山崎さんのことや、ご主人が営むという仙台のBARの話などで盛り上がって、夜は更けていった。 札幌のバーテンダーの皆さんはとにかく、気さくで親切。ひと言で言って、旅の人間をもてなす「ホスピタリティの固まり」という人たちばかりだった(お値段も随分サービスしていただいて感謝感激!)。 翻って、銀座や大阪・北新地のBAR(バーテンダー)はどうだろうか。他の土地から訪れた旅人たちに、「いい思い出」を持ち帰ってもらう努力を十分やっているだろうか(老舗でも、不快な印象を与えがちなBARもある)。札幌の業界人に学ぶところが多いと思った夜でもあった(写真左=最後の締めには、やはり味噌ラーメン。「三極」というお店。結構好みの味でした)。 【Bar Adonis】札幌市中央区南四条西5丁目、第4藤井ビル4F 電話011-219-0456 【Bar PROOF】同南三条西3丁目、都ビル5F 電話231-5999 【Bar やまざき】同南三条西3丁目 克美ビル4F 電話221-7363 【Bar コオ】同南四条西3丁目、すすきのビル8F 電話531-2801 【ドゥ・エルミタージュ】同南三条西4丁目、南3西4ビル10F 電話232-5465(営業時間、定休日等は各店へお問い合わせください)こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2007/04/16
閲覧総数 4687
44

吉田バーと言えば、誰もが認める大阪屈指の老舗BAR。大阪の旅行ガイドブックなら、まず例外なく紹介されるBARだろう。昭和6年(1931)の創業。ことし75年目を迎える。 創業当時は現在地(道頓堀川の南側、御堂筋から西へすぐ)より少し東方の、千日前という処にあったが、戦後、今の場所に移った。チーク材をふんだんに使った落ち着いた内装。長年集められたミニチュア・ボトルが棚狭しと並べられ、座れば少しきしむカウンターの椅子も歴史を感じさせる(写真左下は、店内カウンター席の様子)。 初代オーナーの吉田寿二さんは、もともと繊維関係の仕事をしていた。ところが、第一次世界大戦後の不況の余波で、経営していたメリヤス問屋を閉めざるを得なくなった。舶来のものに関心が強かった吉田さんは、当時まったく新しい業種であった、バー経営で再出発しようと心機一転、決意する。それが「吉田バー」の始まりである。 昭和初期、洋酒を仕入れるのは大変な苦労だったに違いない。だが研究熱心で、努力家の吉田さんを、常連客は海外出張の折などに珍しい洋酒を買ってきたりして支え、店は順調に発展してきた。 2代目オーナーとなった息子の芳二郎さんは、昭和26年(1951)、24歳から父親と一緒にカウンターに立ち始めた。芳二郎さんも、父親以上に研究熱心だった。その成果は、「洋酒入門」「洋酒入門2」(1968年、保育社刊)という2冊の著書に結実している。 実は意外と知られていないのだが、芳二郎さんは下戸で、お酒がほとんど飲めなかった。にもかかわらず、今も版を重ねる歴史的な本を著したのは、立派と言うしかない。本が出版された昭和40年代前半は、おそらく日本にはまともなカクテル・ブックなどなかった時代。年配のバーテンダーやBAR好きの方で、この芳二郎さんの本にお世話になった人も多いだろう。 残念ながら、芳二郎さんは2001年5月に78歳で亡くなられた。僕は初代の寿二さんは存知あげないが、芳二郎さんの仕事ぶりは、僕がBARで酒を飲み始めてからはずっと見続けてきた。いつも背筋をぴんと伸ばし、カウンターに立っていた芳二郎さん。無駄口はほとんど言わず、真面目で実直な人柄は、誰からも愛された。 店はいま、芳二郎さんの長女の啓子さんが3代目を継ぎ、カウンターを守る。長い歴史を持つが故、当たり前だが、常連客の年齢層は高い(50歳以上の比率がとても高い)。3世代で通うというファンも少なくない。店は一応午後4時開店だが、3時半くらいから常連客が集まり始める。そんなせっかちな客たちを、店は嫌な顔一つせず迎え入れるから、不思議なBARだ。 客たちは、BGMのない静かな店内で、新聞を読みながらウイスキー・グラスを揺らし、琥珀色の美酒を口に運ぶ。ミナミの繁華街の喧噪(けんそう)は、店の中までは聞こえない。吉田バーには今日も、昔と変わらぬ、ゆったりとした時間が流れている。【吉田バー】大阪市中央区難波2-4-6 電話06-6213-1385 午後4時~10時 第2・4土曜と日祝休
2005/03/28
閲覧総数 7626
45

京都・四条河原町からすぐそば、西木屋町の高瀬川の畔(たもと)にそのBARはある。店に入ると木屋町界隈の喧噪はほとんど聞こえず、ただゆるやかに川の流れる音が、かすかに耳に入る程度。 店内には音楽もなく、静か。白いバー・コートと黒の蝶ネクタイのマスターの飛鳥成昌さんは、客に媚びを売ったり、愛想を振りまいたりする訳でもなく、ただただ淡々とカウンターの内側で仕事をこなす。 誰もが納得できる老舗の風格が漂うが、格好を付けたところは微塵もない。飛鳥さんの人柄と落ち着いた雰囲気に惹かれた常連客が、今夜も早い時間からカウンターを賑わせる。 店内に聞こえるのは、客のやや控えめな話し声と飛鳥さんが「仕事する」氷や包丁の音だけ。そんな静寂に包まれて、僕はジン・リッキーを啜(すす)る。とくに名物の酒がある訳でもない。ただ、普通のカクテルを真面目に美味しく作ってくれるだけ。 BARの名は、マスターの名前をそのままとり、「飛鳥」と言う。迂闊(うかつ)にも、いつ開業したのかという大事なデータをいつも聞き忘れてばかりだが、マスターの年齢からすると、おそらくは、この地でもう30年以上の歳月は流れているに違いない。 河原町と祇園に挟まれたロケーションが絶妙。ここからは、京都のどこへでも2軒目へハシゴできる。店の格子窓からは高瀬川沿いのサクラ並木も見える。春はさぞかし絶景が楽しめるだろうが、残念ながらサクラの季節にはお邪魔したことはない。 来るときは「いつも突然」。先日も訪れたのは「十三トリス」の50周年記念パーティーのお流れだった。でも、そんな突然の来訪にも、飛鳥さんはいつもにこにこして温かく迎えてくれる。飾り気とは無縁の、物腰の柔らかい接客である。 最後に僕らはお勘定のの際、その良心的なお値段に驚くことになる(毎回驚くから、情けないね)。「いいのかなぁ、こんなに安くて…」といつも飛鳥さんに感謝する(ちなみにノー・チャージです)。僕らは「マスター、今日も有難う」と言って、店を後にする。 「よそ者には敷居が高い」と、京都という街はよく批判される。しかし、「飛鳥」に関してはそんなことは全くない。「地の人間」であれ、「旅の人間」であれ、ここでは平等に温かく扱われる。それが嬉しくて、僕はこの「飛鳥」に通う。 もし京都に旅される機会があれば、ぜひ「飛鳥」に一度足をお運びを!(19日の日記で紹介した「Abuはち」に通じるものがある、素敵なBARです)。【酒司・飛鳥】京都市中京区西木屋町四条上ル三筋目角 電話075-255-4725 午後5時~11時 第3水曜休 阪急・四条河原町駅から徒歩数分です。・こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2006/07/28
閲覧総数 1552
46

いくらでもお金を出せるなら、美味しい和食は間違いなく味わえる。ただし例えば、あのミシュランがこのほど発刊した「京都・大阪版」で「3つ★」を付けた5軒の和食店(「吉兆・嵐山店」「つる家」「菊乃井・本店」「瓢亭」「千花」)はほとんどが、夜の食事の予算が1人3万円以上の店ばかり。我々庶民が気軽に行けるような場所ではない。 加えて言えば、そのような超高級料亭では、その料理だけでなく、その建物や室内の置物・飾り物(貴重な骨董が多い)、器(これも言わずもがなで高価だ)、雰囲気、接客などすべてのサービスに対する対価を払うことになる(それは「当たり前だ」と言われたら、あえて反論はしない)。 うらんかんろは、そうしたトータルで対価を求められる超高級料亭よりも、どちらかと言えば、我々庶民でも少しばかり貯金をすれば「ハレの日」に楽しめる、予算は(夜に飲んで食べて)1人1~2万円くらいの店で、優れた「QOC」(クオリティ、オリジナリティ、コストパフォーマンス)を持った店を探すのが好きだ。建物の由緒や室内の置物などはさほど気にしていない(※もちろん予算1万円以下の和食店でも優れた「QOC」の店はあるが、ここでは一応1~2万円の店に限っての論評。その辺りはお許し願いたい)。 ここで僕が言う「クオリティ」とは、味と材料のレベルの両方についてのクオリティであり、「オリジナリティ」という言葉には、見た目も美しいという、「アーティスティック!」という賛辞も含まれる。 そうした「QOC」で強烈な印象を与えた店と出会ったことは、これまでの人生で2度(2軒)あった。1軒は京都の「桜田」(奇しくも、ミシュランでも「2つ★」として紹介されているが、僕にとっては「3つ★」以上の店である)。もう1軒は大阪ミナミの「桝田」である(こちらもミシュランに選ばれ、「1つ★」)。 いずれの店にも共通して言えるのは、上記の「QOC」(クオリティ、オリジナリティ、コストパフォーマンス)が極めて素晴らしいという点である(ちなみに両店とも夜なら1人2万円以内で十分満足が得られる料理が楽しめる。※両店については別の機会にまた詳しく紹介したい)。 上記の2店に出会ったのは、「桜田」についてはもう15年も前(店主の桜田五十鈴さんとは、神戸ポートピアホテル内の「招福楼」にいらした頃からの付き合いです)、「桝田」は5、6年前だ。その後は、「なかなかそういう強烈な印象の店に巡り合えないなぁ…」と思っていたら、先般久々に、僕の「QOC」に値する店と出合った。 その店の名は神戸・三宮の「植むら」。さまざまな雑誌や実際に行かれた方の高い評価は聞いていたので、僕の期待は裏切らないとは思っていた。しかし訪れて味わうと、これはもう大きく期待以上の味と芸術性&オリジナリティに、はっきり言って唸った。 当日頂いた料理(10月の訪店)をとりあえず紹介しておくと(少し長くなりますが…)、1.「座付」くみあげ湯葉とツル紫のモロヘイヤソース、2「八寸」菊葉とんぶり和え、紫ずきん、川津海老、松葉茶そば、絹かつぎ、紅葉煎餅、秋刀魚手まり寿司、銀杏松葉刺し、梅貝旨煮、葉唐辛子、3.「椀代わり」車海老・ハモ団子、なめ茸、丹波黒古地、四方竹の土瓶蒸し、4.「向附」伝助穴子の千草和え 5.「焼肴」秋鮭の西京焼き、めふん・酢蓮根添え、6.「強肴」ズワイ蟹・面詰め、7.「揚物」秋野菜の天ぷら(秋茄子、鳴門金時、四角豆、菱の実)、8.「御飯(土鍋)」讃岐合鴨米、おかずには筋子醤油漬、鰯紅梅煮、大根、昆布佃煮、肉味噌、9.「止椀」赤出汁(浅利、あおさ海苔、ミョウガ)、10.「甘味」無果花おしるこ。 残念ながら、文字であれこれ説明しても味までは伝わらないと思う。これは、実際に味わって五感で理解してもらうしかない(お許し願いたい)。しかし、それぞれ工夫を凝らした絶妙の一品であることは確かである。お酒も珍しい、こだわりの日本酒をあれこれ揃えていて、ぐい呑み(おちょこ)も50種類くらいから選べるのが楽しい(左の写真は、天ぷらのネタの秋野菜たち。四角豆とか菱の実は初体験でした)。 とりあえず当日撮った写真をいくつか少し載せておくので、料理の雰囲気をある程度つかんでいただきたい。写真を見ただけでもきっと、素晴らしい「QOC」が垣間見れると思う(とくに上から2枚目の写真=「八寸」の盛り付けの素晴らしさには貴方も絶句するだろう。ちなみにこの大皿は3分割でき、再び合体も可というユニークなもの)(写真右は、ご飯に添えられた充実のおかず)。 「植むら」は大将と従業員(この方)の2人でされていて、この2人の連携が抜群。料理が出てくるタイミングも、心憎いほどちょうどいい。加えて、一品、一品の料理や材料について、丁寧に説明してくれる気さくさも嬉しい。 皆さんも三宮にお越しの節は、ぜひ「植むら」の素晴らしい料理を自分の舌で味わって頂きたい(カウンター8席だけのお店なので、予約は必須。ぜひ事前に席を確保してからお出かけを!。予算の目安は、飲んで食べて1人1万円~1万5千円ほどです)。【植むら】神戸市中央区中山手通1丁目24-14 ペンシルビル2F 電話078-221-0631 午後6時~午前0時 不定休 JR三ノ宮駅、阪急・阪神三宮駅から北野坂を北へ徒歩5分ほど(※来春辺りに近場で移転されるそうです)こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2009/12/15
閲覧総数 1348
47

今回は、かなり関西(大阪?)ローカルなテーマなので、関西以外の方は(読んでもたぶん面白くないから)読み飛ばしていただいて結構でーす。 関西では新聞やテレビのニュースでもよく報道されていたけれど、大阪・梅田の阪急百貨店内にある旧・阪急梅田駅舎コンコースが、百貨店の改築のため取り壊されることになった。 見納めになるという13日の夜、僕は会社帰りに立ち寄り、デジカメで写真に収めた(写真左)。僕と同じようにデジカメや携帯で思い出に残そうという勤め帰りの人たちが、想像以上にたくさんいた。改めて、この空間はみんなに愛されていたんだということを確認した一瞬だった。 梅田と言えば、大阪最大のターミナルであり、いわゆる「大阪キタ」の中心地。JR(大阪駅)、阪急、阪神、地下鉄という4つの鉄道が結節し、百貨店は阪急、阪神、大丸という3つの大手が顔を付き合わせる、大阪市内最大の繁華街(近い将来には三越もできる)。 京都生まれで、大阪育ちの僕は、子どもの頃、京都市内の祖父母の元へ行くのに、いつも阪急京都線を利用した。当時は(現在の四条河原町とは違って)四条大宮が終点で、いつも阪急の梅田駅から特急に乗った。そして、当時の改札口は、今回の改築でなくなるコンコースの中央にあった。 現在の阪急梅田駅のホーム&改札口は、70年代の大改造で、昔の場所より300mほど北に移された。だから、この旧コンコースは、昔の駅舎の面影を伝える唯一の証人。会社の若い同僚に、そういう話をしても「へーっ、そうやったんやー」と驚くだけ。僕は今でも、この場所に立つと、昔懐かしい改札口の風景がよみがえる(写真右=阪急百貨店&阪急梅田駅。昭和4年=1929=の建築。外壁のゆるやかなカーブが美しい)。 60年代半ばまでは、梅田駅を発車してわずか数分もすれば、まだあちこちに田畑が広がっていた。車窓から見る、今のヤンマーの本社ビルの周辺や、梅田ロフトの辺りは、ほとんど何の建物もなかった。 梅田の駅前にも、戦後の焼け跡闇市の名残がまだあった。阪神百貨店の南側には、区画整理の及ばない、小さな店がひしめく怪しい一角があり、僕はよく探訪した(その一角も10年ほど前についに一掃された)。 そんな梅田(大阪駅)界隈も、この数年で相当様変わりしようとしている。時代が変われば、街の風景も変わるのは当たり前だけれど、当時の、あの猥雑な梅田の面影を残すエリアも、、今では、曽根崎・お初天神の辺りだけになってしまったのは、何となく悲しい。 新聞によれば幸い、阪急百貨店は、あのコンコースにある壁画やシャンデリアは保存して、改築後の建物のどこかに活用すると話していた。子どもの頃の思い出が残るのは嬉しいが、個人的には、ニューヨークのグランド・セントラル駅にも似たあのアーチ型の旧駅舎=コンコース全体を保存してほしかった。 「建築物には寿命がある」と役人や(馬鹿な)建築家は言う。そう言うならば、「ロンドンやパリやプラハの街並みを見ろ」と僕は言いたい。100年、200年前の建物が今なお、現役のものとして、住民が活用しているではないか。そして、街全体が今も生きているではないか。 街や、建物に寿命があるなんて決めつけるのは、人間の傲慢でしかない。身近な街並みが、本当に歴史的使命を終えたのかどうかは、役人や経営者や建築家だけが決める問題ではない。最終的には、市民(住民)の選択に任せるべきだろう。
2005/09/15
閲覧総数 2054
48

久しぶりに言葉の話題を(ただし、言葉といっても地名の話)。どこの土地に住んでも、初めて見る地名(や駅名)に戸惑うことは多い。「どう読んでいいのか、さっぱり分からんよー」と、困り果てた経験が皆さんもおありだろう。 かつて住んでいた徳島にも難読地名がいろいろあった。佐那河内(さなごうち)、宍喰(ししくい)、土成(どなり)なんてまだ簡単な方。鷲敷(わじき)や鮎喰(あくい)も、少し想像力を働かせればなんとかなる。だが、府中と書いて「こう」と読ませるなんて、「どこでいったいそうなるんだ」という感じだった。 地名は、方言同様、その土地の歴史や風土が詰まった「文化遺産」でもある。地名一つひとつに、人々の長い暮らしの歴史が染み込んでいる。行政効率の名のもとに、あるいは市町村合併という大義名分のために、消えて行った貴重な地名が何と多いことか。 吉良上野介邸があった「本所松坂町」という由緒ある地名は、今は大きく「両国」の中にくくられてしまった(写真左=現在の吉良上野介邸跡。両国3丁目にある)。 大阪ミナミには、かつて1970年代末まで、笠屋町、畳屋町、炭屋町など、文字通り、どういう職人たちが集まっていたかがわかる由緒ある地名が長く使われていた。しかし1981年、行政効率の論理が優先され、すべて東(西)心斎橋という味気ない地名に統一されてしまった(唯一、生き残ったのは「宗右衛門町」という地名だけ)。 個人的には、これほどの愚政はないと今も思う。あの大阪市なら、さもありなんというところか(一方で、十計町=かぞえまち=という加賀藩ゆかりの由緒ある地名を復活させた金沢市なんて、すばらしい土地もあるのに…)。 ミナミの住民たちは今も、比較的若い世代でも、鰻谷(うなぎだに=写真右下=現在の鰻谷かいわい)や三津寺(みってら)という、もうなくなってしまった地名を、普通によく使う。仲間うちでは、昔の地名の方がそのエリアや、イメージをうまく伝えやすいからだ(ただし、旅の人には、「その店なら、鰻谷にあるよ」とは決して教えたりはしないので、ご安心を)。 さて、首都圏から関西に就職、転勤、あるいは結婚で初めて来られた方は、この僕のブログに遊びに来られている中にも、何人かいらっしゃる。おそらくは、初めての関西の、いろんな難読地名・駅名に驚かれたことも多いに違いない。 以前、関東から転勤してきた社内の同僚のために、「関西弁クイズ(50問)」をつくった(4月23日の日記ご参照)。それとは別に「大阪(関西)難読地名・駅名クイズ」(兵庫県も一部含む)なるものも、つくってあげて、意外と好評だったので、ご紹介する。 もうすでに「誤読して→指摘され」の“洗礼”を受けている方も、そうでない方も、確認の意味で一度、以下のクイズに挑戦していただければ幸い。なかには僕自身、成人してかなり経ってから正しい読み方を知ったものもある。 「いまさら聞けない」地名の読み方。さぁ、8割できれば、貴方には「なにわの地名博士」の称号を贈りましょう(正解は、後日の日記で紹介します)。 【大阪(関西)難読地名・駅名クイズ】1.西中島南方( ) 2.十三( )3.御幣島( ) 4.柴島( ) 5.河堀口( ) 6.茨田大宮( )7.放出( ) 8.道修町( ) 9.丼池( ) 10.靫本町( )11.立売堀( ) 12.四貫島( )13.波除( ) 14.遠里小野( )15.粉浜( ) 16.杭全( )17.喜連瓜破( ) 18.野江内代( )19.蒲生( ) 20.鴫野( ) 21.富田林( ) 22.枚方( )23.交野( ) 24.樟葉( )25.私市( ) 26.水走( )27.弥刀( ) 28.布忍( ) 29.七道( ) 30.淡輪( )31.深日( ) 32.箱作( ) 33.堅下( ) 34.売布( ) 35.清荒神( ) 36.大物( )
2005/07/01
閲覧総数 1356
49

さて、いよいよ「カクテル(混合酒調合法)」の本文です。24頁分の目次の後、本文ではアルファベット順に、125種類のカクテルが掲載されています。では、順番に紹介していきましょう。*************************************** 御家庭でたやすく出来、街で酒場も経営される カクテル --混合酒調合法-- 宮内省大膳寮厨司長 秋山徳蔵編 A アブサント・カクテル(Absinthe Cocktail) 小さい調合器【注1】に砕き氷を入れ、アンゴスチュラ・ビター一滴を落とし、オルジェート・シロップ【注2】一注(つぎ)【注3】とアブサント一ジガー【注4】を加え、充分にかき混ぜ合わせてカクテル・グラスに漉(こ)してうつし、レモンの皮一そぎを押しつまみ、浮かしてすすめます。 アブサント・フラッペ(Absinthe Frappe) 中位の調合器に砕き氷を四分の三位まで入れ、アブサント一ポニー【注5】を加え、充分に振蕩(しんとう)【注6】してカクテル・グラスに漉(こ)してうつし、凍りそうに冷たいところをすすめます。これは「アブサント・アメリカン・スタイル」とも呼ばれます。 アブサント・イタリアン・スタイル(Absinthe Italian Style) 調合器に砕き氷を入れ、アブサント一ポニー、マラスキーノ二注、及びアニゼット二分の一ポニーを加え、充分にかき混ぜ合わせてカクテル・グラスに漉しうつしてすすめます。 アブサント・ヴェイリューズ(Absinthe Veilleuse) ソーダ水呑【注7】に角砂糖1個を入れ、水少しを加えて溶かし、氷水を四分の三位までつぎ入れ、アブサント一ポニーを加え、かき混ぜ合わせてすすめます。 アギナルド・パンチ(Aguinaldo Punch) ソーダ水呑に砂糖大匙(さじ)で一杯を入れ、水又はソーダ水大匙で二杯を加えて溶かし、次にレモンジュース四注、フレンチ・ヴェルモット四注、ラム四注、及びウイスキー一ポニーを加え、充分にかき混ぜ合わせて、砕き氷を二分の一位まで加え、ソーダ水を八分目までつぎ入れ、季節の果実を浮かし、麦稈(むぎから)【注8】をさしてすすめます。 エール・サンガリー(Ale Sangaree) ソーダ水呑に砂糖大匙で一杯を入れ、水大匙で二杯を加えて溶かし、別の壜(びん)のまま冷やしたエールを九分目までつぎ入れ、ナッツメグほんの少しをおろしかけてすすめます。このエールには、新しいものと、古いものとがありますから好みな方を用います。 アーフ・エンド・アーフ(Alf and Alf) これは、英国風ではポーターとエールとを半々に合わせ、米国風では新しいエールと古いエールとを同じく半々に合わせてすすめます。したがって、いずれか好みの方を調合してすすめるのでありますが、いずれの場合でも、あらかじめ壜のまま冷やして置いて用います。 アップル・ブランデー(ホット)(Apple Brandy, Hot) 水呑に四分の三位まで熱湯をつぎ入れ、角砂糖一個を入れて溶かし、アップル・ブランデー一ジガーを加え、かき混ぜ合わせてすすめます。注意:普通、「ブランデー・ホット」或いは「ウイスキー・ホット」と言えば、大抵この方法で調合されますが、好みによりブランデーの量は増減します。 アップル・パンチ(Apple Punch) 林檎(りんご)とレモンを別々に薄切りにして鉢か甕(かめ)の中へ、砂糖をふりかけながら、段々に半分位まで入れて、赤葡萄酒を八分目までつぎ入れ、きれいな布巾(ふきん)をかぶせ、紐(ひも)でまき結(ゆわ)へて、およそ五六時間寝かして置きます。 そして後、別の鉢か甕の中へ、きれいな漉し袋かまたは布巾で漉してうつし、大きい氷の塊一個を入れて充分につめたく冷やし、パンチ・グラスにつぎ分けてすすめます。 アラック・パンチ(Arrack Punch) パンチ・グラスに小さい氷の塊一個を入れ、その中へバタヴィア・アラック【注9】を四分の三、ジャマイカ・ラムを四分の一の割合で入れて置き、別の調合器の中へ砂糖大匙一杯を入れて、ゼルツェル・ウォーター【注10】大匙で二杯を加えて溶かし、次にレモン一個の露を搾りこみ、充分にかき混ぜ合わせる。 前に用意して置いたパンチ・グラスの混合酒をうつしかえ、更にシャンパン一注を加え、再び充分にかき混ぜ合わせてパンチ・グラスにつぎ分け、薄く扇の地紙形に切ったパインアップル一片ずつを浮かしてすすめます。 オートモビル・カクテル(Automobile Cocktail) 調合器に砕き氷を入れ、ガム・シロップ二注、オレンジ・ビター二注、イタリアン・ヴェルモット【注11】とスコッチ・ウイスキー、およびオールド・トム・ジン【注12】の三種を各一ジガーずつを加えてかき混ぜ合わせ、カクテル・グラスに漉してつぎ分け、オリヴかチェリー一個ずつを浮かしてすすめます。【注1】「調合器」とはこの連載の2回目でも紹介したが、シェーカーやミキシング・グラスのこと。【注2】「オルジェート(Orgeat)・シロップ」とはビター・アーモンド・シロップのこと。オルゲート・シロップとも呼ばれる。現在でも「MONIN(モナン)」社のシロップ・シリーズで入手可能。【注3】「一注(いちつぎ)」とは、現代における1Dash(約1ml)のことか。【注4】「一ジガー(Jigger)」とは、英国式の場合2オンス(約60ml、米国式だと45ml)のこと。秋山氏が用いている「ジガー」が英国式なのか米国式なのかは、現時点ではよく分からない。【注5】「一ポニー(Pony)」は、連載2回目でも紹介したように、1オンス(約30ml)に同じ。【注6】「振蕩」とは、シェイキングのこと。【注7】「ソーダ水呑」という表記は、連載2回目にも登場するが、秋山氏は「8オンス以上の大形の切立形グラス(脚付きでないもの)」と説明しており、10~12オンスくらいのタンブラーのようなグラスと推察される。【注8】「麦稈」とはストローのこと。【注9】「アラック(Arrack)」とは、中近東からアジアにかけて幅広く造られている蒸留酒。原料は米やサトウキビ、ナツメヤシ、ジャガイモ、ヤシの花穂など。バタヴィアとはオランダ植民地時代のジャカルタの呼び名。インドネシアでもアラック造りは盛んで、バタヴィア・アラックは現在でも流通している。【注10】「ゼルツェル(Seltzer)・ウォーター」とは、要するに炭酸水のこと。19世紀以降、ヨーロッパでは、「薬効がある」と信じされたこともあって富裕階級を中心に広く飲まれるようになった。【注11】この当時は、現在のスイート・ヴェルモットはイタリアン・ヴェルモットと呼ばれ、ドライ・ヴェルモットはフレンチ・ヴェルモットと呼ばれた。【注12】「オールド・トム・ジン」とは、ドライ・ジンに1~2%の糖分を加えた英国生まれの甘口ジンのこと。18世紀、ロンドンにあったジンの販売機は猫の形をしていて、ジンを買うと猫の足の部分からボトルが出てきた。俗語(スラング)で雄猫のことを「トム・キャット」と言うことににちなみ、新製品に「オールド・トム」という名前が付けたと伝わる。 ちなみに20世紀前半までは、「トム・コリンズ」などジンを使うカクテルでは、オールド・トム・ジンでつくるのが多かったという。なお、最初に製造・販売した英国のボーズ社はその後、米国ミズーリ州セントルイスに拠点を移し、生産している。他にもカナダのメーカーでも製造・販売している。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2010/11/21
閲覧総数 716
50

22.チェリー・ブロッサム(Cherry Blossom)【現代の標準的レシピ】(単位ml) ブランデー(40)、チェリー・ブランデー(10)、レモン・ジュース(10)、トリプルセックまたはオレンジ・キュラソー1tsp、グレナディン・シロップ1tsp、飾り=マラスキーノ・チェリー 【スタイル】シェイク 「チェリー・ブロッサム」は、かの歴史的名著『サヴォイ・カクテルブック(The Savoy Cocktail Book)』(ハリー・クラドック<Harry Craddock>著、1930年刊)にも収録されています。世界的にも知られるクラシック・カクテルで、現在では「スタンダード」の一つにも数えられています。 日本のカクテルブック等ではこれまで、「1923年(大正12年)、横浜・伊勢佐木町にあったバー『カフェ・ド・パリ』(1923年の開業後、関内に移転し「パリ」と改名)のオーナー、田尾多三郎氏が、日本を代表する花・サクラをイメージして考案した」とよく紹介され(出典:Wikipedia日本語版ほか)、当時横浜港を拠点にして世界と行き来した外国航路の客船を通じて世界へ伝わったと言われてきました。 しかし、『サヴォイ…』でのレシピは、「ブランデー2、チェリー・ブランデー2&2分の1グラス、キュラソー1tsp、グレナデン・シロップ1、レモン・ジュース1(シェイク)=6人分」という、(他のカクテルのレシピと比べても)曖昧な表記になっており、本の中では「田尾氏の名前や日本生まれ云々」については一切触れられていません。 田尾氏は、店を始める前は日本の貿易会社のブエノスアイレス(アルゼンチンの首都)駐在員でしたが、絹の輸出を担当しながらお酒のことを勉強し、帰国後、「カフェ・ド・パリ」を開いたそうです(出典:geocities.jp/legend_bar/cocktail.html)。田尾氏が残したレシピ資料は現存しているそうですが、確認した限りでは、過去に公開されたことはなく、詳細は不明でした。 ところが2020年5月、私も懇意にして頂いている横浜のバーテンダー、北條智之氏(バー「ネマニャ」オーナー)がご自身のブログ上で、独自の取材&調査研究に基づいて、現在一般的に知られている「チェリー・ブロッサム」の田尾氏考案説に疑問を投げかける記事を執筆されたのです(北條氏は、カクテル史の研究にも熱心な素晴らしいバーテンダーです)。 北條氏のブログを要約すれば、以下のようになります。・北條氏自身が、バー「パリ」で田尾氏の奥様=現在は故人=から聞いた話によると、「多三郎氏は当時、カナディアン・クラブ(ウイスキー)のキャンペーンをきっかけに創作した。レシピは、カナディアン・クラブをベースに、チェリー・ブランデー(銘柄はピーター・ヒーリング)、スイート・ベルモット(同チンザノ・ロッソ)などを加え、チェリーを沈めたカクテルだった」という。・一般的には、ブランデー・ベースのレシピは『サヴォイ…』が初出で、著者のクラドック氏が独自にアレンジしたうえで、収録したと考えられてきた(※クラドック氏が田尾氏のレシピを知っていたかは不明)。・しかし、古いカクテルブックを調べていたら、1900年にパリで出版された『American Bar』(Frank Newman著)に、現代とほぼ同じブランデー・ベースの「チェリー・ブロッサム」が収録されていた。・1900年と言えば、田尾氏(1893年生まれ)は7歳。「カフェ・ド・パリ」開業の23年前で、田尾氏がブランデー・ベースの「チェリー・ブロッサム」の考案者ではあり得ない。 以上のことから、カクテル史を書き換えなければならない、2つの新たな事実が分かりました。 一つには、誰の考案かは不明ですが、1900年頃(あるいは1890年代に?)現在のブランデー・ベースの「チェリー・ブロッサム」はすでに誕生していたということ。 もう一点は、田尾氏が当時、ブランデー・ベースの「チェリー・ブロッサム」を知っていたかどうかは知る由もありませんが、ウイスキー・ベースで偶然、同じ名前のカクテルを考案した。しかし、そのレシピは”門外秘出”となっていたため、国内の文献で紹介されることもなく、その後、日本に伝わったブランデー・ベースの「チェリー・ブロッサム」が、何かの理由で田尾氏のオリジナルと誤解されて広まってしまったということ。 ご参考までに、『サヴォイ…』以外の、1930~40年代のカクテルブックでの「チェリー・ブロッサム」を見ておきましょう。 ・「World Drinks and How To Mix Them」(William Boothby著、1934年刊) ブランデー3分の1ジガー、チェリー・ブランデー3分の1ジガー、キュラソー1tsp、グレナディン・シロップ1tsp、レモン・ジュース1tsp(ジン・ベースの同名の別レシピ・カクテルも併せて収録しています) ・「Mr Boston Official Bartender's Guide」(1935年初版刊) ブランデー1オンス、チェリー・ブランデー1オンス、キュラソー4分の1tsp、グレナディン・シロップ4分の1tsp、レモン・ジュース4分の1tsp ・「Trader Vic's Bartender's Guide」(Victor Bergeron著、1947年刊) ブランデー4分の3オンス、チェリー・ブランデー4分の3オンス、キュラソー2分の1tsp、グレナディン・シロップ2分の1tsp、レモン・ジュース2分の1tsp(ジン・ベースの同名の別レシピ・カクテルも併せて収録しています) ・「The Official Mixer's Manual」(Patrick G. Duffy著、1948年刊) ブランデー25ml、チェリー・ブランデー20ml、キュラソー1tsp、グレナディン・シロップ1tsp、レモン・ジュース1tsp なお、冒頭にレシピを紹介したブランデー・ベースが多数派ですが、欧米ではジン・ベースの「チェリー・ブロッサム」も見かけます(日本国内では、他にリキュール・ベースのものもあります)。 ちなみに、ジン・ベースでのレシピをいくつか紹介しておきますと――。(1)ジン(45)、ラズベリー・シロップ2dash、オレンジ・ビターズ2dash、卵白(1個分)。シェイクし、カクテルグラスに(出典:Wikipedia日本語版)。 (2)ジン(30)、チェリー・リキュール(ライウイスキー・ベースの「Cherry Bounce」)(30)、ライム・ジュース(30)、バニラ・シロップ(15)、ビターズ1dash、ソーダ(適量)。シェイクし、氷を入れたトール・グラスに(出典:socialsutudies.com) バー「パリ」は田尾氏亡き後、奥様の幸子さんが継いでいましたが、奥様が他界された後、店は一度閉じられました。しかし2004年、田尾ご夫妻の息子さんの奥様が店を再開、現在は息子さんがスタンディング・バーとして営業を続けられているようです(出典:tabelog.com/kanagawa/A1401ほか)。多三郎氏直筆のチェリー・ブロッサムの「レシピ・カード」は今も店に残っているとのことです(見せてもらえるかは分かりませんが…)。 なお、ブランデー・ベースの「チェリー・ブロッサム」は1930年代には日本にも伝わっていたはずですが、日本国内のカクテルブックで紹介されたのは戦後になってからです。【確認できる日本初出資料】「世界コクテール飲物辞典」(佐藤紅霞著、1954年刊)。収録されているレシピは「The Savoy Cocktail Book」とまったく同じです。【おことわり】最新の知見に基づいて2025年、修正・追記いたしました。バー・ネマニャの北條智之氏の貴重な調査研究を参考にさせて頂いたことに、心から感謝いたします。・こちらもクリックして見てねー! → 【人気ブログランキング】
2016/12/19
閲覧総数 1200