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May 6, 2014
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美濃に派兵した、原因は美濃の蝮、斎藤道三が最近、しきりと織田、朝倉領

を侵略しだした事にある。これに業を煮やしての出兵であった。

 その裏には今川家の軍師、太原雪斎の謀略があったのだ。

 無類の戦巧者で知られる道三は、城に籠り小勢で討ってでて織田、朝倉勢を

翻弄した。この戦法に織田、朝倉の連合軍は数百名を失い、敗走の途中に追撃

され木曽川で、二千名ちかくの溺死者をだした。散々たる敗北を被ったのだ。

 この合戦から織田家と斎藤家は宿敵となり、織田信秀は近隣諸国の全てを

敵に廻すことになった。これが為に織田信秀は三河に手がまわらなくなり今川家

は、領内治世に没頭できる態勢となった。

 まんまんと太原雪斎の謀が成功をみたのだ。

         (上田原合戦)
 躑躅ケ崎館の主殿で晴信と三人の重臣が戦評定をしている。

「御屋形さま、ここ数年よく我慢なされましたな」  

 声の主は山本勘助である。

「漸く小笠原長時の諏訪の支配地も我等の手のうちとなりましたな」

 宿老の板垣信方が感無量な顔つきをしている。

「いよいよ念願の北信濃攻略が出来ますな」  

 甘利虎泰がしわがれ声で応じた。

「そうじゃの、父の願いであった村上義清との勝負をつける時が参った」

 晴信が応じた。彼もこの天文十七年で二十七才となり、髭跡が青々とした

良い、武者面の武将に成長していた。

 その間、晴信は領内治世に精をだし、天文十四年に高遠頼継、藤沢頼親の討伐

を行うため伊那郡へ出兵し、四月十七日に武田勢は頼継の高遠城を陥落させた。

 さらに長時の娘婿である福与城の藤沢頼親を攻めると、長時は北方の龍ヶ崎城

において武田方に対抗したが、武田勢は同年六月一日に武田家の誇る、板垣信方

の軍勢が龍ヶ崎城を攻撃、これを陥し、小笠原長時は敗退したのだ。

 この合戦で武田家は小笠原長時が支配下に置いていた、諏訪全土を掌握し、

信濃攻略を本格化できる体勢を整えたのだ。

「まずは戸石城、さらに進み村上義清の居城、葛尾城(かつらおじょう)を陥せば

武田の敵は信濃からほとんど駆逐できますな。ところで御屋形さま信州の松尾

城主、真田幸隆(ゆきたか)殿、なかなかの知将、我が家に与力いたしたいと申し

出ております」   

 勘助が隻眼を細め晴信に報告した。

「真田幸隆とは村上方の豪族の筈じゃ」  

 甘利虎泰が不審げな声をあげた。

「真田が我家に与力したいと云うなら、良き拾い物じゃ。さし許す後日直々に

わたしが会おう」  

「早速のお赦し祝着、勘助より御礼申しあげます」

「勘助っ、真田は無類の戦上手と聞く、お主とどちらが上じゃ」

「板垣さま、そのような事にはお答えできませぬな、後日、遺恨の種となり

ましょう。じゃが武田家の軍師は拙者一人、そうお考え下され」

「勘助、よう申した」  

 晴信がすかさず誉めあげた。

 この真田幸隆と云う武将は、攻め弾正の異名をとる武将で名を馳せていた。

 彼は武田家に仕官すると譜代にのみ、許されていた古府中の武家屋敷に住む

ことを許された。彼は感激し、ここで戦国時代で有名な六文銭を旗印とした。

 三途の川の渡し賃と云われる、不吉な意味をもつ旗印である。

 彼の息子が後年、関ヶ原合戦に向う、徳川秀忠の大軍を釘付けととした昌幸で

昌幸の次男が、有名な真田幸村である。

「ところで棒道は何処まで通じた?」 

 晴信の顔が引き締めて訊ねた。

「申し上げます。八ケ岳から海ノ口更に北佐久郡近くまで完成をみております」

 即座に板垣信方が報告した。

「そうか、村上勢と顔を合わせる地点は上田原近郊になるの」

「左様にございましょうな」  

 勘助が嬉しそうに答えた、己の考えと晴信の考えがぴったりと一致した事が

嬉しかった。

 天文十七年二月、古府中の躑躅ケ崎館から二流の御旗を先頭に、緋縅の鎧

に諏訪法性の兜をかむった晴信が、黒鹿毛に跨り出陣した。

 傍らには黒糸縅の鎧に、大角の前立て兜を被った勘助が騎馬を駆っている。

 本陣は七名の百足衆と警護の旗本衆で固められている。続々と各武将に率い

られた、武田の誇る精鋭部隊が姿を現した。

 先頭の背負い太鼓が、軽快に打ち鳴らされ士気を鼓舞している。

「飯富勢、先行いたす」  

 二千名の赤備えの勢が一気に駆けぬけた。

「甘利勢、先行いたす」  

 黒備えの二千名も砂埃をあげ駆け去った。

 武田家の猛将二人が先陣をきったのだ。直属部隊とし山県三郎兵衛率いる

五百名の騎馬武者が轡を並べている。

「見事じゃ」

 思わず晴信が呟いた。今回の合戦は板垣信方は含まれていない。

 彼の今の身分は諏訪郡代であり、居城の上原城で本隊を待っていた。

 旗指物が数えきれないほど風に翻り、母衣(ほろ)武者が連絡のために引きも

きらず駆け廻っている。直ぐに棒道に入った、武田の誇る軍事道路である。

 道の両側には枯れ木が並び、一直線の道が延々と続いている。兵士と馬の息が

白煙となって吐き出されている。甲斐の二月は殊のほか冷えるのだ。

 総勢一万の武田勢は小淵沢(こぶちざわ)を抜け北上して行く。

 今宵の宿営地は諏訪の上原城である、日暮れ前に全軍は板垣勢と合流した。

 軍事道路、棒道の所為でこうした迅速な行軍が可能と成ったのだ。

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Last updated  May 6, 2014 04:38:41 PM
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