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※これは完全にフィクションであり、実際に存在する団体や組織とは一切関係がありません。高度経済成長に取り残された日本農業は依然として一人当たりの面積は狭く、高齢化と後継者不足は深刻な問題になっていた。さらに、日本農業の中核として育成しようとした専業農家は、近年の農産物価格の低迷でこの先農業を続けていく気力を失いかけていた。このように日本農業が崩壊寸前の瀬戸際に立っていた頃、農林水産省○○局○○課では、連日熱い討論が繰り返されていた。テーマは「いかにして日本農業を再生するか」だった。「今は遠い将来の問題をとやかく議論している時ではない、猶予期間は長くて5年しかないんだ!」興奮したチーフの声だった。スタッフの皆がそう思っていた。しかし5年以内に世界に通用する競争力を日本農業に持たせることは、ほとんど不可能に挑戦するようなものだった。狭い耕地面積と世界一高い人件費で作られる農産物は、どんなに合理化を進めても国際価格には太刀打ち出来ない。「WTOの農業交渉でも、輸入をこれ以上食い止めることはおそらく出来ないだろう」「こうなったら、逆転の発想で行きましょう!日本の農産物はどうやってもコストが高くなるのなら、それを国民に納得してもらうんです」「なるほど。幸い今は中国野菜の残留農薬問題で、国民は食品の安全性に大いなる関心を持っている」「レモンのポスト・ハーベスト問題で、消費者は値段が高くても国産レモンを買うという前例もある事だし・・・」「日本の農産物は新鮮で安全。国産の農産物なら安心して健康な食生活を保証します。だから高くても国産を買いましょうという意識を国民に浸透させるということだな」チーフが言った。「そうだな。それ以外に方法はないだろう、よし!そのセンで行こう」これは輸入品と国産品の二重価格制度の導入だった。もし、国民が値段よりも安全・新鮮に価値を見出せば、どんなに低価格の輸入品の洪水からも日本農業を守る事が出来る。これは最後に残された実現可能な選択だった。しかしWTOに加盟している以上、二重価格制度を法制化することは出来ない。頼みの綱は国民の意識変革だけだった。これを実現させるには気の遠くなるような努力が必要だ。スタッフの全員がそう思った。スタッフは、この方針に添って考えられるあらゆる施策と問題点を検討する作業に入った。ある日、スタッフの1人(※仮に「日本」のNと呼びます・・・笑)が言った。「チーフ、問題があります。無登録農薬です」
2002年08月31日
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選別され箱詰めされて市場まで出荷された梨が、ダンボール箱ごとゴミ収集車に捨てられている・・・何箱も、何十箱も・・・ゴミ収集車の中でグシャッと潰される梨のアップ・・・ニュース番組でこの映像を見たときの印象は強烈だった。tetywestにとっては瀋陽の大使館亡命事件よりもずっと身近な問題だった。最初に浮かんだ考えを正直に言うと、「ああ、tetywestの産地のミカンでなくてよかった」だった。その次に思ったのは「廃棄処分された梨を出荷した組合の真面目な生産者は、おそらく辛くて悔しくてあの映像はとても見ていられなかっただろう」だった。廃棄された梨全部が無登録農薬を使用したものではないはずだ。市場へ出荷された梨は、選果場で選別された時点で誰が栽培したものかわからなくなっている。「疑わしきは罰せよ」と全部廃棄処分されたのだ。もし、これがtetywestの産地だったら・・・と考えただけでぞっとする。今回の処分は突然起こった。おそらく農家も市場関係者も誰も予想していなかっただろう。しかし、tetywestにはいつかは起きるんじゃないかという予感はあった。予感と言うより「願望」と言った方がより正確かもしれない。これから書こうとしていることは、このtetywestの願望を元にして生まれた「プロジェクトX=日本農業再生のシナリオ」である。(※これは完全にフィクションであり、実際に存在する団体や組織とは一切関係がありません)※どうせ書くなら、ナレーションも徹底的に「プロジェクトX」っぽく書いてみましょうか(笑)2001年狂牛病(BSE)問題に端を発し、雪印食品の輸入牛肉偽装問題、日本ハムの牛肉偽装問題と次々に流通の誤魔化しが摘発された。その上、中国野菜の残留農薬問題、ダイエット食品の健康被害などがマスコミによって報道され、日本の食料の安全性は完全に消費者から見放されていた。さらに世界に目を向ければ、WTOの農業交渉で日本が主張する農業の多目的機能を認めさせる事は困難になり、アメリカ合衆国やケアンズグループからの輸入障壁撤廃の声は日増しに高くなっていた。「このままでは日本の農業は崩壊する」そんな危機感を抱きながら「日本農業の再生」を賭けて勇敢に戦った人達がいた。♪テーマミュージック(笑)2002年7月30日に山形県において無登録農薬(ダイホルタン及びプリクトラン)を販売していた2業者が農薬取締法違反及び毒物及び劇物取締法違反の容疑で逮捕され、8月9日には、更に山形の業者に販売していた東京の業者が、農薬取締法違反の容疑で逮捕された。(山形県警及び上山(かみのやま)署)この情報を得た農林水産省生産局生産資材課では全都道府県にこの問題に関する情報を随時提供するとともに、8月12日に東京の業者が山形県以外の業者にも販売していたとの情報を元に、翌8月13日には、都府県に対し、情報の収集、販売業者等への農薬取締法に基づく立入検査を早急に実施するよう指導した。これを受け、30都県において、県が農林水産省、独立行政法人農薬検査所と協力して立ち入り検査を実施し、無登録農薬の処分、農産物の安全確保に当たった。この事件は、無登録農薬であることを知りつつ、販売、使用した者によって起こされた事件だった。農林水産省は各都府県に対し、販売業者及び購入農家に立ち入り、無登録農薬が流通・使用されないように、封かん、廃棄処分等の措置をとると共に、販売業者のリストから購入農家が分かるので、衛生部局との連携を取りつつ、出荷自粛、残留農薬分析等による農産物の安全性の確保措置を図るよう指導した。これが「無登録農薬問題」の経緯だったのだが、実はこの事件の裏には極秘のシナリオが隠されていた。
2002年08月30日
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熊本へ向かう新幹線の中で、「無登録農薬を使用した農家にも罰則、農水省が検討」というニュースが流れていた。博多駅に着いて待機していたバスに乗り込む。そこで今回の研修旅行の主催者である香川県果樹研究同志会長の挨拶があったのだが、それも「無登録農薬問題」についてだった。熊本へ着いてJA熊本果実連で組織運営についての研修をしたのだが、このときの後半も「無登録農薬問題」へどのように対応するかがテーマだった。今回の研修旅行は香川県果樹研究同志会の役員研修旅行だった。3年に一度役員改選の年に行われている。研修目的は熊本県の果樹研究会の組織運営を勉強することと、基盤整備事業の現地視察、キウイの高品質生産への取り組みだったのだが、どこに行っても、急に持ち上がった「無登録農薬問題」についての話題だった。香川県は幸いにもリストに上がっていなかったが、熊本県は「無登録農薬」が販売されていると報じられただけに、JA熊本果実連でもその対応に大わらわだった。旅行中にも新しいニュースが報道されて、今回はすっかり「無登録農薬問題」を考える旅行になってしまった。昨日の夜は無事帰宅したのだが、例によって新幹線の中での冷房が原因で頭痛が起きていたtetywest、日記の更新は出来なかった。「無登録農薬問題」については、農家であるtetywestは当然今までも関心があったし、言いたい事もいっぱいある。今夜はそれをまとめてみようと思っている。
2002年08月29日
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今から熊本へ出かけます。帰ってくるのは明日ですが・・・同窓会の報告が一段落したので、ちょっと日記も休憩しますね。西日本は残暑がぶり返してきて、まだまだ夏が頑張っていますけど、秋はすぐそこまで来ているんでしょうね。皆さんもお体に気をつけてお過ごしください。それでは・・・行ってきます。
2002年08月27日
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7時を過ぎた頃から、2人、3人と帰る人も現れ始めた。tetywestは眠りたい誘惑に抵抗できずソファーに倒れ込んで、気がつくと8時半を回っていた。あたりを見回すと、まだまだ半分くらいは残っているようだ。相変わらずカラオケでガンガン歌っている。ステージの前のフロアでは何組も踊っている。席から席へ移動して会話を楽しんでいる。tetywestは幹事でなかったらもうそろそろ御暇したい体調だったのだが、みんな感心するくらい元気だ。それでも9時になると一斉に帰りモードになり、後には幹事連中が15人ほど残った。M森先生とT重先生もその中にいた。T重先生はT田さんの隣に座ったのだが、いきなり「ちょっと前を向いて・・・」と言うと、人差し指で鼻の頭をぷるんと撫で上げて、「これをしたのは、アナタが二人目。もう1人は家内よ」T田さんも然る者、「先生、私はそうは思いません」と応酬する。「ところで、アナタはコンパニオンの人?」「いいえ、みんな同級生ですよ」「えっ、同級生。わしゃてっきりコンパニオンかと思うちょった」「先生、いくら照明が暗いからと言ってもそれはないでしょう・・・ちょっと飲みすぎですよ」先生しっかり一本取られている。なにはともあれ、今回の同窓会は大成功だった。幹事のメンバーの顔にも疲労の中に安堵の表情が浮かんでいる。他のテーブルに残っていたオードブルや果物を集めてきて、もう一度飲み直す。フルーツの盛り合わせの中には、梨が3個丸ごと入っていた。ナイフがなかったので、誰も手をつけずにそのまま残っていたのだ。誰かが何処からか刺身包丁を探してきて、T田さんが梨を剥いで皆に配った。出されたものは全部片付けるのがお客のエチケットだろう。これも値段の内なのだし・・・欠席者への会報の郵送や、カンパの振込用紙の件、同窓会の決算報告のことなど、次の幹事会の段取りを話し合って、香木を出たのは10時を過ぎていた。例によってtetywestは同乗者4名を乗せて運転手役だった。この後、グランドホテルで合流した数名と3次会へと流れて、家に着いたのは11時を回っていた。延々12時間以上続いたtetywestの同窓会はこうして幕を閉じた。※翌日、S英君は2・3人の女性からお礼の電話をもらったのだが、声が涸れて喋るに喋れず悲しい思いをしたそうだ。本当にお疲れ様でした(笑)
2002年08月26日
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一次会にはある程度の進行スケジュールがあるのだが、二次会にはそれが全くない。何をするのかも決まっていないし、いつ終わるのかもわからない。これだけ大人数だと、そのへんにあるスナックでは収容不可能だろう。その点、香木は室内のスペースがゆったりしているので、各自が勝手な行動をしても何の違和感もない。場所の設定としては大正解だった。香木に初めて来て、「真珠の間」や「大理石のトイレ」や、「アートギャラリー」を散策する人達がいるかと思えば、ステージでカラオケを歌う人達もいる。カラオケに合わせてカップルでダンスをしている人達もいる。テーブルからテーブルへ移動して昔話に花を咲かせている人達もいる。空いたソファーに寝そべって酔いを醒ましている人もいる。もう大役は終わったはずのS英君は、ここでもカラオケの司会をやっていた。tetywestは一次会で動き回ったのと習慣になっている昼寝ができなかったせいで、座り心地の良いソファーから動きたくない気分だった。それで、隣に座ってくれる人と会話を楽しむことにした。卒業以来初めて会う大学教授のG田君は奥さんと一緒に参加してくれたのだが、専門は「戦後経済史」なのだそうだ。これは良い機会だと、今後の日本経済の見通しについて訊いてみた。「もうその兆候は現れているが、今からの日本は高額所得者と貧しい人の差がますますハッキリしてくるだろう。私はこれを止められるのは政治しかないだろうと考えている」「でも、今の政治家や官僚にそんな能力があるとは思えないけどな。下手をすれば頭脳の海外流出が起こって益々日本経済が弱体化するんじゃないの。ところで地方では製造業を筆頭に中小企業の経営が悪化しているけど、今後どうなると思う?」「この状況を打開するのは基本的には円安しかないだろうな。アメリカに対してじゃなくて、東南アジアの通貨に対してだが・・・」やっぱりそうか・・・tetywestが1975年にUSAへ行った時、1ドルは300円だった。当時のカリフォルニアの最低賃金は3ドル10セントだったので、日本円に換算すると1時間当たり930円になる。このままUSAの賃金が上がっていけば、どれだけ合理化を進めても人件費の高騰でコストダウンが出来なくなり、アメリカの輸出競争力はなくなるだろうと思ったものだ。ところが「プラザ合意」以後、どんどん円高が進み、一時は1ドル=100円を切る状況にまでなった。その当時のUSAを現在の日本に、日本を中国に置き換えれば、専門家が考えてもやはり歴史は繰り返すということなのだろう。ナイトクラブでこんな話が出来るのも同級生ならではのことだ。I野さんには、「農業っていいんじゃない。理想の職業だと思うよ」と言われた。「確かに自然を相手にしているからストレスは溜まらないし、全部自分で段取りして、その結果がどうであれ自分の責任なのだから精神的には最高の職業だと思う。けど、経済的には最低の職業ですよ。これから日本の農業はほとんど兼業化するだろうな。どこかで経済的な裏付けを持たないと生活出来ないもの。」I野さんは北海道資本のドラッグストアに正社員として勤めているのだそうだ。M武君から、「やけに『正社員』のところを強調するね」と突っ込まれていた。同級生の卒業以来の身の上話を静かに聞きながら、一方で二次会はどんどん盛り上がっていく。
2002年08月25日
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同窓会が終了したのは4時だった。昼前の雨は何処へやら、外は真夏の日差が照りつけている。さあ、次は二次会だ。少し遅れて外に出てみると、ホテルの前には送迎用のマイクロバスが2台停まっていた。これも経費節約のためにK川君がホテルと交渉して、無料で「香木」まで運んでくれることになったのだそうだ。もしタクシーでの移動だったら、一体いくらかかるのだろう。マイクロバスは2台とも定員をはるかに超えて座れない人が通路に立っている。酒を飲んでいないtetywestは幹事3人を乗せて自家用車で移動した。「ナイトクラブ&レストラン香木 」はメールリストでも会報・4号でも紹介したように「日本のベルサイユ宮殿」との異名を持つ(?)高級クラブなので、気軽にちょっと一杯というスナックとは訳が違う。とても5000円飲み放題などという価格設定で行ける店ではない。これも香木の常連客であるK川君とS英君の交渉の賜だった。その甲斐あって、なんと一次会の出席者の半分以上が二次会へ参加してくれた。幹事にしてみればこんなに嬉しいことは無い。※香木のHPは「ナイトクラブ&レストラン香木」 です。香木には入り口が2個所あるのだが、それぞれの入り口には会計のH田さんと今まで司会を務めていたT田さんが待ち構えていて、会費を払わないと中に入れてくれない。これは、前回の同窓会の二次会のとき最後にお金を集めたところ参加人数と会費が合わず、お世話をした幹事が苦労したという反省から考え出されたシステムだった。部屋に入ると、ステージに近い場所に席が準備されていた。8人~10人が1つのテーブルを囲むようになっている。しかし、予想を超える人数だったので、急いで追加のテーブルを用意していた。テーブルの上には果物の盛り合わせと、サンドウィッチの盛り合わせ、ワインとワイングラスが準備されていた。それ以外の飲み物は注文すればビールでもウィスキーでもカクテルでも烏龍茶でも飲み放題だ。ただし、これだけの人数に普段通りのサービスは無理なので、セルフサービスでカウンターまで取りに行く事になっている。最初はなんとなくクラス別に集まって座った。恩師の先生方も4~5人が二次会へ参加してくれたようだ。こういう機会でもなければ香木へ来るチャンスがないからだろうか、女性も半分は参加してくれたようだ。定員150名というだけあって、これだけの人数がつめかけても室内にはまだ十分ゆとりがある。ワイングラスにワイン(tetywestだけはオレンジジュース)を注いで乾杯し、二次会が始まった。
2002年08月24日
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※tetywestの独断と偏見で勝手に「ツーショット・ヒーロー」と名付けられたT岡君からメールが届きました。これも同級生ならでは・・・嬉しいですね。「同窓会報告、さすがですね。ここまで詳しく説明してもらうと出席できなかった人もまるでその場にいるような印象を持つのではないでしょうか。 (でも私の記事はちょっと大袈裟やで)」 と控えめにイチャモンをつけております(笑)中締めの乾杯が終われば楽しかった同窓会もお開きになり、二次会へ行く者あり、家路に就く者あり・・・がお決まりのコースだと誰もが思うだろう。ところが司会者はこの後にとんでもないものを用意していたのだ。いわゆる「本締め」というヤツである。「それでは、ここで締めくくりの挨拶を、幹事会の副会長であるtetywest君にお願いいたします」とS英君のアナウンスがある。実は、S英君から「本締めの挨拶はtetywest、おまえ頼むぞ」と言われたのは前日の準備会のときだったのだ。絶対断れないシチュエーションに追い込んでおいて切り出すとは、正直言って「やられた!」だった。当日の開会前にI川君に応援団のエールをやって欲しいと頼んだのだが、「以前やった事があるが、場違いな感じやった」と断られてしまった。こうなると、1人でやるしか仕方がない。同窓会の最中も喋るテーマを考えていたのだが、どうせみんな酔っ払っているのだから何を言っても大丈夫だろうとぶっつけ本番で行くことに決めた。「楽しかった同窓会も、あっという間に閉会の時間がやってきてしまいました。まず、本日の進行役を務めてくれたS英君とT田さんに感謝の拍手を贈りたいと思います。」一同から拍手が起こる。「そして恩師の先生方には、お忙しい中我々の同窓会に出席していただき、本当にありがとうございました。こうして、4年ごとに開かれる同窓会ももう3回を数え、すっかり恒例となった感があります。今回も130名を超える出席者を迎えることができ、幹事一同本当によかったと思っています。そして、会報へのカンパも7万円を超える暖かい御支援をいただきました(後で数えたら8万円を超えていたらしい)。本当にありがとうございました。」「ここまでは定型文で何とかこなせたぞ。ううっ、次は何を言おう・・・」と、頭の中をフル回転させようと試みるのだがなかなかうまくいかない。「ええぃ、喋り始めれば何とかなるだろう。短く終わらせてしまえ・・・」「私たちも社会の中心となって働く年代となりました。色々な分野で活躍している同級生達が一同に集まり、色々な話を聞くことができたことは大変嬉しいことでした。今回出席してくれた皆さんは、次の同窓会にも必ず出席してくれるようお願いします。そして、そこでまた色々な話が聞けることを楽しみにしたいと思います。それでは4年後の再会を祈念して一本締めで締めたいと思います。皆さんどうかよろしくお願いします。」「よ~~」「バン!」やれやれ・・・ホッ司会者が最後の挨拶をする。「以上を持ちまして同窓会を閉会させていただきます。どうぞ皆様方健康には十分ご留意されまして益々ご活躍されますことをお祈り申し上げ、4年後の再会を楽しみにお待ち申し上げます。本日は思い出深い1日となりました。ありがとうございました」一同の大きな拍手で同窓会は閉会した。
2002年08月23日
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雰囲気が最高潮に盛り上がったところで、司会者は中締めに持って行くのかと思ったら、「どなたか、カラオケを歌いたいという方はいらっしゃいますか?」と振ってきた。まあ、この雰囲気を壊すような野暮な奴はいないだろうと誰もが思ったはずだ。・・・ところが1人いたのだ。よりによってそれは11組の担任だった英語のT橋先生だった。舞台に上がると自分でマイクを持ち「蛍の光」を歌うのだと告げる。ホテルのカラオケ機械担当者もさぞ焦ったことだろう。その曲はカラオケにはないとの返事だった。しかし先生も然る者、アカペラで「蛍の光」を歌い始めた。それもエイゴで・・・先生には大変失礼なのだが、決して上手とは言えない。しかも、他の人は歌詞を知らないので、どの部分を歌っているのやら皆目見当がつかない。A井君曰く「これは、ほんまにめんどいわ」何となく曲が終わったので、みんなお愛想の拍手をした。さあ、これで中締めかと思ったら、今度は1組の担任のT重先生が会場の後ろのほうから手を挙げながら走って来た。こうなると「今度は何を歌うのだろう」と逆に期待してしまう。T重先生はマイクを持つと、「昨日200万円で刀を買いました。銘は○○です(※刀には全く素人なので記憶に残っていません)。どなたか、○○に興味のある方がいれば後でゆっくりとお話しましょう」とだけ言うと舞台を降りてしまった。何だか狐につままれたようだった。T重先生は遅刻して来た時もすぐに挨拶をしたのだが、その時は、「始まるんはてっきり1時だとばっかり思い込んどりました。これで遅刻したのは2回目で、教え子の結婚式以来のことです。あんときは、『仲人が来んけん、式が進まんが』ゆうてえらい怒られました。今年の3月に退職しました。皆さんの母校では19年間御世話になりました。今日は遅れまして大変申し訳ございません」という挨拶だけだったので、もの足りなかったのかも知れない。しかし、何でここで日本刀なんやろ?さあ、今度こそは本当に中締めだ。「中締めの御発声を大阪支部をお世話いただいております、T岡君とU久さんよりお願いいたします」本日のツーショット・ヒーローのT岡君が舞台に登場する。「キャー!ステキ~」と言う声はさすがに上がらなかったが、男性のtetywestが見ても確かにカッコいい。T岡君の「大阪支部の皆さん、全員前に集合して下さい」との呼びかけで、これも12~3人が舞台の上に集まる。圧倒的に女性が多い。大阪支部のメンバーは何が目的で幹事をやっているのだろうと勘繰りたくなるのは嫉妬心だろうか(笑)それぞれの自己紹介の後、T岡君の発声で、「同窓会の皆さんの益々の発展と健康を祈念して乾杯!」一同:「カンパ~イ」
2002年08月22日
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そうこうしているうちに、開会の前に撮影した写真が出来上がったと案内がある。クラスごとに幹事が配布する。この時もよそのテーブルへ出かけた連中を探すのに一苦労だった。写真を見ると、120人以上が一枚の写真に写っているので、1人1人の顔が小さすぎて眼鏡がなくては判別出来ない。帰ってゆっくりと見ることにしよう。ここでT田さんのアナウンスが入る。「先日、母校弓道部女子がインターハイで優勝いたしましたし、高校野球夏の大会で野球部もベスト4に残り、惜しくも尽誠に敗れは致しましたが、初めての甲子園出場かとドキドキいたしました。この辺りで今日の思い出に校歌を合唱したいと思います。歌詞は受付でお渡しした名簿の後ろにあります。指揮は7組幹事で、元コーラス部のG田君です。ではG田君よろしくお願いいたします」会場に校歌の前奏が流れる・・・♪あ~おぐも に~おい ひ~には~ゆる~さ~ぬき やまなみ あ~おぎつつ~え~いちの ひとみ~ さわやかに~♪もう全員、すっかり高校生に戻っている。高校時代には「何とダサい校歌だろう」と思ったものだが、歳を重ねるにつれて次第に格調高く聴こえるから不思議なものだ。T橋君は歌詞だけではなくて、週刊朝日に掲載された「日本の名門高校ベスト100」の記事も印刷してあった。今回の同窓会は何かと話題が豊富だ。校歌が終わると、誰からともなく拍手が起こった。司会のS英君が続ける。「もう一曲、皆さんに一緒に歌っていただきたい歌があります。これは地元幹事会がいつも最後に歌うテーマ曲でもあります。それでは『サライ』!皆さんでどうぞ!」カラオケから「サライ」の前奏が流れ始める。テレビは舞台の前に1個しかないので、T田さんが歌詞を少しだけ先に喋る。「遠い夢捨てきれずに」♪とおいゆめ~ すてきれずに~「故郷を捨てた」♪ふるさとを~ すてた~「穏やかな春の陽射しが」♪おだやかな~ はるのひざしが~「揺れる小さな駅」♪ゆれる ちいさな えき~男性といわず、女性といわず隣同士肩を組んだ人の輪が、曲にあわせて左右に揺れている。人の輪は舞台から会場の一番後ろまで5層にも6層にも重なり、いつの間にか会場の照明は消されて、人影だけが揺れている。幹事連中は、もう何度も歌った経験があるのでそれほどでもないのだが、はじめて経験する人達にとってこの光景はきっと感動する筈だ。お互いに肩を組んで同じ歌を歌うことで、同窓生の絆がより一層強く感じられるに違いない。こんな素晴らしいテーマソングを持っているのは幹事会としてちょっぴり鼻が高い。歌詞の内容もいかにも同窓会にピッタリだ。♪いつかかえる いつかかえる きっとかえるから~会場の照明が復活する。校歌のときより一段と大きな拍手が起こった。しかしホンネを言わしてもらえば、この歌は長すぎるのだ。最後までフル・ボリュームで歌うと息が上がってしまう。
2002年08月21日
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※同窓会で「署名入りの記事を書くと金一封がもらえるのだろうか」という質問を受けたので本人に確認したところ、「全く出ません」との返事でした。H君には去年の夏の北京旅行で大変御世話になった。参加したメンバーはツアーでは絶対経験できない思い出をいっぱいお土産に持って帰る事ができた。今回の同窓会にはその時のアルバムを持参して、皆さんにH君の奥さんや娘さんの顔を見てもらった。I川君も例の「トンボの化石」を持ってきていた。「すっかり愛着が湧いてしもうてな。額に入れて我が家の家宝にしようと思っとる」のだそうだ。「この辺で二次会のご案内をさせていただきます」会場はそこかしこで話が盛り上がっていて、S英君もかなり声を張り上げないと、なかなか司会者の言う事を聞いてくれそうにない。「幹事会では、前回の会報で話題になった「ナイトクラブ・アンド・レストラン『香木』で二次会を設定しております。会費は特別料金、飲み放題5000円です。この機会にぜひとも多くの皆さんの御参加を期待しています。なお、各クラスの幹事さんは出席者を取りまとめて司会の私、S英までご報告をよろしくお願いします」私達のクラスでは1人を除いて後は全員二次会に参加することになった。続いてT田さんが、「また、これから会報の募金箱を回しますので、カンパもよろしくお願いいたします」と言うと、募金箱を持ってテーブル回りを開始した。みんな気持ちよくカンパに協力してくれているのは、編集長として大変嬉しかった。この頃になると、クラスごとに座っていた席はめちゃくちゃになっている。二次会のとりまとめをするためには、会場を探し回らなければならなかった。どこの同窓会でもそうだと思うのだが、男性が群がる女性と、女性が群がる男性が少なくとも1人はいるものだ。今回のヒーローは、前2回と同じくT岡君だった。乾杯の後30分もすると何処からかお呼びがかかり、そのまま一向にテーブルには帰ってこない。「記念写真にツーショットで収まった数は、その他の男に比べて群を抜いているだろう」とはO平君の感想だった。女性もこのくらいの年齢になると次第に大胆になるのかも知れない。それでは、今回のヒロインは誰だったのだろう?いい女が多すぎてtetywestには判断しかねると言う事にしておこう。ちなみにtetywestがツーショットで収まったのは2人だった。再びS英君のだみ声が会場に響き渡る。「ただいまから、幹事の紹介をさせていただきます。各クラスの幹事は自分のテーブルに戻ってください」地元でお世話をしている幹事は全部で30人いる。各クラス最低2名で、多いクラスでは5人のところもある。S英君は各テーブルを回りながら、1組のO平君から順番に職業とユーモア溢れる簡単なコメントで幹事を紹介していく。改めて幹事の職業を聞いていると、公務員と先生と自営業がほとんどだった。この3つの職業は比較的時間の自由をつけ易いのだろう。tetywestの紹介は「tetywest君のミカンは美味しいですよ~」だった。この宣伝のおかげなのか、今まで一度も話をしたことのない女性から、この秋にミカンを送って欲しいと注文があった。これも何かの縁だろう、しっかり美味しいミカン作りに励まなくては・・・
2002年08月20日
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「皆様、懐かしい話が盛り上がっているところですが、ここで今回欠席された3組のO田先生、10組O崎先生、体育のO野先生よりビデオレターが届いておりますので、どうぞご覧下さい。」司会者のアナウンスに続いて、会場の右側にセットされたテレビから懐かしい先生の姿と声が流れる。これはT中君とG田(憲)君の担当で、わざわざ先生方の家を訪問してビデオを録画して来たのだ。撮影したのは2人ではなくて、ケーブルテレビのスタッフに無料でやらせたという念の入れようなのだから編集も完璧だった。ただ、プロジェクターの借用料をケチって大画面のTVにしたために、100人以上の会場では画面が小さくて遠くからは観づらかったことと、かなり宴席が盛り上がっている最中だったので、半分以上の人は見ていなかったようだった。これは次回への課題として書き留めておこう。ビデオが終わると司会者から「先生方は、それぞれの担任のクラスのテーブルへお移り下さい」との案内があり、恩師の加わったテーブルではまた一段と昔話に花が咲いている。しばらくすると、S英君から受付で配った最新版の住所録、当日発行された会報第5号、そして新聞記事の切り抜きファイルの説明があった。「皆さんにお配りした新聞記事のコピーは、我々の同級生、H君が書いたものです。彼は共同通信中国総局に勤めています。みなさんもご覧になったことと思いますが、瀋陽の亡命事件のビデオは彼が撮影したものです」これを聞いて会場が「お~」とどよめいたところに、さらにS英君の説明が続く。「コピーの最後に、今朝届いたばかりのH君からのメッセージがあります。どうかお読みください」実は、これが今回の同窓会の「ビックリ企画」だったのだ。H君はもしかしたら同窓会に出席できるかもしれないと飛行機の予約までしてあったのだが、日朝赤十字会談や、瀋陽の亡命事件の当事者への取材などでどうしても日程の調整がつかず、欠席の知らせがあったのは12日だった。それで、メッセージを13日に送ってくれるはずだったのに夜中になっても届いていなかった。メッセージがメールで届いたのを確認したのは同窓会当日の午前7時だった。受信時間は午前3時20分となっている。すぐに印刷屋のM石君にメールを転送して印刷してもらい、同窓会の開会に何とか間に合わせたのだった。H君のメッセージは、さすがに文章で飯を食っているだけあって素晴らしい。新聞記者という職業柄からだろうが、いつもながら贅肉を切り落としたようなスリムな文章で、ちゃんと読ませどころを心得ている。が、あえて個人的なツッコミをさせてもらえば、「日本でも『お騒がせ』となった瀋陽の日本領事館の亡命者連行事件では偶然、現場に居合わせました。」と書かれてあったのは、決して「偶然」ではないだろうし、「できれば夜中の12時までに送ってくれよ」と言いたい。
2002年08月19日
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※早速、S英君からイチャモンのメールが届きました。いや~、このツッコミ。同級生はいいものですね~「tetywest、14日はいろいろとご苦労様!ところで、俺のネクタイの表現は、下記のように願いたい。『ナイーブでエキゾチックな鳳凰のスワトーネクタイを』という柔らかい表現に!」と本人は言っております。どちらの見方がより公平なのかは読者の皆様の判断にお任せします(笑)乾杯の発声は東京支部のF村君、S田(旧姓:I城)さんに前もってお願いしてあった。2人が紹介され舞台にあがると、F村君の「東京支部の皆さん、全員前に集合して下さい」との呼びかけで、12~3人が舞台の上に集まる。東京支部は過去5年間、毎年1回同窓会を開いている。地元の幹事会からも3回くらい有志が出かけたこともあった。各自が自己紹介をしている間にジョッキに入った生ビールが仲居さんたちによって各テーブルに配られている。ちょうど全部にビールが行き渡ったタイミングを見計らってF村君が「それでは乾杯の音頭はT渕君にお願いしましょう。」と最後に残っていたT渕君にマイクを渡す。さすがに東京支部代表、場数をこなしているだけあって進行がスマートだ。全員起立して「乾杯!」の後は、オードブルの料理を取りに行く人あり、隣の同級生と昔話に花が咲く人あり、並んで写真を写すグループあり、思い思いに楽しく時を過ごす。今回は会費を安く上げるために、ビアガーデン並みに食べ放題・飲み放題、記念写真代込み5000円の値段設定をしてもらっている。料理は基本的にはビアガーデンと同じだったが、鯛の刺身は2匹分あったし、フルーツの盛り合わせも豪華だった。飲み物は、生ビール、烏龍茶、コーラ、スプライト、オレンジジュース、各種チュウハイなど好みに応じて仲居さんが作ってくれる。お酒の飲めない女性やtetywestにとっては、烏龍茶だけでないのが嬉しかった。後半には定番「うどん屋台」も登場して、故郷の味(?)を満喫できるような配慮もされていた。※ホテルとの交渉を担当したK川君御苦労様でした。tetywestの場合は「どっちの料理ショー」の出演が話題になった。「メールリストを読んで、友達にも知らせて、今か今かと待っていたのに、アッと言う間に終わってしまったじゃないの」「ほんだきん、最近は『瞬間芸のtetywest』と呼ばれよるがな・・・」卒業以来初めて会う同級生もいる。高校時代は話した事もなかった女性からも声をかけられる。偶然にも子供同士も同級生だと聞かされてビックリした。「夫の出身が同じ地区なんです。」という方もいた。意外と世間は狭いものだ。1年の時同じクラスだったT井さんには「tetywest君、ずいぶん大きくなったねぇ。」と誉められてしまった。その後、急に立ち上がって横に並ばれ、「でも、まだ私より低いね。」(ショック!)。F1に参戦している自動車会社に務めているM武君は、今までの12戦のうち半分のレースに現地へ出かけていたそうだ。「まあ、タダでレースが観れるのが特典かな」と言っていたが、めちゃ羨ましい。クラスのテーブルに戻って来たS英君は、「ふ~」と溜息をつくとジョッキのビールを飲み干して、また司会者の席へ向かった。司会者はゆっくり旧交を温める暇もない。
2002年08月18日
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S英君はド派手な鳳凰の刺繍柄のネクタイをしている。西安の土産なのだそうだ。T田さんは体の線にピッタリとフィットした黄色のチャイナドレスで決めている。いつもながら感心するのだが、現在も社交ダンスを本格的に練習中だからだろうか素晴らしい体型を維持している。別に申し合わせた訳ではないだろうが、中国バージョンでコーディネートされたコンビの息はピッタリだ(たぶん)。2人の自己紹介の後、まずはS英君が進行役を務める。ビールの効果で(?)喋りはなかなかスムーズだ。S英君:「月日の経つのは早いもので前回の合同同窓会より3年8ヶ月、また高校を卒業してから○○年の歳月が流れました。その間皆様方におかれましては夫々の分野でご活躍のことと思います。また先生方におかれましては、ご多用中ご臨席を賜りまして、本当にありがとうございます。」T田さん:「なお、今回の出欠にかかわらずお寄せいただいたメッセージは先ほど受付でお渡しした会報に掲載してありますのでご一読ください。後ほど改めてご案内しますが、会報発行につきまして今までは幹事会の会費で賄っておりました。誠に申し上げにくいのですが、本日、印刷及び発行費用として募金箱をお回ししますので、ご賛同のほどよろしくお願いいたします。欠席者につきましては後日郵送にて振込用紙をつけて会報を発送する予定です。」S英君:「会を進めるのに先立ちまして、昨年12月に旅立たれたN野先生をはじめ、既に遠くへ旅立たれた先生方や、同級生の方も何名かおられます。ちょうどお盆ですので、この場でご冥福をお祈り申し上げ、1分間の黙祷を捧げたいと思います。皆様ご起立ください。」「黙祷」全員起立して黙祷する。いつ終わるかと気になったが、きっちり1分間やったようだ。結構長い時間だった。「ありがとうございました。」次に幹事会を代表してT中君の挨拶があり、恩師の先生方に舞台の上に上がってもらう。2組のS藤先生、3組のM森先生、7組のN山先生、8組のT井先生、9組のK川先生、10組のH川先生、11組のT橋先生だ。1組のT重先生はまだ到着されていない。それぞれの近況報告をしていただいた。全部は覚えていないのだが、M森先生は「歳をとると暇になるのかと思ったら、忙しい毎日です。若いうちは一度に3つくらいのことをやってましたが、今は1つのことをやるのに、色々な物忘れがあって3回くらいやり直すからです。」N山先生は、あのソフトな喋り方は昔のままで、「今年退職しました。」T井先生は「尽誠高校で教えています。」H川先生は「ちょうど、あなた達の担任をしたのは丸高から転任した年でした。第1回卒業生ですから、歳はわかると思います。」T橋先生は「大腸ガンの手術をしましたが、初期だったので大丈夫でした。今でも英語は毎日20ページ読んでいます。」だった。※まだまだ続く同窓会。他の先生のコメントは記憶から消えてしまっています。ごめんなさい。
2002年08月17日
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8月14日(水)12時から、グランドホテルで高校の第3回同窓会が開かれた。お盆の時期の開催は初めてだったので、どれくらい人が集まるかが一番心配だったのだが、前回とほぼ同じ134名(先生8名を含む)が出席してくれることになっていた。出席者は受付で名札を受け取り、最新版の住所録、当日発行された会報第5号、そして新聞記事の切り抜きファイルを渡される。別のテーブルには、去年亡くなられたN野先生の本「教育はアグレッシブに」と、校歌のCD、使い捨てカメラが並んでいる。値段は全部千円。まるで東南アジアの土産物屋みたいな価格設定だが、別に資金稼ぎが目的ではない。N野先生の本は奥さんから「皆さんに読んで頂きたい」と寄贈されたものなのだが、「はいそうですか」と頂く訳にもいかないので、希望者に一冊1000円で配布し、後で線香代としてお供えしようというもの。校歌のCDも100周年記念で作成したもので、原価は1000円らしい。使い捨てカメラを準備したのは、経費節約のため今回幹事会が写す写真は全体の集合写真だけなので、各自に自前で思い出を持って帰っていただこうと言うわけだ。原価は970円なのだが、30円くらいはかまわないだろう。一応ホテルの売店では1260円(税別)だったし。30分くらい前から、ロビーは次第に人が増え混雑してきた。司会のS英君とT田さんは、誰もいない会場の前方の司会者席で入念な打ち合わせをやっている。・・・と思いきや、早くもビールの栓を抜いて飲んでいた。2人の喋りを滑らかにする潤滑油はビールらしい。開会15分前になって、にわかに夕立が降り始めた。ホテルの外で撮影予定だった全員の写真は急きょ室内に変更される事になった。幹事は足場や椅子の移動を手伝い、12時5分前に写真撮影の準備が完了した。まずは全員集合の記念撮影をする。前回までは後日郵送していたのだが、今回は経費節約のために同窓会が終わるまでに仕上げてもらった写真を各自に持って帰ってもらう事になっている。そのために、同窓会の最初に写真を撮影しなければ時間が足りなくなるのだ。この時点で名札を確認すると、まだ10人ほど来ていなかったのだが仕方がない。高速仕上げだからと、5回くらい撮影したが、「と言うことは、無修正なんやな・・・シワが写るがな」という声があがっていた。会場は正面に低い舞台が用意され、向かって右手に司会者席。左側に料理が並び、テーブルにはクラス番号が書かれた札が立っている。前列中央は恩師の先生方の席になっている。12時15分、クラスごとに着席し司会者のS英君が同窓会の開会を告げる。※tetywestはこのHPの他に、同窓会のメールリストの管理をしています。メールリストを通じて、出席できなかった皆さんに今回行われた同窓会の状況を知らせるのもtetywestの役目です。別の話題を書くには時間が足りませんので、このHPにもメールリストと同じものを掲載することにしました。
2002年08月16日
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「昭和27年(1952年)7月29日、第1回派米実習生25名を乗せたアメリカン・プレジデント・ラインのクリーブランド号はサンフランシスコに到着した。わざわざクリーブランド号を訪れた、カリフォルニア大学農学部・農事普及部長のコーク博士が、日本の若い農業青年達を暖かく歓迎した。コーク博士と最初に握手したのは、我々KOKUNO香川のS田・大先輩だった。御本人は「突然目の前に手を差し出されて驚きました。私が25歳と一番若かったからでしょう」とおっしゃっていた。------ここからBGMが流れた----------サンフランシスコに建ち並ぶ高層建築、そして真っ赤に塗られたゴールデンゲートブリッジを見上げる実習生たちは、年齢25歳から35歳の全国から選び抜かれた農業青年達だ。「我々はいよいよアメリカに上陸する。アメリカから学ぶことも大切だが、『良い種を蒔く』ことを基本態度としよう」という思いを秘めての渡米だった。この派米事業の将来は第1回生がどのような評価を受けるかに懸かっているといっても過言ではないのだ。そのために渡米前には東京での9日間の研修会があり、アメリカの地理や歴史をはじめ、ナイフとフォークの使い方やテーブルマナーなどの国際教養も勉強している。体力は軍隊で鍛えてあるので自信があった。11日間の船旅では、途中でホノルル港に寄港し、盛大な歓迎を受けた一行だったが、船内ではアメリカ人を相手に英会話の勉強や、社交ダンスの練習に余念がなかったそうだ。------ここまで1:21秒----------一行を代表して吉崎千秋団長がカリフォルニア大学農学部・農事普及部長のコーク博士と握手を交わす。彼は東京大学を卒業後、満州開拓団の団長として満州に渡ったという経歴を持っている。終戦後は参議院議員石黒忠篤氏や、東京大学農学部の那須皓博士等に、日本の農村青年がアメリカ農業を学ぶことの意義を呼びかけて社団法人「国際農友会」を設立し、初代の常務理事も務めていた。「これからは日本の若い百姓の青年達が『GRASS ROOT AMBASSADOR・草の根大使』として鍬を担いでお訪ねします」と、挨拶を交わす。------ここまで2:09秒------サンフランシスコに上陸した一行は、さっそくカリフォルニア大学バークレー校のインターナショナル・ハウスでの歓迎式典に臨んだ。歓迎式典には日米の関係者や、受け入れ農家など総勢600人が集まり、盛大に行われた。初めてのナイフとフォークを使った食事には、さすがに緊張した様子を隠せない。両横に白人に座られて、白い歯を見せて笑っておられるのはS田大先輩の若かりし頃の姿である。会場内には、日本の農業を紹介する写真や、4Hクラブの啓蒙ポスターが展示され、一方アメリカの農業を紹介する写真も展示されて、参加者の相互理解がより深められるような配慮がなされていた。このときS田大先輩は、「よくもまあ、日本はこんな豊かな国を相手に戦争をしたものだ。日本は負けて当然だった」としみじみと実感されたそうだ。歓迎会の終了直後に、実習農家への配属先が知らされ、翌日からはいよいよ、農場実習が開始される。------ここまで4:11秒。BGMが変わった------カリフォルニア・アグリカルチュラル・エクステンション・サービスのお世話で、実習農家へ到着する。まずは家族を紹介される。写っているのは鳥取県のN山氏だそうだ。こちらは、家に案内される実習生。荷物はジュラルミン製のスーツケース1個だけだった。さっそく、農場を案内してもらう実習生。家庭菜園ではトウモロコシやインゲン豆も栽培されている。この3人はサンフランシスコ郊外の日系農家にそれぞれ配属になった、長野県のN島氏、茨城県のT村氏と鳥取県のN山氏である。桃の畑では、たわわに実った桃を見学する。受け入れ農家から「食べてごらん」と薦められて、桃を食べる3人。しっかりカメラ目線で、笑顔のサービスも忘れていない。続いて梨畑に案内される。広々とした農場、トラクターやスピードスプレヤーで管理する近代的な農業を目の当たりにして驚きは隠せない。明日からは1日10時間労働の実習生活が待っているのだが、今はそれを知る由もない。牧場を見学する3人。日本では見たこともない大型機械を使うアメリカ農業。しかし、コストダウンや合理化を徹底的に追及しているのがアメリカ農業なのだ。野菜の防除機も自分で修理する。さっそく「あなたもやってみるか」と薦められるN山氏だが、全く物怖じしている様子はない。------ここまで8:00秒。BGMが変わった------彼らがトラクターの上に座って描いた、将来の日本農業はいったいどんなものだったのだろう。こののち日本は急速な高度経済成長を遂げ、食生活も豊かになった。反面、自給率は40%台にまで低下し、農業人口はどんどん減り続けている現状を予測することは不可能だっただろう。しかし、第1回派米実習生がアメリカに渡ってから50年。海外実習の経験を積んで、国際的な視野を身につけ、誇りを持って農業に取り組んでいる人たちはKOKUNO香川の同志を含め全国で1万人を超える。これから日本農業がどのように変わっていくにしても、この人材は日本の国にとってかけがえのない貴重な財産なのだ。そして、それはこのとき、このカリフォルニアの緑の大地から始まったのだ。」ビデオが終わった後もBGMは流れつづけている。今度はUSAの農作業風景がスライドで上映される。何枚も、何枚も・・・BGMが次第に盛り上がってスクリーンには広大なトウモロコシ畑が映し出され、上映は終了した。「す、すごい演出・・・Y田君、S河さんありがとう」tetywestも思わず感動してしまった。場内は拍手の嵐だった。ビデオ上映のすぐ後に閉会の挨拶に移る。「長時間に渡り、50年の歴史を振り返った楽しい時間も、お開きの時を迎えることになりました。皆様、まだまだお話は尽きぬことでしょうが、この辺りで締めさせていただきます。閉会のご挨拶は、第1期生として国際化の扉を開かれ、またKOKUNO香川の初代会長としてもご活躍されましたS田○○様にお願いいたします」とのアナウンスで、今しがたビデオに写っていたS田さんが壇上に登場する。「今日の50周年式典は本当に立派に行われました。みなさん、農業は国の根っこです。私は75歳になりましたが、まだまだ元気に頑張っています。皆さんも香川の農業を、そして日本の農業を支える根っことして頑張りましょう。」そして、「KOKUNO香川万歳」の三唱で50周年行事は終了した。※tetywest、正直なところこれを書き終えて「やれやれ、ほっ・・・」という安心感と虚脱感です。
2002年08月15日
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パーティは立食形式で行われる。真ん中のテーブルには色とりどりのオードブルが並んでいる。だいたい年代ごとに集まってテーブルについている。農林部長の開会挨拶、そして遅れて来た木村義雄衆議院議員の祝辞の後、JA香川県の丸本会長の発声で乾杯となる。時間は午後3時半を過ぎている。tetywestは家を出る前に食事を済ませてはいたが、もう5時間以上経っていた。その上、tetywestはお酒が飲めないのでこういう席で元を取るためには食べるしかない。寿司、サンドウィッチ、刺身、テンプラ、ポテトとハムの蒸したもの、ミニグラタン、果てはカレーライスまで取ってきて必死に食べていた。家内は会場に到着してから女性陣でホテルのランチを食べていたのでそれほどでもなかったようだ。少し腹が落ち着いたところで、「農業青年海外派遣事業50年の歩み」のスライドが上映される。またまたY田君の出番だ。ナレーションとBGMはデジタルビデオで録音して、スライドはプロジェクターに接続したパソコンでスクリーンに上映する。音声も全部パソコンに取り込んで事前に上映したところ、CPUに負荷がかかりすぎて作動が緩慢になってしまったのだそうだ。開会前にY田君が必死に作業していたのは、このスライドの写真の選択と並べ替え作業だった。会員から集めた写真をスキャンして、T口さんのナレーションに合わせて次々と映し出していく。モノクロームの写真がある。広いUSAの大地を背景にして大型トラクターの前で写した写真、向こうが見えないほど長い畝でレタスの収穫作業をする写真、ホストファミリーと一緒の写真、ファイナルトリップでのグランドキャニオン・・・時代は違っても皆の心の中には研修時代の思い出が蘇ってきた事だろう。スライドの中で一番うけたのは、役員の若かりし頃のスナップだった。「ああっ、M井さんの髪の毛があるう・・・」「ええっ、あれがO崎さん?」「わ~、あれS河さんやろ」・・・何だか役員の内輪だけで盛り上がっていた。「たとえ、写真ではセピア色になったとしても、一人一人のまぶたの裏に焼きついた風景はいつまでも鮮やかなカラーのままではないでしょうか。決して風化することのないこの思い出こそ、我々の財産であり自信でもあります。過去50年間で280人余りの研修生が香川県から海外に派遣されていますが、残念ながら海外農業研修生度は平成17年を以って終了の予定となっています。新しい体制で海外農業研修制度の継続を切に望むものです」と言うナレーションで「農業青年海外派遣事業50年の歩み」は終わった。会場は大きな拍手に包まれる。再び、会食が続く。そこかしこで昔話に花が咲いている。2時間飲み放題のセットなので、たとえ烏龍茶でもどんどんお代わりが出来るのは嬉しかった。家内と一緒に諸先輩方のテーブルに挨拶に回る。そのしばらく後、役員は誰も予想していなかった事態が発生した。閉会予定時間の40分も前に、用意された料理がほとんどなくなってしまったのだ。こうなれば、予定を繰り上げてビデオの上映に移るしか打つ手がなくなってしまった。「皆様、話に花が咲いているところ、誠に恐縮とは存じますが・・・」急きょプロの司会者のアナウンスが入る。「ここで、50年前の第1回派遣生を記録した貴重なビデオがございますので、皆様にぜひご覧いただきたいと思います。。少しだけ前方のスクリーンにご注目くださいませ」再び会場が暗くなる。これも音声はS河さんがデジタルビデオ側で操作し、ビデオはY田君が上映する。スクリーンには玉音放送に聴き入る群集の写真が映し出され、昭和天皇の「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び・・・」のポツダム宣言受諾の放送が流れる。「朕深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑み、非常の措置をもって時局を収拾せんと欲し、ここに忠良なる爾臣民に告ぐ。朕は帝国政府をして米英支蘇四国に対し、その共同宣言を受諾する旨通告せしめたり」その後、S河さんによるナレーションが始まる。空襲で廃墟と化した都市、戦後の日本の農作業風景が次々とモノクロームの写真で映し出される。ビデオはまだ始らない。凝った演出にtetywestも驚いてスクリーンを見つめる。
2002年08月14日
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記念式典は1時半の開会だったが、役員は12時に集合した。Y田君は会場でもまだ、スライドに使う写真のピックアップに忙しそうだ。今日の式典の成否はY田君と彼のノートパソコンにかかっていると言っても過言ではないだろう。会場の入り口では役員が手分けをして受け付け係りをやっている。会費を集めてネームプレートに名前を書き込んでもらう。そうこうするうちに開会の時間がやってきた。司会者が開会を知らせる。シナリオに沿って式典を紹介しよう。「ただいまから、農村青年海外派遣50周年記念式典を開催いたします。初めに、主催者であります香川県より、真鍋武紀・香川県知事がご挨拶申し上げます。」--知事あいさつ--「同じく主催者であり、海外派遣修了者の皆様で組織されておりますKOKUNO香川より会長・山○泰○がご挨拶申し上げます。」--会長あいさつ--「続きまして、現在、農村青年海外派遣事業を実施されております社団法人国際農業者交流協会理事長・塩飽○○様より、御祝辞をいただきます。」--理事長あいさつ--そして、真鍋賢二参議院議員の祝辞があり、お決まりの来賓の紹介となる。来賓には地元出身の国会議員(の代理)、町長(とその代理)、さらに高知県と徳島県の国際農業者交流協会からも会長が出席してくれている。「ここで、平成11年度派米研修生としてアメリカで2年間の研修を終えられたI田○○さんと、N村○○さんに、2年間の研修を振り返るとともに、先輩の皆様にアメリカの現状を伝えていただきたいと思います。それでは、I田さん、N村さん、よろしくお願いします。」会場正面にスクリーンが下ろされ、Y田君が予めセットしたパソコンとプロジェクターを台ごと正面に据え付ける。会場は暗くなり、スライドを使った帰国報告が行われる。全く予定通りの時間で式典は順調に進行している。「ありがとうございました。引き続きまして、記念講演に移らせていただきます。講師は社団法人国際農業者交流協会、塩飽○○理事長です。塩飽理事長は・・・(経歴紹介)・・・本日は『次期WTO農業交渉の展望~国際規律と日本農業~』という演題で御講演をしていただきます。それでは塩飽理事長、よろしくお願いいたします。」ここでも、Y田君のパソコンを使ってレジメをスクリーンに上映しながら講演が進められる。tetywestにとってWTOの農業交渉は本来関心を持たなければならないテーマなのだが、何処から手をつけていいのかわからずに放っておいた問題だったので、この講演は非常に興味深いものだった。しかし、かなり高度な内容で、暗くなった会場のせいもあってか居眠りをしている人も若干見かけた。「貴重な御講演、ありがとうございました。国際的な視野を持たれている皆様にとって、非常に有意義な内容であったように感じております。もう一度拍手を持ちまして、感謝の意を表したいと思います。ありがとうございました。」15時10分に、完全に予定通り記念式典は終了した。もうこれで役員の仕事は9割方終わったようなものだ。
2002年08月13日
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幸いにも次の日(7月17日)は昼から雨だった。ビデオの説明書やS田さんへの取材メモを見ながら原稿を作り、夜になってようやく完成させると早速メールで事務局へ送信した。1週間後の7月23日(火曜日)も役員会だった。来賓の名前や最終的な予算も出来上がっていた。記念式典のシナリオも事務局によって作成されていて、プロの司会者のプロフィールまで用意されている。司会者は元TOKYO・FMのアナウンサーのI川さんという女性だった。記念式典への出席者は70人だった。本当はもう少し多くの人に来てもらいたかったのだが、もうこれ以上は増えないだろう。赤字額は30万円。これも当初から予定していた範囲に納まっている。この日は記念誌に掲載する名簿の最終校正が主な仕事だった。10年間に亡くなられた方をチェックする。次第に「逝去」の文字が増えていくのは寂しい限りだ。この農業青年海外派遣事業も国の予算の削減で平成17年を以ってアメリカ合衆国への派遣が終了することが決まっている。一番人数の多い派遣先が無くなるということは、組織に新しいメンバーが加わる事がなくなるということであり、KOKUNO香川にとっても重大な問題なのだ。tetywestは外務省と農水省のこの決定については、今の日本の農業事情をそのまま反映しているようでやりきれない思いがしている。「日本がアメリカ型の大規模農業から学ぶことはもはや無い」というのが廃止の理由だそうだが、農業研修生はアメリカの農業技術だけを学びに行くのではないのだ。世界一人件費の高い国で、世界一多くの食糧を輸出しているUSA農業。コストダウンや合理化を徹底的に追及しているUSA農業。1日12時間の労働をする事もある代わりにOFFにはしっかりと人生をエンジョイするUSA農業。そして、研修生が学ぶことは農業の分野だけに留まらない。アメリカという社会、アメリカ人の考え方、アメリカの教育・・・短期間の旅行では絶対わからないUSAを見、そして知る事が出来るのだ。ますます国際化していく21世紀には、日本のことしか知らない農業者では絶対に生き残ってはいけない。外国を知る事によって初めて本当の日本が見えてくるのだ。海外研修を経験した人達の目の輝きが他の人達と違って見えるのは決してtetywestの目にかかったフィルターの所為ではないと思う。若手の役員はこれから本番まで大変な作業が続く。それでも彼らは不平一つ言わず、自分の仕事を確実にこなしていく。と言うより彼らに任せておけば安心だという信頼感が生まれている。年代を超えた人達の集まりの中でこのような信頼感が生じるのは、お互いに厳しい研修をやり遂げた同志の絆があるだからだろう。tetywestがKOKUNO香川に入れ込むのは、このような魅力的な人達が集まっているからなのだ。7月30日の役員会は地元の会議と重なりtetywestはどうしても出席できなかった。そして、本番当日の8月3日(土曜日)がやってきた。
2002年08月12日
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6月26日付で50周年記念式典の案内状は発送済みだった。会場の確保、印刷会社の変更もスムーズに出来ていた。出欠の取りまとめは7月14日なので少し気分的なゆとりが生まれていた。役員会では記念式典の具体的な次第の検討だった。開会の挨拶、来賓の挨拶、今年帰国した研修生の帰国報告、そして国際農業者交流協会の理事長による記念講演という内容で時間は2時間。そのうち記念講演が1時間と長い。これを短くして欲しいと頼んだのだが、理事長はどうしても1時間は欲しいと譲ってくれなかったそうだ。ここで、新たな経費が発生した事が明らかになった。記念講演をお願いした国際農業者交流協会理事長の塩飽氏は香川県の出身なのだ。KOKUNO香川の上部組織から記念式典に参加していただき、講演までしていただけるのは誠に結構な話なのだが、故郷に錦をかざる意味合いもあるので無料で来てくれるものだと思っていた。ところが、国際農業者交流協会のやりくりも大変なようで、往復の交通費と講演料(謝礼)が必要だったのだ。まあ、これも10万円以下なら仕方だないだろう。予算上それ以上経費のかかる有名人は呼べそうにないのだから・・・この時点での中間集計では記念式典の参加者は夫婦同伴も含めて50人ちょっとだった。今度は参加者の確保が問題となった。予算を立てた時には100人の参加を考えていたのだが、これではとても無理だろう。もう一度役員が電話で出席をお願いすることになった。tetywestも7月7日に開催されるKOKUNO香川のOB会に、現役の役員として会長と共に招待されているので、その場で50周年記念行事への出席をお願いすることになった。「50年前のビデオ」はその時S田さんと話しをしていて偶然に話題に上ったのだった。※これで、ようやくストーリーが一番最初に戻りました。やれやれ・・・tetywestがビデオを持ち込んだ7月16日(火曜日)の役員会は記念誌の最終校正が主な仕事だった。サンポート高松を海から望んだ写真を使った記念誌の表紙のレイアウトも完成していた。「大地は緑」と今は亡き金子元知事さんの筆になる記念誌の題名は、30周年、40周年と変わっていない。ただし、今回は予算の関係で布表装に金文字にはとても出来なかった。このとき記念式典の後のパーティで「50年前のビデオ」を上映することが了承された。ただしビデオは無声なので、画像に合わせたコメントをつけなくてはならない。これは言い出しっぺのtetywestの役目になった。それも22日の早朝までにメールで事務局へ送るという期限付きだ。その原稿を若手の女性役員のS河さんがビデオの画像にあわせたナレーションを録音し、これも若手のY田君がBGMをかぶせる作業を、その週の終わりまでに仕上げる事になった。パーティではもう一つ、「農業青年海外派遣事業50年の歩み」もスライド上映される事になっているのだが、その原稿作成は会長の役目で、これも締切りは22日早朝だった。こちらは若手女性役員のT口さんがナレーションで、BGM担当はY田君。Y田君は帰国報告会のスライドも上映しなければならないのでその準備もあり、めちゃくちゃ忙しい一週間になるのは目に見えている。しかし、S河さん、T口さん、そして今年帰国したばかりのI田君たち若い役員が協力してプレゼンテーションを担当してくれることは、tetywestのような年寄りにはとても頼もしく感じられて嬉しかった。
2002年08月11日
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役員会は夜7時から開かれる。場所はtetywestの家からは車で1時間ちょっとの距離なので、仕事を終えてからどんなに急いで準備をしても、どうしても少し遅刻してしまう。用意されていた資料によれば、記念誌代78万円。パーティ代125万円で203万円の経費のうち、回収できる収入は記念誌代16万円、パーティ代50万円だった。県からの補助金を見込んでも100万円以上の赤字になる。この会議では、事務局は手際良くもう2個所のホテルの見積りも用意していた。ニューフロンティアホテルの場合73万円、ラポール・イン・高松の場合67万円の赤字になる。役員会で協議の結果、駅から近くて安いニューフロンティアホテルに変更するしか方法がないだろうということに決まった。しかし、それでもまだ73万円の赤字なのだ。今度は記念誌代の方を削れないかと言うことになった。ちょうどtetywestは6月4日に香川県果樹研究同志会の50周年行事に参加したばかりで、その時の記念誌が今回発行予定のものとページ数も装丁もよく似ていた。事前に研究同志会の事務局に問い合わせて、その経費は50万円弱だったという情報を仕入れていた。従って、KOKUNO香川の記念誌も50万円以内で引き受けてくれる印刷会社はあるはずだ。これで赤字幅は45万円に縮小した。次にニューフロンティアの見積書を詳しく調べて、レーザーポインター、プロジェクター、パソコン、コンパニオンを削除する。これで14万円の経費節約になる。プロジェクターは県から借りることにして、ノートパソコンは役員のY田君のを使うことになった。ここで他の役員から、記念式典を順調に進めるためにプロの司会に進行をお願いしてはどうかという意見が出た。当日の役員は受付や進行の手伝いでかなり忙しいだろう。その上に司会を引き受けてもらうにはあまりに負担がかかりすぎる。それに、プロに任せた方が要所要所でメリハリの効いた進行が可能だろう。この予算も事務局が調べてあり、4万円弱だった。ここまでで差し引き10万円の経費が節約できた。赤字幅は35万円になった。次に協議したのは収入を増やす方法だった。予算ではパーティ参加費が5千円、記念誌代が2千円だったのだが、それぞれ値上げすることにした。記念誌は3千円。パーティ参加費は記念誌込みで1万円にしようと言うことになった。この方がお釣りを用意する必要もなくなる。ただし、夫婦同伴での参加は1万5千円とした。これで18~20万円の増収が期待できる。この日の役員会で赤字幅は一挙に17万円に圧縮されたのだった。これくらいシビアな見積りにしておかないと、予期せぬ出来事が起こったときにはどうしようもなくなる恐れがある。案内状はもう印刷済みだったのだが、ホテルに確認を取った後で会場・参加費・記念誌代のところを訂正して印刷し直して発送することになった。そして次の役員会は7月2日(火曜日)に行われた。※「50年前のビデオ」は何処へ行ったの?というお叱りの言葉が飛んで来そうです(恐)。すっかり話がそれて、まだ戻って来れません。次回は戻りますからもう少しご辛抱のほどを・・・
2002年08月10日
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次の週の火曜日(7月16日)はKOKUNO香川の役員会だった。tetywestは役員会にこのビデオテープを持ち込んだ。50周年記念行事に向けて、このところ役員会の回数は次第に多くなっている。前回は2週間前だった。50周年記念行事の準備が始ったのは昨年の9月だった。大まかに記念式典・パーティの開催と記念誌の発行の二つの計画が作られ、まずは編集に時間のかかる記念誌の方から取りかかった。月1回のペースで役員会が開かれ、会員全員の原稿を集める事を目標にして、記念誌のレイアウト、原稿集めの方法等を検討し、原稿依頼を郵送したのが年も押し迫った12月だった。しかし、締切りを過ぎても思ったほど原稿が集まらず、役員が地区ごとに手分けして電話で再度依頼し、3月の末にようやく90人分の原稿が集まった。香川県から海外に農業研修に行った人は282人いる。30人ほど逝去された方がいらっしゃるので90人は全体の3分の1なのだが、書きたくない人に無理に書いてもらうことも出来ないので、これで見切り発車と決まった。3月からは記念式典、パーティの方も平行して検討し始めた。会場の確保、案内状の発送、来賓への案内、記念式典の手順など協議事項は多い。しかし、役員会を重ねるたびに記念行事の概要が具体的に出来上がって行くのはなかなか楽しいものだ。今回の記念行事は予算も限られているために最初から役員の手作りでやろうという方針だった。記念誌の原稿も役員がパソコンにインプットして、テキストファイルを印刷会社に渡すことにしているので、インプット時の誤字脱字を校正する仕事もあった。そんな事をしているうちに時は過ぎて6月になっていた。ここで今までの計画を根底から修正しなくてはならないような重大な問題が発生したのだ。それは予算オーバーだった。実にマヌケなことなのだが、記念式典とパーティ会場は高松駅の傍に新しく出来た全日空ホテルにしようと、予約も去年の秋から入れてあった。しかし、これまで誰も費用の見積りを検討していなかったのだ。案内状の発送をする直前にそのことに気づき、慌てて見積りを取ったところ予想外に高かった。会費を集めても赤字がゆうに100万円を超えることになってしまった。もともと当初から赤字は覚悟で実行しようという記念行事ではあった。足りない分は基金から借金をして、毎年少しずつ返済しようと言う事も決まっていた。しかし、役員はみんなKOKUNO香川が貧乏所帯だということは十分理解しているので、暗黙の了解で赤字幅は50万円以下、出来れば30万円に抑えたかったのだ。6月15日の役員会は、この対策をどうするかが議題だった。※「50年前のビデオ」から話が意外な方向に展開してしまいましたが、これもtetywestの記憶が薄れる前に記録しておきたかったことです。記念式典の開催がボツになれば当然ビデオも無用でしたから・・・。しばらくガマンしてお付き合いくださいね。
2002年08月09日
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S田さんはもうすっかりVTRの準備をしていた。パパイヤをご馳走になりながら、ビデオと一緒に送られてきた資料を見せてもらう。それには、映像の内容と最初からの時間が書かれていた。00:00船が向かってくる船が行く男性1人と船00:18船内・一行を迎える人00:25一人一人と握手00:38一行移動カメラパン。サンフランシスコ市街00:48一行からカメラパン。ゴールデンブリッジ1:02ブリッジの下説明する米国人1:07見上げる一行喜びの面面1:21一行代表と米国人握手1:33船上マスコミの取材1:43代表と2ショット談笑1:51全員整列・代表と握手ブリッジを指す面々2:09NATIONAL HOUSE双方から寄り握手2:21チルトダウン一行建物の中へ2:40歓迎レセプション3:14パネルを見る一行4:11農場へ向かう、出迎えの人々4:46家族の紹介4:58研修生と3S建物内部へチルトAP5:15農場見学トウモロコシ、インゲン豆畑5:44農場見学(3人の研修生)桃、おいしそうに食べる3人アップ6:18果樹農場パン一行なしを手に取る4人6:58酪農場見学7:45耕作機械の修理あなたもどうぞトラクターに乗る3人8:15レタス畑(ロング)ビデオの長さは9分弱らしい。上映するにはちょうどいい時間だ。早速VTRを見せてもらうことにする。映像はモノクロームだが、50年前とは思えないくらい鮮明だ。撮影したのはプロらしく、カメラをセッティングする位置やカメラの動かし方が上手で、安心して見ていられる映像だった。音声がないので、S田さんが大まかな説明をしてくれた。昭和27年7月29日、第1回派米実習生25名を乗せたアメリカン・プレジデント・ラインのクリーブランド号がサンフランシスコに到着し、アメリカに第一歩を印した時の映像だった。当時は船で太平洋を横断する11日間の航海だったそうだ。USA側の受け入れはカリフォルニア大学バークレイ農学部の農事普及部だった。敗戦後間もない日本の農業青年が、戦勝国のアメリカ合衆国で進んだ農業を実際に体験するというこのプログラムは、当時の荒廃した日本を復興するのはまず農業が基本だと言う信念の元に、農林大臣を務め農政の神様と言われた石黒忠篤氏と東京大学教授でインド大使を務めた那須皓氏が中心になり、1951年GHQを通じてカリフォルニア州知事ウォーレン氏に働きかけを行ったことに始まる。先方の反応も非常に好意的で、早速社団法人「国際農友会」を設立し、全国から優秀な農村青年を募集したのだった。S田さんにいくつかの質問に答えてもらい、ある程度の知識が出来た時点で、もう一度ビデオを見直す。船上へ出迎えてくれたのはカリフォルニア大学農事普及部のコーク博士。最初に博士と握手したのはS田さんだったそうで、そのシーンがしっかり映像に記録されている。ゴールデンゲートブリッジの真下を通過するクリーブランド号、驚きの表情で橋を見上げる日本の青年達。tetywestは「これは、絶対使える!」と小躍りした。50周年記念行事に50年前のビデオというのはあまりにタイミングがよすぎて恐いくらいだ。それに50周年記念行事の参加者は海外研修の経験のある人たちばかりなのだ。年代は違っても、見知らぬ土地に第一歩を踏み入れる時の、研修生活への不安や期待はみんなが共通に抱いた気持ちに違いない。この映像と自分の体験とが重なり合い、それぞれの人の心に懐かしさと感動を呼び起こしてくれるだろう。S田さんにビデオを借りたいとお願いしたところ、快く承諾してくださった。さらに2時間ほど映像や時代背景について質問に答えて頂いて、喜び勇んで帰宅するtetywestだった。
2002年08月08日
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同窓会打ち合わせのため昨夜帰宅したのは午前様。久しぶりのことです。打ち合わせ自体が、もう同窓会ですから・・・そのため日記を書くパワーは全然残っていなかったtetywest。今日はお休みします。もうそろそろ、雨が欲しいところです。猛暑が続いていますから皆さんも健康にはくれぐれも気をつけてくださいね。せめて、日中は35度を切って欲しいtetywestです。
2002年08月07日
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tetywestがそのビデオの存在を知ったのは7月7日(日曜日)の事だった。とある会合で一緒になったS田さんと話しをしていた時である。S田 「50年前に私がサンフランシスコへ到着した時のビデオがあるんです」tetywest 「ええっ、どこで手に入れられたんですか?」S田 「国際農業者交流協会の堀○さんが、送ってきてくれたんです。でも音声が入ってないんですよ。堀○さんは私にビデオを見て、その内容の説明を書いて欲しいんだそうです」tetywest 「どれくらいの長さなんですか?そのビデオは」S田 「私もまだ見てないんです。ビデオの操作がよくわからないもので」tetywest 「一度、ぜひ見せていただいてもかまいませんか?」S田 「ええ、どうぞどうぞ」S田さんは昭和27年に第1回派米実習生として全国からの25人に選ばれた方で、tetywestの大先輩に当たる。帰国後は香川県中を回って報告会を行い、戦後の香川の農業の近代化に貢献されただけでなく、インドや東パキスタン(現在のバングラディッシュ)で10年以上現地の稲作の指導をして国際的な農業の発展に尽力された素晴らしい方である。現在75歳なのだが、現役で農業を営む傍ら町(tetywestの隣町)の国際交流協会の会長もやっておられる。「50年前のビデオ」と言っても、当時はまだ日本ではテレビ放送も始っていなかっただろうから、もちろんそのまま録画したものではない。おそらくニュース用に8ミリか16ミリフィルムで撮影したものをビデオテープに編集したものだろう。tetywestがこの話しを聞いて、すぐに見たいとお願いしたのはある目的に使えるのではないかという考えが閃いたからだった。ビデオの送り主の「国際農業者交流協会」とは、海外へ農業研修生を派遣している全国段階の組織で、各県に1つずつその下部組織がある。香川県の組織は「KOKUNO香川」と呼ばれていて、tetywestは現在その役員をしている。第1回生が昭和27年(1952年)と言うことは、今年はちょうど50年目に当たるわけで、「KOKUNO香川」でも50周年記念行事を行う計画が進行中だった。tetywestに閃いたのは、50周年記念行事にそのビデオが使えるのではないかという考えだった。さっそくS田さんと日程調整をして、7月13日(土曜日)の夕方にS田さんの家を訪問した。
2002年08月06日
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久しぶりに「ミカンよもやま話」を書こうと思います。と言うのは、先日の農業新聞で興味深い記事を読んだからなのです。7月31日の一面トップに『作物の根、有機物を吸収--「無機栄養説」覆す?』とありました。農業環境技術研究所(茨城県つくば市)の阿江教治・土壌生化学ユニット長は30日都内で開かれた「土づくり推進講演会」で、作物の根が有機物を養分として吸収する事を証明したと話した。このことから阿江ユニット長は、「有機物の新しい施用方法の開発が期待できる」としている。これまでの農学では「無機栄養説」と言って、有機質肥料を施用しても植物はそれを直接利用するのではなく、微生物によって分解された無機養分を吸収して生長するのだと言われていました。なぜなら、植物は体内と外との浸透圧の差によって養分を体内に取り入れるのですが、植物の細胞は細胞壁で覆われているので、大きな分子構造をもつ有機物は通過出来ないからなのです。わかりやすく説明すると、植物が有機物を吸収するためには、ヘビがネズミを食べるとき顎の関節を外して丸ごと飲み込んでしまうように、いったん細胞壁に植物自身が穴を開けて有機物を飲み込み、また細胞壁を閉じるようなシステムが必要なわけです。また、体内に取り込んだ有機物を養分の通路である維管束まで運ぶためにも細胞間で同じようなシステムが必要になります。しかしもう少し待っていれば、それらの有機物は微生物が無機栄養に分解してくれて難なく取り込めるわけですから、こんな手の込んだ、余分のエネルギーを消費するような事はやらないだろうというのが今までの学説だったのです。しかし、農業の現場では「無機質(化学)肥料よりも有機質肥料の方が美味しいミカンが出来る」と言うことは、長年の経験からほぼ常識になっています。最近はミカンの美味しさを「糖度」と「酸度」で計測しますが、実際に食べてみると同じ糖度と酸度のミカンでも美味しく感じるものと、そうでないものがあるんです。それを農家の人は「コク」と表現しますが、tetywestは「コク」の実態は「アミノ酸」じゃないかと考えています。ミカンの樹体内でアミノ酸がどのように生成されるのかは知りませんが、ミカンの果実には少量のアミノ酸が含まれています。化学肥料にはアミノ酸は含まれていませんが、有機質肥料では微生物が分解する過程でアミノ酸が作られます。今回の学説によって、植物が体内でアミノ酸を合成できなくても、有機質肥料が分解されてできるアミノ酸を取り込めば美味しいコクのあるミカンが出来るということが裏付けられたともいえるわけです。もう一つ、これはtetywestの個人的な仮説ですが、植物は与えられた養分を受け取るだけではなくて、欲しい養分を自分から積極的に探して取り込む能力もあるのではないかと考えています。農家の長年の経験から生まれたノウハウも、なかなか侮れないものがあると感じたtetywestでした。余談ですが今回の新聞記事を読んでいてあるジョークを思い出してしまいました。「結果が原因に先行することがありますか?」「はい、乳母車に乗っている赤ん坊と、それを押している母親です」
2002年08月05日
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8月3日は仁尾町の夏祭りでした。「竜祭り」というこの夏祭りは、江戸時代から伝わっている「雨乞い祭り」なんです。夕方暗くなる頃から、役場の前のメインストリートで総踊りが始ります。自治会や、子供会、他町からの応援も含めて12~3の踊り連がそれぞれに工夫を凝らした衣装で参加しています。中には山車や提灯を作っている連もあります。最初は「仁尾踊り」そして「竜踊り」と、休憩を挟んで1時間半踊りつづけます。振り付けは一応決まっていますが、最近では「よさこい祭り」の影響もあって、動きの激しい独自の振り付けで踊る連もあって、なかなか面白いです。tetywestの地区からは、小学生とその親たちが子供会として参加していています。蛇踊りの竜も作って、なかなか気合が入っていました。 8時半からは竜翔太鼓の演奏です。これは商工会の若手が中心になって、一年中練習を重ねている本格的な和太鼓です。要請があれば全国各地のイベントにも参加しています。夜とはいえまだまだ暑いこの季節、打ち手も汗だくになっての熱演は30分間続きます。今回の演奏は今まで聴いたことがない新しい曲でした。途中で大太鼓のソロがかなり長い間続き、打ち手は3人が交代します。最後は全員の揃い打ち。打ち手には女性も数人混じっています。何といっても腹の底に響く迫力は和太鼓の醍醐味ですね。 そして9時過ぎ、メインイベントの竜が登場します。この竜は骨組みは竹、周りは藁で造られ長さは30メートル。100人以上の半被を着た担ぎ手によって会場のメインストリートを往復するのです。「イヤサノサ~、イヤサノサ~、イヤヨノナカミゴトニ、セ~」で担ぎ手は今まで肩で支えていた担き棒を両手で差し上げます。竜は一段と勢いを増して右に左に大きく観客の方へうねりながら進んでいきます。しかし、竜祭りはそれだけでは終わらないのです。メインストリートの両側には水がいっぱい入った大きなポリタンクが50個以上用意されています。そして無数のポリバケツも・・・観客は両側から竜に向かってバケツで水を浴びせるのです。「イヤサノサ~、イヤサノサ~、イヤヨノナカミゴトニ、セ~」「竜に水浴びせ!竜に水浴びせ!」「イヤサノサ~、イヤサノサ~、イヤヨノナカミゴトニ、セ~」「竜に水浴びせ!竜に水浴びせ!」竜の目は赤く光り、口からは煙を吐いています。担ぎ手は最初の数メートルでもうびしょびしょ。水をたっぷり吸った藁の竜は重さが倍以上になります。その重い竜を担ぎ、そして差し上げながら往復500メートルを進む間、ずっと水を浴びせられっぱなしなのです。 こうして、竜に水を浴びせると一年間いい事があると言われているのですから、観客の方も無事ではいられるわけがありません。どこから水が飛んでくるかわからないのです。竜が通り過ぎたのに、お互いに水を浴びせ合っている子供達もいます。竜の尻尾に近いところには、ワウパカからの10人の訪問者もずぶぬれになりながら担ぎ手として参加しています。毎年竜の先頭とワウパカ・グループは水を浴びせられる人気者で、みんなびしょ濡れになっていました。暑いこの時期の日本にわざわざホームスティに来る一番の目的は「ドラゴン・フェスティバル」に参加するためなのです。アーロンも一番手前で子供達の集中攻撃を受けながら、それでも元気よく竜を差し上げて本当に楽しそうでした。 竜祭りが終わると、アーロンたちは5日の朝に日本を離れます。tetywestの町でいい思い出をいっぱい作ってくれたでしょうか・・・
2002年08月04日
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アーロンがベジタリアンだということは予めわかっていたので、家内が知恵を絞って考えた料理が食卓に並んでいました。こういう場合のコツは、とにかく品数を多く作ることのようです。特に相手が子供の場合、日本食が合わなくて食べてくれなかったという話は他のホストファミリーからよく聞かされていました。御飯はおにぎり(海苔を巻かない)。他の二人の事も考えてチキンのから揚げとチキンと野菜の炒め物。春巻き。トマトとエビのチリソース煮。ナス、サツマイモ、ニンジン、タマネギ、ゴボウのテンプラ。揚げだし豆腐。エダマメ。ゆで卵とキウリのサラダとすごい数の料理が並んでいます。みんな好きなものを適当に取って食べてもらいます。アーロンはトマトの中に入っているのがエビだとわかると、それにも手をつけず、豆腐、野菜のテンプラ、キウリ、エダマメとおにぎりを食べていました。エダマメはこれも鞘ごと食べてしまいます。「アーロンの家族はみんながベジタリアン?」と訊くと、「いいえ、僕だけ」とのことでした。アンディとチャーリーは鶏も春巻きもOK。みんな気持ちいいくらいどんどん食べてくれます。驚いた事に、3人とも最初から箸を持って食事をしています。お世辞にも上手という訳にはいかないのですが、それでも何とか挟んでいます。「フォークを用意しようか?」と訊いても、「これで食べる」と頑張っています。「アメリカンボーイが箸を使うショット!」とカメラを構えると、みんな得意げなポーズをしてくれました。日本に来て日本の習慣に積極的に挑戦する姿は見ていて好感が持てます。 あらかた食事が終わった頃にチャーリーのホストファミリーが迎えに来ました。アンディも一緒に今からカラオケに行くのだそうです。アーロンは我が家の次男との旧交を温めるために(?)残ります。アーロンの兄弟はみんな楽器を習っているのだそうで、アーロンはピアノ。「何か弾いてくれる?」とのリクエストに快く応じて演奏してくれたのは「ベートーベンのピアノソナタ(何番かはtetywestわかりません)」完全に暗譜。しかも、めちゃ上手い。拍手喝采の嵐でした。「もう一曲」とリクエストすると、ちょっと困った顔で「ショパンなんかも習ってるけど、完全には覚えてないから」とのこと。こんな事もあろうかと一曲だけ頑張ってマスターしてたのかもね。ちょっと悪い事を言ってしまったかな。その後は次男と庭で暗くなるまでバスケットボールをして遊んでたようです。家に入ってからも2人で何を話してたのかはわかりませんが、結構長い時間を持て余すことなく会話が続いたようです。8時に家内と次男も一緒にアーロンのホストファミリーとの待ち合わせ場所まで送っていきました。今回のアメリカンボーイズの訪問で、tetywestはUSAの食事が一段と「個食化」してるのかなぁと感じました。それに若干14歳で、「自分はベジタリアンだ」と主張できる個性というのは日本では考えられない事です。しばらくUSAカルチャーから遠ざかっていたtetywestですが、また何となく興味の虫が騒ぎ出しそうな予感です。
2002年08月03日
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一緒に何かアクションを起こすと、子供達はうちとけるのが早いようです。外は暑いので早々に家に帰って来て休憩しているうちに、みんなでカードを始めていました。tetywestが覗きに行くと、一緒にやるかと訊ねられます。「もちろん」と答えると、チャーリーが新しいゲームを考えています。大きいスプーンが4つ必要だというので、用意しました。4枚ずつ手札を持って、親から順番に不必要なカードを回していきます。最初に4枚同じ数のカードが揃った人は、みんなにわからないようにそっとスプーンを取ります。後は椅子取りゲームと同じ。5人で4本ですから、取れなかった人がゲームを外れます。 ゲームを開始すると、5~6枚回ってきたところで、tetywestはクイーンが4枚揃ってしまいました。そっとスプーンを取ったつもりだったのですが、カチッと隣のスプーンに当たってしまいました。あっという間に気づかれて、テーブルの上のスプーンがなくなります。取れなかったのはアーロンでした。2回目はこれも3枚は順調に揃って、もうすぐ完成だとカードに気を取られているうちにスプーンがありませんでした。ここから後はtetywestも見学です。アーロンは他のボーイ達のゲームを見ながら家内が用意したスイカを食べています。でも、よく見ると食べ方がおかしい。種を出さないのは良いんですが、スイカの皮まで全部食べています。ボリボリと齧る音も聞こえます。「アーロン、その食べ方は可笑しいよ」と言うと、「わかってます」と平気な顔。他の2人に「君達もああして食べる?」と訊くと、「ううん、でも彼はベジタリアンだから」と、アーロンの食べ方には別に違和感を持ってない様子です。いくらベジタリアンだって、スイカを皮ごと食べるのを見たのはtetywest初めてでした。美味しいわけないと思うんだけど・・・結局、このゲームはチャーリーとアンディの一騎打ちになって、最後はエースを4枚揃えてアンディが勝ちました。次は「ボローニ」というゲームを教えてくれます。これは日本の「ダウト」と全く同じなので、すぐに理解できました。次男、アンディの順番で上がって、tetywestが一番多くのカードを抱えてアップアップしている時に、家内の「食事の支度が出来たよ」という助けの声。ゲームはここまででオーバー、居間の方へ食事に向かいます。やれやれ・・・久しぶりにカードで遊んですっかり童心に返ったtetywestでした。そういえば最近日本の家庭ではカードをする機会がめっきり減ったと思うのはtetywestだけでしょうか?子供達はカードで遊ぶよりTVゲームの方が面白いからなんでしょうけど、カードは家族や友人のコミュニケーションの方法としてはなかなか素晴らしいものだと感じました。USAのこういう習慣は日本の家庭にも取り入れたいですね。
2002年08月02日
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「京都への旅」を終えてホッと一息。本当は「ミカン100年史」も書かなきゃいけないのですが(さっそくcherry-kuroさんから突っ込まれてます・・・汗)、この暑さのせいで体力消耗の激しいtetywest、今日は全く別の話題です。tetywestの住んでいる町はUSAのウィスコンシン州ワウパカ(Waupaca)市と姉妹都市の縁組をしています。毎年中学3年生が7~8名、夏休みにワウパカ市へホームスティに出かけます。その次の年には、お世話になったファミリーがあちらからやって来るというわけで、もう今年で9年目になっています。tetywestの子供達もみんなホームスティを経験しています。現在次男が高校3年生ですから、最後に行ったのはもう3年も前になります。そのときお世話になったファミリーはまだ子供達が小さくて、次の年には日本へやって来ませんでした。それで、tetywestの家では引率してきた別のファミリーの奥さんにホームスティしてもらいました。さて、今年もtetywestの町にはワウパカから10人(大人3人、子供7人)の訪問者が訪れています。次男がお世話になったファミリーの長男アーロンもその中の1人です。それで、昨日は昼から我が家にアーロンを招待してささやかな夕食会を開催する事になっていました。最近ではインターネットが普及して来日前からそんな計画のやりとりが出来るなんて便利な世の中ですね。午前中で仕事を終えたtetywest、シャワーを浴びてさっぱりとしたところで、ついついいつものクセでアーロンが到着するまで昼寝をしていました。やって来たのはアメリカンボーイ3人。アーロンは14歳。チャーリーは15歳、そしてアンディは16歳です。でも、一番年下のアーロンが一番背が高い。3年前でもtetywestの次男より背が高かったものなぁ・・・座敷へ案内してお互いに自己紹介。でも何だか恥ずかしそうで話が弾まない。次男が昔ワウパカで撮った写真を出してきて、それを元に会話がぼちぼち・・・たまたまチャーリーは長男がお世話になったファミリーの近所だったので、そちらのファミリーの話題で盛り上がりました。ワウパカはUSAの避暑地ですから、軽井沢か北海道みたいな気候です。日本の夏は暑くて大変そう。もう日本に来て5日目なので、海で泳いだそうです。ワウパカには湖は多いのですが山がないので、tetywestはいつも Top of the mountain へ案内することに決めています。そこまではスネークロードを車でくねくねと10分ほど走ると到着する距離です。標高300メートルの山頂にはハンググライダ-が離陸する滑走路が造られています。到着するや否や、チャーリーは裸足になってどんどん先端へ歩いていきます。滑走路は10%くらいの勾配があるので、tetywestは恐くて先端までは行けません。今までたくさんの人を案内しましたが、先端まで行ったのはチャーリーが初めてでした。カメラを構えるとこっちを向いて「どんなもんだい」と得意げなポーズ。アーロンもそれを見て恐る恐る後に続いていきます。アンディはこちら側で見てるだけでした。ここからの眺めは、地元のtetywestでもお気に入りなんです。3人とも大変喜んでくれました。
2002年08月01日
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