
海外に行くと驚くことがあります。
それは、海外で売られている商品あれこれ、そのほとんどが東京で手に入るということです。
カナダに行ったとき、サンタクロースやスノーマンの形をしたキャンドルがかわいかったので、
お土産に買ってきたら、その年のクリスマス、代官山の雑貨屋で売られているのを見ました。
パリに行ったとき、きれいな缶に入ったチョコレートを買ってきたら、銀座の街角でそれと同じものを見ました。
なんとまあ。
アジアの東の端にある小さな島国に、これでもかというほど、世界中のあれこれが集まっているのです。
とにかく、スーパーに行っても、小さな雑貨屋に行っても、北はロシアから、南はアルゼンチンまでのあらゆる国から来た物であふれています。
だからといって、私は「日本人は金儲けが好きだからなんだ」とは思いません。
「日本人はなんてマメなんだ」と思うだけであります。
だいたい、最近「そこまで必要か?」と思うサービスに出くわすことも多いです。
私はそんなとき、「放っておいてほしい」と、心のなかでそっとつぶやくことにしています。
もちろん口に出しては言わないけれど。
話しは飛びましたが、どこの国に行っても(といっても、まだ両手の指におさまるほどの国にしか行ったことないんですが)、
お土産を買うときはまず「東京にないものを」という視点で探すようになりました。
写真の手袋と木のコップは、フィンランドの北極圏の町、ロバニエミで買ってきたものであります。
この木のコップは、そもそも森で働くきこりたちが作業の合間に飲み物を飲むために、
そこらへんに転がっている木をちょこちょこっと彫って作ったものが、
こんなかわいらしいお土産仕様になったものです。
私は、真冬のロバニエミで「まあなんてフィンランドらしい。これはこの国にしかないものだわ」と思って、買ってきました。
その季節、フィンランドは一面、真っ白な銀色の世界で、日中もほとんど日が昇りません。
そんな北極圏の冬の厳しい空気のにおいをかぎながら、このお土産を選んだわけです。
なのに、つい最近、どこかのネットショップでこのコップが売られているのを見ました。
がっかりであります。
世界中の物が集まっている、という点で思い出すのは、奈良の正倉院です。
奈良県民だった時代も、その隣の京都に引っ越してからも、学校の社会見学で「正倉院展」によく行かされました。
毎回、その年にしか出ない目玉品があるわけですが、
「螺鈿紫檀の五弦琵琶」。
これだけがいまも、忘れられません。
(「らでんしたんのごげんびわ」と読みます)
奈良や京都にいた子供時代は、けっして子供にその価値はわからないだろうというものを、たくさん、これでもかと見させられました。
だからといって、いま「価値がわかる大人」になったかというと、まったくそうでもないのが悲しいのであります。
らでんしたんのごげんびわ。
この言葉を、ソラで言える人間はそういないのではないか、
とまったく役に立たない優越感にひたるくらいしか、あの町で育った成果は出ていません。
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