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南浦洞でゆったり 10時前にホテル発、釜山駅から地下鉄一号線に乗って南浦駅で降りる。そのあと、タクシーで市街地の西南、松島海岸に行く。海岸に面して超高層ビルが林立している。空は晴れ間も見えるが、黄砂の影響できれいな青空は期待できない。「超高層アパート群」(見上げたらロープにぶら下がって塗装工事をしている人が3人) 半島南端部は、古くから中国や朝鮮に向かう日本の船が風待ちをした場所だ。地形的に風待ちには好都合だった。秀吉の朝鮮侵略時は朝鮮や唐の水軍と日本の船団との海戦もあった。釜山は今でも海上交通の要衝だ。「松島海水浴場」(さすがにまだ海水浴客はいない。鯨などのモニュメントがある) 現在は、海岸一帯は近代的なリゾート地に変容している。松島海岸には、人工海浜や、海上を歩くプロムナードなどが設けられている。海水浴場の東の松林公園から西側の岩南公園までは、約1.6KMの海上ロープウェイが運行している。「昼食は貝焼き」(多くの貝類がたっぷり出てきて、一人当たり1000円プラスαで安価) シニア4人旅の我々一行は、この風光明媚なリゾート地でのんびり過ごし、旅の疲れを癒した。13時ごろホテルに戻り、預けていたスーツケースを受け取って、タクシーで国際旅客ターミナルに向かう。「クイーンビートル」(やや長い通路を歩いて乗船する。正面からだと三胴式の船形がよくわかる) クイーンビートルは500人乗りだが、帰りも満席だった。土曜日なので日本に向かう観光客も多かったようだ。出航時に遠ざかる釜山港を眺めていると、再び1016年の船旅を思いだした。船で国境を超えるこの旅はことのほか新鮮だった。「旅の終わりの夕陽」(福岡港に入港するとき、島影の向こうに夕陽が沈んでいった) 釜山~大邱~慶州~釜山という3泊4日の旅、自分には初めてのところが多く、良いコースだった。少しでもハングルを読めるようになれば、旅の楽しみも増えるだろう。だが、それは自分にとってハードルが高い。 この旅を企画してくれた I さんに感謝しなければならない。いずれ一人旅でも挑戦してみたいものだ。釜山・慶州ともに、2泊ぐらいしてゆっくり回りたいものだと思った。↓ランキングに参加しています。良かったら下をクリックして下さい。写真日記ランキング【レビューを書いて500円OFFクーポン配布中!】【あす楽 対応】 ソチョン 韓国海苔 伝統韓国のり 1袋(12パック入り)×3袋セット 韓国のり 無添加 個包装タイプ価格:2,592円(税込、送料無料) (2024/4/23時点)
2024/03/30
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初めての慶州 大邱から慶州へはKTX(新幹線)を利用した。わずか20分足らずで東慶州駅に着いた。東慶州駅は市外から離れた郊外にある。我々はここでタクシーを予約、10時から16時までの6時間で慶州の見どころを回るタクシーツアーである。「初めて乗ったKTX」(車体を洗わないのか、黄砂の影響か、車体は黄色く汚れていた) 慶州(キョンジュ)は、三国時代の新羅(シルラ)の首都である。新羅は唐と組んで、660年に百済(ペクチェ)、667年には高句麗(コグリョ)を滅ぼして朝鮮半島を統一した。この慶州で一番人気の仏国寺は751年に建立が始まり774年に完成した。日本の奈良時代のことである。 最盛期には約60棟の木造建築があった。李氏朝鮮時代(15世紀以降)には仏教弾圧が行われるが、仏国寺は存続を認められた。しかし、16世紀末の豊臣秀吉による朝鮮侵略の際、加藤清正軍によって焼き討ちされている。「仏国寺の一柱門」(柱が一直線に並ぶ珍しい造りだが重厚感があって見ごたえがある) 17世紀には何度か復元が試みられたが、荒廃して廃寺となった。日本統治時代に朝鮮総督府によって復元が進み、石壇や石廊を含む主要構造が修復された。戦後の1973年に発掘調査の結果を受けて観音殿などの主要な建物が再建された。「天王門の四天王像」(かなり退色しているが色鮮やかに彩色されていたことがわかる) 戦火で破壊され後世に復元された部分が多いが、1995年に韓国では初めての世界文化遺産に指定された。日本の質素な雰囲気と比べると、建物や仏像は極彩色で飾られていて我々日本人は違和感を感じるが、訪米人には人気のようだ。「大雄殿」(日本でいう本堂、右の石塔は多宝塔) 仏国寺の境内はかなり広い。斜面を利用した石の基壇上に建物があるので、歩いたり登ったりそれなりに疲れる。仏国寺からほど近い世界遺産の「石窟庵」には新羅時代の如来座像があるが、今回はパスして慶州国立博物館を訪れる。 博物館には旧石器時代から新羅時代までを中心とした遺物が展示されている。ひと通り見てから慶州歴史遺跡地区に行く。古墳公園の中には23基の円墳が残っていて、ウォーキングができるように歩道が巡らされている。「古墳公園」(観光客は、貸衣装の民族服で散策したり写真を撮ったりしている) 新羅時代の善徳女王時代の石造りの天文台など、初めての慶州はなかなか印象深かった。6時間の滞在では見どころの一端を見ただけである。次回は慶州に宿泊してゆっくり来てみたい。16時半過ぎのKTXで釜山駅に戻る。3泊目の宿は初日と同じ東横イン釜山駅前である。「釜山の夜桜」(ほぼ満開である、土曜日とあって人出も多かった) 屋台をのぞいたり、鮒焼き(鯛焼きのミニ版)を買ったりしながら、夕食は鶏肉料理。なかなか柔らかくて、味付けも自分の苦手な辛さがなくて美味しかった。いよいよ明日は最終日、釜山でのんびり過ごす予定だ。↓ランキングに参加しています、良かったらクリックをおねがいします。写真日記ランキングオットギ ごまラーメン 115gx20個 韓国食品 輸入食品 韓国食材/韓国料理/韓国お土産/韓国ラーメン/非常食/防災用/防災グッズ/乾麺/インスタントラーメン/辛いラーメン/辛ラーメン/ラーメン/キムチ 焼肉 韓国料理価格:3,580円(税込、送料別) (2024/4/20時点)
2024/03/29
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沙也可の里、友鹿洞へ 昨年12月にも会った釜山外語大学の金元教授がホテルに迎えに来てくれた。金元教授は歴史の専門家ではないが、友人の「沙也加」に関する博士論文を手伝ったことがあるという。雨の中を1時間半ほど走り慶尚北道達城郡の友鹿洞に着いた。 この「沙也可」の村には8年前に訪問していた。 ↓https://plaza.rakuten.co.jp/shigedoraku/diary/201609250000/ しかしこの時は、この友鹿洞の村を紹介した司馬遼太郎の「韓の国紀行」のことは忘れ、問題意識を持たずに訪問していた。それで、旅の企画をしてくれた I さんにこの友鹿洞への再訪をリクエストしていた。 今回は達城韓日友好館に女性の日本語ガイドがいた。祖母が高知県出身で、自分にも4分の1だけ日本人の血が入っていると言う。そう言われれば「はちきん」の血をひいている感じで気風が良く話しぶりも心地よかった。「ガイドの女性から説明を聞く」(「はちきん」とは男まさり、竜馬の乙女姉さんがその典型として描かれている) ガイドさんのお話では、秀吉軍を裏切って朝鮮側に立って戦った「沙也可(朝鮮名金忠善)」のことを語ったら、3分の一の日本人は「まさか、信じられない」と言うそうだ。日本側の文献に出てこないこともあるが、「沙也可」の子孫が書いた「慕夏堂文集」によると、加藤清正配下で鉄砲隊を率いる武将だったとされる。「慕夏堂文集」(友好館に展示してある、沙也可から数代後の子孫が書いた伝記) 司馬遼太郎が訪問した1971年には、この友鹿洞は純粋な農村で、金姓の人が集住していたという。しかも大半が両班(貴族)の地位を持っていた。それから55年経った現在、多くの若者は大邱などに移住して、金一族は各地に離散しているという。「団体用応接室」(まるで国賓並みに歓迎されているような部屋で記念撮影) 見学後、金元教授の車で大邱市の東横インまで送ってもらった。ホテルに荷物を預け大邱の薬令市に行く。朝鮮古来の薬屋が並んでいた。一つの店でお土産を買った後、薬令記念館に行った。入場無料で韓国の薬の歴史などが分かりやすく展示してあったほか民族衣装の無料貸し出しもあって、自由に着て写真撮影ができた。「大邱の市場にて」(何種類かの揚げ物や煮物を買ってホテルで食べた) 大邱市は韓国第4の大都市で、郊外には未来先端医療産業、未来型自動車産業、ICT基盤のスマートシティ、クリーンエネルギー関係などの成長産業が集積している。関連する大学や専門学校も多く、今後、発展の可能性が大きい。 2泊目の夜は、大邱のホテルで過ごす。やはりこの日も眠りは浅かった。↓ランキングに参加しています、良かったらクリックをおねがいします。写真日記ランキング【4月18日限定/ポイント10倍!】【2024年楽天ランキング3冠受賞!】【クーポン対象】高麗人参サプリ 6年根・高麗紅参精タブレットGOLD(120粒)百済錦山人参農協 ginseng supplement (朝鮮人参 高麗人参エキス 紅人参 紅参 オタネニンジン 御種人参 サポニン ginseng )価格:7,200円(税込、送料無料) (2024/4/18時点)
2024/03/28
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1日目~初めてのQUEEN BEETLE 昨日出発の予定が、高波のためQUEEN BEETLEが欠航して、一日遅れの旅立ちである。今回も、昨年12月下旬の倭城巡りの旅を企画してくれた I さんの企画である。今日からの3泊4日の旅は福岡港の客船ターミナルから始まった。「対馬の北端を過ぎる」(船での国境超えは2016年の南回り地球一周の船旅以来だ) QUEEN BEETLEは、世界初の80m級の三胴船(トリマラン)でオーストラリアで建造された。総トン数2,300t、全長83.5m、全幅20.2 mで、航海速力は36.5ノット(約68Km/h)。福岡〜釜山間を約3時間40分で結ぶ。旅客定員は502名。 対馬を過ぎると波が高く、船内歩行時には注意が必要だった。釜山港に入港し入国手続き後、タクシーで今日の宿、東横イン釜山駅前に行く。チェックイン時間前だったので荷物を預け、駅前の両替店で数万円を韓国ウオンに両替する。「釜山駅と東横イン(中央)」(KTX(高速鉄道)や一般鉄道・地下鉄もこの駅を起点としている) 15時ごろ遅めの昼食を摂り、南浦洞の龍頭山公園に行く。この公園は高台にあり、エスカレーターも使って登る。公園の桜はほぼ満開だった。朝鮮半島南岸は対馬暖流の流れる朝鮮海峡に面していて、九州とほぼ同時期に桜が開花するようだ。「桜がほぼ満開の龍頭山公園」(高さ120mの釜山タワー、朝鮮水軍の将イ・スンシン像もある) 夕食はIさんの知人の作家ご夫妻とご一緒する。元新聞社論説委員で、38歳で日本の直木賞に相当する賞を受賞されたそうだ。韓国人の一般的なイメージは、いつも主張がとんがっていてやたらと声を張り上げるという印象が強い(メディアのすり込みもあるかも)。しかし自分の知人も含め、真に知性ある人は冷静で穏やかなお人柄だ。「Iさんの知人夫妻と焼肉店で夕食」(柔らかい肉の炭火焼きで、つい食べ過ぎてしまった) 今日は何とか天気が崩れずに良かった。秀吉の朝鮮侵略軍に立ち向かった水軍の将イ・スンシン(李舜臣)の像が釜山にあることは知っていたが、龍頭山公園で対面できてよかった。ソウルのセジョン(世宗)大通りにある像とよく似ていた。 日頃から不眠症の自分は、旅に出るとなおさら不眠になる。東横インは昨年12月にも止まった快適な宿であるが、やはり眠れなかった。↓ランキングに参加しています、良かったらクリックをおねがいします。写真日記ランキング【まとめてお得】【冷凍便発送】2種類から選べるセット! 元祖 ジョンノ ホットク 日本産手作りホットク 6枚セット 110g お得ビックサイズ ■韓国食品/新大久保/韓国食材/韓国お土産/冷凍食品/ホトック/ハットグ/簡単作り/コリアタウン/価格:1,070円(税込、送料別) (2024/4/14時点)
2024/03/27
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機張(くちゃん)倭城、国際市場 今日も午前9時、金先生の車に乗って最初に釜山港を遠望する展望台に行った。釜山は慶尚南道には属せず、釜山広域都市として人口330万人の大都市に発展している。ただ、地形的には山地や湾入が多くトンネルや橋で結ばれている。「展望台にて」(この地がどこかは、カメラのGPS機能を使えばわかるのだろうが) 10時過ぎ、機張倭城に行く。釜山広域市の東海岸部、標高65mの丘の上に築かれている。1593(文禄2)年、黒田長政が築いたが、長政の父孝高(如水)が在城した記録もある。観光客用の階段を登ってゆくと、途中にフェンスがあって進めない。「階段は立派だが」(フェンスの他に鉄条網もあって、厳重に囲まれている) どうやら遺跡の一部が民有地と主張している人がいて係争中のようだった。この機張城の最上部には天守台もあったようだ。最先陣をきった加藤清正軍の進撃の際の拠点にもなったおり、厳重な城構えが見どころなのである。「掲示されていた遺跡の復元図」(図のように強固な造りだが、中に入れないので確かめようがない) かろうじて城の石垣の一部が見えたが、フェンスから先には進めないし、回りこもうとしても鉄条網にさえぎられる。内部の平地には野菜畑などがあって、ここは俺の土地だと、かたくなに主張しているようである。「フェンスと石垣の一部」(掲示された看板から、金先生は裁判で係争中のようだと言った) 機張倭城は、釜山周辺の倭城の中では、築城時の様子がよく残っている遺跡である。文化財にも指定してあるのだが、文献の中にも北側の部分は私有地であると書いてある。違った地点から登れば天守台方面に登れたかもしれない。 驚いたことに、倭城の遺跡内に個人の墳墓があった。機張倭城だけでなく他の倭城後にもあった。金先生によると、行政側は持ち主に届け出るようにという立て看板を立てているが、ほとんど申し出る者はいないという。「倭城内の墳墓」(径5,6m程度のものが多いが、周辺の草は刈り取られている) 無縁仏ではなくて、誰かが勝手にこの地に墓を造って先祖を祀っているようである。文化財として指定される以前からのものなのだろう。 城を出て海鮮市場に行った。魚介類や野菜果物類の店が並んでいる。お客さんには観光客もいるが、釜山の人たちの台所という感じである。自分は免税店などには全く興味が無い。このような市場やスーパーマーケットを見るのが好きだ。 市場をしばらく見て歩いた後、ふぐ料理の店に行った。昼前であったが駐車場は満車で店内も満席だった。この店で奇跡の出会いがあった。この人気フグ料理店の店主は、今回の旅を計画してくれた K.Yさんの旧知の友人だったのだ。 思わぬ偶然の出逢いに思わずハグしている二人を見て、国を越えてこんなこともあるのかと自分はとても驚くと同時に嬉しかった。そして、この店のふぐ鍋は豪快でとても美味しかった。お客さんには観光客も多いようだった。「豪快で美味しいフグ鍋」(ぷりぷりの大きなフグがまるごと入っていてスープも絶品だった) 13時ごろお店を出て金海空港に向かう。15時ごろに空港について金先生とはここでお別れである。日本の大学に留学経験のある金先生は、言葉も心も日本人と同じような気配りで我々を案内していただいた。とてもありがたかった。「金海空港の夕暮れ」(仁川(いんちょん)空港に次いで重要な国際空港に成長している) 帰りは機内預け荷物に別料金がかかるというトラブルがあった。これも海外旅行ならではである。初めて旅仲間となった3人が、無事に有意義な旅ができたことに感謝していたら、すぐに福岡空港上空で、飛行機は徐々に機首を下げ始めていた。※このブログ記事を書くにあたっては、釜山外国語大学元教授で倭城研究家の 金ソンヨク先生のお話と、下に挙げた書籍の記事を参考にしました。↓ランキングに参加しています。良かったら下をクリックして下さい。写真日記ランキング倭城を歩く [ 織豊期城郭研究会 ]価格:2,640円(税込、送料無料) (2024/1/4時点)楽天で購入
2023/12/20
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亀浦(かとかい)倭城、金海竹島(きんむい)倭城、金官伽耶の遺跡 午前7時30分、ホテルの朝食。昼と夜は韓国の名物料理を食べることが多いので朝は軽めに済ませる。9時前に金先生がホテルに迎えに来てくれた。10分ほど走ったら最初の見学地亀浦(かとかい)倭城だった。「中心部の石垣」(市街地の75mほどの丘にあり、宅地化などで破却された部分が多い) 1593(文禄2)年、小早川隆景らによって築かれた。すぐ西を流れる洛東江からの物資の搬入に便利な地である。崩壊したり埋没した石垣も多いが、文化財に指定されていて公園として活用されている。「すぐ向こうには高層アパート群」(登城路をウォーキングしている人が見える) 築城当時の石垣がほぼ完全な形で残っている。この城は明国との講話が進む中でいったん廃城とされたが、交渉決裂により1598(慶長3)年に毛利秀元がここを修築したという記録がある。 次に、洛東江の西側にある金海竹島(きんむい)城に行った。この城は1593(文禄2)年に鍋島直茂によって築城された。後に伊達政宗もここに在陣したという。城下には朝鮮民衆の集落もあり、城下町が形成されていた。「金海竹島(きんむい)城」(典型的な日本式石垣で、草刈りなど管理はされているが崩れそう) 11時、昼食の場所へ。ニラのスープと小豆の炊き込みご飯がこの店の売り物のようである。ご飯を野菜などの具のの入ったどんぶりに入れてビビンバのようにして食べる。スープがとても美味しかった。 昼食後は伽耶古墳群を見に行った。日本の中学校歴史教科書には「大和政権は、4世紀ごろ、鉄や進んだ技術を求めて朝鮮半島南端の伽耶諸国と関係を深め、百済とも同盟を結んで高句麗や新羅と戦いました。」とあります(令和2年:教育出版「中学社会歴史」)。 大成洞博物館には、日本の2世紀の勃興期から6世紀後半(562年)に倭(日本)から百済に割譲されるころまでの遺物が展示してあった。この時期は日本では大和政権が力を増してゆく時期であり、伽耶諸国から鉄器をはじめとする様々なモノや技術が伝えられていたことと重ねて考える必要がある。「古墳群から出土した鉄器」(当時の鉄は、今でいえばリチウム、チタンなどのレアメタルに相当する) そのあと金官伽耶の初代王、首露王の陵を見学した。周辺には拝殿などの建物も復元してあった。ただ、首露王の即位は紀元42年だが、天から6個の卵が降ってきてその中の一つから首露王が生まれたという、あくまでも説話である。 金先生と、その六個の卵があるという丘に登ったが先生の記憶にある「卵石」?はなく、ただ径30mほどの砂地の広場があるだけだった。ちなみに、金官伽耶国は魏志倭人伝で言う「狗邪韓国(くやかんこく)」であるとされている。 3時過ぎ、金先生が教授として勤めていた釜山外語大学に行った。もう冬休みに入っているのか学生たちの姿は少なかった。そのあと喫茶店に入ってカフェオレを頼んで休憩時間とする。この喫茶店はとても笑顔がやさしいママさんがいた。「カフェオレのほかに美味しいものが」(右上はとても甘い柿大富士で右下は韓国名物のヤッカ~妹さんの手作り?) 先生とママさんが親しく話している。そのうちにママさんとよく似た女性が、韓国銘菓「ヤッカ」を持ってきてくれた。後で分かったが、この姉妹は金先生の妹さんたちだった。とてもくつろいだ時間を設定していただいた。 夕方、ホテルにチェックインして、まず駅前の両替屋で5000円分両替する。昨日1万円両替したが、昨日より少し円高になっていた。5千円で45000ウォンだったと思う。この日の夜は釜山駅近くで海鮮スープを食べた。※本ブログの記事は、金先生のお話や下記の本を参考にしました。↓ランキングに参加しています。良かったら下をクリックして下さい。写真日記ランキング倭城を歩く [ 織豊期城郭研究会 ]価格:2,640円(税込、送料無料) (2024/1/3時点)楽天で購入
2023/12/19
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早起きして、楽しみな旅の始まり 6時前の電車で I さんと福岡空港へ、そこで初対面となるもう一人の旅友 M さんと会い、3人旅の始まり。エア釜山の9時25分発は1時間弱で金海国際空港に到着した。金海空港は韓国一長い(525Km)洛東江の川中島にある。 12時近く、空港内のレストランで昼食。韓国最初の食事はおなじみのビビンバ。私たちを出迎えてくれた釜山外語大学の金先生は定年退職されたが、まだまだ若々しくて優しい面差しで、日本語はとても達者だった。金先生の車で高速道路を小一時間走って、13時過ぎに最初の見学地、蔚山(いさん)倭城に着いた。「蔚山倭城と西生浦倭城」(初日の今日は、蔚山倭城とその南側に位置する西生浦倭城を見学した) 倭城の多くは、最初の朝鮮出兵時の1593(文禄2)年ごろ、補給基地確保のため築城された。しかし、蔚山倭城は対明交渉決裂後の1597(慶長2)年に築城開始された。明軍の襲来に備えた守りの城である。「本丸への登り道」(石垣の主要部は残っているが、まだ未調査の部分も残る) 1597年に築城が開始され、石垣の組み方からも加藤清正の熊本城との関連が分かる。だが、完成直前に朝鮮と明の連合軍が来襲し、日本側は籠城戦となり苦戦した。その後、黒田長政らが応援に駆けつけかろうじて城は死守された。「天守台付近の石垣」(翌1598年、豊臣秀吉の死により日本軍はこの城を出て帰国した) 現在、蔚山倭城は蔚山市の文化財に指定されているが、まだ未発掘の区域もあり全貌は分かっていない。現在は鶴城公園として市民のウォーキングコースとして活用されていて、アスレチックの施設などもあった。「清掃活動をする人たち」(市民の皆さんが、モミジの葉を丁寧に掃いて処分していた」 負の遺産である倭城を文化財として保存し、観光地としてまた市民の健康つくりの場として活用されている。そのことは自分にとっては想定外のことだった。 次に1時間弱ほど高速道路を南下し、西生浦(せっかい)倭城に着いた。1593(文禄2)年、加藤清正の築城とされる。この城は南北400m、東西700mという広大な規模で、曲輪、虎口、横堀、天守台などがほとんど原形のまま残っている。「南側の登り石垣」(蔚山城の戦い後の増築により、城壁や虎口が多く防御に徹した構造となっている) この長い石垣に沿って登城路が続いている。天守台の高さは133mで、かなりの急坂を上って6カ所の虎口を通過しないと天守台に達しない強固な造りとなっている。「虎口の一つを登る」(さすがに元気なMさんもウォーキングポールを使っていた) 坂道は登りが大変なようだが、本当に身体に応えるのは下りだ。ひざや足首を痛めないように用心しながら下る必要がある。「蔚山のコンビナートに向かう船が見える」(加藤清正が最初に手がけた城で、随所に優れた築城技術が残る) こんな大規模な山城を築くには、石材を山上に運ぶ労力だけでも大変だ。多くの日本人の従軍労役者や石工のほか、多くの朝鮮人も徴発されただろう。彼らの血と汗によって倭城は築かれた。保存状態が良くて蔚山市の文化財に指定されている。 夜はたまたま一人旅の女性と4人で一緒に焼き肉を食べに行くことになった。この旅を計画してくれた I さんが韓国に関して持っている情報量はとても多岐にわたっていて、この日の焼き肉店までタクシーで30分ほども走ったと思う。その間タクシー運転手とたのしく、ごく普通に会話をしていた。 途中で大きな橋を渡ったが、その橋が釜山港大橋だったのか、南港大橋だったのか、地図で調べても分からない。ともかく自分が釜山について分かったことは、我々が連泊した東横イン釜山が釜山駅のすぐ近くだったということだけだ。「美味しい焼肉」(コロナの期間を除いてこの10年余りで韓国には7回ほど来ている) これまでの経験から、ソウルよりも日本に近い釜山の料理が自分の口に合う。特にこの焼肉は名物店のようで、炭火で肉を焼きながらまわりの丸い溝で卵焼きを作ったり、キムチなどの野菜類を炒めたりできるところだ。 明日の城巡りを楽しみに眠ろうとしたが、日頃から睡眠障害の自分は、旅先ではなおさら眠れない。うとうとしているうちに2日目の朝を迎えてしまった。※このブログを書くにあたっては、釜山外語大学日本語科の金元教授の解説のほか に、下記の書籍を参考にしています。↓ランキングに参加しています。良かったら下をクリックして下さい。写真日記ランキング倭城を歩く [ 織豊期城郭研究会 ]価格:2,640円(税込、送料無料) (2023/12/30時点)楽天で購入
2023/12/18
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あと10年使うかわからないが 2020年から22年までの新型コロナ感染症拡大のために、海外に行くことが無かった。例年ならば毎年一回は、所属している民間交流団体の一員として隣国を訪問していた。しかしこの三年間、両団体の相互訪問も中断したままだった。 今秋は訪問できそうということでパスポートを確認したら、今年7月4日に有効期限が切れていた。このパスポートは、2011年7月から11月までの一回目の世界一周北回りの船旅で使ったものが期限が切れ、2013年に再取得していたものだ。「有効期限が切れたバスポート」(黄色い紙はボリビア等数国の入国に必要だった黄熱病予防接種証明書) 2013年に取得してからは、上に述べた民間国際交流や2回目の世界一周南回りの船旅の他、ボリビア、ペルー、アルゼンチンなどに旅した。世界一周の船旅だけで20ヵ国ぐらい回るので、出入国のスタンプのページはほぼ埋まっている。「スタンプで埋まっている」(2015年12月、スエズ運河とパナマ運河を使わない2回目の船旅をした) それにしても、10年間有効のパスポートは1万4千円の収入印紙が必要だ。これはシニア割引が無い。ちょっと高いが、日本政府の発行したパスポートが無いと海外にはどこも行けないので少々高くても仕方がない。↓ランキングに参加しています。良かったら下をクリックして下さい。写真日記ランキング【期間限定ポイント5倍】セキュリティポーチ スキミング 防止 パスポートケース RFID ウエストポーチ 海外旅行 スキミング防止 パスポートケース 貴重品 ポーチ 薄型 軽量 skipo バッグ 貴重品入れ レディース メンズ キャッシュレス カード ポーチ バッグ 旅行 安全価格:1,650円(税込、送料別) (2023/7/23時点)楽天で購入
2023/07/21
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半世紀前の必需品 押入れを片づけようとして、重い袋状のものを見つけた。勿論見覚えはある。30年ほど前、ヨーロッパへの研修視察の旅で使ったものだ。 20名程で2週間あまり、ドイツ、ベルギー、ルクセンブルグ、フランス、オーストリアなどを回った。自分は撮影記録係だったので、大量のフィルムやビデオテープを携行した。空港でのエックス線検査対策として鉛を使ったこの袋を持って行った。「フィルムシールド」(その昔は、写真愛好家にとって海外旅行の必需品だった) ヨーロッパにはこの研修旅行の10年前にも個人的に旅したが、その時はこの袋(フィルムシールド)を使った記憶はない。研修視察で公式記録を残すとあって用心のために使ったのだ。 その結果はどうだったかというと、何本かのフィルムにカブリ(エックス線の影響と思われる)が見られた。数本のフィルムに白飛びしているコマがあったのだ。 それは多分旧東ベルリンの空港でのことだろう。旧東ベルリンと書いたのは、この研修の旅は1990年の秋だった。1989年のベルリンの壁崩壊の1年後で、東西ドイツ統一式典の一週間後にベルリンに入ったのだ。ドイツ出入国では旧東ドイツの旧東ベルリンの空港(シェーネフェルト空港)を使った。「シェーネフェルト空港で乗務員の女性と」(ソ連圏から離脱したためか、やや硬い表情ながら笑みも見える) 当時ソ連をはじめ共産圏の国の空港では旧式のエックス線検査機を使っているということを聞いていた。だから、シェーネフェルト空港で出入国の際、旧式のエックス線検査機で強いエックス線を浴びてこの袋も一部用をなさなかったのだろう。 確かに東西冷戦終結の時点ごろまでは、共産圏や一部の開発途上国の空港では、エックス線検査には要注意とされていた。現在ではほとんど改善されていると思うが、フィルム類は機内持ち込み荷物に入れるのが基本だ。 預け荷物はどんな扱いをされるかわからない。時には中身を抜かれたりすることもあるし、エックス線検査も厳重に行われているかもしれない。特にテロ対策のため多くの国で入国検査を厳しくしているので気は抜けない。↓ランキングに参加しています、良かったら下をクリックをしてください。写真日記ランキングドイツビール8本セット 4種×各2本8本セット 送料無料 輸入ビール 飲み比べ 詰め合わせ オクトーバーフェスト 長S フランチスカーナー期限2022/10/27価格:3598円(税込、送料無料) (2022/9/20時点)楽天で購入
2022/09/13
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フランス第一の観光地 モン・サン=ミシェル(Mont Saint-Michel)は、フランス西海岸のサン・マロ湾にある小島にそびえる修道院である。カトリックの巡礼地で、有名な観光地でもある。1979年に「モン・サン=ミシェルとその湾」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録され、1994年にはラムサール条約の登録地にもなった。「現在のモン・サン=ミシェル」(新造の橋が見える~Face Book動画<9/11~ロイター>よりクリップ) サン・マロ湾はヨーロッパでも潮の干満の差が激しいところで、干満の差は15メートルにも達するという。このため、かつては満潮時には海に浮かび、干潮時には自然に現れる陸地で陸と繋がっていた。 最も大きい潮が押し寄せるのは満月と新月の28-36時間後で、引き潮により沖合い遠くまで引いた潮が、猛烈な速さと勢いで砂嘴に押し寄せる。このためかつては多くの巡礼者が潮にのまれて命を落としたそうだ。 1877年に対岸との間に地続きの道路が作られ、潮の干満に関係なく島へと渡れるようになった。しかし、これによって潮流をせき止めることとなり、100年間で高さ2mもの砂が堆積して、急速な陸繋島化が島の周囲で進行した。「2006年のモン・サン=ミシェル」(島と陸を結ぶ道路のため潮流が変わり、島の周囲に砂が堆積している) 観光面では大型バスが通れる道路が建設され、フランス有数の観光地となった。しかし、その反面、かつての神秘的な光景は失われた。そこで、かつての姿を取り戻すべく2009年に道路が取り壊されて、2014年に新たな橋が完成した。 自分はこの地を2011年に訪れた。2009年に道路は取り壊されたそうだが、観光バスで修道院の入り口まで行くことができた。たまたま干潮時だったのかもしれないが、海の中に浮かぶ光景は想像できなかった。「2011年のモン・サン=ミシェル」(駐車場にバスと車が沢山停まっていた。昼食で食べた生ガキが旨かった) しかし、Face Bookに掲載された最新の動画(一番上の写真)を観れば、周囲を取り囲んでいた砂州が消滅し、孤島状態に姿を戻していた。現在では干潮時にかつての陸橋(砂嘴)が現れる程度なのかもしれない。 しかし、モン・サン=ミシェルはフランス第一の観光名所である。観光客の利便のため橋がつくられた。これなら、海流をさえぎらないから陸繋島化が防げる。かつ、観光地としての交通も確保できるということだろう。↓ランキングに参加しています、良かったら下をクリックをしてください。写真日記ランキング令和対応 役所提出できる オリジナル婚姻届け モン・サン=ミシェル モンサンミシェル A3サイズ 役所提出用 自宅で飾る用 書き損じ用 3枚セット価格:2000円(税込、送料別) (2022/9/20時点)楽天で購入
2022/09/11
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海面上昇でできた世界一広い平坦地 地球一周の船旅が、最終盤になってハリケーンに航路をさえぎられまれ、最終寄港地のマンサニージョ沖合で待機となった。2日間ほど遅れてやっと入港できたが、給油施設などの修復のために港内で待機となった。↓この辺りの事情は下記の本ブログ記事参照https://plaza.rakuten.co.jp/shigedoraku/diary/201110140000/ そのため横浜帰港も予定より遅れて11月1日となった。自分にはその遅れは大きな問題だった。それは、11月10日から南米ボリビアへの旅を予定していたからだ。ボリビア入国には1週間前までに黄熱病の予防接種をしておくことが必要だった。帰国翌日、福岡の検疫所で接種を受け何とかぎりぎりで間に合った。 ボリビアは南米の中央にある内陸国である。この地に妻の叔父がJACAの前身の組織から農業指導で派遣され、農地開拓に尽力した。その叔父と子ども(従妹)たちは、日本人居留地サンファンで、農業や建設業、医師として活躍している。「叔父の家」(緯度は南緯約20度、北半球で言えばハワイと同じくらいだ) 叔父は70代半過ぎだが元気で、我々のボリビア訪問を楽しみにしていた。そこで、我々夫婦と従妹2名の4名で、はるばる地球の裏側を訪ねたのだ。自分は長い船旅を終えてやっと「岡酔い」が治ったばかりだった。 ボリビア到着後数日間は、休養を兼ねて従弟たちの農場や養鶏場などを見学した。何もかも大規模で驚きの連続くだった。もとはこの地は密林だったが、叔父たちがブルドーザーで切り開いた。その壮大な仕事に圧倒されるばかりだった。 そして、2011年11月14日、ウユニ塩湖への旅に出発した。途中で貧しい民衆たちが政府に何かを要求して、ストライキを起こし道路を封鎖していた。これをブロッキングと言って、よくある風景だという。「ブロッキング」(車の列は一向に進まず、一旦スクレの町に戻って食事をした) その後、我々と同行の従妹4名を乗せた四駆車2台は、ガードレールもない山道を疾走した。迂回路を走ったのである。高度3000m以上の乾燥して埃だらけの悪路だった。最終的には深夜になって、塩湖のほとりの塩のホテルに着いた。「高度3700m、世界一の風景」(翌11月15日、我々は世界中の誰もが憧れる絶景の中にいた) 本当は雨期(南米では1月~2月ごろ)に訪ねた方が、降水に覆われた湖面が鏡のようになって美しいという。でも、旅にはこの時期が一番良いということで現地の従姉たちがプランニングしてくれたのだ。 この風景は10年経った今でもしっかりと目に焼き付いている。自然の雄大さをたっぷりと味わう事がでっきた至福の瞬間だった。↓ランキングに参加しています。良かったらクリックをお願いします。写真日記ランキングウユニ塩湖完全ガイド [ Only One Travel ]価格:1650円(税込、送料無料) (2021/11/17時点)楽天で購入
2021/11/15
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2011年、パナマ運河を航行 実際に通って、この運河の重要性が再認識できた。最近はコロナウィルス問題もあってグローバル化の影の面がクローズアップされている。 今回のクルーズで通過したスエズ運河とパナマ運河は、グローバル化の出発点となったビッグプロジェクトだった。この運河建設のためにパナマは運河地帯をアメリカの租借地にされた。現在では返還され通行料は国の重要な財源となっている。「パナマックスサイズの船が上下線ですれ違う」(現在は第二運河の建設でもっと大型の船が航行できるようになった) 拡張工事は2016年に完成した。拡張工事前は長さ294.1m、幅32.3m、喫水12.04mまでの船しか航行できなかった。これを当時はパナマックスサイズといった。現在は、長さ366m、幅49m、喫水15.2m船まで航行できるようになり、待ち時間も少なくなっている。「拡張されたガツゥン閘門」(喫水線の異なる船が同時に通過できるようになっているようだ) パナマ運河の拡張で外洋船の大型化も進んだ。造船業界にも経済的な恩恵がもたらされている。なお、スエズ運河は閘門式の運河ではなく掘削しただけなので、通過できる船の大きさに制限はない。ただし、上下同時に航行することはできないので待ち時間はある。 海運は日本で言えば邪馬台国時代の古代から、21世紀の現代にいたるまで、経済発展の大きな原動力となってきた。IT化がいくら進んでも、大量の物を輸送するには、タンカーや貨物船の役割はまだまだ大きい。 9年前、2つの運河を航行することでまさにそのことを体験した。↓ランキングに参加しています。よかったらクリックをお願いします。にほんブログ村「ナチュラルカラー」のパナマハット 【Ecua Andino / クラシック・ナチュラル】公式輸入業者 証明書付き・専用の保管袋・保管箱入り ギフトに最適 パナマ帽 エクアドル直輸入 公式ブランド 軽くて涼しい トキア草 パナマ草 お誕生日価格:11000円(税込、送料無料) (2020/10/18時点)楽天で購入
2020/10/01
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大食の国は薬も大きい? 今年9月から10月にかけて南米に旅した時、ボリビア在住の従妹がマチュピチュヘの出発前に、念のためにといくつかの薬を買ってくれました。サンタクルスからクスコへ飛ぶ前夜のことです。 ※2017年9月24日の記事 翌日(9月25日)ラパスに着いたら、6年前(2011年)の旅では、高度4000mのラパスでも何ともなかった自分が、高度3399mのクスコでどうも体調がおかしくなったようです。 翌日のクスコ観光1日目である9月26日も朝食が少ししか食べられず、自分だけはホテルに残って休養することにしました。どうやら高山病に罹ったようです。「この薬を飲んで寝ていたら治るよ」という従妹の言葉に素直に従ってベッドに入りました。そして薬の袋を開けてみたらびっくり。「これは錠剤?」(錠剤にしては大きすぎる、トローチみたいに大きいのです) 大食の南米人はこんな大きな錠剤をのむのかとおもってのみ込んでしまいました。すると案の定、食道の中ほどで詰まってしまいました。「スペイン語は読めないし…」(パックの裏側、これだけの文では服用法まで書いてあるようには見えません) 後で思ったけど、ホテルのスタッフに尋ねたらよかったのです。英語でなら分かったでしょうから。結局水で流し込んで何とか飲み込んで胃袋に納めました。 あとで、この時のことを思い出したので、帰国後にLINEで従妹に「あの薬はどうしてのんだら良かったの」と尋ねてみました。その答えは「えーっ飲み込んだの、あれはかじる薬だったのよ」。それを読んで一人で爆笑してしまいました。 あの薬は胃薬だったそうです。〇〇胃散を丸く固めたようなものだったのですね。「かじる薬」ねえ、日本にはあるかな。「所変われば品変わる」とはよく言ったものです。↓ランキングに参加しています。良かったらクリックをお願いします。にほんブログ村
2017/12/19
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マイアミ、ダラス、成田そして福岡空港 マイアミからはアメリカン航空(日本航空と提携している)なので、日本語のアナウンスも流れる。言葉がわかるとやはり安心感がある。 今回の旅では何度も飛行機を乗り継いだ。出入国手続きや、搭乗前の手荷物検査ではあれこれ失敗もあった。搭乗口まで行ってやっと安心というパターンの繰り返しであった。 しかし、余裕を持つのはいいが、時には搭乗口で2時間も待つなんてことがある。街並みや風景をスナップしたい自分には、搭乗口で無為に時間待ちしているのがもったいない。しかし、同行の2人が従姉妹同士ということで性格が似ていて、一口で言えば「せっかち」なのである。いつも「早く、早く」と急がされてしまうのである。 ダラスで最後の乗り換えをし、いよいよ成田に向かう。乗客も日本人が増えてきた。ただ、路線なのに帰りは大変きつかった。まず不眠症の自分は狭い機内では全く眠れない。座席が狭くて動けない、それでも機内食には手をつけるからお腹が張って調子が悪い。「最後の機内食だった?」(日付変更線を超えたので、10月7日が消えて10月8日になった) 仕方ないから映画を3本も見て、あとは座席の前のモニターで飛行状況を見て過ごす。驚いたことにベーリング海峡付近では時速85kmほどの向かい風が吹いていた。偏西風は、行きは追い風だが帰りは逆風になるからダラスから成田まで14時間もかかることになる。 この日の写真はほとんどない。座席が窓口ではなかったこともあるが、ダラス空港では夜になっていたし、太平洋上からは何も撮影するものはない。「やっとあと少し」(列島上空になると逆風もなくなり、予定より少し早く成田空港に着きそうだ) 16時50分、長い長い飛行を終えて成田空港に着陸した。九州より東に位置するために、まだ午後5時前というのにすっかり辺りは暗くなっている。「成田空港着」(機体の赤いライトが点灯した瞬間だから翼が赤く照らされている) アメリカン航空機から日航機に乗り換えて福岡に向かう。19時発だから福岡着は21時、午後9時ごろになった。「福岡市上空」(眼下には見慣れた風景が広がっている) 妻の妹が車で迎えに来てくれていたが、彼女は何と午後3時ごろには福岡空港に着いていたという。その時間、我々はまだ北海道上空のアメリカン航空機に乗っていた。これまた血は争えない「せっかち」な妹なのであった。 空港から車で1時間半、午後11時ごろに3週間ぶりに我が家に着いた。懐かしい人々、新しく出会った人たち、多くの出会いがあった。そして、クスコ、マチュピチュにイグアスの滝と、簡単にはいけない世界遺産をこの目で見ることができた。 今回の南米への旅は、おそらくこれまでの旅のなかでも、これからするであろう旅を含めても、一番最高の思い出として残ることは間違いない。↓ランキングに参加しています。よかったらクリックをお願いします。にほんブログ村
2017/10/08
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ボリビアからマイアミに サンタクルスのホテルの中庭で簡単な朝食を摂って、朝6時前からビルビル空港へ向かう。ちょうど日の出の時間帯である。ボリビアに3週間近く滞在していると水平線近くに見る日の出や日没にもすっかり慣れてしまった。「午前6時5分」(ボリビアの東部には大平原が広がっているんだと改めて思う) 今回はこれで6回目となる(マチュピチュ、イグアスの旅の中継点だったから)サンタクルスのビルビル空港である。ボリビア第2の大都市に発展しているのに、空港は6年前とそんなに変化がない。南米のハブ空港として整備したら良さそうに思うけど。「いよいよお別れ」(送りに来てくれた従兄弟と別れて、飛行機は9時34分離陸) 窓際に座っている妻が時々カメラを貸してという。あとで写真を見ると、まあまあ良く撮れていた。南アメリカ大陸の北端のコロンビアの海岸やフロリダ半島などが写っている。「マイアミ上空」(右上の海岸線がマイアミビーチ) マイアミ前の飛行時間は6時間半で午後4寺過ぎにマイアミ空港着陸。今日はここマイアミ空港内のホテルで1泊する。来るときに確かめていたホテルのフロントでチェックインする。ところが、重いトランクを引っ張って指定した部屋にカードを挿してもドアが開かない。 またトランクを転がしてフロントに戻って事情を伝えると、フロントの女性はパソコンでカードの番号を打ち直している。そして無愛想に「Sory」ともいわずにカードを渡した。なんてこった。Smileという単語を彼らは忘れたのか。 従姉妹の部屋も開かなかった。一人で荷物を運ぶのが大変なので黒人のボーイに頼んだ。そして、チップに10ドルを渡すと、彼は微笑んで5ドルお釣りをくれたという。10ドルは確かに多すぎたんだよね。アメリカでは白人の有色人種への対応は良い印象を持てない。「空港内で夕食」(なぜか「バドワイザー」がなく、ビールはメキシコの「コロナ」) 我々日本人3人だけになるとみんな急に小心者になる。夜になろうとしているマイアミの街に出る勇気もなく、空港のレストランで夕食を済ませるとおとなしく部屋に戻った。↓ランキングに参加しています。よかったらクリックをお願いします。にほんブログ村
2017/10/06
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道路封鎖(ブロッキング)の情報 日本を出てから今日で18日、帰国の時が近づいたが、最後にもう一つまたハプニングがあった。それは道路封鎖(ブロッキング)という、民衆によるの一種のストライキの情報である。 6年前、スクレからウユニ塩湖に向かう途中で道路が封鎖されていて、すごい崖の上の道を激走して真夜中にホテルに着くという(貴重な?)経験をした。「6年前の道路封鎖の様子」(長い渋滞が起きているが、のんびりしたもので騒ぎが起きている様子もない) 今回は交通事故で死者が出たため道路にスピードダウンのための対策をとれという要求のようだ。交通ルールを守らない南米では速度制限の標識は意味がない。強制的に速度を落とさせようというのだ。 その対策とは、道路を横切るように幅1m、高さ33cmほどのかまぼこ型の山を設置すること(名前を忘れた)である。集落の入り口によく設置してある。標識があるが、見落とすと車が壊れるだろう。 ということで、明日の早朝サンタクルスの空港に向かう予定だったが、道路封鎖(ブロッキング)が強行されたらいけないので、今日のうちにサンタクルスに向かうことになった。「見慣れた鳥ともお別れ」(鳴き声で分かるというが、日本の野鳥も聞き分けられない自分には無理だ) 叔父さんは今日はゲートボールに出かけるという。6年前はパークゴルフだった。まだまだ健康で、自分で車を運転して出かけるという。「いつまでも元気で」(叔父さんは老人会の冊子に書いたウナギの話をしていた) 叔父さんはウナギへのこだわりを書いていた。日本にいた子どものころ、食糧難を少しでも助けるために近くの川でたくさんウナギをとったこと、ボリビアで日本ウナギの味を求めて釣りをしたことなど、文章にはユーモアがあって面白い。「出発の前に」(お別れというより出発という感じである。これからもずっと元気でいてください) 従兄弟の車に今回の旅の荷物を全部載せていよいよサンファンの家を出発する。6年前よりも耕地化が進んでいたり道路沿いに家が建っていたりするが、日本の経済発展の速度と比べるとゆったりしている。「かまぼこの標識」(右側の標識の先に、「かまぼこ」があるのでスピードダウンしなければいけないのだ) この「かまぼこ」のことをメキシコでは「TOPE」(トペ)ということをずっと前のこのブログで書いていました・村上春樹の本で出てきたので引用しています。忘れっぽくて同じことを書いたり、書いたことを忘れたり。これは気をつけていてもやらかす失敗です。https://plaza.rakuten.co.jp/shigedoraku/diary/201211010000/ ホテルについて食事に出た。今日の夕食は中国料理店でシイタケのスープや焼きそばなどを食べた。どこの新興国にも中国人の進出は目覚ましい。↓ランキングに参加しています。よかったらクリックをお願いします。にほんブログ村
2017/10/05
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水田と養鶏場見学 結婚式が終わったと思ったら、田植えが始まっていた。日本の田植機を取り寄せているために苗作りも日本と同じパレットが使われている。「苗の積み込み」(現在一番広い田んぼは約5ヘクタールもあるという) 当初入植時に各農家に割り当てられた耕地は1km×500mだったそうだ。現在でも地名を現すのに、「○○km」というのが使われている。しかし、最初は道路もない密林だったから、まず道路つくりから始まった。 最初は木を切り倒して焼き畑から始まったという。それを繰り返しながら木の根を引き抜き耕地にするのにものすごい労力が払われた。この時の苦労は現在でも入植一世の方々によって語り継がれている。「8条植えの田植機」(田植機が豆粒に見えるほど広い田んぼ、この田んぼは今日中に植えてしまうという) 日本製の田植機が活躍しているが、近い将来、GPS付きの精巧な田植機が導入する予定という。こうして栽培される米はサンファン米として出荷されている。まったく日本米と変わらない食感で、各家庭では毎食ご飯を食べ、日本よりも日本らしい食生活がそこにはある。 田んぼを一回りしてしばらく昼寝をする。気温は30度近くに上がっているが湿気がない。室内はとても涼しくて、旅の疲れもあってか知らぬ間に寝入っていた。 夕方養鶏場を見せてもらった。家のすぐ裏にあるが管理が行き届いているためか、日本で問題になるような悪臭が全くしない。現在8棟に1万8千羽を飼っているという。「自宅裏の鶏舎」(採卵は1日に3回行う、餌は下の樋にあり、水は上の樋を流れている) 定期的に鶏糞を管理するなど、鶏舎が清潔なために鶏も健康そのものである。6年前に来たときも思ったが、自分の今まで持っていた日本の鶏舎のイメージとは全く違っていた。「計量と箱詰め」(こんな機械があるとは知らなかった。初めて見たがこれはとても面白い) この作業もボリビア人の使用人が行っている。こうしてサンファンはボリビアにおける鶏卵の1大産地となった。これも永年にわたって日本人移民の方々が努力された結果である。「送別会」(従姉妹・従兄弟の各家庭の皆さんが集まってくれた) 素晴らしい結婚式、そしてクスコ・マチュピチュ、イグアスの滝、ブエノスアイレス、とて思い出に残る3週間だった。どこもかしこも、とてもインパクトのある旅だった。 サンファンではまるで自分の家にいるようにリラックスさせてもらった。本当に感謝の言葉をいくら並べても足りない。↓ランキングに参加しています。よかったらクリックをお願いします。にほんブログ村
2017/10/04
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一応の、旅の終わり 南半球はこれから夏に向かっていくが、人々の服装はまだ晩春という感じだった。ホテルチェックアウト待ちの間に街をゆく人々をスナップした。「再会」(久しぶりだったのか、昨日の今日なのか。後ろ姿から二人の歓びが伝わってくる) 向こう側はウルグアイ東方共和国。この付近は河岸というより大西洋岸という感じである。この雄大な眺めにしばし浸っていたかった。「空港ロビーより」(1年半前、ウルグアイのモンテビデオ港から遡上してここブエノスアイレスに寄港した) この旅では何回も飛行機を乗り継いだ。今日はいよいよボリビアのサンタクルスに向かう。今回もバスに乗ってタラップを登って機内に入る。「サンタクルスへ」~動画からクリップ(このフライトの先にはサンファンが待っている) 長く旅を続けていると、不思議なことに叔父さんや従姉妹たちのいるサンファンが自分の故郷のように思えてくる。長い旅も最終段階に入ろうとしていた。 サンタクルスのビルビル空港には、一番上の従兄弟の次男が向かえに来てくれていた。たくさんの荷物をトヨタのランドクルーザーに載せていよいよサンファンに向かう。サンファンでもちょっと激しい雨が降ったという。イグアスの嵐はやはりボリビアにも広がっていたのだ。「ボリビアの大平原に落ちる夕陽」(サンファンまでは幹線道路で舗装してあるから快適である)~動画からクリップ 夕方、予定より1日遅れでサンファンに無事帰ってきた。今回の旅はペルーのマチュピチュとアルゼンチンのイグアスの滝を観光するという大がかりな旅で、移動距離だけでも南アメリカ大陸を縦断するぐらいの長い距離だった。↓ランキングに参加しています。よかったらクリックをお願いします。にほんブログ村
2017/10/03
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夜のタンゴショーを鑑賞 昨夜のことであるが、急遽手配してもらったホテルへバスで向かう途中、大きな木が道をふさぐように倒れていた。知らない間にイグアス周辺でも暴風雨が吹いていたのだ。 今朝になると天候は一変して回復した。1日遅れではあるが午後遅い時間にブエノスアイレス空港に降り立つことができた。あとで聞いたが、この暴風雨はビリビアのサンファンにも広がったらしい。「市街地上空」(アルゼンチンの首都ブエノスアイレスは人口290万人を擁する) この国の大部分はラプラタ川流域の大平原地帯(パンパ)である。そういう意味ではこの街は特異な近代的大都会である。南米のパリといわれる由縁はそんなところにあるのだろう。「ショーウインドウ」(近代的なファッションが、ジャングルから飛んできた目にはとても新鮮だ) 夕方の街には退勤する人が多く、バスや車の数もたくさん走っている。しかし、アジアやアフリカの都市のような喧噪はない。声高な話し声も聞こえてこない。誰もが自分の1日を終えて黙々と家路に向かっている。「夕暮れの交差点」(街を行く人々や車の影が長い) 広大な山岳や原野などの大自然の中に、少し似つかわしくないヨーロッパ系白人が間借りして暮らしているという思いがあるのだろうか。しかし、アジア系に対しては先天的に優越感のDNAを持っているような感じがするのは気のせいだろうか。「黄昏時のビル街」(広い平原に沈む夕陽が高いビルの上を照らしている) スケジュールが1日遅れたが、タンゴショーのチケットが取れたということで、夕食後出かける。開演より少し早い時間に着いたため、一番前の席を確保することが出来た。「タンゴショー」(演じているダンサーの技量のほどはわからないが、なかなか新鮮な時間だった) 1日予定は遅れたが、Ⅰ年半前船旅で寄港したときに見なかったタンゴショーも見ることができて満足の1日だった。欲を言えば街角スナップの時間がほとんどなかったことだ。↓ランキングに参加しています。よかったらクリックをお願いします。にほんブログ村
2017/10/02
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悪天候で引き返す イグアスの滝のホテルはジャングルの中にある高級リゾートホテルで、吊り橋などで何棟かに分かれていて、最初のころは間違って別の棟に渡ったりして迷った。広大な自然公園の中にたくさんの高級リゾートホテルがある。宿泊客には欧米からの観光客が多い。「プールもあるホテル」(このプールの水は雨を貯めて使っているのだろう) シャトルバスを待つ間にホテルのショップで民芸品を中心とした土産物を見る。ホテルは町から離れたところに散在しているので、この地の人々の生活の様子が見えないのが残念だ。「土産品」(先住民の文化に関するものが多い、左側は出産のシーンを表現している) マイクロバスで空港に向かう。しかし、なかなか搭乗の案内がなく、やっと搭乗したら今度はなかなか動き出さない。しかしここは南米、自分たちもすっかり南米時間に慣れてしまっているから、「今日中にブエノスアイレスに着けばいいや」とゆっくり考えていた。 随分時間が経ってやっと離陸した。途中で機体がかなり揺れ始めが、そう不安を感じるほどではない。やがて1時間ほどで飛行機は降下し始めた。しかし、見えてきたものは広い平原とラプラタ川ではなく、なんと一面のジャングルだった。 我々の飛行機はイグアスに逆戻りしていたのだ。スペイン語のアナウンスでよくわからなかったが、ブエノスアイレス上空の積乱雲が厚くて着陸できなかったということらしい。 それでも、しばらく乗客は降りることができず機内で待機状態だった。天候が回復次第再度離陸するのだろう。この時間、前方の操縦室のドアが開放されていた。操縦室を公開しているのだろうか。自分も野次馬根性を発揮して前にいってみた。「計器満載のコックピット」(自分がカメラを持っているのを見ると、機長自ら写真を撮ってくれた) やがて、客は全部降ろされ本日のフライトは運休となった。今日は日曜日だから、明日から仕事という人も多いだろう。これは想定外の多いに困った事態である。「運休となりタラップを降りる」(こちらでは全く天候はいいので、運休に納得できない客も多かったようだ) カウンターでは多くのお客が殺到している。不満は高まりやがて怒号も飛び交うようになったが、言葉がわからない自分にはあんまり様子がわからない。 われわれは、スペイン語がわかる従姉妹が旅行保険会社と連絡をとってくれて、ホテルを確保することが出来た。1日遅れとなる行程に関してもうまく調整できたそうだ。「確保できたホテル」(日曜日の夜はあまり予約も入っていなかったのだろう、良いホテルだった) こんなとき、自分たちだったらどうしようもなく途方に暮れただろう。心強い従姉妹がいてくれて、この旅最大のハプニングを乗り越えることができた。 このハプニングのおかげで、これまでそれぞれがやらかした失敗談が吹っ飛んだ。旅にハプニングはつきもの。滅多に出来ない経験を地球の裏側で体験できた。↓ランキングに参加しています。よかったらクリックをお願いします。にほんブログ村
2017/10/01
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イグアスの滝 マチュピチュと並ぶ今回の旅のハイライト、イグアスの滝にとうとうやってきた。イグアス (Iguazu) とは先住民の言葉で大いなる水 (Y Guazú)という意味。滝の幅は4000m、高さは82mと世界1位の規模を誇る滝である。「展望列車で滝に向かう」(滝の周囲の広い範囲が自然公園に指定されていて、アクセスには時間がかかる) 滝の20%の部分がブラジル、80%の部分がアルゼンチンである。どちらもイグアス国立公園として世界自然遺産に登録されている。我々はアルゼンチン側から入園した。 鉄道の終点から歩いて滝に向かう。この時点ではまだ瀑布の音も聞こえない。約1kmほどアルミ製の遊歩道を歩くと、やっと滝の上部が見えてきた。「木々の間から見える多くの滝」(ここから、通路を歩いて行くと滝の上部に出られるようになっている) だんだんと期待が高まる。雨季で増水したときでも耐えられるようにとアルミで頑丈に作られた遊歩道は、これから滝を見る人と帰る人とで混み合っている。「滝の上部から見る、悪魔ののど笛」(豪快な水しぶきを上げる部分を「悪魔ののど笛」と呼ぶ。今は乾季で水量は少ない方である) 遊歩道は滝の上部から下部にまで作られていて、滝を見上げることも出来る。ただ、滝のしぶきが霧のように舞い上がっているから、そんなに近くまではいけない。 遊歩道はやがてしだいに滝から遠ざかり、高さは川の流れとほぼ同じになった。ここから今度はボートに乗って、滝を見上げる位置から見物することになる。濡れるから着替えの服や靴を用意するように注意があっていたので、水着姿になっている人もいた。 「だんだんと近づいてゆく」(滝のしぶきはだんだんと横殴りの雨のようにひどくなっていった) 自分は着替えは用意していたが、ボートツアーを甘く見ていた。悪魔ののど笛に船は近づいてゆく。カメラはこの辺りまでが限界だ。完全防水のカメラを持ってくるのを忘れていた。「悪魔のど笛(左側)」(このあとボートは悪魔ののど笛の下で急旋回し、乗客はみんなびしょ濡れになった) 2回も時計回りに旋回したため、左舷側に乗っていた自分は靴の中で足が泳ぐ状態になった。しぶとくカメラを2台バッグに入れていたが、配布された頑丈なゴム引き袋のおかげで無事だった。そのあとも小規模な滝の真下に突っ込んだりして、ボートは悲鳴を上げ続ける客を尻目に大サービスだった。「蜜林の保護についての話」(トラックの荷台に乗って、英語とスペイン語による説明を聞きながらビジターセンターに向かう」 滝の水には動物、鳥、魚の糞や死骸が含まれていただろう。腐敗した植物や種子なども混じっていただろう。びしょ濡れで寒い中、そんなことを考えていた。南アメリカの自然をまるごと浴びたと思えば、このボートに乗ったことは貴重な経験であった。↓ランキングに参加しています。よかったらクリックをお願いします。にほんブログ村
2017/09/30
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西欧の雰囲気が満ちた町へ 今日はブエノスアイレスに向かうためにサンタクルスのビルビル空港に入った。搭乗手続きを済ませてふとエスカレーターを見上げると、新郎・新婦と新婦の両親・友人が搭乗口に向かっていた。「奇跡的な出会い」(彼らはウユニ塩湖の観光を終えて、それぞれの家や任地に向かうところだった) ほんの10秒ずれていたらこの出会いはなかった。まさに奇跡である。お互いに、これからの長旅の安全とお互いの健康と活躍を祈って別れた。 我々は、9時半過ぎの便でサンタ・クルスからブエノスアイレスに向かう。搭乗機はアルゼンチン航空のボーイング737-800だったが、現在はボリビアーノ航空とアルゼンチン航空の共同運行になっているようだった。「ブエノスアイレスへ」(ポスターも西欧の文化が根付いているブエノスアイレスに向かうという気分にさせる) ボリビアのサンタ・クルスからアルゼンチンのブエノスアイレスまでは約3時間ほどである。途中で軽食が出てしばらくしたら、もう機はラプラタ川上空にさしかかっていた。「郊外とラプラタ川」(南アメリカ大陸東部はこのような平原と大河で形づくられている) 南米では移動式の乗降口は十分整備されていない。タラップを使うこともよくある。アルゼンチンでもタラップから歩いて降りてバスでターミナルに向かう。「1年半ぶりのアルゼンチン」(前回は船での入国、今回は飛行機での入国。万歳姿にはあまり意味はない) 着いてからしばらく時間があったが、空港の売店で買い物をしたぐらいで街歩きはしなかった。そして、10時過ぎにホテルにチェックインした。「チェックイン」(アルゼンチンは人口の面でも政治・経済の面でも白人優位の国である) 何となくホテルマンの応接態度がよそよそしい。外国旅行ではどこでも感じることであるが、特にアルゼンチンでは、アジア系国民に対する態度がちょっと違うように感じた。 英語は部分的に判っても、スペイン語はほとんど判らないということもあるかもしれないが、根底に有色人種への偏見があるように感じた。中国人ではなく日本人だと判ると少し態度が良くなるのも、自分にとってはあまり良い印象ではない。↓ランキングに参加しています。よかったらクリックをお願いします。にほんブログ村
2017/09/29
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空気が美味しい 3泊したクスコのホテルを出て、ラパスを経由してサンタ・クルスに戻った。クスコを飛び立ったら白い雪を抱いて輝いているアンデスの山々が見えた。ぐぐっと迫ってくる感じで迫力満点だ。「アンデスの山々」(この辺りには6000m級の高峰があり、夏でも融けない万年雪で覆われている) アンデスの高峰が途切れたと思ったら眼下には大きな水面が広がっている。汽船の航行する湖では最高標高(3810m)のティティカカ湖である。「ティティカカ湖」(ペルーとボリビアの国境になっていて、写真の上部がボリビア側である) 飛行機は約1時間ほどでラパスのエルアルト空港に着陸した。サンタ・クルスへの乗り継ぎ時間があったので空港の外に出て写真を撮ったりして過ごす。首都の空港というのに、日本の地方空港みたいにこじんまりとしているところがなかなかいい。「エルアルト空港」(高度は富士山より高い、空気が乾燥しているから空はどこまでも青い) 3000m~4000mの高地から、標高約400mのサンタ・クルスに戻ったら空気中の酸素の濃度が高いように感じた(実際に高いのだが)。空気自体はクスコやラパスがきれいで、最近人口急増中のサンタクルスは埃っぽい。しかし、なんと今は乾季なのに今日は珍しく雨が降っている。埃っぽさが消えて気持ちがいい雨だった。「従姉妹の家」(従姉妹はサンファンの病院で働いているから、普段は子どもたちが住んでいる) スーパーに行って、明日からの旅に備えていろいろなものを買った。サンタクルスは今やラパスよりも現代的基準でいう都会的なセンスがある。午後7時半すぎに従姉妹の家に戻って子どもたちと一緒に晩ご飯をいただいた。↓ランキングに参加しています。よかったらクリックをお願いします。にほんブログ村
2017/09/28
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壮大さと精巧さ、そして多くの謎 クスコ駅からマチュピチュ鉄道に乗る。天窓の着いた豪華列車は、ウルバンバ川に沿って進み、ウルバンバ沿いには川に滑り落ちるかのようにして未舗装の道路が走っている。少し土地が開けたところにはサトウキビやトウモロコシ、じゃがいもなどを栽培している農家もある。「遺跡に向かう列車」(道路は工事中の場所が多い。雨季になると崩れ落ちる場所も多いだろう) 左側の窓には覆いかぶさるような高い絶壁が迫っている。約4時間弱の間には軽食や飲物が配られ、移り変わる壮大な景色を見ながら走るので退屈はしなかった。「マチュピチュ駅に到着」(ここからしばらく歩くと、遺跡の入り口に向かうバス乗り場がある) 15世紀の前半、スペイン軍はインカの遺跡をほとんど壊滅させた。しかし、標高2400mの高地に位置するマチュピチュは破壊されることなく歴史の中に眠っていた。「コンドルを表す石造物」(インカ文明ではコンドルは神聖な動物とされていた) 1911年、アメリカ人ハイラム・ビンガムによって発見されて時は草に覆われた廃墟になっていた。建造は15世紀から16世紀にかけてのころと推定されるが、もっとさかのぼるという意見もある。「精巧な石組み」(窓の形は細長い台形となっているが、これは「力」を表しているという) 我々4人にガイドさんが一人ついて、ポイントでは「ここです、ここです」と立ち位置を案内する。観光客がとても多いので、歩く人に邪魔にならない場所で、しかもよく観察できる場所を知らせてくれているのだ。案内はスペイン語と簡単な英語と日本語だった。丁寧で歴史に詳しいガイドだった。「お決まりの場所」(この位置からの写真が一番の人気であるが、観光客が多いので昔を偲ぶ暇(いとま)もない) 下の写真はほぼ誰も映っていないと思ったら、下の方に小さく観光客が映っていた。それでも、絵葉書を撮っているわけではないので、ありのままの写真でいいかなとも思う。「ほぼこれが全景写真」(天気は、朝のうちは雲が多かったが、だんだん晴れ間が見えてきた) マチュピチュは高い山の中にあるので霧に囲まれているときが多いという。その霧がトウモロコシやジャガイモなどを栽培する貴重な水分となったという。↓ランキングに参加しています。よかったらクリックをお願いします。にほんブログ村
2017/09/27
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体調復活、遺跡の一番上まで登ったのはよかったが… オリャイタイタンボはクスコの町から90kmほど離れている。中型の観光バスで左右に高い絶壁を見ながら、バスは登り下りを繰り返しながら進んでいく。「土産物売り場」(かわいいリャマが迎えてくれる。長距離を走るためトイレ休憩所も兼ねている)(このあと続く)↓ランキングに参加しています。よかったらクリックをお願いします。にほんブログ村
2017/09/26
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見どころの多いクスコの市内と郊外だったが… サンタ・クルスのビルビル空港を朝早く出発し、一旦ラパスのエルアルト空港に降り立った。これから夏に向かうというのに、高度4040mのエルアルト空港から眺めるイリマニ山は雪を抱いて輝いていた。「朝ぼらけのイリマニ山」(アイマラ語で「黄金のコンドル」を意味する聖なる山) 4500m以上は万年雪に覆われていて、ラパス市内のどこからでも眺められる。4つのピークを持ち、一番高いのは南峰の6439mである。 ラパス空港で出国手続きをして、ペルビアン航空機で10時30分過ぎに出発し、クスコ空港に10時30分に着いた。ボリビアとペルーには時差が1時間あるためこういうことになる。ホテルにチェックインしてちょっと遅い昼食を摂る。シーフードを使ったペルー料理は美味しかった。しかし、このころから気分が悪くなった。「クスコのホテルでおそめの昼食」(スープもシーフードライスも美味しかったが食欲がない) 息苦しくはないが体がだるい。クスコの高度は3399mで、ラパスより低いのに体が高度順応が出来ていないようだ。酸素濃度を測ってもらうと90%前後、血圧は少し低い程度だ。このあとクスコ市内や近郊の遺跡見学が予定されていたが、自分はホテルに残ることにした。<以下は他の三人に写真と伝聞より>「サントドミンゴ教会の中庭」(インカ帝国時代は「太陽の神殿」だったが、スペイン人が破壊して教会にした) 征服者たちは精巧なインカの石組みを壊すことができず、その上に教会を建てた。しかし、後にクスコに大地震があったとき、教会は無残に崩壊したがインカの石組みは残った。「サクサイワマン遺跡」(クスコの町を見下ろす高台にあり、インカ時代の支配の中心だったともいわれる) 遺跡は3層になっていて巨石が使われている。建造開始から完成までには一日3万人を動員して80年かかったと推定されている。「インカ帝国の権勢を示す巨石」(この日は、今回の旅では珍しく雨模様だったようだ) インカ文明の遺跡というと、マチュピチュが最初に思い浮かぶが、クスコ市内やその近郊にも高い技術をもったインカの遺跡があることを忘れてはならないようだ。「遺跡にかかる虹」(写真の右の方に白いキリスト像が見える) ペルーやボリビアの多くの観光地の遺跡は、スペイン人が破壊したインカ文明の建造物の上にキリスト像や教会が乗っかっている。そんなスタイルがほとんどである。 自分は夕方までホテルのベッドでよく眠っていたようだ。普段眠りの浅い自分にしては珍しい。それだけ3399mという高度が体にダメージを与えていたということだろう。明日は元気になるだろう。↓ランキングに参加しています。よかったらクリックをお願いします。にほんブログ村
2017/09/25
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サンタクルスの従姉妹の家へ 今日は、池田家から親戚や結婚式・披露宴の準備等に携わってくれた方々が招かれて昼食会が開かれた。移住地にある日本料理店は中華料理や日本料理が中心で美味しかった。「返礼の昼食会」(池田家の3世としては、2番目(叔父さんの長男の長女は昨年結婚して男の子を出産)の結婚式だった) 結婚式も成功し、明日(25日)からは予定していた南米の旅が始まる。東部低地にあるサンタ・クルス市は急速に発展していて人口はラパスに次いでボリビア2番目の都市となっている。夕方からサンタ・クルスに向かう。明日の出発が早いため、空港のあるサンタ・クルスの従姉妹の家に泊まるのだ。「サンタ・クルスの郊外」(日本やドイツの自動車会社が進出するなど、今後の経済発展が大いに期待される) サンタ・クルス、ビルビル空港はボリビア東部のハブ空港として重要性が高まっている。それでも、6年前に来たときと空港設備などにはほとんど変化はないようだ。「久しぶりのラーメンと炒飯」(6年前にも来た人気の中華料理店、オシャレに改装されて西欧系のお客も多かった) 16日にボリビアに来て以来、サン・ファンの従兄弟の家で毎日日本食を食べていた。だから豚骨ラーメンが喉から手が出るほど食べたかった訳ではない。しかし、豚骨という言葉だけで胃袋から「それ!」と声が出たような気がした。 やはりラーメンは豚骨、これが九州人なのだ。しかしいかんせん、この店のとんこつラーメンは麺が太い。どうせこの麺は韓国製なんだろう。博多の豚骨ラーメンを食べて麺を研究して欲しい。 食事が終わって従姉妹の家に帰る前に、薬局で高山病の薬や抗生物質、アレルギーの薬などを買ってもらった。従姉妹はサンファンにある診療所の医師なので、てきぱきと必要と思われる薬を買ってくれた。 日頃服用している薬は持ってきていたが、やっぱりこちらに来てから、あれこれ忘れていたものを思い出した。歯ブラシなどの生活用品も売っているコンビニみたいな店だった。「薬もあります夜更けのコンビニ」(従姉妹が医師とはいえ、処方箋なしで普通に薬を売ってくれた) 高山病も心配されるなか、彼女が我々日本からの3名の旅をサポートしてくれる。スペイン語の通訳もしてくれる。心強い旅のサポーターである。↓ランキングに参加しています。よかったらクリックをお願いします。にほんブログ村
2017/09/24
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日本式と洋式がミックスされて 数日前に新郎の任地ウクライナから、新郎の実家(ボリビア、サン・ファン移住地)に帰って来た新郎新婦は、結婚式の準備や打ち合わせに忙しい日々を過ごしていた。新郎の親戚も揃った21日ごろから本格的な結婚式の準備が始まっていた。「ギリギリまで」(進行について確認をしている新郎、これも手作りならではのこと) 結婚式は移住地の中心広場にある教会で行われた。日系人のほとんどがキリスト教徒である。日本のようにファッションとしての教会結婚式ではないから厳粛な儀式である。「結婚式」(サン・ファン移住地の教会には初めて入ったが、外から見るよりも広く感じた) 披露宴は、業者や多くの友人・知人の手できれいに飾り付けられた移住地の集会所で開かれた。まず仲人さんの挨拶から始まった。最近の日本では仲人さんを立てた結婚式はほとんどないが、移住地には昭和の伝統を残している。そのあと、新郎・新婦によるにケーキカットが行われたがこれは日本と変わらない。「ダンスタイム」(ケーキカットのあと、新郎新婦は、仲人さん、双方の両親とダンスをする) ダンスはお近づきのしるしという感じで、これは日本の結婚式ではないことである。きちんとステップを踏まなくても出来るワルツみたいな動きで楽しそうに踊っておられた。「司会を務めた3人」(300人を超える参列者を前に、披露宴の流れをうまくコントロールして重責を果たした) そのあと、新郎新婦の子どものころの様子や出会いについてプロジェクターで紹介があった。参加者は300人を超えていたが、音響関係のスタッフもいて見やすく聴きやすかった。「仙台の伝統芸能スズメ踊り」(趣味は「スズメ踊り」というだけあって、新婦の踊りは圧巻であった) 新婦は小さいときからバレーやダンスをしていたという。手の動きや足運びがとても躍動感に満ちていて素晴らしかった。参列者一同から大きな拍手が贈られた。本当は大勢で踊るものらしい。彼女の踊りを見て、本物の祭りを是非見てみたいと思った。「新婦から両親への言葉」(新郎は留学生などを支援する仕事に関わるなどアクティブでタフな女性である) 「タフ」とはいい意味で使っています。何事にも前向きで関わるという意味で、難しい問題を抱える国での国外勤務をこなしている「タフ」な新郎にはうってつけの伴侶でしょう。「このあとは南米流」(ダンサーや太鼓演奏者が登場し、若者中心に夜遅くまで飲んで踊りまくる) 今回の旅では地球の裏側の結婚式を、準備の段階から経験できた。多くの参加者はサンファン移住地で大規模な農業経営をしている日系人の人たちであったが、中にはボリビア人やスペイン系の人たちもいて、国際色豊かな結婚式・結婚披露宴だった。 今回は本人の許可を得ないまま写真を掲載しています。ブログを書くときにはいつも肖像権には配慮していますが、盛り上がった結婚式の雰囲気を伝えるためにやむを得ず使っています。ほとんどの方が連絡手段をお持ちですので、何かありましたら連絡をお願いします。↓ランキングに参加しています。よかったらクリックをお願いします。にほんブログ村
2017/09/23
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いよいよ明日に迫った 新郎の家では座席表の再確認が行われた。仙台から駆け付けた新婦のお母さんと「まるで学校の文化祭の前日のようですね」と笑いながら座席一覧表などを作った 会場では業者による会場の装飾、音響の準備、フラワーデザイン、フルーツのデザインなどが始まった。この時点でも新郎は司会者とのシナリオの再確認などで忙しい。 「ランチタイム」(日系人の経営する食堂からの出前弁当で昼食を摂る)「日本人向け弁当」(純日本風のおにぎりを中心としたメニューで、とてもおいしかった) 披露宴の料理は地元の料理店に頼んでいるという。そのほかに、刺身類は従弟たちが自らさばいて用意している。会場装飾の花屋さんや音響関係は専門の業者が設営にかかっている。「最終点検」(グラスの数を確認、傷の有無も再点検する) グラスを並べている箱は、日本ではもう使われなくなった「もろぶた」である。古い昭和の文化がここ移住地では残っている。そのほかにも、いろんなふるい日本の伝統が大事にされている。「今日も頑張りました」(皿洗いの最終チェック、衛生管理は念には念を入れて行う) あとはテーブルセッテングという大作業も残っている。この二日間の準備で時差ボケもほとんど解消した。前回はお世話になるだけで心苦しかったが、少しでも準備に手を貸すことができてよかった。明日の結婚式と披露宴が楽しみである。↓ランキングに参加しています。良かったらクリックをお願いします。にほんブログ村
2017/09/22
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少しずつ式場らしくなっていく 田植え中という忙しい時期であるが、ウクライナ赴任中の新郎の休暇がこの時期にしか取れなかったそうだ。会場は日系人の集会所として建てられた公民館のような施設である。300人の招待客を迎える準備が始まっていた。サンタクルスから業者も来て殺風景な集会所を結婚式場に変えていく。「まだまだ…」(南米人気質はのんびりしているので、まだまだこれからというところ) レンタルした皿とグラス類を洗って準備するのが結構大きな作業だった。ここボリビアにも中国製が進出していて、皿もグラスも中国製である。きれいに洗って、最後にはアルコール消毒をする。 皿洗いとコップ洗いは相当の重労働だったが、人海戦術でやり終えた。この日も天気は雲がほとんどない快晴である。外気温は30度を超えているが、室内に入れば湿気がなくて過ごしやすい。「洛陽」(遠くで巻き上がる赤土のホコリのためか夕日が赤い) 今日もTシャツと短パンで気持ちよくベッドに入る。働いたせいか寝つきが良かった。ボリビアにきて以降は、日頃の不眠症がうそのように解消している。↓ランキングに参加しています。良かったらクリックをお願いします。にほんブログ村
2017/09/21
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住宅地の入り口に 6年前の訪問で、新しく叔父の土地に住宅地を造成していた。そのときには一区画に従姉妹の一人が建築中で他の区画は空いていた。しかし、今では合計4軒になっていた。「記念植樹の椰子」(植樹した4名の名前がちゃんと刻まれていた) 自分の名前がこうして石に刻まれて残るのはこのボリビアの地ぐらいだろう。とても有り難いことである。しかし、この地球の裏側に次に訪れる機会はあるだろうか。この日の夕食は、新婦の両親と移住地の叔父の一族との顔合わせが行われた。日本では挙式も披露宴も行わないというカップルも増えている。しかし、ボリビアの日系社会では、家族同士の顔見せから始めるという日本の昭和時代の手続きをきちんと踏まえることを大切にしているように感じた。「よろしくお願いします」(こうして家族・親戚同士が親しくなることで新郎新婦の絆も深くなっていく) 新婦は宮城県仙台市の出身であるが、お父さんは定年退職して現在フィリピンで日本語教師をしている。新婦も外国からの留学生支援の活動をしていた。なかなか国際交流に積極的な一家である。「両家親族の顔合わせ」(新郎の父親が家族を新婦の両親に紹介している) 23日の披露宴に向けて、新郎(従兄弟)の家では準備に大忙しである。居留地では昔ながらの仲人をたてて大がかりな披露宴が行われる。↓ランキングに参加しています。よかったらクリックをお願いします。にほんブログ村
2017/09/20
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水田と牧場巡り 一番上の従兄弟はサンファンで水田を大規模に経営している。その他に、サンファンから車で2時間ほど上った高地であるサマイパタでボリビアでは珍しい柿の果樹園を経営している。「広大な水田」(ここは田植えが終わったばかりであるが、その規模は日本とは二桁ほど違う) 元々は密林土地を開拓して耕地にした。前日も書いたように、基本的には一戸あたり1km×500mを単位として分配された。だから、上の写真のように、切り残された密林が水田の区画になっている。「田植えの時期」(もちろん田植機で植えているが、苗箱運びもこのように大がかりである) 2番目の従兄弟は牧場を経営している。成牛は雌牛ばかりで、生まれた仔牛を9ヶ月ばかり飼育し肥育農家に出荷する。現在は400頭ほど飼っている。「白い牛」(水飲み場に牧童が誘導してきたら一斉に水を飲み始めた) 白い牛はインドにもよく見られるが、暑さに強いという特質を持っている。ボリビアの肉牛のほとんどが白い牛である。今は仔牛が生まれる時期である。 400頭もいると、親とはぐれてしまう子牛も出てくる。生まれた子牛はすぐに授乳しない死んでしまうから早く発見して人工飼育を行う。「人工飼育」(お乳をもらう子牛の目が何とも可愛らしい) 2番目の従兄弟の奥さんは獣医の資格を持っていて動物が大好きである。猫の数は25匹いて全部名前をつけている。そのほかに犬も17頭飼っている。また、週に1回、移住地のお年寄りに集まってもらっておしゃべり会や楽器演奏会を主催するなどとても活動的な人である。 ↓ランキングに参加しています。良かったらクリックをお願いします。にほんブログ村
2017/09/19
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一日目は休養日 サンファンは、サンタ・クルスから車で3時間ぐらい北に走ったところにある。約700人の日系人が中心になって開拓し建設した町である。 ボリビア多民族国は、南半球にあり北半球で言えばベトナムやタイとほぼ同じ緯度にある。気候はこれから夏に向かうところである。長旅の疲れのせいか、今日は朝ご飯も食べずにほとんどベッドの中でうたた寝をしていた。「熱帯性の花が美しい」(現地の人々の交通機関はバイクが主流である) 夕方になるとやっと時差ぼけも治ってきたようである。至る所に名前も知らぬ原色の花が自生している。また、各家庭ではいろいろな花を庭先に植えてあり一年中花の咲かない季節はないようだ。「ブーゲンビリア」(自分にわかるのはブーゲンビリアとハイビスカスぐらいである) 庭先のマンゴーも鈴なりに成っているが、残念ながらまだ熟れていない。12月すぎ頃が一番の食べ頃なのである。食事はサンファンでとれたおいしい日本米のご飯に、おひたし、なます、魚の煮つけ、野菜の漬け物など、毎回ご飯を中心にした日本食である。昭和時代に戻ったような懐かしさを感じる。「癒される日本食」(こうしてみんなで食卓を囲むことは日本では少なくなっている) サンファンでの一日目はゆっくり休養した。何といっても飛行機の長旅での体の疲れがあった。そのほか、乗り継ぎの時の出入国審査や搭乗の際の手荷物検査などで精神的に疲れてしまった。↓ランキングに参加しています。良かったらクリックをお願いします。 にほんブログ村
2017/09/18
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マイアミで時間があったのでバスでビーチに行ってみた。先日のハリケーンの被害はヒューストンがひどかったようであるがマイアミにも強風の痕跡が残っている。椰子の木が歩道をふさいでいるところもあった。「マイアミにて」(いまだに米国旅行の経験は無い。今日の散策をマイアミ観光いうには短かすぎる) しばらく海岸部を散歩して、レストランで食事をしてバスに乗った。時間の余裕が無かったのでビーチには残念ながら行けなかった。「ハリケーンの被害」(茶色に見えるのは、高潮を受けて葉が枯れているのだ) マイアミからボリビアのラパス経由でサンタクルスへ向かう。マイアミからラパスの7時間あまりの間は、飛行機の空調が寒すぎてとても眠れたものではなかった。 現地時間9月17日の7時42分、6年ぶりのサンタクルスに降り立った。これから夏に向かおうとしているのに予想以上に風が冷たい。ほぼ24時間かかったのに、時差のマジックで、成田空港出発時間と同じ日付・時刻に着いたことになる。「サンファンの夕日」(大平原が広がるボリビア東部のでは、ほぼ水平線近くに落ちる) サンタクルスから約2時間、TOYOTAの大型4駆で、叔父さんの一族が住むサンファン日本人居留地に向かう。途中でこの地方で一番古い教会のある雰囲気のいい町でひと息つく。「歓迎会」(叔父さん夫婦と5人の子ども(従兄弟)や孫たちが集まってくれた。焼き肉が美味しかった) 叔父さんの長男の長男(叔父さんの孫)の結婚式を週末(23日)に控えて、みんなとても忙しいようだ。日本から駆け付けた我々3人の旅行者も親戚としていくらかでもお手伝いしたい。↓ランキングに参加しています。良かったらクリックをお願いします。にほんブログ村
2017/09/17
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面倒な入出国検査の第1回目成田を出て12時間、ダラスの上空で日の出を迎えた。日付変更線を越えたから自分たちにとっては2回目の9月16日である。「雲の上からの日の出」(なかなか飛行機の機内では眠れない質(たち)なので疲れが早くもたまってきた) 雲上からの朝日はなかなか見られるものではない。今回は写真にもおさめることができて、とてもラッキーだった。このあとダラス空港に着陸して入国審査があった。単なる乗り継ぎ地だけど、アメリカは9.11以来審査がとても厳しいので時間がかかる。「ダラス空港の朝」(この飛行機で太平洋を横断した。日本から南米までではこの区間が一番長いフライトとなる) 今回は乗り継ぎ時間には余裕を持って計画していたので、時間的には問題なかった。ハンカチ1枚でもブザーが鳴るので、カメラやパソコンなど手荷物が多い自分はいつもチームの一番最後になる。 何とか無事に通過した。この後も、入出国検査が何回もある。まあ今日は小手(こて)調べである。↓ランキングに参加しています。良かったらクリックをお願いします。にほんブログ村
2017/09/16
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マーシャル諸島共和国の首都マジェロにて 2016年3月22日、首飾りのような珊瑚礁の島に、約800人の船客をのせたオーシャンドリーム号が寄港した。マーシャル諸島共和国は、面積180平方km、人口は約5万3000人。 観光バスがないため、スクールバスを借り上げてツアーはおこなわれた。首都マジェロから細長くて平均高度2mの細長い島を北に約50km走り、ローラビーチという観光化されていない美しい浜辺を見た。再びマジェロに戻って、この島一番のホテルで昼食をとった。「トロピカルなランチ」(フルーツケーキ、パンの実チップス、魚のココナッツミルク漬けなど) 味は食べてからのお楽しみという感じだが、料理はみんなカラフルでトロピカルな雰囲気だ。バイキング方式だったので、適当に盛り合わせた皿を手に持ってテーブルに着いた。 すかさず、シュロの葉を束ねたようなものを持った小母さんがテーブルにきて、我々に風を送ってくれる。というか、料理にたかるハエを追うという役目もあるようだ。「言葉は通じないが」(しぐさや表情はとてもフレンドリーだ) 信託統治と言っても実際は植民地で、南太平洋における日本の軍事基地だった。戦後はアメリカの統治下におかれたが1986年に正式に独立。昨年(2016)は独立30周年だったのだ。 戦後の日本の経済援助によって、大型船が着岸できる岸壁ができるなど、日本の戦後補償によってインフラ整備がおこなわれた。だから、対日感情はとてもよい。 人々の笑顔が素敵で、とても居心地のよい島だった。地球温暖化によってこんな平和な島が水没しないように、世界の国々はもっと真剣に温暖化対策を考える必要がある。↓ランキングに参加しています。良かったらクリックをお願いします。にほんブログ村
2017/03/22
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クルーガー国立公園にて モザンビークのマプトからバスで国境を越え、南アフリカ共和国に入った。クルーガー国立公園でのサファリドライブツアー1泊2日コースに参加した。 1日目からサイはまあ普通に登場する大型動物で、動きもゆっくりしているので撮りやすかった。しかし、後日サイの写真をよく見ると背中に鳥が乗っている。 日射しの中のどかな光景である。この鳥の名前は知らない。ただ、鳥には鳥の事情があったらしい。やがて一羽がサイの耳の中に入った。 サイの耳の中に美味しいえさがあるようだ。この鳥たちはサイの耳掃除屋さんだったのだ。 ※(2016年1月18日の写真より)↓ランキングに参加しています。よかったらクリックをお願いします。にほんブログ村
2017/01/18
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一番の資源は子どもたち マダガスカル島の動物については、1年前の船旅ブログに書いた。今日はそのときアップしていなかった子どもたちの写真を数点アップする。 60年あまりにわたるフランスの植民地支配を脱し、1960年にマダガスカル共和国が誕生した。アフリカ大陸の東に浮かぶ、世界4番目の島で面積は58万7千平方km(日本の1.5倍)である。人口は約2,200万人と推定されるが、その90%が一日2ドル以下で暮らしているといわれる。「自然保護公園の塀の外から」(マダガスカル島には珍しい動物が多く、魅力的な観光資源となっている) こう言っては失礼な言い方かも知れないが、はっきり言ってマダガスカルでは子どもたちより動物たちの方がいい生活をしている。「後発開発途上国」であるマダガスカル共和国にとって、教育の充実は最優先されるべき課題である。「観光バスに向かって手を振る」(草葺きの家から走り出てきて手を振ってくれた) 6歳から13歳までの義務教育は無償だがその質はまだ十分と言えない。就学率は上がってきているが、教師一人当たりの生徒数は約50人で有能な教員の養成が大きな課題である。「観光バスをながめる」(このあと、ツアースタッフの一人がお菓子を配ろうとしたら一斉に群がっていった) 見るからに貧しい子どもたちだが、自分が見た範囲ではモノをねだったりすることもなく、ときおり見せる笑顔が印象的だった。モノを安易に与えることは良くない。他者(他国)から与えられることでなく、自らの手で国を開いていくという自負心を失わせることにつながるからだ。 この国の人口の40%は15歳以下である。この国の一番の資源は子どもたちなのだ。↓ランキングに参加しています。よかったらクリックをお願いします。にほんブログ村
2017/01/14
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上陸できなかったレユニオン島 1週間ほど前(1月5日)のモルジブでの潜水艦水中散歩ツアーでノドを痛めた。船内病院にも行ったが治らず、やむなくレユニオン島でのツアーはドタキャンした。「モーリシャス島とレユニオン島」(船内に毎日掲示される海図で島の位置や航路を確かめる) レユニオン島はモーリシャスの西方約175kmに位置する。1507年にポルトガル人が発見するまでは無人島だったそうだ。「心残りのままに出港」(南回帰線に近い南半球の1月、午後6時過ぎの明るい陽光に映える島影) ツアーに参加した家人の話では、高く切り立った山、深い渓谷、美しい滝など、この島には見所がたくさんあったようだ。上陸できなかったフランス領の島、レユニオン島。 ※(2016年1月12日の写真より)↓ランキングに参加しています。よかったらクリックをお願いします。にほんブログ村
2017/01/12
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モーリシャス共和国にて モーリシャス共和国は、マダガスカル島の西に位置し、面積は沖縄の約1.5倍、人口は約130万人の島国である。最初はフランス領だったが、1814年にイギリス領となっている。 気候に適しているとしてサトウキビ栽培が導入され、イギリス人経営による製糖業が盛んになった。そして多くのインド系住民が労働者として移住してきた。「アープラヴァシ・ガート」(2006年に登録された、モーリシャス共和国唯一の世界遺産) 「アープラヴァシ・ガート」はヒンディ語で「移民の駅」という意味で、製糖業に従事するインド人移民を受け入れる施設だった。現在残っているのは、入り口や浴場、トイレなどである。「当時の製糖工場」(多くのインド人が苦しい労働に携わった) 植民地時代は他のアジアアフリカ諸国と同じように、サトウキビや茶のモノカルチャー経済であった。現在では繊維工業や観光業が盛んになり、経済的には豊かになってきている。「街角で」(現在でもインド系住民が過半数を占めている) インド系の他に、イスラム系や中国系の移民の子孫も多い。この日の観光コースには、ヒンズー教の寺院のほかに、イスラム教のモスク、中国の霊廟も入っていた。 ※(2016年1月11日の写真より)↓ランキングに参加しています。よかったらクリックをお願いします。にほんブログ村
2017/01/11
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百済文化祭の旅、最終日 天安市のホテルを8時に出発して、観光バスで大邱に向かう。京釜高速道路を南東に南下する。車窓には黄色に色づいた田んぼが広がっていて日本の風景と見間違うほどだ。 高速道路を約220km走って10時半すぎに東大邱インターを降りて大邱市内に入った。大邱市の人口は約250万人、韓国では、ソウル、釜山、仁川についで4番目の人口を持つ。「大邱柱山大聖堂」(創建に尽力したフランス人宣教師ロバート神父の像と教会の尖塔) 1899年に韓国伝統様式で建造されたが焼失したため、1902年に洋式によって再建された。資材はフランスから持ち込んだもので、ロマネスク様式をもとにしながら尖塔やステンドグラスなどにはゴシック様式となっている。韓国では3番目に古い教会だという。「祭壇の後ろのステンドグラス」(仏像の光背と同じ効果だが、教会は建物自体にその仕掛けを施す点が違う) 教会見学した後はまたまた免税店に寄る。免税店がとても好きなバスなのである。百済文化祭の旅も5回目となり、購買意欲をそそられるモノはない。体調も相変わらず良くないので、都市化の片隅に置いてきぼりにされつつある昔ながらの八百屋さんを撮ったりして過ごす。「ささやかな商い」(真昼の時間帯であるが、夕方になると少しはお客さんがくるのだろうか) 昼食はふぐ料理だと聞き旅行団の面々の期待はまるでふぐのようにふくらんだ。しかし、予想と違っていた。ふぐの味噌煮込み料理と言った感じの大皿がどんと出てきた。「ふぐのプルコギ」(プルコギは韓国風の煮込み料理で、日本で言うとすき焼きみたいなもの) ちょっともったいないふぐの食べ方である。このお店は有名店のようで繁盛していた。この旅では最後の食事であったが、この珍しいふぐ料理に旅行団の皆さんの箸は結構進んでいた。 食事の後は最後の見学地、達城郡の友鹿里(ウロクキル)にある「達城韓日友好館」に向かった。付近の風景を見わたすと、日本の山里に来たかのようだ。この施設は2012(平成24)年に開館したばかりで、「沙也可」に関する資料を中心に日本と韓国の交流の歴史を展示してある。 「沙也可」という言葉から、「豊臣秀吉の朝鮮出兵の時、朝鮮に投降し日本軍と戦った武将」という、うろ覚えの知識がよみがえった。沙也可は雑賀(さいが)衆ゆかりだったという推測から、雑賀衆の故郷である和歌山市に関する展示もある。 沙也可については、伝記『慕夏堂文集』に詳しい。それによると、沙也可は1592年4月に加藤清正軍の先鋒として釜山に上陸したが、朝鮮の文化に感心するとともに、秀吉の出兵に疑問を感じて3000人の兵士と共に朝鮮側に降りたという。 その後、沙也可は火縄銃の技術で日本軍と戦い、その功績により金氏の姓を朝鮮王から賜り、金忠善と名乗って帰化人となった。そして、この友鹿里に土地を与えられて住んだ。その後も女真族の侵略を撃退するなどの活躍もあり韓国では教科書にも登場する英雄とされている。「沙也可(金忠善)を祭る書院」(沙也可については日本側には資料がなく、その存在は闇につつまれている) ただ、朝鮮出兵を大義のない戦いと感じ、投降した日本兵がいてもおかしくない。現在も沙也可の子孫と称する金氏一族がこの友鹿里に住んでいるという。400年以上も前の伝承が今も生きている。そこには戦いという殺伐な言葉とは違ったロマンを感じる。※日本側に記録が無いのは、裏切り者のことを快く思わず記録から落ちているのだろう。歴史はこうして欠落する部分も多い。(2023年10月14日追記)↓ランキングに参加しています。よかったらクリックしてください。にほんブログ村
2016/09/25
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ついにホテルで一日休養 今日(9月24日)は、公州市の武寧王陵の前で百済四大王の追慕祭が行われ、夜は扶余郡で第62回百済文化祭の開会式がある。しかし、ノドの痛みがひどいのでホテルで休養することにした。ホテルは新しく清潔だし、同じホテルに連泊なので思い切って休むことにした。 天安市はソウルの南約80km、南は公州市に接している。京釜本線の天安駅があるが、最近は首都圏電鉄1号線が通るようになってベッドタウンとして発展している。昼近くに、スタッフに部屋の掃除を頼んで街に出かけてみた。といっても勝手知らない異国の地である。「これは何?」(最初はゴミ入れかとも思ったが、電気コードがわずかに見えている) しばらく歩くと、分かってきた。どうもお店の看板の土台だったようだ。電気で風を送って立たせるようになっているのだろう。これは夜なら一層目立ちそうだ。(単純なことしか書いてないと思うが、ハングルが読めないのが残念) 大きな道路の向こうは大きなクレーンも動いていてマンションやオフィスビルが建築中だ。ここ天安市はこれからますます都市化が進んでいくのだろう。「進む開発」(無味乾燥な街にならないように、美しい緑も残してもらいたい) 土地勘があったらもう少し歩いて、鉄道の駅なども見たかったが、あまり無理も出来ない。そこで、どんな日本車があるのか車を中心に見て回った。韓国では現代(ヒュンダイ)か、現代傘下のKIAがほとんどで、日本車を見る機会は少ない。 1時間ほどの町歩きで見かけた日本車はこの4台だけだった。韓国では軽自動車を見ることはほとんどないが日本の軽規格のボディサイズの車はある。下のキア(KIA)・レイが日本の軽自動車のハイトワゴンに似ていてスライドドアも取り入れている。「キア・レイ」(2011年の12月に発売された。後ろを走っているのはルノーキャプチャーではないか) 全長3595mm、全幅1595mmと日本の軽より少し大きく、エンジンは1リットルと1リットルターボがある。ダイハツのタントのデザインのパクリとも言われたことがあるそうだ。「代理カメラマンによる今日の記録」(両国の市民団体の記念写真。この5年間この行事は雨に降られたことがない) この季節、韓国の田舎では稲穂も色づいて、日本と同じように紅葉の始まりも見える。そんな絶好の季節なのに自分はカーウォッチングで終わった一日だった。↓ランキングに参加しています。よかったらクリックしてください。にほんブログ村
2016/09/24
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時代劇パークと歓迎会 9時50分、2014年の旅でも立ち寄ったMBCの龍仁大長今パークに着いた。広い山の斜面を利用して時代劇撮影用の建物が並んでいる。現在では多くの人が訪れる観光名所となっている。「建物の陰に」(韓流ドラマに疎い自分には、これの絵の人物が誰なのかがわからない) 「イサン」「トンイ」「馬医」などのほか、百済25代王武寧王が登場する「帝王の娘スペクヒャン」もここで撮影された。一昨年来たときはなかったが、韓流ドラマブームを一躍高めた「宮廷女官チャングムの誓い」のオープンセットが駐車場の近くに建設されていた。 「宮廷女官チャングムの誓い」が韓国で放送された2003年、2004年にはこの映画村は出来ていない。だから、撮影も他の場所で行われたはずである。しかし「チャングムの誓い」が韓流歴史ドラマの一大傑作として有名になったため、記念のセットがつくられたようだ。「役人クラスの家か」(前回もだったがこの日もロケは行われていなくて、ただ観光客の声が響いていた) 日射しは暑いし、時代劇の撮影セットだから歩く道はほこりっぽいし坂道が多い。体調不良の身にはちょっとこたえる。適当に見て回って写真を撮って引き返す。後でパンフレットを見たら新しく拡張された地域には足を運んでいなかった。「佐賀の面浮流に似た衣装デザイン」(建物の中では貸し衣装を着て、ドラマの登場人物に扮して写真を撮ることが出来る) 16時過ぎには公州博物館に着いて、武寧王関係の展示物を見る。ちょうど武寧王特別展が開催されていて、墓誌、木棺、飾り物などをまとめて展示してあった。「武寧王の墓誌石」(武寧王が亡くなった年齢と没年が記載されている。武寧王陵から出土した) この墓誌石の記述と日本書紀の記述が一致し、武寧王が日本の加唐島で誕生したという説を立証することになった。「公山城」(現在も発掘が続いている百済時代の城跡) これまでは、川越しにながめるだけだった公山城の城壁を一回りした。限られた時間だったが城壁からの眺めはなかなかよかった。「今年も熱い歓迎会」(公州市の武寧王ネットワークの人たちとの交流夕食会) マッコリと日本酒のチャンポンですっかり酔いがまわると歌が始まる。でも、案外にもひょうきんに笑いをとって歌い踊る人が全くの下戸だったりするから面白い。 「夜の公山城から」(明日(9月23日)から第62回の百済文化祭が始まる。今日は前夜祭である) 今日は歩いて話してすっかり疲れた。もう声を出すのが辛いくらいノドが痛い。↓ランキングに参加しています。よかったらクリックしてください。にほんブログ村
2016/09/23
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もう一度ゆっくり歩いてみたい 今日から5回目となる韓国百済文化祭への旅である。ノドが痛くてやや体調不安の中での出発である。仁川空港に14時半ごろ着いて、1日目はこの旅で初めのソウル市内泊だった。そこで、短時間だがソウル市内観光の時間がとれた。 北村韓屋村(Bukchon Hanok Village)は、大韓民国のソウル特別市鍾路区にある。この一帯には韓国の伝統的家屋である韓屋が密集していて観光名所となっている。「ビル街との対比が面白い」(これらの住居は現在も居住しているので、内部に立ち入ることはできない) ここは、ソウル特別市中心部の北側に隣接した北岳山南麓の傾斜地にある。今でもオンドルを使っているような雰囲気があり、昔ながらの家並みはまるで韓流ドラマのセットのようである。しかし、車社会の現在では住みにくそうである。「観光客で一杯」(「静かにして下さい」という看板があるが、これではゆっくり暮らせないだろう) かすかに下水の匂いがする。下水工事がうまくいっていないようである。韓屋村を出て、おきまりのコースで免税店に向かう。東和免税店はとても立派な建物だった。金持ちでない自分は入るだけでも気後れする。金もないし買いたいモノもない。自分は外の風景が気になる。 光化門から南下すると広い道があった。ベテランのガイドさんが案内してくれたが、中央分離帯が広場になっていてそこには韓国の英雄の像があった。バスは走りながら通り過ぎたが、免税店から少し歩いて、写真が撮れるところまで行ってみた。「李舜臣(イ・スンシン)の像」(豊臣秀吉による朝鮮侵略の時活躍した、この国では救国の英雄とされている) 李舜臣は軍内部での対立やライバルとの争いなどで、軍人としての人生は波乱に満ちていたようだ。日本の教科書にも朝鮮水軍の将として活躍したことが書かれていたが、その生涯にはまだ不明な点も多い。しかし、「歴史は歴史が作る」である。 江戸時代まではあまり評価されていなかったが、明治以降の日本の半島侵略、韓国併合という歴史を経た現在、李舜臣は抗日の英雄となった。この銅像は民主化勢力を弾圧して独裁政治を進めたパク・チョンヒ大統領(現在のパク・クネ大統領の父)の時代に建てられた。 李舜臣の像の後ろに李氏朝鮮の第4大王である世宗の像がある。時間がなくて近寄れなかったが、15世紀にハングル(訓民正音)の制定を行ったことで知られる。「何かに反対しているようだが」(デモが計画されているようで、交差点付近には大量の警察官が待機していた) 免税店を出て、19時ごろには夕食会場に着いた。今日の夕食は焼き肉である。味付き焼き肉をレタスや細ネギではさんで食べる。ノドの調子が悪いのでほどほどに食べる。「夕食は焼き肉」(店員さんが焼け具合を見て骨付きカルビを器用にはさみで切り分けてくれた) ホテル着は20時30分。初めてのソウルの夜であるが出かける元気もない。明日の体調が気がかりである。 ↓ランキングに参加しています。よかったらクリックしてください。 にほんブログ村
2016/09/22
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特製の小瓶入り 蜂蜜の入った小さなガラス瓶が冷蔵庫の隅っこに隠れていました。今ごろになって思い出しました。これは多分マダガスカルのエアホラ港でお土産にもらった品だと思います。「ほんとに小さな瓶」(ほんの気持ちだけといった感じのささやかなプレゼントです) よく見ると、瓶にはあのバオバオの木が描かれています。そして、自分たちが訪れた日付けとクルーズ船の文字も読み取ることができました。「特製の瓶」(港の近くに特設された露店街でいただいたのでしょう) 蜂蜜には詳しくないのですが、日本の蜂蜜と比べると甘味がすくなくて、シンプルでストレートな感じです。この貴重な蜂蜜はヨーグルトに混ぜて少しずつ食しています。 バオバオの木は、葉も花も実も現地の人にとっては貴重な自然の恵みだそうです。観光写真などで見ると大地から引き抜いて逆さまに突き刺したように見えます。枝が根っこのように見えるのです。でも、ちゃんと葉が出て白い花が咲くのです。「濃いけど味はシンプル」(バオバオの木はマダガスカルを代表する景観ということは当然知っていました) バオバオの木を見るには、インド洋側のエアホラ港から飛行機で往復するオプショナルツアーをとる必要がありました。10万円以上もかかったのでバオバオ街道を見るのはやめました。 バオバオの恵みの蜂蜜を味わい、旅の記憶がよみがえりました。バオバオの木は見なかったけど、マダガスカルでは可愛いお猿さんたちをたくさん見ました。 ↓2016年1月14日の本ブログの記事 http://plaza.rakuten.co.jp/shigedoraku/diary/20160114/ ↓ランキングに参加しています。よかったらクリックをお願いします。にほんブログ村
2016/05/31
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真夏の海を思い出す 桜の花が散って藤もつつじの季節も終わって、新緑も日々色を濃くしている。しかし、何だか感覚的には秋に向かう時期ではないかと感じている。 真夏の南太平洋から桜の季節に帰国したために、時差ボケならぬ季節ボケになっているようだ。またこれから蒸し暑い日本の夏を迎えると思うとなんだかうんざりするようだ。 しかし、南太平洋の暑さはからっとした暑さだった。日陰に入ると汗もかかないし吹く風は心地よかった。タヒチの海で泳いだのはほんの1月半前のことである。「タヒチ、空と海」(ボラボラ島のプライベートビーチにて~2016年3月13日) 今日はそのタヒチの空と海を思い出しながら、「タヒチクッキー」を食べた。お土産用に買っていたものが一袋残っていたのだ。 ナッツの入ったクッキーは結構美味かった。タヒチにクッキー工場があったかどうかよりも、パッケージに雰囲気が出ていたらそれはそれでお土産としていいだろう。「タヒチクッキー」(製造元までは確認しなかったが、クッキーは案外ベルギー産だったりすることが多い) 注意すべきは中国製品である。世界各地のスーパーで売られている日用品の多くに、よく見ると「MADE IN CHINA」と書かれている。中国の「カネ」、「モノ」、「ヒト」の世界進出ぶりは半端なものではない。今や世界中にみちあふれている。 世界人口の約70億人のうち中国人が13億5千万人を占めている(2015年国連推計)。5人に一人は中国人なのだから、世界進出も無理からぬことではある。↓ランキングに参加しています。よかったらクリックをお願いします。にほんブログ村
2016/05/02
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儒城(ユソン)温泉と釜山 昨晩は公州市から40分ほど南東に走った太田(テジョン)広域市の郊外の儒城(ユソン)温泉に泊まった。昨年泊まった利川(イチョン)温泉と並ぶ韓国有数の温泉地だという。 19時30分過ぎにチェックインしてすぐ温泉に入った。ホテルのルームナンバーを告げるとキーを渡してくれた。そのキーでロッカーに靴を入れ、同じキーで着替え用ロッカーを使う。 泉質は弱アルカリ・ラジウム泉というが、ただのお風呂という感じだ。日本で言うならスーパー銭湯か。それと入浴のマナーが全体的に悪い。洗い場を占領したり使ったあとの始末をしていなかったりする。何と浴槽で泳いでいる大人もいる。だから全体的に清潔感に欠ける。「朝食は洋風バイキング」(この食事を見たら、やっと日本に近づいたという感じがした) 泊まったホテルは儒城ホテル(YOUSUNG HOTEL)という高級ホテル。周囲には20階を超える高層ビルが建っている。高級ホテルということは、駐車場に泊まっている車からわかる。「儒城ホテルの朝」(写真に撮ることが出来た外車は、BMW、アウディ、日産、本田、フォードなど) 韓国ではまだ外車がステイタスシンボルということのようだ。公州の街角や高速のSAなどでは珍しかった外車が、このホテルの駐車場には多く見られた。 公州大学の尹(YOON=ユン)教授夫妻が、朝早いのにもかかわらずホテルまで来て見送ってくれた。本当にありがたいことだ。8時に儒城ホテルを出発したバスは一路南下して釜山に向かう。「途中のSA(サービスエリア)にて」(食べ物や様々な雑貨などが売ってあって、この雰囲気は日本と似ている) バスの中ではマイクが廻され、参加者それぞれが自己紹介を兼ねて今回の旅の感想を述べ合って盛り上がった。車窓の外には刈り取り前の黄色く色づいた田んぼが広がっている。「田園風景」(太田(テジョン)から1時間半ほど走った大邱(テグ)市の近郊、ビニルハウスも多い) 12時ごろ釜山市の免税店に到着した。今骨肉相争う内紛が起きているロッテの免税店である。なぜかこの店の駐車場には外車が多い。お金持ちが「本物の」ブランド品を買いにくるのだろうか。駐車場の係員も高級ホテルのような服装をしている。 LOTTEの免税店では何も買わず、どんな車が入って来るのか車ウォッチングをしていた。高級ブランドの店より、自分に興味があるのは庶民のお店である。だから、そのあと行った国際市場はとても興味深かった。まずは市場の中を歩いて昼食の場所に向かった。「この旅で最後の食事」(メニューは海鮮鍋、釜山と唐津、離れていても同じ海に面しているのだと思った) 旅の終わりを思わせる海の幸が鍋の中で踊っている。今回の釜山経由の旅はいいコースだった。バスの時間は長かったが、疲れも吹き飛ぶ美味しい鍋料理に皆さんの笑顔も弾けていた。「国際市場を歩く」(面白い被写体はたくさんあったが、人が多くて迷子になりそうであまり撮れなかった) ガイドさんが庶民の行く店に連れて行ったが、旧盆で半分休業状態だった。冷やかし半分にここでは安いサングラスを買う。定価30000ウォンだけど、日本円では3,300円ほどだ。「お好み焼き・たこ焼き屋」(日本語の提灯や招き猫、店のおじさんの話では大阪から来て十数年ということだった) 釜山では買い物時間が中心で、観光地に行けなかったのが少し残念だ。今度来るときには、龍頭山公園にある李舜臣の銅像や日本通信使記念館などに行ってみたい。 18時発のエアプサン144便福岡空港行きは全く定刻通りに離陸した。18時30分頃には長崎県の壱岐島上空を通過した。窓の下には壱岐市芦辺町付近の海岸線が見えた。 18時50分に福岡空港に無事着陸する。「まつろ・百済武寧王国際ネットワーク協議会」の会長である宮崎卓さんから有意義な4日間をふり返っての挨拶があった。「解散式」(武寧王にまつわる民間交流をさらに有意義なものに、という思いを共有した旅だった) 我々が参加したのは9月26日の開幕式と27日の2日間だけだった。でも、現地では2週間にわたって様々な催しが行われる。彼の地の人々の古代百済への熱い思いがわかる。 ↓ランキングに参加しています。よかったらクリックをお願いしますにほんブログ村
2015/09/28
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公州会場から扶餘会場へ 今朝も昨日と同じレストランで朝食を摂る。昨日とどう違うか、強いていえば鍋料理が違うようだ。昨日は味噌チゲだったが今日は純豆腐チゲというようだ。「今日の朝食」(これで4人分、金属製のご飯容器が4つ出ていることで判るだろう) 今日の午前中は、昨日開幕式があった錦江河川敷に並んでいる百済の民俗文化をテーマにした屋台などを見学した。青空が広がって良い天気である。錦江には浮き橋が設置されていて、公州博物館に展示してある様々な国宝が大きなモニュメントとなって浮かんでいる。「墓誌石などのモニュメント」(ちゃんと文字が表現されているなどとても手がこんでいる~背景は公州市街地) このほかにもいろんなものが浮かべられていて見ているだけで面白い。王様の隊列なのだろうか、白馬と武将たちの隊列もなかなか面白い。この会場は夕方から様々なイベントが行われるようで、午前のこの時間帯は人も少なくてゆっくり見学できた。「キムチつくり体験」(会場には古代の鍛冶屋、食べ物屋などの模擬店があり、キムチつくりもそのひとつだった) みんなビニル手袋を真っ赤にしてキムチつくりに挑戦した。自作のキムチを多くの人が持ち帰ることになった。バスの中に持ち込むとバスの運転手さんがバスの中が匂うから、トランクに移すよう言われた。みんなはもう「キムチづけ」になっていて匂いに気づかないのだ。 錦江の向こうに見える公山城(熊津城)にも登ってみたかったが、今回は時間がなかったのか登れなかった。次の機会には是非登ってみたいものだ。「錦江越しに見る公山城」(西暦475年から538年までの64年間、百済の王都を守ってきた) 午後からバスで30分ほど西南の方向に走って扶餘に着いた。扶餘(ふよ)は538年から660年まで百済の都があった地で、ここにも百済時代の遺物を展示した国立扶餘博物館がある。「百済金銅大香炉」(国立扶餘博物館のメインであり、百済文化祭のシンボルでもある) 王都時代の中心地には定林寺の遺跡があり石造の塔が残っている。ステージイベントの開幕前とあって、人出が少なかったのでゆっくり見学することができた。「定林寺の五層石塔」(この石塔も今回世界文化遺産に認定された) 開幕式の会場は公州と扶余で一年交替となっている。今年は公州が開幕式会場だったが、こちら扶余でも定林寺跡博物館の横に野外ステージが設置され、夕方から始まるイベントのリハーサルが行われていた。「往時を偲ぶ」(五層の石塔と定林寺。仏教はこの地から日本に伝わった~定林寺跡博物館の展示) 扶余からまた公州に戻り、夕食は公州韓屋村のレストランで食べる。もうここもおなじみの場所となった。3日目となると苦手の韓式料理にもあきらめがつく。自分の食べられるものだけを食べる。野草に近い野菜類が多いが、幸いにもご飯が美味しいのでとても助かる。 伝統的なオンドル部屋などがある公州韓屋村は、青少年の文化体験、宿泊体験の場としても利用されている。食事が終わる頃には辺りは暗くなりスーパームーンがのぼってきた。「旅の空のスーパームーン」(韓国と日本は時差がなく、この写真は18時40分ごろ撮影。2本の塔はオンドルの煙突) 今日は扶餘の定林寺の五層の石塔が印象に残った。公州も扶余も田舎で、風景は日本の田舎の秋と似ている。660年の百済滅亡後、百済文化は日本で受け継がれた。 その日本の難波地方(大阪府羽曳野市)や飛鳥地方(奈良県明日香村)でも、今は公州や扶餘と同じような秋の風景が広がっているはずである。 ↓ランキングに参加しています。よかったらクリックをお願いしますにほんブログ村
2015/09/27
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交流のつどい、百済四代王追慕祭、総合開幕式 8時からホテル近くのレストランで朝食を摂る。朝からキムチの入ったチゲ鍋である。自分にとっては卵焼き、もやしのサラダ風、いりこの佃煮などが口に合って美味しかった。「朝食のメニュー」(おかずの種類は多い。ご飯は金属製のふた付きお椀(テーブル右上)に入っている) 公州博物館近くのホールに移動し、9時30分から「武寧王、ホシとウタと詩と」というイベントに参加する。これは百済文化祭のプログラムにも掲載されている公式行事で、日本のまつろ百済国際ネットワーク協議会と韓国の武寧王ネットワークとの交流のつどいである。「みんなで記念写真」(自分が制作した今年の6月加唐島で開催された武寧王生誕祭のDVDも上映された) これまでの武寧王をめぐる交流の歩みが紹介された。ここでも「ニルムセマ」などを一緒に歌いこれからも交流を深めていくことを確かめあった。6月の武寧王生誕祭にも来日された公州市選定の「今年の武寧王」夫妻は、このイベントにも参加された。(写真中央) 10時30分、気持ちのいい秋空のもとを歩いて近くの宋山里古墳群に向かう。1971年、この一角から未盗掘の古墳が発見された。多くの金製冠飾とともに墓誌石が発見され、武寧王の陵墓であることが証明された。今年は世界文化遺産に指定されて初めての追慕祭である。「追慕祭会場」(宗山里古墳群の前でしめやかに行われる~右奥に1971年に発掘された武寧王陵がある) 我々訪問団の席も用意してあり、参加者はそれぞれ王への献花を行った。この宋山里古墳群一帯も今回ユネスコの文化遺産に指定された。「追慕祭が終わって」(用意してきた世界遺産登録を祝う横断幕を持って記念写真を撮った) 現在古墳の内部には入れないが、発見された多くの遺物はすぐ近くの国立公州博物館に展示してある。その中の一番の目玉はやはり武寧王陵の石室から出てきた墓誌石である。「武寧王陵から出土した墓誌石」(記載された没年が日本書紀の記述と一致、武寧王が加唐島で生まれた証しとなった) 博物館の見学を終えて、博物館の敷地に、持ってきた椿の実を参加者で植えた。本来は苗木を植える予定だったが、入国検疫がパスしなかったために椿の実を植えた。「椿の実を植える」(来年再訪したときにはちゃんと芽がでていることを祈って…) 博物館を出て、公州市郊外にある東学革命軍慰霊塔を見学した。東学党の乱は「甲午農民戦争」として日本の歴史教科書にも載っている。甲午農民戦争の鎮圧を名目に、1894年に日清両国が出兵して日清戦争が始まった。この地で反乱は鎮圧され十万以上の人が殺されたという。 高さ十数メートルほどの慰霊碑は、朝鮮にとってその後の日本による植民地支配そして朝鮮戦争(韓国では韓国戦争という)を経て民族分断という悲しい歴史の序章となった。半島という地政学上の位置は、国際紛争舞台になる宿命がある。朝鮮半島の歴史も例外ではない。 18時過ぎ、錦江の河川敷に設けられた開幕式の会場に向かう。すでの多くの人が集まってきている。私たちの席はステージの正面の前寄りに用意してあった。「和嶋静代さんのニルムセマ」(数万の観客に、武寧王をたたえる「ニルムセマ」の素晴らしい歌声が届いた) このあと、約1時間ほども各界の人々のあいさつが続いた。これは目上の人を尊敬するという韓国の伝統的文化様式なのだろう。多くの人のあいさつは余りにも長かったけど、誰一人席を立たない。そのはずである、何人ものあいさつが終わったら突然会場は騒然となった。「人気グループの登場」(みんなこれを待っていたんだ!。韓流POPSのスターが登場して会場は騒然となる) 写真上が女性4人組の「ママムー」、下は男性3人組の「SG Wannabe」。若者たちがどっと前の席になだれ込んだが、けが人が出たりなどの混乱はなかった。かれらの出番が終わってからはいよいよお目当ての花火だった。「感動的だった光と音のショー」(日本の大輪の花火とは違うが、音響や照明とコラボしていて素晴らしかった) 人混みの中を歩いてホテルに戻る。感動の開幕式でこのままホテルに入るのはもったいないとばかり、公州大学の尹(YOON=ユン)教授が設定してくれた2次会に全員が参加した。 それぞれ印象深い1日を過ごして旅の2日目が終わった。今夜はみんな錦江ホテル泊である。 ↓ランキングに参加しています。よかったらクリックをお願いしますにほんブログ村
2015/09/26
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釜山から高速道路をひたすら北上 「まつろ・百済武寧王国際ネットワーク協議会」が主宰する第61百済文化祭への旅に参加した。参加者は協議会の会長、役員、会員のほか、一般参加者を含めて30名となった。「エアプサン141便」(到着便の遅延で、定刻より約1時間遅れの12時40分過ぎに福岡空港を離陸した) 今年で3回目の参加だが、過去2年は仁川空港に降りて公州(旧百済の都)市までバスで南下した。今回はまずプサン空港に降り立ち、そこから高速道路を北上するルートである。「プサン空港にて」(13時30分に入国手続きが終わったが、入国検疫で心配していた事態が発生した) 準備してきた加唐島の椿の苗が韓国の植物検疫に通らなかったのだ。日本の検疫は通していたのだが韓国の入国検疫の結論は数週間後とのことで、当地での記念植樹は不可能となった。「百済文化祭の日本語パンフレット」(今回は古代百済国の遺跡が世界遺産に登録されてから初めての百済文化祭である) 15時から、プサン市郊外のレストランで遅い昼食となる。メニューは石焼きビビンバ。これから4日間はキムチ責めが続く。辛い物が苦手な自分はただひたすら耐えるのみである。 途中のサービスエリアで何回か休憩をとりながら、秋深き韓国の農村地帯をバスは北上を続ける。速度は120km/hほど出ているだろう。今日から韓国は旧盆の休暇が始まっている。「派手なイルミのバス」(HYUNDAI系列化に入ったKIA製のバス。天井の原色の車内イルミが韓国らしい) しかし、プサンからソウル方面に北上するルートは、帰省ラッシュとは逆コースとあって車の流れはスムーズだ。しばらくは稲刈り前の田園地帯やビニルハウスが見えていたが、やがて陽が沈みすっかり暗くなったころ、やっと旧百済の都があった忠清南道の公州市に着いた。 19時50分歓迎会場に着く。待ちくたびれただろう韓国側のネットワークの人たちが笑顔で大歓迎してくれた。この歓迎会場も3回目なので自分はすっかりおなじみである。「日本側のネットワーク協議会会長のあいさつ」(6月に唐津市加唐島で開催した武寧王生誕祭に訪日してくれた人たちの顔も見える) この歓迎会場の料理は、韓国料理の中でも一番食べやすい。韓国の伝統料理は山菜や野菜が多く、日本料理のような魚や肉は出てこない。「韓国伝統料理」(珍しい料理が多いが、ハングルが話せないので原材料がわからないのが残念だ) アルコールは栗でつくった栗マッコリや韓国焼酎が結構日本人の口に合うようだ。まあ、下戸の自分には正当な評価は無理なのだが…。アルコールが入ると自然と歌が出てくる。「ニリムセマ・加唐島の思い出」(言葉は通じなくても歌は万国共通語、日本語と韓国語の歌詞で歌えば気持ちは通じる)「であい・マンナム」(このであい偶然じゃない これは望みよお互いの 忘れぬ私の大事な運命…) 楽しかった歓迎会、最後にみんなで輪になって「であい・マンナム」を歌う。22時会場を出てそれぞれの宿舎、歴史文化村の韓屋村と錦江ホテルに向かった。 明日(9月26日)の総合開会式は公州市の河川敷に設けられた特設会場で行われる。私たちの仲間の和嶋静代さんの「ニルムセマ」独唱もある。また、花火がとても綺麗だというので楽しみだ。 ↓ランキングに参加しています。よかったらクリックをお願いしますにほんブログ村
2015/09/25
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