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しばらくぶりに「蕗の薹」で句を詠んだ。 つまずきて地に這いて見ゆ蕗の薹 青穹 山蔭に見つけて嬉しふきのたう 黒土に触るれば温しふきのたう ことば掛く仲とはなりぬ蕗の薹 待ち人は来るや来ざるや蕗の薹 月かげを反して銀(しろがね)ふきのたう 呼びとめる無人露店の蕗の薹 亡き父母に宝珠のごとき蕗の薹 ほろにがき苞(つと)七十路やふきのたう 民生委員同僚T氏に寄す 畑作の土も日ごとの温さかな
Feb 27, 2019
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眉庇の腫れが完全には引かず、まだ痛みもあるので、外出もせずに仕事場にこもり、終日、講義用のスライド制作。資料画像コレクションが、一つのテーマで100点200点にもなるので、選択に苦心する。画像に触発されて原稿に手を入れ、そんなことも自分では楽しんでいて痛みを忘れるのだが、腫れのために左目が不自由だ。 絵を描く気にはなれない。当面の約束がないので、左目が治ったらに。先週金曜日に描き始めたミニアチュール(5×6cm)が3点、そのままになっている。
Feb 26, 2019
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眉庇のタンコブはあまり目立たないほどに腫れが引いた。しかし其処と眼窩の間は青紫のまま。顔をしかめると鈍い痛みがある。 さすがに絵を描く気にはなれない。ほぼ半日、昨日のつづきの講義原稿を執筆。どんどん捗って、ほとんど完成した。目に見えない観念的な世界構造については、図像が存在しないので、もう少しやさしく親切に説明しなければならないかな、と思いつつ、講義は1ヶ月以上先のことなので徐々に手を入れてゆくことにする。 夕食前まで執筆していたが、顔の左側が重く感じだした。よって、今日の仕事はこれまで。
Feb 24, 2019
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11日ぶりの日記である。ニューヨーク展のための作品引き渡しを終了し、今日は午前中に「福祉まつり」で日野市民生・児童委員合唱団「かしの木」として合唱出演。帰宅して、4月に行う医療クリニックでの第6回美術講座の日程打ち合わせ。すぐにそのミニ・ポスターを制作して届け、つづいて講義原稿の執筆。 3月4月は、幼稚園と小・中学校の入学式・卒業式への出席という、ほぼ連日のスケジュール。なにかと忙しい。 ところで今日、私は顔面に大怪我を負うところだった。 合唱出演のために市民会館ホールへ行ったのだが、その前にトイレをすませておこうと、市役所のトイレを借りた。今日は土曜日、市役所は休み。ただ納税相談のために一部だけが仕事をしてい、他は節電のため真っ暗。トイレの中だけは明かりがついていた。 私は用をすませ、トイレを出た。途端に、屈曲した狭い通路の暗闇のなかで感覚を失ったのだろう、いきなりレンガの壁に顔面をぶつけたのだ。メガネが顔に食い込み、激しい痛みに顔をおおいながら戸外までよろめきながら出た。 メガネのレンズは割れなかったものの、3箇所に傷が入っていた。左の顔が何か別もののように重苦しく痛み、触れると、鼻の付け根、眉庇にたんこぶができているのがわかった。 血が出ているようならステージに上がれないな、と思いながら、ガラスドアに映してみると、血は出ていなかった。すぐに練習室の廊下にいらした指揮者の先生に申し出ると、「腫れてコブができている!」と驚かれた。鏡に映してみると、幸いなことにタンコブはメガネの縁の陰に隠れそうであった。ステージで私の立ち位置は最前列なのだが、指揮者側に体を斜めに向ければ、観客に気づかれることはあるまいと思った。 といういわけで大怪我にはならずに、顔面半分が麻痺したような痛みをこらえながらステージもこなし、歌った後は他のプログラムは失礼して先に帰って来たのだった。 現在23時になるところ、まだ腫れは引かない。講義原稿を執筆しながら、ときどき文字の見えづらさを気にしている。
Feb 23, 2019
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天気予報ははずれ、東京の降雪はどこにもなかった模様。 天気予報と言えば、気象庁は視認による予報をやめるそうだ。気象用語としては、「快晴」などの表現は使用しないことになるらしい。これは意外に重要な「知恵」ないしは「文化」を捨て去るということだろう。つまり視認による天気予報は、経験則すなわち日常的な観測の統計学的および分析科学的な長年の蓄積が「文化」として普遍化されていたことを意味する。特に農業者・漁業者などの自然を相手にしている生業にとって、これは死活にかかわる「文化」。たんに「当たった」「はずれた」の問題ではあるまい。気象予報を無資格で公表することが堅く禁じられているのは、そこに通じている。 気象予想は、国内問題に限らないことは言うまでもない。気象衛星は世界の農産物の作柄を監視している。世界のどの地域で食糧難が起こりそうだとか、逆に豊作による過剰生産が現象するだろうなどは、たちまち相場に反映し、世界の金融経済をかき回す。・・・ちょっと題名を失念したが、気象予報による小麦やオレンジの相場の乱高下をあつかい、世界企業の欲望を描いた映画があった。・・・もちろんこのようなことは、天気の視認などですむ問題ではない。 話の方向をもとに戻す。 今日の東京降雪予想はみごとにはずれたが、気象衛星に頼るようになって数十年、世界規模の予想はともかく、なんだか狭い地域の予報のはずれが目立つようになったと思っているのは私だけだろうか。 インターネットで気象庁の地域ピンポイントの週間予報のみならず、1日ごと、あるいは3時間ごとの予報を見ることができる。気温や風向も丁寧に発表している。私は外出時には必ずと言って良いほど参考にしている。雨具を持ったり、場合によっては替えのズボンをバッグに詰めることもある。笑われるかもしれないが、簡単な洗面用具や傷絆創膏や包帯を持つこともある。・・・携帯電話やその他のモバイル電子端末・・・そんなものは使用していない。それらを頼りすぎて使えなくなる事態のほうを考えるからだ。(持たないのは、普段、うるさいからだけれども) 他人はこんな私を異常のように思うかもしれないが、取り立てて言うからだ。たしかに私は用心深い。が、身についていることなので何と言うことはない。・・・そんな私が頼りにしているピンポイント天気予報だが、なんだかはずれるなー。はずれても、よほどのことでない限り、気象庁は「はずれました」と訂正はしない。まあ、そんなことをしていたら混乱が広がるだけとも思うが、どうなんでしょうね、「当たり」「はずれ」の確率は? はずれたときは、気象庁職員はどんな顔をしているのだろう? フフフ
Feb 12, 2019
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明日12日は再び雪になるだろうという予報。それではと、昼前に家を出て新宿のTHへ。 あいかわらずの工具探し。もちろん絵画制作のため。私の仕事場は、紙類やキャンヴァスや絵の具、筆やオイル等があるのはあたりまえだが、工具やら防塵マスクやら、多種多様な物がいっぱいだ。 同じものは描きたくない。次から次へ新しいイメージと、それを実現するための私にとって未知の技術的アイデアを求め、見つかると悦んでいる。困難にぶつかると活力が出てくる。楽にできることなんて、ちっともおもしろくないものな。できる、と初めから判っていたら、やる必要ない。 しばしば、他人がいろいろな分野で、「達成感」と言っているのを見聞きする。しかし私はそんなものを求めているわけではない。もちろん、その人が「達成感」とでも言わないではいられない分野があることも理解できるし、それを拍手で賞賛することは大いにある。 けれども、絵画するということで、何かを達成できるのだろうか? 人類史の偉大な芸術家たちは何かを達成したのだろうか? たしかに長い長い人間の歩みにおいて、誰一人考えつかなかったことを表現し、あまつさへ以後の人間の意識や視覚をまったく変えてしまった作品や芸術家は存在する。それを偉大と言わずして何と言おう。 ・・・だが、それははたして当の芸術家にとって、「達成」だったのであろうか。 私は、そうではないと思う。当の芸術家にとっては、他人が何と言おうと、達成感とは縁遠い茫洋たる荒野をまるで駆立てるように歩いているに違いない。死に向かって・・・。 私は自分の死が近づいていることを知っている。病気などしたこともなく、すこぶる健康ではあるが、そんなこととは別だ。生物としての死である。死を意識するから、私は、たぶん、制作に困難さを求めて荒野を歩む活力を得ようとしているのだろう。私は少年時代からずっと、自分を荒野に突っ立つ棒杭のようだと思ってきた。
Feb 11, 2019
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深夜に降った雪が、寝室につづくベランダにうっすら積もった。しかし玄関から門までのアプローチは、午前8時にはすっかり消えて、もう濡れ跡さへ無い。その時間、東京駅付近では盛んに降っていたようだから、出かけて行った家人はどうだったのか。 老猫のフクは、毛氈の下に懐炉を敷き詰めて、朝ごはんの後はおとなしく寝ている。私は仕事場に入ったけれども、制作に取り掛かるでもなく、じっと椅子に座ったまま一日中ぼんやりしていた。 意識のニュートラル状態に、不意に、昔見た「見世物小屋」の様子が浮かんできた。 あれは、何処だったか。・・・新宿の花園神社。・・・私は20歳頃。おどろおどろしい絵看板・・・呼び込みの男が、入り口に設えた高座で、芸となっている立板に水の啖呵を切る・・・「親の因果が子に祟り、見るも哀れなこの姿」・・・私は他の客に押されるようにテント小屋の中に列をつくって入る。「お代は見てのお帰りだ!」と呼び込み男が言う。・・・・・ こんな「見世物小屋」、今は存在しないのではないか。それとも地方のお祭り時分には出るのだろうか? いやいや、食うに困らない人たちが人権問題と騒ぎ立てるだろう。ソフィストケイトされていなければ、「芸」は身を扶けて生きてゆく場所が無い。 大道芸や放浪芸、あるいは門付芸に関しては俳優の故・小沢昭一氏の立派な研究と映像記録がある。小沢氏以前では、私の蔵書に朝倉無聲著『見世物研究』という大著がある。 私は、「作品」ということ・「見せる」ということの精神的な支柱を、そんなことから学んできた。 そして・・・中学3年の或る放課後、校長先生が止めるまで私に絡んで「山田君もいまに泥水を啜るようになるんだ」と言った I先生。「立派な名前なので、名前負けするわよ」と言った、アルバイト先の Sさん。18歳の私の短編小説に、「詩心がありますが、まだ人生の垢を知らないのだと思います」と文章で批評してくれた『文芸首都』の魚住泳子氏。23歳のとき、「あなたは何かを持っていると思いますが、絵が途中で息切れしています」と助言してくれた画家の平賀敬氏。・・・これらの言葉を、私は、胸に畳んで。
Feb 10, 2019
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(株)復刊ドットコムからドラゴンブックスシリーズ復刻第二弾『吸血鬼百科(復刻版)』の見本刷りが届いた。近々発売になる。 多数の読者からの要望により絶版書籍を復刻刊行している(株)復刊ドットコムが、怪奇系児童書として古書価が高い佐藤有文著『悪魔全書』につづき、佐藤有文著『吸血鬼百科』を刊行した。 このブログですでに何度か述べてきたが、私のイラストレーターとして出発当初の仕事である。原本の講談社ドラゴンブックスシリーズは、この『吸血鬼百科』から始まった。 私の仕事は1974年(昭和49年)6月21日に「吸血鬼バーニー」を油彩で起筆することに始まり、24日に描き終わった。翌25日に荒俣宏さんが編集されていた『怪奇と幻想』誌のアルジャーノン・ブラックウッド「別棟の怪」の挿画2点を描き、26日から再び『吸血鬼百科』の挿画制作に入り、9月9日までつづく。30数点描いた。その間にも、先日亡くなられた橋本治氏と共同執筆した講談社児童書『怪談 3』の挿画や、ギャラリー銀座三番街企画「イメージ・アリス展」のための25号(80X65cm)油彩画、文林書院刊行の大学ドイツ語副読本の表紙などを描いている。・・・以後、ほぼ1年間、ドラゴンブックスの挿画270点余および雑誌のイラストレーションなどを描いた。36時間ぶっつづけに仕事し、その場にぶったおれて2時間眠り、また36時間描くという毎日。・・・ドラゴンブックス終了後も佐藤有文氏とは著者とイラストレータとして交流がつづいた。佐藤氏は幽鬼のように頬が痩(こ)けて蓬髪、笑うと子供のような目だったが、ドラゴンブックスの1年間は私も負けず劣らず死人のような顔色だった。ゾンビが二人顔を突き合わせていたようなものだ。 当時の子供読者を恐怖におとしいれたものの、あれから45年、いまや壮年であろう人たちの復刊要望の多さを知ったなら、泉下の佐藤氏もあの子供のような目をして笑うだろう。 さらに付け加えるなら、(株)復刊ドットコムの仕事はすばらしいのである。45年前の本が奥付もすべて、そっくりそのままに再現され、のみならず、使用紙はこれから何年も耐えるであろうほどに上質で、印刷上がりも美しい。これは挿画担当者として嬉しいことだ。 『吸血鬼百科(復刻版)』の入手は同社webサイト、そのた検索サイトからどうぞ。
Feb 9, 2019
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ここ数日つづいた陽気が、一転して今日は寒の戻り。東京は明日雪になるかもしれない。 午後、少し制作。新たな構想がつぎつぎ出てくる。ひとつのアイデアにアクゥイジションが雪だるま式にくっ付いてゆく。寝入り端に、あるいは目覚めと同時に。・・・横たわりながらそのアイデアを頭の中に画像として浮かべてみる。実行に移した場合の画材(もしくはトリック)を、頭の中の画像を差し替えながら、納得ゆく材料が出てくるまで変えてみる。頭の中で私の手が動き、道具が動く。 つぎつぎ出てくる構想の中に、「父の死」が在る。もしかしたら10年間ためらっていた、亡父の死を描く時期が来ているのかもしれない。50号(116.7X91.00cm)で試作してみようか。
Feb 8, 2019
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今日も温かい日より。 二種類の紫陽花の葉芽がどんどんふくらんでいる。茂にまかせているローズマリーの横で、ペパーミントは冬の間もきれいな緑色をしている。 直径7〜8cmの橙が、6個、長い間ぶらさがったままだ。橙と言っても色が濃くならない。黄色味がかかったクリーム色。不思議なことにいつもそれぞれ同じ枝に6個だけ生る。花が咲いているのを見たことがなく、気がつくと2〜3cm大の濃緑色の実をつけ、次第に色を変えて7〜8cmほどになる。採らずにおくと、いつまでもそのままの状態がつづく。2、3年そのままの状態がつづくこともあると、書いているものもある。私が「採って、マーマレードをつくろうか・・・」と言うと、家人が「そのままにしておいたら?」と言う。で、昨年から何ヶ月も同じところに(当たり前だが)ぶらさがっているのだ。 ナツグミの枝が茂に茂って、二階のベランダの柵を超え、軒下まで伸びている。枝を払はなければと思いながら、忙しくて家の事どころではない。再来週には作品を出荷するので、その後の仕事だ。ナツグミは成長力が並大抵ではない。「全部伐り倒してしまったら?」と家人は言う。16、7年前に自分が苗を植えたくせに、忘れてしまったのか人ごとみたいだ。枝伐りも、鋭く強いトゲがあって、私は毎年のようにケガをしている。それに、なんといっても初夏に、妖精たちの祭提灯のような実の真紅のいろあいが捨てがたい。それは私の気持ちだ。昨年はたくさんの実を収穫し、そのほのかな甘酸っぱさを楽しんだ。・・・じつのところ、剪定の時期を逸して、今伐ってはせっかくの実を収穫できないのではないか、と思っているのである。
Feb 7, 2019
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昨夜来の雨が午前中いっぱい降りつづいていた。しばらくぶりの雨で、小庭の木々の芽吹きには何よりの恵みであろう。 弟が、連日のように処を変えて開かれているという、同人句会のための二十句ほどを見てくれと、コンピューターに入れて持ってきた。それらの句にも、春の兆し。私の感想・意見を聞いてから、句会へ向かった。 私は午後から制作。新たな構想も生まれてくる。メモをとる。
Feb 6, 2019
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午後から制作。 完成作品に新たに浮んだアイデアを付加するか否かを考えた末に、昨夜遅くなってから、失敗覚悟で実行した。 前もって作成しておいた油彩濃淡2種類のアタッチメントの形を整え、仮置きなどしてから淡色のほうに決定。慎重に取り付けた。しっかり固定したことを確認してから、作品を立てかけ、離れて眺めてみる。・・・突飛な着想だが、いいんじゃないかなー。鑑賞者の視線を最初に固定する(捕捉する)役割となっている。抽象的象徴なので、それほどセンチメンタルでもない(と思う)。・・・これで、いい。これで、いい。私のまったく新しい表現だ!
Feb 5, 2019
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午前中2時間、10時から正午まで民生・児童委員の会議に出席。 帰宅後、制作に取り掛かろうと思ったが、昨日の仕事が未乾燥状態。完全乾燥しなければつづけられない。じつはすでに完成し、出荷を待つだけの作品に、新しいアイデアが浮んだ。部分的とはいへ、ここにきてのアタッチは危険だ。しばらく作品をながめながら、アタッチメント効果を頭の中に描いていた。 ・・・否定的な要素が二つあった。 一つは作品が「センチメンタル」と受け取られかねない。それは、諸問題にドライに切り込んできた(情緒過多を排除してきた)私のこれまでの作品に、疑問符を付けることになるかもしれない。 二つは、油彩画からアッセンブリ作品になり、それは良しとしても、技術的な失敗は作品引き渡し期日を前にして約束を破ることになる。これは絶対に避けなければならない。 しかし、アイデアを試さないではいられない。創造を前進させるか、それとも破壊につながるか。 というわけで、昨夜9時頃になって、画面外でアタッチメントを作り始めた。それがまだ乾燥していないのである。 手足をもがれたように、仕事場でぼんやりしている。急ぐことはあるまいと、急ぐ気持ちを抑えながら。
Feb 4, 2019
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節分。家人は高幡不動金剛寺の節分会に出かけた。私はおやつに福豆を年の数より多く食べ、他にはほぼ終日、仕事に籠って制作。
Feb 3, 2019
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