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謙信は織田信長と戦う気があったのか
天地人のドラマでは、謙信が織田信長を討つべく出陣したシーンで
終るが、果たして謙信は本当に信長と戦う覚悟で出陣したのか、わたしには
疑問が残る。元亀三年(一五七三年)に、謙信と信長は同盟を結んでいる。
天正三年(一五七五年)の五月に、織田、徳川勢が長篠合戦で完膚なく武田
勢を破っているが、この時は謙信は両家に使者を遣わし、それを祝っている。
そうした関係も信長が越前の一向一揆を鎮圧し、加賀二郡を支配下に治め、
北ノ庄に柴田勝家を置いたころから、同盟関係が崩れはじめたのだ。
次第に己の縄張りに触手を伸ばす、信長に警戒感をもったのだ。
同四年(一五七六年)二月、能登の七尾城(石川県鹿島郡)に異変が起こった。
七尾城は能登守護の畠山氏の居城であるが、家中に抗争が多く絶えなかっ
た。その時期に城主の畠山義隆(はたやまよしたか)が暗殺されたのだ。
これは信長に応じた重臣の長(ちょう)対馬、三宅備後等の反乱であった。
これらの逆臣の誅伐を秘かに謙信に請うた者が、温井(ぬくい)兵庫、長九郎
左衛門等であった。この事を知った謙信は信長との同盟を破棄した。
その背後に流浪の将軍、足利義昭が動いていた。義昭は信長に抵抗し備後
の鞆(とも)ノ津へ逃れ、毛利輝元を頼っていた。
その歳の六月に毛利、石山本願寺、上杉の同盟が成立したのだ。
謙信はこの歳の三月から越中に軍勢を率い、諸城を落としていた。
本願寺の力で加賀四郡も手に入れ、天正五年(一五七七年)は能登の陣中で
正月を迎えた。三月には関東出馬のために越後に帰国したが、関東攻めを後
まわしてして、再び軍勢を能登に入れ七尾城を包囲した。
殺された義隆の子義春は、幼かったが守将の長続連(ちようつぐつら)は信長
に急を告げ、幼君を守ってよく戦った。
こうした最中に幼君の義春が病死し畠山氏は断絶したが、彼等は城主の居な
い城を守った。しかし遊佐続光(ゆさつぐみつ)の内応によって九月十五日、
上杉勢が城内に侵入し、長続連をはじめ一族郎党が討ち取られ七尾城は
陥落した。城門の前に長一族のさらし首が百名余も並んだと云う。
「霜は軍営に満ちて秋気清し 数行の過雁(かがん)月三更
越山併せ得たり能州の景 さもあらばあれ家郷遠征を念う」
謙信の詠んだ有名な七言絶句であるが、これは後年頼山陽が改竄(かいざ
ん)したと云われている。
謙信は七尾城を陥すや、十七日には軍勢を進め加賀に入った。
七尾城の落城を知らず、北上してきた織田軍の北陸方面軍の総大将の柴田
勝家の軍勢と、加賀の湊(手取)川で合戦に入った。
越後勢の強さは群をぬいており、織田勢は千余名を討ち取られ敗走した。
謙信は手取川の手前で軍勢を返した。何故、謙信は戦勝の勢いで安土に
攻め寄せることをしなかったのか、謙信は信長よりも北条家に目が向いていた
ようだ。関東の北条家を滅ぼしおもむろに上洛を果たす。
そうした思いがあったとわたしには思われる。
上杉謙信と織田信長の合戦は、これが最初で最後の一戦となった。
こんな話が残っている。謙信は新谷源助という家臣を信長の許に差し向け、
決戦を申し込んだ。
「来年三月十五日(天正六年)に必ず越後を出て、上洛仕るべく候間、その時
分、信長も安土を出られ、兵を差向けらるべし。両家、興亡の合戦いたすべ
しとの旨なり」 信長が使者に対面した返答はつぎの言葉であった。
「謙信の御弓箭は摩利支天の所変の業にて、日本一州に長(た)けて、双(なら)
ぶべき者覚え申さず。来春御上洛については、路次まで出迎え、扇一本腰に
さし、一騎乗りこみ、信長にて候、降参仕ると申し、それより都へ案内いたさば、
さすがの謙信も、信長粉骨して治め候天下を、召しあげらるることは、定めてあ
るまじく候。東国、北国、東海道は一円に謙信公御支配、両旗にて公方をとり
たて、狼藉を静め申すべく候」
信長は引出物をおくり、種々ご馳走して使者を帰した。
この話は「松隣夜話」 「太祖一代1軍記」 「謙信軍紀」 「日本外史」
などにある。面白い小説と徳富蘇峰は云うが、謙信との衝突を避けたい信長の
感じが出ていると思う。
翌年に謙信は、己の分国、越後、越中、加賀、能登、上野に動員令をしいた。
その目的は北条氏政退治であった。
「この上は関山にいたり、越山これをなすべきため」
これは謙信が太田資政親子に送った手紙の内容で、越山とは三国峠を越え
て上野(こうずけ)に出るという意味である。
上野は三国峠を越えた関東の入口であり、関東征伐が目的であったのだ。
だが、この歳の三月九日、関東攻めを目前に謙信は厠で意識を失い、そのま
ま病むこと五日、十三日に息を引き取った。卒中であった。
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