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「Eric Clapton × Jeff Beck」 新年早々にビッグ・ニュースを目にした。JR山手線の中刷り広告に「Eric Clapton × Jeff Beck競演」の広告だった。正直、目を疑った。ウドーで先行予約は5日から開始しいる・・・。もう間に合わないかと、ウドーのHPへアクセス。…取れた!2月22日(日)さいたまスーパーアリーナのS席。これは世界中のロックファンにとっても夢のような競演となるはずだ。1962年にThe Yardbirdsが結成される。1963年~65年まで2代目ギターとしてエリック・クラプトンが参加。しかしデビュー以降、バンドの路線に不満を抱き脱退。1965年、後任のギターとして1966年までジェフ・ベックが参加。1966年以降はベースとしてジミー・ペイジも参加して後にギターを担当する。この3大ブリティッシュ・ロック・スターが在籍していた伝説のバンド。中でもThe Yardbirdsの名曲「Jeff's Blues」なんかやってくれるのだろうか?2.22が今から待ち遠しい…。
2009.01.09
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諦めなければ夢は叶う夢に向かって走ってきたんだろうね。この人は…。日本人マラソン選手にない印象が彼女にはあった。多くの日本人選手が42.195km走り終えてゴールした途端に崩れ落ちたり、支えられたりするのを見ていて(?)って思っていた。ゴールするだけで大変な事なんだけどね。目標を建てる意識の違いなんだと思っている。42.195kmを走り切る事を目標にすれば達成感で崩れ落ちる。しかし、Qちゃんのようなアスリートは違うんだね。目標が42.195kmの先にあるんだ。だから笑顔で歓声に応えられる。神社の高い石段を登る事を目標に「いち、に、さん」って数えて登る人と登りきった石段のその先で手をあわせる為に来た人の違いだと思うよ。
2008.10.29
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1年です。1年かけてアクセス数が2000となりました。このROCK54th STREETに住みついて1年…。何度かお越しいただいている方々には感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございます。 このブログを始めるきっかけとなったのは、ある友人の存在があったからです。ブログ開設後、すぐに訪問してきてくれました。そしてコメントまで残してくれました。自身のブログロカビリー探偵事務所でこのブログを紹介してくれました。 約1年ぶりにブログ再開させてみたらさっそく紹介してくれました。ものすごく勉強家で本の虫な友人なんです。このROCK54th STREETはサイレンの鳴り止まない街にある。そしてロカビリー探偵事務所はこの街のメインストリートにあります。
2008.04.08
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昨夜は午前2時過ぎに目が覚めてしまった。眠り直そうと思っても意識が覚醒してゆく…。今日は彼岸なので墓参りを予定していたので出来れば眠りたかった。「何かTVやってないかなぁ…」PCをTV視聴に切り替えた。上野樹里っていますよね、ブラスバンドの映画に出ていた女の娘。「亀は意外と速く泳ぐ」っていう映画に観入ってしまった。ゆるい!とにかく、ゆるい!そして何か和む。エンド・ロールまで観た。和んだ、和んだ。そのまんま朝。3月から勤務時間帯が変わった事もあり「めざにゅ~」「めざましテレビ」を久しぶりに観た。世界フィギュアの日本勢の速報を耳にして…。10時に出発する予定だから「もう、寝ない方がいいな」って感じだった。近くのレンタカーの店に予約をしておいた車を借りた。以前、私は「ユーノス・コスモ」なんて超COOLな車を乗っていた。それを毎日、毎日通勤やプライベートで運転していた。今は愛車も手放し、年に数回、レンタカーを運転する程度。運転技術 ? 感 ? 流れっていうのが鈍くなっていた。睡眠不足のせいか…?何だかんだで親父の墓へ到着。14歳の頃、両親が離婚して、以来復縁を願っていた父。「もう、来ないでくれ」ってガキだった私の言葉を聞いて姿を見せなくなっていた。阪神大震災の年に亡くなった。当然、自分達は知るすべもなかった。親父は長男だから墓には爺ちゃん、婆ちゃんが眠っている。そして、母親の両親の墓へ…。小さなお墓に夫婦二人だけで眠っている。家の母親は爺ちゃん、婆ちゃんの三人娘の三女なんだけど、去年暮れに長女が亡くなった。「この後、叔母さんの処行ってくるから」って報告した。小さな夫婦墓なんだけど、去年亡くなった叔母さんが小さい時に建てた墓だって聞いた。このルートを走らせる事になって、もう10年が過ぎた。いつものように弟の眠る墓へと車を走らせた。29歳で亡くなった。たった一人の弟の墓前に…。大好きだったビールを供えて「また来たぞ」って手を合わせた。その墓石の後ろに大きな桜の木がある。その桜の木はあと数日で花を咲かせ、その淡い色の花びらを散らせる。もう10年…。こんな景色の中で自分を見つめるのは…。そして叔母さんのいるお寺へ…。そこには一昨年亡くなった1歳上の従兄弟も一緒だ。この従兄弟は弟が病に臥したとき「よくなって一緒にハワイへ行こう」って励ましてくれた。実際にそのハワイ旅行に行く事ができた。それは弟にとって初の海外旅行になった。移動の車中、FM-NACK.5 小林克也のファンキー・フライデーを聴いていた。ヒットチャート何位だとか、愛しき人へメッセージ読んでリクエスト曲聴かせる。わかりやすい親しみのあるラジオちっくでいい番組だ。…んだけど、安藤美姫の悔し涙。そして、中野友加里の演技、完璧なその姿に息を飲んだ。思いもよらない失敗を覆す浅田真央もスターとして光り輝いている。どうまとめようか…。「亀は意外と速く泳ぐ」でいいんじゃない!これ、これ!「亀は意外と速く泳ぐ」 主演:上野樹里 共演:蒼井優 岩松了 伊武雅刀
2008.03.21
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家の近くにある洋食屋さんによく顔を出す。好きなメニューで満腹になって満足してレジへ…。すると「お金を出したり、挟むの大変じゃないの?」マネー・クリップを引き抜いて千円札を差し出す私にその女性はレジ打ちながら声をかけてきた。「いやぁ、そんなことないですよ」クリップで挟んだ千円札、一枚レジ前に置くだけのことだった。 ガキの頃、外人さんを見た時、胸ポケットから煙草みたいに巻いたお札を出していた。まだガキだから、単純に「へ~」って感じだった。 それとタバコの吸い方もアメリカ人はカッコイイ奴いるよ。俳優のブルース・ウィルスの吸い方が最高!クールにきめたい喫煙家は必見です。あと物の扱い方がカッコイイ奴もいる。持っている物に指を滑らせるように扱う仕草が最高。 マネークリップは何かの映画で観たんだろうね。それ以来マネークリップ派になった。でも、マネークリップってお札が無くなるとすごく寂しくなる。自分は日本札と米ドル札を一緒に挟んでいるので寂しい気分にならないように心掛けています。自分だけのこだわりって個性として大切な事だと思います。 BVLGARICAPTION CAPCROSS
2008.03.18
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昨夜は友人と久しぶりに酒を飲んだ。ホワイト・デーだったから駅で花でも買って贈ろうかなぁなんて思ったけど、荷物だし、照れくさいしヤメた。その人は自分の抱える今の問題につきあってくれた。その指摘は的確だった。鋭かったけど…、自分の本性を見抜かれている…。わかりやすい性格なのかもしれないけど、指摘してくれる友人でもある。とても、充実した一日になった。
2008.03.15
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ピアノ・マン=Billy Joel(ビリー・ジョエル)1949年ブロンクスに生まれる。1971年「Cold Spring Harbor/コールド・スプリング・ハーバー」でソロデビュー。このデビューアルバムはヒットする事なく廃盤となった。1973年「Piano Man/ピアノ・マン」発表。このタイトル曲は今もTV/CMで流れる名曲。私がビリー・ジョエルの音楽に出会ったのは1977年。SONYのステレオ・ラジオ・カセット・プレイヤー「ZILBA'P/ジルバップ」のTV/CMだった。赤いバラを咥えた女性が仰向けで横たわり激しい雨に打たれている…。そんな映像のバックで流れていたのが「The Stranger/ザ・ストレンジャー」だった。何これ!? カッコイイ!! 誰? この外人の歌手は???そりゃ衝撃だったね。待て!まだ洋楽なんて早いって!レコード・プレイヤーもなかったからね…。…家。唯一あったのはビクターのモノラル・ラジカセが一台。TVの主題歌を録音するのに家族全員を黙らせてTVの前で録音ボタンを押して声を殺してた頃…。ラジカセってくらいだから、ラジオとカセット・テープが使える。ラジオのAM放送しか知らなかったから俺…。ある日、FMって切り替えスイッチは何だろう? …疑問を持つ事が大事だ。「カチッ、…ザー」ラジオのノイズが聞こえる。横のチューニング・ダイヤルを回してみる…。「ザー」AMとは違う選局音…。ノイズの中から微かにバイオリンが・・・、そして音がクリアに!クラッシック番組だ! FM/NHK 82.5MHzに辿り着いた。さらにダイヤルを回してみる…、「ザー…」そしてクリアなポップス!!80.0MHz FM東京だ。当時はこう言ったんだよ。今はTOKYO-FMだけど…。ここからすべてが始まった。それからってものはAIR CHECKしまくった。※AIR CHECK(エアチェックとは、ラジオ放送などを録音して楽しむこと)「FMレコパル」とか「FMfan」やら「週刊FM」買った買った。カセット・ケースに入れる写真レーベルとか集めてね。FMレコパルは4コマ漫画なんだよね。当時は東京のFM局は2つしかなかった。前出の雑誌に2週間分の番組表が載っていた。NHKの「昼の歌謡曲」や「軽音楽をあなたに」なんて番組のリスナーだった。いろんな音楽に出会った。そこで多くのロック・スター達を知った。後に、でかいZILBA'Pみたいなステレオ・ラジカセも手に入れた。左右のレベル・ゲージの針が動くやつ!!!FM東京の夜の番組で「ライヴ・ボトムライン」って名前だったかな? そんな番組があった。これはニューヨークにある「ボトムライン」っていうライヴ・ハウスの音源を聴かせる番組。その中にBilly Joelが4枚目の「Turnstiles/ニューヨーク物語」1976年の頃の貴重な音源。録ってある。SONYのカセット・テープ「DUAD/デュアド」の46分テープに…。1977年の「The Stranger」でフィル・ラモーンというプロデューサーと出会い。前妻のエリザベスに捧げた「Just The Way You Are/素顔のままで」グラミー賞を受賞。彼はトップ・スターへと駆け上がる。1978年「52nd Street/ニューヨーク52番街」でグラミー賞を受賞。ちなみにこのブログ「ROCK54 STREET」は掛け算の6×9=54と"52nd STREET"から付けた。1980年「Glass Houses/グラス・ハウス」1981年「Songs In The Attic/ソングス・イン・ジ・アティック」この"屋根裏部屋の曲たち"と題された初期の頃の曲をツアーの中で唄い収録したライヴ盤だ。1982年「The Nylon Curtain/ナイロン・カーテン」当時のソビエトは「鉄のカーテン」を引いて秘密裏に事を進めていた。アメリカは?と問いかけに、ナイロンのカーテンでアメリカの抱える問題を綴っている。1983年「An Innocent Man/イノセント・マン」R&B、モータウン・サウンドをモチーフにした名作。これ聴いて教習所通ったっけ…。そして契約問題で復刻されなかった廃盤の「Cold Spring Harbor/コールド・スプリング・ハーバー」がついに復刻される。しかし、これは原盤の物と違っていて残念。1985年スーパー・モデル「クリスティ・ブリンクリィ」と再婚。このクリスティは前出のヴァン・ヘイレンのボーカル「デイヴィット・リー・ロス」から奪い取ったのだ。「Uptown Girl/アップタウン・ガール」というPVで共演している。1986年「The Bridge/ザ・ブリッジ」このアルバムで尊敬するレイ・チャールズと「Baby Grand/ベイビー・グランド」で共演。その後、目立った活躍はないが・・・、今も色あせない名曲たち。娘「アレクサ・レイ・ジョエル」も歌手として活躍。愛娘アレクサ・レイの"Ray"はレイ・チャールズのレイである。Sing us a song you're the piano manSing us a song tonightWell we're all in the mood for a melodyAnd you're got us feeling airight歌ってくれよ ピアノ・マン今宵、あの歌を…俺たち皆、歌いだしたいんだ。今宵は素敵な夜だから…
2008.03.13
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私の苦手な事は対人関係。極度の対人赤面症だったりする。人と上手にコミュニケーションがとれない。人と群れる事が大嫌いなんだよね。「俺もそう思う」なんて言われるとお前とは違うよって別の事をしてしまう。アマノジャクなんだろうね、きっと…。平気で人のプライドを傷つけてしまう。「あいつ、おかしいよ」って思ってんだろうね。なぜなんだろう…、何でうまくやっていけないんだろう?以前、付き合っていた女性が精神障害に陥り、必死にその種の本を読んだ。そんな事は無力で、所詮は助けてあげられないんだけど、必死だった。そして自分もそれに陥りかけた。…結局、救ってあげる事もできずだった。会社の中に大学で心理学を学んでいた人にそんな話した事がある。打つ手がないんだよね。果てしない真っ暗闇ん中にいるんだよ。わかっていても他人は何もできない。わからないんだ。その苦しみが…。冷たいかもしれないけど、人は他人。って事なんだよ。死ぬ気で守るべき人だって救えないんだよ。無力な自分が他人の中に入って何ができる?何もできないまま傷つき傷つけるだけなんだ。…こんな考えだからかな?人と上手くやっていけないのは…。
2008.03.11
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名古屋マラソンを途中まで観た。会社へ行かなくてはならなかったので13時までマラソン中継を観戦した。高橋尚子。35歳の走りに胸を躍らせていた。それは師である小出監督から離れて自己を確立しようと努力する彼女の姿に魅せられたからです。北京五輪に行ってほしい気持ちで中継を観ていた。スタート直後からスロー・ペースで団子状態でいる先頭集団の中に高橋尚子はいた。CM明けのTV画面には高橋尚子の走る後姿が映りだされた。おっ!トップに出たのか!?と思わせる映像だった。カメラは高橋尚子の背中から全体像を映し出すと先頭集団から遅れた高橋尚子を捉えている事に茫然としてしまった。10km地点で彼女の父親の用意した高橋尚子の応援たれ幕を横切る彼女の姿に涙が出てきてしまった。時間ギリギリまで中継を観ていた。通勤途中では"RIGHT NOW"を聴きながらワンセグ携帯から走りを確認。そして今、仕事を終えて帰宅。そしてスポーツニュースでその結果を確認した。タイムは2時間44分だったかな?完走した高橋尚子選手の姿を見る事ができた。すごいね!10km地点で失速してんのに、4倍の距離を走り切るってアスリート魂ってすごい!
2008.03.09
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このところ、通勤中に聴いている曲が「VAN HALEN」の"RIGHT NOW"だ。VAN HALEN-1978年にデビュー。エドワード・ヴァン・ヘイレン(ギター)アレックス・ヴァン・ヘイレン(ドラム)の兄弟にマイケル・アンソニー(ベース)とデイヴィット・リー・ロス(ボーカル)を加えて、1975年結成されたアメリカン・ハード・ロック・バンドである。エンターティナー振りを発揮するボーカルのデイヴィット・リー・ロスとスーパー・ギターリストのエドワード・ヴァン・ヘイレン(通称:エディ)のギター・テクニックで人気となった。ファースト・アルバム「VAN HALEN」の"Eruption/暗闇の爆撃"でのライトハンド奏法。エディが生み出したその奏法は、右手をフィンガー・ボード上の弦を強くタップして奏でる早弾きテクニックである。 今から25年前に発表された歴史的アルバム。マイケル・ジャクソンの「Thriller/スリラー」の収録曲"Beat It/今夜はビート・イット"でそのギター・テクニックを披露する。当時、ギター小僧たちの間ではエディといえばスーパー・スターだった。マイケル・ジャクソンがまだ「ジャクソン5のマイケル坊や」って言われていた時代の話。ギター雑誌に「あのエディがマイケル坊やの新作に参加」なんて記事が載っていた。同年1983年に"MCMLXXXIV/1984"を発表。天使が煙草を持ったジャケットは何処かの国では煙草を別の物と差し替えられて店頭に並んだ。エディのギターに代わってシンセサイザーを導入。そのシンセ・サウンドが印象的な"JUNP/ジャンプ"はあまりにも有名。1985年デイヴィット・リー・ロスが脱退。後任にサミー・ヘイガーを迎える。冒頭の"RIGHT NOW/ライト・ナウ"はサミー・ヘイガーを迎えた後の1991年"FOR UNLAWFUL CARNAL KNOWLEDGE/F@U#C%K"の収録曲である。ピアノが印象的なイントロにぶっといディストーションを効かせたギター・サウンド。全身に鳥肌が立つほどの衝撃が味わえる。"Don't wanna wait til tomorrowWhy put it off another day?One more walk through problems.Built up.and stand in our way.ah"明日まで待てやしない。なぜ先に延ばすんだ?俺たちの抱えた今の問題を貫くんだ。 "Right now.heyIt's your gotta run to get evenRight now.C'mon,it's everythingRight now.Catch a(that)majic moment.do itRight here and nowit means everything"今すぐに!君の明日の事なんだ。今すぐだ!君の大切なあれを掴むんだ今すぐやるんだ。それが全てなんだ。たまらない! 涙が溢れそうになる。"Right now! Hey!"1996年サミー・ヘイガーの脱退。ヴァン・ヘイレン兄弟との関係に亀裂が生じてしまった。ファンは再びデイヴィット・リー・ロスの加入を期待したがそれは叶わなかった。新ボーカルにゲイリー・シェローンを迎えるが不評な結果しか残せなかった。2004年"THE BEST OF BOTH WORLDS/ヴェリー・ベスト・オブ・ヴァン・ヘイレン"発表。ボーカルに再びサミー・ヘイガーを迎え新曲を発表、見事に復活した。これが生粋のハード・ロック・バンドだと思う。 スリラー25周年復刻版
2008.03.06
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約1年ぶりに独り言を書きます。ロック・スターやソウル・マンの話ではありませんが・・・、先日、会社の同僚と酒を飲みました。会社の方向性や自分たちの役割、対人関係などなど、大いに盛り上がり約6時間近くも一軒の飲み屋で語り合いました。しかし焼酎のボトル二本目あたりから私の記憶はありません。翌日、休みだったせいか焼酎をあおってしまったようです。目が覚めて、服を着たままの自分に驚きました。たどり着けない記憶の中で同僚にメールを送りました。その日仕事だった彼から夕方になり返事がきました。恐るべき事実を告げるメールでしたが楽しい酒になりました。このブログを始めるきっかけとなった友人を1年ぶりに誘っているのだが、未だに連絡がこない。どうしているのだろうか?あの日の朝まで過ごした六本木の記憶も三次会あたりから失ったまま、金と共に…。
2008.03.05
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セクシャル・ソウル=Marvin Gaye(マーヴィン・ゲイ)彼はワシントンD.C.の厳格な牧師の父を持つ。幼い頃から父の厳しい教育によって精神的な虐待を受けながら育ったと言われている。その逃げ場所が歌やピアノ、ドラムなど音楽に携わることだった。彼はコーラス・グループ「ムーン・グロウズ」に参加して音楽活動の幅を広げていった。それらは、ベリー・ゴーディJr(当時のモータウン・レーベル社長)に見出される。1961年 モータウン・レーベルと契約。バック・バンドとして活動を開始。ベリー・ゴーディJrの妹アンナと結婚。1962年 「That Stubborn Kinda ' Fellow/スタボーン・カインダ・フェロウ」でデビュー。「How Sweet It Is/ハウ・スウィート・イット・イズ」1964年「I Heard It through the Grapevine/悲しいうわさ」1968年ソロでの活躍する中で彼は、最高のデュエット・パートナーのタミー・テレルと出会う。「Ain’t No Mountain high Enough/エイント・ノー・マウンテン・ハイ・イナフ」1966年ふたりを代表するこの作品でモータウン・ソウル最高のヂュオと評価された。しかし、1967年10月 ふたりで立ったステージで彼女は彼の腕に倒れたのである。搬送先の病院で彼女は悪性の脳腫瘍であると診断された。それから3年間8回に及ぶ賢明な手術が施された。それでも病と闘いながら彼女は幾度となくステージに立ったのだ。1970年3月16日 Tammi Terrell(タミー・テレル)は24歳でこの世を去った。繊細であるが故に精神的な不安を持つ彼に与えたショックは計り知れないことであろう。彼女の死後は2年間にも及び音楽活動ができない状態に陥っていくのである。この間の苦悩、生い立ち、アルコール依存、精神的不安は、モータウン史上で傑作となる「What’s Goin’ On/ホワッツ・ゴーイン・オン」を生み出した。この時代のアメリカはベトナム戦争、人種差別、貧困など多くの問題を抱えていた。彼はこの作品を自ら制作する中で自分の置かれた境遇を見出していくのであった。「Let’s Get It On/レッツ・ゲット・イット・オン」1973年「I Want You/アイ・ウォント・ユー」1976年70年代以降の彼は、恋愛の苦悩、性や愛情をテーマに意欲的に作品を発表していった。しかし彼は、私生活で離婚問題、薬物依存など問題を抱え、活動は終息へと向かっていく。再び、音楽活動を始めたのは80年代に入ってからのことである。1982年 モータウンからCBS コロンビアへ移籍。シングル「Sexual Healing/セクシャル・ヒーリング」アルバム「Midnight Love/ミッドナイト・ラヴ」を発表。1983年 グラミー賞を受賞。グラミー受賞後、ソウル・シーンに多くの期待が寄せられた中で悲劇が待っていた。1984年4月1日 牧師の父親によって射殺される。マーヴィン・ゲイは父親から精神的虐待を受けていたとされる。タミー・テレルは付き合っていた恋人から暴力的虐待を受けていたとされる。ソウル・デュオ史上最高のふたりには、その死に纏わる”悲しいうわさ”が囁かれている。※Tammi Terrell(タミー・テレル)1945年4月29日-1970年3月16日フィラデルフィア出身。1961年デビュー。ジェームス・ブラウンの前座を経て、モータウンへ移籍。
2007.04.01
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フーチー・クーチー・マン=Muddy Waters(マディ・ウォーターズ)Muddy Water(泥水)幼い頃につけられたあだ名である。1915年 ミシシッピ州ローリング・フォークに生まれた。3歳の時に母を亡くし、少年期を小さな町で畑仕事を手伝いながら母方の祖母に育てられた。「あの頃、どんな歌を唄っていたかはあまり覚えていないけど、いつも『どうも満足できない、イライラして仕方がねぇ』って唄っていたのは覚えているよ。思ったまま唄うのがおれ流だからさ、ミシシッピは、何もかもが気に入らなかったのさ」当時の黒人たちが科せられた重労働の辛さを唄うことで自分も乗り越えてきたと彼は言う。ブルースは黒人の苦悩、叫びであり、崖っぷちからの反攻であり、人間本来の恐れや怒りの叫びがそのまま表現され、今も聴き手の魂を揺さぶりその虜にしてしまうのである。幼い頃からハーモニカを吹き始めて13歳頃から、うまくブルース・ハープを扱えるようになったと言う。彼のスタイルとなるギターは親友のスコット・ボハナから教わる。そんなプレイの中でもボトル・ネック奏法が気に入った彼はスライド・テクニックを習得。1937年 サン・ハウス、ロバート・ジョンスンらデルタ・ブルース・マンと腕を競っていった。1941年 アメリカ国会図書館のフォーク・ソング資料としてレコーディングを行う。1943年 「ミシシッピを出たかった。金が稼げて、チャンスもある都会へ」とシカゴへ移る。たどりついたシカゴで耳にしたのは、力強く聴き手を引きつけていたブルースが、メジャー・レコード・レーベルによって黒人の本質、真の叫びの失われたものばかりだった。しかし、粘り強く彼は真の自分のスタイルを維持しながら酒場やパーティに出演した。1947年 5人編成のバンドとして数曲のレコーディングを行うも未発売となる。「I Can’t Be Satisfied/アイ・キャント・ビー・サティスファイド」1948年このシングル盤の成功によって戦後のシカゴ・ブルースは新時代の幕を開ける。マディ・ウォーターズ率いるバンドはカントリー・ブルースのアコースティック・サウンドからエレキ・アンプを用いて、よりハードでヘビーなブルース・サウンドを披露していった。「Rollin’ Stone/ローリン・ストーン」1950年「Honey Bee/ハニー・ビー」1951年リトル・ウォルターらとバンドを組み、ブルース・ハープの奥深い音色を手に入れた。「Hoochie Coochie/フーチー・クーチー・マン」1954年ブルースに対する情熱と信念はミシシッピでの辛い労働時代から始まり…、飛び込んで行ったシカゴでの現実、貫いた独自のスタイルの成功はブルースのみならず、音楽史の偉大なる偉業となった。そのスタイルはキース・リチャード、エリック・クラプトンへと伝承されて生き続けている。1983年4月30日イリノイ州ウェスモント郊外の自宅で死去。※ボトルネック奏法:ガラス瓶のネック部分を切り取り、指にはめ指板の弦をスライドさせる奏法。 Fender USA Muddy Waters Telecaster
2007.03.27
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パール=Janis Joplin(ジャニス・ジョップリン)ロックの歌姫。映画「ローズ」のモデルとなった人物である。1943年 テキサス州ポート・アーサーに生まれた。彼女はJAZZを愛し、ビリー・ホリディを聴いて育った。やがてブルースに目覚めベッシー・スミスなどのシンガーに夢中になっていく。天真爛漫な彼女は家を飛び出してあらゆるクラブで歌うようになっていった。そこには自分を表現できる音楽があり、彼女の中で欠かせない大きな存在であった。しかし、サンフランシスコで同じくらいに彼女がのめり込んだのがドラッグだった。一時は薬物でボロボロになった身体で実家のテキサスへ戻って静養に努めた時期もあった。ビッグ・ブラザー・アンド・ザ・ホールディング・カンパニーに加入。再びサンフランシスコへ。彼女を加えてアルバムを制作するが、それは幻と消える。1967年 モンタレー・ポップ・フェスティバルに出演する。ステージに立った彼女は躍動感満ちる姿で熱唱した。訪れていた観衆は新たなるロック・スターの出現を目の当たりにした。この祭典は、彼女だけではなく、多くのスターを世に知らしめる歴史的な祭典となった。「Cheap Thrills/チープ・スリル」1968年モンタレーでの出演がきっかけで辿り着いた、このアルバムは全米で1位を獲得した。成功への道筋、彼女とバンド・メンバーの中に多くの問題が発生していく。バンドを脱退した彼女は、新たにバンドを結成するがメンバーやバンドを変え続けた。1970年 念願のバンド・メンバーを得た彼女はアルバムの制作に入る…、その年の10月4日に「ランドマーク・ホテル」の一室で死体となって発見される。27歳だった彼女の死因は音楽と同じくらいに、のめり込んでいたドラッグによるものだった。「Pearl/パール」1971年一部、突然死によって録音途中だった未完成曲を含む遺作として全米で1位を記録する。決して幸多き女性ではなかった「JANIS」瞬く間に走り抜けた伝説のロック・クイーンは、今も心の深い場所で歌っている。
2007.03.23
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ミスター・ダイナマイト=James Brown(ジェームス・ブラウン)彼の紹介はMCのこんなフレーズからはじまる。「The star of the show Hard-working Mr. Dynamite James Brown!」半世紀にもわたる、疲れ知らずのソウル・パワーの源は、いったい何処にあったのだろう…。1933年 サウス・キャロライナ州バーンウェルに生まれた。家庭は貧しく、その日暮らしの生活に母親は逃げ出し、幼い彼は叔母に預けられて育った。父親から貰ったハーモニカでブルースを覚え、まわりの大人たちからギターを教わった。やがてR&Bグループ「クレモナ・トリオ」を結成。しかし、少年は貧しさから窃盗や万引きを繰り返した挙げ句、窃盗犯で逮捕される。まだ10代の黒人少年は重労働を科せられた。矯正施設生活の中、施設内の数人で結成したゴスペル・グループに加入した。仲間からは「ミュージック・ボックス」呼ばれる人気者となった。また施設内の野球チームではピッチャーもしていた。ある日、対戦試合の相手チームの中にボビー・バードがいた。二人は親しくなり、ボビー・バードの父親が彼の仮釈放の保証人となった。出所後、ボビー・バード率いる「ゴスペル・スターライターズ」に加入。教会で歌い始めた。やがて施設で知り合ったジョニー・テリーをメンバーに加え「フレイムズ」と改名する。1955年 リトル・リチャードのショウで主役の休憩時間を狙ってステージで演奏した。あまりの騒ぎに休憩中のリトル・リチャードは、その場に駆けつけ、その様子を目にした。リトル・リチャードは彼らを呼びよせ、代役としてステージに上がらせることもあった。この頃から「フレイムズ」から「フェイマス・フレイムズ」へと改名する。1956年「Please Please Please/プリーズ・プリーズ・プリーズ」デビュー。全米のヒットチャートでベスト10入りを果たしたが、その後のヒットには恵まれずにいた。「フェイマス・フレイムズ」のメンバー達はジェームス・ブラウンに対する不満が募った。原因はメイン・ヴォーカルにジェームス・ブラウンを起用したいという動きによる物だった。メンバー達は不満を理由に脱退をしていき解散せざるを得ない危機に見舞われる。しかし「Try Me/トライ・ミー」1958年のヒットでボビー・バードが復帰して再結成をする。その後も解散と再結成を繰り返した後、ついに彼自身のバンドを手に入れることが出来た。メインを務めるプライドからエンターテイメント的なステージを数多く行っていった。そんな中で今も語り継がれる最高のステージ演出が生まれたのだ。それはショウがクライマックスに近づいた頃、トランス状態になったJBが崩れ落ちる。メンバーがJBに駆け寄ると、トランス状態のJBを助け起こす。JBの身体に大きなマントを覆って包むとステージから降りるように促すのだ。ステージを降りかけていたJBがメンバーを振り切り再びステージに現れてシャウトする。このパフォーマンスは「マント・ショー」と名付けられ彼のステージで最大の見せ場である。彼が数多く出演したニューヨークのハーレムにある「アポロ・シアター」で録音された名盤。「Live at the Apollo/ライヴ・アット・ジ・アポロ」1962年「Papa’s Got a Brand New Bag/パパズ・ガット・ア・ブランド・ニュー・バッグ」1965年「It’s a Man’s Man’s Man’s World/イッツ・ア・マンズ・マンズ・マンズ・ワールド」1966年「Get Up(I feel like being like a)Sex Machine/セックス・マシーン」1970年1970年代以降も「ショービジネス界一の働き者」としての精力的な活動は続いた。1986年 ロックンロールの殿堂入り。1988年 薬物使用、暴行罪で逮捕される。1992年 第34回グラミー賞 生涯功労賞を受賞。2004年 2度目となる妻への暴行容疑で逮捕される。2005年 インドネシアで行われたスマトラ沖地震チャリティーイベントにメイン参加。幼いころに培った反骨精神が彼を揺り動かし続けて来たのだろう。その破天荒な私生活の行為は表舞台を顧みることなく幾度も繰り返された。すべて「I Feel Good!」一言で片付けてしまう精神の持ち主だったのではないだろうか…、その「ソウルの帝王」ジェームス・ブラウンはブラック・ミュージック界だけに止まらず、数多くの分野に影響を与えてきた。2006年12月25日ジョージア州アトランタの病院で死去。
2007.03.15
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スローハンド=Eric Clapton(エリック・クラプトン)スローハンドslow hand-clapping(ゆっくりした拍手)とは彼への呼び名。clapping(拍手)とClapton(名前)をかけて彼をそう呼ぶようになった。ロック・ギター・フリークの間では、「ギターの神様」的存在である。1963年「ヤ-ドバーズ」に加入。約2年で意見の相違から脱退。その後は、「クリーム」「デレク・アンド・ザ・ドミノス」を結成。「LAYLA/いとしのレイラ」1972年今や言わずと知れたロックの傑作である。もうひとつ、彼のトレード・マークである愛用のギター「BLACKIE/ブラッキー」。1970年ナッシュヴィルの楽器店を訪れた際に$100程度で売りに出ていた物。「ジミ・ヘンドリクス」への贈り物として数本を購入したが、彼の突然の死によって、そのうちの数本は「ジョージ・ハリスン」などの友人へと手渡された。手元に残した3本の良いパーツだけを寄せ集め最高のギターへと生まれ変らせる事を決意。‘56年製の黒のアルダー・ボディに‘57年製のワンピース・メープル・ネックを持つ「BLACKIE」は、クラプトン・サウンドに欠かせない音となった。彼は1970年代から80年代「薬物依存、アルコール依存症」で苦しみ再起不能と囁かれた。1990年代には、わが子を転落死といった事故で失う不幸に遭ってしまう。事故で失ったわが子に贈った「Tears In Heaven/ティアーズ・イン・ヘヴン」1992年MTV「UNPLUGGED」に出演。そのアコースティック・ギター・テクニック。まるで白人とは思えない泣きのブルース・サウンドを披露する。「Change The World/チェンジ・ザ・ワールド」1996年2004年 彼は愛用の「BLACKIE/ブラッキー」をオークションに出品。売上をアンティグア島に自らが設立した薬物依存治療施設である「クロスロードセンター」に寄付すると発表した。僅か$100だったギターは$959,500(約1億1,200万円)の史上最高の落札額となった。
2007.03.10
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ロックンロール=Chuck Berry(チャック・ベリー)1955年「MAYBELINE/メイベリーン」でデビュー。誰もが「KING OF ROCK’N ROLL」と認める人物だ。1926年 不動産会社の用務員をしていた父親と母親の4人目の子供として生まれる。当時の黒人にしてみれば、掃除夫の父は安定した収入を得ていた。音楽は兄姉のレコードを聴き、母親の弾き語りのゴスペルを聴いた。ギターは、4弦しかないギターで基礎を学んだ。10代から車を手に入れて、カンザス・シティへ旅に出る。それは車泥棒の罪で少年院生活を余儀なくされた。20代前半に結婚をして、スィート・ホームを手に入れる。それまで写真や車に興味が尽きなかった彼の生活が音楽中心となっていく。アイラ・ハリスというギタリストからテクニックを学ぶ。「これが後に、チャック・ベリーだと言われるスタイルの基礎になった」と本人も語っている。腰をかがめ、背中を垂直に伸ばして弾く「ダック・ウォーク」のアクションも生み出した。デビュー以降、多くのヒットと成功を手に入れた。1959年 未成年女性をテキサスからミズーリへ連れてきたことで、「マン法」違反で逮捕される。彼の行動は野心的であるがその無分別な行動が度重なる刑務所生活を余儀なくされた。服役から戻った時期は、幸運にもビートルズやローリング・ストーンズがアメリカへ進出。彼を「自分たちに影響を与えた人物」として多くのカバー・バージョンが発表された。「ROCK AND ROLL MUSIC/ロック・アンド・ロール・ミュージック」1957年「JOHNNY B.GOOD/ジョニー・B・グッド」1958年「MENPHIS,TENNESSEE/メンフィス」1959年「COME ON/カム・オン」1961年以降、讃えられた名声に野心的な創作意欲は薄れ、往年のヒット・ナンバーを演奏するコンサートを数多く行うようになってしまう。1981年 「KING OF ROCK’N ROLL」日本初来日。 1986年 ロックンロールの殿堂入り。ロックンロールの神様は、今も健在であるが、リーゼントに真っ赤なギターでダック・ウォークをする「PARCO」のCMが懐かしい。※マン法(the Mann Act) は、不道徳的な目的で女性を国外に連れ出したり州間を移動させたりすることを禁じたアメリカの法律。
2007.03.07
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はじめまして、Johnny-Kと申します。ROCK&ROLLとRhythm and Blues好きが高じてか、最近は往年のロック魂が恋しくなって独り言をつらつらと書きならべる今日この頃…。 ここは、ROCK54th STREET どこかの街みたいにサイレンの鳴り止むことがない…。アスピリンが効くまで、伝説のロック・スターとソウル・マン達の話をしようかと思った。
2007.03.06
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